2005-09-26(Mon)

退院しました

9月26日(月)
夕べはベルリンマラソン、野口みずきがブッちぎりでアジア記録樹立…を見て、9時過ぎに担当ナースのFさんが退院後のマグラックスとイソジンを持ってきてくれる。マグラックスというのは便が固くならないようにというので貰ったもので、癌治療とは直接は関係ない。抗癌剤投与後に免疫抑制が起きた場合、便が固くて肛門が切れたりするとそこから黴菌に感染したりする恐れがあったので、こちらからお願いして処方してもらっていたもの。退院後もいつ抗癌治療が開始されるか解らないので、継続服用というわけ。
その後消灯するも、1時間ほど寝られず。夕方にはいったん収まりかけた風も、夜中じゅうビョオビョオと吹き荒れていた。4時頃ナースの見回りのドアの開閉で起こされた後、5時過ぎまで寝られず、やっと寝られたと思ったら6時起床。早朝の東京は台風一過で青空にうす曇りのいい天気。これから一週間ほどはいい天気が続くという。治療せぬままの不安を抱えた退院ではあるが、気持ち的にはまさしく今朝の天気のように、晴れ晴れとしつつもうす曇…という感じか。自分の病気と精神的にも向き合う時間がたっぷりあり、勉強する時間もあった。その心の余裕を持てるようになったのはやはりこの病室のいい環境のせい。病棟の看護婦さんたちも先生がたも誠実でいい対応をしていただいたと思う。下の病棟で複数人の相部屋だったらとてもこうまで快適だったなどとはいえなかっただろう。ナースコールのキンコンカンコンは個室にいてもドア越しにしょっちゅう聞こえる。それがリンパ節摘出で外科病棟に入院していた時は、とにかく周囲の騒音がモロ聞こえだったし、何より廊下をバタバタと行き来する足音、バイタル時のワゴンの騒音もこんなもんじゃなかった。まるで一瞬たりとも寝るな、気を緩めるなと言われているようだった、病人なのに。
それよりも入院患者にとって最大の敵は、健常者だ。無神経な見舞い客の騒音は最大のストレスで、たとえば外科の二人部屋にいた時は、隣の男子高校生のところに毎日ばかでかい靴音を立ててコギャル(死語)が「来たぞ〜!」みたいにこれまたバカデカい声で見舞いに訪れ、声はデカい、「カゼひいちゃてさぁ〜」とゲヘガハと咳はしている、こっちは免疫低下中だってのに殺す気かよと思った。3時頃来て「今日はぁ〜、8時までいられるよー」と聞こえた時はいっそ、窓から飛び降りようかと思ったよ。病院へは風邪やインフルエンザや結核の人は見舞いに来ないで下さい。お願いします。あと地声のデカい人はマスクを七枚重ねて話すようにしてください、お願いです。ていうか病院というところは、病気で具合の悪い人が、休んでいる、ところで、ある、という当たり前の認識すら持てない◎●な人は、見舞いには金輪際来ないで下さいね。
実は個室にいた俺とて、隣の患者さんのところに来る妻と子供の騒音は大変な苦痛で、ドアと壁で仕切られているからまだ我慢できたようなものだ、もしあれが相部屋だったら発狂していただろう。小さい子供が大声で騒ぐのは、時と場合と常識を知らぬからだ。子供とはそういうものだ、ならばなぜ周囲の大人はキチンとそれを注意できないのだろうかと思う。注意してあげるのは結局のちのち恥をかかぬようにするための躾であり、つまりはその子のためだ。その子のためを思う周囲の大人、つまり親が躾を行う最大の存在だろう。俺は他人だからそのガキが大人になっても病院へ風邪なのに来ては彼氏とデカい声でイチャつくような見事なバカになろうが、知ったことではない。だから看護婦さんにそれとなく注意しただけだった。まあそういう親に限って、正論を言われると逆ギレしたりするんだよな。ああ面倒くさい…というわけで。とにかく概ね快適であった40日を過ごしたこの個室とも、今日でさようなら。ちょっと名残惜しい感じさえした。
退院の支度、荷物まとめは昨日完璧に終えていたので、あとはこのノートパソコンと、冷蔵庫の中身くらいなもの。パソコンにしてもバッテリー駆動でマウスももうしまってあるから、本体のみである。
朝食を完食後、8時半過ぎに研修医のSクンが様子を見に来る。今日は忙しい日なのでバタバタしているが、後で主治医のS先生も来るはず、とのこと。月曜なので病棟も外来もきっと忙しいのだろうな。これからは外来で様子を見るが、悪化するにしても、非常に稀ながら自然寛解するにしても、どちらにしても数ヶ月という単位ではなく、何年という付き合いになると思う、とのこと。その間不便ながら、白血球値が通常の三分の一程度に下がっているから、感染にはじゅうぶん注意してください、ということ。実は、もっとも怖いのは「病院の外来」である。内科外来は内臓関係の疾患が多いし、こう言っては何だがお年寄りも多い、俺と免疫力的にはどっこいどっこいだろう。ではどこかというと、病院の外来では小児科がもっとも恐ろしいのだ。幼児があそこに来るのは熱だ風邪だというのが一番多いし、また風邪や病気だけでなく、汚いものも平気で触ってるだろうから何の菌を持っているか知れない。とにかく小さい子には近づかないようにしなければ(笑)。季節は乾燥した冬、場所は閉鎖された空間、そこに幼児がびっしり…という状況が最悪です。
着替えも終えてMLBを見ていると10時半頃、Yちゃんから「今(自宅)マンション前に着いたからこれから行く」とメール。連れ合いを拾って来てくれるので1時間ほどかかかるなと思ってると、あのファンキーなナース(ノートPCの電源の件)が来て、退院会計が出たと用紙をくれた。見ると58万いくら。巨大な58万円という金額表示がゴーン! と頭上に3D画像テクスチャはヒビの少し入った石、みたいな感じで浮かんだ。すげぇ。下まで降りて、キャッシュディスペンサーで金を下ろし、診断書の交付もあったので60万円也を会計に渡した。何せ十万円以上の札束を手にすると心拍数血圧血糖値β波などが意味不明に上昇する体質なので、物凄い札束をヒイコラ数えてお姉さんに渡して確認してもらう。お姉さんは慣れた手つきで俺の札束ちゃんをササーッと数えて領収書と診断書、退院カードをくれた。そうしてニッコリ笑って「お大事になさってくださいね。」と言ってくれた。ありがとうございました。
病室に戻ってNYY−TORの試合を見ながら連れ合いとYちゃんの来るのをずっと待っていたが、領収書をコピーするのを忘れたのでもう一度下まで行き、コピーを済ませて上がってくると、主治医のS先生と鉢合わせ。一緒に病室まで行く。S先生は「これからは外来でU先生(元々の主治医)ということになりますが、はっきりした病気の型など解りましたらお伝えするようにいたしますので。いずれにしてもご病気はこのままということは考えにくいですから、今後経過を見て、なんらかの治療に入るようにはなると思います」とのこと。さらに「この段階で治療を開始する人もいると思いますよ」という。医師によっては今の俺の容態でも抗癌治療に突入する人もいる、ということだ。ともかく最後はお世話になりましたとお礼を言い、S先生も「奥様お大事になさってください」と言って下さる。
その後ベッドに横になってMLBを見ているとうとうとしかかり、危ないところで11時半すぎに連れとYちゃんが来てくれた。ナースステーションに退院カードを渡して「お世話になりました」と挨拶をして、部屋に戻る。本当は担当してくれた看護婦さん一人一人にお礼を言いたいところだが、シフトがあるのでそうもいかない。部屋ではYちゃんが冷蔵庫の中身をどんどん袋に詰めてくれていて、助かった。エレベータホールまでエッチラ荷物を持って行き、いったん連れ合いを待たせて戻ると、残り全部をYちゃんが持ってくれる。凄い重さのはずだが、若さ…というより健康というのはこういうことかと、思い知らされた。俺はちょっと重い紙袋を二つ持ってっただけでまた手のひらがプツプツと皮下出血だ。
エレベータで下まで降り、外に出ると陽射しが暑い。車までえっちら荷物を持って行く。連れ合いはキツそうだったが何とか車までたどり着き、出発。次にこの病院へ来るのは外来での定期検査だ。そしてもし次に入院となる時は、今度こそ診断が確定しての抗癌治療開始ということになる。
舟渡のCOCOSでご飯を食べた後スーパーで今日からの食材、野菜や魚などをどっさり買って帰宅2時過ぎ。とても車がなければ出来ない退院&買い物だった。ヒーコラ荷物を搬入して、買ってきた野菜だのを冷蔵庫にいれるにあたって、Yちゃんが「冷蔵庫の中掃除しよう!」というと凄い勢いで次々に不要なものを捨て、さらには汚れたプレートなども洗って綺麗にしてくれた。途中から俺も少しだけ手伝うが、やはりこういうことは勢いでやっちまわないとダメだ。その勢いが我々にはなかったのだが。1時間以上かかって冷蔵庫の中が整理され綺麗になり、3時過ぎにようやく一服。Yちゃんは子供たちのお迎えがあるので、4時過ぎに帰って行った。いやはや今日は単に運転手をやってくれただけではなく、本当にいろいろ助かった、感謝感謝。
実際、入院してしばらくの間、歯科治療を終えたら抗癌剤…という時期には、このまま元の生活に戻れるのは一体いつになるのかと思っていた。無治療であり、癌であることは変わらず、いつ治療に入るのか不明ではあるが、こうして自宅に戻れた。つまりは入院前と変わっていないということになる。ただ違うのは、自分が癌でありこれからどう生きていけばいいのかを悟っていること、だ。
死にたいという人たちが集うサイトがある。実際、そこで「相い方」を募って本当に死ぬ人たちがたくさんいて、問題になってもいる。その人たちのことを単純に愚かだと笑ったり断罪したりする気も、中途半端に同情したりましてや肯定する気もない。ただ、自分はどうして今この世に生を受けているか、これまでどう生かされてきたのか、そしてこれからどう生きていくのかを真剣に考えた方がいいと思う。生きていさえすれば、大概のことはどうとでもなる。何より、自分を愛してくれる人、自分が愛する人がいれば、痛切に「生きたい」と思えるはず。だとすれば、彼ら自殺志願者にはそういう他者がおらず、そういう他者を愛せる自分ではないということなのだろう。そして自分はなぜ生かされているのかの意味を深く考えていないのだと思う。俺は生きたいし、生きねばならないのだ。

■今日の御礼
教え子のKさん、故郷の「すだち」と沖縄みやげのシークァーサー錠、ありがとう! ビタミンたっぷり免疫アップだね。
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2005-09-25(Sun)

明日は退院

9月25日(日)
夕べは消灯後割とすぐに寝られた。ナースの夜回りで数回起こされたが、朝の4時の来訪以外は起こされた後もすぐに寝られた。けれど朝4時過ぎにガチャンバタン!という騒音で起こされた後はしばらく悶々と寝られず、6時半まで浅い眠りでうとうと。昨日の目眩は今日はさほどでもなく、一過性のものだったらしい。その後「ジャンガリアン」Mさんが検温に来て、「二日おきくらいにはちゃんとお風呂かシャワーしてくださいね」と言われる。そういや二、三日ほど入ってなかったので、その後すぐにお湯を溜め、風呂に入る。明日は退院だ。来る看護婦さんたちは皆口々に「良かったですね」と言ってはくれるが、これが治っての退院ならいいのだが。無治療のまま、いつ暴れだすのか知れぬ癌…人の数倍に腫れた脾臓を抱え、汎血球減少による免疫力の低下と貧血と共に暮らすのだ。プログラマのK君から仕事関連の打ち合わせメールの文中、
「実は特異体質で、今後も問題なしだった、みたいなオチを祈ってます。」
とあった。本当にそうだといいんだけどね。
風呂から上がった後は退院に備えてこまごましたものを片付けはじめるが、ついつい調子に乗ってほとんど全て荷物を片付け終える。後は冷蔵庫内の食品類や、パソコンデスクの上にある小物くらい。40日もいたから、この部屋にはもうたいそう愛着がある。恵まれた環境で、一時は地獄の淵に落とされたような思いから、今は希望が持てるところまで這い上がってきた気分、そういう浮沈もこの部屋で経験した。色々な人が見舞いに来てくれた。普通ならとても入れないような個室にこうして一ヶ月以上も快適にいられた「偶然」にも感謝せねばと思う。全ての「流れ」がいい方向に向かっていると思いたい。だからもちろん最後のオチは「死」などではないと願う。ただもちろん、それは今回のことが「教訓」であると理解し、正しく今後生きていくこと、暮らしていくことが前提だという気もするのだ。生かされていること、生きていることに単純に感謝して、自分と周りを大切にして暮らす。そのことはストレスを溜めないことに通じ、さらにそれは免疫力を高めることに通じる。そうして癌に対する抵抗力も高まっていく…ということだろう。前のようなストレスだらけの暮らしを続ければ、当然癌は遠からず暴れだすだろう。そうなった時に、また「いい流れ」で病気と立ち向かえるかの保証はもうない。今回の経験をどう活かすか、流れを作った「大いなる存在」はきっと見ている。
昼前にTVカードが切れたので財布を見ると一万円札しかないので、下の売店まで行く。ミルクと珈琲2本、報知新聞、ストローを取り付けられるペットボトルのキャップを買って戻ると、ナースステーションの前にMDr.と研修医のS君(♂)、S(♀)さんの三人と鉢合わせ。回診で留守中俺の部屋に行ったのかなと思ったが、その場で「明日退院ですね」「お世話になりました」というような会話をして別れた。回診はもうないようだ。昼飯はとんかつ! すこぶる美味だった。一口大に切ってくれてあるのだが、肉も柔らかくて噛み締めると豚肉のいい味が出てくる。うーん、久々のこの味、と思いつつ完食。その後は仕事の画像処理などのデザイン関連作業。それらの作成した画像やhtmlをいつものようにメールに添付して送る。終わると2時過ぎ、外は台風直撃は免れたが昨日から雨風が続き、昼前からは雨はやんだが風がビュウビュウ言ってる曇り空。
4時前まではネットでニュースを見たり、暇つぶし。いつの間にかゴオゴオいっていた風も休み休みになり、雲の切れ目から青空ものぞいてきた。相撲は千秋楽、相星での優勝決定戦は勝負にならず、朝青龍が琴欧州に圧勝で6連覇。面白くも何ともない。平和な日曜日だ。
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2005-09-24(Sat)

癌は「最悪の病」ならず

9月24日(土)
前の晩比較的よく眠れたにも関わらず、寝覚めが悪い。5時に目が覚め、6時までうとうと。採血してもらった後でまた横になり、8時前の食事が来るまでまたうとうと、起きて食事を完食した後も目眩が治まらない。最初はこんなに小刻みに寝ているからいつまでも眠気が取れないのかと思ったが、食事をしてトイレで大をして…と時間がたっても目眩が引かず、大の後の恒例の体重測定にナースステーションまで行って帰ってくるいつもの道程も、今日はフラフラで手すりにつかまったりしつつ歩く。最近はもう一人でてくてく売店へ行っては戻ってくるのを目撃されても何も言われなくなったくらいなのに、突然フラフラになってるのですれ違う看護婦さんも不審顔だ。今朝の採血で貧血が進んでなければいいが。脾機能亢進が進んでいて汎血球減少も進んでいたらどうしよう…とかいろいろ考えてしまう。
外は夜中から雨、台風17号の接近でこれからしばらく雨模様の様子。それにしても1時間ほど横になっていても、起き上がると目眩がする。不安だ。…と思ってたら9時半に担当の看護婦Fさんの検温。目眩がすると言ったらまぶたをめくったり血圧を見てくれたりしたが、特に貧血症状もないので、朝採血があったからその結果を見ましょう、ということに。うーんじゃあこの目眩は何なんだろう。入院前にも一度、ひどい目眩の日があったが…。寝すぎってことはないと思うが(笑)、安静にしていると何ともなくて起き上がると、というか姿勢を急に変えるとグニョーンという感じ。動悸も頭痛も息切れも、貧血特有の症状はないのでそれこそ単なる目眩だと思うが。
11時過ぎに横になってうとうとしていると、MDr.が来る。今朝の採血の結果を持ってきてくれたが、やはりほとんど横ばい。WBCは1300、NEUTROは実数で594。ただPLTは86と過去最低まで下がった。出血に気をつけよう。その後椅子に座ってもらい、昼食が来た後もしばらく話す。MDr.は俺が「これは白血病、ではないんですよね、どっちかというとリンパ腫寄りなんですか」と聞くと、「そういう分類もまあ難しいんですけどね、この血液疾患でも腫瘍ということになると、物凄い数の分類があって、正直僕なんかも学生時代なかなか覚えられなくて成績悪かったくらいですから(笑)」とのこと。
俺が件の「がんサポート」をまた取り出して「リンパ腫だけでもこんなに種類があるんですもんねえ」と特集記事にあるリンパ腫の分類表を示すと、「ああ、でもこれは物凄く簡略化してありますよ。WHOの分類なんかでもズラーッと凄い細かい一覧になってるくらいですからね」と言う。なるほど、それは俺もサイトで見た。
そもそも「血液の腫瘍は良性はない」といい、例えばカンニングの竹山の相方がかかった白血病は一部報道で「良性の急性リンパ性白血病」だと報道されたけども、ああいう言い方は全くナンセンス。MDr.は「まあそういう風に、『悪いものじゃないよ』ということを言いたいがためなんでしょうけどね」とのこと。通常の固形の腫瘍の悪性か良性かはどう分類するかというと、癌細胞があって、さらに他の臓器へ浸潤するかどうか、を見るのが普通。そういう意味では血液の腫瘍の場合、そもそも血管を通じて全身にまわっているから他の臓器へ癌細胞が浸潤する可能性も高いし、そのこと自体ですでに悪性であると言うしかないのだろう。で、問題はその血液の悪性腫瘍でも、「悪性度が高いか低いか」が先の分類の数を見ても解るように、物凄く幅があるのだという。
俺の症例の場合は、そもそもこれにかかった人はこういうスパンで悪くなった・あるいは良くなった…という報告例自体がないから、まずどうなのかということがはっきりいえないので、その分正直医師の側も手探り状態であるという。MDr.は「おっかなびっくり」という表現を使っていた。ただここ一ヶ月ほどの状態を見ていて、非常に良く似た型の白血病があるという。もちろんそれに分類できないから困っているわけだが、その病気の型だと、ほとんど症状に変化がなく、経過を見ている間に天寿をまっとうする例さえあり、多くは五年、十年、十五年というスパンで経過を見ていくことが多いというのだ。もしそうだとしても、癌は癌、免疫低下によって感染のリスクは通常の人よりも遥かに高いので、健康な人と全く同じ生活が出来るかといえばそうではないものの、かなりそれに近い生活は維持できるのだという。
病気全体ということでいえば、癌は確かに最悪の病気かも知れない。だが、細かく悪性度で見ていけば、かなりいい分類に入るのではないか。連れ合いを見ていてもそうだが、俺は癌だ、確かに癌なのだが、合併症の危険のある重度の糖尿病、透析の必要な腎臓病や、酸素ボンベが欠かせない呼吸器疾患など、癌でなくとも辛い闘病をしている人たちはたくさんいる。俺は何年生きられるのか、少なくともここ一年で死ぬということはなさそうなので大いに安心したが、それでもその間気をつけていれば「普通」に近い生活は維持できる。そのことをむしろ、癌という最悪の病気にかかってしまった今、素直に喜びたい。
ただしずっと無治療でいればそのうち治る…というような甘いものではない。この病気は完全に治るということはまず、あり得ない。「寛解(かんかい)」は「治癒」ではないのだ。癌がおとなしくしてくれている間は貧血や免疫低下に注意していればいいが、暴れだしたらどうなるのか、誰にも予測もつかない。その時期もいつなのか、わからない。ただ幸いなのは、この病気を発見してもらえたわけだから、今後定期的に血液検査をし、何ヶ月かに一度はCT、半年にいっぺんくらいは骨髄を見て…とやっていけば、少なくとも突然治療不能な状態で急死するということにはならないのではないか。そしてそろりそろりと注意深く用心して生きていくうちに、新薬が見つかるかもしれない。この分野、細胞学でも最先端で進歩しているところで、ついこの間も白血病の新薬が発表されたばかりだし、B細胞性の白血病に効く副作用も少ない新薬の「リツキサン」だって最近の発見だ。そういう意味では大いに希望はある、何より希望が持てることに素直に感謝したい。

昼食を完食、連れ合いからは「雨だね」とメールが来たので、「今日も来なくていいよ」とメールする。
癌を宣告され、入院してしばらくは「死」が目の前にチラつき、覚悟をしたとはいえ、実を言うと本当に参った。連れ合いや他人といる時は平静を装ってはいたが、一人になるとどうしようもなく辛い時があった。その時に痛切に思ったのは、ただ「生きたい」「生かして欲しい」ということだけだった。もし生きられるというのなら、これからは自分や連れ合いの体を大切に、健康に気をつけ、用心し、労わりあって謙虚に生きよう。そう誓った。だがこの病気は、「誓う」も何も、「そうしないと生きていけない」病気なのだ。こういう流れになったのは必然であるというのが、つくづく身に染みる。MDr.も正直に「まあ我々もあせって薬入れなくて良かったですよ、けっこうやる気満々でしたからね(笑)」と言っていた。虫歯のせいで治療が延びた、虫歯を放置していた自分の愚かさを嘆いた。もちろん虫歯は免疫的にも放置していいことは何もないが、その時間のおかげで、どうもT-PLLではないらしいということが解りはじめ、抗癌剤投与に待ったがかかった。よく調べよう、多方面から意見を聞こう、集めようということになった。虫歯にむしろ救われたとも言える。MDr.は「ただ薬を入れなくて良かったのか悪かったのかというのは解りませんけどね、ひょっとしたら薬に凄くよく反応していたかも知れませんし」とも言う。俺もそう思う。抗癌剤をすぐに投与されていたら、今どうなっていたか。そんなことは誰にもわからないことだ。ただ再三記述しているように、大いなる流れがあり、その結果として今があるのだと思えば、結果的にはこれでよかったということだろう。

・連れ合いに強く勧められて癌給付付保険に加入した
・たまたま連れ合いの病院へ一緒に区の無料健康診断に行く
・iタワークリニック・岡本太郎先生がレントゲンで縦隔の影を指摘、CTを勧められる
・連れ合いが突然吐血、「某病院」に入院するが環境が合わず、強引に退院
・岡本太郎先生がCTから脾臓の腫脹を認め、縦隔の影と合わせてリンパ腫の可能性を指摘
・すぐに血液内科のある大きな病院での精密検査を勧められる
・「某病院」は連れ合いの入院経験から避け、現在のN大I病院を紹介してもらう
・N大I病院で各種検査の結果、癌であることが判明、余命宣告を受ける
・入院し、翌週から抗癌剤投与の予定を告げられる
・主治医U先生の問診で虫歯が発覚、歯科治療のため抗癌剤投与延期
・歯科治療中、骨髄細胞生検の結果、極めて珍しい症例であることが判明
・抗癌剤治療がさらに延期され、多方面の所見を集めることになる
・治療延期・待機中、症状に進行・変化がないことを確認
・骨髄、血液、脾臓腫脹なども変化がなく、治療そのものが延期・退院へ
この流れ、癌であるということを本人や周囲に強く「理解」させはしたものの、その結果として「死」や「治療奏功・寛解」が導かれてはいない。ということは、こうした「大いなる流れ」か「意思」のようなものの存在を知らしめ、結果はそれを知った後の俺次第であると言ってはいないか。つまり今後「死」になるか「生」になるのかは、やはり自分は生かされているということに感謝をし、まっとうに暮らしていくかどうかで決まるのではないか、と。
以前このブログにまりさんが、ある癌治療の名医が、患者の免疫力を高めるために歯科治療と禁煙をまず勧める、というのがあった。俺はまさしくそれではないか。歯科治療は自らの免疫力を虫歯菌だの歯周病菌だのとの日常的な戦いから解放してやること。禁煙ももちろん、自ら癌への道を歩むという愚行からの解放。そんなことを考える。ならば、癌をねじ伏せることは可能なような気がするのだ。
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2005-09-21(Wed)

俺の癌は脾臓がお好き

9月21日(水)
夕べは売店で買ってきた「がんサポート」という雑誌を読んでから寝る。ただ就寝中、夜勤で見回りの看護婦さんが件のドアを乱暴に開閉する人で、誰かは知らぬがそのつど目が覚めて悶々、熟睡できぬまま朝になる。6時過ぎに採血とか朝のバイタルの「ガチャンガチャン」音が響き、それが落ち着いてからようやく7時半過ぎまでちょっとだけ寝られた。
朝食の後はネットを見たり、BSでMLB。NYY−BAL。その後眠気が来たので横になるが、どこかの部屋で「バーン!」と乱暴にドアを閉める音が時々して、そのつど心臓がドキッとしてはうとうと気分が絶たれる。病院でどうとかいう問題ではなく、日常でもあんな音を立ててドアを閉めるようではキチ●イだから、たぶん病室の窓を開けており、ドアを開閉すると風でああいう閉まり方をするのだろうと思う。んが、騒音は騒音、迷惑には違いない。
結局起きてしまいウンコをしていると、ノックの音。研修医のSクン(♂)の声。ありゃりゃと思うがしょうがない。ちょっとして今度は女の人の声、これは同じく研修医のSさん(♀)だ。昨日は回診の時風呂入ってたし今日はウンコ(笑)、間が悪いなあ…と思いつつ出てベッドに座ったところで、Sクンが来る。続いてSさん。Sクンは俺をいつものように触診し、変わりなし・引き続きこのまま様子を見ましょう、ということ。外来で様子を見て行き、例えば脾臓が大きくなりすぎたとか、癌細胞が暴れだしたとかで治療を開始するようになった場合でも、診断が確定している方がいいに決まっているから、とにかく今は時間をかけてでもきっちりと診断をする意味で調べましょうということ。俺ももちろんその方がいいので、お願いしますという。
その後昼飯を完食してお茶を飲もうとしていると、12時半ころ主治医のS先生とMDr.、研修医3人が来る。S先生は俺を触診して、やはり「変わりないですね」とのこと。MDr.は「ここから先は、おそらく十人医師がいたら十通りの治療方針に分かれると思いますよ。このまま経過を見る、脾臓を摘出する、脾臓に放射線をあてる、化学療法を行う、化学療法から移植まで一気にやってしまう…とか医師によって変わるでしょうね」と言う。ただ医師団としては脾臓がこのまま大きくなり血液のデータが悪くなったりしない限りは、退院して外来で採血をしつつ様子を見ていく、ということで一致しているということだ。MDr.は脾臓が大きいことがやはり気になると言い、S先生も脾臓さえこれで大きくなかったら何の問題もないとさえ言えるんですが、ということ。脾臓は普通胃の左奥にあり肋骨内に収まっているものなのに、下腹部まで張り出してきているということは、他の臓器を圧迫しているということもあるが、守られていない状態でもある。なので、ぶつけたり強く叩いたりとかはしない方がいいですよ、と言われる。病気と判明する以前、飯を食い終わった後に、脾臓が腫れているとは知らず、よく腹を「ポン!」と腹を叩いて「あー苦しい」とかやってたが、あれはあんまりやらない方がいいみたいだ。
ううむ、脾臓か。この脾臓の腫脹、「脾機能亢進」のせいで血球の減少つまり白血球や赤血球、血小板などが総じて減っていると思われ、このことが今の俺には一番の問題だ。ほかの症状としてはリンパ節が複数箇所でころころ腫れたりはしているが、巨大腫瘍にはなっていないし、急激に成長もしていない。それどころか時々小さくなったりもしている。だから、脾臓の腫脹が最も顕著な症状かつ問題であり、次の治療の目安になるのはコレじゃなかろうかと。摘出するにしても、ある程度手術に堪えうるだけの血小板数がないとそもそも開腹を出来ないので、そこら辺の兼ね合いもある。なので放射線という選択肢もあるそうだ。たまたま昨日読んだ「がんサポート」(昨日の記事参照ください)には特集として「放射線治療を第一選択に」という記事が掲載されている。放射線治療にももちろん副作用はある。その中で最も怖いのは、照射した箇所で癌以外の部分に後で癌が発生する恐れがあることだ。これもピンポイントの照射が可能になってきたり、様々な最先端の技術・技法が出てきてはいるそうだが。脾臓は「取っても平気」な臓器の代表みたいに言われているけれども、近年摘出後は免疫機能が低下するとか、ある種の肺炎に罹患しやすくなるとか、要するにその働きがよく解ってないだけの話のように思える。人体に本当の無駄ってあるのか知らん、とも思う。

その後はTVを見ているうちに眠くなってうとうとしていると、2時頃だったか、連れ合いとお姉さんが来てくれる。週刊文春と新潮、飲み物などを買ってきてくれた。3人で今日の回診のこと、病気や今後の治療のことなどをしばらく話す。一旦退院となっても、いつ治療に入るかは解らないし、そうなればまたお金もかかるだろうし、色んな意味で大変だと話し合う。そんなこんなで4時過ぎに二人が帰るので、エレベータまで見送った。メールチェックすると仕事のデータが入っていたので更新作業をしてると、大相撲中継で新関脇琴欧州が大関栃東に完勝して11連勝、さらに結びでは朝青龍が安美錦に外掛けで転がされて負け。結びの一番後には病室で思わず拍手をしてしまい、薄い手のひらの皮に痛みが走った。
それにしても今日は一日エアエッヂ君の電波が悪く、接続がブツブツ途切れてストレスが溜まった。夕方になってようやく接続が維持されるようにはなったが、「維持されている」というレベル。困ったもんだ。モバイルというならやはり今どきは無線LANだな、とは思うが、今後また入院することを考えればこれしか選択肢がないのも事実。現行の携帯キャリア各社の高速サービスはとてもつなぎ放しでデータ通信をガンガン行える料金体系ではない。もうちょっと考えろよと思うが、まあしょうがないか。
夕飯を完食して、苦しい腹ながらうつぶせになって文春を読んでいるとノックの音、S先生以下医師団がゾロゾロ。科長のT教授と元主治医のU先生がいないだけで、研修医君たちも含めたフルメンバーだ。ちょっとギョッとして「何で?」と一瞬思ったが、「特にお変わりないですか?」といういつもの回診。ホッとする。ホッとついでに「来週には退院させてもらうとして、その後も脾臓の亢進が進むようなら治療を始めるということですが、その治療はやはり抗癌剤でしょうか」と聞くと、脾臓局所的に治療するのか、原発疾患つまりリンパの癌を叩く抗癌治療を全身でやるのかは、骨髄を再評価してみないとわからないという。今の状態だと、骨髄中の癌細胞はあるにはあるが比較的少なく大人しい、なのでMDr.が以前話してくれたように、この癌は脾臓を「好んで」いるようだ。そのまま脾臓の機能亢進が進むのであれば脾臓をメインに治療を考え、骨髄での癌細胞の増殖が進んでいたら当初予定していた抗癌剤治療を進める、ということなのだろう。いずれにしても現段階ではどちらもすぐに治療を開始するタイミングにないので、とりあえず退院という方針で良いのではないかとのことだ。次の採血は祭日の関係などもあって土曜日。そこでまた変化がなければそのまま週明けに退院という流れになりそうである。

ところでここでこうして医師団の見解も含めてけっこう直接話法を含めて掲載しているが、これはあくまでも自分が聞いた話を思い起こして記述しているのであって、細かい部分でニュアンスや用語の違いなどはあると思うので、誤解ないようお願いしたいっす。何度も書いてるようで恐縮ながら、俺医者じゃないので難しい医学用語はよく解りません(笑)。しょせん付け焼刃のにわか勉強でしかなく、ここ一、二ヶ月で知った「情報」をあたかも「知識」であるかのように振り回しているつもりは毛頭ないことを明記しておきます。「知ったかぶり」ってのはその道の専門家に見られることを想像したら、とてもとても俺には出来ませんので。
それにしてもN大医学部の血液膠原病内科の先生方は(ホンットに匿名にしている意味ないっすね…)患者への説明責任ということで言えば、素晴らしいと思う。こちらの不躾かつ唐突かつ幼稚な質問にも丁寧に答えていただけるので、感謝してます、はい。
俺の脾臓ちゃん、小さくなっておくれとナデナデしながら「明治ミルクと珈琲」を飲む俺ではあった。

■今日の御礼
今度は元バンド仲間のS井から高校時代に録音した音源(ラジカセ一発録音)をデジタルリマスター(笑)して完成させた、かつてのバンドのCDが到着。ジャケも「帯」もあるし! ありがとう。
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2005-09-20(Tue)

いったん「両者休戦」か

9月20日(火)
なぜか夜中に1時半、2時半、4時、5時半と小刻みに目が覚めて、朝はちょっと辛かった。6時前に自発的に起きて洗顔歯ブラシなどを済ませ、PCでメール確認をすると仕事データが入っていたのでDL。そのうち採血で夜勤だったナースのKさんが来る。「すいませ〜ん」が口癖のKさんはゆっくり丁寧に針を入れてくれるので、この人の採血が一番痛くない。なので終わった後「うまいですねー、全然痛くないよ」と言ったら「ええ?本当ですかぁ?」と意外なような喜び方をするので「ゆっくり丁寧に針を入れてくれるから痛くないし、たまに慣れた手つきで雑に入れる人がいるんだけど、そっちの方が全然痛いよ」と言うと「そうですかあ?良かったー」と喜んでいた。言われたことないのだろうか。いや、本当に「私こういうのは慣れてるから朝飯前だし」みたいな風情の人が、一番困る。こちらの痛みなど全く考えずにブスリと乱暴に入れるから、そういう人にやられると実際かなり痛いし、そういう時は針を抜かれた後でも痛みが尾を引くことも多い。その後はダウンしたデータで仕事、朝食完食を挟んで完了。今日はエアエッヂ君(PCカード)の調子は比較的良かった。電波の感じは日によって違うみたい。
9時半ころ日中の担当のナースKさんが検温と血圧測定に来たので、ちょっと抗癌治療について探りを入れるが、看護婦さんとしては若くて体力もある人なら、抗癌剤を使って「キチンと治す」のを勧めるような気配だ。もちろん医師ではないのではっきりそうとは言わないが。にしてもとにかく、現在の方針未定、病名も未確定、という状態での「待ち」がストレスにはならないか、ということを心配してくれているようだ。なので俺は「いや、病院にいる方が精神的にも全然安心ですし、連れ合いの体も弱いので、家にいて世話をさせるよりは気持ちも楽ですよ」と言う。それは事実であり、実際部屋にいて入室者が手洗いとマスクをしてくれる分には感染のリスクもほとんどない。あとはこちらが外出する場合はマスクをし、人ごみをさけ、戻ったらうがいをキチッとするという自己管理に徹底していれば、何の問題もないからだ。何より万が一、の時の安心感が全く違う…そんなようなことを話すと、「じゃあもうちょっと我慢してくださいね」と言われる。
もともと俺は癌と戦うためにここへ入ったので、そのための準備を整え、万全の体制でリングに上がるつもりでの「待ち」だったし、今でもその意識は変わらない。全ては癌に勝つためであれば、何にも辛いことなどない。

10時過ぎに風呂へ入って体を洗い終わり、髭を剃っているとノックと共に「失礼します」とドアが開く気配。どうやら主治医のS先生の声のようだが、こちらは全裸なので出るに出られず。すぐ出て行ったようなので、やれ急げと体を拭いていると再びノックとドアが開いた気配。また間に合わず。慌てて風呂を出て着替え、風邪を引くとまずいのでクーラーを切りベッドに座った…というところで改めて教授回診。何度もT科長以下医師団に足を運ばせてしまったようで申し訳なく、その上俺が風呂あがりでホッカホカ、部屋は冷房切ってあるという状況なので教授のT科長、よく見たら玉の汗。T先生はいろいろ調べてみた結果、どうも進行もほとんど見られず経過も悪化しているという状況ではないので、今すぐに急いで治療をしようという状態にないという。あと今後のことは担当の先生とよく相談してね、ということ。触診でリンパ、脾臓の腫脹も確認されるが、「うーん、やっぱり全然変化ないようだねえ」とのこと。
T教授以下Dr.、研修医各位が帰った後、主治医のS先生と研修医のSさん(♀)が残り、状況の説明をしてくれる。
血液学会で件の大家と言われる先生とお会いしたので、俺の症例を直接聞いていただけたそうだ。結果、俺の細胞サンプルをまだ見てないとはいえ、手紙や口頭での所見から判断するに、悪性の血液腫瘍であることは間違いないものの、T-PLLのような白血病の例とも違うのではないか、という。悪性腫瘍つまり癌であることは、遺伝子の検査によっても確定している。だから俺は癌患者だ。だが今度はその悪性度ということで言うと、必ずしも高くはないように思える、と。したがって、白血病の場合に用いるような治療方法や抗癌剤が効くかということになると、確かに疑問もある。そしてここ数ヶ月、さらに採血その他のデータを見ても、ほとんど進行が見られない。なので現段階での最もいい選択肢としては、外来で定期的に血液や骨髄の検査をしっかりとモニタして様子を見ていき、もし悪化するようなことがあれば、その段階で速やかに治療に入る…というのが望ましいのではないか、ということだ。
で、血液中の顆粒球、この場合はばい菌を食べる方の顆粒だが、これが減少しているのはやはり脾臓の腫れによるものだろうと。したがって選択肢としては、その場でS先生が聞いて下さったそうだが、脾臓摘出ということも確かにある、けれどもそれを取ることのリスクと比較してどうかというとになる。場合によっては十数倍にも腫れる人もいるが、俺の場合はすぐに摘出…というほどではなく、取ったことによって何が起こるかということを考えると、やはりこちらも様子を見るべきだろうということ。
つまり結論は、「退院して外来で経過を注意深くモニターしつつ、治療時を見極める」ということだそうだ! ただ、あともう一人の権威であるJ大学の先生の意見がまだということ、那智勝浦の先生にしても細胞サンプルそのものを見てないということ、それらを鑑み、より診断というか治療方針を確かなものにするためには、そうした最終見解が集まるまであと一週間か十日ほどかかりそうということ。俺は国内の血液の権威お二人の見解・意見が出揃い、また入院している現在のN大の先生方の見解も一致して「経過を見よう」ということになったならば、それこそ安心して堂々と(?)退院させていただきます、と話す。

今朝の採血の結果では、白血球数は1200まで下がっていた。ただ好中球数は604、感染が心配なレベルではあるがギリギリ外来でもOK。肝心の病名であるが、T-PLLすなわちT細胞性前リンパ球性白血病であるかどうか、は不明。現在ある「なになに」という病名にあてはまらないというか、どこへ入れてもちょっと違うな、という感じのようだ。「こういうのはしょせん人間が作った分類ですから」とS先生も話されたが、とにかく珍しく、広い意味でのリンパ性疾患であり、血球の癌・悪性腫瘍であることは間違いない。T細胞性であることも間違いない。ただそこから先の「こういう名前の病気」という診断の確定がなかなかできないということだ。

このよく言われる「血液の癌」、一般にはその実態もあまりよく知られていないようだし、俺も実際自分がこうなるまでは、ほとんど知らなかったと言ってもいい。またまた付け焼刃の知ったかぶりで専門用語を並べるのは恥ずかしいのでやめるが、我々が癌といって連想するものと違うところは、全身のどこから発生するかが決まっていないし、発生した段階で良性ということはないのですなわち悪性腫瘍であり、種類・症状・タイプが実に多様であり、それゆえに治療法も多様、予後も多様、ということだ。一般的に固形癌と違い、リンパ節を通じて全身に癌細胞が広がるから、ここの部分に癌があるからそこへ放射線をあてて、というような治療も出来ない。なので、通常は化学療法がスタンダードな治療方法となる。使う薬剤もその組み合わせなども、病気の型などによってさまざまだ。
俺の場合、最初に疑われたのは白血病でも悪性リンパ腫でも日本では珍しい「T細胞性」の癌だった。例えばもし成人T細胞性リンパ腫でしかも急性だった場合は、悪性度も非常に高い「高々悪性度」であり、週単位で進行するという恐ろしいものがある。その場合はいわゆるCHOP療法という複数の抗癌剤を組み合わせた標準治療もほとんど効果がなく、7ヶ月から1年で死に至るケースがほとんど。ところがこの成人T細胞性リンパ腫にも「くすぶり型」があって、放置しても長期生存している例もあるというからややこしい。そして俺の場合は成人でT細胞性であることは間違いないが、リンパ腫なのか白血病なのかがよく解らない。なので広い意味でのリンパ性疾患、と言われている。そしてどうやら、自分でも解るが急性ではないようだ。(今はかなりの情報、症例、論文などをWEBで得ることが出来ます。そういえばたまたま今月の「がんサポート」10月号には、悪性リンパ腫の解説が詳細に載ってましたね。)

S先生も、こういうくすぶり型だとこのまま無治療で寛解することもあり、必ずしもそうした場合は骨髄移植をすることもないという。「俺が、俺の癌を、自分で倒す」とはそういうことだ。そうなればいいが!
俺は「これは悪性腫瘍つまり癌の中で言うと、変な話ですがいい・悪いでいうといい方なんですかね」と、わざと幼稚な質問をしてみた。S先生は「もちろん症例自体が少ないので無責任なことは言えませんが、これまでの経過とも照らし合わせて、いい方だと思います、この癌はおとなしいというか。」とのこと。で、調子に乗ってさらに「あと変な話ですが、最初に外来に伺った時に(前任の主治医)U先生に、『このまま放置すれば余命一年ないだろう』と言われたんですが、それは各種検査を経て、入院して一ヶ月経過を見ていただいた今では、正直なところどうなんでしょう」と聞くと、「それもまあ自分の個人的な印象で言えば、一年とか、ここ数年でどうという感じではないように思います」とのこと。つまり、あの段階で疑われた悪性リンパ腫や白血病だとしたら、余命一年ない、という意味だったそうだ。そうか、俺は生きられるかも知れないのだ! 良かった! ならば生きていこう! 神様、ありがとうございます!

先生が帰られた後、すぐに電話で連れ合いに報告をする。近いうちには一旦出られるんじゃないか、と話すと喜んでいた。思えば入院の時、このままこの家に帰って来れないかも知れないと、チラとだが思った。それに現実に、抗癌剤投与の一歩手前まで行ったのだ。だがとにかく希望が出てきた。この勝負、勝ち目が出てきたぞ。俺はこれまでの自分の生き方…タバコばかばか酒がぶがぶストレスだらけの生活を改め、免疫力を高め、癌を撲殺もとい撲滅する。自分で自分の癌を退治してやる。そして生き延びるぞ!

明るい気持ちで昼飯を食う。今後「外来で経過を見つつ治療のタイミングを計る」という方針が確定すれば、退院だ。ああ、何だかひどく嬉しく明るい気持ちだ。けれども脾臓の腫れは現実として存在し、食事の後は圧迫感があって苦しい。そして実際に白血球が少なく免疫が低下してもいる。もちろんマスクは欠かせず、感染のリスクには十分注意しながら生活して行かなければならない。癌はなくなったわけではないし、まだ癌に打ち勝ったわけでもない、ただ癌の方が今のところおとなしいだけなのだ。だが大人しくても癌は癌、敵は敵、悪党は悪党。いつ鎌首をもたげ、暴れだすとも限らない。急性に転化しない保証もなく、した場合は命に関わる事態に直結するかも知れない。だが負けるもんか。
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2005-09-19(Mon)

病病介護

9月19日(月)
■17日・土曜日は一時外泊許可がまた下りたので、洗濯物を持って病院玄関からタクシーに乗り、一人で自宅に帰った。自宅近くの蕎麦屋で連れ合いと待ち合わせて、お昼を食べた。癌告知を受けた日からスッパリとタバコをやめたが、店内にはタバコの煙がもうもうと立ち込めている。混んでいるから相席で、それも隣の客がまだ蕎麦をすすってるというのに、食い終わった一人のジジィがブッカブッカ煙を吐き出してタバコを吸っている。俺は自分が吸ってた時でも、お昼どきの混んだ食い物屋では吸わなかったが。タバコをやめるとこういうマナーの悪さは特に目につく鼻につく。それに物理的にも副流煙という実害もある。マスクをしていてもガンガン煙が来るので殺意さえ覚えた。
蕎麦屋では玉子とじ蕎麦を久々に食べるが、これがもう美味で汁まで完食。連れは食欲がないといってカレーうどんを半分以上残す。その後家に帰るが、連れは喉がいがらぽいといってゲヘガハ咳をしては、そのうち台所へ行って吐いたりしているので心配。今日は検診の日なので夕方病院へ出かけて行き、山ほど薬を貰い、帰りがけに夕飯の弁当を買ってきてくれる。ひどく疲れたと言い、俺が弁当を完食する横で食欲がないと言って全く食べなかった。俺は病院の習慣で夕方の検温を自分でし、電気血圧計で血圧を測る。低めだが正常。連れのを測ってみると、何と180近く。高血圧ではないかと慌てて測り直すと同じような数値で、明日急遽病院へ行って診てもらうように言いつける。糖尿病に高血圧を併発すると、大変なことになるからだ。連れの容態が心配で、癌の俺が心配しているという変な構図。

連れの容態が良くないのは、疲れのせいだと思う。先週は俺が一時外泊で戻ってくるために、娘のYちゃん(さいたま市在住)に手伝ってもらって部屋の掃除をするので大変だったそうだ。俺の免疫力が落ちているから、猫がいるために家の中は雑菌だらけホコリだらけ毛だらけ灰だらけ…というわけだったので、仕方がない。それに加えてお袋まで急遽出てくることになったし、そういう「高揚」したのが今週もまた続いたからかな、と思う。あと実際問題、自分の連れ合い=つまり俺が癌だというので入院していて、死ぬかも知れないとか一人遺されたらどうしようとか、それだけでも物凄いストレスを受けていると思う。俺ももちろんそれは同じことだが。
フと一人で考えた時、やっぱり俺は死にたくないと痛切に思うし、自分が死ぬことも辛いけど、あの人を遺して逝くことを思うと何とも辛い。自分が死ぬことを考えても涙は出ないのに、連れを遺して逝く、遺された連れのことを思うと涙腺がゆるむ。連れ合いも同じだろう、そうして薄皮一枚でふんばっている。
ストレスで人間の体は一日に数千個の癌細胞が発生していて、それを人は免疫力で潰している…ということはもう書いたと思うけれど、その人間が感じるストレスで最大のものは「配偶者の死」。次が、「配偶者の重篤な病気」だ。つまり連れ合いはここしばらく、最大のストレスに日々さらされているということになる。ましてや連れ合いはこれも繰り返すが誤診による膵炎・腎臓摘出・肝不全の身。そこへこのストレスだ。
だから今俺は一番連れ合いに「癌が感染る」ことが心配なのだ。
「癌が移る」など、医学的には何の統計も根拠もない。けれども妻や夫や親が癌になる。すると、そういう「身近な愛する人が癌になったこと」という最大のストレスが、癌患者の周囲の人を襲う。すると、そのストレスで周囲の人間に新たに癌が発生する…ということだ。癌でなくとも長年連れ添った夫婦、片方が癌になり闘病の挙句死ぬ、それを看取った連れ合いが後を追うように死ぬ、そんな話は枚挙に暇がないだろう。とにかく土曜日は早々に二人とも休むことにした。

■18日・日曜日は、夕方までに病院へ戻ればいいことになっていたが、連れを休ませるために昼前に支度をして、俺だけで病院へ戻ることにした。持ってきた洗濯物と交換に洗ってもらったパジャマやタオル、新たなこまごました荷物の入った重い紙袋を持ち、「ついていく」という連れを説得してマンション前で別れ、一人でタクシーを拾って病院まで戻った。昼食は出ないから、食堂でラーメンを食べて、売店で飲み物を買い込み、さらに重くなった荷物を持って病室へ戻った。ナースステーションに「戻りました」と報告すると「早かったですねえ!」と驚かれた。
連れはその後、午後に病院へ行って血圧のことを相談すると、やはりいろいろ心配したり働いたりしたので高揚したのでしょう、とのこと。降圧剤を処方してもらったそうで、ひとまず安心。

■今日は午前中、仕事。お昼間際に研修医のS君(♂)が一人で来る。今日は祭日なので他のDr.は休みなのかも知れない、彼と同じく研修医のSさん(♀)がチームの中では一番下みたいだし。触診など一通りしてもらい、その後ちょっと世間話。明日血膠内科のカンファレンスがあるので、T科長と相談の上、何かしらの治療方針なりの説明があるでしょうとのこと。細胞サンプルを送って意見を訊いているJ大学の先生からの返事はまだ届いてないはずだから、はっきりと診断がつくかは不明だろう。あとこないだ取った骨髄の細胞、遺伝子の転位だかがやはり起きていたそうで、それははっきりしたが、やはり病名のはっきりした見極めが難しいという。T細胞性であることは間違いないということだったのだが、それも未確定になってしまった。
彼は俺が顎の下のリンパ節の腫れが「今日は小さい」と言うと触って「本当ですね、これは…(定規をあてて)5mmくらいですね、小さくなってますね」と言い、わきの下も確認。左脇の下も若干小さいといい、あと脚の付け根のソケイ部を触って、「ああ、これはもうはっきり小さくなってます」と言う。俺が「自分でも毎日触って確認してるんですが、今日は小さいですよ」と言うと、脾臓を確認して「脾臓も…前はもうちょっと腫れが大きくて固かったような気もしますねえ」と不思議顔。
「白取さんの場合はほとんど変化がないままずっと来てるんで、治療方針も難しい部分がありますねえ」と言うので俺が「無治療のまま寛解した症例もありますよね」と言うと「そうですそうです、あるんですよね!」と言って「よく勉強されてますねえ」とニヤリ。「その場合は地固めって言って、残ったわずかな癌細胞を化学療法で叩いて、あとはもう外来で様子を見るんですよ。その場合はもう移植まで行かなくても治ることもありますし、仮に再発した場合は、最初にやるはずだった化学療法から始めるんです」という。
俺は「自分でも症状がこれだけ変化がないと、脾臓の腫れと免疫が下がってる以外は痛みとか不都合を特に感じないから、はたして抗癌剤でこの大人しい癌細胞を叩けるのか疑問なんですよ」と言うと、S研修医も「僕もそう思います、S先生(主治医のS先生、イニシャルがSばかりでややこしい)も様子を見たほうがいいという意見です」とのこと。俺はもちろん抗癌剤投与を受ける気満々で、そのために入院したと思っているのだが、明らかに自分の病気…癌の進行が遅く、容態も悪化というには大人しすぎるのは気づいている。なので、ここに至ると暴れていない、つまり進行していない癌を抗癌剤で叩くことが可能なのかということに疑問を感じ始めてきているのだ。俺は「抗癌剤、つまり化学療法で死ぬ人もいるんだって言うしね」というと「そうなんです、薬でというのじゃなくて、治療中の副作用で肺炎になったり、感染症で亡くなるということがほとんどなんですよ。なので、こういう大人しい症状の場合は強い治療は避けるのが普通なんですよね」とのこと。なるほど。ついこないだ「来週からコホリンを入れましょう」なんてことになってたわけだったが、もし入れていたらどうなっていただろうか。とにかく主治医のS先生は様子を見るべきという意見で、実際この間も進行がこのまま遅いのなら、外来で治療のタイミングをはかるという方法も視野に入れる、と話されていた。ともかく明日は定例のカンファレンスがあるので、T科長とも相談してなんらかのまた報告があると思う、とのことだった。
「無治療で寛解」というのもまんざらあり得なくはないな、と本気で思い始める。

■今日の御礼
外泊から戻ると、友人のKから郵便、あけるとRainbowのDVD。ありがとう!
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2005-09-13(Tue)

えっ、退院?

9月13日(火)
今日は午前中に胸部レントゲン検査。午後は何もないし暇だなと思っていたら、バンド仲間だったS井から郵便物が届く。開けてみるとDeepPurpleのIN CONCERTのCD。これはこないだ見舞いに来てくれた時に、俺が高校の頃に買った2枚組のレコードしか持ってないので、今は聴けないんだと話したやつ。S井によればCD化されていたということで、しらなんだ、と言ったら送ってくれたのだ。ありがたいことです。早速パソコンで20年ぶりくらいに聴く、いやはや懐かしい。やっぱりこのメンバー時代が最強だな、生半可なバンドにこれだけの生演奏ができるかよ…なんてやってたら突然看護婦さんから今日MARK(骨髄穿刺検査)があると言われてビックリ。
しばらくして検査。今回は研修医のSDr.による胸骨からの採取だった。ところが麻酔が足らず激痛、思わず「イッテテテテテ!」と声が出る。すぐに主治医のS先生が「麻酔追加して!」と指示、んで骨髄採取。今回は2ccだそう。この骨髄を吸引する時はあの「1,2,3!で行きますよ」というやつ、「3」で骨髄がググーッと引っ張られるあのとてつもなく不快な感覚が襲う。こればかりは麻酔で軽減できるものではないので、不快なこと夥しい。ともかく終わって針穴を消毒後、ガーゼをあててテープを貼り、左耳から首筋の方へ垂れた血を拭き取られ、ベッドと背中の間に敷いてあった紙を取って、患部に重りを載せられて終了。「1時間くらいそのまま安静にしていてください」と言われてひたすら時間が経つのを待つ。胸の上には重りが載ってるから、首だけを左に向けてTVを見ていると首が痛くなってくる。なのでしょうがなく目を閉じて、ウトウトしかけると4時になり、看護婦さんが来て重りを取ってくれた。
その後、連れがここ数年の入院でお世話になっている板橋区医師会病院の勝呂先生が来られる。「奥さんからメールいただいてね、まさかご主人がこんなことになるとはね…」と。科長のT教授とは昔からの知り合いで、既に俺の容態について聞いてくれたといい、「はっきりとまだ診断がついてないみたいだね、大変だねえ」と言って下さる。俺もパソコンに入力してある血液データを見ていただいたりして、10分近く話す。先生はお見舞いだと、花の図鑑を下さった。勝呂先生もお年だというのに、ありがたいことです。



昨日夕方、主治医のS先生が研修医君数名を連れて来られ、朝の採血の結果も含めて、病状の解釈というか、治療方針も含めた説明をしていただいた。

結論から言うと抗癌剤投与は延期ということで、このまましばらく経過を注意深く観察していくということになった。

何度か記しているように、俺の病気のタイプは非常に珍しいということで、採取した骨髄液の細胞サンプルを国内の専門家複数にみていただき、意見を伺っているということだった。その中のある高名な先生にS先生が直接電話していただいたところ、どうも診断を受けたT-PLLすなわち『T細胞性前リンパ球性白血病』ではないのでは、というのだそうだ。もともとこの病院の血液膠原病内科でも、診断に迷うほどで、とりあえず最も近いと思われる病名を一応つけたということは聞いていたので、病名は変わることがあるかもとは予想していた。詳しい専門的なことは解らないが、T-PLLだと血液中に出てくるはずのない血球だか顆粒だか細胞だかが見られるそうで、また白血病の典型的な症状である白血球の異常な増殖も全く見られない、見られないどころか通常の人よりも3分の1ほどに減少し、それもその低い数値でずっと、いわば「安定」している。それはこちらも毎回データを見せていただいて入力もしているので、よぉぉく理解している。ちなみに最新の採血の結果も見せていただいたが、S先生いわく「血球関連以外はむしろ健康診断でも何もひっかからないくらい正常です」と笑うほど。なるほど、まあこの病気はその「血球の癌」なのだから、それが問題なのだが。
俺は「でもこれは癌には間違いないんですね」と聞くと、それはそうだということ。広い意味でのリンパ性の疾患で、もちろん癌細胞はもう出ているから間違いはない。それにしてもほとんどここ一ヶ月以上症状にも採血のデータにも変化が見られず、つまりは進行がほとんどないということだ。脾臓の腫脹は確かに顕著なので、選択肢としては抗癌剤治療を急いでやる必要性よりも、むしろ脾臓摘出ということも考えられるという。ただそこまで脾臓が極端に他の臓器を圧迫しているとか、著しく不都合があるかというと、食後の膨満感以外はあまりない。そして脾臓を摘出したことによって、例えば白血球が異常に増える、つまり寝た子を起こすというリスクも考えられるというから、そちらの方が怖いとも言える。そしてどうも慢性リンパ性白血病に似ているけれども、T細胞性であることは確かで、でもT-PLLではない。となると悪性リンパ腫の可能性も再び浮上してきて、そのあたりの見極めがきわめて難しいということなのだという。
意見を伺った関西におられる大家の先生は白血病の大家であり、リンパ腫となると、別にJ大学の先生がおられるという、なのでこうなったらそちらの意見も聞いてみたいという。俺も急いで治療をする必要がないのなら、徹底的に調べてもらって間違いのないようにして欲しいし、「抗癌治療にはまだ入らない、病名確定まで時間がかかる、それならばすぐに退院させろ」などとわがままを言う気もない。むしろ、急に悪化するようなことがあったり、感染の心配があったりするのなら、病院にいる安心感の方が大きいと伝えた。S先生は、ともかく急性転化するというのは骨髄性白血病の症状であり、俺の場合はまずそういうことはないだろうということ。だとすれば、少なくとも今の状態が続いている限りは、入院している必要もなく、退院して感染や貧血に注意しつつ、通院で血液検査などをモニタリングしていくということでもいいのではないか、というのだ。
とりあえず今週から予定されていたはずの抗癌剤治療はなくなり、あるとしても一〜二週間は先になるということで、その間はS先生も意地なのか、「僕も国内の専門家に聞きまくりますよ!」と言ってくれる。俺も俺で、「治療が長丁場になることは覚悟していますから、徹底的に調べてください、その上でやはり入院の必要なしと言われるのであれば、退院させていただくということで」とお願いした。病気は医師だけの力ではなく、患者の治ろうとする力も必要だ。S先生は医師としても人としても、極めて信頼できる方だとこちらも信用している。俺も患者として信頼されるようにならなければいけない。

それにしても俺も一時は死を覚悟した。いや、今でももちろん覚悟はしている。正直を言えば、入院して数日後に一人病室で点滴の刺さった自分の腕を見つめていたら、この病気とその果てにある死を現実のものとして受け入れられず、涙が出たことがある。
生検で癌細胞が出てしまった以上、癌宣告と余命宣告をされ、ショックは受けたが、今は立ち向かい克服する戦いに向かう意欲に燃えている。絶対に癌に勝つ、寛解どころか完全治癒してやる、もし俺の病気が日本では症例がないほど珍しいのなら、俺が完全治癒すれば治癒率100%ではないか。これほど後で同じ病気にかかる患者を勇気付けられるデータもあるまい! とまで前向きに考えられるようになった。むろん、ここにいたるまでには苦悩したし、恐怖や絶望や人に言えぬ慟哭があった。そんなに簡単に切り替えられるものではない。俺はスーパーマンではないし、ただの弱い人間だ。そしてこれはお涙頂戴やご都合主義のチンケなドラマではない、現実なのだ。
こうした前向きに意識を向けられたことで、免疫力が高まり、癌の進行を抑えているのだろうか。そんなこともチラと考えないではないのだけど、この病気は自覚症状がほとんどなく、よくよく考えればここ半年か一年、こんな感じだったと思う。何年もかかったかも知れない。それが本当に偶然、もうはっきり書いてもいいと思うが、浮間舟渡駅前・iタワークリニックの岡本先生(命の恩人だ!)が健康診断のレントゲンで縦隔の影…それはリンパ節の腫脹だった…を見つけてくれたことで、発見できた。そこからも、ほとんど病気自体は進行していないのだ。
死は覚悟はした。死ぬということが、身近に、現実のものとしてあるということをようやく受け入れた。次はいかにそれを先に延ばすか、つまりは抗癌治療と骨髄移植に向かう決意をした。癌と闘い、それを克服するという決意だ。だからもう長丁場になることも、それが辛く苦しい道のりであること、つまり精神的にも肉体的にも経済的にも、あらゆる面で辛い道のりであることを覚悟したのだ。そうしてひたすら待った。その果てに、ひょっとしたらこのままくすぶり続けるのではないか、という道が可能性として見えた。それは、確かに辛い抗癌治療や骨髄移植の道よりは楽かも知れない。だが癌は癌だ、それを抱えたまま、感染のリスクやいつ悪化するかという恐怖に怯えながら生きていくことになる。どちらがいいのかは解らない。ただ、偶然というものはなく全ては必然だとすれば、俺は俺の、この癌という病気に侵されたことの意味を俺なりに理解している。
連れ合いが長く病気に苦しみ、入退院を繰り返し、健康体ではない状態に今もある。一方俺は自分を健康だと過信し、看病をしている時はともかく、普段は彼女のスピードに合わせて手を添えてあげることをしてきただろうか。本当の意味でお互いをいたわり、お互いに真に支えあったと言えるだろうか。俺の今回の癌という病気を得たことの意味は、お互いがそろりそろりと本当に体を労わり合い、支え合い、同じペースで人生を歩めということではないのかと思ったのだ。だとすれば、もし俺はこの癌が克服できたら、本当に心からそうしよう、そうして生きて行こうと誓った、まさしくその状態が「道」として今見えたのかも知れない。
もちろん、そんな話ではなく、各方面に問い合わせ、意見を聞いた結果、これこれこういう病気と確定した、なのでこういう薬でこういう治療をします、となるかも知れない。それは解らないし、最も顕著な「症状」である脾臓の腫れは依然あり、治まるわけはないのだから、摘出が必要なほど腫れる可能性だってある。ただどちらにしても、この病気と闘うことに違いはない。俺は頑張るし、先生がたも頑張ってくれている。癌の野郎、逃げるなよ。
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2005-09-12(Mon)

母来たる

9月10日(土)〜12日(月)
10日・土曜日の朝、9時半過ぎに着替えなど支度をして、ナースステーションに挨拶をして外泊許可証を渡して出かける。久々に私服で病院の下まで降りて、そのまま外来出口からバス停へ向かうのは実に変な気持ちだ。発赤羽行きのバスに乗り、これが元気に退院…ならどんなにいいだろうかと考えた。何年ぶりかに母親と息子が顔を合わせるわけだが、それがこんな病気のせいというのが何とも悲しいものだ。バスが発車して赤羽駅西口ロータリーに着くまでは30分少々。その間街の風景を眺めたり、乗り込んでくる客を見たりしていたが、バスに乗ると解って待っていたくせに乗り込んでから小銭を探す奴、マスクもせずにガハンゲホン咳を撒き散らす老人など、外に一歩出れば確かにストレスだらけの世の中だなあと考える。自分を麻痺させ、厚顔かつ無恥な生き方をすることがもし出来れば、ストレスは生じないかも知れない。だがその分誰か心ある人のストレッサーになる。健康な人間でも、一日に数千個の細胞が癌化しているという。普通の人は自分の免疫力でそれらを退治している。だが免疫力が落ちたら、あるいは強いストレスに継続して襲われ、処理能力を超えたら、あるいは様々な要因が複合したら、人は「癌」という「病」に侵される。ストレスのない生活など不可能だ。厚顔無恥にならずとも、笑い飛ばすこと、ストレスを溜めずに発散すること、自己免疫力を高めることが大切なのだが。生きるということはそれ自体が苦行であるという思いをここ数年持っていたが、そのことは確かにストレスを溜めることになっていたのかも知れないと思う。

お袋は昭和9年生まれだから齢七十一である。東京は十数年ぶりか。携帯など持っていないし、空港から赤羽駅への道のりを噛んで含めるがごとく教えはしたが、ちゃんと来られるかどうか不安だった。連れは自宅から直接赤羽駅改札で合流する予定で、その時間まで30分以上あったので、ゆっくりゆっくり歩きながらアーケード街を目指す。もう秋とはいえまだまだ日中の陽射しはギラギラと暑く、マスクをしているのは俺一人くらいなものだ。俺とて暑いから取りたいのだが、今変な風邪でも貰ったら大変なので、我慢して汗を拭きつつ歩く。アーケード街にある100円ショップで入院生活で必要になったものを買い込み、薬局で手指消毒用にアルコールウェットティッシュを買って、ゆっくり駅まで戻る。連れに電話するともう埼京線に乗るところだといういうので、駅まで行き北改札前で待つ。さすがにちょっと動悸がしたので、柱によりかかって待つ。動悸がするのは貧血で酸素を運ぶ血が足りないからだろう。ただそれよりも、三週間以上の入院生活で足腰が萎えているようで、両足の付け根の蝶番が少し痛い。10分ほどで連れが改札出てきて合流。心配したが、さらに10分近く待って、お袋がちゃんと改札から出てきた。

お袋は連れ合いと合流した後、俺が歩み寄っていくと抱きつかんばかりに笑顔を見せながら涙を見せた。俺が迎えに来ているとは思わなかったらしい。もちろんまだ抗癌治療は始まっていないのだから、貧血で免疫力が低下し動悸や息切れがする以外は食欲もあって元気だ。だが向こうにしてみれば突然の息子の癌と余命宣告だから、ここ数週間は食も細くなって何をしても楽しくないという状態だったという。まさか迎えに来るとは思っていなかった、大丈夫なのかいと立て続けに言う。お袋が俺の顔を見て泣くのは生まれて初めてのことだった。とりあえず駅に隣接している予約したホテルに荷物を預かってもらい、2階の中華レストランでご飯を食べる。その後はタクシーで自宅に向かう。
3週間ぶりの我が家だったが、猫たちはもちろん俺に喜んで甘えたものの、それ以上にお袋に甘えまくるので驚いた。ユキはヒザの上でクネクネしたりゴロゴロ言ってだかさっては服を爪でモギモギしたりしている。人嫌いのはずのシマも出てきて、お袋にちゃんと挨拶をした。猫好きはちゃんとわかるのが猫か。その後は落ち着いて、3人でゆっくりと話をする。俺が一歳の時に亡くなった親父の思い出話、親戚の話、お袋の昔のビジネスの話や地元函館の話、俺や兄貴の子供の頃の話から実家に戻った兄貴の近況など、とにかく話は尽きない。これでは俺が死んでしまうことが前提で、お袋は今のうちにと思っているのではないかと思うくらいだ。
夕方、お袋のホテルにチェックインしがてらご飯を食べようと、タクシーで再び赤羽へ向かう。街は土曜の夜なのでざわついている。以前連れと和食を食べた店へエレベータで上がり、掘りごたつの座敷に落ち着く。
俺も連れも一杯やりたかったし、お袋もそれは同じだろう。だがそれはみんなが健康であればの話。俺は癌で一時外泊中。お袋はその息子を案じ、過酷な治療前に元気な顔をと、はるばる会いにきたのだ。乾杯してカラオケでも…という楽しみは治って元気になってからにしようということにして、食事だけにする。単品で旬のさんまの塩焼きがあったので、しばらく食べられないと思いオーダーした。大降りで油ののったさんまの塩焼きは美味で、入院中とはいえ旬のさんまが食べられて嬉しかった。
ご飯の後はホテルにチェックインして、しばらく話してから帰る。ご飯を食べる前に通った東口のロータリーでは翌日の投票日前最後の追い込み、自民党の宣伝カーに舛添要一が来ているというので、物凄い人だかりだったが、ホテルの部屋に上がって窓から見降ろすと、今度は民主党、羽田孜が来ているようす。だが人だかりは自民党の半分以下という感じ。その時に今回は小泉首相の「劇場型」選挙にまんまと大衆がノせられて、たぶん自民党が勝つのだろうと思った。そんなに動いたつもりはなかったのだが、やはり3週間ぶりに外の街を歩き回ったせいか、再び自宅に戻るとちょっと動悸がした。風呂もやめて、10時には床に入る。

日曜日は前の晩久々に寝室で猫たちと一緒に寝たが、結局あまり眠れずに8時過ぎに起床。朝食後はテレビを見てゴロゴロしたり、メールチェックすると仕事の更新データが入っていたので、自宅の速い回線のうちに終えてアップしてしまおうと、作業を始める。お袋のホテルに電話し、1時にホテルで待ち合わせることにして、12時半ころ支度をして、TVの上に横たわっていたユキにも、寝室のダンボールの上に寝ていたシマにも「しばらくまた会えないけどいい子にしてるんだよ」と言い聞かせて出る。久々の帰宅はアッという間に終わり、またしばらく病院暮らしだ。
タクシーで赤羽まで出て、ホテルでお袋と合流。お袋は午前中暇だったので赤羽の街を少し歩いたという。ブックストア談で本も3冊ほど買ったという。そういう荷物はチェックアウトする時に送ってもらって、手ぶらで帰ればいいんだよと言って、1階まで降りる。ガード下の蕎麦屋で食事。赤羽駅は都内最北の繁華街、以前は場末という印象の街だったが、駅舎を建て直し、ガード下に商店街を作って駅周辺の印象もガラリと変わって、活気あるいい街になった。日曜なので人手も多い。食事の後は病室で食べるオヤツを買い込んで、タクシーで病院まで戻った。
俺は久々の外泊で自分の家に戻れて猫も触れたし、お袋にも会えて良かった。けれども、やはり自分は癌であり、これから過酷な抗癌治療が待っている身、免疫力も落ちている。なので病院へ戻ることは寂しいとか逆戻りだとかいう暗い気持ちではなく、むしろホッとする気持ちの方が大きい。ナースステーションにはよく当直になるA嬢がいたので挨拶し、明日お袋が午前中病院に来るので、主治医のS先生にお会いできたらご挨拶したいというと、伝えておいてはくれることになった。病室に戻り、パジャマに着替えると病人に逆戻りだ。お袋には再三、自分は死ぬつもりはないし、絶対に癌を克服して今度はこちらから函館に行くと話す。お袋は俺がまだ癌治療そのものはしていないので元気だということに最初は驚いていたが、その元気なうちにこうして会ってご飯食べたりいろいろ話が出来て良かったと思っていると言う。連れ合いは少々疲れているようなので、今日は先生も来ないし俺も早く寝るからと、二人は4時頃先に帰した。
この日から相撲は秋場所。結びの一番では朝青龍が普天王に完敗、思わず病室で拍手をしてしまう。夕飯も完食し、日記を二日分つけつつ、ナイターを見る。8時で投票が締め切られると同時にナイター中継をしていた日テレの出口調査の数字が一斉に公表されると、自民党が地すべり的圧勝という予想。何と300議席前後まで伸ばすという、嘘だろうと思ってNHKはじめ各局を廻すが同じ。この国は小泉がそんなに好きなのかと驚くと同時に行く末が心配になる。9時消灯、疲れてたのですぐに寝る。

12日月曜日、今朝は夜中に何度も目が覚めて、朝は5時前から悶々。6時過ぎに採血。選挙の結果を見ると昨日の出口調査の通り、自民党が300議席近くを取り、30議席ほどの公明党と合わせて衆議院の3分の2以上の議席を獲得、つまり絶対安定多数以上を得るという結果。これでは今後憲法改正も消費税の値上げも何でもかんでも自公のやりたい放題だ。国民が「それでいいよ」と言ったんだからしょうがない。小泉さんの言う「改革」は間違ってはいないと思う。無駄に多い公務員を減らす、民間に出来ることは民間に任せる。それが結果的には低迷する経済の活性化にもつながる、それなら全く正しいと思う。それが本当に出来れば、あるいは郵政民営化が本当に公務員天国である日本の本当の改革の第一歩になるのなら、応援もやぶさかではない。やれれば、だが。
8時半過ぎに病室にお袋が入ってきた。本当は見舞いは3時以降という決まりなのだが、昨日病院に事情を話して了解は取ってある。またいろいろと話をしていると、11時過ぎにS先生が来てくれたので、お袋は挨拶をして病状と今後の治療の話などもするが、俺らがこれまで説明を受けていたままの話で、それはお袋には俺の口から説明済み。だがお袋にしてみれば、先生の口から聞くのとでは安心感が違うし、先生と一緒に俺が「治そうと思ってお互い頑張るから」と話すと、多少安心した様子だった。何せ「何でこの子がこんなことになったか」みたいなグチめいたことまで先生に涙目で言ったりするので、「そんなこと先生に言ってもしょうがないでしょ」と俺が制したくらいだった。
あとは兄貴のHLA型の結果が届いていたとのこと。ただ残念ながら適合しなかったということだった。ただとにかく今は寛解に持っていくことが目標で、それを維持し、その間に移植を目指すという流れだから、まずは抗癌剤による副作用に耐えること。癌に対する治療はまだ始まっていないのだ。S先生はお袋の返答に困るような話にもちゃんと受け答えてくれ、15分くらい話した後、俺のリンパや脾臓を触診し、心音などを聞いた後、出て行かれた。出掛けにお袋が一緒に部屋を出て、ちょっと何やら話した様子ですぐ戻ってきたが、話の内容はあえて聞かなかった。きっと大事な息子だから絶対助けてくれ、とお願いしたのだろう。そういう思いは痛いほど解る。
12時ちょい前、一緒に下まで降りて、タクシー降り場でちょうど客を降ろした車にお袋を乗せ、手を振って見送った。お袋の様子ではあの後たぶん車中で涙を流しただろう。これが今生の別れではない、そうはさせないと思う。病気を克服して、酒を呑んでカラオケにでも行こうと話した、そうして元気になって再び顔を見せることが何よりの親孝行だろうから、それまで頑張ろう。
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2005-09-07(Wed)

不在者投票

9月7日(水)

夕べは仕事のデータがメール添付で来たので、データをダウンロードさせたままノートPCを閉じて寝てしまった。ADSLのスピードが恋しいが、病院で受信できるだけ有難いと思わねば。久々に点滴がないせいで久々にゆっくり熟睡できるかと思ったが、意外と何度か目が覚めてしまった。何回か夜勤の看護婦さんが見回りに来るのだけど、そっと来てくれるので問題はない、ただ点滴生活での浅い眠りに慣れてしまったのかも知れない。それでも点滴アリ時よりは概ねよく寝られた方だろうか。6時過ぎに自主的に起きて検温し、洗顔などしたあとボーッとテレビを見ていた。その後仕事をしてデータのアップロードをしながら朝食。なかなか進まないFTPの進行度インジケータをチラチラと見ながら完食、データのアップも終えた後はやることもないのでPCのスパイダーソリティアを始める。ていうかソリティアやりっぱなし。別に何が面白いわけではないのだが、クリアできないと腹が立ち、すぐに次のゲームを開始してしまう。勝てるのは数十回に一回なので、必然的にやりっぱなし、というわけ。
昼食後、昨日貰った病院内での入院患者用不在者投票のカードを持って、衆議院選挙の投票へ行く。ここは7階、特設の投票所は階段を降りて6階のミーティングルームという部屋とのこと。点滴がないのでもちろん手ぶらなのだが、三週間ほどの入院生活で足が萎えているのか、階段を降りる運動がけっこう重い感じがしてショック。この調子だとこの先抗癌剤投与で何ヶ月もベッド生活が続いたらどうなってしまうのか…という感じだ。しかも血小板数も少なめではあるので、転んだりしないように手すりを使い、壁際をソロソロと歩いて会場へ行く。年寄りか俺は。

投票所となった部屋は三方の壁面に長テーブルを向けてあり、パイプ椅子が並べられている。同じ入院患者のお爺さんが一人、すでに投票用紙に書きこんでいる。係の女の人にカードを渡し、投票用紙の入った二重封筒を三枚貰って案内されて窓際のテーブルに座る。部屋に一歩入った瞬間から、この投票用の部屋が異様にタバコ臭いというか、物凄いホコリっぽいような臭いがしたので驚いた。換気扇が廻っているのに、篭っている臭いが凄いのだ。病院内は完全禁煙なのでタバコ臭いわけはないので、ホコリや昔のヤニの臭いだろうか。ともかくマスクをしていて良かったが、係の女性は普通にしているので、普通の人はこの強烈な悪臭は感じないのかと不思議な思いがした。何せほとんどの時間を病室のベッドに取り付けられた大型空気清浄機のエアカーテンの中で過ごしてるわけだから、綺麗な空気に慣れきってしまっているのかも知れない。小選挙区、比例代表の投票、最高裁判官の罷免の3つの用紙、書き終わって二重封筒に封をして、係に確認してもらって3つの封筒に判子をもらい、輪ゴムで束ねたものを投票箱に入れて投票完了。投票は納税者に与えられた権利だから、行使するのは当然。投票にも行かない馬鹿には税金が高いとか消費税が高いとか年金がどうとか言う資格はなし。黙って為政者がやるのを大人しく受け入れてろ、というのが昔からの持論。「投票行動をしない有権者は罰金200万円」にすればいいのにといつも思う。あと違法駐車も一般市民の携帯写メールでの通報証拠採用OKにしてガツンガツン取り締まって一回で罰金10万円プラス減点10、にすりゃ無くなりますハイ。
投票を終えてゆっくり階段を上がって部屋に戻る。息が切れるほどではないが、この程度の「運動」でも用心して動かないといけないというのは、自分が普通の体ではないことをつくづく思い知らされてしまった。しばらくすると看護婦さんが「蓄尿ももうしばらくはいいですからね」と瓶を下げられた。点滴もなく蓄尿もないと、本当に何かただ静養中という感じがしないでもない。その後主治医のS先生が来て腹を触り、容態に変化もないので週末外出をしてもいいということになった。連れ合いにその旨メールすると、家の中を掃除しなきゃと慌てていた。ていうかどんな生活してるのだ。夕方MDr.も来て、同じようなことを話していった。「何か質問とか気になることはありますか?」と言ってくれたので、ズバリ「一番気になるのは助かるかどうか、Mさん「いや、でも昔みたいにこの病気は不治の病ではありませんからね。大丈夫ですよ」と言ってくれた。

その後夕飯前に連れ合いから電話があり、俺が一時外出の許可が出たことをおふくろに言ったら、急遽上京して顔を見に来るということになったという。で、ホテルを調べてというので、一旦切ってネットで検索する。すぐに見つかったので予約の電話番号などをメールして、それからおふくろに電話で確認した。今さらながらネット時代で良かった。おふくろには「別に今来んでも」と言ったが、「顔が見たいから」という。思えば上京してから20年以上、その間実家に帰省したのは5、6回くらいか。そのうちの1回は帰省というより「ガロ」の取材でほとんど実家では寝ただけ。別な一回は正月に帰省したが風邪を引いて寝てただけだった。おふくろが東京に来たのは連れと暮らし始めたばかりの頃に一回、あとは15年ほど前の合計2回だったか。20年間に数えるほどしか顔を合わせいない上、今度は癌だという。考えてみれば何と親不孝な子だろう。親に対する最大の親不孝は逆縁だと思う。それだけは絶対に避けたい、頑張って生きなければ。
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2005-09-06(Tue)

抗癌剤投与またも延期!

9月6日(火)

夕べは寝られたのが11時半過ぎ。ただそのせいか、夜中の点滴交換や見回りで数回目が覚めはしたが、朝6時半の検温まで比較的ぐっすり寝られた。鹿児島に上陸間近の大型台風のニュースやワイドショーを見る。日テレのワイドショーでよく見る男性レポーターが、鹿児島湾に面したテレビ局前の海水が川のように流れ込んでくる歩道で中腰になりながら「私は十数年レポーターをしていますが、台風の中継でこのように立っていることが出来ないほど強い風を受けたのは初めてです!」みたいなことを芝居がかった口調でしゃべっている。スタジオのアナウンサーが「気をつけてレポートしてください」と引き取って音声が途切れた直後、まだ1秒ほど現地からの映像が流れたのだが、そのレポーター氏は必死の形相で中腰だったはずがスッと立ち上がって右にハケていった。ま、TVの世界なんてそんなものだろう。(ちなみに夕方さらに台風が接近した同じ場所からのレポートでは女性記者がもっと暴風の中立って中継していた)

昼食後、教授回診で科長の先生が来た。今日は明日からの抗癌剤投与に備えて、今後の治療方針、スケジュールや使用薬剤、副作用など全般の説明が、午後2時から俺と家族にあると言われていた日だ。教授は俺の首のリンパ節を触り、「うーん、小さくなってる?」と聞くので、「いえ、日によって大きい時もあったりするんですが…今日は小さいかも知れません。あと右脇の下の腫瘍は明らかに入院前の方が大きくてごろごろしてたんですけど」と、後ろにいた主治医だったU先生を見ると、「そうそう」という表情でうなずいていた。仰向けになって脾臓の腫れを触診、「これはここまで来てるんだな…」と下腹部、ほとんどソケイ部の上まで肥大している脾臓を確認。「ともかく、今日2時からご説明させていただきますので」とのこと。
主治医のS先生を呼び止めて、「で、どういう感じなんでしょうか?」と聞くと、「白取さんの場合、非常に進行が遅いというか、症状に変化がないんですよね」というので「だとすると抗癌剤があまり効かない、聞きにくいという状態なんですよね」というと「そうですね、それもありますが…白血球の数値も低いことは低いんですが…ともかくそのあたりを含めましていろいろ検討している次第です」という。また「症例自体が何度も申し上げてますように大変珍しいので、国内の大家と言われる先生も含めて、さまざまな意見を今集めているものですから、やはり症例が少ないのでその辺は慎重に行きたいと思いますので」とのこと。俺も「そうですね、あせって治療に入る必要のない状態ならなおさら慎重にいろいろご検討いただいたうえで、最善の方法を見つけていただいた方が安心ですし」というと「そうですね、ともかく午後にまたお伺いしてご説明差し上げますので」とのことで去っていった。

その後昼飯を食い終わって薬を飲み、一息ついて考えた。
抗癌剤は、癌細胞が活発に増殖を続けているからこそ、ガツンとそれを叩く薬だ。今の俺のようにじわじわと非常にゆっくりと悪くなっている状態だと、効き目も出にくいのかも知れないな。これが慢性リンパ性白血病=CLLのくすぶり型、みたいなものであれば、通常はやはり急に白血球数が上がってきた時などを見計らって治療をぶつけるらしいのだが、俺の場合もそうだということだろうか。だとすれば一度退院し、免疫低下に注意しながら外来へ通ってまめに検査をしてモニタしていき、いつになるか解らないが症状が急変した時=治療どきに入院して抗癌剤投与、ということにならないだろうか。何でもない、これまで過ごしてきた日々の「日常」、それこそが最も今の自分が望んでいたものだ。たとえ癌に侵されていたとしても、治療を急いですることでかえって生命に危険が生じるのなら、それまで家で暮らせる方がいい。一度は抗癌剤も過酷な治療も覚悟はした、数ヶ月か一年は出られないかも知れないと思った、であれば退院させてくれて、マスクの着用や消毒、感染への注意などで不便はしようが、家で連れ合いや猫たちと暮らせる方がいいに決まっている。もちろんそれで癌でさえなければ…とは思うが、少なくとも日常がまた戻ることを想像しただけで、たまらなく嬉しい。もちろん、そう説明されたわけではないし、そんな虫のいい「闘病」などなかろう。だからヌカ喜びになることも解っている。けれど「家に帰る」と想像しただけで、涙が出るほど嬉しい。

1時過ぎ、連れ合いと連れのお姉さんが二人で来てくれる。台風のワイドショーを見て待っていると、2時10分くらいにS先生が呼びに来る。最初ご家族だけという感じだったが、俺も点滴の台を押しながら、出て行くと、問題ないようだったので3人でナースステーションの奥の一角に通された。先ほど教授回診で来てくれた血膠内科長の先生がほとんど説明をしてくれ、主治医のS先生は隣でうなづいているだけだったが、要するにこれまで聞いていたことと同じで、CLLの一種の大変珍しいT細胞性前リンパ急性白血病=T-PLLでほぼ間違いないとは思うが、若干細胞の形や症状などに疑問点もあって、決めかねている部分があるという。なので、最終的に決めるのはもちろん自分たちではあるが、判断材料としては多い方がいいという意味で、病理学者と臨床家の先生に細胞標本を送って診断を仰いでいるところだとのこと。
臨床家の大家の先生(元阪大の方で現在は那智勝浦にいるという)には手紙でお願いをしたが、最初の病理学者の方へ送った細胞見本が戻ってきたのをさらに送る手配になっていて、結局最終的な判断が遅れているということだった。つまりその分治療開始=抗癌剤投与が遅れているが、血液のデータなどを見ても、リンパ節や脾臓の腫瘍の様子を見ても、ずっと同じような状態が続いており、良くなっても悪くなってもいない。従ってこの一週間の抗癌剤投与の延期で急激に悪くなることは考えにくいので、その間になるべくきっちりとした診断をした上で使う薬も決め、治療にかかりたい、なのでそれまで待っていただくことになる、ということ。
抗癌剤投与はまた一週間ほど先に延びることになった。
もちろん一時退院してとか外来でとか、そういう虫のいい話にはならなかった、当たり前だが。それと、こういうくすぶり型でいても、突然急性転化するかもしれない、その場合にはすぐに治療を開始することもある、ということ。要するに(抗癌剤は最初に使う薬剤が最も重要な役目を担う、ここで出来るだけ多くの癌細胞を叩いておくことが重要なのだ)使う薬は最も効果的なものにしたいので、そのためには俺の珍しい病気の型が従来の治療方法のどれにあてはめれば最も効果的か、あるいはどの抗癌剤を投与するのが最もいいのかを決定する判断材料を待っている、ということ。
何か質問ありますか、ということだったが、もう大筋で理解しているので問題なく、「脾臓摘出の可能性はありますか」とか「寛解導入後に移植をする場合、第一寛解期以降の再発からだと生存率が下がっていくんですね」とか確認のために一つ二つ聞いたくらいで辞す。S先生が抗癌剤投与が延びたことで、「今は炎症反応もないし点滴もしばらく外しましょう」ということになった。


2時半過ぎに部屋に戻ってしばらくしてお姉さんと連れは下に8月分の入院費の会計と歯科外来治療費の支払いに行ってくれるついでにお茶してくると出て行った。3時前には看護婦さんが来て、「じゃあこれ抜きましょうねー」と言って点滴を抜いてくれた。これから抗癌剤投与のスケジュールが決まるまで、しばらく自由の身。感染に弱い状態は続いているものの、現在のところは抗生剤も必要ないとのこと、要するにまた準備期間に逆戻りということだ。やれやれ。
その後は三人で台風関連のワイドショーの話をしたり、病気の話をしていて、4時半前に連れは台風が近いせいか(三年前の腎臓摘出手術痕の)腹部が痛むといい、お姉さんと早めに帰るというので、ドアのところで見送る。


それにしても点滴が外れただけでこれだけ動きが楽とは。これが当たり前なのだが、健康のありがたみというのを今さらながら思う。ふだん、当たり前にしていることが出来なくなったりする、それは入院治療中なら当たり前とはいえ、解っていても本当に煩わしいことが多い。いちいち小便を溜めねばならないとか、食後は決められた薬剤をキチッと飲まないといけないこととか、そんなことはたいしたことではない。最も大きいのはやはり点滴、それも24時間というのが実にいろいろと不便だし、まず熟睡は出来ないから、そういう面でのストレスは大きい。また点滴を長く入れているとその血管が固くなったりいたんだりして、血管そのものが痛くなったり輸液が漏れたりするようになる。となるとそのルートを一定期間ごとに変えなければならないのだが、これがまたどの血管にするか、それによってまた痛みや不便度が変わったりもするので、ともかく取れて身軽になれたのが嬉しい。
夕飯をはさんでPC作業をしていると、夜の当直の看護婦さんが来て「点滴取れましたねー、良かったですねー」と言いつつ検温など。点滴がない間はお風呂もOKだし、あと週末の一時外泊も希望してみますか、とのこと。俺は「それはもちろん出来るならお願いしたいけれども、自分の体の免疫力が落ちていることはよく解っているから、絶対外泊したい、というようなわがままは言うつもりはない、ただ主治医の先生から見て、これこれこういうことに気をつけるようにしてもらえれば、週末は自宅で過ごしても問題ない、というのであればお願いしたい」と言う。それは本音でもある。抗癌剤治療前に、たとえつまらん風邪をひいてしまっても怖い。ネコにひっかかれたところが化膿するのも怖いし、何があるか解らないからだ。俺の今の最大の目標は、癌と戦うことだ。そのために万全に体調も精神面も整えておきたい。外泊がその妨げになる危険が大きいと言われれば、それは全く何の問題もなく受け入れられる。
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2005-09-03(Sat)

吉井怜さん、ありがとう!

唐突に聞こえると思うので経過をお話すると、natunohi69さんがご自身のBLOG「東京日記2」内で、吉井 怜さんに御願い。と題する記事の中で「白血病と闘い克服した先輩として、もし彼を勇気付けられるコメントを彼のブログにしていただければ幸いです。」と書いていただいた。その後、吉井さんがBLOG「吉井怜のオフィシャルココログ」内のお知らせなり♪♪♪という記事で、
「私は、長い入院生活でしんどくなってきた時、退院したら何がしたいか。何を食べたいか。やりたい事をたくさん思い浮かべました。そして、治療でしんどい時ほど、その楽しみを思って頑張りました♪あと、長い入院生活でしんどくなってきた時は、お笑いのDVDを見て思いっきり笑っていました!!笑っていると、不安や恐怖をその瞬間だけでも忘れることが出来たからです。参考になったなら幸いです。」
というお言葉を頂いた…というわけです。

natunohi69さんは俺よりもずいぶん年長の方なのに、いつも俺を「先生」と呼んで下さり、そして励ましてくださること、本当に感謝しております。

そして吉井怜さん、自分がお願いしたことではないのですが、間接的とはいえ、こうした「お願い」に真摯にお答えいただいて、感謝いたします、ありがとうございます。
闘病生活や長い入院生活を支えるのは、やはり自己の「治るんだ、治すんだ」という前向きな気持ちと、そして何よりも明るく笑って免疫力を高めるということなんですね。吉井さんは
「病気を経験したからこそ、他の方に安易に励ましのコメントを書くことが出来ませんでした。それは、私自身がまだ完治を迎えていないのと、自分の中でクリア出来ていない思いがあり、うまく言葉がみつからないからです」
と述べておられました。この病気は完治が難しいものであること、よく存じております。しかし、何より吉井さんご自身がこうして社会復帰し、活躍しておられる姿が、今闘病している人たちや、これから戦おうという人たちに何よりの励ましになることを、どうかご理解ください。現実に自分も、こうして励まされた思いを強く持つ一人なのですから…。



9月3日
今日は土曜日で、何の検査も外来治療もない平穏な日。いつものようにナースが体拭きのお湯とタオルを運んできてくれたので、念入りに拭いた後着替えをしていると、突然友人が見舞いに来てくれた。高校時代のバンドメンバーであるK(g→b),Y(kb),S(lg,p)の3人。実はそろそろ白血球値からも、抗癌治療が近いことからも、家族以外の見舞いは遠慮して…と言われていた。けれど「いや、渡したいものがあったんで渡したらすぐ帰るよ」と言って病室まで来てくれた。それはTVに接続するDVDプレーヤや暇つぶしにと録画した自然もののDVDディスク、高校時代のバンドの音源をCD化したものなど。いやあありがたい、ありがたい。結局30分以上3人が「もう帰る」と言いつつも立たせたまま昔話で盛り上がってしまった。
やはり友達というのは有難いと思う、俺を心配して、わざわざバンドのメンバーが何年ぶりかにスケジュールを合わせてきてくれたのだ。この4人が揃うのは、6,7年前に別のメンバーが札幌から上京した時に高田馬場で飲み、カラオケした時以来で、その前に揃ったのは上京直後にスタジオで演ってた時代だから、もう20年前になる。20年間に集まったのが2回(笑)。バンドのオリジナルメンバー4人がまたこうして顔を揃えたのが俺の癌治療の病室とは、ここじゃなかったらそれこそ久々にセッションでも、あるいは飲みに行ってその後は誰かの家でゆっくり思い出話で飲み明かして…ということになるだろうに。こんな状況の自分が悔しいが、この病気のせいで皆が集まったわけでもある…。ともかく何年経とうが、突然逢おうが、昔と同じように普通に話が弾む。それが旧友のいいところだ。ワハハと皆で笑い、そうして癌もやっつけよう。友人のために、応援してくれるみんなのために、もちろん妻や身内のため自分のために。
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2005-09-01(Thu)

N大I病院歯科口腔外科、最高!

9月1日

どうにも点滴のせいで何度も目が覚めるため、朝は朦朧、5時過ぎにトイレで起きる。日中は暑くても朝晩は気温が前ほど高くないのでクーラーは消して寝たが、若干暑い感じ。かといってつければ早朝に寒さで目が覚める、クーラーは室温調節のできるタイプではないので(LMHの強弱調節のみ)、消しておくしかなかった。
ナースのKさんが検温にきて「早起きですねえ」と言って俺の左手首を見て、点滴の針が刺さったところから出血痕があり赤黒く血が固まっているのと、輸液が前のように一定に落ちなくなってきているので、「あれ、そういえばこれもう2週間以上入ってますよねえ、一旦外しましょう」と入院した日に開通させたルートから針を抜いてくれた。「じゃあ朝ごはんが終わったらまた刺してもらいましょう」ということで、しばしの間、終日点滴から解放される。点滴というのは正確には「静脈注射」と言い、注射なので医師しか開通させてはいけないのだ。それにしても久々に腕に管がついてなくて自由に動けるのはいい。これが寝てる時だったらもっといいのだが。
その後ナースが「じゃあ点滴外れてるうちに体拭きやっちゃいましょうか」と言うので、お湯を持ってきてもらう。自分で着替えて体を拭くが、ちょっと力を入れると垢がポロポロ浮いてくるので、ゴシゴシもこすれない。表面の汗とか汚れを拭く、という程度。風呂でうるかして思い切り垢をこすりたいが、今風邪をひいたらまた抗癌剤投与が延びるし、風邪が命取りにさえなりかねないから、風呂は禁止令が出ているから、仕方がない。
その後S女医が来てくれ、外したルートに貼られていた止血ガーゼとテープを取ると、やはり最初のルート穴は2週間の間にいろいろ動かしたためか少し拡がったようで大きく、しかもずっと押し付けられていた点滴チューブの接合部がくっきりと赤い傷痕になっていた。それにしてもあんな大きな穴、俺の血小板でよく止血されたな、と感心。次に別ルートをどこに通すかだったが、S女医は同じ血管の心臓よりに刺すが、輸液を落としてみると、染みるような痛みが走り、実際周囲の皮膚が盛り上がってきた。要するに漏れていたので、すぐ止めてもらう。長いことルートを同じところでいたから、血管がおかしくなってるのかね。結局別のやや細い血管に針を刺し、そこを開通させて点滴再開。手首と肘の中間くらいの変な位置だ。しばらく痛かった。

昼食後、ナースが昨日の胸のマルクの痕に貼ってあった大きめの絆創膏を剥いで消毒をして、そのままふさがないで乾かしましょう、と言って出て行った。しかしすぐにやっぱり俺の血液データでは胸の傷痕の放置はまずいと思ったのか、バンドエイドを貼りに来る。で俺が朝変えた点滴ルートの元方の穴、一応ふさがってるが「これはどうなんでしょうか」と聞くと、そこも念のためと絆創膏を貼ってくれた。だってかなり大きな穴だったもんなあ。
2時過ぎ、連れ合いが来る。朝晩は涼しくなってきたが、日中はまだまだ外は暑いという。もちろんこちらは解らず。もう9月かあ、と外を見るが、景色に変化はなし。週刊文春を買ってきてくれたのでしばらくそれを読み、TVを見ていると3時半頃主治医のS先生が回診に来る。俺の病気は珍らしいゆえ、国内のいろいろな方面へ意見を聞いており、その中でも権威だという人が那智勝浦に住んでいるそうで、返事を待っていると言う。何か大変なことになってきてないか。で、それらの意見も鑑み、火曜に会議があり、それから最終的な治療薬とスケジュールなど方針が決まるという。決まったらすぐ本人と家族にお話します、ということ。M医師が前に「もうお薬も決まりました」と言っていたが、やはり多方面からもう一度意見を聞いて慎重に、ということなのだろうか。具体的には、T-PLLの少ない症例の中で、比較的用いられている抗癌剤を単独使用するか、あるいはよくある悪性リンパ腫の治療法であるCHOP療法にするか、比較検討中とのこと。CHOP療法は複数の抗癌剤を併用し、きっちりとローテーションを組んで投与していく方法。とにかくまず歯科の先生から許可が出ないと治療に入れませんから、ということ。「頑張りますから助けてくださいね」と頭を下げる。

その後、4時過ぎにナースが歯科からお呼びがかかったと呼びに来る。今日は車椅子だ。歯科の先生は左の奥歯を抜糸した後、「前歯のとこ、仮歯入れちゃいますからね、これほっとくと割れちゃうかも知れないから」と言う。「こないだ型は取ってありますから、今日入れちゃおう」とのことで、上の前歯の仮歯合わせ。土台の金属を刺し込み、何度も何度も歯を入れては外して削り、を入れる歯の本分、つまり5本分。かなり長い歯が仮歯の元で、それを患者に合わせて整形・削っていくらしく、最初はめられた歯を舌先で確認すると、恐ろしく長い。口を閉じてもまだ数ミリはみ出すような長さで、一瞬これを仮歯だとはめられたら嫌だな、と思い、同時に今の自分の顔がカジモドのようになってるかと想像するとおかしくなってしまい、我慢していたがついにグフッと笑いが漏れてしまう。先生の手元をライトで照らしていた看護婦が「どうかされましたか?」と聞くので「いや、今自分が物凄い出っ歯になってるみたいだと思って」と言うと看護婦もちょっと笑って「そうですね、今はちょっと」と言うが、先生は作業をしながら真顔で「大丈夫ですよ、これから削って行きますからね」と静かに言われる。そりゃあそうだ。さんまなど目じゃないほどの超出っ歯状態で帰されても困る。
何度もはめては外して調整した後、いよいよ接着。といっても仮止めだが、鏡で見せてもらうと、もう本物の差し歯といっていいほどのできばえ。看護婦も「わあ、凄い綺麗ですねー」と感心していた。ていうか先生の腕が凄いのだろう。
その後、他の残っている歯も一本一本最後に綺麗にしてもらい、終了。「これで一応歯科の方は終わりだから、治療に入れると思うよ。内科の先生に手紙書いておきますから。後は治療が一段落したら、奥の残ったところちゃんとやろうね」と言われる。普通なら何ヶ月か週一くらいで通って、歯磨き指導、歯垢除去、虫歯治療や抜歯、そうしてインプラント処理をして仮歯…というコースを、たった7,8回で一気にやっていただいたわけだ。もちろん抗癌剤投与のために急いでもらったとはいえ、よくここまで短時間でやっていただいたと感激もの。「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、お礼を言う。「じゃあこれでしっかり治療して、また残りは治しましょうね」と言われる。「もう虫歯で死んだりということはないですよね」と言うと、「ちゃんと歯ブラシをしっかりして、口の中を清潔にしておかないとだめですよ」とのこと。再びお礼を言って、病棟に戻る。戻ると5時半頃になっていた。連れは俺が1時間くらい戻らなかったので何をされているのかと心配したというが、仮歯が入ったと見せると驚いていた。「前の差し歯より全然今の仮歯の方がいいくらいだよ」と言う。それにしても本当に有難い、感謝感激。だいたい8本も奥歯を抜歯したというのに、その後全く痛みもなかったし、本当にN大I病院の歯科口腔外科の治療は素晴らしいですよお客さん!

ともかく、これでいよいよ癌細胞をブッ叩く戦闘準備が整った。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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