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2009-12-12(Sat)

このマンガがすごい・・・んですか。

12月12日(土)

今朝は6時過ぎにトイレに起きる。一応6時間近く寝たからいいかと、そのまま寝ずに起床。
日中はほぼ仕事ばかり。休み休みとはいえ、その休みにtwitterりしている。昨日届いた宝島社「このマンガがすごい! 2010」を読むが、これA5判にしては字が小さくて読みづらいところが多い。俺の目が悪いのか、若い人向けなのでこれでいいのか、とにかく目が痛くなる。

言いたいことは山ほどあるが、もう面倒くさい。

この本…というより「この手のランキング」や紹介本に何の意味があるのか、もはや意味不明だ。
個々の人物にそれぞれ聞いて、この人はこういうものを好んでいるのか、という下世話な興味を満たすのならそれに特化すべきだし、「売れている」という基準で選ぶのなら、再三言っているようにオリコンの年間順位出しとけばOKだろう。別に本なんか作らんでいい。
その年に単行本が出たものの中から、誰かが勝手にランキングをつけるのなら、そいつらの好みなんだから見る必要もない。
マンガはジャンルも多岐にわたり、メジャーからドマイナーまでさまざまな作品が生み出されている。しかもその作品を評価する際、個人の場合はどうしてもそこへ「好み」つまり「好き嫌い」が入る。
何度も繰り返しになるけど、カネを払ってモノを買うだけの「消費者」なら、その基準はその人の「好き嫌い」でいい。というより嫌いなものをわざわざ買うバカはいないだろう。
だが批評したり紹介をしたり、つまりはプロ、生業にしている連中の審美眼が素人と同じ基準であるならば、プロなんか必要ない。そこに要求されるのは「一般人に今売れているこれ」をわざわざ紹介することではなく、埋もれた名作を伝え残すことであるだろうし、いまだ知らぬ人々へ紹介することもであろうし、「今なぜこれが売れているのか」「この作品のどこがどう優れているのか」などを分析するような仕事だろう。
よく喩えに出すが、「ラーメン通」とか「ラーメン博士」だの言われる連中のガイド本を見てみたらいい、本当にムチャクチャで、こいつら本当にラーメン以外のものをたくさん食べてきたのか、つまり
プロとして「味を表現し他人に説明するだけの『リテラシー』」を持っているのか、と疑われるような阿呆が多い。
四六時中ラーメンばっかり食ってるような奴に、ラーメンの味を説明できようはずがない。このことになぜ誰も腹を立てないのか、疑問を持たないのか理解に苦しむ。そんなものをアテにする方が間違っているのだが(味なんて好みだし、元々が形而上的なものだ)。

ではマンガはどうか。
マンガは文学や映画や写真や音楽などと並ぶ、いやとにかく一つの「表現」方法だ。芸術だとまでは言わぬ、芸術と呼ぶべきものもあればそうでないものもある。その雑多なものが一緒くたになって「表現」なのだし、そのことは音楽や文学だって同じことだ。
この本で「マンガ批評家のだれそれ」とか「ライター」とかの「個人的なベスト」なり「オススメ」が見られるのは、それなりに面白い。
誰がボンクラかすぐ解る。

ただ、書店の現場にいる人間が出すベストは意味が違ってくる。
旧知の友人T君がメールをくれた。ブログへもコメントをくれたが、
「書店が単に『店頭で何が売れたか』をランキングで出すのでは、意味がない。むしろ書店の現場で、自分はこれを今の読者に読ませたいという行動が、書店の書店たる存在価値だろう」と憤慨していた。
なるほどと思う。
世間の売れ行きがどうこうではなく、この作品がもっと読まれるべきだと思うこと。
この作品はずっと後世に伝えたいから、棚を作って自分のベストだと思う品揃えをすること。
まあそれが書店文化というか、書店の存在価値だとも思うが、取次の言うがままに売れ筋を揃え、送られてきた配本をただ並べる…じゃあ書店は早晩潰れていく。(いやそんなことはもう20年も前から始まっていて、そのことも再三俺も書いているが「考察【出版不況】」
勢いまっとうな読者の足も書店から遠のく。というより、書店に通うあの「わくわくした感覚」を味わう、次の世代が育たない。育ててきたのは書店だったはずだが、もうその役目を果たす書店員がいない。だから結局どこの書店へ行っても同じだ。
何年か前、夫婦でけっこう大手の書店へ足を運んだら、レジ前の「一等地」に「店長のオススメ!泣けます!」というポップがあり、『世界の中心で愛を叫ぶ』が大量に平積みになっていた。二人で顔を見合わせて苦笑した。

ではAmazonやネットでプッシュされている大量のものから「自分の審美眼だけ」を頼りに「ほんとうにいいもの」と出会える確率は低い。
レビューなんかしょせん、他人の主観にすぎない。書店へ行き、自分の全く興味のない分野の棚の前で、上から下までなめ回すように本を探し、手に取り、そして新たな好奇心や知的探求心を刺激された時の、あの感覚。ネットでは無理だ。

そのために本のソムリエのような人が必要で、つい数年前までは、それが実は書店という出版文化、流通の現場の最先端にいる書店員のはずだった。
かつて個性のある品揃えで、「ジャンプ? よそで買えるだろそんなもの」という書店がたくさんあった。本当の話だ。
どこでも買える、誰でも知ってる本ならよそへ行けよ。うちはな、棚つくるのに誇り持ってんだよ。本当にそういう書店がたくさんあった。

俺の高校時代、よく通っていた函館の五稜郭交差点から近いデパートの裏にあった小さな書店で、俺はガロを買い、写真時代を買い、OUTやファンロードにも出会い、漫画ブリッコの創刊を目撃した。青林堂だけじゃなく北冬書房、けいせい出版や東京三世社のコミックにも触れた。別な書店ではエロ劇画がカンペキに揃っていた、主人が好事家だったと思う。また別な書店では翻訳ものの小説ばかり買った。
いわゆるメジャーどころ、ジャンプやマガジンやサンデーや少女漫画のコミックは当たり前だがどこでも買えた。今のようにコンビニが無かった頃だ。
大きな書店をはしごするのと、個性ある小さな書店をめぐるのは、それぞれ別な楽しみがちゃんとあった。こちらもそれを使い分けて楽しんでいたし、書店側も「棲み分け」をしていた。

この晩秋、入院する前に買い物がてら近所の名物書店を覗いたことがある。
発売日直後のやまだ紫「性悪猫」はみつからなかった。
部数から言って委託、パターン配本で入る部数はほとんどないと思う。ただそこはアート系の本に力を入れていたし、サブカルにも強く芸術系の学生が多いところだ。1部か2部入ったのを返本したか売り切ったか、それで終えたのか。あるいは最初から入らなかったか。いずれにせよ、その店で能動的に「これは今の時代でも売るべきだ」という選択肢に入らなかったのだろう。入っていれば注文で平積みするぐらいは頼むはずだし、俺が書店員ならポップを作ってレジの真ん前に置く。
しかしそんな書店は恐らくもうないのだろう。
書店員は売れる本をより売るために、ポップを作る。
売れ筋をよりたくさん売るために、特等席に平積みをする。
皆判で押したように大手の、それこそ数十万数百万売れるものを大量に仕入れて大量に売り切る商売しかしない。書店なんかどこへ行っても同じだ、と言われる所以だ。
俺ももう書店の店頭へ足を運ぶのをやめた。
病気のこともあるが、こちらが読みたいものはピンポイントでAmazonに注文すればいい。若い頃の、あのわくわくするような「未知との出会い」を期待して行くような書店はもう、ないのだろう。あったとしても俺が行ける範囲にはないだろう。
「出版文化は、その先端で読者と対峙している書店そのものが破壊している」…T君の言葉だが、なるほどと思う。

<追記>
『このマンガがすごい!』がちょっと納得いかない件について 漫棚通信ブログ版
カンペキな分析結果。小中学生をはじめ大学を含めた「子どもたち」のアンケが…。だったら本にする意味って…
【以下はコメント欄に残そうとしましたが、遠慮させていただきました】
自分はむしろ今年の路線変更には疑問なので、漫棚通信さんと同意見だ。
アンケートの集計結果=人気投票や書店員の売れ筋ランキングなど本にして何の意味がある?
しかも年間の「すごい」と銘打ってだ。
オリコンの売上げ一位からでいい、せいぜい年代別性別くらいなもんだろう。数頁で終了。あとは巻末の著名人(だか何だか知らないが)の「個人的な趣味趣向によるセレクト」くらいか、読めるのは。
ONE PIECEが売れていることは事実で面白いことも事実で、それを今さら「すごい」ということに何の意味があるのかということを、たくさんの人が疑問に思っている。
あと今年の、この本の校了(10月か?)までに出た全ての漫画単行本を対象にするのなら、来年は、今年の10月末から刊行されたやまだ紫の復刊も当然選考対象でしょうね。
ただ「売上げ上位からスゴイ」という価値基準だとしたら、やまだ紫を読める「漫画読み」とやらがどれだけ執筆陣に入ってるかが不安ですが。
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2006-07-02(Sun)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? 補の改

★昨年5月にアップした白取特急検車場【闘病バージョン】:「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? 補の改稿です。
★何か自分の命があまり長くはないと知って、もっとはっきり言っておきたいことが増えてきましたので。


 「マンガマスター ―12人の日本のマンガ職人たち」の項で紹介したように、日本漫画がどんどん欧米に紹介され、アチラ側からも積極的に日本漫画を研究する人が増えている。
 俺も昔、ブラスト出版というところから「Comics Underground Japan」(Blast Books)というガロ系漫画のアンソロジーを出したことがある。原稿をセレクトしたり向こうに複製を送ったりしたのが95年ころ、本がアメリカで出版されたのが1996年だから、いくら何でもガロ系の漫画をアメリカで紹介するのは早すぎたか、と。
 その後2000年になって、先に言及した「Secret Comics Japan」(Viz Communications Inc.)を編著書としてVIZさんからやはりアメリカで出版させていただいた。
 その後、ブラジルのConrad Editraがそれらの仕事を見てコラムやインタビューの仕事をくれ、一時は日本での編集エージェントになったのだけど、向こうの経済的事情と体制の変化で解消となった。井上雄彦さんにConradの仕事でインタビューしたのは2002年頃だったか。

 ともかく、日本の漫画やアニメーション、関連してゲームなどが世界的に優れた文化、表現でありコンテンツであることはもう充分認知されている。けれども、優れた漫画やアニメがたぁぁくさん世に出て久しいこの国、他ならぬ日本の、特に政官界がそれに気付くのはずいぶん経ってからだったと思う。宮崎駿さんの作品が国際的に高い評価(『千と千尋の神隠し』が第52回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)を得て、はっきりと「これからは日本の漫画やアニメも世界にアピールできる有力なコンテンツだ」「ビジネスだ」「ひょっとして誇りうる文化かも」となってきたに過ぎないような気がするのね。
 以前から、小野耕世さんのように積極的に世界に向けて日本の漫画やアニメを紹介されていた先達はたくさんおられますが、ほとんど孤軍奮闘というか手弁当っすね。国が力を入れてバックアップするとか保護をして次代の作家を育てるとか、そういう動きは本当に鈍いし不十分だ。
 けれど、では、国なり地方自治体でもいい、要するに政や官の側が「保護」したり「後押し」するようになると、はっきり言って俺らは迷惑なことも多い。
 つまり彼らは自由な漫画やアニメというコンテンツ全てを「保護・育成」しようなどとは思わない。保護して「いいもの・悪いもの」を必ず選別する、いわばそうした「お上のお墨付き」のものとそうでないものに分かれるだろう。で、そういうお墨付き、昔よく言った「文部省推薦」のもので面白いものってあったかね? いやまあ全部がつまらないとは言わないけれど、ガロ系、例えば根本さんとかマディ上原さんとかキクチヒロノリさんとか絶対未来永劫、お墨付きは得られないし、たぶん見つかったら抹殺しようと動かれるかも知れない。
 それは冗談としても、漫画っていうのは人を数百円で笑わせたり泣かせたり感動させたり怒らせたり欲情させたり、ともかく一番手軽な大衆の娯楽だったんすよね。そういうところにお上、官憲だとかが入ってくるとロクなことにならない。だから別にお墨付きもバックアップも本当は必要ないんすよ。必要だと叫んでる人もいるのかも知らんけど、俺は迷惑。ガロ者だからかねえ。

 お上になんか評価されんでも別にかまわない、むしろほっといて欲しい。褒めなくても、世間知らずのキャリアエリートや政治家、お利巧ちゃんの学者だのが無理に理解あるところを示そうとしてか、小理屈をこねまわして漫画を褒めるのを見聞きすると、何かムカムカするのよ俺。漫画も理屈こねなきゃ読めない、不幸な人間のような気がする。
 ともかく、別に日本では漫画やアニメはほっといて、業界に任せといてくれと思う。これから漫画やアニメが世界に誇る日本の文化・表現・コンテンツ・ビジネスになる、それを国が認めバックアップしようと思ってくれるなら、最高のバックアップは「口を出さず、規制をせず、ほっといてくれること」です。
 そうしておいてさえくれれば、諸外国でもちゃんと日本漫画のいいところを理解する人たちはどんどん現れるし、増えてくる。

 最近、やまだ紫「愛のかたち」がフランスの出版社Editions PHILIPPE PICQUIERより仏語訳の刊行が決定した。かの出版社では、この作家の過去の作品を非常に高く評価し、これ以外にも複数刊行したいと話しているそうだ。

 ところが、彼女の漫画作品で日本で読めるものは何点あるのか?

 連れ合いだから言うのではない、編集者になる以前から、連れ合いとなる以前から、「性悪猫」「しんきらり」を漫画史に残る名作だと思っている。当然フランスからも高い評価を受けた、当然だと思っている。なぜ、日本ではその正当な評価をしないのか?  と思うのだ。
 お上の評価など、どうでもいい。われわれ業界や、読者の目に任せておけ…と胸をはって言いたいのに、では「漫画の国ニッポン」の読者レベルはというと、どうだろう。
 津野裕子という、やはり非常に優れた漫画家がいる。先に述べた、アメリカで出版したアンソロジーでも絶賛された才能である。日本では一般の漫画ファンでも知る人は少なく、著作も弱小版元から3点、それも2点は品切れという津野裕子作品を、アメリカ人が外から高く評価する。
 キャリア30年を越え、新作の評価も高いやまだ紫作品を日本の版元は「見殺し」(品切れ状態で再版もせず放置状態)にしている現状、そしてやはり外からフランス人がそれらの作品を高く評価し、出版する。こうした状況は枚挙に暇がない。
 漫画の国ニッポンつったって、結局はたくさんの人が見る「マス」のコミックがたくさん売れてるだけの話なんですよお客さん。テレビでちょっと宣伝すりゃガーッと売れる、マスメディアが「右向け右」と言やぁほとんどのイッパン大衆はその通りに動く、コミックも「産業」になって久しい現在、その例に漏れません。
 漫画という優れた表現が、日本という国で独自の進化を遂げ、今だに進化し幅を広げているというのに、読者がついていっていない。四半世紀前くらいまでは、マスコミが大きく漫画を取り上げるということも少なかったし、漫画が原作で映画になるなんてのは、アニメを除けば、安易に作れるアイドルを主役にしたどうでもいいプロモーション映画でもなければほとんど見られなかった。漫画は「表現」としては不当に世間に虐げられ、蔑まれていたといってもいい。
 漫画は何とかして世間に認められようと、いや、そんな気負いなどなく、自由な表現を模索して、流行や商売ヌキで試行錯誤をして、メジャーもマイナーもシームレスで切磋琢磨していたいい時代があった。
 漫画はその後テレビドラマや映画の原作になることは珍しくなくなり、普通に漫画を大人になっても読む世代は還暦を迎えるという時代になった。漫画を差別するような人間は本当に少なくなった、社会も変わった。何せ政府が漫画を日本が世界に誇るようになったのだから。
 でも、日本ではテレビが最大のマスメディアとしてだけではなく、大衆を簡単に動かせる巨大な影響力を持つ唯一絶対の手段となってしまっているから、テレビに出ていれば阿呆でも先生、テレビに出てれば下手糞だろうが有名歌手、テレビに出てれば芸がなくても芸能人…と、とにかくテレビ至上主義となってしまっている。大衆は独自に優れた表現を探す努力を放棄し、テレビに審美眼を一任してしまって久しい。何だこの国の文化って。
 インターネットの時代になって、ようやくテレビに対抗し得るメディアの台頭を予感させるようになったものの、やはり不特定多数への絶対的な影響力という点では全く太刀打ちできない。ネットからスターに、というパターンは、結局その「素材」を「テレビが取り上げたから」そうなったに過ぎない。

 …こんな情けない状態をいつまで続けてるのだろう、そう思うと胸を張ってお上に漫画という表現を「いいから黙って見とけ」と言ってもいられないではないか。 メディアを大衆という「受け皿」に送り出す「送り手側」で、テレビに対抗してきたのは版元、出版社側だ。それはずっと、出版といってもあくまで活字であったが、活字の世界では相変わらず活字至上主義者が跋扈している。だが売り上げという点で漫画がそれを支えるという自己矛盾も同時に抱えている。それでも活字側が一定のリスペクトを得ていると、それが錯覚だとしても、一応そういう了解の構図がある。売れる・売れないだけでは測れない、その作品そのもののを評価し、いいものを後世に伝えていこうという気概がまだ、かろうじて残っている。(危なくなってきているが)だから、一定のリスペクトを社会から受けていられる。
 漫画の世界ではどうだろう? 過去の名作を今に伝えよう…と言って引っ張ってくるのは、結局過去に「マス」として売れたものではないか。ジャンプやサンデー、マガジンなどに代表される、その時代にバカ売れした作品を数十年後にまた引っ張り出してきているに過ぎない。もちろん、優れた作品だから過去にバカ売れしたのだろうし、実際に今見ても面白いものも多い。だがそれらは、昔も今も巨大な大手版元という資本のもと、送り出されたものである場合がほとんどだ。
 ガロ系などの作品は昔も今もほとんど社会に大きく紹介されることはなく、従って一部の濃い漫画ファンの間で細々と語り継がれていくしかないのだ。
 昔は、いや少なくとも俺がいた頃のガロ=青林堂の頃は、弱小の版元であればあるほど、小部数でもいい本を出していけた。2500部や3000部を、それこそ「無くなったらすぐ再版」していった。結局いっとき、流行でバーンと売れるものより、版元を支えていってくれたのは、俺たちの毎月の給料となり版元の土台となってくれていたのは、そういった「本当に長く愛される、時代に左右されぬ優れた作品」であったはずだ。
 だが今、売れる・売れないだけが価値基準となり、弱小版元は本を出したところで書店で棚を貰えずに、評価を得る前に大衆の目に届くことすら出来ないのが現状だ。目先の利益を追わねば版元は自転車操業が出来ないから、勢い初版部数は低く抑え、その代わりサイクルを早くする、いわば「ヒット&アウェイ」的な、刹那的などうでもいい本が増える。点数が増えればこれまた書店でのスペースの奪い合いとなる。
「いいものを長く売れ」なんて、もはやそういう現場では鼻で笑われるだけだろう。

 だが、言い続けなければならない。

 出版不況でいろいろ考えてきたが、「本当に良いものを長く売る」ということは全てではないが、選択肢の一つとして確かに、あると思う。
2005-03-21(Mon)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? 補

 「マンガマスター ―12人の日本のマンガ職人たち」の項で紹介したように、日本漫画がどんどん欧米に紹介され、アチラ側からも積極的に日本漫画を研究する人が増えている。
 俺も昔、ブラスト出版というところから「Comics Underground Japan」(Blast Books)というガロ系漫画のアンソロジーを出したことがある。原稿をセレクトしたり向こうに複製を送ったりしたのが95年ころ、本がアメリカで出版されたのが1996年だから、いくら何でもガロ系の漫画をアメリカで紹介するのは早すぎたか、と。
 その後2000年になって、先に言及した「Secret Comics Japan」(Viz Communications Inc.)を編著書としてVIZさんからやはりアメリカで出版させていただいた。
 その後、ブラジルのConrad Editraがそれらの仕事を見てコラムやインタビューの仕事をくれ、一時は日本での編集エージェントになったのだけど、向こうの経済的事情と体制の変化で解消となった。井上雄彦さんにConradの仕事でインタビューしたのは2002年頃だったか。

 ともかく、日本の漫画やアニメーション、関連してゲームなどが世界的に優れた文化、表現でありコンテンツであることはもう充分認知されている。けれども、優れた漫画やアニメがたぁぁくさん世に出て久しいこの国、他ならぬ日本の、特に政官界がそれに気付くのはずいぶん経ってからだったと思う。宮崎駿さんの作品が国際的に高い評価(『千と千尋の神隠し』が第52回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)を得て、はっきりと「これからは日本の漫画やアニメも世界にアピールできる有力なコンテンツだ」「ビジネスだ」「ひょっとして誇りうる文化かも」となってきたに過ぎないような気がするのね。
 以前から、小野耕世さんのように積極的に世界に向けて日本の漫画やアニメを紹介されていた先達はたくさんおられますが、ほとんど孤軍奮闘というか手弁当っすね。国が力を入れてバックアップするとか保護をして次代の作家を育てるとか、そういう動きは本当に鈍いし不十分だ。
 けれど、では、国なり地方自治体でもいい、要するに政や官の側が「保護」したり「後押し」するようになると、はっきり言って俺らは迷惑なことも多い。
 つまり彼らは自由な漫画やアニメというコンテンツ全てを「保護・育成」しようなどとは思わない。保護して「いいもの・悪いもの」を必ず選別する、いわばそうした「お上のお墨付き」のものとそうでないものに分かれるだろう。で、そういうお墨付き、昔よく言った「文部省推薦」のもので面白いものってあったかね? いやまあ全部がつまらないとは言わないけれど、ガロ系、例えば根本さんとかマディ上原さんとかキクチヒロノリさんとか絶対未来永劫、お墨付きは得られないし、たぶん見つかったら抹殺しようと動かれるかも知れない。
 それは冗談としても、漫画っていうのは人を数百円で笑わせたり泣かせたり感動させたり怒らせたり欲情させたり、ともかく一番手軽な大衆の娯楽だったんすよね。そういうところにお上、官憲だとかが入ってくるとロクなことにならない。だから別にお墨付きもバックアップも本当は必要ないんすよ。必要だと叫んでる人もいるのかも知らんけど、俺は迷惑。ガロ者だからかねえ。

 お上になんか評価されんでも別にかまわない、むしろほっといて欲しい。褒めなくても、世間知らずのキャリアエリートや政治家、お利巧ちゃんの学者だのが無理に理解あるところを示そうとしてか、小理屈をこねまわして漫画を褒めるのを見聞きすると、何かムカムカするのよ俺。漫画も理屈こねなきゃ読めない、不幸な人間のような気がする。
 ともかく、別に日本では漫画やアニメはほっといて、業界に任せといてくれと思う。これから漫画やアニメが世界に誇る日本の文化・表現・コンテンツ・ビジネスになる、それを国が認めバックアップしようと思ってくれるなら、最高のバックアップは「口を出さず、規制をせず、ほっといてくれること」です。
 そうしておいてさえくれれば、諸外国でもちゃんと日本漫画のいいところを理解する人たちはどんどん現れるし、増えてくる。

 最近、やまだ紫「愛のかたち」がフランスの出版社Editions PHILIPPE PICQUIERより仏語訳の刊行が決定した。かの出版社では、この作家の過去の作品を非常に高く評価し、これ以外にも複数刊行したいと話しているそうだ。
 ところが、彼女の漫画作品で日本で読めるものは何点あるのか?
 連れ合いだから言うのではない、編集者になる以前から、連れ合いとなる以前から、「性悪猫」「しんきらり」を漫画史に残る名作だと思っている。当然フランスからも高い評価を受けた、当然だと思っている。なぜ、日本ではその正当な評価をしないのか?  と思うのだ。
 お上の評価など、どうでもいい。われわれ業界や、読者の目に任せておけ…と胸をはって言いたいのに、一般の漫画ファンでも知る人は少なく、著作も弱小版元から3点、それも2点は品切れという津野裕子作品を、アメリカ人が評価する。キャリア30年を越え、新作の評価も高いやまだ紫作品を日本の版元は見殺しにし、フランス人が評価し出版する。こんな情けない状態をいつまで続けてるのだろう、そう思うと胸を張ってお上に「いいから黙って見とけ」と言ってもいられないではないか。

 出版不況でいろいろ考えてきたが、「本当に良いものを長く売る」ということは全てではないが、選択肢の一つとして確かに、ある。
2005-03-08(Tue)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その6

 では今の世の中、そうした理想的な、あるいは非現実的とも言われそうな考え…「本当にいいものを長く売る」ことはそれほど難しいことなのだろうか。
 自分は、当ブログ内の記事「津野裕子さんの近況」同じく「長く売れる本を長く売れ!」からずっと述べてきたように、『版元が、どんな作品を「再版」し、どんな作品を「重版未定」だの「品切れ」だのという生殺し扱いにしているかで、その版元の姿勢とレベルがわかる』、ということをもっと読者は意識して注視すべきだと思う。
 もちろん重版だけではない。版元にはその版元の「カラー」というものがある。出口の見えない出版不況の中で、例えば老舗の版元で、大手ではないが良書を長く売り継ぐことで有名なある出版社の人と数年前に話したのだが、
「うちは確かに部数は少ない、けれどもいい本を世に送り出したいと思っている。その時はバーッと売れなくても、そういった良書を求める読者は時代に関わらず必ずいるはず。だから初版は小部数から始めるが、それが無くなっら、ある種使命感みたいなもので、少ない部数ずつでもずっと再版をキチッとかけて、その本が切れてしまわないようにしてきた」
と、本当に素晴らしい話を聞いたことがある。そりゃあそんなのは理想だけどさあ…という声が業界のあちこちから聞こえてきそうではあるが、要するに、版元の姿勢の問題であり、理想を理想として持ちつつ、商売は商売として割り切るのがプロというもんだろう。大手の版元でも、純文学のような部数の出ない本をきちんと出し続けているところもある。その本単体では採算は疑問符がつくようなものだろうが、そのほかのコミックやエンタメ重視路線の本がそれをカバーしているという。やりゃあ出来る、のだ。

 問題は、その版元が営利事業たる商業出版活動を維持しつつ、それでも出版人の理想をどう具現化し続けていくのか、というところではないか。このことは、この項で何度か触れてきたように、編集者の「作家性と商業性重視の狭間でゆれ動く心」という構図そのままだ。「心ある」編集さんは、こうしたジレンマに常に悩まされて生きている(と、思いたい)。では版元はどうなのか、ということだ。
 再販価格維持を声高に叫ぶ出版人の常套句は、「出版とは単なる営利事業ではなく、文化である」ということだろう。であれば、どこでその「文化」の保護を言う出版活動をしているのか? と問われるはずだ。
 別にエロ本に比べて純文学が高尚であるとか、そんな阿呆みたいなことを言っているのではない。誤解されたくないのではっきり言っておくが、エロ本は必要なものだ。必要がなければとっくに消えている。AVしかり、成年コミックやBL、エロゲーもしかり、だ。昔俺が取材をしたあるエロ漫画家は、「自分はいかに読者を気持ちよくヌかせるかを本当に頭を絞って考えている」と言っていた。読者に何を与えるか、読者を明確に意識してプロ作家として日々精進(?)する姿は、マスターベーション、じゃなくてスタンディングオベーションものだと思った。いや本当に。
「自分は自分の好きなことを表現する。それを気に入ってくれた人だけ、お金払って読んでくれ」という同人作家=アマチュアでなければ、版元から原稿料と言うギャランティをいただいて、その雑誌なり媒体なりの意向に沿う形で最大限のパフォーマンスを発揮する。それがプロというもんだろう。その表現が純文学だろうとエロであろうと、作家の意識としては同じものだ。

 話が逸れたようだけど、そうしたプロの作家のホンモノの作品、大げさに言えば血と汗の結晶たる作品の良し悪しを決めるのはむろん読者だ。しかしその作家と読者の間をつなぐフィルタの役目を果たす、竹熊さん曰く「イタコ」のような役割を果たすのが編集者だと言える。
 ある作家に、自分が零細の版元で出していた代表作を、別の版元が好条件で版権を欲しいと言ってきた。もちろん作家にとってはいい条件だ。けれどこれまでの小さな版元には、連載当時からの義理もある。それに初版部数は少なかったけれど、その後数年間ずっと、売り切れたら小部数ずつながら必ず再版をしてくれている。つまり「私の代表作なになに」は常に市場で入手できる「原稿商品」として存在している。それを、新たな版元が「うちで出したい」と言ってきた。当然その作家は悩む。けれど自分も作家である以上、もっと多くの人に読んでもらいたいし、下世話な話経済的にも部数の差があり嬉しい話だ。それに新たな版元の編集は「この素晴らしい作品をもっと多くの人に読んでもらいたいし、これまで同様切らさないように長く売りたい」と言ってくれた。悩んだ末、これまでの版元の社長に事情を話し、頭を下げ、版権を新たな版元に移すことにした。

 本当は旧来の版元の社長は内心面白くなかったろう。自分が認めて雑誌に連載してもらい、その本がその作家の代表作として認知され、評価も高い。売上的には大手に比べれば部数は少なく、その意味で経済的貢献は作家にはできていないかも知れないが、何より自分はその作家とその作品を高く評価している、だからずっと自分のところで出し続けたかった。けれど作家さんにも生活がある。一年に2000だ2500部だという再版を続けるよりは、大手からもっといいペースで売ってもらえればその作家のためにもなるだろうし、宣伝だってもっとしてもらえるだろう。そう考えて、表面上は快く了承してくれた。

 そうして、その作家の本は別な版元から刊行されることとなった。
 けれど、結局その本は初版が売り切れると、全く再版されず、十年以上放置されたままとなっている。作家は話が違うと思ったが、そうしたことを作家側から言い出すのは意地汚いという意識もあり、ただじっと待っているだけだった。しかし自分の代表作が市場で入手できない、新たなファンからも苦情がくる。けれど「思ったより売れなかったので」といわれてしまえば返す言葉もない。だからじっと我慢を続けた。
 版元としては、その本の初版が「どれくらいで売り切れたか」が重要な判断基準となる。初版刷り部数が1万部程度の本であれば、3ヶ月以内に売切れれば当然再版を検討するに値する数だと思う。5,6千部であれば2ヶ月以内だろうか。半年以上初版が売り切れなければ、あとは返品などの在庫を売り切ったら「品切れ」状態を続けることになる。その本を次に再版するかどうかを検討するのは、それに値する何かしらの「エポック」があったときだ。
 例えばその作家の新刊が他社から出た。あるいはその作家が作家活動、芸能活動、または犯罪や事件絡みでもいいが、何かしらメディアにこれまで以上に露出する機会が増えた。あるいはその作家が死んで、再評価が高まった…そういうことでもない限り、単純に売り切れた本を機械的に再版していては、版元とて死活問題になる。本の保管コストもばかにならないことは前にも書いた通りだ。さらに、これも前に述べた通り、版元は委託制度の特性から、新刊を重視する傾向にある。本来なら重版が効率よくできる本の方がコストは低く抑えられるわけで、利益率が高いはずなのだが、先のようなエポックでもない限り、ほとんどの版元は新刊を次々に作っては委託で突っ込む方を優先してしまう傾向にある。

 さて先ほどの作家だが、新刊も出した。書評などの評判もいい。新しい読者からは「前の作品も見たい、けれど品切れで読めない」という声もたくさん寄せられるようになった。そこで意を決して、ずっと品切れで生殺し状態にされている版元に連絡をしてみた。
 久しぶりに話した担当だった編集者は、「自分も思い入れがある本だし、いい本だと思っている。でも営業がデータからみて再版は難しいと言うので…」という返事だった。

 出版業界は非常識がまかり通る業界だと前に述べた。中小零細の出版社では作家と出版契約書さえほとんど交わさない業界だったのが、大手はキチンと発行するようになったとはいえ、内容は何部刷って何%の印税を奥付の発行日より何日以内に支払う、版権はこの期間保持する…というようなことである。つまり「いついつまでに初版を売り切った場合は初版部数の何%を再版する」といったような条項はない。先の版元にしても、結局は「あなたの作品は素晴らしいからうちで長く売りたい」と言ったところで、それは単なる口約束に過ぎないのだ。「話が違う」と言ったところで、作家に返ってくる言葉は「自分の力ではなんとも…」というすまなそうな常套句だけだ。こんなケースをいくつも知っている。俺が「ガロ者」だからだろうか。

 では後世に残すべき作品を残す、という判断は誰がするのだろうか。作家は誰でも「自分の本を未来永劫出版し続けて欲しい」と願うものだろう(編集の言われるがまま、未熟な作品を必死で描いてきた人が過去の駄作を恥じて封印したい…という状況もあるが)。しかし版元側は何度も言うように営利事業でもあるわけだから、「売れなくとも出すべき本は出す」とばかり言ってもいられない。
 だが本当に、いられないのかね? 当ブログ内の記事「いしかわじゅん「あすなひろしは古い」か…」でも触れてますが、その作家が作家である「同時代」に評価をしておかないと後世の人にバカにされるよ。読者がいかに評価していても、肝心の本が版元から「絶版」「品切れ」では、その版元は全く作品の評価を正しくできない間抜けな版元の謗りを免れないと思うのだが。その残す・残さないの判断は確かに難しい。物凄く難しい。でもそれをやるのが出版のプロすなわち版元ではないのだろうか、と思うのだ。

 近年、コミックの世界でも復刻ブームが起きており、その多くは廉価なコンビニ売りの本だったり、文庫だったりしている。(個人的には漫画の文庫サイズは縮小しすぎで読めたものではないと思う)この復刻の世界では、かつて出していた版元のライバル会社からの復刻だったり、さほど規模の大きくない版元が版権を漁っていたりと、あえて悪い言い方をすれば「早い者勝ち」だったり「無法地帯」化している。大手の版元も、かつて自社から大量に売った作品を文庫化したり、体裁を変えて愛蔵版や選集などにしたりという動きももちろんあるのだけど、そこに見られる構図はまだまだ「かつて売れていた本」をまた出す、という発想だ。
 かつてのように読者のニーズが細分化しておらず、コミックも少年漫画なら少年漫画の、少女漫画なら少女漫画の「王道」主体だった時代から、今は大きく変わっている。大手は相変わらず「昔の名前で出ています」を重視する傾向にあり、復刻ブームで本当にシノギを削っている版元たちは埋もれた名作を掘り起こすべく、血眼になっている。
 最近は復刊ドットコムコミックパークといった動きもネットでは活発になってきてはいる。前者は従来の出版物としての形で、後者は本という形ではあるがオンデマンドとして、名作を復活させようという動きだ。だがやはり見ていると、どうしても商売は商売。前者は読者からの要望が多い順から復刊という形が主だから、やはりかつて「マス」だったものが中心だ。これは大手の従来の復刊スタイルとバッティングしているから、さほど目新しい動きとは言えない。ある意味大手のリサーチ不足・もっと言えば認識不足部分をネットを通じた読者のリアルな声に頼っているか、という方法論の違いでしかない。後者コミックパークの方は、大手が従来の形での再版というスタイルで復刊するまでにはニーズが少ないと見たものを、高くても本当に欲しいという人へオンデマンドで提供するというスタイルだから、やはり大手の従来型復刊スタイルの一段階小さな例に過ぎないだろう。

 では、発表当時から「マス」ではなかったけれども名作、つまり知る人ぞ知る=誰も知らぬ「名作」はどうするのか? このままではいつまで経っても新しい時代の読者の目に触れる機会はないではないか。例えばガロ系でいうと、かつてのガロ系作家の名作を小部数でかたちを変えて復刊しようとしているのは青林工藝舎くらいであり(これは発端と手段はともかく、かつてのガロの連中がクーデターで別会社を興し、その資産で生き延びようとしているのだから当たり前)、大手はそこに任せとけ、という格好だ。工藝舎ファミリーであるマガジンファイブやソフトマジック(両社とも、クーデター事件で現工藝舎に加担した企業である;マガジンファイブはかつてのエロ劇画誌の編集プロダクション、ソフトマジックはクーデター以前にガロを退職していた元編集者の会社で、クーデター組シンパ)からは、「三流エロ劇画」の復刻もなされていて、こうした動きは確かに評価できるものと言える。なぜなら、それらが後世に残すべき名作であるかどうかはともかく、このような動きがなければ永遠に読むことのできなくなる可能性があるものだからだ。

 これまで世に出た全ての作品が何らかのかたちで残り、それをいつでも後の時代の人が触れられる、そんな時代がいつ来るのか。国立国会図書館では建前上、全ての書籍、ほとんどの雑誌が見られることになっているが、ボコボコの穴だらけだ。特にサブカルチャーやエロの世界はボロボロである。こうしたところに残すべき名作などない、という決め付けの元にそうしているのか、あるいはそんなもんまで集めて保管してられっかよ、ということなのか、あるいはその両方なのかは知らん。

 もう十五年以上前、国内の主だった出版物(コミック雑誌も含め)を電子化して保存しよう、という動きが通産省(当時)の音頭で、情報・家電メーカーや主だった版元などを交えた団体で検討されたことがあった。なぜか当時俺のいた「ガロ」も保存すべきコンテンツに入れられたので(選定担当者の中にガロ者がいたのだろう)、俺が神保町のある建物での会議にのこのこ出かけた。当時は技術的にスキャンしてデータ保存するスキルがハード・ソフト共に物凄く脆弱だったので、いつの間にかお上の肝いりとしてのプロジェクトは立ち消えになったと思う。俺、その時に話を聞いていて、「あらあら」と思ったことが多々あったものだが、何度目からかお呼びがかからなくなったのでそのままこちらも関心が薄れていった。その後、「電子出版コンソーシアム」として、そのプロジェクトは業界団体側が主体となって動いたようだが、そのマヌケぶり…専用閲覧機器のお粗末さ、街頭で専用端末からいちいちダウンロードするという不便さ、コンテンツの魅力の無さその他のトホホな理由満載でお笑いとなってしまったのは知る人も多いだろう。

 現在では、電子出版といったら、漫画なら例えばpdfファイル化してネットからダウンロードさせるとか、フラッシュで読ませるとか、ネット回線がここまで速くなればこちらの方が当たり前だろう。持ち運べるデータ量も飛躍的に大きくなったし、いちいち専用の高い端末を買わされて電車の中で見るより、ノートPCやPDAなどで普通にブラウザから読めたりした方がいいに決まっている。
 この、電子化というところに、先の「これまで世に出た全ての作品が何らかのかたちで残り、それをいつでも後の時代の人が触れられる」可能性があるだろう。テキストなら挿絵などを除けばデータ量も少なくて済むし、閲覧端末やソフトの幅もぐっと拡がる。写真やコミックは、かつてはデータ量の問題でかなり間引く=解像度を下げてデータ量を抑えなくてはならなかったが、今ならかなりの高画質での配信が可能だろう。あとは違法コピーの問題だけをクリアすれば…というところに来ている。
 紙媒体、つまり本という形での「名作を長く残す」ことは、大手の版元でも最近諦めかけているように見える。先の話で、編集者は作家に「今後、データという形での本の再版ではお力になれるかも知れませんが…」と述べたそうだ。データ化された作品の版権は、現行の出版形態と違うわけだから、業界での慣例通り「どこから出そうが作家の自由」という格好になるのだろうか。というか理屈でも法的にもそのはずなので、実はここでも優良な作品の仁義無き奪い合いが、もう数年前から始まっている。
 結局同じことが言えるわけだけれど、本当にいい作品、残すべき作品をここでもちゃんと見極めてデータ化するかどうか。恐らくそんなことは行われない。「マス」で一定の売上があった、つまり「安全パイ」からそれは行われ、しかもそれは資本のある大手から先にであり、結局は今の復刊の構図と同じ格好になろう。というかなっている。

 当ブログ内の記事「いしかわじゅん「あすなひろしは古い」か…」がきっかけで、あすなひろし追悼公式サイトを主宰しているたかはし@梅丘さんとあすな作品の感想をやりとりする機会が先日あった。
 あすなさんが亡くなってもう4年ほど経つが、(株)エンターブレインから『青い空を,白い雲がかけてった』『いつも春のよう』が復刻されたのは嬉しい限り。たかはしさんはあすな作品の選集を自費出版のかたちで作られ、現在は7集まで刊行されている(上記サイトから通販可能、1巻は品切れ?)。
 こうした出版のかたちは、商業的に言えば厳しいだろう。委託というシステムにはもちろん、全国の書店に広く、一定期間とはいえ露出させられるという利点もある。けれど自費出版というかたちでは取次は通せないから、こうしたネットやイベントなど、あるいは一部の直販可能な書店などで販売するしかない。幸い今はネットでの出版物の流通がかなり進んできているのだけど、やはりまだまだ「本は書店で買うもの」なのだ。
 例えばAmazonなどが、こうした本を積極的に販売するようにしてはくれないものだろうか。ネット書店は在庫を常に大量に持つというリスクを負わずに済む。Amazonは本を売りたい人は声をかけてくれ、と募集をしているのだが、はっきり言って建前に過ぎず、いいものだからぜひ売りましょう! なんて姿勢は微塵もない。個人が復刻や自費出版したものなどろくな審査もされずに門前払いである。イチャモンつけてるわけじゃないよ。俺も実際ケンもホロロにあしらわれたことがあるので断言します。商売の論理しか、今の不況にあえぐ出版業界には、ない。
(続くかも)
2005-03-05(Sat)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その5

 我々の出版業界で、編集者が本当に自分がいいと思う本、心からその本の出版を採算を度外視しても望む本、というものを送り出すことはどれくらいあるだろうか。商業出版の中では「採算を度外視」した時点で失格だ。本当に自分がいいと思っても、世間一般の読者がどう思うかを考えられなくては、やはり失格だろう。
 編集者はとことん理屈で動く生き物だと思っている。もちろん感性も必要だろうけれども。よく業界外の人から聞く「編集のお仕事」というイメージは、原稿の催促や作家と会って原稿を貰ったり付き合いで飲んだり、あとは雑然とした職場でたくさんの紙類と格闘していたりパソコンに向ってよく解らない作業をしていたり、意味は不明だがしょっちゅう徹夜している…という図だろうか。
「原稿の催促や原稿の受け渡し」以外は、その内容の独自性…紙類は版下だったり企画書だったり手書き原稿だったりゲラ校正だったりするし、PC画面で見ているのはDTPデータだったり作家やライターさんからのメールだったり…を除けば一般のサラリーマンのお仕事の場面とあまり変わらないと思う。

 実は編集のお仕事で外から見えない部分で大切なところは、企画力と、管理能力だったりする。企画力というのはもちろん新しい企画、それは書籍ならズバリ売れる本の企画だし、雑誌なら部数を上げる目玉企画から読者コーナーの小さな企画までだったり、要するに常に「新しい何か」を考えている。もちろん考えただけではダメで、それを実現させるための作法=企画書作りや企画会議に臨んだりということも含めてのことだ。
 もう一つの管理能力というのは、編集者の仕事の中ではかなり大きなウェイトを占める部分でもある。自分が考えた企画が通り予算がつく、つまりGOがかかった瞬間から、暫定的に決めたスケジュールに向って企画は動き始める。スケジュールに沿って作家には原稿を依頼し、デザイナにはレイアウトや版下締め切りを伝え、製版や印刷にも指示をする。印刷や製本にはあらかじめ「機械取り」といって機械を開けておいて貰わないと本が出来ないから、ある程度の目安がたったらキッカリとスケジュールをフィクスして、各方面にそれを伝える。発売日から逆算して搬入日、見本が出来る日、下版(最終データを印刷に入れる)日、ゲラ校正の締切、版下の締切、原稿の締切などをスケジュール表に書き込んで把握しておく。最近はエクセルなどで表を作って管理する人も多い。要するに、一つの本を作るに当たって、編集は著者である作家以外のさまざまな人と付き合い、工程を把握してスケジュールを管理していくわけだ。
 昔、連れ合いではあるが業界でも漫画家としても大先輩であるやまだ紫を、自分が講師をしている学校に呼んだことがある。生徒たちからの質疑応答になって、一人が「やまだ先生から見て、良い編集者とはどんな人だと思いますか」という微笑ましい質問が出た。やまだはホンの少しだけ考えて、「いい編集さんというのは結局『いい人間』だと思いますね」と答えた。
 別な機会(年度)に、某メジャーレディスコミック誌の編集長をしていたY氏を招いたことがあった。やはり生徒(別人)から同じ質問が出たのだが、Y氏の回答もやまだの発言とほとんど同じだったのが印象的だった。
 編集は作家以外にもさまざまな人たちと仕事をする。ライター、イラストレーター、カメラマン、デザイナー、製版・印刷業者などなど。それらを一つの仕事の中で結びつけて、それぞれのスケジュールを把握し、最終的に一つの仕事として完結させていく。当然人間関係が円滑に進められなければ、そこかしこから軋みが生じて、その仕事は完結させられても、次の仕事に支障が出たりもするだろう。結局一人の「いい人間」であろうとすることが、「いい編集者」であろうとすることにつながるという、含蓄のある回答だ。
 結局、編集者って、無から有を生み出すことの出来る「作家」ではない。作家があって初めて成り立つのが、編集者だ。だから自分は一貫して作家へは尊敬の念を持って接するようにしている。まあ自分が編集生活をスタートさせた当時の「ガロ」は原稿料が出せなかったので、余計にへりくだる必要があったのも事実だけど。ともかく相手が年下だろうが年長だろうが、男性だろうが女性だろうが、作品のレベルが良かろうが悪かろうが、作家は作家、俺は編集。これはキッチリとわきまえていたつもりだった。
 もちろん、もう40年以上も前から、編集が企画を立て、著者はその企画に見合う者を立て、出版まで逐一編集が主導して意図的にベストセラーを作り出そうという手法はあった(例:神吉晴夫@光文社による「創作出版」という概念)。それにマス・コミックの世界ではそうした意識はもはや疑いようのない「常識」でもある。
 けれど、青臭い理想論と言われようが、やっぱり何度もここで書いているように、編集者はその作家がその作家でしか表現できぬことを表現させてあげたい、しかし自分というフィルタを通した向こう側にはたくさんの読者がいる。多くの読者にそれが受け入れて貰えればいいが、往々にして作家性を重視すれば読者の数は限られる。このジレンマは常につきまとうものだった。

「編集家」である竹熊健太郎さんのサイト「たけくまメモ」の記事「共犯者」としての編集者では、このBLOG内でも触れたように、編集者と一般社会との関係をうまく表現されている。詳しくはそちらを参照していただきたいが、かねがね自分が思ってきたことを実に的確な喩えでスパッと言い当てておられ、感心しきりだった。
 出版業界は、ここまで書いてきたように、業界外から見ればかなり特殊な世界だ。取次と書店の間の取引関係は、通常は契約金を書店が支払って、普通の業種と同様な関係が開始される。けれど版元と取次の関係はどうかというと、そこは長く業界でもタブー視されてきているように、極めて特殊で閉鎖的な環境であると言える。
 あなたが、もし出版社を始めようと思ったら、販路のほとんどを握っている取次と口座を開かねばならない。直販オンリー、あるいは手売りなどでない限り、この取次ルート(書店・CVSでの販売)を抜きに商業出版は成り立たない。では「これから出版社をやります! よろしく!」つってすぐに取次と取引が開始できるかといったら、そうはいかない。出版計画すなわち事業計画や、これまでの実績、キャッシュフローその他、さまざまな「審査」を受けなければならないのだ。もちろん、その審査は取次の一方的な基準と判断による。文句があるんなら別にうちは取引しなくてもいいよ、と言われたら販路の85%を失うだけだから、版元側は言われるがままとなる。大手二社のうちどちらか片方しか通らぬ、という場合もあるにはあるが、大手二社が何とか通れば、残りの中小以下の取次もほぼ追従する。この際の取引条件も、ほぼ取次の言うがままである。雑誌の掛けがいくつ、書籍はいくつ。雑誌の委託がいくつで注文はいくつ。同じく書籍はこうこう…と、「扱い」によって細かく変わる。それは版元によって千差万別なのは以前書いた通り。
 こうしたことは業界外からは全く見えぬ、いや業界内部でも他者のことはほとんど不明な部分だ。そして取次の力がこのように強大なだけに、業界でタブー視されている、という構図がある。
 出版業界の特殊性は、こうした流通上のこと(上記以外にも、た〜くさんあるよ)ばかりではない。よく言われるように、編集者に用事がある場合は、午後に連絡するのが普通だ。竹熊さんも書いているが、午前中は大概やり手の編集ほど死んでいる。前の晩遅かったり徹夜明けだったり作家と付き合いで朝まで飲んでたりするからだ。もっとも大手のサラリーマン化した編集者はキッチリ9時-5時なんて人もいるのかも知れないが、それはよほど自分の仕事がベルトコンベア的なのか、ルーティンワークしかないのか、外注でほとんどが編プロ任せなのか、スチャラカ社員なだけなのか、電話番ぐらいしか仕事を任されていない新人か縁故採用の阿呆(以下略)。
 通常の商取引では当たり前である、自分の労働に対する対価、つまり報酬も事前に伝えない編集(というか版元)も信じられないことに存在する。印税というのは、一般の読者にとっては不労所得みたいなイメージがあるだろうが、とんでもないことだ。そもそも印税がいくらなのか、キッカリ「出版契約書」みたいなものを交わすようになったのはついこの間から。大手版元はさすがに契約書を出すが、そもそも印税額の算定の大元になる「刷り部数」すら、直前でコロコロ変わったりする。(印税額だって、業界内の慣例では定価×刷り部数×10%だけど、版元によって変わる場合もある。文庫だと初版8%で再版から10%、とか初版10%だが半年ごとの分割払いとか、売れっ子作家だと初版12%なのに新人だと7%スタートとか、いい加減にしろ、つうぐらいひどい)
 自分の労働の対価も分からずに仕事をする馬鹿って他の業界でいるか? 給料制で事務所にいくらピンハネされてるのか知らぬ芸能人じゃあるまいし、出版業界というのはここらへんもいまだに非常識がまかり通っている。

 さてとりあえず、ここでは一般社会人と比べてあまり違和感のない「サラリーマン編集者」のことはとりあえず置いといて、「普通の編集者」の話をしよう。竹熊さんの記事へのコメントにも書いたけれど、「ガロ」で何年目かに、それまで担当していた先輩の退職に伴い、「特殊漫画家」根本敬さんの担当をすることになった。根本さんがどんな作家かというのは、公式サイト=「因果鉄道の旅とマンガ」を見ればホンのちょっとは理解できるかも知れない。
 ともかく、根本さんの原稿は毎月、締め切りを過ぎてから描き始めるというくらい遅かった。当時の原稿遅延作家では東の正横綱が根本さんで、西の横綱が評論家の上野昂志さんだった(ちなみに両方とも俺が担当編集者)。上野さんの文字原稿は手伝えないけれど、根本さんの漫画原稿なら手伝って早く上げてもらうことはできる。自分は漫画家になろうと思っていたくらいなので、枠線引き、消しゴムかけやベタ塗りなどはお手の物だったから、「もう限界です」という連絡をした上で、仕事場まで手伝いによく出かけたものだった。
 原稿を徹夜で取りに行ってる時は、根本さんお得意のポンチャック(韓国のチープな電子スチャラカサウンド)や「裸のラリーズ」(伝説のノイズバンド)がグワングワンかかる職場で、それはもうここでは金輪際書けないような話をさんざんしながら原稿を手伝った。クソやゲロやチンコやマンコなんかまだ生ぬるい当たり前の話で、昭和天皇の顔に●●をかける原稿(ガロ連載作「タケオの世界」)やら死体漫画(単行本「豚小屋発犬小屋行き」など)までを一緒に作った。
 そのサバトのような異空間から上がった原稿を持ってお礼を言い、すぐさま出るわけだけど、作家さんはそこでベッドに倒れこむことはできても、編集はそこからが本職だ。異空間から一歩外に出ればそこはごく普通の日常であり、澄ましたOLや学生、サラリーマンらに混じって手にはぐっちゃんぐっちゃんの漫画原稿を抱えながら電車やバスに乗り、会社へ戻り、スクリーントーンを指定されたところへ貼り、(根本作品はネーム=フキダシ文字が手書きだったから)ノンブル(頁数を打った写植)を貼って製版に入れ、印刷屋さんと段取りをやりとりしたりしていた。当然その間にも書店から注文の電話が来れば受け答えをし、お客が来れば対応し、返品が来れば階段を駆け下りて積み下ろしをするという、この「振幅の幅」というものは当時恐らく日本一だったのではないかと自負している。…これって全然「普通の編集者」じゃないかな。でもリーマン以外の編集者は「そうそう!」と共感を持って読んでくれてると思うよ。

 この「振幅」、竹熊さんは「この世とあの世の境界に立たねばならないのが編集の勤め」と表現されているが、まさしくその通り。もっと言わせてもらえば、世の多くのサラリーマン化した編集のダメなところは、この覚悟が出来ていないところ、あるいはこの意識さえ自分にないところだと思う。変に「ギョーカイ人」を気取った人種、初対面なのに「なになにちゃ〜ん」と呼ぶような連中はサラリーマン編集にたまにいるが(いや、本当にいるんですよ皆さん)、幸い自分が付き合った同業の編集さんたちは、実にこの「振幅」のバランスの取れた人たちが多かったように思う。もっとも大手のサラリーマン編集とはほとんど接点がなかったせいもあるが。(大手のサラリーマン編集が全てダメダメだとは断言してませんよ、念のため。素晴らしい人たちもたくさんおられます)
 この「振幅」を理解し自分でどうバランスを取るか、取れるか、が無意識にしろ意識的にしろ、そのまま編集者としての仕事の幅にもつながっていくと思う。「マス」のコミックにも名作はたくさんあり、極細の作品にだって、漫画史に刻まれるべき名作がたくさんある。多くの人に知られているか・いないか、はその作品そのものの評価ではないと思いたいが、世の中なかなかそう言い切れない部分もあろう。例えばあるメジャー漫画誌編集者は「売れない作品は、存在しないと同じ」と平気でおっしゃっておられた。

 大量に売れるということは、やはりそれなりの理由がある。コミックだけではなく「マス」のもの全てを一律に語ることが出来ないのは言うまでもないことだ。ただ、オタクの発生(笑)からもう30年が経過し、情報もこれだけ氾濫し価値観も多様化、ニーズも細分化されてしまった今、「不特定多数の人たち」に一律に受け入れられるものって、何だろう? と考えてしまうのだ。
 自分がよく話す喩えに、こんなことがある。映画ファンがいる。昔はその「映画ファン」向けに雑誌を作ることができた。それが邦画・洋画、さらに邦画でも例えば特撮映画、その中でも円谷、その中でもウルトラシリーズ、その中のセブン、そうしてセブンの中のアンヌ隊員萌え〜! になったのが「今」だ。まあそこまで極端じゃなくても、ピンポイントで狭いコアなファン向けにディープな本を提示するスタイルはもう当たり前となっている。いっぽうで、みんなと同じものを見、聞き、話題にしたいという人たちもたーくさん存在している。つまり「不特定多数」であるマスメディア信奉者とオタクとに二分化されたコンテンツが増えてきているような気がするわけだ。
 ただややこしいのは、コンテンツそのものの問題もある。今話題なのは韓流ブームだけど、大分類としての「韓流ファン」は韓国映画やドラマ、俳優関連のものは盲目的に蒐集し飛びつきつつ、「私は中でもイ・ビョンホン」「私はヨン様」などとアンヌ隊員萌え的、オタク的な対象も持っていたりもする。「マス」メディアが送り出すコンテンツはJ−POPにしても芸人ブームにしても韓流にしても、玉石混交には違いない。その中のどれくらいがホンモノで、息長く残る「玉」なのかを見極めるのは難しいだろうな、と思う。「少年ジャンプ」は間違いなくコミックの中の「マス」だけど、その掲載作の中だって当たり・外れはあるわけだ。もっとも「ヨン様ぁぁ〜!」と悲鳴を上げて追っかけをしているオバハンにはそんなことはどうでもいいことだろうが。

 つらつらと結論の出ないことを書き連ねてきて恐縮だけど、では現在のこの「出版不況」の中で、業界側にいる人間としてはどうしたらいいのだろうか、ということがいかに結論の出ぬ袋小路であることがお解かりだろう。
(まだまだ続く?)
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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