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2009-04-30(Thu)

連れ合いが倒れた 16

4月30日(木)

夕べ(4/29夜)はあれからMの写真に「おにぎり食べるよ」と声をかけ、ほうじ茶を二人分淹れてから食べた。
それからお姉さんに「昨日はすみませんでした、下痢も止まったし朝のおにぎりも食べられましたので」とメール。すぐに「良かったです、無理しないように!」と返信。本当はずっと下痢が止まらないのだけど、みんな、心配してくれている。

そうだな、俺がメソメソしているのをあなたが見たいわけがない。
だから、まだはっきりと俺の前に現れてくれない。
気がつけばずっと風呂にも入っていなかった。すぐに支度をしてシャワーを浴びる。
浴びながら、はっきりと解った。

そうか、俺はいつの間にかあなたと一緒に暮らしていることを「当たり前」と考える無神経な人間になっていなかったか。
余命宣告を受けた「あの夏」にあれほど望んだ「日常」が平穏に過ぎていることに、無頓着ではなかっただろうか。そんなことでは「早く一緒に連れてってくれ」なんて言ったって、同じことの繰り返しになる。
まだまだあなたがやり残したこと、俺がやっておかねばならないことが山ほどある。
俺がそれらをこなし、これまで以上にあなたにふさわしい人間に成長することが出来たら、
その時、笑顔で迎えに来て欲しい。
そうか、そうだった。俺は生きて、今度こそ、こちらから包み込むようにあなたを全身全霊で愛し、あなたの愛に報いられる人格に成長して、迎えに来てもらえるだけの人間にならないといけないんだ。
解った、もうはっきりと解ったよ。

「…ただ、あなたが生きているうちに気付いておくべきだった…」

大丈夫、俺はほんの少しずつではあるけれど、薄皮を剥ぐように「この苦痛」を受け入れつつある。納得など到底出来ない。けれどこれは現実であって悪夢ではないのだ。

空元気を出し、柔らかい日差しがベランダにあたっていたので、植木や苔玉に水をやった。
すぐにユキが飛んできていつものようにベランダをうろうろ。いい、天気だ。
気がつくと、無意識に病室で聞いたカーペンターズの「I Need To Be In Love」を鼻歌で口ずさんでいる。
タイトルの意味は「私は愛の中にありたい」ではちょっとダサいかな、くらいで意味は深く考えたことは無かった。
昨日からMの周辺では、カーペンターズが響いている。
気になったが、つたない英語力では完訳は難しいので、ほんとうに素晴らしい翻訳を紹介された方のサイトを見つけた。
I NEED TO BE IN LOVE  青春の輝き:milk panmilk crown :So-net blog

この翻訳を読んだら、「BlueSky」の愛子、いやMに重なって仕方がない。
もちろん、この詩(うた)は、1976年にカレンの旧友(John Bettis)がカレンのために創ったものだ。
カーペンターズファンだった俺たちはもちろん最近のリバイバルブーム以前から知っていた曲だけど、二人とも歌詞の中身を真剣に考えたことは特になかったと記憶している。
歌詞では別れた相手に対してまだ切ない思いがありそうなところが現実と違い、そこから早く立ち直りたいという悲しい「頑張り」が、カラ元気だというところも違う。しかしそれ以外の部分があまりにダブる。
歌詞の最後に
「でも 私は大丈夫」
とあるのが、俺たちがまだ同居する前の、あの団地で暮らしていた頃のあの人に重なる。
それにしてもカレンの歌は素晴らしい。まさしく「天使の歌声」「神から授かった声」だ。

パソコンにはもちろんデータ化したベストアルバムを入れてあるので、「一緒に聴こう」と思って再生した。
1曲目から「I Need To Be In Love」の美しい旋律が流れた。
Mさんや。病室や、Yちゃん一家の周りでカーペンターズをかけたね、これからはうちでかけるから。

ずっと無音だった家の中にようやく「音」が、音楽が戻った。

今日は上洛していたお母さんたちが、一度東京へ戻る日だ。元気出して心配をかけないようにしなければ。
Mが倒れた日にはあんなに寒かった京都が、今日は20℃を軽く超える陽気で、まだまだ気温は上がりそうだ。

2時近くなったので、昨晩小川先生が自宅まで届けて下さった千羽鶴を持って出た。本当にいい陽気だ。街はTシャツ一枚で自転車を走らせる若者までいる。
2時過ぎにタクシーで病院に着くと、エントランスホールの椅子にはMのお母さんお姉さん叔母さんがすでに座って待っていた。皆、表情が固い。

エレベータ内でも努めて元気を出して振る舞い、いったん千羽鶴を持ち込めるかどうか聞くために、一人で先にICUへ入る。
Mは、昨日と逆の方向に頭を向けられ、昨日と同じように深い眠りのような呼吸を「させられている」。
ちょうどMの点滴を交換していたナースに挨拶をし、「これ、ここに持ち込んでもいいですか?」と千羽鶴を見せた。
ナースは「わあ、すごいですねえ! もちろんいいですよ」とビックリしていた。
「どこか飾れるところはありますか」と聞くと、「あ、今点滴交換なので、あとで準備します」とのこと。
すぐに取って返して、お姉さんたちに「飾ってもいいそうです」と言って中に入ってもらう。

ICU個室に入るとすぐにお母さんがMの顔の横へ行って「Mさん、今日いったん帰っちゃうよ。」と言って顔をなでた。。お姉さんたちも顔を見ながら「もう頑張らなくていいよ〜!」と声をかける。俺はタオルで涙を拭き、乾いた唇にリップを塗ってやる。皆でまたMを囲んで、めいめいが語りかけたり撫でたりした。

ナースが「じゃあこれに吊せますから」と言って、天井のフックに引っかけて点滴などをぶら下げる金具を持って来てくれた。
礼を言って、俺が「学生さんたちが折ってくれたんですよ」というと、「学生さんが?」と聞かれたので、
「そうなんですよ」と言って千羽鶴につけておいた、勲章のような紅白の花飾りを見せる。
去年の11月、Mが「INTER BEE」のパネルディスカッションに招かれた時に胸につけた、
「京都精華大教授 やまだ紫」と書かれたものだ。
「ああ、大学の先生だったんですか!」とナースはまた驚いていた。
すると叔母さんが自分のことのように「そうよ、マンガ家なのよ」。
「やまだ…紫さん?」と花の名札をナースが言うので、俺は
「そうです。もの凄い人なんです」と答えた。
それから、ナースが点滴などで何度か出入りした後、「じゃあ後は外におりますので、ゆっくりなさって下さい」と言われてドアを閉めて出て行った。
丸椅子に腰を下ろしたり、立ってMの顔をなでたり4人さまざまな動きをしていたが、やがて皆ほとんど黙ってMのベッドを向いて丸椅子に座り、なんとなく空気が重くなった。
…手術なんかしない方が良かったんじゃないか。そんな空気だった。

俺は隣に座ってMのお母さんの背中をさすっているお姉さんに、
「寝たきりになるのは避けられないが、命が助かる確率が上がる…と先生に言われましたから、それだったらと思って…わずかな望みでもあればと…踏み切ったんですけど…」
とつぶやく。
お姉さんは「うんうん、そうだよね。みんなそうするよ」と言ってくれたが、お母さんはこわばった顔をしてMを見つめている。
なので、お母さんの前で腰を折り、
「どうもすみませんでした。こうなると最初から解っていればやらなかった方が良かったです。」
と謝罪した。

Mを救急車で運んで行った時、救急外来でA先生に説明を受けた。その時は確かに
「開頭手術で血腫を取り除くにしても、救命(命が助かる)確率がちょっと上がるだけで、寝たきりになるのはおそらく避けられないと思います」
とはっきり言われた。
ところが、頭を開けてみたら、予想外の血管奇形か障害が最初からあった、だから無理だった、という結果が出た。
最初から、「手術しても100%ダメです。」という「術後」の「結論」が解っていれば、頼まなかったと思う。それなら、このまま楽に…と思っただろう。
でも、「救命の可能性」がほんのちょっとでもあったのなら、お願いするのが夫だし家族なのでは…? 何を言っても、事後では言い訳としか聞こえぬだろう。そんなことを思いつつ、無言で座り直した。

寝たきりになったとしても、麻痺が残っても障害が残っても、今後リハビリや介護をしてでも、俺が一生付き添って行く。命さえ助かってくれれば、寝たきりの人が辛抱強い家族の呼びかけやマッサージなどで、意識をホンの少しでも回復した例だっていくらでもある。
それを「奇跡」と呼ぶのではないか…。
「奇跡」を信じて、ほんの数パーセントの「救命確率」の上昇に賭けるのが、愛する妻を思う夫の役目ではないかと思う。
俺は間違っていたのだろうか!?
猛烈な怒りの感情がなぜかわき起こった。誰に対してとか何に対してというより、この今Mと自分たちが置かれている、この現状がどうしても受け入れがたいという強い感情の高まりがわき起こった。
「怒り」は生きるということへの強力なモチベーションとなることもあるのだ。俺はこれまで、何も悪いことなどしていない、いや、それどころか真面目に、誠実に頑張り続けて生きてきたMがこれまで、病気や苦痛に苦しむたびに、そして自分が癌になった時も、
「何で俺たちがこんな目に」という強い怒りを感じ続けてきた。
今回のことも、メソメソしていた自分に強烈な「怒り」というエネルギーをぶっかけてくれたと思えば、少しは気が楽になるというものだ。
他の人は知らない。けれど自分にとって、この悲劇を少しずつ受け入れつつある、そして同時に「涙」が「怒り」に置き換わりつつある。

そんなことを考えながら、20〜30分近く経ったろうか。「下で今後のことを」ということになり、Mに皆口々に別れを告げて、ICUを出た。

下のレストランに入って真ん中奥にテーブルをくっつけて、4人掛けにして座る。
ここは醤油ラーメンをMと何度も食べた場所だ。
俺の希望はもう、あの人の素晴らしさを、やまだ紫の作品を、できるだけ後世に伝えたい、ただそれだけだ。
手続や手配はやるけれど、Mの作品さえ後の世代に伝えられたら、あとは何も望まない。
彼女の息吹、匂いが感じられる小さなものが少し身の回りにあれば、何も必要ない。

絶望の上に重い気分が重なり、目眩が止まらない。朝飲んで来たのに、お冷やでまた目眩止めを飲む。
20分ほどいたか、つらく苦しい「話し合い」は終わり、玄関を出てタクシー乗り場へ向かう。
タクシーに3人が乗り込み「じゃああとは、よろしく…」と皆さんに言われて、お辞儀をして見送った。
続いたタクシーでまっすぐ自宅の近くまで戻り、コンビニでゴミ袋やお茶、コーヒー牛乳を買ってマンションの入口へ戻ると3時半近かった。

ポストを見ると、俺とM宛の健康診断の申込書が2通入っていた。
まるで笑えないジョークのようだった。

部屋に戻ってMに「ただいま」と言って着替えていると携帯が鳴った。日中何度かお電話をいただいたが、出てもなぜかすぐ切れるなどタイミングが合わないうち、こちらは出かけてしまったり病院内だったり。
電話はMの親友、詩人の井坂洋子さんからで、5分ほどお話をする。井坂さんはMを気にかけいたわって下さり、最後に
「白取さんも、お体気をつけてね。紫さん、いつでも『ちかお、ちかお』って言ってたから」
と優しい言葉もかけていただいた。
昨日までは口ではそうですね、と言っても「もう俺の体なんかどうなっても…」と正直思っていたが、もう大丈夫です…いや、大丈夫になります。ありがとうございます。
それでもやはり、どうにもやりきれない気持ちを、すぐにこうしてテキストにぶつける。それで多少楽になる。これを、これから何度繰り返せばいいのだろう。


夕方4時半。
相変わらず目眩は弱いまま止まらないが、洗濯機で乾燥をかけておいた下着類を取り出して畳んだ。最初から入っていたもの以外、Mのパジャマなどは敢えて上の籠にそのままにしてある。
洗ってしまえば、「Mの匂い」が消えてしまうからだ。
俺の下着や靴下などを畳んで、あとはMが脱いで入れておいた靴下が5、6足。これもいつものように畳んで行く。洗濯機は乾燥付きだけど、Mはいつも「お日様の方が気持ちがいいからね!」と言って晴れた日に洗濯をして、よく二人で籠を持って南向きのベランダに干したっけ。畳むのも、二人の間に洗濯物を置いて、一緒にやっていたよね。
洗濯機の上に載せてある籠に入っていたMのパジャマは、抱きしめるとやっぱりMの匂いが残っている。けれど、それはMにとっては「汚れ物」だから、匂いを嗅がれるのは恥ずかしいかも知れないな。そう思ったが、洗濯はせぬまま、畳んだだけで元の籠の中に積んでおいた。

その後5時過ぎになって、そういえば「京都に(長女の)Mちゃんが来るかも知れない」と言ってたな、と思ってYちゃんへ電話する。
聞くとMちゃんは結局、今日お母さんたちがいったん帰るなら、行かないということになったそうだ。じゃああとは…「待つ」だけか…という話で落着。
7時ころ、Mのお茶を取り替えて、古いお酒を新しいのに入れ替えた。そうして写真と差し向かいで、「明青」のおかあさんが持って来て下さったおにぎりとおかずを食べる。
「ほら、手羽中。若竹煮、生麩の焼いたのも入ってる! みんな君の好物ばっかりだよ」と声をかけて「おいしいね」と話しかける。
こうしていると、不思議とモノが食べられる。
食べて気持ちと体力を立て直し、元気を出そう。明日もまた病院へ向かおう。

心配いただいている全国のやまだ紫ファンの皆さんのためにも。
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2009-04-30(Thu)

連れ合いが倒れた 15

ゆうべ10時ころ、「明青」のおかあさんから電話があった。
「今日夕飯何か食べられた?」と聞かれたので、「下痢がひどくて…」と答えると、
「ダメよお、ちゃんと食べないと、奥さん心配するし、ちょっと遅くなるけど今からおにぎり作って持っていくから」と言われる。
あまりに好意に甘え過ぎなので申し訳なく、「いえ、そんなにしてもらったら申し訳ないし、下痢で食べられないし…」と遠慮すると、
「遠慮だったらしなくていいし、ご迷惑やったら行かへんけど」と言われてしまい、またもや甘えることにした。

30分ほど経っておかあさんがおにぎりとおかずを持って来てくれた。
「どう? お腹の調子は」というので、「やっぱり水分しか摂れないので、下痢ばっかりするんでしょうかね」と話す。
「ダメよお、ちゃんとお米食べて、元気つけないと薬も効かへんし、免疫力も上がらへんよ!」と叱られた。
「奥さんいっつも涙ぐむほど白取さんの体調気遣ってたんやから、そんなんじゃ一番悲しむよ!ちゃんと食べてね!」と言われる。
お礼を言って有り難く受け取り、気を取り直して小川先生に届けていただいた、精華大のみんなが追ってくれた千羽鶴をおかあさんにも見せた。「わあ、凄いやん! 生徒さんに好かれてたんやねえ」と言ってくれた。

そういえば、この日、Mが大学で教えるようになった当初から割の仲の良かった留学生で、今は博士課程を卒業し助手のようなことをしているG君からメールが入っていた。
「数年間の間、お話も伺えて、本当にすばらしい方で、すばらしい出会いです。」
と言ってくれた。G君は大柄で一見怖そうな外見だが、Mは「G君G君」と呼び、彼も慕ってくれていた。だから俺も
「やまだ紫を知ってくれた人みんなが、あの人を素敵な人だ、いい人だって言うでしょう。
 それが、本当にあの人なんですよ。
 あの人のことを悪く言ったりする人がもしあったら、それは、その人が悪人なだけなんです。
 そのことは、25年近く連れ添った自分が長年たくさんの人を見てきたから、解ってるんです。
 やまだと関わりを持てたことを、大事に思ってくれてありがとう。」
と返信した。
自分の娘よりもさらに一周りも若い女子学生たちから、「やまだ先生かわいい」と言われて困るとか、ある時は、遠くからやまだを見つけると「大声で呼びながら走り寄ってきて、ハグする女子がいるのよ」と苦笑していたこともあったっけ…。

「明青」さんには以前Mが描いた猫の絵をレジ横に飾っていただているが、
「あの猫の絵、大事にして下さいね」と言うと少しこみ上げた。
おかあさんは「もちろんですよ、それに今日は水曜日やし、ああ、来られへんなあって話してたのよ」と言われる。お礼を言って、おかあさんに頭を下げる。大将にも本当に感謝の一言しかない。

いつか、俺が一人であの長いカウンタの「定位置」に座れる日は来るのだろうか。
いつもいつもいつも、俺の隣にはMがいた。
だからおいしい酒や料理を「おいしい」と感じることが出来たのだ。
今は何を食べても飲んでも、うまいと思うことはあっても、それに伴う幸福感、喜びが全くない。

それでも、こうしてご飯を届けていただいて、俺は本当にしょうがない人間だとつくづく情けない。
Mがいなくなったら、今度は周りの人みんなに甘えるのか。
そういう情けない生き方を、俺はするつもりなのか。
そう考えると、食欲がないだの、他人と会う気がしないだの、確かにMがいたら「しっかりしなさいよ!」と怒られそうなことばかり言っている。

せっかくのご厚意だ、おにぎりを食べよう。
ウーロン茶を飲むために台所にあったコーヒーカップを洗おうとスポンジを入れてこすると、スポンジが手前に滑り、自分の顔に激しくしぶきが下からかかった。こんなこと初めてだ、Mにハッパをかけられた思いがする。
写真に向かって「食べるよ」と言って、おにぎりを食べた。
「おいしいね。やっぱり明青さんだね」と話しながら、おかずも少し食べた。
俺たちがいつもオーダーしていた絶品の「手羽中の唐揚げ」もあった。
これは二人とも大好物で、お店ではいつも頃合いを見て揚げたてを出してくれた。それを、Mと二人でかぶりついて、「うまい!」「おいしいね!」と食べた。楽しかった。おいしかった。
その逸品を、パックの中に食べやすいように小さく切って入れてくれたのだ。Mが好きだった若竹煮も入れていただいたし、いつも突き出しに出る粋なおかずも入っている。

Mの写真に「俺は何なんだろうね、食欲がないとか言っておいて、目の前に出されりゃ食ってさあ」と言いつつ、おにぎり1つとおかずを少々、今日初めて固形物を食べられた。
少しだけ、元気が出た。


もう11時をまわった、猫たちと二階へ行こう。
ユキはMが教えた「おいで」の手話をいくらしても、なぜか下のフローリングからじっとこっちを見ているだけだった。二階の寝室へ向かう階段を上がり始めると、テーブルの下に居たシマが「とととと!」と走ってきて俺を追い越し、率先してベッドへ向かう。暗い中電気をつけると、もう俺の隣、Mのベッドの毛布の上に居てゴロゴロと喉を鳴らしている。
俺が横になると、シマがすぐ脇の下にズシリと体重をかけて丸くなる。それを撫でてやるが、いっこうに眠気が来ない。そのうちユキが下で、「うぉぉん、んにゃぁぁおん!」ともの凄い声で泣き出した。何度も何度も、うろうろと動きなら泣いているのが、声の移動で解る。

あれは母を呼ぶ仔猫の声だ。

ユキはMを捜している。姿がずっと見えないと言っているのだ。あまりにその声が大きく繰り返されるので、いったんは寝に入ったシマがすっ、と起き上がって静かにベッドから降りた。そしてトントントンと階段を降りていった。
「しょうがないな。おいらが行ってくるよ」
という風情だった。階下に耳をすますと、ユキはシマの姿を見た瞬間声のトーンが変わった。何か「ウニャ!」とか話してもしているように聞こえるのがおかしい。おいおい、まさか本当にユキに言い聞かせてるのか…? などとやってるうちに、そういえば自分も導眠剤を飲んでいないことに気付いて下に降りる。
シマはいつものようにトイレに入って内側の壁をガシガシガシ、とやってるところだった。
その後俺だけまた二階へ上がり、10分ほどしてシマが戻り、うとうとし始めると、暗い中で俺の脇にある段ボール箱の上にざさっ、とユキが飛び上がってうずくまったのが見えた。11時40分くらいだった。



4月30日(木)

朝は目が覚めたら6時過ぎだった。外は穏やかな薄曇りだ。
Mが倒れた時刻に目が覚めることは、なかった。ありがとう。
シマは脇の下ではなく、隣のMのベッドの上に畳んだ彼女の毛布の上で寝ていた。
7時前に起きて下へ行くと、ユキはやっぱりフローリングの定位置で寝ている。床暖房が暖かくていいのだろうか。それとも玄関からMが帰ってくるのをずっと待っているのだろうか。Mの写真に「おはよう」と声をかけ、開じ忘れていたノートPCの画面を見ると、お袋の携帯からメールが入っていた。

「『愛のかたち』 読み返して最後の章が暗示的に感じた あまりにナイーブでいいひとで これからもっと仲良く 仲良しになれると 逢えるの楽しみにしてたのに」

実は、お袋は還暦を過ぎてから油絵をたしなむようになっていて、函館のチャーチル会に所属している。チャーチル会は京都にも支部があって、実は6月に京都で写生会があり、参加する予定だったのだ。

『愛のかたち』の最終章とは、夫が「若い子には興味はないよ」と言いつつも、経営する会社かあるいは勤務先のアルバイトである若い娘に馴れ馴れしくされ、下の名を呼び捨てにされてまんざらでもない様子を「妻の視点」から淡々と見る…という話だ。

その最後は、これが「ガロ」に描かれたもう10年ほど前に目にした時から、胸にこたえた。
そして、今これを読むと、やはり苦しい。Mが側にいた時よりも何倍も、何十倍も、痛い。
直後に続くエッセイで「私は当分死ぬ予定はない」と明言しているのも、今読み返すと、溜まらないものがある。

この本は前にも書いたが、漫画作品は「やまだ紫」の美しい描線が極限まで研ぎ澄まされた高みにあるものだと思うが、描かれたのは2000年ころだ。その後Mは病気や入退院を繰り返し、鬱状態から地獄のような日々を送ることになる。
もちろん毎日が地獄だったわけではない。その合間合間には楽しい思い出もそれなりにたくさんあったし、Yちゃん一家が来てどこかへ散歩や買い物に出かけ、その後賑やかに夕飯を…という幸福な時間もあった。そういうことは、Mにいつも笑顔をもたらしてはいた。
俺も、彼女の状態を放置していたわけではもちろんない。他人には明かせない山坂を二人で歩いた。暗闇もあったし、満開の桜もあった。そのまっただ中で、この本に収録されているエッセイは、綴られたのだ。

当時「肩が痛い、お腹に力が入らない」と苦しみながら、彼女は時間をかけ、時には何度も挫折をしながら、本に収録するエッセイを全て一人で書き上げた。途中からは原稿用紙に手書きをするのが大変だからと、もちろん入力は俺が助けたけれど、文章部分は全て、Mが病気や気持ちの落ち込みなどの合間に自分で綴った、穏やかな「本心」だ。
その最後に収録された文章で、Mは「私は死なない」と言い切った。

『生きるということは、
 自分が愛し、自分を愛してくれる他者への
 大切な責任でもあるのだ。』
     (「愛のかたち」収録「かげろう」より)
この「ことば」の重さを、彼女は自分で体現しようとしてくれたのだ。

しかしこの素晴らしい作品集を発表した翌年に、Mは「夫の癌宣告」を受けたのだった。
精神も体もボロボロになっていく中を必死で立て直し、「作家・やまだ紫」の復活を示してからわずか半年だった。
Mの連れ合いである他ならぬこの俺が、健康診断から白血病を疑われたのは2005年7月、さまざまな検査を受け、リンパ性白血病と確定されたのは8月15日だった。
カラッと晴れていて、ジリジリと暑い真夏日だった。
ここに至るまで、すでに俺はリンパ節摘出による細胞検査、放射線その他さまざまな検査を受けていたし、そもそもが縦隔リンパ節の異常な肥大と、何より通常は拳大の脾臓のあまりの巨大化を画像で見ていた。だから、血液腫瘍はもう確定、あとはそのタイプが何かというより細密な判定を受けただけだったから、覚悟はしていた。
だからといってショックは小さかったわけではない。そして、俺の後ろではMが立って、目の前で夫が癌の確定診断をされるのを見ていたのだ。
いったいどんな思いであの小さい体を支えていたのだろうか。
ブログにアップしたテキストの元日記を読み返す、

(…前略)
病院の帰りにMが「ご飯食べる?そんな気分じゃないよね」と言うが、
俺は元気に二人でご飯を食べたり買い物をするのは今後貴重な時間になるから、
「とにかくお茶でも飲もうよ、坂上に行こう」と言って喫茶店へ向かったのだった。淡々とお互い簡単な食事をし、入院小物を買ったりして自宅へ戻るタクシーの中で、隣に座ったMは俺に隠れてちょっと泣いて、タオルで涙を拭いていた。
その後帰宅してすぐ入院荷物を整えると、Mはお姉さんに半泣きになりつつ報告をし、「ばあちゃんには言うの辛いから姉ちゃんから言っといて」と言って、その後Yちゃんに報告し「MにはYから言っといて」と電話していた。
(…)
Mはソファで少し落ち着いた後、「何であなたがこんな病気に」と言って「わあ!」と泣いた。
しかしすぐに「ごめんね、泣き喚きたいのはちかおの方だよね」と言って無理矢理な笑顔を作ってくれた。
確かに俺だってそうだけど、俺がそんな状態になってもMは何もできないのだから、もっと辛い思いをするに決まっている。俺は「治そう、治るよ。そうして京都で川床料理を食おう」と言う。来年の夏を元気に迎えてやろうじゃないか。死んでたまるか。
(…後略)

あれから1350日、頑張って頑張って頑張り続けて生きてきたMが、倒れた。

俺の方は奇跡的に、まだ生きている。
本当につい先日、「何で俺が死なないのか、不思議だよね」と言ったらMは
「だから、きっと奇跡なんだよ! ね、だから大丈夫なんだよ!」と言っていた。
本当に、ホンの一週間くらい前のことなのだ。

俺たちはいつもいつも、自然とごく普通にこういう生き死にの話をしていた。お互いの体が健康ではないことを熟知し合っていたし、だからこそ、まだ俺の死病を知る前でも、彼女は『愛のかたち』の中で

「残していく人たちへの申し訳なさだけが胸に痛かった。
 幼い子を持つ娘たちや、何かれとなく世話を焼いてくれる老いた母、姉、そして連れ合いを悲しませると思うことが一番辛い。
 苦労をかけっ放しの連れ合いをその果てに一人にしてしまうことを思うと泣けた。」

と綴り、その翌年、Mが帰った入院中のベッドで、それと全く同じ思いでひとり俺は泣いた。

また、同じ文中ですぐに

「逆の場合もある、連れが私を残してもし逝ってしまったら、私はヌケガラになるだろう。毎日見ないテレビをつけてソファに座り、いい加減な食事をし、やがて自分も弱って行くのだろう。そしてその悲しみと辛さは、結局娘たち残された人間に引き継がれていく。」

とも綴っている。
これが、まさに今この瞬間の俺の状態なのである。
俺は今ヌケガラとなり、毎日見ないテレビをつけるどころか、スイッチを入れることすら出来ずにいる。いい加減な食事をし、弱っていくだろうこの体は、すでに癌に冒されている。
違うところは今の俺の場合、M・やまだ紫のことをできるだけたくさんの人に知って欲しい、その思いで狂気じみたスピードでテキストを打ち続けていることか。

つまりは、俺がこうして普通ではいられないことで、もし後を追うスピードを速めてしまうようであれば、それは今「かげろう」となり俺の元へ戻ろうとしているMが、一番悲しむということになるのだ。
頭では理解している。だけど心がどうしても受け入れられない。

よく興味もなくただ眺めていたワイドショーや番宣で「見せられて」いた、外見だけ見た目のいいジャリタレが出るような安手のドラマや陳腐な映画で、やれすぐに白血病だの、「人の生き死に」や「愛」を簡単に商売にしてくれるなよ、と普段思っていた。
「心が痛い」とか「魂が引き裂かれる」とか、そういう言葉を簡単に使うな。そんなことそうそうあるかよ。そう思っていた。

今の自分は、ほんとうに心が痛い。
魂が、引き裂かれるように苦しい。

この思いをたった一人で抱えていたら、そのうちきっとMの後を追うに決まっている。だから、こうしてMを支えてくれた人や、応援してくださるファンの人に向けて、綴っている。そうせずにいられない。


9時過ぎ、Yちゃんから「いったん東京に帰る」とメールがあった。
「朝食の時にまたカーペンターズが流れたよ」
M、やはり君は。
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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 14

…自宅に戻ると、時間的には1時間ちょっとだったが、やはり精神的に疲弊していた。身内であっても、今は二人以外の人といるのが辛く、気持ちが疲れる。
そんなことを言っても、親兄弟にしてみれば、俺などここしばらくの付き合いに過ぎない、何を言ってるのだと言われるだろう。その気持ちも解る。

家に着くとやはりホッとして、「M、ただいま!」と声をかけ、ソファの上に置いておいた赤い室内着をぎゅう、と抱きしめる。これをついこないだまで実際に着ていた時に、いつもこうしてやっていれば良かった。
Mの匂いが心持ち、少しずつ薄れていくような気がして、たまらなく寂しい。

ふらふらと台所へ行き、そこで思い出してイチゴジュースを作った。Mの写真に「ジュース飲むね」と声をかけて、飲みながらパソコンに向かう。すっかり溜まっていた仕事を片付けようとするけれど、やっぱりMのことを考えてしまうし、それがこの記録に向かわせる。
その気持ちをばりばりと引きはがすように振り切って、仕事を始めたら、携帯が鳴った。
お姉さんからで「あのね、今日の夕飯、あなたたちが行ってた近所のイタリアンレストランはどうかと思って」とのこと。二人でたまに行っていた、?野を上がったところにある「アンティコ」のことだ。でもあそこは小さい店で、地元の人たちが少人数で楽しむ店だから、どう考えても大人数は場違いだ。それに人数的に予約してないと無理だと思う、と伝える。
「じゃあまた本で探して電話します」と言うが、俺は「実は仕事が溜まっていて行けるかどうか微妙なんですよ」といい、いずれにしてもまた電話します、ということになった。
その後、「四条にあるSというレストランに予約を入れたから」と電話があり、俺は「じゃあもし行けないようなら早めに連絡します」と伝える。
その後仕事を続けていると、猛烈な下痢に襲われた。やはりイチゴジュースを飲んだせいで、昨日食べたものが下痢状に押し出されてきたようすだ。
これじゃあやっぱり行ったところで今日の夕飯は無理そうだ。携帯から、お姉さんに教えてもらった店へ一人減らしてもらうよう電話をする。すると、「そのお名前でご予約は入っておりませんが…」と言われ、おかしいと思って店の名を聞くと、全然違う店だった。謝って電話を切る。やれやれ。
そのことをお姉さんに電話すると、おかしいわねえと言っていたが、やはりこちらは溜まっていた仕事が終わりそうにないもので、と言ってお断りする。「下痢がひどくて」という理由もあるが。

その後、ふと見るとユキがあまりに寂しそうにフローリングの定位置で香箱を作っているので、立ち上がっていつものように「ユキちゃ! ほれほれ!」とひっくり返してお腹をなでさすってやる。
ユキはすぐにゴロゴロ言ってニャーニャー喜んでいる。
すると、それを聞いて二階から「ドンドンドンドン!」とシマが駆け下りてくる音がした。
いつものように、「M、オッサン降りてきたよ、オッサン!」と写真に話しかける。シマは二人のうちどちらかがそうしていたように、ソファをポンポン、と叩くとひょいと飛び乗ったので、これまた腹をなで、あごの下や頬を指でしごくように撫でる。やはりゴロゴロ言って喜んでいる。

やっぱり猫も寂しいのだ。
Mがもう戻らないことを悟っているのだ。
俺と猫たちはこれから、この生活を続けなければならないが、そんなに何年も続けたいと思わない。というよりも、続けられないと思う。

俺があなたを守ってやれなかった、ダメ人間なことはよぉぉく、解っている。それでも、最後に俺の役割をせめて、全うすることで贖罪としてくれないか。何とか許して、いずれ同じところへ連れてってくれないか。頼む。頼みます。お願いします。そう言って写真に頭を下げた。
Mはただ、優しく微笑んでいるだけだった。


それから仕事も終わったので、ブログに寄せられた旧知のライター・神田ぱんさんのコメントを見て、二階から文庫版「BlueSky」を持って来て、改めてソファで読み始めた。

この作品は『婦人公論』に1991年から2年間、連載されたものだ。
主人公の愛子はもちろんMで、一郎君は俺、長女の「海子」は長女のMちゃん、長男の「森生」は性が変わって現実には次女であるYちゃんがそれぞれモデルになっている。
そのほかの登場人物はもちろんモデルがいないことはないが、ほとんどが彼女の創作だ。
ちなみに「別れた元亭主」の人相や人格はノンフィクション。それともう一人はっきりとモデルのいる人物がいる。それは、好々爺を装い、実は助平爺ィであった「泉のじいさん」であるが、モデルが誰であるかは…。武士の情けで言わずにおこう。

愛子を中心とした主要な登場人物に明確なモデルがおり、さらに「子供が二人いる離婚した母親」が「一人で頑張っている」ところに、「一回りも年下の若い男」が「家族」として入ってくる…というストーリーの基軸は、確かに現実の俺とMの関係と全く同じである。
だから、「私小説漫画」などと安易に片付ける人もいるのだろう。
けれど、この作品は二人の「恋愛」を軸に、家族のあり方や男女が共に暮らすかたち、などなど、
Mの生き方・考え方、大げさに言うと人生「哲学」を
「やまだ紫」がプロフェッショナルな漫画家として、描いたものだ。
だから当然、フィクションである。

実際俺は一郎君のようにさわやかではないし、だいたい小説家になるような才能すら持っていない。現実の俺は漫画家になろうとして夢破れ、それでも漫画にしがみつこうとして編集者になったような「落伍者」のような人間だ。
「BlueSky」の一郎君は、定収がないものの、それを才能で補おうと努力し報われつつある状況。俺の場合は定収があっても非常に少なく、才能がないだけの若造だった。
そのように、当然ながら、美化されているところもあれば、彼女なりの「理想」を描いた部分も多々ある。というより、「こうありたい」「こうあるべきだ」という彼女の「理想」を、作品としてエンターテインメント化させて見せているものだと言ってもいい。

だけど、それだけに、今読み返すと切なくてしょうがない。

俺は一郎君のように常に理性的で、まっすぐに愛子に愛を捧げていただろうか。そしてその実感を、現実のMはちゃんと持っていたのだろうか。子供たちへの接し方は、あんなに立派だっただろうか。

「BlueSky」が彼女の望む「理想の姿」だとしたら、それだけに、俺はああいうかたちでMを愛せていたか、今繰り返し自問する。自問しても答えは出ない、なぜならその答えはMが出してくれるものだし、それを彼女はもう、俺に告げることは出来ない。

実は、当時の俺は「若い自分」が悔しくて仕方がなかった。
もっと早く生まれていれば、もっと早くMと知り合っていれば、自分がもっと早く一緒になれたのに。そんなバカな考えを持っていたこともあった。若いということ、それだけで他人を「未熟」とか「無知」と断定するのが「世間」だ。
この作品には、その「世間」がたびたび愛子を苦しめる光景が見られる。
だが、「BlueSky」の中でも描かれているように、その「世間」が実は「自分」であることに、迂闊にも現実の俺自身が読んでいたくせに気付かずにいた。

Mの生き方を「やまだ紫」が作品化する。

現実には若い自分はMの伴侶ではあるが、「やまだ紫」の前では単なる無名の、ペーペーの若造だ。
だから「やまだ紫」を現実の「M」と切り離し、Mの前では背伸びをし、虚勢を張っていた。伴侶としての俺なら、堂々とMと暮らすことは出来る、けれど何の実績もない貧乏編集者が、尊敬する作家である「やまだ紫」やその作品を論じるなど、それこそ論外であるとずっと思ってきた。
だから、「ガロ」の編集をしていても、自分が「やまだ紫」の連れ合いであるということを、ずっと隠してきた。それが、俺たちの、いや、俺の「世間体」を保つ方法だったと思う。

何と愚かだったことか。

それは今になってみれば、よく解る。いや、もっと前から解っていたが、今こそ心の奥底からじくじくと痛みが疼くほどに感じる。
読み終わって、Mは何と誠実で凛とした「正しい」ひとであったか、そしてそれを見事に作品というかたちに昇華させている「やまだ紫」の見事な作家ぶりに、感銘を受けた。
Mはいつだって少女のような心を保ち続けた、いや、年を重ねても、少女のような可愛い可憐なひとだったじゃないか。あのひとはいつだって、村上知彦氏が解説でも述べられている通り、未熟者とか世間知らずとかいう意味ではない純粋な「少女」であり続けた。
あのひとはまっすぐに、最後まで俺に恋愛をし続けてくれていたのだ。
俺がそれに気付かずにいただけではないか。
いや、気付いていて、それに安心しきっていただけか。
包み込むような彼女の無償の愛にどっぷりと、安穏とひたっていただけだったのではないか。

何と愚かなことか。

俺は一郎君のように、Mと「やまだ紫」を分けることなく、俺の方から全てを包み込んでまっすぐに愛を注がなければいけなかった。そう思うと、すぐに洗面台へ立って口と顎に伸ばしていたヒゲを剃り落とした。だって四人家族が懸命に暮らしていたあの頃、Mと恋に墜ちた頃の自分にヒゲなんか無かったじゃないか。
これは、俺がいつしかMと並んでも、出来るだけ「親子」だの「弟さん」だの言われないようにという虚勢から伸ばしたものだったのだ。
戻って、微笑むMの写真に「どう? 元に戻ったかね。あの頃よりだいぶ老けたけど。鼻の下こんなに長かったっけ?」と語りかけた。
バカな男だな、とお思いだろう。その通り、だからこうして猛烈に自責の念と後悔に苦しんでいる。

そんなことをしていたら夜8時ころ、精華大の小川先生から電話が入った。

3回生や4回生のやまだゼミの学生たちが、Mの危篤を知って千羽鶴を折ってくれていたのが完成したという。受け渡しをさせて欲しいとおっしゃり、結果9時前にマンションの下までご持参下さることにしていただいた。
一時間ほど経った9時前、マンション下に着かれたという電話をいただいた。
エントランスに降りて、千羽鶴を受け取る。学生たちの思いがズシリと重い、見事なものだ。全く配慮がきかず、立ち話で大変失礼をしました。
小川先生はじめ先生方はもちろん、学生さんたちにも本当に感謝申し上げます。

必ず、最後までやまだと一緒にさせてもらいます。
千羽鶴
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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 13

4月29日(水)
目が覚めたら、朝の4時半だった。Mが倒れてから丸三日以上が経ったことになる。
すぐに、ああ、今日は「あの時間」、Mの脳内にある時限爆弾が破裂した「悪魔の時間」に目が覚めなかったな、と思った。俺はこれから、夜中の2時3時になると一生目が覚め、そして彼女を救えなかったことを後悔するのだろうと思っていた。Mが「自分を責めないで」と言ってくれているのだろうか。それとも、中華料理屋で飲んだたった一杯のビールと導眠剤のせいだったのだろうか。

カーテンの隙間からもう白々と明けた街の景色、その背後の山に送り火の「法」の字が見える。いつもの素晴らしい光景だ。今日は薄曇りだろうか。シマが脇の下で丸くなっており、そのまままだとろとろしていると、足元にいたユキがいったん下に降りてから、俺の枕元に手をかけてのぞき込んでいる。布団を上げてやると、飛び乗って中で丸くなった。
しばらく両脇に猫を置いて、まどろむ。
これで隣にMが寝息をたてていれば、いつもの何の変哲もない、本当に幸福な時間だ。ついこの間まで普通に繰り返されていた、日常だったのに…。

5時半には猫たちをそっとそのままにして、ベッドから出て階下に降りた。写真のMに「おはよう」と声をかけ、ぐいのみの酒を片付けて、「ほうじ茶飲む?」と言って二人分のお茶を淹れた。座って、写真と差し向かいでお茶を飲んだ。それからまたこの記録をつけ、アップする。
精華大のT先生からのメールで、
「毎日のご様子をブログで拝見しております。私達にとってはこれだけがご様子を知る手だてとなっております。」とのこと。そうなのだ、そういう人たちが全国からMを心配して、アクセスをしてくれているのが解る。
だから、俺は書き続けるし、それが今は唯一のモチベーションとなっている。

メールによると、やまだゼミの学生さんたちが、奇跡を祈って千羽鶴を折ってくれているそうだ。その受け渡しなどは、やはり今俺が「身内以外の人とはなるべく会いたくない」というわがままを聞いていただき、送っていただけないかとお願いした。ずいぶん失礼な話だとは思うけれど、本当に今は、実を言えば外へ出ることさえ、辛い。

その後、Mという個人のことだけではなく、作家「やまだ紫」のことについても、ふだん思っていたことを書き始めた。(『やまだ紫と「M」。』

あの人は常々、俺が他人に真顔で「本当に作家として凄い人で、尊敬しています」と言うと、
「やめてよ、誰も知らないマイナー作家なんだから」と諫めるか、逆に照れ隠しにふざけて「そうか!よし!」といって腰に手をあててふんぞり返ってみせたりしていた。
他人の前でそうやって持ち上げられるのを良しとしない人だった。
そもそもが、「先生」と呼ばれるのを嫌うひとで、編集や後輩作家には「やまださん、でいいから」と言っていた。もっとも、今ではそれが教職を得て本当に「先生」になってしまったので、ようやくすんなりと「先生」という呼称を受け入れているのだけど。
本人は自分のことをいつも謙遜しており、人前で自分のことを自ら作家であると名乗ることすら、よほど親しくならない限り、しなかった。一緒にいた俺が「ここなら理解して貰えるかな」というところでは、俺が紹介するかたちで無理矢理に明かす程度だった。
なぜなら、相手を選ばずに漫画家という立場を明かせば、次の瞬間から「やまだ紫」という「漫画家」が、「どういう作家」であり「どういう作品」を創っているのか、「何を描いたのか」という質問が連発されることが普通だからだ。
それらを簡単に、さして漫画に深い興味も造詣もない人に平易に説明することは難しい。
コマーシャルな作家ならば、代表作を一つ言えば「ああ、あの!」と言われるだろう。しかしやまだ紫と言われてすぐに『性悪猫』や『しんきらり』を思い浮かべるような人は少ない。

だから、俺はやまだ紫という作家が、作品がいかに素晴らしいかを、こうして記録して残すことで、それを少しでも認識する人を増やしたいのだ。
そうして、その作品と出会える「場」を増やしたい。純粋にそんな気持ちからだ。もう俺の希望はそれだけで、それさえ叶えられれば、あとはもうMに連れてって貰うことだけが望みといってもいい。


テキストを打ち続けてアップし、気がついたら、もう2時近くになっていた。
今日は2時から次女のYちゃん一家と病院で待ち合わせる予定だったので、慌てて「ちょい遅れる」とメールして、支度をする。Mが最後まで身に付けていてくれた、指輪とネックレスをYちゃんに渡そうと、持って行くことにする。
長女であるMちゃん側は、男の子が二人。次女のYちゃんには女の子が二人。
アクセサリは、女の子がいる方へあげた方が、より長く使って貰えると思ったからだ。
カバンに入れたところで、腹がぐうと鳴った。全く食欲を意識しなかったが、そういえば朝にほうじ茶一杯飲んだだけだった。
食欲がないとはいえ、では無理にでもと何かを入れると、ほとんどが未消化のまま下痢状態で出て来てしまう。こればかりは元々の体質もあるとはいえ、「食べなきゃ!」と言われても体がなかなか受け付けてくれないのだ。
体全体が、あまりの慟哭に耐えきれず萎縮しているのだろう。

外へ出ると、まぶしいくらいの日差しと、半袖一枚でいいほどの暑さが待っていた。
何だこれは。Mが倒れた日は真冬のように寒く、時雨れていたじゃないか…。
その中を、切れたので持ってくるように言われていた交換用の紙おむつを買いに薬局へ向かって歩いていると、携帯が鳴った。「明青」のおかあさんからだった。
「大丈夫? ご飯作ったからこれから持ってくし!」と言ってくれたので、これから病院の旨と、そんなに気を遣わないで下さい、とお伝えする。身内や親戚のいないこの地で、俺たち夫婦に常に親身になっていただいて、ありがたい。

いつも行っていた交差点にある薬局へ入り、一番奥の成人用紙おむつのコーナーの前へ行く。この店はもう何度も何度もMと入って色んなものを買ったけれど、このコーナーでまさか自分が買い物を、しかもMのものを買うことになろうとは、本当に微塵も思わなかった。どれがいいのか解らなかったが、とりあえず無難なものを一つ買い、道路を渡ってタクシーを拾った。

病院に到着したのは2時10分ころで、エントランスホールへ入ると脇のテーブルを囲んで、Yちゃん一家とお母さんはじめ昨日のメンバーが全員お待ちかねだった。いくら何でもICUにこの人数は非常識と言われかねないので、「2班に分けましょう」ということにする。
二人のMの孫たちは、お姉さんがレストランで面倒を見ると言ってくれ、Yちゃん夫婦以外はいったんレストランで待機していただくことにした。3人でICUまで向かうエレベータの中で、持って来たMのリボンの指輪と、紙袋型の可愛い金のネックレスをYちゃんに託した。

ナース呼び出し、手洗い、マスク、入室者氏名メモなど所定の手続きを経て、Mがいる個室へ入る。
ちょうどナースが体の位置を整えたり、バイタルを確認したりしていたので、紙おむつを持って来た旨報告する。容態は「昨日とあまり変化がないようですね」と言われた。ナースは程なく作業が終わると出て行った。
モニタの数値を見ると、昨日までより若干脈拍が落ちているような気がするが、気のせいだろうか。

それより驚いたのは、なぜかMの大好きだったカーペンターズの曲が適度な音量で流れていたことだ。

Yちゃんとすぐ顔を見合わせて「何で? 有線?」と驚く。

Mはもちろん、近年のリバイバルブーム世代ではなく、バリバリのカーペンターズ「現役世代」である。
それに、このカーペンターズは俺たち夫婦の思い出ともたくさんシンクロしている。実は俺も、洋楽好きな母親の影響で、カーペンターズやビートルズを小学生の頃から聞いていた。ビートルズはともかく、俺もカーペンターズは早熟な「現役」世代なのだ。俺たち夫婦が知り合ってすぐに、「猫好き」と並んで仲が接近するきっかけの一つがこの「カーペンターズ現役世代」だった。
年齢が17歳も違うのに、あの曲いいよね、自分はあれも好きだな、曲の話題がツーカーで通じた楽しい記憶がある。

でもそれがなぜ、今ここ(ICU)で?
やはり病院内の有線とか環境音楽の一つで、偶然かかっているのだろうか。

不思議なこともあるなと、とりあえず今日は丸椅子が3つあったので、俺は枕元に座り、染み出している涙(…というか水分だろう…)をタオルで拭いてやる。
Yちゃんは「マミー、来たよ」と声をかけ、手を握ったり顔をさすったりして、やっぱり涙ぐんでいる。Yちゃんの旦那、「マリオちゃん」は終始少し離れて遠慮がちに神妙な顔をして立っている。「手、握ってやって」と促し、俺はベッドの反対側の脇へ廻った。

すると枕元にラジカセがあって、何とそこでカーペンターズのCDがかかっていたのだった。
俺はYちゃんの前ではMのことを「ママ」とか「マミー」と呼んでるので、Yちゃんに「ほら、これでかかってるんだよ、マミー、やったな!」と言って笑い合った。M、CDかけさせたんでしょ、そう言って顔を眺めたら、すぐに笑顔が涙になってしまった。


Yちゃん夫婦の面会は15分くらいで終えて、「じゃあ交替で呼んできて」と言って、二人をいったん送り出した。その時に、枕元に立てておいた、桜を背景に合成したMの笑顔の写真を、Yちゃんに渡した。Yちゃん一家にあるMの写真はどれもふざけていたり、爆笑したりしているものばかりで、ちゃんとした写真がないと言っていたからだ。

それからようやく、しばしの間Mと二人きりになれた。
また椅子に座ってMの顔に手をあてながら、小さな声でしばらく、話しかけた。

俺たち、カーペンターズ好きだったもんね。
そういえばついこないだ、あなたが「寝る前にテレビ見るのもいいけど、何かジャーニーでも何でもいいから音楽DVDかけて見たいな」と言ったことがあったっけ。
あの時、ジャーニーやクイーンや数枚のDVDを出して、どれがいい? と聞いたの覚えてるかな。
結局あなたは「うん、別に今はいい。」って言ってたけど、その中に、カーペンターズのものもあったんだよ…。
これは本当に本当の話なので、涙が出て仕方がなかった。


気を取り直して、外にいたナースに「あの、この音楽は…」と言ったら、
「あ、こちらでご用意したのをかけてるんですけど」と言うので、
「これ、カーペンターズなんですよ、本人大好きだったんです」と話す。
ナースは驚いたように笑顔になって「ああそうなんですか! 良かったです、たまたま夜勤の人が置いていったCDがあって、かけておいたんですよ」ということだった。
「何か患者さんのお好きな音楽があったら、お持ちいただいてかけても結構ですよ」と言われるので、
俺は「いえ出来ればずっとこのままかけておいてあげて下さい」とお願いした。
不思議なことも、あるものだ…。

そうしてまた枕元に戻り、また顔をなでながら「あなた、やっぱりやったんだね。今どこにいる?」と聞いてみる。何も起こらないし、何も聞こえない。ラジカセからは相変わらず、カーペンターズの曲が心地よく流れている。ICUの中は監視カメラでモニタされているが、構わずに話し続けた。


そのうちにお姉さんたちが4人で入ってきたので、椅子から立ってベッド周辺を開けた。皆めいめいに顔をなでたり手を握ったり。

この面会も10分程度で終わり、Mの母「ばーちゃん」は「また明日来るからね」と言って、俺たちも皆退出することにした。
下に降りて、レストランを見るともう閉まっている。アレと思って進んでいくと、玄関脇のテーブルでYちゃん夫婦がコーヒーを飲んでいた。子供たちも一緒だった。
3時過ぎに病院を出て、タクシー乗り場の手前で「今日はどうするの?」など少し立ち話をして、いったん皆が夕飯までめいめいホテルに戻るなり、観光するということになった。
俺はもちろん、そのまままっすぐ帰宅した。
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2009-04-29(Wed)

やまだ紫と「M」。

俺の連れ合いであるMが、作家である「やまだ紫」としてデビューしたのは1969年の「COM」誌である。その直後から一気にその才能を作品として開花させ始め、注目の女性作家として期待されるようになった。ちなみにこの時期の初期作品集は、今はなきブロンズ社から『鳳仙花』というタイトルでまとめられている(もちろん絶版、しかもブロンズ社倒産のため「印税も受け取っていない」と聞いている)。
本当にこれらは20代前半の感性か…と思うほどの、素晴らしい作品ばかりだ。絵も、今の極限まで研ぎ澄まされたものとはかなりタッチも違えど、その作品の深奥にあるものの輝きは不変のものだ。彼女はこの時期の作品をとても恥ずかしがっていて、俺が「『性悪猫』でガーンとやられたけど、でも俺けっこう『鳳仙花』好きなんだよね」と言うと、照れたように「ええ〜? あれは恥ずかしいなあ」といつも言っていた。

それから2年後の1971年に、「COM」の休刊とほぼ同時期、発表の場を「ガロ」へと移す。やはり少女漫画やコマーシャルな作品ではない「女性作家」の異才を掲載する場所は限られていた。1972年、それでも彼女は誰もがその高みにあこがれた超がつくメジャー誌のタイトル、「ビッグコミック賞」に挑む。
当ブログの『やまだ紫、「COM」との出会い』でも述べているように、この賞は錚々たるメンバーが挑み、本賞受賞者はたった二人という超難関のタイトルだが、やまだ紫は見事に『風の吹く頃』で佳作入選を果たした。

余談ながら近年、「COM」「ガロ」「ビックコミック賞」全てに入選し現役を続けた漫画家はやまだ紫たった一人だと、機会があるたびに学生らに伝えてきた。名付けて「やまだは漫画界の三冠王」だと。本人は「佳作なんてあんまり大ぴらに言うことじゃない」と謙遜してそれをあまりアピールしていなかったので、俺が年譜に無理矢理掲載したり、学校の講義で伝えたりしたが、若い世代にはこれらの偉業がどれだけ大変なことかが、今一つピンと来ない様子ではあったが。

実はこの時期は、前にも述べた通り、Mは最初の結婚生活を送っていた時期でもある。71年10月、同居したとたんに夫の酒乱によるDVが始まり、輝かしい「ビッグコミック賞」佳作の受賞以後、彼女は作品をほとんど発表できなくなる。
漫画史的に言うと、1978年に「ガロ」で「復帰」するまでの約5年の間、
「やまだ紫はこの間『結婚・育児による休筆期間』に入った」
ということになっている。
だが彼女は自発的に「休筆」していたわけではない。この記録でも以前書いているように(連れ合いが倒れた 9)、作品を発表したくても、できない状況下にあったのだ。

結婚による同居のその日に、彼女はいきなり殴られたという。「いいか、これからは俺の言うことを黙って聞け!」と。そしてそれからというもの、酒を飲むたびに絶対的な暴力によって蹂躙され服従させられ、謝罪と裏切りを幾度となく繰り返され、挙げ句、その男は他の女のところへ通うようになったという。驚くべきことに、次女のYちゃんを出産するその時も、何ら夫の手助けはおろか一切協力はなく、浮気の相手を連れ込んでいた形跡さえあったという話を聞いた。聞くたびに頭に血が上った(『しんきらり』のその後…とも言える『BlueSky』における「前夫」像はキャラクタ造形ともに、ほぼ事実であるとMは話している。
(断っておけば、もちろん、こうした「事実」とは一方の側からの視点だという意見もおありだろう。けれども、Mがことさらに悲劇的な立場へ自分を置くために、作り話やお涙頂戴をする人間では断じてない)。

この最低な男は、俺の最愛のひとであるMに対して振るった暴力も許せないが、「作家・やまだ紫」を5年もの間封じ込めていた、という意味での怒りも強くある。あれほどの才能を持つ人だ、そしてその才能がまさに噴水のごとくわき上がっていた頃ではなかったか。

彼女は結婚当初、気分によって暴力を振るう夫の目に怯えながら、作品を描くようになっていた。聞いていた俺は、まるでナチの影に怯えるユダヤ人の心境のようだ、と思ったほどだ。
携帯やメールのない時代だから、編集からの連絡はこちらから公衆電話でかけた。打ち合わせや原稿の受け渡しは、スーパーへの買い物を装い、隠して持ち出して、喫茶店でそっと渡す。そんな信じられないような過酷な状況でも、彼女の創作意欲は溢れるようにあったという。

しかしそうした涙ぐましい頑張りも、73年と74年の出産からは、ほとんど不可能になった。
なぜなら、夫の目から逃れることは出来ても、母を呼んで泣く赤ん坊を放置するわけにはいかない。
ましてや、育児に相手の協力は皆無だったという。時折気分のいい時だけあやし、泣けば「オイ!」と言ってMに押しつけるという日々だったそうだ。実は俺たちが出逢い暮らすようになってしばらくしてから、Mがこうした話をポツリポツリとしてくれるようになったのだけど、それは俺が聞きたがって無理に引き出した話であって、決して彼女から率先して言い出したことではない。
全て泣きながらの告白であり、俺はそれを聞くことによって怒りを覚えながら彼女の心を解放し慰めようとしていた。泣かずに振り返られるようになったのは、本当にここ数年のことだ。

辛かっただろう、それでも、頑張って頑張って、頑張り続けてきたのだ。

このままでは殺される。それに子供たちをあんな父親と一緒には育てられない。だけど、「結婚」とは自分の「家」を捨て、相手の「家」に入ることだと時代遅れの考えを持っていた夫側の家族は、Mの訴えに耳を貸すことは一度も無かったらしい。それどころか、聞かされるのは常に高圧的で一方的な物言いと、イヤミだったと言う。
彼女はそんな苦痛の中、その「家」からの脱出を試みる。しかし、それには経済的な自立が必要だ。新進漫画家として将来を嘱望される存在ではあったが、元々わずかだった貯えは生活費に消えた。なぜかと問うと「だって生活費をほとんど入れて貰えなかったから」と言っていた。
こんな非道な話が、実際に存在すること、そしてそれが目の前にいる最愛の存在の身の上に起こったということが、にわかには受け入れられないほどの怒りを覚えた。

それからも夫の影に怯えながら、「やまだ紫」はレジスタンスのごとく、経済的自立への活動を始める。「広告イラストは名前が出ないけどお金が良かったのよ」と言っていた。また、業界では「捨てカット」と言われる、雑誌の空きスペースを埋めるイラストやカットをこなし、そのギャラを少しずつ、貯めていった。もちろん、育児と家事の一切をし、生活費も捻出しながら。
この苦労が並大抵のことではないということを、結婚や出産経験のない人は絶対に解らないだろう、と彼女は言っていた。それに、どこにも誰にも頼れなかった状況もあった。安易なお涙頂戴の作り話やドラマなどの薄っぺらい創作ではない、「現実」の凄みがここにある。

作家「やまだ紫」の復帰は、そういう中、1978年も終わろうとする頃だった。
発表場所はもちろん「ガロ」である。「COM」無き後、70年代後半のマンガ状況で、少女漫画でもなくコマーシャルな作風でもないこの異才が発表できる場がそれほど多くは無かったことは、俺でも一応知っている。
「マンガが産業化」し、60年代からマーケットが急速に拡大したとはいっても、それはあくまで「大手=マス」の世界での話だ。マンガが「産業」として確立されていく、ということは、要するに「資本の論理」で支配されるようになりつつあった、ということだ。
つまりは、「売れれば勝ち」「お金が欲しければ言う通りに描け」「俺が言うとおりにすれば育ててやる」という言説が、本当にまかり通る時代になっていたという。何度もそういうことを言われた経験があるし、セクハラまがいのことまで経験しているという。そんなことをされてまでお金のために尻尾を振るものか、と彼女は怒っていた。
実際、「ガロ」はすでに原稿料が出なくなっていたから、彼女の「ガロ」への「復帰」は生活=お金のためではない。
つまり、それまで歯を食いしばって「お金のため」に広告や捨てカットを描いていたやまだ紫の、抑圧されていた本来の創作意欲が、「ガロ」への発表という形で噴火したのだ。

ここに至る「COM」や「ガロ」との関わりは、いずれまとめようと録音しておいたものもあるし、俺が聞き書きをして記録してあるものも、もちろんある。しかしそれよりも、何より生き証人として彼女の口から直接聞いた話が、俺の心の中にたくさん、残っている。

この頃になると、暴力亭主はもう家にはあまり帰ってこなくなっていたそうだ。
お気楽に浮気や飲み歩きをしていたのか、それは知らないし知りたくもなかった、という。ただ、たまに上機嫌になって帰ってくると、せっかくしつけた子供たちを甘やかし「いいとこ取り」をして、母親であるMを傷つけ続けた。物理的な傷は時が経てば癒えるが、精神的な苦痛は一生消えることはない。
当時、子供たちはようやく幼稚園に通う年齢になっていたが、夫が家を空けることが増え、子供たちが日中幼稚園へ行くようになったことは、作家「やまだ紫」の復活には幸いとなった。もちろん、だからと言って、子供たちの送り迎えや家事、育児一切はMしかやる者はいない。だからわずかな時間だったとはいえ、彼女はここでも「頑張って」作品を描き出す−−−。

Mはずっと、自転車に乗るのが非常にヘタな人だった。少女時代は自転車など乗ったことがなく、大人になって、子供たちの幼稚園への送り迎えの必要があり、やむなく買ったのが、せめてもの安定をと思った「三輪自転車」だったそうだ。その三輪車でさえ、彼女は転倒したという。
本当に、文字通り歯を食いしばり血を流して、Mは頑張った。

そうした「頑張り」の中から生まれたのが、あの名作『性悪猫』なのだ(1979年「ガロ」2・3合併号〜80年2・3合併号)。

この作品に関しては、俺がいくら言葉を並べるよりも、マンガ評論家である中野晴行氏のコラム(まんがで描かれた詩やまだ紫『性悪猫』 -- 20080918 -- まんがのソムリエ -- 漫画大目録)を参照いただければ、その凄みがお解りだろう。
中野さんが文中で紹介している「ことば」は、当時の氏の境遇に染み入ったことだろう。そういう「ことば」の力を、やまだ紫作品は持っている。
その「ことば」が何になるは、読み手のその時の心境、境遇によって違う。しかし、必ず誰ものガンと心に響く一節が、作品の中にある。そしてそれが、そのひとの心にずっと残る。

まさに、「珠玉のことば」。

そのことが、「やまだ作品は詩的漫画なのではなく、詩と漫画の極めて高度な融合」と言われる所以ではないだろうか。それは、早くから吉原幸子という高名な詩人をはじめ、詩壇から高い評価を得ていたことでもわかる。

俺の場合の「ことば」は、今では『性悪猫』どころかやまだ作品全てと言っていい。それはもちろん自分が連れ合いであるからなのだけど、高校生の当時に自分が触れた時の「ことば」は、もちろんあの有名な一節だ。

「せけんなど どうでもいいのです
   お日さまいっこ あれば」
    (−−−『性悪猫』・「日向」より)
この、ひなたぼっこをしてのんびり寝ている猫のことを描いた、一見何ということもない一作は、実は深い意味をはらんでいるし、その意味は受け手によって変わりもしよう。
自分の場合は、退屈な故郷からいかにして脱出するかをもう考え始めており、マンガ家を目指すべく必死だった時代であり、とにかく時間を惜しんでありとあらゆるものを「吸収」すべくフル回転していた思春期まっただ中であった。

その時期に、「やまだ紫の作品」に触れられたのは幸福だったと思う。

あらためて『性悪猫』という一連の作品群全てを見渡すと、どこもかしこも心臓が痛いくらいに心に突き刺さるものがある。胸がじわっと熱くなり、涙が出そうになる。世間知らずのガキにはそれなりに、また人生経験を積み重ねた老人になっても、必ず心に響く読み方ができる、真の「名作」だ。

このこともまた、俺が言うよりも、解説で佐野洋子さんが書かれている一文を読まれるとお解りかと思う。
やまだも、佐野さんの解説を
「ほんとうにこの人はよくわかってくれる人ね」と言っていた。
そう、本人が言っていたのだから、佐野洋子さんの「やまだ紫観」は全くもって「正しい」のです。
この作品を、単純に「詩的」とか「哲学的」とか「ブンガク的」という受け止め方をしても、それは読み手の感受性の自由だと思う。だけど、佐野さんが書かれた解説の最後の一文が、漫画家としての「やまだ紫」だけではなく、その本質である「M」という人間を見据えて下さったことが、僭越ではあるが俺にとっては何より嬉しい。
佐野さんは解説の中で、やまだの私生活…つまり団地で猫と子供たちと暮らしていた頃の「作家訪問」という番組で、本人の生活ぶりや人となりを見て下さっている。『性悪猫』を最初に読んでいただいてからずいぶん後になってからのようだったけど、同じ「生活者」としての経験が、より深いやまだ作品への理解へと、共感へとつながっていくことを、説得力を持って綴られている。
やまだ紫の作品は、本人の人となりを知ることによって、実はより深い理解と共感が生まれることになっている。もちろん、それを知らずとも。
ここでMが倒れてから、これまであまり綴ってこなかった彼女の人生や生活者としての「姿」をなるべく詳細に伝えようとしているのは、そういう意味もあるので、あらためて作品を楽しんでもらえれば嬉しいのだが…。

しかし今、これほどの名作を「手にとって読める」かたちにしない、そうして後世に伝えようとしない日本の出版界に、俺は激しい怒りと絶望を感じている。

何度でも問うが、
 あなた方、
  この本を品切れにしておいて、
  こっちを出してるんですか?
 ああ、今度はそういうものを重版ですか?
 それがおたくの「出版人」としての判断なのですね。
 編集に携わる者としての、評価ですね。

俺は印税や著作権を欲しがって言っているのでは毛頭ない。そんなゲスな人間ではないつもりだ。俺にとってそういうものは、愛するMというひとが存在があってのこと。いなくなってしまったら個人的には必要はない。だが、彼女の作品が「必要のないもの」ということでは絶対に、ない。
この宝物のような作品たちを、ずっとずっと、後世に、伝えて欲しいと切実に願う。
なぜって、それだけの価値があるものだからだ。

自分の編集者としての思いはどうでもいいかも知れないが、「文庫サイズ」は漫画家に失礼だと思う。
元々の原稿サイズを考えたら、縮小率は「作品を読ませる」限界を超えていると思う。業界外の人はあまり知らないけれど、漫画の画稿というものは、大きいものだ。B4大の原稿用紙に、版面(はんづら)つまり漫画で言うワク線内だけでだいたいすでにA4大、つまり文庫版はその4分の1程度しかないのだ。

作家にも読者にも、失礼だと思う。

だから、たとえ絵本のような少部数でもいい、そのかわり出来れば最低でも四六判くらいの大きさで、ずっと絶やさずに後世に伝えていって欲しい。いやせめて文庫版でも、それを確約してくれるところがあれば、すぐにでも原稿をお任せしたいほどだ。

この名作『性悪猫』は「ガロ」連載終了直後、1980年に青林堂から刊行された。以降、作家・やまだ紫の評価は、「気鋭の新人マンガ家」から、凄みのある「実力派女性作家」へと変貌する。私生活では、81年にようやく夫との協議離婚が成立し、夫が家を出る格好で、完全に彼女は解放される。

そのことを後にMは、
「朝目が覚めるでしょ、で、『ああ、今日は殴られなくて済むんだ。良かったなあ』ってしみじみ、お日様に感謝したの」と述懐している。

何という、ささやかな、ちっぽけで悲しい感謝なのだろう。
幼い頃から「ちょっと変わっている」と周囲から言われるような子供だったM。「わたしは寂しい子供だった」とよく言われたものだ。
「寂しい」…詳しくは、聞いているが今は言いたくはない。
だけどその分、彼女はぢっと足元の苔を見つめながら、その感性を研ぎ澄ませていった。思春期は早くから詩作を行うようになり、漫画家としての評価も得始めた。恋もし、ようやく家庭を持ったと思ったら、地獄の日々が始まった。
何か言おうとも理不尽な暴力で封じられる日々。いつしか「ことば」での相互理解は不可能と悟った彼女は、その「ことば」を飲み込み、胸の奥に溜め込んでいくことになる。
そういうことを経たうえでの離婚なのだ。彼女はようやく子供たちとの3人に大好きな猫という、平和な暮らし…「何でもない普通の暮らし」を得たわけだ。
けれど、その「何でもない普通」が当たり前の人たちには、この彼女が言う「感謝」の意味は解らないと思う。
それは、後年俺たちがお互いに病気や不幸の連続と戦い続けた日常を経た、今の俺たち二人の心境にもつながる。

『性悪猫』がなければ、佐野さんの言うように、81年から「ガロ」に連載を始めた崩壊していく夫婦の関係を描いた、これも名作といわれる『しんきらり』は無かっただろう。(ちなみに『しんきらり』で描かれている母親はもちろんMのことだし、子供たちも実在の二人がモデルではあるが、夫婦に関しては、実際のものとはかなりかけ離れている。つまりここでも彼女は本作が「私小説マンガ」であると短絡的な誤解を受けている)
この二つの名作が連なっていく深奥にあるものは、単純に作品だけを追うだけでは理解できないのかも知れない。繰り返しになるが、『性悪猫』を単なる「猫マンガ」「漫画ではなく詩」と捉える向きもあるし、『しんきらり』を「私小説マンガ」としか読めない人たちもまた、存在している。

これも繰り返しになるけれど、やまだ紫ははっきり、これまでマンガで『私』を描いたことはなく、常に読み手のことを考えてきたつもりだ、と述べているし、このあたりは『愛のかたち』の前書きで「漫画家は作品に真実(つまり自分の生活や日常をそのまま描くこと)を描きません」と明言している。
短絡的な人間に『自分マンガ』だと評され、説明する言葉を見つけられなかった彼女は「苦水を呑む思いで」頷いてしまったこともある、と書いている。それは自分の作品はこうでああで、という話をするのが苦手だったからだ。
べらべらとしたり顔で簡単に人の作品を語りたがる連中もいる。それはそれでいい。単純にストーリーを追っていけばそのまま「ハイ読み終わった」というものだって全く構わない。
しかし、『性悪猫』をはじめ、やまだ作品には受け手によって感動・共感する部分が違ったり、同じ人でも年齢を経ていったらまた違う味わいや読み方が出来たりするものがたくさん、ある。「何を言いたいのか解らない」という人がいても、それはその人の読み方だし、感性だろう。
そうして作品を読み「この作品は何を描いたんですか」と平気で質問する馬鹿がいる。「やまださんの作品は『自分マンガ』ですよね」と頓珍漢な断定を行う。
無知無理解、それに何より失礼にも程があろう。

作家が作品を描く。その作品が、作家の答えだ。

そのことは、やはり同じように「私小説漫画家」とか「ジュンブンガク的」と評された経験を持つ、あのつげ義春氏と共通の認識でもある。(ちなみに、「ガロ」1993年2・3合併号のインタビューで、つげ氏はやまだ紫について「厳しさ、真剣さにおいては女性漫画家では一番ではないでしょうか」と評価されている)

やまだ紫は、真の意味で、鋭敏な感性を持った「プロフェッショナル」なのだ。

そうして84年の暮れに、俺たちは「『ガロ』のアルバイト」と「実力派女性作家」という立場で出逢ったのだった。事実、そこら辺の編集者や男性作家は、「やまだ紫」を「凄みのある怖い作家」だと思っている人が多かったことを俺も記憶している。
でも実際のMという女性は、小柄で少女のように可愛いひとだった。年齢差なんか全く感じなかったし、お互いにすぐに仲良くなって、惹かれ合った。
1985年内にはもう図々しくも団地へしょっちゅうお邪魔するようになり、翌年からは完全に同居を始めたから、来年(2010年)はそろそろ「25周年だね」と話していたものだった。

頑張って頑張って頑張り抜いてきたM、そしてやまだ紫。

今はいろいろなところを飛び回っているのだろう。でも、最後でいいから、俺のところへ帰って来て欲しい。

25年と言わず、これからもずっと一緒に居よう。
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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 12

この日は俺はビールはいいですというと、お姉さんが「一杯だけ飲みなさい!」とこれまた強く言われるので、仕方なく生ビールを一杯注文した。お姉さんはこうしてMや俺のことをいつも気にかけてくれる。そうして皆で「お疲れ様」とヘンな乾杯をした。一口飲んだビールは何となく苦い味であったが、それでも、やっぱりおいしかった。出される料理も全て素晴らしい味なのだが、やっぱりこの席にMがいないこと、そしてこれから永久にあの楽しい時間が二度と訪れないことを考えると、孫たちの前でもつい目頭が自然と熱くなる。それをタオルで顔を拭く真似をして誤魔化し、無理矢理の笑顔を作るのが大変だった。

料理は少量ずつだが何とか食べられた。そして、子供たちとはしゃぐお姉さん…もちろん、無理に明るくしてくれているのは解っている…、Yちゃんたちや皆で料理を囲んでいると、何となくMがどこからかニコニコ笑って見ているような気もしてきて、少し心が和んでいった。
料理は皆残し気味ではあったものの、何となく気分も楽になり、8時前にお開きとなる。俺は目眩止めを家に忘れてきたので、立つとどうも目眩がする。なのでつたい歩きをしてゆっくり歩くが、そのことでまた皆に心配をかけてしまった。「大丈夫?」「支えようか?」とか言われるのを作り笑いでごまかしながら、ホテルのロビーでお礼を言って別れた。
一人夜の二条通に立って、交通標識につかまりながらタクシーを拾って、わが家へ向かってもらう。
車中から眺める夜の鴨川沿いはまた、新緑のこの季節も風情があっていいものだ。タクシーに乗る時はいつも、Mが足腰とお腹に負担がかからないよう、俺が率先して先に乗って奥へ座るようにしていた。

俺たち夫婦は昔はよく親子と間違われたりしたものだ。年齢差が17もあるから、それも仕方のないことなのだけど、それがここ十年の間は「ご兄弟?」に変わった。「俺たちそんなに似てるかね」「似てないよ!」なんて会話をよく交わした。ここ数年は、どこへ行っても違和感なく「ご夫婦」と扱われるようになった。何となく俺が早足で追いついたと思っていた。顔も似ている、となぜかよく言われる。
それに、俺たちの体も、まるで双子の不思議なシンクロニシティのごとく、同じような「障害」を持つようになった。まずMがずさんな右腎臓手術で腹筋を寸断されて、くしゃみをするにも手を当てなければならず、常に腹帯が欠かせなくなった。いつしかお腹はぽっこりと膨れて、「醜い体になった」と嘆くようになった。
俺は俺で、そんな中白血病を患い、脾臓の巨大化によって、知らぬ人が見たら単なる「メタボ」のような胴回りになった。挙げ句、去年には胆嚢摘出を切開で行ったので、二人で
「<ぽっこりお腹の右に傷>なんてところまでおんなじになっちゃったね」
と情けなく笑い合ったものだ。いったいどういう一致なのかと不思議なことだが、その意味はお互いに言わずとも解っていたと思う。手を取り合って助け合い支え合って生きていくこと。それが俺たちの運命だと。
なので、普段から二人で車に乗る場合は腹圧をかけて車内を移動せねばならないから、俺の方がまだ体力があったので先に乗っていたというわけなのだ。
だから一人でこうして左後部座席に座るようになったのは、いまだにどうしても違和感がある。いつも俺の左隣に座っていたMはもう、二度と隣に座ることはない…。


タクシーは9時過ぎに自宅前に到着した。

シマとユキが寂しそうに待っていたので、「ごめんなー、寂しかったねえ」と、これもいつも二人で外出した後のように順番に撫でた。シマはMが座っていたソファの足元に、いまだそのまま置いてあるMのスリッパにあごを載せて待っていた。そうして声をかけても、いつものようにしっぽをピンと立てて出てこない。
Mがもう戻らぬことを、何となく察知しているのかも知れない。
ユキはいつものように無邪気に後を着いてまわる。着替えてからMの写真に「ただ今」と声をかけて、目眩止めを飲み、それからお姉さんに到着とお礼のメールをした。
本当はすぐ横になりたかったが、何せ猫トイレは二匹分だから、ほぼ毎日掃除が欠かせない。これはけっこう腹圧がかかる仕事なので、お互い何となく相手を気遣って、どちらか気がついた方が率先して掃除をしていたが、これからはもう俺一人でやるしかない。だからといって、いつも二人の間にいた猫たちを手放す気は毛頭ない。それにこの上Mどころか猫たちまで居なくなったら、俺はもう完全に生きる希望を失うことになる。
実はメス猫のユキはおしっこを腰を浮かせてするクセがあるので、いつもトイレの外に放物線を描いて水たまりを作る。その掃除が本当に大変なのだが、猫は清潔好きだから、徹底的に綺麗にして、台所でこれまた徹底的に両手を洗って消毒する。一段落してこの記録に向かうと、もう9時をまわっていた。

いつもはテレビの音が必ず響き、そして俺たちの会話があった家の中はシンとして、シマはそれが寂しいようだ。ユキは元々耳が聞こえないから無音はそのままとしても、ずっと「マミー」の姿が見られないことに戸惑っているようだ。猫たちも、寂しがっている。もちろん俺もだ。

その後、疲れたので10時前には導眠剤を飲んで、二階へ上がることにした。猫たちに声をかけ、ギシギシと階段を上がってベッドに横たわる。猫たちはまだMがいないことに慣れないのか、ひとしきり上と下を駆け回った後、諦めて俺の脇に来て一緒に寝た。

暗闇の中、Mにいろいろと呼びかけ、話してみるが、まだ俺のところへ飛んできている様子はない。そうか、他に行っておかなきゃならないところがたくさん、あるもんなあ。いいよ俺は最後で。そんなことを考えているうちに眠ってしまった。
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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 11

病院に到着したのは4時半ころ。ICUが面会可能になる5時までまだだいぶあるので、ペットボトルの小さいお茶を買って、ロビーの椅子に座って少し喉を潤した。唇がカラカラだったので、持って来たMのリップを「借りるね」と言って、少し塗った。
それから、5時15分前にICUのあるフロアに移動して廊下の椅子で待ち、5分前になったのでインターホンを押すと、5時まで自動ドアの奥にある待合で待ってから入ってきて下さい、と言われる。言われた通りフットスイッチのドアを開閉して中に入り、手を洗ってマスクをして座っていると、間もなくお姉さんたちも到着した。東京から駆けつけた、Mが小さい頃から今に至るまで「おんちゃん」と呼んでいたKさんに挨拶をして、5時にならないと入れないので、支度をしてあと数分待ちましょう、と説明する。
皆めいめい、手洗いやロッカーに荷物を入れたりして、いったん少し座って待つ。その間、俺もKさんと会うのは数年ぶりだったので、隣に座って少し今回の状況、経過などを話した。もうすでにじゅうぶんお姉さんやお母さんたちから詳しい話は聞いていたようだ。
「Mの父親と全く同じですよね…。あの時は確かお風呂…いやトイレかな。トイレから出て来たらもうアレッ、となっていて、それで倒れたらあっという間にロレツがおかしくなって、意識が飛んじゃって。それからはもう病院で心臓マッサージだのやったけど、無駄だったからねえ。」と話される。
俺はMのお父さんのそういった状況を聞くのは初めてだったので、「本当に同じですね。60年前の医療体制であれば、そこまでが…」と言い、「今回はホンの少しでも可能性があれば、と思って手術に踏み切ったんですが」と言い訳まがしい言葉がついつい出てしまう。
「いや、でもそうですよ、それもまたMの運命だったんじゃないかな。」
そんな話をしていたら5時になったので、お母さんらに「じゃあ、入りましょうか」と声をかけ、まず俺が受付で面会者全員の氏名と続柄を記入し、担当のナースが来るのを皆で待ち、程なく個室へ案内してもらう。
MはICUの中に設けられている個室にベッドが移動されていた。昨日とは逆の方向に首を向けられ、目を閉じて、深い呼吸をしていた。まるで眠っているように見えるのだけど、その呼吸が自力ではないことはもう十分解っている。
俺はすぐにバッグからMが使っていた歯ブラシとコップ、いつも持っていた桜の花に兎が跳ねているピンクの小さなタオル、それから頭を覆ってやる帽子、リップスティックを取り出した。そして、さっき車中で額装した、とびきりの笑顔の写真を、足元の台に立てた。それから頭をなでて帽子で覆ってやり、挿管されているために開けられている唇に、リップを塗ってあげた。
Mの顔は昨日より顔のむくみが引いていて、下になっている方のむくみはまだあるものの、顔の上半分はほとんどいつも寝ている時の顔に戻っていた。それを皆がまた取り囲み、顔や頭をさすって話しかけては鼻をぐずぐず言わせる。やっぱりどうしても、頭をなでて手を握ると暖かいから、涙が出てしまう。もう頑張るな、もういいよ…と。
すると、お母さんが「あれ、この子泣いてるわよ」と言う。「えっ」と皆で見てみると、確かに閉じられた両のまぶたから、涙がホンの少しだが流れていた。それを俺がピンクのタオルで優しくぬぐってあげたが、これは何らかの意識なり意志があって流れ出た「涙」ではなく、恐らくは輸液など、機械で循環させられている体液が染み出したものであろう…、それはそうだろう、そうかも知れないと解っていても、Mの目からうっすらとにじみ出た涙には、胸が締め付けられる思いがした。

それから少しして、担当のナースが「A先生は今カンファレンス中ですので、終わり次第こちらに来られます」と言われて、皆で立ったままベッドを取り囲む形で待つ。15分以上立ってたろうか、A先生はなかなか来られず、もう一人の若いF先生が来て「もうちょっとで来られます」と言ったがそれから5分ほど経っても来られないので、俺はお母さんに「先生来られたら呼びますから、どうぞ椅子で…」と促す。お母さんはお姉さんに手を引かれ、いったん個室を出た。
その後ようやく別のナースが丸椅子を3つ持ってきてくれたので、残った3人がそれに座った。この個室はICUだから、通常の「見舞い」は許されない。こうした悲しい状態に置かれた患者の家族のみが、見守ることを許されている。なので、ナースや医師たちも、緊急の患者さんに対応するためにおり、見舞いの人間が立ちぱなしでいることには、当然なかなか気付いてもらえないものなのだ。
それからさらに6、7分経った後だったろうか、ようやく執刀医であるA先生が到着し、お母さんとお姉さんを呼び入れて、今日の容態説明になった。

それによると、状況はあまり変わりがないということだ。
ただ排尿などのコントロールも脳が行っているので、今日になって突然大量の尿が出だしたという。普通は薬で止めたりコントロールをしたりするのだが、もう余り薬を入れないように、と麻酔医には伝えておいてくれたそうだ。そのため、顔のむくみというか腫れも引いてきたのだそうだ。
あとは血圧も少しずつ、少しずつ下がる傾向にあるが、それを無理に高圧剤などを使って上げたりはせずに、我々の希望通りに自然に任せるようにする、と。ただ、「心臓の鼓動が停まる時」が、あとどれくらいなのかは、今は判断がつきかねる…。
そういうことだった。

説明は数分で終わり、二人の医師は去って行った。程なく別のナースが気がついて丸椅子を2つ追加してくれたので、5人全員が座って落ち着いてから、まためいめいに全員でMに語りかけて、帰ることにした。俺も左手でネックレスにつけた結婚指輪にキスをしながら、右手でMの右手を握り、「じゃあね。もういいよ、あなたはずっと頑張ってきたんだから、もういいからね。」と言って、病室を後にすることにした。
こんな残酷な時間は、もうこれ以上長く続かなくていい。早くMの魂を肉体から完全に解放し、自由にしてやりたい…いや、もうひょっとしたらベッドの上あたりから、皆を眺めているかも知れない。

実は、Mは昔「幽体離脱」をしたことがあると話してくれたことがある。こういう話は、トンデモ話、オカルト、非現実的と思われるだろうが、それはそれでいい。
それは、彼女が最初の夫との地獄のような生活がようやく終わり、子供たちと3人の平和な生活を団地で送れるようになってからの話だった。
子供たちを寝かしつけてから、いつものように居間のちゃぶ台で仕事をしていたのが、一段落した時。気がつくと、ちゃぶ台に突っ伏して寝ている自分を、上から見下ろす視点に居たという。「これは何?」と思い体を動かしてみると、右、左、にすーっと動くことが出来たという。試しに頭を前に傾けると、壁や窓も通り抜けて、いっきに団地の外へ出たそうだ。
まるで、グライダーのような動きだったという。スピードも自由自在で、深夜の人気の無い高島平団地をぐんぐん飛べたという。高島通りの上空を、道に沿ってびゅんびゅん飛ぶ感覚は「面白かったなあ」と笑っていた。
「あなた、怖くなかったの?」と聞くと
「それが不思議と全然怖くなかった」という。
Mは昔から極度の高所恐怖症だ。ちょっとした台や椅子に上がって何かを取ったりするのでも足がすくんだというほどなのに、それが高層団地の13階に住んでいたから、時々そのことに気付くと背筋がゾッとしたとさえ言っていた。それが窓を超えて外へ、文字通り「飛び出した」というのは、痛快な話だった。
ぐんぐんスピードを上げたり、左右に方向転換したり、空中で静止したり、本当に自由自在だったという。けれどこのままこうしていたらどうなるのかと考えるとちょっと怖くなり、慌てて団地へ戻って、子供たちの様子を見て、そうして自分の体に戻ったという。
にわかには信じがたい話だ、そりゃあ「夢だよ」で済まそうと思えば済んでしまう、他愛のない話である。でもそのことを話すMは身振り手振りで、本当に実体験を語るそのままだったし、実に楽しそうだった。「気がついてから子供部屋を見に行ったら、飛んでた時と同じ寝相だったよ」とも言っていた。
だから、今もひょっとしたら…。ただ魂が戻る肉体はまだ、「生かされている」にせよ、そこにある。だから、あっちこっち、行くところがいっぱいあるのかな、出たり入ったりしているかも、なんて考えたりもした。
もう、そんなに頑張らなくていいのに。
あの人はずっとずっと、頑張り続けてきたんだから。
「幽体離脱」という荒唐無稽かも知れない話を聞かされたのは、高層団地の母子3人の暮らしに俺が加わって何年か経った頃だったか。でも、俺たちはそういう「人智を超えたもの」とか、魂や霊、あるいは神仏と特定せぬが「大いなる存在」があることなどの、価値観も全く同じだった。生まれ育った場所も年代も全然違うのに、出逢った直後から、同居してからも、本当に違和感なく普通に同じような思いをお互いに話し合うことが出来た。

病室を出たのは6時ころだったろうか。
俺は目眩止めが切れたのか、少しふらふらしてきた。もう一日3度のめまい止めでは効かなくなったのだろうか、それともまともな食事を採っていないので、効かないのかも知れない。Yちゃん一家も着いたと連絡も入ったので、お母さんが「じゃあこれからみんなで食事しましょう、あなたもちゃんと食べないとダメよ」と言われる。Mのお姉さんに「いや、でも僕はいいです、たぶん食べられませんし…」と言うと、「ダメよ、ちょっとでもいいから食べないと!」と言われて、結局タクシー2台で今日宿泊するホテルへ向かうことになった。

そのホテルとは、二条通りに面した鴨川沿いの、ホテルフジタだった。
この京都らしい上品なホテルは、Mと河原町近辺へ向かう時に、タクシーが割と使うルート沿いにあるので、いつも「いいホテルだね」「鴨川がわの部屋の眺めはいいだろうね」と話していたところだ。本当に、どこへ行っても何を見ても、やっぱり京都市内はMとの思い出で溢れている。
ロビーでは、Yちゃん一家4人が待っていた。一年ぶりに会うMの孫であるYちゃんの二人の娘、MTとSNに手を振って「覚えてる?」と聞くとMTは照れたように無言で笑い、SNは「ウン!」と頷いた。俺たち夫婦がいつもなぜか「マリオちゃん」とおかしな愛称で呼んでいたYちゃんの旦那の肩に手をかけて「すまんね、急なことで…」と声をかけた途端、グッとこみ上げてしまった。子供たちの前で涙は見せたくなかったので、後ろを向く格好でマリオに「ほんっとに突然で…」と言うのが精一杯でいると、彼も無言で頷いていた。

夕飯はホテルの地下にある高級中華料理店で食べることになった。俺とマリオはいつも、合うと競い合うようにビールの杯を重ねたものだった。俺たち夫婦は、比較的近くに住んでいたこともあり、このYちゃん一家と一番、密に接していたと思う。何度も旅行にも出かけたし、数え切れないくらいご飯も一緒に食べたし、あちこち出かけたものだ。俺たち夫婦二人と猫だけの生活に、Yちゃん一家はいつも賑やかな団欒を運んでくれた。
そして笑顔が絶えなかった。いつも、いつも。だが、もちろん、そこにはいつもMが一緒だった。
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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 10

4/28の続き。

その後11時ころ、マンション裏のゴミ置き場にゴミ袋を捨てようと、エレベータで降りて、途中で鍵を持ってこないことに気付いた。ここのマンションは築年数は古いもののセキュリティがかなり厳しく、表の入口はオートロック、裏も階段などから一切進入出来ないように柵で囲われている上、防犯カメラも要所要所に配備されている。
建物の裏側にあるエレベータを降りて外へ出るところのドアも、開くと必ず閉まって施錠されるようになっている。つまり自室へ戻るには、鍵を忘れてもオートロックは部屋に誰かがいて開けてくれるか、他人の出入りに乗じて入るのを待つしかなく、裏のドアは閉まったら鍵じゃないと開かないので、これまたどなたかがゴミ捨てに来るとか、自転車置き場に行くなんて機会がないと戻れない。。
そのために、もちろんいつもはゴミは二人で外出する時に俺が持って出ていた。俺は両手にゴミがある場合、「ガシャン!」と大きな音をたてて乱暴に閉まるドアを、Mは俺の後でそっと手を添えて静かに閉める役目が多かった。二人のそうした習慣は、特に「あなた後ろで閉めてよ」とか「私がドアを閉めるから」とか打ち合わせがあるわけではもちろんなく、それこそ「あ・うん」の呼吸であった。
そう、俺たちは他人にいつも気を使い過ぎていたかも知れない。「すいません」が二人とも口癖だった。自分たちのエレベータが閉まる寸前に人が駆け込んで来るのでドアを手で抑えてあげても、「すいません」となぜか俺たちが先に声を出したものだ。
常連にさせてもらっている少ないお店でも、俺たちは他のお客さんが来れば、店主と話すのをなるべく遠慮した。オーダーは店の人が他の客の相手をしている間を遮らないように、向こうが気付くようにしたり、そういう場合も「すいません」が口癖だった。常連がデカい顔をして一番奥に陣取り、大声で店主を呼びつける。命令口調でオーダーする、客なんだからと高みに立つ、そんなことが俺たちに出来るわけがない。

ところでこういう環境なので、一人で建物の外に出る時はたいがい鍵を持って出る習慣がついていたのに、どうかしてたんだろうか。うかつだった。外出する時の服には必ずチェーンに鍵をつけたものを持っていたし、ゴミを捨てるのはそういう時が多かったから、部屋にいる時に一人で部屋着のまま降りるという場合は、つまり、これまで必ず部屋にはMが居たからだったかも知れない。

エレベータ前の出口のドアが閉まるところに、下に置いてある足ふきマットを挟んでおけば大丈夫だろうと、マットをドアの下に置いて外へ垂らして、両手にゴミ袋を持って外へ出ると、背後で「ガチャーン!」と音がした。これが、俺たち夫婦がいつも気を遣っていた「嫌な騒音」である。つまりマットが薄すぎて、下の隙間からぺろんと垂れているだけでドアのつっかえにはならず、完全にロックされてしまった。
こうなったらもう、この場は鍵がないとどうしようもない。仕方なく表玄関へ回り、オートロックの前に向かうが、いつもならここで部屋番号を押せば、Mが開けてくれた。だけど、もう彼女は開けてくれることはない。
しばらく郵便受けから取り出した新聞を眺めて時間を潰す。そういあえば新聞もテレビも、Mが倒れてから全く見ていない。新聞も今はただ「眺めているだけ」だ。その間にどなたか、住人なり顔見知りの人が出入りをしてくれれば、それに便乗して入ることが出来る。ところがしばらく待っていても一向に誰も来ない。
そういや鍵を(に限らず)忘れがちなMは、だいたいは俺にインターホンで「あけて。」と言ってきたな。彼女はバッグを気分で取り替えるのが常だったけど、その度にモノを移動し忘れることが多く、よく「鍵がない」と言っていた。なので俺はこれなら絶対無くさないだろうと、鍵を取り付けた金具部分が巻きチェーンにつながって伸びる、丸い部品がついたゴツいものを買ってきた。
Mは黙ってそれを使ってくれていたけれど、それは今考えれば、いやちょっと女の人には無骨すぎるな、と思える実用第一なゴツいものだった。それでも、彼女はそれをバッグにつければ無くさないものを、ジャンパーやオーバーオールのポケットや、入れる場所を決めなかったので、よく「あれえ〜?」と探していただものだ。

玄関ホールでどなたか別な部屋番号を押して開けてもらおうか、それとも待とうか、何度も逡巡していた。だが15分くらい経っても埒があかないので、仕方なく再び裏へ回り、マンション一階に入っているIクリニックの裏口のドアフォンを押した。まもなく出て来られた看護婦さんに事情を説明すると、「今偶然なんですけどKさん(マンションの大家さん)来ておられますよ、呼びましょか」と言ってくれる。Kさんは当然いつも鍵を持っておられる。
「申し訳ありません、よろしくお願いします」とお願いするとすぐ、表側から駐車場を廻ってこちらへ、大家のKさんと、続いてI先生も来られた。I先生は、もうMの状態は電話でお知らせしてあるが、大家さんのご自宅は少し離れているので、いずれ…と思っていた。。
「本当にすみませんです」と頭を下げ、「いえいえ」とすぐに鍵を開けてくれようとしたKさんに「あの、実は…」と声をかけた。振り向いたKさんに、
「実は、先日、連れ合いが倒れまして…」と事情を説明する。
それを、すでに状況を知っておられるI先生も傍らに立って静かに聞いていて下さる。
俺は「しっかりしなきゃ」と思ったばかりなのに、Kさんに「いつですか」と聞かれて説明しているうち、涙声になってしまった。
「兆候は無かったんですか」と聞かれるので、「はい…本当に急で」と答えると、I先生が「ブログ拝見してます、相当大きい静脈瘤が元々あったようですね。時限爆弾ですね」と言われる。気付いてあげられなかった、助けられたかも知れないという俺の自責の念を、慰めて下さったのかも知れない。
「I先生にもお世話になって、いい先生に巡り会ったと喜んでましたし、こちらのお部屋も素晴らしい部屋で、もう一生ここに住まわせていただこう、と話してたんですが…残念です」と声が震えた。ほんの少しだけ3人で立ち話をさせてもらい、「また改めて…」と言って頭を下げて、鍵を開けてもらった。
ようやく無事に部屋へ戻ると、廊下でユキが待っていた。しっぽがびちょびちょだ。俺が急に居なくなったので、狂ったように泣きながらしっぽをくわえて廻っていたのだと解る。やれやれ、ぼーっとしてちゃあかんな。これから、お互いいつも助け合い気遣い合ってきた「連れ合い」のいない生活が続くのだから…。

それからはずっと、パソコンに保存してあるデジカメの写真データをひたすら眺め続けていた。わが家の場合、96年頃に最初にデジカメを導入したが、それは高価なオモチャ感覚で、飲み会で変顔を撮ってはその場で見て笑う、みたいな使い方が多かった。銀塩カメラと併用になったのは2000年頃からで、俺が病気になってからは愛用の一眼レフはYちゃんに譲り、その後はデジカメだけだ。
だからほぼ10年分の写真データがノートには詰まっている。フィルムカメラと違い、デジカメはつまらん瞬間もけっこう残していることが多い。色んなことがあったなあ。いいことも、楽しかったことも、た〜くさん。だいたい写真はいいことを撮影する場合が多いけど、辛いこともたくさんあった。猫たちの死、自分たちの入院や闘病の様子…。それでも俺たち夫婦はいつも一緒だったなあ。これからもずっと一緒だな。ダメかな。

二人はお互い「生まれ変わっても一緒になろう」と言っていたよね。
生まれ変わってからのことなんか、どうでもいい。今、一緒に居てくれないと、困る。

しょうもないジャリタレが軽々しく口にするのは論外として、若く発情したカップルが高揚のあまりに口にする「愛」とか「ずっと一緒に」というものも、微笑ましいものがあろう。けれど俺たちの場合は、時間の長さは関係ないが、この四半世紀、本当にいろいろな山坂を必死で一つ一つ一緒に乗り越え、共に歩み、性愛を超越したところにたどり着いた。そこで二人で手を取り合って、本当に心の底から口に出している。悪いが、重みが違うと思う。俺が病を得て、それが死病だと解ったとき、あの人は
「私は例え別の場所に生まれ変わっても、必ずあなたを探すよ。」と言ってくれた。
「俺はダライ・ラマか」などと軽口を叩いて二人で笑ったが、もちろん照れ隠しで、同じ気持ちだった。

…病院のICUに入っているMのために、ナースに持って来てと言われていたものを、昨日のうちに用意しておいた。手術で剃った頭を隠してあげる帽子。歯を磨いてあげるための歯ブラシ。唇が乾いて荒れてくるのを防ぐためのリップスティックなど。それぞれ揃えたのだが、どうしてもリップだけが見つからない。
二人で外出していた時に、時々バッグから取り出してスッと塗っていたやつがあったはずなのに、いくつもあるバッグ…そのほとんどに小銭やティッシュ、インスリンの針などが必ず入っていた…を探してみたが、どうしても見つからなかった。
1時をまわって、2時の面会時間が近づいてきて、再びバッグを順番に探していく。やっぱり見つからず、思わず「M、リップないよ。どこにあるか教えて?」と言いながらバッグのポケットに手を入れると、指の先にコツンと何かが当たった。それはあの、いつも使っていたリップだった。信三郎帆布に行った時に買った、オレンジのトートバッグのポケットから、あっさり。そこは何度も見たはずなんだけど…。
そうか、教えてくれたんだね、ありがとう。そう言いながら、俺のバッグに入れた荷物の中へ加えた。そういや君、「Lipstick on your color」って曲大好きだったな。変なこと思い出したよ。あんな陽気な曲。カラオケへよく行ってた頃は、定番だったよね。英語の発音は完璧で、可愛い声だったな。また聞きたかったな…。テーブルの上の写真にまた語りかける。

2時近くに、お姉さんに今日はどうしますかとメールで聞くと、折り返し電話があり、東京からもうMの義兄が向かっているそうなので、面会は5時からにしたいという。ではこちらもそれに合わせる、ということにしたのはいいが、それとは別に今度は「Yちゃん一家が全員で来るのは知ってますか」とのこと。全然知らなかったので驚く。
長女のMちゃんと次女のYちゃんたちはもうママの顔を見たし、腫れた顔はもう他に誰にも見せたくない、と言ったら、Yちゃんの旦那のお父さんが「何で一人でYちゃんを行かせたんだ、親子全員ですぐ行ってあげろ!」と強く旦那を叱ったそうだ。状況を聞いていれば、そこへ小学生の女の子2名を加え一家全員がICUに押しかけたらどうなのか、察して欲しいとは思うが、悪意のあることではない。
何だか大変なことになったな、M。ごめんなあ、と写真に話す。
Yちゃんに「もうこれ以上あの顔を見せる人を増やしたくない」とメールしてみると、Yちゃんはちゃんと解っていて、やはり「向こうのお父さんが強く言うから」とのことで、子供たちは入れないと言うことなので安心した。「じゃあ、子供らには『ばぁば』の写真持ってくから、って言っといて」と伝えた。

Mの写真をプリントして、今テーブルにある額装をもう一つ作って病室に持って行こうと、パソコンに向かう。去年銀閣の出口で、通りすがりの人にお願いして撮っていただいた井坂さんご夫妻と4人で並んだショット。その写真のMの笑顔が、俺は一番好きだ。なのでごちゃごちゃして俺たちの袖なんかも写り混んでいる背景を、あの人が大好きだった桜の写真と合成した。それをプリンタで印刷しようとしたら、ライトマゼンタのインク切れだという。「印刷可能限界値を超えました」だと。よりによって、桜や肌の色を再現するのに欠かせないインクじゃないか。おいおいM、そういうイタズラしないでくれよ、それとも嫌なのかな…。
そんなことをしていたら、もう4時を過ぎている。お姉さんからメールで、東京からお兄さんが着いたから、5時に病院で待ち合わせということになった。
それでも病室に、Mの優しい笑顔の写真を持って行きたかったので、データをSDメモリに入れて、向かいのセブンイレブンでL判プリントをし、タクシーを拾って車中で何とか額に収めた。
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2009-04-28(Tue)

連れ合いが倒れた 9

4月28日(火)

それからは、そのままいつしかシマと一緒に寝ていて、目が覚めたら3時半になっていた。途中、どうしてもMが俺に助けを求めた、あの時間…午前2時あたりになると必ず目が覚めてしまう。それでも正味4時間ほどは寝られたことになる。寝られない、食べられない…という状況もちょっとづつ改善していかねば。Mは常々「あなたの体が心配なんだから」と言っていたんだから。

まだ暗い中階段を降りてリビングへ行くと、二階に一緒にいたはずのユキが、床暖房の板の間の上で寝ていた。寒かったのかな、それともママの帰りを待っていたのかな、と思うと少し憐れな気がした。

熱いほうじ茶を入れて、寝る前にテーブルの上に立ててお酒を置いておいたMの写真に、
「M、こんなに早く起きちゃったよ。お茶飲もう」と言ってお茶のコップを置く。そうして自分も飲む。

夜が明けて、ベランダを見たらいつもMが大事にしていた緑が目に入った。三日ほど水をあげていない。
すぐにベランダに出てバケツに水を組み、じょうろで順番に水をやる。彼女は豪華な花よりも、小さな苔や可憐な可愛い花を好んだ。それと、観葉植物のようないつも緑を保ってくれるものなど。もっとも好きだったのは桜だけど、こればっかりは大きな庭でもなければ無理だ。

東京に住んでいた時は、ベランダにそういった小さな緑や花を買ってきては、必ず枯らしていた。いや、枯らしたのではなく、どんなに世話をしても、必ず枯れてしまっていたのだ。
京都へ移ってきて、二人で「あれじゃ人間だって暮らしにくいよね」と話した。京都のこの部屋は南向きにベランダがあって、そこに緑を置いている。メゾネットの「二階」には北向きの広めのベランダもあるが、やっぱり植物には太陽が必要だろうと、プランタ類はリビングから続くベランダに置いている。

びっくりしたのは、Mの大好きな「苔玉」だ。苔を丸い形に貼り合わせ、文字通りボールのようにしたもので、シダのような葉っぱが数本伸びたりしているのを見たことがある人もいるだろう。東京ではそういうものはすぐに茶色くひからびてしまったが、今あるものは、去年の夏だったか秋だったか、どこかで買ったものは直径も15cmくらいと大きく、苔もしっかりして四方八方に葉が伸びた立派なものだ。それに紐がついており、ベランダの物干し竿に吊してある。
冬になって葉が無くなって、苔も緑を保つのが精一杯という風情になったので、部屋に入れておいた。今年の春になって暖かくなった頃、また外へ出したのだが、桜が始まる頃からまた葉が出始めて、今では去年よりもたくさんの葉がもさもさと四方八方に伸びている。「越冬したね」と二人で笑い合った。こんなの初めてだね、と。
いつもそうしていたように、バケツの水にその苔玉のひもを持って、ぶくぶくと気泡が出なくなるまで漬ける、そうしたらまた元の位置にぶら下げる。そこからしたたった水は、これも東京から持って来た枇杷の苗木に水をやる…という仕組になっている。
この枇杷の苗木は、東京に居た頃…2007年の正月に、近くのホームセンターにわざわざ注文して買ったものだ。(そのことは、何度かこの日の日記やここでも書いている
なぜ俺たちが枇杷を育てていたかというと、枇杷の葉には鎮痛効果があると聞いたからだ。それを教えてくれたのはMの親友の井坂さんで、Mが手術の後の激痛に苦しんでいる時に、教えてもらった。井坂さんは十数枚の葉を送ってくれたので、Mは藁にもすがる思いで、それを水に一度浸してから、痛い右脇腹の手術痕に貼り、腹帯で止めたりしていた。
それをすると精神的にも安定するのか、それに実際に効くのか(Mは効く、と断言していた)、それからわが家では痛いところがあると枇杷の葉を貼るのが日常となっている。実は井坂さんからいただいた葉が切れた後、どうしようかと話していたら、舟渡の住んでいたマンションの向かいにある工場の敷地に、枇杷の木があったのだった。
でもそれは工場とギリギリの金網フェンスの間の1mもないところに、窮屈そうに立っていた。3〜4mくらいある成木で、時々二人でこっそり夜中にハサミとビニール袋を持って行き、「枇杷ちゃん、ちょっといただきますね」と言いながら葉っぱを貰ってきていた。

その枇杷の木がある工場が、ある日突然移転のための解体工事をするということになった。たまたま工場に防音防塵の幕を張る作業をしていたところをMが通りかかり、移転工事だと知ったという。その時現場のおじさんに、「この木はどうするんですか」と聞いたら、「たぶん切っちゃうんじゃないかな」と言われたので、「じゃあ切る前にぜひ教えてください」と言って連絡先を渡してきたという。
でも、結局その枇杷の木はある日、無残に解体現場の手前に切り倒され、転がっていた。うち捨てられていた、という風情だった。
俺たちがそこを通りかかった時はもう遅かった。「教えてくれなかったな」と二人で怒りながら、それでもすぐに取って返し、出来るだけたくさんの葉をいただいた。もう、人目なんか関係なかった。二人で合掌して、「今までありがとう」と感謝した。

そんな中、たまたま出かけたホームセンターの中にあるグリーンショップで、枇杷の苗木が取り寄せられることを知った。東京のベランダではどうかと思ったが、やってみようよと話して注文したのだ。
程なく入荷の連絡があり、うちへそれが届いた時は、高さが30〜40cmくらいだったか、細い幹に若い葉が数枚ついているだけのものだった。頑張って水をやったり世話をしたが、元々枇杷はそれほど手のかからないもののはずで、強い木なのに、やはり葉が丸く力なく垂れ下がるようになってきた。
やっぱりここじゃ駄目なのか、と悲しい気持ちになった。
それも、もちろん京都への引っ越しで持って来たというわけなのだ。苔玉の越冬にも嬉しい喜びがあったが、この枇杷の苗木は、東京でしおれていた葉がシャキッとし、少しずつ幹も伸び始めたのにはびっくりした。さらに、ある日気付いたら、途中から枝分かれし、そこにも元々の部分と同様、葉が茂り始めたのだ。今では葉の上に実のようなぷっくりした球が数個出て来ている。
「こんなにも京都って植物に優しいところなんだね」と二人で感激した。だから「きっと人間にもいいところなんだよね」と話し合った。そういえば、わが家の周辺、疎水分流沿いは枇杷の木だらけなことに、引っ越してきてしばらくして気付いた。「これなら苗木買わなくても良かったね」と笑った。それに、京都はあちこちにちゃんと自然が保護されていて、緑や水の豊かな街だ。四季の移ろいが目と肌で感じられ、それぞれに、いや一年365日楽しませてくれる。人にも、都会よりもその方がいいに決まっている。

実はあまりに二人であちこち出歩いているので、とても一つ一つブログにもアップしきれないほどの思い出がある。夜、明青のおかあさんに教わった松ヶ崎の疎水に蛍も見に行ったし、大原へも行った。鈴虫寺も嵐山も二条城も苔寺も大徳寺も金閣銀閣も清水や高台寺や主立った観光スポットはだいたい訪ねたものだ。それから落ち着いて、今度は観光客の来ないひっそりとしたお寺や神社を訪ねたり、京都在住の利を活かして、口コミで住人しか知らないスポットで桜や梅や蛍や緑を楽しんだ。送り火なんてわが家から見られたんだ。本当に書ききれないほどの京都見物をしている。

こんないいところへ二人、来たというのに…。

二人でもっともっと京都生活を楽しみたかった。残念で悔しい、そして悲しいし寂しい。結局、何を見ても何を考えても、最後は「Mがいない」という現実が襲ってくる。
これから俺はもう東京へ戻る気はない。東京はもう自分にとって、いい思い出ももちろんあるのだけど、ここ十年ほどはとてもとても辛い思い出の多い、寒々しい街になっている。かといって、ふるさとの函館は病気には寒さの辛い場所だし、もう俺の居た頃の函館ではないだろう。実家は母と兄の二人暮らしで、俺の居場所はない。あったところで、帰りたいとは思えない。
俺の居場所は、Mと二人で、本当に楽しい思い出でいっぱいの、この京都だと思う。今まで一緒に暮らした猫たちの遺骨も、鴨川へ合流する?野川へ撒いた。だからここで俺も骨になりたい。
だけど、俺たちのいい思い出しかない、この素敵な街にこれから一人で住まなければならないということは、どういうことになるんだろう。そう考えると、少し不安になる。なぜかというと、どこへ行っても、Mと二人での思い出がそこかしこにあるからだ。それを一人で見たり通ったり、その場に居たりすることが、果たして俺に出来るのだろうか。

こういう記録をしている以外は、自分でもおかしいと思うが、ゆっくりとしか動けず、気がつくと「ふぅ〜〜〜…」と深い溜息が出る。こんなことは初めてだ。リビングへ移動して、ソファに転がっていると、テーブルの下にいたシマが上がってきて、俺がタオルケットをかけて横になっている脇に密着して丸くなった。そして、やがていつものように「ぷぅ、ぷぅう」といびきをかきはじめた。
この寄り添ってくれる小さな暖かさが無かったら、本当に俺は凍えてしまうだろう。Mのお母さんは昼間「猫たちはどっかへ預けたら」と言っていたが、絶対それは出来ない。
小一時間ほどそうして目を閉じたりしていたが、結局眠れずに8時半ころ起きてしまう。シマはそのまま丸くなっていた。

するとしばらくして、9時ころにドアフォンが鳴った。何だろう、と思ったら郵便局で、小包は井坂洋子さんからだった。開けてみると、俺の体を心配して、食べられないだろうけど食べて、もし口に合わなかったら捨ててもいい、紫さんはきっと白取さんのことを心配してるから…という内容の手紙があり、パンとクッキーが入っていた。
Mの写真に「ねえ、井坂さんパン送ってくれたよ。有り難いね。みんな心配してくれて。」とそれを見せた。せっかく送っていただいたんだから、食べよう。俺はまだすぐ後を追うわけにはいかない、まだやらなきゃならないことがたくさん残っている。
そう思って、「イチゴジュース作ろう」と声をかけ、二人の朝がいつもそうだったように、俺は冷蔵庫からイチゴを出して洗い、ミキサーのカップにヘタを取りながら入れていく。そうしてレモンを搾って蜂蜜を加えて、ミキサーにセットする。その時後ろを振り返り、Mが注射しているタイミングを確認して、ミキサーを回す…。
振り返ってもMはもちろん、いない。それでもミキサーを回して、小さなコップにMの分を少し分けて、写真の前に置いた。「はい、出来たよ。一緒に飲もう。」
俺は井坂さんが送ってくれたパンを少しちぎって、イチゴジュースで食べた。ほんのひとかけらのパンだが、何回も何回も咀嚼し、ジュースで流し込んだ。どちらも流動食のような状態だ。二人はいつもジュースを飲み干した後、「ああー体にいい!」とどちらかが言うのが日課だった。今日は俺が言った。

それから、仕事のメールアカウントを順番にチェックする。何せ毎日チェックするものだけで10以上あるので、大変だ。そのうちのいくつかは、あまりにSPAMがひどいので、gmailへ転送することにしてある。gmailのフィルタは強力なので、見事にSPAMだけを振り分けて、必要なメールのみ受信トレイへ入れてくれるから、助かる。

こうった作業をしたり、何をした何があったということを逐一記録していくことで、俺はきっと

Mを失う自分

というものを、無理やりに相対化しているんだと思う。そうしていないとおかしくなりそうだから。

人は弱い、耐えられない苦痛…それは肉体でも精神でも、そういうものに襲われた時に、何かにすがりついたり、何かに逃げたり、頼ったりしないと、すぐに壊れてしまう。そういうことを平気で嗤い飛ばせるズ太い精神を持った人種もいるのは知っているし、連日新聞やニュースを賑わせている凄惨な事件は、そのような無神経な人間が起こしている。
俺は、最愛の人間、自分と一心同体でずっと過ごしてきた連れ合いであるMを失うことは、それこそ半分殺されるような苦痛だ。
「しっかりしろ」と言われて、できるはずがない。
Mが倒れた日、その夜に来てくれた明青のおかあさんが
「泣いたらいいよ、思い切り。だってこんなに辛いこと、ないやないの!」と言って玄関先で一緒に泣いてくれた。それが当たり前の人間じゃないか。

Mは小さな体で、昔から病気ばかりで、それも繊細な神経がゆえに、溜めに溜めた挙げ句、さまざまな病気を得てしまったようなものだ。
前夫による、同居翌日から始まったすさまじい家庭内暴力。
目の前で仕事をすれば「あてつけか」と殴られ、蹴られたという。
我慢を続けたものの、あまりのひどさに相手の親へ訴えた時は、「あなたに原因があるんでしょう」と冷たく笑われたという。
Mのお母さんは、当時から近年まではMとの折り合いが悪かった。電話をすれば叱られると言っていつも落ち込んでいたのを傍らで見続けてきたから、俺も彼女が母親に助けを求められなかったこともよく解る。
前夫はシラフになると、あざや瘤を作ったMに土下座をして謝ったという。もうしない、と。
しかし夜になり酒を飲むと、それこそ団地にあった頑丈なタンスに亀裂が入るほど、頭を打ち付けられたという。
血が噴き出し、思わす外へ逃げた。団地の真ん前のロータリーには派出所がある、そこへ駆け込んで訴えると、警官は「ああ、旦那さんにやられたの。それじゃあこちらはどうにも出来ないなあ」とヘラヘラ笑われたという。
今でこそ、「DV」という言葉は定着し、家庭内であっても傷害は傷害、犯罪は犯罪として認識されるようになったが、30年以上前、官憲や役所は「民事不介入」を合言葉に何もしてくれなかったという。
最後の作品集、『愛のかたち』でも本人の手で記述されているが、そんな中、夫から逃れた後のため、必死で隠れて仕事をし、そうして無理矢理に夫を引きはがすことが出来たのは、5年以上経ってからだ。
彼女は、ずっと頑張ってきたのだ。
それ以降の絶え間なく襲ってきた病魔との戦い、頑張りも、俺はよく知っている。
だからもう、頑張らなくっていいんだよ、といつも話しかける。

そんな中での精華大への招聘は、本当に奇蹟のような有り難さだった。
俺は「ね、あなたが長年頑張ってきたことが、ちゃんと評価されて招かれたんだよ」と言うと、「そうかな」と少し照れたように、でも嬉しそうに笑っていた。
実際は、彼女は一度も正式に就職した経験がない。若い頃にデザイン事務所に勤めたことがほんの一時期あったそうだが、それとてアルバイトに近い感覚だったという。
大学の専任教授というのは、大学という法人の正社員になるということとほぼ同じことだ。当たり前だが月給が入る代わりに、基本的には行動は全て大学を中心に制約されることを承知せねばならない。講義だけではなく、会議や入試立ち会いや入学説明会への出張など、さまざまな仕事をこなさねばならない。
そうして2006年春から、彼女は2ヶ月前に吐血入院したばかりの病み上がりの体で、隔週で東京から京都へ新幹線で通勤することになった。イレギュラーな出勤もたびたびあった。
ホテルの予約は俺がパソコンでしたり、いろいろサポートはしたけれど、一緒についていくわけには行かなかったので、彼女は一人でそれをこなした。
ホテルからよく、電話やメールをくれたものだ。きっと寂しかったのだろう。「はやく帰りたい」といつも言っていた。
帰ってくると、大学生活を俺にいろいろと話してくれた。
学生さんたちとの触れ合いはとても楽しく、やりがいがある。学生からこんなことを言われた、こんなものを貰った。大学に猫がいて、本当はいけないんだけどこっそりご飯あげてるんだよ…。
それを聞くこちらも、楽しい話は心がなごんだものだ。

しかし残念ながら、「組織」の中で動くという経験は、ずっと一人で頑張ってきたMに、かなりの精神的な負担を与えたようでもあった。
その場その場で丁々発止のやりとりをするのではなく、一つ一つ反芻しじっくりと熟考して、そして自分で最善と思った答えを出す。口に出す、行動を起こす。
そういったペースはしばしば認められず、誤解を受けることも多かったと思う。
徐々に、彼女は大学勤務を終えると、その晩泊まらずに、まっすぐ東京の自宅まで帰ってくるようになった。東京につくと、マンションの最寄り駅まではちょうど大変なラッシュ時間と重なる。それでも、重い荷物を抱え、弱い体を支え、Mは頑張った。そうして、家に帰ってくると、「疲れた!」と言ってソファに倒れ込んだものだ。出てくる言葉にも、愚痴や弱音が増えるようになってきた。
一晩京都に泊まって、翌日ゆっくり帰ってくれば楽なのは解っていても、とにかくわが家に一刻も早く帰りたかったのだと言っていた。
翌年つまり2007年からは、その通勤が毎週になると決まった。嫌なら辞めるしかない。でもMは「頑張るよ!」と言ってくれた。
なぜか。
それは俺が白血病で、いずれ来るかも知れない過酷な治療に備えるためだったと思う。

でも毎週3日間の京都通勤は、あまりに過酷だった。そして、思い切って京都への転居を決断したのだった。
幸い俺の仕事も安定し、それはネット回線さえあれば東京でなくとも続けられるものだったし、引越作業は思い切って業者にほとんど任せることにして、次女のYちゃんが「凄いね!」と驚いたほどの手際で、俺たちは上洛した。
そうしておととしの夏から始まった京都での生活は、このブログでも何度も紹介しているように、本当に穏やかで、俺たちの人生のうちで最も幸福な時間だった。

もっともっと長く続けたいと思っていた。願っていたし、祈っていた。

神様か仏様かは知らないが、残酷なことをする。

いや、それとも「もう頑張らなくていい」ということか。
あるいは、俺が先に逝ったとしたら、その後のMの苦しみを考えて、先に連れて行くのか…。
Mが倒れて泣いてばかりいた俺だが、徐々に、この理不尽な事態に怒りを感じ始めている。
その怒りが自分の生きるモチベーションになることは、自分が一番よく解っている。
俺の役割が終われば、やがてMが俺を迎えに来てくれることも知っている。
だから、気を立て直そう。もうちょっと、今度は俺が頑張る番だ。
いちごジュース
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2009-04-28(Tue)

連れ合いが倒れた 8

27日、月曜の夕方5時をまわった。

あれから2時過ぎにお姉さんから電話を貰い、頃合いを見てタクシーでこちらも京大病院へ向かった。今日は穏やかに薄日が射す天気ながら、やはり肌寒い。病院へは10分足らずで到着し、入口のホールにある椅子に座って待つことにする。
ざわざわという喧噪の中15分ほど待っただろうか、エントランスへ向かってくる知った顔が見えたので、立ち上がって外へ迎えに出る。お母さんとお姉さん、それに叔母さんも一緒だった。お姉さんは無言のまま深々と頭を下げられ、挨拶もそこそこに、病院の中へ案内する。
Mが「ばーちゃん」と普段呼んでいたお母さんと、その妹である叔母さんがトイレに行きたいというので、いったん廊下のソファでMのお姉さんと座って待つ。その間、俺は思わず「急なことで…」と説明するうちに、思わず泣いてしまった。めそめそするところを見せてはいけないのだが、堪えきれなかった。お姉さんも泣いた。Mが俺や子供たちを除けば、恐らく一番好きだったのは、この実のお姉さんだったと思う。
やがて二人がトイレから出て来たので、気を取り直して直接ICUのある階へ向かう。インターホンで「A先生に呼ばれました、白取の家族です」と告げると、確認の後、中へ入るよう言われる。フットスイッチでドアを開け、全員手を洗い、マスクをして、もう一度中のドアをフットスイッチで開けて入ったところがICUだ。

ここはMが手術を受けた直後に入って以来だが、その時通されたベッドのあった場所も変わっていた。緊急な患者さんばかりの場所だから、容態によってしょっちゅうベッドの位置が変わる。
俺がICUの中にある受付で面会者の名前を書けと言われて4人分書いている間に、3人はMのベッドの両脇へ行っており、すでに泣きながら顔をなでたりさすったりしていた。
口々に「M〜、もう頑張らなくていいんだよ」とか「可愛そうに」と言っては涙しているのを見るのは、やはりこちらも涙せずにはいられなかった。
Mの顔は手術直後に俺が見た、あの悟りを得た尼僧のような穏やかな表情ではなくなっていた。むくみが出たそうで、詳しくは書きたくはない。俺は黙って脇に立っていたが、それでも堪えきれずに顔を撫でてるうちにまた泣けた。

ナースに4枚ほど必要書類にサインをさせられたあと、もう少しで先生来ますから、と言われて十数分だったか、ベッド脇で皆Mに話しかけて待つ。ばーちゃんは何度もMの顔を撫で、毛布の下の体を触ったりしていた。
Mはもう自力呼吸が出来ないので、機械で肺に酸素を送っているが、その
「すううううう、はあああぁ…」
という規則正しい胸の上下は、明らかにそれが「寝ている」のではなく「呼吸をさせられている」ものだと解る。
しばらくして執刀医のA先生が来て、挨拶のあと、「それではあちらでご説明をしますので」と言われてカンファレンスルームに通される。脳の断層写真のモノクロコピーを皆に示して、
「ご主人には到着時からご説明はしておりますが…」と、今回の成り行きを改めて皆で聞くことになった。

まず、最初に頭痛。それから左半身の麻痺が起こる。この段階で脳内の血管から出血があり、それが脳を圧迫して、障害が起きる。この段階でももう重篤な段階ではあるが、それでも通常の脳内出血、俗に言う脳卒中であれば、すぐに救急搬送して開頭手術で血腫を取り除けば、その部分の麻痺は残るが、いわゆる「寝たきり」の状態で延命だけは出来た可能性は高い。
しかし、Mの場合は救急隊が到着した時にはすでに意識が無く、さらに病院に到着し脳内のCTを撮影した時点で、もう呼吸が弱く、片方の瞳孔に拡散傾向が見られたという。そこで、通常ならもう助かる可能性は低いですよと説明し、そのままにするか、手術をするか、家族の希望を聞いたのだ、と。

俺はもちろん、例え数パーセントでも、障害が残っても生きられる可能性があるのなら、と手術をお願いした。
そこで緊急手術となったわけだが、やるからには先生も絶対救おうと思って臨んだものの、開けてみたら、単純な脳内の静脈が破裂したというものではなく、以前から血管に何らかの奇形があったのか、その部分の血液を取ろうとすると、大量に出血を繰り返したという。なので、もうその部分の治療を諦め、その他の血をなるべく取り除いた…という術後の断層写真を見せられる。
なるほど、噴射されたみたいな血はだいぶ取り除かれてはいたが、肝心の部分はそのままだった。それが脳幹と言われる重要な部分を圧迫しているのだという。こうなるともう、予後は非常に悪い、ということだ。
あとは心臓がいつ停まるのか、ということになる…。
俺が「脳内にもう、以前から時限爆弾があって、それが炸裂したということでしょうか」と聞くと、
「その通りですね」
「もし、もし万が一事前に検査なりでわかっていれば…」と言うと
「そうですね、例えば糖尿なり高血圧の検査入院をされて、担当医がたまたま『ここも調べて』と言えば発見できたかも知れません。その場合は患部に行く血液をいったん全て停めて、準備を整えて万全の体制で手術が出来、そうしたら重度の麻痺くらいで延命は可能だったかも知れません。」
俺が頭を抱え、「実はこちらへ転院してから一度も精密検査をしてなかったので、早くした方がいいよ、と言ってたんです。でも大学の講義に穴を開けられないので、夏休みに予約を入れたばかりなんですよ…」と思わず声を震わせると、
「でも、それはやはり運命というものですよ。本当に、ほんの少しの別れ道で、その運命も変わるわけですし、こればかりは仕方のないことですから…」と諫められる。


それからはしばらく、身内による今後の「治療」方針への希望などを話す場になった。


終わりに先生は「では今後は患者さんの状態に任せるということで、何か兆候があれば、すぐご主人にご連絡するようにしますので」と言われて、退席された。
俺らは一緒にいた二人のナースのうちの片方に、
「では、今おられるところからちょっと離れたところへ移動していただいて、そこではご家族にも来ていただけるようにしますし、面会時間内でしたらいつでも来ていただいて結構ですから」とのこと。
一通り説明を聞き、最後にもう一度Mのベッドへ行き、皆で頭をなでたりさすったりして、ICUを出た。


彼女の魂はいまどこにいるのか。肉体から離脱し、あちこちを飛び回っているのか。肉体にまだとどまっているのか。ベッドの上から、嘆き悲しむ皆を見下ろして、自分も泣いているのだろうか…。

病院を出てタクシーを拾い、いったんわが家へ皆を通す。
一通り、Mと俺たちが暮らしていた場所を見てもらい、ソファで皆であれこれ話した。はっきり言うと、俺は辛かった。

Mはあともって数日。ならばいったん帰るのではなく、出来るだけ近くにいてすぐに飛んで行けるようにしていよう、ということで、何とか今晩だけでもどこか宿泊先をと言われ、ネットで検索し電話してみると、何とGW中だというのに、割と便利なところにあるビジネスホテルが2人と1人で2部屋取れてしまった。
Mはやっぱり、居て欲しいと願っているのだろうか。
その後は、もう2泊くらい取っておかないと、というのでばーちゃんが懇意の東京の旅行会社へ電話をしたり、バタバタとしたが、
「それでね、あなたがしっかりしなくちゃダメよ、夕飯一緒に食べに行こう」と言ってくれる。
しかし俺は「実はずっと目眩がしていて、薬を飲んでるんですが…」と説明し、今日は休みますということにした。
立ちくらみに似た目眩がICUからずっとしていたのは本当ながら、実際は一人になりたかっただけだったのかも知れない。そうして夕方5時ころ、お姉さんが「じゃあ白取さんも休んでよ」と言い、3人は去っていった。本当に、壁を伝うようにして歩くくらい、目眩がひどい。すぐに薬を飲み、横になった。

みんなが帰った後、ICUで今日ナースから返された、Mが常にしていた二つの指輪をジージャンのポケットから取り出してみた。先生だったかナースだったか覚えていないが、確か「指輪は取れなかったので切りました」と言われていたはずだ。
それなのに、二つの指輪はちゃんと元のままだった。
切ってなかったんだ!
心底嬉しかった。
すぐに俺が今しているネックレス…若い頃にMがプレゼントしてくれた、金のプレートつきのチェーンに、Mの結婚指輪を通してかけ直した。
もう一つの指輪は、Mが珍しく俺に「欲しい」とねだった安物だ。それはリボン型に細かなダイヤがついたもので、こんな2万円程度の安物でも、Mは「綺麗ね」といって凄く喜んでくれた。そしていつでも身につけていてくれた。時折「誰それに素敵な指輪ですね、お高いんでしょう、って言われたよ」と言ってにこにこ笑ってたっけ。
これは、写真の手前に置こう。

Mは一緒になってから、ほとんど俺にはモノをねだったことはない。もちろん、若い頃は俺が安月給にあえいでいたのを十分知ってくれていたし、その後もお互い不安定な収入は変わらなかったから、「贅沢は敵よ!」が二人の合い言葉だった。
それでもごくたまに、こういう本当に安くても自分が気に入ったものがあると、ずいぶん遠慮がちに、そっと欲しいと言うだけだった。
ここ数年だ、ようやく俺もMに指輪やバッグを買ってあげられるようになった、そんな高いものじゃないけれど、それらは、M自身が選び、気に入ったものばかりだ。それがMの体から離れるのは悲しいが、子供たちに持ってもらおう。Mもそれでいいだろう。そんなことをとりとめもなく、Mの写真に語りかけた。返事は無いが、いろいろ、話した。


そうしているうちに、5時をまわっていた。
気を取り直して、今度は溜まっていた仕事をパソコンに向かって片付ける。こんな時に仕事とは辛いのだけど、仕方がない。しかしパソコン画面を見るとめまいのせいかクラクラしてきて、休み休みの作業だ。

仕事がひと段落するともう8時、外は真っ暗になっていた。
Mが倒れてから、もう一度もテレビをつけていない。二人の時は朝起きてから二階で一緒に寝るまでついていたのだが。
それにしても、なぜこんなに寒いんだろう。Mがいつも羽織っていた俺のカーディガンを着ていても、足下から冷えがくる。仕事部屋から床暖房のあるリビングへ移動しても、床そのものは暖かいのだけど、なぜだか寒い気がする。あんなに暑がりだった自分が、なぜだろう。京都はそれほど冷えているんだろうか。それともMがいないからだろうか。

仕事を終えたあと、Mが倒れた時に着ていたパジャマやスパッツを入れたビニール袋が廊下に置いたままだったのを、ようやくゴミ袋に入れる決心がついた。パジャマの上は吐瀉物で汚れ、スパッツは失禁した尿でぐっしょりだ。もう、置いておけないよ、ごめんな。
Mのものはホンの小さなものでも、髪の毛一本でも捨てるのが辛い。あの人の息吹が感じられるからだ。汚れ物は汚れ物と頭で理解していても、その服はついこないだまでMが着て、そこに座っていたものなのだからだ。
それで何とか勢いをつけ、冷蔵庫に入っている生ものも捨てる。Mが好きだった梅干しのタッパーは…捨てられない。一緒に食べようと買った納豆も…いちごジュース用の牛乳はまだ大丈夫。一つ一つ、捨てなければいけないものを選別しても、どうしても食品でさえあの人の顔が浮かんで、捨てる手がためらわれる。
俺はこれから大丈夫なんだろうか。

ソファに転がって、ミニノートで自分のブログを読み返す。そうしては自分の記録でまた泣く、Mの魂が浮遊して見ていたら、何と情けないことかと嘆かれそうだ。Yちゃんからメールが来て、ちょっとやりとりもした。猫たちは寂しそうだ。何より俺が一番寂しい。
何かしていないとやるせないので、8時ころに発作的にパソコンまわりのごちゃごちゃしたHDD類を、純粋な仕事のもの以外全部外してしまう。俺が仕事のために蓄積していたマンガやアニメのデータや資料類、あるいは二人で好んだ映画や音楽のデータ。
大切な二人の写真や日記などのデータはパソコン内にある、それと今自分がやっている仕事のデータはポータブルHDDに入っている。それ以外のものは、もはや全部不要なものだ。
それらはもちろん自分個人や二人の楽しみのために集めたものがほとんどだ。でも連れ合いのMがいない生活の中で、とてもそんなものを一人で楽しむことなんて考えられないし、想像もつかない。だから、いらない。
そう見渡せば、俺の周りの仕事の資料や書籍、段ボール箱にたくさん入った不要なもの、東京から捨てきれずにそのまま持って来たものなど、いらないモノがありすぎる。これらもちょっとずつ捨てて行こう。
それでいて、Mのもの、二人の共有のものを捨てる踏ん切りがまだつかない。いずれは、思い切ってその辛い取捨選択を「作業」として行わねばならないことも解っている。だけどまだ、それは出来ない。だけど俺だけのためのものは、もういらない。

そうしてソファへ戻り、テーブルにMの写真を立てて、「さあ、仕事も終わったから一杯飲もう」と語りかけて、置いてあったぐい飲みの酒を捨てて、新しい酒を一杯入れた。俺はそれにホンの少し口だけをつけて「俺はコーヒー牛乳にするから、御免ね」と言って横になった。
ブログはありがたいことに、時折旧友や知り合いからコメントが入っている。それらを公開手続きだけをして、改めてまた読み返す。もっともっともっと、二人のことを書き残しておきたい。でもまだ、これから一人で過ごす時間はたくさんあるのだろう。その長く辛い時間を何かの作業で埋めなければいけない。そのためには寝ること、食べることをやめてはいけない。

10時前に導眠剤を飲んで、ネックレスに通してあるMの結婚指輪にキスをした。そうして「M、先に上へ行くよ」と声をかける。いつも俺が先に二階の寝室へ上がっていた時のように。そういう時Mは「ん」と言って、彼女は歯磨きはだいたい頃合いを見て済ませていたので、自分も起き上がってトイレだけ行き、「しまー、ゆきー、寝ますよー」と猫たちを呼びつつ、後から階段を上がってきた。
Mが逆に「眠いからもう寝ようか」と先に上へ行った場合は、こちらが逆の行動をして、後に続いた。毎日繰り返された何気ない日常だった。でももう何をするにも俺一人だ。それでも声に出して、Mに語りかけずにいられない。
寝室に上がると、真っ暗なベッドの上にすでにシマがいた。俺の隣、Mが寝ていた場所に畳んだ毛布の上だ。俺が横に寝て「M、消すよ」といつものように言って電気を消すと、しばらくしてシマがごろごろ言いながら俺の脇に来た。寂しいに決まってるよな、猫だって。シマを腕枕するような形で、天井を向いた。
「M、今どこにいる? もう頑張らなくてもいいんだよ、早くうちに帰っておいで」と真っ暗な天井に向かって目を凝らす。しかし何も見えない。やがて目が慣れてきても、いつもの部屋の様子がうっすらと見えるだけだ。隣を見ても、枕は空いたままだ。それでも「Mおやすみ」と声をかける。たぶん俺は死ぬまでこうして生活していくのだろう。
しばらく下にいたユキは、「ママ」がいないから上かと思って、俺のベッドに来た。しばらくしてまた下へ行き、それからしばらくして結局俺のベッドの脇にある段ボール箱の上へ上がって、おとなしくなった。
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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 7

ソファに座って、プリントして額装したMの写真に向かっていろいろ語りかけた。

そういえば、今まであなたのことを本名の「M」と呼んだことって、あんまり無かったね。
出逢った時、すでにあなたは遥か彼方にいる、凄い作家だった。
当然ファンでもあった。
だから「やまださん、やまださん」と呼んでた。当然丁寧語で接してたね。
今にして思うとおかしいね。
仲良くなるきっかけは青林堂、「ガロ」の飲み会とか、ソフトボールだったっけ。
ふたりとも猫好きで、何だか最初からとても波長が合ったんだよね。
帰る方向が同じだったんで、いっつも帰りは途中までタクシーで送ってもらったんだ。
あなたは絶対タクシー代を受け取ってくれなかった。
「青林堂は安月給なんだから!」と言って笑ってたっけ。
そうしているうちに、すぐにお互い惹かれ合うようになったけど、告白してくれたのはあなたの方からだったね。

住んでいた団地があった駅前の、今はないバーで二人で飲んで、そのあと「飲み直そうよ」って言われて、のこのこ団地まで行ったんだよなあ。
そうしてあなたは「私ね、ちかおのこと好き」と照れながら言ってくれたっけ。
その時は「僕も大好きですよ」と答えた。
あなたは「そうじゃなくて…」と真っ赤になった。
俺もその時同じ気持ちだった。
一生忘れない。はっきりと鮮明に覚えている。

次の朝、玄関であなたは目を合わさずに、
「御免ね、こんなことでわたしを嫌いにならないでね」と言ったよね。
俺は「何を言ってるんですか、これからもずっと好きです」と言って、思わず恥ずかしくてドアを閉めた。
帰りの都営三田線の戸袋で、俺は当時いつも聞いていたレベッカを聴きながら、
「あの人が好きだ」
と心から思った。
今でもその時のことを思い出すと、感情が揺さぶられる。涙が出る。
当時の俺も、なぜだかあなたのことを考えただけで、涙が出たよ。
これが恋か、愛か、解らなかったけど、あなたのことを思うと胸が苦しくなったんだよ。
そうして俺たちは一緒に暮らすようになったね。

子供たちは「ママの恋人」といって受け入れてくれた、とあなたは嬉しそうに言ってくれたけど、子供たちが大人になってからそういう話をしたら、「全然覚えてないよ」と言われたね。二人で苦笑いしたもんだった。
一緒に暮らしてずいぶん経ってから、お互いの母親…だって俺たちは二人とも、幼い頃に父を亡くしていたから…に、二人のことを打ち明けたね。
俺の母親は「自分の気持ちがそうならいいんじゃないの」と言ってくれた。
あなたの方は年齢差を考えて反対されたんだっけ。呆れられたのかな。
当時あなたたちは、あんまり母娘関係が良くなかったから…。
俺が勤めてた「ガロ」の長井さんに言った時は、
「お前さあ、やまださんといくつ違うんだよ」と呆れられた。
後で聞いたら別な人に「どうせすぐ別れるんだろ」と言ってたんだよね。
安月給でコキ使っといて、何言ってんだよな。
そう言って笑い合った。

でも、俺たちはあれからずーーーーっと、一緒だった。

俺のことを、一緒に暮らすちょっと前から今までずっと、「ちかお」って呼んでくれていたけど、それは親兄弟以外ではあなただけだった。
「ガロ」の先輩で俺を「千夏雄」と呼ぶ人もいたが、あなたは「私のちかおを他人が呼び捨てにするな」と言ってたの、覚えてるかい?
俺も、あなたのことを「M」って呼んであげたら良かったかな。
それともいつも身内が呼ぶように、愛称の方が良かったかな。
どっちにしても、俺は「やまだ先生」から「M」と呼び捨てには突然出来ず、いつも「あなた」とか「君」とか「ねえ」とか、最近はもう「あんた」なんて言ってた。
本当に、男って、いや、俺はバカだね。ちっぽけな羞恥心、自尊心、何だか解らないけど、若い頃から人前で手をつないだり腕を組んだり、あんまりしなかったね。
健康なうちに、もっともっと抱きしめてあげられたら良かったね。
いや、二人だけになった最近こそ、誰も知る人のいない京都へ来てからこそ、もっともっとベタベタしても良かったのにね。
ごめんな。

そういえば俺はあなたとちょっと言い争いやケンカになっても、「ごめんね」となかなか言えなかった。
いつも謝ってくるのはあなただったね。
本当は心の中でいつも謝ってた。それなのに「いや、俺の方こそ悪かったよ」なんて上から目線で返したりして。君から謝ってくれていつもホッとしていたよ。
今はいっぱい謝りたいことがある。

M、ごめんなさい。

いろいろ、本当に何もしてあげられなくて、バカで甲斐性無しで格好つけて外ヅラが良くて頑固で短気で、その上こんな病気になってあなたにいっつも心配ばっかりかけて。

本当にごめんなさい。

もうばーちゃんとねーちゃんがこっちへ向かってるよ。
もうちょっとだけ、頑張って。
そうしたら、もう体から抜け出して、俺のところへ来てよ。
そうして、今度こそ、ずっと一緒にいよう。
いろいろやり残したこともある、俺がやらなきゃならないこともたくさんある、そういうことを片付けたら、あなたが居るところへいずれ俺も行く。
腕を組んで、手をつないで虹の橋を一緒に渡ろう。
今まで一緒に暮らした猫たちと一緒に。
だからもうちょっとだけ、辛抱してよM。

何を呼びかけても写真の中のMは、微笑んでいるだけだ。
去年の初夏に親友の井坂さん夫妻と一緒に銀閣寺や哲学の道を歩いた時の、心から楽しそうなとびきりの笑顔。
あの時は楽しかったなあ。もっともっと、いろんなところへ一緒に行きたかったなあ。
こないだ奈良へ旅行した時、方角が違うというので秋篠寺へ行って、あなたがもう一つ行きたがっていた「石舞台」はこの次にしよう、ということにしたね。
京都に住んでるから、ヒョイッといつでも行けるしね、なんて話してたのに。
そういやついこの間、以前からテレビで見ていた、京大の霊長類研の研究成果として、チンパンジーの学習の様子が京都市立動物園で公開されたよね。あれ絶対見に行こう、って言ってたのに…。


その写真に語りかけていると、1時半過ぎに電話が鳴った。着信番号を見ると東京からだ、思わず病院からじゃないと解ってホッとしながら取ると、Mの親友で詩人の井坂洋子さんからだった。
俺が入れた留守電を、今帰って来て聞いたとのこと。
いろいろ話しているうちに鼻がグスグスしてくる。井坂さんも鼻をすすっている。
「29日に山口で仕事があって、その帰り、30日に紫さんに会うことは出来ますか」と言われるが、
「もうICUなので、話もできませんし、あんな状態ですから…。それに、30日まで持つかどうかも…」と告げる。井坂さんは「そうですか…」と声を落としていた。
「でも苦しんだのは一瞬だったんですよね」と言われたので、
「はい、すぐに意識が飛んで…恐らく長く苦しまなかったと思います。それだけは良かったですが、あまりに急で…」というと
「でも、それが紫さんらしいというか…」と言われる。
つまりあの人が一番好きだった、桜のように、本当にあっという間の引き際であったと。本当に、あっさりと散ってしまった。長患いしない分本人は苦しみが短かったろう、しかしその分、遺された方は心の準備も何も出来たものではない。
「でもね、紫さん、白取さんのことをすごく思ってたから。きっと帰ってくるわよ。」
俺たちはお互い先に死んだ方が相手を守ろうと約束し合ってたから、そうだと思う。
それに、もし俺が先だったら、あの人はどうなってしまったのだろう、そう考えると、順番はこれで良かったのかも知れない。
人はこうして、自分が最愛の人間を失おうという悲しみ、怒り、混乱、さまざまな感情を共有することによって、何とか折り合いをつけようとしていくのだろうか。不思議に、一人だとついついめそめそするが、こうして話をしていると、思い出話で涙は出るものの、気持ちが落ち着いてくる。
「あの…、もし『その時』が来たら、夜中でも何でも、絶対教えてくださいね」と言われて、もちろんですと約束して電話を終えた。
そろそろ東京からMの「ばーちゃんとねーちゃん」が到着する時間だ。俺もしっかりせねば、ヒゲも剃っていないし寝癖もそのまんまだし、もちろん風呂にも入っていない。かろうじて一日に明青さんにいただいたおにぎりを一つ二つ食べただけだ。
こんなことじゃダメだ、Mだって怒る。
そう思って、支度をすることにする。

2時17分。お姉さんから到着を知らせる電話が鳴った。
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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 6

10時ころから、これまでの経過をまたブログにアップした。こうしてパソコンに向かって、「経過」と言いながらやり場のない気持ちを叩き付けている間は、何とか平静でいられる。しかし離れて部屋の中を見回すたび、Mがいない寂しさがこみ上げる。

たまたま、やまだ宛のメールが入った。それは、M、いや「やまだ紫」の最後の仕事となった、別冊太陽「親鸞」の送付を知らせてくださった、京都市内の編集プロダクションからのものだった。そうだ、これが「遺稿」となったのか…。

やまだ紫作品は、マンガ界よりもむしろ、他のさまざまな分野から高く評価されることが多い。
詩壇では吉原幸子さん(故人、「ラ・メール」主宰)、井坂洋子さんら錚々たる方々から。歌壇からは河野裕子さん(「しんきらり」とはこの人の元歌からとらせていただいた)、あるいは「コスモス」誌から、あるいは社会学や女性学といった大学でのさまざまな研究者からも、作品をテキストとして使いたい、論じたい、読ませたい、という依頼が常にあった。

詩や短歌という表現は、マンガに比べれば驚くほどマーケットが少ない。詩集は多くても数千部、通常は千部や二千部といった部数である。
では古今東西の詩集や歌集、句集はマーケットが小さいという理由で評価されず、捨てられ、後世に伝えられずとも良いのだろうか。

今、やまだ作品のほとんどは、絶版や「品切れ」という名の日干しになっている。
その判断を、そうして放置している根拠を、出版というものに携わる人間として、真剣にどう思っているのかを問いたい。

売れないから、ダメな作品か。

売れないから、後世に伝えて行かずとも良いのか。

例えば名作「性悪猫」や「しんきらり」は、青林堂時代から文庫まで、それぞれ軽く十万部を超えた部数が出ている。その時その時に大量には出ないが、時代に関わらず売れ続けた、その積み重ねは評価されないということなのだろうか。

…「やまだ紫は今こういう状態です」と報告の返信を出してしばらくして、編集プロダクションの方から返信が来た。その中に、
「私的なことで恐縮ですが、私がやまだ先生の
作品にはじめてふれたのは中学生のときです。
…それ以来、ずっとこころのどこかに先生の
ことがあります。」
との一文があった。
やまだも喜ぶだろうな。皆さん、あなたの作品を大切に思ってくれているよ。


そういえば何年か前、Mが寝たり起きたりの頃に、どなたかのファンレターに
「やまだ先生の作品は時代に関わらず、出逢った人が手にとって読んだら、ずっと大切にしたいと思う本です」
と書かれていて、凄く喜んでいたことがあった。しばらく胸にその手紙をあてて感謝していた。若い女性からだったと記憶している。
こういう感想はもちろん、昔からたくさんの方から寄せられているが、彼女はとりわけ、同世代の「共感」もさることながら、若い世代が自分の作品を「愛してくれる」ことに感激していた。

そういう作品が、「売れるもの=いい作品」というククリ、商売の論理だけで消えてしまってもいいものだろうか。

俺の命もそう遠くないうちに消える運命にあるようだから、何とかして彼女の作品たちを、次の世代に遺したい。電子出版という「データ」もいいが、それこそその本を読み終わった後、胸にあてて「良かった…」と抱きしめられるかたちにしたい。
切実に願う。


…Mのお姉さんにメールすると、2時過ぎに京都に着くという。こちらも時間をみて京大病院へ向かう、ということにした。こうしているうちはいいが、ちょっと家の中を立ち歩き、何をするにもそこかしこにMの痕跡がある。モノがある。匂いがある。全てが二人の思い出に溢れていて、むせかえるようなその記憶で胸が締め付けられる。

Mの命がもう消えたのなら、それらを見るたびにオイオイたぐり寄せて抱きかかえては泣くことも出来るだろうが、Mはまだ病院にいる。いるだけ、生かされているだけ、それはじゅうぶん理解しているのだけど、そのことでかろうじて俺は平静を保っているのか。いや、狂ったようにこうしてキーボードを打ち続けている自分はもう、平静ではないのかも知れない。
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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 5

この間、実は何度も作家「やまだ紫」への仕事の依頼は入っていた。

しかしとてもじゃないが仕事を続けられる状態ではなく(何より長時間椅子などに座り、腹筋で体を支えていられない)、やむなくお断りをするばかりで、そのうち、そういった依頼も途絶えるようになった。

2004年に刊行された「愛のかたち」(PHP研究所)が最後の単行本となったのだが、収録された漫画作品は2000年前後の「ガロ」末期のもので、エッセイは全て手書きで調子のいい時に彼女が書き下ろしたものを、俺がテキスト化して入稿した。

この作品集は本当に、俺たちにとって宝物のような本になった。
彼女のあの凛とした美しい「線」は極限まで研ぎ澄まされており、今見ても本当に素晴らしい作品群である。
またマンガ作品と交互に掲載されたエッセイも、あのすさまじい地獄の日々の合間に、本当につかの間に見せた彼女の作家としての矜恃が保たれていると思う。
彼女はこの作品で、初めて「私はマンガでフィクションを、文章で真実を書いた」と前書きではっきり述べている。昔から彼女はそうしてきたのに、敢えて述べたのは、作家・やまだ紫を単に「自分マンガ」とか「私小説マンガ」と断じるバカ共に、痛烈な一撃をくらわせたのだと思う。
この本は編集者の山本ふみこさんや、PHPの担当であった見目勝美さんらが、Mの病状、体調を考えて気長に、辛抱強く対応してくださった。出来上がった後に設けていただいた打ち上げの席では、病み上がりのMもほんとうに嬉しそうだった。

しかし、残念ながらこうした本は、売れない。

「マンガ」といえばもっと世の中にセンセーショナルにアピールするとか、ドラマ化を前提にあざとく商売を見据えるとか、はっきり言えば「市場原理主義」の歯車としてやっていけなければ、「商業的」にはやがて消えていく運命にある。
だがしかし、商業的なセールスと、作品のほんとうの質、輝きとは別なもののはずだ。それが一致すればそれは素晴らしいことだし、そういうやり方もあるだろうが、M、いや「やまだ紫」の場合は不器用すぎた。若い頃からクソ真面目と言われ、徹頭徹尾「自分が正しいと思うこと」を言い、描き続けた。
社会は変動し世間は軽薄化してゆく。それに合わせて身のこなしをひょいひょいと変えていくような生き方は出来ない人だった。それに、もしそういう人であれば、たぶん俺は一緒にいなかっただろうとも思う。

俺は最初に作家としてのやまだ紫に惚れ、そうして本人と知り合い、Mという個人を愛するようになった。
彼女は最初の結婚直後から激しい夫の暴力、今でいう「DV」で身も心もズタズタにされた。誰も助けてくれる人はいなかったという。幼い子供二人をかかえ、高層団地で、収入は不安定だけどようやく夜も安心して眠れる、誰にもはばかることなくマンガや詩が創れる、そんな生活が始まって数年立った1984年に俺たちは出会った。やがてお互い惹かれ合い、程なく一緒に暮らすことになった。
年齢の差は17もあったのだが、今に至るまで、健康上のことや生きてきた時代の時事問題以外、違和感はほとんど無かった。それはどうしてかと言うと、性格は正反対と言っていいものの、根本のところの「人としてという部分」、つまり生きて行くうえでの価値観や哲学や矜恃が同じだったからだと思う。だから俺は作家やまだ紫と、Mというひとを同じように愛することが出来たのだと思う。

その後2005年には3月と11月の二度、吐血をして入院をしている。
もちろんその都度緊急入院させ、原因を検査してもらったが、ある病院では「癌で余命三ヶ月」と無根拠に言われある病院では「胆嚢が肥大してるから胆嚢炎かも知れない」、その間も念のためと別に行ったある大病院ではさまざまな検査…それはしばしば大きな苦痛を伴うものもあった…をされた挙げ句、はっきりと「原因がわかりません」と言われた。これでは病院不信にもなるというものだ。
その間の、2005年夏に俺の白血病が宣告された。
こうして時系列で記述すれば、俺たち二人が、お互いの苦痛を自分の苦痛と考え、まるで二人でDNAのらせん構造のように絡み合って生きてきたことが解っていただけるだろうか。

そして最後の吐血は2006年の2月。精華大学の専任教授就任のわずか2ヶ月前であった。しかし、当時は隔週での京都への「通勤」が適度な気分転換と刺激につながり、それからはずっと、一度も吐血も入院もなく、毎週の出勤に変わった2007年、Mは頑張って前期は毎週の通勤や、その合間の行事や会議にも出来るだけ参加していたが、もうそれも限界に近かったので、その年の9月に二人で京都に思い切って転居した。
それからは、本当に穏やかで楽しい生活を続けてきた。

わが家から五山送り火の大文字、妙・法、舟形までがはっきりと見られるという素晴らしい部屋を見つけるて住むことが出来るうえ、最寄り駅からは大学へ直通の電車があるという立地。大学へは車でも20分ほどという、これまでの通勤がウソのような環境になった。
だから時間にもずいぶん余裕が出来た。そうして二人で混雑する土日を避け、シーズンの寸前や谷間にあちこちの名所を見て回り、「これは地元の特権だね」とゆったりと楽しんだ。糖尿はこれまでのとてもいい先生…板橋区舟渡のアイタワークリニックの岡本先生から紹介状をいただいて、京大病院へ転院することが出来た。
さらに今年に入って、わが家のマンションの一階に入った「Iクリニック」のI先生が、実は京大のご出身で、Mの糖尿の主治医はしかもその後輩ということが判明した。
転院の連絡は極めてスムースに行き、毎回京大まで出かけていたのを、糖尿に関してはマンションの下への移動で済むようになった。この負担軽減は生活の上でかなり助かったし、Mは「凄い偶然だね、いい先生が近くにいらっしゃって良かった」と喜んでいた。
俺も白血病は進行が遅く、京大病院での「経過観察」はもう6週間置きとなっている。
二人に、ようやく、本当に久しぶりに安寧な日々が訪れた。
お互い生死のギリギリのところには居るが、それでも、二人で手を取り合って支え合い助け合って穏やかに暮らす日々は、これまでの二人の波乱の人生では初めてだったかも知れない。

いつだったか、北白川の和食屋さんで夕飯を食べながら、ちょっと酔ったMがニコっと笑いながら、
「私、今が人生で一番幸せかも知れない」
と言ってくれたことがある。
もちろん俺は白血病だし、Mは満身創痍だ、他人から見たら滑稽かも知れないだろう。
でも俺も「そうだね、お互い苦労し続けてきたもんね。こんないいところ、京都へ住むことが出来て、幸せだね」と返した。
「きっと京都へ二人が来られたのも、お導きなんだね」としみじみ話し合った。

それも、もう終わるという。

突然のMの死で、この二人の穏やかな生活が砕け散るという。

正直を言うと、俺はまだそれが受け入れられていない、それはまだ彼女が病院の中で「生かされている」からだと思う。
「その時」はやがて確実にやってくる。
その時、俺は「それ」を受け入れなくてはならない。出来るだろうか、自信がまだない。


9時35分、携帯が鳴った。お姉さんたちかな、と思い出ると、京大病院のA先生…Mの手術を執刀した先生からだった。心臓の鼓動が高まった。まさに今、「その時」つまり「Mの死」が受け入れられるかということを、この記録に入力した瞬間だった。まさか…!
「今日ご家族どなたか来られますか、午前中にでも来られた方がいいと思うんですが」というので
「それは…もう危ないということでしょうか」と震える声で聞く。
「いえ、そうではないですが、他のご家族の方にもご説明をした方がいいかと思いますので」とのこと。
A先生は出張でおられなかったが、その間に娘二人が面会したと告げ、今日はこれから母と姉が来ますと言うと、ではその時に声をかけてください、ということだった。

もう解っている、もうMがダメなことぐらい解っているさ。でも、まだ「その時」ではなかった。心底ホッとした。
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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 4

夜10時半すぎ、二階の布団へもう一度戻っていると家の電話が鳴った。
まさか!そんなに早く!と思い、転げ落ちるように電話に出ると、函館の実家のお袋からだった。
「何か出来ることはないか、そっち行った方がいいかと思って」というので、「もうないし、遠いし、ゴールデンウィークで京都行きはどこも混んでるだろうし、いいよ」と言って切る。
Mがいないことは悪い夢で、目が覚めたら隣で昨夜倒れる前のようにすやすや寝ていて欲しい。そう思って毛布を脇に置き、枕も元通りの位置にして寝たのだが、やはり彼女はいない。何とか眠らなければと努めてみる。

次に目が覚めたのは2時過ぎだった。
ちょうどMが頭痛を訴えて俺を起こした頃だ。あれからちょうど24時間…。
気がつくと、脇の毛布にはシマがいつものように丸くなり、驚いたことに暗い中、俺の顔のすぐ横に真っ白なユキの顔があった。シマはいつも俺たち夫婦の真ん中、肩のあたりに丸くなってくっついて寝ていたのだが、ユキは足の間やベッドの反対側が定位置だったはず。猫と暮らしている人は解ると思うのだけど、猫がいつもの定位置を変える、お気に入りの寝場所を変えるということはあまりない。
ユキは俺の顔からほんの数センチしか離れていないところに顔があり、寝ているのではなく、なぜか目を開けて一定方向を見つめていた。それは一階から通じる階段を上がりきった、二階寝室の入り口だった。寂しいので下の灯りはつけたままにしておいたが、どうやらユキはMがそのうち、いつものようにそこから入ってきて、寝るものだと思っているらしい。

「ユキ、ママはもう帰って来ないんだよ。」そう言い聞かせて撫でてやるが、なかなか寝付かない。そのうちシマは「ぷう、ぷう」といつものようにいびきをかいて寝てしまい、ユキも諦めたのか、丸くなった。俺と二匹の猫たちは、またぴったりとくっついて寝た。
いつも居てくれたあの人がいなくなっただけで、これほどにこの家は広くなるか、そうして寒くなるのか。俺たちは寄り添い、全員でその寂しさに震えている。

目を閉じるとまた、あの人の「何気ない日常」の姿がフラッシュバックのように思い浮かんでくる。

「しまー!ゆきー!ごはんだよー!」といって猫たちを呼んでいた声のトーン。
もう11歳になったオッサン猫のシマが、階段からギシギシドンドンドンと降りてくると、その音で「おっさん降りてきた!」と笑っていた顔。
そのシマをぎゅっと抱きしめて首に顔をうずめていた様子。
ユキを抱き上げてベランダに出て、赤ん坊をあやすように下を通る車や遠くの山並みを見せていた、後ろ姿。
思い出せばキリがない。
そしてまた、涙で目がうるむ。

この家でも、俺の体調が悪い時にMが傍らで看病しながら、「私はあなたが居なくなったらどうしたらいいの、この広い部屋で、誰も身内のいないところで一人なんか、耐えられない」そう言って号泣されたことも何度かあった。
俺自身も、余命宣告をされ入院した2005年の夏の日、一人あの人が寂しく帰宅する後ろ姿を見送ったあと、病室で泣いた。それは自分が死ぬという辛さではなく、あの人を一人残して逝かねばならない辛さからだった。

あれは夏の暑い日だった。
俺がまだ進行の具合の解らぬ、余命数ヶ月という状態での入院中。白血病治療に向かうための、さまざまな検査や準備の段階だった。病院での入院日記を確かめると、2005年の8月20日とあり、猛暑の日だったが、それでもMは毎日病室へ来てくれていた。
この日は昼からお見舞いラッシュの日だった。
日記から抜き出したものをここに記す。このブログの日記(2005/8/20の分)では、恥ずかしくて記録していなかったものだ。

(…前略)
二人が帰ったあとはさすがにちょっと疲れたので、横になってTVを見る。Mもソファとスツールをつなげて、足を乗せるようにした。
6時半近くなって夕飯が来て、ゴーヤチャンプルときゅうりの酢の物以外はほとんど完食。その後二人でちょっとTVを見て、7時前にMは帰った。
その後こうして日記をつけていて、Mが「外は涼しいよ」とメールしてきたのを見て、なぜか涙が出てくる。体が完全ではないのに、猛暑の中毎日病院へ来てくれるのは負担だろうに、その上伴侶を失うかも知れないという不安と恐怖、悲しみに必死に堪えているだろう。
俺があの人が癌かも知れないと言われた時に同じ思いをした以上に、Mは心身ともに辛い状態にあると思う。Mのためにも何としてもこのクソッタレ白血病を克服して、生き抜いてやる。死んでなるものか、絶対に生き延びる。そしてMと一緒に老いる。
自分が死ぬのも怖い、だがもっと辛いのはMを遺して行かねばならないことだ、俺が死んだあとにMがどんな思いを抱えて生きていくのか、それを考えただけで涙が止まらない。病気を知ってから初めて、ベッドの上で声を押し殺して泣いた。
何でこんな目に逢わなきゃならないんだ、俺が何をした、Mが何をした、さっきまでは絶対に生きると強く思ったはずなのに、Mが去った部屋で一人いる自分の寂しさにもう負けている。情けない、ベッドに腰掛けて、大の男がヒィヒィと涙を流している。
(後略)


俺を見舞ったあと、「じゃあね」と寂しそうに無理に笑顔を作ったMに手を振って、エレベータホールで別れたあと、俺は病室へ戻り、ベッドに腰掛けてノートPCを開いて溜息を一人ついたところでメールが鳴ったのだった。
それを見た瞬間、どうしようもなくなって、俺は一人病室で延々と号泣したのだった。あれは情動失禁だったと思う。
二人の時は強がってみせてはいたが、あの人が誰もいない部屋にとぼとぼ帰り、猫たちをかわるがわる抱いては、俺がいないことで泣く、そんな光景を想像しただけで、耐えられないほどの悲しさで平静でいられなかった。

今、俺はその逆の状態に置かれ、そしてそのことがやはり想像していた以上に辛いことなのだと、思い知らされている。いつも隣にいた人間の息づかいや体温、ぬくもりがないことで、季節が逆回転したかのように寒い。心が寒いと、体も凍えるのだろうか。もちろん、今夜の京都はぐっと冷え込んで現実に寒いことは解っている。しかし本当に、この寒さが寂しさをつのらせる。


結局あまりの寒さに一階へ降りて、Mがいつも少し小寒いときに来ていた、元は俺のだったカーディガンを羽織って、寝ることにした。昔スエットの上下とセットになっていたカーディガンというか室内着だが、俺は元々それほど寒いのには弱くないのでほとんど着なかった。逆に寒がりだったMがすっかり自分のものにして、長めの袖を折って着ていた。袖を通すとあの人の匂いがした。そうだ、一緒に寝よう。そうすれば暖かい。

そうしてようやく朝6時過ぎまでまた少し眠ることが出来た。
外は明るくなっており、今日もうっすらと曇り、雨は上がったようだ。ブログのコメント欄にちょっとだけコメントが寄せられていたので、公開する。
その後7時過ぎに何か食べないと、と思ってお茶を淹れる。Mと二人で寺町あたりをぶらぶら歩いた時に、いい匂いがするお茶のお店があり、そこで買ったちょっと高いほうじ茶を二人分。
写真に「一緒に食べよう」と言ってお茶をあげ、夕べ明青のおかあさんが持って来てくれた、おにぎりと卵焼きを一つずつ食べた。食べながらまたちょっと泣けた。

9時前には、今日診察していただくはずだった、マンション下のIクリニックのI先生に電話をした。
「連れ合いですが、日曜の深夜に大出血をしまして、もう間に合わない状態でした」と報告すると驚かれ、「え、これまでもあったところですか…?」と言われるので、「いいえ、これまでは胃か食道かで吐血だったんですが、今回は脳の動脈らしくて…運んだ時はもう手遅れでした」と話すと絶句される。
とにかく急なことで、また自分はそちらへお伺いしますので、改めて…と話してるうちに涙声になってしまった。

実はMは強い医師不信病院不信に陥っていた。
京都はそれを柔らかく取り去ってくれたばかりだった。

そもそも何度も書いている通り、あんな満身創痍になったのは、十年以上前、膵炎の激痛を訴えて近くのかかりつけ医に連れて行ったところ、「胃炎ですね」と言って鎮痛薬を出されて返された。膵炎の痛みは焼け火箸を押しつけられるような激痛で、体を「く」の字にして折り曲げて悶絶する。こんなのは胃じゃないだろうと思ったが、医師は「精神的なものもありますし」と言っていた。

それを繰り返し、最後はモルヒネまで投与されたが、大きな病院…板橋区医師会病院へ連れて行った時にはすでにインスリンがほとんど出ない状態に膵臓はいかれていた。そこから、1型の糖尿が始まったのだ。
当時の勝呂院長先生(現在は名誉院長、ほんとうにお世話になった良い先生でした)が、俺に「こんなになるまでどうしてほっといたの! 脱水症状おこしかけてましたよ」と言われたのだが、俺はあちこち連れて行った挙げ句、であった。おかしいと思い俺は彼女を連れて近隣の他のいくつかの病院を訪ねたが、診断はまちまちだった。

その後、2002年には右の腎臓に腫瘍があると言われ、別の大病院へ行くと「これは間違いなく癌だ」と診断された。組織検査をすれば癌が散ってしまう、では造影剤での検査はというとMはヨード系造影剤のアレルギーがあるから出来ない、結局確定診断のないままの緊急摘出手術になった。
10cmくらい切りますと言っていたのが、右の脇腹から背中近くまで、ざっくりと切られており、驚いた。あとでMは「癌が転移してないかひっかき廻して探したんでしょ」と言って怒っていた。
結局腎臓の中にあった塊は、豆腐のように真っ白な、脂肪の塊だった。だったらこれほど急いで取らなかったとは思うが、そのときは「いずれ取るようになりましたから」と言われて納得はした。

そうしてそれから、Mの、いや二人の生き地獄が始まった。

Mは大きく切られ神経や筋肉が寸断された右の腹は、くしゃみを不用意にすれば腸が飛び出す勢いで、しっかり腹巻きをし手をあてないと力が入れられない体になり、いつしか本人曰く「カエルのような醜いお腹にされた」というようにぽっこりと膨れてしまった。こんな手術ってあるんだろうか。
いま、いやここ数年、Mは近くにいい仕立屋さん(といっても個人でやられている奥さんだが)と知り合いになり、そのお腹を隠せるオーバーオールを特注で何着か作っていただき、常にそれらを着ていた。知らない人はそのスタイルを「可愛い!」とか、あるいは「まさか妊娠?」とまで言われたこともあるそうだ。あの人の「可愛い」オーバーオールスタイルは、こんなに悲しい意味があったのだとはほとんどの人が知らない。

そうして、切られた傷やその周辺の神経か、とにかく日常いきなりカミソリで切られるような激痛が走るようになり、精神的に鬱状態にまで落ち込んだ。俺もペインクリニックはじめあちこち飛び回ったものの、結局解決したのは二年という長い時間でしかなかった。

その間鬱状態で食事が摂れず、痛みの緩和と強引に寝るためにアルコールに頼ったこともあった。「なぜ自分がこんな体に」という、理不尽な状況へのやり場のない怒り。それが鬱へと気持ちを向かわせた。元々お酒が大好きではあったが、それは二人で一日の終わりに「お疲れ様」と飲む、ささやかなものだった。それがまるで水のように彼女の体に注ぎ込まれた。
俺はもちろん見つけるたびに取り上げたが、電話一本で配達してくれる業者から俺の留守中に配達してもらったり、ふらふらとコンビニへ出かけて買って隠したりして飲んでいたこともあった。
その間も糖尿の血糖コントロールとカロリー制限は行われねばならなかったのだが、痛みで寝られない日もあるという地獄の日常で、食事すら満足に取れたことは少なく、結局自己注射が必要なところまで進行してしまったのだ。
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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 3

何もしていないとどうにかなりそうで、5時ころこの詳細をブログにアップした。
実は公開することを迷っていたが、心配してくださる人がたくさんいるので、出来るだけ詳しく報告し、知ってもらいたい。

その途中、お姉さんから「明日ばーちゃん(Mの母親)と行くので病棟と部屋番号教えてください」とメールがあり、もう病室ではなくICUだと伝える。
夕方、5時半になっても何も食べる気にもならない。しかし目眩止めは飲まないといけないので、二人で昨日夕食後に散歩がてら買い物してきたコーヒー牛乳で薬を流し込む。

5時半過ぎ、高木町の「明青」のおかあさんから携帯に電話が入った。
「どうしたの?何で!?」と言われ、「夕べ…」と言ったら
「それはパソコンで見たよ〜、何であんないい人が、真面目に生きてきただけやないのー!」と号泣される。
夫婦での晩酌が唯一の贅沢といってもいいMが一番のお気に入りだった、下鴨高木町の「明青」さん。
俺たちは多いときは週に二度、日曜は必ず伺った。俺たちは板さんの真ん前のカウンタが「指定席」で、電話をしなくても席をちゃんと取っていただいていた。突き出しから全ての料理が何もかも一流の味で、本当にいつも良くしていただいた。そのおかあさんに泣かれると、俺も思わず涙が出て来た。
「いっぱい泣いてね、溜めないで泣いたらいいよ、だってこんなに辛いことないやないの!」と言われ、本当にそうだと思い、思わず俺も「何であんな、真面目で何の贅沢もしなかった人が、昨日も明青さんへ行くのを楽しみにしてたのに」と泣いてしまう。
大丈夫です、俺は溜めるどころか、今日は泣いてばかりだ。こんなにメソメソしていいのかと思うが、それでいいと言ってもらえると助かる。

ソファに転がって寝ようと試みるが寝られない。ブログには常連さんからコメントが入っていたので、お礼のコメントを加えた。
7時ころ、Mのお姉さんから携帯に電話が入った。箱根の結婚式からたった今戻ったばかりという。「行けなくて御免ね」と言いながら涙声になるので、こちらも思わず、またもらい泣きをしてしまう。涙というのは枯れるということはないんだろうか、とにかく他の人とMのことを話すと、涙が止まらない。

さらに、「不思議なことがあった」という。

お姉さんからの電話で聞いたのだが、夕べ、Mのお母さんとお姉さんが同室で寝ていた時、12時ころ突然お母さんが「薬、薬」と言い出したそうだ。Mのお母さんはお年なので、通常夜は8時過ぎにはいつも寝てしまい、起きることはまずないという。
この日は日中祝宴(お姉さんの次男の結婚式)だったのでそれより眠るのが遅かったとはいえ、突然「薬」とうわごとのように言い出したので何だろうとお姉さんは驚いたそうだ。しばらくすると息が荒くなって、大丈夫かと思っていたらイビキをかいて寝始めたので、安心して寝たという…。
Mが俺を「薬、薬」と言って起こしたのは2時すぎだった。その前に、お母さんのところへ行ったのだろうか。まだ魂は肉体にあるはずだが、一瞬抜け出して、千里を駆けて母の元へ飛んだのか。
せっかくの祝宴だったが、お母さんもMのことを考えてはずっと泣いていたという。
「きっともうしょうがなかったんだよ、白取さんもちゃんと休んでね」と言われ、二人で鼻をすすりながら電話を切る。


皆さん、口々に「いい人だったのに」「優しい人」「真面目で誠実な人」と言って下さるが、その通りだ、あの人は本当に素晴らしい人だった、そう思えば思うほど悲しみが増幅される。

作家・やまだ紫としては、言葉を練りに練り、研ぎ澄ませてから掲載させる人だった。漫画家ではあるが、昔からエッセイや詩は高く評価されていて、東京で一度病気で倒れる前は短歌の雑誌に異例の詩画を連載していたほどだった。
パソコンはからっきしダメで、もう軽くパソコン歴は10年を超えるというのに、今もってほとんどブラインドタッチは出来ず、誤変換や脱字も多かった。原稿なら推敲に推敲を重ねる人なのに、メールへの返信などは急がなきゃ、というのでひらがなが多かったり、変な文章になったりしていた。
俺は「メールは送っちゃったら終わりだから、送る前にじゅうぶん確認した方がいいよ」と言っていたけど、相手が急いでるからといってそのまま送っていた。
漫画や絵画、文章などの作品をつくる際は厳しい推敲が入るのに、その落差がおかしく、子供みたいな文章のメールやブログ記事がたびたびあった。それでも、大学の勤務はグループソフトやメール、ネットなどパソコンでのやりとりが多いので、本当に苦労していたようだった。
俺が直してあげられるものは直したが、学生への緊急連絡や会議の出欠などはいつもササッと出していたが、それは「やまだ紫」の本意ではなかったと思う。
じっくり考え、相手の気持ちや論旨を反芻し、回答に時間をかけることの出来ない場合は、ストレスが溜まったと思う。「ひどい態度をされたけど、その場ではうまくその人にそのことを伝えられなかった」と、うちへ帰ってきては悩んでいたこともあった。
そういう、じっくり考える、思慮深い、相手のことを常に考える、そんな優しく鋭い感性を持った人だったから、やまだ紫としての作品は大多数には受けないかも知れないけれど、いつだって珠玉の光を保っていられるのだと思う。

だがそういう性格が日常ストレスになってもいただろう、それに元々ヤブ医者の誤診で膵炎を胃炎と言われて手遅れとなった結果の1型糖尿病を患ってからもう、長い。その間に膵臓から腎臓、肝臓、玉突きであちこちの臓器が悲鳴をあげ、血管もボロボロになっていたのか。
その脳内の時限爆弾が、ゆうべ炸裂したのか。
もしストレスがなければ救えただろうか。もっと早く気付いていれば。いや京都へ来てから眼底や血管の精密検査を受けていなかった、もしせめて一年に一度やっていれば。合併症が怖いから、早く入院して全部検査してもらった方がいいよ、それが安心につながるんだし、と話すと、「講義に穴をあけるわけにはいかないから、今年の夏休みに行く」と言って、8月に検査入院の予約もとっていたところだった…。

そういえばつい三日ほど前、京大病院から「入院予約されてますよね、なかなか空かないんですが、明日空くので入られます?」と電話があった。
Mはもちろん、「8月とお伝えしていたはずなんですが」と言うと先方の勘違いで、電話を切ったあと、「そんな明日ってわけにいかないよねえ」と笑っていた…それが最後のチャンスだったのか? 
とにかく、俺が救えたのではないかという自責の念がわき起こり、辛い。

7時半、外はもうすっかり街明かりが瞬く時間だ。夕べの2時過ぎから寝てない食べてない、疲れ切っているはずだが俺の頭は冴えるばかりだ。いけない、せめて横になろう。そう思い眠れない時にと処方されていたレンドルミンを2錠のみ、二階へ上がる。
二人で夕べまで枕を並べ、間にシマが丸くなったり、足下にユキがきたりで、必ず「4人」で寝ていたベッドが2つ。でも片方にいつも居た人はいない。失禁痕のある汗取りシーツを敷き布団からはがし、ベランダに干す。汗取りシーツは洗濯。マットレスは…今はいいや、Mが使っていたボア毛布を畳んで俺の横に並べて敷き、枕もちゃんとMが寝ていた位置に据える。横になると、目をつむって開けたらいつものようにMが寝ていないかな。今までのは夢だったとか…ないかな。そんなことを考えつつ豆電球にして休もうとするが、全く寝られない。

一階ではユキが、「ママの姿が見えない」といって狂ったように鳴いては探し、見つからないと箱の上へ上って自分のしっぽをくわえてはクルクル回るのを繰り返している。当のユキ自身は耳が聞こえないので、もの凄い大音声だ。
下に降りて「俺はいるぞ」と声をかけると気配で「ハッ」とこちらを見て、慌てて吹っ飛んで箱の上から降りてきた。
いつも、俺たちが外出したあとはすぐクルクル行動に出ているのだが(帰ってくるとしっぽがびちょびちょになっている)、どうやら俺らの姿が見えないのが寂しいとか不安だとかそういうことらしい。「ママは? どこ? 帰ってくるの?」そう叫びながらやりきれない気持ちでクルクル回っているのだろう。降りていって俺が姿を見せるとホッとして箱から降りてくる。8時を過ぎたのにまだ寝られない。

10時、枕元の携帯で起こされた。
明青のおかあさんからで、「何か食べた?食べてないんでしょう、おにぎり作ったから、これから持ってくし」と言ってくれ、タクシーに乗って5,6分で来てくれた。紙袋には俺が好きで去年の胆嚢切除手術の際もお見舞いに持って来てくれたポテトサラダと、おにぎり、おかずも入っていた。
玄関先で、Mのお姉さんが作ったアクセサリで、明青のおかあさんとおそろいのおかめさんのプローチの色違いを2つ、「これもらってやって下さい」と言って渡す。このアクセサリはMもたまにつけていて、明青のおかあさんに一つ差し上げたところ、一番上に飾ってある大きなおかめさんの座像、おかめさん似(?)のおかあさんとブローチで「3人姉妹やん」と言っていたもの。その後おかあさんはトレードマークとしていつも割烹着につけていて下さっていた。
「つらいなあ、可愛そうになあ。ちゃんと食べて、ほんでビール飲んで今日は寝て!」といって、缶ビールまで持って来てくれた。本当にありがたかった。「お別れもちゃんと言いたいし、何かあったら教えて」と言って帰られたあと、Mの写真に「ほら、明青さん来てくれたよ。おにぎりおいしそうだから一緒に食べよう」と言って一つだけ、「おいしいなあ」と言って食べた。
写真の中のMはやさしく微笑むだけだが、「また一緒に明青さんのカウンタでおいしい料理食べて、一杯やりたかったなあ」と話しかける。
ようやく今日初めて、おにぎりが一つ食べられた。
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2009-04-26(Sun)

連れ合いが倒れた 詳報2

足が震えた。

Mが死ぬ。

こんなに急に、こんなにあっさり。

数時間前まで一緒にテレビを見て笑っていたじゃないか。
夕飯は二人で傘をさして洋食店へ行き、おいしいね、とぱくぱく食べた。
その前にお昼は二人で分担してマフィンを焼いて目玉焼きとハムを焼いて挟んで食べた。俺が黄身を真っ先にかじってしまい、ベトベトになったのを見て笑っていたよね。
朝はいつものように俺がイチゴのヘタを取り、牛乳とレモン汁と蜂蜜をミキサーにかけてジュースを作った。あなたが朝は食欲がないというから、このところずっとそうしてきたじゃない。
あなたは食前に血糖値の測定とインスリン自己注射が欠かせない。外食をしようがウチだろうが、本当に辛く煩わしかったと思う。だから朝はあなたが注射している間に俺が台所でジュースを作るのが日課だったよね。
そういう普通の、本当に当たり前の日常を、つい数時間前まで一緒に送ってきたじゃないか。
何より二人と二匹の京都生活を、お互い本当に楽しんでいたよね。
それもたった一年半で終わりだって言うのか。
俺は最愛の妻を失って、これから一人でどうやって生きて行けばいいのか。

頭の中がぐるぐると様々な思いが駆け巡ったが、ともかくこの場は医師にお礼を言って、「顔を見られますか」というと「今麻酔処置中ですから中待合で待っててください」と言われる。なので入ってきた方とは反対側の出口を出て、そこにあったソファに腰をおろした。
再び頭の中がぐるぐるいろいろなことが駆け回る。
M。何でだ。俺を残してこんな急に。一緒に死のうって言ったじゃないか。
とか、そうかと思えば
大学に連絡しないと、ついこないだ同じ学科を受け持っているH先生が交通事故に遭ったばかりだ。
とか事務的なことも交錯する。

9時半ころになって、執刀した先生は出張があるとかで挨拶をして去って行き、一緒にいた学生さんのような若い医師が、ICUのベッドに通してくれた。
Mは鼻や口から管を出し、人工呼吸器でただ呼吸だけさせられている。前頭部の髪の毛を剃られ目をつむって寝ているMは、まるで高貴な尼僧のような穏やかな表情だった。
その顔を見るとやはり涙が止まらなかった。顔をなでてやり、「ごめんな。よく頑張ったな。ありがとうな。」と小さな声でつぶやいた。手もさすってやった。当たり前だが、生きている人の手なので暖かく、力の抜けた二の腕がぷるぷるしていた。
このままここにいたら抱きついて泣きそうになったので、「夕方身内が東京から来ますので、顔を見せてやってください」と挨拶をして、ICUをいったん出た。若い医師は「私は夕方もおりますので、出来るだけの対応はさせていただきますので」と言ってくれた。それから元の待合へ戻り、Mのパジャマ類が入ったビニール袋二つと自分のバッグを持ち、再びICUへ戻って待合室の鍵を返してから、1階へ降りた。

外へ出ると、薄曇りで雨がぽつぽつ振っている、陰気な天気だった。
タクシーの運転手は「今日は降らへん、ちゅうてたんですがねえ」と言っている。「そうですね」と力なく返しながら、涙雨だと思った。

Mが泣いている。

そう思うと自分も泣きそうになるのを堪えるのに必死だった。

うちへ着くと10時近くになっていた。電気は全てついたままで、数時間前に救急隊と一緒に出たままだった。自分でも憔悴しているのが解り、ふらふらしながら部屋着に着替えて二階へ上がると、ベッドの上にシマとユキが毛布の上でくっついて寝ていた。二匹に「ママ死んじゃうんだよ」と言ってなでているうちに、また泣けてきた。


Yちゃんからは俺が家に戻って少し休むとメールすると、「休んで」と返信。ずっと心配していたが、Mちゃんと待ち合わせてこちらへ向かっている。その後お姉さんからは「T(次男)の結婚式なのでどうしようもありません」、「何かあったらメールください」と入る。
とりあえずお袋と精華大学の専任メールには次第をメールしておき、ソファで寝ようと試みる。
シマが降りてきたので、「マミィ死んじゃうんだよぉ」と抱きしめると少しまた涙が出た。
寝ようとしても寝られるはずもなく、二階のテレビの脇にMの描いた猫の絵を並べたり。どうしてもMが死ぬということが受け入れられない。
10時半ころ、Mの好きな静岡の純米酒「花の舞」が一本残っていたので、M愛用のぐいのみを冷凍庫から出し、俺は仏様用の杯を洗って栓を開け、「いつものように二人で一杯やろう」と話す。
Mがかけていたメガネを置いたが、二階から本棚に飾ってあった少し若い頃のMの写真を持って来て額に入れ、差し向かいで一杯だけ飲んだ。いつものように「おいしいね」と言いながら。Mは今と違ってふっくらした顔に理知的な笑顔でほほえんでいる。

あまりに悲しすぎて、涙も時折ぶわっと湧いてくるがワンワンと泣くことすらできない。
俺は若い頃から優しくもなく甲斐性もなく、Mに苦労と心配ばかりかけてきた亭主だ。俺は癌を得たものの、ようやく京都で安寧な暮らしが出来るようになった…と思ったらまさか俺より先に、こんなに急に逝くというなんて。とうてい受け入れられるわけがない。


気がつくともう1時前だ。じっとしていると寂しさと悲しみがこみ上げてくるので、何かしら立ち歩いたり、メールを見たり、そうしてはソファに転がって溜息をつくの繰り返し。
Mがいつも座ったり横になったりしていたソファの定位置をなでさすり、ここのところ旅行へ持って行って思い出の写真がいっぱい詰まったデジカメの画像を見ては涙ぐむ。
そんな感じで過ごしていたら、YちゃんからMちゃんと二人で京都に着いたとメールが入る。すぐ折り返し電話で、まずとにかく病院へ行って、「ICUに入っている白取の娘です」と言えば入れてくれるから、顔を見てやってくれ、と話す。俺は「頭開けたから前の方剃られて坊主みたいになってる。安らかな顔で寝ているから、俺はなでてきたよ」と言ってるうちにこみ上げてきてしまった。何とか電話を切った後、思わず顔を覆って号泣してしまう。大の男がしょうがないとは思う、しかし、だってこれ以上に辛いことはない。
子供たちは京大へ向かったが、ICUの面会時間は2時からだと、15分ほど待たされると言っていた。

今日の京都は13℃と、平年に比べるとぐっと冷え込んで寒いほどだ。その寒さと曇天がまた、寂しさを増長させる。最愛のひとを失うという寂しさに、気持ちが凍えるようなのだ。
あの人はいつも早足で歩く俺の後をついてきた。俺が歩調を合わせて、腕を組んであげるのは二人でお酒を飲んだ後だけだった。普段は男女が、それもいい年の夫婦がベタベタするのは恥ずかしい…なんてつまらぬ体裁を気にしていた馬鹿な俺は、いつも数歩先を行き振り返ってはMが追いつくのを待ってまた歩を進めていた。
そんなちっぽけな羞恥心が、お酒を飲んだ後はちょっと足下の危ないMを「支えてあげる」という名目で、腕を出すと嬉しそうにすがって、ニコニコしながら上機嫌で二人で帰り道を歩いたものだ。

「今日はお月さんがまん丸だよ」と指さして、二人で見上げてはフラフラしたり、鴨川沿いの夜桜を眺めながら帰ったり、二条城への近道にタクシーが紫明通りを通ってくれた時は、グリーンベルトの文字通り新緑の緑に二人で目を奪われ感動した。もっともっと、本当にたくさん思い出がありすぎて、洪水のように押し寄せてくる。自分の半身が奪われたようなもので、心が痛い。

ブログを見た親友から「奇跡が起こるように」とメールが来たが、もう無理なのは解っている。それでも励ましてくれるのは有り難いことだ。その後は2時過ぎ、函館のお袋から電話がある。メールがマナーモードで気がつかなかった、いつものように教会へ出かけて帰って来てメールを見て、驚いてかけてきた。
「どうしたらいい、何をしたら?」と聞くので、「もういいよ、祈っても奇跡は起きなかった。俺も毎日毎晩、二人の安寧な暮らしが続くように祈ってたけど、ダメだったから。あとは数日で魂が抜ける、それから安らかに天国へ行けるように、せめて祈ろうよ」と話すうち、二人とも涙声になった。
俺も思わず「あの人はね、いつだって自分よりも他の人のことばっかり考えてた。自分のご飯より猫たちの、自分の幸せよりも俺や子供たちや身内のを。そんな人がね、何で先に逝かなきゃならないのよ」そう言いながら泣けてしょうがなかった。

お袋は飛んで行きたいけどしょうがないね、と言うので「まだ死んだわけじゃないし、今日・明日っていうことはないと先生も言ってたから、また何かあったら電話する」と言って切るが、「何かあったら」の「何か」とは何のことかを考えると、何もする気が起きない。

座して最愛の人間が亡くなるのを待つという残酷な時間。気がつけば真っ黒な液晶テレビの画面をただ見つめては時計を見る。もう夕方かと思えば30分しか経っていない。Mは今、息を「させられて」おり、かろうじて自力で心臓が「動いているだけ」の状態だ。その鼓動が止まれば、死が訪れる。

生前俺たちはよく自分が先に死んだら、という話をしたものだった。お袋はそのことを言うと「そんな縁起でもないことを前から言ってたのかい」と言うが、「だって俺たちは二人とも、生死のギリギリのところでお互いに手を取り合って支え合って来たんだよ」と言うと「そうだねえ…」と、お互い出るのは涙と溜息ばかり。
俺は「俺が先に死んでも、君を絶対に守ってやる、そうして君に意地悪をする人間を呪い殺してやるよ」と笑って言っていた。Mは「そんなこと言っても、もしあなたが先に死んだら、私が生きていても意味がないから」と言っていた。俺も同じ思いを今、噛みしめている。
けれどあの人の、「やまだ紫」という素晴らしい才能を、作品を、生きているうちに正当に評価しなかったボンクラどもの言説に任せておくわけにはいかない。後世に伝えて遺して逝かねば、俺は死ねない。

Mは「私がもし先に死んだら、あなたのところに逢いに行くからね、絶対に」と言っていた。
まだ、Mの魂は肉体にある。
ひょっとしたら浮遊しかかっているかもしれないが、まだ俺の側に来ている感じはしない。二人で松谷みよ子の不思議な話を読んで、よくいろいろと話し合ったものだ。虫の知らせ、死後の世界、「トンデモ話」と嗤う不遜な人間はそれはそれでいい。それでも、俺たちは人智を超越した存在があることを「知っている」。

Mは必ず、俺の側に来る。
残念ながら、その時彼女の肉体は滅びるはずだ。だけどそれと引き替えに、Mは俺と本当に一心同体となるのだと思う。嗤いたい人は勝手に嗤うがいい。



3時前、二人の娘たち・MちゃんとYちゃんの二人は「病院でママ見て来た、これからそっち寄るから」と言ってタクシーでマンションに来る。二人には母親がどういう状態で普段暮らし、そうして運ばれて行ったのか見てもらうために、Mが運ばれていったそのまんまにしておいた。
「ここへいつも横になったりしていたんだよ」とあの人がいつも座っていたソファの周りを示す。あの人はいつも身の回りのものをいつの間にか手近なところへ積んでおくクセがあり、いつも飲む薬、化粧品や注射などが周辺に雑然と置いてある。それを見て「昔っからこうだったよね」とちょっとだけ笑い合った。

それから座って「ママの顔見たかい」と言うと、二人は「少しだけ片目が開いていて、可愛そうだった」と言う。俺が手術直後に見た時は両目を閉じており、挿管はされていたものの、本当に尼僧のような穏やかな表情だったのだが、不思議だね…と話す。
夕べからの状況を説明し、これまでのたくさんの思い出を語るうち、俺も涙が出て仕方がなく、皆で鼻をすすり涙をぬぐいながら話した。運ばれて行ったままにしてあった二階のベッドも見てもらい、ベランダも「これからここに猫を出そうと思って、二人でネットと煉瓦を買ってきて、これから一緒にやろうと思ってたんだけど」とそれらを見せる。何もかもが悲しさを誘う。

二匹の猫だが、耳の聞こえるシマの方はなぜかMが座っていた足下のスリッパにあごを載せて寝ていたが、二人が来たら二階のベッドの下へ隠れてしまった。入れ替わりに耳が聞こえないユキが降りてきて、すりすりくねくねと愛想を振りまく。それを構ったり、思い出話をしたあと、二人は子供たちをそれぞれ置いてきているし、一旦帰るという。4時過ぎに玄関で「しっかりね」「ご飯食べてね」と言って帰って行った。

俺は「大丈夫」と手を振ったが、二人がいなくなると軽く目眩がする。今日はまだ何も食べていないのだが、目眩止めだけは飲んだのが、効き目が無くなってきたか。一人になると寂しさが募る。これから、猫たちはいるものの、この切ない寂しさに俺は耐えられるのか、自分でも今は解らない。

腹が減っているという感覚はあるのだが、とても食欲が出ない。そもそもテレビすら見る気になれず、横になっても眠れない。このままだと俺の体は確実におかしくなる、もっとももうおかしい=癌なのではあるが。
以前、確かこんなことを書いた覚えがある。

「癌は人に移る」と。
どういう意味かというと、癌そのものが他人に転移するのではもちろんなく、長年連れ添った夫婦の片方が癌にかかり、患った挙げ句亡くなる。遺された人は大変な精神的苦痛=ストレスに苛まれる。長年の愛情が深ければ深いほど、その苦痛は体を、精神を引き裂かんばかりに大きなものになる。そうしてそのストレスから、遺された者が癌になってしまう…。よく、そうして「後を追うように」遺された者が数年で亡くなる、という話を耳にするのは、そういうこともあるのではないか、という話。

自分がそういう立場になるとは思わなかった、しかし俺はすでに血液の癌を患っている。幸い進行が遅いタイプなのでこうして生きていられるが、Mを失うとすれば、いったいどういう影響が自分の体に出るのか想像がつかない。

よく夫婦で見ていた何てことはない番組も、二人で批評し合い笑い合ったお笑い番組も、二人とも好きで借りてダビングしてある映画も、二人で聞いた音楽も、二人で食べたものも飲んだものも皆全て、「二人だからこそ楽しめたもの」であることを、文字通り痛いほど、痛感している。一人で何をしても、俺の半身が楽しくないのだから、心の底から楽しめない。
これではまずいな、と思うが今はどうしようもないというのが本音だ。
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2009-04-26(Sun)

連れ合いが倒れた 詳報

4月26日(日)
前の晩は11時過ぎに布団に入り、いつものようにテレビを寝ながら二人で12時近くまで見てから寝る。
夜中、2時過ぎくらいに隣で寝ていた連れ合いのMがもぞもぞ動いて何か言ってるので起こされる。
「頭が痛い」というので「大丈夫?」というと「下へ行って頭痛薬飲んでくる」と言うのだが、どうも動きがおかしい。力が入らず起き上がれないようで、「起こして起こして」と言うので腰に手をあてて起こすが、ぐにゃりとベッドに寝てしまう。しきりにその間も「頭痛薬飲みたい」というので、「俺取ってきてやるよ」と下へいったんバファリンを取りに行き、二錠出したところで「ハッ」と気付いた。

何かがおかしい。

薬をテーブルに放り出し、二階に戻ると、Mがベッドの上でもがいている。「トイレも行きたいから起きたいんだけど、起きられない」といって体を起こそうとしてはもがき、右手が宙をかいている。こちらがまた半身を起こそうとしてやるが、起こすと力が入らず崩れてベッドに転がる。そのうち「ク、ス、リ…」「ト、イ、レ…」とロレツもおかしい。何度か起こしてやろうとしたが全く力が入らない。「どこが痛い」と聞くと右手で右こめかみを指して「頭…が、痛、い」と言う。
これはまずい、脳だ! と思いすぐに下に降りて119番をする。状況を説明し救急車を呼ぶと、電話から6,7分ですぐに到着した。救急隊が到着後、すぐに2階の寝室に上がると、Mはベッド上でもがきながら嘔吐しており、夕飯のハンバーグのドミグラスソースか、あるいは夕飯後に食べたチョコクッキーか、茶色いものをゲボゲボと吐いている。さらに意識はもう混濁状態で、話も出来なくなっており、隊員3人がベッドから持ち上げると、失禁もしていた。

エレベータに同乗し、マンションの下に降りて待機していた救急車内で状況説明をし、京大にかかっていると告げ、5分くらい連絡のやりとりがあった後、京大病院の受け入れ手配がついた。病院到着は3時過ぎ。

この状態でMはもうすでに意識がなく、救急治療室までついて行くが、外で待つように言われて、暗い廊下のソファで待つ。同じように救急で運ばれた人の家族か、中年の夫婦がソファに座り、沈痛な顔をしている。
その後3時半くらいになり、当直の医師に呼ばれ、中に入る。
どうやら持病の高血圧による脳出血のようだと説明を聞いた。断層写真を見ると、脳の真ん中に大きな出血がはっきりと見られる。

「ここまで出血がひどいと…はっきり言いまして助からない確率が高いです」と残酷な告知をされた。

「もし仮に命が助かっても、重度の障害が残るか…もしくは植物状態になると思います」とのこと。

「手術は出来ないんですか」と聞くと、

「開頭手術で血腫を取り除くにしても、命が助かる確率がちょっと上がるだけで、寝たきりになるのはおそらく避けられないと思います」とはっきり言われた。

「このまま放置すれば、死ぬということでしょうか」と聞くと

「このままだと、すぐに亡くなられるということはありませんが、それでも元の状態に戻る、立って歩いたり話が出来るようになることはほぼ、ありません」という。

医師は「どうされますか、延命的に開頭手術をご希望される方も多いんですが、結局その後ずっと植物状態という24時間介護状態になりますから、こういうのも何ですが、最初はどんな形でも生かして欲しいと言われたご家族も、時間が経つと後悔される場合もあるんです」とのこと。

俺の腹はもう、ホンの少しでも可能性があるのなら、いや例え重度の障害が残っても、生きていさえくれれば奇跡が起こるかも知れない、だから手術して欲しい。そう決まっていた。
しかしお母さんやお姉さん、子供たちにも説明しなければいけない。病院に着いて待てと言われた間に何度か、次女のYちゃんとお姉さんに電話したが出なかったが、折り返しYちゃんからメールが来て、留守電を聞いた、お姉さんの携帯にも電話したら、「今日はT(次男)の結婚式でばーちゃん(Mの母)と箱根にいる」と言われたという。
とにかく俺はYちゃんに「可能性が低くても、手術してもらおう」と話し、救急治療室へ戻る。
先生に「やはり少しでも確率があれば手術をお願いします」と言うと
「開頭して無事血腫を取っても、人工呼吸の管や下の管も付けるために切開をしたりするし、その後は恐らく意識が戻ることはほとんどないと思いますが」と言われたが、「一生介護になっても構いません、お願いします」と告げると、「解りました」とのことでしばらく待たされ、4時半くらいに手術同意書の記入を求めれてサインするた。だが、もう呼吸も止まりかけだと言われて驚いた。あとは手術の用意が出来るまで待てと言われて、また外の廊下のソファでひたすら待つ。

5時が過ぎ、外は白み始めたがまだ手術には入らない…と気をもんでいたら、5時5分、手術室へ行きますと呼ばれた。ストレッチャーに載せられたMの口からは肺へ管が挿管されており、医師が手動ポンプで肺に酸素を送りながらエレベーターで移動した。Mの目は半開きのままで、こちらの呼びかけにも全く反応せず、辛かった。
手術室のフロアにある家族の待合室へ通され、外へ出る時は施錠しナースに連絡してから出てください、あとは仮眠とかされるんでしたらそちらで、と畳敷きの小上がりとロッカーに布団や枕があるのを教えられる。
こちらは枕を出してソファに横になるが、もちろん寝られるわけもない。Mの魂が生死の境でふわふわしていたら、体に戻ってくれ、そしていっしょにまた暮らそう、と呼び掛ける。神や仏やご先祖様でも、とにかく助けてやってください、こんな体だけど俺が一生介護しますから、とにかく生かしておいてください、と何度も祈る。

そうして一睡も出来ずにいると、7時頃看護婦さんが様子を見に来てくれるが、まだ手術中だとのことだった。救急車に乗る時に外しておいたMのメガネを握りしめ、Mの魂に呼びかける。
「まだ逝っちゃダメだよ、俺たち一緒に逝こうって言ったじゃないか、一度俺が死ぬと言われた時に、俺はもう一度あなたと猫たちとの何でもない、普通の日常へ戻りたいと祈った。あなたも祈ってくれた、そうして奇跡を起こしてくれたじゃないか。今度は俺が奇跡を起こしてやる、もう一度、家へ帰って俺と猫たちと一緒に暮らそう!」

時折立ち歩いたり、寝ようとしては挫折し、祈り、声に出してMに呼びかけ…を繰り返す。
そうしていると8時半過ぎ、看護婦さんがビニール袋に入れたMのパジャマや下着、腹巻きを持って来てくれた。「失禁したので汚れてますが」ということと、手術の前に外してくれた腕時計とネックレスもカップに入れてきてくれた。俺は再び胸にMのメガネを抱き、ネックレスと腕時計を握りしめてひたすら祈った。長い手術になっている。何とか、命だけでも…。祈り続けて4時間。

9時5分、インターホンで看護婦さんから「手術が終わってICUへ移動したので、とりあえず先生の説明を受けてください」と言われ、ICUへ向かう。
入り口は足下のフットスイッチでドアが開き、中で一度手を洗い、もう一つのフットスイッチのドアを開け、中に入ってからそれをまた閉めて、説明の場所へ向かう。
執刀していただいた、救急対応をして下さった先生と、もう一人の若い医師の2名に断層写真を見せてもらい、状況の説明を受けた。

ダメだそうだ。

「もって3日、長くても一週間は無理でしょう」と。

手術前、搬送した直後の写真では、脳の中央部に素人が見てもわかる大出血があり、とにかくこれでは放置すれば90%死亡、手術でうまく血腫を取り除ければ死亡率が80%に下がるかもしれない…ということで手術をお願いしたのだけど、結局、開けてみたら思ったより出血がひどかったという。しかも通常の高血圧性脳出血だと出血は一度でだいたい止まり、そこで出来た血腫をうまく取り除けば、障害は残っても何とか命はとりとめるということが多いそうで、実際そういう手術を何度もやってきたそうだ。
しかしMの場合は、そういう出血ではなく、何度も何度も大量の出血を繰り返すのと、血小板数が足りないので成分輸血をしても足りず、そのままだと心臓が止まってしまうということで、やむなく止血処理をして頭をふさぎ、眠らせてあるということだった。

これはもう元々脳内の血管に何らかの異常か病変があったはずで、時限爆弾のようなものだったらしい。ただ、そういうことは「ピンポイントで精密検査を受けてみないと解らないことだし、運命ということもありますから…」と言われる。
だから「やるだけのことはやりましたが、あとはご家族の方と最後のお別れをしていただくことが目的の延命です」という残酷な告知をされてしまった。
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2009-04-26(Sun)

連れ合いが倒れた

夕べ、俺の連れ合いであるやまだ紫…うちでは本名「M」で呼んでいた…が、夜中に突然頭痛を訴えました。
すぐ救急車で京大病院へ搬送、脳内出血と判明、すぐに開頭手術を希望。
その結果はとても残酷なものでした。
まだとても、詳細をご報告出来ません。

何かしていないと、今でも気が狂いそうです。
いつものように、自分は日記を克明に記録しています。
このところ簡略化することも多かった記録は、今回ばかりは何かしていないとおかしくなりそうなので、詳細に書いています。

でもまだ、それを皆さんにお見せする気分にはなれないのです。
どうか、お許し下さい。
奇跡は起きませんでした。しかし、やまだ紫いや俺の妻、Mはまだ死んではいません。四半世紀近く一緒に暮らした、大切な大切な伴侶。尊敬する作家でもあり、かけがえのない妻であるM。命は風前の灯火だそうです。

辛い数日間になりそうです。

2009-04-26 11:49:40
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2009-04-25(Sat)

洋食店、買い物、普通の日常…

4月25日(土)のこと
朝イチゴジュース。昼は連れがインスリン注射をしている間に俺が目玉焼きとハムを二人分焼き、注射の終わった連れ(…妻のM)が参加してマフィンパンを包丁でスライス状に上下に切って、バターを塗って焼く。
軽く焼けたところで、目玉焼きとハムを挟み、テーブルへ持って行ってTVを見ながら二人でぱくついた。俺が卵の黄身を最初にカブッとやったら皿にどろっと黄身出てしまい、手も黄身だらけになる。Mに「考えて噛めよ」と突っ込まれる。
このハムは近所のHという有機野菜や自然食のスーパーで買ったやつで、うまかった。

外は雨がしとしと降り、低気圧が来ているというので、二人とも体がちょっとだるい。俺たちは低気圧が苦手だ。外の気圧が下がると、体内もほとんどが水分のせいか、あるいは自分の場合は腫脹があるせいなのか、体がきつい。血管が疼いたりするのか、Mは腎臓摘出痕の右腹が痛むというし、俺の場合は巨大にふくれた脾臓が脈打つように重苦しくなる。

夕方、作るのもしんどいし「どっか食べに行こうか」と話すとMが「ラーメン街道の洋食屋は?」というので、いつもタクシーで通りかかった時に気になっていた小さな洋食屋へ行くことにする。
降ってないのかと思って傘をたたむとけっこう霧雨っぽい面倒な雨の中、傘をさしててくてく歩く。
「思ったより遠いなあ」と話しつつ、北泉通りも越して、サークルKまで出た。その斜め向かいに「シチューの店」があったので、「ここだっけ?」というと「そうだっけ?」という。
なので店の前でメニューを見つつしばらくたたずむが、Mが「あっちにもあったよ」と言うので、数メートル上がったところにあるこぢんまりした洋食屋の前へ行く。
コースというかセットというか、手書きのメニューが貼られている。それを見て「わたしハンバーグ食べる」とMがいうので、こちらの店に入ることに。

カウンタだけしかなく詰め込んでも7〜8人までしか座れない、キチキチの小さくて古い洋食屋さん。ヒゲをたくわえたコック服の旦那と、エプロンをした奥さんの二人がカウンタ内から「いらっしゃいませ!」と元気で礼儀正しく迎えてくれた。良さそうだな、と思って手前左奥のカウンタに座る。
俺の左手にMが座り、メニューを見て、俺はビーフシチューとエビフライのセット、Mはハンバーグとエビフライのセットにした。
最初はクリームスープが小皿で出て来たが、味も良くMは「おいしいね。量もちょうどいい」と言っていた。俺も「うまい」と思い、これなら料理も期待できそうだと思った。
続いて奥さんが出してくれた野菜サラダも、何てことはない小さなガラスボールに入ったものだが、なぜかMが好きなもやしの薄い甘酢味にカレー風味をつけたのが乗っていて、Mに「ねえ、これあなたの好きなやつじゃない」と言ったら「本当だ」と言って笑う。
メインはMのハンバーグに目玉焼きとエビフライ、ほくほくのジャガイモに焦げ目が軽くつくくらい焼いたものを添えたプレート。「おいしそう」と言って食べ始める。ハンバーグの大きさは俺には小さそうだが、Mにはちょうど良さそうだ。
Mの食べる速度を考え「先に食べてていいよ」といつものように促す。まあ言わずとも、ア・ウンの呼吸だけど。
俺の方は、ハンバーグと目玉焼きがビーフシチューに置き換わったプレートが出て、その他に両方ともご飯、味噌汁、青菜の刻んだおしんこがついた。
Mは「ご飯、ほんのちょっとでいいです。3分の1くらいで」とお願いしたが、俺の方へはなぜかその分?、てんこ盛りで来た。
Mは「目玉あげる、とって」というので、目玉焼きを自分のプレートに移す。「あ、そうだ、昼エッグマフィン食べたからか」と言うとニヤリと笑った。まあ俺は食うけど。
肝心のメインの味は、ムチャクチャおいしい! というほどではないが、まあまあおいしくいただけたし、Mは味はまあまあだけど、量がちょうどいい(つまり少なめ)と言っていた。
店内は古く、お世辞にも綺麗とは言い難いが、真面目に商売をしている印象。
帰りがけ会計をしようと財布を出して立ったらちょうどガラガラ〜と二人の客が入ってきて、「どうもしばらくです!」と言うと店主夫婦が「おお!久しぶり!」と言って笑顔で迎えた。いっきに賑やかな話し声で満たされる。二人の若い男性で、20代半ばかという感じ。片方はよく見たら外人だった。
そのやりとりをバックにMは俺が誕生日にプレゼントしたアニエスb(ベー)のオレンジのバッグに、「洋食の店ますむら」と書いてある箸袋をそっと入れた。気に入ったのかな。
2200円くらいの会計をして、腹一杯で二人とも「ごちそうさまでした」と言って出た。

まだ小雨というか霧雨が待っている。んで焼き肉屋「いちなん」の左側をまっすぐ行こうとしたら、Mが「ねえ、あそこのスーパーでイチゴとか買おうよ」というので「あ、そうか」と引き返す。
朝食のエッグマフィンに使ったハムを買ったHというスーパーのことだ。値段は普通のところよりほんの少し高いが、有機野菜とか無農薬の野菜や食品が豊富である。イチゴとレモン、納豆などほんの少しだけ買い物をする。
Mは酒を(前のように)飲めなくなったので、何かおやつが欲しいな、と言ってグレープ味のゼリーの袋入りのを買った。
それらをぶら下げて、「そういえば二階のベランダのネットを吊るS字型のフック、あそこに売ってないかなあ」と俺が言うと「一応見てみようか」ということにして、曼殊院道を左折して大型店のドラッグストアへ向かう。
奥にそれらしい文具などの簡単な売り場はあったが、目当てのものは無かったので、クイックルワイパーの換えだけを買って、レジに並んだところで猛烈な差し込みがきた。「あ、ウンコしたい…」と言うと「先帰んなよ、すぐ!」と言うが、「大丈夫、波が何回か来るから。いったん収まれば家まで帰れる」と言っていったん我慢。結局二人でゆっくり歩きながら帰れた。途中にある気さくなカウンタ割烹「M」の灯りをうらめしそうに連れが見て、「明日病院だから仕方ないよ」と俺が言うと黙って頷いた。

家へ帰ってすぐトイレ。少し下痢気味、でもこれが俺のデフォルト。
Mは着替えるとソファに座り、さっそくゼリーを1個口に入れたが、瞬間「何コレ、まずい!」と言って吐き出す。「こんにゃくゼリーみたいなやつかと思ったら寒天だ〜。おいしくない」と言ってそのまま袋ごとゴミ袋へドサ! と捨てる。捨てる時に食べ物を捨てるので「ごめんなさい」と小さな声で言って手を合わせる。いつもそうするけど、まあこんなところも長年一緒にいるからか、二人ともおんなじ行動をする。
体にいいとか自然食とかそういうのって、こういうこともあるよなあ…とか話した。
それからはテレビで草○君の「全裸事件」続報などで二人で大笑いしたり。そのうちMは晩酌ができなかったのがつまらないらしく、冷凍庫からチョコ味のアイスバーを出してきて、かじり始めた。その後はソファに転がってうとうとし出す。

11時過ぎには上へ行って、ベッドに横になりながらテレビを少しだけ見て、11時半か12時前には消して、寝た。




俺の人生で最大最悪の悲劇が起きたのは、この何でもないふたりの日常から、たった2時間後のことだった。
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2009-04-20(Mon)

メニエルその後

最近また更新が滞っててすんませんです。
メニエル病に似た症状が出て、パソコン画面を長く見ているとグラグラ来たりしたもんで、必要最小限に留めておりました。いやでも更新サボりはその前からだったんすけどね、てへっ。(オッサンのてへっ、は死刑か)
で、めまい止めの薬を三度三度食後に飲んでいたら、症状がほぼ無くなりました。いやあめまいや吐き気がない、そんなことは普通の人にとっては普通のことなんだろうけど、俺まあ癌患者なもんで、普通に戻ったわけではないにせよ、それでもホッとしました。ややこしい言い回しですんません。

ブログネタはめまい中も何とか日記をつけていたのでけっこうあります。いずれ空白を埋めるべく更新していきますが、先日京都に春を告げる、花街のイベントの一つ「京おどり」(宮川町)を見て来ました! 十代の少女の頃から日本伝統の歌舞音曲、着物の所作、立ち居振る舞いをきっちりと学び、伝承していくことは素晴らしいことだと感動さえ覚えました。舞妓ちゃんがキリッとした芸姑はんになり、やがて黒い紋付きで三味と年季の入った唄を聞かせるようになる…そんな世界がパノラマのように眼前に広がる夢のような空間でした。
いやー宝塚ファンには申し訳ないけど、日本人はこっちだよこっち! 国をあげて保護すべきだろ、と思いました。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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