2006-06-29(Thu)

寸断された輪

6月29日(木)
夕べは夜11時前になって、連れ合いが京都から帰宅した。東京駅で買ってきてもらった弁当を一緒に食べながら、録画しておいた「銭形金太郎」を見た。京都の話なども聞いたりして、二人とも寝たのは2時ころ。
今朝は10時半過ぎ、ドアフォンで起こされる。二人とも寝ていたし面倒なので転がっていようと思ったが、連れ合いが「京都のホテルから送った荷物かも」というので飛び起きて下へ降りると、ペリカン便が宅配ボックスへ入れた後だったのでガックリ、また上に上がり、宅配ボックスのキーを持って下へ降り、開けてみるとやはり連れ合いのキャリーバッグだった。それを転がして部屋に戻る。
朝というか昼メシはトースト、アイスオレ、野菜スープといういつものセット。連れは昨日新幹線車内で食べようと思って買っておいたサンドイッチを食べた。午後は仕事、夕飯はご飯を炊き、昨日スーパーで買ったうなぎを焼いて、きゅうりとレタス・ツナのサラダを作ってもらい、食べた。スーパーで蒲焼になっているうなぎを買った場合、お酒をちょっと振って、トースターやオーブンで焼けばふっくらと美味しくいただけます。食後はスイカを食べる。

ニュースは今日一日、北朝鮮に拉致された金英男さんとその両親の面会の様子でもちきり。ただ、完全に北によって洗脳されている金英男氏は自分は拉致されたのではなく、泳いでいたら流されたのを北に助けられたと意味不明のことを語り、横田めぐみさんの件については口汚く日本政府をののしり、めぐみは気が狂って死んだと、生存を信じ北への渡航を自制している横田夫妻に対し何の配慮もない口調で語り、さらには二人の子であるはずの金ウンギョンちゃんを「絶対に日本には行かせない」と強い口調で宣言した。彼も北の犠牲者とはいえ、見ていて本当にヘドが出る不愉快さであった。
何の罪も落ち度もない少女を親から引き剥がして拉致し、その国で暮らすよう強要するような国家に対しては、横田さん夫妻のように「こちらには何も落ち度はないのだから、今すぐ娘を戻せ」というのが筋だろう。韓国の金さんの家族は「会えるのなら北へ赴く」と国境を越えた。親の情愛としては無理からぬとは思う、思うのだが、案の定、それは北のプロパガンダの場に利用されてしまった。予想のついたことだった。そうして一度は手を結んだ日韓の拉致被害者家族の輪は寸断された。他国の何の罪もない民間人を拉致し洗脳しスパイになるべく教育をするだけではなく、偽札偽造や覚醒剤製造・密売を「国家的に」行う独裁国家が21世紀の世の中、現実に存在することが信じられない。そして、そういう国に対し愛想笑いをしご機嫌伺いをするかのような対応をする国家が存在することも、信じられないことだ。
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2006-06-27(Tue)

W杯、佐藤錦、夕張メロンゼリー

6月27日(火)
連れ合いが月曜から京都の大学へ出勤中。夕べ寝たのはW杯オーストラリア対イタリア戦を見た後、2時過ぎだったか。日本が早々に離脱してしまったW杯は興味が半減したのは事実だが、イングランドしかりスペインしかり、ブラジルはもちろん、とにかく16強が出揃ってからの試合はやはり純粋に「サッカーとして」面白い試合ばかり。本当のW杯はここからなのだと、はっきり解る。やはり日本はこの舞台に立てるレベルではなかったし、それはクロアチアも同じことだった。試合を見ていればいかにレベルが違うかが、俺のようなド素人にさえはっきりと解るのだから、プロや目の肥えたファンが見たらそれはもう…。それなのに、W杯前にはそのプロの中でも「16強は確実」「8強だって」「いや4強も」まで言っていた人間がいたのには、今さらながら開いた口が塞がらない思いだ。まあ「今回アジア予選ではまあ確かにそこそこやったし、あの中では強かった。でも本戦は別、この組で2位通過は至難の業」とはっきり分析したら、W杯で儲けようと思ってる連中から総スカンを食らうからなあ。それはテレビ局もそうだし旅行代理店も広告代理店も、タレント事務所もスポンサーも、その辺のスポーツバーだけじゃなく「W杯放送中」と書いただけの飲み屋まで、とにかく経済効果に期待する向きは全て、敢えて冷静な戦力分析と日本というチームの客観的な評価を封印したということだろう。
その意味では、オーストラリアは16強にふさわしいチームだった。身体的に強いし、ヒディンクが育てただけあって組織力もあり、個人の技も日本より上だと思った。イタリアが一人欠いてしまった後は特に怒涛の攻撃を見せ、互角以上に責め続けたし、それを(かんぬき)と言われる鉄壁の守備で必死で防ぎつつも攻撃の手を抜かないイタリアの戦いぶりも見ごたえがあり、目が離せない好ゲームだった。結局イタリアは90分で勝負をつけようとし、オーストラリアのヒディンクは延長を睨んでいたのが勝負を分けたと思う。イタリアはロスタイム終了寸前、誰もが延長と思った時にペナルティキックを巧みな「小芝居」で得ると、途中出場したトッティがきっちりと左上隅に蹴り込み、これがもちろん決勝点となった。いや、あれは本当にオーストラリアには酷なPK宣告だった。あれは誰が見てもシミュレーションぽかったし、PKを与えるほどの反則とは言えなかったから、ひどい判定だとは思ったものの、オーストラリアはそれを受け入れ、敗戦後も堂々としていて見事だった。このチームと戦う前に「ここにだけは確実に一勝」と言っていた日本は猛省すべきだろう…。
とまあそんな調子で朝は11時過ぎに宅急便の「ピンポ〜ン」で起こされる。受け取ると、虔十書林の店主・多田さんから、山形のさくらんぼ。毎年ありがとうございます。こういう旬の食べ物は体にもいいことだろう。ビタミンもたっぷりだし。京都の連れにスカイプで通信、京都から何かお返しに送ってもらうように伝えるが、その後思いなおして、夕張メロンゼリーをお返しに送る手配をする。
【楽天市場】ゆうばりめろん城:夕張メロンで作ったメロンゼリーご賞味ください
いや、このゼリー本当に美味いっすよ、オススメです。まるでメロンの果肉を食べているかのような食感と味、一度お試しください。
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2006-06-22(Thu)

アイスで腹痛?

6月22日(木)
夕べは1時過ぎに寝た。腰痛の影響はだいぶ薄れたが、用心してパソコン仕事は最小限…バイタル記録とメールチェックのみにとどめている。今朝がた、7時ころに胆嚢のあたりが痛くて目が冷めた。いつもの腹痛なのだが、吐くほどではない様子なので、トイレに立つ。ふんばってみると何とか少し便が出たが、痛みは治まらない。そのまま布団に戻り、悶々とする。吐こうか、でもそうするとまた顔の毛細血管が切れて(?)ひどい顔になるし…と逡巡しているうちにうとうと、30分ほど軽く寝られた。目が覚めてもまだ痛みはあり、それを繰り返すうち、11時くらいに連れ合いが起きた頃にはほぼ治っていた。その後もうとうとして、連れが台所で野菜スープを作り始めた音で起きた。12時過ぎにようやく布団から出たわけだが、眠りが浅かったせいか、眠いというかだるい。
夕べは夕食にラーメンを食べた後、ダラダラとロールケーキを食べたり、お菓子をつまんだりしたのだが、それとて吐くような量ではない。寝る前にバニラアイスを食べたのだが、ひょっとしてあれかも知れない。こないだ(16日)に吐いた前の晩、弁当にキムチの後、やはりバニラアイスを食べていた。あれってけっこう胃に負担がかかるのかも知れないなあ、気をつけよう…と思う。
昼は野菜スープにトースト、アイスオレで済ませる。管理しているサイトのデータが来ていたので腰痛を気にしつつそろそろと休みながら仕事をこなし、あとは一日テレビを見てゴロゴロする。午後は連れ合いがAmazonに注文したマイケル・ジャクソンのPV集DVDが届いていたのを取ってくる。連れが「マイケルの全盛期の歌と踊りは本当凄いのでまた見たい」というので注文したが、何も見るものがないときに見ることにしよう、と一旦棚にしまう。
夕飯はご飯を炊いてもらい、俺がもやしとピーマン、豚肉で肉野菜炒めを作って、キムチやイカの塩辛などで食べた。夜はどっちの料理ショー、なんつッ亭対せたが屋の夏の新作ラーメン対決。どちらも「店の名前が駄洒落」というのが…。
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2006-06-20(Tue)

腰痛…

6月20日(火)
夕べは1時過ぎに寝て、今朝は連れが先に起きて雑煮の支度をしてくれており、俺はゆっくり12時前に起きる。
午後、ソファから立ち上がって台所まで歩き、ネコえさのトレイやらの前に置いてあった燃えないゴミのビニール袋にゴミを入れるのでかがんだら、腰がビキッときた。物凄い激痛が走り、思わず「いてて!」と声が出る。腰というより、左の腰より少し高い位置で、腹筋の真裏のあたり、つまり背筋だ。腰などの骨の痛みではない筋肉の痛みらしいが、とにかく体重や力がかかると激痛が走る。息をしても痛い。そろそろと歩いて背筋を伸ばすように梁につかまると少し楽だが、歩こうと体重がかかると痛い。梁に両手をあて、背筋を伸ばすようにしばらく立ってしのいで、それからそろりそろりとソファに移動、かなり苦労してようやく横たわる。…運動不足なのだろう。そうやって小一時間ほどじっとしていると痛みが薄れてきて、楽になってきたのでそろそろと立ち動いたりする。こんなんじゃあ今日はとても仕事ができないな、と諦めてテレビばかり見ていた。
夕方は6時前にシチューとパン、トマトスライスで夕飯にする。夜もテレビ三昧。体を極力動かさず、セロのマジック番組や何でも鑑定団などを見る。
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2006-06-19(Mon)

診察日で「変化なし」

6月19日(月)
夕べは1時ころ布団に入ったが、なかなか寝られずに3時ころまで悶々とする。ようやく寝られたと思ったら、あっという間に朝の7時で、そのまま朦朧としていると枕元にある携帯の目覚ましが7:45にリーンと鳴る。連れ合いを残しすぐに起きて朝は何も食べず、いつものようにバイタルだけ測定・記録して出た。8時10分ころすぐに17号でタクシーがつかまり、道の様子を見て17号直進、仲宿〜仲町経由ルートで行ってもらう。だいたい志村坂上をお尻に、本蓮沼の先まで朝はギュウギュウに混むはずなのだが、17号は月曜の朝にも関わらず、ほとんど渋滞なしで板橋本町の交差点を越えたのでビックリ。今月からの駐車違反の取締り民間委託のおかげだろうか。そういやいつも小豆沢あたりや本蓮沼前後に停まって車線をふさいでいた車両が無かったように思う。
病院の玄関に着くと8時40分。タクシー代は2700円くらいだったが、俺が千円札が一枚しかなく5千円札を出すと、運ちゃんはお釣りがないから1000円でいいというので、それじゃ悪いからと小銭もかき集めて1700円になったのでそれを渡すと、それでいいという。客商売なのにお釣りを用意していなかった自分に責任があるという言い分だが、今どき珍しい良心的な運転手さんだった。お礼を言って降りて、内科受付へ。
採血、レントゲンが入ってるので連絡表を貰い、地下の採血受付へ行くと10番。今までで一番早い番号である。しかし採血の係員が2人しかおらず、結局10分近く待たされた。採血はすぐ終わり、そのまま放射線科の受付へ行くと12番の前で待てというので待っていると、5分も待たずに呼ばれて胸部撮影。正面と横からの2枚で、終わって15分ほど待って上がってきたフィルムを貰い、内科受付へ連絡表と共に戻す。
今日の診察予約は10時半なので、1時間半ほどある。売店でスポニチと珈琲ミルクを買っていつものロビーへ行き、サッカーW杯、昨日のクロアチア戦の記事などをじっくり読む。まあしかし日本の課題は決定力不足だと言われてきて久しいというのに、何ら解決されていないことがまた露呈したという試合なわけだ。俺のようなド素人が見ていても、日本には他国に必ず一人ないし数人はいる、「ストライカー」がいない。ゴールに飢えた、真のFWがいないのだ。オーストラリア戦でもそうだったが、柳沢は決定的チャンスにさえ、自分以外の誰かを探して好機を逸するか、自分で打てば見当違いのキックで枠にさえ入らない。高原は大会前のドイツ戦が良かっただけで、本気モードの大会に入ると精細を欠いていた。ならばせめて、後半最初から大黒と高さのある巻に入れ替えるなどしたらどうか、後半中盤に稲本を投入したら明らかにリズムが変わってチャンスが生まれたように、選手交代というのは流れを変えるには有効な手段だ、的確ならばだが。ジーコが切ったカードは玉田であり、残念ながら機能する時間はなかった。だが彼の売りは突破力、スピードではなかったのか? ならば両軍疲弊しきっていた後半70分以降、本当にスピードが売りならばチャンスをモノに出来たのでは? つまりは、日本代表というのはその程度のレベルであるということだ。あの場にいていいレベルにはまだ達していない、それが運もあってたまたま「出ちゃった」という場違い感がするのは俺だけか…。
とまあそんなことを考えつつ、10時過ぎまで新聞を読み、その後は携帯で音楽を聴き、10時20分になったので診察室前へ移動。すると4番診察室のドアに、「今日は診察が遅れており、予約の患者さんでも約1時間ほど遅れています」という札がかかっている。あらららと思ってしょうがないなと、携帯のVアプリで麻雀ゲームを始めると、予約通りの10時半にちゃんと呼ばれたので、慌てて入る。

U先生に「どうですか、お変わりないですか?」といつもの感じで言われ、こちらも「ええ、特には何も…」と返答する。採血の結果は細かい白血球の成分分析などがまだ出てなかったものの、その他の数値は横ばいで、やはり変化なしということ。胸部レントゲンでは、縦隔にある一番大きなリンパ節の腫脹はむしろ若干縮小してるようにさえ見えるそうで、普通悪くなるともちろん大きくなり、腸壁に接して水が溜まったりすることがあるそうだが、俺の場合はそういうことは全くないという。で、MARKもそろそろかなとは思うが、前回と前々回との結果を見て、それほど変化が見られないという判断から、まだいいでしょう、と。それに骨髄液も取りにくいし。俺もまあ正直に言えば、あんな太い針をブスリと骨にまで刺されて、骨髄液を吸引されるという検査など積極的にやりたいわけではないので、次回はいいという判断にお任せする。触診の結果もやはり変化なく、今回は右の腋下が大きいかな、という程度。各リンパ節の腫脹は毎日自分でも触って確認しているが、どうも日によって大きさや固さが違う。縦隔の腫脹も今回はたまたま若干小さかったのかも知れない。
あとこないだの木曜の夜、消化不良なのか野菜スープがいたんでいたのかは解らないが、とにかく胃の未消化の内容物を全て大量に嘔吐したと報告。その後、額や目の周囲、頬などが赤茶色に焼けたようになった、今もちょっと残っていると伝えると、俺のマスクをとった顔を見てU先生「かなり強く何度も吐きました?」というのでハイと答えると、そういう場合は力んだせいで毛細血管が切れたりすることはあるが、普通は一日で消えるんだけど、という。俺の場合はそういう痕が残りやすいのかもしれないが、吐いたら胃の方は治ったというと、やはり脾臓がこれだけ腫れていると内臓全てが脾臓で押された感じで圧迫されており、胃の機能も当然落ちているし、物理的に胃の出口が細くなって出にくくなっている可能性もある。従って一度にドカ食いをせず、ゆっくり少しずつ食べること、また消化のいいものを気をつけて食べること、などを注意される。俺って腹減るといっぺんにグワーと食べちまうからなあと反省。
で、今後そういう場合に早めに対処するために胃薬を処方してもらえないかというと、「そんなに頻繁に消化不良があります?」と言われるが、「いや、ちょっと消化不良気味かな、という時に実は連れが貰ってたベリチーム(消化剤)を飲んだらよく効いたもので…」というと「あ、そうなんですか」と笑われる。人の薬飲むなよなあ、と苦笑いされているような感じ。「じゃあ一週間分一応出してみますけど、それで様子を見てください」ということで、ベリチームを処方していただく。
次回診察日は一ヶ月後でもいいと思うが、そのちょうど一ヶ月後の17日(俺の誕生日)は祭日(海の日)で、病院は休診。その前後どちらにするかということになり、どちらでもいいというと、U先生も「どちらでもいいんだけど…」ということ。結局、今回は三週間後にしましょうか、ということで次回は7月10日になった。15分ほどで診察室を出て、会計を済ませ、隣の調剤薬局でベリチーム顆粒を21包(毎食後×7日)貰い、病院へ戻って赤羽行きのバス停に座る。
この時点で11時10分、バスは25分で15分待ちだった。今日は午後から雨とかいう予報だったはずだが、朝曇っていたのが陽が照ってきており、汗ばむほど。隣の親子連れの母親は5分前になってもバスは手前でチンタラしているので、「暑いんだから開けて乗せてくれればいいのにねえ」と子供にグチっていた。俺もそう思う。バスは発車2分前にようやくバス停前へ移動し、ドアを開けた。このバスで大和町まで出て、そこから地下鉄で坂上へ出る。「味平」で冷やし中華を食おうと思ったら休み。じゃあサントク前の親父の方の「味平」(この二つの店は父子関係である)で…と思ったらこっちも休み。しょうがないので並びの「リトルチャイナ」というチェーン店で冷やし中華を頼む。800円だが、アレな感じなので半分ほど残して出る。サントクで買い物して帰宅。

それにしても一年前の癌告知を思い出すと、今日こうして病院から「一ヶ月後」と言われて自分の足でてくてく戻り、食事や買い物をしているとは予想もしなかったことだ。こういうごくごく「普通の日常」が何といとおしいことか。冷やし中華はいただけなかったが…。
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2006-06-16(Fri)

恐怖新聞

6月16日(金)
夕べは連れ合いが7時半ころ京都の大学から戻り、その報告などを聞きつつ、買ってきてもらった弁当とキムチをもりもり食べた。調子がいい日は食欲が凄い。自分でも驚くくらい、本当によく腹が減る。まあ癌患者の場合は食欲がないよりはあった方がいいに決まっているだろう。しかし禁煙してからというもの、食事がうまいのもあるが、その間に間食も増えた。甘いものやスナック類が口寂しいこともあって、欠かせなくなっている。禁煙して健康になった、はいいが反動で糖尿になる人も多いのだというから困ったものである。
その後は夜更かしして寝たのは2時過ぎ。今朝…というか朝方4時過ぎ、例によって右胸というか右上腹部というか、要するに胃のあたりがズキズキと痛み出して目が覚め、寝られなくなった。これはと思って一度起きてトイレに入るが、便はホンの少ししか出ない。いったん布団に戻るが、どっちを向いても痛いという状態。やっぱり吐かねばと思い、こんどは洗面台に向かう。果たせるかな、げええとやると寝しなに食べたアイスクリームがまずどろりと出てきて、その後は大量の弁当やら野菜スープやら、食後に食べたおやつの和風くるみパイやらが混濁した吐瀉物を戻す(尾篭な話でスンマセン)。最後の最後に赤いものが混じっていたが、血ではなくどうやらキムチの赤らしかった。
それより吐き終わってやれやれと思って鏡を見ると、顔に「死相」がくっきりと焼きついていてビックリ。ここ数年、消化不良で戻すと必ず顔がこういうことになっていたのだが、今までで最高に凶悪な死相だ。額の中央、目の周りと下、頬などが隈どりのように焼けており、ちょうど漫画によくある頬がこけて目の周りが隈になっている幽霊の顔のようになっている。つのだじろう「恐怖新聞」に出てくる幽霊の顔を思い出してもらうと、あんな感じか。
それでも吐いたら治ることはもうわかっているので、涙目のままふらふらと布団に戻る。連れ合いが目を覚まして「大丈夫?」と声をかけてきたが、明らかに半分寝ていて、しゃべりながらそのうち寝てしまった。こちらはその後、もう一度喉がイガイガするので台所でうがいをし、その後は果たせるかなぐっすり寝られた。
今朝は連れ合いが先に起きた後もずっと寝ていて、布団から出たのは何と昼の1時半近くになってから。死相はほとんど治ってなかった。連れに「ほら、また出たよ」と顔を見せると「げえってやったからだよ」と意味不明のことを言う。げえ、とやっただけで人間こんな顔になったら大変だと思うが。顔の毛細血管が切れたのだろうか。ともかく、昨日夕飯の時に野菜スープが酸っぱかったが、気にせず俺は半分以上食べてしまった。それが悪かったのかも知れない。今日は連れが京都の錦小路にある「もちつき屋」で餅を買ってきてくれたので、それで雑煮を作ってもらう。もちつき屋はお餅が美味しい甘味などの店だが、昼のうどんセットも美味だったなあ。
その後は仕事、夕飯はご飯炊いてもらい、佃煮、ごまおかかふりかけなどで食べた。夜になっても「死相」は消えず。こんな顔では外にも出られない。
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2006-06-10(Sat)

癌告知から300日

6月10日(土)
この日、去年の夏に癌告知を受けてから300日目となった。
思えば最初はT-PLL(T細胞性前リンパ性白血病)が最も疑わしいと診断され、だとすれば無治療ならば一年持たないと言われた。もちろん死を覚悟したし、強力な抗癌治療に臨むつもりで入院をした。その間に自分の病気のタイプが極めて珍しいものであることが判明し、進行速度も非常に遅いものだとわかった。すぐに死ななくてはいいとホッとはしたが、逆に有効な治療法も薬剤もないこともわかった。
余命一年なしという状況が「今すぐには死ななくてもいい、だが確実に数年の間に死ぬだろう」に変わった。
思い起こせば一年前、抗癌剤投与の準備期間=入院中、最も望んだことは「生きること」であった。
もっと具体的に言えば、「ここ(病院)から出て、また連れ合いと猫たちとの日常の暮らしに戻ること」が、本当にたった一つの願いであった。そして、それは叶った。
今の正直な気持ちは、もうジタバタすることではなく、かといって達観したわけでもないのだけど、とにかく「生かしてもらってありがとう」という気持ちと、「また穏やかな日常の暮らしに戻してもらってありがとう」に尽きる。
時々、明らかに普通の健康人とは違う体の異常…それは些細な痛みであったり、変調であったりするのだが、そういったものに病気であることを否応なしに確認させられはする。だがそれは当り前のことだ、だって俺、癌なんだもんな。明日死ぬことはないが、近い将来死ぬでしょう。これは人生折り返しを過ぎた人なら、近い将来がどれくらいの長さかという違いはあれ、そんなに健康人と変わったわけでもあるまい。
そう思って日々、感謝しつつ生きる。
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2006-06-08(Thu)

久しぶりの清竜丸

6月8日(木)
朝はゆっくり目、10時前に起きる。朝はいつもの「モーニングセット」。鍋にたくさん作ってある野菜スープに、トーストとコーヒー、果物がある時はバナナやみかんなどを添えるというのが定番。不摂生をしていた頃は朝食はほとんど食べずにいた、というより食べられなかった。朝は歯を磨くとオエと来たし、本調子になるまでしばらく時間がかかったので、朝食どころではなかったのだ。タバコをやめたことでいいことは数え切れないほどあるが、去年入院してから朝食の大事さも知ったし、それは禁煙したから味わえるものでもある。その後はちょっと立て込んでいる仕事。

先日突然、友人でもある清竜丸のマスター河野さんから手紙をいただいた。癌になって以来、酒も月に一度程度、外食などの際に何かの弾み(笑)でビールを1,2杯飲むくらいになってしまい、当然お店にも足が遠のいている。清竜丸は何といっても新鮮な刺身が売りの「漁師料理」が売りの店だ。自分の場合生ものの摂取は極力控えるように言われているので、顔を出すのは拷問に等しいと思い、それもご無沙汰していた要因の一つである。
河野さんは別に客として店へ来ずとも、顔が見たいし話もしたいので、会いましょうと誘ってくれた。よく考えれば蓮根へ引っ越して以来、もう十数年来のお付き合いである。その間、お店の店主と客以上のお付き合いをさせていただいている。箱根へ旅行にも行ったし、車であちこち連れて行ってもらったり、河野さんの「地元」である浅草へも何度も出かけた。美味しい店も教えてもらったし、美術館へ行ったこともあった。麻雀もやった。店がハネた後、飲み屋をはしごしたり、朝までカラオケを歌ったりと、よく遊んでもらったものだ。もちろん、もうそんなムチャは出来ない体になってしまったのは残念だが、だからといって半年もご無沙汰したことはこれまでなかった。連れ合いとそんな話しをしていると、じゃあ久々にお店へ行こうよ、ということになる。
5時半ころにタクシーを拾い、蓮根へ。半年ぶりに清竜丸を覗くと、マスターが何やら指示をして、カウンタの中では常連客で友人でもあるHさんが換気扇をいじくっている。従業員のKちゃんが換気扇のスイッチ担当で「つけてみて」「まわった」とかやっている。全くこちらに気付いてくれないので入っていくと、換気扇が壊れてHさん(電気工事の技師でもある)に修理を頼んで、ちょうど直ったところと言っていた。
河野さんもKちゃんも、半年も顔をあわせていなかったとは思えない以前と変わらぬ態度で明るく接してくれる。俺はここの鮮度なら安心だと腹をくくって、まぐろやオススメの赤貝の刺身などを頼む。結果生ビールとギネスの黒などを数杯飲んだ。連れ合いはウーロン茶のみで付き合ってくれる。マスターは「やっぱりさあ、ムチャクチャやって病気なんかフッ飛ばさなきゃダメよ!」なんて笑わせてくれる。8時前まで楽しく飲んで、しばし病気を忘れた。
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2006-06-05(Mon)

米原万里さんが亡くなる

5月25日、ロシア語通訳・翻訳家で小説家・エッセイストとしても知られている、米原万里さんが亡くなった。卵巣がんで、まだ56歳の若さだった。米原さんの略歴など詳しいことはニュース(訃報:米原万里さん56歳=エッセイスト、作家)などを参照していただくとして、自分にとってはお元気なころからのテレビ出演や、長年定期購読している週刊誌の一つ「週刊文春」での連載(「私の読書日記」、複数の方が交替で執筆)で親しんだ方だ。氏のエッセイなどは面白さとユニークさで定評があるそうで、いつか読もうと思っているうちに、機会を逸していた。

米原さんの物凄さは、やはり自分が癌であるという「宣告」を受けてからの生き様である。
2003年の秋に卵巣脳腫と診断され摘出手術を受けたが、それが癌であると判明したあと、医師側の独断による「規定路線」を拒み、「無治療・様子見」を自ら選択。三ヶ月に一度の検査で経過を観察した後、一年半後に鼠蹊部リンパ節へ転移。その後は抗癌剤が効きにくいと知ると、それによる疲弊や副作用などの悪影響と治療効果とを考慮した結果、米原さんはいわゆる「第四の治療」、代替療法を探索し始めることになる。このくだりが、包み隠さず、文春の「闘病記」に記述されてきたのだ。ちょっとでも効きそうだと聞けば、自分で徹底的に調べ、自ら足を運び、疑問があればその場で呈し、時にはその研究熱心さから治療を断られたりもしながら、それこそ必死で自らの癌と戦い続けた日々だ。その連載も、今年の四月末のもので最後となってしまった。
「週刊文春」の6/15号には『米原万里「がん闘病」最後の一ヶ月』と題した記事が掲載されており、妹さんの談話も読める。闘病記を読んでいるこちら側は、いつも米原さんの癌患者でありながらのヴァイタリティと精神力に驚かされてきたものだが、実際は相当お辛かったようだ。それはそうだろう、癌を宣告されるということがどれほどのショックとストレスを自分に与えるかは、経験した人でないと解らないものだ。常日頃デカいことを言っている人でも(例えば俺のように)、足が震えるのだ。
米原さんは数多の「代替療法」に挑み続け、自らの体を実験台として験したが、どれもが彼女の癌に良い効果を及ぼすことができなかった。あれほどの強い意志を持ち、「生きる」ことへの執着の強い人でも、癌に打克つことは出来なかった、そのことは我々にとっても大きなショックである。もちろん、癌とひとくちに言っても自分などのじわじわと真綿で首を絞められるような「極めてスロー」な進行タイプから、アッという間に逝ってしまうタイプまでさまざまなものがある。
俺のような血液・血球の癌、白血病や悪性リンパ腫のようなタイプは進行が早いものだと抗癌剤も効きやすく、遅いものは効きにくいというのが大雑把な分類だ。あれよあれよという間に進行するということはないものの、すぐに死ななくてはいい代わりに治療法もないというのは、まさに究極の選択のように、どちらもイヤなものだ。やはり、健康がいい。

京都から戻ってしばらくは膝やあちこちの関節が腫れて往生した。その後ここ数週間おとなしくしていたせいか、体調は回復。膝のコブも安静にしていたせいか、だいぶ小さくなってきた。両手の指の関節が節くれだっていたのも、ここ数日は比較的おちついている。食欲はすこぶるあり、三食食べないと飢餓感があるほどで、食間の「おやつ」も禁煙後は増えた。食欲があることはいいことだという。体重は入院前の64kgから68kgに増えたが。体重の増加も、脾臓が巨大化したせいでなければ(つまりこうして食欲があるせいで)、問題ないということなので、生ものや消化の悪いものには気をつけつつ、連れが呆れるほど爆食している。

時々考えるのは、それほど長くは生きられないと知ってから、「今生で自分は何を為したか」ということだ。
まだ何も為し得ていない、だが病を知らず長く生きられていたら何を為したかというと、その確証もない。逆に余命宣告を受けてからの方が、そのことを真剣に、よく考えるようになった。これはやはり「癌になってよかったこと」の一つだろう。でなければダラダラと喫煙を続け、自分の体を痛めつけ続け、日々を「消化」していたかも知れぬ。自分には時間がない、そう思うことが否応なしに刹那刹那を大事にせざるを得ないことに直結する。
「ガロ」のころ、大腸癌が見つかった長井(勝一・ガロ編集長)さんを、連れ合いと一緒に見舞ったことがある。病室へ入ると、長井さんはベッドの上にあぐらをかいて、小さなラジオを何やら難しい顔をしていじくっていた。当時の俺は癌患者にかける見舞いの言葉など何があるだろうと思いつつ、思わず「長井さん、大丈夫ですか?」とマヌケな言葉が口をついた。長井さん曰く
「大丈夫ってお前、俺癌なんだぞ?」
と、あの怒ったような口調としゃがれ声で切り返された。
「俺、癌なんだぞ?」と健康な人間を威嚇するような態度に、思わず俺と連れ合いは顔を見合わせてしまった。思わず三人とも笑ってしまった。長井さんらしいといえばらしい、思い出話である。

…米原さんの夢は「作家になること」だったそうだ。妹さんは「まわり道はしたけれど、作家になることができて、幸せな人生だったと思います」と語られている。そうか、「幸せな人生だった」と思えればいいわけだ。ならば大丈夫。

米原万里さんのご冥福をお祈りいたします。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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