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2009-02-14(Sat)

ヴァレンタインデー

今日は夜中も気温が下がらず、気がついたら布団も毛布も被らず、身一つで寝ていた。もともと道産子なせいか暑がりで、京都のいわゆる「寒さ」というのも実は函館時代の鼻毛も凍る経験からすると、それほど苦ではない。確かに去年の正月の大豊神社は東山の麓で底冷えがしたし、比叡おろしはビュウビュウと氷のように冷たい空気を送っては来るが、いやー「地吹雪」に比べれば。(じふぶき、というのは吹雪の日、積もっている足下の雪も風で舞い上がり、上と下から吹雪が襲うという状態)
それにしても静岡では26度(!!)、その他軒並み20度超えが続出したというから気候もおかしなことになっていると思わざるを得ない。京都はせいぜい15度くらいだったと思うが、日中は暖房はもちろん床暖房も消し、それでも部屋の温度は24度だった。日差しも一時は夏のようで、梅どころか桜まで咲きそうな陽気である。

ところで今日はいわゆる聖ヴァレンタイン・デー。昔は誰それから貰えないか、いやあのコは誰に…みたいなことがなかったわけではないが、近年は義理オンリーでそれも途絶えた。ところが今年はすでに「義理」が3個。そうして最後は「S急便でーす」と今日来たので何だと思ったら埼玉に住む次女のYちゃんからケーキが届いた。ううむこれで4つめゲット。
この話は連れ合いは知らなかったが、学校での会議のあと買い物をして帰ってきたら「これ、一応ね」といって義理チョコをくれた。5つ目だ。これってけっこう成績優秀なのではないか。違うか。まあいいのか。

ていうか皆さんお気を使っていただいてほんま、すんませんでした。
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2009-02-12(Thu)

京大病院の「醤油ラーメン」


連れの通院で京大病院に来てます。予約は12時からなので、先に1階レストランで食事。そして今は連れの診察待ち中で携帯から書き込み中。

前にも書いたかも知れないけど、ここの「醤油ラーメン」が絶品。いや何てことぁないごくごく普通の、ほんまにただの醤油ラーメンで、具もナルト、シナチク、海苔、薄小さいチャーシューに白ネギというシンプルさ。
しかし特筆すべきはその麺である! カンスイの香りも懐かしい、卵麺でしかも縮れ麺だ。そしてスープは澄んだあっさり味の醤油味。関東の人は「それが?」とお思いだろうが、京都にはこの当たり前の「醤油ラーメン」がないのだ。やれ評論家だのラーメン通だのがいろいろ言うけど、味って完全に個人の好き・嫌いって話なんで、基本的に他人の評価ほどあてにならんものはない。
京都ラーメンというのはスープはコッテリ油ギトギト、博多風ストレート麺がだいたい主流のようで、まあギトギトの度合いが違ったり麺の太さや具にバラエティはあるが、あの「醤油ラーメン」だけは絶対にない。
たまに広東料理なんかの店で近いのが出たりすることがあるがあれは「中華料理のラーメン」で、あの日本人が作った「醤油ラーメン」ではない。どっちがいい・悪いの話じゃなくて、別の料理の話だ。
ちなみに以前こういうことを書いたら「それは支那そばのことではないか」というご指摘があったが、少なくとも俺の記憶と経験上、それは単なる呼び方の差だった。厳密には違うんだろうが、巷の人間はそんなこと気にせず普通に食ってただけです。
でも東京に四半世紀暮らしてその前は函館で18年過ごしていて、どこへ行っても必ず食えたのが、あのシンプルな「醤油ラーメン」だったわけです。店によってナルトがあったりなかったりという具の差、もちろんうまい・まずいはあったが、あの「醤油ラーメン」が無いなんてことはあり得なかった。だから東京にいた頃はそれこそいつでも食えるからと、やれ博多だやれ和歌山だ喜多方だ…と色んなラーメンに「浮気」をしていたら、京都に来て全く出す店が無いと知って愕然としたわけ。
そうなると恋しいもので、連れとネットで「ここはソレっぽい」とか調べては出かけてみては、だいたいがっかりしてきたものだ。いや、トンコツとか白湯とか、「別のうまいラーメン」をいくら食っても、あの「醤油ラーメン」はますます恋しくなるばかり…ってところでここの病院のレストランで再会したわけです。いや、京大下暗し、いや灯台下暗し。いつも通ってる病院にあったとは、という話でした。
ちなみにたった500円で、昔懐かしい「醤油ラーメン」が食えます。関東地方から転居や単身赴任なんかで来た人はゼヒどうぞ。
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2009-02-07(Sat)

大学で漫画を教育するということ。

俺が受け持った京都精華大での2008年度の講座「作家研究」の講義は1月で日程が終了、来年度はこの講座があるのかないのか、全く何ら大学側からはアナウンスもメールの一通も来ぬままであった。もっともこの講座は選択制だしオマケの教養講座みたいなものなので、どうしても実技実技と学生は向かうゆえ、受講登録数自体が十数名と少なかった。そのうえ毎回ちゃんと来てくれる学生は7〜9名という感じだった(が、その分熱心に聞いてくれた)ので、人気のない教授のゼミより少ない講座である。なので、学生たちには「来年度はもう来ないかも知れないので、また縁があったらどこかで逢いましょう」と最後に伝えておいた。

幸い、この講座を受講してくれた学生たちは皆、おおむね「知らない作品をたくさん知れて良かった」とか、「とても勉強になりました」とか言ってくれたので、お世辞でも嬉しかったっすよ。あと何人かの作品…ネームや原作なども見たけれど、「これだけ熱心に作品の批評を受けたのは初めてです」と言ってくれた子もおりました。でも編集が作家の作品を一生懸命読むのは当然のことなんだが。
結果、ジャナ専のかつての教え子たちほど密にはつきあえなかったけど、あたた方ももう俺の教え子なので、いつでも作品は見ますし、相談も受けますよ。生きているうち、だけど。

…さて過日、精華大の専任教授である連れ合い(やまだ紫)が入試立ち会いから戻り、言いにくそうに「来年のあなたの講義、やっぱり無くなった…」と言う。こちらはもう予想はついていたので「あ、やっぱりそう? しょうがないね」と応えておいた。会議の場で、というか会議で議論もなく、すでに、「学部長から既決事項なので」と突然告げられたので、びっくりしたという。

もともと、大学の非常勤講師なんぞというのは、まったくもって単なるショボいアルバイトと同じで、給与の額もコマ数で決まっており、それを12ヶ月分割して「月給」として貰うわけだが、週1コマだとその額は毎月3万円(と交通費)ということになる(笑)。要するにこの「月給」で生計を立てるのはもちろん絶対的に不可能だし、アルバイトとして…というかお金のためだったら、やらない方がいいと思う。
それに非常勤講師は立場も非常に弱く、よく別な大学の非常勤講師の方が「俺らなんて紙切れ一枚で簡単に解雇だからね」と話していたのを聞くことがあるが、いやいや、紙切れ一枚さえ、必要ないってことだ。ただ学校側としても、私学というのは学校法人というものを「経営」していくという側面もあるので、人気の無い=人が集まらない講座を維持していくのは要するに経営的にはNGということなのだろう。

俺が精華大で教壇に立つようになったのは、プロデュース学科の熊田先生が「あなたは若い学生たちに教えていた方が、絶対体にもいいよ」と言ってくださったからだ。ジャナ専で97年から癌宣告を受ける05年前期までずっと教壇に立っていたが、自分でも教職に向いていると思い始めていたところで頓挫したことも、心残りでもあった。なので、元々金が目当てでもなかったし、たった週1コマの講座が無くなったことが経済的に別段大きく痛いというわけではない。
ただ、やはり若い学生たちにいろいろな漫画や作家さんのこと、あるいは漫画に限らずこちらが経験した様々なことを伝えていく場が無くなったのは正直、残念である。それに若い学生たちの新鮮な感性に逆に触れさせてもらうことで、こちらが教わることもたくさんあった。つまりはカッコ良く言えばそういう「知的交流」の刺激がなくなることが、何より残念なことなのだ。

今の漫画界、それから漫画をアカデミックな場で教えるということについては、まだまだ、た〜くさん言いたいこともやりたいこともあった。
漫画を描く、ということをコミッカーズ的な漫画技法(つまりコマ割りやワク線や集中線や効果線やトーンワークやいろいろもろもろ)を習得する、うまくやれるようになる、と誤解する学生も多い。
ちょっと考えれば解るはずだけど、それはアシスタント仕事であり、出来ないより出来た方がもちろんいいが、必要絶対条件ではないことをまず理屈で理解すべきだと思う。「絵がうまい」というと一般の人たちは「写実的な絵がうまい」と勘違いすることが多いが、漫画絵というものは全てが写実になったら写真や映画でいいということになるし、何よりその作家の個性の否定になる。
例えばホンの喩えの一つ、こんな当たり前のことも、理屈でキチンと理解させてあげてから、伸び伸びと「作品を創る」「個性の輝きを身につける」「感性を磨く」ことも実技と同じか、あるいはそれ以上に重要な要素として教えるべきだし、教えられるのが四年制大学だと、俺は思ってきた。

精華大はもちろんそうした四年制大学という場でマンガ学部を持つ、日本で唯一(2008年度現在)の大学だ。漫画というのはもちろん、産業になって久しい。というか半世紀以上が経っているわけで、俺が物心ついた頃にはもうすでに漫画業界というものは巨大マーケットを誇っていたし、それは年々拡大していたし、拡大こそすれ縮小するとは誰も思っていなかったと思う。
もちろん少子化でこの先物理的に人口が減少してゆけば、当たり前だが読み手の数は減る。だが一方で漫画を普通に大人になっても読むという年代はもう還暦を過ぎているわけで、そう考えれば、精華のマンガ学部設立はむしろ遅かったという感さえする。(もちろん、そこに至るまでの関係者のご苦労は大変なものだったと思うのは当然。こちらの記事中の「追記」をご参照ください
とにかく、ようやく本当に「学部」に昇格してまだ3年だ、「四年制大学での漫画教育」は始まったばかりなのである。その段階で、講座の構成、カリキュラムなどに「試行錯誤」があるのは仕方のないことだとも思う。
それを踏まえた上で、いろいろとまだまだ不満が実のところ、た〜くさんある…と提言して行くつもりだったが、まあもうそれもいい。別な学校なりで機会を与えられればそこでやるだけの話だ。
多くは語れないが、精華も大きく関わっている「京都国際マンガミュージアム」であるが、コンセプトは素晴らしいものの、公開がいかんせんメジャーなマンガばかりに偏りすぎている。「メジャー」に対して「マイナー」という言葉が対語としてあるのでしょうがなく「マイナーマンガ」と呼ぶが、例えば「ガロ」系にしても劇画系にしても、扱いが低すぎると思う。「マイナー」という言葉を「劣っている」と無意識に捉えているフシがそこここに見られる。このことは俺の持っていた、実技ではない「教養講座」つまり座学の講座の人気の無さにも現れている。

何度も書いているように、メジャーな作品=いい作品ではない。メジャーな作品というのは作家や編集者や版元などもの凄い数の人たちが関わって(それこそ「産業」だ)、作られている。なので、作品がいいか悪いかではなく、売れるか売れないか、が大きくその作品の評価の要素となるのは必定。簡単に言うと産業としての漫画の論理は「売れたらいい作品」「売れない作品など存在しないも同じ」ということになるのだろう。
それはそれで、マンガというものを産業というか経済という一側面から見れば「正しい見方」だ。それは絶対的に正しい。メジャー、いや、いつも言うように「マス」コミックの世界での大御所、手塚治虫先生の名を出せば街を歩く人百人全員が知っているだろう。ではつげ義春の名前はどうか。百人中数名だろうか。90年代にブームがあったから、もうちょっと多いか。いずれにしてもその程度だ。では白土三平はどうだろうか。
とまあ、こんなこと今さらガキみたいに叫んでもしょうがないので、ちょっと飲みついでにこういう話を連れ合いとよくしている…という風情でまあご容赦いただきたい。ただその一般人が「知っている」あるいは「よく知っている」ぐらいのレベルの「喫水線」があるとしたら、そのあたりを浮いたり沈んだりしている作家・作品はゴマンとある。ちょうど巨大な客船が沈没した後に無数の価値あるもの・無いものがプカプカ波間に漂っているようなものか。しかし海底深くに沈んで誰の目にも触れないところにもお宝はあるのではないだろうか? そういうところに目を向けさせるのも、役割としてはあるんじゃないか?

今、学部昇格はまだないものの、大学で漫画を教える学校はどんどん増えている。しかし精華に限らずこれから大学という場で、教育としてマンガを教えるのであれば、「コミッカーズ」的な技法や、「同人誌の作り方」みたいな、要するに実技としては楽しいかも知れないけれども、「慣れれば誰でも出来るようになる」ことにあまり力点を置かない方がいいだろう、と重ねて言っておきたい。もちろん従来の美術、芸術系の大学の基礎講座としてのデッサンや絵画技法は当然必要だろうが、それは、字を書くにあたってペンや筆の持ち方やいろはという文字を教えているに過ぎない。
問題は、「キミたちは表現手段として漫画を選んだ。では、漫画で何を表現するのだ?」ということではないか?
また、漫画という技法以外の表現手段を積極的に学んだりすることも大切だと思う。油彩でもいいし水彩でもいい。何かがそこからまた漫画にフィードバックされればいいだろうし、されなくてもいい。しかし必ず勉強にはなると思う。もちろん何でも意識的に向かわねば、つまり「与えられた課題なのでこなす」という態度では何も身につかないのは言うまでもないことで、それは何についても同じだろうし、受け手の側の意識の問題である。
連れ合い(やまだ紫)は昨年「チョークアート」の講師を招いて、学生たちに作品を作らせた。漫画とは全く違う画材、道具を使って作品を描かせることで、自分たちが漫画という手法を選んだこと、あるいは今後どうしていくのかということを見つめ直し、何かを吸収できたのではないか。
以前から「いい漫画家になるにはどうすればいいのか」という単純かつ普遍的な問いにいつも、「いい小説いっぱい読んで、いい音楽いっぱい聞いて、いい映画いっぱい観な」というかつての師、長井さんの言葉を使ってきた(漫画家になりたい人へ)。
それに対して「でも先生、どうすればそういういいものに出会えるのかがわからないんですよ」ということも学生からよく聞く。そこのガイドや道筋を教えてあげる、ちょっとヒントを与える、いやあからさまに教える、それが「教育」の場で求められてるような気がするのだが。
俺一応編集の端くれなんで言うけど、
漫画家は、同人誌の作り方なんか知らなくたっていいんだよ。
むろん知らないよりは知っている方がいいだろうし、趣味でやって楽しいんだったら全然問題ないが、そのレベルの話だ。そもそも昔は同人誌というのは文字通り「志を同じくする者」同志が漫画なら漫画作品を持ち寄って切磋琢磨したものだ。かつて80年代までには全国の高校や大学にだいたい漫研がすでにあった、しかしそれらの発行していた「同人誌」は文字通り「創作系」が90%で、パロディはほとんど無かったと記憶している。何が目的かというと、漫画という表現手段で自分の何かを人に見てもらいたいから創作をした、商業誌にはまだ掲載してもらえないので、であれば自分たちで本を作って…という当然の成り行きであった。そこに相互批評は当然あったし、辛辣な意見でケンカになることもあったし朝まで議論したりしたこともあっただろう。ていうか俺たちだってそういう時代があった。
問題は「本の作り方」ではない、「どうしたらいい漫画が描けるか」、それだけだった。漫画をどうやって描くか、どうやってお話を作ったらいいのか、そのためのさまざまな知識や教養を、四年間、大学という場で仲間と過ごし吸収できるなんて、本当に70年代後半からしたら夢のようだと思う。要するに「本の作り方」なんか知らなくても「いい作家」になれるし「いい作品」だって描けると思う。
もう一度声を大にするが、
本を作るのは「編集者の仕事」です。
漫画家はいい作品を作ることだけに目を向けて、全身全霊をそっちへぶつけて欲しい。余計なノンブルがどうしたとか版面がどうだとか、そんなん俺たち編集者が悩めばいい話だ。作家はつまらん細かいきまりごとやテクニックだの、ウジウジとそんなん勉強せんでもいい。ていうかそんなん誰だって4年もやってりゃうまくなる。うまくならなくたって、漫画家になってる人は山ほどいる。
極端な話、教室のホワイトボードに一面、素晴らしいコマ漫画が描かれたとする。原稿用紙の規定に反してるからそれは「ダメ」か? 違うだろう、その作品をどうやって本という形に落とし込むか、それを考えるのが編集者だろうが!!! 

とにかく、まだまだ若い世代に伝えたいことは山ほどある。やっぱり残念至極、である。
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2009-02-03(Tue)

下鴨神社で節分 その2

<つづき>
舞殿は俺が立っていた場所へはもうさすがに割って入れる状態ではなかったので、西側の方から南側を右手に見るような場所へ行き、2〜3列目に立った。幸い目の前はおばちゃんやお年寄りが多く、俺の視界は比較的良好だったので、儀式の次第が良く見えた。まずは神職によるご祈祷から始まり、南東に腰掛けていた烏帽子に帯刀の射手がおごそかに右手に弓懸け(ゆがけ=ガード)をはめる。いよいよかあ、と思って見ていると、四方へ向かって弓を弾く真似だけをして、「やぁーっ」というかけ声。
これからかな、と思っているとツンツンと左袖を引っ張られた。連れ合いかな、と思って振り返ると「こんにちは〜」と明青の渡辺さんの奥さんで、ビックリ。ご主人ももちろんおられ、3人で見物することにした。
さてその射手は四方へ弓を射る真似をしたあと、弓をうやうやしく北側の元あったところへ納めてしまったので、3人で「あれあれもう終わり?」と顔を見合わせる。ご主人によれば、去年までは失礼ながらほんまに大丈夫か、と思えるほど小柄で高齢のご老人が弓を射たそうで、ひょっとしたら後継が途絶えたのかいな、とまで心配する。この頃連れ合いが我々に気づいてこちらへ来て、手袋があんまりだったので俺が持っていたハンカチを頭に被せてやる。

この弓矢が高く楼門を超えるまさか今年はやらないのか、いやこうした伝統儀式は途絶えさせるはずがない、と思いつつ見ていると、もう一人、舞殿の南西側に鎮座していた別の射手が、ゆがけをし始めた。そうして今度は和弓と、先ががまの穂のような形に丸くなって金色に塗られた矢をとり、立ち上がった。明青さんの奥さんは「去年までは本当にこう言っちゃアレだけどヨボヨボのおじいさんだったのよ、でもあんな若い人で逆に大丈夫かしらねえ」と言っていたが、ご主人は腕組みをしながら「ヤツはやる」と一言。「顔が違う!」と男らしくキッパリ言われるのでよく見ると、若そうに見えただけで、40代くらいの人で、顔にも気合いがみなぎっている。
そうしてゆっくりと舞殿の南の階段を降り、キリキリと矢を楼門の上めがけて狙いを定め、弦を引き絞る。楼門はかなり高い、しかしあまり角度をつけすぎると、今自分のいる舞殿の屋根の内側を射貫きはしないかというくらいの角度だ。うわあ高い、と思ったその瞬間、矢が放たれた。するとその矢は
「ぽぉーーーーーーーーーーー!」
という、これまで聞いたことのないような何とも気持ちの良い、清々しく神々しい音をたてて、見事に朱塗りの楼門を飛び越えて行った。思わず観客から「うおおお!」とざわめきと拍手が巻き上がった。あの「音」が邪気を払い、厄を吹き飛ばしてくれるのだというのが良く解った。いやもうこれで俺も一年大丈夫だなあ、とありがたい気持ちになるほど「いい音」だった。去年の節分の日、明青さんご夫妻が「あの何とも言えない音は聞いたモンじゃないと解らない」と言っていたのがよぉぉぉく、解りました。

その後「いやー良かったあ!」と余韻を味わいつつ進行を見ていると、今度は舞殿の南側砂利の上に置かれた椅子に控えていた若い学生たちが6名ほど、舞殿へ上がって行った。当たり前だがこの儀式を行う人は全て、平安装束だ。どこかの大学の弓道部の学生たちが、今度は3人ずつ東西に別れ、それぞれに6枚ずつ掲げられた朱塗りに墨で●が描かれた的を射抜く。これら合計12枚がそれぞれ12ヶ月、すなわち全て射貫かれ、見事に一年間の厄除けをするというらしい。俺たちは舞殿の左側つまり西側の最前列で見ることが出来た。こちら側のは朱に●が三角形に三つの的で、反対側つまり東側の的は●が一つのもの。こっちは年の後半という意味だろうか、関係ないのか。

大学の弓道部の学生たち。なかなかの腕前。さて準備が整い、若い学生が順番に舞殿の上から和弓を引き絞り、「やぁああーーっ!!」という勇ましいかけ声と共に矢を放った。予想より早いスピードでシューッと矢が的へ向かい、一つ目の的は見事に真っ二つに割れて落ちた。観客から「おおーっ!」と歓声と拍手が起こる。二番手は惜しくも外し、三番手は見事に射貫いた。順番に数本ずつ放つが、射貫かれても割れた板が残っていれば、それを弓で落とさねばならないらしく、かけらが残っていたのも最後まで見事に全て打ち抜かれた。
命中した的の板は割れて落ちる。次の瞬間、「わーっ」と最前列に居た人たちが的の方へ向かったのだが、何のことかと思っていたら、明青さんの奥さんがニコニコ笑いながら射貫かれて割れた半分より大きな的を持って戻ってきた。「これあげようと思って」と言って取りに行ってくれたのだ。この射貫かれた板は縁起物だそうで、一年祀っておくと厄除けになるという。旦那さんは板を「パキッ」と割ると4枚ほどに別れたので、近くにいてちょっと話したおばちゃんにも分けてあげていた。もちろん、我々もそれを有り難くいただきました。いやほんま、ありがとうございました。ちなみにうちの連れは周囲につられて慌ててヨタヨタと走って行ったが、何も取れずに苦笑いしつつ引き返してきた。さらに、射貫いた矢の方を持って来た人もいたのだが、残念ながら縁起物は「射貫かれた的」の方であり、矢は巫女さんや係の人が回収して廻っていたのであった。
うーん可愛そうに…と思っていたら、俺が手にした的の板をうらやましそうに見る目が。何とそれはあの割り込み大阪弁おばはんであった。やはり神はいたもうたのだろうか、へっへっへ、残念でしたなあ。
そうして明青の渡辺さんご夫妻は「じゃあ私たちはこれから吉田神社行ってきますんで」とさっそうと去っていかれたのであった。格好いいなあ。そもそもこの行事のすばらしさを教えていただいたわけだし、割れた的まで取って貰い、もう本当に有り難かったです。
右手奥がたわわちゃん。次はいよいよ舞殿からの豆まきとなるのだが、まずは二十人ほどの捲き手、つまり年男や年女や還暦の人、厄年の人らが裃姿でぞろぞろと舞殿に入って正座していく。儀式の前には必ずお祓いを受けねばならないので、京都タワーのマスコット・たわわちゃんも裃で正座しているのがおかしかった。
ちなみに下鴨神社の厄払いの色は黄色なので、年男や厄年の人は黄色い着物だそうで、赤い着物は還暦の人だそうだ。気がつけばブルゾンも帽子もマフラーもけっこう濡れてきていて、背中がゾクゾクする。風邪ひいたらヤバいなあ…と思いつつここまで来たんだから豆貰うぞ! という意気込みでひたすら待った。

お祓いが終わり、いよいよ豆まきという段になって、これまでゆるく舞殿を取り巻いていた輪が急速にタイトになり、神職さんの「それでは、福はぁ〜ウチ〜!」のかけ声と共に始まると、「きゃー」「うわー」「こっちこっち!」とかもう右往左往。
俺はしばらく遠目に呆然と見ていたが、いかんいかんと思い輪に入ろうと思いつつ、腫れた脾臓を庇うのでどうしても右手しか挙げられず、なかなか飛んでくる餅や豆の袋をキャッチできない。それでもバラで飛んできた豆を一つナイスキャッチ、そうして前のおばちゃんのフードにポロリと入ったもう一粒を拾って二粒。これで夫婦一つずつは縁起物が食べられるな、と思ってると、今度は餅の袋がぽとりと目の前に落ちた。「オッ」と思って我ながら凄い反射神経で思わず拾うと、隣のおばちゃんが「ああっ…」とタッチの差で悲しそうな声。すんません。でもそのおばちゃんも後で拾えていたので問題なし。
さらにもう一つ餅の袋を拾えたので、やれやれ豆は一粒ずつだが餅はニコ入り一袋ゲットしたわいと思って輪を離れると、しばらくして連れ合いが両手に豆と餅の袋をいくつも抱えてニコニコしながら戻ってきた。聞くとけっこう前の方で、貰ってはポケットに入れてまた手を挙げて、とやっていたそうだ。連れの周辺ではおじいさんが「うわあ」と尻餅をついたのを連れや周りのみんなが助けてあげて、さらに連れは拾った餅をそのおじいさんに分けてあげたり…というほのぼのした光景があったそう。
いやー疲れた疲れたと、豆まきも終わって楼門を出ると、今度は甘酒売り場の脇で梅の枝を無料で配るというのに行列が出来ている。来る時もあったのだが、こちらは初めてだったので場所取りが必要かとあせっていて貰いそこねた。明青さんご夫妻が来た時はもう梅は無くなっており残念そうだったので、じゃあ代わりに貰っておこうと、連れが並ぶ。俺はそのまま来る時に囂々と燃やされていたお札などの前に行き、冷えた体を温めた。

積まれた護摩木に火が入れられる。数分で連れが梅の枝を貰って戻ってくるのが見えたが、その手前に自分も書いて供えた護摩木の護摩焚きが行われるとかで、ロープが張られていく。俺も連れと合流し、祝詞が書かれた紙を貰い、神主さんらと一緒に詠んだ。
燃え上がる紅蓮の炎。
護摩木を燃やす炎を写すと、なるほどよく言われるようにいろいろな形に見える。人によっては心霊写真だとか騒ぎそうな複雑な形をした炎だ。それをしばらく見て、それからまた「古神札焼納」の火にしばらくあったまってから、参道を出た。何だかんだで飲まず食わずで気がついたら2時を軽くまわっている。雨で体は冷えたし腹も減った。出町の駅までとても持たんな、と途中で東側に逸れて、喫茶店へ避難した。そこでようやく遅い昼食、カレーとコーヒーで一息ついた。
それにしても、明青さんのお陰であの有り難い「追灘弓神事」も見られて素晴らしい音も聞けたし、思いがけず射貫かれた的の板もいただいた。さらに福豆も福餅も貰えたし、良かったねえと話す。
節分は京都市内あちこちでいろいろと行事がある。北野天満宮では神楽殿での狂言の後で上七軒の芸姑はんたちが豆まきをするというし、千本釈迦堂ではおかめさんが赤鬼と青鬼4匹を改心させる行事、聖護院や壬生寺では山伏が出て八坂神社では二日連続で祇園や宮川町先斗町の芸姑はんたちが舞踊を奉納したり松尾大社でも弓神事があるし…ともうあらゆるところで豆まきだけではない、さまざまな神事や催しがある。
そうしてこれは「節分」というイベントに限らなくで、京都にいると季節ごとに時代祭、鞍馬火祭、葵祭、祇園祭、五山送り火などなど、あるいは小さな節句や行事も非常に大事にされていることがわかる。今回の節分も、下鴨神社と吉田神社をはしご…というのはいいコースだと思うし、来年はどこへ行こうか、という思案もまた楽しみだ。
こういうことが生きることのモチベーションにつながるというのは、「京都へ来て本当に良かった」と思うことの一つなのだ。



これがゲットした的である!
左が明青さんの奥さんが取ってきてくれた、的の板。30センチ四方くらいあって、けっこう大きい。裏側には墨で漢字が書いてあり、「男」と書いてあるようにも見えるが、割れていたので不明なり。
今は「節分限定」の下鴨神社のお札と一緒に、お奉りしてあります。
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2009-02-03(Tue)

下鴨神社の節分

夫婦(と猫二匹)とで、東京から京都に転居してもう1年半が経った。今日は二度目の節分である。
「節分」というと「鬼はぁ〜外ぉ〜」の豆まきだけど、大人になってからはやらなくなった。毎年よくテレビに映る有名な神社仏閣の境内から、年男・年女、厄年の人、芸NO人や力士などが豆や餅を配る映像を見るだけの日だった。
ところが京都へ来て、懇意にさせていただいている下鴨高木町の名割烹・「楽味 明青」(ここの料理はほんま、すんばらしいの一言です)の渡辺さんご夫妻から、いろいろと市中あちこちで儀式があると聞いた。
例えばそれなりに意識して節分というものを調べてみれば、元々は宮中の行事であり、巷でも「季節を分ける」という意味で各季節ごとにその最初の日がそれにあたる…というようなことが解る。宮中の行事なので一般で厳格に執り行うことはまあ無くなっていく=廃れていくわけだが、この立春の節分だけが、邪気=鬼を豆持て払うという儀式によって定着した…ということらしい。
となれば、歴史と伝統と神社仏閣だらけの京都である。調べてみたら、ほんとんどの神社やお寺で、何らかの行事が行われていることが解った。昨年は、東一条の吉田山にある吉田神社の参道に、千軒近い露天がずらりと並ぶのは壮観ですよ、と教えられて二人で吉田神社へ出かけた。その後明青さんに福豆をお裾分けに寄ったら、「来年はぜひ下鴨神社へ」と勧められた。そして「今度は下鴨神社へ参れますように」と願ってはや一年、である。光陰矢のごとし。今年は邪気払いの矢が下顔神社の朱塗りの山門を高く超えるのをぜひ見たい、と思って二人で出かけることにした。

前もって渡辺さんご夫妻に教えていただいていたのは、11時頃からは境内で「古神札焼納式」つまり古いお札や前の年の干支の置物などを納め、焼いてもらう儀式が始まり、平安期の装束で行われる件の「追灘弓神事」は12時半から、ということである。その後、京都タワーのマスコットである、ゆるキャラ「たわわちゃん」も来て、福豆・餅捲きが行われるそうだ。

けっこう人が来るだろうなと予想して早めに家を出て、叡電茶山の駅から出町柳へ出る。そこから御蔭通りを超えて参道を上がって行く…というつもりだったが、これがけっこうな距離で誤算。とはいえ、あとはバスに乗ってぐるりと反対側(西側)の糺の森バス停から入るか、カナート側から川端を下がってどこか途中を東側から入れるところがあるのか、思い浮かばなかった。まあでも世界遺産・下鴨神社境内には何らテキ屋の屋台や露店など一軒もなく、いつも通り森に囲まれた細かい参道は静謐である。足下の細かい見事な玉砂利はいつもの白いものの上に、新たにちょっと茶色のものが全体に敷かれていた。それをジャリジャリと踏みながら、木々の放つ気持ちのいい空気を吸いつつ境内へ向かう。
燃えるお札や干支の置物。鳥居の向こうにはすでにお札などに火がつけられ、囂々と燃えている。近くを通ると暖かい、いや顔が熱いほどだ。この日は気温も7度くらいと低かった上、森の中はかなりひんやりしているから、この炎はありがたかった。

これが楼門。この奥に舞殿がある。
さて金色に光る矢が見事な弧を描き、何とも言えぬいい音と共に高くその上を越えていく…と聞いていた朱塗りの楼門をくぐって境内に到着したのは11時半過ぎだったか。「舞殿(まいどの)」という豆まきが後で行われる建物を中心に、左手には神服殿、北側奥にある門をくぐると、十二支のそれぞれ二支ずつを祀った社が並び、本殿へ通じる建物が見える。もっとも無料で一般客が入れるのはここまでで、我々は本殿に向かって参拝をし、自分の干支の社にお参りをし、護摩木に「當病平癒」の祈願と住所氏名生年月日などを書き入れて納めてきた。

改めて舞殿周辺をうろうろするのだが、12時前くらいになってもそれほど客は訪れず、初めての我々はどこに位置を取れば一番いいのかが解らず、少し遠巻きにして様子を伺うことにした。そのうちポツリポツリだった雨がちょっと小降りになったりまたポツポツになったりと、傘を忘れた我々には少し辛い状況になる。それでも、舞殿から楼門を矢が越すのなら、やはりそのすぐ近くが良かろうと、楼門を入ってすぐの左手、つまり舞殿の南西の方角に立って待つことにする。

そのうち気がつくとあたりはけっこう人が増えてきて、いつの間にか俺たちより後に来た大阪弁でのべつ幕無し(いや冗談じゃなく、本当に、十秒も黙っていられないらしい)しゃべくりまくっているオバハンとその母親らしきババアが、じりじりと一番前にいたはずの俺たちの左手から前へと被さってくる。だいたいここが最前列なのかも解らないままで、そのうち氏子の子弟だろうか、ブレザーを着た若い高校生くらいの男女がロープを持って、観客のラインを整え始めた。
果たして俺たちは一番前…のはずだったのが、よりによって俺たち二人のところでロープはゆるい弧を描いて舞殿を囲むような形になったため、俺たちの真ん前に若い整理の男の子が「すいません、ここ整理に立ちますんで」と言ってロープを持って立ちはだかった。そうして例のやかましい大阪弁の親子はまんまと、うまいこと俺たちと90度の形で左手に被さり、最前列をキープ。したり顔で俺らを見てニヤリと笑いやがった。こいつら確信犯だな、と思ったのは明かにこちら側の前に出よう前に出ようと、チラチラと横目で立ち位置を巧みに割り込み方向へズラして来ていたからだが、ううむここは神前であるぞ、おまいらには天罰が下るわい、と思ってひたすら寒さと足の疲労に耐え続けたのであった。

舞殿の南側=楼門側で控える学生たち。しかし雨はこのあたりでけっこうさーさーと降ってきて、帽子のあった俺はまだしも連れは直接頭が塗れるので、最初は革手袋を頭に載せていたのだが、後ろから頭を誰かがグイと抑えているような状態で手袋が乗っかっているのがどうにも間抜けである。12時半からだというのに、「追灘弓神事」はなかなか始まらない。かれこれこの場所に立ち続けて40分ほどになる。大阪親子は勝ち誇った顔でこちらが目の前の整理の子の頭越しに斜めに首を傾げているのを時折ヘラヘラと見ている。雨は止まず気温は下がり、足、特に足首と膝の感覚が無くなってきた。これはまずいと思い、連れに「すまん、もう限界」と言ってせっかくキープした場所を離れることにした。気持ちが折れたわけだが、離れるにせよ、足が曲がらなくなっていることに驚いた。まるで壊れたロボットがさび付いた関節を曲げられずにノタノタ歩くかのように、ゆっくりと痛みを堪えながら、楼門側の屋根のある方へと下がった。

そこは屋根の下で木製の長椅子があったので、そこへヤレヤレと座る。よく考えたら俺の免疫力も体力も、おそらく老人並なのだろう、これは苦行である。そうして一息ついて遠巻きに眺めていると、観客の数は意外と少ないことが解った。一番いい位置つまり舞殿の南側周辺だけは三重〜四重の人垣だが、それもゆるゆるで、全体では200〜300人いたかどうか。そこで10分ほど座って休んでいたら、ようやくざわざわとし始めたので、せっかく来たんだしと気持ちを立て直して舞殿へ向かう。
 その2 につづく>
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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