2008-01-30(Wed)

ナマモノ

ここ数日下痢が続いている。原因は不明、何か悪いものを食べたり飲んだりした覚えもない。なのでちょっと数日は軽いものを食べるだけにして、家で大人しくしている。そうしていると浮かぶのは好物で、寿司食いてぇなぁ…とか、どこそこの馬刺しが…なんてイメージが浮かんで唾液をグビリと飲んだりもする。
普通白血球数が1500を切るような状態だと、生もの…刺身、サラダなどの生野菜類、生卵などは禁じられるらしい。だがサラダはともかく、刺身は魚だろうが牛だろうが馬であろうが、大好物なのだ。ついでに卵かけご飯も(笑)。ただ本来、刺身は何のものであっても「刺身で食えるものを出すから刺身」のはずだ。じゃなかったら、鮮度が悪ければ加熱調理をして出すしかない。そんなのは常識だと思っている。だから、今のところあんまりビクビクせず、以前のようにおいしいお刺身をちょくちょくいただくようにしている。
でもまれに、「刺身で出せない鮮度のものを刺身として出す」店もある。まれに、ではないかも知れない、東京ではけっこうそういうところに当たったことがある。ギリギリ、加熱しなくてもいいかな…的な鮮度のものだったら、いい加減な店主なら出してしまうのかも知れない。こういうモノが、免疫の落ちている自分には危ないんだろう。
幸い、刺身の鮮度はだいたい一目見れば解るし、一口食えば完璧に解る。舌が肥えてるとかそういう問題じゃなくて、刺身ってそういうものだからだ。今京都で俺たち夫婦がちょくちょくお世話になっているお店は、どこも最高の鮮度のものを出してくれるし、腕も確かなところばかりだ。かといってギョッとするほど高い店ではなく、気取ってもいない。居心地が良くて料理も間違いがない、我々が望むのは別にそれほどハードルの高いことではないと思っている。実際は少ないんだけど。
俺は北海道生まれなので、普通に家庭で刺身をバクバク食っていた。多かったのはやっぱりイカで、「またイカ刺しぃ〜?」なんて今にして思えば贅沢な不満を言ったこともある。イカだけではなくもちろんマグロや鯛や平目といった高級魚の刺身も、大ぶりのぼたんエビなんかも、いつもではないが最高の鮮度のものが普通に食べられたのは、いい経験だったと思う。
近所にはリヤカーを引いたおばちゃんが「イガイガ〜」とイカを売りに来たりするし、身が透き通って箸で持ってもピンとしたものが「イカ刺し」だとずっと思っていたものだった。上京してすぐ、誰かと居酒屋に入って出てきた「イカ刺し」は「消しゴム」だった。東京では消しゴムをイカ刺しというのだな、と思い以後ずっとイカ刺しが頼めなくなったことがある。
鮮度ということで言うと、江戸前寿司というのは関西の押し寿司や巻き寿司などに対して、江戸で始まった「握り寿司」のことを指したらしい(当然東京湾のネタ)が、俺の理解では江戸で取れた地の魚を、昔は鮮度保持が難しかったので「仕事」をして食べさせる、ということだ。なので東京の人は一部の金持ちを除いては、鮮度のいい刺身を食べられないので、ヅケや〆たものを食ってるんだな、という了解をしていた。最近は鮮度保持の問題はもうないし、築地には全国から旬の魚がガンガン入ってくるから、そういう理解はもう間違いなんだろうが、消しゴムを食わされて以来、東京には、いや東京の刺身の鮮度にはずっと偏見を持っている。
もちろん金を出せば、モノはあるんだからしかるべきところで大金払えば食えるのだろう。特に芸能人御用達に多い、確かに新鮮でいいネタなんだろうが、お前らその値段法外すぎねえか?的な店は、たとえ金があったとしても絶対に行くまいと決めている。ていうかどうせ行けねえよ、ハイハイ。…って、とにかく東京は名店も数多くあれど、それに輪をかけていい加減な店も滅茶苦茶多いのも事実。京都の場合は街が狭いし、歴史ある観光都市でもあるのでいい加減な商売はなかなか出来ないせいもあるのか、比較的ちゃんとしている店が多いような気がする。
京都にももちろん、チェーンの安い居酒屋もたくさんある。学生の多い街なので、そういうところは学生さんたちでワイワイガヤガヤと賑やかだ。そういう席ってあんまり刺身なんか必要とされないんだろうし、鮮度もそれほど重視されないんだろうな、と思う。経済的な理由もあるだろうし。
関係ないが刺身(お造り)という「料理」は、鮮度が命なので鮮度さえ良ければ板さんの腕前はあまり関係ないと思われるかも知れないが、そうではない。もちろん切り方や付け合せ、他の料理との組み合わせ方などいろいろあるのだが、一番は旬の時期にいい鮮度でそれを仕入れる「目」だと思う。それはまぎれもなく板さんの腕だ。

連れ合いは以前、東京のなじみの店の一軒で生牡蠣を食べて当たったことがある。それ以来彼女は生牡蠣が怖くて食べられなくなった。別段ひどい中毒症状に苦しんだわけではないが、ツルリと食べて咀嚼した瞬間の生臭さと何ともいえぬ食感に吐き気を催したそうだが、その後悪い予感は当たってしまったというわけだ。確かに一度そういうモノを味わってしまうと、次はなかなか食べづらい。
まだまだ牡蠣のおいしい季節だが、さて京都へ来て、連れは牡蠣恐怖症をいつ克服できるだろう。
関連記事
スポンサーサイト
2008-01-29(Tue)

京都人のマナー

夫婦ふたりとも車を運転しないので、京都市内の移動はもっぱらバスかタクシーとなる。あ、もしくは徒歩だ。二人ともこれまた病気を抱えた体で、しかもなぜか二人ともそのせいで腹部が膨満しているから、長時間の歩きや立ち姿勢は辛い。俺の場合はもちろん白血病から来る脾臓の巨大化によっての症状だ。しかも脾臓は柔らかいので強い衝撃は、そのまま大量出血と死を意味するというから恐ろしい。連れは右腎臓摘出手術の後遺症で腹筋が寸断されたため、腹部をベルトなどで支えていないといけないし、突然のくしゃみや腹筋を緊張させる動作は腸が飛び出す恐れがあるため、要注意となる。
要するに二人とも見た目は健康そうに、それもふくよかに見えるのだけど、障害者手帳を貰っていないだけで、抱えている症状は障害者そのものなのだ。ちなみにこういう場合は行政からの支援は一切全く微塵も受けられない。
まあこんな感じなので、徒歩といってもせいぜい1〜2km程度の平坦な道がせいぜい。あとはバスやタクシーを使わないと、大変である。タクシーは京都の場合、だいたいどこを歩いていても空車が拾える。そして東の端から西の端まで移動しても、3000円前後で済む。そんなに移動することは滅多にないが。
京都は全国でも有数のタクシー激戦区で、東京では700円を超えた(!)初乗りもここではもちろん据え置きだ。それどころか初乗り500円台の車もけっこう走っているし、5000円を超えた分は半額割引とか、着物着用者割引とか、深夜割り増し無しとか、会社によってサービスがいろいろあって、結局どこが一番得かということは誰も知らない。運転手さんの年収はこうした競争の激化に伴い年々下がる一方で、大変だと聞く(同じことは大阪にも言える)。なので乗るときはいつもこちらもお礼を言い、数十円ならお釣りはいらないと言うことにしている。タクシーにはいつもお世話になるので、ささやかなお礼のつもりだ。
さて京都は、というか洛中は碁盤の目になっているから道に迷うことはほとんどないというのは有名な話。バス路線もいくつか身近なものを覚えてしまえば、この解りやすい地理とあわせて、かなり便利なツールとなる。「スルっと関西カード」は関西地区のほぼ全ての私鉄とバスが共通で使えるので、乗換えや乗り継ぎもラクチン。だが問題は、乗る時のマナーである。
俺ももう故郷の函館暮らしより東京暮らしの方が長くなって、四半世紀ほどを過ごしてから京都へ転居してきた。その間は編集の仕事や書店営業(笑)などで東京じゅうを飛び回っていたので、バスも地下鉄の私鉄もJRも、とにかくほぼ全ての路線に精通した。もっとも俺の場合は地図オタクで電車路線図も大好きという「特性」があるので、東京に長く暮らしている人全てがそうだとは言わない。実際に連れ合いは代々東京生まれであるが、若い頃にアシスタントを連れて「水道橋」へ行くのに、山手線を延々と廻り「いつになったら水道橋に着くのか」と首を傾げた人でもある。
マナー、というが人びとの公共マナーは東京だろうが田舎だろうが、もうほとんど「死んでいる」。車中に限っても携帯を使って大声で話すのは若者だけではなくオッサンやババアだってやる奴は平気だ。人前で、いや公共の輸送機関の車中で平気で化粧をするモノを食う床に座るディープキスはするはもう当り前らしい。ま、そういうオツムのアレな連中はいつの時代にもいたし、これからも増えこそすれ減りはしないだろう、都会でも地方でも。
ただどうしても解せないのは、子どもを座らせて自分が立つ親がいることだ。何も扇枕温衾せよとまでは言わぬが、普通は子が親をいたわるものだろうが、なぜかこの国では若い母親が荷物を持って立ち、座席には小学生くらいの子どもを座らせていたりする。こういうガキは一人で電車に乗っても決して老人や妊婦に席を譲ろうとは思うまい。親が子を庇う、それはわかるが庇護するのと甘やかすのとは違うだろう。子どもを立たせて自分が座る方が絶対に年長者を敬い労わることを教えることになり、世の中には我慢せねばいけないことや場面があることを知ることになり、そして骨や筋肉を鍛えることにもなるってもんで、いいこと尽くめだろうにと思う。なのに可愛い我が子にそういったことを教える機会を自ら奪っているわけで、しかもそれにまったく気付いていないわけであり、要するにこういう親もバカなだけなのだろう。そしてその子はもっとバカに育っていく。
話が逸れたが、京都のマナーの悪いところは、乗り物へ乗る際に順番を守らないところだ。
俺たちはけっこうな頻度でバス停でバスを待つことがあるのだけど、東京でそうであったように、先に待っていた人が先に乗れるものだと思っているととんでもない目に遭う。先に待っていた人が乗るのを譲って待っていると、後ろにいた連中が俺たちを押しのけて我さきにと乗り口に群がって、気がつけば我々は最後尾になって、座れる席もなくなっていたりする。また先に待っていた人がいなくても、どう考えても俺たちの方が先に待っており、後から来た人はそれを理解しているはずなのに、バスが来ると我先に乗り口に殺到する。行列を作らず、乗り口に四方八方から殺到する様は、いつもテレビで見る中国の風景にそっくりだ。あそこは民度が低いからなあ、と言ってこれまでは笑っていたが、京都って民度が高いと思っていたのは幻想だったか。
ともかくバスに乗る場合は、待っていた順番が守られることはまず、ない。これは引っ越してきてから数ヶ月、何十回と経験したことで、粛々と整然と、順番通りにバスに乗り込めたことはただの一度もないのだから仕方がない。うちの近所でも、四条河原町の繁華街でも、どこでもそうだった。これはもう「たまたま」などではなく、京都での「文化」とか「ルール」であるとしか思えない。
なので、京都に馴染もうと思ったら我先に年寄りさえも押しのけてバスに乗り込むことをせねばならないのかも知れないが、俺たちにはそんな真似は逆立ちしても出来そうにない。二人とも見た目は健康に見える「病人」であるが、人を押しのけてまで我先にと足早に駆け込むことの出来る「元気な老人」に席を譲り、俺たちは静かに立ってバスに揺られるのである。
それにしても、これって京都特有のマナーなのか、それとも関西圏はすべてそうなのだろうか。今度大阪にでも出かけたときに検証してみたいものだ。
関連記事
2008-01-28(Mon)

京都駅ビックカメラ〜ラーメン小路

連れ合いがモバイルでちょっとしたことを書きとめるツールが欲しいというので、ビックカメラ京都店へ出かけることにする。
今日は連れの勤務する精華大の卒展搬入日なので、連れは監督のために京都市立美術館へ行かなければならない。なので、ビックカメラへ午前中行ってから、ご飯を食べて向かおう、ということにする。
その前に連れが展示をやる学生たちの名簿を忘れたというので、いったん大学の研究室へ取りに行くことにしたが、タクシーで途中千葉君の事件現場の近くを通ると、やはり辛いものがある。研究室のある自在館という棟に着くと、連れは研究室へ名簿を取りに上がるので、俺は外で待っていることにする。入口は展示物を搬出する学生や講師陣の皆さんがひっきりなしに荷物を抱えたり運んだりして出入りしており、邪魔なので飲み物の自販機前でその光景を眺めていた。こういう若い時の「祭り」や「イベント」にかけるエネルギーで懐かしいよなあ、健康と若さっていいよなあ、なんてジジくさいことを思いながら眺めていると連れが戻ったので、歩いて本館へ向かう。
連れが事務へ用事があるので行っている間、国際会館駅へ向かうスクールバスはちょうどブブゥと出て行ってしまった。あららと思ったところへ連れが戻ってきて、しょうがないので車を呼ぶことにする。呼んだタクシーに乗って、市営地下鉄の国際会館駅まで向かってもらう。ちなみに京都はタクシーを配車してもらっても、無料である。東京ならそれまでの運賃や、配車料を取られるし、だいたい来た車の初乗りは710円、メーターも80円刻みが90円になったという。東京にいたらもう絶対にタクシーには乗らなかっただろう。
地下鉄で始発の国際会館から京都駅へ向かい、JR京都駅へ出る。ビックカメラは駅のホームから直通! というのが売りだと思ったが、駅ビルの西側は伊勢丹。ビックカメラは見当たらない。しょうがないので案内所の人に聞くと、伊勢丹のさらに西側、ずっと向こうだと言われて唖然。ホームから直通って言っても端っこからなんだな、当り前だが…と納得。
新しいピカピカの店内をエレベータで4FにあるPC売り場へ上がる。モバイルといってもフルスペックのマシンは必要ないので、工人舎のとASUSTEKなど、A5以下のサイズのものを触ってみる。工人舎のものはなかなかいいが、ちょっとノート(本物の紙のノート)がわりにしては高い。ASUSTEKのEeePC 701はA5サイズのxp搭載マシン。HDDがなくSSD搭載。なので発熱もそれほどなく動作も速い、そして軽い。解像度が今ひとつ(800x480)ながら、無線LAN付き3時間駆動で5万円を切るというのは素晴らしい。いじってみたら、動作も実に速い。…と思ったら品切れ中で入荷は2月中旬以降だそうで、じゃあしょうがないね、とフロアを出る。
PDAも一応見てみるかと2階へ下りるが、見当たらない。店員に聞くと右奥というので行ってみたら電子手帳しかない。別の店員に聞くと同じところへ案内されたのでおかしいな、と思ってよぉく探したらたった2台だけ、ザウルス(東芝)があった。こちらはキーボードというよりボタン、文章をバリバリ入力するには極めて使いにくい。連れも「これの使い方をまた一から覚えないとならないし」というので、結局ASUSTEKのEeePC 701が一番用途と予算に合致しているものの、在庫がないんじゃしゃあないわな、ということでビックカメラを出た。
卒展監督の前にご飯を食べていくというので、伊勢丹10Fにあるラーメン小路に行き、ちょっとだけ並んで宝屋のラーメンを食べた。京都で食べたラーメンで、今のところ一番は四条西洞院で食べた中華そば。これがダシと醤油のスープ、もやしにネギにメンマ、ちょいと固めのチャーシューも懐かしい味で、ストレート麺じゃなく、たまご麺のちぢれ麺だったらパーフェクトだった。宝屋のラーメンは背油入りの醤油トンコツだが意外とあっさりで、ひらひらの柔らかいチャーシュー…というか豚肉もうまい。しかしこれもストレート麺…。ああああちぢれ麺はいずこに。
夜は明青さんで「お疲れ様」。それにしてもいつもながら、明青さんの料理は全てが「間違いない」。そして名店であることも疑いようがない。
今日も京都は寒かった。
関連記事
2008-01-25(Fri)

鴨沢祐仁さんが亡くなる 2

朝10時、ベランダからこのところの寒波の影響で、京都は今日も雪だ。昨日も日中から雪が舞っていたが積もるほどではない…と思っていたら、今朝起きたらうっすらと家々の屋根に雪が積もり、さらにひらひらと大きめのぼたん雪が舞っている。強くはないがかなり多いから、このまま降り続ければこのあたりでも積もるかも知れないね、と連れ合いと話す。
連れは大学に用事があるので、11時ころ先にご飯を食べようと、宝が池通りにある「ドルフ」へ出かける。タクシーの女性運転手は「ほんまに今日は凄いですねぇ、今朝は荒神橋も凍ってましたから危なかったですわぁ」と言っていた。荒神橋というのは鴨川にかかる丸太町通りが通る丸太町橋の一つ北の橋で、位置的には京都御所の東側にあたる。運転手さんのニュアンスでは「あの辺りが凍るなんて」えらい寒かった…という感じなので、宝が池や北山周辺ならともかく、ということらしい。
ご存知のように京都の市中は三方を囲まれたすり鉢状になっていて、我々の住む洛北の方に向かってゆるやか〜な上り坂になっている。ちょっと見てもただの平地にしか見えないが、自転車なんかを漕ぐとすぐ解る。行きと帰りで全然ペダルの重さが違うからだ。
ドルフのことも前に書いたけれど、裏庭には大きな欅の木があって、四季折々の風景を楽しませてくれる、いい雰囲気のカフェレストランだ。煮込みハンバーグがおいしい。今日は昼なので俺はカレー、連れ合いはピザトーストにした。ここはパンも凄くおいしい。

しんしんと雪が降る欅の庭を見ながら、亡くなった鴨沢さんのことをしみぢみと少しだけ話す。生前のブログ『鴨沢祐仁の「鴨の水掻き」』を見ていても晩年は決して恵まれた境遇だったとは言えず、いや、ご本人が包み隠さず書いておられたのではっきり言えば、生活保護を受けるほど苦しい生活をしておられた。鴨さんはご自身で書かれているように2003年から「外傷性蜘蛛膜下出血の怪我、失恋、自己破産、専門学校講師退職、自殺未遂、生活保護、新しい恋愛、婚約、絵本の仕事…」という日々を送っていた。その前には「アルコール依存、欝病…」という流れがつく。もっと言えばそれらに至るまでに、自分の評価が世間から思うように得られないことへの苦悩、「作家」であり続けることの懊悩などがずっとずっとあっただろう。
「アルコール依存から生活が荒れ、仕事が出来なくなり人間関係を壊し、あげく亡くなった、ならば自業自得ではないのか」…これが大方の世間の見方であろうと思う。確かにあまり同情の出来ない、こういった破綻の仕方をする人って多いのも事実だ。でも鴨さんの場合は、アルコールへの逃避…それは些細なことからだっただろう、ナイーブな人だったからちょっとしたことで傷ついたり、ウサを晴らすために飲んでいったことでちゃくちゃくと依存を進めてしまう。当然酔い方も悪い方向へ行く。よくいう「酒乱」というやつだ。
むかしむかし…だけど、青林堂の何かの集まりだったかパーティだかの飲み会の席で、鴨さんが「おい、こっち酒ねえぞ酒!」と怒鳴っているのを目撃したことがある。なんだか凄い形相だった。あんなに声を荒げる人だったっけ、とやまだ紫先生と後で顔を見合わせたものだった。件のY先輩から鴨沢さんの酒癖についていろいろと聞くようになったのはその後だったと思う。
何がこういう繊細な人をアルコール(や薬物)へ逃避させるのか。…それは「弱いから」なのだろう。その辺の傲慢なオッサンががぶがぶ酒を飲んでいるのとは違う、ふだん自分を抑圧して自省してつつましく生きているからこその、酒への逃避と自分の解放。その心地よさが依存を招き、依存からやがて仕事や友人を失うことに繋がっていく。
きのう、「ガロ」の作家さんには酒への逃避・依存に陥る人が多いと書いた。ざっと思い出すだけでけっこうな数の作家さんの名が浮かぶ。みな、酒さえ無かったらなあ、と言われる人たちだ。
なんだかとりとめがないが、同じマンガを生業にしていても、自分を作家などとは思わず、版元や編集の言うことをホイホイ聞いて原稿を金に換えるぜワッハッハ的な生き方が出来れば楽だったよなあ、とも思う。そうすれば若くしてけっこうビックリするくらいの金がザックザク溜まる可能性がある。その時点で「オレ本当はこんなマンガ描きたくないんだけどな、金のためだからな」と思っていても、金があれば大概の憂さって晴らせるもんだ。
「金さえもらえれば何でも言うことをききます、何でも描きます!」…そんな人ならもともと「ガロ」からデビューなんか、しねえんだよな。そういう才能ある知人がお金に困っている、そんな境遇にあると聞くのは本当に切ない。もっともたぁくさんそういう例を知ってるんだけど。
ともかく「ガロ」は原稿料が無かったことをよく最近の若造は知ったようなことを言って批判するが、馬鹿野郎と言いたい。なぜ、そうだったか。なぜ、それでも素晴らしい作家・作品が集まったのか。なぜ、潰れなかったかをちゃんと学べよ、と言いたい。そして、「ガロ」以外に、作家に向かって「タダだけど作品をかけ」などとは絶対に言ってはいけない。
鴨沢さんは確かに酒と抗鬱剤と睡眠薬という危険な3点セットを服用し続けた結果、昏倒したのかも知れない。だけどそこまで追い込んだのは何だったのだろう、そう考えると「自業自得」だなんて言葉は口が裂けても言えまい。
よく知りもしないのに、根拠もなく人より高みに立って人を「結局あの人はコレコレなんだよね」なんて勝手に「総括」してみせる奴がいる。お前は神か? 何も世に残しておらず誰も感動させたこともなく、何も生み出してもいない凡人が、自己を削って作品を世に出す作家に向かって解ったような事を言ってんじゃねえ。俺は昔からいつも強くそう思ってきた。当り前だが作家ではなくとも、誰にでも親があり歩んできた人生がある、他人が簡単にうわべだけを見て語れるものか。
鴨沢さんのブログの一日一日の記録を追っていくと、鴨沢さんが生きていた、確かな息遣いが伝わってくる。あとは鴨沢さんの遺した素晴らしい作品、記憶を後世にどう語り継いでいくか、遺していくかが、残された者の課題だ。
関連記事
2008-01-23(Wed)

鴨沢祐仁さんが亡くなる

鴨沢祐仁さんが亡くなったと、YellowTearDropsのローリングクレイドルさんから教えてもらって驚いた。自宅で転倒して亡くなったのが1月12日、発見されたのが18日だったそうだ。56歳とまだまだ若かったというのに…。
デリバリー待ち 雑誌未発表作品---鴨沢祐仁公式ホームページ『クシーズクラブ』掲載より

また「ガロ」の作家さんの訃報である。また、というか最近自分もトシになってきたってことだ。64年創刊の「ガロ」、当時働き盛りの漫画家さんが20代半ばとしても今は60代後半になる。俺が入社した80年代にちょっと上の世代だった人たちも、もう50代半ば〜後半になろうとしているわけだ。
俺が「ガロ」で働くようになった頃は、もう鴨沢さんの最初の作品集、傑作「クシー君の発明」が出て数年経ったころだ。鴨沢さんのデビューは70年代前半で、「ガロ」入選は1975年4月号の『クシー君の発明』である。ご存知のように、のちの洗練された素晴らしい均一の筆致で描き出される独自の「鴨沢タッチ」はまだなく、ざらついた線の多い、クシー君もちょっとブキミな感じの絵柄だった。しかし「ガロ」の表紙イラストを担当し、単行本が出るころにはすっかりタッチが変わって、本当にオシャレでカッコいいクシー君になっていたっけ。ちょうどイラストレータとしても漫画家としても絶頂期にさしかかろうとしていた頃だったと思う。
青林堂から出された鴨沢さんの初の単行本、デビュー作と同名の「クシー君の発明」は、今でも大切に持っている宝物のような本だ。当時の青林堂は上製本にはよく布クロスを貼って箔押し…というのが当り前だった。けっこう採算度外視的な豪華な造りをあえてやっていたんだけど、今改めて手にとってみても、本当にいい本がたくさんあった。作品そのものの質も素晴らしいけれど、その作品をまとめた「本」そのものも素晴らしい造りにして残したい。そういう気概が版元としての青林堂にも、造る側の編集者にも、もちろん作家さんにもあった「いい時代」だ。
ちなみに「クロス」というのは、上製本=ハードカバーの本の一番外側にある固い紙をさらに保護するために包み貼る布のことを言う。布なので本来は「クロス」と単に言えばで通じたんだが、最近は布貼りが高いってんで紙ばっかりになってしまっている。なので、あえてクロスといえば布なのに、紙クロが当り前になった昨今はわざわざ「布クロス」、と言わねばならない本末転倒を生んでいますな。余談でした。
いい造本といえば「クシー君」もやまだ紫「性悪猫」の初版も、ついでに言わせてもらえば自分が担当した津野裕子さんの「デリシャス」も、みんなみんないい造本でしたねえ(笑)。青林堂の先輩が作った本が実にいい本で、それを見てまた自分も担当作家さんに喜んでもらえる本を造ろうと、何とか原価計算を四苦八苦して業者さんに頭を下げたりいろいろ走り回って、一冊の作品集を作った。大手の「なんとかコミックス」みたいなフォーマットに流し込むだけの「雑誌扱い」の安くて粗雑な本を「へへん」と小バカにしてました。すいません(笑)。…まあいい時代だったと言えばまあそれまでだけど。
ところで。そうして80年代は鴨沢さんにとって本当に絶頂期となったと言える。あちこちで鴨沢さんのイラストを見たし、漫画や「ガロ」を知らない知人は「日本人だとは思わなかった」と言うのがいたくらいだ。極めつけは89年、富士急ハイランドのテレビCMのイメージキャラクターに、何とクシー君とレプス君が起用されたことだった。あれは我々はビックリしたものだ。鴨沢さんのイラストが中吊りになったり広告になったりしたのはいいとして、CMでは外人の女の子(?)がクシー君の衣装を着て、着ぐるみのレプス君と出ている「実写版クシー君」のCFは鮮烈に覚えている。
…そんなふうに業界風に言えば「偉くなっちゃった」んだけど、鴨沢さんは僕らにとってはイベントがあると気さくに顔を出してくれたり、一緒にお酒を飲んだりする「鴨さん」で、人柄は全然変わらなかった。本当に人あたりがよくていい人で、十歳以上年下だった俺にも「白取さん」と接してくれていた。「ガロ」って思えばそういう謙虚で人の出来た苦労人が多かったといえばそれまでなんだけど、何だか鴨沢さんのちょっとはにかむような笑顔が懐かしいなあ、と思う。
本当に、いい人だった。ただ、お酒にどっぷりと深入りしてさえ行かなければ。
鴨沢さんは、実を言うと俺がまだ「ガロ」に居た十数年前の段階で「酒をやめなきゃ、長くないだろうな」「こんな生活してたらダメいなっちゃうのにな」と思っていたほどの酒好きだった。拙ブログで、過去に匿名ながら、同じく酒で一度身を滅ぼしたY先輩の話を書いたことがある。そのYさんはずっと鴨沢さんの担当編集者であったのだけど、Yさんでさえ、一時期「鴨さんは酒から立ち直るのは無理だろうなあ」と言ってたほどだった。断酒日記というか手帖を見せてもらうと、飲んだ日には「×」が、飲まなかった日には「○」がつけられている。しばらく何とか○が続いたと思ったら×がつき、以降はダーッと×が続く…。酒への依存を断ち切ることの難しさを知った。
「ガロ」に限らないが、非メジャー系…それを単にマイナーとか言いたくはないのだが…商業マンガ畑の作家さんたちに比べて非メジャー系の作家さんたちは酒で作家生命を縮めたり失ったり、命さえ落とす人の話がけっこう多い。自分の思うところを作品に昇華し、それがキチンと世間に評価される機会はもちろん、少ない。当然経済的に恵まれる機会も、少ない。いつもいつも繰り返しになるのだが、ある意味「魂を売る」行為として作品を金に換えることに鈍感になれれば、いやそこを器用に立ち回って楽しむくらいの豪胆な神経を持っていれば、そうか、酒なんかに逃げなくてもいいのだなあ。
今日は鴨沢さんの冥福を祈って、晩酌をしよう。もう思い切り何の心配もなく飲みましょう。合掌、鴨さん。
関連記事
2008-01-08(Tue)

全快地蔵

前の晩は12時前に寝た。今朝は6時頃目が醒めてしまい、俺だけ先に起きる。その後眠くなったのでソファでうとうとしかけると連れも起きて来る。今日は京大病院受診の日。その後二人ともテレビを見つつうとうと。9時過ぎに連れに「時間いいの」と言われたのでハッと目を覚まし、9時半過ぎに支度をする。連れは化粧をして一緒に行くような気配だったが、俺が「風邪ひいてるんだからやめときなよ、悪化したら困るし」というと諦めた。なので10時前に一人で家を出る。
うす曇で気温は高め、1月あたまとは思えない暖かさだ。日中は13度くらいになると言っていたがほんまやろか。病院までバスで行き、再来受付機で受付を済ませてすぐに放射線受付へ向かう。CTは地下ではなく1階で、待合へ行くよう言われて床の青いラインに沿って1番待合のソファへ座る…と、すぐに名前を呼ばれた。技師たちがモニタを見たりデスクワークをしていたりするスペースを「ちょっとこの中を通りますからついてきてくださいね」と男性技師に言われて歩いて撮影をする部屋まで行く。
首にチャックがついていたので上着を脱ぐように言われ、ネックレスも外して台の上に仰向けになり、胸部から腹部撮影なのでズボンを膝上くらいまで降ろす形で寝る。撮影自体は5分もかからず終了。単純撮影だし、MRIの何度も何度も息止めを繰り返すのとも違い、CTなんて簡単なものだ。すぐ着替えて部屋を出る。
次は採血なので、ぐるりと中央棟まで戻って2階の採血受付へ。用紙を出してB-414番という番号用紙を貰って採血室へ。今日はけっこう順番待ちが多い。しかしここは採血カウンタがAとBあわせて10箇所くらいあり、全てが稼動しているからサクサクと進む。俺も5〜6分待っただけですぐ試験管3本採血完了。この時点で11時ちょい前、あとは診察時間の1時まで2時間、たっぷり時間がある。連れに「ご飯でも食べようか」とメールすると「気力が出ないからいい」という。風邪で微熱もあるから、やっぱり動かない方がいいだろう。
こちらはじゃあ入口脇のドトールでパンとコーヒーでもと思ったが、ここはいつも混んでいて座るところもなかなか空かない。受付をしてしまえばあとはPHS端末で呼ばれるまで病院内にいればいいので、ここで診察待ちをする人も多いのだ。しょうがないので戻ると病院のレストランがまだガラガラに空いていたので、入ることにした。ここはいつも昼時になると超満員で列まで出来るから、今のうちである。
うどんとミニ天丼のセット950円。…うまかった。食堂を出たところで通りかかった守衛さんに「売店はどこですか」と聞くと、地下に降りてずっと北側のはずれ、あとはローソンが反対側の南のはずれにあるという。いずれにしても端と端か。時間はまだ充分あるので、北側のどんつきにある売店へ行くことにする。長い廊下をてくてく歩いて脇の階段を下りるとすぐ売店は見つかった。手前には医学書専門の小さな書店まである。売店そのものはちょっとした小さなスーパーかコンビニくらいの大きさはあり、充実している様子。まあ俺がもしここに入院するようなことになれば、歩いて売店に来られるような状態ではあるまいが…。
雑誌売り場で月刊誌の中央公論(医療崩壊の特集!!)を買い、チルドカップのコーヒーも買って、地下の廊下を反対側のローソン方面へずんずん歩く。かなり長い。南側のどんつきにローソンがあり、その手前には理容室と美容室があった。そのさらに手前に上に上がる階段と休憩処があったので、そこの椅子に座って中央公論を読む。しばらくして座り心地が悪いので階段で上へ移動、正面玄関ホールの休憩スペースに行くがそこは飲食禁止なので、いったん入口脇のソファに移動。コーヒーを飲んでからさらに休憩スペースに移動し、ふかふかの椅子にどっかり座って中央公論をじっくり読む。医療崩壊特集の雑誌を病院で読むのもナンだが、いろいろ考えさせられる。
12時半ころまで熱心に雑誌を読んでいると、突然PHS端末がブー!と鳴りびっくり。まだ1時まで時間があると思っていたが、「診察室へお入りください」と出たので慌てて小走りでエスカレータへ。2G・血液腫瘍内科受付から直接262診察室へ直行。息を切らして入る。I先生は俺のCTを見て電子カルテに取り込んだりしているところで、「何か自分で変化などありましたか」というので「いえ、ぜんぜん…」と答える。俺がマスクをしているので「風邪をおひきですか」というので「いえ、風邪をひいたら困るという予防の意味で…」と答えると笑われてしまった。そういやつい先日、医療用具販売サイトで今つけているサージカルマスクのページを見ていて、ウィルスはこれでは防げないというのを見たばかりだった。
「あ、ウィルスはこれじゃ通しちゃうんですよね」と言うと「通ります」とキッパリ。「マスクというのは風邪などにかかった患者さんが飛まつを周囲に拡散させないとい意味でつけるものなんですね。なので予防という点では、気休め程度にしかなりません。むしろ予防ということであれば、手洗いとうがいをしっかりする方が重要ですね」とのこと。そうだよなあ、ウィルスまで跳ね返すマスクって一枚数百円って高いやつだよなあ、と昨日見たサイトを思い出す。
画像の様子、採血でも変わりはないようで、ひと安心。首まわりと腹部も簡単に触診していただく。「そういえば食後とかによく腹が苦しくなるんですが、やっぱりこれだけ脾臓が大きいとしょうがないんでしょうか」というと「そうですね、かなり大きいですから圧迫されますからね」とのこと。まあそれくらいで済んでいればありがたいと考えよう。
実は毎回診察のたびに、「リンパ球が増えてきました、血小板もかなり減ってます。抗癌剤治療に入りましょう」と言われないかドキドキだったが、WBCは1400、PLTは7.7万。血小板がかなり少ないが、これもいつもの上下の範囲なんだろうか。「次は特に検査もありませんから、いつものように採血をしていただいて。6週間後でいいでしょう」とのこと。次回は2月の19日になった。
礼を言って診察室を出て、1階の会計受付の長蛇の列に並ぶ。10分ほど列をウネウネして会計受付をし、さらに7〜8分ほど待ってブー! と会計が出来た旨知らされる。金額まで出るのでありがたい。今回は8600円也を自動精算機で支払い、1時20分ころだったか、病院の外へ出た。

青空がのぞくいい天気になっていて、ぽかぽかと暖かい。病院の脇に「全快地蔵」というお地蔵様を祭った祠があるのを見つけた。近寄って見ると、けっこうな人がここで自分の、あるいは身内の、大切な人の病気が治ることを切実にお願いをしている。線香とマッチも置いてあるので、俺もそこにお賽銭と線香をあげて「このまま生きていられますように」とお願いした。
関連記事
2008-01-03(Thu)

大豊神社へ初詣

1月3日(木)

朝は10時過ぎに起きる。こないだネットで「大豊神社(おおとよじんじゃ)」という哲学の道から東山側へ少し入ったところにある神社に、狛犬ならぬ「狛ネズミ」があるという記事を見た。ネズミ年の今年は大晦日から初詣客で賑わっているとネットのニュースでも見たので、今日はそこへ初詣へ行こうと連れに話す。連れは正月なので昼から酒を飲んだから、まだだるいという。しばらく待って、昼過ぎには支度をして外へ出た。
晴れてはいるが、気温はヒトケタ台と低め。いつものように北大路を渡ってタクシーを待つがなかなか来ない。よく考えたら白川通りから行った方が近いかな、と気付いてもう一回マンション側へ戻ろうかと逡巡していたら一台来たので乗り込む。運ちゃんは「今日はあちこちから初詣客がどっと押し寄せてきて、祇園から四条河原町あたりまでは人でぎっしりですれ違うのも大変なほどでしたよ」と言っていた。正月2日は京都はどんより曇って寒かったし、まあその間は家でのんびりお屠蘇でも飲んで…という感じが3日目になって天気も良くなったのでそろそろ退屈でもあるから動こうか、という人たちが押し寄せているんだろう。こちらは八坂さんや伏見大社、平安神宮、北野天満宮といった「混雑がハンパじゃないと思しきところ」へ向かうわけではないので余裕でいたが、鹿ケ谷(ししがたに)あたりへ来ると、あたりが混雑しだした。

大豊神社へ向かう小路は「進入禁止」とされ、近くの路上には大型観光バスが停まり、そこからぞろぞろと大量の中高年が降りてくる。それ以外にもそこここから地元の人も含め、歩きや車で次々と参拝客が神社の方へ向かっている。俺たちもタクシーを降りて行列に加わるが、参道に入ると東山の麓なのでゆるやかな登りになっており、右側に4〜5列縦隊の行列が出来ている。これに加わりじりじりとゆっくり進むのに身を任せていると、行列の左手に空いた道をすたすたと登って行く人たちもけっこうな数がいる。後ろのおっさん3人組(京都弁ではなく、大阪弁)は「アイツら後で横入りするんちゃうやろか」「あかんなぁ、大人はルール守らんと(笑)」などと話している。「えーっ、アイツら全部横入りなの?」と一瞬思うが、いくら何でもこれだけの行列が続いているのにガーッと上まで行って、そこでズイと列に横入りをするというのは、かなりの「反社会的行為をする自覚」のある人でないと無理だと思うのだが。見ているとごく普通の親子連れや老夫婦も我々の行列の左手を上がっていく。謎である。
凄い混雑。

本殿前の広場にあるお神輿

20分くらいでようやく坂を上りきって鳥居をくぐると、中央にお神輿が奉納されているスペースを迂回するような形で、行列が右手へ湾曲している。本殿は参道の真正面にあるが、お神輿のさらに奥にある正面の石段を上ったところにあるのが見えた。思ったより小さい。我々の行列は正面の本殿へ向かうのではなく、右手の小さな(人二人が並んでようやく通れるくらいの)鳥居へ向かっているようだ。誰かが「あっちにねずみがおるんやで」と言っていたので、どうやら我々の目指す「狛ねずみ」があるのはそっちのようだ。
で、行列をスイスイ追い越して行った人たちは狛ねずみ目当てではない「純粋な(恐らくは地元の)参拝客」で、真っ直ぐ本堂へ上がって普通に初詣を済ませて戻っているようだった。なるほど「横入り」などしていたわけではなかった、当り前だけど。

さて調べたところによると、この大豊神社は887年創建という古い神社で、祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)、応神天皇、菅原道真とのことだ。ちなみに境内には本堂脇に大国社や稲荷社があり、大国社前に狛ねずみが二対置かれている。このねずみがなぜ置かれているかというと、神話にある大国主命を助けたねずみのエピソード(詳しくはこちらをどうぞ)に因んでいるわけだ。
この大国社は少し高くなっている本殿の高さと同じで本殿より右手に位置しているため、そこへ至る小さな鳥居と石段が別に用意されていて、行列はそこから続いていたのであった。途中、左手に「椿ケ峰の御神水」があったので、行列から先に連れ合いが離れ、交代で俺が行って手と口を漱いだ。冷たく清い水であった。それから古いお札を納める場所があったので、我が家から持参した何枚かのお札を納め、朱塗りの鳥居をくぐって本殿前の広場までようやく到達すると、境内の全貌がほぼ見えた。やはり全体もそれほど大きな神社ではない。
中央の広場にお神輿と奉納されたお神酒の大樽が鎮座し、その奥、本殿に上がる石段の手前には特設のうどん屋、たこやきや甘酒、みたらし団子を売る小屋が出来ていて、あたりにいい匂いを漂わせており、焚き火もしてある。特にうどんのテントからはプーンとダシのいい匂いが、そのすぐ前をうねって右手の小鳥居へ入る行列にいる我々の鼻腔をくすぐる。ていうかもう何も食ってないから空腹に強烈なパンチ、なのである。行列が2列縦隊となり、小さな鳥居をくぐって竹林とご神木である杉の大木を崖下に見つつ、狛ねずみの大国社の足元へ到達した頃にはすっかり「あのうどん食うで!」という気持ちになっていた、のである。
「チューチューうどん」

愛らしい「狛ねずみ」石段を一段一段、行列の進行に任せて上り、最後の石造りの古い鳥居をくぐって大国社へようやく到着すると、小さな社の手前にちょこん、と石の狛ねずみが左右2体鎮座していた。なるほど、可愛いなあ。参拝客たちは頭をなでたり、ねずみの前で記念写真を撮ったりしている。我々もお賽銭をあげて「二礼二拍手一礼」で参拝をして、後がつかえてるので慌しくねずみちゃんの写真を撮り、つつがなく初詣を終えた。すぐ隣の稲荷社(こちらは社の前に狐が二対鎮座している)にもお参りし、本殿前へ向かう。
すると神主さんか禰宜さんか、袴を履いたおじさんが脚立を出して天井のボルトを何やらいじっている。どうやらあの大鈴が外れたらしい。新年早々縁起でもないことだ、初詣に来てガランガラン…とやったら鈴が「ガランガッシャンゴロン!」と落っこってきたとしたら、その人の落ち込みは察するに余りある。一年のはじめに健康か商売か恋愛か学業か、何か知らんがとにかく良くあるようお願いに来たら鈴が落下…ブルーだわなあ。でもその場面見たかったような。俺たちはその作業を横目に、本堂へお賽銭をあげてお祈りをし、「ガランガラン」は出来ずに左手へはけたのであった。
本殿左手には日吉社と愛宕社が同居する社もあって、こちらの前にはそれぞれ鬼門除けの「狛猿」と火伏せの「狛鳶」がいた。こちらにもお参りする。本殿の他に合計3つ(正確には4つ)の社がある不思議な神社であるが、それぞれに愛らしい石像があって、なるほど密かに人気であったわけである。ていうか今年はねずみ年なので密かどころか物凄い混雑だったが、まあ普段は静謐なところだというから、12年に一度はこうしてたいそう賑やかになるというのもいいことだろう。んで腹も減ったので、俺がうどんを、連れはたこやきを買いにそれぞれ左右のテントに別れる。うどんはもちろん薄いダシ汁にネギときざみ揚げのシンプルなもので、一味をちょっとふってもらってアツアツのを貰ってきた。休憩處みたいなスペースが用意されていたので、そこへ座ってうどんをすする。うーん、うまい。本殿へお参りする頃にはけっこう体が冷えていたから、熱いうどんは格別。しばらくして連れもたこ焼きを買って向かいに合流。うどんとたこ焼きを交換して食べる。たこ焼きは柔らかくこちらもアッツアツ。「ふほほほ」と思わず変な声が白い息と一緒に出る。
しばらくそこで食べながら休んだ後、みたらし団子も一串貰って食べ、神社を後にした。帰りは参道の行列を左に見て下っていく形になるが、俺たちが来た時よりもさらに人数が増えているような気がした。哲学の道を越して鹿ケ谷通りへ戻ると、また新たな大型バスが乗りつけたところ。ご苦労様である。さてどうしようかと思案し、結局また河原町へ出る。タクシーを蛸薬師で降りて、散歩したあと自宅に戻った。

2005年の夏に白血病を告知されてから、3回目のお正月。正直を言うと、当時は3度も年を越せるなんて到底思えなかった。何せ次の夏まで持つかどうか、ということだったからである。もちろん何度もここで報告している通り、当初予想されたタイプの癌ではなく、慢性タイプ(T細胞性・慢性リンパ性白血病=T−CLL)らしいことが判明して、無治療・経過観察という状態が継続している。だから今もこうしていられるのだけど、逆にこのタイプは効果的な治療もなく、余命も早ければ数年、ステージ0〜2期なら希に20年という例もあるそうだ。
俺の場合はステージ(表138-5 慢性リンパ性白血病の臨床ステージ)で言うと2〜3というあたりか、しかし血小板減少の数値などは4とも言えるから、よく解らない。「いつかは死ぬことが決まっているが、それが何年後かは不明」という所以だ。「死が決まっているがいつかは不明」というのは健康な人も同じ、そう思ってなるべく暗くならぬように生きていこう。そう思っている。
来年の正月もまた元気に迎えよう、今度は牛だから北野天満宮かな(笑)。
これがアツアツの「チューチューうどん」

関連記事
カレンダー
12 | 2008/01 | 02
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

広告
アフィリエイト・SEO対策
検索フォーム
プロフィール

シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

シンプルアーカイブ
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる