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2005-03-30(Wed)

★最近の読書★吾妻ひでお「失踪日記」

失踪日記

イースト・プレス

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 ようやく注文しておいた「失踪日記」が届いた。
 届いてすぐに読み始め、あまりの面白さにイッキに読んでしまった。最近の若い人には吾妻ひでおという漫画家がどういう位置づけなのか知らぬが、我々の世代にとっては極めて重要な漫画家さんである。(「失踪日記」には吾妻さんの漫画家としての歩み…自伝的な漫画も描かれているから、知らない人は読んでみるといい)

 本書には吾妻さんの、アル中〜漫画連載を放り出しての失踪〜ホームレス生活〜ガス配管工時代〜漫画家に復帰してから再度の禁断症状〜強制入院…という壮絶な体験が、あの軽妙な筆致で明るく「漫画で」描かれている。そのおかしさに時折爆笑を禁じえない箇所も多々あったほどだ。
 だが、最初のページで吾妻さん自身が書いておられるように、これらの逸話は全て意識的にポジティブに描かれているのだ。「リアルに描くと辛すぎるから」ということであって、現実にはそれこそ「筆舌に尽くしがたい」日々だったと思う。さらに、ご家族にとっても地獄の日々であっただろう。「アル中は精神依存から肉体依存に移行した時に不治の病となる」という一文はズシリと響いた。
 この業界、アルコール依存に陥る作家さんは非常に多い。担当の信頼を失い連載を無くし、家族さえも失う…そして失意のうちに体を壊し、早すぎる死を迎えた人もたくさんいる。創作という自己を削る作業を常に続けることが、時には逃避に、時には潤滑油に、燃料に…と酒への依存へ向わせるのだろうか。
 実は俺も、ごく近い人にアルコール依存の人がいた。その人は俺の先輩で、公私ともに本当にお世話になった人だ。手取り足取り仕事を教えてもらい、私生活でも、年齢が八つも上だったにも関わらず、親友のように家族ぐるみで付き合っていた。歌舞伎にも一緒に行った、落語にもでかけた。ライヴも見に行ったし、飲みに行った回数は数え切れない。
 彼も酒が好きな人だった。俺とて嫌いではないし、当時は若いからいくらでも飲めた。だが十年ほどしたある日、「調子悪くて医者行ったらガンマが(γ-GPT)が400あってさ、このままだと入院って言われちゃったよ」と悪びれもせずに言われた。通常の十倍近い数値だ。「このまま習慣的な飲酒を続けると、間違いなく肝炎、肝硬変ときて、肝臓癌になる」と言われたそうだ。
 けれど、彼は飲酒をやめなかった。
 そのうちしょっちゅう遅刻するようになり、仕事中に酒の匂いがするようになり、さらにはたびたび欠勤することも増えた。そうして別会社の知り合いに「○○さん、そこの公園のベンチで酒飲んでたよ」と目撃されるに至って、職場を追われるように退職していった。
 退職する直前、取材の担当だったにも関わらず会社に出てこない彼に、先輩である女性社員が電話をかけた。彼女が「酒飲んでんのか!?」と詰問すると、なんともすっとぼけた口調で「ちがいまぁ〜す」と言ったそうだ。彼女は電話のあと、その口調を真似て「ちがいまぁ〜す」と言って皆の爆笑を誘った。極限状態は、時折周囲の人間から見ると滑稽なこともある。そして間もなく、彼は会社を去った。
 日中から明らかに酒の匂いを漂わせ、ロレツはまわらず、記憶も飛び、論理的思考がうまくできずに話がかみ合わないこともしょっちゅうだった。そんな状態ではとても会社勤めはできない。

 その後ずいぶん経って…五、六年経っただろうか、突然彼から自宅に電話があった。
「久しぶり、こないだ会社時代の夢見ちゃってさ、懐かしくなってどうしてるかと思ってさ」
 電話の向こうの彼の口調は、やはりロレツが怪しかった。飲んでいるのかは怖くて聞けなかった。断酒に成功して、今は契約社員としてどこそこで働いている、と言っていたが。
 彼が酒で転落していく間、俺は友人としても同僚としても、何もしてあげることが出来なかった。それどころか、自業自得だ、堕ちるところまで堕ちないと本人には解らないと、職場のみんなで傍観していた。それが今、残念だし申し訳ない気持ちで一杯だ。あれほどお世話になり、仲良く遊んだ「親友」だったのに。酒は、本当に怖い。

 それにしても、吾妻さんはアル中状態で執筆していた頃の絵は荒れに荒れ、「どうやらもうダメらしいよ」と囁かれていたのが実際。それが、本書では全篇、往年の筆致が甦り、巻末のとり・みき氏との対談でとりさんが驚嘆しているように、ホームレス生活中に朝目が覚めたら一面雪…というパノラマシーンは感動ものだった。何より、全篇を独特のギャグで覆い尽くされているところが嬉しい。つまりは、自らの転落の過程という「極限状態」を「滑稽に見せる」こと、すなわち客観視しエンターテインメント化しているということだ。
 吾妻ひでお、完全復活である。
 もちろん、このまま断酒が続けば、の話だ。一ファンとしても、それが続くことを祈ってやまない。
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2005-03-30(Wed)

■辛いものファッショ

 最近なんでこう何でもかんでも辛くするんだろうか。
 カプサイシンに痩身効果があるとか聞いた女子高生が唐辛子を持ち歩くようになった、というニュースを目にしてもうずいぶん経つわけだが、自分たちが好きで辛くする分には勝手にやってもらえればいいので、文句はない。
 それと、最初から辛いものが普通である料理に文句を言う気はない。例えば韓国料理に多い唐辛子系のもの、キムチやチゲ鍋など。さらには中華の担々麺や、辛いのが当たり前の四川料理のものなど。こういうものに対して「辛いじゃないか!」と文句を言うのは脳がちょっとアレな人だと思うし、そもそもその料理が辛くて当たり前なので苦手なら頼まなければよろしい。100倍激辛カレーなんてものに挑戦しといて「辛くて死にそうだ」とカンカンに怒る人はおるまい。

 俺が言ってるのは、そもそも辛い味がデフォルトではないもの、日本料理に多いそうしたものにまで「最初から有無を言わせず」香辛料が入っているものに、腹が立つということだ。うどんやそばは、出汁の味を楽しむものだろう。それに最初から七味がドカッとかけてあったり、頼んでもいないのに勝手に鍋物のつけ汁に「もみじおろし」が入っていたり。
 そもそも調味料は、個人が自分の好みで、好きなだけ「調味」できるように置かれている。カラシやわさび、七味といった香辛料は繊細な味をより深めることも、台無しにすることもできる。その文字通り匙加減を、食べる人の好みで行えるように、別に盛り付けたり、客の手元に好きなだけふりかけられるように置いてあるものだろう。
 先日、連れ合いの調子が悪いのでデパートの地下で夕飯用のお惣菜を何点か買った。肉じゃがと餃子。肉じゃがを家で暖めて器によそって食べると、舌がひりひりする。見ると七味が入っていた。肉じゃがって料理には、唐辛子が入っているのが当たり前だったか? 別な店で買った餃子に醤油をつけて食べると、ラー油も使っていないのにピリピリと辛い。見ると具に唐辛子が練りこんであった。拷問に近かったが腹が減っていたので我慢して食った。もう何度もこんな経験をしている。
どん兵衛
 極めつけはカップ麺の「どん兵衛」。今(2005年冬現在)中居君が宣伝している定番のアレだが、天そばを作って食ったら粉末スープにたっぷり唐辛子が入っていた。辛くて食えねえ。宣伝では中居君がうまそうにすすっているスープには、赤い粒は一切浮かんでいない。だが作ってみたらたっぷり…というわけで、二度と買うまいと思った。貧乏性なので勿体ないと思い唐辛子の粒をよけながら食ったが、汗だの涙だの鼻汁だの、顔から変な水がたくさん出てきて往生したよ全く。ちなみに「赤いきつね」はちゃんと粉末スープと七味が別に分けてある。普通そうだろう、蕎麦屋に入って普通のそばを頼んで、最初からスープに七味がいっぱい浮いていたら店主呼びつけて叱るだろうが。

 何でそんな程度の辛さに目くじらを立てるのか、と思われるだろう。実は俺も十年くらい前までは辛いものは全然平気で、というより辛いものが大好きだった。家族がカレーを食べる時も、自分の分だけ辛みを強くしたのを別に作ってもらったほどだ。キムチもわざわざ近所の朝鮮人のアジュマが作っているのを買ってきて、白いご飯に残り汁まで垂らしてバクバク食っていたし、焼肉屋では締めにユッケジャンを食っていた。
 どういうわけだか知らないけれども、十年くらい前から舌の粘膜が弱くなり、今ではたった一粒の七味唐辛子が載っただけでひどい痛みを受けるほどになった。十年くらいの間に少しずつだったので、気がついた時には辛みに物凄く弱い人間になっていたのだった。わさびや和がらしも唐辛子ほどではないものの、それでも昔と比べると耐性が極端に悪くなっている。原因は解らない。何軒かの皮膚科や内科などにも通ったが、それぞれ言われることが違い、それぞれ結局治すこともできず原因も解らなかった。曰く「肝機能が衰えたのが皮膚に出た」曰く「歯の詰め物の金属が末端に蓄積したのでは」曰く「体質が変わったんでしょう」…いいから解決してくれ、と思ったがな〜んの解決にもならず今に至る。ま、医学なんてそんな程度のもんだが。
 とにかく舌に限らず粘膜が弱くなったのは事実で、薄曇りくらいの日でもまぶしさを感じて目がショボショボするため、度つきサングラスが欠かせなくなった。そればかりか手や足の表面の皮も薄く、赤くなった。とりわけ舌の方は困ったことに、辛いものに極端に弱くなってしまった。ほんのひとかけらの唐辛子が舌についただけで舌に痛みが走り、知らずに食べた時は激痛が走り大量の汗が出る。もちろん嚥下し舌の上から唐辛子が消えた後は何でもないし、そのほかの味覚にはむしろ敏感になったくらいで、障害はない。
 実は人間の味覚に「辛み」などない。「辛い」というのは、要するに「痛み」だそうだ。痛さに鈍感でなければ、あれほど大量の唐辛子で真っ赤になったものなどとても食えない。わさびや和からし、山椒などの辛さは唐辛子のものとは性質が違うらしく、あれほど唐辛子を好む朝鮮の人たちも、意外と性質の違うこうしたものの辛さには弱いと聞いた。自分の場合は唐辛子の「痛み」に極端に弱いらしい。

 繰り返しになるが、別に辛いものを好んで食べる人の趣味趣向には何の文句もない。辛いと知り、辛さを望んでいるわけだから、個人の自由意志による選択だ。だが世の中には辛いものを好まない(食べたくても食べられない)人もいる。その「調味」のために調味料がある。香さも香辛料によってお好みで調節できるようになっていた。それがいつの間にか、少しずつ世の中が大雑把になり、最初からブチ込んじまえ、という方向になっているような気がする。気がする、というより実感している。
 牛丼屋に入ると、若い人が信じられないくらいの七味を20振りくらいかけているのをよく見る。牛丼の上は真っ赤っ赤。別な店では定食の味噌汁に七味を大量に入れる人を見たこともある。日本料理って唐辛子がデフォルトでかかっているようなもん、あったっけ? …ともかく辛いものが苦手な人もいる、という簡単なことを忘れないで欲しいし、料理を作る側にそういうことまで考えられない大雑把な人間が増えていることが情けない気がする昨今である。
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2005-03-27(Sun)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? 補2 復刻ものが面白い

 かつての名作漫画の復刻ブーム…というか、発掘ブームが相変わらず続いていて面白い。
 特に嶋中書店では、「アイランド・コミックス」シリーズとしてコンビニ売りの廉価版からスタートし、今では同シリーズ約130タイトルに書店売りの「Special」「Select」が加わってラインナップがより充実し、そのセレクションもなかなかマニア心をくすぐるものになっている。
 こうした復刻ブームについてはチラと前に「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その6でも触れたとおり、『あえて悪い言い方をすれば「早い者勝ち」』でのタイトル争いの様相を呈している。それでいい、と思っている。
 例えばアイランド・コミックスPrimo Selectの最新刊は『サインはV!』(神保史郎作・望月あきら画)だけど、現行で読めるのは今のところ今回の嶋中書店版だけだ。
 中央公論社から98年に出た藤子不二雄Aのマンガ黒澤明時代劇『用心棒』も、このシリーズで読める。かつての名作の復刻、というと『サインはV!』のような作品をイメージしがちだけど、本のサイクルが短くなり、買おう買おうと思っていたらつい…なんて間にすぐ「品切れ」になっちまうような時代になって、このような復刻は実にありがたい。最近ではこのPrimoシリーズであの名作『T・P(タイム・パトロール)ぼん』(藤子・F・不二雄)が全5巻で復刻されたのが嬉しかった。ビッグネームの埋もれた名作もいいが、俺たちにしてみればもっとビッグネームでさえある水木しげる御大やつげ義春作品まで入っているのにも感心。自分も関連のお仕事いただいたりしたので余計ヨイショ気味(笑)だけど。
 復刻は、誰もが知っているビッグな作品という道が一つ。誰もが知っているビッグな作家のビッグな作品は現行商品で入手できる場合が多いけれど、失礼ながら「一発屋」気味の作家さんのビッグな作品は意外と見落とされていたりすることがある。
 次はビッグな作家の、知られざる名作。藤子F先生の『T・Pぼん』なんかはこれに当たるかも知れない。藤子F先生は『ドラえもん』で知らない人はいないだろうが、この作品自体は若い人は知らないだろう。だが実に面白い、今読んでも。
 さて、ビッグネームではない作家の一発当ててもいない、けれど名作と言うにふさわしい作品。ここが狙いどころだ。ここを発掘するのが一番難しいのではないか。具体的に名前や作品を挙げるとビッグじゃないとか言って失礼なのでアレですが(笑)、ここは宝の山ですぜ旦那。誰に言ってるよ俺。
 けれど、片端から復刻すりゃあいいってもんじゃない。「出版不況」シリーズでつらつらと考えてきたように、「何を今の読者に提示するか」つまり「何を読み継がれるべき作品として復刻するのか」の選定は、その版元や編集のセンスにかかっている。
『ブラック・ジャック』のような誰もが認める名作=ビッグネームのビッグな作品は、版元も質にも責任を持って出せるし、商売を考えても今の数多あるコミックと比べてもガチンコで戦えるから、途切れずに出し続けていられる。要するに言い方は悪いが「安全牌」だ。
 復刻ものを担当しているある版元さんの編集さんと話したことがあるが、実はこうした復刻もの、売上データにえらくシビアだという。作品をセレクトする場合に、安全牌作品ではないもの、つまり編集が独自にそのセンスと嗅覚で「発掘」し企画を上げ、復刻にこぎつけたようなものは、ギャンブルに近いという。そしてその結果は100%、数字で評価される。「あんまり売れなかったけど、いい仕事したよ」なんて言葉はかけられることは全くなく、「お前がいいって言うから出したら売れねぇじゃねえか、もっと売れるの見つけてこい!」だ。
 ビッグな「安全牌」を持たぬ、言ってみれば隙間を狙う版元ほど、こうした復刻の選定に命運がかかっている、というか売上の依存度・比重がかかるから、それはそれは数字にシビアなのである。
 ただ読む側からすれば、「今」この瞬間に巷に溢れている同時進行ものの漫画作品だけではなく、同時代に読むことができなかったさまざまな作品を読めるのは嬉しいこと。知らなかった名作に触れるということだけでなく、意外なところに好きな作品のルーツを発見したり、違う側面を発見したり、楽しみは多い。
 残念なのは、この復刻ものも、その「寿命」が短いことだ…。
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2005-03-21(Mon)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? 補

 「マンガマスター ―12人の日本のマンガ職人たち」の項で紹介したように、日本漫画がどんどん欧米に紹介され、アチラ側からも積極的に日本漫画を研究する人が増えている。
 俺も昔、ブラスト出版というところから「Comics Underground Japan」(Blast Books)というガロ系漫画のアンソロジーを出したことがある。原稿をセレクトしたり向こうに複製を送ったりしたのが95年ころ、本がアメリカで出版されたのが1996年だから、いくら何でもガロ系の漫画をアメリカで紹介するのは早すぎたか、と。
 その後2000年になって、先に言及した「Secret Comics Japan」(Viz Communications Inc.)を編著書としてVIZさんからやはりアメリカで出版させていただいた。
 その後、ブラジルのConrad Editraがそれらの仕事を見てコラムやインタビューの仕事をくれ、一時は日本での編集エージェントになったのだけど、向こうの経済的事情と体制の変化で解消となった。井上雄彦さんにConradの仕事でインタビューしたのは2002年頃だったか。

 ともかく、日本の漫画やアニメーション、関連してゲームなどが世界的に優れた文化、表現でありコンテンツであることはもう充分認知されている。けれども、優れた漫画やアニメがたぁぁくさん世に出て久しいこの国、他ならぬ日本の、特に政官界がそれに気付くのはずいぶん経ってからだったと思う。宮崎駿さんの作品が国際的に高い評価(『千と千尋の神隠し』が第52回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)を得て、はっきりと「これからは日本の漫画やアニメも世界にアピールできる有力なコンテンツだ」「ビジネスだ」「ひょっとして誇りうる文化かも」となってきたに過ぎないような気がするのね。
 以前から、小野耕世さんのように積極的に世界に向けて日本の漫画やアニメを紹介されていた先達はたくさんおられますが、ほとんど孤軍奮闘というか手弁当っすね。国が力を入れてバックアップするとか保護をして次代の作家を育てるとか、そういう動きは本当に鈍いし不十分だ。
 けれど、では、国なり地方自治体でもいい、要するに政や官の側が「保護」したり「後押し」するようになると、はっきり言って俺らは迷惑なことも多い。
 つまり彼らは自由な漫画やアニメというコンテンツ全てを「保護・育成」しようなどとは思わない。保護して「いいもの・悪いもの」を必ず選別する、いわばそうした「お上のお墨付き」のものとそうでないものに分かれるだろう。で、そういうお墨付き、昔よく言った「文部省推薦」のもので面白いものってあったかね? いやまあ全部がつまらないとは言わないけれど、ガロ系、例えば根本さんとかマディ上原さんとかキクチヒロノリさんとか絶対未来永劫、お墨付きは得られないし、たぶん見つかったら抹殺しようと動かれるかも知れない。
 それは冗談としても、漫画っていうのは人を数百円で笑わせたり泣かせたり感動させたり怒らせたり欲情させたり、ともかく一番手軽な大衆の娯楽だったんすよね。そういうところにお上、官憲だとかが入ってくるとロクなことにならない。だから別にお墨付きもバックアップも本当は必要ないんすよ。必要だと叫んでる人もいるのかも知らんけど、俺は迷惑。ガロ者だからかねえ。

 お上になんか評価されんでも別にかまわない、むしろほっといて欲しい。褒めなくても、世間知らずのキャリアエリートや政治家、お利巧ちゃんの学者だのが無理に理解あるところを示そうとしてか、小理屈をこねまわして漫画を褒めるのを見聞きすると、何かムカムカするのよ俺。漫画も理屈こねなきゃ読めない、不幸な人間のような気がする。
 ともかく、別に日本では漫画やアニメはほっといて、業界に任せといてくれと思う。これから漫画やアニメが世界に誇る日本の文化・表現・コンテンツ・ビジネスになる、それを国が認めバックアップしようと思ってくれるなら、最高のバックアップは「口を出さず、規制をせず、ほっといてくれること」です。
 そうしておいてさえくれれば、諸外国でもちゃんと日本漫画のいいところを理解する人たちはどんどん現れるし、増えてくる。

 最近、やまだ紫「愛のかたち」がフランスの出版社Editions PHILIPPE PICQUIERより仏語訳の刊行が決定した。かの出版社では、この作家の過去の作品を非常に高く評価し、これ以外にも複数刊行したいと話しているそうだ。
 ところが、彼女の漫画作品で日本で読めるものは何点あるのか?
 連れ合いだから言うのではない、編集者になる以前から、連れ合いとなる以前から、「性悪猫」「しんきらり」を漫画史に残る名作だと思っている。当然フランスからも高い評価を受けた、当然だと思っている。なぜ、日本ではその正当な評価をしないのか?  と思うのだ。
 お上の評価など、どうでもいい。われわれ業界や、読者の目に任せておけ…と胸をはって言いたいのに、一般の漫画ファンでも知る人は少なく、著作も弱小版元から3点、それも2点は品切れという津野裕子作品を、アメリカ人が評価する。キャリア30年を越え、新作の評価も高いやまだ紫作品を日本の版元は見殺しにし、フランス人が評価し出版する。こんな情けない状態をいつまで続けてるのだろう、そう思うと胸を張ってお上に「いいから黙って見とけ」と言ってもいられないではないか。

 出版不況でいろいろ考えてきたが、「本当に良いものを長く売る」ということは全てではないが、選択肢の一つとして確かに、ある。
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2005-03-21(Mon)

マンガマスター ―12人の日本のマンガ職人たち

マンガマスター―12人の日本のマンガ職人たち

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 えーとこういう本が出てます。出てますと言って何ですが、実はまだ未読。本家BBSの方に某ツボイ君が書き込んでくれたところによると、俺への謝辞が載っているとか。
 未読なのでアレですが、推測ではたぶんVIZ(アメリカの出版社)から出した日本の漫画アンソロジー(Secret Comics Japan)を読んでヒントを得た、ってことじゃないのかな?と。(どうでもいいがAmazon、著者表記が「Hyoe Narita (著), Satoru Fujii (著), Chikao Shiratori」となっているぞ。藤井さんは発行人、成田さんは担当編集者のイズミちゃんの当時同僚、解説や個々の作家の説明は俺=つまり編著者なのにつけたし扱いかよプンスカ)

 ティム・リーマンという著者には面識もコンタクトもないので知らないけど、確実に「SCJ」を読んでくれたのではないかと思いますね。なぜなら、もし独力で津野さんを探し掲載したとしたら、凄すぎるからです(笑)。だって取り上げた顔ぶれは津野さん以外は麻宮騎亜 CLAMP 江川達也 古屋兎丸 井上雄彦 丸尾末広 岡野玲子 桜沢エリカ 高屋未央 谷口ジロー ひろき真冬、ですよ。ガロ系ではあと丸尾さんと兎丸クンくらいだし。といっても兎丸クンてもうガロ系じゃないか。
 なので、たぶん巻末とかの参考文献のところに入ってたんじゃないすかね、「SCJ」が。
 ま、そうして日本漫画が世界へどんどん紹介される、それも「マス」のコミック以外にも目を向けられ始めたということの、端っこでのお手伝いが出来てたとすれば、本望です。
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2005-03-08(Tue)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その6

 では今の世の中、そうした理想的な、あるいは非現実的とも言われそうな考え…「本当にいいものを長く売る」ことはそれほど難しいことなのだろうか。
 自分は、当ブログ内の記事「津野裕子さんの近況」同じく「長く売れる本を長く売れ!」からずっと述べてきたように、『版元が、どんな作品を「再版」し、どんな作品を「重版未定」だの「品切れ」だのという生殺し扱いにしているかで、その版元の姿勢とレベルがわかる』、ということをもっと読者は意識して注視すべきだと思う。
 もちろん重版だけではない。版元にはその版元の「カラー」というものがある。出口の見えない出版不況の中で、例えば老舗の版元で、大手ではないが良書を長く売り継ぐことで有名なある出版社の人と数年前に話したのだが、
「うちは確かに部数は少ない、けれどもいい本を世に送り出したいと思っている。その時はバーッと売れなくても、そういった良書を求める読者は時代に関わらず必ずいるはず。だから初版は小部数から始めるが、それが無くなっら、ある種使命感みたいなもので、少ない部数ずつでもずっと再版をキチッとかけて、その本が切れてしまわないようにしてきた」
と、本当に素晴らしい話を聞いたことがある。そりゃあそんなのは理想だけどさあ…という声が業界のあちこちから聞こえてきそうではあるが、要するに、版元の姿勢の問題であり、理想を理想として持ちつつ、商売は商売として割り切るのがプロというもんだろう。大手の版元でも、純文学のような部数の出ない本をきちんと出し続けているところもある。その本単体では採算は疑問符がつくようなものだろうが、そのほかのコミックやエンタメ重視路線の本がそれをカバーしているという。やりゃあ出来る、のだ。

 問題は、その版元が営利事業たる商業出版活動を維持しつつ、それでも出版人の理想をどう具現化し続けていくのか、というところではないか。このことは、この項で何度か触れてきたように、編集者の「作家性と商業性重視の狭間でゆれ動く心」という構図そのままだ。「心ある」編集さんは、こうしたジレンマに常に悩まされて生きている(と、思いたい)。では版元はどうなのか、ということだ。
 再販価格維持を声高に叫ぶ出版人の常套句は、「出版とは単なる営利事業ではなく、文化である」ということだろう。であれば、どこでその「文化」の保護を言う出版活動をしているのか? と問われるはずだ。
 別にエロ本に比べて純文学が高尚であるとか、そんな阿呆みたいなことを言っているのではない。誤解されたくないのではっきり言っておくが、エロ本は必要なものだ。必要がなければとっくに消えている。AVしかり、成年コミックやBL、エロゲーもしかり、だ。昔俺が取材をしたあるエロ漫画家は、「自分はいかに読者を気持ちよくヌかせるかを本当に頭を絞って考えている」と言っていた。読者に何を与えるか、読者を明確に意識してプロ作家として日々精進(?)する姿は、マスターベーション、じゃなくてスタンディングオベーションものだと思った。いや本当に。
「自分は自分の好きなことを表現する。それを気に入ってくれた人だけ、お金払って読んでくれ」という同人作家=アマチュアでなければ、版元から原稿料と言うギャランティをいただいて、その雑誌なり媒体なりの意向に沿う形で最大限のパフォーマンスを発揮する。それがプロというもんだろう。その表現が純文学だろうとエロであろうと、作家の意識としては同じものだ。

 話が逸れたようだけど、そうしたプロの作家のホンモノの作品、大げさに言えば血と汗の結晶たる作品の良し悪しを決めるのはむろん読者だ。しかしその作家と読者の間をつなぐフィルタの役目を果たす、竹熊さん曰く「イタコ」のような役割を果たすのが編集者だと言える。
 ある作家に、自分が零細の版元で出していた代表作を、別の版元が好条件で版権を欲しいと言ってきた。もちろん作家にとってはいい条件だ。けれどこれまでの小さな版元には、連載当時からの義理もある。それに初版部数は少なかったけれど、その後数年間ずっと、売り切れたら小部数ずつながら必ず再版をしてくれている。つまり「私の代表作なになに」は常に市場で入手できる「原稿商品」として存在している。それを、新たな版元が「うちで出したい」と言ってきた。当然その作家は悩む。けれど自分も作家である以上、もっと多くの人に読んでもらいたいし、下世話な話経済的にも部数の差があり嬉しい話だ。それに新たな版元の編集は「この素晴らしい作品をもっと多くの人に読んでもらいたいし、これまで同様切らさないように長く売りたい」と言ってくれた。悩んだ末、これまでの版元の社長に事情を話し、頭を下げ、版権を新たな版元に移すことにした。

 本当は旧来の版元の社長は内心面白くなかったろう。自分が認めて雑誌に連載してもらい、その本がその作家の代表作として認知され、評価も高い。売上的には大手に比べれば部数は少なく、その意味で経済的貢献は作家にはできていないかも知れないが、何より自分はその作家とその作品を高く評価している、だからずっと自分のところで出し続けたかった。けれど作家さんにも生活がある。一年に2000だ2500部だという再版を続けるよりは、大手からもっといいペースで売ってもらえればその作家のためにもなるだろうし、宣伝だってもっとしてもらえるだろう。そう考えて、表面上は快く了承してくれた。

 そうして、その作家の本は別な版元から刊行されることとなった。
 けれど、結局その本は初版が売り切れると、全く再版されず、十年以上放置されたままとなっている。作家は話が違うと思ったが、そうしたことを作家側から言い出すのは意地汚いという意識もあり、ただじっと待っているだけだった。しかし自分の代表作が市場で入手できない、新たなファンからも苦情がくる。けれど「思ったより売れなかったので」といわれてしまえば返す言葉もない。だからじっと我慢を続けた。
 版元としては、その本の初版が「どれくらいで売り切れたか」が重要な判断基準となる。初版刷り部数が1万部程度の本であれば、3ヶ月以内に売切れれば当然再版を検討するに値する数だと思う。5,6千部であれば2ヶ月以内だろうか。半年以上初版が売り切れなければ、あとは返品などの在庫を売り切ったら「品切れ」状態を続けることになる。その本を次に再版するかどうかを検討するのは、それに値する何かしらの「エポック」があったときだ。
 例えばその作家の新刊が他社から出た。あるいはその作家が作家活動、芸能活動、または犯罪や事件絡みでもいいが、何かしらメディアにこれまで以上に露出する機会が増えた。あるいはその作家が死んで、再評価が高まった…そういうことでもない限り、単純に売り切れた本を機械的に再版していては、版元とて死活問題になる。本の保管コストもばかにならないことは前にも書いた通りだ。さらに、これも前に述べた通り、版元は委託制度の特性から、新刊を重視する傾向にある。本来なら重版が効率よくできる本の方がコストは低く抑えられるわけで、利益率が高いはずなのだが、先のようなエポックでもない限り、ほとんどの版元は新刊を次々に作っては委託で突っ込む方を優先してしまう傾向にある。

 さて先ほどの作家だが、新刊も出した。書評などの評判もいい。新しい読者からは「前の作品も見たい、けれど品切れで読めない」という声もたくさん寄せられるようになった。そこで意を決して、ずっと品切れで生殺し状態にされている版元に連絡をしてみた。
 久しぶりに話した担当だった編集者は、「自分も思い入れがある本だし、いい本だと思っている。でも営業がデータからみて再版は難しいと言うので…」という返事だった。

 出版業界は非常識がまかり通る業界だと前に述べた。中小零細の出版社では作家と出版契約書さえほとんど交わさない業界だったのが、大手はキチンと発行するようになったとはいえ、内容は何部刷って何%の印税を奥付の発行日より何日以内に支払う、版権はこの期間保持する…というようなことである。つまり「いついつまでに初版を売り切った場合は初版部数の何%を再版する」といったような条項はない。先の版元にしても、結局は「あなたの作品は素晴らしいからうちで長く売りたい」と言ったところで、それは単なる口約束に過ぎないのだ。「話が違う」と言ったところで、作家に返ってくる言葉は「自分の力ではなんとも…」というすまなそうな常套句だけだ。こんなケースをいくつも知っている。俺が「ガロ者」だからだろうか。

 では後世に残すべき作品を残す、という判断は誰がするのだろうか。作家は誰でも「自分の本を未来永劫出版し続けて欲しい」と願うものだろう(編集の言われるがまま、未熟な作品を必死で描いてきた人が過去の駄作を恥じて封印したい…という状況もあるが)。しかし版元側は何度も言うように営利事業でもあるわけだから、「売れなくとも出すべき本は出す」とばかり言ってもいられない。
 だが本当に、いられないのかね? 当ブログ内の記事「いしかわじゅん「あすなひろしは古い」か…」でも触れてますが、その作家が作家である「同時代」に評価をしておかないと後世の人にバカにされるよ。読者がいかに評価していても、肝心の本が版元から「絶版」「品切れ」では、その版元は全く作品の評価を正しくできない間抜けな版元の謗りを免れないと思うのだが。その残す・残さないの判断は確かに難しい。物凄く難しい。でもそれをやるのが出版のプロすなわち版元ではないのだろうか、と思うのだ。

 近年、コミックの世界でも復刻ブームが起きており、その多くは廉価なコンビニ売りの本だったり、文庫だったりしている。(個人的には漫画の文庫サイズは縮小しすぎで読めたものではないと思う)この復刻の世界では、かつて出していた版元のライバル会社からの復刻だったり、さほど規模の大きくない版元が版権を漁っていたりと、あえて悪い言い方をすれば「早い者勝ち」だったり「無法地帯」化している。大手の版元も、かつて自社から大量に売った作品を文庫化したり、体裁を変えて愛蔵版や選集などにしたりという動きももちろんあるのだけど、そこに見られる構図はまだまだ「かつて売れていた本」をまた出す、という発想だ。
 かつてのように読者のニーズが細分化しておらず、コミックも少年漫画なら少年漫画の、少女漫画なら少女漫画の「王道」主体だった時代から、今は大きく変わっている。大手は相変わらず「昔の名前で出ています」を重視する傾向にあり、復刻ブームで本当にシノギを削っている版元たちは埋もれた名作を掘り起こすべく、血眼になっている。
 最近は復刊ドットコムコミックパークといった動きもネットでは活発になってきてはいる。前者は従来の出版物としての形で、後者は本という形ではあるがオンデマンドとして、名作を復活させようという動きだ。だがやはり見ていると、どうしても商売は商売。前者は読者からの要望が多い順から復刊という形が主だから、やはりかつて「マス」だったものが中心だ。これは大手の従来の復刊スタイルとバッティングしているから、さほど目新しい動きとは言えない。ある意味大手のリサーチ不足・もっと言えば認識不足部分をネットを通じた読者のリアルな声に頼っているか、という方法論の違いでしかない。後者コミックパークの方は、大手が従来の形での再版というスタイルで復刊するまでにはニーズが少ないと見たものを、高くても本当に欲しいという人へオンデマンドで提供するというスタイルだから、やはり大手の従来型復刊スタイルの一段階小さな例に過ぎないだろう。

 では、発表当時から「マス」ではなかったけれども名作、つまり知る人ぞ知る=誰も知らぬ「名作」はどうするのか? このままではいつまで経っても新しい時代の読者の目に触れる機会はないではないか。例えばガロ系でいうと、かつてのガロ系作家の名作を小部数でかたちを変えて復刊しようとしているのは青林工藝舎くらいであり(これは発端と手段はともかく、かつてのガロの連中がクーデターで別会社を興し、その資産で生き延びようとしているのだから当たり前)、大手はそこに任せとけ、という格好だ。工藝舎ファミリーであるマガジンファイブやソフトマジック(両社とも、クーデター事件で現工藝舎に加担した企業である;マガジンファイブはかつてのエロ劇画誌の編集プロダクション、ソフトマジックはクーデター以前にガロを退職していた元編集者の会社で、クーデター組シンパ)からは、「三流エロ劇画」の復刻もなされていて、こうした動きは確かに評価できるものと言える。なぜなら、それらが後世に残すべき名作であるかどうかはともかく、このような動きがなければ永遠に読むことのできなくなる可能性があるものだからだ。

 これまで世に出た全ての作品が何らかのかたちで残り、それをいつでも後の時代の人が触れられる、そんな時代がいつ来るのか。国立国会図書館では建前上、全ての書籍、ほとんどの雑誌が見られることになっているが、ボコボコの穴だらけだ。特にサブカルチャーやエロの世界はボロボロである。こうしたところに残すべき名作などない、という決め付けの元にそうしているのか、あるいはそんなもんまで集めて保管してられっかよ、ということなのか、あるいはその両方なのかは知らん。

 もう十五年以上前、国内の主だった出版物(コミック雑誌も含め)を電子化して保存しよう、という動きが通産省(当時)の音頭で、情報・家電メーカーや主だった版元などを交えた団体で検討されたことがあった。なぜか当時俺のいた「ガロ」も保存すべきコンテンツに入れられたので(選定担当者の中にガロ者がいたのだろう)、俺が神保町のある建物での会議にのこのこ出かけた。当時は技術的にスキャンしてデータ保存するスキルがハード・ソフト共に物凄く脆弱だったので、いつの間にかお上の肝いりとしてのプロジェクトは立ち消えになったと思う。俺、その時に話を聞いていて、「あらあら」と思ったことが多々あったものだが、何度目からかお呼びがかからなくなったのでそのままこちらも関心が薄れていった。その後、「電子出版コンソーシアム」として、そのプロジェクトは業界団体側が主体となって動いたようだが、そのマヌケぶり…専用閲覧機器のお粗末さ、街頭で専用端末からいちいちダウンロードするという不便さ、コンテンツの魅力の無さその他のトホホな理由満載でお笑いとなってしまったのは知る人も多いだろう。

 現在では、電子出版といったら、漫画なら例えばpdfファイル化してネットからダウンロードさせるとか、フラッシュで読ませるとか、ネット回線がここまで速くなればこちらの方が当たり前だろう。持ち運べるデータ量も飛躍的に大きくなったし、いちいち専用の高い端末を買わされて電車の中で見るより、ノートPCやPDAなどで普通にブラウザから読めたりした方がいいに決まっている。
 この、電子化というところに、先の「これまで世に出た全ての作品が何らかのかたちで残り、それをいつでも後の時代の人が触れられる」可能性があるだろう。テキストなら挿絵などを除けばデータ量も少なくて済むし、閲覧端末やソフトの幅もぐっと拡がる。写真やコミックは、かつてはデータ量の問題でかなり間引く=解像度を下げてデータ量を抑えなくてはならなかったが、今ならかなりの高画質での配信が可能だろう。あとは違法コピーの問題だけをクリアすれば…というところに来ている。
 紙媒体、つまり本という形での「名作を長く残す」ことは、大手の版元でも最近諦めかけているように見える。先の話で、編集者は作家に「今後、データという形での本の再版ではお力になれるかも知れませんが…」と述べたそうだ。データ化された作品の版権は、現行の出版形態と違うわけだから、業界での慣例通り「どこから出そうが作家の自由」という格好になるのだろうか。というか理屈でも法的にもそのはずなので、実はここでも優良な作品の仁義無き奪い合いが、もう数年前から始まっている。
 結局同じことが言えるわけだけれど、本当にいい作品、残すべき作品をここでもちゃんと見極めてデータ化するかどうか。恐らくそんなことは行われない。「マス」で一定の売上があった、つまり「安全パイ」からそれは行われ、しかもそれは資本のある大手から先にであり、結局は今の復刊の構図と同じ格好になろう。というかなっている。

 当ブログ内の記事「いしかわじゅん「あすなひろしは古い」か…」がきっかけで、あすなひろし追悼公式サイトを主宰しているたかはし@梅丘さんとあすな作品の感想をやりとりする機会が先日あった。
 あすなさんが亡くなってもう4年ほど経つが、(株)エンターブレインから『青い空を,白い雲がかけてった』『いつも春のよう』が復刻されたのは嬉しい限り。たかはしさんはあすな作品の選集を自費出版のかたちで作られ、現在は7集まで刊行されている(上記サイトから通販可能、1巻は品切れ?)。
 こうした出版のかたちは、商業的に言えば厳しいだろう。委託というシステムにはもちろん、全国の書店に広く、一定期間とはいえ露出させられるという利点もある。けれど自費出版というかたちでは取次は通せないから、こうしたネットやイベントなど、あるいは一部の直販可能な書店などで販売するしかない。幸い今はネットでの出版物の流通がかなり進んできているのだけど、やはりまだまだ「本は書店で買うもの」なのだ。
 例えばAmazonなどが、こうした本を積極的に販売するようにしてはくれないものだろうか。ネット書店は在庫を常に大量に持つというリスクを負わずに済む。Amazonは本を売りたい人は声をかけてくれ、と募集をしているのだが、はっきり言って建前に過ぎず、いいものだからぜひ売りましょう! なんて姿勢は微塵もない。個人が復刻や自費出版したものなどろくな審査もされずに門前払いである。イチャモンつけてるわけじゃないよ。俺も実際ケンもホロロにあしらわれたことがあるので断言します。商売の論理しか、今の不況にあえぐ出版業界には、ない。
(続くかも)
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2005-03-07(Mon)

吾妻ひでお公式サイトがOPEN

失踪日記

イースト・プレス

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吾妻ひでお公式サイト
 まだまだコンテンツは未整備ながら、公式サイトが出来たのは嬉しいことですね。
 吾妻先生といえば自分にとってはやはり「ふたりと五人」だったりするわけですが、20年以上前、高校生の時に上京して兄の部屋に泊まった際、部屋にあった漫画類を読んでいて、吾妻作品ではじめて「あの絵柄で」女の子の陰毛を見ました。ストーリーは不条理な「夢」のような話で、普通の漫画ぽい展開ではなかったんですが、吾妻先生のあの絵柄での女の子の陰毛描写にえらく衝撃を受けたのを憶えています。
 当時はロリータコミックス黎明期で、「レモンピープル」やポルノとしてはエロ劇画から脱皮しつつある「漫画ブリッコ」などがせいぜいでしたが、吾妻先生の作品が掲載されていたあの本何だったかなあ。どなたかご存知だったら教えてください。
 …ともかく、エロ劇画が前からここでも述べているように二次元の女の劇画化、という意味で現在の二次オタ向けのもとは全くベクトルが違うんだけど、吾妻先生の絵柄は当時「ロリコン漫画」と一括してくくられ呼ばれていたものでした。ええと、内山亜紀(野口正之)などと同様に。なので「そういう絵柄」=「ロリぷに系」でエロティックな描写がある場合は当然「ワレメ」(笑)であり、陰毛が描写されることはあり得ず、ショックを受けた覚えがあるという意味です。
「失踪日記」もこれから入手するところですが(だからまだ読んでいない)、吾妻ひでおという作家が今のオタク的世界、というか今のオタクにコンテンツを「与える世代」に与えた影響は計り知れないものがあります。今現在の吾妻ひでおを知らぬオタクは、知らず知らずのうちに吾妻ひでおに影響を受けた世代に影響を受けているわけなのだから。
 今後の吾妻先生に大いに注目したいです。
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2005-03-05(Sat)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その5

 我々の出版業界で、編集者が本当に自分がいいと思う本、心からその本の出版を採算を度外視しても望む本、というものを送り出すことはどれくらいあるだろうか。商業出版の中では「採算を度外視」した時点で失格だ。本当に自分がいいと思っても、世間一般の読者がどう思うかを考えられなくては、やはり失格だろう。
 編集者はとことん理屈で動く生き物だと思っている。もちろん感性も必要だろうけれども。よく業界外の人から聞く「編集のお仕事」というイメージは、原稿の催促や作家と会って原稿を貰ったり付き合いで飲んだり、あとは雑然とした職場でたくさんの紙類と格闘していたりパソコンに向ってよく解らない作業をしていたり、意味は不明だがしょっちゅう徹夜している…という図だろうか。
「原稿の催促や原稿の受け渡し」以外は、その内容の独自性…紙類は版下だったり企画書だったり手書き原稿だったりゲラ校正だったりするし、PC画面で見ているのはDTPデータだったり作家やライターさんからのメールだったり…を除けば一般のサラリーマンのお仕事の場面とあまり変わらないと思う。

 実は編集のお仕事で外から見えない部分で大切なところは、企画力と、管理能力だったりする。企画力というのはもちろん新しい企画、それは書籍ならズバリ売れる本の企画だし、雑誌なら部数を上げる目玉企画から読者コーナーの小さな企画までだったり、要するに常に「新しい何か」を考えている。もちろん考えただけではダメで、それを実現させるための作法=企画書作りや企画会議に臨んだりということも含めてのことだ。
 もう一つの管理能力というのは、編集者の仕事の中ではかなり大きなウェイトを占める部分でもある。自分が考えた企画が通り予算がつく、つまりGOがかかった瞬間から、暫定的に決めたスケジュールに向って企画は動き始める。スケジュールに沿って作家には原稿を依頼し、デザイナにはレイアウトや版下締め切りを伝え、製版や印刷にも指示をする。印刷や製本にはあらかじめ「機械取り」といって機械を開けておいて貰わないと本が出来ないから、ある程度の目安がたったらキッカリとスケジュールをフィクスして、各方面にそれを伝える。発売日から逆算して搬入日、見本が出来る日、下版(最終データを印刷に入れる)日、ゲラ校正の締切、版下の締切、原稿の締切などをスケジュール表に書き込んで把握しておく。最近はエクセルなどで表を作って管理する人も多い。要するに、一つの本を作るに当たって、編集は著者である作家以外のさまざまな人と付き合い、工程を把握してスケジュールを管理していくわけだ。
 昔、連れ合いではあるが業界でも漫画家としても大先輩であるやまだ紫を、自分が講師をしている学校に呼んだことがある。生徒たちからの質疑応答になって、一人が「やまだ先生から見て、良い編集者とはどんな人だと思いますか」という微笑ましい質問が出た。やまだはホンの少しだけ考えて、「いい編集さんというのは結局『いい人間』だと思いますね」と答えた。
 別な機会(年度)に、某メジャーレディスコミック誌の編集長をしていたY氏を招いたことがあった。やはり生徒(別人)から同じ質問が出たのだが、Y氏の回答もやまだの発言とほとんど同じだったのが印象的だった。
 編集は作家以外にもさまざまな人たちと仕事をする。ライター、イラストレーター、カメラマン、デザイナー、製版・印刷業者などなど。それらを一つの仕事の中で結びつけて、それぞれのスケジュールを把握し、最終的に一つの仕事として完結させていく。当然人間関係が円滑に進められなければ、そこかしこから軋みが生じて、その仕事は完結させられても、次の仕事に支障が出たりもするだろう。結局一人の「いい人間」であろうとすることが、「いい編集者」であろうとすることにつながるという、含蓄のある回答だ。
 結局、編集者って、無から有を生み出すことの出来る「作家」ではない。作家があって初めて成り立つのが、編集者だ。だから自分は一貫して作家へは尊敬の念を持って接するようにしている。まあ自分が編集生活をスタートさせた当時の「ガロ」は原稿料が出せなかったので、余計にへりくだる必要があったのも事実だけど。ともかく相手が年下だろうが年長だろうが、男性だろうが女性だろうが、作品のレベルが良かろうが悪かろうが、作家は作家、俺は編集。これはキッチリとわきまえていたつもりだった。
 もちろん、もう40年以上も前から、編集が企画を立て、著者はその企画に見合う者を立て、出版まで逐一編集が主導して意図的にベストセラーを作り出そうという手法はあった(例:神吉晴夫@光文社による「創作出版」という概念)。それにマス・コミックの世界ではそうした意識はもはや疑いようのない「常識」でもある。
 けれど、青臭い理想論と言われようが、やっぱり何度もここで書いているように、編集者はその作家がその作家でしか表現できぬことを表現させてあげたい、しかし自分というフィルタを通した向こう側にはたくさんの読者がいる。多くの読者にそれが受け入れて貰えればいいが、往々にして作家性を重視すれば読者の数は限られる。このジレンマは常につきまとうものだった。

「編集家」である竹熊健太郎さんのサイト「たけくまメモ」の記事「共犯者」としての編集者では、このBLOG内でも触れたように、編集者と一般社会との関係をうまく表現されている。詳しくはそちらを参照していただきたいが、かねがね自分が思ってきたことを実に的確な喩えでスパッと言い当てておられ、感心しきりだった。
 出版業界は、ここまで書いてきたように、業界外から見ればかなり特殊な世界だ。取次と書店の間の取引関係は、通常は契約金を書店が支払って、普通の業種と同様な関係が開始される。けれど版元と取次の関係はどうかというと、そこは長く業界でもタブー視されてきているように、極めて特殊で閉鎖的な環境であると言える。
 あなたが、もし出版社を始めようと思ったら、販路のほとんどを握っている取次と口座を開かねばならない。直販オンリー、あるいは手売りなどでない限り、この取次ルート(書店・CVSでの販売)を抜きに商業出版は成り立たない。では「これから出版社をやります! よろしく!」つってすぐに取次と取引が開始できるかといったら、そうはいかない。出版計画すなわち事業計画や、これまでの実績、キャッシュフローその他、さまざまな「審査」を受けなければならないのだ。もちろん、その審査は取次の一方的な基準と判断による。文句があるんなら別にうちは取引しなくてもいいよ、と言われたら販路の85%を失うだけだから、版元側は言われるがままとなる。大手二社のうちどちらか片方しか通らぬ、という場合もあるにはあるが、大手二社が何とか通れば、残りの中小以下の取次もほぼ追従する。この際の取引条件も、ほぼ取次の言うがままである。雑誌の掛けがいくつ、書籍はいくつ。雑誌の委託がいくつで注文はいくつ。同じく書籍はこうこう…と、「扱い」によって細かく変わる。それは版元によって千差万別なのは以前書いた通り。
 こうしたことは業界外からは全く見えぬ、いや業界内部でも他者のことはほとんど不明な部分だ。そして取次の力がこのように強大なだけに、業界でタブー視されている、という構図がある。
 出版業界の特殊性は、こうした流通上のこと(上記以外にも、た〜くさんあるよ)ばかりではない。よく言われるように、編集者に用事がある場合は、午後に連絡するのが普通だ。竹熊さんも書いているが、午前中は大概やり手の編集ほど死んでいる。前の晩遅かったり徹夜明けだったり作家と付き合いで朝まで飲んでたりするからだ。もっとも大手のサラリーマン化した編集者はキッチリ9時-5時なんて人もいるのかも知れないが、それはよほど自分の仕事がベルトコンベア的なのか、ルーティンワークしかないのか、外注でほとんどが編プロ任せなのか、スチャラカ社員なだけなのか、電話番ぐらいしか仕事を任されていない新人か縁故採用の阿呆(以下略)。
 通常の商取引では当たり前である、自分の労働に対する対価、つまり報酬も事前に伝えない編集(というか版元)も信じられないことに存在する。印税というのは、一般の読者にとっては不労所得みたいなイメージがあるだろうが、とんでもないことだ。そもそも印税がいくらなのか、キッカリ「出版契約書」みたいなものを交わすようになったのはついこの間から。大手版元はさすがに契約書を出すが、そもそも印税額の算定の大元になる「刷り部数」すら、直前でコロコロ変わったりする。(印税額だって、業界内の慣例では定価×刷り部数×10%だけど、版元によって変わる場合もある。文庫だと初版8%で再版から10%、とか初版10%だが半年ごとの分割払いとか、売れっ子作家だと初版12%なのに新人だと7%スタートとか、いい加減にしろ、つうぐらいひどい)
 自分の労働の対価も分からずに仕事をする馬鹿って他の業界でいるか? 給料制で事務所にいくらピンハネされてるのか知らぬ芸能人じゃあるまいし、出版業界というのはここらへんもいまだに非常識がまかり通っている。

 さてとりあえず、ここでは一般社会人と比べてあまり違和感のない「サラリーマン編集者」のことはとりあえず置いといて、「普通の編集者」の話をしよう。竹熊さんの記事へのコメントにも書いたけれど、「ガロ」で何年目かに、それまで担当していた先輩の退職に伴い、「特殊漫画家」根本敬さんの担当をすることになった。根本さんがどんな作家かというのは、公式サイト=「因果鉄道の旅とマンガ」を見ればホンのちょっとは理解できるかも知れない。
 ともかく、根本さんの原稿は毎月、締め切りを過ぎてから描き始めるというくらい遅かった。当時の原稿遅延作家では東の正横綱が根本さんで、西の横綱が評論家の上野昂志さんだった(ちなみに両方とも俺が担当編集者)。上野さんの文字原稿は手伝えないけれど、根本さんの漫画原稿なら手伝って早く上げてもらうことはできる。自分は漫画家になろうと思っていたくらいなので、枠線引き、消しゴムかけやベタ塗りなどはお手の物だったから、「もう限界です」という連絡をした上で、仕事場まで手伝いによく出かけたものだった。
 原稿を徹夜で取りに行ってる時は、根本さんお得意のポンチャック(韓国のチープな電子スチャラカサウンド)や「裸のラリーズ」(伝説のノイズバンド)がグワングワンかかる職場で、それはもうここでは金輪際書けないような話をさんざんしながら原稿を手伝った。クソやゲロやチンコやマンコなんかまだ生ぬるい当たり前の話で、昭和天皇の顔に●●をかける原稿(ガロ連載作「タケオの世界」)やら死体漫画(単行本「豚小屋発犬小屋行き」など)までを一緒に作った。
 そのサバトのような異空間から上がった原稿を持ってお礼を言い、すぐさま出るわけだけど、作家さんはそこでベッドに倒れこむことはできても、編集はそこからが本職だ。異空間から一歩外に出ればそこはごく普通の日常であり、澄ましたOLや学生、サラリーマンらに混じって手にはぐっちゃんぐっちゃんの漫画原稿を抱えながら電車やバスに乗り、会社へ戻り、スクリーントーンを指定されたところへ貼り、(根本作品はネーム=フキダシ文字が手書きだったから)ノンブル(頁数を打った写植)を貼って製版に入れ、印刷屋さんと段取りをやりとりしたりしていた。当然その間にも書店から注文の電話が来れば受け答えをし、お客が来れば対応し、返品が来れば階段を駆け下りて積み下ろしをするという、この「振幅の幅」というものは当時恐らく日本一だったのではないかと自負している。…これって全然「普通の編集者」じゃないかな。でもリーマン以外の編集者は「そうそう!」と共感を持って読んでくれてると思うよ。

 この「振幅」、竹熊さんは「この世とあの世の境界に立たねばならないのが編集の勤め」と表現されているが、まさしくその通り。もっと言わせてもらえば、世の多くのサラリーマン化した編集のダメなところは、この覚悟が出来ていないところ、あるいはこの意識さえ自分にないところだと思う。変に「ギョーカイ人」を気取った人種、初対面なのに「なになにちゃ〜ん」と呼ぶような連中はサラリーマン編集にたまにいるが(いや、本当にいるんですよ皆さん)、幸い自分が付き合った同業の編集さんたちは、実にこの「振幅」のバランスの取れた人たちが多かったように思う。もっとも大手のサラリーマン編集とはほとんど接点がなかったせいもあるが。(大手のサラリーマン編集が全てダメダメだとは断言してませんよ、念のため。素晴らしい人たちもたくさんおられます)
 この「振幅」を理解し自分でどうバランスを取るか、取れるか、が無意識にしろ意識的にしろ、そのまま編集者としての仕事の幅にもつながっていくと思う。「マス」のコミックにも名作はたくさんあり、極細の作品にだって、漫画史に刻まれるべき名作がたくさんある。多くの人に知られているか・いないか、はその作品そのものの評価ではないと思いたいが、世の中なかなかそう言い切れない部分もあろう。例えばあるメジャー漫画誌編集者は「売れない作品は、存在しないと同じ」と平気でおっしゃっておられた。

 大量に売れるということは、やはりそれなりの理由がある。コミックだけではなく「マス」のもの全てを一律に語ることが出来ないのは言うまでもないことだ。ただ、オタクの発生(笑)からもう30年が経過し、情報もこれだけ氾濫し価値観も多様化、ニーズも細分化されてしまった今、「不特定多数の人たち」に一律に受け入れられるものって、何だろう? と考えてしまうのだ。
 自分がよく話す喩えに、こんなことがある。映画ファンがいる。昔はその「映画ファン」向けに雑誌を作ることができた。それが邦画・洋画、さらに邦画でも例えば特撮映画、その中でも円谷、その中でもウルトラシリーズ、その中のセブン、そうしてセブンの中のアンヌ隊員萌え〜! になったのが「今」だ。まあそこまで極端じゃなくても、ピンポイントで狭いコアなファン向けにディープな本を提示するスタイルはもう当たり前となっている。いっぽうで、みんなと同じものを見、聞き、話題にしたいという人たちもたーくさん存在している。つまり「不特定多数」であるマスメディア信奉者とオタクとに二分化されたコンテンツが増えてきているような気がするわけだ。
 ただややこしいのは、コンテンツそのものの問題もある。今話題なのは韓流ブームだけど、大分類としての「韓流ファン」は韓国映画やドラマ、俳優関連のものは盲目的に蒐集し飛びつきつつ、「私は中でもイ・ビョンホン」「私はヨン様」などとアンヌ隊員萌え的、オタク的な対象も持っていたりもする。「マス」メディアが送り出すコンテンツはJ−POPにしても芸人ブームにしても韓流にしても、玉石混交には違いない。その中のどれくらいがホンモノで、息長く残る「玉」なのかを見極めるのは難しいだろうな、と思う。「少年ジャンプ」は間違いなくコミックの中の「マス」だけど、その掲載作の中だって当たり・外れはあるわけだ。もっとも「ヨン様ぁぁ〜!」と悲鳴を上げて追っかけをしているオバハンにはそんなことはどうでもいいことだろうが。

 つらつらと結論の出ないことを書き連ねてきて恐縮だけど、では現在のこの「出版不況」の中で、業界側にいる人間としてはどうしたらいいのだろうか、ということがいかに結論の出ぬ袋小路であることがお解かりだろう。
(まだまだ続く?)
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2005-03-04(Fri)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その4

 作り手側である、編集者からよく自省を込めて「書店さんにも目を通してもらって、棚に並べてもらえるような魅力ある本創りをしなければいけない」という意見もよく聞く。
 ただ、「新刊委託・パターン配本の弊害」と敢えて言うが、書店の現場ではいちいち配本されてきた新刊全てに目を通すような余裕は、物理的にない。自分が編集をしながら営業にも出かけていた頃、仲良くなった書店の担当さんと喫茶店で世間話をしたりすることもあった。業界に入る前からの友人で書店員になった奴もいた。さらに今では教え子がなぜか編集者ではなく書店に就職したりもしている。
 実際に見聞したことから言わせてもらうと、中規模くらいの書店で一日に送られてくる新刊の点数は数十点、時期や書店の規模によってはもっと多いこともあったそうだ。それらを熟読し、「これはいい本だ、いい場所へ置こう!」「これはマニア向けかな、一冊棚挿しして残りは返品かな」なんてより分けをしていたら、それだけで業務は終了。というか業務時間内に読み切ることはほぼ不可能。物凄い速さで速読する読書法があったけど、アレ書店さんにはいいかも。良くないか。どうなのか。って誰に聞いてる俺。

 …よって、書店さんではあらかじめ予定していた能動的な注文品を黙々と仕分けしてそれぞれの棚や平台に並べ、在庫は棚の下の引き出しへ収納したり、保管庫へ台車で持ってったり。聞いたことのない本、だいたい委託で入ってくる本だけど、そういうのはこれまた粛々と返品の箱へ詰め替える。ついでに店頭でダブついている商品(もちろん本)も詰める。これらの作業を手早くこなさないと、開店に間に合わないし、売り場の掃除もあるし、フェアなんかやってたらその設定もあるし、POPも書く場合もあるだろうし、電球が切れたところを替えないとならないし、売れ筋の商品の補充の電話などもある。…って最後のがメインか。
 編集のことしか知らない、いややらせてもらえない(?)大手の編集さんは、こうした営業の最先端であるところの「書店の現場」をもっと見るべきだと思う。そこには出版人の理想なんて通用せぬ、市場の論理があるだけだ。俺とて、ここでは「いい本を長く売れ」と言いたいがためにこういう現状を敢えて包み隠さず業界外に伝えている。けれど、よく言われるように作家性と商業性みたいなものの間で常に編集者はグラグラと揺れているものだ。「ガロ」にいた自分でさえ、そうだった。そういうことまで考えて本を作っている人がほとんどだと思うし思いたいわけだけど、有無を言わせぬ市場原理主義の現場を知る・知らないでは、大きく考え方も違ってくるのじゃないか。
 だいたい取次さんにもよるが、「返品率」というのは書籍4割雑誌3割だ。つまり平均とはいえ、作った本のうちこれだけが売れずに版元へ戻されるということになる。そこから先は廃棄されるか改装されてまた市場へ行くか、それまで保管されるか。それらが版元の事情、市場の動静と複雑に絡み合って、本の末路は決まるのだ。

 自分は出版社に入って間もない頃、当時の青林堂社長であり、俺の師でもあった故・長井勝一翁に「本の墓場」に連れていかれた。といってもある日突然、「明日の朝断裁立会いに行くから、志村三丁目の駅に来てくれよ」と言われただけであるが。長井さんという人はだいたいが唐突な人ではあったが(俺が「ガロ」でアルバイトをすることになった時も、「明日から来てくれよ」だった)、「断裁の立会い」の詳しい説明は無かった。「明日来ればわかるよ」とだけ言われた。
 当時の俺は都営三田線の西台というところにある高層団地に、連れ合いであるやまだ紫と、小学生の子ども二人と同居していた。志村三丁目はその西台から上りで二つ目のところにある駅である。従って朝は久しぶりにゆっくり出られるので、嬉しかったのを憶えている。

 9時半より少し前に改札を出ると、駅の高架下にある改札を出たところに小柄な長井さんがポツンと立っていた。俺が階段を下りて行くと「おう、ご苦労さん」と声をかけられて、俺が「おはようございます」と応えるとすぐに、長井さんは歩き始めた。「ダンサイの立会いとは何か」を聞くまでもなく、長井さんは歩きながら説明をしてくれた。
 これから我々が向うのは、取次である東販(当時。現トーハン)さんの雑誌の返品が集積されるところであること。「断裁」とは返品を廃棄処分にする行為のこと。自分たちはその返品の数を確認し、断裁処理される場に立会って確認をすること。その立会いは毎月一度行われることなので、今後は近いところに住む俺にやって貰う、ということ。
 長井さんは独特のしゃがれ声と江戸弁で(といっても出身は実は塩竈市であるが)、駅から10分足らずのところにある東販の板橋雑誌集積所までの道すがら、これらの説明をしてくれた。
 この雑誌の「断裁」であるが、この場はあくまでも断裁処理をするところであって、雑誌をその場で廃棄するところではない。トーハンが扱う版元の雑誌の返品は、全国の書店から回収されて(管轄の支店から集積された分)いったんここへ集められる。体育館ほどの大きさの倉庫のような天井の高いスペースに、ところ狭しと雑誌の結束が積み上げられたパレットがあちこちにおかれている。結束は「ジャンプ」のような厚い雑誌は15とか20冊、「ガロ」のような薄めなら20〜25冊。たまにイレギュラーもあったが、まあそんな束のことを結束=けっそくと呼ぶ。
 戻ってきた雑誌の版元の人間は、決められた日(取次から「何日、立会いお願いします」と電話がかかってくる)に赴き、伝票と返品数を確認し、その後の処理は版元の判断に任せられる。だから契約したトラックに全ての返品を積み込んで会社や自社の倉庫に運んでもいいのだが、もちろん雑誌のバックナンバーをそんなに大量に保管しても、コストに見合う需要はないことが多い。だから、多くはその場で「断裁」処理をして、契約している古紙回収業者のトラックに載せるまで立ち会って終わり…ということになるわけだ。
 さてその「断裁」処理であるが、これは文字通り「雑誌の一部を切り取って流通できなくすること」だ。
 ここではまず大量の返品雑誌=「ガロ」だったら大体20部程度の結束がパレットの上に積んである場所へ行く。しかし雑誌の束は前に本シリーズで説明したような特殊な積み方をしてあるし、両側に別な会社の雑誌の山があったりするので、数えやすいようにトーハンの職員にフォークリフトで通路まで運んでもらう。余談だがこのフォークリフトは電動の小型のもので、実に素早い動きをするし、彼らのハンドルさばきは見事なものだった。電動ゆえに「フィーン」とか軽い音しかしないから、狭い通路をけっこうなスピードで何台ものフォークがあちこちを移動していたのでよく「ピッピッ」とかクラクションを鳴らされたりしたものだ。
 さてそうしてフォークで雑誌の山が載ったパレットを、全体が見えるような位置に移動してもらったら、あらかじめ手渡された返品伝票を手に、時には何段も積んである結束を下ろしたりしながら、数をあたっていく。何月号が何冊、何月号が何冊…、と素早くあたらないと、職員がイライラしてくるのが目に見える。だからといっていい加減にやると「こいつはいい加減だな」とバレてナメられる、というプレッシャーもある。その中で数を合わせ確認し終え、こちらの「じゃ、お願いします」で、運送屋の職員が結束をベルトコンベアにどんどん放り込んでいくことになる。
 このベルトコンベアは通常のものと違って、V字型になっている。したがってそこへ結束を乗せると、その結束はどこかの角が必ず下=V字の底にあたるように運ばれるわけだ。そしてその先には円盤型のノコギリが高速回転しており、結束が到達すると「チュイーン!」という音と共に、雑誌の角がイッキに削られていく。角が見事に削られた結束は、別の職員によってトラックの荷台に放られる。
 荷台にいる職員は結束を受け取ると、隙間なくギッシリと荷台に詰め込んでいく。もう本当に見事としか言いようのないくらい、トラックの荷台はギッチギチに雑誌の束で埋められていくのだが、当然足でガンガンと踏んで慣らしたりもするから、もはやそれは「本」ではないのだな、という光景である。そしてそれら荷台にギッシリと詰まれた雑誌いや元雑誌の束は、古紙に再利用される旅に出る…という流れだ。
 つまりここは雑誌の墓場、であるわけなのだ。

 ところでなぜいちいち雑誌結束の角を削り取らないとならないかというと、信用していないわけではないが、引き取った業者がゾッキ本に流したり、古書店へ勝手に売り払ったりできないためである。版元側は運送料と処理代を払って引き取ってもらっているわけで、さらにそれらを安くとはいえ転売されたのでは踏んだり蹴ったりだ。なので、二度と商品として流通できぬよう、本の角を切り取るわけだ。
 よく街にあるゾッキ本店(昔は神保町界隈にもたくさんあった)や古書店なんかへ行くと、エロ本に多いがよく本の底や上部に赤いマジックの線がついたものが、安く売られていることがあるのをご存知だろうか。(って知ってる人はス・ケ・ベ♥)あれは別に違法なものではなく、版元側が「廃棄処分にした」という「しるし」を、「ガロ」のように切り取る断裁処理ではなく、赤いマジックによって、言ってみれば「簡易断裁」をしたものだ。つまりいったん返品や売れ残りを確信犯的に簡単な断裁処理を行って、ゾッキや古書店に安く卸したものである。ま、捨てるより多少なりとも利益になれば、ということだ。
 この赤マジック簡易断裁、我々もよくやった。といっても、ゾッキに出すのではなく、赤いスプレーを買ってきて、会社の下の路上に返品を並べてガーッと一気に線を引いてしまうのだ。つまりややこしいが返品はトーハンのように集積場へ集められるものばかりではない、からである。会社に来た返品は、V字ベルトコンベア&丸型高速回転ノコギリなんかないから、自分らで断裁処理をするよりないわけだから。

 話が逸れたがふつう、こうした立会いには、新人や使いぱしりが行かされるのかも知れない。でも俺は長井さんに初めて連れられてこの作業を覚えてから、以後ほぼ退職するまでずっと立会いに行っていた。確か毎月の立会いは、あの『室内』と同じ日だった。何回目かになるとこちらにも余裕が出てきて、周囲を見渡すようになる。すると、どの雑誌が毎月どれくらい返ってきているかが大体解る。もちろん週刊誌などは月一回じゃないし、発行部数の多い雑誌も複数回の場合があるそうだけど、自分たちと同じような規模の雑誌のパレットを見つけては「今月は多いな」とか、何気なく観察するのもけっこう面白かった。ルーティンワークもボーッとしているか、意識的にこなすかだと思う。
 バックナンバーの需要が比較的多い雑誌だったとはいえ、せいぜい結束の綺麗なのを一、二本取って「これは会社の方へお願いします」と分けたもの以外、毎号数百部という単位で雑誌が「死んでいく」のを見るは憂鬱だった。もともと「ガロ」は搬入部数もさほど多くなかったのでその数で済んではいたけれど。
 しかし、この立会いは編集者にとっては精神的にあまり気持ちのいいものではなかったのは事実。自分らが毎号四苦八苦して作り、天塩にかけて送り出した雑誌が、毎号返品されてくる。それを目の前で、他ならぬ編集者である自分が最後を見届ける。再利用で資源がどうとか感傷的になるとかいうより、何か殺伐とした気分にさせられた。

 もうこの場所も変わったようで、版元にいない自分は今どうなっているかは知らない。けれど、編集者はこの現場を一度は見ておくべきだと思う。
(この項つづく)
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2005-03-04(Fri)

たけくまメモ「共犯者」としての編集者

「共犯者」としての編集者
「編集者」という職業をうまい表現で的確に表してますね。コメントもさせてもらいました。元「QJ」の赤田祐一さんとは神保町時代に何度かお会いしたことがありますが、我々同士の会話というのはごく普通のヘンシューさん同士の会話だったと思います。
 ギョーカイ的には「ガロ」の編集者っていうとクセがあって偏屈そうでゲージュツ気取りの鼻持ちならないヤツ、と思われていたフシもありますが、同じようなサブカル世界にいた編集同士はむしろシンパシーを感じ合っていた、と俺は思ってます。
 今記述中の「出版不況」は自分のごくごく個人的な感想と分析(?)で、ジャナ専で教えている「流通現場論」での資料なども参考にしつつ、業界外の人にもこの出版業界というある意味特殊な世界をちょっとでも理解してもらえるように書いているつもりですが、資料がどうこうより、具体的な会話や同業者との逸話などの方がやっぱり臨場感があって面白い。参考になります(笑)。
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2005-03-03(Thu)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その3

 コンビニエンスストア=CVSの本を卸しているのも、実は取次と言われる会社だ。この取次(出版取次業)さん、版元から読者へのルート(販路)のうち、85%程度を担っている。言い方を変えれば、版元にとっては自社本の販路の85%は取次経由--書店/取次経由--CVSだから、とてつもなく大きな存在ということになる。
 この取次は大手から零細まで合わせても、たった40数社しか存在しない。そのうち、「大手」といったら2社しかない。日本出版販売株式会社・通称日販、株式会社トーハン(旧・東京出版販売株式会社)、この二つだ。昔から業界では「ニットーハン」とか「トーニッパン」とか、この二つを併せ呼ぶことイコール「取次さん」ということになったほどである。
 日本の出版流通には独特の二つのシステムがある。一つは再販価格制度、もう一つはこの取次へ版元が本を卸す際の特殊な委託制度だ。再販価格制度については、簡単に言うと、製造者である版元が、取次+書店に商品=出版物を卸す=販売する、そして取次+書店が消費者つまり読者に出版物を販売する=再度販売=再販する際の価格を、「定価で拘束できる」ということ。
 そもそも日本は自由主義経済国家なので、物の価格は売り手と買い手との間の交渉で決まる。当たり前だ。そうは言ってもまあ全ての商品を買う際にいちいち交渉するわけにもいかないので、製造者は「これくらいで売りたい」「これくらいで買って欲しい」というメーカー希望小売価格とか標準価格とかを一応提示しておいて、あとは小売店の判断で市場価格が決まる。消費者に人気がある商品はそれなりの価格に、人気が無くなれば小売店の判断で叩き売りされる。それをメーカーがブランドイメージが下がるからといって「勝手に安売りすんな!」と圧力をかけたりすると、独禁法違反となって、公取委から警告を受ける。毎年のようにこれをやられてるのが、あの『某大手化粧品会社』ですな。
 この自由価格・自由競争ではなく、『定価販売』が認められている、つまり再販価格の適用が認められている数少ない業種が出版というわけだ。だから、版元は出版物に「定価」表示をすることができる。もっとも現在の再販制度は、1980年に公取委の指導により実施された「新再販」のことを言う。この話は長くなるのでアレだけど、公取委は「出版も他の業種のように企業努力をして自由競争すべき」、つまり適用除外を常に言ってきており、出版業界側は「本は文化。他の消費物のようにどっぷりと商業主義・資本主義の論理で競争をさせてはその文化が廃れる」と主張して対立してきた。(ちなみに数年前、公取委は「だったら国民に聞いてみようじゃん!」とアンケートを大々的に行ったが、98%だったかの再販制存続支持という結果に惨敗、決着がついてしまった)
 ちなみに出版物のほかには新聞、CDといったメディア関連商品や医薬品・安価な化粧品の一部に、独禁法で禁じられている再販制の適用が「例外として」認められている。CDは新譜を買うと、帯の裏、隅っこに小さく「(再)00年0月00日まで」なんて書いてあると思うが、これは時限再販といって、そこに提示された日までは定価で販売価格を拘束できるという意味。メディア関連商品、表現や著作権が絡むものというのは一定期間保護しようという意味あいがある。
 さて問題はもう一つの「特殊な委託制度」だ。
 版元から本を取次に卸す。こう書くと単純に取次は卸業者、物流業者的な意味で業界外の人は認識していると思うけれども、出版取次会社はそんな単純な企業ではない。版元にとって取次は販売代行業者であり、書店にとっては仕入代行業者という意味もある。商品=本だけではなくお金の流れも全て代行してくれるし、いつどこで何がどのようにどれくらい売れ、どれくらい返品されたか、というデータも細かく保有している。裏を返せば、版元にとってはそれらの「データを握られている」ことにもなる。さらに書店にとっても新規開業の際の研修や教育もしてくれるし、フェアなどのイベントの提案や実施などの企画、新商品の開発その他さまざまな相談相手でもある。
 もし取次が存在しなければ、版元は全国津々浦々の書店に商品を個別に配送し、それらの売上や返品を回収したり、大変な手間を背負い込むことになる。そして取次への「委託」というシステムが利用できなくなれば、書店からの能動的な「注文」でしか本を発送できないから、勢い売上部数も落ちるだろう。何より全国同時発売さえ難しくなる。最近ではネットでの販売や、年間予約を取って自宅へ直接宅配するような雑誌もいくつか出てきてはいるものの、やはり日本人にとって本は書店(もしくはCVS)で手にとってチラチラと読んでから買いたいものの一つだ。
 全国の書店に発売日に一斉に新刊が陳列されるのは不思議、とたまに業界外の人から聞くことがある。これが「委託」特に新刊委託のシステムによるものだ。出版物の販売ルートは直販や大学生協、キヨスク扱いなどさまざまであるが、中でも取次ルートが最大であると述べた。この、出版物が販売される際に版元と取次、取次と小売書店との間に交わされる販売契約は、大きく分けて
 「委託扱い」  「受注(注文)扱い」 そして前に述べた再販制による「定価販売」
の三つの約束事がある。
 この「委託扱い」が非常に特殊なのが出版業界なのだ。
 委託扱いには常備や長期といった一般の人には理解しにくいものもあるが、まあほぼ委託といったら「新刊委託」だと思ってもらっていい。版元と取次の関係というものは外部には非常に不透明で、取引条件(マージン比率)などは企業秘密に近いから、外部の人はなかなか業界内でも個別の版元のことを知ることは難しい。また委託(出版社が取次を通して小売書店に新刊-と重版の一部-の販売を委託すること)期間については
●書籍の場合=通常取次と小売書店の間は105日、取次と版元との間では6ヶ月となっている。
 この期間であれば、書店は取次へ、取次は版元へいつでも返品ができるわけである。
●雑誌の場合=取次ぎと書店の間は月刊誌が60日、週刊誌が45日、取次と版元の間では月刊誌が90日、週刊誌は三号目の発行時に精算される。
という目安はあるが、これらも取次と版元との力関係などで微妙に変わることも多い。
 よく言われる書店から取次経由で版元に返される「返本」は、原則としてこの委託扱いで送本された商品が返ってくることを指す。
 ちなみに、版元が取次に商品である出版物を卸す際の扱いはこの委託のほかに「注文扱い」「買切扱い」などもあり、それらは原則として返品はできない(抜け道はある)。
 さて新刊委託の際、版元は事前に取次の仕入れ部(雑誌仕入れ/書籍仕入れ/コミック仕入れなど)と協議をして、委託で搬入する部数を決める。これを我々は「部決」と呼んでいる。(部決にはもう一つ意味があって、版元内で本の刷り部数を決定することもこう呼ぶからややこしい)部決で各取次に新刊をどれくらい委託で搬入するかを決めたら、「搬入日」に新刊を取次へ納品する。部数や季節(お盆や年末年始、GWなど)で微妙に変わるが、この搬入は通常発売日の以前、だいたい平日中二〜三日置いて行うのが普通。
 つまり、新刊が出来上がったら取次に決められた部数を搬入日に納品する。それを取次は発売日までに、全国の支店・営業所を通じて契約傘下の書店へ行き渡らせる。今は運輸事情も良くなったので、かなりの僻地でもこれで発売日に同時に新刊が並ぶ、というわけだ。
 この際、「全国の書店へ行き渡らせる」際だが、取次はこれまでの売上データを元に、「この書店ではこれくらい」「ここはこれくらい」というふうに部数を割り振って、全国にバラ撒くわけだが、この配本方式を「パターン配本」と呼ぶのだ。このパターン、もちろんA社という版元があればA社以外には極秘である。もっと言えば、このパターンは取次さんは精度が高い、自信があると公式コメントはするが、かなり怪しいのも事実。
 例えば、Xという作家の新刊「@@@」が版元A社から出ることになった。
 版元Aは新刊見本を持ち(あるいは企画書段階の場合もある)、取次に部決に向う。
 取次はそこでPC端末をはじき、過去の作家Xの売上データや、場合によっては類書データなども参考にして、部決をする。(版元側はなるべくたくさん取ってもらってとにかく店頭に並べてもらいたいが、取次としては返品率を増やしたくはないので、委託部数は抑える傾向にある。)
 部決した新刊「@@@」を全国の契約書店へ配本する際、取次は書店の規模、立地、過去の類書の実績などから作成したパターンによって、どの書店へは何冊、どの書店へは何冊、という配本部数を決めていく。
 こういう流れだ。このパターンが正確であれば、あるいは精度が高いのであれば、返品は極力抑えられるはず。だがこれは建前であり、現実に返品率は書籍・雑誌共に近年増加傾向にあり、歯止めがかからない。現在では書籍が平均40%前後、雑誌は30%が返品されてくるという状況なのだ。
 このパターン配本の例で、何かが抜け落ちているのにお気づきだろうか? そう、「書店の意志」だ。書店は普通、新刊「@@@」が出るということは取次からの情報誌や版元からの新刊案内などで知る。そして自分のところに置きたい部数を事前に取次あるいは版元に直接注文を入れる。この前注文はもちろん新刊委託ではないから、扱いは「注文扱い」となり、返品は原則として不可能。売れ残れば自分の判断ミスとなり、版元にいちいち了解を取って返品の許可を得ねば返品できないこととなる。つまり自業自得であるが、問題は発売日に入ってくる本には、この書店が能動的に発注した「注文扱い」分と、取次がパターン配本で送ってくる「委託扱い」の2種類があるということだ。
 本は「委託用」「注文用」で色分けされていたり、帯が違ったりするわけではない。それに委託は取次がパターンで決めているもので、書店側はいったい「@@@」が何部入ってくるのかは解らない。発売日にフタを開けてみないと、現実には送本されてきた段ボール箱を開封して「@@@」の数を数えて初めて(伝票も見るけど)、自分の店に何部納品されてきたかが解るのだ。この委託と注文の配分というか兼ね合いを書店員は予想して、昔はよく思惑通りに部数を一致させるのが快感だったという話を、知り合いの書店経営者から聞いたことがある。「やった、ウチの店では45部は売り切る自信があった、事前注文30、委託で15、バッチリだぜ!」とか。
 長々と説明をしたけど、「特殊な委託」はこのことだけではない。通常他の業種で委託販売といえば、製造者が小売店なりに交渉して商品をいくつか置いてもらい、〆日を決めて、売れた分の代金を受け取り、委託を継続する場合には商品を補充したり…という形態だろう。だが出版の場合は、委託で本を搬入した段階で、売上が帳簿上は計上されてしまう。まだ売れていないのに、だ。もちろん、そのために委託(返品可能)期間があり、それらが相殺されていくわけだけど。
 この「売上」という数字が欲しいので、版元はとにかく新刊を作って委託で搬入し続ける必要がある。これがよく言われる版元の自転車操業だ。自転車は漕ぐのをやめると倒れる。つまり新刊を搬入しないでいると、返品として返ってくる分を売上から引かれていく一方だ。というか支払いの義務が生じてしまう。だから新刊を作らねばならない。少々乱暴な本でもとにかく作って委託でブチ込む。そうすりゃとりあえず相殺するための売上という数字が立つ。
 こうした姿勢が、先に述べた「粗製濫造」の一因になっているという指摘は昔からよくある通り。
(この項続く)
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2005-03-02(Wed)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その2

 寡占化の激しい出版業界では総売上高から案出する一社平均の売上額、発行点数などは意味をなさない。同様に資本金額や従業員数などの規模をならして平均しても意味がない。出版社の大手と非大手では何もかも、あまりに差がありすぎるからだ。つまり、出版業界、そのうち特に版元はごく一部の大手と、残り数千の零細の全く二つに分類されるということになる。これをごく一部の大手出版社による寡占状態、と言う。
 ではどれくらいの寡占状況かというと、数年前のデータで出版社全体の売上高は2兆4千億円ほどだが、

・法人所得上位10社で売り上げの市場占有率(シェア)が約40%
     上位20社で                約50%
     上位50社で                約70%      なのである!

 ということは、単純計算で業界全体約4500社全ての売り上げ高約2兆4千億円のうち、実に1兆6800億円を上位50社でたたき出していることになる。残った7200億円を4350社で分け合っているということは、1社当たり実にたった1億6600万円。当然上位100社まではもっと多いだろうから、それ以下の会社の売り上げは想像に難くない。つまりは、そういうことだ。
 こうした数字にはほとんどの人がピンと来ないかも知れないが、同年の日産自動車一社の売上高が約3兆円、トヨタになると約8兆円。パチンコ業界は数年前に10兆円市場と言われていたのが、現在では30兆円を越え、一説によると40兆とも50兆とも言われている。広告業界は6兆円だ(ちなみにその45%を5つの大手広告代理店が占有)。

 さらに新刊出版点数は1982年に年間30000点を突破。その後15年で倍以上(62000点)へと増加した。一年間に今では7万点を越える新刊が出版されているのですぜ旦那!? しかし一点あたりの平均発行部数は年々減少しており、2001年にはついに一点あたり2万部を割り込んだ。これはどういうことだろうか? つまり、前の項でお伝えしたような、タイトル数が増えてはいるものの、小部数で寿命の短い、いわば「Hit&Away」つまり「出して、その時売ったら終わり」というものが増えていることも事実だ。簡単に言えば粗製濫造というわけですな。

 こうした粗製濫造の例としてはいくつかパターンがある。
●企画力の低下=安易な「パクリ」本(売れた企画があれば恥も外聞もなく追従する)
●内容、質の低下=タレント本(安易にネームバリューだけで選び内容を問わない)
●出版理念の低下=一時のブーム本(長く良書を売ろうという気概がない)
 などなどが考えられるだろう。
 むろん、点数あたりの刷り部数の減少は、このような粗製濫造だけが原因ではない。例えばよく言われるように、若者の好みが「タコツボ化」「ディープ化」したと言われるようになった80年代以降は特に、一部のサブカルチャーやオタク本関連などは最初からその筋のオタク・マニアを選んでディープな本を出すから、当然数百万部のベストセラーを最初から狙っているわけではない。少ないコアなマニアにきっちり行き渡らせればそれでいいわけだ。とにかく、こうした傾向はしっかりと頭に入れておくことが必要だと思う。

 いっぽう販売チャンネルである書店はというと、96年にはじめて廃業店舗数が新規出店数を上回り、以後その傾向が続いている。日本から書店が減り続けているのだ。けれど、そのことは単純に消費者=読者の「書店離れ」と言いきれない側面もある。
 1991年の新規出店数536に対し新規書店の坪数は平均57.1。けれど96年には平均坪数が87.8坪と増加している。つまり、街に古くからあった零細の個人営業の小さな書店が廃業し、大型・特にメガ書店と言われる1000坪越クラスの大型書店の出店が目立ちはじめたのが、やはり96年だからだ。
 もちろん従来の個人経営の小書店が廃業していく背景には後継者不足などの理由もあろうが、やはりコンビニエンスストアの伸長も見逃せない。というより、それがもっとも大きな原因だろうと思う。
 かつて、本や雑誌(いわゆる出版物)は出版社によって作られ、取次を中心とする流通ルートを通して書店に送られ、購入される(出版社→取次→書店→読者)のメインルートが一般的で、1945年代には出版物の90〜95%を受け持っていた。つまり「本は書店で買うもの」であり、それが当たり前であった。しかし、このメインルートのシェアが1960年代から低下し始め、現在では70%前後である。流通ルートが変化し、現在では本は書店以外でも買えることが当たり前となっている。

 そうした書店以外の販売チャンネルで、近年伸張著しいのがコンビニエンス・ストア(以下CVS)というわけだ。流通ルート別の構成比推移(%)(1995年→2000年)を見てみると、書店が68.2%から65.4%に減少したのに比べ、CVSは15.9%から19.5%に増加している。その他のチャンネル…例えば大学生協や鉄道弘済会=キヨスクその他のルートはほぼ横ばいなので、書店の減少分をCVSが奪っているという構図が見える。
 けれど大型書店ではなく、ダメージを直撃されているのは零細書店だ。なぜなら、CVSで売られる「出版物」はほとんどが雑誌(扱い)だ。CVSの主力商品は何かというと、おにぎりや弁当、そして雑誌である。CVSの出版物の取り扱い比は週刊誌・雑誌が96%、文庫・新書などが4%で断然雑誌中心だ。皆さんも週刊誌やマンガなら、CVSで立ち読みするか、弁当のついでに買うかするだろう。わざわざ書店へ赴いて週刊誌を買い(立ち読みに対しても書店の方が厳しいし)弁当や茶は別に買う、という人はあまりおるまい。
 このCVSの影響を最も受けているのが小書店なのである。実は20坪以下の中小の個人経営の書店の主力商品は、やはりこうした雑誌やコミック(ほとんどが雑誌扱い)である。売上構成比で50-70%を占めている。つまり、同様の商品を主力にするCVSが増え続けていることによる打撃は甚大なものがある。CVSが近くにできると大きな打撃を受け、廃業に追い込まれる書店もある。
 このように今日の書店業界は、大変厳しい。書店の大型化やCVSの影響で中小書店や町の本屋さんは廃業に追い込まれる。

 そしてCVS全体での雑誌の売上額は数年前に5000億円を超えた。出版業界全体での「雑誌扱い」の売上額が概算で1兆6000億円とすると、CVSは全雑誌の約30%を販売していることになる。いいですかお客さん。日本では全雑誌の流通量の3分の1をCVSが販売しているのですよ!
 ちなみに1996年にはCVS最大手であるセブンイレブンが、出版物の売上1300億円を突破し、書店のトップ紀伊国屋書店チェーンの1104億円を約200億円も上回ったことは大きな話題となった。ほとんどが雑誌の売上である7-11に対して紀伊国屋の方はもちろん、書籍も合わせた合計だ。しかしこのことで、日本一の書店は何とセブンイレブンだ、ということになったのである。
(この項つづく)
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2005-03-02(Wed)

「出版不況」--細く長〜く…ではダメか?

 今日は新宿へ出て旧知の友人と某社の編集さんと飲む予定だったのだが、先方が急に出られなくなって延期になってしまった。今学校は春休みだし、幸いガチガチのスケジュールも明けつつあるので問題なし。
 何の話で飲むのか、というのは企業秘密なので置いといて、やっぱり最近の漫画業界、に限らず出版不況に絡む話もせねばならなかったろう。
 つい先日もある作家と話をしていて、近年の「昔の漫画の復刻ブーム」の話題になった。お互い、いい作品は古びないわけで、それが証拠に復刻された漫画は今の読者に新鮮に受け入れられているものも多い。もちろん的を外れた…というようなものもあるにはあるものの、復刻するくらいなら小部数でもいいから出し続けておいてくれりゃあいいじゃん、という話。
 ただ、一応版元側にいた人間としては、そういう理想論的なことだけを主張するわけにはいかないということもある。ビンボで零細の会社だったとはいえ、だからこそ、「紙の注文から営業まで」出版社で行う業務は経理の一部も含めて全て、実際にこの手で行ってきて見えたこともたくさんある。やらなかったのは財務など「経営」に関する部分くらいだろうな、本当に。

 版元側が出した本を全て継続して「現行商品」として保有し続けられない理由は、もちろん複雑でたくさんの理由があるけども、その一つに、「物理的な保管スペースの問題とそれに伴うコスト」の問題があるのは事実。本はかさばる。当時俺がいた青林堂の主力単行本は、A5版で11折〜12折くらい(176〜192頁程度)の本が多く、カバー(PP)がけしてある本は、20冊が一梱包になっていた。その梱包を5つ、調子のいい時には6つ・つまり120冊くらいをヨイショで床から重ねて持ち上げ、狭い階段を昇り降りしたものだ。よく腰をやらなかったな、と今では思う。(おかげで一年足らずでもともと逞しかった肉体は筋肉隆々になった、誰も俺を編集者だとは思わなかっただろう)
 それらの本は、重さもさることながら、積み重ねると数千冊の新刊はかなりのスペースを占有する。本は単純に同じ方向に梱包を積み重ねていくと、どこか一方からの力で簡単に崩れるから、我々はいつも部数に応じて積み方を変えて倉庫に収めた。

 例えば保管しておく本が1000冊くらいなら、20冊梱包を「5積み」といって、図のように積み重ねていく。一段で100冊になるから、10段重ねれば終わり。2000冊なら7積みにしたりする。床…というかパレットというすのこ板を敷いた部分にスペースが足りない場合は、2000冊でも5積みにして20段重ねることもある。けっこうな高さになるが、こうした積み方でキッチリ積めばビクともしない。(他にも3積みや16積み、24積みなどたくさんのバリエーションがある…図参照)

 そうして我々編集部員…というか社員は、毎日朝から晩まで新刊や返品(返品は同じタイトルが一結束になっているわけではなく、バラバラの本がヒモで15〜20冊くらいの結束になっていることも多い)を外に出したり社内に運び込んだり、狭い階段や廊下に積んでおいたり、そして一週間に一度くらいは倉庫へ行ってトラック一台分の「商品」を会社への補充のために積み出したり、その度に倉庫の本を積みなおしたり…、と本当に力仕事の合間に編集をやるようなものだった。
 まあ、そんな編集は大会社には一人たりともおるまい。出版社は四千数百あれど、その売上のほとんどは上位百社がガバリと取って、残りカスをその他の零細版元が奪い合う状況だ。小さな版元は営業(対取次、対書店、対読者全て)も出荷や返本処理や在庫管理も、全て編集が兼業しなければならない。よって本というかさばる、重たい「商品」を常にまとまって扱わざるを得ないのである。

 話が逸れた。ともかく、本は初版を刷ったらそれが取次への新刊委託&書店からの事前注文でハケてくれれば、あとは返本が返ってきたら改装(カバーをかけ替えたり、ヤスリで汚れを落としたり)して出荷するか、在庫分を残して思い切って断裁(廃棄)するかは版元の裁量次第だ。いっときのブームや先発企画に乗ったり、旬のタレントや時の人の本をその最大瞬間風速時に売り切れば良いとする「Hit&Away」本は、ほとんど在庫として持つことをせず、廃棄されることも多い。そんなものを保管しておいて長く売るよりも、次の話題に飛びついた方がいいからだ。
 でも、これは貧乏で小さな版元にいて実感したことなので断言するけれど、版元にとっての財産は、そうした最大瞬間風速以外は全く売れないものよりも、時代やブームに無関係に長く売れる「良書」だ。俺がいた当時の「ガロ」を出していた青林堂は、初版がせいぜい5000部程度、それを半年から一年かけて売り切る。そうしたら2000〜2500部程度の再版をし、それをずっと何年もきっちりと継続して廻していく。こうした本が数十アイテム揃うと、それらの「計算できる売上」はその会社を安定させてくれるのだ。
 また実際にネクタイ締めて背広を着て、皆で沿線を割り振って書店営業にも行った立場として、これも断言するが、そういう「長く売れるいい本」を出す版元は、書店からも一定の評価を得るので、書店での棚もきっちりと確保できる。というか、書店員にファンが多くて、会社の規模よりも遥かに優遇していただいた経験がある。

 つまり、いい本を長く売る。細く長くでもいい、そうした良書をたくさん出す。そう方向転換しただけで、大儲けこそ出来ないものの、堅実で息の長い出版が可能だった。
 今はこのBLOGでも書いたように、「マス」のメディアで取り上げられればガーッと売れる、それ以外は小粒になる傾向にある(一点あたりの初版発行部数はピーク時から半減している)から、「細く長く」の「細く」は本当に極細になってしまった。
(この項続く)
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2005-03-01(Tue)

ネットで確定申告!

 去年から、国税庁確定申告ページで確定申告書を作成して税務署に送付することで申告を済ませるようにした。数年前までは会計士さんに任せて、一人あたり数万円払って申告をしてもらっていた。五年前くらいからは自分で行うようになり、税務署まで書類一式を持って出向き、並んで特設テントに入ってレクチャーしてもらいつつ申告していた。一昨年からはネットで申告書を作成できると知り、やれ嬉しやと作成途中で各種控除の申告の仕方で解らないところがあったので、結局出力した申告書と書類などを板橋税務署に持参して申告した。わざわざ出向いての申告は結局移動も含めて労力と時間を取られるのが不満だった。んで去年はようやく全て出力でき、医療控除のために取っておいた明細をエクセルで表にし、レシートと合わせて申告書に同封して郵送で提出。数週間後無事還付金も振り込まれ、その簡便さに「いや〜いい時代になったなあ」と感激した。
 今年も「そろそろやっか」と取っておいた源泉徴収票をまとめてサイトへアクセス。
 …何だかおかしい。いくら数字を入力しても、還付金額確認へ行けず、「所得税の定額減税額を入れろ」という画面が。ムムムム、また何か変わったのかよ畜生! と思ってよくよく調べたら、年末調整が終わった人の申告画面と格闘していた。終わってねえわ俺。
 さっそく入り口を変えて、給与所得と雑収入の人用=黄色いアイコンから申告書を作成。サクサクと進んで、pdfをダウンロードして印刷、ハンコついて源泉徴収票を「第二票」の裏へはっつけて終わり。医療控除の明細はエクセルで作成済、領収書もしっかり仕分けしてあるから、あとはそれらをまとめて税務署へ郵送すれば終わり。
 いやー楽チン楽チン、一歩も外へ出ずに確定申告完了。こんなに楽なんだから何でみんなやらないのかな。ていうか俺の収入が少ない&単純だから簡単なのか、そうなのか。
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2005-03-01(Tue)

中津川一家5人殺害 飼い犬2匹も殺す?

中津川一家5人殺害 飼い犬2匹も殺す?
【朝日新聞Asahi.Com 03/01 00:54】


 岐阜県中津川市で一家5人が殺され、2人が大けがをした事件の原平容疑者(57)が、7人を殺傷する前に飼い犬2匹も殺していたのでは、という疑惑が浮上したという。
 2匹(シェパード・メス)の死体は同市坂下の椛(はな)の湖畔で27日午前11時半ごろに見つかったが、この現場はは原容疑者の勤務先である老人保健施設の近くで犬の訓練に使っていた場所だという。間違いないだろうな。それにしても犬まで殺すとは…。
 この事件、最初に容疑者の名前を聞いた時、ある年齢以上の人で往年のクイズ番組でのあのセリフ「…に3000点」が浮かんで思わずニヤリとした人も多かっただろう。俺もその一人だ。いや不謹慎とか言われてもインプリントされちゃってるからしょうがない。しかし事件の詳細がまだまだ不明、ディテールが判明する都度報道されてきているが、だんだんとニヤリとしているどころではない「イヤ〜な感じ」が漂ってくる。わざわざ自宅まで連れてきておいて、幼い孫二人まで「絞殺」した異常さ、さらに今回の愛犬2匹まで事前に「始末」していたという周到さ。
 何がはらたいらいや原平容疑者をそうさせたのか、本人が自殺を図りいまだ重体という状況なので全く理解不能。
 しかし理解不能、という事件が多いですな…
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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