2008-03-28(Fri)

津野裕子さんの新刊『一角散』が届く

3月28日(金)

朝起きたらどうも目眩がする。首を横に振ってもたいしたことはないが、朝のうがいの時に頭を後ろに上げて前へ戻した時、激しく「ガクン」と落ちるような目眩がした。前後の動きに呼応しているようだが、原因不明。なので一日様子を見つつ、出かけずにごろごろしていた。連れ合いは途中仕事で出て、その後夕飯どうすると電話があった。どうすると言われてもなあ、目眩がするから本当は出たくなかったのだが、何もないし仕事終わりでご飯作ってもらうのも何だし、というので一乗寺清水町にある焼肉屋「喜田膳」へ、いったん帰ってきた連れとバスで向かう。
「喜田膳」はお洒落で落ち着いた内装で、値段はやや張るものの、かなりレベルの高い肉を食わせてくれる。たまの贅沢だからいいだろう。ここは人気があって時間が遅いと一杯になってしまうので予約をして行った。予約をすると席に「○○様 心をこめておもてなしをさせていただきます」というようなカードが立ててあったりする。こういう細かい心配りはいい。しかし今回我々はカウンタに通されたが、俺たちのすぐ後に予約ではなくフリで入ってきたカップルが、前からいた予約客(カードがあるので判る)のカップルと俺たちとの間に通されたのにはちょっと減点。数珠つなぎである。
カウンタは8席。まずは右端に予約カップル。次に俺たちをどこへ通すか。左端にしてもらうと我々は有難い。いやまあ、店側にしたら、右と左の端にカップルを通すと、次に来たカップルは真ん中に通さざるを得ず、ということはカップル3組の間に1席ずつ空きが出来る。それではムダ・非効率…と考えた場合、確かに端に1組、次は2席空けて1組、次はその間、最後は反対の端…というのも「アリ」かも知らん。しかしそれは所詮は「店側の論理」。客からすれば、我々は2組目なので逆の端に通して欲しかったし、次に来た客を真ん中へ入れるのか、あるいはどちらかへくっつけるか、その場合になって初めて他の席も見て考えればよろしい。実際カウンタ以外のボックス席はずいぶん空いていたわけだし。
しかしもっともいけないのは、おしぼりもオーダーも後に来たフリのカップル客が先であったところ。我々は一応予約客であり、先に入店しているのだから、これはかなりのマイナスポイントである。せっかく味もいいし店構えもそれなり、値段もそれなりの「高級店」なんだから、そういうところはちゃんとしようよ。しかしまあやはり味はよく、すぐ機嫌も直ったけど。

★    ★    ★

コンビニで買い物をして帰宅すると、郵便受けに封筒が届いていた。差出人を見ると、津野裕子さんからだった。
まだ俺が癌宣告を受ける前、ちょうど3年ほど前に拙ブログで「津野裕子さんの近況」という記事を書いた。
その中で述べた通り、津野さんは「ガロ」でのデビューからずっと担当をさせていただいた「天才」だと思う漫画家さんの一人である。そうして毎号素晴らしい作品の「第一番目の読者」になることが出来たし、処女作品集「デリシャス」、「雨宮雪氷」という「ガロ」連載作品を中心にした単行本を2冊編集させていただいた。
もう臆面もなく言うけれども、原価計算を繰り返し、やりくりをして、あえて「四六判上製」というスタイル、「布クロス+箔押し」という造本で送り出させていただいた「デリシャス」は、当時から「津野さんの作品にぴったり」「可愛くて、一生手放せない一冊」という嬉しい評判をいただいたものだった。
もちろん作品がいいから、その単行本も名作となる。誰が担当になって編集したって、いい作品はいい本になる…はずである。よほどのボンクラが編集しない限りは、だが。

津野さんがデビュー当時「ガロ」の投稿サイズを間違っていた、という逸話は有名だ。(というより、津野さんにそういう話をしたら、「デリシャス」のあとがきにご本人が描いてしまったので)
もう20年以上も前のこと、神保町は材木屋の二階にあった青林堂の「ガロ」編集部で、俺はいつものように届いた投稿作品の封筒を切って下読みをしていた。午前中から午後早い時間くらいまで、当時は返品の整理やら取次への品出しやら何やらで、編集作業はその「合間」に行っていた。

その日も返本整理のあと、郵便受け(普通の家庭についていたような、赤色で錆びたようなやつ)からはみ出してささっていた郵便物の束を取り出して、あの狭くて急な階段を上って二階の編集部に戻った。郵便物の中から投稿作品を仕分けてから、長井さんに見せる前にそれらを読むことを俺は許されていた。なぜかというと、長井さんは俺が当時まだ漫画家になる希望を捨てていなかったのを知っていて、
「白取君、送ってきた漫画さあ、時間ある時に読んでいいぞ。勉強になるからなあ」と言ってくれたからだった。
送られてくる封筒の大きさは、だいたいB4くらいが普通であった。B5判雑誌である「ガロ」の場合、原稿原寸(つまり掲載前の原画の大きさ)はだいたいその1.2倍程度となる。「ガロ」には投稿規定として、だいたいの用紙寸法と、正確な版面(=はんづら:漫画が描かれるワク線の内側のことね)の寸法が記載されていた。なので原稿はいつも83%に製版で縮小して印刷されていた。
俺は投稿作の封筒に、妙に小さい封筒が混じっているのに気付いた。「これは寸法間違いだな」と思い、封を開けて原稿を取り出した。

それが、津野さんの「冷蔵庫」という作品だった。
一目見て、その繊細な線と不思議な世界、愛らしい登場人物に魅了された。
しかしその原稿は、一回り、いやふた回りほど小さかった。原稿の大きさを雑誌と同じ=B5原寸と勘違いしたのだと思う。俺は思わずそれを引き出しにそっとしまった。いやなぜって、もっとゆっくり見たかったというのもあったけれど、長井さんはサイズを間違う投稿作家に対して、いつも「原稿の寸法書いてあるじゃねえかよ、そういうのを読んでない奴はロクなもん書いてこねえんだよな」と言っていた。
実際、寸法違いで返信用封筒の無い投稿作品(返信用封筒が無い場合、非掲載作品は破棄される)を、チラチラと読んだだけでその場でひねり潰してゴミ箱へ直行させたのを見たこともある。「これは、マズい…」と思った。
もちろん、俺が見て素晴らしい作品だったし、長井さんが見ても即入選というレベルであったという確信はあった。そんなことは解っている。でも、ひょっとして長井さんの機嫌が悪い時に、サイズ違いというだけで万が一、落とされたらどうしよう…。本気で当時の俺は心配したのだった(この感覚は、編集部で長井さんと長く一緒にいた人間しか解らないかも知れない)。
で、長井さんの機嫌の良さそうな時に頃合いを見て、何気なく「あ、これ今日届いたやつなんすけど、サイズ原寸なんですが凄くいいと思いますよ」と言って渡した。長井さんは「あっ、そう」と言って受け取って読んでから、黒電話の前に積んである「入選候補」原稿の上にそれを置いた。
そうしてしばらくしてから、これも絶妙な頃合いをみて「あ、これ、入選作品な」と言って津野さんの「冷蔵庫」をこちらへ戻した。

これらの経緯は、今となってはもうどうでもいい瑣末な話である。
津野さんの作品は誰がどう見たって、そりゃあ一発採用だ。俺がたまたま、偶然、その最初の発見者になっただけだ。そうしてラッキーなことに、その後ずっと担当でいることができた。それだけのことである。それだけのこと、なのに津野さんは単行本のあとがきに、いつも俺のことを書いてくれた。そういうことを大切にしてくれる人なのだ。
津野さんは「ガロ」への投稿・入選前後、某有名メジャー誌へも投稿しデビューの誘いを受けていた…という逸話も有名な話である。ただし、それは「東京へ来てみっちり編集に揉まれること」が条件だったそうだ。津野さんの作品にメジャーの編集ごときがヤイのヤイの言う、それを想像しただけで頭に血が登った(笑)が、幸い(?)、津野さんはそれを丁重にお断りし、故郷の富山でずっと暮らすことを選んだという。
そして、好きな漫画を好きなように、「ガロ」へずっと発表してくれたのだった…。

今回津野さんが俺に送って下さったのは、津野さんの8年ぶりとなる出たばかりの新刊、『一角散』であった。
津野さんが幸か不幸か富山で漫画を描くことを選択されて、そのことが彼女を「寡作の人」と呼ばせることになった。クーデター事件で青林堂・「ガロ」が崩壊した後に出た『鱗粉薬』から、もう8年になる。しかし津野さんは3年前に
「高校生の時のあの紙と鉛筆があれば何もいらないやってかんじが何故かこの年になってやってきてしまいました」
と、創作意欲が衰えるどころか、楽しいとさえ語ってくれた。その時、彼女は「青林工藝舎さんが単行本を出さないか、って言ってくれているんです。でも白取さんのことを考えると、申し訳ない気もして」と言っていた。
もちろん、俺は何をさておいても、優れた作家の作品が、どんな形であっても、どんな版元からであっても、世の中に存在し続けることが大事だと思っている。なのでもちろん、「そんなこと全然気にしないで下さいよ、津野さんの本が出ることそれ自体が大切なことなんですから」と答えた。

――その時津野さんが話してくれた本が、ようやく出たのだった。個々の作品に関しては言及しない。いいに決まってるだろう。そして津野裕子の作品がこうして本になった、それでじゅうぶんだろう。あとがきにはまた「原稿サイズを間違った」と書いてあった。やっぱり津野さんらしいや、と笑った。
そして、やっぱり津野さんの本は誰が担当してもいいのだ、いい造本デザイナ・あるいは装幀者がいれば、「編集者」なんか必要ないのだな、と判った。

一角散
津野 裕子
青林工藝舎

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2008-03-26(Wed)

HDD復旧、カレーうどん、パチンコ

3月26日(水)
朝は7時ころ目が覚めてしまい、結局そのまま一人で起きてしまう。病院では10時消灯で6時7時には起きるという生活をしていたので、どうもその習慣がまだ残っているようだ。それにしても本当に病院というところは規則正しくケアも万全、バランスの取れた食事も上げ膳据え膳なわけで、人間の生活にとってそれが一番いいということがよく解る。かといって普通の人がずっと病院にいるわけにはいかないが。
その後9時ころ、夕べセブンイレブンで買ったおにぎりとインスタント味噌汁を朝食に食べようとしたところで連れが起きて来る。朝は食欲がないというので俺だけそのまま食べた。連れはいつも朝は食欲がないというのが心配。ま、こっちが食欲あり過ぎるというのも問題かも知らんが。
裸族のお立ち台eSATAプラス CROSEU2

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その後俺は仕事したり休んだり。データを整理しようと、HDD差し替え用デバイス「裸族のお立ち台」(笑)をノートPCのe-SATA接続用PCカードに接続し、外付けの500GbのSATA・HDDをフォーマットした。んでそこへとりあえずノートPCのデータをガンガン移動させ、それから別な作業のため一回別なHDDを挿してそのデータを別なUSB2.0外付けHDDに移動したりして、その後一休みでソファに戻る。
ややこしい話だけど、休憩から戻ってうっかりそのHDDをお立ち台から抜き、さっきガンガン書き込んだ新たな500GbHDDを挿して、あろうことか挿し換える前のドライブのファイルにアクセスしようとしたら、挙動不審な動作をする。アクセスが行くが、ずーっとアクセスランプが弱弱しく点灯し続け、結局見事にHDD(というか中のデータ)がお釈迦になった。最初「うん?」と思って元のHDDを挿し直したら、認識してくれない。その後何度やってもダメ。あらら、と思ってマウントし直そうとしたがダメ。しょうがなくいったんクイックフォーマットしてとりあえずドライブとしては認識させたが、500Gbがまっさら状態に戻った。あっはっはっは。
(ていうか、「裸族のお立ち台」自体は非常に便利で使えるデバイスである、こっちが注意不足であっただけ)
書き込んだデータは仕事の取り返しのつかないデータである。ま、それでもパソコンをMS-DOS時代からずっと使ってる人間にとっちゃ、こんな経験イヤというほどしてるわい…というわけで慌てずフリーソフトのファイル復旧ソフトを入れてスキャン。しかしクラスタごとの断片ファイル(つまりたんなるバイナリファイルである)にしか復活できず、とても話にならない。なので市販のレスキューソフトをベクターからDL、金払って正規版をインストールしてスキャンすると、どうやら大丈夫そうな気配ながら、残り40時間と表示されて呆然、一日じゅうスキャンしているしかない。

とぼとぼと居間に戻ってテレビを見ていると、「ミヤネ屋」(よみうりTV)の中でカレーうどんをやっていた。食欲の権化となった俺は凄くそそられ、連れに夕飯はカレーうどんを食べに行こうと懇願。連れは半分呆れつつじゃあ食べようということになり、4時過ぎにバスで元田中「めんてい」へ。いつもなら軽く歩いて行く距離ながら、今の俺はそろそろと右わき腹を手で抑えつつ、ゆっくり歩く身。バス停までたどり着く直前、バスが来たがとても走れず、結局一本遅らせた。
さて「めんてい」は叡電元田中駅前、東大路に面した何てことはないフツーのうどん屋さんである。お世辞にも綺麗ではないし、観光客やグルメ気取りの連中は確実に入らない店(失礼)である。しかしうどんはやや柔らかめ(京都は柔らかめの店が多い)で、何より安い。そして普通にうまい。「普通にうまい」というのは東京ではかなりハードルが高かったのだが、京都はさすが普通にうまい店がほとんどなので安心である。
ハンパな時間だったので店内に客はおらず、いつものカウンタではなくテーブルに座って、地デジなんか知らねえよと言わんばかりの映りの悪いアナログ放送を見ながら、俺は肉カレーうどん、連れは鶏カレーうどんを食べた。いやーうまかった! 大満足。そのまま帰るのはキツかったので、思わず隣の大天龍へ入ってしまう。パチンコが出来ればもう大丈夫だよなあ、と思いつつ食休みに「創聖のアクエリオン」を打つと500円で単発。吸い込まれ、2500円使ったらまた単発。吸い込まれ、8500円でようやく確変が来る。腹はどうやら大丈夫のようだ。しかしこれが2回で終了、その1箱弱が吸い込まれつつあるところで連れがこちらへ来て、4箱出したが吸い込まれそうだったのでやめたと言ってきた。俺はそのまま打っていると、また確変ゲットしたがやはり2回で終了。変な台である。時短も終わったし、腹もこなれて歩いて帰れそうだったので、そのまま両替。7000円くらい浮き、連れも同じくらい浮いたと言っていたので平和なパチンコであった。
しかし店の外に出ると雨。けっこう降っていたので、そろそろと道路を渡り、100円ショップで傘を1本買ってバスで…と思ったがバスだと高野交差点から歩かねばならない。結局タクシーでマンション前まで、非常に近い距離なので申し訳ないが乗せてもらった。まあパチンコで浮いたのでこういうのもいいかと。

その後はテレビで「SASUKE 20回スペシャル」を見る。何となくこの類のってついつい見てしまうのだけど、けっこう素人さんなのに顔と名前を覚えてしまった出場者がおり、それらが「SASUKE オールスターズ」なんて呼ばれるようになっているのも面白い。しかしヴァージョンアップするたびにSASUKEは難易度を増し、今回は全滅。行くならこいつしかいないと思われたアメリカ人の若者(ビルの合間を飛び越えたり、危険なパフォーマンスで売っており、アメリカでの予選ブッちぎりで優勝)さえあえなく最終ステージ冒頭で脱落。あんなに難しくする必要があるのか、と見ていて腹が立ち、逆に全然面白くない。一人もクリアできないようなもの作ったってしょうがねえじゃん。
寝る前にデータ復旧具合を見ると、「あと32時間」…。
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2008-03-23(Sun)

順調な回復

3月23日(日)
夕べは1時半ころ尿意で目が覚め、その後再び寝ようとしたのだが、どうにも家のベッドのたわみが傷にひびいて眠れず往生した。結局仰向けに寝るのが一番痛みが少ないのでそうするのだが、眠ってしまうと無意識にどちらかに寝返りをうってしまう。それが手術痕(右腹部)と逆側つまり左を下にした場合は問題ないものの、手術した側に寝返ってしまうと痛みで目が覚める。結局夜中に寝返りをうっては痛みで目が覚め…を繰り返しつつ、それでも8時ころまで断続的に寝た。痛み、といっても一時期に比べればずいぶんと楽ではある。痛み止めは朝起きた時と寝る前に一応飲んでいるものの、ひょっとするとなくてもいいかも、というレベルになりつつある。
朝は連れがご飯を炊いてくれた。二人なのであえて味噌汁はインスタントにして、明青さんからいただいた春野菜をおかずにする。菜の花をおかかと出汁つゆであえ、あとは何もなかったのでいわし缶をあけて食べた。旬の野菜はすこぶる美味。それに粥じゃないのが嬉しい(笑)。俺の場合「炊きたてのご飯」は無くてはならないもののかなり上位に来るので、久々のご飯はうまかった。
昼は食べず、俺は小腹が空いたので発作的に買ってあった桜餅をむさぼり食う。ソファに転がっているが、やはりまだ右側を下にして横になるのは辛い。切った表面の傷の痛みはほとんど消失したのはいいが、中の筋肉が切れている部分はつながっていないためか、時々ビクッと痛みが走ったり、引き攣れるように痛むことがある。それにもちろん、腹圧がかかるとかなり痛いしくしゃみは相変わらず拷問のようではある。ただ日ごとに、薄皮を一枚ずつ剥いでいくようにそれらの痛みも軽減されていっているという確かに喜びがある。
夕飯は入院中に明青さんにお見舞いでいただいて冷凍してあったすっぽんスープを暖めてもらい、朝食の残りのいわし缶、連れが買ってきてくれたまぐろと平目の刺身などでもりもり、これまた炊きたてのご飯をもりもり食べた。
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2008-03-22(Sat)

退院しました

3月22日(土)
夕べは消灯の10時前からすでに少し眠かったので、消灯とほぼ同時に寝てしまった。その後外でバイクの音がうるさいなあと次に目が覚めたのは、朝の6時だった。久々に爆睡。7時までそのままうとうとして、7時半ころまでに洗顔、歯磨き、髭剃り、トイレ、体重・体温測定完了。8時朝食はまた粥であった。ヤケクソで「ごはんですよ」の大瓶を使い切って、デザートのりんご以外を完食した。何がヤケクソか解らないが。
今日は朝のバイタルもなし、土曜だからか、あるいは俺はもう退院するからいいのか。軽く身の回りの荷物をゆっくり片付けておき、あとはテレビを見て過ごす。9時ころナースが来て、入院時に預けていた診察券を返してくれ、退院後の診察予約表、採血の検査票などをくれる。あとは午後に薬が出るから、そうしたらいつでも退院OKということのようだ。するとベッドでごろりとネット見たりしているとナースが来て、一週間分の痛み止めと胃薬をくれた。ということはもう、午後を待たずして退院可能ということだろうか。
今日は外は快晴、明日は天気が崩れるというから退院にはいいタイミングだ。連れに「何かもういつでもいいみたい」とメールすると、「じゃあもう出る」と返事が来る。そうしてテレビを見ていると、あっという間に昼になった。
最後の昼食が来たが、そういえば昼はどうしようか、と連れにメールするが返事がない。電話しても留守電になるので、しょうがないので食うことにする。おかずはカレーだ。ところが何と、ご飯どんぶりのフタをあけたら粥。カレーに粥だよ、イジメ? しょうがなくカレーを口に含んで粥を食うが、まったく何とも味気ない。カレーだけ食ってた方がまだまし。ゆえにカレールーを全部と粥を少々、あとサラダとヨーグルトを食った。もうしばらく粥は見たくないです。
その後は一服した後、荷造りをほぼ完了させ、着替えをしていると、1時前に連れがカートを押してきてくれる。ショッピングカートみたいなやつだが、スーパーなんかにあるのよりも大型の、ホームセンターによくあるタイプのドデカいやつ。着替えを完了させ、履いていたスリッパをビニール袋にしまって完了。カートにキャリーバッグ、ボストンバッグ、紙袋1つを積み、ナースステーションへ行く。
連れがイズミヤでとらやのお菓子詰め合わせを買ってきてくれたので、それをお礼に置いて行こうとナースステーションを覗く。土曜のせいか人が少ないが、俺を麻酔の説明だと一日間違って連れ出したナースがいたので、「お世話になりました」と菓子折を出すと、かたくなに「こういうのは受け取れないんです」と断られてしまう。連れが「じゃあ忘れていったということで」と傍らへ置いてこうとするが、「困るんです、お気持ちだけで本当に」というので、しょうがなくそのまま「じゃあくれぐれも皆さんにもよろしく」と言って出る。お菓子は持って帰っても食いきれないので、談話室に包装をといて、ご自由にお食べください、という感じで置いてきた。
エレベータで1Fへ降りて、ドトールでカフェラテと連れの昼食にサンドイッチをテイクアウトして、タクシー乗り場へ。個人タクシーに荷物を積み、カートを返そうと思ったら別の運ちゃんが「いいよいいよ、返しておくから」と言ってくれたので、そのまま自宅へ帰る。たった十日ちょっと入院している間にすっかり季節は春に変わってしまった。タクシーの窓は開けてあり、気持ちのいい風が入ってくる。いやはや、冬物のジャンパーが何ともミスマッチである。
久々の自宅へ帰ると、耳の聞こえないユキは寝ていたが、気配で目を覚ますと近づいていく俺を見て目を丸くして一旦逃げ、それから恐る恐るという感じで近寄ってきた。たった10日ちょっとで人の顔を忘れるなよ。シマは甘えてきてごろごろ言って腹を出す。可愛い。猫をなでなで愛撫してから、着替えてソファでごろりとする。といっても腹が痛いので、行動はおそるおそる…と言う感じだ。連れはホッとしたのか、その後ぐうぐう寝てしまった。それから午後は吉本新喜劇を見てしまうが、お笑いは危険だ。油断していてベタなギャグで思わず笑ってしまい、「イテテテテ」となる。気をつけないと、と思い週刊アスキーを読みつつチラチラと見ていると、幽霊の格好をしたMr.オクレが登場。「こんにちは」とお辞儀をしたので思わず爆笑、激痛。
病院の腕輪その後、5時ころタクシーで明青さんへ行き、おかみさんと板さんにお見舞いのお礼を言って、盆栽をお返しに渡す。仕込みをしていたお二人は「ええ?もう大丈夫なんですか?」とびっくり。「午前中退院しました」と言うと「よく階段上がられましたねえ」と言っていた。人間の体って凄い。その後どうしたか、それはまあ退院したばかりの日なので、まさか…。
帰りがけ、ブロッコリーと青菜を茹でたのをパックにいただき、明青を出た後向かいのセブンイレブンで買い物をし、時間をあわせて出たので北8のバスに乗って帰宅。手首を見ると、入院時につけられた患者名とバーコードの印字された腕輪がまだついていた。
その後、10時ころには眠くなって、二人とも寝る。

ホンの一週間ほど前に腹をかっさばいたわけだが、もうこうしてゆっくりとだが外を歩いたりしている。あの激烈な胆石発作はもう、二度とない。残りの人生のQOL上、穏やかに暮らせると思うと有難い。それに人間の体のことを病気や入院のたびに考えるにつけ、「生きている」なんて不遜な考えは到底持てない。本当に素晴らしいバランスと仕組みと、絶妙なシステムで人間の体は動いている。何かに作られ、そして生かされている。神というのか仏と呼ぶのか、人種や宗教、地域によって変わるのだろうが、誰が何と言おうと、我々には見えない、大いなるものの存在を感じずにいられない。生きていること、そのことそれ自体が奇跡であり、ありがたいことだと素直に思う。
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2008-03-21(Fri)

抜糸完了・明日退院

3月21日(金)
夕べは消灯後、11時ころになって眠れた。おおむね熟睡、5時過ぎまで。その後6時過ぎまでとろとろしていたが、朝イチで採血が来る。ゲ! こないだ血管ブチ抜いてくれた子だ! 怖いよう…と思ったら、今日は羽根と細いチューブ付きの針で、しかも俺がちゃんと半身起こして腕もテーブルの上に置いたせいか、ほぼ無痛で試験管2本分採れた。こないだはベッドに背もたれた状態で腕が下にあったので、勢い上から角度をつけて針を入れるかたちになったから激痛になった。こちらも協力してあげないといかん。
外は曇りだが雲の切れ間から青空がちらちら見えている。ゆうべから風が時折かなり強く吹いていたが、今朝もまだ風が残っているようだ。そういえばゆうべ、うちのマンション前のコンビニのあたりにパトカーや装甲車、救急車などが現れて騒然としていたそうだ。連れが見に行ったが結局何だか不明だったようす。今朝googleのニュース検索で調べてみると、1時間前の毎日新聞の更新が最速だった。どうやらあのあたりのマンション2階に住む20歳の男性が、手書きで「浴室で硫化水素発生中。絶対に入室せず、消防に連絡して下さい」と張り紙をして自殺したという。彼はこの日部屋を退去予定で、管理会社員が訪問して張り紙を見つけて119番通報して、えらい騒ぎになった…ということだった。
「硫化水素ガスで自殺するケースは全国で相次いでおり、1年間で少なくとも8件が確認されている。巻き添えを避けるため「有毒ガス発生中」と張り紙する方法はインターネットの自殺サイトで紹介されており、サイトを参考にしているとみられる。」とのこと。練炭よりも発見される確率が低く風呂場などで目張りも簡単、自分の部屋で出来るという「手軽さ」から、最近はこちらが増えているらしいが…。
何が原因か知らぬが、いただいた命を簡単に捨てるなよ、と思う。もちろん、俺だってここ十年、本当にひどいことが続き、特に連れ合いが手術後の痛みで七転八倒するのを見ているしかなかったころは、これでもし俺が倒れたら、もう二人で…と考えたことがないわけではなかった。だがそれは、頑張って頑張って、いろいろなことに耐えて、もがいて、苦しんで、やれることは全部やって、の話だ。それでもどうしようもないことって、確かに世の中にはある。それは認める。だがまだ20歳そこそこで、いったい人生で何を得たんだろう。それはそれなりに自殺するんだから相当なことがあったのだろう。最近の働けど生活が苦しい…というワーキングプアだろうか。先行きに希望が見つけられない、深い絶望ゆえか、それとも、無気力に「リセットボタンを押すような感覚」で…だろうか。

抜糸の後その後9時半ころ、O先生ら3名がみえ、K研修医が残り半分の抜糸。抜糸、というより糸がないので本当にホチキスの針を取って行くという感じだが。今日は軽い痛み程度で完了。傷をまたぐように、テーピングを傷とクロスする状態で貼ってもらい、これは2週間くらい、自然にはがれるまで貼っておくようにと言われる。「あとはシャワーなんかはもうそのまま浴びても大丈夫ですから」、でもう「退院は週末いつでも結構ですよ、ご家族と相談して決めてください」ということになった。
良かった…と思う反面、こんな体で社会生活が営めるかどうか不安でもある。もちろんずっとこういう状況なわけはないが、連れの場合は最悪だとしても、傷の痛みは一年近く続いたし、今でも急に腹圧がかかるような動作をすると激痛が走ることがある。手術以来5年ほど経つというのに、真夏だろうと腹帯は欠かせない。俺も同じような状態になるとは思いたくないが、歩く際のひきつるような感覚と鈍痛はしばらく続くようだから、動作には気をつけないといけない。
人間、喉元過ぎれば…ということがあって、安静時に無痛になってしまうと、ついつい健康体のような感覚で動作をしてしまうことがある。今は病室にいるのでそこら辺は充分気をつけて動いているが、考えてみれば床から猫のシマ(5kg)を抱き上げることもしばらくは怖い。
処置をしてもらっている間に、頼んでおいた痛み止めロキソニン1錠が来る。抜糸が終わった後それを飲み、しばらく効くのを待って、40分ほどしてからトイレへそろそろと歩いて行く。手術後の点滴が取れて水分が足りなくなったせいがあるのかないのか、昨日はまる一日便通がなく、さすがに腹が張ってきた。ちょっと踏ん張れば出そうだったが、その踏ん張りが痛みのせいで効かない。なので痛み止めを飲み、多少なりとも腹圧をかけて排便しようという考え。果たせるかな、固いのが無事出て、ちょっと腹も楽になった。
外はいつの間にか綺麗に晴れ上がり、ぽっかりと雲がOSの壁紙のように浮かんでいる。その後昼前にエレベータで売店へ。どうせまた粥だろうと思い、「ごはんですよ」の大きい瓶を買って戻る。昼はやはり粥だった。
その後2時ころ連れが来る。退院が決まったというと、「掃除しなきゃ」と言っていた。ナースが傷を見に来てくれたので、明日午後の退院をお願いして、「傷からちょっと出血しているんですが」というと見て、ガーゼをあててくれた。これを濡らしても良いんだろうか、と若干不安。連れと5時前までテレビを見て、エレベータ前まで見送って別れる。加湿器と大きいバスタオル、昨日の下着などを持って帰ってもらった。

夕方のニュースワイドでは、老老介護での相次ぐ殺人事件についてのレポートをやっている。今年に入ってから、老老介護疲れによる殺人はすでに10件、週に一回のペースで起きていることになる。老老以外にも尊属殺人なども含めればもっと多いだろう。しかし世界一の長寿国だと意気軒昂に誇っている一方で、福祉切捨てによるこうした不幸な事件が、全国で常態化しているってどういうことだ。ワーキングプアの問題もそう、働かない人間が貧困という「報い」を受けるというのは一定の共感を得そうなことではあるが、それにしても、福祉という概念というのは本来、それでも今困っている人を何とかして救おう、補助をして自立させよう、というものであったはず。なのに一生懸命身を粉にして働いている人間が、地べたを這うような貧困を味わう。日本の高度経済成長を支えてきた老人たちが、老後は安心して暮らせると思ってきたら突然自分たちの世話は自分たちでやれと放り出される。
自分が長年連れ添った相手が病の床にある、何とかして一日でも長く生きていて欲しいと思うのは当り前だろう。だから必死で介護する。介護する側も老体だ、年金だけでは生活が苦しいところ、介護サービスを受けるにも新たに金が要ると言われたらどうすればいいのか。金銭的にも肉体的にも精神的にも追い詰められ、この先明るくなる見通しなどない。そればかりか、先に見えるのは共倒れである。愛すればこそ、自分の介護に苦しむ相手に「いっそ殺してくれ」と頼む。そしてそれを受け入れなければならない心境。いったいこんなクソみたいな国に誰がした? 
片方で道路特定財源は道路のために使ってるんだ、地方ではまだまだ道路が必要だ、廃止すれば開かずの踏み切りが無くならないぞ、と国民を「脅迫」しておきながら、実際は官僚どもがホイホイてめえの財布のように無駄遣いのオンパレードだ。全国でいったいどれだけの血税が役人どものフトコロに入ってるのか、想像するだけで頭がクラクラする。それらをホンの少しでも福祉に廻せば、老老介護現場での不幸な事件がいくつかは防げたんじゃないのか。まったく嫌な世の中になったもんである。

その後6時前にK先生が「明日退院ということでいいですか」という確認、「お願いします」といい、午後でとお願いする。食事はどうされますかというので一応出してもらうことにしたが、よく考えたらなくても良かったか、どうせ粥だろうし…。で傷からちょっと出血していたのでガーゼをあててもらったというと、傷を見て「昔はイソジンみたいな消毒液をべったりつけたもんなんですが、あれの効力は6時間しかないんですよ。じゃあ4時間おきに塗り替えるか、というとそうもいかないわけですし、消毒液は皮膚を弱めますからね。今はお風呂に漬かるのは避けてもらいますが、シャワーなどで流水でむしろ傷を綺麗にしておく方がいいという考えになっています」とのこと。「そうした方が再生能力が高まるんですね」というと「そうですね。ただ血液疾患をお持ちなので、もちろん高熱が出たとか、出血が止まらないとか、そういう場合はお近くなんですぐ来ていただいた方がいいかと思います」といって、病棟の直通電話を教えるので、何かあったら電話してくれれば対応すると言っていただく。【注:もちろんイソジンといってもうがい薬の方ではありませんので、注意! イソジンうがい薬を傷に塗っちゃダメよ。】
退院後の食生活も、以前と変わらずで問題ないということ。油こいものは避けるのかと思ったら、元々胆石発作を繰り返していたということは、慢性的に炎症状態にあり、胆嚢がほとんど正常な機能をしていなかったということだ。なのでそれを取ったところで、何らかの機能の損なわれるわけではないという考え方で、そう言われてみればその通りである。「それに石が詰まって嵌頓しとりましたからね、中に胆汁が詰まって出所がなくて痛みを発生させていたわけですから」なるほど、いいことは一つも無かったわけで、取るしかなかったわけだ。
また今後あの思い出したくもない胆石発作が起きる確率は、ほぼないと言っていいそうだ。ただ完全にゼロではなく、取りきれていなかった石のかけらなりが総胆管に詰まって…とか、そういうことがないわけではない。ただ見た感じではそういう所見はなく、確率もほぼないといっていいということ。これであの発作からは完全解放、である。あと何年生きられるか解らないが、少なくとも胆石発作に怯えることはもうないと思うと、残された人生のQOL的にもいいことに決まっている。
それからナースが来て、入院費を支払う確認書というのにサインさせられる。明日は土曜なので会計が閉まっているから、請求書を送るという。それを持って会計に改めてくればいいんですか、と聞くと銀行振り込みでいいそうだ。トンヅラする奴はいないんだろうかとちょっと余計な心配。
その後は大相撲、朝青龍が琴光喜に転がされるのを見て溜飲を下げ、夕飯はこれまた粥でテンションが下がる。しかし根性で完食。病院というところは規則正しい生活、バランスの取れた低カロリーの食事が上げ膳据え膳で出るし、バイタルも朝夕ちゃんと見てくれ、薬剤の管理も不測の事態への対処も万全だ。言われた通りに生活していれば、ちゃんと健康な体になれるところである。俺の場合は残念ながら、違うが。
夕食後、また痛み止めが切れてきたのか腹が痛み出す。といっても我慢できないほどではないが、明らかに安静にしていても時折びりっと来るので、ロキソニンを貰って飲む。その後7時ころトイレへ行くと、見事な一本グソがにゅるにゅると出る。いや失礼、やはり病院に入ると健康になるというか…。近年まれに見るいい便が出たのでビックリ。


…と最後は尾篭な話でアレだったわけですが、どうにかこうにか明日退院できる運びとなりました。長かったような短かったような今回の手術入院。皆さんからメールなどでも励まし、お見舞いを多数いただき、この場を借りて御礼申し上げます。いつもながら、暖かいお言葉をいただいて、本当に心から感謝しています。コメント欄があれば良かったんですが、まあ世の中には卑怯で愚劣な連中がおりますからご容赦ください。いずれ必ず憑り殺してやります(笑)。
2005年の、あの夏から今年で3年。不思議な流れで生かされているような気がします。この胆嚢摘出手術も、その「流れ」にあると思えば、残された人生を安寧に過ごすためのことであったと納得がいきます。
さあ、明日からリハビリ、ですね。
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2008-03-20(Thu)

突然抜糸&シャワー浴びる

3月20日(木)
夕べも10時消灯後から1時間半ほど全く眠くならず、しょうがなく暗がりの中パソコンで昔の記録を見たりしていた。そういえば膝にはじめて水が溜まったのは、とか今にして思えば最初の胆石発作はここか、など改めて確認。今朝になってはじめて今日が祭日らしいことに気付いたのだが、それゆえ当直ナースが少なかったのか、夕飯後のバイタル以降消灯時も誰も来なかった。夜は比較的良く寝られ、目が覚めたのは5時前。しかしそこからまた悶々と寝られず、結局そのまま6時過ぎに起きて洗顔、トイレなど済ませてニュースなどを見る。ここで今日が春分の日であることを知った。
8時朝食はほぼ完食。まだ粥だ…もういい加減にして欲しいが「一般術後食」とあるし、しょうがないのか。おかずにぺらんとした練り物を半分に切ったものが2枚と、おひたしのような薄味の温野菜、味噌汁、牛乳にパイナップル。牛乳まで飲むとかなり腹が膨らむので冷蔵庫にしまうのだが、気がつくともう3個目だった。その後は眠気が来るが、掃除やナースが入れ替わり来る時間なので結局寝られず。で、その際「今日はシャワー浴びますか体拭きにしますか」と言われたので、傷がちょっと心配だったが頭を洗いたいので午後イチでシャワーを予約する。傷はちゃんと防水仕様にふさいでくれるそうだ。
その後10時過ぎ、テレビカードを買うのに1Fへ行こうとしたが、財布を見ると千円冊が無く両替がいるので、そろそろと歩いてエレベータで地下へ降りる。そういえば売店の反対側、南端にあるローソンへは行ったことがないので、今日は右へ曲がってローソンへ。廊下は祭日ゆえ人もまばらで薄暗い。なのでかなり遠く感じる…が実際の距離もかなりある。そういえば手術後売店へ行ったのは連れに車椅子を押してもらってだったし、今日が術後最長歩行となるわけだ。薄暗いのはローソンの手前にある床屋が休みだったりするからだった。もちろん上の外来も休みで、見舞い客が来る午後まではまだ時間もあるから、閑散としていたのであった。
病院内のローソンはかなり広く、買ったものを食べるスペースも広くとってあってビックリ。それに明るい。文春、チルドカップのコーヒー、おやつ(笑)にかっぱえびせんを買って、またゆっくりエレベータまで戻る。1Fへ上がってテレビカードを2枚買い、病室へ戻った。かっぱえびせんは、例の中国産原料を使った韓国製「にせかっぱえびせんモドキ」にネズミの死骸が混入していたというニュースを見ていて、そういやずいぶん食ってないなあ…と思ったら食べたくなった次第。
朝食後痛み止めを飲んだのが効いているせいか、歩行は今までで一番楽ではあったものの、普通の歩行とはほど遠く、だいたいが背筋をしゃんと伸ばすことさえ出来ない。少し前かがみで、わき腹を押さえながら、足をあまり上げずにすり足ぎみでのろのろと歩行するのが精一杯。部屋へ戻ってベッド上に座ると、引きつるようにビクビクッと傷の内部が傷んだ。すいぶんと痛みの度合いは減ってきているのだが、歩くのはまだまだ全快までは険しい道のりのようだ。傷の表面はもうくっついてるので、切られた痛みはほぼ消失しているが、やはり中の筋肉がちゃんとつながっていないのだろうか。
…なんて思いつつ週刊文春を読んでると、11時頃突然O先生以下K先生、K研修医が来る。ガラガラと消毒用具やら器具が乗ったカートを押してきたので、「…ひょっとして抜糸ですか?」と聞くとO先生「そうです」というので「明日のはずじゃ…」と言うと「いえ、今やります」とにやにや。抜き打ちかよ。もうしょうがないのでベッドの傾きを戻して、仰向けになって腹帯を外す。術後ずっと傷に貼ってあった、1mmほどの厚さの透明なシールを剥がされたが、その時ちょっとホチキス針が引っ張られてチクチクする。
K研修医が消毒をして、はさみのような器具でホチキス針のように傷を止めている金具を、1つおきに抜いていった。最初「半分ずつ抜糸」の意味が解らなかったのだが、要するに一つおきに半分取る、という意味だったわけ。ホチキスのリムーバーのような状態で、針が抜き取られる際にちょっとチクッと痛いのが数箇所あったが、おおむねほとんど無痛で取れた。あともう半分は明日になるそうだが、「あのー、今日シャワー予約してあるんですが」というとO先生「そのまま浴びてもらっても大丈夫ですよ」というので、いくら何でもそれはあんまりだと思い「何かカバーして入ればいいんですよね」と言うと、「しましょうか」と言ってくれ、K研修医が透明フィルムを2枚、傷をカバーする形で貼ってくれた。これでこのまま浴びても大丈夫とのこと。やれやれ。
その後腹帯を締めなおすのに傷口をよくよく見ると、フィルムの下で若干出血しているのが見える。…大丈夫なんだろうか。その後12時昼食、完食。また粥。実際げんなり。8割ほど食べた。その後は買ってきたかっぱえびせんの小袋を食べつつテレビを見る。んで1時過ぎ、風呂場を見に行くと空いていたので、シャワーの用意をして入る。思ったより体を洗う際は痛みが少なくて安心。風呂場は広く、椅子が置いてあるので腹をあまり折り曲げずに洗えるのもいい。さすがに傷の周囲は触れないが、頭を洗ったり背中をゴシゴシ洗うのは気持ちよかった。
風呂場から戻ると連れ合いからメール。今日大学の卒業式に出て、あとは写真撮り合ったり打ち上げだ何だとなるので、3時過ぎにこっちへ来るといっていたが、疲れたろうから今日はいい、休んでなという。午後はテレビも飽きたので、NomadZenを久々にパソコンに接続して音楽を聴く。iPODがこれほどブームになる前、30GbのHDDプレーヤを比較検討してこちらを選んだ次第だが、いまだに一度も故障も音飛びもないし、音質がいい。それにしてもやはりゲイリー・ムーアは神だなあ。…なんて思いつつ思わずリズムを取ってしまい、傷にひびいてウッとなったりする。
するとプレイリストの後半になって突然、「デバイスが接続されていません」エラーが出て聴けなくなった。何度か接続し直しても同じなので、しょうがなくプレイヤにヘッドフォンを接続するとちゃんと動くので、本体の故障ではなさそうだ。なので単独で聴く。通勤しなくなってからパソコン接続の音楽用ストレージとしてUSBケーブルを束ねた状態でずっと使っていたので、断線したのかも知らん。
その後夕飯が来るが、これまた粥…。この一週間粥ばかり。渡る世間は粥ばかり。ご飯は噛み締めると徐々に甘みが出るから、白ご飯だけを口に入れても、もちろんおかずと一緒に食べても、おいしい。しかし粥は口に入れた瞬間にもう甘みが全部出ている状態なので、塩やダシで粥自体を味付けしていない場合はそのまま単独ではかなり食べ辛いものだ。おかずと一緒に口に入れても、味が分断された感じがして白ご飯と同じようには味わえない。なので佃煮だのじゃこだのふりかけだの、「味」が必須となる。
こないだ車椅子で売店へ押してってもらったときに買った、「ごはんですよ」の小瓶がもう無くなった。何せ三度三度粥責めなので、消費も早いのである。8割ほど食べて夕飯のお膳を自分で下げに行く。左手で食器の乗ったトレイを持ち、右手でわき腹を抑えつつじりじりと歩く様子はハタから見たら重病人かお年寄りだろう。胃にものが入ると腹部がさらに膨満するので、傷口が内側から押し上げられたようになるせいか、表面がビリビリと痛む。腹帯を外してみると、二箇所から出血しているところ、血が固まらずに赤インクのように動いているように見える、いや実際ちょっと液体が動いているが、大丈夫なんだろうか。まあフィルムが貼ってあるから感染の心配はなかろうが…。
夕飯の後胃薬オメプラール20とロキソニンを1錠ずつ服用。その後夕方のバイタル、平熱、血圧・酸素異常なし。あとは消灯まで暇な時間である。こうしてパソコンに向かってゆっくり記録をつけ、ブログにアップする作業はこの時間に行っているわけ。今日の痛みの変化は下記の通りです。(デカくなったので、クリックで拡大にしました)
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2008-03-19(Wed)

日に日に回復してます

3月19日(水)
夕べは10時消灯後30分ほど、歯磨きやらベッド周辺の片付けをゆっくりとしてから寝る。何度か目は覚めたが、3時ころまで割りとよく寝られた。しかしそこからが全く寝られなくない。悶々としてベッド上で寝ようと努力するが寝られず、結局6時ころ諦めて部屋の電気をつけ、テレビでニュースなどを見る。そのうち眠くなるだろうと思ったが全く眠気は来ない。
その後朝のバイタル、体温血圧酸素値正常。外は曇っていたが、やがて雨になった。そういえば入院してからずっとぽかぽか陽気でよく晴れ、真っ青な空が窓から見られたものだが、今日は久しぶりの雨だ。それからちょっとだけ眠気が来てうとうとしかかると、8時の食事が来る。まだ全粥。おかずはシャケや茹で野菜などと牛乳、バナナ。そういや入院時に朝食はパン食かご飯か選べたので、米好きな自分としてはご飯を選択したのだが、ここに来ての連日の「粥責め」でパンが恋しくなってきたのは皮肉。
昨日買ったごはんですよ、焼きタラコ、明青さんにいただいたポテトサラダなどでほぼ完食。ご飯を食べた後は、やはり胃が圧迫されて苦しい。自分の場合CTの映像を見せてもらっても、とにかく腹部全体を巨大な脾臓が覆っていて、胃もぎゅうっと右側に押されて窮屈そうに筒状になっていたように見えた。今回取った胆嚢はさらにその胃に肝臓側に押し付けられるようになっていたそうだ。大食いのジャイアント白田君やギャル曾根ちゃんは、実は胃袋の伸縮性が物凄く、俺の脾臓並に、腹部全体に食べ物を入れると膨らむことが解った、と前に何かのテレビで見た。あれはCTだったかMRIだったか、とにかく衝撃的な映像だった…というのを思い出す。
食後はロキソニン1錠を飲み、歩行訓練がてらゆっくり右わき腹を抑えつつトイレへ行き、その後はテレビを見たりダラダラして過ごす。11時ころ薬が効いたのか、安静にしているとほとんど痛みが収まった感じがしたので、これまた歩行訓練にとテレビカードを1Fまで買いに行った。なぜか病棟、というか各階には販売機がないという不親切なシステムになっているので、テレビを見るためには下まで行かねばならないのだ。戻ってくると、ホンの少しの移動だったのに右わき腹がひきつるように鈍痛がする。まだ歩く速度はそろりそろりと、腹に手をあてながら…という感じだ。痛み止めは安静時には効いているが、歩いたり咳やくしゃみの痛みには全く無力であることがわかる。
12時、昼食ほぼ完食。その後1時ころ連れ合いが来た直後、ナースが体拭きの熱いタオルを持ってきてくれるというので、パジャマや下着などを着替えた。やはり寝汗をすごくかくので、体を熱いタオルで拭いて着替えると気持ちがいい。シャンプーもしたいのだが、今体を曲げたら死にそうなので我慢。その間に連れには箱ティッシュが無くなったので買ってきてもらった。それから一緒にテレビを見ていたが、連れは眠くなったというので、ベッドの横にあるベンチボックス(座れる物入れ)に余っていた枕を載せて、足の方はパイプ椅子を並べて簡易ベッドを作ってやると、そこでちょっと仮眠をとった。連れも健康体とはとても言えないので、休憩も必要。こちらはその間テレビ見つつソリティアをやっていた。この時間帯は人の出入りが珍しくなく、連れは1時間ほど寝たか、洗面台を洗ってくれる人が来て起こされるまで少しは寝られた様子。
人の出入りは無かったとはいえ、実は京大病院の南病棟は今あちこちを工事中である。要するに老朽化しているのでそこここをちょとづつ直しているわけで、俺のいる病棟側のトイレがちょうど今修理をしているところなのだ。なので、こちらはトイレのたびに反対側のトイレまで延々歩かねばならない。それはまあいいとして、工事現場はこちらの病室のまん前。工事の人たちの出入りの音や声も物凄いものがあり、しかも全く「ここは病院である」という遠慮というか配慮がないのが凄い。逆に感心する。物凄い騒音は工事だからしょうがないとしても、工事の人が携帯で大声でしゃべってたり、冗談言って笑ってたりもする。安静の人もいるだろうに…と思うしこんな環境でも差額ベッド代は同じなのか、と思うとちょっと納得がいかない気もする。
さて連れが起きてからはまたテレビで「ミヤネ屋」(4月から全国ネット化ってほんまかいな? あの島根出身だけどコッテコテ関西弁&関西顔の宮根アナが全国ネットで流れていいものだろうか)を見ていると、4時半過ぎに手術前に病室へ来て麻酔の説明をしてくれた女医さんが来る。その後の痛みはどうだったか、などを聞き取りしていった。
通常、手術などの激烈な痛みには硬膜外麻酔といって、脊椎麻酔よりもうちょっと浅いところへ麻酔を直接麻酔薬を注入し、その先の部位の痛みをブロックする。意識消失がないので、手術の時に併用するだけではなく、術後の激しい痛みに対処するためにもよく使われる。ちなみに連れ合いが何年か前、ずさんな右腎臓摘出で術後の痛みに地獄の苦しみを味わったとき、この麻酔によって痛みがウソのように消失した、という場面を目の当たりにしたことがある。その時連れ合いは痛みで寝られず、不定期に襲うカミソリで皮膚を切られるような痛みに悲鳴をあげる日々が何ヶ月も続いたのだが、手術をした病院ではラチがあかず、鍼灸やらペインクリニックやらあちこち廻った挙句であったから、劇的で連れも痛みの消失に思わず涙したくらいだった。しかし麻酔の副作用で動悸が激しくなり、嘔吐を繰り返して「これなら痛みの方がまし」というので結局その後使うことはなかった。
俺の場合、術後の痛みをとるためにこれを使えると良かったのだけど、白血病のために血小板が少なすぎて使えなかった。「使えると良かったんですけど」と女医さんは気の毒そうにしていたが、それはもうしょうがないこと。それより術後はただでさえ、感染や血栓が出来るリスクの方が怖い。
その後、連れ合いは「そろそろ帰る」と言って洗濯物を持って帰って行った。6時の食事は塩サバ、切干大根とニンジンの酢の物、野菜と芋の角切りマヨネーズ和えみたいなサラダ。明青さんのポテトサラダなどで完食。その後は「警察24時」を見る。ネットの番組表で「ロケット花火男にストーカー男」とか書いてあるの見て「面白そうじゃん」と連れが帰る前に話してたのだが、見ていたらそれはどちらも京都府警の話だった。
8時過ぎ、管理をしている某サイトのデータ更新日だったことを思い出し、慌てて受信、作業に入る。作業を終えたら転送作業、やはりモバイルだと遅いこと遅いこと。その後どうも腹がピリピリするな、調子に乗ってパソコン仕事とかしたからかな、と思ったら痛み止めを朝飲んだきりだった。夜勤のナースにバイタルの時お願いしておいたが、8時を過ぎても来ないので、トイレの時別のナースに廊下で会ったので、お願いして小便をして戻ってくると、ロキソニンを1錠くれる。部屋に戻るとさっきの当直のナースが「すいません」と忘れてたようで薬を持ってきたが、もう貰っていたので明日の分にとそれも貰っておいた。
俺の場合は、だけどロキソニンがよく効いてくれるので助かる。おとついあたりまでは点滴から錠剤になって一日3回飲んでいたが、昨日は2錠で一日持つようになり、今日も朝の1錠で夜まで持った。寝ている間に痛み出すと嫌なので、念のため1錠服用。
薄皮をはぐように一日一日、痛みは弱くなっているように思う。しかし依然、歩く時の中の痛みはあまり変化なく、咳やくしゃみもかなり辛い。ていうかくしゃみはしようものなら瀕死状態になるので、出そうになっても意地で絶対に止めているが…。

さて昨日アップした痛みの表でいうと、今日は「深い深呼吸」がゆっくりなら、○になったり、廊下を支えがなくても痛いながらも歩けるようになった。
術後の痛み

それにしても胆石が発見されたのは、白血病告知・余命宣告を受けて治療のために入院し、それが慢性であったことが判明して退院した直後、2005年10月20日のことであった。この時は発作が起きたことはなく、しかし石はけっこう大きいのが2,3と言われてはいた。その後発作が頻発するまで2年。術後、胆嚢を切開してみると、1cmほどの石が出口に嵌頓(かんとん)状態で栓をしていたとO先生から聞いた。恐ろしいことである。
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2008-03-18(Tue)

術後の回復度合い

胆嚢摘出手術からの回復過程を表にしてみた。
これは痛み止めを点滴で、点滴が取れてからは錠剤で飲み、それが効いているというのが前提の表だから、もし痛み止めがなかったら、あるいは効かない体質だったらこの限りではないと思う。


●手術当日(3/14)
手術の日は手術室へ歩いて入った。頭にフードを被るように言われ、手術台へ仰向けに寝るように言われたあと、体中にいろいろなものがつながれていった。最後に酸素マスクをあてがわれ、しばらく深呼吸をするよう言われて、そのうち「はい、すぐ麻酔効いてきますよ〜」と数回言われたと思ったら、直後に「白取さん、終わりましたよ」と言って起こされた。起こされた瞬間からもう激痛の中にいた、という感じであった。後で聞いたが、一瞬と思ったのだが実際は手術室へ入ったのが12時半ころで、終わったのが4時ころだから、3時間半ほどかかっていたことになる。
激痛の中、執刀していただいたO先生に「ありがとうございました」とちゃんと挨拶もしたし、ヨイショでストレッチャーに移されるのも激痛、同じ階の病室へ戻る際の右へ右へとカーブが切られるたびに体が揺れる激痛に思わず「痛い痛い!」と声を出していたのも、はっきり記憶している。ただ病室へ戻ってからは、赤血球も少ないので酸素マスクをずっとされ、点滴が数本(ブドウ糖、抗生剤、痛み止めなど)と導尿管などがつながった中、絶え間ない痛みの中でひたすら耐えていた時間は、朦朧としていたと思う。断片的に覚えてはいるが、はっきりと何時にこう、という記述はもちろん出来ない。
記憶をたどって動作と痛みの関連を表にしてみると、当日はとにかく何も出来ない状態であったことが解る。痛み止めもほとんど効果がなく、深く息を吸っても激痛がするので、浅くハアハアとした呼吸しか出来ない。酸素マスクの中がヨダレか蒸気か不明だがダラダラで気持ち悪いが拭くことも出来なかった。かろうじてじっとしていたり、聞かれたことに答えたりする程度で、とても自発的に話す余裕もなく、そのうち朦朧として眠りかかると、呼吸が深くなるからその痛みで目が覚める。痛みに耐えているうち、また眠気が来ては、呼吸が深くなって痛みで起きる…これを延々とまる一日以上繰り返したあと、翌日の昼過ぎにはホンの少しだけ痛みが和らいだ。

●手術翌日(3/15)
この日は導尿管が外れた。ベッドの上で体を起こすのも一仕事、激痛が伴うのだが、前開きの病院で借りた寝巻きをはだけ、T字帯と腹帯を外してもらうと赤ちゃんのような体制。看護婦さんに導尿管を外してもらう時はかなり痛いと聞いていたのだが、傷の痛みに気をとられていたせいか、「はい取れましたよ」と言われて「え? もうですか?」と聞いたほどだった。導尿管がずっとアレの先から膀胱へ挿入されていた手術後から尿の出が悪く、導尿管の先のポケットにも濃い色の尿が溜まっているが、少ないということだった。あとはベッド脇に尿瓶を置かれ、尿はこれにしろと言われたが、あまり尿意を感じなかった。実は尿が出ないというのは問題で、点滴がかなりの量入っているから、当然行き先は全身ということになる。
実際、手術室から出てきた直後からこの日まで、両膝はぼっこりとふくれていた。前にも何度か記述している(最初の記述は2006年05月19日 2006年05月20日)と思うが、よく歩いた後、突然両膝の皿の両側に、袋のようなコブのようなものが出来るのだ。脚を伸ばすと見えなくなり、膝を曲げるとはっきりとコブが現れる。しゃがんだりすると痛いし、正座は絶対に出来ない。膝に水が溜まる、とよく聞くがこういうことを言うのだろうか。
そのような状態で歩行を促され、「いてててて」と言いつつ、看護婦さんに支えられて病室の外に出た。いったんもうダメ、と思って戻りかけたが、「体重計まで行けませんか」と言われて根性をふり絞り、ナースステーションの反対側にある体重計まで、それはそれはナマケモノの一歩のような速度で歩いていき、体重も測定して戻ってきた。確か体重は72kg台だったはず。入院した時は68.40kgと記録にあるから、やはり全身に体液が過剰な状態になっていたと思う。このまま尿が出ないと大変なことになる…と少し恐怖したのを覚えている。
…しかしこの日の夜中に突然尿意で目が覚め、慌ててベッド脇の尿瓶をあてがうと大量に、500mlほど出た。その後翌朝にも700mlほど出たので、看護婦さんも「これだけ出るようになったら大丈夫ですね」と言われてホッとした。
実はこの日、東京からジャナ専の教え子たち3人が来てくれている。とても無理かと思ったが、何とか安静にしてさえいれば、話すくらいは出来るだろうと判断して、病室へ来てもらったのだ。手術翌日に予定が重なってしまったので、3人もとても俺の顔が見られないと思っていたようだったが、夕方に病室で短い間だったがマスクごしに3人の元気な顔が見られて良かった。夕方6時半、連れが3人にご飯をご馳走するという約束になっていたので4人は病室を後にしたのだけど、俺はその後も実は痛みと戦い朦朧、寝ては醒めを繰り返していた。

●手術後2日目(3/16)
この日は昼から粥が出るようになった。表で見ても、体を動かすことがかなり可能になっていることがわかる。実際主治医のO先生からは「痛み止めを飲んででも、なるべく歩いてください」と言われていたので、痛み止めを点滴され、終わってから点滴スタンドを支えにそろりそろりとトイレまで行っては戻ってきたりしていた。

●手術後3日目(3/17)
この日になると両腕の点滴ルートのうち右手が外され、痛み止めが錠剤だけになった。痛みも、痛み止めが効いていれば普通にしていられるようになったので、当ブログの術後はじめての更新も可能だった次第。色々な部分で快方へ向かっているのがはっきりと感じられ、明るい気持ちになった。ただ歩くのだけは、どうにも状態が改善されず、痛み止めが効いていてもかなり苦痛を伴っている。

●手術後4日目(今日=3/18)
昨日とあまり状態は変わらないが、はじめてくしゃみが出た。余りの激痛でしばらく身動きが出来なかったほどだった。その後車椅子で連れ合いに外へ連れ出してもらったが、自分が花粉症でなかったことを心から感謝した。

…と、まあこれから開腹手術をする人は参考になれば…って全然なりませんな。
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2008-03-18(Tue)

久しぶりに病院外に出た

3月18日(火)
夕べは10時消灯後すぐ寝に入り、40分ほどで眠れた。次に目が覚めると1時半で、そこから1時間ほど寝られなかったが、次に目が覚めたら5時半、合計で5時間ほどは寝られた感じ。ドアがしっかり閉まってると、古いとはいえ(笑)やはり個室だと耳栓が無くても何とか寝られるレベルだ。看護婦さんも当直の人がちゃんとそっと入って来てくれる人だと、安眠が邪魔されずに済む。
6時くらいから歯を磨いて洗顔し、カーテンをあけてテレビをつけて半身を起こしていた。今日も快晴、テレビでは今日も暖かくなると言っているがこっちは病室なのが残念。半身起こしてるせいか腹が鈍くうずくように痛む。バイタルが来て、8時の食事は9割がた食べた。まだ7分粥だが、腹のことを考えると仕方が無い。
その後執刀医のO先生と研修医のKドクターが来て容態確認。直後に白髪メガネの教授らしい先生もいつものようにサッと来手術の痕て様子を聞いてサッと出て行った。痛み止めをナースのNさんに1錠もらって、Kドクターが「点滴はこれだけ食事がちゃんと採れてればもう必要ないでしょう」ということで、その後Nさんに左のルートも外してもらった。これで点滴から完全解放だ。あとは手術した腹の痛みだけである。
痛み止めに貰っている「ロキソニン」錠は強さでいうとボルタレンと同等かちょいと弱いという薬らしいが、手術の痛みには割合効くようだ。相性というものもあるのかも知らん。胆石発作の時はボルタレンでもちっとも効かなかったが、あの痛みがもう無くなるのかと思うと嬉しい。傷の痛みは痛み止めが効いている間は、安静にしている限り半身起こしてこうしてパソコンを打っていても、弱くうずいている程度。ただ、排便に行くためにトイレへ行く廊下が辛い。ここ2、3日ほどほとんど歩く時の痛みに関しては変化がない。他は順調に回復してきてはいるが、歩行時の痛み、咳や痰切り時の激痛だけは回復がストップしたままの様子だ。
それから部屋でベッド上でネットでニュース見たりテレビを見たりしていると、くしゃみが術後初めて出た。くしゃみの後、余りの痛さに悶絶してベッドに倒れこんでしまった。しばし痛みに耐えて動けないほどの衝撃。こんなにくしゃみ一発でクリティカルヒットになるとは思わなかった。その体制のまま動けず、そのせいか11時前あたりから寝てしまった様子。11時半ころ研修医ではない方のK先生が来て「傷を見せて」というので起こされ腹帯を外すと、胸に玉の汗をかいていた。外の気温が上がったせいか、白血病のいつもの典型症状の一つの寝汗なのか不明。傷の状態は相変わらず綺麗でいいので、金曜にホチキスの針金のような針を一つおきに半分抜き、土曜にはさらに半分を取るそうだ。なので退院はその土曜日でもいいし、具合によっては日曜でもいいということになった。あとは感染症の専門家と話しをしたところ、白血球が1000を切ったら増やす注射をするよう言われたといい、気がかりはそこくらいだとのこと。
こうして手術も無事終わり、術後の経過も良好なのは喜ばしい。胆嚢を取ったことであの激烈な発作がもう起こらないのも嬉しい、普通の人ならこれで万々歳だ。だが俺の場合はそれで「胆石持ちの」が取れて「白血病という血液癌の患者」に、戻っただけのことなのが哀しいが。
昼飯はサバだか何かの血合が出て、酸っぱしょっぱくて、さすがに俺もほとんど食えず残す。たいがいのものは出されたら食べる方だし、食べ物を残す&捨てるという行為が苦手なのだが、これはしょうがない。手持ちのおしんこや「ごはんですよ」、ふりかけなどで食べた。連れが持ってきてくれた大根のべったら漬けはほぼ食べ終わり、ふりかけも小袋が3つ、「ごはんですよ」の小瓶は使い切った。
1時半ころ連れがセブンイレブンでオハヨー乳業のイチゴヨーグルトを買ってきてくれたので、すぐに1つ飲む。家にいる時は毎日飲んでいたが、入院後は始めてで、うまかった。。それから部屋で俺がご飯のおかずをほぼ使いきったというので何か買ってこないとねえ、なんて話してたら、突然部屋に明青さんの渡辺さんご夫婦が来訪。お見舞いにと、鯛カマの塩焼き、すっぽん肉入りスープ、さらに俺が大好きなポテトサラダをたっぷり作って持ってきてくださった。あ、有難い、なんというタイミングだろう。
胆石2ケ(1つは半分に切断)お礼を言っているとK先生が入って来て、「あ、今日は皆さんお揃いで」と言いつつ「これが入ってた石ですねえ」とプラスティックの小瓶に入れた胆石をくれた。「これは2つあったもので1つは半分に割ってあります。あと瓶は開けない方がいいと思いますよ、雑菌なんかが繁殖している恐れもありますから。見たらまあ捨てるなりしてください」とのこと。「これは…コレステロールですか」と聞くと「そうですね」とのこと。
K先生が出て行った後、明青さんにも見せて「こんなのが入ってたら痛いわ!」と話す。お二人は「まだしばらく痛いんでしょう」というので「あ、でももう今週中には出られるみたいなんですよ」というと「じゃあしばらくはリハビリやね」というので「すぐリハビリに(飲みに)行きますよ」と言うと笑っていた。お二人はすぐ帰る、ここでいい、と帰られるのをお礼を言って部屋の入口で見送った。
改めて「本当に有難いね」と二人で感動する。あとで鯛はカブトの部分をおかずに俺が、カマは連れが食べる用に、ポテトサラダは連れは4分の1ほどでいいというので小分けすることにして、すっぽんスープは冷凍して退院したら二人でいただくことにする。いや本当に有難かったです。
その後しばらくテレビを見た後、売店へ買い物へ行こうということにして、ナースステーションから車椅子を借りてきてもらった。まだちょっと下まで歩いていくのは無理だし、かといって買ってきてもらうだけなのもつまらないし、外の空気もこれだけ暖かいなら久々に吸いたいものだ、ということで。入院の時に着てきた冬もののジャンパーはもう暑いだろうと、シャツ一枚をパジャマの上に羽織って、車椅子に座って連れ合いに押してもらう。ちょっと座った姿勢でも腹圧がかかるから痛みがあるが、痛み止めが効いている間だと思い、多少は我慢してエレベータで久しぶりに地下の売店へ行った。
店の前で降りるというと車椅子で店内入ってもいいんだよというので、中まで押してもらってそのまま買い物。チルドカップのココア2、おとなのふりかけ小分けセット、ごはんですよ小瓶、焼きタラコ1パック、あとペットボトルのお茶1リットル。連れはフルーツジュースを買って、そのまま一旦北側の出口から出る。そこは2Fの渡り廊下の下の日陰、すぐ北にある建物への通り道になっていて、両側は長いゆるやかなスロープになっている。車椅子用というよりは搬出入のための台車用といったスロープで、俺の体重を支えながら連れが降りるのはちょっとキツそうだったので、普通に正面玄関から出ようと言っていったんまた病棟へ戻る。
つかまり立ちで、久々の外で記念写真(?)それから正面玄関まで長いメインストリート(?)を延々と通って、久しぶりに外へ出た。南側に開けた玄関前のあたりは遊歩道が作られており、陽があたってさすがにぽっかぽかである。シャツ一枚さえ羽織らなくても全然OKという暖かさで、20度という気温を実感する。しかも快晴で、東山には大文字がくっきり。確かに環境的には素晴らしいところにある病院だ。
しばらくそこであたりを眺めて携帯で写真を一枚撮ってもらい、春日北通り側へ移動してちょっと眺めたりして、また車椅子で病院へ戻る。ドトールでアイスラテを買ってもらい、ベンチでしばらく一休みして、1時間弱で病棟へ戻った。久々の外は陽ざしも空気も気持ちが良く、やはり人間が生きていくには太陽と空気は必要なんだなあ、としみぢみ感じた。特に日光は、浴びすぎてはいけないというものの、一日にある程度はあたっておかないといけないものだし、実際陽に当たっていると免疫力がじわじわと向上するような気さえするものだ。
病院内へ戻る頃には痛み止めが切れてきたのか、車椅子のせいか、腹がかなりひきつるように痛くなってきたので、看護婦さんに夕食後の痛み止めを「予約」しておく。部屋でよみうりTV「ミヤネ屋」を二人で見つつ、連れはちょっと咳っぽいから早めに帰ると、4時半過ぎに明青さんのすっぽんスープと小分けしたパックを持って帰って行った。

見事な鯛粥!その後6時の夕飯はまだ全粥で、さっそくポテトサラダをちょっと味噌汁のフタに盛って、鯛のカブトをほぐし始める。本当はオーブンで焼きたいところなのだが、部屋にあるオーブンはかなり使い込まれたもので生理的嫌悪感が強い代物。それに病棟中に鯛のいい匂いが充満するのも顰蹙だろうと、そのまま身をほぐしにかかるが、やはり固い。しかし根性でほぐし、丁寧に10分もかけて見事な鯛粥が出来上がった。連れからも「今焼いてる」とメールが来た。
食って腹いっぱいになって腹部膨満になりヒイコラ言いつつ食器を返して部屋に戻ると6時半過ぎ。いつもの倍以上の時間をかけて胆嚢違った堪能させていただきました、ありがとうございました!
食後パソコンを開いたものの、膨満状態の腹部を突き出したままベッドを背もたれにして一息ついているとO先生とKドクターが来る。いつもは具合を聞いて一言二言で帰るO先生だが、今日は壁によっかかって少し話して行った。今日は下までつれてってもらって歩いてきたというと、「それはいいことです」という感じでウンウンと頷いて、俺が「これで普通の人だったら万々歳なんですけど…」と言うとちょっと気の毒そうな顔をされる。で俺が「便が黄色い感じがするんですが、それは胆嚢を取ったから腸に直接胆汁が出ているからでしょうか」と聞くと、首をかしげて「さあ…それはちょっとその影響かどうかわからないですねえ、食べ物の関係かも知れないですが」とのこと。あとは昨日の採血はどうだったか聞くと、あとで持って来てくれると言って出て行った。すぐにKドクターがとって返してきて、出力した採血結果をくれた。WBCは手術後から1600−1700−1700−1300。白血球を増やす注射をした後を除くとまたちょっと減少気味なのが気にかかるが、1300ならこのところではいい方だ。好中球数も900あるから、入院当日のトンデモない低値からは脱したのでホッとした。
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2008-03-17(Mon)

地獄の採血(笑)

3月17日(月)
朝イチ、7時半ころだったか、当直のナースに採血ですと言われて、右手からいつものようにやってもらうと、針が痛い。普通針は刺す時の角度から、上下でいうと降ろすようにして血管壁を傷つけないように血管内へ挿入するものだが、挿し方の角度が急だ。なのでかなり痛い。自慢ではないが、採血なんざ数え切れないくらい受けているから、俺は「採られる側のプロ」である(笑)。
「こ、この子はヘタクソだ…」と思ってじっと耐えていたが、やはり挿し方が悪く血の出が鈍い。試験管3本だが2本目で血の出がほとんどなくなってしまい、「あれ?」と言いつつ、あろうことかその角度のままグイとさらに深く針を刺したのだから、さあ溜まらない。「イデデデデデデ!」と思わず絶叫。静脈の一方を挿して針を入れたわけで、そのまま角度をつけずに深く刺したら、反対側の血管壁を突き破るだろうが! この子は夜中の患者確認の際もドアの開閉が乱暴というか無神経で、いつも大きな音をたてて入ってきては、顔に懐中電灯をあてて、ドアをバターンと閉めて去っていく。誰でも目が覚めるってものだ。その無神経さで針を刺すんだから、これは溜まらん。
「あ、すみません、しびれます?」というので「し、しびれる!」と言うと慌てて針を抜き、「長い方の針でやりますね」と言って、細いチューブがついている羽付きの針に換えたはいいが、採るところがない。で、結局点滴中の左手の静脈から採血をしたが、「ブドウ糖静注中なのに、いいんだろうか…」と素朴な疑問。
そんな地獄のあと、8時の朝食はまだ粥だったが、「ごはんですよ」やふりかけの力を借りて6割ほど食べた。昼も同様に7割がた食べる。
午後2時ころ、連れ合いが来る。部屋でテレビを見ていると、ナースが2名入って来て、「白取さん、血糖値測らせてもらっていいですか?」というのでビックリ。「え?いいですけど何で?」と聞くと「今朝の採血の結果でね、血糖値だけ高かったんですよ」、「糖尿とかお持ちじゃないですよね」というので「ないですよ、連れがインスリン自己注射なんで測定キットが家にあるから、時々こっちも測ったりしてますから」というと「そうですよね、間違いだと思うんですが念のため…」ということで、測定されることになる。
ちょうど、右手の点滴ルートがそのまま畳まれたままになっており、左側だけでもういいので抜いていいと言われたからと、それを抜いた時の血を利用して測定することにした。さて結果は。もちろん116で極めて正常。
なので俺が「朝の採血の子が右静脈をブチ抜いてくれた後、左手から採血したんですが、左はブドウ糖輸液点滴中だったんですよね」というと「ああ、それです!」、もちろん糖尿の疑惑は晴れ、皆で笑う。「ちなみにいくつだったんですか?」と聞くと、年長の方のナースが神妙な顔で「…300いくつ」というので、そこでまた爆笑。こちらは笑うと傷が痛くてしょうがないので、腹を抱えて痛いわおかしいわで拷問のようだった。
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2008-03-17(Mon)

やっと…

痛み止めをずっと点滴でいれながら、そろそろと体をい動かせるようになってきました。今朝パソコンに術後はじめて触りました。
手術は麻酔が効いて、醒めたら激痛の中で、あとはもうひたすら痛みとの戦いでした。T字帯に腹帯、点滴が数本両手につけられて酸素吸入という手術当日はともかく、翌朝から歩行練習に入ったんですが、さすがに右肋骨下を十数センチ切られた直後はとても歩けるもんじゃりません。その後は昨日の朝からようやくおかゆが出るようになって、痛み止めが効いてる間は動きさえしなければ安寧にしていられるようになりました。
皆さんの励ましやお見舞いに感謝します。
まだまだ生きる気力は一杯です。ニュースで簡単に「死にたい」だの人を巻き添えにして命をドブに捨てるような人間には腹が立ちます、その命俺にくれ、と。
ここまでで腹が痛くなってきました。ではまた。
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2008-03-14(Fri)

これから手術

3月14日(金)
夕べは寝る前まで缶ジュースやミネラルウォーターをガンガン飲んだのに、結局消灯前まで便は出なかった。しかし夜中、3時半ころ待望の便通が!
…なんとか今朝の浣腸は免れました(笑)。
今日は10時半〜11時ころから手術室へ入る予定です。全身麻酔で胆嚢摘出術。健康な人ならなんてこたぁない部類に入る手術だそうだけど、まあ自分の場合は…。
京都はここ数日20度近くまで上がる陽気が続いていました。今朝だけはなぜか雨。それでも気温は高めだそうです。
このブログも更新がちょっとだけ途絶えるとは思いますが、(いまだに俺を誹謗中傷している連中以外は)皆さん手術の成功を祈ってくださいね(笑)。
では、また。
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2008-03-13(Thu)

いよいよ明日、手術

3月13日(木)
明日はいよいよ手術。今日も長い一日であった。
夕べは10時消灯ですぐ寝に入るが、12時くらいまであまり眠れず。朝方は特に何度も目が覚め、結局あまり熟睡できぬまま気がついたら7時だった。ナースのNさんが採血に来て、今日は試験管2本採血。
8時に朝食がきたがさつまあげのような練り物とおひたしに味噌汁、あとは牛乳とパイナップル。「おとなのふりかけ」を3種類3袋も使って完食。それから布団にごろりとしてテレビを見ていると部屋の掃除が来て、8時半過ぎ、O先生ら三人の医師団が来る。
血液内科のI先生と話をしていただいたそうで、「やはり将来的にこれだけ脾臓が大きいと取るということもあるかも知れないが、今それをすぐしなければならないという状態にはないので、今回は極力傷つけないように気をつけてやります」ということ。
「どれだけ大きくなっていいものなのか、どこかで止まるのか、それもわからないんですよね」というと「そうですね、取るというのも大変なので、放射線をあてて小さくするという方法もあるんですが、ここまで大きくなってしまうとそれもどれだけ効き目があるかというと…」とのこと。とにかく明日はよろしく、とお願いするしかない。
その後はちょっと眠くなってきたのでベッドに寝てテレビを見つつうとうとしようと思ったら、病棟の工事の「ガガガガーッ!」という大騒音が始まる。よりによって工事箇所は俺の部屋のまん前である。この環境って入院してる人たちにとっては絶対大変なストレスだよなあ、と思う。入院費まけてくれんかなあ。
それでも30分くらいすると不思議なもので、あれだけの騒音の中でもうとうとしてくるものだ…と思ったら10時前に昨日俺に麻酔科へと間違った情報を伝えにきたナースが「おへその掃除をします」と来てくれる。へそに消毒液?のようなものを紙コップからたら〜っと垂らして、長い綿棒のようなものでほじくってくれるのだが、「おへそ綺麗ですねえ」と言われる。あんまり意識して洗ったことはないのだが、腹部が膨満したためにヘソの周辺も内部から押されて、必然的に洗いやすくなっていたので、普通に洗っているだけで綺麗になってるのかも知らん。どうでもいいことですが。
それにしても女の人にヘソをほじくられるというのは非常に恥ずかしいことではある。なので「向かいの建物は何なんでしょうねえ」とか世間話をしたりして、終わるのを待つ。ちなみに向かいのおんぼろ病棟?は旧眼科の建物じゃないかとのこと。さらに北側にはもう一つ、同様のお化け屋敷のようなツタだらけの建物があり、それは旧婦人科の建物だそうだ。ヘソの掃除は数分で終わり、なぜか油性のマジックでヘソの周囲を丸くマーキングされた。非常にマヌケな絵面である。
結局寝るタイミングを逸し、テレビを見てると11時過ぎに連れ合いが加湿器を持ってきてくれたので、早速水を入れてきてつける。夕べは乾燥してちょっと辛かったので。あとおかずにコロッケを持ってきてくれたが、連れはしばらくして診察があるので自分は食べずに出て行った。
その間12時に昼食が来て、持ってきてもらったクリームコロッケも食べた。その後1時ころ風呂。午前中は女の人の入浴時間、午後は男なのだが、その間に掃除してお湯を入れ替えるらしく、お湯は綺麗で一番風呂だった。明日は手術なのでしっかり洗い、ちゃんと湯に漬かった。部屋に戻ってしばしくつろぐ。
2時頃から麻酔の説明があるはずで、ずっとテレビを見つつ待っていたが、全然呼び出しが来ない。3時からは下剤を飲まねばならず、困ったなあと思ってると先に下剤が到着。白い液体がボトルに300ccほど入ったもので、これを飲んで、あと9時に頓服薬を飲み、明日の朝までに出なければ浣腸になるという。まあ俺はデフォルトで特急ぎみなので、下剤なんか入れたら超特急になるだろうから大丈夫だろう。
依然麻酔科の呼び出しがないので下剤も飲めず待っていると、3時半ころようやく呼ばれて、昨日間違いで行かされた部屋へ行く。説明の前に電子カルテを見ますといって見始めたので、俺は今朝の採血の結果を聞くと、白血球数は注射のおかげで1300に増えていたので一安心。ただPLTは67(6万7千)だったのが65とほぼ横ばいのまま。麻酔科の先生は説明の紙を示しつつ、やること、リスクの話などを説明してくれる。10分足らずで終わって病室へ戻る。
戻ってすぐ冷蔵庫に入れておいた下剤を飲むが、すっぱくて軽く苦味もあってまずい。連れ合いは俺が手術前でナーヴァスになってると思い、わざとおちゃらけたことを言ってくれるのだが、こちらは神経質になっているせいか笑えず、申し訳ないリアクションしか出来ず。向こうも心配なのは当り前で、家で一人でいるのも寂しいだろう、それはわかっているのだが。
実は手術が怖いとか不安なのではなく、白血球数と好中球数がここにきてガクッと下がったのが、元の病気の進行じゃないか、とそっちの方が心配なのだ。胆嚢切除手術は、普通の人よりも格段にリスクが高いとはいえ、それをじゅうぶん承知した上で、注意深くやってくださるという説明を受けているから、それほど心配もない。不安や恐怖が全くないといえばウソになるが、多少痛みがあろうがナンだろうが、それは回復への過程と解っていることなので、こなしていけばいいだけの話。しかし白血病の方は進行があっても治す術はない。それが一番不安で心配の原因だ。しかしそんなことをいくら考えても何にもならない。
その後、昨日の朝エコーをしてくれたK先生が来て、昨日白血球を増やす薬を注射したら、好中球数が300台から800台に回復した。感染症の専門の先生に相談したところ、それならば通常の抗生物質の量で大丈夫だろうということだった、ただ念のため、今日もう一本白血球を増やす注射を打ちます、とのこと。白血球数と好中球数が増えてホッとしたが、それは注射のお蔭だし、血小板数は変わらずだから依然不安は残る。
その後4時前に、連れにはもういいよと言って洗濯物を持ってってもらう。俺は下剤を飲んだのでいつ作用が始まるか解らないので下へは行かず、ベッドの上で見送った。その後4時半過ぎに白血球を増やす注射を、へその掃除をしてくれたナースが打ってくれる。その後下剤をくれたメガネのナースが下剤を飲んだかと確認に来て、同時に医師団のKドクター(一番若手の方)が採血の結果の表を持ってきてくれる。やはり白血球と好中球数の話で、順調に増えたので、感染症対策も通常通りで問題ないでしょう、とのこと。
俺はちょうど白血病の進行のことを悩んでいたので、WBCとPLTが減ったのが気になるというと、専門じゃないので解らないが、通常白血病の進行というと白血球が増えていくというのだと思うので、それほど心配しなくていいんじゃないかということ。脾臓がこれだけ大きいともちろん汎血球減少が起きるので、そのためにこういうことになってるから、注射で増えたということはいい反応だということだろう。ちょっと気持ちが楽になった。
その後夕飯は6時過ぎに完食。ニュースでは京大で肺の移植手術を受けた患者が手術ミスで死亡した事件で、京大病院の心臓血管外科の医師と麻酔科の医師ら3人が書類送検、という映像が流れた。今まさに自分がいる病棟が映ったのでビックリ。そういえばここは肝・胆・膵外科と心臓血管外科の病棟が一緒になっている。その後6時半過ぎに婦長さんが来て、にこやかに明日手術だけど大丈夫かというので、大丈夫ですと答える。下剤は少ししか貰わなかったけど、まだ便通も来ないし、あれでいいんでしょうかと聞くと、2ℓくらい飲まされるのは大腸の手術などの場合で、今回はその量でいいということ。あとは錠剤があるので、若いんだし明日の朝までに大抵の人は出ますよ、とのこと。もし出なければ浣腸になるが…。婦長さんは水分をたくさん摂ってと言って出て行った。
その後はしばらく連れ合いとメールやりとりしたりしつつ、PCでソリティアをやるが、こんなんよく考えたら自分にストレスを与え続けているようなゲームだと思い、やめる。こういったややこしいゲームを繰り返しやらせて、ストレスの検査をする実験があったな、と苦笑する。
それから連れ合いが来た時にと思って冷蔵庫に入れておいた、チルドカップのココアを飲んだが、7時を過ぎても便通なし。浣腸は避けたいのだが…(笑)。
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2008-03-12(Wed)

手術の説明を受けた

3月12日(水)
夕べは「たけしの本当は怖い…」を見て、「オリラジ経済白書」でチロ(ビッグスモールン)が見事一ヶ月バイト生活で100万円を突破したのを見て、10時消灯。耳栓をして寝に入るが、なかなか寝付かれずにごろごろ。というのも、ベッドが固くて身動きすると腹にひびくのだ。それでも夜中少しは、2時過ぎにはっきり目が覚めるまで3時間ちょっとは寝られたようだ。それからまた寝られず、3時過ぎにトイレに起きて蓄尿、冷蔵庫のお茶をコップ半分飲み干す。病院はやはり乾燥しており、喉が渇く。
その後朝までまたうとうとと浅い眠りと目覚めを繰り返す。ほとんどがレム睡眠だったので、熟睡は出来ず、7時前にナースが起こしに来る時にはもう起きていた。昨日は何と20度になったそうで、道理で暖かかった…というか暑いくらいだったわけだ。俺がもともと暑がりということもあって自分がおかしいのかと思ったが、外が20度あったら暖房つける方がおかしい。今日の予報は18度ながら、朝からうす曇で日中は晴れそうだから、また気温が上がるだろう。
7時半ころ、昨日執刀医であるO先生と一緒に来たK先生が突然来て、ちょっと腹部エコーを見たいのでいいですか、というので一緒に出る。同じフロアのエコー室で見てもらうと、脾臓がやはりかなり大きく右側まで張り出しているのが、エコーの画面で素人でも解るほど。ヘッドをスライドさせていくと小さくなり、小さくなったところがエッヂになるのだが、先生は「ちょっと待っててください」といってマジックを取りに行き、脾臓のエッヂを腹にマーキングする。胆石もかなり大きく、慢性的に胆嚢炎も起こしてる形跡があり、石も小さいのがポロポロ落ちたりして、発作が頻発してるのだろうということ。
その後病室に戻って少しテレビを見てから、8時過ぎに地下の売店へ行き、コーヒーなどと、マウスウォッシュと手鏡を買って戻る。売店では有線でジェロの「海雪」が流れていた。今年の紅白は当確か、ともはや言われている噂の黒人演歌歌手。部屋に戻ると、向かいのオジサンのところへ主治医とナースが来ており、俺が戻るのと入れ違いに手術室へ連れ立って行った。
その後すぐこちらの医師団3人がきて、「お変わりありませんね」と言って、「今日ご家族の方は大丈夫ですか」というので「大丈夫です」と言うと了解してすぐ出て行った。9時排便。水分が足りないせいか固い。
その後テレビ見てるとナースが「麻酔の先生から説明がありますから、行ってください」と言われ、指示された廊下の突き当たりの階段を上がった部屋で待つよう言われる。手術日はあさってで、普通前日に麻酔科の説明を受けるはずだが、早いなと思って待合へ入って椅子に座る。太った車椅子のオバサンがナースに連れられてきて、ドアをあけて奥の人に声をかけていったので、俺も同じく声をかけて名前を言う。出てくるとまた別のおばあさんが増えていた。その後車椅子のオバサンが呼ばれ、説明を受けている声が丸聞こえなのを聞きつつ、目を閉じて待っていると、先ほどのナースが来て済まなそうに、「すみません、連絡ミスで今日ではなくって…」というので「明日ですよね」と言うと「そうなんです、すみませんでした」と恐縮される。結局また来た道を廊下を歩いて部屋へ戻る。
戻ると担当ナースのNさんがおり、「間違ったみたいですね、すいません」と言われて、検温と血圧測定。
こちらの大部屋は向かいのオジサンが手術へ出かけたら俺一人で、どうせ手術後は数日個室に入れられるから、このままでいいかな、と思っていた。で戻ってきたら入口近くのベッドにはお爺さんが入ってきたようで、かみさんのお婆さんとかなり大きな声で話している。こちらがベッドへ戻るとお爺さんがパジャマに着替えて挨拶に来た。ニコニコと良さそうな感じの人だったが、お年寄りはお年寄り。耳が遠く声や動作音が大きく、夜中も何度も目を覚まして出入りをしたり騒音を立てるのは、もう嫌というほど体験済みである。こりゃあ夜はたまらんな…と思いナースNさんに「さっき婦長さんが来て『個室空いたけどどうしますか』と聞かれたんですが、連れと相談したので、お願いできますか」と言う。本当は婦長さんが「個室空きましたけどどうしますか」と来た時、このままでも…と思って保留していたのだ。お爺さんが入ってきたのは予想外なので、やはり予定通り移ることにしたわけ。
待ってると「じゃあ移動準備しておいて下さい」ということになり、さっそくパソコンその他身の回りのものを全部バッグとキャリーバッグにしまい、冷蔵庫のものも出し、あとはロッカーの服だけという状態にスタンバイ。すると11時ころお向かいさんが手術が終わって戻ってきて、「ぜんぜん痛みはないですよ」などと軽口をたたいている。残念ですが、今は痛み止めが効いてるんですなあ。
そんな中、看護助手のおばさんたちが来てくれ、移動をするというので、こちらもばたばた。使っていたベッドをそのまま持っていくそうで、後についてキャリーバッグを押していく。個室は456号室、入ったら何か変な臭いがする。前の人の臭いなのか、元々部屋の臭気なのかは不明だが、ウッと来るほど強い。またすぐ元の部屋へ戻ると、バッグなどは持ってくれたので、俺はロッカーから服を出して持って行き、移動完了。しかし臭いが…。
今度の部屋は窓が北向きになり、外は前に連れ合いと外から見上げて「凄いね、あの建物」と話した、ツタの絡まった使っていない古い建物。幽霊屋敷のようにも見える。病室の窓の外には回廊状にベランダがあるが、出てはいけないようになっている。そこに鳩が二羽来て憩っていた。写真を撮ろうと構えるとバサバサと逃げて向かいのツタの建物へ渡ってってしまった。その中の一羽は割れた窓ガラスから建物の中へ入って行ったが、あの中はどんな状態かと想像すると恐ろしい。
その後連れ合いに「部屋移った、臭いがひどい」とかメールしたりしてテレビを見ていると、12時で昼食が来る。カレーとご飯、サラダ、らっきょうとヨーグルト。完食。もう意地で完食である。その後は2時前に手術時に使う腹帯とT字帯を買っておかねばならないので、売店までまた降りる。それぞれ指定通り2枚ずつ買い、今日と明日の風呂に使うナイロンのボディタオル、お茶とコーヒーなどを買って戻る。
2時過ぎ、テレビを見つつトロトロしたくなり、その前にメールチェックすると仕事のデータが届いていた。さっそくDLして作業してftpしたり。e-mobileだと速度的には非力だよなあ…と思ったが、意外と速い。もちろん家の光ほどではないが、じゅうぶん実用レベルで驚いた。2005年に日大病院に入ってた時はAir Edgeで、物凄く遅かったのに比べれば格段のスピードアップだ。3時には全作業終了。
その頃、ナースのNさんが白血球を増やす小さな注射を打ちに来る。採血の針に比べれば注射の針はめっちゃ細く、右肩に注射されるが、ほとんど無痛。その際「白血球数が900しかなくて、好中球数も360だかしかなかったと言われた」と言うと「ええー?」とビックリされる。これはもう感染に厳重注意という数字ですよねえ、と言うと「そうですね、トイレとか、院内も結構菌があるので、マスクをつけて出られた方がいいと思います」と言われる。そりゃそうだ、忘れてた。
その後、4時半から風呂を予約しておいたので、もうそろそろいいかなと4時過ぎに風呂場を見に行くと「使用中」の札。しょうがなく用意だけして部屋で待ち、4時半になってもまだ「使用中」、5分くらいオーバーしてようやく空いた。着替えや風呂道具を持って浴室へ。脱衣場も風呂場も思ったより広い。ステンレスのベッドほどの大きさの浴槽に、真ん中に腰掛のような段差がついたものが左手にあって、右側には洗い場が二つ。浴槽には湯が張ってあり、軽く体を流してから入ろうとしてよくよく見ると毛やゴミが浮いてるので寸前でやめる。栓を抜いて強烈な水流が出るシャワーで浴槽を洗い、それから湯を張ろう…と思って体をシャワーで洗いはじめるが、どう考えても入浴時間中に湯は張れそうになく、結局シャワーだけで諦めた。
それでも気持ちよく病室へ戻り、髪をとかしてると連れ合いが部屋へ入ってくる。唐揚げや惣菜類、「部屋が臭い」とメールしておいたので、芳香剤と消臭剤も買ってきてくれたので、さっそく部屋じゅうにすっきり消臭リセッシュ。芳香剤も封を切って置くと、しばらくしてようやく嫌な臭いが軽減されて気にならなくなった。やれやれ。
その後朝のK先生とは別の若いKドクターが来て、朝K先生がエコーを見たが自分も見たいのでいいですか、というので一緒にエコー室へ行く。エコーをあてながら、胆嚢の様子を見て、部屋に戻る。6時になって飯になり、食べ始めるとKドクターが来て、「今時間が空いたので手術の説明いいですか…」と言いかけ、こちらがご飯食べてるのを見て「…後にしましょうね、じゃあ20分ほど後でいいですか」というのでそうしてもらう。しかし5分ほどで戻ってきて、「すいません、緊急で先生に用事が入ったので、予定の7時より遅くなると思います…」とのこと。
連れ合いに夕飯買ってくればというと、家で惣菜の残りとおにぎりを食べるからいい、と我慢していた。こちらの夕飯はさば塩にゆでオクラ、おひたしなどに、持ってきてもらった唐揚げ。遠慮なくもりもりと完食。すると連れの携帯に土曜日に上洛する教え子のNさんから電話。土曜日京都へ来たら、俺がこんな塩梅なので連れが夕飯をご馳走することになっており、その挨拶と連絡。最後に俺も電話を替わり、久々にちょっとだけ話した。それにしても手術の翌日は恐らく面会は受けられないだろうから、みんなの顔が見られず残念だ。まあ、紅葉の季節もいいことだし、また…。
その後は二人でテレビを見ていると、7時過ぎにKドクターが来て面談室に呼ばれた。執刀するO先生がすでにおり、奥のPCにK先生がついて説明の要旨を打ち込む役。O先生は今回の胆石発作と胆嚢炎の説明から、腹腔鏡が使えず開腹すること、どういう手術内容かなどを順を追って丁寧に説明してくださる。
俺の場合はやはり通常の胆嚢切除術とは違い、脾臓が巨大なことや白血病の汎血球減少があることなど、リスクがかなり多い。また開腹手術というのは、事前でCTやMRIである程度様子はわかってるとはいえ、基本的に「開けてみないと何がどうなっているかが解らない」ということ。なので、開けたところで様々な事態に対処していかねばならない。
例えばそうならないように注意はするものの、脾臓を傷つけた場合。これはちょっと表面を触っただけでじわじわと出血が起こることがあるが、それをじゃあ止めようとすると、縫うとか、抑えたりするとかしても、結局そのことが余計に出血を加速させることが多いという。結局、大きく腹を開けて巨大な脾臓を全摘する…ということにもなりかねないという。
通常、脾臓の大きさがそれほど大きくなっていなければ、そうなった場合脾臓を取ることも難しい手術にはならないものの、やはり大きさが違う。さらに、肝硬変などで脾臓が大きくなることもあるが、俺の場合は白血病つまり血液腫瘍によって脾臓が巨大化している。こういった場合、将来的に脾臓を全摘することがあり得るのか、あるいは違うのか、取った場合は病気にどういう影響が出るのか…といったことは、元の病気つまり血液腫瘍の専門家である、血液・腫瘍内科のI先生と相談しなければ解らないとのこと。
それは相談して下さるということだが、さらに俺の場合は胆石発作を何度も起こしているから、胆嚢そのものが炎症を繰り返して、肝臓に癒着している場合もあるという。そういう場合は引き剥がして胆嚢だけを取ることが困難になり、切開して中の粘膜を焼いたりすることもあるそうだ。また術中に石のかけらなどが総胆管にこぼれることもあり、それがないか確認しつつやっていって、あった場合はその場で取ることもあるが、解らない場合は後日内視鏡を入れて取る場合もあるという。
こちらとしてはとにかく安全な方法でお願いします、とお任せするしかない。「何か心配な点や不安なことなどあれば」というので、連れが実は右腎臓全摘手術を受け、右下腹部をかなり大きく横に切られ、その後一年ほど七転八倒の痛みに苦しみ、神経と筋肉を切断したので腸を支えきれず、右の腹が醜く歪んでしまった。さらに腹膜も切られたので、常に腹帯をして腸が飛び出ないように支えていなければならず、急な腹圧がかかる動作=くしゃみや咳などは手を腹にあてて抑えつつやらなければならない。こういった状態になるようなことはないですか、と聞くと、O先生は「もちろんそうならないように注意して切りますが、絶対無いということはないです」とのこと。
ただ俺の手術はいくつか切開方向があるうち、右の肋骨の指二本分ほどの下を、肋骨に沿った形で12〜15cmほど切開するという。なので、連れ合いの場合のような下腹部と違って、圧のかかり方が違う場所ゆえ、可能性としては若干低いだろうということ。通常切った腹膜を縫い、筋肉を溶ける太い糸で縛り、さらに皮膚を縫合する。この筋肉の太い糸が消えるまで約半年、その間糸で腹筋を支える力は衰えていくが、反比例して自分の筋肉の力が戻って自力で支えていくことになる。なので、半年間は重いものをかがんで持ち上げるなど、急な腹圧がかかる作業や、ゴルフなどの運動は厳禁という。ゴルフはやらないが、荷物を床から持ち上げたり…などはついうっかりやってしまいそうで怖い。だが、歩いたりという軽度の運動はむしろ術後すぐに積極的にやった方がいいという。
胆嚢は肋骨の下で保護されている肝臓にぶら下がっている臓器だが、肝臓の上にはすぐ肺がある。なので手術の場合免疫力が下がって、お年寄りなんかだと肺炎になったりするリスクもあるそうだ。俺の場合の免疫力は「白血病のためにお年寄り並ですよね」と言うと、先生はちょっと笑って「まあでも白血球を増やす薬を打ってどれだけ反応があるかと、あとは通常より多めの抗生物質を長く投与するということも考えなければいけないかも知れませんね」とのこと。
このように肺炎のリスクもあるが、手術の時は全身麻酔で動けないので、血栓が出来ないように脚をマッサージする機械がつける。術後それが取れた後、傷が痛いので動けない。動かないと血栓が出来やすくなり、それが肺に飛ぶと「肺塞栓」つまりエコノミークラス症候群になったりして、突然死んだりすることさえある。なので、早期離床、術後当日はともかく翌日から歩くように勧めるのはそういうことだそうだ。
他には血小板が足りないのは成分輸血などで対応する場合があることや、取った組織のサンプルが研究に使われる可能性があることなどなど、これらの話をほぼ1時間かけて、CTの画像やホワイトボードも使ってじっくりと説明をしていただいた。最後に手術や輸血の同意書や、術後せん妄といって暴れ出す場合には拘束するということへの同意書なども含めて書類をいくつか貰って、辞す。
部屋に戻って俺がサインし押印、連れのサインが必要なものにはサインしてもらい、書類を調えてしまい、8時半ころ一緒に下に降りて、正面玄関を出るのを見送って病室へ戻った。戻るとすぐ夜間担当のナースが来て、バイタル。明日は早朝に採血、10時半から麻酔の説明を受け、3時ころから下剤を飲んで腹を空にすることになるようだ。
長い一日がそろそろ終わる。明日もまた、長い一日になるだろう。
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2008-03-11(Tue)

入院初日・手術は大変かも?

3月11日(火)
病室から更新中。
今朝は7時過ぎに目が覚め、あとは8時ころまでうとうと。起きてしばらくしてから入院荷物の仕上げに、仕事部屋のノートPCと最小限必要な周辺機器をバッグに入れた。夕べのうちに買ったパジャマやタオルその他の日用品などは用意しておいたので、これで支度は完了。
10時ころには着替えて連れと外に出る。荷物はボストンバッグとキャリーバッグ1つずつ、入院支度ももう慣れたもんだ。外は天気も良く暖かい。予報では18度まで上がるそうだが、こっちは入院だ。タクシーを拾って病院まで行くが、病院の中へ入ってからハッと気付いた。保険証と入院時に出す書類などは、すぐに出すからと思いベッドの上に置いていたのをコロっと忘れてきた。連れが取ってきてくれるというので、俺はロビーのソファで荷物と一緒に待つ。何が慣れたもんだ、だよと自己嫌悪。
10分ちょっと待ったか、割とすぐに戻ってきてくれたので、それを持って入院受付へ行く。書類を渡して、南病棟4Fのナースステーションへ行くように言われ、病棟へ向かう。病棟の方へ入ると建物がとたんに古くなるのに気付く。外来の方はかなり新しくて綺麗なのでよけいに落差が激しく感じてしまう。あちこち汚れも目立ち、大丈夫かねと連れと顔を見合わせつつエレベータに乗って4Fへ。
降りてすぐのところにNSがあり、声をかけると看護婦さんと婦長さんがすぐに対応してくれた。病室は相部屋だが、個室が空いたら移れますから、とのこと。病室は413という部屋へ入ることになると、看護婦さんが案内してくれる。413、日本と西洋の不吉な数字が合わさったナイスな部屋番号だぜ。
部屋は6人部屋のつくりだが、窓際の2つ以外は「スーパーフレックス」と張り紙がしてあって、誰もいない。フレックスということは、テンポラリとか足りない場合に使ってるという意味だろうか。ベッドは南向きの窓際、日あたりのいい部屋で良かったが、眺めは今ひとつ。向かいの建物の壁面がなければかなり見晴らしが良かったのになあ、とちょっと残念だが贅沢は言ってられない。それより病室もかなり古く汚れが目立ち、そっちの方が気になった。
ロッカーや冷蔵庫などの確認して看護婦さんが去ったあと、パジャマに着替えたところで、担当の看護婦さんが来て、病棟を案内してくれる。病棟は工事中で、ひっきりなしに工事の騒音が響いており、かなり騒々しい。安静の人とか大変だろうに、と思う。しかもこちら側のトイレは何と工事中で、トイレのたびにいちいちNSを挟んで廊下の反対側にあるトイレまで行かねばならないのがかなり不便。
簡単な問診とバイタル(体温、血圧)のあといったん出て行ったので、じゃあ下の売店でお茶とかMのお昼を買ってこようかと廊下に出ると看護婦さんと鉢合わせ。これから採血というので病室に戻り、試験管5本採血されてから、再びエレベータで地下へ。その前に、向かいの空いていたもう一つの窓際のベッドに別の患者さんが入ってきたので軽く挨拶をした。
売店で連れのお昼をと思ったがたいした弁当もなく、入口のドトールでテイクアウトすることにして、俺の茶、コーヒー牛乳などを買っただけで1Fへ。ドトールは12時ころで混雑が始まったあたり。連れのレタスドッグとアイスココア、俺のカフェラテをテイクアウトし、病棟に戻る。
部屋に入るとお昼が届いていたが、常食はいいのだがおかずが今ひとつ。ご飯と鞠麩の入ったすまし汁に、豚肉と野菜の煮物、いんげんと油揚げの煮物。味も薄い。売店で連れが鯛味噌を見つけて「これはおいしいよ」というのでチューブに小分けされたのを買ったが、甘くて俺好みではなかった。それでもモリモリと完食し、それからしばらくテレビを見て二人ともごろごろ。
連れには「もういいよ」というと何度か「まだいる」「もういいから」を繰り返したあと、1時半ころ一緒に下へ降りて、正面玄関を出たところで別れる。
それにしても午後になるといっそう気温が上がり、パジャマの上下で病院の外に出ても全く寒くなかった。それどころか病棟はご飯を食べた後は暑いくらいで、汗ばんだほど。その後は3時半まえに看護婦さんが呼びに来たので、1FのX線検査へいく。受付を済ませた後待合の椅子に座ると、4,5分で呼ばれて第三検査室へ。立って胸部一枚腹部二枚、寝て腹部一枚の撮影。撮影自体はすぐ終わり、階段で2Fへ上がり、心電図検査。番号札を取ると104番。すぐに検査室からはおばはんが出てきて、その直後に番号で呼ばれる。ベッドに寝かされて両手両足、心臓周辺に電極?をつけられ、検査そのものは1分ほどで終了。病棟へ帰っていいですよ、と言われてそのまま病棟へ上がる。
夕飯はおでんそれからは夕飯まで暇なので、ネットでニュースを見たり、スパイダソリティアをやったり。5時過ぎからは相撲を見て、6時ちょうどに夕飯。おでん、なんか野菜とツナの煮物、おひたし、ご飯、柴漬け。おでんはアツアツで、意外といい味でうまかった。買っておいた「ごはんですよ」も開けて食べた。食欲、依然衰えず。
完食してコーヒー牛乳飲んでると6時半ころ、白髪・メガネの50代くらいの先生が来る。こちらの腹を触って、「これは腹腔鏡無理かもわかりませんねえ」とのこと。もし器具が脾臓にさわって傷つけると、脾臓を全摘しなければいけなくなり、大手術になるという。なので、開腹なら脾臓には全く触らないので、ちょっと相談してみます、と言って去っていった。うーむ、やはり腹腔鏡は無理だったか。そりゃそうだよな、穴を4箇所あけて腹にカメラや器具をつっこむわけだが、通常あける位置には脾臓がかぶさってるし…。
その後、7時前には若い医師2人を連れたO先生という医師が来るが、どうやらこのグループが執刀をするらしい。O先生は柔らかな物腰で、丁寧に説明をしてくださる。まずは俺の腹を触診して、やはりこれは腹腔鏡だと無理でしょう、という判断。腹腔鏡というのはもちろんカメラや器具を小さな傷口から入れて操作するものだが、脾臓が大きく張り出しているので、まずそれをよけて入れられるかというのが一つ、仮に入ったとしても操作が極めて不自由になるため、リスクも増すということもある。それでは腹腔鏡でやる意味がないわけだ。
やはり開腹でやった方がいいと思うが、開腹にしても、大きな脾臓をよけ、さらに脾臓で圧迫された胃が胆嚢にかぶさった状態なので、それらをうまく傷つけないように手術をするとなると、通常より大きめに切らざるを得ないでしょう、とのこと。昔はあまり傷を大きく開けずに切るという方針で行われた手術だが、最近では、逆に安全のために作業場所を確保する意味もあって、けっこう大きく切るらしい。腹腔鏡も昔はブスリと器具を突っ込む感じだったのが、最近では器具も良くなって、うまく臓器を掻き分けて拡げたりしつつ進むことが出来るようになったというが、仮に脾臓を傷つけると、血が止まらなくなり、全摘しかなくなる。そうするともう切腹のように左右に腹部を大きく切開しなければならなくなり、その上で胆嚢もとなると、ほぼ横真っ二つに腹を切る大変な手術になってしまうというのだ。とにかくこちらは安全な方向で、とお願いするしかない。
さらに俺の場合はもう一つ問題、元の病気つまり白血病によって血球が減少しているというリスクがある。血小板数は今日の採血だと64000しかなく、まあそれは手術できないという数字ではないのでいいにしても、ひょっとすると術中に血小板輸血が必要かも知れないとのこと。また恐ろしいのは白血球数がたった900しかなく、好中球数は350ほどしかなかったという。これには俺もビックリした。つい先日、外来で受けた採血結果では1200で、そのうち半分が好中球数としても500は切ってないだろう、と思っていたのに…。この数字はもちろん感染などに重大な懸念が出てくる数値なので、事前に白血球を増やす薬を注射する必要があるかも知れないとのこと。ただ、脾臓がここまで大きいと、思った通りの結果が出るかは不明だという。しかし胆石発作が起きている以上、薬ではもうどうしようもないので、胆嚢は取った方がいいでしょう、とのことだ。
どうやら「胆嚢切除手術はそれほど危険度は高くない」なんてもんじゃなく、俺の場合はけっこう大変な手術になるらしいことがわかった。とにかくもうジタバタしても仕方がない。何とかうまくやっていただくしかない…。
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2008-03-10(Mon)

明日入院、14日手術決定

突然ですが、明日京大病院へ入院が決まりました。
ずっと胆石発作に悩まされてきたので、胆嚢切除手術を受けることになり、ベッドの空きを待っている状況だったわけですが、今朝、突然病院から電話がありました。
病棟の看護師長さん…というか要するに婦長さんからで、「突然で申し訳ありませんが、ベッドが空きましたので、明日入院されることは出来ますか?」とのこと。もちろん入院待ちの状態であることはじゅうぶん承知してはいたし、4月から教壇に復帰することを考えれば3月中に出来れば手術まで終わらせてもらえると有難い、と希望を出しておいたわけでもある。にしても、唐突であった。
「は、はい、大丈夫ですが…ええと、もし今回見送ると、次はいつになるかまた解らないという状態になるんですよね?」
「そうですねー、なかなか順番待ちが多くてですねえ」
…もうしょうがないという状況である。
結局希望していた個室も空いておらず、多人数の相部屋。まあそれはいいとして、ショックだったのは腹腔鏡がどうやら使えないらしい、ということ。詳しいことは担当の先生にお聞きして、とのことであったが、開腹で手術を行うようだ。うーん、これまた自分は脾臓が巨大化して腹部全体に覆いかぶさってるような状態だから、しょうがないのだろう。
胆嚢摘出術自体は、生命の危険度・手術の難易度ともにそれほど高いものではないという。なので手術そのものへの不安はないといってもいい。たった一つ、自分のおおもとの病気=白血病のせいで血液の状態が悪いということ以外は、手術に対しては達観しているつもりではある。何せ、胆石発作は「手術でこれが無くなるのなら今すぐ取って欲しい」と思うほど、激烈な痛みなのである。
とりあえず入院中も仕事が出来るように、e-mobileの契約は済ませてあるので、ネット環境は何とかなる。あとはまな板の上の鯉だ。

…それより、申し訳なかったことが一つ。
実は今週末、東京のジャナ専時代の教え子たちが京都へ遊びに来る予定があったのだ。2001年度の編集科の学生たちで、俺が担任を受け持った3組の女の子3人が、予定を合わせて来てくれることになっている。
連絡係を受け持ってくれたNさん、Nさんと今回の旅行を企画したOさん、仕事が忙しくて来られるかどうか不明だったのに、予定を調整して加わってくれたKさん。いやはや、みんな優秀でいい子たちだったし、ひさびさに顔を会わせるのを楽しみにしていたのだけど…。
よりによって3人が京都へ来るのは俺の手術予定日14日の翌日である。病室で会えるかどうかも今のところは不明。うーんあそこへ連れてってやろう、あれも食わせてやろう…とか連れ合いと考えていたのに、肝心の俺が病院じゃあシャレにならん!
Nさんには事前にメールで、ひょっとしたら3月中に入院・手術になるから、最悪の場合はみんなが来る日にかかるかも…とは伝えておいた。せっかく社会人で忙しく働く3人が予定を合わせてスケジュールを組んだのに、俺のせいで一からやり直しになるのは気の毒。どうせ入院の予定はその時点でこちらではどうしようもなく、予定は動かさないでいいから、と言っておいた。それが、よりによって最悪のタイミングで入院が重なっちまったわけで…。
Nさん、Oさん、Kさん、申し訳ない!!連れがお詫びにふぐをご馳走するので、それで許してくれ〜!
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2008-03-02(Sun)

確定申告

昼過ぎから我が家の確定申告書を作る作業。数年前から国税庁のネットで申告書を作れることを知って、毎年自分で入力・作成・提出をしている。税金というものは何もこちらへ還付する必要がない、となれば大変に楽な申告になるのだけど、一度納めたものを戻せという場合は恐ろしく面倒な手続きを取らねば返してもらえないシステムになっている。
うちの場合は一年間の医療費が大変な金額になるので、医療控除を受けるために、医療費の明細を出さなければならない。一年分の領収証の束は3cmくらいになっているから、これを見ただけで毎年申告の季節は憂鬱である。月ごとに無造作に突っ込んであるCD収納ケース(これがたまたま12枚入りだったので、1年分の領収書やレシートを突っ込んでいくのに最適であった)から、一ヶ月おきに領収証の束を取り出し、しばし溜息。いやいややらねばならん。

まずはレシート類の折り畳みを伸ばしたり、日付け順に並べ替えることから始める。それから日付と金額や摘要、支払い先、受診者名をエクセルの表に入力していく。こう書くとたいしたことないように聞こえるかも知れないが、けっこうな手間である。だいたい一月の摘要で平均20行以上にはなる。でもまあ、自分の場合は日記もそうだが、「記録魔」という性癖(?)がこういう作業にはいかんなく発揮されるので、作業が進んで行くと集中力も増し、表が埋まっていくことが楽しくなってくるのも事実。
さて医療費の一覧は3時間ほどで一年分の入力が出来た。だがこれで終わりではない。支払い先及び受診者別に、金額と支払い先の住所などの一覧表を申告書に添付しなければならない。これは今年からネット上で入力も可能になったので、コツコツ一件ずつ入力してったのが、途中のブラウザ操作ミスか何かで全部クリアされてしまった。3ヶ月分くらいがフッ飛んでしまい、しばし呆然。しばらく立ち直れなかった。3時ころ遅い昼食に、パンを少しと缶コーヒーを飲んで気を取り直す。
その後、結局毎年のように、入力したエクセル上で集計してった方がいいやと、関数で医療機関ごとの金額を算出して、さらに医療機関ごとの個人別の算出にはDSUM関数を使って抽出。これで決められた書式の一覧表へは最小限の記入で済む。あとはコツコツ入力していった一年分の明細一覧を印刷、申告書も無事ネット上で入力完了し、pdf出力、印刷、収入や個人保険の控除用書類などの明細を貼付…という手順。
最終的に申告書と医療費明細一覧に、エクセルを出力した月別の一覧表と領収証の束を添付し、エクスパックに左京税務署の宛名を書いて封をしたらもう5時半であった。連れに「やっと出来たよ」と還付額を伝えると、「少ないね」と寂しそうな顔をしている。「あんなに医療費払ったのに…」と不満顔だけど、医療控除というのは払った医療費を戻してもらうという意味の「還付」ではない。もちろん総所得からすでに源泉徴収された所得税を、医療費をこれだけ使ったのだから、総所得まるまるに税金をかけて徴収したのでは多すぎる、つまり大枠を小さくしてもらい、改めて算出された納税金額との差額を戻してくれ、ということだ。なので当然支払った医療費からなにがしかを返してくれる、という制度(例えば自治体ごとの高額医療費還付制度など)とは根本的に違うので要注意。

そんなことはどうでもいいが、それにしても病気になると金がかかる。湯水のごとく消えると言ってもいい。当然のことながら、健康な人なら一銭もかからぬはずの金がどんどん飛んでいくわけだ。誰でも(ほとんどの場合)好き好んで病気になるわけではないから、病気になった上にかからぬはずの金がかかっていくということは、まさしく泣き面に蜂である。
我が家の場合は俺が白血病を抱えているので定期検査が必須だし、感染症予防などのケアにはけっこう市販の医療品がかかる。その上最近は胆石発作がひどいので今度は胆嚢切除が待っている。連れ合いは過去四半世紀病院と縁が切れたことがないくらい、常に何らかの病気を持って暮らしている。二人でいったいどれだけの医療費を払ってきたか、また通院や入退院にも交通費その他で大変な金額を支払ってきたかを考えると、頭がクラクラしてくる。
健康な人に言いたいのは、健康診断なんか自治体が無料でやってるのもあるし、支払ったってたいした金額じゃない。キチンと信頼のできる検査機関でしかるべき検査を、きっちりと受ける習慣をつけることだ。それと、口腔衛生には気をつけておくこと。特に子を持つ親は、子どもに歯磨きの習慣をしっかりつけることと、健康的な食事を心がけてやること。たったこれだけのことで、その先いったい何百万円の金が変わってくるか想像してみて欲しい。後悔先に立たず、泣けてきますよ実際。

ところで医療費といえば、ネット上では今こういうこと(「【2ch】ニュー速クオリティ【詐欺確定】心臓移植は行いません!ほのかちゃんを救う会」)が話題になっているそうだ(YellowTearDropsさんより)。
メディアでもかなり報道されたのでご存知の方も多いと思うが、ほのかちゃんというのは難病「拡張型心筋症」と診断された近江八幡市の福本穂香ちゃん(1)のことだ。心臓移植が必要なほど命の危険が迫る中、この子を救おうと父である祐司さん(28)らがドイツへ渡り手術を受けるための募金を呼び掛けていた…という話である。
こうした乳幼児への臓器移植は日本では認められていない。このこと自体も何とかしろという感じなのであるが、つまり、臓器移植が必要なほど重篤な病気を抱えた場合、幼い我が子を救おうとなると、必ず巨額の渡航費、入院費・滞在費、手術費などがかかる海外へ…ということになる。そうなると、数百万円という単位ではきかず、だいたい数千万〜億というカネが必要になってしまうのだ。
この金額、当然ながら一般家庭が我が子を救おうと思ってもサクッと捻出できる金額でないことは明らかだ。そのためには大衆の善意に救いを求める募金活動などを行うしかない。ほのかちゃんとその両親のケースに限らず、こうした子どもとその家族の様子は、ニュースやドキュメンタリなどで時折我々の耳目に触れることとなる。
かくいう我が家も、ずいぶん前になるが、難病に苦しみ外国で臓器移植を受けねば死んでしまう…というご家族と支援団体に募金をしたことがある。ただその後、街頭で後金箱を持って寄付を要求する手口の詐欺団体が摘発されたり、特定の国家・宗教へ渡っていたとか、ひとの善意につけこむ卑劣な行為が多いことも知り、とりあえずしっかりとした運営団体が不明な場合は募金は行わないことにしている。
穂香ちゃん一家とその支援団体は、今年に入ってめでたく募金が目標額の8800万円に達し、福本さん一家は1月に手術を受けるため、ドイツに向かったとHP(ほのかちゃんを救う会)で報告している。新聞などによれば、一行は福本さん一家と担当医ら計5人で、穂香ちゃんはベルリンドイツ心臓病センターに入院して、ドナーが現れるのを待つという。母親の晃子さん(28)が付き添い、父・祐司さんは近くの宿泊施設などに滞在し、待機期間は不明ながら、現在のところ最長で約1年間を予定している…。
めでたしめでたし、である。
だがなぜ今この「美談」が祭りになってしまったのかというと、ドイツへ渡航後、日本での投薬治療等が効果を上げたのか、穂香ちゃんの容態は徐々に回復に向かい、2/4には酸素チューブも外して通院生活へと切り替わり、募金目的であった心臓移植手術は行わず、2/13に僧帽弁修復の手術を行っていた…という成り行きがあったためだという。
つまり心臓移植=日本では不可能な乳幼児への臓器移植が目的で支援団体「ほのかちゃんを救う会」は、募金活動を行った。目標額であった8800万円はすでに達成し、現在では約1億円を超えている(3/1現在は109,443,744 円)。これらの「善意」による「募金」は心臓移植手術とそれに関わる巨額の費用のため、に一般市民が拠出したものだ、しかし移植が必要ないのであれば、そららの募金も必要なくなったのでは? ということらしい。
もちろん、これを詐欺呼ばわりするのは極めて悪意と嫉妬に満ちた行為だろうと思う。なぜなら、穂香ちゃん一家とその支援団体(ほのかちゃんを救う会)は、当初から移植が必要ないと解っていたのに、必要であると虚偽の宣伝をしてカネを集めた…というわけではないからだ。人びとは「ほのかちゃんを救おう」と思ってカネを出した、ほのかちゃんの容態は幸い快方に向かい、移植が不要なほどになった、だとしたら、それは結果的に「ほのかちゃんを救おう」と思った人にとっては望ましい結果なのは自明だ。誰も良かったね、と思いこそすれ「詐欺だカネ返せ!」とは思わぬだろう。
…しかしコトは単純ではないようだ。俺も「救う会」のサイトを見たが一番気になったのは「救う会の方針」という文中の、下記の箇所である。

救う会では穂香ちゃんのみではなく、そのご家族の支援を目的としています。

  穂香ちゃんの心臓移植に対し、福本夫妻が私財を削り、それでも足りない費用を募金で集める
  のではなく、あくまで福本夫妻が私財を削らず今の生活を維持したまま、ドイツへ渡り心臓移植
  を行い、ほのかちゃんのリハビリを経て、日本に帰国した際に以前と同じ生活ができる。
  これに対しての支援を目的としています。

  何故かと言いますと、移植医療とは手術が済めばそれで終わりと言うものではなく、その後も一
  生免疫抑制剤を使用し、免疫低下による病気等、多くの不安定要素があります。これらは当然
  私生活の範疇となりますので、福本夫妻の負担と言うことになります。

  ですから移植までに全てを使うわけにはいかない、と言うことをご理解ください。


…通常は「福本夫妻が私財を削り、それでも足りない費用を募金で集める」のが、一般大衆の善意を求める者の態度ではないのだろうか、それを「福本夫妻が私財を削らず今の生活を維持したまま」、それもとんでもない大金を募る…。
これでは「オイオイそれちょっと違うんじゃね?」的な批判が向けられるのも仕方のないことかも知れない。もちろん我々も穂香ちゃんの健康回復を願うし、その後の人生を思えばご両親の生活が安定することも当然必要条件ではあると思う。だけど、ご両親が何ら生活の安定のためにことさら努力をしないで、募金で…ってのはどうなんだろう。何も誰かが揶揄して言うように、「引きこもり&ニートのねらーやニュー速野郎どもの歪んだ言いがかりと嫉妬だろう」と切り捨てられるものではないし、疑問を持つ方が正常な感覚だろうと思う。
移植後も免疫抑制剤や別の病気のリスクがあると、そこの部分にも永久にカネがかかるような説明をしているが、免疫抑制剤には保険が適用されるのは結構知られている事実(AIDSのニュースなどで有名)だし、まあ移植が必要なかったのであれば、そのリスクもほぼなくなった・あるいは極めて低減したと言わざるを得ない。
「目標達成後は、これから同じような会を立ち上げるかたに今回の活動で得た情報を提供できるような、HPコンテンツを追加したいと思います。」
という一文もあるので、いかがわしい募金詐欺と一緒にするような失礼なことを言うつもりはないが、人様の善意でお金を頂いている以上、やはりこれまでも、そして今後の活動にも会計報告は明朗に開示し、疑問には誠意を持って答える…という姿勢を貫くほかはないと思う。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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