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2009-04-28(Tue)

連れ合いが倒れた 9

4月28日(火)

それからは、そのままいつしかシマと一緒に寝ていて、目が覚めたら3時半になっていた。途中、どうしてもMが俺に助けを求めた、あの時間…午前2時あたりになると必ず目が覚めてしまう。それでも正味4時間ほどは寝られたことになる。寝られない、食べられない…という状況もちょっとづつ改善していかねば。Mは常々「あなたの体が心配なんだから」と言っていたんだから。

まだ暗い中階段を降りてリビングへ行くと、二階に一緒にいたはずのユキが、床暖房の板の間の上で寝ていた。寒かったのかな、それともママの帰りを待っていたのかな、と思うと少し憐れな気がした。

熱いほうじ茶を入れて、寝る前にテーブルの上に立ててお酒を置いておいたMの写真に、
「M、こんなに早く起きちゃったよ。お茶飲もう」と言ってお茶のコップを置く。そうして自分も飲む。

夜が明けて、ベランダを見たらいつもMが大事にしていた緑が目に入った。三日ほど水をあげていない。
すぐにベランダに出てバケツに水を組み、じょうろで順番に水をやる。彼女は豪華な花よりも、小さな苔や可憐な可愛い花を好んだ。それと、観葉植物のようないつも緑を保ってくれるものなど。もっとも好きだったのは桜だけど、こればっかりは大きな庭でもなければ無理だ。

東京に住んでいた時は、ベランダにそういった小さな緑や花を買ってきては、必ず枯らしていた。いや、枯らしたのではなく、どんなに世話をしても、必ず枯れてしまっていたのだ。
京都へ移ってきて、二人で「あれじゃ人間だって暮らしにくいよね」と話した。京都のこの部屋は南向きにベランダがあって、そこに緑を置いている。メゾネットの「二階」には北向きの広めのベランダもあるが、やっぱり植物には太陽が必要だろうと、プランタ類はリビングから続くベランダに置いている。

びっくりしたのは、Mの大好きな「苔玉」だ。苔を丸い形に貼り合わせ、文字通りボールのようにしたもので、シダのような葉っぱが数本伸びたりしているのを見たことがある人もいるだろう。東京ではそういうものはすぐに茶色くひからびてしまったが、今あるものは、去年の夏だったか秋だったか、どこかで買ったものは直径も15cmくらいと大きく、苔もしっかりして四方八方に葉が伸びた立派なものだ。それに紐がついており、ベランダの物干し竿に吊してある。
冬になって葉が無くなって、苔も緑を保つのが精一杯という風情になったので、部屋に入れておいた。今年の春になって暖かくなった頃、また外へ出したのだが、桜が始まる頃からまた葉が出始めて、今では去年よりもたくさんの葉がもさもさと四方八方に伸びている。「越冬したね」と二人で笑い合った。こんなの初めてだね、と。
いつもそうしていたように、バケツの水にその苔玉のひもを持って、ぶくぶくと気泡が出なくなるまで漬ける、そうしたらまた元の位置にぶら下げる。そこからしたたった水は、これも東京から持って来た枇杷の苗木に水をやる…という仕組になっている。
この枇杷の苗木は、東京に居た頃…2007年の正月に、近くのホームセンターにわざわざ注文して買ったものだ。(そのことは、何度かこの日の日記やここでも書いている
なぜ俺たちが枇杷を育てていたかというと、枇杷の葉には鎮痛効果があると聞いたからだ。それを教えてくれたのはMの親友の井坂さんで、Mが手術の後の激痛に苦しんでいる時に、教えてもらった。井坂さんは十数枚の葉を送ってくれたので、Mは藁にもすがる思いで、それを水に一度浸してから、痛い右脇腹の手術痕に貼り、腹帯で止めたりしていた。
それをすると精神的にも安定するのか、それに実際に効くのか(Mは効く、と断言していた)、それからわが家では痛いところがあると枇杷の葉を貼るのが日常となっている。実は井坂さんからいただいた葉が切れた後、どうしようかと話していたら、舟渡の住んでいたマンションの向かいにある工場の敷地に、枇杷の木があったのだった。
でもそれは工場とギリギリの金網フェンスの間の1mもないところに、窮屈そうに立っていた。3〜4mくらいある成木で、時々二人でこっそり夜中にハサミとビニール袋を持って行き、「枇杷ちゃん、ちょっといただきますね」と言いながら葉っぱを貰ってきていた。

その枇杷の木がある工場が、ある日突然移転のための解体工事をするということになった。たまたま工場に防音防塵の幕を張る作業をしていたところをMが通りかかり、移転工事だと知ったという。その時現場のおじさんに、「この木はどうするんですか」と聞いたら、「たぶん切っちゃうんじゃないかな」と言われたので、「じゃあ切る前にぜひ教えてください」と言って連絡先を渡してきたという。
でも、結局その枇杷の木はある日、無残に解体現場の手前に切り倒され、転がっていた。うち捨てられていた、という風情だった。
俺たちがそこを通りかかった時はもう遅かった。「教えてくれなかったな」と二人で怒りながら、それでもすぐに取って返し、出来るだけたくさんの葉をいただいた。もう、人目なんか関係なかった。二人で合掌して、「今までありがとう」と感謝した。

そんな中、たまたま出かけたホームセンターの中にあるグリーンショップで、枇杷の苗木が取り寄せられることを知った。東京のベランダではどうかと思ったが、やってみようよと話して注文したのだ。
程なく入荷の連絡があり、うちへそれが届いた時は、高さが30〜40cmくらいだったか、細い幹に若い葉が数枚ついているだけのものだった。頑張って水をやったり世話をしたが、元々枇杷はそれほど手のかからないもののはずで、強い木なのに、やはり葉が丸く力なく垂れ下がるようになってきた。
やっぱりここじゃ駄目なのか、と悲しい気持ちになった。
それも、もちろん京都への引っ越しで持って来たというわけなのだ。苔玉の越冬にも嬉しい喜びがあったが、この枇杷の苗木は、東京でしおれていた葉がシャキッとし、少しずつ幹も伸び始めたのにはびっくりした。さらに、ある日気付いたら、途中から枝分かれし、そこにも元々の部分と同様、葉が茂り始めたのだ。今では葉の上に実のようなぷっくりした球が数個出て来ている。
「こんなにも京都って植物に優しいところなんだね」と二人で感激した。だから「きっと人間にもいいところなんだよね」と話し合った。そういえば、わが家の周辺、疎水分流沿いは枇杷の木だらけなことに、引っ越してきてしばらくして気付いた。「これなら苗木買わなくても良かったね」と笑った。それに、京都はあちこちにちゃんと自然が保護されていて、緑や水の豊かな街だ。四季の移ろいが目と肌で感じられ、それぞれに、いや一年365日楽しませてくれる。人にも、都会よりもその方がいいに決まっている。

実はあまりに二人であちこち出歩いているので、とても一つ一つブログにもアップしきれないほどの思い出がある。夜、明青のおかあさんに教わった松ヶ崎の疎水に蛍も見に行ったし、大原へも行った。鈴虫寺も嵐山も二条城も苔寺も大徳寺も金閣銀閣も清水や高台寺や主立った観光スポットはだいたい訪ねたものだ。それから落ち着いて、今度は観光客の来ないひっそりとしたお寺や神社を訪ねたり、京都在住の利を活かして、口コミで住人しか知らないスポットで桜や梅や蛍や緑を楽しんだ。送り火なんてわが家から見られたんだ。本当に書ききれないほどの京都見物をしている。

こんないいところへ二人、来たというのに…。

二人でもっともっと京都生活を楽しみたかった。残念で悔しい、そして悲しいし寂しい。結局、何を見ても何を考えても、最後は「Mがいない」という現実が襲ってくる。
これから俺はもう東京へ戻る気はない。東京はもう自分にとって、いい思い出ももちろんあるのだけど、ここ十年ほどはとてもとても辛い思い出の多い、寒々しい街になっている。かといって、ふるさとの函館は病気には寒さの辛い場所だし、もう俺の居た頃の函館ではないだろう。実家は母と兄の二人暮らしで、俺の居場所はない。あったところで、帰りたいとは思えない。
俺の居場所は、Mと二人で、本当に楽しい思い出でいっぱいの、この京都だと思う。今まで一緒に暮らした猫たちの遺骨も、鴨川へ合流する?野川へ撒いた。だからここで俺も骨になりたい。
だけど、俺たちのいい思い出しかない、この素敵な街にこれから一人で住まなければならないということは、どういうことになるんだろう。そう考えると、少し不安になる。なぜかというと、どこへ行っても、Mと二人での思い出がそこかしこにあるからだ。それを一人で見たり通ったり、その場に居たりすることが、果たして俺に出来るのだろうか。

こういう記録をしている以外は、自分でもおかしいと思うが、ゆっくりとしか動けず、気がつくと「ふぅ〜〜〜…」と深い溜息が出る。こんなことは初めてだ。リビングへ移動して、ソファに転がっていると、テーブルの下にいたシマが上がってきて、俺がタオルケットをかけて横になっている脇に密着して丸くなった。そして、やがていつものように「ぷぅ、ぷぅう」といびきをかきはじめた。
この寄り添ってくれる小さな暖かさが無かったら、本当に俺は凍えてしまうだろう。Mのお母さんは昼間「猫たちはどっかへ預けたら」と言っていたが、絶対それは出来ない。
小一時間ほどそうして目を閉じたりしていたが、結局眠れずに8時半ころ起きてしまう。シマはそのまま丸くなっていた。

するとしばらくして、9時ころにドアフォンが鳴った。何だろう、と思ったら郵便局で、小包は井坂洋子さんからだった。開けてみると、俺の体を心配して、食べられないだろうけど食べて、もし口に合わなかったら捨ててもいい、紫さんはきっと白取さんのことを心配してるから…という内容の手紙があり、パンとクッキーが入っていた。
Mの写真に「ねえ、井坂さんパン送ってくれたよ。有り難いね。みんな心配してくれて。」とそれを見せた。せっかく送っていただいたんだから、食べよう。俺はまだすぐ後を追うわけにはいかない、まだやらなきゃならないことがたくさん残っている。
そう思って、「イチゴジュース作ろう」と声をかけ、二人の朝がいつもそうだったように、俺は冷蔵庫からイチゴを出して洗い、ミキサーのカップにヘタを取りながら入れていく。そうしてレモンを搾って蜂蜜を加えて、ミキサーにセットする。その時後ろを振り返り、Mが注射しているタイミングを確認して、ミキサーを回す…。
振り返ってもMはもちろん、いない。それでもミキサーを回して、小さなコップにMの分を少し分けて、写真の前に置いた。「はい、出来たよ。一緒に飲もう。」
俺は井坂さんが送ってくれたパンを少しちぎって、イチゴジュースで食べた。ほんのひとかけらのパンだが、何回も何回も咀嚼し、ジュースで流し込んだ。どちらも流動食のような状態だ。二人はいつもジュースを飲み干した後、「ああー体にいい!」とどちらかが言うのが日課だった。今日は俺が言った。

それから、仕事のメールアカウントを順番にチェックする。何せ毎日チェックするものだけで10以上あるので、大変だ。そのうちのいくつかは、あまりにSPAMがひどいので、gmailへ転送することにしてある。gmailのフィルタは強力なので、見事にSPAMだけを振り分けて、必要なメールのみ受信トレイへ入れてくれるから、助かる。

こうった作業をしたり、何をした何があったということを逐一記録していくことで、俺はきっと

Mを失う自分

というものを、無理やりに相対化しているんだと思う。そうしていないとおかしくなりそうだから。

人は弱い、耐えられない苦痛…それは肉体でも精神でも、そういうものに襲われた時に、何かにすがりついたり、何かに逃げたり、頼ったりしないと、すぐに壊れてしまう。そういうことを平気で嗤い飛ばせるズ太い精神を持った人種もいるのは知っているし、連日新聞やニュースを賑わせている凄惨な事件は、そのような無神経な人間が起こしている。
俺は、最愛の人間、自分と一心同体でずっと過ごしてきた連れ合いであるMを失うことは、それこそ半分殺されるような苦痛だ。
「しっかりしろ」と言われて、できるはずがない。
Mが倒れた日、その夜に来てくれた明青のおかあさんが
「泣いたらいいよ、思い切り。だってこんなに辛いこと、ないやないの!」と言って玄関先で一緒に泣いてくれた。それが当たり前の人間じゃないか。

Mは小さな体で、昔から病気ばかりで、それも繊細な神経がゆえに、溜めに溜めた挙げ句、さまざまな病気を得てしまったようなものだ。
前夫による、同居翌日から始まったすさまじい家庭内暴力。
目の前で仕事をすれば「あてつけか」と殴られ、蹴られたという。
我慢を続けたものの、あまりのひどさに相手の親へ訴えた時は、「あなたに原因があるんでしょう」と冷たく笑われたという。
Mのお母さんは、当時から近年まではMとの折り合いが悪かった。電話をすれば叱られると言っていつも落ち込んでいたのを傍らで見続けてきたから、俺も彼女が母親に助けを求められなかったこともよく解る。
前夫はシラフになると、あざや瘤を作ったMに土下座をして謝ったという。もうしない、と。
しかし夜になり酒を飲むと、それこそ団地にあった頑丈なタンスに亀裂が入るほど、頭を打ち付けられたという。
血が噴き出し、思わす外へ逃げた。団地の真ん前のロータリーには派出所がある、そこへ駆け込んで訴えると、警官は「ああ、旦那さんにやられたの。それじゃあこちらはどうにも出来ないなあ」とヘラヘラ笑われたという。
今でこそ、「DV」という言葉は定着し、家庭内であっても傷害は傷害、犯罪は犯罪として認識されるようになったが、30年以上前、官憲や役所は「民事不介入」を合言葉に何もしてくれなかったという。
最後の作品集、『愛のかたち』でも本人の手で記述されているが、そんな中、夫から逃れた後のため、必死で隠れて仕事をし、そうして無理矢理に夫を引きはがすことが出来たのは、5年以上経ってからだ。
彼女は、ずっと頑張ってきたのだ。
それ以降の絶え間なく襲ってきた病魔との戦い、頑張りも、俺はよく知っている。
だからもう、頑張らなくっていいんだよ、といつも話しかける。

そんな中での精華大への招聘は、本当に奇蹟のような有り難さだった。
俺は「ね、あなたが長年頑張ってきたことが、ちゃんと評価されて招かれたんだよ」と言うと、「そうかな」と少し照れたように、でも嬉しそうに笑っていた。
実際は、彼女は一度も正式に就職した経験がない。若い頃にデザイン事務所に勤めたことがほんの一時期あったそうだが、それとてアルバイトに近い感覚だったという。
大学の専任教授というのは、大学という法人の正社員になるということとほぼ同じことだ。当たり前だが月給が入る代わりに、基本的には行動は全て大学を中心に制約されることを承知せねばならない。講義だけではなく、会議や入試立ち会いや入学説明会への出張など、さまざまな仕事をこなさねばならない。
そうして2006年春から、彼女は2ヶ月前に吐血入院したばかりの病み上がりの体で、隔週で東京から京都へ新幹線で通勤することになった。イレギュラーな出勤もたびたびあった。
ホテルの予約は俺がパソコンでしたり、いろいろサポートはしたけれど、一緒についていくわけには行かなかったので、彼女は一人でそれをこなした。
ホテルからよく、電話やメールをくれたものだ。きっと寂しかったのだろう。「はやく帰りたい」といつも言っていた。
帰ってくると、大学生活を俺にいろいろと話してくれた。
学生さんたちとの触れ合いはとても楽しく、やりがいがある。学生からこんなことを言われた、こんなものを貰った。大学に猫がいて、本当はいけないんだけどこっそりご飯あげてるんだよ…。
それを聞くこちらも、楽しい話は心がなごんだものだ。

しかし残念ながら、「組織」の中で動くという経験は、ずっと一人で頑張ってきたMに、かなりの精神的な負担を与えたようでもあった。
その場その場で丁々発止のやりとりをするのではなく、一つ一つ反芻しじっくりと熟考して、そして自分で最善と思った答えを出す。口に出す、行動を起こす。
そういったペースはしばしば認められず、誤解を受けることも多かったと思う。
徐々に、彼女は大学勤務を終えると、その晩泊まらずに、まっすぐ東京の自宅まで帰ってくるようになった。東京につくと、マンションの最寄り駅まではちょうど大変なラッシュ時間と重なる。それでも、重い荷物を抱え、弱い体を支え、Mは頑張った。そうして、家に帰ってくると、「疲れた!」と言ってソファに倒れ込んだものだ。出てくる言葉にも、愚痴や弱音が増えるようになってきた。
一晩京都に泊まって、翌日ゆっくり帰ってくれば楽なのは解っていても、とにかくわが家に一刻も早く帰りたかったのだと言っていた。
翌年つまり2007年からは、その通勤が毎週になると決まった。嫌なら辞めるしかない。でもMは「頑張るよ!」と言ってくれた。
なぜか。
それは俺が白血病で、いずれ来るかも知れない過酷な治療に備えるためだったと思う。

でも毎週3日間の京都通勤は、あまりに過酷だった。そして、思い切って京都への転居を決断したのだった。
幸い俺の仕事も安定し、それはネット回線さえあれば東京でなくとも続けられるものだったし、引越作業は思い切って業者にほとんど任せることにして、次女のYちゃんが「凄いね!」と驚いたほどの手際で、俺たちは上洛した。
そうしておととしの夏から始まった京都での生活は、このブログでも何度も紹介しているように、本当に穏やかで、俺たちの人生のうちで最も幸福な時間だった。

もっともっと長く続けたいと思っていた。願っていたし、祈っていた。

神様か仏様かは知らないが、残酷なことをする。

いや、それとも「もう頑張らなくていい」ということか。
あるいは、俺が先に逝ったとしたら、その後のMの苦しみを考えて、先に連れて行くのか…。
Mが倒れて泣いてばかりいた俺だが、徐々に、この理不尽な事態に怒りを感じ始めている。
その怒りが自分の生きるモチベーションになることは、自分が一番よく解っている。
俺の役割が終われば、やがてMが俺を迎えに来てくれることも知っている。
だから、気を立て直そう。もうちょっと、今度は俺が頑張る番だ。
いちごジュース
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2009-04-28(Tue)

連れ合いが倒れた 8

27日、月曜の夕方5時をまわった。

あれから2時過ぎにお姉さんから電話を貰い、頃合いを見てタクシーでこちらも京大病院へ向かった。今日は穏やかに薄日が射す天気ながら、やはり肌寒い。病院へは10分足らずで到着し、入口のホールにある椅子に座って待つことにする。
ざわざわという喧噪の中15分ほど待っただろうか、エントランスへ向かってくる知った顔が見えたので、立ち上がって外へ迎えに出る。お母さんとお姉さん、それに叔母さんも一緒だった。お姉さんは無言のまま深々と頭を下げられ、挨拶もそこそこに、病院の中へ案内する。
Mが「ばーちゃん」と普段呼んでいたお母さんと、その妹である叔母さんがトイレに行きたいというので、いったん廊下のソファでMのお姉さんと座って待つ。その間、俺は思わず「急なことで…」と説明するうちに、思わず泣いてしまった。めそめそするところを見せてはいけないのだが、堪えきれなかった。お姉さんも泣いた。Mが俺や子供たちを除けば、恐らく一番好きだったのは、この実のお姉さんだったと思う。
やがて二人がトイレから出て来たので、気を取り直して直接ICUのある階へ向かう。インターホンで「A先生に呼ばれました、白取の家族です」と告げると、確認の後、中へ入るよう言われる。フットスイッチでドアを開け、全員手を洗い、マスクをして、もう一度中のドアをフットスイッチで開けて入ったところがICUだ。

ここはMが手術を受けた直後に入って以来だが、その時通されたベッドのあった場所も変わっていた。緊急な患者さんばかりの場所だから、容態によってしょっちゅうベッドの位置が変わる。
俺がICUの中にある受付で面会者の名前を書けと言われて4人分書いている間に、3人はMのベッドの両脇へ行っており、すでに泣きながら顔をなでたりさすったりしていた。
口々に「M〜、もう頑張らなくていいんだよ」とか「可愛そうに」と言っては涙しているのを見るのは、やはりこちらも涙せずにはいられなかった。
Mの顔は手術直後に俺が見た、あの悟りを得た尼僧のような穏やかな表情ではなくなっていた。むくみが出たそうで、詳しくは書きたくはない。俺は黙って脇に立っていたが、それでも堪えきれずに顔を撫でてるうちにまた泣けた。

ナースに4枚ほど必要書類にサインをさせられたあと、もう少しで先生来ますから、と言われて十数分だったか、ベッド脇で皆Mに話しかけて待つ。ばーちゃんは何度もMの顔を撫で、毛布の下の体を触ったりしていた。
Mはもう自力呼吸が出来ないので、機械で肺に酸素を送っているが、その
「すううううう、はあああぁ…」
という規則正しい胸の上下は、明らかにそれが「寝ている」のではなく「呼吸をさせられている」ものだと解る。
しばらくして執刀医のA先生が来て、挨拶のあと、「それではあちらでご説明をしますので」と言われてカンファレンスルームに通される。脳の断層写真のモノクロコピーを皆に示して、
「ご主人には到着時からご説明はしておりますが…」と、今回の成り行きを改めて皆で聞くことになった。

まず、最初に頭痛。それから左半身の麻痺が起こる。この段階で脳内の血管から出血があり、それが脳を圧迫して、障害が起きる。この段階でももう重篤な段階ではあるが、それでも通常の脳内出血、俗に言う脳卒中であれば、すぐに救急搬送して開頭手術で血腫を取り除けば、その部分の麻痺は残るが、いわゆる「寝たきり」の状態で延命だけは出来た可能性は高い。
しかし、Mの場合は救急隊が到着した時にはすでに意識が無く、さらに病院に到着し脳内のCTを撮影した時点で、もう呼吸が弱く、片方の瞳孔に拡散傾向が見られたという。そこで、通常ならもう助かる可能性は低いですよと説明し、そのままにするか、手術をするか、家族の希望を聞いたのだ、と。

俺はもちろん、例え数パーセントでも、障害が残っても生きられる可能性があるのなら、と手術をお願いした。
そこで緊急手術となったわけだが、やるからには先生も絶対救おうと思って臨んだものの、開けてみたら、単純な脳内の静脈が破裂したというものではなく、以前から血管に何らかの奇形があったのか、その部分の血液を取ろうとすると、大量に出血を繰り返したという。なので、もうその部分の治療を諦め、その他の血をなるべく取り除いた…という術後の断層写真を見せられる。
なるほど、噴射されたみたいな血はだいぶ取り除かれてはいたが、肝心の部分はそのままだった。それが脳幹と言われる重要な部分を圧迫しているのだという。こうなるともう、予後は非常に悪い、ということだ。
あとは心臓がいつ停まるのか、ということになる…。
俺が「脳内にもう、以前から時限爆弾があって、それが炸裂したということでしょうか」と聞くと、
「その通りですね」
「もし、もし万が一事前に検査なりでわかっていれば…」と言うと
「そうですね、例えば糖尿なり高血圧の検査入院をされて、担当医がたまたま『ここも調べて』と言えば発見できたかも知れません。その場合は患部に行く血液をいったん全て停めて、準備を整えて万全の体制で手術が出来、そうしたら重度の麻痺くらいで延命は可能だったかも知れません。」
俺が頭を抱え、「実はこちらへ転院してから一度も精密検査をしてなかったので、早くした方がいいよ、と言ってたんです。でも大学の講義に穴を開けられないので、夏休みに予約を入れたばかりなんですよ…」と思わず声を震わせると、
「でも、それはやはり運命というものですよ。本当に、ほんの少しの別れ道で、その運命も変わるわけですし、こればかりは仕方のないことですから…」と諫められる。


それからはしばらく、身内による今後の「治療」方針への希望などを話す場になった。


終わりに先生は「では今後は患者さんの状態に任せるということで、何か兆候があれば、すぐご主人にご連絡するようにしますので」と言われて、退席された。
俺らは一緒にいた二人のナースのうちの片方に、
「では、今おられるところからちょっと離れたところへ移動していただいて、そこではご家族にも来ていただけるようにしますし、面会時間内でしたらいつでも来ていただいて結構ですから」とのこと。
一通り説明を聞き、最後にもう一度Mのベッドへ行き、皆で頭をなでたりさすったりして、ICUを出た。


彼女の魂はいまどこにいるのか。肉体から離脱し、あちこちを飛び回っているのか。肉体にまだとどまっているのか。ベッドの上から、嘆き悲しむ皆を見下ろして、自分も泣いているのだろうか…。

病院を出てタクシーを拾い、いったんわが家へ皆を通す。
一通り、Mと俺たちが暮らしていた場所を見てもらい、ソファで皆であれこれ話した。はっきり言うと、俺は辛かった。

Mはあともって数日。ならばいったん帰るのではなく、出来るだけ近くにいてすぐに飛んで行けるようにしていよう、ということで、何とか今晩だけでもどこか宿泊先をと言われ、ネットで検索し電話してみると、何とGW中だというのに、割と便利なところにあるビジネスホテルが2人と1人で2部屋取れてしまった。
Mはやっぱり、居て欲しいと願っているのだろうか。
その後は、もう2泊くらい取っておかないと、というのでばーちゃんが懇意の東京の旅行会社へ電話をしたり、バタバタとしたが、
「それでね、あなたがしっかりしなくちゃダメよ、夕飯一緒に食べに行こう」と言ってくれる。
しかし俺は「実はずっと目眩がしていて、薬を飲んでるんですが…」と説明し、今日は休みますということにした。
立ちくらみに似た目眩がICUからずっとしていたのは本当ながら、実際は一人になりたかっただけだったのかも知れない。そうして夕方5時ころ、お姉さんが「じゃあ白取さんも休んでよ」と言い、3人は去っていった。本当に、壁を伝うようにして歩くくらい、目眩がひどい。すぐに薬を飲み、横になった。

みんなが帰った後、ICUで今日ナースから返された、Mが常にしていた二つの指輪をジージャンのポケットから取り出してみた。先生だったかナースだったか覚えていないが、確か「指輪は取れなかったので切りました」と言われていたはずだ。
それなのに、二つの指輪はちゃんと元のままだった。
切ってなかったんだ!
心底嬉しかった。
すぐに俺が今しているネックレス…若い頃にMがプレゼントしてくれた、金のプレートつきのチェーンに、Mの結婚指輪を通してかけ直した。
もう一つの指輪は、Mが珍しく俺に「欲しい」とねだった安物だ。それはリボン型に細かなダイヤがついたもので、こんな2万円程度の安物でも、Mは「綺麗ね」といって凄く喜んでくれた。そしていつでも身につけていてくれた。時折「誰それに素敵な指輪ですね、お高いんでしょう、って言われたよ」と言ってにこにこ笑ってたっけ。
これは、写真の手前に置こう。

Mは一緒になってから、ほとんど俺にはモノをねだったことはない。もちろん、若い頃は俺が安月給にあえいでいたのを十分知ってくれていたし、その後もお互い不安定な収入は変わらなかったから、「贅沢は敵よ!」が二人の合い言葉だった。
それでもごくたまに、こういう本当に安くても自分が気に入ったものがあると、ずいぶん遠慮がちに、そっと欲しいと言うだけだった。
ここ数年だ、ようやく俺もMに指輪やバッグを買ってあげられるようになった、そんな高いものじゃないけれど、それらは、M自身が選び、気に入ったものばかりだ。それがMの体から離れるのは悲しいが、子供たちに持ってもらおう。Mもそれでいいだろう。そんなことをとりとめもなく、Mの写真に語りかけた。返事は無いが、いろいろ、話した。


そうしているうちに、5時をまわっていた。
気を取り直して、今度は溜まっていた仕事をパソコンに向かって片付ける。こんな時に仕事とは辛いのだけど、仕方がない。しかしパソコン画面を見るとめまいのせいかクラクラしてきて、休み休みの作業だ。

仕事がひと段落するともう8時、外は真っ暗になっていた。
Mが倒れてから、もう一度もテレビをつけていない。二人の時は朝起きてから二階で一緒に寝るまでついていたのだが。
それにしても、なぜこんなに寒いんだろう。Mがいつも羽織っていた俺のカーディガンを着ていても、足下から冷えがくる。仕事部屋から床暖房のあるリビングへ移動しても、床そのものは暖かいのだけど、なぜだか寒い気がする。あんなに暑がりだった自分が、なぜだろう。京都はそれほど冷えているんだろうか。それともMがいないからだろうか。

仕事を終えたあと、Mが倒れた時に着ていたパジャマやスパッツを入れたビニール袋が廊下に置いたままだったのを、ようやくゴミ袋に入れる決心がついた。パジャマの上は吐瀉物で汚れ、スパッツは失禁した尿でぐっしょりだ。もう、置いておけないよ、ごめんな。
Mのものはホンの小さなものでも、髪の毛一本でも捨てるのが辛い。あの人の息吹が感じられるからだ。汚れ物は汚れ物と頭で理解していても、その服はついこないだまでMが着て、そこに座っていたものなのだからだ。
それで何とか勢いをつけ、冷蔵庫に入っている生ものも捨てる。Mが好きだった梅干しのタッパーは…捨てられない。一緒に食べようと買った納豆も…いちごジュース用の牛乳はまだ大丈夫。一つ一つ、捨てなければいけないものを選別しても、どうしても食品でさえあの人の顔が浮かんで、捨てる手がためらわれる。
俺はこれから大丈夫なんだろうか。

ソファに転がって、ミニノートで自分のブログを読み返す。そうしては自分の記録でまた泣く、Mの魂が浮遊して見ていたら、何と情けないことかと嘆かれそうだ。Yちゃんからメールが来て、ちょっとやりとりもした。猫たちは寂しそうだ。何より俺が一番寂しい。
何かしていないとやるせないので、8時ころに発作的にパソコンまわりのごちゃごちゃしたHDD類を、純粋な仕事のもの以外全部外してしまう。俺が仕事のために蓄積していたマンガやアニメのデータや資料類、あるいは二人で好んだ映画や音楽のデータ。
大切な二人の写真や日記などのデータはパソコン内にある、それと今自分がやっている仕事のデータはポータブルHDDに入っている。それ以外のものは、もはや全部不要なものだ。
それらはもちろん自分個人や二人の楽しみのために集めたものがほとんどだ。でも連れ合いのMがいない生活の中で、とてもそんなものを一人で楽しむことなんて考えられないし、想像もつかない。だから、いらない。
そう見渡せば、俺の周りの仕事の資料や書籍、段ボール箱にたくさん入った不要なもの、東京から捨てきれずにそのまま持って来たものなど、いらないモノがありすぎる。これらもちょっとずつ捨てて行こう。
それでいて、Mのもの、二人の共有のものを捨てる踏ん切りがまだつかない。いずれは、思い切ってその辛い取捨選択を「作業」として行わねばならないことも解っている。だけどまだ、それは出来ない。だけど俺だけのためのものは、もういらない。

そうしてソファへ戻り、テーブルにMの写真を立てて、「さあ、仕事も終わったから一杯飲もう」と語りかけて、置いてあったぐい飲みの酒を捨てて、新しい酒を一杯入れた。俺はそれにホンの少し口だけをつけて「俺はコーヒー牛乳にするから、御免ね」と言って横になった。
ブログはありがたいことに、時折旧友や知り合いからコメントが入っている。それらを公開手続きだけをして、改めてまた読み返す。もっともっともっと、二人のことを書き残しておきたい。でもまだ、これから一人で過ごす時間はたくさんあるのだろう。その長く辛い時間を何かの作業で埋めなければいけない。そのためには寝ること、食べることをやめてはいけない。

10時前に導眠剤を飲んで、ネックレスに通してあるMの結婚指輪にキスをした。そうして「M、先に上へ行くよ」と声をかける。いつも俺が先に二階の寝室へ上がっていた時のように。そういう時Mは「ん」と言って、彼女は歯磨きはだいたい頃合いを見て済ませていたので、自分も起き上がってトイレだけ行き、「しまー、ゆきー、寝ますよー」と猫たちを呼びつつ、後から階段を上がってきた。
Mが逆に「眠いからもう寝ようか」と先に上へ行った場合は、こちらが逆の行動をして、後に続いた。毎日繰り返された何気ない日常だった。でももう何をするにも俺一人だ。それでも声に出して、Mに語りかけずにいられない。
寝室に上がると、真っ暗なベッドの上にすでにシマがいた。俺の隣、Mが寝ていた場所に畳んだ毛布の上だ。俺が横に寝て「M、消すよ」といつものように言って電気を消すと、しばらくしてシマがごろごろ言いながら俺の脇に来た。寂しいに決まってるよな、猫だって。シマを腕枕するような形で、天井を向いた。
「M、今どこにいる? もう頑張らなくてもいいんだよ、早くうちに帰っておいで」と真っ暗な天井に向かって目を凝らす。しかし何も見えない。やがて目が慣れてきても、いつもの部屋の様子がうっすらと見えるだけだ。隣を見ても、枕は空いたままだ。それでも「Mおやすみ」と声をかける。たぶん俺は死ぬまでこうして生活していくのだろう。
しばらく下にいたユキは、「ママ」がいないから上かと思って、俺のベッドに来た。しばらくしてまた下へ行き、それからしばらくして結局俺のベッドの脇にある段ボール箱の上へ上がって、おとなしくなった。
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プロフィール

シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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