2009-08-16(Sun)

五山送り火

8月16日(火)

夕べは寝る前にロヒプノールを1錠飲んだ。お陰で途中目が醒めることもほぼ無く、朝7時過ぎまでぐっすり。ロヒプノールは持続時間が長いので、12時ころ寝たせいか、7時ころにはまだ若干朦朧とする。しばらくベッド上で朦朧としたままで、結局9時過ぎに起きた。
今日もいい天気で、送り火も順調に行われるだろう。比叡山に合掌。
今日は時間のかかる作業があったのだが、お盆の最後の日だし、明日にしようということにして、先日整理した三津子の化粧品や香水で使えそうなやつを梱包したのと、ゆうちゃんが「持ってない」と言っていたエッセイ集『東京ノスタルジア』と『満天星みた』の2冊を同梱。小箱に余裕があったので、クローゼットから夏物の綺麗なアロハを出す。これは洗ったら縮んだのか、とても大人の女性が着られるサイズではないが、ゆうちゃんの娘ならちょうどいいだろうと思い、赤い薄手のジージャンと一緒に畳んで入れて、宅急便で送る。

それやこれやでもう3時過ぎ。
今日は寿司の出前を頼んだ。本当は明青さんに料理を頼むつもりだったのにアレコレで忘れていて、ハッと気付いたら2日前だった。明青さんは毎年お料理をたくさん依頼される。どう考えても2日前に送り火の日の料理を頼むのは暴力だ。でも頼んだら無理をして作って下さるかも知れない。その、「無理」を通すことが俺には出来ない。
なので寿司にしたわけだが、今晩はそれで一杯やりながら、送り火をまた「二人で」見ようと思う。
夕方まで時間があったので、買っておいた中古DVDでゲイリー・ムーアを聞く。見終わると5時過ぎだった。

送り火は8時からだから、うちもそろそろ三津子に酒を出して灯籠をつけようと思い、用意をする。
6時近くになって宅配の寿司と茶碗蒸しが届いたので、三津子と晩酌を始める。7時半から京都テレビでは毎年恒例の五山送り火生中継番組もつける。
そうして8時少し前から部屋の電気を消し、送り火中継のテレビ画面と、灯籠の明かりだけにして待つ。三津子の写真の額と、ぐいのみの日本酒を持って南側のベランダへ出て、デジカメのムービーをまわそうか…という瞬間、東山に「大」の文字がぼーっと浮かび上がってきた。あちこちの窓にも人影が見える。誰かが遠くで拍手をしているのが聞こえた。
写真の三津子にも見せて、ぐいのみに「大文字」を映して飲む。去年もこれを二人でやったよね、「これで一年無病息災だ」って言ったのにね…、と話しかける。

しばらく見て、二階へそのまま上がった。寝室の和室は真っ暗だが、そのままベランダへ出る。二階の寝室は熱がこもっていて蒸し暑いが、北側のベランダへ出たら風がさあっと通って気持ちがいい。確か去年もそうだった。
ユキが後をついてきて、ベランダに出せとにゃあにゃあ鳴く。けれどいったん出すと耳が聞こえないので、呼び戻すのが大変だから、可哀想だがガラス戸は閉めた。そうして今度は北東にあたる方角になった大文字を見る。
今年はお隣の角部屋のUさんは娘さんと二人で、じっと並んで見つめていた。お盆が開けたら引っ越されるそうだから、荷造りなど大変だと思うが、いっとき心が安まる光景だろうと思う。
ベランダで三津子の額を写真に撮ったが、ユキが「出せ」とガラス戸の向こうで立ち上がって鳴く。余りにうるさいのでちょっと抱いて出してやるが、今度は離せ下ろせと「うわあにゃあぎゃあ」と鳴くので、結局また部屋の中に入れた。
その時Uさんたちがこちらに気付いたので、「どうもすいません」と軽く会釈をする。ユキを戻そうとしていると奥さんが「ユキちゃんや(笑)」という声が聞こえた。こないだ玄関で少し立ち話をした際、ユキがさんざん甘えたのを思い出した。

それからは松ヶ崎の「妙」「法」がほぼ同時に、しかも一瞬で浮かび上がった。思わず「おお」と声が出る。
送り火の「火床」は五山全て方法が異なるという(by京都テレビ)から、火のつきかた=つまり文字の浮かび上がり方というか、速度も各々違うのだ。
去年、二人でここで座って酒を飲みながら眺めた二文字。
三津子の写真を脇に置き、俺もガラス戸のへりに腰掛けて、写真に乾杯をして、しばらくじっと眺める。今度は北西の方角に舟形が浮かんだ。ぐるりと右手斜め後方に大文字、真正面に法,少し左に妙、そして北西つまり左前方に舟形。
デジカメの画面で撮ると画角の都合で遠く映っているが、肉眼で見るともの凄く近い。特に「法」は松ヶ崎だから、すぐそこのようだ。
ベランダに出たユキ背後ではユキが余りにうるさいので一回自由に出してやると、静かに出て来たはいいが、すぐに西隣の今は誰もいない方のベランダへ、柵の下をくぐって行ってしまった。普通にてくてく歩いて呑気なもんだが、そのまま歩いて端の死角まで行ってしまったらどうしようかとひやひやする。何せ呼ぼうが手を叩こうが耳が聞こえないので、見えなくなったらもうどうしようもない。
そうだ、首輪にヒモでもつけておけば良かった…と思ったらすぐにくるりとこちらを向いたので、手をくるくると廻して誘導するとこちらへ戻ってきた。何とかそのまままた寝室へ戻すことが出来た。その頃にはもう真西の遠くに、文字はさすがに読み取れないものの、「左大文字」の灯りが平面に見えた。

去年もそう思ったが、やっぱりここは凄い場所だ。
大文字から妙・法、舟形までがはっきり見えて、さらに左大文字も平面ながら火が見える。鳥居はさすがに無理だけど、こんな場所は市内でもそうはない。だいたい五山全てをクリアに見られる場所はないのだから、最も素晴らしい場所の一つであることは間違いない。
それを見届けてから、下へ降りて、もう一度、消えかかっている東山の大文字を見て、一年の無事を感謝した。

去年二人で見て、「これで一年安心ね」と言って笑った三津子は逝ってしまった。彼女はきっとあの火に向かって、自分ではなく俺の無事を祈ったに違いない。そういう人だった。
だから今俺がこうして生きていられるのは、あなたのお陰です。ありがとう。
写真と乾杯
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2009-08-16(Sun)

Gary Moore Live at Monsters of Rock DVD、神。

夕方、送り火まで時間があるのでAmazonから届いていたゲイリー・ムーアのモンシターズ・オブ・ロックでのライブDVDを見る。

ライヴ・アット・モンスターズ・オブ・ロック [DVD]

ビクターエンタテインメント

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送り火の日には全くふさわしくないサウンドだが、四半世紀の思い入れのあるギタリストだから許して欲しい…。
高校生の時に最初に聞いた「CORRIDORS OF POWER」でブッ飛ばされたのを思い出す。あれは1982年だから17歳、バンドをやっていた頃で、LPを貸してくれたのはギターのSだったっけ。
1曲目の「Don't take me for a loser」から3曲目の「Wishing well」に至る間に、もう完全に打ちのめされた。
何だこのギタリスト! と卒倒しそうになった、マジで。
そこからThin Lizzyへ遡ったり、もちろんその後のブルースへの傾倒を見せた「STILL GOT THE BLUES」まで全部聴いた。

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2009-08-15(Sat)

朝の本棚

8月15日(土)

前の日働いて(?)疲れたせいか比較的よく寝られて、目が醒めると7時頃。その後もうとうとを繰り返して8時半ころ起きる。
起きるというより、何かがフと気になって、ベッドの脇にごろりと落ちるように降りて、座ったまま西側壁面の本棚をじっと見た。
この本棚は「二階」(メゾネットの和室)を寝室にするために二人で大量の本が入った段ボール箱を片付ける時に、幅を測って壁面に入れたものだ。
東側壁面には背の低い本棚を並べて、ゆくゆくはそこに豪徳寺の招き猫を飾ろうと話し合った。招き猫たちはまだ梱包をほどかれずに、しまったままだが。
二階を寝室にする前まで、玄関の脇にある狭い洋室に二人で寝ていた。四畳半よりも若干狭く、ドアもなぜか内側に開くのでどう測っても普通のベッドが入れられず、仕方なく当座しのぎに折り畳み式のベッドを2つ並べてキチキチで寝ていた。
ところが、今はもう引っ越されたが、西側のお隣さんには幼い女の子が二人いて、毎朝保育園へ行く時にそれはそれはもの凄い声で騒いでいた。俺たちは毎朝、その「騒音」で叩き起こされるのが日常だった。
けれど二階の和室には山のような本の段ボール箱が、引越の時そのままにずっと積まれていたし、それらを整理するのは病人二人には重労働だった。
しかし我慢を続けるのは体に良くないと意を決し、去年の秋ころに本棚をまず買って、それから二人で毎日こつこつ、本の箱を開けては手当たり次第に棚に突っ込んでいった。そして、最後に便利屋さんを呼んでベッド二つを二階へ上げてもらい、ようやく「寝室」が二階の和室となったわけだ。

朝起きて見ているこちら側…西側の2つの本棚は、反対側のものと違い、ガラス戸と手前にスライド式の棚のついたもの。これらは二人で比較的大事な本を入れようと並べたのだけど、結局最後は箱を開けることを優先したので、あまり統一性のないままになっていた。
三津子が亡くなってしまってから、この二つの本棚の上段部分、ガラス戸のついているところには、全て彼女の本を整理して並べた。その下半分はそれぞれ、お互いがランダムに突っ込んだままになっている。
三津子が入れた部分の本をじっと眺めていたら、吉原幸子さんと井坂洋子さんの詩集、河野裕子さんの歌集がまとまって全面に並んでいることに気付いた。それらを改めて判型や著者別に入れ直す。それからどうでもいいような文庫や思いつきで買った本などは出して、比較的彼女も思い入れがあると思われる本を整理して、入れ直した。

そうしていたら、横部分の比較的大判の本を差し込む棚に、アルバムかスクラップブックのようなものが2冊ささっているのを発見した。もちろん三津子がそうしたものだ。
取り出して見ると、1つは次女のゆうちゃんが小学生の頃、俺が「漫画が面白いから描いてみれば」と言ったらいくつか描いたギャグ漫画と、当時の親子のメモのやりとりみたいなものだった。
もう一つは彼女のスクラップブックで、猫の水洗トイレの記事とか、興味があった記事や資料を入れた風情のものだ。

そこに、97年の「ガロクーデター事件」当時の『創』のコピーが入っていた。俺が入れたものではもちろん、ない。これは掲載誌を持っているはずだが、今のところ見つかっていない。
事件当時は篠田編集長が自ら取材に来てくれた。
他のメディアがほとんど憶測や片方=つまりクーデター側の言い分と、想像や勝手なシナリオでこちらに取材もせずにいた中、ジャーナリストとして「正しい」と思った。
篠田さんはこちらの話も聞いた結果、クーデター組の首班であるTと、残った青林堂・ツァイト側で事情を知る俺の双方に「その日のこと」「そこに至った過程」を書くように依頼された。そして『創』誌には、Tと俺の文章が続けて掲載された。
三津子、いややまだ紫は当時から一貫してTらの「やり口」を卑怯で汚いことだと、批判してきた。同調する人は多かったのに、表だってそれを言える人はほとんど無かった。
「正しいと思うこと」を堂々と顔と名前を出して言うこと、その難しさは理解できるが、俺としてはたくさんの人に傷つけられ、失望させられた中で、彼女の存在は公私ともに本当に有り難かった。
その記事のコピーをベッド脇にあぐらをかいて久しぶりに読んでみると、やはり、俺は当時から今に至るまで全く主張も「事実」として語っていることも、ブレていないことが解った。何も間違ったことは言っていないし、少なくとも俺にとっては「真実」とは言わぬが、見聞し体験した「事実」を記述している、と思った。

三津子はこれを俺に見せたかったのだ、今。

なるほど、俺は彼女を失い、いっときはもう「せけんなどどうでもいい」と思った。
はっきり言うと、まあ「死にたい」という心境だった。
彼女の居ない世界で一人生きて行くということが、どうしても想像出来ず、そして自分には出来ないと思った。
しかし俺が白血病を患い、彼女はその俺の命が一日でも長く続くことを願っていた。自分も健康ではないのに、常に俺たちはお互いにお互いの体を心配してきた。
だから、その俺が「死にたい」と思うことは、何よりも一番彼女を悲しませることだと、俺は理性で自分を立て直した。
まず、彼女の心に応えて頑張って生きること。そして彼女の優れた作品を後世に伝え、遺す作業をすること。自分には役割がある、それまでは死ねないと悟った。
だから、「ガロ」のクーデター事件や過去の日記などは、俺にとってもうどうでも良く、実際に97年からずっと開示してきた俺の日記つまりクーデター事件当時の詳細を含む日記や、当時の状況をリアルタイムで実況し続けた掲示板のログも、全てリンクを切った。
もう、人を憎んだり、怒ったりしたくなかったからだ。
でも、彼女は「それは違うよ」と言っている。俺は何も根拠もなく怒ったのではない、俺は間違ったことはしていないと言ってくれている。正しいと思い過ごしてきた日常の記録を抹消してしまうということは、俺たち二人が過ごした日々の否定になる。

リビングへ降りたら9時をまわっていた。
それから改めて洗顔ほか朝のことを済ませ、おにぎりで朝ご飯。今日も外は青空に白い雲。明日はもう盆の終わり、五山送り火だ。東山の大文字を見ると、何やらもう文字にそって火を灯す準備が整えられている。毎年、ああいう人たちは偉いな、それをただ「わあ」「綺麗」とか言って見ている人たちは、あれを真夏のさなかに斜面を駆け回って支度をし、時間通りにちゃんと点火する人たちの伝統を守る心と、信心にもちゃんと感謝してあげて欲しい。
京都のまちの人たちはもちろん知っているが、何かただの花火のような「イベント」と思っている人もいるらしい。まあそう思う人たちには、それだけのことなのだろうけど。

今年の「送り火」は、三津子の初盆になってしまった。あれら五山に灯される壮大な送り火が、我が家の「送り火」にもなる。
2009-08-14(Fri)

壁に絵を飾る

8月14日(金)

昨日は低気圧だったのだろうか、一日腹が苦しかった。脾臓の腫れで外気圧の下降がする解る。人間の体の約七割は水分。外気圧の影響はバカにならないと思う、いや実感する。
今朝は朝方5時ころ目が醒めて、その後は寝ているというより朦朧として浅い眠りのまま、夢をたくさん見た。もう忘れたが。

結局起きたのは9時近くで、最近としては遅い方だった。
朝のことを済ませて一息つくと、9時半ころ携帯に行政書士さんから着信があった。かけ直すと、何と確認ミスで完了したはずの手続きがまだとのこと。こちらのミスではないので、引き続き進めて下さいとお願いする。その後三津子の姉、つまり義姉にすぐ電話をいれるが出ない。30分ほどしてもう一度電話をするが出ないので、旅行だろうかと思っていると、折り返し電話があった。
お姉さんは「電話の呼び出し音を小さくしていたので気が付かなかった」とのこと。なので、これこれこうなんです、と事の次第を報告。
その後こちらの様子を「どうですか」と聞いてくれたので、最近は原稿整理もだいぶ片付いてきた、ただ大学の研究室の整理もあるし、こういう手続きもまだ残っているのがあるから大変だとちょっとグチっぽくなってしまった。
それでも、やることがあるという事は張り合いにもなるし、寂しさを紛らわすことにもなるので、と話す。それは本当だ。今はこうしてバタバタと忙しい毎日なのだが、それやこれやが落ち着いてしまったら、俺は彼女の居ない「日常」を、どう過ごすのだろう。
お互いまだまだ寂しいですね、と話して、手続きなどの件もお願いをして切る。

その後、あとは俺が走り回って終えるはずの手続き書類を、いったん返却するため、全部エクスパックに入れる。ポストに投函するため着替えて11時過ぎに外に出た。
マンション下にゴミ袋を捨ててからポストにエクスパックを投函し、それからコンビニへ行く。今日も陽射しが凄いが、この前までの梅雨どきのような湿度がなく、真夏のじりじりくる本物の(?)暑さだ。
おにぎりとサンドイッチ、夕飯の弁当、料理用の赤ワインなどを買って帰宅。調味料類は「もう二度と料理なんかしないだろうな」と思い、けっこう捨ててしまった。何せ、三津子が倒れてからいったん冷蔵庫を発作的に全て空にしたくらいだった。一週間ほどほとんど食べられなかったのを、心配した明青さんや井坂さんなど、心配する方々に救われた…。
今は、ちゃんと食べないと心配していた三津子に叱られる…という思いで、料理というほどではない簡単な調理はするようになれた。
昼は結局サンドイッチと缶コーヒー。その後トイレへいくと便が真っ黄色だったのでギョッとする。が、すぐ昨日作ったカレー風味のもやし炒めの色だと思い出して苦笑い。
先だって、ちょっと無理をしたら嫌なことになったので、それからは排便の度にちゃんと確認することにしている。尾籠な話ですいませんが。
午後はMLB、シアトルでのヤンキース戦を見て少し休む。C.C.は相変わらず絶好調で、ポサダやAロッドが休みで松井が4番DHに座ったが、4安打2HRで5打点、結果NYYが11対1で勝つ。松井の2本目のHRはライトに上がり、フェンス際でイチローがハイジャンプを見せキャッチするか…と思われたら寸前にファンのグローブがキャッチでHRとなった。イチローも憮然としていたが、ああいう「ここだ」というギリギリのプレイ、野球の醍醐味みたいな場面を邪魔するのは、本当に無粋な野郎だ。


さて、ようやく原稿の整理もほぼ終わりが見えた。
ただ『夢の迷子たち』収録作品まるまる全編がどうしても見つからない。押し入れの箱から何から全て見たし、もう原稿が入る大きさの箱で未開封のものはない。
間違って捨ててしまったなんてことがあり得るだろうか、可能性としては、蓮根の二部屋と赤羽の「仕事場」を統合して舟渡へ越す時の「地獄の引越」時に、不要物に紛れたのだろうか、だとするともう絶望的なのだが…。返却して貰ったのは確実なので、こちらの問題である。もし復刊できることになったら、最悪の場合は本から起こすしかない。とにかくもう一度、全ての箱を調べよう…。
階段の下の納戸へ箱改めて整理を終えた原画の箱を綺麗に収納し、全てを入れ終えるとやはり腕と腹が少しジンジンした。何をやるにしても、病人にはしんどいことが多い。
一息ついていると、お隣のUさんが「檀家さんにお配りしてるものです」と、お香を一箱下さった。Uさんのご主人は詩仙堂近くのお寺のご住職だ。お盆明けには引っ越されてしまうが、この階も寂しいことになる。

その後は納戸の手前に雑然と積んであったものも片付ける。三津子が生前、いつも座っていたソファの周辺に置いていた、薬や化粧水などが入った箱や袋。
そして、倒れた後に病院へ持って行ったもの…。
三津子が意識を無くし、ただそこで「生かされているだけ」という状態の時に、顎や首をささえるために丸めて置いたタオル、顔に塗った化粧水。それらはどうしても捨てることが出来ない。見るだけであの辛く悲しい時間を思い出し、涙がにじむ。とりあえず別の紙袋へまとめて今は物置とクローゼット部屋と化した洋室へ移した。
それから使ってもいなかった古い化粧品や薬品類は、思い切って捨てる。つい最近買ったばかりの香水や化粧水はエアキャップにくるんで箱に入れた。それからハンディ掃除機で綿埃を吸い、ついでにそこらも片付ける。

壁に絵を飾るそして、かねてからやろうと思っていたのだが、ソファの壁面に三津子の絵を飾る作業をする。
ソファの背面、真っ白な壁紙の広い壁面は正月のお札以外は何も飾らず、スカーッと広いままなのが気持ち良かった。でも今はそれが寂しい。だから彼女の絵を飾ろう、と思った。
まず天井からの距離を測り、端と端に画鋲で印をつけ、メジャーを使って等間隔に3カ所、フックを打ち込む。
それから残っている額装した水彩画のうち、横画面の猫を3つ飾った。ベランダ側から順に「もの想い」「眠い」「青い瞳」の3枚。
やまだ紫の描く猫。ポストカード大の水彩画はいい味を出しているが、これまでに描いた絵はもう全てファンの方の手に渡っている。どなたがどの絵を買われたかはメモしてあったはずなのに、なぜかそのメモが見つからない。もう手元にはこれらを入れて数枚しかないが、たくさんの漫画や原画が残っている。

それやこれやをしていたらもう夕方になった。
西日と夏の青空のグラデーション。今日は原画の重い箱の移動やらいろいろ力仕事もしたので、少しくらくら目眩のような症状が久しぶりに出た。まずい、ちょっと今日はもう休まないと。午後5時51分。
2009-08-13(Thu)

初盆

8月13日(木)

夕べは12時過ぎに寝たのに、今朝は5時前に目が醒めてしまい、どうにも寝られずに起きてしまう。外は薄曇りで雨が降りそうな天気。
リビングに降りて、朝のことを一通り済ませてから、テレビをつけて見ていると眠気が来るような気がしつつも、やはり寝られない。薬を飲んでもう一度寝ようかとも思ったが、6時前という時間を考えてやめておく。
テレビを見るが全く眠くならないので、7時過ぎに一度着替えて新聞を取りに行きがてら、コンビニへ買い物に行く。
お盆に入った早朝ゆえ、さすがに車の通りは少ない。ゆっくり道路を歩いて渡りコンビニへ…と思ったらタクシーの空車がけっこうなスピードで近付いてきて、慌てて早足で渡る。早朝のお盆で空いている道、車の方も歩行者が横切るということを考えていないわけだ。ていうか信号を渡れよと思われるだろうが、コンビニ前の信号は「点滅信号」で、普段から近隣の人は皆そこらを車の切れ目を見てホイホイ渡っているのだ。
コンビニで暇潰しの週刊誌類と朝の卵サンド、パックの「白バラコーヒー」、足りなくなったゴミ袋などを買ってすぐに戻る。パンを食べて新聞、週刊誌と読んでいくが眠気は来ないままだった。

その後郵便局がエクスパックを届けに来たので受け取ると、行政書士事務所から。いろいろと手続きがあることの関連書類。この「手続き」が詳しくは書かないがけっこう大変なのだが、それらと平行して復刊する単行本の手配、原稿・原画その他の整理、大学の研究室の整理もしないといけない。
考えるだけで頭がクラクラしてくる…って本当に貧血ぎみなのか目眩なのか、頭がクラクラする。
とにかく他の人に任せられない、いや、任せるとその都度お金がかかる。そしてここは京都、親戚もいない。

それから階段下の納戸を開ける。ここに収めてある原稿や原画などの主な段ボール箱は全て開封し、新たな封筒に全て出来るだけ詳細に摘要を書き入れて整理をした。
年内復刊の単行本に収録のものを優先して整理を進め、その他の主な作品類はほぼ終わっているが、まだ未整理のものもある。それが気になったので、それらを出して整理を始めた。
前に一度重要な原稿がないかは確認しておいたものなので、あとは新しい封筒に摘要を書いて移していったり、返却時に乱暴に入れられているものをきちんと保護したり、揃えたりする。

三津子・やまだ紫が毎日新聞で連載していたイラスト&コラム『お勝手に』が最初の単行本になったときの、カラー原画や描き下ろしのモノクロカットが出て来た。
この時の花束を持つ「お母さん」の絵が大好きなので、いったん高解像度でスキャニングしておいた。それから新しい封筒に整理していくが、内容確認で単行本『お勝手に』(最初の上製本の方)を取り出して少し読む。
今読んでも鋭い指摘や示唆に富むコラムで、面白い。内容が深刻に思えるような場合でも、軽妙なイラストがそれをうまく和らげていて、独特のいい味を出している。これが文章だけの人や、漫画だけの人には出せない「味わい」だし、やまだ紫という「作家」の優れた才能でもあると思う。

ちなみにこの時、俺はカバーデザインと本文レイアウトもやらせてもらった。実は、本文は今定番のアレとかソレではなく、あのPC-98シリーズ用の国産名DTPソフト「JG」でDTP出力したものだ。
高解像度でのスキャナがなかったので、イラストだけは出力した印画紙に指定で入れるという変則的な方法をとった。というより、当時は漫画が完全DTP化されることは難しいのではないか、という時代だった。技術的な問題とハードの能力の問題で、繊細な細いタッチはやはり従来の製版印刷の方法でないと無理だったのだ。
データ入稿した出力屋さんで、各頁が連なった状態の印画紙ロールを受け取り、それを見開きごとにトンボを打った状態で切って行き、束にする。
各々のページに入れるイラストは製版で入れるしかないので、アタリ用に全部コピーを取ったのと一緒にそれらを持って、竹橋の毎日新聞社へ行って作業をさせてもらった。確か校正室を借りて作業をしたんだっけ、と思い出す。大詰めの頃はもう初冬だったか、皇居のお堀に冬の青い空とまぶしい陽射しが反射していたのを記憶している。
1996年の暮れに本が出たので、もう12年以上前になるのか…と感慨深いものがある。カバーには彼女のキャラクタ「やま猫」の置物の写真を使った。これはどこかで買った紙粘土の猫の置物をベースに、彼女が紙粘土で耳などをアレンジして、「やま猫」カラーに色を塗った。
「あれ、気に入ってるんだから絶対返して貰ってね」
と言われていたのに、結局返却はされぬままになった。本が出来た安堵感から、ゲラやイラスト一式を返して貰ってすっかり全て返却済みと思い確認を怠った俺のミスである。
人形を返して貰ったという記憶がない。原画類はすぐに自宅へ持ち帰ったが、版下やゲラは勤務先にしばらく保管していた。俺は当時青林堂の親会社であるツァイト(「JG」の開発・販売はここだった!)へ移籍して、そのまま「ガロ」の担当箇所を編集していたが、その時の自分の机の引き出しに入れていたと記憶している。
翌年の夏、あの「ガロ編集部クーデター事件( 顛末日誌はこちら )」が起こって、何もかもがメチャクチャにされてしまった。猫の置物はその後、結局見つかることはなく、今に至っている。
何度も繰り返しているように、クーデター組の動向や報道の様子、こちらの受けた被害等は当時逐一掲示板に「生中継」しており、ログもそっくりそのまま保管してある(GARO Board LOG1997)。
当時は今に比べればインターネット普及率も信じられないほど低かったので、彼らの主張=
「青林堂はヤクザ(のような人物)に乗っ取られた、
山中は海外へトンズラした、
白取は金で転んでそいつと新しい「ガロ」を始める、
自分たちは長井さんの「ガロ」を守るために原稿を持ち出して保護し、身を隠す…」

という、まあ今にして思えばそれこそマンガ(笑)のような主張が取引先や書店、取次、マスコミに至るまで極めて計画的にバラ撒かれ、そしてそれが「そのまま」鵜呑みにされたわけだ。
いまだに、この突飛なシナリオを信じている人さえ居ると聞く。というか、漫画批評家や研究家と称する人たちで、ここら辺の事情を全く理解せぬまま「ガロ」を総括したり批評している人が居るようだけど、ちゃんと普通に考えたり、ちょっと調べたら解るのに…と思う。
まあ今もし、あんな行動と「言い訳」をしたなら、差し詰め2ちゃんねるあたりで「祭」だワッショイ状態、ぼこぼこに叩かれ「メシウマ」となっただろう。そうして果ては「痛いニュース」掲載か(笑)。

事件当時、「やまだ紫先生」は「ガロ」の古参作家では唯一、俺の連れ合いであったこともあったが、「正論」を貫き通した。
「新しい出版社を興したい、そこで自由にやりたいという気持ちは解る。しかしやり方が間違っている」と。

彼女にお世話になった人間もいるのだから、今は「やまださん」に手を合わせ、お詫びの一つでも言ったらどうなのかと思う。どれだけ俺たちが傷つき被害を被ったか、彼女がどれだけ哀れな「ガロ」の末路に心を傷めていたかに、少しは思いを馳せてみたらいい。それでもまだ舌を出し、我々へ嘲笑と非礼を続けるのなら、まあ死ぬまでそうしていればいい。
裁きは誰にでも必ず、訪れます。

ある人間は、俺が「デジタルガロ」の「編集長」という肩書きが欲しいがために欲を出して失敗した、そしてそれが「ガロ」を崩壊させたのだ、と中傷した。その人が編集していたエロ本か何かに、つまり「メディア」にそう書いた。
何のことはない、その人間はクーデター組と昵懇であり、裏でつながっていて、グルというか「一体」であったことが事件後に判明した。逆にこっちが「そういうことだったのか」と思った。
その上、俺たちがその人に発注したWEBでの仕事のギャラを払わないと、自分たちで潰しにかかった会社から「債権」を取り立てようと別の人間を立てて「サルベージ屋を呼ぶぞ」と脅しまでかけてきた。
俺はまだその人間がグルだと知らず、謝って待って貰おうと話そうとしたが、当時社長だった人に「君は経営者じゃないんだからそういうことはしなくていい、逆に出ていくと面倒なことにもなるよ」と言われて、忸怩たる思いでいた。
それにしても、その人間は俺よりも先輩で年長だが「やまだ紫先生」には新人の頃から公私ともにそうとうお世話になったはずだ。せめて彼女には、心から謝罪し、赦しを請うべきだと思う。なぜなら、その人間は、温厚なやまだが珍しく相当に憤慨していた一人だからだ。
言っておくけど、あなたは、彼女に、赦されていませんでしたよ。その他の人もね。


ところで原稿を整理していくと、とにかく担当していた編集さんによって、管理が雲泥の差であることが解る。
ある媒体から返却された原画には、担当さんの丁寧な礼状が添えられており、原画はキチッと厚紙で宛て紙をし、トレーシングペーパーが綺麗にかけられていた。封筒には媒体名もちゃんと記載されていて、なおかつトレーシングペーパーには「何月号」という記入もあるので、整理する側としては非常に助かった。それに、何よりも保管状態が素晴らしくいい。
ところが別なところからのものは、封筒こそ厚紙の大型のものだが、中に乱雑に原稿を「放り込んである」状態で、しかも媒体も何も不明どころか、あまりの悪筆で担当者の名前さえ読めない。しかもそういう編集に限って、ご丁寧に原稿のネーム(フキダシの中のセリフやナレーションなど)を全て消しゴムで消してくれている。

あのね、作家が書いたネーム=鉛筆書きのセリフを、消しゴムで、消したら、絶対にいけませんよ!!

漫画家が執筆した時に書き入れた「鉛筆書き」が許可なく消されてしまったら、その作品が掲載された「媒体」が無いと、永久に「ストーリー」が解らなくなってしまう。原稿を返却されても、媒体が保存されていなければ作家でさえ一語一句再現するのは記憶頼りとなり、増して、作家が亡くなってしまったらもう「お手上げ」だ。
こんなことはあり得ない初歩中の初歩的なミスである。致命的に作品を傷付けるミスでもある。何せ、台詞やナレーションが全て「無」なわけだから、もう作品として成立しない。
掲載された媒体があれば再生させられるが、こういうトンマな編集の場合、当然のように何ら礼状もなければ、原画にトレペもかかっていない。そして何という媒体の何年何月号に掲載した、という手がかりも皆無。しかも、枚数や順番の確認もせずに原稿を放り込んだだけ、という風情である。
漫画の原稿って、世界にたった一枚しかないオリジナルなんだよオイ。

先に書いたように、漫画の原稿というものは繊細な「画稿」なので、長くDTPは不可能だった。当然ながら低解像度では印刷に耐えられずモザイクのようなガタガタの線になるし、高解像度で取り込むと、ハード面でとても採算が合わなかった。十年ちょい前で、1GbのHDDが10万円した。タイプミスではないですよ。
今ではスキャナも高解像度になったし、そのデータを保存するストレージの容量も格段に上がった。原画をいったん取り込んで、そこに直接ネームを載せていくことが出来るが、それはようやくここ十年くらいの話だ。
それまでは作家さんからいただいた「原画」にマニュアルで写植を直接貼り込むのが当たり前だった。「ガロ」時代のある作家さんは「原稿に写植を貼られたくないから」と、自分でセル(透明度が高く、薄くて強度のあるシートのこと、昔のアニメは全部これに色を塗って動かしていた)を上に貼って入稿してきたが、それは極めて特殊な例だった。
写植指定はトレーシングペーパーをかけた上からか、あるいはコピーを取ってそれに入れるのが、まあ「丁寧な仕事」と言えよう。
ちなみに「ガロ」の場合、というか俺が勤務していた頃はコピー機すら無く(出版社なのに!)、コピーは一枚いくらで会社の前のコピー屋さんに取りに行かねばならなかった。それに貧乏な会社だったのでコピーどころかトレペだって、よほどのことがない一作ごとに一枚ずつなんてとても使えなかった。
なので、「ガロ」は原画に青鉛筆(青は製版で出にくい色だ)で「指定」を入れるのが普通だった。今にして思えば、「ガロ」ならしょうがないや…と思うが、作家さん側に立てば「『版下』扱いかよ」ということになるだろう。

それにしても、彼女の原稿を整理していると、本当に幅広い媒体で仕事をして来たんだなあ…と改めて感心する。いや、敬服する。

漫画雑誌はもちろんのこと、婦人雑誌だけでなく、一般週刊誌や新聞から詩の専門誌や短歌誌まで。漫画だけではなく文章やイラストだけというものも含めれば、その多方面への活躍に、凄い才能の人だったと、失ったことが惜しまれてならない。

夜は初盆の迎え火に、昨日もつけた灯籠をつけた。
迎え火
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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