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2008-06-24(Tue)

「つげ義春の世界」「現代漫画論集」

6月24日(火)
来週は精華大の講義で、いよいよ作家研究の第一、つげ義春を取り上げる。これまでは戦後漫画史の概要から貸本漫画〜劇画〜「ガロ」の創刊、カムイ伝について、「COM」の時代、そして「ガロ」については第一期(カムイ伝終了まで)、第二期(南・渡辺の面白主義)、第三期(部数低迷とサブカル・情報誌化による復活〜クーデターによる休刊)と分けて詳細に講義をしてきた。
学生は三回生で、マンガ学部のストーリー学科とプロデュース学科両方から選択で受講可能ということもあり、両方から半々くらい。ただし出席率は悪く、10名来れば多いな、という感じ。だがこの人数がお互いに集中できてちょうどいいという感じでもある。
資料を作るので、久しぶりにかっての青林堂の評論集の双璧「現代漫画論集」と「つげ義春の世界」を引っ張り出した。「つげ義春の世界」の方は講義に必要なので熟読したのだが、勢いで「現代漫画論集」まで続けてしまう。
「現代漫画論集」はもちろん、あの「漫画主義」の同人による漫画史に輝く名著である。漫画主義の同人とは石子順造(ほんっとーに今でも勘違いが多いが石子順とは別人!)、梶井純、菊地浅次郎、権藤晋。物凄い顔ぶれだ。そして当時、石子さんはともかく、残りの三名は二十代の後半であったということが何よりも驚愕に値することだろう。
石子さんは俺が「ガロ」に入る頃にはもうとうに鬼籍に入られていた伝説の人であったが、長井(勝一)さんも、周囲の誰もが「石子さんは凄かった」と心からその夭折(と敢えて言う)を惜しんだ才能でもあった。
「つげ義春の世界」には石子さんのつげ論「存在論的反マンガ」が収録されている。これが巻頭の赤瀬川(原平)さんによる「李さん一家」論の後なので、かなりとっつきにくく感じられるのがちょっと今となると懐かしい。赤瀬川さんは例によってあの飄々としたスッとぼけた文体で本質を突く、みたいな芸風(?)なのだが、石子さんの文章は昔もかなり難解な印象を受けたものだ。
だが今読み返してみると、「現代漫画論集」収録の「つげ義春論」をはじめ、素晴らしいその才能に感服しきりである。いや、石子さんの評論を知れば、昨今の若い漫画評論家いや漫画感想文書きたちはその足元にも及ばぬことが解る。
いまだに、石子さんを超える評論人は出ていない…とさえ思った。
俺の場合前にも書いたことがあるけれど、「ガロ」編集部時代にかなりたくさんの物凄い作家さんたちにお会いする幸運を得たわけだったが、一度もサインをねだったりしたことはなかった。職権濫用だし、公私混同だと意地になってそうしていた。水木しげるさんにも、つげ義春さんにも、本当に大変な作家さんたちにお会いする至福の時間を何度も得たにも関わらず、残っているのは取材に使った「俺が撮った写真」が数枚と、前に披露したことのある水木さんとのツーショット写真くらいなものだ。今思い返すと本当に残念至極である。
白土三平先生のご自宅にお伺いし、白土さんが採ってきたトコブシを奥さんの春子さんが煮付けたのを肴に、ビールをご馳走になって長い話を伺った夢のような時間。今思い返しても、本当に夢だったのではないかと思えるような体験だ。
つげ義春さん(先生と呼ばれるのを皆さん、そういえば嫌った)のご自宅でカメラ談義や、喫茶店でインタビューや世間話をさせていただいたことも何度もあった。これも今となっては本当に貴重で、ありがたい時間である。
石子順造という巨大な才能には、直接触れる機会が無かったことは、今あらためて本当に心から残念だった、と文章を読みながら思う。そしてこれらの珠玉の評論集が今読めぬことも、残念である。
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2008-06-20(Fri)

うまいモノが食える幸せ

6月20日(金)
お昼、昨日は目の前まで行ったら休みで行きそびれたラーメン屋「晴れた一日」へ行く。ここはうちから歩いて数分の疎水沿いにあり、今年出来たばかりの店だ。店に着くと11時半ころで、ちょうど開店したばかり。出て来たラーメン自体は「高安」と同じ系統で、アジも同じような感じである。従って関東ラーメンの好きな俺たちにとっては可もなく不可もない感じか。チャーシューはさすがに高安に軍配が上がるのだが、それを除けば高安にあれほど並ぶのなら、このタイプのラーメンを食いたければこちらへ来ればいいような気もする。
店を出ると雨が降ってきて、連れの折り畳み傘をさしつつ帰る途中、いつも通りすがりに気になっていた小さな輸入雑貨店へ連れが入る。俺は店の外で待っていたが、店先のフードにツバメの巣が何と3つもあった。親がひっきりなしに飛んできては雛にエサを与え、またサーッと飛んでいく。京都は店の軒下にツバメが巣を作っているところをよく見かける。店も邪魔だとか汚いといって排除せず、ちゃんと巣を作らせているのがいい。
夕方は久々に北白川の焼肉店「喜田膳」へ行く。いつもカウンタ席だったが、今回はじめてボックスへ通された。んでやはり、ここの肉は違う。値段は高い、確かに高いが確実にうまい。いつも来られるような金持ちではないので、たまの贅沢である。いつものレバ刺しやタン塩、ハラミ、カルビなどに加え今日は「極上バラ」というのを頼んだが、これが特上のカルビと見間違うほどのサシで、味の方も極上であった。生きてて良かった〜という気持ちになる。
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2008-06-17(Tue)

京都ラーメン

6月17日(火)
朝は9時ころ二人とも起きる。とにかく昨夜は暑くて参った。シマが連れが寝ている足元に置いた毛布を畳んで作ってやった「ベッド」にいつも寝ているのが、夜中に連れが寝返りをうつと布団がバサ! とかぶったりするのが気に障るらしく、毛布から移動して俺の足元に来る。そうして俺の足を枕に丸くなって寝るのだが、いや可愛いんだけど、まるで湯たんぽのように暑い。しかもこの部屋は最上階にあるので、下の階の生活熱がだんだんに上へ来るのか、あるいは違う理由かは知らないけれども、このところずっとクーラーをつけないととても寝られないほどだ。
睡眠不足気味で迎えた朝は連れ合いが下鴨病院のMRIの予約時間が11時だというので、10時過ぎに支度をして半前に出て行った。今日も外は猛暑の感じである。俺は家で書き物をしていた。12時前に「終わった」とメールがあり、続いて電話で「お昼どうする?」というので、こちらも支度をして出ることにした。
外はやはり猛烈な暑さである。「梅雨入りしたと見られる」と気象庁がよくワカラナイ発表をしてから一週間以上経つと思うが、その間の日中まともな雨はほとんど降っていないと思う。そんな中高野の交差点で向こうから歩いてくる連れ合いと合流。連れは途中スーパーで見かけたら食べたくなったと、スイカの4分の1ほどのやつをぶら下げていた。
さて何を食うか、ここは東大路ラーメン街道の入り口だ。連れがいつも行列が出来ている「高安」は昼は意外と空いてるようだというので、向かうことにする。これだけ評判で、夜になるといつも大行列なんだから、ご近所だし一度はあそこでラーメンを食わずばなるまい。…そんなわけで東大路をてくてく歩くだけでもう汗が出てくるほどの暑さだ。交差点から高安に着いたころにはもう暑さですっかりげっそり。それでも幸い2〜3分並んだだけですぐ、店内の円形カウンタに座れた。
俺はチャーシュー麺、連れは中華そば。円形カウンタにはびっしり客が座っていて、周辺のテーブル席も満席。見るとトッピングに唐揚をつけている客や、ご飯ものをオーダーしている客も多い。ていうか京都って、何でラーメンだけじゃ満足せえへんのやろ? そうして5〜6分待たされて出て来たのは、やはりストレート麺のとんこつスープ系、いわゆる「京都ラーメン」であった。ただこってりそうに見えたがスープは意外と、思ったよりはあっさりしていた。油もほとんど浮いていない。メンマ、九条葱、柔らかいチャーシューと具はまあまあだ。麺に関しては俺たち関東から来た人間はどうしても卵麺のちぢれ麺が好きなので、京都で定番であるストレート麺には期待はしていなかったのだが、麺の味そのものはこれまでの京都で食べたストレート麺では一番おいしかった。
ただ、結論から言うと、いつも外から見ていたような行列に並んでまで食うほどのものではない、というところか。ラーメンという食い物は本当に個人の好き・嫌いが別れる食べ物だ。最近のラーメンはざっくりと醤油・味噌・塩と分けるだけではとても語れぬ複雑なものが多いし、ダシも具も麺も何も、話題店になればなるほど千差万別だ。従って味そのものも細分化され、結果それを好む人も細分化されているような気がする。んで、多少幅を持たせて「アレも好きだけどコッチも好き」となるわけだから、ラーメン通だのラーメン評論家だのに指南されるようなものではないのだ。だいたい連中の推薦で当たったことの方が少ないし。
さて食い終わって外へ出て、二人で「並んでまで食うほどのもんじゃないな」という感想で一致。それにしても今にして思えば、東京はその細分化されたありとあらゆるラーメンが食えたという意味ではレベルが高かったなあ、と話しつつ家に戻る。東京ではストレート麺が食いたければそれを出す店に行けばいいし、沖縄のソーキそばから北海道の味噌バター卵ラーメンまで、全国の味が楽しめた。京都では、あのシンプルな「中華そば」を出す店がほとんどない。和風ダシ・醤油・ちぢれ卵麺、具はチャーシューにネギとメンマ、そんな澄んだスープのシンプルなラーメンがこの上なく懐かしい。
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2008-06-16(Mon)

90年代「ガロ」について講義

6月16日(月)
精華大講義日(マンガ学部三回生・作家研究)。この日は「ガロ」の沿革の最終回、90年代〜休刊までの話をする予定だった。なので、出かける前に家の二階の本棚から1993年のやまだ紫特集の「ガロ」、94年の創刊30周年記念第2号、それから98年の復刊後・福井&長戸の新「ガロ」、2000年の大和堂社長・蟹江氏による新々「ガロ」などをどっさり持って出る。本当は叡電で行くのが一番安上がりなのだが、(正確には歩いて白川通りまで出て、国際会館行きのバスに乗り、無料のスクールバスで…というのが220円で最安ながらヘトヘトになる)かなり重い荷物があったので、タクシーで精華大まで行ってもらうことにした。何せ暑いし。片道1500円ほどかかるので痛いがしょうがない。
教務へまっすぐ行くと学部担当のMさんが前期の成績判定をテストでやるか・レポートを徴収するか、というので、レポートにすると言う。すると学生たちに連絡するので、課題内容を書いて提出してくれと言われる。その後は対峰館で2限からびっちり講義。
1997年、「ガロ」休刊の原因になったクーデター事件については当ブログにも何度も書いているように、俺しか知らぬ事実などを交えて詳細に説明する。学生たちは皆、もはやリアルタイムで長井「ガロ」を知る子らは皆無といっていい世代だ。クーデターによる休刊時で10歳前後だから、バリバリに「ガロ」を自分の意志で読んでいる子などおるはずがない。しかしこれまでの「ガロ」の沿革を聞かされて、さまざまな自分らの知らなかった作家さんたちの作品を読まされたことが良かったのか、興味深そうに聞いてくれていた。
この「90年代のガロ」については現在ほとんど評価もされず、いい加減な総括しかなされていない。内部事情を知らぬくせに想像と下卑た推測だけでモノを書く「ライター」と称する輩が多いのにも本当に辟易とさせられる。また直接に事件の詳細、いや事件前からの経緯、そして事件後の後始末その他の顛末までを含めて全容を知る人間は、クーデター事件の犯人グループ以外にはもう俺しか業界にはいない。
「ガロ」の当時の作家さんや、大株主であった大先輩の作家さんたちは皆、用意周到なクーデター組のデマや一方的な言い訳・嘘に完全にオルグされており、それを今さら修正するために要する大変な困難と時間を思うと、まあ一方的な「犯行声明」と「犯人による事件の総括・つまり自己弁護」以外の証言を残しておく意義があると思う。それが出来るのは俺しかおらぬ、とも思う。
評論家やマンガ関係の研究者たちも、この辺りの事情をちゃんと検証しようとした人は皆無だ。なぜなら、ほとんど俺からも話を聞こうといってくれる動きがなかったからだ。個人的な知り合いとして話を聞いてくれたり理解してくれた人たちもいることはいるが、別段世間に向けて「犯人による一方的な総括」つまり「間違った歴史」を修正しようという動きには誰もつなげてくれない。なので、結局90年代の山中「ガロ」の正当な評価は今もってなされず、休刊の真相も「長井さん死去後の編集部内の混乱と対立」などという頓珍漢な結論付けとなって今に至っている。
事件後、複数のマスコミも含めた取材をけっこう受けたものだが、ほとんどがお蔵入りとなった。特に大新聞は、俺の取材を進めて話を聞き事実確認をしていくと、結局はクーデター組の垂れ流した「虚偽の情報」を「事実として報道した」ため、結果的には威力業務妨害や背任、詐欺などの「犯罪」を「幇助した」ということを認めねばならなくなる。無謬性を大前提としている大新聞社たちは、この事件の真相をまっとうに報道することは、金輪際出来ないということになるわけ。
実は俺はこれまで、事件そのものをあまり深くは知らないと見られる大新聞社の記者さんたち数人に何度か取材を受けた。しかし途中まで何度かインタビューなり取材に応えていったものの、その全てが途中で突然お蔵入りとなっている。ま、大新聞だもの。しょうがないさ。そういうことも含めて、学生たちには「大人の事情」として伝えておいた。
帰りがけ、クーデターの被害者つまり青林堂が犯人グループを告訴するために、俺が法廷で証言をする予定だった当時の弁護士さんが作成した「陳述書」があるというと、N君が読みたいというので貸してやった。彼は聴覚に障害があるので、バイトで女の子二人が両側にノートテイカーとしてついているのだが、彼女らの一人は2000年代の「ガロ」2冊を、もう一人は「ガロ曼荼羅」(TBSブリタニカ刊)を借りていった。二人とも最初は単なるアルバイトとして聞いていただけだったのが、話を聞いているうちに興味を持った、面白くなった、と言ってくれたので嬉しかった。
帰りは教務へ寄ってそのままスクールバスで国際会館、そこから何番だっけか、一乗寺清水町から右折して東大路から高野へ抜けて四条烏丸へ行く…という一時間に一本のバスが数分で来るとあったので、ちょっと待ってそれに乗る。高野の手前で降り、腹が減ったし暑かったので、そのまま近くの喫茶店へ入った。しかしキンキンに冷房がかかった店内を期待したら、ぬるーい感じの弱い冷房でガックシ。それでも腹が減ってたので、シーフードプラフセットにアイスコーヒーを注文。
すると出て来たピラフはセットにすると唐揚げとコロッケ付きになるという殺人的なボリュームでビックリ。俺の感覚だとセットというのはピラフと飲み物、あとは簡単なサラダかスープ程度という感覚だったのに驚きだ。しかもそのピラフはほとんど味がなく、塩を何度も振って食べた。やはり途中でゲンナリしてきて、3分の1ほどを残して下げてもらい、セットのコーヒーをくれというと、何とホットの、それもアッツアツのを持ってきたので愕然。コントか? と一瞬思ったが、そのカップを目の前にしただけで滝のように汗が出てきて、もう最初から最後まで最悪である。
コーヒーはとても飲む気になれず一口も、いや触れることさえ出来ずにレジで勘定をし、おばちゃんに「アイスって言ったんだけど…」と言うと「あら! ごめんなさい」と謝られるが、「いやもういいっす」とそのまま店を出る。バイトのねーちゃんが間違ったらしいのだが、この時期汗ダラダラの男がホットは頼まないと思うよ。そのまま滝のような汗をぬぐいつつ、家へ帰ってすぐにクーラーをつけて服を脱ぎ、しばらくクーラーの下で脱力しつつ涼んだ。
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2008-06-14(Sat)

「金色(こんじき)のガッシュ!!」雷句誠さんが小学館を提訴

「週刊少年サンデー」(小学館)に07年まで連載されていたマンガ「金色(こんじき)のガッシュ!!」の作者・雷句誠さんが「原画を紛失された」として、小学館を相手取り東京地裁に330万円の損害賠償訴訟を起こしているという、一連の報道。
発端はこの記事だったわけですが・・・

金色のガッシュ!!:作者の雷句誠さんが原画紛失の小学館提訴

 週刊少年サンデーに掲載された人気漫画「金色のガッシュ!!」の作者、雷句(らいく)誠さん(33)が6日、原画を紛失されたとして、発行元の小学館に330万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。「原画には美術的な価値がある」と訴えている。
 作品は01年から約7年間、同誌に連載された。2200万部超(32巻)の単行本を販売し、テレビアニメや映画にもなった。
 訴えによると、雷句さんは小学館側に原画を貸していたが、連載終了後、カラー原画など5枚が紛失していることが分かった。小学館側は原稿料(1枚あたり1万7000円)の3倍の賠償額を提示したが、雷句さん側が客観的な価値を探るために同様の作品をオークションに出したところ、平均25万円で売買されたという。
 会見した雷句さんは「私が小学館側の金額で判を押せば、自分より若い漫画家が何も言えなくなる」と話した。漫画に「美術品」としての財産価値を求めた裁判は例がないが、代理人は「美術館に展示されるなど、美術品としての扱いが一般的だ」と指摘した。
 小学館は「訴状が届き次第きちんと対応させていただきます」とのコメントを出した。

2008年6月6日 毎日新聞 毎日jpより


6月13日のやはり毎日jp<少年サンデー>「ガッシュ」問題で読者に“謝罪” 作者とは「今後は法廷で」と全面的に争う姿勢(毎日新聞) - Yahooニュースによると、「サンデー」編集部は読者に「ご心配をおかけして申し訳ございません」としつつも、雷句さんの訴えについては「事実とは考えておりません。今後は、法廷で当方の考えを明らかにしてゆくつもりでおります」と全面否定。つまりは今後裁判で真っ向から争うという姿勢を示したということだ。

小学館といえばもちろん、「サンデー」ブランドのマンガに限らず超大手の老舗版元である、今さら説明の必要さえない大会社だ。数多の名作を世に送り出してきた(数多の駄作も送り出してはいるが)、とにかく圧倒的にドがつくメジャーな版元だ。

週刊文春(6/19号)には雷句さんの「独占インタビュー」として「コミック編集者は人気漫画家をこうツブす!」と題した記事が掲載されている。そこには信じられないような編集者たちの悪口雑言、非礼、厚顔無恥な態度が列挙されていて唖然とさせられる。詳しくはまあ記事を読んでもらえれば解るのだけど、大手の編集にはこのような例に挙げられるような、「編集として」以前に「人間として」資質に問題のあるような人間がしばしば見られることは俺も以前から指摘してきた。
(「俺がこの作品を描かせた」「俺がコイツを育てた」とか、縁の下の力持ちであるはずの編集がこういうことを大声で言うようなら、ソイツはまあ「この種の」人間である。漫画業界に限らないけどね)

さて。
先日、行きつけの割烹料理店の女将さんに「編集、というのはどういうお仕事なんですか?」と聞かれた。確かに、編集という仕事を業界外の人に一言で説明するのは難しい。何とか「編集というのは雑誌や単行本の企画を立てて、その具体的な内容を作家さん…それは漫画家でも小説家でも写真家でも、そういう人たちに依頼して、締め切りまでに原稿や作品をもらったり、その後はそれを本に掲載するために色んな作業をするような仕事ですね」と説明した。何だかヘタクソな説明だと自分でも思った。
最近でさえ「サルまん」「編集王」などといった「内側もの」がマンガの主題そのものになるということが珍しくなくなって、編集者という職業への理解は確かに以前よりは高まったと言えるだろう。
しかし、それはあくまでも
「大手」「ドメジャー」の、サラリーマン編集者の方たちの話がほとんどで、しかもマンガ編集というさらに特殊な部分にたまたまスポットが当たっただけ。相変わらず一般の人の「編集者」像は「なんとなく本をつくってる人」「原稿催促とかしてる人」だろう。

もう二十年ほど前になるが、祖父が亡くなった時、実家のある函館へ帰省して一連の法事に参列していた。祖父は年齢的にはまあ大往生と言える年であったのと、高校あたりから正月くらいしか会わずにいたので、「ご苦労様でした」という淡々とした気持ちで参列していた。
読経が終わりお坊さんが帰ると、まあ親族で宴会になるわけだが、祖父の弟(これがまた双子のようにそっくりで「サザエさん」の波平のようなルックス)と飲んでいたら突然「ところでお前は東京で何をやってるんだ?」と聞かれた。
「出版社に勤めてる」「出版社で何やってんだ?」「編集をやってるよ」「編集って何だ、本作ることか?」「まあ、そうだね」「何の本作ってんだ?」「…マンガだけど」「マンガか、マンガっつうと『ドラえもん』か」 俺「苦笑」
…まあ田舎へ行くと、出版や編集なんて職業はこんな理解だと思う。しかも20年前だ。

じゃあ「編集者」って、何をする人で、どうあるべきなのか?

これまた前に書いたことがあるが、俺の連れ合い=やまだ紫も、偶然その後に来てくれたマンガ編集者のY氏も、ジャナ専の俺のクラスにゲストとして来ていただいた際「良い編集者とはどういう人か」との問いに二人とも
「それは、いい人のことです」と答えてくれた
ことを思い出す。

編集者って、書籍なら次の単行本はどんな本を作ろうか、雑誌ならルーティン以外の特集なり記事なりをどんなものにしようか、ようするに「企画力」が大きなウェイトを占める仕事でもある。
それを会議なりで詰めて煮詰めて、作家も含めた外部の色々な人たちへ依頼をし、それを束ね、一冊の本あるいは一つの記事なりへ収斂させていく作業が求められる。なので、「たくさんの人と関わっていかねば成立しない仕事」でもある。
つまり企画という頭の中にあるモノを現実に具現化していく際に、作家さんやデザイナさんなど、媒体によってはもっとたくさんの人の協力を得なければならない。だから企画力だけではなくそういった人たちへの人脈、アンテナなども必要だし、それらの人たちを束ねるスケジュールや進行の「管理能力」も重要なのだ。

けっこう、大変な仕事だ。

会社がでかくて専門部署がたくさんあり、分業体制が出来上がっている大手版元の場合、青焼きが折れなかったり、四色分版の色校正が見れなかったりする人が増えたそうだ。(実際大手版元の人に聞いた)
それはもう時代だからいいのかも知れないが、大手の場合は昔から写植貼りも専門の部署があるし…というか、そもそも「編集」実務のほとんどを大手編集プロダクションへ丸投げしている場合も多い。
大手版元を退職した人が独立して編集プロダクションを興したりすることは珍しくない。その編プロ業界も、大手と組んでいるところはもう「大手」であり編集実務のプロ集団だ。
ただ俺が言っている「本作りの最初から最後まで」つまり脳内にある企画から、書店の店頭に並ぶまで、もっと言えば返品を断裁するまで全てに精通している人は、「大手」にはいないだろう。
だいたいが中小零細の版元の編集者なんか、「編集」以外の仕事の方が実は多かったりする。
俺もほんとうに、いろいろな人に頭を下げたり下げられたりして、みんなで協力して一つのものを作る、という気持ちでやっていた。その人たちに「いい人であろう、と思わなければ、いいモノは作れない」とも思っていた。小さい上に信じられないほど貧乏な版元だったので、何でもやらなきゃならなかったし、何でもやる分、関わる人たちの幅も物凄く広かった。断言できるが、間違いなく「業界一」だったと自慢できる。(その上フリーになると金の計算までやるようになったし、もちろん営業までやるのは当然)
つまり「本作り」と一言で言うが、編集は、その全てに精通している必要がある。
いや、そうであって欲しいし、そうあろうと思って俺は生きてきた。自慢じゃないが自慢だけど、俺の場合はフリーになってからも大手広告代理店でのうんざりするような企画会議の連続も、決定権を持つ大会社の役員が並ぶ場所でのプレゼンも、現場でも小さなものも含めて何度も何度も経験しているし、元々の貧乏版元(笑)時代には雑誌の返品の積み下ろしから断裁、倉庫での搬出入作業、書店や取次への品出しや改装、果てはネクタイを締めて営業にも飛び回った。
もっと言えば、原稿に写植を指定し写植やノンブルを貼りそれを製版へ一度出したものをネガフィルムで引き上げ、自分らでオペーク(修正)をし、上がった青焼きを折り、貼り合せ、切って校正までやった。毎月毎月、肉体労働に加えて月刊誌の編集をやりながら、担当の書籍を受け持てばその上で書籍もやっていた。

要するに俺たち「ガロ」の編集は、たぶん、当時編集者としては日本で一番忙しく、肉体労働をしていた。そしておそらく社員編集者としては日本一薄給であった。

こういった地を這うような仕事以外に、編集にはもう一つ大きな仕事がある。
それは「新しい才能の発掘」だ。持ち込みの作品を見て指導をしたり、投稿作品を見たり、他社・他誌の作品や作家に目を光らせていたり…、要するに、編集者って自分の職場で受け持った仕事をしていればそれでいい、なんてのは一部のごく大手のエリート編集者だけなんですよ。(エリート、と言ったがそれは「編集者として優れている」という意味ではもちろん、ない。待遇がそうであるという意味)
で、その一部の大手版元には、俺のように「マンガが好きで好きでしょうがなくて、漫画家になりたかったけど叶わず挫折したけど、それでもマンガのお傍に置いてくださいね」なんて熱意と情熱なんか持ち合わせない人たちだってけっこう多いと聞いている。

あるベテラン編集者(大手の、編集長クラスの人だ)から聞いた話だが、一流四大の新卒を採用する、その後編集部志望でもなかったのが会社の都合で編集へ行かされる。にわか編集者の出来上がりだ。
むろんそこから猛勉強し、やり甲斐を見出し、立派な編集になっていく人も、そりゃあいるだろう。
でも…。

先の雷句さんのインタビュー記事を読むと、「こいつらは編集者ですらない、ただのダメ人間だな」と思う。そんな人間がのさばる雑誌って、編集部って。それでいいんだろうか? どんな編集も、アタマの中で何を考えたって、作家さんが作品を作ってくれなければ手も足も出せない。だから常々、年齢やキャリアなんか関係なく、我々編集者は「作家」には一定のリスペクトを持って接するようにしている。

つい先日、大学の講義で3回生たちに伝えたことは
「マンガの原稿は、その作家でも二度と同じものは再現できない、世界に一つしかない一点ものの絵画と同じ」
ということだった。この事件のことを知る前のことで、だいたい俺は「ガロ」時代からずっとそう思ってきたし、専門学校でもそのように教えてきた。(マンガは複製の文化なのだから原画に価値はない、という阿呆な意見をどこかで見たことがあるが、狂っているとしか思えない)
今回のようなこと=発端となった原稿紛失は、漫画家を「作家」ではなく単なる「絵描き」であると、原稿を「作品」ではなく「商品」であると重大な認識違いをしているから起きるのではないだろうか?
確かに、業界では通例として原稿紛失の際は「3倍返し」というのが存在することも事実ではある。(俺の連れ合いであるやまだ紫先生も、某大手版元で原画を紛失された時の「解決方法」がそれだった)
しかしかって手塚治虫先生が原稿を紛失された際に、謝罪にきた版元の人間が金で解決しようとしたことに激怒したのは有名な話。要するに金で解決できる問題ではハナからないのだ。
じゃあ何の問題だといわれれば、それは普段から作家と編集者の人間関係や信頼関係がちゃんと構築されていれば、ことは大事にならなかった、ということだろうと思う。なぜなら、作家にとって「子供」「分身」とも言える作品の原画は、いくら金を積まれても、二度と同じものは作れないからである。
(単行本化されてしまった=複製が出来てしまった原画に興味はない、という作家さんもたくさんおられることは知っている。でもそれは、あくまで作家さんが決めることだ)

常々ここでも書いてきたことが、何だかとっても虚しくなってしまう昨今である。
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2008-06-08(Sun)

蕎麦「宇一朗」

6月8日(日)
昼、押小路麩屋町の蕎麦屋「宇一朗」へ行く。ここは以前、松栄堂から河原町へ抜ける際に偶然発見した名店。町屋の良さと風情をそのまま残して店舗に改造した店だが、その建物もさることながら、蕎麦が絶品。常連さんなんかはみな名物のへぎ蕎麦の他に小鉢がついたり、その日で内容が違う「ランチ」を頼んでいるが、俺は冷たいせいろに熱い鴨汁をつけて食べる「鴨汁せいろ」が大好きで、いつも食べる。汁の味、鴨肉もいいし、つみれが入ってるのも嬉しい。
その後いい気分で寺町をぶらぶらして四条麩屋町へ抜け、パチンコ京一で久々に打つ。二人とも大敗…。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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