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2009-04-30(Thu)

連れ合いが倒れた 16

4月30日(木)

夕べ(4/29夜)はあれからMの写真に「おにぎり食べるよ」と声をかけ、ほうじ茶を二人分淹れてから食べた。
それからお姉さんに「昨日はすみませんでした、下痢も止まったし朝のおにぎりも食べられましたので」とメール。すぐに「良かったです、無理しないように!」と返信。本当はずっと下痢が止まらないのだけど、みんな、心配してくれている。

そうだな、俺がメソメソしているのをあなたが見たいわけがない。
だから、まだはっきりと俺の前に現れてくれない。
気がつけばずっと風呂にも入っていなかった。すぐに支度をしてシャワーを浴びる。
浴びながら、はっきりと解った。

そうか、俺はいつの間にかあなたと一緒に暮らしていることを「当たり前」と考える無神経な人間になっていなかったか。
余命宣告を受けた「あの夏」にあれほど望んだ「日常」が平穏に過ぎていることに、無頓着ではなかっただろうか。そんなことでは「早く一緒に連れてってくれ」なんて言ったって、同じことの繰り返しになる。
まだまだあなたがやり残したこと、俺がやっておかねばならないことが山ほどある。
俺がそれらをこなし、これまで以上にあなたにふさわしい人間に成長することが出来たら、
その時、笑顔で迎えに来て欲しい。
そうか、そうだった。俺は生きて、今度こそ、こちらから包み込むようにあなたを全身全霊で愛し、あなたの愛に報いられる人格に成長して、迎えに来てもらえるだけの人間にならないといけないんだ。
解った、もうはっきりと解ったよ。

「…ただ、あなたが生きているうちに気付いておくべきだった…」

大丈夫、俺はほんの少しずつではあるけれど、薄皮を剥ぐように「この苦痛」を受け入れつつある。納得など到底出来ない。けれどこれは現実であって悪夢ではないのだ。

空元気を出し、柔らかい日差しがベランダにあたっていたので、植木や苔玉に水をやった。
すぐにユキが飛んできていつものようにベランダをうろうろ。いい、天気だ。
気がつくと、無意識に病室で聞いたカーペンターズの「I Need To Be In Love」を鼻歌で口ずさんでいる。
タイトルの意味は「私は愛の中にありたい」ではちょっとダサいかな、くらいで意味は深く考えたことは無かった。
昨日からMの周辺では、カーペンターズが響いている。
気になったが、つたない英語力では完訳は難しいので、ほんとうに素晴らしい翻訳を紹介された方のサイトを見つけた。
I NEED TO BE IN LOVE  青春の輝き:milk panmilk crown :So-net blog

この翻訳を読んだら、「BlueSky」の愛子、いやMに重なって仕方がない。
もちろん、この詩(うた)は、1976年にカレンの旧友(John Bettis)がカレンのために創ったものだ。
カーペンターズファンだった俺たちはもちろん最近のリバイバルブーム以前から知っていた曲だけど、二人とも歌詞の中身を真剣に考えたことは特になかったと記憶している。
歌詞では別れた相手に対してまだ切ない思いがありそうなところが現実と違い、そこから早く立ち直りたいという悲しい「頑張り」が、カラ元気だというところも違う。しかしそれ以外の部分があまりにダブる。
歌詞の最後に
「でも 私は大丈夫」
とあるのが、俺たちがまだ同居する前の、あの団地で暮らしていた頃のあの人に重なる。
それにしてもカレンの歌は素晴らしい。まさしく「天使の歌声」「神から授かった声」だ。

パソコンにはもちろんデータ化したベストアルバムを入れてあるので、「一緒に聴こう」と思って再生した。
1曲目から「I Need To Be In Love」の美しい旋律が流れた。
Mさんや。病室や、Yちゃん一家の周りでカーペンターズをかけたね、これからはうちでかけるから。

ずっと無音だった家の中にようやく「音」が、音楽が戻った。

今日は上洛していたお母さんたちが、一度東京へ戻る日だ。元気出して心配をかけないようにしなければ。
Mが倒れた日にはあんなに寒かった京都が、今日は20℃を軽く超える陽気で、まだまだ気温は上がりそうだ。

2時近くなったので、昨晩小川先生が自宅まで届けて下さった千羽鶴を持って出た。本当にいい陽気だ。街はTシャツ一枚で自転車を走らせる若者までいる。
2時過ぎにタクシーで病院に着くと、エントランスホールの椅子にはMのお母さんお姉さん叔母さんがすでに座って待っていた。皆、表情が固い。

エレベータ内でも努めて元気を出して振る舞い、いったん千羽鶴を持ち込めるかどうか聞くために、一人で先にICUへ入る。
Mは、昨日と逆の方向に頭を向けられ、昨日と同じように深い眠りのような呼吸を「させられている」。
ちょうどMの点滴を交換していたナースに挨拶をし、「これ、ここに持ち込んでもいいですか?」と千羽鶴を見せた。
ナースは「わあ、すごいですねえ! もちろんいいですよ」とビックリしていた。
「どこか飾れるところはありますか」と聞くと、「あ、今点滴交換なので、あとで準備します」とのこと。
すぐに取って返して、お姉さんたちに「飾ってもいいそうです」と言って中に入ってもらう。

ICU個室に入るとすぐにお母さんがMの顔の横へ行って「Mさん、今日いったん帰っちゃうよ。」と言って顔をなでた。。お姉さんたちも顔を見ながら「もう頑張らなくていいよ〜!」と声をかける。俺はタオルで涙を拭き、乾いた唇にリップを塗ってやる。皆でまたMを囲んで、めいめいが語りかけたり撫でたりした。

ナースが「じゃあこれに吊せますから」と言って、天井のフックに引っかけて点滴などをぶら下げる金具を持って来てくれた。
礼を言って、俺が「学生さんたちが折ってくれたんですよ」というと、「学生さんが?」と聞かれたので、
「そうなんですよ」と言って千羽鶴につけておいた、勲章のような紅白の花飾りを見せる。
去年の11月、Mが「INTER BEE」のパネルディスカッションに招かれた時に胸につけた、
「京都精華大教授 やまだ紫」と書かれたものだ。
「ああ、大学の先生だったんですか!」とナースはまた驚いていた。
すると叔母さんが自分のことのように「そうよ、マンガ家なのよ」。
「やまだ…紫さん?」と花の名札をナースが言うので、俺は
「そうです。もの凄い人なんです」と答えた。
それから、ナースが点滴などで何度か出入りした後、「じゃあ後は外におりますので、ゆっくりなさって下さい」と言われてドアを閉めて出て行った。
丸椅子に腰を下ろしたり、立ってMの顔をなでたり4人さまざまな動きをしていたが、やがて皆ほとんど黙ってMのベッドを向いて丸椅子に座り、なんとなく空気が重くなった。
…手術なんかしない方が良かったんじゃないか。そんな空気だった。

俺は隣に座ってMのお母さんの背中をさすっているお姉さんに、
「寝たきりになるのは避けられないが、命が助かる確率が上がる…と先生に言われましたから、それだったらと思って…わずかな望みでもあればと…踏み切ったんですけど…」
とつぶやく。
お姉さんは「うんうん、そうだよね。みんなそうするよ」と言ってくれたが、お母さんはこわばった顔をしてMを見つめている。
なので、お母さんの前で腰を折り、
「どうもすみませんでした。こうなると最初から解っていればやらなかった方が良かったです。」
と謝罪した。

Mを救急車で運んで行った時、救急外来でA先生に説明を受けた。その時は確かに
「開頭手術で血腫を取り除くにしても、救命(命が助かる)確率がちょっと上がるだけで、寝たきりになるのはおそらく避けられないと思います」
とはっきり言われた。
ところが、頭を開けてみたら、予想外の血管奇形か障害が最初からあった、だから無理だった、という結果が出た。
最初から、「手術しても100%ダメです。」という「術後」の「結論」が解っていれば、頼まなかったと思う。それなら、このまま楽に…と思っただろう。
でも、「救命の可能性」がほんのちょっとでもあったのなら、お願いするのが夫だし家族なのでは…? 何を言っても、事後では言い訳としか聞こえぬだろう。そんなことを思いつつ、無言で座り直した。

寝たきりになったとしても、麻痺が残っても障害が残っても、今後リハビリや介護をしてでも、俺が一生付き添って行く。命さえ助かってくれれば、寝たきりの人が辛抱強い家族の呼びかけやマッサージなどで、意識をホンの少しでも回復した例だっていくらでもある。
それを「奇跡」と呼ぶのではないか…。
「奇跡」を信じて、ほんの数パーセントの「救命確率」の上昇に賭けるのが、愛する妻を思う夫の役目ではないかと思う。
俺は間違っていたのだろうか!?
猛烈な怒りの感情がなぜかわき起こった。誰に対してとか何に対してというより、この今Mと自分たちが置かれている、この現状がどうしても受け入れがたいという強い感情の高まりがわき起こった。
「怒り」は生きるということへの強力なモチベーションとなることもあるのだ。俺はこれまで、何も悪いことなどしていない、いや、それどころか真面目に、誠実に頑張り続けて生きてきたMがこれまで、病気や苦痛に苦しむたびに、そして自分が癌になった時も、
「何で俺たちがこんな目に」という強い怒りを感じ続けてきた。
今回のことも、メソメソしていた自分に強烈な「怒り」というエネルギーをぶっかけてくれたと思えば、少しは気が楽になるというものだ。
他の人は知らない。けれど自分にとって、この悲劇を少しずつ受け入れつつある、そして同時に「涙」が「怒り」に置き換わりつつある。

そんなことを考えながら、20〜30分近く経ったろうか。「下で今後のことを」ということになり、Mに皆口々に別れを告げて、ICUを出た。

下のレストランに入って真ん中奥にテーブルをくっつけて、4人掛けにして座る。
ここは醤油ラーメンをMと何度も食べた場所だ。
俺の希望はもう、あの人の素晴らしさを、やまだ紫の作品を、できるだけ後世に伝えたい、ただそれだけだ。
手続や手配はやるけれど、Mの作品さえ後の世代に伝えられたら、あとは何も望まない。
彼女の息吹、匂いが感じられる小さなものが少し身の回りにあれば、何も必要ない。

絶望の上に重い気分が重なり、目眩が止まらない。朝飲んで来たのに、お冷やでまた目眩止めを飲む。
20分ほどいたか、つらく苦しい「話し合い」は終わり、玄関を出てタクシー乗り場へ向かう。
タクシーに3人が乗り込み「じゃああとは、よろしく…」と皆さんに言われて、お辞儀をして見送った。
続いたタクシーでまっすぐ自宅の近くまで戻り、コンビニでゴミ袋やお茶、コーヒー牛乳を買ってマンションの入口へ戻ると3時半近かった。

ポストを見ると、俺とM宛の健康診断の申込書が2通入っていた。
まるで笑えないジョークのようだった。

部屋に戻ってMに「ただいま」と言って着替えていると携帯が鳴った。日中何度かお電話をいただいたが、出てもなぜかすぐ切れるなどタイミングが合わないうち、こちらは出かけてしまったり病院内だったり。
電話はMの親友、詩人の井坂洋子さんからで、5分ほどお話をする。井坂さんはMを気にかけいたわって下さり、最後に
「白取さんも、お体気をつけてね。紫さん、いつでも『ちかお、ちかお』って言ってたから」
と優しい言葉もかけていただいた。
昨日までは口ではそうですね、と言っても「もう俺の体なんかどうなっても…」と正直思っていたが、もう大丈夫です…いや、大丈夫になります。ありがとうございます。
それでもやはり、どうにもやりきれない気持ちを、すぐにこうしてテキストにぶつける。それで多少楽になる。これを、これから何度繰り返せばいいのだろう。


夕方4時半。
相変わらず目眩は弱いまま止まらないが、洗濯機で乾燥をかけておいた下着類を取り出して畳んだ。最初から入っていたもの以外、Mのパジャマなどは敢えて上の籠にそのままにしてある。
洗ってしまえば、「Mの匂い」が消えてしまうからだ。
俺の下着や靴下などを畳んで、あとはMが脱いで入れておいた靴下が5、6足。これもいつものように畳んで行く。洗濯機は乾燥付きだけど、Mはいつも「お日様の方が気持ちがいいからね!」と言って晴れた日に洗濯をして、よく二人で籠を持って南向きのベランダに干したっけ。畳むのも、二人の間に洗濯物を置いて、一緒にやっていたよね。
洗濯機の上に載せてある籠に入っていたMのパジャマは、抱きしめるとやっぱりMの匂いが残っている。けれど、それはMにとっては「汚れ物」だから、匂いを嗅がれるのは恥ずかしいかも知れないな。そう思ったが、洗濯はせぬまま、畳んだだけで元の籠の中に積んでおいた。

その後5時過ぎになって、そういえば「京都に(長女の)Mちゃんが来るかも知れない」と言ってたな、と思ってYちゃんへ電話する。
聞くとMちゃんは結局、今日お母さんたちがいったん帰るなら、行かないということになったそうだ。じゃああとは…「待つ」だけか…という話で落着。
7時ころ、Mのお茶を取り替えて、古いお酒を新しいのに入れ替えた。そうして写真と差し向かいで、「明青」のおかあさんが持って来て下さったおにぎりとおかずを食べる。
「ほら、手羽中。若竹煮、生麩の焼いたのも入ってる! みんな君の好物ばっかりだよ」と声をかけて「おいしいね」と話しかける。
こうしていると、不思議とモノが食べられる。
食べて気持ちと体力を立て直し、元気を出そう。明日もまた病院へ向かおう。

心配いただいている全国のやまだ紫ファンの皆さんのためにも。
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2009-04-30(Thu)

連れ合いが倒れた 15

ゆうべ10時ころ、「明青」のおかあさんから電話があった。
「今日夕飯何か食べられた?」と聞かれたので、「下痢がひどくて…」と答えると、
「ダメよお、ちゃんと食べないと、奥さん心配するし、ちょっと遅くなるけど今からおにぎり作って持っていくから」と言われる。
あまりに好意に甘え過ぎなので申し訳なく、「いえ、そんなにしてもらったら申し訳ないし、下痢で食べられないし…」と遠慮すると、
「遠慮だったらしなくていいし、ご迷惑やったら行かへんけど」と言われてしまい、またもや甘えることにした。

30分ほど経っておかあさんがおにぎりとおかずを持って来てくれた。
「どう? お腹の調子は」というので、「やっぱり水分しか摂れないので、下痢ばっかりするんでしょうかね」と話す。
「ダメよお、ちゃんとお米食べて、元気つけないと薬も効かへんし、免疫力も上がらへんよ!」と叱られた。
「奥さんいっつも涙ぐむほど白取さんの体調気遣ってたんやから、そんなんじゃ一番悲しむよ!ちゃんと食べてね!」と言われる。
お礼を言って有り難く受け取り、気を取り直して小川先生に届けていただいた、精華大のみんなが追ってくれた千羽鶴をおかあさんにも見せた。「わあ、凄いやん! 生徒さんに好かれてたんやねえ」と言ってくれた。

そういえば、この日、Mが大学で教えるようになった当初から割の仲の良かった留学生で、今は博士課程を卒業し助手のようなことをしているG君からメールが入っていた。
「数年間の間、お話も伺えて、本当にすばらしい方で、すばらしい出会いです。」
と言ってくれた。G君は大柄で一見怖そうな外見だが、Mは「G君G君」と呼び、彼も慕ってくれていた。だから俺も
「やまだ紫を知ってくれた人みんなが、あの人を素敵な人だ、いい人だって言うでしょう。
 それが、本当にあの人なんですよ。
 あの人のことを悪く言ったりする人がもしあったら、それは、その人が悪人なだけなんです。
 そのことは、25年近く連れ添った自分が長年たくさんの人を見てきたから、解ってるんです。
 やまだと関わりを持てたことを、大事に思ってくれてありがとう。」
と返信した。
自分の娘よりもさらに一周りも若い女子学生たちから、「やまだ先生かわいい」と言われて困るとか、ある時は、遠くからやまだを見つけると「大声で呼びながら走り寄ってきて、ハグする女子がいるのよ」と苦笑していたこともあったっけ…。

「明青」さんには以前Mが描いた猫の絵をレジ横に飾っていただているが、
「あの猫の絵、大事にして下さいね」と言うと少しこみ上げた。
おかあさんは「もちろんですよ、それに今日は水曜日やし、ああ、来られへんなあって話してたのよ」と言われる。お礼を言って、おかあさんに頭を下げる。大将にも本当に感謝の一言しかない。

いつか、俺が一人であの長いカウンタの「定位置」に座れる日は来るのだろうか。
いつもいつもいつも、俺の隣にはMがいた。
だからおいしい酒や料理を「おいしい」と感じることが出来たのだ。
今は何を食べても飲んでも、うまいと思うことはあっても、それに伴う幸福感、喜びが全くない。

それでも、こうしてご飯を届けていただいて、俺は本当にしょうがない人間だとつくづく情けない。
Mがいなくなったら、今度は周りの人みんなに甘えるのか。
そういう情けない生き方を、俺はするつもりなのか。
そう考えると、食欲がないだの、他人と会う気がしないだの、確かにMがいたら「しっかりしなさいよ!」と怒られそうなことばかり言っている。

せっかくのご厚意だ、おにぎりを食べよう。
ウーロン茶を飲むために台所にあったコーヒーカップを洗おうとスポンジを入れてこすると、スポンジが手前に滑り、自分の顔に激しくしぶきが下からかかった。こんなこと初めてだ、Mにハッパをかけられた思いがする。
写真に向かって「食べるよ」と言って、おにぎりを食べた。
「おいしいね。やっぱり明青さんだね」と話しながら、おかずも少し食べた。
俺たちがいつもオーダーしていた絶品の「手羽中の唐揚げ」もあった。
これは二人とも大好物で、お店ではいつも頃合いを見て揚げたてを出してくれた。それを、Mと二人でかぶりついて、「うまい!」「おいしいね!」と食べた。楽しかった。おいしかった。
その逸品を、パックの中に食べやすいように小さく切って入れてくれたのだ。Mが好きだった若竹煮も入れていただいたし、いつも突き出しに出る粋なおかずも入っている。

Mの写真に「俺は何なんだろうね、食欲がないとか言っておいて、目の前に出されりゃ食ってさあ」と言いつつ、おにぎり1つとおかずを少々、今日初めて固形物を食べられた。
少しだけ、元気が出た。


もう11時をまわった、猫たちと二階へ行こう。
ユキはMが教えた「おいで」の手話をいくらしても、なぜか下のフローリングからじっとこっちを見ているだけだった。二階の寝室へ向かう階段を上がり始めると、テーブルの下に居たシマが「とととと!」と走ってきて俺を追い越し、率先してベッドへ向かう。暗い中電気をつけると、もう俺の隣、Mのベッドの毛布の上に居てゴロゴロと喉を鳴らしている。
俺が横になると、シマがすぐ脇の下にズシリと体重をかけて丸くなる。それを撫でてやるが、いっこうに眠気が来ない。そのうちユキが下で、「うぉぉん、んにゃぁぁおん!」ともの凄い声で泣き出した。何度も何度も、うろうろと動きなら泣いているのが、声の移動で解る。

あれは母を呼ぶ仔猫の声だ。

ユキはMを捜している。姿がずっと見えないと言っているのだ。あまりにその声が大きく繰り返されるので、いったんは寝に入ったシマがすっ、と起き上がって静かにベッドから降りた。そしてトントントンと階段を降りていった。
「しょうがないな。おいらが行ってくるよ」
という風情だった。階下に耳をすますと、ユキはシマの姿を見た瞬間声のトーンが変わった。何か「ウニャ!」とか話してもしているように聞こえるのがおかしい。おいおい、まさか本当にユキに言い聞かせてるのか…? などとやってるうちに、そういえば自分も導眠剤を飲んでいないことに気付いて下に降りる。
シマはいつものようにトイレに入って内側の壁をガシガシガシ、とやってるところだった。
その後俺だけまた二階へ上がり、10分ほどしてシマが戻り、うとうとし始めると、暗い中で俺の脇にある段ボール箱の上にざさっ、とユキが飛び上がってうずくまったのが見えた。11時40分くらいだった。



4月30日(木)

朝は目が覚めたら6時過ぎだった。外は穏やかな薄曇りだ。
Mが倒れた時刻に目が覚めることは、なかった。ありがとう。
シマは脇の下ではなく、隣のMのベッドの上に畳んだ彼女の毛布の上で寝ていた。
7時前に起きて下へ行くと、ユキはやっぱりフローリングの定位置で寝ている。床暖房が暖かくていいのだろうか。それとも玄関からMが帰ってくるのをずっと待っているのだろうか。Mの写真に「おはよう」と声をかけ、開じ忘れていたノートPCの画面を見ると、お袋の携帯からメールが入っていた。

「『愛のかたち』 読み返して最後の章が暗示的に感じた あまりにナイーブでいいひとで これからもっと仲良く 仲良しになれると 逢えるの楽しみにしてたのに」

実は、お袋は還暦を過ぎてから油絵をたしなむようになっていて、函館のチャーチル会に所属している。チャーチル会は京都にも支部があって、実は6月に京都で写生会があり、参加する予定だったのだ。

『愛のかたち』の最終章とは、夫が「若い子には興味はないよ」と言いつつも、経営する会社かあるいは勤務先のアルバイトである若い娘に馴れ馴れしくされ、下の名を呼び捨てにされてまんざらでもない様子を「妻の視点」から淡々と見る…という話だ。

その最後は、これが「ガロ」に描かれたもう10年ほど前に目にした時から、胸にこたえた。
そして、今これを読むと、やはり苦しい。Mが側にいた時よりも何倍も、何十倍も、痛い。
直後に続くエッセイで「私は当分死ぬ予定はない」と明言しているのも、今読み返すと、溜まらないものがある。

この本は前にも書いたが、漫画作品は「やまだ紫」の美しい描線が極限まで研ぎ澄まされた高みにあるものだと思うが、描かれたのは2000年ころだ。その後Mは病気や入退院を繰り返し、鬱状態から地獄のような日々を送ることになる。
もちろん毎日が地獄だったわけではない。その合間合間には楽しい思い出もそれなりにたくさんあったし、Yちゃん一家が来てどこかへ散歩や買い物に出かけ、その後賑やかに夕飯を…という幸福な時間もあった。そういうことは、Mにいつも笑顔をもたらしてはいた。
俺も、彼女の状態を放置していたわけではもちろんない。他人には明かせない山坂を二人で歩いた。暗闇もあったし、満開の桜もあった。そのまっただ中で、この本に収録されているエッセイは、綴られたのだ。

当時「肩が痛い、お腹に力が入らない」と苦しみながら、彼女は時間をかけ、時には何度も挫折をしながら、本に収録するエッセイを全て一人で書き上げた。途中からは原稿用紙に手書きをするのが大変だからと、もちろん入力は俺が助けたけれど、文章部分は全て、Mが病気や気持ちの落ち込みなどの合間に自分で綴った、穏やかな「本心」だ。
その最後に収録された文章で、Mは「私は死なない」と言い切った。

『生きるということは、
 自分が愛し、自分を愛してくれる他者への
 大切な責任でもあるのだ。』
     (「愛のかたち」収録「かげろう」より)
この「ことば」の重さを、彼女は自分で体現しようとしてくれたのだ。

しかしこの素晴らしい作品集を発表した翌年に、Mは「夫の癌宣告」を受けたのだった。
精神も体もボロボロになっていく中を必死で立て直し、「作家・やまだ紫」の復活を示してからわずか半年だった。
Mの連れ合いである他ならぬこの俺が、健康診断から白血病を疑われたのは2005年7月、さまざまな検査を受け、リンパ性白血病と確定されたのは8月15日だった。
カラッと晴れていて、ジリジリと暑い真夏日だった。
ここに至るまで、すでに俺はリンパ節摘出による細胞検査、放射線その他さまざまな検査を受けていたし、そもそもが縦隔リンパ節の異常な肥大と、何より通常は拳大の脾臓のあまりの巨大化を画像で見ていた。だから、血液腫瘍はもう確定、あとはそのタイプが何かというより細密な判定を受けただけだったから、覚悟はしていた。
だからといってショックは小さかったわけではない。そして、俺の後ろではMが立って、目の前で夫が癌の確定診断をされるのを見ていたのだ。
いったいどんな思いであの小さい体を支えていたのだろうか。
ブログにアップしたテキストの元日記を読み返す、

(…前略)
病院の帰りにMが「ご飯食べる?そんな気分じゃないよね」と言うが、
俺は元気に二人でご飯を食べたり買い物をするのは今後貴重な時間になるから、
「とにかくお茶でも飲もうよ、坂上に行こう」と言って喫茶店へ向かったのだった。淡々とお互い簡単な食事をし、入院小物を買ったりして自宅へ戻るタクシーの中で、隣に座ったMは俺に隠れてちょっと泣いて、タオルで涙を拭いていた。
その後帰宅してすぐ入院荷物を整えると、Mはお姉さんに半泣きになりつつ報告をし、「ばあちゃんには言うの辛いから姉ちゃんから言っといて」と言って、その後Yちゃんに報告し「MにはYから言っといて」と電話していた。
(…)
Mはソファで少し落ち着いた後、「何であなたがこんな病気に」と言って「わあ!」と泣いた。
しかしすぐに「ごめんね、泣き喚きたいのはちかおの方だよね」と言って無理矢理な笑顔を作ってくれた。
確かに俺だってそうだけど、俺がそんな状態になってもMは何もできないのだから、もっと辛い思いをするに決まっている。俺は「治そう、治るよ。そうして京都で川床料理を食おう」と言う。来年の夏を元気に迎えてやろうじゃないか。死んでたまるか。
(…後略)

あれから1350日、頑張って頑張って頑張り続けて生きてきたMが、倒れた。

俺の方は奇跡的に、まだ生きている。
本当につい先日、「何で俺が死なないのか、不思議だよね」と言ったらMは
「だから、きっと奇跡なんだよ! ね、だから大丈夫なんだよ!」と言っていた。
本当に、ホンの一週間くらい前のことなのだ。

俺たちはいつもいつも、自然とごく普通にこういう生き死にの話をしていた。お互いの体が健康ではないことを熟知し合っていたし、だからこそ、まだ俺の死病を知る前でも、彼女は『愛のかたち』の中で

「残していく人たちへの申し訳なさだけが胸に痛かった。
 幼い子を持つ娘たちや、何かれとなく世話を焼いてくれる老いた母、姉、そして連れ合いを悲しませると思うことが一番辛い。
 苦労をかけっ放しの連れ合いをその果てに一人にしてしまうことを思うと泣けた。」

と綴り、その翌年、Mが帰った入院中のベッドで、それと全く同じ思いでひとり俺は泣いた。

また、同じ文中ですぐに

「逆の場合もある、連れが私を残してもし逝ってしまったら、私はヌケガラになるだろう。毎日見ないテレビをつけてソファに座り、いい加減な食事をし、やがて自分も弱って行くのだろう。そしてその悲しみと辛さは、結局娘たち残された人間に引き継がれていく。」

とも綴っている。
これが、まさに今この瞬間の俺の状態なのである。
俺は今ヌケガラとなり、毎日見ないテレビをつけるどころか、スイッチを入れることすら出来ずにいる。いい加減な食事をし、弱っていくだろうこの体は、すでに癌に冒されている。
違うところは今の俺の場合、M・やまだ紫のことをできるだけたくさんの人に知って欲しい、その思いで狂気じみたスピードでテキストを打ち続けていることか。

つまりは、俺がこうして普通ではいられないことで、もし後を追うスピードを速めてしまうようであれば、それは今「かげろう」となり俺の元へ戻ろうとしているMが、一番悲しむということになるのだ。
頭では理解している。だけど心がどうしても受け入れられない。

よく興味もなくただ眺めていたワイドショーや番宣で「見せられて」いた、外見だけ見た目のいいジャリタレが出るような安手のドラマや陳腐な映画で、やれすぐに白血病だの、「人の生き死に」や「愛」を簡単に商売にしてくれるなよ、と普段思っていた。
「心が痛い」とか「魂が引き裂かれる」とか、そういう言葉を簡単に使うな。そんなことそうそうあるかよ。そう思っていた。

今の自分は、ほんとうに心が痛い。
魂が、引き裂かれるように苦しい。

この思いをたった一人で抱えていたら、そのうちきっとMの後を追うに決まっている。だから、こうしてMを支えてくれた人や、応援してくださるファンの人に向けて、綴っている。そうせずにいられない。


9時過ぎ、Yちゃんから「いったん東京に帰る」とメールがあった。
「朝食の時にまたカーペンターズが流れたよ」
M、やはり君は。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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