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2007-04-29(Sun)

義母の80のお祝い

4月29日(日)
朝は7時ころからシマが出入りするので起こされる。寝る時はいつも名を呼ぶと(呼ばなくても来る日もあるし、寝室に入るとすでにいたりする場合もあるが)「ててて」と走ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らしながらひとしきり甘えた後、俺の右脇の下に作ったスペースに丸くなって寝る。その際ズシッとこちらの体に体重をかけて密着して寝るので、こちらが寝てしまい、その間に一時いなくなる時は気付かないのだけど、戻ってくる時にまた「ズシッ」とやられるので目が覚めてしまう。可愛いからいいけど〜(猫バカ)。
朦朧として結局8時ちょいに起きて、MLBのNHK−BS中継を見る。NYY・井川がこれで情けないピッチングをしたら中継ぎ降格かマイナー調整かという「背水の陣」での対ボストン戦先発試合、好投のまま7回のマウンドを降りたのを見る。
今日は昼から新宿・京王プラザホテルで、連れ合いのお母さんつまり義母の80歳のお祝いパーティがあり、親戚一同が集合するのだ。10時10分ころ次女のYちゃんが車で女児二人と下に着いたというので、慌てて着替えて出る。連れ合いも俺もややフォーマル、というスタイルだ。Yちゃんの車はマンション前に置かせて、隣のタクシー会社の車庫に入ってって「すいませ〜ん」と声をかけると、ちょうど今出るという風情の初老の運転手が「はい」と答えてくれた。これこれこうなので乗りたいというと快くマンション前にまわってくれるというので待つ。すぐに17号側からまわってくれたタクシーに俺が前、連れ合いとYちゃんで小一のM、園児Sを挟むカッコウで後ろに乗って、京王プラザホテルまで発車オーライ。
快晴で気温もグングン上昇、連休序盤で道路はさすがに空いており、17号から川越街道の交差点を池袋方面へ左折し、明治通りをずっと新宿まで順調に進む。途中右手に昨日花火売り場から出火し店をほぼ全焼させたオリンピックを右手に見た。まだ現場検証だろうか、警官や消防士がうろうろしており、店舗の入り口上にはマンションの4,5回くらいまで真っ黒い煙の痕が残っていて、生々しかった。伊勢丹の交差点を歌舞伎町方面へ右折、京王プラザホテルに着くと11時ちょいで、ずいぶん早く着いてしまった。京王プラザは俺が教えていた「ジャナ専」の卒業式に出席して以来。ていうか新宿までこんな遠出をしたのは退院以来初めてだ。
宴会は12時からで、全員での写真撮影があるので11時半に集合の予定。連れのお姉さんたちと11時20分にロビーで待ち合わせだったのだが早く着きすぎたので、とりあえず宴会場へ行こうと42階へ上がる。今日の会場である小宴会場「武蔵」を確認、ホテルの担当さんたちにも挨拶、急遽隣の部屋を控え室にしてくれたので、そこへ入る。連れの長女のMちゃんと男児二人がすでに到着していたので合流。宴会の席順を決めたりがあったので、結局お姉さんたちにも直接上がってきてもらい、徐々に控え室に一同が集まってくる。大人12人子供赤ん坊含め6人だが、幼児&赤ん坊パワーは凄い。いつまで経ってもお姉さん方の一人だけ来ないので、じゃあもう撮影しちゃおうと動き出すと、ちょうどそこに間に合ってホッと一息。全員で無事エレベータで6Fの写真撮影室へ移動。
ひな壇に皆並んで撮影の後、宴会場へ戻って連れ合いの乾杯の音頭で食事会開始。乾杯はホテルの担当さんの御好意でいただいたシャンパン、食事中はビール、魚料理に白ワイン、肉料理に赤ワイン。フランス料理のフルコースで、パンとバターが実に美味しかった。
会自体は2時までの予定だったのだが、1時半ころにはあちらこちらで子供がむずがり出したり、食事が終わっておしゃべりも一段落してきたので、連れ合いが締めの一言を言ってお開き。ホテルからおみやげの紙袋を貰って、今日の会計は連れ合いとお姉さんが折半して、エレベータでロビーへ降りる。そこで今日はホテルに泊まるMちゃんの部屋のチェックイン、俺ら連れ合い方以外は義母以外みなそこで別れる。

ホテルの窓から都庁を望む部屋は22階のトリプルルームで、皆で一旦部屋に行き、真向かいの都庁を「ほえ〜!」と眺める。やはりデカい、高い。まさしくタックスタワー、である。そこから下へ降りて、義母が孫たちにホテルの売店にあるディズニーショップでぬいぐるみやらいろいろねだられるままに買ってやって、そこで別れた。俺らはいったんMちゃんの部屋に戻ったあと、行きのメンバーで再びタクシーに乗って舟渡のマンションまで帰宅した。それにしても連れ合いのお母さんは昭和2年生まれだが、今だに勤めに出ており、お元気である。自分があの年齢まで生きられるとは到底思えぬが、それでもこうして孫やひ孫に囲まれての祝いの場というものはいいものだ。
家に着いて、暑いので俺はアロハに着替え、連れ合いもいつもの服に着替えて、今度はYちゃんの車で高島平のD2へ行き、飲み物と銀だこを買い、赤塚公園で一服。MとSをそこで遊ばせたりして、夕方まで過ごした。その後舟渡交差点で俺らだけ降ろしてもらい、6時前に帰宅。やっぱり疲れた。
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2007-04-23(Mon)

多忙な診察日

4月23日(月)
夕べは1時半ころ寝る。しかし天気予報で夜もほとんど気温が下がらないと言っていたように、どうにも蒸し暑くて寝られず、何度も目が覚めて朝を迎えて朦朧状態。6時ころ連れ合いが先に起きたので、しばらくして俺も起きた。睡眠時間は正味2、3時間といったところか。
俺の方は8時半に日大病院、連れ合いは9時ちょいの新幹線で京都に向かう。なので7時半ころ一緒に出るが、連れのカバンが異常に重い。今日すぐ使う資料の本や手帳などが入っているのでホテルへ送る荷物へは入れられなかったというので、コレでは辛いだろうと思い、せめて赤羽まで一緒にタクシーで行こうということにした。マンション前にちょうど隣に車庫があるタクシー会社の空車が発車待ちで一服していたようなので、赤羽駅まで行ってもらう。西口のタクシー乗り場で降ろしてもらい、そこで連れ合いと別れ、俺は日大病院行きのバス停へ向かう。
バス停にはちょうどバスがいたのだが、席が全部埋まって立ちの客もいるので、一台遅らせることにする。退院してからは感染が怖いのでなるべく電車やバスには乗らないようにしていたが、マスクをして手洗いやうがいをし、注意していれば何とかなりそうな気がしたので、この日はバスにした。バスで病院へ向かうのは久しぶり。だがそのバスが去ってから少しして来たバスは池袋駅東口行き。このバスは病院の手前で川越街道を左折し、そのまま東口へと向かう路線。ううむと思ったが、次の日大病院行きまで遅らせてる時間はないので、乗り込んだ。
バスは当り前だがバス停ごとにチンタラ停発車し、のろのろと進む。中仙道とは外れたコースなので、渋滞には無縁ながら、やはり急いでいる時に使うものではないなと思った。そうこうして川越街道の手前、仲町区民センターで降りると8時半近い。早足で病院まで行くとさすがに息が切れた。寝不足のせいか、それとも貧血のせいかちょっとくらくらする。きっとその両方だろう。

いつものように内科受付でナースに連絡表を貰い、地下の採血受付へ。26番、この時点で8時42分。15分ちょっと待たされて、今日は3本採血。今日は胸部レントゲンもあるので、右腕の採血の針痕の脱脂綿を抑えながら放射線科まで行く。裏13番前で待てというので待ってると、すぐに呼ばれて中に入る。上を脱いで正面と横から2枚撮影され、外へ出る。気がつくと採血痕の脱脂綿がいつの間にか無くなっていて、廊下に落ちていた。血はもう止まっていたのでホッとした。ぐるりと放射線科受付の方へ戻り、ソファに座ってると、ものの3分ほどでレントゲンのフィルムが上がり、名前を呼ばれて受け取る。「即現扱い」とはいえ、本当に即現である。んでフィルムと連絡表を内科受付に戻ってナースに渡して一丁あがり。9時10分くらいか。
その後まっすぐ売店へ行き、単4電池とニッカンスポーツとチルドカップのカフェオレを買い、一階の受付フロアにあるテーブルと椅子があるスペースへ行き、一休み。ゆっくり新聞を読み、休んでるうちに眠気が来るがグッと堪えて、中村俊輔がスコットランドリーグでセルティックの優勝を決めるFKを放った記事などを熟読。
診察予約は10時からなので、10分くらい前に内科へ戻り、中の診察室前のソファに座る。この時点でちょっと調子が悪いというか、やはり睡眠不足のせいか目眩がした。心拍数も高いようだ。嫌だなあと思ったが気を落ち着ける。10時10分くらいに名前が呼ばれたので4番診察室へ。U先生はいつものように「お変わりないですか?」と聞くので、「はい、全然…」とこちらもいつものように半笑いで返す。こうしたことは何ということのないいつものやりとりだけど、自分の無事(?)を確認するようなものだから、何となく嬉しい。もし「シラトリさん、大変ですよ!」とか言われたらそれこそ大変だ。
ところで今日のレントゲンの結果だが、胸の縦隔にあるリンパ節の腫脹は、前回のレントゲン画像と比べると若干だが大きいかな、という感じだそうだ。だが、逆に一年前のものと比べてみると、明らかに小さいという。実際俺もフィルムを見せてもらったが、確かに一年前の方がはっきりと目で確認できるくらいの違いがある。前回のレントゲンと今回のものは、確かに今回の方がちょっと大きいような気がするが、こちらの差ははっきりとは解らない程度。
採血の方はWBCがたった1300しかなく、PLTは8万8千と9万を割る過去最低値。しかしLDHはまたも正常値内。誤差範囲もあるだろうし、好中球数も6割ほどあるので一応まあ問題なかろうということ。さらに今回は腫瘍マーカーもいくつか見てみたそうだが、それらも異常値を示すものがあってもその中では低値だそうだ。もっとも低い数値の人でも病状が悪化する人もいるし、高いのに安定している人もいるそうで、血液腫瘍の病気に関してはホンッットォォォ〜に、難しいらしい。その後診察台で触診もしていただくが、やはり各所変化なく、むしろ全然腫脹が触らなくなった部分もあるという。いいか悪いかで言えばいい、ということだろう。そう前向きに考えることにする。これらを総合的に見て、今回も「変化なし、様子見」継続ということになった。

こうしたやりとりも慣れてきてはいるが、待ち時間の間にはやはり少しナーヴァスにはなるものだ。採血の数値がグワッと悪くなってたらどうしよう、自覚はないがどこかの腫脹が大きくなっていて危険だから治療に入るとか、脾臓の腫脹が限界に来てるとか、悪い方へ悪い方へ考えてしまう。とにかく病院へ来るたび、自分が健康ではないこと、いや癌患者であることをひしひしと痛感させられる。普段忘れるようなことがたまにあっても、病院にいるということはすなわち自分が病気であるからであり、執行猶予中の身であることを再確認するのだ。…いや執行猶予は期間が過ぎれば放免されるが、俺の場合「完治」は奇跡に近いことなのだが。
消化剤のベリチームを1ヶ月分処方してもらい、次回はまた一ヶ月後でいいということになった。礼を言って診察室を出る。地下で会計を済ませ、病院の外に並ぶ調剤薬局へ。前回から一番空いている小さい薬局に入ることにしている。処方箋を渡して椅子に座ると、正面の37インチ液晶ワイドテレビにどーん! とボストンの松坂大輔が映っている。この日は本拠地フェンウェイにヤンキースを招いての「伝統の一戦」初登板だ。松井秀喜はこの次のタンパ戦で復帰らしく、日本人対決はならず。この試合は自宅のHDDレコーダに予約録画してきたが、薬局で見ているとボストン1点リードの場面から4−4の同点にされたところ。今日も松坂はピリッとしないようだ。だが中継のアナウンサーの言葉を聞いていると、敵の主砲A・ロッドは抑えているが、ジオンビに2本ヒットを打たれて失点したという。これはやはりA・ロッドへ集中しすぎということだろうか。松坂の悪いクセかも知らん。緊迫した場面をわくわくしながら見ていると薬が出来上がってしまい、受け取って名残り惜しいが薬局を出た。やっぱり野球って面白いなあ。
病院前に戻って池袋西口行きのバスに乗る。今日は仕事の打ち合わせで新宿方面まで行かねばならないのだ。

…打ち合わせを終えて再び池袋へ戻ると2時ころ。「とらのあな」へ行き最近のコミックをいろいろ見る。「とらのあな」に入るのはオタクちゃんばかりなのでちょっと恥ずかしいのだが、これだけコミックが揃っていて駅から近いのは便利だ。ちなみに最近はBL系のコミックや同人誌を探す女子も多い。ずっと何冊も久々に立ち読みしてたら疲れてきたので、何も買わずに(ごめん)店を出て、ハンズ側からタクシーを拾い、志村坂上まで。買い物をして帰宅、疲れた。帰ってからは録画しておいたBOS−NYYを見る。見ながら夕飯。その後は今日の打ち合わせの詳細を画面とテキストにして、仕事の相方へ送る。それから別の管理サイトの手直しをしたりこまごました作業や連絡をして、全てを終えて時計を見ると何と1時! でびっくり。
病院のあとは久々に遠くまで打ち合わせに出て池袋をぶらぶらし、集中して仕事をバリバリ…と、健康なときに戻ったかのような一日であった。
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2007-04-20(Fri)

述懐・COMとガロの時代 イントロダクション

このブログをよく見てくれているある人から、リクエストをいただいた。
もう「ガロ」のクーデター事件から10年。若い人でリアルタイムに「ガロ」を知る人も少なく、遡って読んでみようという熱心なマンガファンもそう多くはない。かつてあった「COM」と「ガロ」という双璧について、知っている人がちゃんと語ってくれる場があると嬉しい…というような内容です。
なるほど、確かに俺の連れ合いはやまだ紫、「COM」でデビューし「ガロ」で活躍した作家の一人である。漫画界で言うと俺にとっては大大大先輩(ってあんまり持ち上げると叱られるが)でもあり、俺にしても聞いてみたい興味深い案件はたくさん、ある。一番頭に来るのは、時間が経ったり生き証人が減ったりすると、見てもいないのに平気でその場に居たかのような「ウソ」をつく人間が出てくることだ。前にも自分のサイト内の文章で指摘したことがあるが、末期「ガロ」のこと、特に長井さん引退〜山中社長への過渡期を知ってるのは俺とY先輩しかおらず、さらにそこからクーデターまでをその場で経験していたのは俺たった一人しかいない。なのに、まるで一緒に働いてたのかよお前、みたいな奴が当時のことを俺に聞きもせずに嘘八百を書いたりしているのを見ると、本当に世の中って、いやマスコミって怖いな、と思う。
実は「COM」と「ガロ」両方で活躍し、今も現役という作家は意外と少ないのだ。やまだに聞いてみた。

:そういえば「COM」と「ガロ」両方で描いていて、今も現役って人はいるかな。
:うーん…そう言われてみればいないかも、ねえ。
:諸星(大二郎)さんは「ガロ」には描いてないしな。
:それに諸星さんは「ガロ」のこと大嫌いだと言ってたし(笑)。
:へええ。それって面白いなあ。諸星さんは『ジャンプ』のデビュー作をリアルタイムで見て衝撃を受けた記憶、はっきりと残ってるけど、「COM」デビュー(諸星義影名義)だっていうのはずいぶん後になって知ったんだよなあ。
:あとは…あ、永島(慎二)さんがいた。
:そうだ、永島先生はそうだよね。でも残念ながら亡くなられてしまったし。古川(益三)さんは漫画家というより今や実業家(笑)として大成功されているしね。
:どっちか、という人が多いんだよね。「COM」は期間も短かったし。
:でも両方知ってる作家さん、という立場からいろいろ話を聞かせてもらえると嬉しい…と思ってる人がたくさん居りますよ。

…我々もそういう役回りと、時期に来たということでしょう。というわけで、時々「COM」や「ガロ」のことをいろいろ思い出してみたいと思います。不定期連載、ですんませんが。
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2007-04-14(Sat)

一澤帆布VS信三郎帆布

一昨日、連れ合いが京都出勤から戻った。今回は4泊といつもより長かったのだが、それは連れの母と姉が一緒だったからで、お二人は連れ合いが出勤している間は観光したり、夜は合流して一緒にご飯を食べたりなど、母娘三人での「観光旅行」は考えたら生涯で初めてだったという。いい思い出になっただろうなと、こちらも何となく嬉しい。
さて家にいた俺にはおみやげに信三郎帆布製のショルダーバッグを買ってきてくれた。一澤帆布時代から定評のある、しっかりした作り、頑丈でかつおしゃれな帆布製のショルダーだ。一澤帆布といえばもちろん、職人手作りで店舗拡大も通販も(ほとんど)せず、「京都に行かねば買えない・大量生産もしない」が逆に人気となって久しい「国産ブランド」である。いや、京都ブランドと言った方がいいか。この一澤帆布の「お家騒動」は、昨年ワイドショーなどでも盛んに取り上げられたのでご存知の方も多いと思う。
実を言うと自分は昔からカバン・バッグフェチで(笑)、といっても高級ブランドには全く興味がなく、自分が使いやすく気に入ったものがあるとどうしても欲しくなってしまう性分である。今お気に入りのバッグを持っているのに、いいなと思うバッグがあるとどうしても欲しくなって買ったりするから、連れにはよく呆れられていた。でもそのほとんどは安いけれども馴染むもの、気に入った作り・デザインのものであり、高級ブランドのものは皆無だ。あの没個性でどう見ても俺には上品とは思えぬヴィトンのモノグラムとか、成金趣味にしか見えないゴテゴテの「高級ブランド」バッグ類には、たとえ買える金があっても、一銭も払う気にはなれない。というか高級ブランド品であっても値段相応の魅力、欲しいと思わせる何かがあれば別なのだが、それが感じられないというだけかも知れない。
手作りであることは解る、それなりに素材もいいのだろう、だが値段のケタが違うと思うだけだ。不当に高いとさえ思う。だから同じ品質・性能で、その「ブランド」であることだけでケタが一つ違うものなら、俺はそのブランドにそれだけの価値を見出せないというだけの話。ブランド物を持つ人は「私はこれだけのモノを買うだけの財力があるのよオホホホ」「機能性とか対価格性能なんか関係のないところで大金払うのがお金持ちの証ざます」という人がそうしたいからそうするだけのことだから、ありがたがる人たちに何にも文句を言う筋合いは、ない。

ブランドといえば唯一、ビンボな青林堂時代から「おカネを溜めてでも欲しい」と思い、実際いくつか持っているものが「吉田カバン」だった。吉田のカバンは一澤帆布を知らない頃から、ぜいたくだけど長く使いたいというものとしていくつか持っていた。機能性とデザインに申し分がないことに加え、比較的デパートなどでも買えること、また価格も安いとは言えないが法外に高価ではなく相応だと思えることから、信頼できるブランドだと思っている。

一澤帆布のカバンやバッグ類は、青林堂に入って間もない頃、先輩だったYさん(あのメガネで痩せ型、俺がよく着流し姿の似顔絵を描いていた…と言えばオールドファンにはお判りか)が持っていて教えてくれて、初めて知った。だから二十年ちょい前…という感じだろうか。頑丈な黒の帆布で出来たがっちりした今でいう「トートバッグ」である。そして右下の隅にはあの「一澤帆布製」というタグが縫い付けられていた。その和風テイストと、柔道着の帯みたいながっちりした持ち手や本体の帆布の手触りが珍しかった。Yさんは当時、江戸・和テイスト好きの作家さんから教えてもらって知り、京都に旅行した折に買ったのだと言っていた。その時はふうん、と思い自分の好みではないなと思い、食指も特に動かなかった。当時の俺の場合はたくさん収納できて、中は小物が分類できたり仕切りが割りと多い機能性重視のバッグが好きだったから、ああいうガバリと開いて仕切りも何もないだけ、というバッグにはあまり興味がなかったと思う。

それから二十年余経って、けっこう東京でも一澤帆布のバッグを電車の中や都心を歩いている人を見かけることが普通になっていた。そういう中で起きた「お家騒動」であるが、一澤帆布という質実剛健、職人気質、みたいなイメージと、このドロドロした、骨肉の争いとかゼニ金の匂いがする醜聞はイメージが合わないわけで、またそこが人びとの興味をますます煽った感もある。
ことの成り行きはまあアチコチで既報なので詳しいことはこういうところで見てください…一澤帆布工業 - Wikipedia。いちおう概要を再確認すると、もともと一澤帆布(1905年創業)は代々帆布による頑丈なカバンを作って定評があった店だったのだが、今回のお家騒動の発端は、3代目社長である信夫氏が亡くなったことにある。ワイドショーや週刊誌などで面白おかしく報道されたものを見ると、単に「相続問題」による家庭内紛争のように思われているかも知れないが、ことはそういう単純な問題ではないようだ。

一澤家は男4人兄弟で、その父親であった信夫氏が社長であった時代は営業も先細りになり始め、三男の信三郎氏が一般の会社(大新聞社)に勤務していたのを辞めて戻り、四男の喜久夫氏と共に父親の元で家業を継いでいた。その当時長男である信太郎氏は東海銀行に勤務しており、(信三郎氏側によれば)経営が苦しいという時期にも実家を助けようとはせず、銀行勤務に執着したばかりか、金の無心までしてきたというから、父親の故・信夫氏にすれば不肖の息子という感じだったのかも知れない。83年に信太郎氏が正式に4代目として社長に就任したあと、四男の喜久夫氏は96年に「好きなことをしたい」と退社してしまったという。それからは信三郎氏が先代、職人さんたちと共に一澤帆布のブランドを守り、発展させてきた。このことは「長年勤務してきた職人さんたち、取引先、そして何よりお客さん」が皆知っている「衆知の事実」として知られている。

さて2001年3月、先代社長である信夫氏が亡くなった。当然店は4代目社長として20年近く切り盛りしていた信三郎氏がこのまま続けて…と思っていたら、突然その年の7月になって、長男の信太郎氏が「自分宛の遺言書がある」といって乗り込んできたから、さあ大変。
この遺言書というものが、テレビなどでも報道されたように、信夫氏が書いたというには内容が無茶苦茶であった。これまで二十年も店を切り盛りしてきた信三郎氏をクソミソに言い、逆に店に見向きもせず苦しい時期に助けもしなかった、また全くの畑違いの銀行マンであった長男を名指しで時期社長にするというのだから、他人が見ても首を傾げる内容だ。当然、信三郎氏はこの「新しい遺言書」はニセモノだから無効であると、9月になって裁判所に提訴する。誰もがいくら何でも長男はデタラメなことするぜ、と思っていたら何と! 裁判所は2004年12月に、新しい遺言書つまり長男の信太郎氏側の遺言書が有効であると認め、即ち信三郎氏は信太郎氏によって代表取締役を解雇されてしまう。ちなみに新たに代表取締役社長になったのはもちろん長男の信太郎氏、役員は他に「辞めたい」と言って店を出たはずの四男・喜久夫氏と、信太郎氏の実娘であった。

(この新しい遺言書の真偽については、裁判所は「真」と認めたわけだけど、我々素人の野次馬の99%は「ニセモノ」だと思っていると思う。筆跡が違うとか印鑑も生前の信夫氏のものと違うとかいうことは我々にはわからぬことだけど、突然先代の信夫氏がそれまでずっと一緒にやってきた三男の信三郎氏を罵倒し追い出し、逆にそれまでミシンに触ったこともなければ店に寄り付きもしなかったという長男の信太郎氏に全てを譲る…ということ、そのこと自体が、先に書いた「長年勤務してきた職人さんたち、取引先、そして何よりお客さん」全員にとって明らかにおかしなこと、筋が通らぬことだからである。)

裁判所の決定なのでどうしようもない、三男の信三郎氏は失意のうちに店を長男信太郎氏に明け渡し、出て行くことになった。しかし長年一緒に苦楽を共にした職人さんたち、つまり「一澤帆布」のブランドを担い、守ってきた人間は全て信三郎氏について行くことになった。当然だろう。果たして、長男の信太郎氏父娘と四男の喜久夫氏は、「一澤帆布」のブランドと店をこうして見事手中に収めたのはいいが、肝心のブランドを守る職人も、機械も、材料を卸してくれる取引先も全て自分についてくる者がいないという状態に陥った。店はもぬけの殻、である。この模様もワイドショーなんかが逐一報道していたのでよく見たものだが、信太郎氏はまるで自分が被害者のように装っていたのが、逆に滑稽でさえあった。

信三郎氏側は、一澤帆布の職人さんたちと一緒に、2006年4月にようやく新しい自分の店である「一澤信三郎帆布」をオープン。場所は何と、かつての一澤帆布の店の斜め向かいという挑戦的な場所であった。信太郎氏側は、哀れな経営者を自己演出し、一澤の名を守ってくれる職人さんを募集するというフレコミで、何とか全国から職人を集めて同年10月に店を再開させることが出来た。

…さて現在双方の店はどうなっているのであろうか。
連れ合いに聞くと、信三郎帆布の店の前には開店前からお客がいつも行列しており、商品もすぐに売り切れてしまうのでいつも品薄、それが逆にまた人気を生んでいる…というかつての一澤全盛時代を彷彿させる賑わいだという。対して「乗っ取り屋」の謗りを受けて四面楚歌に陥った長男・信太郎氏の「一澤帆布」側には、お客はチラホラ…。京都のガイドブックを見ると、かつての一澤と同様の扱いを受けているのは信三郎帆布側で、現在の一澤帆布の店舗紹介はされていないものも多い。

長男の信太郎氏はいったい、何を考えていたのだろう。遺言状が裁判所で正式なものと認められた、だから俺が社長だと言っても、「長年勤務してきた職人さんたち、取引先、そして何よりお客さん」はことの成り行きを全て見ている。もっと言えば、一澤帆布が先代の信夫氏と三男の信三郎氏によって守られてきたことは、遺言状一枚の真偽がどうこう、裁判の結果がどうこうではない、「事実」として知られていることだろう。
最近になって長男側は、信三郎氏側を商標権の侵害、持ってったミシンを返せなどということで訴えを起こしている。信三郎氏側はもう争いはやめていいカバンを作っていくことに専念したい、と言っている。どっちが正しいのか、こういう成り行きを見ても証明されている気がするね。
連れが買ってきてくれた「信三郎帆布」のショルダーバッグは、しっかりした、無骨だけれども丈夫で長持ちしそうな、あのかつての一澤帆布製バッグを彷彿させるものだ。今の自分には「丈夫で長持ち」がひどく魅力的で羨ましいものに見える。ギラギラした金と欲望の匂いがする高級ブランドには、やっぱり用はない。
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2007-04-12(Thu)

松坂大輔、酔っ払い投球?で敗戦投手に

松坂大輔の本拠地フェンウェイ・パークのデビュー戦。朝8時前に起きてNHK/BSの生中継を見る。ボストンのファンの熱狂ぶりは異常とも言える雰囲気で、試合開始前に選手がフィールドに出てくるまでは総立ちで松坂の登場を待っていた。その松坂だが、本拠地初登板で緊張…はしていなかっただろう、何せ先日のメジャーデビュー戦となるアウェイでのカンザスシティ戦でもあの落ち着きぶりだったから。ただ、イチローとの「ニホンジン対決」に関しては、かなり神経を集中させていたな、という印象。注目の対決はもちろんアウェイの一番打者がイチローなので、試合開始直後すぐにまわってきた。結果はフルカウントからの6球目・外角ストレートを打ったやや当たり損ねの打球がピッチャー前にバウンドし、それを松坂がバシッ! という感じでグラブに収め、ピッチャーゴロに仕留めた。
この日のイチロー対松坂は結局4打数ノーヒット(3回・第2打席=センターフライ、5回・第3打席=空振り三振、7回・第4打席=セカンドゴロ併殺崩れ一塁残り)と完全に松坂に軍配が上がった格好ではあったが、逆にその他の打者には余り集中できていない印象だった。
先日のデビュー戦も未明まで生中継で見ていたが、その時の投球の印象も、実はよく報道されていたりするような「素晴らしい」「見事な」というものではなかった。というより、松坂大輔の本当に凄い時のピッチングはそれこそノーヒットノーランでもやりそうなくらいのものだから、終盤崩れかかったのを相手の拙攻に助けられたという印象だった。もちろん、はじめてづくしのメジャーデビュー1戦目、それも敵地でのピッチングで勝ち星を挙げたのだからそれをして「素晴らしい」「見事」というのに吝かではないが、どうも物足りない印象ではあった。
それでもかの地のファンは大喜びで、何よりボストンのファンは本拠地でのデビュー戦を待ち望んでいたのだろう。しかし、試合が進むにつれ、異常なまでのフラッシュの光とストライクが入るたびに起こる歓声は大人しくなっていった。松坂のピッチングが今ひとつだったのもあるが、何より、相手シアトルのピッチャー・ヘルナンデスのそれこそ「素晴らしい」ピッチングにかすんでしまった、という感じであった。
ヘルナンデスは日本人初の捕手として昨年メジャー入りした城島健司と何かとソリが合わず、ぎくしゃくした印象があったのだが、今年はオープン戦から息が合ってきたな、という感じはあった。というのは日本的な「キャッチャーがリードする」という考えをある程度城島が棄てたからではないかと思う。メジャーでは投球はピッチャーが主導権を握るのが常識だからだ。ただヘルナンデスは普通ならじっくりマイナーで育てるメジャーリーグでは、デビューは今年か来年あたり、というはず(元シアトルの長谷川談)の若いクセ球のピッチャー。気も強く、去年あたりは中継を見ていても「俺の好きに投げさせろ」という我が儘ぶりがたびたび城島と衝突していた感じだったが、この「暴れ馬」の操縦法を城島も身につけつつあるのかも知れない。
ともかく、ヘルナンデスのピッチングは力のある150キロ代中〜後半の速球が適度にバラけ、落差のあるカーブが面白いようにコースに決まるという、まるで松坂の本領みたいなピッチングだった。本来我々は今日のヘルナンデスのようなピッチングを松坂に期待していたわけだが、完全にそれは逆転していた。ボストンの打線は面白いように凡打・三振を重ね、何と松坂の投球の間はノーヒットピッチングを続けたのだから、松坂にとっては不幸なことだったかも知れない。試合は8回を終わって0−3でアウェイのシアトルがリード。松坂は7回を終えた時点でマウンドをロメロに譲ったので、このまま行けば負け投手となる。
自分としては今日の印象はずばり、集中力不足。イチローとの対戦に集中しすぎたのかも知れない。あれだけの投手となると、以前何かのインタビューでも、全ての選手に全ての球を全力で投げているわけではない、その代わり絶対に気を抜けない打者、抑えないといけない打者というのには全力で抑えにかかる…というようなことを言っていたと思う。その「全力で集中して向かう打者」がこの場合イチローだったのだろう。自分の対戦したい相手、自分が好敵手とみとめる相手と、敢えて言えば「試合は二の次でも」真剣勝負がしたい。その強い気持ちがやっと、しかもメジャーの舞台で実現したのだから、夢見心地か、あるいは酩酊状態にあったことは想像に難くない。
松坂大輔という野球選手は、小学生時に「甲子園で優勝して100億円プレイヤーになる」という「予言」をしそれを実現させた男だ。甲子園優勝、プロ野球で日本一、オリンピックでは銅メダル、そしてWBCで世界一(MVP獲得)…と、大舞台でいつも結果を出してきた。だから今回も「怪物」らしく平然と…と思ったら大間違い。これまでと違うのは「チーム」や「日本」だのを背負っていないところだ。かつては野茂がそれを求めて海を渡ったように、メジャーリーグはそういう純粋な「勝負」ができる場である。日本がそうではないとかどっちがいい悪いではなく、それは勝負する人間たち自身が決めることだし、決める舞台だ。だから、きっとその場に酔いしれていたはずだ。
同じ日本人でも、城島には簡単にストレートを甘いコースへ投げて、二本の二塁打を許している。城島をナメていたわけではあるまい、だが明らかにイチローへの丁寧な、真剣な投球に比べると甘いな、不用意だな、という印象だった。その他の打者への投球も、試合の序盤はメジャーなら普通は取ってもらえるはずの外角をボールと何度も言われたりした不幸はあるものの(ヘルナンデスの同じコースはストライクコールされていた)、変化球に初登板の時のようなキレがなく、ストレートの球威もないように感じた。
結果論として言ってるように聞こえるかも知れないが、実際リアルタイムで見ていて、「あ、今日は打たれるな」と思っていた。7年ぶりとなる憧れのイチローとの対決、それもフェンウェイ・パークという場所で、お互いメジャーリーガーとしての「勝負」に酔っていたのだ。そりゃあべろんべろんに酩酊していたと思う。そんな酔いがまわった状態で投げりゃあ、打たれるってもんか(笑)。
松坂がイチローとの「勝負」を平常心で戦えるようになる、つまりボストンがチームとして優勝争いをしていく展開になれば、「怪物」たる本領を発揮し、それこそ淡々とポーカーフェイスでノーヒッターになったりするかも知れない。

<日本時間10:32試合終了>
この日の松坂は結局、
●投球回数 7 ●被安打 8 ●失点 3 ●奪三振 4 ●被本塁打 0 ●与四死球 2 ●自責点 3 ●敗戦投手(1勝1敗)
となった。
イチローは5の0、城島は3−2・1四球。試合は0−3でシアトルが勝った。勝ち投手はもちろんヘルナンデスで、何と1安打完封勝ち。
スポーツナビ|野球|MLB| レッドソックス vs マリナーズ 2007年4月12日

・試合後の解説・長谷川の印象も「今日の松坂は悪くなかったが、やはりイチローに集中しすぎたのではないか」というもので、こちらが見ていた感じと同じであった。

●試合後の松坂へのインタビュー(長谷川による)
いきなりのスタンディング・オベーションの印象は
「武者震いした、メジャー初登板の時よりもやっとここに来た、という印象」「久しぶりにここに来れたなあという実感がこみあげた」
イチローとの初対戦について
「(初球ストレートでいかなかったのは)バリテックと話してストレートを狙っているんじゃないかと、初球はストライクを取れた方がいいのではないかというので(カーブを)投げた」
イチローへの意識は
「気持ち的には意識しないつもりではあったし、試合に入ってしまえば集中するつもりだったが、やはり打ち取りたいという気持ちは強くあった」
城島には
「日本にいた時と同じような打たれ方をしましたね(笑)。日本とあまり変わっていないという印象だ」
次回に向けて
「結果的に相手ピッチャーにあれだけのピッチングをされたので抑えないとという気持ちはあったけど。…悪いなりにこういうゲームを続けていけば結果はついてくると思うので自分のピッチングをしたい」
というような内容。(リアルタイム聞き書き、です)
松坂は時折笑顔を見せ、ごくごく普通に応えており、悔しさはあるだろうがホッとしたような印象もあった。次回に期待、である。
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2007-04-11(Wed)

女子学生が「留年」告げられ自殺

先日発覚した、高崎経済大学の女子学生が准教授から「留年」を告げられ自殺したという事件。報道などによれば概要は、同大の准教授が昨年6月、ゼミ生に夏季の宿題として高度な課題を課した。12月になって准教授が未提出の学生3人に「提出しなければ留年」という旨のメールを送信する。提出期限である1月15日の夕方、未提出だった2人のうち、今回自殺をした女子学生だけに催促のメールを送ったという。女子学生はそれに対して「留年すると分かっています。人生もやめます」と返信し、夜、橋の上から渡良瀬川に投身自殺をした…ということだ。
この事件が公になり、大学側で設置した「調査委員会」はゼミ生や他の教員から事情聴取を行ったそうで、准教授の課した課題が2年生としては非常に難解であり、結果的に准教授による「留年通告」メールがこの女子学生を自殺に追いやったと結論に達したそうだ。准教授は「間違ったことはしていない」と反論しているというが、報道によるとこの准教授は他の学生にこれまでセクハラ発言など暴言があったというし、日常学生たちからその態度・人間性において疑問視されていたことも、ニュース映像などで解る。
自分で自分の命を、絶つな。
それもたかが大学の留年くらいで。
もちろん、この女子学生には相当の理由があったのだろう。この准教授の「指導」により「留年」するということが、命に比しても受け入れられないほどの重大事だったのだろう。俺には理解できないが、彼女には彼女なりに命を絶つしかもう方法がないほど、追い込まれたのだろう。
だとしたら、この准教授は文字通り「殺人者」と言っていい。「間違ったことはしていない」と臆面もなく語っているこの「鈍感さ」が、日常自分の発言や態度でどれだけの人間が傷づいているかに気付かせない「指導」を生んでいるのか。昨今どこかのバカが流行らせている「鈍感力」とかではあるまいに、自分の鈍感さ、愚鈍さを言い訳に繊細な他者を脅かす。そんな鈍感さなど金輪際必要ない、そんなことを提唱する奴らはそいつらだけでどっかの島で暮らせ。
その女子学生がガラスのような繊細な心を持っていたとしよう。准教授がそれに気付かずに、強い指導を行ってしまった、結果として不幸な事件になった…としよう。それでもやはり、この准教授の罪は軽減されない。一人一人の学生のパーソナリティを把握し、指導するという基本が守られていない。俺の連れ合いも勤務する大学でゼミを受け持っているが、端で見ていても数人の学生を連れて美術館へ行ったり、メールを廻したりしていて、人ごとではない。だがゼミ生は50人も100人も受け持つわけではないだろう、一人一人の顔が見えただろうに。

実は俺も専門学校で教えている時に、担任を受け持った一年生クラスの女子学生が一人、自殺をした。学生たちにはなるべく平静を装ってはいたが、内心は忸怩たる思いだった。まだ受け持ってあまり時間も経たない頃だったのと、自殺した原因が学校と関係のない人間関係のことであったことで、もちろん学校側では誰も責任を取るようなこともなかった。けれども、まだ人間関係がそこまで形成されてはいなかったとはいえ、彼女に身近に死を選ぶ前に一言でも相談できる人間が、できれば年長の大人がいてやれなかったということが悔やまれるのだ。それが、自分でなかったということにも。
以前、別な女子学生から教室でリストカットをすることをどう思うか、と聞かれたことがある。俺は確かリストカットは周りへのSOSだから、周囲にその子のことを愛していると言って抱きしめてやれる人間がいてあげればいいのだ、と言った。同じ教室にいた子らは覚えていてくれているかも知れない。

今回の事件で、准教授はちょっと高度な課題を出した、他の子は提出している、提出がなければ留年だと当り前のことを告げただけで自分は悪いことはしていない…そういうのだろう。その子がどんな子であるか、そういう強いプレッシャーに耐えられるのか、どう反応するのか、を考えずに強者が弱者をいたぶるようなことを結果的にしてはいなかったか。
敢えて言うが、今の学生たちは、驚くほど子供だ。もちろん偏差値的なお勉強は我々が同年齢の頃よりもそれこそ「頭がいい」と言われるほど向上しているのかも知れない。だがその自我は非常にもろく、脆弱で、人として「弱い」と感じる。テレビなどで見られる上っ面だけの「雑学」や「情報」を、知識や教養、哲学であるかのように振舞う。だがそんなものはちょっと斜めからつつかれればぺらっぺらに薄っぺらな、しょせんは「他者」のものを借りてきているにすぎない。素っ裸の自分を試されるような場にはそもそも出ないし、立たされればそれこそ自我が崩壊しかねないほど、もろい。ネットでの付き合いやブログなども、見ているとニュース記事を引っ張って全文を引用して終わりか、あるいはホンのちょっと短いコメントを書き加えて自分の「意見」だと言っている。ニュース記事からのアクセス向上だけが目的らしいが、万事がそんな調子だ。顔をあわせての議論や討論を敬遠し、意見が否定されるとすぐ全人格の否定であるかのような過剰反応をしたり、それこそ簡単に逆ギレする。社会全体的に幼児化が進んでいると思う。関係ないが、テレビで影響力の大きいタレント、例えばダウンタウンや木村拓哉の年齢をちょっと冷静に思い出してみたらわかる。
教えられる子らが「子供」であることはいい、だが教える側まで幼児化してどうする?

齢四十を超えた俺が言うけれども、受験勉強など、実社会で役に立った経験は、ほぼゼロだ。
俺は今自分の命がどれくらい持つのか、毎日とにかく「生きていること」すなわち「生かされていること」に感謝し、素直にこんな当り前のことが嬉しいと思える日々を送っている。大学の成績ごときを自分の命を比べることなど、全く理解できないし、自分が二十歳の頃を考えても同じだったろう。だが、現実に死んだ女子学生は「死」を選択した。自分がこれから生きていくことと、死を秤にかけて、命を絶つことを選択させた周囲の、何と言っても准教授に強い怒りを覚える。

学生に死を選択させる「指導」って何なんだ? それは間違ってはいないのか?
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2007-04-10(Tue)

野菜スープ

4月10日(火)
今朝は9時ころから何度か目が覚めていたが、だらだらと猫を抱いたまま布団にいて、結局起きたのは10時半過ぎ。何かこう書いているとダメ人間みたい。12日まで連れ合いは京都出勤中。朝は食欲なく、食べず。洗顔などしたあと、ごろりと居間のソファに転がってテレビでヤンキースの試合を見る。ってやっぱりダメ人間みたいだな。
NYY、松井は肉離れで戦線離脱&こないだ先発の井川は火ダルマと、ボストンの松坂の活躍にかすんでこちらのニホンジンは駄目っぷりが目立つ。松井の怪我というか故障はたいしたことはないらしいが、肉離れといっても始めての部位らしいので心配だという。井川はたった1試合で「獲得は失敗」「マツザカを逃した代償は大きい」などとビートライターたちに早速書かれて叩かれはじめているが、ちょっと可哀想だろう。どんな大投手でも負けは必ずつく。

その後2時過ぎには西友から配達で野菜スープの材料が届く。大鍋にいつものように野菜スープをたっぷり作る。パンツェッタ(生でも食べられるもの)をオリーブオイルでカリカリに焼き、みじん切りの玉ねぎを放り込んで焦げないようにあめ色になるまで炒める。ここに少量の赤ワインを足してフランベして火を消した後、大鍋に沸かしてあった湯に入れる。あとはニンジン、ブロッコリーの茎、ピーマン、赤パプリカをそれぞれみじん切りにしたものを放り込んで煮る。それからブロッコリーの先、生トマトの角切り、最後にホールトマトの缶詰をあけて、中のトマトを一口大に切ってから缶詰の汁と一緒に入れる。コーン缶があれば加えたりする。マッシュルームが好きな人は入れても良し。
味付けは塩コショウ、ハーブ類、ビーフコンソメ、固形ブイヨン、にんにく少量、オニオンエキス粉末スープ、中華鶏がらスープ少量などで。これも自分の好みでよし、ルール無用。これをぐつぐつ10分ほど煮込んだ後火を消す。一日置いて次の日の朝加熱して食べるとい〜い感じ。日が経って濃い目になってくるのもまたいいお味。
ミネストローネとか言うより「野菜の具だくさん煮込みスープ」で、材料もその時あるものを入れてやればいい。キャベツを入れる場合、葉はよく言うように手でちぎって入れること、固い部分は包丁を入れて先に煮ること。味付けは「自分がうまいと感じるようにする」こと。体にもいいし簡単なのでどうぞ。あ、これからの季節は一日に一回は最低火を通さないと、すぐすっぱくなったりするのでご注意ください。不安な人は冷蔵庫で保存し食べるごとに暖めるとか。
あとホールトマトの缶詰は身の形が残ってるものがいいっすね。安いし、何よりトマトの旨みが凝縮されていて、スープによし、サラダによし、スパゲティのソースなどにもいい。ちなみにオリーブオイルをニンニクで香付けしたところにベーコンやナスを炒め、塩コショウで味を調えただけで立派なイタリアン風のスパゲティソースになります。自分は仕上がりにパルメザンチーズを振るけど、お好みでいろいろやってみてもOK。

朝食の後は知り合いに頼まれたフライヤのデータ作成。先日見せたバージョンでOKというのでネットで発注。ただ精細写真が5〜6枚埋め込んであるためファイルが210Mbもあり、どうやっても送信できず。相手方のメールサーバーが受信拒否をするらしい…って当り前だよ(笑)。lzhやzip圧縮してもこういうデータって小さくならないんだよなあ、と思いつつ一応かけてみると、圧縮した後の方がデカくなっていてガックシ。結局うちのサーバにアップしたのを落としてもらうことにするが、そのためのhtmlを作ったりするなどやや苦労した。イラレでフルカラーのフライヤ、CMYKで作って写真埋め込んでフォントアウトライン化して…ってこんな面倒くさかったっけ。
夕方、京都の研究室にいる連れ合いから電話で、学内WEBでのメール受信が出来ないという。ていうかそれこちらからではどうしようもないんすけど、と思ったが一応調べてみる。要するに仕組みとしては連れのアカウントというかPOPサーバに来たメールを、大学内のWEBページ上で送受信しているわけなのだが、連れのメールサーバに来るデータはバックアップのためこちらの専用アカウントへも転送させることにしている。それがちゃんと転送されているのを見ると、つまりはPOPサーバには何も問題は起きていないと思う。ということはWEB側に何か問題があるとしか思えぬので、近くに誰か先生がいたら、そのWEB上で自分のメールを取れるか聞いてみてと伝える。しばらくして電話してみると、在校している先生に聞いてみたらちゃんと取れているという。ということはもう経路の問題かWEBのシステム的な問題だろうと判断、しばらく待つ…というよりもう7時をまわっていたので今日は諦めて帰るように話す。
その後アクセスしてみると、問題なくメールの受信が可能になっている。何だかなあ、だが不通だった間のメールがなぜかすっぽり欠落している。しょうがないので俺の方のアカウントへ転送しておいたメールのデータをそのまま連れ合いのアカウントへ再度転送し直し、大学のWEBで受信しておいた。これで明日連れ合いが出勤してWEBを見れば、何ら問題なく欠落メールも補完されているはず。やれやれ。
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2007-04-08(Sun)

石原都知事三選

Yahooニュース - 毎日新聞 - <都知事選>現職・石原氏の当選確実 浅野氏を圧倒 (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=
20070408-00000038-mai-pol&kz=pol)


投票締め切りとほぼ同時に石原現都知事の再選がほぼ当確という速報が出た。今日は朝から連れがまたまた京都へ出勤のために出かけて行き、その後しばらくしてすぐに投票へ行った。朝早かったせいか投票所はガラガラで、相変わらずこんなもんかという印象。

今回は「石原にNOなのか、YESなのか」という信任投票のような知事選だったように思う。
前回圧倒的得票率で再選した石原人気は陰りが出たというものの、相変わらず健在であったとも思う。自分にしても、石原都政二期を総括してどうだと聞かれれば、「絶対NO!」とは言えなかったと言う気がする。で各論に入るが、焦点は東京オリンピックが一番大きかったように見えた。つまり東京オリンピック是か非か、である。そう聞かれればほとんどの人は「いいんじゃないの」と答えたということだろう。それが非現実的である、失敗すれば莫大な都民の税金がムダになる…というところまで実感を持って想像する人が少なかったのだろう。というより、そんなことよりディーゼル車規制、横田基地問題など目に見える石原都政の「実績」を否定するためには、オリンピックを皆がそろって「絶対悪」とは言えない分、石原否定には弱かったのかも知れない。
メディアはさっそく勝因の分析にあれこれ入っているが、まあメディアや学者たちの言うことはほとんどが「結果論」でしかない。それが証拠にほとんど全てのメディア、学者、識者と言われる人たちの予想は「石原苦戦」だった。こういう人らはかつて1ドル100円時代が来るとかバブル崩壊なども予想できず、全て結果が出てからしたり顔で「分析」をしてみせるのが得意な厚顔な人たちで、長年ニュースを真面目に見ていれば「信用するな」というリテラシーはちゃんと蓄積されているだろうが。

石原再選の理由としては「実績の評価」「バツグンの知名度・人気」「オリンピックへの期待」などだろう。対抗候補たちで有力視された浅野氏の敗因は「立候補の遅れによる準備不足」「知名度・人気不足」、もう一人の吉田氏は「(支持母体である)共産党以外の支持層への拡大失敗」ってところか。要するにあとの候補は皆、「泡沫」であった。
石原知事には確かに逆風もあった。ぜいたく出張問題、身内びいき、傲慢な態度への反発、そしてもちろんオリンピックへ向けての巨額の税金プール問題。これらのうちある人はテレビで「あの石原さんが選挙戦に向けて謙虚に頭を下げ、批判には反省をしてみせたことが大きい」と述べていた。おいおい、である。石原さんが国や近隣諸国、アメリカなどへ「はっきりモノを言う姿勢」に多くの有権者が快哉を叫んでいたこともまた事実だ。それが時には傲慢で人の話をきかない、批判には逆ギレで応酬…と取られることも多かったわけだが、その人が選挙直前に「謙虚になった」から好感度グンとアップ…って有権者ってそんなにバカかね(笑)。いや、この国のメディアを見ているとそれもあながち的外れとも言えないか。

給食費の未払いが全国的に問題になっている。かつてはそんなもの払うのが当り前で、払えないというのは極貧の困窮家庭ぐらいなものだった。そしてその家はそのことを恥じ、申し訳ないと頭を下げていた。その家の子は自分のせいではないのに卑屈になり恥ずかしい思いをしており、子ども心にも可哀想にと思ったものだ。それが今、金銭的には払える余裕があるのに「払いたくないから」「携帯とかに金かかっちゃって」「車検があってさあ」「旅行行ったら金無くなった」挙句の果てに「あんなまずい給食出しといて金カネ言うな」と逆ギレだそうだ。そんなバカ親どもが増え、給食供給側の財政を圧迫すると、それへの対処がおかしな話で、しょうがないので全体のレベルを下げる、だと。なぜちゃんと払っている家庭の子らに不利益がかかるようにするのか理解に苦しむ。払わない子には食わせるな、それでいいだろう。わが子が食えなければ親なら払うだろう、それでも払わないならば虐待である。立派に法律で罰することができるはずだ。
去年、外国で狂犬病にかかった犬に噛まれた男性が亡くなったという事件があった。日本はご存知のように、とうの昔に狂犬病の「洗浄国」(発生がない、撲滅された)になっている。昭和28年(狂犬病予防法)以来長年に渡る予防注射義務付けの成果である。ちなみに日本では狂犬病は昭和32年以来発生例はない。一般的に狂犬病非洗浄国というのは文化的に遅れている、と見なされる雰囲気があるため、先進国では撲滅に躍起になり洗浄国の仲間入りを目指すのが普通だ…と思っていたら、実はほとんどの国で撲滅には成功していないのが現実だった。
ちなみに現在の洗浄国は日本のほか台湾、キプロス、シンガポール、アイスランド、スウェーデン、ニュージーランド、アイルランド、ノルウェー、イギリス、フィジー諸島だけだという。北欧、シンガポール以外は島国であることがわかる。従って先進国と言えども、島国以外では洗浄が非常に難しいことが解る。そして洗浄国からのペットの輸入は比較的容易であるが、それ以外の国から犬を輸入する場合、当然のことながら検疫を受けねばならない。ここで問題なのは狂犬病は犬だけに感染する病気ではないということで、ハムスターやフェレットという小型動物にも感染する。「狂犬病の主な感染源として問題になっているのは、欧州では犬ではなく、アライグマとキツネであり、アメリカではコウモリ、アライグマ、キツネ、スカンクだ。アフリカではジャッカルとマング−スだ。アメリカではコウモリは農産物の害虫の捕食動物なので駆除するわけにもいかず、困っているようだ。日本では、なぜか、犬だけが悪いように宣伝されている。」(狂犬病予防ワクチン注射のからくり 狂犬病予防法は御用済みの悪法だ!より)
これらももちろん非洗浄国から持ち込む場合は検疫を受けるのだが、もちろん密輸される場合はその限りではない。そして持ち込まれてしまえば、検疫を受けたかどうかの判断は難しく、犬以外のそれら全ての動物にワクチン注射をする方策は今のところない。
けれども、日本が戦後比較的早く洗浄国になることが出来たのは、島国であることで検疫がやりやすかったこともあろうが、やはり徹底した予防注射の義務化であったことは間違いないだろう。だが、その狂犬病予防ワクチン注射の実施率が毎年下がっていく傾向にあり、もはや実施率は4割を切ったそうだ。ある報道番組を見ていたら、厚生労働省の人や学者が「義務だからと接種を指導しても、飼い主がいろいろ理由をつけて実施しないという事例が増えている」という。たぶん『うちの犬は室内犬だから必要ない』『病気でもないのに可哀想』『カネがない』…ってところだろう。給食費を払わないバカ親たちの阿呆ヅラとこういう阿呆飼い主の姿がダブって見えてこないだろうか。
自分さえ良ければいい、自分らは大丈夫、自分には関係ない…エゴイズムと呼ぶことすらバカバカしい、子どもじみた、知能が低く常識のない「バカ」が増えている。こういう人らって、別に昔もいることはいた。だがそういう人らは地域社会でスポイルされていたし、周囲はちゃんとそいつらの「バカさ」を認識し問題であるという意識を共有していた。なぜならそれは少数の「困ったちゃん」だったからだ。だがそれが年々、そういう層が増えていると思う。連れ合いとよく話すのは、外出すれば不愉快な目に逢うことばかりだということだ。我が儘、傍若無人、厚顔無恥である方がデカい面をして闊歩しており、普通の人が迷惑を蒙っている…という状況が多すぎないか。悪貨が良貨を駆逐するがごとく、バカはわらわらと増え世間に害毒をバラ撒きバカをさらに増やし、いつしかバカが多数派になってバカ側の常識を蔓延させていく世の中って、どうよ。
「選挙に行っても何も変わらない」そういう人がたくさん増えると、組織で選挙に行く側には思う壺である。今回石原さんが勝つだろうな、石原さんの強力なリーダーシップって東京みたいなところを治めるためには必要なんだろうな、と思いながら俺は投票に行った。誰に入れたかは言わないが、まあ死に票になることぐらい承知の上だったと言えばだいたいお判りだろう。石原さんの否定ではない、「当選するにしても得票率を下げる」ことを狙った投票行動である。石原さんに必要なのはそういう人たちの声にも耳を傾けるべきだ、と思っているからだ。

こないだ連れと外食をした。近くのよく行く馴染みの店である。ご飯を食べながら店内のテレビを見ていたら、また親による子どもへの虐待のニュースが報じられていた。こういうニュースはもちろん、あまりに日常になると報道すらされなくなり、相次いで報道されるといううちはまだマシなのかも知れないが、とにかく「またか」というコトバさえ出てこないほど日常になっている。その店のおばちゃんと俺たちは「育てられないなら作るなよなあ」「子ども作る場合は免許制にしたらいいんだよ」「本当よねえ」こんな会話をしていた。他愛のない世間話である。にしてももちろん暴論であるが、半分いやかなりの割で本気でもあった。この国ってほんとうに「美しい」だろうか。
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2007-04-04(Wed)

高校時代の日記

4月4日(水)
今日も連れは京都出勤中。夜になってフと気になることがあって、高校時代の日記を久々に引っ張り出して読み返してみる。これが面白くてずっと読みふけってしまう。まあよくある話ではあるが、途中からPCに音楽用ストレージとしてつないであるCREATIVE Nomad ZENをスピーカで鳴らしてボストンやパープル、プレイングマンティスを流しつつ読み返した。気持ちは高校時代へ完全に戻ったが、書いてあることで記憶が蘇ること、全く記憶が欠落していることなどがある。ひんぱんに出てくる友人の顔さえ、朧気になってしまったのがたくさんいてショックだ。でもよく考えたら四半世紀も経っているのだ、当り前か。とはいえ気持ち的には高校通ったりサボったり帰りに自分ちで友達と酒飲んだり、バンドやったり…というのは日記を読んでいると本当に懐かしく、あの頃の気持ちが鮮やかに蘇る。ところどころは色褪せ記憶も曖昧だ、でも人生の中でキラキラと輝いていた「青春」というものが、ぎっしりと自分の文字でノートに綴られているのを見ると、なんとも言えない気持ちになる。そして時々今の自分に戻ると、今ここにこうしていることが不思議な感覚になったり、ちょっとトランスぽい感じにさえなったりした。

高校時代の日記の中には友達と毎日のように話し、飲み、食い、笑い、遊んでいる自分がいる。これでいいのかというくらい勉強をせず、漫画を読んだり文学全集を片端から読んだり毎日自分の部屋のステレオではハードロックをかけ、ギターを弾きまくったりしている。そういえばと、当時のではないが今は寝室の片隅でホコリをかぶっているギターを思わず引っ張り出してきた。フェンダージャパンのストラトキャスターだ。青林堂に勤めていた頃、御茶ノ水の楽器店で買ったやつだが、手指の皮膚が薄くなってしまってから弾かなくなって7,8年が経つ。ケースに入れてなかったのでびっしりとホコリがかぶり、猫の毛やらホコリやらで大変なことになっている。ざっと塗れティッシュで拭いて弾いてみると、意外にもチューニングは若干の狂いがあるだけで、ほぼ保たれていた。チューニングロックのついたモデルなので、なのかも知らん。狂いをちょっと修正して、ちょうどかかっていたStrange Kind Of A Womanにあわせて弾いてみる。駄目だ、指の皮が薄くて全然弾けない。ピッキングも前のようにスムースに出来ない。こりゃアカンと、しばらく奮闘した挙句また元の場所へ戻した。もう売るにも売れないし、棄てるには惜しい…という状態で朽ち果てていくのか。同じ場所にはやはりホコリをかぶったイバニーズのベースも立てかけてあるが、ベースの太い巻き弦なんか絶対無理。前は指先でテーブルを叩くとコツンコツンというほど固かったものだが、今ベースを普通に一曲弾いたら指先が血まみれになるだろう。

それにしても高校時代の詳細な日記、我ながら驚くほどの「記録魔」ブリである。麻雀をやれば勝敗だけではなく全ての局のアガリ手やら、夏休みに読んだコミックのタイトルと作家名・版元などの一覧、少年漫画、少女漫画、エロ劇画、青年漫画、ガロ系漫画などの詳細なレビュー(といってももちろん稚拙なものだが)、喫茶店に入れば誰と入って何をオーダーしたか…など、これじゃあ勉強するヒマなんかねえわなあ、という感じ。この記録魔ぶりはもちろん、ガロで働くようになってからも続いて今に至っているが、こうしてPCで気軽にテキストデータとして保存されていくものよりも、当り前だがエンピツやサインペンの手書きで、時に絵やレタリングも交えて筆圧さえ感じられる記録からは、その時の空気さえ立ち上ってくるようだ。パソコンの時代だから余計、中高生には手書きでの日記・自分史の記録を勧める。後で誰よりも自分にとって一番面白く、宝になること請け合いである。だが誰かに見られたら死にたくなるので、そこんとこ注意しよう。
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2007-04-01(Sun)

花見という名の狼藉

4月1日(日)
今日は連れ合いが大学の入学式やオリエンテーション出席のために京都へ行く日。天気が良く桜も満開だし、行く前に散歩がてら浮間公園でも行こうと話していたので、11時半過ぎに着替えて出る。今日はコートというより上着さえ必要ないくらいの暖かさ。暖かさ、というより冬物のセーターでは暑いくらいだ。浮間公園はJR埼京線浮間舟渡駅のまん前にある、池を中心とした公園だ。余談ながらこの池の真ん中を北区と板橋区の区界が通っている。公園へ行く道々の桜も満開で、枝が重そうにしなっている。昨日の夜雨風が強かったので心配したが、さほど影響は無かったようで、青空に薄桃色の桜の花が良く映えている。
浮間公園へ近づくにつれ、徐々に歩いている人が増えてきた。皆公園へ向かうのかと思うと少し不安になったが、公園に着くと果たせるかな物凄い人だ。いつものラーメンと焼きそばなどを安く出している町会の出店のほかに、テキ屋の屋台もたくさん出ている。なぜか和太鼓をどんどこどんどこ叩いている出し物までやっていて、それを遠巻きにして人だかりが出来ている。とにかく近隣住民はこんなにいたかと思うほどの人手で、出店や屋台も大繁盛だ。我々が着いたのは12時ちょいすぎたくらいだったから、昼飯どきとあってラーメンは大人気。出店の前の立ち食い用のテーブルはほとんど全部埋まっていて、皆ラーメンをすすったり焼きそばを食ったりしている。
俺らもさっそく4、5人の列に並んでラーメンを食べたが、何せ暑いうえに食ってるのも熱いものなので、なかなかにミスマッチである。しかも数年前の花見の時に食ったラーメンはもっとうまかったと記憶していたが、今日のはスープがぼやっとした味だ。ひょっとすると麺のゆで時間が長く、さらに湯きりが充分じゃないのかも知れない。俺は空腹だったので一杯完食したが、連れ合いは半分以上残した。
ラーメンを食っている間も周囲は常に混雑していて、人がもの食ってるのに遠慮会釈もなく大雑把な北関東弁や東北弁のジジィやババアが目の前に割り込んできてべちゃくちゃと大声で話したり、デカい声で笑ったりしている。ここは東京じゃなかったっけ? と思うほどの訛りのオンパレードだ。余りのドラ声と下品な笑い声、無遠慮な態度に辟易してどこかへ腰掛けようにも、ベンチは全く空いておらず、その辺の植え込みのヘリのコンクリートさえも腰掛けた人で埋まっている。それでは桜を見よう…と思っても、桜の周囲は敷物を敷いた花見客で完全に占拠されていて、遊歩道はガキが嬌声をあげて走り回ったり、酔っ払いがうろうろしている。
公園全体が「うわーん」と騒音と嬌声が入り混じった音で支配されており、これでは花見の風情もヘチマもない。酔っ払いの笑い声、ガキの嬌声、どんどこどんどこ太鼓の音、質の悪い音質でどこかから流れてくる演歌の割れるような音声、車のクラクション、バイクの爆裂音、全てが桜を愛でるという俺たちの目的には全く不必要なものばかり。しかもそもそもゆっくりするような場所すら、ない。とにかくこの馬鹿馬鹿しい空間から離れよう…と、我々は公園をほうほうの体で後にした。「花見」とは花を愛でる行事ではなく、花にかこつけて酒を飲み騒ぎわめく日らしい。
公園を後にして、まん前にあるローソンへ向かう。店の前の駐車スペースには唐揚やフランク、飲み物などの出店を出したりして、ここも掻き入れ時だ。俺らは水、お茶のペットボトルを買って出る。それにしても花見どころではない、どうしようかと思案するが、そういえば赤羽へ向かう途中に製薬会社の工場街があって、そこの道が毎年この季節になると見事な桜のアーケードになることを思い出した。今日は日曜で工場は休みだろうし、赤羽行きのバスはあそこを通るから、行ってみようかと話し合う。そう決めて駅前ロータリーのバス停へ行くと、何とお目当てのバスは日曜は1時間に1本(5分発)で、しかも今12時25分あたり、あと40分もある。埼京線があるので赤羽へは電車なら2駅で5分。バスの需要はもともと減っているのはわかるが、あ〜あこれじゃあなあ…と二人でバス停のベンチへ座り、しばらく呆然。
連れ合いの京都行き新幹線は東京駅4時ころの発車なので、ここからは3時頃に電車に乗れば充分。それにしてもまだずいぶんある、10分ほど「どうしようか」「いったん家に帰ってごろりとしてようか」などと話すが、いったん家に戻ってまた出てくるのもアレだしなあというので、結局タクシーで工場街を通ってもらって赤羽へ出ようということにする。赤羽なら喫茶店もあるし時間を潰す場所もたくさんある。とにかく舟渡は何もない春です。
ロータリーのタクシー乗り場からタクシーに乗って、運ちゃんに浮間工場街を通って赤羽へ行ってくれと告げる。運ちゃんは「あそこも綺麗ですけど、その先にももっと綺麗な桜のアーチがありますよ」というので、そこも通ってくれるようお願いした。
浮間5丁目の工場街の道路へ入ると、綺麗な桜のアーケードがずっと環八の方へ続いている。二人で綺麗だねえ、と話しつつ通り過ぎながら見る。いったん環八に出て、小豆沢の水上バス乗り場を左手に見ながら北赤羽へ出て、そこから諏訪神社の坂の方へ右折。なるほど運ちゃんのいう「さらに見事な桜のアーチ」は諏訪神社から北社会保険病院下の都営アパートに続く道のことであった。これもまた綺麗で、しかも北社会保険病院が高台にあって、その裾野の部分に桜があるので、皆ゆったりと腰掛けたり歩いて桜を愛でている。最初からこっちへ来れば良かった、来年はそうしようなどと話しつつ、通過しながら見物。タクシーはトンネルを通って赤羽駅西口へつけてもらった。いやはや何ともそっけない「花見」になってしまったが、浮間公園のあの下品な空間には耐えられなかったので仕方がない。
赤羽に着いてスタバに入って休む。俺はアイスラテ、連れはバニラクリームフラペチーノ。隣にはノートPCでなにやら書き物をしている若者がいる。上品な老夫婦が微笑みながらコーヒーを飲んで話している。何だか舟渡から来たら赤羽ですら(失礼)民度が高く見えるね、と話し合う。そこで時間を潰し、書店を見たりぶらぶらと時間を潰して、2時半ころに少し早いが連れ合いは京都へ向かった。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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