2008-08-27(Wed)

新ノートPCが届く

8月27日(水)
2005年の夏に入院する際、仕事と闘病の記録をとノートパソコンを買った。それが激務に耐えきれなくなったか(笑)、このところバッテリーに全く充電出来なくなり、コンセント必須になるわ、使用頻度の高いキートップの文字は消えるわ、方向キーの左が取れるわ、いくつかのキーの応答が鈍くなり強くバシバシ何度か打たないと反応しなくなるわ、何か時々唸るわ、やたら熱いわで、だんだんとデータが飛ぶのでは…という恐怖を感じるようになっていた。なので仕事とか貴重なデータは元々外付けHDDに避難させておいたので、思い切って新しいのに買い換える決断をした。
んで、今日その新しいノートPCが届いた。メーカーはEPSONで、Centrino2のもの。しかしOSは使っているソフトや安定性を考えて敢えてxpを選択。これからしばらくはソフトのインストールやらのお引っ越し作業になる。環境引越ソフトというものを買ってはあるが、こういうのは経験上、かなりの部分が手作業になるのは解っている。ちなみにそういえば俺ももう、いつの間にかパソコン歴は軽く15年以上である。
<ここからPC回想暴走モードになるので、パソコン歴の浅い人は読まないように>
思い起こせば「ガロ」の親会社になったツァイトの提供で、「これからはパソコンでいろいろやる時代になるから」と、唯一ワープロを使っていた俺が「適性がある」と見込まれて、98ノートを割り当てられたのが最初だった。EPSONの互換機だったか、んでもちろんVGAモノクロ液晶で、OSはMS-DOSの3くらいだったっけ。いやーautoexec.batとかconfig.sysとか格闘した格闘した(笑)。「ファイル名またはコマンドが違います」とか何百回見たか。
それからメガネのY先輩(俺が着流し姿の似顔絵を「ガロ」に描いてた人、です)がしばらくして自分もパソコンくらいやらなきゃと、買った挙げ句使いこなせなくて俺に廻って来たのがPC-CLUB。これはEPSONのラップトップ互換機で、これがCPUはi80286の10MHzながら液晶画面が当時にしてはなかなかに綺麗で、これでツァイトの、あの名ソフト「Z'sSTAFF KID」でお絵かきなんかをしたものだった。いやあツァイトは本当にいいソフトを作っていたなあ。その後の「JG」なんか、もう国産のDTPソフトとして、十分プロユースに耐えるものだったよなあ。実際俺=プロがあれで紙面作ってたんだもんなあ。懐かしいなあ。
それから初めて自分で買ったのが、NECの形が可愛い「98MULTi」、PC-9821Ce2だった。94年だった。640×480で256色というのが驚異的な綺麗さで、しかもWindows3.1が乗っかっていた。こちらも相当ショックだった。もっともMacユーザーたちは皆「真似かよ」と鼻で笑っていたが(ていうか形自体はCONPAQのPC/AT互換機のパクりだった)。この時HDDが足りなくなって、買ったのが外付けの40Mbのやつだった。いや、ギガバイトじゃないっすよ、メガバイトですよ。今だったらデジカメデータ数枚で終わりっすか(笑)。このマシンを徹底的に使い倒してましたねえ。会社ではデスクトップ9821Xなんとかだっけかを使っていた。
96年、連れが入院することになり、病室でワープロをやりたいというので買ったのがPC-9821Na13だった。もちろん前年に出た時は(当時の)ノートとしては破格のPentium133MHzに標準16MBのメモリを搭載、んでもってHDDがとうとう内蔵で1Gbに到達したという(当時の)ハイエンドノートだった。そんな(当時の)モンスターみたいなマシン、当然定価なんかで買えるわけがなく、Sofmapへ行って画面の小さい方を中古で、さらに分割で買ったのであった。それでも30万近くしたような気が。
自宅でいろいろいじくりまわした挙げ句。連れ合いの病室へ98ノートを持って行くと、「わたしはワープロでいいって言ったのに」と呆れられたのを覚えているが、そのとき俺は自信満々で「これからはパソコンでワープロもやれば、お絵かきも普通にやる時代になるんだし、インターネットも出来るんだから」と鼻孔をふくらましたものである。ちなみにこの98ノート、まだウチにあります(笑)。驚くことに、ちゃんと動きます。
関連記事
スポンサーサイト
2008-08-24(Sun)

中華そば東龍

8月24日(日)
今朝は9時前に二人とも起きた。昨日の腹痛はどうやら治っており、ホッと一安心。外は曇りのようだが低気圧が去ったのなら、そして昨日の腹痛が低気圧のせいなら今日は腹痛はないはずだ。
そう思って起きてテレビでサンジャポを見ているうちに、やはり今日は大丈夫だと確信に至る。心配させた連れに「今日は全然痛くないよ!」と話すと、喜んでくれる。そうして「じゃあラーメンでも食べに行こうよ」ということになる。
前に検索しておいた、京都では珍しい「醤油ラーメンにちぢれ麺」というラーメン店何店かのうち、一番近くにある白川通りの「中華そば東龍」へ行こうということにし、出かける。
それにしても昨日の腹痛は怖かった、それが次の日の昼にゃこうして腹減ったとラーメン食いに出かけるんだからね、と二人で話した。

店に到着すると開店は11時半からだということで、12〜13分ほど外にある長椅子に座って待つことにする。入り口のガラスを店のおばさんが拭いており「すんませんね、もうちょっと待ってくださいね〜」と言われてしばらく通りを眺めながら待っていたが、いつの間にか店内に客が入っていく。気がついて時計を見ると11時半をちょっとだけまわっていた。
何だよ、じゃあ俺らがずいぶん前から待ってるの知ってたわけだから、「お待たせしましたどうぞ」と一番に声をかけてしかるべきじゃないのか。たとえ味が良くてもこういう店はあかんぞ、などと思いあまり期待せずに「チャーシュー中華そば」を頼む。連れは「中華そば」で、二人とももちろん麺はちぢれ麺を選択。
この「中華そば」というのが「昔ながらのあっさり醤油ラーメン」というので、わざわざ指定して頼んだのだが、しばらくしてから目の前に来たラーメンは、スープは澄んでないし、どっちかというととんこつ系である。
おかしいな〜…でもこれがそうなんかなあ、と思いつつ食べてみると味はそこそこというかまあまあだったので、食べてしまった。ところが会計の時にレシート渡して財布を出すと「東龍ラーメンと東龍のチャーシューですね」ときた。
おいおい、やっぱり間違えやがったな(笑)。京都では珍しくあっさり味の醤油ラーメンと、ストレートかちぢれ麺かが選択でききるというので期待して行ったのに、よりにもよってオーダー間違えとは恐れ入りました。やっぱあかんかったな、この店…と二人で情けない笑顔を向け合う。

そんな気分で外へ出るとカンカン照り。5番・北8と乗り継いで帰宅。
関連記事
2008-08-23(Sat)

怖い腹痛

8月23日(土)
朝9時ころ起きてテレビを見てごろごろしていると、連れ合いが「ご飯にしようか」と米を炊いてくれたので、俺は残っていたウインナとピーマンを炒めて、インスタント味噌汁などで一緒に簡単な遅い朝食を済ませた。
この時点までは良かったが、その後腹部全体が苦しくなり、痛み出した。低気圧のせいかも知れない。外気圧が下がると腹が張ったり、あるいは軽く便秘気味になったりいろいろ影響が出る。腹が張ることが最も多いか。それに俺はこういう病気=白血病なので、毎日、程度の差はあれたいがいどこかしらに痛みはある。例えば首のリンパ節がしこりみたいに気になる時もあれば、手首が妙に痛いとか、縦隔のリンパ節が腫れているせいか胸が苦しいという時もある。当然、リンパの親玉的臓器である脾臓がここまで巨大化すれば、痛んだらもっとも苦しいのは言うまでもない。
この日の痛みはその親玉の脾臓なので、辛い。夕方になっても治らず、便通も昼ころ2度あったので便秘の痛みではないことはもう解っている。連れ合いが「晩ご飯買ってきておくよ」と言ってくれて、近所の有機野菜の弁当&総菜店で夕飯を買いに行ってくれた。済まない。
何とか弁当の和風ハンバーグを食べようとするが、食べている途中でもう腹が張って食べられず、一本だけあけたビールも半分で飲めなくなってしまい、ソファにずっと転がっていた。
連れだって、右腎臓摘出の手術痕が痛いだろう。低気圧が近付くと「来る」と二人とも予報をピタリと当てることが出来る。連れ合いも、低気圧は苦手だ。それでも俺の痛みを気遣って、買い物へ出てくれるのが申し訳ない。

夜になって、やはり雨だった外には雷が轟き出した。今日の腹痛はこの低気圧のせいだろうか、ならばいいが、病気の進行なら…と考えると嫌な気持ちになる。もちろん何年もかけてじわじわと、ゆっくりと進んでいくこの病気が、ある日突然に急転するというのは考えにくい、考えにくいが全くあり得ないこととは誰も言い切れない。悪い方向へ考えが行くと、不安で動悸が激しくなる。怖い、と思う。当たり前だがまだ死にたくはない。そういう予感もまだ、ない。
連れは心配してくれるが、「大丈夫大丈夫、そういうのじゃないし明日になれば治るからね」と、諭すように言う。それでも連れは心配顔だ。
明日には治ってると信じて、二人で12時ころ寝る。
関連記事
2008-08-16(Sat)

五山・送り火

8月16日(土)
南のベランダから見た「大」今日は夏の京都の一大ページェント「五山送り火」である。去年は住まいの契約はお盆前だったものの、リフォームやらがあって賃貸契約の発効日は送り火の後となり、引っ越し自体も9月に入ってからだった。なのでうちの二階=メゾネット(つまり北側)のベランダから「妙法」の「法」の字が真っ正面という立地だったのに、いつもその「法」をうらめしく見つめてはや一年。この送り火をわが家から見られるなんて、京都市民ならではである。
ちなみによく「大文字焼き」と言う人もいるが、京都の人でそう言う人は一人もいなかった。皆さん「送り火」と言われるのだが、よく考えれば送り火は「大」の一文字だけではないし、大文字といっても東山の他に左大文字つまり西側にもある。これらはだんだんに増えていったそうだが、「大文字焼き」と言っただけではそのうちの一つしか指さないわけだから、皆さんちゃんと「送り火」あるいは「五山送り火」と言われるわけだ。
夕方になると、近くの割烹の子供たちが二人で頼んでおいたお膳を届けに来てくれた。料理の膳に簡単なお寿司がついたものを二人前。今日は特別だからね、と5時過ぎから俺は凍らせておいたグラスにビールを注いで飲み、連れ合いはとっておきの静岡の酒「花の舞」をあけ、飲みながら8字点火の送り火を待つ。
8時近くになってまず南側のベランダへ出てみると、ちょうど点火が始まったところだった。うっすらと「大」の文字が浮かび上がっていくのを「おおー!」とか言いつつ二人で見つめる。この火をうつした水を飲むと、一年間無病息災と言われている、ありがたい火だ。さっそくグラスに水を注ぎ、だんだんにくっきりとしてくる「大文字」を水に映して飲むことにする。これがまた冷えた水を使ったのでコップが暑い外気で曇ってしまい、拭き拭きしつつ願いを込めて飲み干した。
炎が強く明るくなっていく「大文字」をしばらく見つめた後、ビールやグラスやらを持って今度は二階へ上がり、北向きのベランダへ移動する。隣の角部屋のお宅のベランダにはそちらのご夫婦と、子供さんが5〜6人いてキャッキャと騒いでいる。旦那さんがベランダのこちら側に立っていたので、「雨降らなくて良かったですねえ」と世間話を交わす。
北側のベランダから見た「妙法」この北側のベランダ側から東山を見ると、何と二階からでもちゃんと「大」がはっきり見えた。次いでいよいよ真正面に「妙」「法」が順次点火されると、やはり近い。写真では解りにくいと思うが、とにかく夜の火なので、近いことに驚きつつ感動。しかしどうにもお隣の喧噪がうるさく、しかも一人がなぜかピューピューと常に口笛でアニメか何かの曲をずーーーっと吹いている。送り火というのはお盆に帰ってきたご先祖様の霊をお送りする神聖なものなんだよ。それをまあ子供だから騒いでイベントとして楽しむのはまだいいとして、BGMに何か知らんが一秒も休まずにずっとヘタな口笛を流されているのは耐え難い苦痛である。向こうが注意をしないので、本人は得意になって吹き続けている。どうやら中学生の男の子らしいので、絶えきれずこちらのベランダから首を出して「あのさあ、口笛だけやめてくれないか?」と言うと、すぐに「あっ、はーい」と言ってやめた。
ようやく耳障りなBGMが消えたので、送り火を改めて堪能。それにしてもうちからは五山のうち「大」「妙・法」「舟形」までがはっきりと見え、さらによくよく左手つまり西側を見ると、遠くに「左大文字」まで見えたのには驚いた。もちろん左大文字は扁平で形がはっきり大の文字には見えず、かなり横から見ているために火というか明かりがあるだけに見える。あとは残す「鳥居」だがこれは絶対に位置的に無理だし、そもそも五つ全てを完璧に見られるポイントはないというから、完全に3つ、不完全ながら4つまで見えるなんて最高の場所である。
北側のベランダから見た「舟形」
それにしても途中までの口笛の不愉快だったこと。ご近所と波風を立てたくないので我慢して放置していたが、前半の口笛をもっと早く注意しておけば良かった。先祖の霊に対する厳粛な気持ちを中学生くらいの子供が知るべくもないだろうし、他者がそういう思いでいるという事に対する「配慮」とて、望むべくもないことなのは承知している。しかし周りにいる大人がそれを教えるのが、むしろこういう機会なのであり、そういう機会や場所がすごく多いのが、「京都」なのではないか。
せっかくの京都なので静かに寺社を楽しもうと出かけるたびに、修学旅行の中高生の狼藉と喧噪に嫌な気持ちにさせられる。いちいち注意しようものなら冗談抜きで殺される時代だから、もちろん我々は眉をひそめるだけにしている。かって自分もそうだったが、「見たくもないのに見せられる」「来たくもない場所に連れて来られる」だけの子らの心には何も残らない。あの子たちの頭の中にあるのは早く土産物を見たいとか、好きな誰某と隣になりたいとかコクっただのコクられただの、そういう即物的なことだけである。京都へは、京都を楽しみたいと思う「大人」が静かに楽しみに来て欲しいなあ…と、まあこれは修学旅行客が大きな収入になっている神社仏閣にすればアレかも知れないけど。

さて二階のベランダにはリクライニングチェア…というには安っぽいパイプ椅子を二つ出して、「妙・法」が消えかかるくらいまで堪能した。今日は日中に雨が降ったせいか、この時間になってもさほど気温が高くならず、蒸し暑くもない程良い感じである。もし東京だったら、ベランダなんかに10分居ただけで滝の汗だろう、いやそもそも比較対象にならんのだが。
そうしてありがたい気持ちとビールでいい心持ちになって下へ戻り、京都テレビでやっている送り火生中継を見る。すると、番組の終わりになぜか越前屋俵太が榊莫山風のいでたちで、巨大な書をしたためるというのをやっていた。なぜ、俵太が…? これがギャグなのだとすれば送り火中継にはふさわしくないし、そもそもギャグをやる意味も不明。見ているとなぜか番組は冗談半分なのか本当に彼を「アーティスト」であるかのように扱い、その書き殴った書というか「作品」も、描き上げた後に宙につり下げられて浮くなどの演出で、つまりは「まっとうに扱っていた」ということに驚愕した。京都テレビ、恐るべし。
関連記事
2008-08-13(Wed)

賑わいの明青・星野ジャパン?

8月13日(水)
夜は下鴨高木町の明青さんへ。ここは酒・肴・雰囲気どれも最高でよくお邪魔するが、今日はもの凄い騒ぎだった。俺たち夫婦が入った時には、ご自慢の「長ーいカウンタ」には男1女2の京都人と思しきグループがすでに完全に出来上がっており、その声のデカいことデカいこと。さらにしばらくするとその中の一人が携帯で友達を呼びよせ、それからがさらに大盛り上がり大会。俺たちはその反対側の端っこにいたのだが、連れとの会話もままならぬほど。さらにそのグループとの間にある「予約席」の紙が置かれた3席に新たに来た客は、大盛り上がり大会組の顔見知りらしく、要するに騒ぎが倍増。店内はもう場末の一杯飲み屋かと思うほどの喧噪となった。板さんが俺たちに気を遣って何かを言ってくれるのだが、その声すら聞き取れぬほどである。こういうこともあるんだねえ、と思いつつ早々に退散した。

家のテレビでオリンピック・野球観戦、ダルビッシュが今ひとつぴりっとせず、同点に追いついて貰った直後にまたピンチ。そこで星野はロッテの成瀬をリリーフに送り出す。しかしこの成瀬がこの窮地に振り回してくるキューバの選手相手に直球ばかりを連投。さすがに俺も見ていて「ああ、次は落ちる球か逃げる球じゃないとだんだん合って来てるから…」と言い終わらないうちに、まっすぐをカーンとタイムリー被弾。これが決勝点となって日本は負けた。まったく星野の継投にも、バッテリーの配球にも、とにかく今回の「星野ジャパン」には疑問だらけだ。見れば見るほどストレスが溜まる野球の試合というものを見せられ続けている気がする。今大会はおそらく金どころか、下手するとメダルも危ういだろう。
関連記事
2008-08-06(Wed)

噂のGoogleMap「ストリートビュー」

凄いね、最新のテクノロジー…って大仰なもんじゃないか。
従来のGoogleMapに実装されて欧米で話題になっていた「ストリートビュー」が先日から日本の街にも対応、さっそく話題になってます。これってGoogle社の車が地道に津々浦々を撮影しながら走ってったわけで、いやはやその労力には脱帽。
京都も対応していたので自宅付近を見たりとか、東京の前に住んでいたあたりを懐かしく「散歩」したりとか、なかなかハマります。まあでもGoogleEarthも最初は地球儀グリグリしてハマったけど、最近はほとんど見ないんで、これもそうなるか。しかし今後対応都市が増えていくようだと、バーチャル散歩は暇潰しの定番になるかも知れない。
・・・で、やはりというか、偶然撮影されちゃった色んなものや人や動物で「名場面」が有志(?)たちによって紹介されていたりする。
こういう場面とかこんな瞬間とかチン場面も含めてこれはおもしろすぎます。退屈しのぎには最高ですな。ただし、プライバシーの問題や犯罪に利用されないか、など今後存続するかどうかも含めて、議論百出の模様です。

★9月追記
上記の画像、全部削除されてましたね(笑)
関連記事
2008-08-03(Sun)

赤塚不二夫さんが亡くなった。

 「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区。葬儀・告別式などは未定。
【産経新聞】

赤塚不二夫さんが亡くなった。とうとう、といった感じだろうか。もう10年以上前だったと思うが、食道癌が判明して吐血入院した後も酒を欠かさず、その後も脳内出血などを経て手術などをされた経過は逐一報道などで知っていた。そしてその間も酒をやめなかった、ということも。近年はずっと寝たきりの状態が続いていて、赤塚さんを直接知らない若い世代なんかはおもしろがって、その状態のまんまいつまで生きるのか、その場合の生活費(というか入院治療費)は果たして印税や権利関係だけで持つのだろうか、なんて話題で盛り上がっていたそうだ。
俺の世代だと、赤塚さんというともう間違いなく気がついた時には「巨匠」であった。何せ「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」の爆発的ヒットは昭和37年で、俺の生まれる前の話。もの心ついた時は「天才バカボン」「もーれつア太郎」がリアルタイムで、そういえば従兄弟や友達の家でもむさぼるように読んで、そして笑ったものだ。あ、「ジャンプ」では赤塚さんの弟子にあたるとりいかずよしさんの「トイレット博士」がリアルタイムで、関係ないが池沢さとしはまだその後大ブームとなる「サーキットの狼」を描く前の「風!花!龍!」(だっけ?)というちょっとエッチな漫画を描いていたっけ。老舗の「冒険王」も健在だったし、少年漫画が全盛だった時代である。
というか昭和40年代なんて、漫画は一般には少年・少女向け、つまり子供向けのものしかなかった。もちろん貸本漫画はほぼ衰退していたし、エロ劇画や、非メジャーでは「ガロ」があったりはしていたものの、そんなものは広く一般に読まれるようなものではなく、ましてや子供らにとっての選択肢は広くはなかった時代だ。普通に書店に行っても「少年なになに」という雑誌を買う以外、ほぼ選択肢はなかったと思う。漫画といえば少年漫画を普通の子供が普通に読み、女の子は少女漫画を当たり前のように読む。そして男の子が少女漫画を読むこと、女の子が少年漫画を読むことは、ほぼ「あり得なかった」。余談ながら、今から十年くらい前かな、専門学校の教え子の女の子が普通に「ジャンプ」や「サンデー」を読んで少年漫画の流行のものを追っかけてるのを見て、「女の子でも少年漫画読むんだ?」と感心したら、「センセイ、そんなの今どき常識ですよ」と笑われたっけ。
少女漫画ってことで言うと、赤塚さんもそうだし手塚治虫さんや松本零士さんちばてつやさんなど、昔の漫画家さんはけっこう少女漫画も描いていた。だからといってその時代、男の子が女の子の漫画を読もうものなら、すかさず「変態」「ホモ」の烙印を押された、そんな時代だったなあ。小学生だった自分は女の子が読んでいた何やら華やかなその少女漫画誌を読みたくてしょうがなかったのだが、とてもとても級友の前でそんなことは言えなかったっけ。
俺が漫画家を目指そうと確信的に思うようになって、少女漫画や劇画まで読むようになったのは中学に入ってからで、時代で言うと70年代の半ば〜後半からである。そして青年向け漫画誌が続々と創刊ラッシュになり(少年なになに、の上にヤングなになに、を作っていった)、男性少女漫画家の弓月光がちょっとエッチなラブコメを描いたり、少年漫画誌の方には女性漫画家の高橋留美子が「うる星やつら」(少年サンデー)を連載開始したり、鳥山明が「少年ジャンプ」に衝撃的な「Dr.スランプ」を発表していく…という時代へ向かう頃だった。
正直、その頃にはもう赤塚さんの漫画はほとんど読んでいなかった。ただ、72年に出た「まんがNo.1」を読んだ記憶は鮮明に覚えている。おそらくリアルタイムではなかったと思う、なぜなら同誌は翌73年に6号で休刊しているから、俺は小学校2,3年といったところだ。なので、かなりマニアックな漫画をそろえていた年上の従兄弟がおり(この従兄弟は俺に「ガロ」や「COM」を教えてくれた、一回り以上年上の人だった)、その人の部屋に遊びに行った折なんかに、後追いで読んだのだろう。赤塚さんの魅力満載の小さなサイズの本で(じゃなかったかな?)、笑い転げた記憶がある。それと、「マガジン」連載の「天才バカボン」も、末期の実験満載の作品群も鮮烈に覚えている。(バカボンとパパの顔のアップだけ、とか)
自分が思春期から漫画家に挫折し「ガロ」の編集として歩み出す頃には、赤塚さんは申し訳ないが現役の漫画家というより、時折テレビなどで紹介されるように「大酒飲み」の人、という印象の方が強く、中でも、自宅に「チューハイのサーバーがある」ということがひどく衝撃的だったと記憶している。「チューハイのサーバー」っすよ。んでそれを赤塚さんはデカいジョッキにダバダバとついでは、ゴクゴクとうまそうに飲みながら、上機嫌で話していた映像だったように思う。酒が何より大好きで、病気になろうが癌だろうが酒を絶対にやめなかった。そりゃバカだな、と思う。でもそれも赤塚さんが望んだ生き方なのだから、他人がどうこう言えることではなかろう。

そんなことを、赤塚さんの訃報を聞いて、何も調べず何も見ず、記憶だけでこれだけダダダッと書いてしまえるほど、自分にとって大きな人だったな、と改めて思った。
赤塚さんと長くおつきあいをして来られた、長谷邦夫さんのブログ(長谷邦夫の日記)にはこう書いてあった。
★ついさきほど、友人からの電話で赤塚不二夫の死を知った。
TVのニュースでも流れていた。
ぼくは彼との「別れ」について、上記『漫画に愛を叫んだ男たち』
および『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(マガジンハウス)で
想いのたけを全て書いた。
今日の死によって、特別な想いは無いと言っていい。
ニュースの後、仏壇まえで家内と経を読んだ。
これが、ぼくに今出来る唯一のことであろう。
合掌。

本当に公私ともに深く関わった人の思いとは、このように短いことしか言えないのだろう。言い出したらとめどないし、まして著作で決着もつけておられたのであれば、ご冥福を祈る…それしかない。

赤塚さんのご冥福を、心からお祈りします。



漫画に愛を叫んだ男たち
長谷 邦夫
清流出版

このアイテムの詳細を見る

『漫画に愛を叫んだ男たち』を読むと、自分が触れてきた、漫画を含めたさまざまな表現…たとえば小説や映画や美術などが、クロスカルチャーして先端の人たちが集まり、自然と触れ合い、インスパイアし合っていたことが解る。長谷さんが筒井康隆の原作を漫画にするくだりとか、星新一のショートショート千編達成のこととか、とにかく自分が少年としてわくわくしながら触れてきた表現たちが、実は上の方で赤塚さんを含め、漫画も小説もねえ、面白い、優れた人たちはお互いにそれを察知し合って、自然に触れ合っていたこと、そのことの空気がよく伝わってくる。同時に自分の少年〜思春期という時代も甘酸っぱく思い出す。今の四十代より下の人には解らないだろうけど…。
関連記事
カレンダー
07 | 2008/08 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

広告
アフィリエイト・SEO対策
検索フォーム
プロフィール

シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

シンプルアーカイブ
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる