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2008-05-30(Fri)

井坂さんご夫妻と京都観光

5月30日(金)
哲学の道昨夜楽しく飲んだ井坂さん夫妻とは、今日は昼に拙宅へ来ていただくということになっていたので、こちらも掃除などして待つ。11時ころマンション前から着いたとお電話いただいて、連れ合いが下に降りる。俺はベランダから顔を出すと、下のバス停前にお二人がいるのが見えた。まもなく連れがお二人を部屋までご案内。
部屋を見せて近所の眺めを見ていただいたりした後、昼は近所のイタリア料理店・「アンティコ」へ行くことにして、散歩がてらぶらぶら歩いて向かう。ここは定番のパスタやマルゲリータなど料理もうまいのだけど、食後のデザートの「バニラアイスのエスプレッソがけ」が絶品。料理のあと、2つ頼んで夫婦で1つずつ食べることにする。目の前にバニラアイスが3つ乗ったガラスの器が運ばれ、その場でアツアツのエスプレッソをそのアイスにたっぷりかけてくれる。コーヒーの香ばしい匂いとバニラアイスの甘い匂いが混じり合い、もうこの世のものとは思えぬ至福の味と香り、である。うまいうまいと堪能。

若王子神社その後タクシーで銀閣寺へ向かう。この時期残念ながら銀閣さんは修理中で、足場が廻りを囲んであって全貌は見られない。なので庭を楽しんでもらおうと、庭を廻った後山にも登って景色を見たり…としたそうだが、俺は膝に水が溜まると怖いので、下でずっと座っていた。この梅雨の前の新緑の時期、本当に緑に囲まれた東山周辺は気持ちがいい。しかし修学旅行のバカガキどもはうるさい。
悟さんがぜひ哲学の道を歩いてみたい、というリクエストがあったので、銀閣を出た後、参道で買い物をしたりしつつ、若王子さんまでゆっくり哲学の道を歩く。空気もよく、体にもいいだろうなあと思いつつ、ゆっくり時間をかけて1時間ほどで若王子神社へ。そこでお参りして一服。そこから今度は鈴虫寺へ向かう。鈴虫寺はなんと言っても住職さんの「語り」が愉快なので、俺たちも初めてではないが一緒に上がって拝聴。お茶とお菓子をいただきつつ、鈴虫の音色を聞き、お坊さんの法話(?)を楽しんだ。
それから四条新京極へ戻り、ぶらぶらした後、うなぎ屋に入ってちょっと早めの夕飯、ビールで乾杯。新幹線の時間の前に買い物をして行くというご夫婦と、四条通りで別れた。楽しい時間はアッという間だなあ、と話しながら、俺たちはぶらぶら買い物をして帰宅。次は俺の誕生日がきたら、鈴虫寺にいただいたお札を返しにまた行かねば。
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2008-05-29(Thu)

井坂さんご夫妻が上洛

5月29日(木)
午後、東京から井坂悟・洋子ご夫妻が上洛。一度ホテルへ落ち着いた後、電話とメールで「?野橋東詰」で待ち合わせることにしてある。
詩人の井坂洋子さんはもちろん、連れ合いであるやまだ紫と合作を発表したこともあるほどの親友。ご主人の悟さんは、ずっと雑誌の編集畑を歩いて来られた編集者で、編集としての大先輩だ。それでも夫婦ぐるみで親しくさせていただいているが、年長だから先輩だからと、一度たりとも偉そうな態度をされたことがない。いや、実際に年長者であり先輩なのだから偉そうにしても一向にかまわないのだけど、本当に謙虚で柔和で、気持ちのいい方だ。
そういえばずっと以前、悟さんがまだ婦人雑誌の編集長をされている時の勤務地がお茶の水で、その当時俺は神保町の材木屋の二階にあった青林堂に勤務していた。夕方いつものように返品整理やら品出しやらの肉体労働を終えて、長井さん夫妻が帰った後、日没までのホンの少しの間、先輩のYさんとキャッチボールをするのが楽しみだったことがある。もう20年近く前だろうか。狭い神保町の裏通りで小汚い格好をした俺たちが全力でガキのようにキャッチボールをしているところに、悟さんが通りかかって「白取さん!」と声をかけられたりしたのも懐かしく思い出す。若い編集者を数人連れていたので、ご飯にでも行くところだったのかも知れない。何だか凄く恥ずかしかったなあ。
悟さんは今女子栄養大学の「栄養と科学」の編集長を辞めるところだそうだ。とにかく現場で「編集」という作業、行為をしているのが好きな人なので、偉くなってしまうとつまらない編集以外のことに忙殺されるようになるのが耐えられないとも言っていた。気持ちは凄く良く解る。
時間になったので?野橋へ向かう。連れが所用を済ませている間に俺は橋の東詰へ立って川を眺めていると、バス停のあたりにタクシーが停まり、見覚えのある二人連れが降りてきたのが見えた。井坂さん夫妻だ、と確認してすぐ電話を入れて、?野橋のたもとで落ち合った。連れが東側から小走りにこちらへ向かうのが見える。こちらを見つけると手を振って早足になるが、赤信号を直進してきたので三人とも驚き、慌てて「赤!赤!」と言うが幸い事故にはならず(笑)。久々の再会を笑い合った。
そんなこんなで夕飯は下鴨高木町「明青」さんを予約してあるので、北大路を歩きながら向かう。奥の小上がりを予約しておいたので、そこで大いに飲んで食べた。新鮮なお刺身、じゅんさいの酢の物、梅肉ソースが絶品のはも落とし、地鶏フライ、いやもう突き出しから全ての料理に舌鼓を打ち、途中からは皆ヒレ酒まで飲んだ。季節に合わないが、冬の間にさばいたフグのヒレがある限り、ここでは楽しませて貰える。
タクシーで家の前まで来て我々は降り、お二人は手を振ってホテルへ向かった。京都へ来てまだ半年ちょい、連れ合いは「ちょっと東京が懐かしくなってきた」とホームシック(?)気味な時もある。俺は北海道から世田谷〜柏〜板橋と流れ流れ(笑)なので新しい土地はかえってワクワクするのだけど、連れは何せ代々ずーっと東京だ。親戚も知り合いも友人も全部、東京とその近郊にいる。しかしこうして遠路はるばる友人が訪ねてきてくれると、本当に楽しい。久々に時間を忘れた。
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2008-05-28(Wed)

元気です

このところいろいろ多忙で更新滞ってますが、元気です。
やはり健康上の問題とかいろいろ心配してくださる方も多くて、恐縮しきりです。
日記はマメにつけてるんですが、それをアップするにあたっての作業が…。
というわけで、いつもご覧いただいてる方、本当に申し訳ないです。
ちょっとづつでも、アップしますんでもうしばらくお待ちください。

京都は新緑が綺麗で…なんて言ってたら、そろそろ梅雨の前触れ? 夏が怖い。
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2008-05-26(Mon)

野菜と四季

5月26日(月)
夕べは導眠剤(レンドルミン)を飲んで寝たので、朝7時ころまでぐっすり寝られた。最近は足元のテーブルに毛布を畳んでやったらユキがちゃんとそこで寝るようになったので、猫に気を使って眠りが浅くなることもないが、その分暑かったりして目が覚めることがある。薬を飲むとやはりちゃんと寝られるのはいい。きたるべき(?)化学療法に備え、日ごろ化学薬品類はなるべく口にしたくないという気がして、漢方などにとどめていたが、眠れないのはストレスが大きい。それに医師のお墨付きなので、いいだろう。9時近くまでとろとろして起きて、朝は食べると学校で用を足さねばならないので、食べずに10時ころ支度をして出る。
夏のような日差しで、気温もぐんぐん上昇中といった感じ。今日は講義資料を作ってなかったのだが、持ってった文庫「「ガロ」編集長」から白土さんの名文「マンガを画こう」の部分をコピー。それを題材に、呼びかけに集まった「ガロ」草創期の新人の話や、それら個性溢れる作家がいかに凄かったかという話をする。今日は珍しく(?)集まりが良く、9人ほど+ノートテイカー2名だった。結局びっちり90分話して、エレベータに乗ると4FからOBで今は学部のアシスタントをしている、台湾からの留学生G君が乗ってきてびっくり。実は彼とは彼が院生時代の3年ほど前から、精華大にたびたび行くと会ったりしていて顔見知り。今は学部内をあっちこっちいろいろ動いてるんだそうで、助手扱いというか、大変のようだ。世間話をしながらT棟を出て坂を正門の方へ降りていくと、ちょうと連れがタクシーですれ違っていったのだが、こちらへは全く気付かない様子だった。G君とは教務の前で別れて、俺はそのまま叡電で茶山、歩いてまっすぐ帰宅する。あまりの暑さに思わずクーラーをつけた。昨日、明青さんにいただいたおにぎりとトマトがあったので、トマトを1つ切っておにぎりとインスタント味噌汁で昼食。おにぎりはもちろん、このトマトが甘くて絶品。冷やさずに室温で食べて、と言われていたが、冷やさずにおいて正解。
京都は野菜が本当にうまいし、旬のものが季節を感じさせてくれる。春から夏野菜、の季節ですなあ。ついこないだまで筍がうまいと思ってたら、春キャベツ、新玉葱、加茂茄子、そしてトマトだ。これからはキュウリや万願寺唐辛子かあ。楽しみ楽しみ。
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2008-05-22(Thu)

比叡山へ登る

5月22日(木)
よく伺う割烹・明青さんの渡辺さんご夫妻に、「初夏の比叡山はいいですよ」と聞いていたので、この日は天気もいいし、行ってみようということにする。京都は新緑ももちろん、桜や紅葉、また冬の雪景色もいい。一年中、四季そのものを体感し、目で実感できる土地でもある。この季節、本当に山々は緑が日に日に濃くなっていき、「いのち」を感じさせる変化がそこここで見られるのが心地よい。
ロープウエイ駅へ10時過ぎ、近くの叡電茶山駅から、八瀬比叡山口まで行く。所要時間たった10分ほど。その、うちから電車でたった10分ほど行っただけで、八瀬の駅を出るともうどこか郊外の緑と川の綺麗な避暑地の風情だ。駅を出て川にかかる木の橋を渡り、ケーブルカーの八瀬駅へ向うと、すぐに発車だというので、慌てて往復の乗車券を二人分買って、乗り込む。他の観光客らしいおばちゃんたち、カップル、そしてなぜかプロレスラーのような体格で、顔も武藤そっくりの大男一人など十数人か。観光シーズンの谷間なので空いているのだろう。俺たちは他の客のように、すでに切符を持っているわけではなかったので最後に乗り込んだが、それでもちゃんと座ることが出来た。
ロープウエイからの眺めケーブルカーは日本一だという高低差561mをゆっくり登って行く。途中下りの車両とすれ違い、やがて比叡ロープウエイの駅へ至る。ここも待ち時間がほとんど無く、ロープウエイの駅舎のすぐ脇に有名な「かわら投げ」があったがやらずにそのままロープウェイに乗り込む。比叡山頂へ到着し、他のおばちゃんたちはぞろぞろ、ロープウェイ駅すぐ目の前のガーデンミュージアムという施設へ入っていく。乗車券とセットの入園券を持っているらしい。観光客はソツがないというか準備万端。我々は気まぐれなので行き当たりばったりだ。
かなり高いところへ来たが、快晴の陽射しは強く、暑い。しかし風が心地よく、新緑がまぶしい。気持ちがいいが、延暦寺の根本中堂は以前連れ合いの母・姉が来た際に行ったので、今回は横川中堂へ行こうということにして、バスターミナルへてくてく歩く。展望台のあるターミナルは、さっきおばちゃんたちが入場してったガーデンミュージアムの反対側の出入り口側だったから、その外側をぐるりとけっこうな距離を歩いたことになる。
横川中堂案内図とりあえずターミナル脇にある茶店で何か食べようかと覗くと、今はご飯ものはやってない、ソフトクリームとかならある、というのでガックシ。ペットボトルの茶で我慢して、バスが来るのを待つ。その間大型観光バスが乗りつけ、堺市からの100人近い中高年の団体さんを降ろして、ガーデンミュージアムへ誘導していった。その後運転手とバスガイドが俺たちの脇で一服はじめ、携帯で宿泊先に「九十何名様、ええ、今比叡山ですわ。予定通りで、よろしく〜」と連絡していた。
新緑と紅葉その後来たバスで、横川(よかわ)中堂へ向う。比叡山延暦寺、というのは一つのお寺のことを言うのではなく、比叡山(標高は848m)そのものを境内とする寺院の総称で、よくいう「本堂」というのが「中堂」といい、有名なのが根本中堂と横川(よかわ)中堂だ。俺たちは根本中堂はすでに訪ねていたので、今回は横川へ向ったというわけ。
バスで20分ほど揺られたろうか、終点の横川中堂へ着くと12時15分ころ。中堂まで歩き、お参りをする。今月の末、東京から連れ合いの親友で詩人の井坂洋子さん夫妻が来るので、その時にお二人に渡そうと思い、数珠とお守りを2つずつ買った。連れ合いは水晶の数珠を買う。中堂の周辺には立派な大木が多く、不思議なのは新緑の季節なのに紅葉のような紅いもみじがあることだった。何だろうねえ、不思議だねえ、でも綺麗だねえ、と話しつつもっと奥まで行こうかと歩くが、意外に坂がキツい。そういえばここは山全体がお寺なのである。散歩がてらというにはけっこう大変なので、中堂周辺を歩いて、じゅうぶんフィトンチッドも満喫したので、引き返すことにする。
横川中堂
先ほどのバス停へ着くと、オバハン3人組が同じバスに乗るらしく、待っている。そのうちの1人が携帯の着メロを高らかに鳴らし、あろうことか座っている俺たちのすぐ脇へ来てバカでかい声で話し出した。大阪のオバハンらしい。どうやら少し離れたところにいる連れの2人に「配慮」して、わざわざ俺たちのところへ来たというわけだが、俺たちへの「配慮」や「遠慮」はないんかい。咳払いなどしても全く効き目はなく、最後まで馬鹿でかい声で下品な大阪弁でベラベラと騒音を撒き散らして話し終えると2人組の方へ戻ろうとしたので、背後から「うるせえババアだな、死ね!」と声をかけて差し上げた。ババアは向こうへ戻ってから「ナンやねん、うるさい言われたわ」と文句を垂れていた。いいから死んでくれ。
新緑のまぶしさその後20分ほど待ってようやく来たバスで、再び最初のバスターミナルへ戻る。クソババア様ご一行はガーデンミュージアムへ入って行ったので、ロープウェイが一緒じゃないと思って心底安心した。そのままゆっくり歩いてロープウェイの駅へ行くと、10分ほどで発車というので待つ。外人と日本人のカップルが別々に待っていた。間もなくロープウェイに乗り込み、今度は下り。外人さんと俺はお互いに女性を座らせて、男は立ったまま降りる。ロープウェイを降りたところで、俺は今度はかわら投げをやろうと、金を置いて挑戦。一緒に降りてきた外人さんが見ている横で、エイヤと投げるが、輪の中を通すのは意外に難しい。2回外れ、最後の一枚が輪のフチで当たって砕けた。「ああっ惜しい!」と言うと外人さんも横で「オウ〜!!」と残念がっていた。するとケーブルの駅から係員が「もうすぐケーブル出ますよ〜」というので、慌てて走る。外人さんはかわら投げに挑戦するようで、見届けてあげたかったがしょうがない。
かわら投げを通す輪ケーブルカーで八瀬まで下りると2時過ぎ。さすがに腹が減ったので、平八茶屋へ入ろうとすると休み。しょうがなく来るときに渡った叡電の駅へ向う途中にある川方面へ行くと手前に和食屋さんがあったので、入る。2時半までお昼をやっているというので、ホッと一安心。座敷でお昼をいただいた。1500円なのにお造りや一人鍋のお豆腐までついていて、美味。ゆっくりくつろいで、叡電で戻る。いやあ実にいい新緑の小旅行(?)であった。自宅からすぐ近くでこんな旅が出来るなんて、やっぱり京都は素晴らしい。
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2008-05-20(Tue)

病状変化なし、激マズカレー

5月20日(火)
シマ前の日は12時前に眠くなって寝室へ行くと、シマが先にいつものように連れ合いの足元にある畳んだ毛布=シマの寝床で丸くなったので、ドアを閉めて寝られない。するとしばらくしてユキが入ってくる。そうしてなぜか俺の足元、スネのあたりで寝るので、俺は眠りつつもユキを蹴ってはいかんと寝返りを遠慮してしまうので、無意識で動きが規制されて深く眠れない。いつものことだが。さらにこの日は最低気温が17度とかで寝苦しく、クーラーまでつけたが結局5時くらいにロクに寝られずに起きてしまう。
その後8時ころ連れ合いも起きて来る。朝はウコンドリンクといちごヨーグルトという意味不明な組み合わせ。今日は俺の診察日で、今日大病院の血液・腫瘍内科へ行く日。診察予約は11時半なので、10時半までには病院へ着いて採血を終えていなければならないから、10時ころには支度をして出る。携帯で70年代のハードロックを聴きながら、高野交差点のバス停から市バス206系統で熊野神社前まで。いつものように再来受付機へ診察券を通すと、いつものように液晶画面に診察予約の内容が表示される。で画面の確認というボタンを押す…というか触れると、ピッチがせり上がってくるので取り、あとはピッチの表示に従って待つ、という段取りだ。
しかしこの日は液晶タッチパネルの「確認ボタン」に触れてもウンともスンとも言わない。液晶画面のタッチパネル不良かと思って何度もタッチしていると、いくつか横の機械で別のおばちゃんに対応していた係のおじさんがこちらに向って何か言ってる気配。あっ、と気付いてイヤホンを取ると、「今日は患者さんが多くて回線がパンクしてますから、時間おいて何度かやってみて」というので、いったん券を戻し、再度入れてみる。すると「回線が混んでるのでやり直せ」という表示。それを数回繰り返して、4度目くらいにようやく確認ボタンが押せ、ピッチを受け取れた。こんなのはじめてだ。
とりあえず2階で採血を済ませ、あとは同じフロアの血液内科の外待合の椅子に座って音楽を聴きながらひたすら待つ。回線がパンクしたということは、今日は患者が集中したんだろうか。もしそうだとすると、予約時間にきっちり呼ばれないかも知れないな、と覚悟をしつつ待つ。案の定、11時半になってもピッチは微動だにせず、「病院内でお待ちください」のまま。12時前にようやく鳴動して「外待合でお待ちください」になった。とっくに待ってるって。そして12時半になって、「中待合で」になったので、診察室前の廊下のベンチへ移動。前の患者が出て行った後、名前を呼ばれたのは12時40分過ぎだった。
I先生は「お変わりないですか」というので、胆嚢を取ってからはそれまで避けていたものも食べられるようになって、食欲がありすぎるくらいで太ったかも知れません、というと笑って「ああ、じゃあ体調はよろしいということですね」というのでハイと頷く。採血の結果はあまり変化なし。このところ酒というかビールをほぼ毎日飲んでいるのでγ-GTPが心配だったが、51と思ったより高くなかった。あとは尿酸値だが、これもさすがに8と高くなっていたが、先生は特に言及しなかった。8だと薬で下げましょうということになるかと思っていたが。
ともあれ触診もしていただき、脾臓の大きさも定規をあてて測っていただいたが、変化なしということで一安心。で「こちらにはどれくらいいらっしゃるご予定なんですか」というので「それが、長くなると思います」というと「奥さんが大学で教えられてるんですよね」というので「そうです、精華大で漫画を教えてます」といい、「なので恐らく年単位でこちらに居ると思いますし、京都はいいところなので、もうこちらに骨をうずめようかと話してるんです」というと「そうですか、京都はどうですか」というので「ええ、四季がはっきりあって自然に囲まれてますし、本当にいいところで」というと「そうですね、特に今は一番いい季節ですしね。京都は春と秋がいいですからね」という。で「でも夏は本当に過酷ですけどね」というので「ああ、実は去年の秋からなんで、まだ夏を経験してないんですよ、今から戦々恐々としてます」と話すと笑っていた。
とにかくそういうことなので、今後とも引き続いて診ていただけるよう、よろしくお願いいたしますと頭を下げる。あと、眠れないことがよくあるので、軽い睡眠導入剤をもらえないかとお願いする。本当はいけないのですが、そういう時は連れが処方されてるハルシオンを貰ったりしてるんですが、というと「あれは依存性があるのでオススメできませんねえ」とのこと。夜中に目が覚めて、それ以降寝られないことが多いというと、じゃあある程度長く効くのにしましょう、とのこと。スッと寝られるが持続性がなく短いものと、長く効くが起きた後に若干影響が残るものとあるが、その中間くらいのもので、かつ依存性がないいい薬がありますから、といって処方してもらった。医者も出張で飛行機の中でどうしても寝ないといけない、という時に使ったりするというくらいだから、悪い薬ではないのだろう。
次回は7月半ば。お礼を言って辞す。会計を済ますが、保険証を忘れてきたのに気付いた。ということは処方箋があっても薬局で薬がもらえない。しょうがないので薬は明日以降にしよう、さて昼飯はと思い、いつもの処方箋薬局並び、春日北通りから南へ伸びる路地の角にある喫茶店からカレーの匂いがしたので、ついつい入ってしまう。入ってみると、店はカウンタだけで雑然としていて、一瞬開店前かと思ったほど。俺がメニューを眺めているとおばちゃんが「ご飯ものはカレーしかありませんが」というのでじゃあカレーとアイスコーヒー、とオーダー。ご飯をてんこ盛りにするので「ご飯少なくしてください」とお願いし、スポーツ新聞を読む。
間もなく出てきたカレーは濃いこげ茶色で、粘性が強そうなものだった。一口食うと…しょっぱい。まずい。肉はぱっさぽそ。これは冷凍を繰り返したか、何日も暖め直したのか、いずれにしてもすこぶるつきにまずい。まずいカレーというものは基本的にそうとう頑張らないと作れないと思うのだが、これはこれまで食った中で屈指のまずさである。腹は減っていたがとても食えず、頑張ったが4分の1ほどを残し、アイスコーヒーをすすりこんで700円を払って逃げるように出た。とほほほほ。
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2008-05-19(Mon)

女性作家の系譜

5月19日(月)
ユキちゃん夜中は布団の上にユキがいたせいでほとんど寝られなかった。夜中に目が覚めたのは2時半。寝室の暑さとユキがいるのを無意識に避けるようにして寝返りをうったりするので寝苦しくなって目が覚めた。その後は全くといっていいほど寝られず、布団の上で悶々とするだけ。1時間ごとに軽くうとうと…としてすぐ朦朧。結局7時ころには起きてしまう。8時過ぎには連れも起きて来る。朝は食べず。
9時半過ぎには支度をし、10時10分前に出て精華大へ。教務にメールで送っておいた手塚治虫と「COM」の資料のファイル、コピーが出来ていたのでお礼を言って受け取る。チャイムが鳴ってからT棟へ行き、教室へ入る。今日はノートテイカーの子を除くとたった3人。途中から2名くらい来たが、相変わらず受講登録は13人なのに半分も来ない。まあそれでもこっちは手を抜かないけど。
びっちり手塚と「COM」について講義。

ついでに女性作家の系譜について、岡田史子、やまだ紫、つりたくにこという3人の「女性作家」がどれだけその後の漫画界の、とりわけ女性作家の表現拡大に寄与したか、あまりに評価やきちっとした論評が少ない、いやほとんどなされていないのではないか、という話をする。
80年代の3人娘・桜沢エリカ、岡崎京子、内田春菊の登場を少女漫画からの文脈で語る人が時々いるが、違うだろうと思う。やまだ紫(当たり前だけど尊敬する作家であり、自分の連れ合い=妻でもあります)も常々「それは全然見当違いだよ」と苦笑している。勉強不足だよねえ、ということだ。

ちなみに80年代の3人娘のうち、漫画誌でデビューしたのは岡崎だけ。しかも漫画誌といっても、あの「漫画ブリッコ」である。男性向け「ロリコン雑誌」(当時)だ。エリカちゃんは自販機本だし、内田さんにいたっては「小説現代」だ。3人とも、「美人」で「妙齢」の「女のコ」が、SEXについて臆面もなくギャグにしたりネタにしたり、最初は「若い可愛い女の子が下半身ギャグをやっている」と話題になったが、興味を持った大手が引っ張っていくと、ちゃんとシリアスなストーリー漫画も描けた、そのことにギョーカイまたビックリ…なんて時代だった。つまりそこには従来からの少女漫画の影響は、最初からほとんどなかったといっていいはずだ。
岡崎さんは「ガロ」で水木しげる特集をやった際にイラストを頼みに行ったら水木さんの「大ファン」だと言っていたし、エリカちゃん(トシウエですが失礼)も「ガロ」を読んでいたといっていた。内田さんはいしかわじゅんさんのファンだったことは有名で、実は「ガロ」にはこちらから単行本を出させてもらえないか、という話をもちかけたので、元々の漫画体験はよく知らない。
しかし、プラトニックな少女漫画を人並みに少女時代は触れていたことは当り前として、彼女たちの創作活動を、その原点を全て「女だから少女漫画が源流」という文脈で語るのはどうにも頓珍漢だろう、いや思考停止ですらあるという印象をずっと抱いてきた。

例えば岡田、やまだ、つりたという偉大な「少女漫画以外の文脈」から出た「女性作家」は、その後近藤ようこ、杉浦日向子などへ連なると思う。
(★ちなみに「ガロ三人娘」とよく無神経に使う人がいるが、やまだ以外のお二人はやまだのアシスタント経験者である。年齢もキャリアも違う。)
その文脈に岡崎さんが入る方が、リアルタイムで読んできた俺にはごくごく自然に思えるのだ。少女漫画の、例えばわたなべまさこや水野英子という流れに岡崎京子や桜沢エリカや内田春菊…ってどうにも違和感アリアリである。俺がおかしいんだろうか。
高野史子やさべあのまは。山田双葉は。作家の名をちょっと思いつく感じで挙げてみただけで、「少女漫画」というカテゴリがひどく小さな枠であるようで、大きな枠であるような、つかみ所のない分類であることが解る。
例えば「ガロ」におけるつりたくにこ(69年9月号入選)が「COM」では岡田史子(67年デビュー、68年新人賞)であり、それまでの「女といえば少女漫画」、という流れを変えた。また69年には「COM」でやまだ紫もデビューしているが、こちらは岡田史子のファンタジー・童話的な部分、少女漫画に近い画風とは違い、個人の内面をモノローグなどを交えて「日常」をドラマティックに描くことで、これもまた女=少女漫画ではない、紛れもない漫画界での「女性作家」の誕生を強く感じさせた。
やまだ自身、幼児期、少女期に少女漫画(あるいは少女向けの漫画)は人並みに読んだものの、表現者として作品を創る時期にあっては、少女漫画誌への投稿は早々に諦め、漫画では白土三平や手塚治虫に憧れ、岡田史子に強い衝撃を受け、「COM」に投稿するに至っている(やまだ紫、「COM」との出会い)。

いずれにせよ、「少女漫画」という大雑把な分類で、岡田、やまだ、つりたという作家を全て語ることはそもそもがおかしなこと。であるのに、ではちゃんと研究し評価されているかが疑問だと言っている。
死んでから改めて評価するなんて、誰にだって出来る。
性別上女である漫画描き、を女性作家であるという定義をすれば、そりゃあ長谷川町子先生から少女漫画の先生たちまで全部が入ってしまう。そんな中学生のようなことを言ってるのではもちろん、ない。少女漫画、という漫画の一ジャンルを指す分類「以外」の作家たち、そこの系譜が少女漫画ほどちゃんと整理・研究されていないと思う。
ただ女性がこんにちのようにおおっぴらに性や心の内面、深淵を描くことが少女漫画においても当然になったことを考えれば、現代の「女流漫画家」の源流はむしろプラトニックや空想もの、不幸もの、ホラーなどが主だった少女漫画ではなく、これら「ガロ」や「COM」の女性作家にあるのではないだろうか。
黄金期の少女漫画は、まだまだ「うぶ」だった当時の少女たちの心に、淡い恋心の切なさ、プラトニックな恋愛段階の甘酸っぱいドキドキ感、そして何より極端にデフォルメされ美化されたキャラクターたちの造形が、現実を忘れさせて「夢」を与えてくれた。そのことはもちろん批判されることではないし、表現として劣っているというバカなことを言っているのではない。
少女漫画においても、少年漫画同様に壮大なストーリーを描くもの、スポ根もの、ギャグ、時代もの、スペクタクル、同性愛というタブーを描くものなどが続々と現れたわけで、何もプラトニックな乙女チック漫画ばかりであったなどとは言っていない。
だがしかし、そこへ先の岡田、やまだ、つりたなどを分類することへの違和感は、やはり大手版元、編集などの介入がない、これまで誰も描いたことのない独自性、確固たる独自の作家性の有無など、そういう部分で少女漫画と一くくりに出来ない「何か」違うものがあるからなのだろう。

時代は移り、変わって、中高生が援助交際という名の「売春」をするというニュースがさほど珍しくなくなってしまった今、いや少なくとも80年代に入るころにはもう、先の3人娘、
桜沢エリカ(63年生まれ、82年自販機本「少女アリス」デビュー)が19歳でエロ本にデビュー、
同時期には岡崎京子(63年生まれ、83年「漫画ブリッコ」デビュー)、
内田春菊(59年生まれ、84年『小説推理』)もデビューしている。
他にも原律子なども加えられると思うが、彼女らは「平気で」セックス描写を赤裸々に描き、容姿端麗な若い女性であったことからも漫画ファン以外からの興味も引くこととなり、社会現象に近い騒がれ方をしたものだった。
こうした女性作家の系譜に現代の南Q太や安野モヨコらが連なるのは簡単に理解できるのだが、実は、それ以前に、しかも60年代から70年代という少女漫画の黄金期に、全く違う文脈で独自の作家性を確立し、女性作家として屹立していたのは、岡田史子、やまだ紫、つりたくにこではなかったか。ちなみに、この3人の中で、「ガロ」と「COM」両方に入選したのはやまだ紫だけ、そして出産育児の急筆はあったが、その後も現役であり続けたのもやまだだけである。もっと言えば、今生きて会えるのもやまだ先生だけなのである! つりたさんは残念なことに82年に難病を発症し、85年に亡くなっている。従って創作期間は少なく著作も少なかったし、岡田さんは72年にいったん漫画家を引退(やまだ紫曰く「好きな男が出来て北海道へ出奔してしまった」)、後に一度復活するも大きな話題にならず、2005年没、亡くなってから作品集復刊で再評価されている。筆を折ったら、つまり消えたら、あるいは死んだら評価してやる、ということか。
とにかく少女漫画をバカにしているのではない、そういう低能な上げ足取りは無視するとして。女性作家の系譜をキチンと考察する人ってホントに少ないと思う。なぜか男の漫画研究を名乗る人たちって、少女漫画に思い入れのある人が多い。なのでどうしても少女漫画が凄い、少女漫画家が偉い、という視点で最初から論なり系譜なりを構築しようとするきらいがある。別に否定はしないが、個人的な思い入れや好き嫌いで歴史を変えるな、と思う。
このあたり、岡田さんもつりたさんも、「知る人ぞ知る」と言われ、知る人からは絶大な支持と「天才」という評価を受けていた。しかし結局その独自の作家性からメジャーの編集では太刀打ちできず、また操られることも彼女らは嫌ったせいもあって、(やまだ紫はビッグコミック賞にも佳作入選したし、モーニングなどにも連載しているが稀有な例だ)メジャー畑で活躍の場を持たなかったという、そんな理由だけで一般的な認知度と評価が低いのは、全く日本というのはまだまだ漫画研究ではずいぶんと遅れているということだろう。古くは一ノ関圭や最近では(最近ではないが)斎藤なずななど、メジャー畑でも明らかに少女漫画の文脈ではなく、むしろ岡田、やまだ、つりたの系譜の作家もいるので、「メジャーかそうでないか」などの話ではないはずなのだが。
要するに遅れているというより、メジャー至上主義、であったのだと思う。

「売れたものが優れている」というのは、市場原理主義の立場で言うことだ。

漫画や小説や表現は、商品であっても文化だと普段大上段にふりかぶって言っているくせに、結局マスコミが取り上げない、メジャー雑誌に載らない、それだけで忘れ去られ、死んだことで思い出されて、改めて再評価する、そんな愚行をいつまで繰り返せばいいのだろうか?
近年、女性学の方面からやまだ紫「しんきらり」を紹介したり、大学での講義のテキストに使う試みなどを何度か聞いた。しかしやまだの代表作であり、「ガロ」の連載作品の中でも出色と評価されている「しんきらり」は今、「品切れ」であり「重版未定」である。俺の連れだから言うのではない。実際、俺は「ガロ」時代は一切やまだの連れ合いであることは公の場では言っていない。この作品や「性悪猫」(詩壇から高い評価を受けた作品、実際これが元で詩人の吉原幸子がやまだを詩画の創作へ誘った)といった名作を、全て生殺しにされている状態だが、出版人としての良心やいかに? 
『売れないから駄作』ですか、そうですか。
それが、あなたたちの、眼力であり評価ということか。

それでは出版は文化だとか、金輪際抜かすな。
商売のみでやってるんだったら、再販価格制度も必要ないだろう。
安売り競争の果てに、それこそ本当に文化を荒廃させるがいい。
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2008-05-15(Thu)

葵祭り

5月15日(木)
今日は葵祭りの日だ。葵祭りというのは

古墳時代後期の欽明天皇(540 〜571年)のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。上賀茂、下鴨両神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられている。

【京都新聞より】

ということで、名前の由来は祭の行われる毎年5月15日、内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉と桂の小枝で飾ったことからきているそうだ。
京都御所を出発した祭りの行列は、お昼前に下鴨神社へ到着し、休憩の後今度は上賀茂神社へ向かう。そのルートは当然通行止めとなり、沿道には市内だけではなく全国から観光客がつめかけて、行列を見物する。去年はまだ我々は東京にいたので見てなかったので、連れと昼前に行こう、と支度をして出る。京都テレビではすでに御所を出発する様子を生中継しており、これから向えば下鴨神社へ入ってくるところは見られるだろうと、叡電出町柳駅前の葵橋へ向かう。
河合橋から西を見るすると11時過ぎにはもう出町柳の駅前から糺の森へ向う道はもう人の山。とても行列なんか眺められる様子ではない。河合橋の欄干に乗って遠望してみるが、警官に「落ちたら危ないさかい、そこ登るのやめといて」と言われてしまう。行列は河原町通りを北上し、河原町今出川から出町橋を渡り、河合橋の手前を左折するかたちで糺の森を通って下鴨神社へ入っていく。なので、ここ(河合橋)から遠望するか、いっそのこと出町橋の東詰、行列が左折するあたりまで行くかと思案。結局連れと二人で人ごみの中、出町橋の東側へ向う。
出町橋東詰しかしそこもやはり大変な人、人、人。しかも信じられないことに、さすがに押しながらとはいえ自転車で通行しようという人がけっこういて、邪魔で仕方がない。しばらく待っていると、ようやく何かが近づいてきた。人が乗った馬だ、と思ったら騎馬警官だった。続いてようやく平安の衣装を来た人たちが到着したが、花で飾った牛車が人の頭ごしに見えたりで、やはりほとんど見えない。手を思い切り伸ばして写真を撮るが、これじゃあ見物とはいえない。目のオッサンの禿頭とか、後ろの人のことも考えないオバハンの日傘とかを見ていてもしょうがないなあ、と後半ほとんど諦めて高野川と賀茂川が合流する南側へ避難。んで出町橋の東詰の欄干へ再び出るとちょうど連れが見えたので合流し、これじゃああかんね、ということで見物を諦めた。
葵祭りは京都市が有料で観覧席を売ったりしているので、道端で見ようと思ったらそうとう早い時間から前の列を取っていないとあかんというわけ。タクシーの運転手さんに聞いたところ、ここ数年雨が続いたりしたけど、席を有料で売ってる分中止するわけにもいかず、「とりあえず何としても下鴨までは行ってくれ」みたいなことがあって、行列させられる方は可哀想やった、ということも聞いた。うーむ、京都の祭りは全国から客が来るからハンパじゃないなあ。
その後は河原町へ出るが、やはり葵祭りを追いかけて客が減ったのか、行列が去った後の河原町六角・蛸薬師あたりの人通りは少なめ。喫茶店で一休みし、二人でカレーを食べた。
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2008-05-12(Mon)

寝過ごして銀閣寺

5月12日(月)
精華大講義日。「ガロ」の創刊についてびっちり。長井さんの話では、学生たちも大笑い。長井さんの満州話ってやはり最強ですなあ(笑)。俺も若い頃、直接長井さんから何度も聞かされていて、そのたびに笑わせてもらったものだ。大学の帰りはスクールバスで国際会館まで行き、5番のバスで白川通りを南下…って寝過してしまい、ハッと起きたら銀閣寺道だった。目が覚めたら銀閣寺ってのも何か物凄いが(笑)、慌てて降りて昼飯はラーメンを食べた。かなりこってりのとんこつ味。
満腹になってバス停へ行き、白川通りを北上するバスで戻ろうと思いバスを待つ。なかなか来ない。京都の市バスは「ポケロケ」と言ってバスの接近情報がモバイルで見られるので…と思ったら、携帯が無い。この日も夏のような日差しで、暑いのでラーメン屋でジャケットを脱いだのだが、その時に胸のポケットに入れておいた携帯がカウンタ下の棚に落ちた…らしい…ていうかそれ以外だったらもう不明、バスで寝たときか、じゃかなりマズイ、いやしかしその時はネックストラップをつけていたとか、ぐるぐる頭の中で瞬時に考えつつラーメン屋へ戻ってカウンタ下を見たらあっさり発見。店主に「すいません、忘れ物したんで」と言って携帯を無事取り戻した。
携帯って無い時は無いなりに過ごしていたのに、使い始めるともう無いと何も出来ないことに気付く。もちろん電話帳にもなるしメモ機能もあるし、電卓にも簡易辞書にもGPSにも音楽プレーヤにもワンセグテレビにもゲーム機にもなるし、もちろんボイスメモも簡易メモにもなるわけで、手帳も持ち歩かなくなったし、「そんなもの無くても構わん!」という人はよほどの変人か単に機械が苦手な人=使えないだけ、というわけである。
そんなことを考えつつ5番のバスが来たので乗り込んで家へ戻る途中、また寝てしまいました。
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2008-05-11(Sun)

母の日にカニ

5月11日(日)
朝は寝室のドアを締め切って寝たので猫たちが入って来ず、よく寝られた…はずだったのが、細切れに変な夢をたくさん見て熟睡できなかった。朦朧としたまま朝になり、連れ合いがトイレに立った際に帰りにドアを開けたままにしたのでユキが入り込み、時折俺の脇でニャーニャー起こそうと鳴くので往生。けっきょく8時ころふらふらと起きる。猫のご飯がないのだと思って残っていた乾燥エサのウォルサム・フィッシュテイストをやるが、食べない。いつものphコントロール・スターターは無くなったので注文してあるが、それが来るまではしょうがない。
その後はMLB、BOS対MIN、松坂の登板試合を見ていると連れ合いも起きて来る。松坂は3回あたりまでピリッとしなかったが、立ち直った様子だった。それから11時4分の北8で一乗寺清水町の魁力屋へ。俺はいつもの味玉醤油の大、Mは醤油の並。腹一杯で帰宅するとの宅急便の不在通知が入っていたので再配達を頼む。差出人は連れの次女Yちゃんからで、母の日のカーネーションとなぜかズワイガニのかにしゃぶセットだった。ズワイ…こっちは越前ガニの本場がすぐ近く…なぜに? とまあ謎は残るが気持ちは嬉しいものだ。Yちゃんは何かにつけ我々病人夫婦を気遣ってくれて、本当にありがたい。
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2008-05-10(Sat)

癌宣告から1000日

5月10日(土)
朝から雨。けっこう強く降っている。ここのところずっと夏のような陽気が続いていて、本当の夏はどうなるのかと恐れ慄いていたが、ここ数日は気温が下がり平年よりむしろ寒いくらいだ。この日も雨のせいもあって、肌寒いほど。朝はご飯を炊いてもらい、ピーマン炒めと目玉焼き、インスタント味噌汁に漬物類でモリモリ食べる。

実は今日で、癌告知と余命宣告を受けてから1000日が経過した。

無治療で普通にこうして生活をしていると、脾臓が限界まで腫脹していることを除けば、日常生活上もほとんど自分が癌を患っているという感覚がないほど、“慣れ”てしまっている。胆嚢摘出手術をしてからは、胆石発作を恐れて避けていた食べ物も遠慮なく食べられるようになったから、心配の種も一つ減った。だが決して消えないのが、やはり「自分は癌である」という事実だ。
日常、ガクンと病気が進行した初期の頃のように、息が切れたり目眩がするということも余りなくなった。たぶん、急激に体のいろいろな「力」が落ちていった時期は、その変化についていけなかったのだと思う。今では昔のようにスタスタと早足で街を歩き回ることもなくなった。連れ合いはその頃から「もうちょっとゆっくり歩いて」と文句を言っていたが、病気を得て今、ようやく連れの速度にあわせてそろそろとゆっくり街を歩いている。
病を得て、学んだことはたくさんあった、と実感している。

夜はタクシーで連れと北白川の「茶又」へ。スキヤキが食べたいというので、一人前だけにして、あとは馬刺し、てっぱいなどを頼んで飲む。スキヤキは関東と違い、まず肉を焼き、そこに割り下を入れて野菜を煮るという感じ。女将さんにやってもらうが、割り下はあっさりした味で、やっぱり関東風の砂糖醤油の甘い割り下が懐かしいね…と話す。スキヤキは一人前にしたのだが、サービスなのか、野菜が凄い量で、俺は腹いっぱいになってしまった。生ビールたった3杯でもう飲めず。…って3杯飲みゃ充分だろ! というツッコミが聞こえてきそうではあるが、連れ合いも俺がそんななので、冷酒1ヒレ酒2でやめて帰宅。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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