2009-05-30(Sat)

夫婦の晩酌

5月30日(土)

夕べは12時前にいったん寝室へ上がってベッド脇のテレビでニュースを見るが、凄く暑い。夕方の予報では「京都の最低気温は19℃」だと言っていた。最低気温は恐らく明け方前だろうから、まだまだ家の中は気温が高く、しかも熱が籠もるこの部屋は相当暑い。部屋は上へ行くほど、下の階の生活熱が籠もるのだろうか、夏はとにかく暑くなる。今からこれではどうすると思いつつ、足元の送風機をつけるが全く影響無し。しょうがなく1時間タイマーでクーラーをつける。それでも駄目で、風がぬるい。
あっ、と思って見たら「暖房」のままだった。冷房に切り替えて、目を閉じる。
全く眠気が来ないのでおかしいと思ったら、レンドルミンを飲み忘れた。
最近はもうレンドルミンがないと眠れない。
いわゆる比較的弱い精神安定剤で睡眠導入剤としてもよく使われるもので、習慣性はハルシオンより弱いと聞いた。けれどこうした薬剤は、飲む側にとっては習慣性よりもむしろ「効き目」が重要で、短時間で「効く」つまり眠くなるものが重宝される。そしてあとは持続時間。レンドルミンは超短時間で効力が切れるらしいので、朝までに何度か目が醒めるのは仕方がないようだ。かといって本格的な睡眠薬の「依存症」になるのは怖いし、一番怖いのは「鬱病」だ。
良く言われるストレスの「強度」で言うと「配偶者の死」は最上位。しかも他のライフイベントとは比較にならないほど大きい。自分でもこんなに辛く苦しいことは他に無いと思っている。
「悲しいのは解るけど…」と簡単に言う人がいる。
解るわけがない。
最愛の相棒、伴侶、連れ合いを失った、この気持ちが他人に解るはずがない。

だから、こうした記録もその一環だけど、自分をある意味「このような状況下に居ること」を理解し相対化することが重要だと、意識的に自分で崩壊しかかっている精神を救っているのだ。
それなのに「何だか知らないけどあんなに事細かにネットに書かなくとも良いのに」と言う人も居る。
それは、俺に「死ね」ということと同じだ。

とにかく、鬱病はこうした努力である程度防衛出来る…と思いたい。
でなければ、たった一人京都で遺された自分は、正気を保つのは難しいだろう。
旧知の人や一度も会ったことのない方たちから、たくさん励ましのメールやお手紙をいただいている。一つ一つとてもお返事を書けないのがもどかしく、申し訳ない。
身内でもない、一度も会ったことのない方が、このブログを読み、理解して下さり、その上で励まして下さる。ある方は
「お連れ合いがどういう状況にあるかを早期から正しく理解され、それが到底受け入れ難いことにお気づきになられた。であるが故に、受け入れられないことを受け入れるために、記録を始められた。」
「自分は精神医学を学んだ者ですが、あなたのやっている事は、正しいと断言出来ます」
と書いて下さった。
有り難くて涙が出た。


薬を飲んでもう一回ベッドに戻り、暗い中喉を鳴らして甘えるシマをなでながら、三津子に話しかける。いつもこうしているうちに、寝てしまう。昨晩もいろいろなことを話して、そのうち寝てしまった。

今朝は目が醒めたら6時ころだった。
それからとろとろして寝たり醒めたりで、起きたのは9時前。カップのそばで朝飯。今日は曇りで、よく見ると霧雨のようなのが降っている。

その後、昼前からテレビも何も見るものがなく、ちょっとだけウトウトしかかるが、部屋の中が暑くて往生した。窓を開けると曇り空はいずこという感じで、青空と気持ちのいい日差しで気温もぐんぐん上がっている。
温度計を見ると室温は27℃を軽く超えていた。窓を開けて空気を入れ換えるが、とにかく暑い。この調子だと午後は大変だ。今のうちに買い物へ行くかと意を決して自転車で近くのスーパーへ向かう。
お昼に簡単な寿司と、夜のおかずや三津子の好きな卵豆腐、それから明日の朝用にざる蕎麦と最近不足している生野菜。
食材を買ってきて料理をすればいいのは解っている。けれども一人で何かをし、全てが一人で決着する。何かを作っても誰も感想は言ってくれないし、そもそも食べてくれる人も他にはいない。それでも、ずっと三津子の写真の前にはお茶やお酒、ちょっとしたつまみやご飯は必ず並べる。それが唯一の楽しみと言ってもいい。

あの人の好きだったものなら、すぐに挙げられる。
玉子豆腐、梅干し、温泉玉子、白身の薄造り、鶏唐揚げの甘酢餡かけ、じゃこと大根おろしあえ、空豆の塩ゆで、生湯葉、焼き生麩の田楽味噌、炒り銀杏…。スラスラとあっという間に浮かぶ。
もちろん「あそこの店のあれ」とか季節のものも他にもたくさんあるけれど、何か毎日一つでも好きだったものを添えてあげたい。何も無ければチーズ一つ、京都では手に入りにくいカリカリ小梅一つであっても、彼女に何もあげずに俺だけ飲み食いすることが出来ない。

買い物を終えて部屋に戻ってくると、うちのガスメーターの扉を必死に開けようとしているおっちゃんが居た。汗だくになって、ドライバを突っ込んで廻そうとしている。今日はそういえば防災設備とかの検査日だと張り紙がしてあったなと思い、おっちゃんに
「あの、そこ特別なカギじゃないと開かないんですよ」と声をかける。
前に三津子と部屋で炭火焼き(椎茸や鶏肉を和風つゆに浸けて焼いたりした)をしていたら、警報が鳴ってガスが止まったことがある。換気扇だけでは駄目で、窓を開けてなかったので一酸化炭素が許容度を超えたらしい。対処法は東京に居た頃にも一度やってたので知っている。そう思って外へ出たら、とにかくガスメーターの扉が開かなかった。
その時は結局大家さんがわざわざ来てくれて、「これじゃないと開かないんですよ」と言って、カギというか薄い金属製の工具のような「カギ」を渡してくれた。
部屋に一旦入ってそれを取り、おっちゃんにそれを渡すと「あ、これはえらいすんません! お借りします」と言って受け取った。
それから冷蔵庫にものを閉まって着替えているとノックがして、おっちゃんが「メーターの方は確認出来ました」と言ってカギを返してくれた。それから消防設備の検査だと「ベランダだけ見せてください」と言ってベランダを覗いて両側の壁を確認してすぐ戻ろうとした。
そうして振り返ると、テーブルの上の三津子の遺影や花に気付いたようなので、
「あ、うち連れ合いが亡くなったばっかりなもんで…」と言うと「それはそれは…まあえらいことで…」と言いながら遺影に立ったまま丁寧に手を合わせてくれた。
「お力落としでしょう、大変ですなあ」と言ってくれたので「ええ、何だかね、まだ慣れなくて」と言ううちに鼻声になってしまい、慌てて取り繕って見送った。

それからはNHKのハイビジョンでルノアールの特集番組、続けて円空の番組を見ながら、遅い昼ご飯に買ってきた寿司を食べた。三津子には白身の寿司をあげて、寄ってきたユキにはまぐろの上側をちぎって食べさせた。もうクーラーをつけないと暑くて大変だ。

その後5時近くなって、ネットで探した大阪の会社に発注してあった、『性悪猫』に出てくる猫の絵をデザインした、金のプレートをストラップにしたものが届いた。出してみると、ずしりと重い。金色に打刻といって表面を白く削るように細かいフォントや絵を削ったもので、プレートは周囲をスワロフスキのダイヤぽいもので囲んである。それをさらにストラップにつけてもらった。これなら、よくある「香典返し」のタオルやハンカチよりも、大事にしていただけそうだ。
さっそく三津子の写真に「ほら、けっこう綺麗に出来てるよ」と言って見せて、眺めたり、写真に撮ろうとして写り込みで失敗したり。結局三津子の遺影と技芸天様の写真の下、メガネなどを置いてあるところへ一緒にした。


夜になって外は雨になった。

今はもう7時半。夕方シャワーを浴び、浴びている途中で三津子に語りかけ、泣きながらシャワーを浴びた。
思えば最後に一緒に風呂に入ったのはいつだったっけね。東京に居た時だったね。お互いあっちが痛いこっちが痛い、手が届かない…などと言ってはどちらかが相手の背中を流したり頭を洗ったりしたっけ。
もう性愛、リビドーなど遥かに超越したところで、俺たちは手をつなぎ、助け合って生きていたね。
何だかもう老境に達して、全てに達観した老夫婦みたいなもんだったよなあ…。
そう思いながらシャワーを浴びる。三津子はシャワーの時、よく「怖くて頭を一人で洗えない」と言っていたことを思い出す。若い頃から彼女は「妙なモノ」をよく見る体質だったから、一人で目を閉じて何かをしなければいけない状況が、かなり怖かったらしい。
実際そういう状況で、例えば団地で一人で居る時に新聞を整理していて、フと背中に近い側の雑誌だかに手を伸ばしたら、居るはずのない者の「なま足」が見えて凍り付いた…とか。まあそういう話は昔から本当に良く聞いた。俺だって見えたりはしないものの、子供たちも含めて実際に「体験」もしているから、こればかりは経験していない人に説明する言葉は持たない。
「だってあるんだよ、そういうことって」としか言えない。
けれど今、こうしてシャワーを一人で浴び、目を瞑り、頭を洗おうが何をしようが、彼女が俺に触ってきたり、目に見えたりすることはない。残念ながら俺にはそれほど鋭敏な感性というか、アンテナがないのだろう。
今はもう例え夢でもいいから、もう一度三津子に会いたいと思う。
少し前に彼女が夢に出て来てきてくれた、その時のしっかりと支え合った幸福感が忘れられない。
あれが夢でもいいからもう一度体験できれば、生きて行く「よすが」になる。
シャワーの時に背中にそっと手を置いてくれてもいい、以前なら吹っ飛んで飛び出しただろうが、今はそれさえ切実に願う。
けれども何事もなく、いつものようにシャワーを終えた。いつもいつもシャワーばかりで、たまには風呂にお湯をはって…とも思うが、風呂桶を洗剤で洗っておしまいだ。何だか一人で湯に浸かるのがとても贅沢なことのように思える。
その後三津子のストラップのことをお姉さんに報告のメールをすると、すぐに電話がかかってきた。
お姉さんはこないだ俺が送った三津子の写真と絵の額を見ていて、昔の写真を眺めたそうだ。最後にお姉さんたちが親子三人で比叡山へ行った時の写真で、自分たち母娘三人が手をつないで歩いている写真を見てたら…みたいな話になり、俺も思わず泣きそうになる。すると受話器の奥から義兄のYさんが何かいい、電話がかかってきたから、というので話は終わった。

その後、昼間買っておいた総菜で夕飯。三津子には温泉たまごと白身と甘エビの刺身をあげた。お刺身のツマ…大根と木の芽(?)のような茶色い小さな葉ものを大葉で包んで、皿に添えた。
三津子がいつも外で刺身を食べる時、そうやってツマものをよく食べていた。東京だったら刺身のツマを食べられるという店はよほどの名店じゃないとあり得ない(使い回しされていたり、そもそも鮮度に問題がある場合が多い)が、京都では普通以上のレベルの店であれば、刺身の器に盛られたものは「基本的に全て食べられるもの」だ。
俺たちはいつも安心して、刺身と一緒に野菜もちゃんと食べられた。三津子は大葉にくるくると大根のツマを巻いて、木の芽を包んで本わさび(これも京都では当たり前だ)をつけて、ぱりっと音を立てて食べていた。彼女の方向から大葉の何とも言えない香りが漂ってきたのを思い出す。
お酒が大好きだったけれど、贅沢ではなくても、新鮮で「普通に美味しい」ものを好んだ。二人で本当に、そういうものを「おいしいね」と言いながら食べて、飲んだ。
今も、「おいしいね」と言って二人で飲んでいる。
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2009-05-29(Fri)

ひまわりとバラの花束を贈る

5月29日(金)

夕べは11時過ぎに二階へ上がり、12時過ぎにはテレビを消して寝た。
しかし夜中に変な夢ばかり見ては目を覚まし、4時ころから全然眠れずに悶々とする。朝方は悶々としている間にうとうとして、何度も同じような夢を見た。
俺の祖父…書道を教えてくれた、死んだおじいちゃんが出て来て、何か筆で字を書くように言われたんだったか、俺が自発的に半紙に何かの文字を書こうとしているのか。
しかし何度書いても下手くそな字で、思うように筆が走らず「ああ、駄目だ」と思う。そして目が醒めて今書こうとしていた字は何だったっけ、と思い出そうとして違う単語が思い浮かび、違う違う…と思っているうちにまたうとうとする。そうしてまた、その字か文章を書こうとして、うまくいかずにイライラしている。目が醒めるとその「書こうとしていたこと」を、違う単語が覆うようにして思い出せない…。
それを数回繰り返した。結局朝は7時ころに朦朧としたまま起きるが、「何を書こうとしてうまくいかず繰り返したか」は思い出せないままだった。

今日はいい天気で、吉田山と東山にうす日が射して緑が綺麗だ。朝はサンドイッチとコーヒー牛乳。
新聞を取りに行って戻ってくると9時ころ、お袋から電話がある。しばらく音沙汰が無かったが、俺のブログは兄貴に読ませて貰っているらしい。大丈夫か、何かして欲しいことはないかというが、大丈夫だし何もしてもらうことはないと、いつものように返す。
本音を言うと、もちろん今の俺の状態は「大丈夫」では到底ないと思う。
毎日三津子のことしか考えられず、時々こみ上げるものがあって涙が出る。仕事をしていたり、花を活け変えたりなど日常のルーティンをやっている間は普通に過ごしていられるが、その他のことはもう一ヶ月も経つのに、何も手をつけられていない。
もちろん、子供たちがそう簡単にはこちらへ来ないから、勝手に俺の一存で何かを処分したり、整理をするということは出来ないということもある。それにしても、こんな状態で8月までに引越先を決めて、転居など到底考えられない。
それに仮に二人が「俺のいいようにして」と言ってくれて「解った」となっても、だいたい俺は彼女の服一枚捨てられないでいる。ましてや引越までの全ての作業を俺一人で終えるには、体力と時間が足りない。

しかしこの作業を誰かに手伝って貰いたいとも、思わない。
むしろ誰の手も借りず一人でやりきろう、と思っている。
だから、多少時間がかかっても、ちゃんと俺の手で全うしたい。

お袋は「チャーチル会」の写生会があって6月に京都へ来ることは決まっている。二泊するので、夜にでも会えたら…ということにする。その時の自分の健康状態はともかく精神状態がどうかで、人と会えるかどうかが不安だ。けれど自分の母親なのに「申し訳ないが今誰とも逢いたくない」というわけにもいかないが。
お袋とは結局あれこれ1時間以上、長く話した。

それから気が付くと外は青空が広がり、素晴らしい天気になったので、ベランダを開けて苔や草に水を…と立ち上がると、ユキが鳴きながらすり寄ってきた。
水をやるとベランダの床が濡れるから、その前に猫を出してしばらく遊ばせることにした。
出してやると日向に何をするでもなくじっとうずくまったり、時折うろうろと歩いたりするだけだけど、それでも楽しそうだ。撫でてやるともの凄い量の毛が抜けるのが、日差しの下でよく解る。
しばらくすると満足したのか、家の中へ入って毛繕いを始めたので、バケツに水を汲んで苔玉をジャボンと浸ける。こぽこぽと泡が出て来て、それが消えるまで待って吊し直す。その下には枇杷の鉢があってそこに余分な水が垂れる。今日は気温も上がりそうで暑くなりそうだから、霧吹きで苔の葉や枇杷にも少し多めに水をあげた。他の草や木も同様。それからずっとベランダを開け放っておく。
気持ちのいい季節になった。
向かいのマンションの外壁修理の足場をずっと解体していてうるさいが、平日ほど車の通行もないし、穏やかな週末だ
(…と思ったら、今日はまだ金曜だった、曜日の感覚がないのだと今さらながら驚いた。)
週末といえば三津子が倒れた日をどうしても思い出してしまう。けれども、あの日二人で歩いた時の冷たい雨と、その後彼女が倒れた後の真冬のような凍える日からすれば、嘘のようではある。

11時40分ころ、ネットの花キューピットで頼んでおいた、三津子への花束が届いた。ひまわりとピンクのバラを入れてもらったアレンジで、仏花よりも華やかで綺麗だ。
「ほら、花を頼んだんだよ、君に。綺麗だね」と見せて、さっそく花瓶に生け換えて飾った。

ひまわりとバラが届いた
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2009-05-28(Thu)

月みてないた

5月28日(木)

夕べは12時過ぎに床に就くが、寝られない。
レンドルミンを2錠飲んでいる、しかもビールと併用という、あまりやってはいけない飲み方をしているのに、なかなか寝られない。元々が睡眠薬ではないから、飲んだらすぐに寝られるという薬品ではないので、なかなか副交感神経に切り替わらないのだろうか。そんなことを考えつつ、暗い中悶々と2時頃まで過ごして、結局朝は6時に目が醒た。朦朧としつつ再び寝ようとしても寝られない。7時ころ、ふらふらと起きてしまう。

朝のルーティンをこなし、外を見ると曇り空だ。
昨夜の天気予報では今日からは低気圧が居座り、太平洋側はだいたい曇りか雨が続くと言っていた。気温も一ヶ月逆戻りです、と言っていた。けれどそう寒くもなく、むしろこの部屋は最上階にあるせいか部屋の中はけっこう暖かい。
いっそのこと気候だけではなく時間も一ヶ月逆戻りして、三津子が倒れる前に戻して欲しい…と思ったが、だとしても、彼女を救うことは出来なかったのだ。知っていてどうしようもできないという、もっと悲しい状態になっていたかも知れない。バカなことを考えるな、と思う。

いつものように三津子にも熱いお茶をあげて、朝は8時ころにおにぎり2つ食べた。
それから一休みして仕事をする。
一段落させてBSで松坂登板のボストン対ミネソタ戦を見た。松坂は相変わらずぱっとしない投球だ。
昼近くになると、外は明るく日が射してきた。雨の予報、しかも気温も下がると言っていたはずだが…。雨がなく日も射してきたのであれば、ベランダの苔玉や草木に水をやらねばならない。水をやってから休み休み仕事をして、昼は11時半ころ卵が余っていたので目玉焼きとベーコンを炒めて、ミネストローネで食べた。炭水化物がないが、ご飯類はこのところけっこう食べているので、いったん抜く。
松坂は3点取られて味方の援護も2点止まり、5回で交替。
その頃、宅急便が届いた。ゆうちゃんからで、冷凍便で暖めるだけのハンバーグとか冷凍チャーハンとか、筍煮とか卵スープとか。ちゃんと食べてね、ということだけど、心配かけて申し訳ないな…と感謝と反省。

それからはパソコンにずっと向かっていた。仕事だけではなくいろいろと考え事もした。
気が付くとやっぱり深い溜息が出て、両膝に手をついて下を向いている自分に気付く。
ユキが甘えて、俺が行く先々に付いて廻る。
パソコンに向かっていると、横に積み上げた未整理の段ボール箱の上に載って、時々「にゃぁああ!」と甲高い声で呼ぶ。そのたびに頭を撫でたり、ひょいと抱いてしばらく可愛がってやる。この子も寂しいに決まっている。二人で居た時でさえ、俺たちのうちどちらかの姿が見えなくなっただけで探し回って凄い声で泣いていた。
もう一ヶ月も「ママ」の姿を目にしていない。寂しいに決まっている。

2時半ころにポストに郵便を取りに降りた。板橋区役所に俺が戸籍謄本の請求と一緒に送った返信用の大封筒と、それから漫画家のキクチヒロノリさん、編集者の山崎さんから手紙が来ていた。あと関西電力から、支払い用紙と引落口座変更手続きのハガキ。
まず区役所からの封筒を開けると、最新のコンピュータによる俺の戸籍謄本、それからその前の改製原戸籍、さらにその前の三津子の戸籍謄本、そしてその前の三津子の出生からの戸籍謄本。
三津子のものは全て「除籍」となっている。死亡による除籍だ…。

俺たちはもう法律上も夫婦ではなくなった。
俺は戸籍上は妻と死に別れ「独身」ということになる。
冗談じゃない、君のことを忘れるもんか。
俺たちはこれからもずっと夫婦だし、もし、許して貰えるのなら来世も一緒になりたい。
そうして今度こそ、全身全霊で君を守り愛し抜く。
そう思うと涙が出る。
くそ、また泣いてしまったじゃないか、今日は泣かない、今日こそは泣くまいとずっと思ってもう一ヶ月だ。

何とかして、「やまだ紫」という作家の素晴らしい作品を後世に伝えたい。
けれどそれは簡単な問題ではないことは、重々承知している。
出版不況と言われてもう十年以上が経つ。きれい事では済まされない、シビアな市場原理主義がまかり通っているのが、書店という現場の理屈だ。
「いいものを、長く売る」
「いいものを、後世に伝える」
こういう理想を、本当にかたちにするということがどれだけ困難なことか、思い知らされている。
そうして、そういった話も俺の一存で決められる話でもない。

自分もで本当に鬱が入りかかっているのが解る。
猜疑心が強くなり、虚無感と寂寥感で、誰かに何かを伝えて、ちょっとでもレスポンスがないと裏切られたかも知れないと思う。
そうして一人で居ることが溜まらなく寂しく、気が付くと溜息をついて下を向いている。
三津子の写真を見ては泣く…。

まるで、三津子がかつて鬱の淵へ落ち始めた時と同じ状態ではないか。
俺たちは念願のマンションを買って「さあこれから」という時にこれまでの誤診による臓器の異常で、体調が悪くなった。気力が減衰しそれに伴って仕事も激減し、同時にそのことで自分を責めるようになった。俺の仕事は幸い何とかなっていたので、俺は「もうこれだけ頑張ってきたんだから、少し休みなさいって神様が言ってくれてるんだよ」と慰めたが、三津子はその頃からよく誰かに電話をして、
「今ね、わたし旦那に養って貰ってるんだ。あこがれのセンギョーシュフってやつやってるの!」と言っていた。
もちろん、冗談めかして明るく言っていたが、本心では自分を責めていた。
ことあるごとに「ちかおだけに働かせて申し訳ないと思ってる」と言っては泣いていた。
そのたびに「今まで助けてもらったのはこっちなんだから、そんな事言わないで」と言ったけれども、もともとが「そうだね、それが当然だよね」などと考えられるような傲慢な人ではなかった。

それから吐血、手術、その後遺症…などなど、本当に辛いことがたくさんあって、鬱状態の自分の気持ちをアルコールで持ち上げるためだという「言い訳」によって、辛い状態になったこともあった。
あの当時、鬱になり始めた彼女の状態は、仕事をしている俺の視界に入っていたのでよく覚えている。
こちらも気にしていたのでチラチラと様子を伺いつつ仕事をしていた。ぼうっとテレビを眺めていて、気が付くとじっと下を向いていた。しばらくすると顔を子供のように歪めて、声を殺して泣いていた。両手で顔を覆っていたこともあった。
せっかく二人で居たのに、一人で鬱と戦っていたのだ。
二人で居たのに、寂しかったのだ。
俺はもちろん、心配をし子供や姉に相談もした。病院もはしごをしたり、放置しておいたわけでは決してない。それでも、もっともっと大きな気持ちで包み込み、愛しているとしっかりと抱きしめてあげられれば良かった…と思う。
そして今、俺は彼女を失った。
俺は本当に一人で、孤独と、寂しさに耐え続けなければいけない。
後悔と自責の念で、自分を責め続けて生きていくしかない。
あの人の愛はもちろん知っているし、俺も彼女を愛したし、今でも愛している。
これほど愛した人はいない。最初で最後だとはっきりと自覚している。
けれども、だからこそ、その人を失ったことが耐えられない。

何かに気を逸らさないと、まっすぐに「もう三津子はこの世にいない」という事実を見据え、その上でそれを乗り越えて生きていかねばならないことに気付く。
俺の場合は自身が白血病に冒されてもいて、その病気とも闘わねばならない。
一人で。

「一人じゃない、奥さんがついてますよ。」
「みんな、白取さんのことを心配してくれてるじゃない。」
皆さんがそう言って下さる。娘たちも
「私たち家族なんだから、頑張ろうね。」
と言ってくれる。俺は幸せ者だと思う。
解る、それは有り難く、本当に心から嬉しい。
それでもこんなことを言ったら怒られるのは解っているが、他の誰の助けも心配も要らないから、あの人を返してくれ…と思うのだ。
彼女さえ居てくれたら、俺はどんなことにだって、病気にだって耐えてみせる。そうしてきたじゃないか。
癌宣告を受けて4年、何も進行なく来られたじゃないか。
それは三津子、あなたのおかげなんだよ。

こんなことを考えていては罰が当たる。解ってる、何もかも解っています。理性と知性では完全に理解をしている。でも魂が半分引き裂かれて持って行かれたこの痛みが、感情を揺り動かし、冷静ではいられなくする。

リビングのソファへ行くと、やっぱり三津子の写真を見て溜息をついてしまう。
「あなたもこうだったんだね。でもその時は俺が一緒に居て、二人で暮らしてたのにね。それなのに俺はあなたを救ってあげられなくて、あなたは一人で寂しさと戦ってたんだよね」
声に出して写真に話していると、シマが二階から降りてきた。
シマはこのところすっかり、二階で寝てばかり居るようになってしまった。そうして、俺が写真に話していると、二人で話していると思うのか、ギシギシと階段を降りてくる。俺が泣いていると傍に来て、手や膝をなめてくれる。

かつてまだ俺と知り合う前に、三津子がまだ団地に居た頃。仕事を終え、子供たちを寝かしつけてから一人冷や酒で自分を労っていた夜。彼女は一人、寂しい夜に耐えていた。そうして泣いたこともあった。
そんな時、最愛の猫であったジローが涙を嘗めてくれた。後年、そう言っては思い出しただけで彼女は涙ぐんでいた。
今はたった一人になった俺を、シマが癒してくれている。
「ありがとう、シマ」そう声をかけ、喉を鳴らす顎の下を撫でる。
「猫って、かわいいね。」写真にそう語りかけた。
シマはひとしきり、すりすりと甘えて嘗めたりしてくれた後、俺がまた仕事机に戻ると、トイレでウンコをして四方をシャカシャカとひっかいている。何とも言えぬ匂いが漂ってくる。
すっとぼけたマヌケなシーンだけど、こういうささやかな「猫のいる風景」がどれだけ癒しになっているか。もしこの猫たちが居なかったら…そう思うと「ズキン」と心臓が痛むほどに心がきしむ。

三津子いや、やまだ紫の『樹のうえで猫がみている』に、その最愛のジローのことを描いた作品が何点かある。毎朝、優しい声で俺たちを起こしに来てくれたジロー。
「もしこの猫がいなかったら
  家族がもう一枚分寂しいだろう」
           (目ざまし)

病気になって、三人で必死に看病をしたとき。
「どうかこの猫をとりあげないで欲しいと
 猫をなでながら祈った」
           (ジロー)

そして、その最愛の猫との別れ、瀕死のジローを抱いて外に出た冬の夜。
「月みた猫は
 首をもたげ瞳をくっきりと開けた
 半纏の中でしきりに尾を振り
 小さく鳴いた」
           (月みてないた)
「月みてないた」
この猫の死に、俺は間に合わなかった。当時どうしても出席しなければならない結婚式に出るため、和歌山へ行っていた。
1991年の1月6日。10時49分発のスーパーくろしお8号で白浜を出て、新大阪には1時13分着。新幹線への乗換えの時、案内で関ケ原が大雪で、米原以降30〜50分の遅れが出る、と聞いた。我々の乗るのは「こだま440号」で、結局40分遅れで東京駅に着いたのは7時頃だった。
引き出物やみやげ物を両手に提げて、山手線や地下鉄を乗り継いで団地に帰ったのは8時過ぎだった。
当時の日記にはこう書いてある。
「帰ってきてコートも脱がず、ジローの亡骸の入った段ボールの箱を開けてもらう。
氷の袋が4つかぶせてあり、それをとるとタオルの上に、ジローは、いた。
餌と好きだったベビースターラーメン、申し訳程度の花が添えてあった。
からだはかちかちで、口元には吐いたらしい血を拭いた痕跡。目は開いたままだった。
苦しかったろう心細かったろうとドッ、と涙が出る。
ジローがいつも「遊んでくれ」とせがんでいた猫ジャラシを入れてやった。」
三津子と子供たち3人は、もうさんざん泣いたのだろう。俺だけが遅れて号泣していた。それを静かに見ていた子供たちに思わず「何で? 悲しくないの?」と言ったとたん、二人とも「わあ」と泣き出した。
三津子も「悲しくないわけないでしょう、もう私たちさんざん泣いたんだから!」と言って泣き出した。
俺は自分を恥じた。そしてみんなで泣いた。

この直前、新年間もない2日の深夜…明けて3日の夜3時過ぎに、俺たち4人は外へジローを抱いて連れて行った。三津子が半纏を着込み、ジローを抱いて、月を見せたのだった。
当時のことを思い出すとやっぱり辛い、悲しいのだけど、ジローの死は時間が何とか乗り越えさせてくれた。
けれども、今あらためて『樹のうえで猫がみている』の一連の作品を読み返すと、もういけない。
ジローばかりか、もう三津子さえ居ないのだと思うと、あまりの痛みに心臓のあたりがズキンズキンと疼くようだ。
やっぱり、まだまだ辛い。
16:44
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2009-05-27(Wed)

花を贈る

5月27日(水)
夕べは家に帰ってから12時前に猛烈に眠くなり、そのまま電気を消して二階へ上がって寝てしまう。
朝方暑くて目が醒めて、何度か送風機をタイマーでつけたりしてうとうとを繰り返し、8時過ぎにテレビをつけてベッドで見る。NHKの朝ドラ『つばさ』の主題歌「愛の季節」を聞いてから起きた。
携帯を見るとゆうちゃんからメールが来ていた。いろいろ手続きがあるけど、出版関連は解らないから任せると言ってくれる。けれど任せてもらうにしても、俺の一存で決めるわけにはいかない。いずれにしても時間がないので、ちゃんと相談して決めようという内容の手紙を書く。こういう長い話はメールだと本当に伝わらないし、電話は相手にも仕事があるから拘束するし、手紙が一番だと思う。その手紙をももちゃんと2通、全く同じものを出力して封筒に入れ、投函しに出る。

外は暑すぎもせず、ちょうどいい陽気だ。ポストに2通の手紙を入れて、ちょうど遮断機が下りたので、お金を下ろしがてら違うコンビニでも行ってみるかと、高原通りを下がる。確かまっすぐ行くとローソンがあったはずだ…と思ったが、意外と遠い。しかも着いたらちょうどお昼どきで混んでいて、その上銀行ATMが無かった。結局そこからずいぶん遠回りをして、いつものうちの前のコンビニでお金をおろして買い物をして帰宅。
大学で三津子の同僚であったSさんから心のこもったハガキが届いていた。若い学生さんたちはまだまだ感性も幼い。けれど、大人になれば必ずやまだ先生の作品を理解し、その価値に気付くはずです…と。

その後面倒だったのでカップラーメンを食べる。汗だくになってしまい、午後から仕事部屋にクーラーをつけて仕事をした。それから日記をつけて、さらにブログも更新。けっこう大変だった。メールも本当にたくさんの人からいただいているが、とても一つ一つにお返事を書けないのが申し訳ない。幸い「返信は要りません」と書いて下さる方が多く、甘えさせていただく。
もう5時半になる。

夕飯は6時前に、これまた面倒だったのでセブンイレブンの海苔弁を暖め、三津子には津野裕子さんにいただいたかにかまぼこを切り、卵豆腐も小皿にあけて、ビールで乾杯する。キムチを食べると下痢をしないようなのでキムチも食べた。
ももちゃんゆうちゃんに手紙は出したが、俺はどうやら鬱傾向にあるようだと自覚している。なので、携帯からメールでそういう部分は気にしないでくれ、と送っておいた。ゆうちゃんからはすぐ返信が来て、俺にあっためるだけのハンバーグとか、食品をちょっと送ってくれたそうだ。

気が付くと、深い溜息をついて下を向くようになっている。三津子の写真をじっと眺めていると、どうしても自責と後悔の念に襲われて涙が出てくる。
これは、やっぱり鬱の初期症状だと自覚している。
若い頃、大学進学をペンディングして漫画家になりたいと主張して東京へ無理矢理出て来た。漫画家が駄目だったら心理学か精神医学を学びたかった。「ガロ」に勤めるようになってからも、数年間は神保町という「地の利」を活かして、その方面の古書を買いまくった。今でも二階の本棚一つが、丸々当時からの本で埋まっている。
だからどうということでは別にない。ただ自分をある程度客観視する、相対化して見るということは、それらの本から学んだこともあるし、「編集」という仕事に最も重要なことはそういうスタンスだと今でも思っている。なので、俺は自分が最愛の配偶者を失うという「人生最大の不幸」「苦痛」の中に居ることで、死にも等しいストレスの渦中にいるということをかろうじて自己分析出来ている。
そのことが、本格的に鬱の淵へ引きずり込まれないのではないかと、それが慢心にしても、そう思っている。

その後ビールは控えて、ずっとニュースをはしごした。それからついさっき、ネットの「花キューピット」で三津子にひまわりなどの明るい花束を注文した。「俺から、三津子あて」というかたちでうちに届くのも変だけど、今まであの人に花を贈るなんてしたことが無かった。ずいぶん昔、誕生日だったか何かで渡したことがあるような気もするけど、覚えていないくらいだから、ずっと無かったということだ。
ひどい亭主だったと思う。
ほんとうに、死んでから優しく愛情をストレートに表現しても遅いとは思う。思うから余計に、せずに居られない。22:12
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2009-05-26(Tue)

焼き肉を食べた

5月26日(火)
夕べは三津子にだらしのないところを見せて、叱られたあとも、写真と差し向かいでビールを飲んでいた。
その間ずっと喉に何かがつかえている感覚があって往生した。肉じゃがのじゃがいもを咀嚼してご飯の塊よろしくゴクン! と勢いよく嚥下しても、何かを食べたり飲み下しても、ずっと消えなかった。ひょっとしたら顎にあるリンパ節が腫れて食道を圧迫しているのかと思うほど、違和感がずっとある。
結局そのまま12時前に薬を飲んで寝た。

今朝は7時過ぎに起きた。夜中2時半ころ、5時、6時…と目が醒め、5時以降は寝たり醒めたりの軽い眠りだけだった。夢は見なかった(見たのだろうけど覚えていない)。

朝起きた時から喉が多少いがらっぽい。
夕べの喉の違和感はこれの前駆症状だったのだろうか。喉風邪でも貰ってきたんだろうか、あれほど用心していたのに…。洗顔の際にイソジンうがい薬で念入りにうがいをする。そして吐きそうになった。どうもあの「味」が喉の奥に拡がるのは気持ちが悪いというか、慣れない。

外はうす曇りで、ニュースによればこの後京都や大阪は夏日(25℃以上)になるという。
猫たちのご飯を入れ水を取り替えて、洗い物をした後ほうじ茶を二人分淹れて、三津子に「はい、お茶だよ」と声をかける。線香を立てて手を合わせる。
念のため体温を測ると、35.8℃。起き抜けの自分の体温は、4年前に病院に40日間入院した時にちゃんと把握している。これは平熱だ。これから日中、36.5℃で止まれば大丈夫。一応念のためと気休めに市販の総合感冒薬を半量飲む。
それからベランダを開けて、苔や草に水をあげたが、この時間だとまだ15〜16℃といった気温で、涼しい。8:39

その後、ももちゃんから夕べ二人に送った『アサヒグラフ』掲載の画像を見たとメールが入って、他愛のないやりとりを2回ほどする。「みんな若いね」とか。本当に、みんな若かった…。

それから香典のお返しに、三津子の性悪猫の中の猫をモチーフに何か作れないかな、と考えた。香典返しというと月並みなハンカチやタオルなどがあるけれど、もし俺がそういうオリジナルのものをいただいたら、絶対に使えないと思う。洗ったりすると劣化していき、やがては捨てなければいけなくなる。だから、使えない。
使えないということは、死蔵されるということだ。それも悲しい。もうちょっと身近に持っていただけて、バッグにぶら下げてもらったり、携帯に付けてもらったりして貰える物はないかな、と探す。10:37


11時ころ、オーダーしておいた額縁類が届いた。なぜか落ちて割れてしまた、三津子が描いたジローの油絵を入れるF0のキャンバスが入るやつと頼んだのだけど、肝心のF0は品切れで、B4の原画を入れられるものやA4の書類が入るフレームだけ。何かの掲載誌のページを見開きにして飾ろうかと思ったり。原画はバラバラにしたくないから、一枚ものを入れようか、などと思って買ったものだ。とりあえず、試しに「TBS調査情報」の見開きを額装してみる。なかなか立派に見えて嬉しい。

思い出して体温を測ると、平熱だった。良かった。
昼過ぎに昨日スーパーで買っておいたパンを1つと、総菜屋のクリームコロッケ、カップスープを食べた。今日は夕方明青さんの渡辺さんご夫妻が焼き肉に誘って下さっているので、軽く済ませる。12:19



19:36
5時10分に近くの交差点で渡辺さんたちと待ち合わせだったので、5時前に支度をする。
食器棚にしまってあった、5cm角くらいの二段重ね・蓋付きの陶器をエアキャップで包み、袋に入れて出る。これは三津子と二人で錦小路を散歩した時に陶器屋で見つけたもので、白地にえんじ色でシンプルな梅模様が描かれている。三津子がお気に入りで、正月やちょっと気分のいい時に、小さなおつまみを入れてにこにこしながら使っていた。これを、明青さんのお店の隅にでも置いてもらえばと思う。

絵も人に見てもらうもので、死蔵するものではない。
陶器も、使って貰って生きるものだと思う。

交差点へ向かうと、遠目に見ても旦那さんが立ってこちらを見ているのが解る。5分前だったが足早に行こうとするのを、おかあさんが手で静止してくれる。明青の旦那さんとお会いするのは一ヶ月ぶりだ。三津子が倒れたのが4月25日の夜、明けた26日だ。その少し前の22日に夫婦二人で伺っているから、旦那さんとはそれ以来ということになる。
その旦那さんがにこにこ笑いながら「先生、ずいぶん痩せたんじゃないですか?」と言われる。
「少し頬がこけましたよ」とも。そうだろうか、自分ではよく解らないが…。
おかあさんは「お店はね、お二人の行ったことあるところだと辛いかなと思って。私らも初めて行くんよ。」とのこと。お店のお客さんか知り合いの若いご夫婦が開いた店だという。
ちょうど通りかかったタクシーを拾って、昨日開店だったという焼肉店へ向かう。場所は俺もよく知っているところで、叡電の踏切のすぐそばだった。開店直後だけあって花が外にいくつか置いてあって、まだ暖簾も出ていない。
おかあさんが「あれ、開いてへんね。5時過ぎって言うたんやけど」と呼び鈴を押すと、しばらくして慌てて店主の男性が降りてきた。「すんませーん、もう仕込みが全然間に合わへんくて、もう大変で…」といいながら暖簾を出す。「いやいや、こっちが早かったんで、すみませんね」と明青の旦那さんが頭を下げ、店に入れてもらった。
オープン間もないせいか予約が入っていて、5〜6人用のカウンタになるという。上がり座敷のテーブルは2つとも予約済みで、隅の丸いちゃぶ台なら…と言われて、「じゃあそこでいいですよ」と言うことになる。

俺は三津子の写真を入れた小さな額を持って行ったので、それを3人に向けてちゃぶ台の上に立てる。お母さんがビールを3つオーダーしてくれたので、ビールが来てから三津子用に冷酒を一つ頼んだ。
明青の旦那さんが「ああ、そうでしたね…。」と言ってビールのグラスに出しかけた手を引っ込められたので、
「いや、この人が生きてたら『泡が消えちゃうから先にやって』って言うと思いますよ」と言うと、「そうですね」と言って「じゃあ、献杯!ですね」とグラスを合わせた。
冷酒がすぐに来たので、ガラスのおちょこをいただいて注ぎ、写真の前に置いた。
旦那さんにオーダーはお任せして、キムチやカクテキをつまみにしつつ飲む。
おかあさんは「白取さん、これからどうするの」と心配していただき、「まだ決めてないっていうか、決められなくて」と言うと「あそこにずっと住めるんやったら、引越やら体力のこと考えてもその方がええと思うんやけど、もし出るんやったら、もう今から動いてないとあかんよ」とのこと。
京都は特殊なところだから、敷金礼金とかじゃなくて「保証金」というところが多い。当然ながら保証人も必ずいる。その上「ペット可」なんて、賃貸ではほぼゼロだ。それは一昨年俺たちがどれだけ苦労したか、探し回ったことでよく知っている。そして今住んでいるところがどれほど奇跡的な環境なのか、京都の人も聞くたびに皆さんが驚かれる。
「やることいっぱいあって、これから部屋決めて引越だって、8月なんて絶対無理やわ。健康な人かて大変やのに。今のとこ住めるんやったらそれが一番やと思うし。」と。
俺も自分で、もう一人で8月までに全ての作業…つまり原稿や作品の整理をしつつ、不要なものの処分をし、さらに新しいところを不動産屋を探して歩き、見せて貰ったりしつつ決めて、それから引越の算段をする…ということが、とうてい間に合わないことに気付いている。
ご夫妻は
「保証人やら何やら、誰もこっちにおらへんし来てくれへんのでしょ、私たちお金は出せないけどそういうんやったら何でも力になるから言うて!」と言って下さる。
ありがたくてまた涙が出た。
明青さんのご夫婦はお二人とも、関東のご出身で、こちらに誰も身よりも知り合いもない状態で来られた。そのことは俺たち夫婦と同じで、それだけに、たった一人遺された者の辛さを考えて、色々と親身になって下さる。その有り難さが身に染みる。
ぶっちゃけた話、生活の方は大丈夫なのかとか、いろいろ親身になって話をしていただいた。
途中いかんと思いつつも、三津子の話になるとどうしても何度か涙が出た。それをおしぼりで拭くのだが、そのおしぼりさえおかあさんがお店に頼んで下さった。真ん中の落ち着かない席で、ビールが空けばオーダーして、こちらの開いたグラスを下げてと、本当に気を使っていただいて、申し訳ない限りだ。

久しぶりの焼き肉は美味しかった。
タン塩、キムチやカクテキ、もちろんお肉やホルモンも。焼き肉なんて、だいたいが一人で行くものではない、ましてや愛する妻が死んで一ヶ月、一人で焼き肉をバクバク食えるわけもない。普通のご飯だって、写真と差し向かいで話しかけながらようやく食べている。
お二人はきっと俺がそういう状態で、毎日寂しくつまらん食事をしているのだろう…と思って案じていただいて、誘って下さったのだ。
三津子にもお酒と陰膳をあげて、思い出話もした。
明青の旦那さんは三津子の写真をちょっとさすって
「先生、またお会いしましょうやぁ」と声をかけて下さった。旦那さんは笑顔だったし、俺も笑顔で頷いたものの、「俺もね、また逢えるような人間にならなくっちゃ…」と言うとすぐにまた涙が出てしまう。

俺たち夫婦と同様、明青さんが好きでよく来店されていた老夫婦がおられた。俺たちとは会えば挨拶を交わし時々簡単な会話はしたものの、それほど深いお付き合いはしていなかった。けれどそのご夫婦が俺のことを心配されていたということも伺った。けっこうご年配の上品なご夫婦で、俺たちと同じようにいつもお二人でカウンタに座って、静かに飲んでおられた。三津子の絵も褒めて下さったとも聞いた。三津子も喜んでいると思う。
何度か泣いてしまったけれど、久しぶりに外で楽しく食べて飲んだ。思い出話も出来たし、嬉しかった。
5時過ぎから早めに入れていただいて、7時半近くまでゆっくり食べて飲んだ。
まだ完全に暗くなる前の道を東大路までそぞろ歩いて、タクシーを拾い、途中でお二人を下ろして、手を振って別れた。「また行きましょうね」と言って下さった。心から、お二人に感謝した。

セブンイレブンで明日の朝食分や切れていたゴミ袋などをを買い、帰宅すると7時半ころ。
ポストを覗くとももちゃんから書類と、「TBS調査情報」のKさんから手紙が来ていた。この本に掲載された三津子の原稿がきっかけで、去年「Inter BEE (国際放送機器展)2008」のシンポジウムと基調講演に招いていただいたのだ。
今日の昼間、届いた額に掲載誌の見開きを入れてみようと思い、「TBS調査情報」に掲載された三津子、やまだ紫の見開きページを額装したばかりだった。不思議だな…と思ったが、偶然などこの世にはあり得ないのだったと、すぐに思い直した。
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2009-05-25(Mon)

叱られる

20:33
その後仕事をしてネットで調べ物をしたりしていて気が付いたら7時になっていた。慌ててリビングへ戻ってテーブル上の三津子に「ごめんね、待たせちゃって。ごめんごめん」と言いながら、朝のお茶とウコンドリンクを下げて、買っておいた総菜などで晩酌の支度をした。
餃子と肉じゃがをレンジで温め、餃子は油をちょっとだけひいたフライパンにかける。オクラのごま和え、マカロニサラダはそのままテーブルへ。写真に「先にやっててね」と言ってぐいのみを置いて「花の舞」を注ぎ、チェイサーのウーロン茶のコップに氷を入れて隣へ置く。肉じゃがは器に移してテーブルに並べ、取り皿に箸を置く。餃子はジュウといったところで水を少量注いでフタをして、しばらく蒸す。一度焼いてあるやつなので、冷蔵庫から出して暖めただけでもいいのだけど、この方がうまいから…。
その間に自分しか食べないキムチを皿に移して、餃子を器に盛り、ビールとタンブラを持ってテーブルへ。いつもは二人で分担し、絶妙の呼吸でアッという間に「晩酌の支度完了」という格好だが、今は一人だ。
でも二人でそうしていたように、「お疲れ様」とビールのタンブラをぐい飲みに軽く当てて、二口三口飲んでから「おいしいね!」と写真に必ず言う。
こうすることで、夜を何とか乗り越えられている。

NHKハイビジョンで道具を使う猿の話を見る。こういうものは二人とも大好きで、録画したものが我が家には山ほどある。今はそれを見て感想を話す相手もいない。それでも写真に向かって話しているうちに、やっぱり今日の手紙の話になった。
Tさんの旦那さん亡くなってたんだって。辛かっただろうね。「相棒」を失うなんて、経験の無い他の人には解らないんだよな。どれだけ悲しかったか、辛かったか…。
桑原さんの奥さん、立ち上がって歩けるまでになって。年賀状で歩いている写真を見て、二人で本当に涙が出るほど喜んだよね。
…俺も、君が命さえ助かれば。…そう思ったんだ。
でも、駄目だったね。
桑原さんの奥さんが助かったのが運命なら、君の死もまた運命なんだろうか。
何て残酷な運命だろうね…。

そんなことを話しかけながら飲んでいると、泣けてくる。

あなたは俺のことを滅多に泣かない人だとずっと思ってきたでしょう。
でもね、感動的な映画やドキュメンタリでもニュース映像でも、「ああ、いい話だな」「良かったな」と涙が出そうになるのをグッと堪えて、いつも先に泣いているあなたを見て誤魔化していたんだ。
そういう時はいつも、君の顔をちらっと見るとあなたはもう駄目で、「すんすんすん」と言って目頭を抑えてさあ、「こっち見るからでしょう!」ってティッシュぶつけて来たよね。
あなたはひょっとしたら、俺はそういう人間だから自分が死んだ後、まさかこんなにずっとメソメソしてるとは思わなかったでしょう。
だから、先に逝ったんでしょう。
でもさ、メソメソするに決まってるじゃないか!
人生でこれほど、こんなにも辛いことって他にあるかい?
どんなひどい目に逢っても、嘘で傷つけられたり騙されたりしても、それでも我が家に帰ればあなたが居て、ニコニコ笑っていてくれた。
そのことで、俺はどうにか生きて来られたんじゃないか。
どんなに辛くても、君さえ居てくれたら。
…でももう君はいないんだよね。

これ以上あなたに「助けてくれ」だの「守ってくれ」だの、甘ったれたことを言ってちゃいけないと思う。
だってあなたはずっとずっと頑張って頑張って「正しく生きてきた」人じゃないか。こんな世の中で「正しく生きる」ことがどれほど大変なことか、お互い傍に居て本当に痛いほど良く知っているよ。
だからこそ、あなたが俺の傍に居てくれたことで、どれほど勇気づけられ、助けられたことか。
でももう、正直を言うと、これから先あなたが居ない人生を一人で歩く自信がない。
そんなに弱いひとだったの、というあなたの声が聞こえるようだけど。
あなたがどんなに麻痺が残ろうが、意識不明のままだろうが、生きていてさえくれれば。
それだけで俺は生きる力になったんだ。
でも、もう力が出ないんだよ。
いっそ死んでしまう方が、って思った瞬間もあった。だってその方法は知ってるから。
まずあの薬を大量に飲んで、それから…

そう言った瞬間に、「バターン!」と凄い音がして、水を飲んでいたシマが吹っ飛んで逃げて来た。

俺は思わず「ごめんごめん。もう言わない」と写真に謝った。
立って調べに行くと、猫のご飯と水飲み場の右斜め後ろに立てかけてあった、油絵(…ずいぶん前に三津子がある方からいただいたもの…)の額が、バッタリと倒れていた。
角度は壁側に傾けてあったし、たいたいもう十日か二週間以上そうしてあったものだ。誰も触っていないのに、なぜマイナスの角度から、手で引き倒したように倒れたのか。
その額を戻しながら、あり得ない話・勘違いなどではない、今現実にこれが起こったということの「意味」をもちろん俺は理解していた。

三津子が怒って
「何バカなこと言ってるの!」
と知らせてくれたのだ。

もちろん、仮に俺がその方法で安楽に死んだとしても、二度と三津子の傍には行けない。違う道を延々と歩いた挙げ句、三津子と来世で添い遂げるどころか、全くすれ違いも出来ない世界へ行くのだろう。
そのことも、知っている。
「ごめんね、もう言わない。もちろん俺はそんなことはしないよ」
と言って写真に向かって謝った。

三津子の声は聞こえないし姿も俺には見えない。でも、居てくれるんだということが、はっきりと解った。
そのことを知らせてくれたんだと思うと、有り難くてまた涙が出た。
20:52
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2009-05-25(Mon)

二通の手紙のシンクロニシティ

5月25日(月)

夕べは12時半ころ就寝、シマをなでているうちにすぐ寝られた。ユキは寝るときに「ほら、おいで」と手話で一旦上へ誘導したのに、またすぐ下へ降りて行った。まずいなあと思っていたがこの日「夜泣き」はなぜかしなかった。
朝は8時前に目が醒め、うつらうつらして9時ころ起きる。今日も仕事がある。こんな時代に仕事があるということに感謝しなければ、しかも自宅でできるという幸運にも。
朝はおにぎり2つをウーロン茶で食べた。今日は薄曇り、午後からは日が射すらしい。

仕事をしていると1時過ぎ、旧知のライター・神田ぱんさんから電話があった。三津子を悼み俺の体を案じる手紙を書いているうちに、電話した方が早いと思ってかけてくれた。10分少々話しただろうか、ぱんさんは俺が病気になったときにはお見舞いをくれ、今回も香典を送っていただいた。お子さん二人を抱えて何年か前に離婚されたのは知っている。そちらこそ大変でしょうに申し訳ありません…と感謝。何か手伝うことがあったら言ってくれれば手弁当で行きますよ、とも言って下さった。お気持ちだけ、有り難く…と話す。

その後仕事を一段落させ、BSでヤンキースが負けた試合を見て、1時半ころ着替えて外に出た。タクシーを拾って左京区役所へ行き、住民票と印鑑証明を貰う。すぐ外へ出ると青空が出ていて、暑い。通りかかったタクシーに手をあげ、近所の交差点で降りて、今日の晩、明日の朝の弁当と総菜を買って帰宅。すぐに手洗い、うがい。
うちでは俺が白血病で入院した後、マスクは50枚入りのサージカルマスク(不織布)を3箱ずつ買って常備してあったのがほとんど一箱残っている。消毒用のエタノール溶液ボトルも家の各所に欠かさず置いてあって、今回のインフルエンザ騒動でもひとまず防疫体制(というほどではないが)は整っていた。
マスクをいつも買っていたサイトを覗くと「品切れ」で「入荷未定」とあり、別な大手のサイトでも割高な小分けされたもの以外は全滅だ。これでは本当に罹患した人がつけられないのではないか、と余計な心配をする。

今日は『コスモス短歌会』の桑原さんからお手紙と香典、中央公論新社のTさんから手紙が来ていた。それと本当に色々とやることがあって、途方に暮れるとはこのことだ。そうして家の中は全く整理がついていない。掃除すらたまに床にモップをかけ周辺をハンディ掃除機で吸う程度で、ほとんど出来ないでいる。病人がたった一人なので重いものの立ち運びがしんどいというのもあるが、やることばかりに気があせって、結局何かをして一段落すると全く動けなくなる。そうすると悲しみに襲われる。

中公のTさんは『BlueSky』連載当時「婦人公論」の編集部にいらした方で、やまだ紫がエッセイや連載にとずいぶんとお世話になった方だ。そして夫婦でずいぶんとご無沙汰もしていた。
実はTさんは3年前にご主人を病気で亡くされたと、その手紙で知った。
お互いケンカや行き違いはあったが、ずっと身近にいた気の合う「伴侶」を失うという喪失感と虚無感は、いまだに消えないという。もちろん周囲の方々のお力や励ましがあって、何とか普通でいられるようになったのだと思う。けれど明るくなったねとか、元気になって良かったと言われても、本当の心は自分しか解らない。

「多分ずっと、この『つまらない』気持ちを抱えていくのだと思います」

…本当に、その通りだと思う。

二人で見たり聞いたり食べたり笑ったり泣いたりケンカしたり…。
ごく普通に、お互いがお互いの傍に居た、あの時間。
底の深いところでしっかりと手をつないでいた最愛の人の手が、離れていく。

俺も「しっかりしなさいよ」「元気だせよ」「いつまでもメソメソしてんな」と言われるのが、実は一番しんどかった。
今でも正直言うと、苦痛でしかない。
人生で最大最悪の悲しい出来事があって、たった数週間で立ち直れるはずがあろうか。だけど自分以外の人には、例え身内であったとしてもこの喪失感、孤独感、そして虚無感は解ってもらえないと思うから、しっかりしているように、元気を出しているように、メソメソはしないように、頑張って見せているだけだ。
親兄弟には申し訳ないが、これほどまでに大きな絶望と虚無感は、生涯でもう二度とないだろう。
なぜなら、人生の半分以上を、二人三脚で一生懸命生きてきた「連れ合い」を失ったからだ。最愛の伴侶を失うということは、俺にとっては自分の死よりも辛く悲しいことだ。

自分が癌宣告を受けて入院した時に「死ぬのは嫌だ」と思ったのは、俺が死ぬことそのものを言ったのではない。連れ合いつまり三津子を一人残すこと、つまり半身をもぎ取られた苦痛に、彼女が残りの人生ずっと耐え続けなければいけないこと。そのことが溜まらなく辛かったからだ。
俺たちは一心同体という言葉ですら陳腐なほど、深いところで結びついていた。
だからたぶん、この先もカラ元気を出して時には笑顔を見せなければならない場面がたくさん来ると思う。けれどもそれはそうやっていくしかないから、そうしないと生きられないから、そうするのだと思う。


『コスモス』の桑原正紀さんの奥様は、何年か前に突然脳出血で倒れられた。不幸中の幸い、重度の麻痺が残ったが、何とか夫である桑原さんの愛と支えによってリハビリを続け、何と今では車椅子から立ち上がって歩けるまでになった。
奇跡の回復だ、と思った。
今年の年賀状には、その写真が使われていて、俺たち夫婦は
「良かったねえ、ご主人大変だったろうに、でも通じたんだね」と言って二人で喜び合った。
その時三津子は「ちかおがもし倒れても、私がオムツ取り替えてあげるからね」と言ってくれた。言いながらもう涙ぐんでいた。俺も同じことを返したが、「でもあなたの場合なら軽いから俺はいいけど、俺の介護をするのは大変だよ…」と軽口を叩いたと思う。
介護さえ、させてくれなかった。

もう五年以上前になるだろうか、桑原さんとは、三津子…やまだ紫の連載の話で一度、夫婦同士4人でお会いしたことがある。故・宮柊二氏主宰の「コスモス短歌会」の会誌『コスモス』に、ぜひ連載をお願いしたいと言って下さった。創刊50年、日本最大の会員数を誇る短歌会に「認めていただいて嬉しい」と三津子は喜んでお受けすることとなった。桑原さんも「やまださんの『ことば』は漫画の世界だけでなく、詩や短歌の世界にも通じると思います」と言って下さり、俺も嬉しかった。
その時桑原さんご夫妻が、三津子と同じ昭和23年のお生まれだと伺った。桑原さんの奥さんの房子さんは、当時ある高校の校長先生をされていて、三津子は「先生、というオーラが出てる方ですね」と言っていた。「同い年とは思えないくらいしっかりしてらして」とも言っていた。「そうでもないんですよ」と奥さんは笑われた。
楽しい酒席だった。
その奥さんが、数年前に突然脳出血で倒れ、一時は寝たきりになると言われた。ご主人が懸命の介護を続けられ、リハビリを根気強く助け、そうして、立ち歩けるところまでこぎ着けたのだ。

同じ年齢で同じ脳出血で、桑原さんの奥さんは絶望的な状態から驚異的な回復をされた。

三津子の場合は…。

三津子が倒れた後、俺が手術を強く望んだのは、この桑原さんご夫婦のことを知っていたからに他ならない。

突然倒れた衝撃、絶望、悲しみ、苦悩…そんな中から、ほんの少しの希望を見つけ奇跡を信じて、必死で支えて来られた桑原さん。その様子は毎年年賀状やお手紙でお知らせいただいていた。
ご主人の正紀さんの歌集『妻よ。千年待たむ』は、そんな状態でも妻を愛し支え続け、小さな変化に喜びを感じる夫婦愛で、俺たちも読ませていただき、涙した。

俺も、命さえ助かってくれれば、どんな状態になっても絶対に介護してやる、奇跡を信じて。
あの夜、そう思った。
そう思う、そうするのが当然の努めだったと、今でも確信している。

桑原さんの手紙はそう言って下さっている、と思った。
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2009-05-24(Sun)

四人の写真

5月24日(日)

夕べは12時半ころ床に就くが、暗い中三津子に話しかけていると全く眠れず、2時過ぎにようやく寝られた。今朝はそのせいか9時ころ目が醒め、起きたのは10時ころ。それから洗い物などをし、朝昼兼用でポトフを温めて食べた。その後BSでメジャーリーグを見ていると宅配が来る。注文しておいた、三津子の原稿を整理するための角0封筒に、やまだ紫の名や原稿タイトル他の項目を書き入れる印刷をしたもの。しかし納戸、一階の押し入れ、二階の押し入れなどに分散した近年の原稿や原画を整理するには、病人一人では重労働。少しずつやるしかない。俺しか居ないのだから。
今日はうす曇りに時折日が射す感じで、過ごしやすい。13:38

2時過ぎにマスクをして自転車で近くのスーパーへ買い物に出た。マスクをしている人は店員が100%、客では2割弱程度だろうか。まず生活用品売り場へ上がり、三津子の写真周りを飾る花瓶を探す。食器やタンブラー類はあるが、花瓶が見つからない。仕方なくレジへもう一つの買い物であるフライパンを一つ持って並ぶ。うちのフライパンはコーティングが剥がれていて、簡単な炒め物はおろか目玉焼きすらくっついて出来ないので、新しいものを買う。
それから店員に「花瓶売り場は何回ですか」と聞くと、そこにあると言われ、行ってみるとさっき見たところだった。普通に十種類くらいあった。うちにある花瓶は大きなものだけだったので、玄関に飾ってある。写真周りのテーブルに置くための小さめのものを一つと、一輪挿しを買った。それから額縁を1つと釣り下げ金具を買い、1階で今日の夕、明日の朝・昼のものを買って、ヒイコラ自転車を漕ぐ。最後はセブンイレブンで朝のパンの時に飲むコーヒー牛乳を買って帰宅。2時40分、汗だくになった。これしきのことで…と思うが膝にコブのようにあって時々腫れるリンパ節が邪魔なのと、やっぱり引きこもり気味なので萎えてるのだろう。
マスクを捨て、手を入念に消毒してから、花瓶を洗って花を生けた。
毎日、こうやって三津子の写真の周りの花を生け換えている。大きな花束をそのままズボッと玄関の大きな花瓶に生けるのはどうにも不細工なので、少し間引いて、写真の周りに飾っている。しかし花瓶が足らず空き瓶を使ったりしていたが、それではあんまりだと思って花瓶を買った。これでまた、写真周りが少し華やかになった気がする。花が好きだったから、花で囲んであげたい。

その後夕方は5時過ぎに三津子に酒をあげて、こちらはしばらく相撲を見る。
日馬富士が1敗で念願の初優勝。今日は国技館にお母さんが来ているとのことで、嬉しそうだった。確かこの力士はお父さんを亡くしている。母親を尊敬し、愛している、だから母親のために…とはっきりいつも言っている。
三津子の写真と顔を見合わせて、そっと手を叩きながら「良かったねえ」と笑顔を向けた。少し目頭がジンと熱くなった。
三津子は元々涙もろい人で、人が泣いているとよくもらい泣きをしたり、映像を見てもそうだった。俺は男が人前で涙を見せるのは恥ずかしいと言われて育った(父親がいないということで、そのことだけでずいぶん泣かされてきたが、相手を負かすか泣き止まないと家に入れて貰えなかった)。
けれど三津子を失ってから、些細なことで涙が出る。スポーツニュースを見ているだけなのに、日馬富士が目をうるませて母に感謝しているというのを見ただけでこちらも胸が熱くなる。車椅子テニスで日本のトップ選手がプロ転向したという話で、彼がどれだけ苦労し頑張ったかを見てやっぱりジーンとする。ソフトボールで日本に負けたアメリカの中心選手が日本に学びたいと言って来日し、チームメイトと友情を育み、「次は勝って恩返しをしたい」というようなことを聞いてはまた…。
ももちゃんもゆうちゃんも、三津子が倒れた後うちに来てくれた時に、俺が泣いたところを恐らく初めて見たのではないか。それくらい、家族の前でもあまり泣いたことはなかった。テレビなどでこちらが少し感動でジンとする場面を見ても、まず三津子を見るともう泣いているので、こちらは「泣いてるね」と言って誤魔化したりしていた。
何だかあの人の魂が乗り移ったみたいに、涙もろくなっている。


その後7時過ぎ、三津子のお姉さんから電話があった。
東京で行う四十九日の法要の打ち合わせと、その後大丈夫ですか、という話。お姉さんはやっぱりたった一人の妹だったから、やっぱり寂しそうだ。ばーちゃん(三津子の母)は先週からようやく勤め先に顔を出せるようになったという。家に居ると思い出して辛いから、その方が気が紛れると言っていたそうだ。
身内には「葬儀済みました」の挨拶状は送っていなかったが、お姉さんは先日ゆうちゃんが三津子の遺骨を納骨まで保管するために取りに来た時、見せてもらったという。その時同梱した絵はがきと、三津子の写真の額を作って、お姉さんに送ることにした。ばーちゃんは思い出して辛いから写真もいらない、と言っているという。
俺の場合はあの人の写真が無いと駄目だ。もし写真が無かったら、そして猫も居らず完全に一人だったら、正気を保っていた自信がない。

時折、自分はなぜこんなに詳細な記録をつけているのだろうかと、またも疑問に思ったりする。

もちろん三津子が倒れて、彼女の声を聞けなくなってもう一ヶ月が経とうとしているから、話し相手の居ない寂しさと、自己を相対化することで悲しみを一時でも忘れようという意味で、向き合っていることは理解している。それにしても、何かしていないと駄目になってしまいそうで、まだ怖い。

お姉さんの電話を切った後、こちらは精華大に油彩画を寄贈した時に一緒にお渡しした額と色違いのものを取り出した。横長に円形の窓が3つ空いているオシャレな額で、それに入れるよう、デジカメや原画の画像を探した。
デジカメの画像は2000年代に入ってからのものなので、それ以前は昔のアルバムを見なければならない。一番の「近影」は今年に入ってから白浜や奈良を回った旅行よりも、京都転居から半年ほど経った、府立植物園でチューリップをバックに微笑んでいるものが、やっぱりあの人らしい。
お姉さんにしてみれば、京都へたった一人の妹が引っ越してしまった「後」のものより、少し旧くても俺たちが元気で仲良く暮らしていた写真がいいかなと、押し入れを探った。

「アルバム」と書かれた段ボール箱が一番上にあって、開けると俺と三津子が暮らし初めて数年経った頃のアルバムが出て来た。
二人で写っている写真も何枚かあるが、やっぱりベタベタしたものはなく、離れて立ったりしている。しょうがないなあ、と苦笑する。
アルバムをめくっていって、一番最後のページを見て「アッ」と声が出た。
そこには、俺たち夫婦と二人の娘が四人揃ってご馳走を囲んでいる写真が貼ってあった。
これは『アサヒグラフ』に掲載された際、プロカメラマンに撮っていただいたものの紙焼きで、ずっと探していたやつだった。団地の近くに仕事場を作って、ほぼそこに夫婦の生活がシフトしつつあったあたりだから、おそらく15年ほど前だと思う。巻末のカラーグラビアページに「我が家の食卓」というコーナーがあり、そこに掲載したいということで、当時の仕事場の近くにあった和食割烹の座敷で撮影されたものだ。
団地も仕事場も、撮影で人様に見せられるような部屋など一つもなく、外食を撮って貰うという苦肉の策だった。
写真の中で豪華な料理(お店が紹介されると聞いてフンパツしてくれた)を囲む俺たち夫婦はまだまだ若く、ももちゃんもゆうちゃんも化粧をして大人びた格好をしている。まあ色々なことはあったけれど、みんなそれぞれ笑っている。
幸せな「団欒」がそこにあった。

その写真は粘着性のある台紙に貼って、上から透明なフィルムをかける形式(…つまり「フ○ルアルバム」)に貼り付けてあるものだ。このアルバムは自由にページを増やせて、いちいち糊やテープなどを用意せずとも、アルバム台紙と透明フィルムの間に写真を挟めばいいというもので、一時期ずいぶん流行ったものだ。けれど今は、その大切な、唯一と言っていい四人の団欒の写真は、剥がそうとすると写真が剥離せんばかりにキッチリと張り付いている。恐らく無理に引きはがすと、写真が壊れてしまうと思う。
なので、フィルムをめくり、写真台紙ごとスキャナーで取り込んだ。
そうして三津子がチューリップをバックに微笑んでいる京都での写真、『樹のうえで猫がみている』でジローを描いたイラスト、それから『アサヒグラフ』に掲載された写真をトリミングして、プリント、額装した。
それを送る梱包の前に、宅配便の集荷依頼をして、それから仕事のデータが入っていたのでまずそれを片付ける。データを転送している間に、お姉さんへの額装にエアキャップをかけて、さらに保護をし、ポストカードと近況を伝える短い手紙などを添えて、梱包した。23:38
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2009-05-23(Sat)

ベランダに猫を出す幸福

5月23日(土)
夕べはビールを飲んだあと、DVD『ザ・デイ・アフター・トゥモロウ』を見る。それからニュースを見て二階へ上がると薬を飲んだせいか割合早く寝られた。朝は6時頃から何度も目が醒め、悶々としつつ9時過ぎまで。
今日は曇り空、しかし気温は上がるという。トイレ・洗顔、それから三津子のお酒や箸、皿などを片付け台所で洗い物をして、新しいお茶をあげる。こちらは『ウコンの力』にザイロリック錠。
BSで松坂大輔がDL明けの当番試合(NYM戦)を見ながら文春を拾い読みしていると、役所広司が初メガホンという記事があった。何気なく読んでいると、最後に
「親しい人を亡くした悲しみも、彼らがどこかで僕たちを見守ってくれていると信じ、その人のことを思い出し続けることで、乗り越えていける気がします。」
と発言している。
もちろん映画の中での話…家族との絆を再生していく課程で、ユーモアを忘れないこと、また災害にあっても自分を保持することのできる日本人の美意識を語る…という文脈のインタビュー中の最後の話。
たまたま「ちょっと可愛い」とか「イケメン」とか、あるいは事務所が大きかったとか親がタレントだったとか、何でもいいけれども、ひどい脚本のドラマに出ただけで「役者」を簡単に名乗る者も多い。けれど先日のトム・ハンクスしかり、役所広司しかり、年齢に関係なくこうしたある種の「クレバーさ」とか「敬虔さ」を持っているかどうかが役者の演技の幅や厚みにつながると思うし、つまりは結局「役者」というものもやはり「人間」ということにつながるのだと思う。

「いい編集者とは、いい人間のことです。」

やまだ紫がジャナ専(日本ジャーナリスト専門学校)に来て学生の質問に答えて、こう話してくれたことを思い出す。
その後洗濯をしてシャワーを浴び、ベランダの草木に水をやる。今日は曇りかと思っていたら、おだやかに晴れたいい天気になった。猫たちもベランダの日だまりに出て来てじっと下を見たりしている。

東京に居た頃から、こうしてベランダで自由に猫たちを遊ばせるのが俺たち夫婦の「夢」だった。
一緒になってからずっと暮らしていた団地では、犬猫の飼育は禁止されていた。禁止されているけれども飼っているお宅はたくさんあった。そうして中には面倒見切れずに捨てる、無責任な住人もたくさんいた。
犬猫とはいえ野性の本能を知らずに愛玩飼育しようと思っても無理だ、すぐに発情し大変な騒音をまき散らすことになる。その程度のことも知らずに野放図で乱暴で自分勝手な「飼育」をしようとして、途中で簡単に放棄する。
そういう不幸な野良猫が団地の下にはけっこういて、同じ団地内や近隣のボランティア的な人たち…その多くは「猫おばさん」という中年以上の女性だった…のネットワークのようなものが自然発生的に出来た。「ルール」「規則」を持ち出して保健所を呼べ、つまり「皆殺しにしろ」という声も、実は多かった。深刻な騒音や糞害に悩まされている人の気持ちも解らないことはない。
けれども、元々は大雑把で無慈悲な人間が放り出した犠牲者たる小さな生き物たちを、ただゴミのようにかき集めては殺せばいいというものではないだろう。
ネットワークといっても何の組織もない、近隣の「猫好き」のボランティアたちは、自然にお互いの顔や名前を覚え、行き来するような関係も出来上がった。友達というほど強くもなく、単なる顔見知りというほど弱くもない、しかし「事あらば」ツーカーで動ける間柄だった。
三津子とよく話すようになったMさんという「猫おばさん」は、「また団地に捨て猫がいたのよ」と、報告してくれるようになった。もっとも、見に行けば可哀想で捨ておけないことは解っている。自分の家つまり団地の狭い部屋で3匹もの猫を「こっそりと」飼っていた我が家では、これ以上は無理といって、避妊や去勢手術の費用を寄付したりするにとどめていた。
もちろんその後、猫たちは順番に寿命が尽きていき、その後今我が家にいる二匹のうち耳の聞こえないユキの方は、やはりこのMさんから「貰ってくれないか」と頼まれて引き取った猫だ。(シマの方は団地近くの仕事場にした賃貸マンションの周辺にいた野良を保護した)

猫を家族として長く一緒に暮らそうと思うのなら、早いうちに避妊か去勢手術をして、外には出さないこと。
これは常識だと思っていたが、けっこう「可哀想だから手術はしてないのよ」とか「もともと猫は外を自由に行き来するものだから」という理由で手術をせず、放し飼いにしているご家庭も多いと知って驚いたことがある。
猫は「なわばり」を主張し守る生き物なので、確かに、小さい頃に発情する機会を奪い、家に閉じ込めることは一見可哀想なことに思えるが、最初からそうしていれば「自分の家の中」をなわばりと認識し、むしろ外へは出なくなることは余り知られていない。
うちの猫たちはたまに広い公園や河原へ連れ出すと、怖がって絶対にカバンから出ない。心拍数が尋常じゃなくヒゲが前に出て瞳孔が開いている。明らかにテンパっている。これでは虐待だ。だからすぐ連れ帰った。そういう例もある。

もし、去勢や避妊をしなければ、仔猫は生後3ヶ月ほどで発情期を迎える。交尾がしたくてたまらなくなり、外へ出せと主張し大声で鳴き、叶えられないとひどいストレスになって暴れたりもする。
では避妊や去勢をせずにその本能のままにし、外へ出ることも自由にしていたら、その猫は必ず早死にする。
もしくは、やがて家に戻らなくなるだろう。「なわばり」が広く外へ向かうことで他の猫との争いも起きる。当然発情もするのでオスならメスを争ってそれこそ殺し合いのケンカをしたりする。交通事故のリスクも高い。伝染病(猫エイズなど罹ったらほぼ助からないものも多い)もたくさんの種類があり、世の中には猫嫌い、いや動物嫌い、いやもっと言えば自分以外の他者が嫌いだという人間も多い。そういう人間は小さな生き物を殺すことなど平気だし、ましてや保健所へ連絡することなど「かえって社会貢献だ」くらいに思っている。
そういう実態を四半世紀、何度も何度も見聞してきている。

これらのことと「猫を去勢せずに外へ出すこと」で得られる「猫はそういうものだから、自由にさせている」というささやかな「満足感」を秤にかけて、「じゃあやっぱり外に出そう」という選択をすることは、俺たちには考えられないことだった。
どっちが正しいとかという話ではなく、俺たちにはそれが出来ないだけだ。

我が家の猫たちは団地にいた頃に子供が不注意でドアを開けていたところ、物音に驚いて外へ逃げてしまった「ジロー」がしばらく飲まず食わずで別のお宅に隠れていたことがあり、それが原因かは知らぬが7年ほどで逝った。それを除けば「そう太」も「マイケル」も17年も生きた。元々弱かった「マル」でさえ11年。そして今「シマ」がもう11年、「ユキ」ももう5年目に入っている。野良猫だってみな同じように保護したいが、限界がある。せめて縁あって家族になった猫たちには、少しでも長生きしてもらいたいと思う。そのことが間違っていると言われるのなら、間違っていても全く構わない。

猫たちを自由にと行き来はさせられないが、太陽の光にあたってひなたぼっこをしたり、外の空気をめいっぱい吸わせてやりたい。それはいつも思ってきた。だから、飼ってはいけない団地でも、近隣の迷惑にならないように仕切りの下をふさぎ、念のためベランダの外にまで板を伸ばして超えられないようにして、時折出してやった。
次に夫婦で仕事場にと借りた団地の近くの賃貸マンションでは、大家さんに「一匹だけなら」と特別に許可をいただいて、マルだけをそちらで飼うようにした。だからベランダにも自由に出してやれたのだけど、隣の家が極端な猫嫌いの上に父親がアルコール依存でしょっちゅう大声を出して暴れていた。なので余り出さないようにするしかなかった。
うちの猫の鳴き声がちょっとでもしようものなら、壁を蹴飛ばしたり床を踏みならして威嚇をしてくる。たまに外で顔を会わせると、酒焼けと思しき赤銅色の顔に、首の抜けた肌着のTシャツといういでだちの、50がらみのおっさんだった。話して解るとか、そういう知性のかけらもない人物であることが、こちらを睨む顔で瞬時に解った。
それなら受けて立とうかと思ったこともあったが、こういう人間と暴力で争って、例え勝ったとしても犯罪者になる。負けても向こうには「酩酊状態で心神耗弱」という武器があってお咎めはない。日本とはそういう、酔っぱらいにひどく寛容な国だ。三津子に「だからやめて」と言われて踏みとどまった。
シマはそんな時にマンションの下や周辺を、白い猫といつも走り回っていた仔猫だった。「ニャーン」と鳴けず「ヒャッ、ヒャッ」とか「ホホーゥ」とかいう声しか出せない猫だった。その猫を俺と三津子と、当時一緒に住んでいたももちゃんが手なずけ、3階の玄関まで上がってくるようにしたのだった。ところが隣の親爺が、俺たちがシマにエサをあげてドアを閉めた途端に飛び出してきて、シマをどこかへ連れ去った。俺たちはすぐに気配で外へ出たが姿はなく、それから数日間、シマは俺たちの前に現れなくなった。
どこかへ連れていかれたのか、最悪あのオッサンまさかシマを…そんな悪い想像もした。けれど結局一週間ほどして、聞き慣れた「ヒャッ」というかすかな声が聞こえた。ドアを開けると、ひどく汚れたシマがいた。どうやら遠くに捨てられたのだけれど、必死で戻ってきたらしい。俺たちはもう何も迷わずにそのままシマを家の中へ招き入れた。結局それで猫が二匹になってしまい、またしても俺たちはコソコソと飼うしかなくなった。

次に引っ越したのは、十年前に住んでいた区の外れに出来たばかりの分譲マンションで、俺たち夫婦の念願の「持ち家」だった。部屋の中なら犬や猫の飼育は自由という環境になり、本当に初めてのびのびと堂々と猫と暮らせると思った。
ところがその部屋は平日になると周囲が工場ばかりで、騒音と震動と粉塵と異臭だらけの掃き溜めのようなところだった。休日に見に行くというマヌケに加え、これまでの環境と比べて夢のような「新築」の内装と、不動産業者の「何名様か競合されてますから、出来ればお早く」という「嘘」に騙されたのだった。ベランダは三日も掃除しなければ粉塵で真っ黒に汚れた。これを吸って外を歩いているのかと思うと、背筋が寒くなるような色だ。
猫は当たり前だが裸足で歩く。コロンコロンとお腹を見せて、ひなたでひっくり返ったりする。全身についた粉塵は、結局猫が自分の舌で嘗め落とす…つまり体内に摂取されることになる。やっぱりそこでも猫たちを自由にベランダに出すことは、滅多に出来なかった。

なので猫たちを(家猫として限られた空間とはいえ)外に自由に出すということは、結局京都に引っ越してきて、この今住んでいる賃貸マンションが実質初めてと言ってもいい。ここの大家さんは猫好きな方だし、内装は住人の出入りの際に徹底的にリフォームをするから、室内ならペットを飼ってもいいという条件だった。
この一年半、天気のいい日はよく二人で猫たちを出して、ベランダから山や空や通りを眺めては「いいところに来たね」と話し合った。足元では二匹が日だまりでコロンコロンと転げて喜んでいた。本当に、幸せだった。
俺と「連れ合い」である三津子と猫たちの「なんでもない、普通の暮らし」。
お互い病気を得て必ずしも将来に不安が無いわけではない。ずっと二人が一緒に居られる保証もない。けれどずっとずっと二人で助け合って山坂を超えてきて、京都でようやく得られたしばしの安息は、この上なく幸福な時間だった。
全ては二人の、いや彼女が歯をくいしばって頑張ってくれたこと。それに尽きる。

その彼女が逝ってしまった今、カラ元気を出して「作品を後世に遺す!」と言ってはいるものの、正直を言えば、そのことさえメドがついたら死んでもいいと思っている。

4年前に俺が癌になったことで祝杯をあげ、俺の死を下卑た冗談で心待ちにしている連中がいることは、よく知っている。

人の耳や噂を甘くみない方がいいと思う。

今回、愛する妻である三津子、やまだ紫が逝ってしまったことで、その連中はまた笑っていることだろう。
白取の野郎、ざまあ見ろ。
やまだ紫まで死んじまったら、お前ももう時間の問題だな。

そしてそういう連中がどうやってつながっているかは、こんな世の中だ、必ず漏れ伝わってくるものだ。

けれどもう、自分はそういう連中と争ったり、憎しみを返すようなことはしたくない。
一貫して嘘は嘘だ、間違いは間違いだと言い続けてきただけのことで、それらはもう法で裁かれる期間を超えた。でも、では誰が裁くのかを俺は知っている。

やまだ紫は人として「正しくありたい」と言って生きてきたひとだ。
俺もこれからはただ、そうありたいと思い、生きるだけだ。


下のポストへ郵便物を取りに行くと、蓮根のM歯科のご夫婦からお手紙が届いていた。三津子が大学へ奉職が決まってすぐから、歯の治療にずいぶんと何年にも渡ってお世話になった。
「いつもオーバーオールを着て帽子をかぶって、小走りに歩いていた白取(三津子)さん。主人曰く『まるで妖精みたいな人だったね』」
…そう書かれていた一文を見て涙が溢れてしまう。本当に優しく誠実で誰からも好かれ、いつまでも少女のように可憐で美しいひとだった。

今日もこの手紙以外は誰からも何の連絡はなく、ここ数日はお袋が時折、ぽつりと携帯から数行メールをくれる。ウグイスが例年になくいつまでも庭で鳴いていて、その不思議さから三津子を想うと涙が出る、と。
そうやって引き留めるようなことをしていてはいけない。そう自分の母親を叱咤しておきながら、俺自身がいつまでも三津子の死を乗り越えられずにいる。

相撲の結び前、電話が鳴った。明青のおかあさんからで、火曜日、夕方にうちの近くの交差点で待ち合わせて、焼き肉に行きましょうという連絡。体調とか考えて、無理だったら連絡して下さいね、と言って下さる。
「守ってもらってますから大丈夫ですよ、今日も差し向かいですから」と言うと、「じゃあ楽しみにしてますね」と言って下さった。
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2009-05-22(Fri)

バラを買う

5/22(金)

夕べはニュースを見てから、夜はトム・ハンクス主演の『エアポート』をDVDで見て、やっぱりハートウォーミングな気分になった。顔が微笑みに変わっているのが解る。見終えると11時過ぎで、しばらく民放のニュースを見た後で寝室へ上がる。
しかしそれからが全然寝られず、いったん起きて薬もレンドルミンを2錠飲んだが睡魔は来ず。読んでいなかった雑誌に目を通したりして、結局再び寝室へ上がったのは2時。

今朝は目を覚ますと7時過ぎだった。外は松ヶ崎の山肌が霞がかったように見えるから、今日は雨だろう。うとうとを繰り返し、9時半過ぎにゆっくり起きる。毎朝のことを済ませ、事務的な手続きの書類が届き、郵便局へ書類を出す必要が出た。

書類や封筒を持って、外へ出たのは1時過ぎだったが、やはりポツポツと雨が降っていた。俺は傘をさしながら自転車に乗って歩道を走るという「歩行者に対する危険な暴走行為」がどうしても出来ないので、仕方なく歩いて郵便局へ向かった。
途中、三津子がよくシャンプーやカットに行っていた美容室の横を通った。俺たち夫婦が前を通る時は、いつも目が合うと笑顔で挨拶をしてくれたナイスガイの兄弟が、きっと俺が通るのに気が付くだろう。でもまだ、どうしても中の二人に目を合わせることが出来ない。連れの死はもう連絡はしてあるが、あの二人に笑顔で話をする余裕がまだない。悪いとは思うけれども、うつむいたままで黙って通り過ぎた。
郵便局は空いていて、いつも割合午後は混んでいるのにおかしいな、と思いつつまずポストに封書を投函。それから書類請求のための手数料に使う定額小為替が必要で、局員に「定額小為替は…」と聞くと「奥のゆうちょ銀行です」と言われて奥へ進む。そうか民営化で別会社か。
カウンタ前の女性係員に聞くと用紙をくれたので記入し、カウンタに出す。5、6分ほど待つと呼ばれて定額小為替と控えを受取り、支払いをして出る。
それからATM前で封筒を一枚もらって中に定額小為替を入れ、申請書類や返信用封筒などとクリップで留めて区役所あてのエクスパックに封をした。それをカウンタの大きなポストに入れると、ストンと裏側へ落ちるのが見えた。
郵便局を出るとけっこう雨が強まっていて、「パラパラ」が「さあさあ」くらいになっていた。道路を渡りスーパーへ行き、夕飯と明日の朝食でも買おうと食品売り場へ行く。


ピンクのバラ
カゴを持ってすぐ、生花コーナーが目に入った。
そういえば三津子に花を買って帰ったことなんかほとんどなかったな。でも実は、一人で外へ出たことがあると、花屋を見るたびに「これ綺麗だな」「可愛いな」と思うことがあった。うちに買って帰ろうかな、と思うこともたびたびあった。けれど花は人によって好き好きがあるし、鉢植えのやつは枯れるのを見るのが辛いので(東京時代は何をどう世話しても、皆ことごとく枯れた)買うのは夫婦二人で見た時だけにしていた。
花売り場へ近付くと、仏花の寂しいものが隅にあって、手前の方には綺麗な切り花が並んでいる。専門の花屋に比べればあまりパッとしない売り場だけど、そこにピンク色の綺麗な小さいバラの束を見つけた。
三津子、君に花を買うよ。
花が大好きだった君に、好き好きだの言わないで買ってあげれば良かったね。
花の日や誕生日でもないのに、純粋に花をあげようと買ったのは初めてという、俺はマヌケな男だ。

総菜、うちで切れた必要品などを少し補充して帰宅。
ポストを見ると、また数名の方からお手紙が届いていた。
ありがとうございます。
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2009-05-21(Thu)

油彩画を精華大学へ寄贈しました

5/21(木)

夕べはDVD『プライベート・ライアン』を見終わったら10時過ぎだったか。トム・ハンクスの演技はやはり素晴らしいものがあるが、スピルバーグの戦争観というか、映画として先の大戦を描く際の一貫した姿勢は正しいと思う。もちろんユダヤ系ということでナチス・ドイツの残虐性とか蛮行をえぐる形になるのは理解出来るが、それとて別段間違ったことをねつ造しているわけではない。
寝室へ上がったのは11時過ぎで、ニュースZEROを見ていたと思うが、目が醒めたら2時過ぎでテレビがついていた。テレビを消してまた眠り、朝は5時頃に目が醒める。もの凄く眠い。そして暑い。足元の送風機のタイマーを1時間にセットして寝る。次に目が醒めると6時。こんどはタイマーを2時間セットして寝る。次に8時に目が醒めタイマーを1時間にして寝ようとするが、今度はもうすっかり朝で外も朝の音になっているのでうとうとを繰り返し、結局9時半近くになって降りた。ずいぶんと朝寝坊の感じだけど、東京に居た頃よりはマシか。

洗顔や猫ごはん、洗い物などを済ませて三津子にウーロン茶をあげてから携帯を見ると、メールが来ていた。
明青のおかあさんからで、26日の火曜(明青さんが休みの日)焼き肉行きましょう、もし嫌だったら無理にとは言わないし、都合も合わせますから…とのこと。
まだまだ、情けないことに俺は、一人で夜にどこかで飲んだり、三津子と二人で出かけたところへ行くなど到底無理だ。けれどこうしてお誘いをいただいて、数人で飲んだり食べたりするのなら、何となく出来そうな気がする。向こうもきっと、そう思ってくれているから誘ってくれたのだと思う。ありがたくお受けして、時間は「お仕事好き」な旦那様のご都合もあるので、こちらの方が合わせます、と返信。
京都には身内もいないので、本当に有り難いと思う。

その後着替えてポストに郵便物を出して、コンビニで簡単な買い物をして帰宅。
ポストの方へ廻ると郵便局員がちょうど配達に来ていて、いくつかの郵便物を手渡してくれた。矢口高雄先生からの絵はがきには直筆で「しんきらり が好きでした」と書いてあった。ありがとうございます、と心で手を合わせた。その他にも何名かの方からお手紙をいただく。それらをありがたく拝読して三津子の遺影の前に置いて、線香をあげた。
パンとコーヒー牛乳、ゆでタマゴを食べ終えると、書留の配達が来る。何だろうと思ったら「コスモス短歌会」さんからだった。香典はお断りしているが、送られてきたものを返送するのは失礼なので、有り難く受取ってお返しをさせていただくことにする。
「コスモス短歌会」は日本でも有数の、いや最大の短歌会である。やまだ紫の作品を評価し異例の詩画の連載を依頼していただき、京都へ来る前ずっと掲載していただいていた。
大学の先生という「激務」に慣れるまで、「休載」というかたちを取らせていただき、今年じゅうには再開したいと本人が言っていた。だから余計に残念だし、そのことはお伝えしていたので、本当に辛い。
『見上げれば虹』という詩画の連載は、必ずしも本調子で書かれたものではない。そのことは何度もここ数週間記述しているように、彼女の精神状態、肉体の状態と無縁ではない。というよりベストの状態で執筆出来れば本当に良かったのだけれど、それでも彼女は歯を食いしばって頑張った。休載も何度かあって、会の皆さんにもご迷惑をおかけした。
結果的にこうしたことになり、残念だけれど、何より本人が一番無念だったと思う。

13:22
たった今、精華大総務のMさんと竹宮惠子先生が来られ、三津子いや、やまだ紫たの油彩画をお渡しした。

今日1時過ぎに取りに来ていただくというご連絡を受けていたのだけど、インターフォンの接触が悪くよく聞こえず、何かの配達かと思ってドアを開けたら、お二人だった。Tシャツにパジャマの下という恥ずかしい格好で出てしまい、恐縮しました。
綺麗なお花をいただいたのでいったん置きに行き、それから額装した油彩画の箱と、同時に飾っていただく写真と略歴入りのプレートをお渡しした。
箱には提げて持てるように紐をかけて握りをつけておいたが、けっこう重い。総務のMさんが引き取ってくれ、竹宮先生は
「くれぐれも、あの、やまだ先生によろしく」と挨拶をされ、こちらも「今後も片付けや掃除でお世話になると思いますが」と頭を下げる。
これでやまだ紫の油彩『かわいいもの』はずっと、学生たちに見て貰えることになるだろう。
それがいい。絵は人に見てもらうためのものであって、死蔵するものではない。


17:07
それから仕事とデータのバックアップ作業などをして、一息ついて相撲を見る。別に見たいわけでも誰かの対戦を楽しみにしているわけでもない。お笑いやバカ騒ぎが見たくないだけだ。
台所へ立ったついでに、いつものように三津子の赤い室内着をぎゅっと抱く。
リビングのダイニングテーブル…といっても引っ越した後で買った二人掛けの小さなものだが…その椅子の上には三津子がいつもどれかを持って出ていた3つのバッグが置いてある。三津子が居た時そのままにしてある。
そのバッグの上に、かぶせるようにして赤い室内着がかけてあるのだが、だんだんと三津子の匂いがしなくなってきた。
当たり前といえば当たり前だ、毎日俺が抱いているのだから、俺の匂いが移ってきているのだ。
そんなのは嫌だ、駄目だ駄目だと言いながら、バッグと室内着、それともう一つ長袖の室内着をつかみ、クローゼット部屋へ行く。
三津子が着ていた洋服がたくさんかかっていて、それらにはまだ彼女の匂いがいっぱい残っている。持って着たバッグと室内着は段ボール箱に入れてフタをして、さらに洋服掛けには下がっている洋服を覆うようにして、ポリ袋をつなぎあわせて被せた。ホコリがかからないように、それとちょっとでも彼女の匂いが長持ちするように。
彼女の匂いがすると、もうそれだけで涙が溢れそうになる。
今日は泣かないぞと思い、そうしてきたのに…。
気持ちを立て直そう、そうして俺は俺の仕事を全うしなければ。
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2009-05-20(Wed)

やまだ紫作品を伝承する決意新たに

5月20日のつづき

三津子の戒名が決まったと、昨日お姉さんからメールが入った。

「紫雲院妙津信女」だそうだ。

やまだ紫の「紫」と三津子の「津」が入っている。彼女らしい、いい戒名だとおもった。

午後は仕事をして、それから何をしていたか…。気が付いたら4時をまわっていた。このところ第二次大戦時のヨーロッパ映画やSFとか、そんな映画ばかり見ている。今日は『戦場のピアニスト』を見た。今の自分の置かれている状況…つまり三津子がこの世にもう存在しない生活を一人続けて行かねばならないという現実から、ちょっとでも遠いものを選んで見ているような気がする。

映画を見終わって相撲へ切り替えると、切れ目のニュースなどで浮き世のことを知る。
インフルエンザはとうとう滋賀県でも患者が出たそうだ。京都も時間の問題だろう。「弱毒性」だから一般の人はそんなに恐れることはない、だが妊婦や糖尿病患者、腎臓病患者は注意を…と言っている。
白血病やエイズ(後天性「免疫不全」症候群だ)患者にも脅威だとは、全く言及されない。「数の問題」なのだろう。

夕方6時過ぎ、三津子のお茶を氷入りのウーロン茶に差し替え、お酒をぐいのみに注ぎ、温泉タマゴと俺の夕飯のドリアを少しとりわけたのと、それから昨日の残りの鶏肉の甘酢あんかけを暖めて差し向かう。ビールを少し飲み、それから思い立って下のポストへ郵便物を取りに行った。

また、何人かの旧知の人たちからハガキや手紙をいただいた。それを持ち帰って一通一通読んでいるうち、また涙が少し出た。でも、皆さんが三津子、やまだ紫の死を悲しみ、その才能が失われたことを悼んで下さる。

やまだ紫の作品を長年「塩漬け」にし、無礼で非情な扱いをしてきた筑摩書房には、三津子の死を知らせる手紙に
「今後一切の作品の版権を貴社には与えない」と宣言した。
死んでから慌てて再版をかけ、儲けるような姑息で故人を愚弄するような真似など絶対にさせるものか、そんなことだけは我慢ならなかったからだ。
その元凶である「M」という男に直接手紙を出すなど、例え死んでもお断りだ。
俺はもう怒らない、腹を立てない、人を恨むのはやめる。
三津子の死を受け入れる課程でそれを自分に課すことにした。

けれど、筑摩書房のMという男は別だ。

いや、正直を言えば他にも絶対に許せない人間が何人かは居る。しかしもうそういう連中と関わり合うことも嫌だし、もっと言えば同じお天道様の下で息を吸うのさえ憚りたい。だからもう居ないものとしている。

筑摩書房のMは嘘つきで、不誠実で、そして俺たちを裏切った。そんな奴に絶対に、もう二度とやまだ紫の作品を扱うことは、この俺が許さない。目の黒いうちは、ではない。
この先俺が死んだとしても、許さない。

当初このMという男は、やまだ紫の作品集をぜひうちで出したいと言ってきてくれた。
それまで青林堂で長くロングセラーとして版を重ね、青林堂の経営の基盤となって支えていた『性悪猫』『しんきらり』はじめ三津子いや「やまだ紫」の全ての版権を譲って欲しいと、青林堂の長井(勝一社長;故人)さんに言った。
Mは俺などよりも遥かに編集者としては大先輩だし、学生時代から「ガロ」には入り浸っており、長井さんも一目置いていた人間だ。けれど長井さんは当初、三津子に言わせれば
「長井さん、やっぱりちょっと怒ってたみたい」だったと気を遣っていた。
俺はもちろんその頃は三津子と一緒に暮らしており、おまけに青林堂の編集部に勤めていたから、どちらも目撃しているし日記もつけている。

長井さんは、そりゃあ当時は渋ったものだ。

なぜなら「やまだ紫」の作品は年間必ずどれかが再版がかかり、少部数ずつではあったが、累計すれば十万部を超えるものもあったからだ。俺は他ならぬその「貧乏版元」に長くいたのだから、そういう本の有り難さは嫌というほど解る。こうした爆発的ではないけれども売上げが一定数確実に予測できるものが、いかに版元にとって財産であるか。どれだけ日々の生活、出版活動を支えてくれているか。
本当に肌身にしみてよぉぉく、知っている。

Mは結局その後、長井さんに材木屋の二階の青林堂で直接、
「やまださんの作品は長く売れる作品だから、
絶対に絶やしませんし、そのことは約束しますよ」と笑った。
その場面にいたのだから知っている、ちゃんと覚えている。

長井さんはもうその頃には話がまとまっていたのかどうかは知らないが、さばさばした表情で
「やまださんの作品もさあ、ずっと売って貰えるんだったらそっちの方がいいよな。
なんたってさあ、ウチはいつ潰れっかわかんねえからよ」と冗談半分に言って笑っていた。
やまだは長井さんに許して貰ったことでほっとしていた。その後いつものように「ガロ」編集部に「差し入れ」を持って来たとき、笑顔ではあったけれど恐縮して、長井さんに頭を下げていた。それから香田さん(経理を担当していた、長井夫人)にも。

あの、材木屋の二階で。
今でもはっきり覚えている。

その約束を、Mは簡単に反故にした。

そればかりか、「ガロ」のクーデター事件後、三津子が自分の本がずっと「品切れ」になっていることを気に病み、何度も何度もためらった挙げ句、勇気を振り絞って直接「嘆願」の電話をかけたことがある。
俺が電話をして途中で変わったのだったか、とにかく、Mの態度はひどいものだった。
「けんもほろろ」とはこの事かというような、冷たい態度だった。
やまだ紫の作品を評価し後世に伝える…と、商売上の仮に「嘘」だったにしても、一度は作家や恩人の前でそう伝えた人間の態度ではなかった。自ら学生時代から「ガロ」編集部に出入りをし、長井さんの薫陶を受けたと自負していたはずだ、そしてやまだ紫を尊敬する女性作家だと持ち上げていたのは、単なる商売上の方便であったのか。

「売れないものは出せませんね。」

役所の窓口のような声のトーンで、すまないとか、申し訳ないとかいうものは微塵も含まれていなかった。

俺はその時の会話を録音しておいた。
何度聞いても不愉快で、不誠実で、何より人間としての温かみが全く感じられない声に、当時は怒鳴り込もうと本気で考えた。

こういう人間が、出版界に居る。メディアに出て芸人やタレントの本を持ち上げている。最近は何かの拍子でこの男がテレビに出るのを見るたび、そんな人間を一度でも信用したという自分たちの不明を恥じ、チャンネルを換えたものだった。

その後、2006年になって電子出版の「イーブック・イニシアティブ・ジャパン(e-book)」さんから、やまだの代表作数点を電子出版したいという嬉しい申し出があった。
「これからは本という形からこうなって行くのかね」と話したが、若い世代には普及していくだろうけれども、「感触」がない。人生を変えるような本との出会いにおいて、やっぱりあの「感触」というものは大切な気がするのだ。俺でさえもう旧い人間なのだろうか。
全ての本とは言わない、ただいつも側に置いていつでも手にとって読め、読み終わったあとで胸に抱き、「ああ、よかった」と思える「手触り」が欲しい。それはやっぱり「本」というかたちであって欲しい。
やまだ紫作品は、だいたいがそういった作品であると、多くのファンの方たちが言って下さっている。
これからデジタルメディアに慣れた若い人たちへ、それから後世に残るという意味では電子出版ももちろん、平行して残っていけばいいと思う。
けれど、やはり「本」という「かたち」で何とか彼女の素晴らしい作品たちを残せないか。
それだけが今、自分に残された仕事だと思っている。


三津子の死の知らせを受け取った、筑摩書房のAさんから返信が来た。
自分の力不足を詫びる、真摯な文章が社用便箋に綴られていた。
このAさんは、「やまだ紫作品集全5巻」の実際の編集作業を担当して下さった方だ。Aさん自身もやまだ紫のファンだと言って下さっていて、それは今でも変わっていないと思う。

別に、Mという男が言う
「売れない本は出せない」
ということは、事実である。

けれど真理だろうか。
編集、出版、そういうことに関わる、携わる人間として、確かに営業・売上げということは重要なことの一つであることは承知している。ただそのことを「第一」あるいは「唯一絶対」の価値観として標榜するのかどうか。そのことが、編集人、出版人としての生き方に関わる哲学だと思う。
何度も言ってきているように
売れないから、ダメな作品か。
売れないから、後世に伝えて行かずとも良いのか。

ということを何度でも問いたいし、
死んでから作品を慌てて評価するような愚をもう繰り返すなと思う。

市場原理主義なら「売れるものこそいい作品だ」と、そう言って憚らずタレント本や旬の芸人の本をタレ流せばいいと思う。勝手にやればいいと思う。それが求められる世の中、いや求める人たちが居るのだから、そういう人たち相手に売ればいい。そういう世界で勝手に商売をすればいいと思うだけだ。
つまり、そうなんだったら最初から「いい作品を後世に伝える」とか、おためごかしを抜かすなと思う。
「今だったらやまだサンも登り調子だからさあ、青林堂みたいなビンボーな出版社じゃなくてウチみたいなところから出せばいいじゃん? その方がトクじゃん?」
ヘラヘラ笑いながらそう言ってくれば良かったのだ。

そうしたら、その場で断っていたはずだ。

やまだは長井さんに「恩がある」とずっと言ってきた。
自分が多少名が売れてきたからといって、青林堂から作品をよそへ移すということを、そんな軽いことで請け合うわけがなかった。
少なくとも、「ガロ」に関わり自分たちもよく知るMという男を信用したから、長井さんに頭を下げて作品集の刊行を許してもらったのだ。

実際に担当してくださった編集者のAさんご自身に関しては、何の恨みもなければ、同じやまだ紫ファンとしてシンパシーも共有していると、今でも思っている。
彼からの手紙ももちろんそういう内容で、
「自分にもう少し力があれば作品集の扱い方も変わったかも知れない」と言って下さった。
Aさんに今そういう思いをさせてしまったことは、俺にとっても忸怩たる思いだけど、その全ての責任はMにあると思う。
善良な人間を騙したこと。金儲けのために嘘をつき人を傷つけたこと。その事実はもう消えない。
神か仏からかは知らぬが、いずれ必ず裁きにあうことだろう。後悔してももう遅い。

とにかく、やまだ紫の作品は絶対にまた普通に本というかたちで手に取っていただけるようにする。

妨害などがあれば、全てを公開する。

言いたいことがあればいつでも受けて立つし、それらも全て公開する。

それがファンの方々への俺のつとめであり、やまだ紫、三津子という人間に対する俺の「心」だ。

親友だった井坂さんからのハガキ、大阪のわんだ〜らんどの南畑裕子さんからのお手紙、漫画家で最初の作品集の解説をやまだが書いた津野裕子さんからのお手紙とかまぼこなど、本当に色々な人たちから追悼と遺された俺への励ましをいただいた。感謝という月並みな表現しか思い浮かばない自分ももどかしいけれど、本当に、心から感謝申し上げます。
皆さんのおかげで、自分はこれから生きて行けるのだし、やまだの仕事を後世に遺すという使命に向き合えるのだと思います。19:15
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2009-05-20(Wed)

供養とは何か

5月20日(水)
夕べはニュースZEROを見終わってから、一度レンドルミンを飲み忘れたので下へ降りてトム・ハンクスの発言を書き留めておいた。その後でベッドに戻ったのだが、けっこうビールを飲んだせいか割と早く寝られて、朝は6時過ぎに目を覚ました。まだ目がしょぼく眠かったのでもう一度寝ようと努めてみたが、結局寝られず8時前に下へ降りた。
「三津子、おはよう。」いつものように声をかける。
自分のトイレや洗顔の後、猫のご飯や水をあげる。
それから昨日のぐいのみの酒を台所に捨てて、洗い物をする。
そうして熱いほうじ茶を淹れて、三津子の写真の前に置く。お茶は熱い時もあれば冷たいウーロン茶の時もあるが、朝は水も含めて必ず水分を摂っていたから、彼女にあげるのはもう習慣になっている。
ただ俺たちは仏教徒ではないので、初七日が済んでからは特に気が付いた時、どなたかから何かをいただいてそれを報告する時以外は特に毎日線香をあげているわけではない。
そもそも仏壇すらわが家にはずっと無かった。
自分たちの目線より高いところにご先祖様の写真を飾り、命日はもちろん、何か良いことがあるとご先祖様に自然と感謝をして、花や好物を添えて手を合わせる…という我々なりの「ご供養」をしていただけである。

ちなみに三津子のお母さんによれば「山田の家は天台宗だ」とのこと。ただ特に菩提寺もなく檀家としての努めも何もしていないという。お墓は公共の多磨霊園にあって、その「お世話」はお願いしてあると聞いた。
宗教的な儀式や習慣は、絶対条件ではないが、生きている人のためにも必要なものであるという理解はある。けれども自分が霊だったら、骨になってしまった自分のかつての体の一部が収められても、そこにとどまっていたいとは思わないし、たぶんそこには居ないと思う。
生きている人つまり遺された人のために、お墓はあるのだと俺は勝手に思っている。
だから、一連の「手続き」や「儀式」には意味があるのだし、それを行うことで生きている人の気持ちが満たされる側面は必ずある…と思っている。

うちでは三津子の写真に朝はお茶をあげ、夜は毎日好きだったお酒をあげて、ある時は好物を並べる。
今朝は熱いほうじ茶をあげて、語りかけながら朝食におにぎり一つと、メンチカツを食べた。三津子には好きだったカレー味のコロッケ。
そういう自分たちなりの「供養」の方法が正しいのかどうか、例えば宗教的な儀式・作法、厳密に言えば仏壇や位牌すらないし、「間違っているぞ」と言われればそれまでだろう。
けれど厳格にそういう作法を守り儀式を勤めようとすれば、それこそ生者の生活を侵すことにならないか、という気持ちもある。なぜなら、繰り返すが自分は宗教者ではないからだ。

そんな気持ちで居て、昨日夜に何気なくまた後ろの押し入れを開けたら、箱の中に宜保愛子さんの本を見つけた(昨日の日記参照下さい)。
十年以上前だったか、三津子に宜保さんの本の表紙画を描く仕事があって、しばらくそれがご縁で年賀状のやりとりをさせていただいていた。宜保さんからの年賀状も本の近くから一緒に見つかった。出て来た本は日東書院の『死ぬ瞬間から輪廻転生―宜保愛子の霊界からのメッセージ』というもので、宜保さんの遺稿を元に死後に刊行されたものだという。俺は読んでいなかった。

夕べはそれをそのまま置いて『コンタクト』を見たので、朝ご飯を食べた後に読んでみた。

宜保さんはご存知のようにその霊能力が早くからメディアに取り上げられ、90年前後には一躍時の人となった。霊感商法の横行やオウム真理教事件、インチキ霊能者の続出などでそういった「心霊もの」が一斉にメディアで自粛・科学で袋だたきブームが起こると、宜保さんはたちまちインチキ呼ばわりをされ、叩かれ、干される。その後一度バラエティ番組で復活した後、2003年に肺がんで亡くなっている。
俺たち夫婦は宜保さんウォッチャーで、彼女の「霊視」が本物であるか偽物であるかということよりも、その人柄と、「語っていることの正しさ」において、尊敬すらしていた。

その本が今、ここに出て来た。たぶん読めと言われている。
読んでみると、小説と呼ぶには(失礼ながら)少しつたない文章ながら、亡くなった主人公とその母、娘との生前の関係や、主人公が亡くなってからの道のりなどが綴られてる。文章は「つたない」と僭越ながら思った次第だけれど、そのことが逆にフィクションであることを忘れさせるような、リアリティさえ感じさせるものになっている。
特に主人公がICUでまさしく魂が抜け、嘆き悲しむ家族の姿を見るさま、瞬時にあちこちへ移動するさまは、ついこないだ三津子の死という体験をした自分にとって、言い表せないほどの臨場感がある。
もちろん、宜保さんと言えば、その人柄を知らぬ若い世代にはもうただの「メディアで一世風靡し稼ぎまくったインチキ霊能者」というレッテルを単純に貼られ、葬られたに等しい人であろう。けれど、この本に書かれていたことは、自分の今置かれている状況に恐ろしく的確な示唆と納得を与えてくれた。

昨晩偶然見た民放ニュースの中で、トム・ハンクスが昨晩言っていたこと…
「先祖(死者)を敬うという儀礼にはいろいろな方法があるが、彼らの行く先は皆同じだ。その違いを認めることが大切だ」(ニュースZERO・5月19日)
このことの「正しさ」を考えれば、この本の、いや宜保さんの言うことがやはり「正しい」と言わざるを得ない。
宜保さんは豪華な「儀式」をしろとは言っていない。ささやかでも心のこもったご供養をしなさい、と静かに訴える。亡くなった人の好きだったものをお供えし、折に触れて思い出してあげること。決して「なになにをしてください」という打算で死者におねだりをするのではなく、その人を愛していたこと、そのことを素直にお伝えすること。そのことが亡くなった人の供養になり、やがて自分を守ってくれる存在になることに繋がっていく、と。
宜保さんはご自身がやはり日本の旧い方(失礼)なので、どうしても仏教様式の「喩え」になっていることで、反発される人もいるとは思う。けれどもそれ=仏教という宗教やその様式を絶対だとは言っていない。だから、世界中の宗教の対立も、結局「何を敬うのか」ということの根本に立ち返れば、それは亡くなった方や愛したひとへの想いを大切にすることだと気付けばそれでいいのではないか。
その意味では日本人というのは古来八百万の神をあがめ、神仏混淆、それこそお天道様からいわしの頭まで、感謝し手を合わせて生きてきた。それを無節操と呼ぶのか、敬虔と呼ぶのかの違いは、その人自身の「理解」いや「気付き」の問題だろう。
「神」というものを唯一絶対の存在として崇め、それへの「依存」が現世で生きる人の足を引っ張るような厳しい「儀式」を求めるとしたら、それは宗教としてどうなのだろうか。過剰な金品を要求したり、脅したりするような「宗教」「霊能者」というものは、それ自体が疑わしいと考えれば、人はかなりそういった詐欺には遭わずに済むはずだ。
科学でも、ものごとの「本質」は周囲のムダなものごとをそぎ落としたところにある、という法則があったと思う。確か、『コンタクト』の映画にもそういう台詞があったと思った。

今日は暑い。外はうっすらと雲がかかってるが気温が高く、部屋の中にいると汗ばむほど。
三津子のお茶を冷たいウーロン茶にいれ換えよう。
11:05
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2009-05-19(Tue)

泣き暮らす

家に居る時はテーブルの上の三津子の写真に、いろいろと話しかけている。
猫たち…シマはふだん「二階」(メゾネット)の俺たちの寝室で寝ていることが多いのだけど、俺が居間で三津子の写真に話しかけていると、「ママ」が帰ってきて俺と話していると思うのか、ぎしぎしどんどん、と階段を降りてくる。そして俺一人だと知ると、寂しそうに「アァ」と一声泣いて、俺に甘える。
ソファの、三津子が座っていたところは空けてあるのだが、どういうわけかシマもユキでさえも、絶対にそこに座ったり丸くなったりしない。
「見えてるの?」「居るのが解るのかい?」
と聞きながら撫でても、猫たちはゴロゴロと喉を鳴らすだけだ。

そんなことをしたり、パソコンに向かって仕事をし、一息つきがてらソファに仰向けになってぼーっと相撲を眺めていると、腹が張ってきた。今履いている室内着のズボンのゴムがきつい。白血病になって脾臓が腫れる前は、腰はゆるゆるで内側のひもで縛っていたほどだったのに、最近はこんな案配だ。しばらく腰まわりからズボンを外していたが苦しいので、ゆるいパジャマの下に履き替えようとクローゼット部屋へ行く。
すると一緒にシマとユキが入ってきた。
シマは丸い折りたたみ椅子の上に飛び乗り、脱いだままになっている三津子の服の匂いを嗅ぎ始めた。今までそんなことはしなかったのに。思わずそこへ乗ってはダメだよ、と引きはがす。三津子の着ていた冬物のセーターに爪がひっかかって落ちた。シマは早足で出て行った。
床に落ちたセーターを取り上げ、「これはダメだよ…」と言って抱きしめると、やっぱりまだあの人の匂いがする。その下になっていたセーターからも。ダメだ、あの人の着ていたもの、身につけていたものなんかどれ一つとして捨てられるわけがないよ。そう言うと情動失禁のようにまた涙が溢れてきた。
泣きながら居間に戻ってきて、セーターを戻した時に発見した宅急便の送り状を見てまた泣いた。それは二人の最後の旅行になった2月末の白浜〜奈良旅行の最後の朝、帰りがけに奈良ホテルから荷物を自宅へ送った時のものだった。ついこないだのことだ。
こんなことではいけない、何をしてるんだ、そう思うけれどもフとしたことで三津子がもうこの世には存在しないということ、もう話したり手を握ったり出来ないのだということを思い知る。そうしてそのことの余りの辛さに魂が悲鳴をあげ、涙が押し出される。
俺はこの先、普通に三津子の思い出話をして笑ったり、別な人と飲んだりできるようになるんだろうか。

それからふらふらとソファに戻り、テーブルの上で花に囲まれている三津子の写真に語りかけながら、号泣した。両手で顔を覆い「うわぁ」と大きな声が出た。
あなたは俺と一緒になって本当に幸せだったのか。
頑張って頑張って歯を食いしばって小さい体で前夫の暴力と浮気に耐え、離婚し、そして幼い子二人を育て守りながら、たくさんの名作を生み出し続けた。俺と知り合ってからも経済的には余裕があった時は少なく、挙げ句の果ては自身の病気で長く苦しんだ。
その上に伴侶である俺に癌の宣告だ。
あなたは俺と一緒になって本当に良かったと思ってくれているんだろうか。
その確証が欲しい。
そう言ってくれたのを聞いた、でもそれはここ数年のことじゃないか。
本当は、ずっとずっとずっと辛かったんじゃないのか。
あなたは小さい頃からずっと「寂しい人」だったんじゃないのか。
俺はそれをじゅうぶんに埋めてあげられなかったんじゃないか。
けれどその答えはもう聞けない。
だから、どうしても自分を責めてしまう。

昔、まだ子供たちが小学生の頃、もちろんみんなで団地で暮らしていた頃だ。次女のゆうちゃんが、何やらたいしたケガもしていないのに手に包帯をしたり絆創膏を貼ったりして、ちょっと嬉しそうだったのを思い出す。周りのみんなが「どうしたの」「大丈夫?」と心配したりしてくれるのが嬉しかったのだと思う。微笑ましい子供時代の話だ。そういう心理って子供の頃なら誰にでもあるだろうし、似たような態度を取ったことは誰にでもあると思う。

でも俺はそういうことを、「生き死に」というとても重要で大変なことで、三津子にしていなかったか。

俺の病気は全身のリンパ節に腫脹が見られるもので、その親玉は脾臓。次に大きいのは縦隔。あとは関節などは豆粒大から指先くらいまで、大きさはさまざまだ。それらのどこかが、毎日苦しかったり痛んだりする。小さい痛みなら普通に笑顔で過ごしていられるが、脾臓が痛い時は立っていられない。だから別に詐病で心配を惹こうというのとは違う。
けれど三津子は俺がこうして毎日どこかしらが痛いという状態を、いつも一番近くで心配してくれていた。そのことが、彼女のストレスとなって寿命を縮めやしなかったか。俺が病気になる前、彼女が手術の痛みやその後の鬱状態でひどい状態になった時、それこそ筆舌に尽くしがたい生活が続いた時、俺はそれでも彼女が居てくれさえすればいいと思っていた。どんな状態になっても絶対に見捨てるもんか、と思っていた。そのことで自分の体がどうにかなるとか思わなかったし、仮に自分の体のどこかを犠牲にしてこの人の苦しみが緩和されるのならそれでもいいとさえ思った。
こんな俺みたいなチンケな人間でさえ、そう思ったのだから、癌宣告をされて以降の俺を見て彼女はどう思っていたのだろう。俺は滅多に「痛い痛い」と訴えない人間だったけれど、三津子は俺の具合が悪い時はすぐにそうだと悟って、心配してくれた。時には涙を浮かべてさすってくれたりもした。

ずっとずっと前、まだ俺たちが一緒に暮らし始めて一年くらいの頃に、俺は夢を見た。
和服の紋付きの喪服を着た三津子が、俺の遺影の前でがっくりと肩を落として泣いている夢だった。
余りにリアルだったので、俺は「自分が彼女より先に死ぬ」ということを運命だと教わったのだと思った。
あれからずいぶん、いや二十年経って俺は癌に冒された。
三津子も三津子で、あちこちの内臓が悲鳴をあげている時期だった。
「もしあなたが先に死んだら私も死ぬ、だから私の方が先に逝く」という彼女に俺は
「違うよ、俺が先に逝くことはもう運命なんだ」と言って、三津子に昔見たあの夢のことを話した。
彼女はそれを聞いて「わあ」と泣いた。

それは彼女にとって受け入れ難い「運命」だったに違いない。『愛のかたち』でも書いているように、もし俺が先に死んだら彼女はヌケガラになって後を追うように死ぬだろうと思っていた。俺をそれほど愛していてくれたがゆえに、ひとり残されることに到底耐えられないだろうと思っていた。
だから、先に逝ったんじゃないのか。
だとしたら、俺は何という罪なことをしたのだろうか。
彼女を抱きしめ手を握り、「大丈夫だよ、俺は絶対君より先に死なないから。二人で長生きしよう」と力強く何で言ってあげられなかったのか。
今俺がまだ生きていること、癌に進行がほとんど見られないこと、そのことを「奇跡」と信じ、大切に二人で分かち合おうと、強い力で彼女に訴えてあげなければいけなかったのは俺だったのに。

泣くまいとしても涙が流れ出る、枯れることはないのかと思うほど泣けて仕方がなかった。
今こうしていても、涙が止まらない。
彼女に申し訳ない。済まない。たくさんたくさん謝らなければいけない、そしてたくさんたくさん感謝しなければいけない。そしてもっともっとたくさん、愛していることを伝えてあげなければいけない。
でももう、彼女に直接それは伝えられない。そのことが悔しくてまた涙が出る。

「彼女はあなたの傍にいて、ちゃんと解ってくれている」

皆さんが異口同音に慰めて下さるのは嬉しいしとても有り難い、自分だってそう思うし思わなければこの先とうてい生きて行けない。
でも、現実にはついこないだまで普通に過ごしていた「二人の普通の暮らし」に、あの人はもういない。泣いてはいけない、ダメだと思うが、今は全ての涙を絞り出そうという思いで泣き続ける。

…気を取り直して、昨日ゆうちゃんとメールでやりとりをしたことを思い出した。ゆうちゃんは自分の母親の作品『性悪猫』も『鳳仙花』も、大人になってからちゃんと読んでなかったという。なので「うちから送るよ」と言ったのだが、この日は病院でそれを忘れてしまったのを詫びた。
本2冊はもう用意してあったので、それをエクスパックに入れるための保護にエアキャップを探す。確か本を入れるのにちょうどいい封筒型になったエアキャップがあった…そう思って押し入れを開けると、薄暗い中にある箱にハガキを見つけた。
宜保愛子さんからの、十年くらい前の年賀状だった。「ケガのことを心配してくれてありがとう」ということも添えてあった。そしてその手前には宜保さんの本があった。帯に「遺稿」と書いてあった。きっとこれも何かのメッセージなのだろう。そう思って取り出した。
それからエアキャップ…と思ったら、何と三津子の仕事机の手前の足元に落ちていた。何で? と思ったら、デジカメプリント用のミニプリンタにカバーがわりにかけておいたやつだった。苦笑しながら
「三津子ありがとう。でもこれはダメなんだ」
と言ってプリンタに被せてテープで止めた。そして視線をその横の書類ケースに移すと、その上の箱にやはり同じようなエアキャップが封筒状になったものが載せてある。
「じゃあこっちを」と言われたようだった。
三津子、ありがとう。
そう言ってそのエアキャップ封筒に二冊の本を入れ、エクスパックでゆうちゃんに送る梱包をした。
それから三津子にお酒をあげ、昼間近所の総菜屋で買ったご飯に、錦市場で買った「ごまおかか振りかけ」とパックのカリカリ梅をまぶし、小さな椀に入れて添える。それから彼女の好きだった温泉たまごも。総菜を並べて俺もビールで「お疲れ様」と乾杯をした。
あれだけ泣いた後だけど、三津子と差し向かいで一杯やりながらだと、不思議と落ち着いてものがちゃんと食べられる。19:48


…その後少し落ち着いてから、見るものもないので、三津子と何度も見たジョディ・フォスター主演のSF映画『コンタクト』のDVDをかけて、オープニングをちょっと見たところで電話が鳴った。

出るとご近所の割烹「浦」の子供さんからで、「おかず持ってきたんで開けてもらえますか」とのこと。あらら、と思ってすぐポストカードを何枚か持って下に降りると、3人の男の子が揃っていてくれた。「浦」のお母さんが車で岩倉の自宅まで子供たちを送るついでに寄って下さったようだ。
ここは寿司や季節料理を出す気取らない割烹で、夫婦でたまに寄せてもらっていた。3人の子供たちが普通に店に居ることに何の違和感も感じない家庭的な店だった。
伺うといつも男の子三人兄弟が、客の邪魔にならぬよう、隅で本を読んだりゲームをしているのだけど、特に一番上の子は下の子らがちょっとでもテンションが上がるとすぐに自制心を持って諫め、真ん中の子はそれをちゃんと認めつつも子供心を忘れず、一番下の子は無邪気に客であろうと知った顔は慕ってくれ愛想を振りまいてくれた。
三津子は特にこの一番下のY君を可愛がっていた。この三人が重なるようにして何かに夢中になっているのを、「いつか油彩に描きたい」といってそっと携帯のカメラで撮影したこともある。
その子供たちが揃って、ちょっと沈んだ顔で並んでいる。上の子が差し出してくれた紙袋を受け取って「ありがとうね、これ、あのおばちゃんが描いたポストカードだよ」と言って手渡すと、もう我慢の限界を超えて涙が溢れてしまった。

「浦」のお母さんがそれを見て車から降りてきてくれ、「うちもう戴いてますし、全然気にせんといておくれやす」と言ってくれる。
「写真も今度お渡ししますね」と言いつつ、涙が止まらない。子供たちには格好悪い姿を見せてしまったけど、でも嬉しさもあった。「優しいおばちゃん」として心に留めてくれていたのが、やがて「マンガを大学で教えてる凄い人」が加わり、これからはその作品に触れてくれれば「凄い作家だったのだ」と理解してくれる日が来るだろうと信じている。
「浦」さんからいただいたお総菜はまだ暖かかった。俺がたまに生ビールとハーフにしていたギネスの黒瓶も一本入っていて、そのお気遣いにまた涙が出た。何もかも、三津子の人徳だと思う。感謝しかない。


『コンタクト』を見終わると、11時過ぎだった。
結局500mlの缶ビール3本とギネスの黒の小瓶一本をあけてしまった。この映画はいわゆる科学万能主義者から言わせればただの荒唐無稽のSF映画、ハリウッドのオバカの典型というのかも知れない。
けれどハリウッドと言えば「ベン・ハー」であったり「アラビアのロレンス」であったり「十戒」であったりした時代から、予定調和の大いなる夢と娯楽を与えてくれるものではなかったか。だとしたら、これは非常に良く出来た、哲学的宗教的なことと科学というものをどう折り合いをつけるかを、ハリウッドの娯楽映画、SF映画という形で仕上げた良作だと思う。
西洋人の考えにしても、「神」なり「人智を超えた大いなる存在」へ畏敬の念を持つべきである…ということへの「気付き」をもたらすものだと思える。
この映画の最後に「for Carl」と出てくるが、もちろんそれはこの映画の原作者であり制作途中で亡くなったカール・セーガン博士へのものだが、セーガン博士の本や特番なども、俺たち夫婦にとっては「定番」であった。
この広い宇宙に地球人だけが知的生命体と考えるか、それともそれを不遜でありもっとたくさんの存在があると考える=すなわち科学的根拠はまだないが「内なる戒め」と共通の、「大いなる存在への気付き」を促すという意味では、科学者であっても我々と考え方は同じだと思っていた。
「だってこの広い宇宙に地球人だけなんて、もったいないじゃない。」
原作ももちろん素晴らしいが、ロバート・ゼメキスが単なる特撮じかけの突飛な監督、ではないことがよく解る。敬虔な気持ちと原作への深い理解とリスペクトを持ちつつ、ハリウッド映画としての成功へと導くことがこの監督の非凡なところかも知れない。
ただカール・セーガンからホーキング博士、あるいはNASAの一連の研究やそれこそ対極にあるSF映画やUFOなど全般に広く興味がないと、単なる「退屈なB級映画」と取られる恐れはじゅうぶんに、ある。中にはもちろん素晴らしい「思想」や「哲学」、そして「事実」もあり、対極に「インチキ」「詐欺」もある。そういう膨大な情報と知識の砂浜に、時々キラッと光るものがあって、俺たちはそれを見つけるのが楽しみだった。
この映画はもう4、5回は見ていて、そのうち今回以外は全部三津子と一緒に見ている。そして何度見ても、(ネタばれゆえ伏せるが)泣けるシーンがある。


それから二階へ行って日テレいや関西では「よみうりテレビ」の「NEWS ZERO」を見た。たまたまトム・ハンクスが映画の宣伝で来日しており、村尾キャスターのインタビューを受けていた。彼は
「世界中いろいろなところへ私は行った。その先々で先祖を敬うという儀礼にはいろいろな方法があったが、彼らの行く先は皆同じだと思う。その違いを認めることが大切だ」
というようなこと(うろ覚えで失礼)を言っていた。
俺たち夫婦は以前からフィラデルフィア、フォレスト・ガンプからプライベート・ライアン、グリーン・マイル、キャスト・アウェイ、エアポートなどなど彼の映画を好んで見たのだけれど、改めて、なぜこの俳優に惹かれるのかが解ったような気がした。
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2009-05-19(Tue)

自分の診察日

5月19日(火)

夕べは缶ビールを1本だけ、三津子と差し向かいで飲んで、レンジでチンするだけのミネストローネを夕飯がわりに食べた。健康にいいからとよくわが家で作っていた「野菜スープ」とよく似た濃いめの味付けで、うまい。それから何となくつけているだけの民放ニュースをはしごして、寝たのは12時過ぎ。
朝方目が醒めて電光掲示の時計を見たら4:44。「三津子…」と思わず声に出して笑ってしまった。その次に目が醒めて時計を見たら5:55だった。結局そのまま眠れず、6時過ぎには起きた。

今日は俺の白血病の容態観察で、京大病院の血液内科を受診する日だ。
京大病院といえば、やはり救急車で三津子を搬入し、その後の辛い状況を思い出す。思い出すというより、生々しいついこないだの記憶だから、気が沈む。

けれどそんなにクヨクヨしていたのでは三津子に叱られる。
余りに早く起きたので朝飯を何か食べていかないと…と思うが、食べて出ると腹が張ってトイレへ行きたくなると困るし、食べないと昼まで持たない。結局小さなカップワンタンだけにした。食べながら一息ついてテレビのNHKニュース画面を見たら、時刻が俺の誕生日の7:17。
こういうぞろ目だの俺の誕生日だの、何気なくフと見るとそういう数字を目にすることがやたらに増えた。三津子さん、君がふざけてるのかな?

9時過ぎに支度をして、マスクもしっかりつけてマンションを出る。
外はTシャツに半袖ワイシャツ一枚でちょうどいいくらい。道路をいつものように向かいへ渡り、タクシーを拾って病院へ向かってもらう。俺は免疫力が著しく低下している体だ。このブログでずっと「連れ合い」と表記してきた三津子も、内臓があちこち弱っていて、採血結果を見るとやはり普通の人より免疫力が落ちていた。そんなところまで「似たもの夫婦」だった。
だからインフルエンザが流行る前からなるべくそうしてきたように、公共のバスや電車などは避けた方がいい。乾燥していない時期、空いているシーズンや時間にならバスや電車にも乗ったりするようにはなった。けれど今はそうはいかない。
タクシーの窓から道々見ていると、やはり関西圏ゆえか、マスクをしている人を多く見かける。が、それでもまだ京都は感染者の報告がないせいか比較的のんびりしているという印象。バス停に座る人たちも、マスク着用率は半々といったところだろう。

ところが病院へ着くと、いつもの正面入口の西側前には特設テントが作られていて、医師か職員が白衣にマスクで、人の出入りを「監視」しているようだった。「発熱や咳、下痢などの症状がある人はこちらで検査を」と立て札が立てられている。厳戒態勢、という感じだ。それを横目に病院の中に入ると、さすがにマスク着用者が8割ほどになった。カウンタの中や、行き交う病院の職員は全員がマスクをしている。

何度かここでも書いてきたように、マスク着用は「防衛」というよりも感染者による「感染拡大防止義務」と捉えた方がいい。ウィルスを遮断するような精度のいいものは普通に長く歩いたりすると息苦しくなるようなものだし、そうでなければ防衛という観点からは余り意味はない。でも「格好悪い」とか「面倒くさい」とか、そういう理由で着用しない潜伏期間中の感染者の中から、「自己防衛」とはき違えられてでも、着用者を増やす意味合いは大きいと思う。

受付機に診察カードを通してPHS端末を受け取り、9時半にはもう採血受付を終えた。何だか今日は空いているな…という印象。「233番」という紙を貰うと、今採血室へ入っている番号の電光表示は220くらいだったか。
10分ほど外待合で待っていると番号が表示されたので、採血室へ移動、そこで数分待つとすぐに呼ばれて終了。9時45分ころにはいったん下の会計に降りる。
今日は三津子の最後の手術と入院費の支払いをするために、会計の14番窓口に直接並んだ。5分ほど待って係の若いマスク姿の男性にその旨告げ、支払いをする。お釣りと領収証を受け取ると、打ち出された領収証の上は次回の通院予定が記される欄が切り取り線でついている。そこに
患者氏名 白取三津子 とあり、
「予約日時」の欄に
「予約はありません」
と書いてあるのが当然ながら、少し悲しかった。

それから2階の血液内科の前を通り過ぎ、1回を見下ろせる吹き抜け添いのソファに腰掛ける。診察予約時間は11時10分、まだ1時間半ほどある。そこでぼーっといろいろと考え事をしたり下の受付前の大型液晶テレビを見たりしていた。お姉さんの携帯に報告を入れた後は、ひたすら待つ。
気のせいか空いているなと思った病院内も、10時をまわるといつものように混雑してきた。11時近くなったので血液内科前の外待合に移動するが、いっこうにPHS端末は動かない。11時10分を過ぎて、さすがにちょっとおかしいなと思った頃に、ようやく端末が「外待合でお待ちください」表示に変わった。いや、もう居るんだけど…と思いつつまたひたすら、待つ。
PHSが「診察室へお入りください」と震えたのは11時40分だった。

I先生に挨拶をするといつものように「お変わりありませんか」と訊かれたので
「はい、自分は変わらないんですが…実は」と言って連れ合いである三津子の死を報告する。
先生は驚いて「そうですか…それは何と言っていいか」と絶句される。電子カルテには「wifeが死去される」と打ち込まれた。少しだけそのことについて会話をし、今日の採血結果を見せていただく。

俺の採血結果は横ばいで、WBC(白血球)がなぜか1800と少し多くなっていた。とはいえ数百の上下は誤差もあるだろうし、1800といったって健康で免疫力が普通に保たれている人に比べればやはり低い。それよりPLT(血小板)が相変わらず6万台と低いが、これも血が止まらなくなるというレベルではないものの、心配な数値だ。

それからベッドに仰向けになり、脾臓の触診とエッヂ確認をしていただく。前回測ってもらった、巨大化した脾臓の大きさも、巨大なままで変化はなしと伺ってホッとする。
ただUA(尿酸値)が高い傾向は(ビールのせいだが)6.6と前回よりは下がってはいたものの「これは薬で下がっているのでしょう」ということで、引き続いてザイロリック錠を一日一錠飲むように言われる。

I先生は「今、インフルエンザが流行ってますからね、じゅうぶん注意してください。いくら弱毒性といっても、白取さんの体には大変な脅威ですから」とはっきり言われた。
俺も「はい、幸いと言いますか、こんな病気なのでうちにはマスクとウェルパスが常備してありまして」と言うと、「そうですね、注意してください」と笑顔で言われる。

そして「次回はこの様子なら、10週間置きでいいでしょう」と言われ、何と次の診察は7月の末になった。
お礼を言って診察室を出た後、会計へ向かいながら、心で語りかけた。

三津子、俺今回から10週おきになったよ。
あの癌宣告から、あれから4年経っても進行がほとんどないんだよ…。
ありがとう、君がいてくれたお陰だし、今も守ってくれているね。
だから俺はまだ大丈夫。
君のために残された仕事を全うするよ。

まさかの健康診断からの白血病発覚、入院、そして抗癌剤投与から骨髄移植へと向かう寸前で「何でもない普通の暮らし」に引き戻された奇跡。あれからもう4年が経とうとしている。
このこと自体、俺が今生かされていることそれ自体が、奇跡だと思う。
そう言っていつも俺を励まし支えてくれたのは、三津子だった。
ありがとう、本当に。心から感謝しています。

1階に降りると、会計や再来・新患受付カウンタのある吹き抜けホールは、病院へ来た時よりずいぶんと混雑していた。採血を終えてすぐに入院費を払った時に5、6人だった会計受付の列は三重に蛇行していた。それでもものの10分足らずで進み、さらに10分ほど待つとPHS端末が会計用意が出来たと震えた。今度は少額なので自動精算機で支払いを終えて病院を出た。

タクシーですぐにうちの近くの交差点まで戻り、いつもの店で夜のおかずとご飯、コンビニでお茶やおにぎりなどを買っていったんマンションへ戻る。荷物を置いて、それから処方箋を持って隣の薬局へ行った。

薬局の人たちは三津子が亡くなったことを下のクリニックのI先生から聞いていたのか、「あの実は…」と切り出すと、「ああ、そうですね…。突然で大変でしたね」と言われる。その後は普通に明るく対応していただき、処方薬を受け取り会計を終え、新聞や郵便物を持って部屋へ帰ったら1時だった。
すぐにマスクを捨てて手を洗い、うがいをする。さらに着ていた服ははたいて、ズボンには除菌スプレーをかけた。気休めなのは承知しているけれども、迂闊なことから何があるか解らない。それに三津子はいつも「マスクは?」「うがいは?」と言ってくれていた。
最後にウェルパス(アルコール消毒液)で両手を入念にもみ洗い、メガネも拭いてから、郵便物に目を通す。
数人の方から、俺にお悔やみと励ましの手紙が来ていた。嬉しく、ありがたく、そしてやっぱり悲しい。思いがけぬ、十数年ぶりの知り合いからの不思議なご縁を知らせるものもあって、驚いたり。俺の負担を考え、皆さんお返事は気にせずと気を遣っていただいている。

元気を出さねば。
三津子…やまだ紫という作家のために、俺にしか出来ない仕事もたくさん残っている。
三津子のことを身内のように昔から「ミッコ」と呼ぶ旧友の方からの手紙の最後に、
「きっと、そばでミッコが見守ってくれていますヨ!」とあった。
皆さん、ありがとうございます。
13:34
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2009-05-17(Sun)

夢で逢えた

6:51
たった今二階の寝室から降りてきたところ。
6時頃目が醒めて、うつらうつらしてたら夢を見た。
たった今の醒め際の夢なのではっきり覚えている。

夕暮れから暗くなっていく街中の道を三津子と二人で歩いている。これから待ち合わせて焼き肉を食べに行く…ようだ。交差点を渡るのにいったん止まる。ここは事故が多いので有名なところだ、と知らない街なのになぜか知っている。もう暗くなってきて車のヘッドライトがびゅん、と過ぎる。
俺は三津子の肩を左手でしっかり引き寄せ、彼女も俺の腰に手を廻す。お互いに抱き合うような大げさなかたちで、ゆっくり信号を渡る。
彼女は旅行の時着ていた首のボタンでとめるカシミヤのマントのようなコートに、俺がプレゼントしたマフラー、そしていつものオーバーオール。肩の感触と体温が伝わる。
目指す焼き肉店というのはその交差点からすぐで、住宅街のハズレにあるような一軒家を店舗にしたような小さい店だ。知らない街の知らない店で、あまり綺麗ではない感じだが、それでも待ち合わせが「ここ」だと言うので店の前に立つ。
俺は三津子が隣に居るのが嬉しくて仕方がなく、思わず「お姫様だっこ」をして店に入る。店は小さなカウンタがあって中に店主のおっさんが一人黙々と仕込みをしており、壁際には元ヤンキーみたいな痩せた若い女が一人、エプロンをしてにこにこ笑って立っている。こんな格好で入店しても不思議な顔もされず、三津子も恥ずかしがりもしないで笑っている。
三津子を降ろして店の奥にある4、5人用の小さなテーブル1つしかない小上がりを指さして、「ここでいいよね?」と聞く。
三津子は「何で? 4人だしカウンタでいいよ」と言うが、俺は「今日はお祝いだよ」と言い、壁に掛けてあったメニューか何かが書いてある黒板のど真ん中に、
黄色いチョークで大きく
初七日を過ぎ 三津子、復活!
と書いた。

そこで目が醒めた。
カッカッカッ、と迷いなく凄い速さで黒板に書いた、手にチョークの感覚がまだ残っている。

誰かと待ち合わせて焼き肉という、京都へ来る前はたまにあったパターンだ。見たこともない街だったし見たことのない店だった。たった今その夢から醒めた。

目が醒めると二階のいつもの寝室で、隣のベッドにはもちろん三津子はいない。ユキがベッドの足元にうずくまっている。シマはつづらの中だった。
それでも三津子が初めてちゃんと夢に出てくれて、しかも俺は腕を組んで、彼女をしっかり抱きかかえ、大切に大切に扱った。何か凄く嬉しかった。
こう書いているだけで涙が出て来た。
幸せな気分は残ったが、同時に寂しさもつのる。
降りてきて「三津子、ありがとう」と声に出した。

夕べは寝たのは12時半ころだったか。
金曜も土曜も、もはや身内からは誰からも連絡やメールも来なくなった。(いや、それぞれにそれぞれの家庭があり、ひがんで言っているつもりはない、念のため。みんな、前を向いて行かねばならないのだ。自分にはまだその強さがないだけなのは知っている。)

金曜は「明青」のおかあさんからメールがあって、励まされた。三津子の密葬を終えた挨拶状が届いた、ビール飲んで寝ちゃったらええよ! と言ってくれた。

昨日は夜に長野に住む丸山さんという三津子の旧い友達の方から電話があって、「もっともっとゆっくりお話がしたかった」「白取さんも体に気をつけて」と言っていただいた。
携帯メールも含めて、連絡といえば2日間にたったその二件だけだった。いずれも言ってみれば「他人」だけど、ありがたかった。


今朝はなぜか足元が暑くて、縦型の送風機のリモコンで1回、タイマーで1時間というのを夜中につけた。さらに朝方6時過ぎに目が醒めてもう一回。そうして夢を見た。

三津子が死んでから、こんなにはっきりと普通に三津子の夢を見たのは初めてだと思う。見ていたとしても覚えていないのか、あるいは出て来なかったのかは解らない。とにかく、夢の中で腕を組み、抱き合い寄り添うような形でゆっくり歩いていたのが本当に嬉しかった。

朝はまず外に出し漏れていた挨拶状を道路が空いているうちに踏切を越えてポストに投函して戻ってくる。
うす曇りで、Tシャツ短パンだと寒い。慌てて小走りにマンションに戻り、朝刊を取って部屋へ帰る。それから新聞を読み、面倒なのでカップのそばを食べた。
日曜日はいつもの工事の音も、隣のヤナセから聞こえる不快なエンジンの重低音もない。

しみじみと、夢に三津子が現れてくれたことに感謝した。
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2009-05-16(Sat)

油彩を額装

5月16日(土)
夕べは三津子の写真に話しながらビールを飲んで、寝たのは12時ころ。今朝は7時過ぎからとろとろうとうと、起きたのは9時過ぎだったか。10時半くらいにカップの天ぷら蕎麦を食べ、それからNHKを見ていたが何となくつまらないし、民放はもっとつまらない上に下らないので、映画でも見ようかとDVDのライブラリを探す。
うちではレンタルで借りてきたり、BSや東京に居た頃に加入していたCATVなどで映画をやると、面白そうなものは録画してある。けっこうな量だ。その中から、結局2枚組という長尺ながら「シンドラーのリスト」を見ることにした。

マリア様 油彩P8号、未完1時前くらいに宅急便で注文していた額が届いたので、梱包をほどいた。
一つはP8号(455×333)という大きさで、これは三津子が描いた油彩の、マリア様が優しく手をさしのべているものを収めるため。まだ未完成の作品で厚く色を重ねていく前のものなので、色彩が水彩のように薄いのと、いつもの「紫」のサインが入っていないのが残念だ。
けれどその分、本人の性格のように優しく、慈愛に満ちたマリア様のお顔が素晴らしいと思う。額装してみて、改めていい絵だな、と感動した。ガラス額は高いのでアクリルにしたが、それでもけっこうな重さだ。どこかに飾りたいけれど、キチンとした設置をしないと落ちたら大変と思い、いったん箱に入れ、三津子の仕事机に置いた。

もう一つはF20号(727×606)と少し大きめのもの。三津子のホームページにも掲載してある「かわいいもの」というタイトルで描いた明るい油彩画だ。
ピンク地をバックに、集めていたキューピー人形のバリエーションを中心に、ぬいぐるみ、引っ張ると手足が伸びる変な宇宙人のゴム人形など、彼女のお気に入りの「かわいいもの」で埋め尽くしてある楽しい絵だ。
これを額装して、精華大に寄贈して飾ってもらおうと思っている。

F20ともなると額装を一人でやるのは結構大変な作業だったが、何とか汗だくになって完成させた。
やっぱり額にキチッと納まるとこれもいい絵だな…と思った。うちにはまだもう一つ「祭の午後」というF50号の大作もあるが、さすがに50号の額装は一人では無理。家の中に置いておくのも大変で、これもどちらかへ寄贈しようかどうか迷っている。俺は手元には未完成のマリア様があれば充分だし、子供たちの家では置けないだろう。
それにつけても、何をするにも一人なので本当に大変だ。
ここのところ日常の雑務は当たり前ながら、挨拶状作りや宛名書き、切手貼りや何やらでもうへとへとというのが正直なところ。でも誰も手伝ってくれる人はいないし、俺がやらなければ誰がやる。

「かわいいもの」2000年 油彩F20号昨日は唯一明青さんのおかあさんだけが、メールで「手紙届きましたよ」と言ってまた励ましてくれた。「ビール飲んで寝るしかないやんか!」と言ってくれて、そうだよね、三津子と一杯やろう、と思って飲んで寝たわけだ。13:45、途中だった「シンドラーのリスト」を再開する。

「シンドラーのリスト」を見終わり、特典映像の実際のホロコーストの生存者、シンドラーのリストの生き残りの人らの証言を見終わると5時近かった。今日届いた額縁を入れた巨大な段ボールと中のクッションを捨てに下へ行くと、小雨がさあさあと降っている。
その後は相撲。それから6時のNHKニュース。最近ニュースも新聞も真剣に見ていないのだけど、今日の夕方のニュースで神戸で新型インフルエンザの感染者が出たというのを聞いて驚いた。海外渡航歴のない高校生ということで、ということは、感染者が海外から持ち込み、今も知らぬ顔で菌をバラ撒き続けているということになる。
これは可能性があるとかないという問題ではなく、もう厳然とした事実だ。そして、関西圏で起きたということは、近畿一円に拡がる可能性もあるということになる。京都はただでさえ全国から不特定多数の人が出入りするところだから、マスクや手洗い、うがいなどをこれまで以上に気をつけよう。
今のところこのインフルエンザは通常の免疫力の人なら、さほど命に関わることにはならないという。なので「騒ぎすぎだ」という人やメディアもある。
冗談ではない、と思う。
確かに「発熱外来」を慌てて設けたりすることは落語のような話だと思う。なぜなら、いまだに「病院」というところは感染の最も起きやすい場所というパラドックスがあること自体が問題で、そのことが放置されたままだからだ。咳やくしゃみをしているのにマスクをせず、平気でそこらに菌をバラ撒くのを周囲が、あろうことか病院が放置している場合も多い。本人に「他人に移したらまずい」という知性がないことにも驚く。
そういう教育を周知徹底させ、病院では必ずそういう人には注意を喚起し隔離する、それを徹底させれば「発熱外来」など必要ない、通常の医療体制で十分だろうと思う。
俺は白血病で免疫力が著しく低下している。人が集まるところを避けよと言われても必ず病院へ行かねばならない。
「騒ぎすぎ」という人は、こういう人間も居るということへの思考が欠落しているのだろう。
18:16

…その後、これも録画しておいたフランスのドキュメンタリ「ヒトラーと4人の女たち」を見た。さらにはずみがついて映画「Hitler」も見る。
何か人類史上希に見る独裁者とそれに関わる悲劇…これも600万人が虐殺されたという人類史上希に見る悲劇を見ていると、あまりに浮世離れしているためか、やはり一人で現実を忘れて没入できる。
それにしてもエヴァ・ブラウンとかレニ・リーフェンシュタールとか言って「ああ、あの」とすぐ打てば響くような人って若い世代でどれくらい居るんだろうか。今は何かちょっと解らないことがあれば、すぐネットで調べたりWikipediaで調べて、「他人の主観」で書かれたことを「真実」であるかのように受け売りをすることが出来る。大学生の卒論や、博士課程の論文でさえそうしたものの切り貼りが多いと聞くが。

漫画や小説映画や音楽だけではなく、自然、動物、宇宙、人体、遺伝子や脳科学、先端医療、人類の発祥、失われた文明、深海への探査、そして不思議なことやお笑いや面白い切り口のバラエティ。
長く夫婦をやっていると、お互い打てば響くような会話が出来るようになる。好奇心や知的探求心の範囲をお互いかなり広く持っていた分、その重なりも大きかったし、長年一緒に暮らしたことでお互いの領域へとそれは拡がっていた。
そういう本当の意味での「連れ合い」である三津子を亡くしたことが、やはり寂しい。
今さら誰かと暮らすようなことが起きても(それは絶対にあり得ないが)、これらの共通の話題を普通に話せる、楽しめる相方が現れるはずもない。

20:24
たった今、三津子の旧友で長野に住む丸山節子さんから電話があった。三津子の死を俺からの挨拶状で知ったそうで、驚いて電話してきてくれた。何年か前、東京にいた頃に一度訪ねてきて下さり、わが家へ泊まっていただき、3人で飲んだことがある。その後何度か信州の採れたて野菜を送っていただいたりもした。曲がったキュウリやなすは土の匂いがして美味しかった。
丸山さんは「…でも白取さんと一緒になって良かったと思いますよ。山田さんいつもそう話してたし。私はね、彼女の前の旦那のこととか、昔からよく聞いてましたからね」と言ってくださる。古くからの親友なので、俺の知らないことも当然一杯知っていて、いつかそういう話をしたいと思っていたという。
俺もそういう話を聞くと思わず涙が出てしまう。
三津子は本当に俺と一緒で良かったんだろうか。旧友にそう言って貰えたことなど俺は知らなかったし、ひょっとしたら今の俺への慰めなのかも知れない。それでもいい、今そう言っていただけることが何よりも嬉しい。
長野とかへ寄ることがあったらぜひ連絡してください、とも言われる。恐らくはないとは思う、けれどそれでも本当に有り難い。身内でさえもう普通の日常へと戻っている。俺だけが時間が止まったかのように、いまだ三津子の死を悲しみ、乗り越えようともがいている。こういう人の言葉の何と有り難いことか。
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2009-05-15(Fri)

疲れが出ている

5月15日(金)
もう金曜日だ。しかも15:24。
夕べは7時前から、また三津子と差し向かいで飲んだ。もうそうしないと夜が寂しくて過ごせない。ニュースをはしごして12時ころ二階へ上がるが、暗い中三津子に話しかけているうちに1時近くになり、目が醒めたら朝だった。
また夢には出てくれなかった。
朝はベッドでとろとろしていると、ドアフォンで起こされた。銀行から書類の速達だった。そのまま起きて洗顔など済ませ、書類を作って、それから早めに出しておかねばならない人たちへの、三津子の葬儀が終わった旨挨拶状を作った。
ここのところ働き過ぎというか気が張ったままオーバーワークが続いている。肩がビキビキと痛い。
それでも作業は進めないといけない。
封筒の宛名は昨日全て手書きで書き終えていたので、まず香典、花、弔電をいただいた方々へ出す挨拶状を作る。二つ折りのカードの誤植一カ所は白いテープで一枚一枚消した。それを折ってユキのポストカードを一枚挟む。二つ折りの状態で、宛名の封筒に入れる。
それにさらに、三津子と俺の写真、やまだ紫としての略歴入りの紫の紙に、これも直筆で御礼や挨拶を書き入れて、封をする。切手はとりあえずうちに大量にある50円切手を2枚貼った。これはこれまでの年賀状や暑中見舞いなどのハガキで出さずに余っていたものを、こないだ郵便局へ持ってって切手に変えてもらったやつだ。
それら20通あまりを作り終えると、右肩と手首がパキパキとなる。

自分の場合、健康そうに見えてもやっぱり白血病であると、毎日思い知らされている。
全身のリンパ節に腫脹が出来るというか、塊のようなものが出来やすく、それも日によって違う。
一番大きな脾臓が腫れる時はしんどくて寝ているしかない。
縦隔のリンパ節が腫れた日は、心臓がキリキリと痛むかのような胸の痛みで、立っていられない。
耳の中が腫れれば神経が圧迫されメニエルと同じ症状が出る。
膝のリンパ節が腫れると、歩くのもしんどいし曲げると痛い。
手首の外側の場合は、キーボードを叩いたりものを書くのに筆圧がかかると辛い…。
まあ、こう書くともう死んだ方がいいんじゃないのかと思われるかも知れないが、日々こういう俺の様子を見て心配し支えてくれた三津子のために、俺は生きている。

10時ころ、自転車でまず郵便局前のポストへ出しに行った。それから郵便局のカウンタで80円切手を100枚買い、スーパーで即席のご飯類を見て、いくつか買う。長女のももちゃんが送ってくれたこういう食品で、おいしかったポトフなどのスープ類は残念ながら見つからなかった。それからコンビニへ寄り、注文しておいたカーペンターズのDVDを受け取って戻る。このDVDは夜に三津子の写真と一緒に見ながら一杯やるためだ。
それから朝というか早い昼というか、おにぎり2つとウーロン茶で済ませ、新聞と久しぶりに買ってきた文春を読んだ。
民主党の小沢代表辞任と後任の動きなど、世間の動向などはっきり言ってどうでもいいし、ゴシップ記事などはもっとどうでもいい。それでも何かに気持ちを逸らす時間が欲しい。


結局新聞や文春はななめ読みで終えてしまい、その後は午後は黙々と残りの挨拶状を作る。一筆入れる人は入れ、全部切手を貼り終えると3時をまわっていた。昼も食べていなかったが、その前に、今日2回目のポスト出しへ外に出る。
残っていたのは50、60通だったか。その束を持って外に出ると、日差しがまぶしい。肌を焼くような強い日差しなのに、気温が低い。風もひんやりしている。こんな気候ってどっかであったな…と思ったら、昔数日の間滞在したサンフランシスコに似ているなと思い出した。海もないし全然条件は違うが、日中の日差しは暑いのに、木陰に入るとひんやりするところとか、夜になるとぐっと冷え込むところとか。

踏切を越えてポストに挨拶状を何度かに分けて投函し、まっすぐマンションへ戻る。それから昨日買っておいたハムタマゴサラダを挟んだ小さなコッペパンを、ももちゃんが送ってくれた明治の「まるごと野菜 完熟トマトのミネストローネ」というのをレンジでチンして皿に開けて食べた。
これもまた、レンジで2分半で熱々の野菜スープが出来上がり。なかなかうまい。そういや三津子と二人でいつも野菜スープを作って、煮込んでは毎朝食べてたこともあったなあ、と思い出す。健康のためだと思って、俺が野菜を細かく刻んでコトコト煮込んで作った。京都へ来てからも何ヶ月か作っていたと思うが、三津子が朝は食欲がないと言うのでいつの間にかやめてしまった。その代わりにここ最近はいちごジュースになっていたのだったっけ。16:30


21:33
夕方は相撲を見たあと、7時ころから三津子の写真と向かい合ってまたビールを飲む。DVDでカーペンターズのドキュメンタリ「リメンバー・ザ・カーペンターズ」。三津子と一緒に見たかったなあ。ハープ・アルバートがA&Mで彼らを見いだした話が興味深い。リチャードとカレンは三津子とほとんど同世代。ちなみにカレンは50年生まれで、83年2月にご存知の通り、悲劇的な亡くなり方をしている。当時の報道は自分にとってかなりショックだったと記憶している。

今日は夕方明青のおかあさんから、元気か、葵祭やね、ビール飲んでちゃんと食べや、とメールが来る。もう身内でさえ何も言ってこないというのに、毎日心配してくれて、本当にありがたく涙が出る思いだ。早く一人でも写真でも持ってお店に伺いたいと思う。
けれど、もし俺が一人であのカウンタに座ったとしたら。想像してみると、自分の左隣にいつも座っていた三津子がいない、それだけで涙が止まらない。ダメだ、まだ行けない。
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2009-05-14(Thu)

はじめてお客が来る

5月14日(木)
このところ曜日の感覚がないというか、三津子と最後の夕飯を食べた土曜(4/25)、そして床について数時間後に倒れた翌日曜(4/26)。週末が大嫌いになった。亡くなった5日は連休中だったから、もとより曜日の感覚がない。
朝目が醒めても隣に三津子はおらず、しばしの後階段を降りても一人だ。トイレ、歯磨きと洗顔、写真におはようと語りかけ、お酒とお茶を片付けて新しいお茶をあげて、線香をつける。「ごめんね、ありがとう、ずっと愛してる」と手を合わせる。それから台所の洗い物をして、猫たちの水を取り替えて新しいご飯をあげる…。その間もずっと無言だし終わったところで話す相手もいない。「咳をしても一人」だからこうして記録に向かう。
間の日は月も金もみな同じようなものだ。

夕べは寝たのは11時半頃だったか。今朝は何度か目が醒めた後、8時半に起きた。
夕べはウインナくらいしか食べてなかったので、ももちゃんが送ってくれた「レンジでチンもの」の中から焼き豚チャーハンというのをチンしてみると、まあまあうまかった。最近のこうした即席食品は凄いね、と写真に話しつつ食べたのが9時過ぎだったか。

今朝はどうしよう。
外で黙々と一人で外食をしている人はもちろん多いけれど、ああいう人たちはかつての俺のように、仕事の途中などで「たまたま」一人で食べている場面だろうか。家に帰ればそこにはちゃんと迎えてくれる家人が居るのだろうか。
俺が今のところ一人でまだ外食する気になれないのは、今までほとんど三津子と二人で食べてきたからだ。でも今一人で何かを食べられるとすれば、それは家で写真と向き合って話しかけながらだけだ。
京都に夫婦ふたりっきりで引っ越してきてからは、二人で過ごす時間がもっと増えた。そうは言っても、もちろん何度か自分一人で食べに行ったことはある。彼女が大学へ向かう時に一緒に出て、俺だけ牛丼やココイチのカレーだのという下らぬもの(すいません、でも好き)を食べたりした。「カップヌードル」みたいなもので、たまに「あそこのあの味」が食べたい時は誰にでもあるだろう。
三津子が大学へ通うようになって間もないころは、早めに出て宝ヶ池の「ドルフ」で食べてから行ったりしていたが、ここ一年くらいはずっと、大学の研究室で簡単なパン類やスポンジケーキみたいなものだけを義務感で食べるという感じだったと思う。ここ一年ほどは、三津子は大学へ向かう前は「食欲がない」と言って、朝のイチゴジュースだけで出かけることが多かった。

「一人で食事をする」ということが、嫌いな人だった。
いつだったか、ずいぶん前に俺が青林堂に勤めている頃、帰りにどこかで待ち合わせてラーメンを食べようということにした。携帯もない時代で、「ガロ」編集部の黒電話に家から電話がかかってきて、「もう何分で出られそう」とか時間を合わせながらの、夫婦のささやかな楽しみだった。
それがどういうわけか何かイレギュラーな事態が発生し、出かけられなくなった。彼女はもう出ていて家には居なかった。しばらくすると「どうしたの」と公衆電話から連絡があった。「ごめん、行けなくなったから一人で食べて…」
結局俺たち社員の夕晩は店屋物にしたか、もう何で行けなくなったのかも覚えていないが(たぶん新刊が倉庫から到着したとか、そういう力仕事だったと思う)、帰宅すると三津子がふくれていた。
「私ね、一人でラーメン食べたんだよ。喉もと引きつらせて、寂しくさ」
と言って頬を膨らませていた。
「ごめんごめん」と謝ったが、女の人が一人で外で食事をするということが「恥ずかしいこと」という概念を初めて知った。その「喉をひきつらせて」一人でラーメンをすする、「美味しいね」と言い合う人もいない、もちろん無言で全てを終えて一人で家路につく。
二人で暮らしているのに、一人。
そんな些細なこと…と思われるだろうが、この「二人なのに一人」ということが彼女が寂しい、辛い、と感じていたことだ。同居するようになって6、7年も経つと俺は中堅編集者になってアレコレと忙しくなった。月刊誌の校了近くは戦場になったし、その合間に担当する単行本も抱え、さらに、毎日その間も書店から注文を受け、その都度伝票を書き、自分たちで本を梱包したり取次へ受け渡す支度をした。もちろん返品も受取り、それを狭い階段を上って部屋に積んだり、あるいはトラックを手配して倉庫まで運んで積んだりもした。その上、自分たちで作った本は分担して書店へ営業にまで行っていた。
そこら辺の人が「若い頃はコキ使われて苦労したよ」とよく言うが、恐らくそういう想像を超えていたと思う。
休日は疲れで「昼まで」寝ていたし、起きても居間に「ズシリと」腰を落ち着けて、外へ出る体力も気力もなかったと思う。彼女にしてみれば、我慢して我慢してようやくやってきた休日だ。二人で近所の土手でもいい、公園でもいい。どこかへ散歩へ行きたいと思う。けれど俺も忙しく疲れていることを知っているから、あまり強くは言わなかった。だから、寂しかったと思う。
「二人で暮らしているのに、いつも私は一人だ」
そう言われたこともある。胸にズキッときた。申し訳ないな、と思った。97年に親会社に移籍した後、元の「ガロ」編集部の連中がクーデターを起こして自分たちで新しい出版社を興した前後は、その忙しさは殺人的なものだった。家に帰って倒れたことも1度ではない。

三津子は怒っていた。
何でこんな目に逢わなきゃならないの、悪いのは向こうでしょ。
法律も犯してるし人の道にも外れてる。
自分たちの都合で「ガロ」を殺した。嘘をついて人を騙した。
でも周りの人たちは何で、誰も「筋道を通せ」って言わないの?
何であなたがその尻ぬぐいで失業保険貰ってまで賭けずり廻って倒れなきゃいけないの!

俺ももう、限界だった。ふたりで小さな事務所を興して、彼女は従来の執筆を、俺はそのサポートと編集やWEB構築・管理などの仕事をはじめた。最初は順調で、お互い一緒の時間も増えた。けれどそのうち不景気もあって、数年で仕事がどんどん減り始めた。また、苦労の連続になった。
彼女はこの頃から、気持ちが沈みはじめた。答えの見つからない質問を心で繰り返すうちに、自分を責めはじめた。「何でわたしたちだけがこんな目に」と。気持ちが沈み、さらに病気や不幸が重なったことがあった。
ほんとうに、色々なことがあった。詳しく書けばそれこそドラマになる、いや「実際」はドラマなんて作り事の悲劇や苦しみなどを遥かに凌駕する。

それでも俺はずっと側に居てあげることができた。もし、またどこかの会社へ勤めたりしていたらと思うと、彼女がほんとうにたった一人でそれらと向き合うことになった、だとしたら彼女の命はもっと早くなくなっていたかも知れない。

そんな中、2005年には俺が全く予想もしなかった白血病の宣告を受けた。当初は余命一年無いという進行の早いタイプだと想定され、すぐに入院となった。けれど途中から詳細な分析と検査の結果、極めて進行の遅いタイプと解り、自宅で経過観察となった。それから一度、翌年に一度三津子は吐血入院したものの、3年の間、ようやく平穏な生活が訪れたのだ。特に京都へ転居してからは。
今のところ京都市内で二人で行ったどの店へも、まだ俺一人では入れない。だから外食が出来ない。写真を持ってって向かいの席に立て、それに向かって真顔で話しかけながら食べていたら、店も迷惑だろう。家ならそれが出来る。それが出来るから、ものが何とか食べられる。9:22


15:11
ついさっき、旧知の知り合いであるSさんが帰られた。

今日は午前中に相次いで注文していた挨拶状のカードと三津子が描いたユキちゃんの絵をポストカードにしたもの、さらにローリングクレイドルことS君からは花が届いた。さらにこれも注文してあったアルコールティッシュ類、別の医療品店からウェルパスなどが届いた。
カードを確認したら、自分で打ち込んでイラストレーターで仕上げた版下に、取り忘れたひらがなが一つ残ってい。校正をちゃんとしたつもりだったが、やっぱりダメ編集者だな、と思った。
それから10時過ぎにももちゃんが送ってくれたレトルトや即席食品の中から、レンジでチンするだけのポトフと、水を入れてかき混ぜてチンするチキンライスを食べた。最近のこういうのってやっぱりバカに出来ないね、と写真の三津子に話しながら食べた。
それから、封筒に手書きで宛名をずっと書いていた。90枚ほどを2時間ほどかかって筆ペンで書いていた。

今日は2時にSさんがぜひにと言って訪ねて来られる予定だった。
三津子が倒れてから誰も家の中には入れていなかったし、正直を言うとまだ人と会うのが辛い部分はある。
けれど「どうしても」とおっしゃったのと、であれば何かの流れ、お導きもあるだろうと思って了承した。
Sさんは俺と同じ「地図オタク」とかで、住所だけで何と玄関前まで時間通りに来られたのでビックリした。
Sさんは元々大手の版元の編集畑にいた人だが、後に独立して版元を興した。元々いた版元では派閥争いなどでそうとうゴタガタがあり、独立したとも聞いていた。その後興した会社が倒産してしまってから、ずいぶんと大変な思いをされた。もちろん家や土地などは全て負債の返済に充てたということも聞いていた。

Sさんにはソファの三津子がいつも座っていたところは避けてもらい、俺が座っている側寄りに座っていただいた。テーブルの上に花と遺影があるので、線香をつけて手前に置き、合掌していただく。
それからお断りしたのだけど、お香典をいただいてしまう。その上、以前俺たちの事務所が仕事として戴いていた、Sさんの経営する版元のWEBサイトの管理・更新料、最後の分が倒産で支払えなかったからと、持って来られた。
そんなことはもう済んだことですし、ご苦労されたんですから結構ですと固辞したのだけど、これは経理をされていた奥さんが「ぜひお返しして」と言うことで、消費税まできっちり入っている。結局これも、妻からきつく言われてきましたのでと押し切られた。
それから三津子の思い出話や、出版界のこと、新しい企画をやまだ先生にぜひお願いしたかった…という話などをする。その話は実際少し前に連絡があって直接三津子…やまだと話したことだし、彼女も「よーし、何を描くことになるかわかんないけど頑張るぞぉ!」と言っていた。
そうしてライトテーブルも軽くて明るいものに買い換えたばかりだったし、「アシスタントなら(学生がバイト&実習ということで)たくさんいるからね!」と言って笑っていたのを思い出す。Sさんは三津子の中公文庫『御伽草子』を高く評価してくれており、次に何を描いていただくか楽しみだったと話される。

一時間ほどお話をさせていただき、Sさんは3時過ぎに帰られた。京都はちょくちょく来るので、そのうち食事でもしましょうと言っていただいた。有り難いし、何よりやっぱり来ていただいて良かったと思った。
文庫は小さいとか贅沢は言っていられない。手に取って読めるかたちでやまだ紫の作品を後に遺すこと。それが一番の希望だ。何とかそういう方向へつながればいいな、と思った。
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2009-05-08(Fri)

私は大丈夫です。

5日に愛する妻である三津子、また敬愛する漫画家・作家であった やまだ紫 の訃報をここに掲載してから、更新が途切れていました。
そのことで、「大丈夫なのか」とご心配をいただくことになってしまい、申し訳ありません。
この間も実は記録は止まっていません。
むしろ一人になってしまったことが、自分を全ての事象の記録へと動かしていると解ります。

彼女の密葬。肉体が焼かれ灰となった日。

全てを記録しています。記録しておかないと、ほんとうに何もか「消えて」しまい、彼女の魂さえ自分の側からいなくなってしまいそうで。

自分にとって生涯最大にして最後の苦痛と不幸を、この一連の記事として記録することで自分を癒していることは、皆さんもよくお解りだと思います。
いずれ、このブログの空白も埋めるつもりです。そして、彼女と楽しかった京都での生活へと遡って行こうとも思っています。


昨日、彼女の死が通信社から配信され、新聞などに訃報として掲載されました。
それと共に、ブログへのアクセスも急増し、コメントもたくさんいただきました。

「掲載はしなくて結構です」というコメントもたくさんいただいています。
またメールでの追悼、私ごときへの励ましも、たくさんいただいております。
一つ一つにとても返信が出来ず、ただただ感謝の気持ちで一杯です。

(私は彼女のプロフィールを、問い合わせがあったところに返信しました。
けれどそこに「参院選挙に立候補」ということは書いていません。
もちろんそれは事実ですが、作品やメディアを通じて知り合った方に頼まれて、名前を貸したようなものです。彼女は特段政治的な、あるいは確固たるイデオロギーがあって社会運動などをするようなひとではありませんでした。
正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、いつも静かにそう言ってきただけです。
立候補ウンヌンは別段隠すことでもなければ、声高に言うことでもありません。
けれど、彼女の作品も知らず、それだけを見て政治的な色をつけるような人も多いのでしょう。こういうことでも、マスメディアはひとを平気で傷つけていきますね。)

人が死ぬと、遺された者がその悲しみから癒える間もなく、さまざまな「手続き」が必要になります。そんな準備を周到にしている人など、あまり居ないでしょう。
ましてや最愛の人を失った、半身をもぎ取られたような状態の人間が、その傷も癒えぬままに動かねばなりません。
それでも自分の他にやる者はおらず、日々忙殺されています。
まだまだこれは続くようです。

しかし もし、26日のあの悪夢のような時間がきて、そのまま悪魔か鬼が彼女を連れ去ってしまっていたとしたら。
私は今こうしておれないと思います。
死病を抱え展望のない状態のなか、自分を励まし癒し支えてくれたのは、自身も病気を抱える妻の三津子でした。大きな愛で、包み込んでくれました。
その彼女がアッという間に自分の前から掻き消えたとしたら、私はもう最後の希望すら失い、恐らくすぐに後を追っていたと思います。実際数日の間の自分は最悪の精神状態でした。
彼女の親戚や身内の皆さんにも、行き届かないことで非礼をしたと思います。

それでも彼女の肉体がまだ温かく「そこにある」時間が続いたおかげで、身内とのお別れも出来ました。さらには私自身が「彼女の死」を、その「意味」を現実のものとして受け入れ、乗り越えていくことができました。

その課程で、不思議なこともたくさん起こりました。
その一つ一つをとても披露は出来ません。したところで、今の時代では嗤われるだけなのも知っています。

けれど、彼女は今も側にいてくれます。
そして、行き場も解らない暗闇の中、まるで溺れもがいているような自分に、
彼女は明るい灯をともし、掲げ、道を教えてくれています。

彼女が倒れた日はずっと寒い時雨が続いていました。
その後も、涙雨が私に降り注ぎ、うちひしがれた気持ちをさらに暗くしました。

今日の夕方、いくつかの懸案にメドがつきそうな気配がありました。三津子が恐らくは、あちこち飛び回ってくれたのでしょう。少し気持ちに余裕が出来て、彼女の母親に書いた手紙…先日来の非礼の謝罪と、御礼を出さねばと思い玄関から出ました。すると、鬼門の方角にそびえる比叡山が光り輝いて見えました。

雨はやみ、西に傾いた日差しが比叡山の山頂を照らし、山肌を金色に染めていました。

ああ、彼女は側にいて、灯をともしてくれている。
涙が溢れてしまい、しばらく動けませんでした。

訃報を知って、何人かの古い友人や知り合いが電話などで励ましてくれています。
もちろんメールやコメントでも、また弔電やお花もいただきました。
この場を借りて、皆さんに厚く御礼申し上げます。
私にはまだまだやらねばならないことがたくさん、あります。

明青さんより花を頂戴しました
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2009-05-05(Tue)

やまだ紫 永眠

やまだ紫(白取三津子)は本日
午前4時16分、永眠しました。
やまだ紫(白取三津子)

最後は顔のむくみも取れ、綺麗な顔で安らかに眠るように静かに逝きました。

最後までご心配をいただいた皆様に御礼申し上げます。
葬儀は近しい親族だけの密葬にて済ませ、東京の実家のお墓に納骨されます。

素晴らしい才能を持つ漫画家いや作家であり、素晴らしい母であり、そして何より素晴らしい人間でした。一緒に居られたことを心から、魂から感謝しています。

皆さん、本当にありがとうございました。

夫 白取千夏雄
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2009-05-04(Mon)

「Only Yesterday」の意味を知る

…前の記録のあと、やっぱり何のメッセージなのか気になって、歌詞の和訳を調べてしまった。
そして歌詞の意味を知って、今日は泣くまいと思ったのに涙が出て仕方がなかった。感謝の涙だ。

今日は朝起きてすぐ、NHKの朝ドラの主題歌「愛の季節」を聞いた時の心は穏やかだった。
それからしばらく、無難なBS1でメジャーリーグ中継をずっとつけていた。試合経過がどうというより、二人で暮らしている時にはいつもTVをつけていたからだ。けれどおふざけやギャグ、バラエティやワイドショーはどうしてもまだ駄目だ。何となくTVがついていて、音がそこそこ聞こえていれば、それでいい。

でもそうしながらもずっと、カーペンターズの『Only Yesterday』が頭の中でずっと繰り返されていた。こないだまではカーペンターズでも『I need to be in love』、そしてアンジェラ・アキ『愛の季節』…。

なぜ今日は『Only Yesterday』なのか。

歌詞の意味など知らぬ間にメロディやなんとなくの英語の「音」を覚えてしまったので、正確な歌詞を今もって知らなかった。
きっとこの曲にも三津子からのメッセージがあるのだと、気にしていた。でもそれが何なのかを知ってしまうのも正直、怖かった。

その間も病院へ行って帰って来たり、ご飯を食べたりメールで子供たちに報告をしたり、記録をつけたりお袋とメールのやりとりをしたりしていた。
けれど今日カーペンターズを部屋ではBGMとしてかけてはいない。頭の中でずっと『Only Yesterday』が繰り返されていたからだろうか。

俺はお涙頂戴の嘘や、出来すぎた「ドラマ」を創作しているのでは、断じてない。
それにそんな「才能」も心の余裕もない。
このどうしようもなく辛い時間を埋めるために書いて書いて書いて、それをアップして誤字脱字を見つけては修正してアップして…いるだけだ。キーボードを叩くのが速いことは、もう触って長いので当然だ。自動書記のようにこうしてガンガンぶつけている、それが尋常なペースと量でないことも自覚している。

『Only Yesterday』は俺が生涯で初めて聞いたカーペンターズのシングルレコードだった。ジャケットは銀色に黒で、モノトーンのカレンとリチャードの顔とロゴがデザインされたやつだとはっきり覚えている。
でも聞いた場所が思い出せない、実家だったか苫小牧の親戚の家(年の離れたKさんという従兄弟で、小学生だった俺に「ガロ」や「COM」を見せてくれたのもこの人)だったかよく思い出せない…。
とにかく当時の俺は小学生だったと思う、兄貴と一緒だったろうか、針をシングルレコードに落とすとバスドラとハイハット(とはまだ知らなかったが)の印象的なカウントから、男の声域のような低い声が聞こえて、すぐに女の声になった、あるいは一瞬レコード盤が歪んでいるのかと思ったほど驚いた。
歌詞の対訳もついていたはずだけど、コドモだったので深くは考えず、英語の「音」だけを追って正確なものとはほど遠い覚え方をしたと思う。

でもすぐに、それでカーペンターズが大好きになった。うちにはLPレコードもあった(と思う)ので、すぐにお気に入りになった。ちなみに同時期ビートルズも聞いていたが、「HELP!」はカーペンターズの美しいアレンジの方がいいと思った時期がある。

それが原点で、大人になってからは三津子との仲が接近することの一つになった。
漫画、猫、カーペンターズ…共通の話題がいくつもあって、17の年齢差がどうこうよりまず、仲良くなるスピードの方が早過ぎて、年齢差を意識する暇がなかったというのが本当のところだったと思う。

初めて聞いてから30余年経って、こんな形で深く歌詞の意味を知ってしまうとは思わなかった。

我慢しようと思っても、どうしても泣けて仕方がない。
カーペンターズのサウンド…いやカレンの声は、彼女自身の悲劇的な後半生が重なるせいか、明るい曲を歌っていても哀愁があって、どこか悲しく切ないものに聞こえる。それに時代を超えて愛されているから、子供の頃に出逢い残っているものが、年齢を経て別な感慨を持つことも出来る。

…それを自身の「現在」に無理矢理当てはめて、浸るのだ。
そういう冷静な「理屈」は理解できるし、やまだ紫作品もそういうもの=年齢を重ねると違う味わいが出るものだから、よく解る。
時代を超越するアーティストの作品とは、だいたいそういうものだ。

だけど、余りの符合と、まるで本当に「贈られてきた」かのようなこの体験を「偶然」だと思いたくない。
毎晩毎晩、夜に一人で悲しみに耐える自分に、こうしてメッセージを贈ってくれるのだと思いたい。
女性が歌う詩なのに「When you hold me」ではなく「When I hold you」であること、
「Tomorrow may be even brighter than today
Since I threw my sadness away
Only yesterday」
という明るい明日が来るというメッセージ。
そして
「I have found my home here in your arms
Nowhere else on earth Id really rather be
Life waits for us Share it with me
The best is about to be
So much is left for us to see」
という、これからが本当に二人が一心同体になるのだという予感。

ああ、俺や娘たちの祈りが届いた。
きっと、このひとの魂はすぐに解放される…。
幸福感と言ったら正直ウソかも知れないが、病院から暗い気持ちで毎日帰って来て、そのままの気分で居ることがなくなった。
明日を迎える勇気が出た。ありがとう、三津子。
22:43
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2009-05-04(Mon)

「Only Yesterday」

20:04
その後、ももちゃんとゆうちゃんに今日の様子を報告した。ゆうちゃんは昨日の俺のパソコンからのメールが受信拒否設定で読めなかったらしい。何となく返信が無かったので今日は携帯から二人にメールをするように戻した。
その後しばらくして、ももちゃんから返信が来た。

夕べ夢の中に三津子が出て来たという。

真っ暗なトンネルを歩いていて、
「こんな不衛生なところ、早く出ましょ!」って三津子が言ったところでハッと目が覚めたのだという。「だからママのお父さんやジローたちに、早くトンネルの出口へ連れてって貰えるようにお願いする」と。
俺もすぐお線香を3本つけて、三津子のお父さんや、三津子を可愛がってくれたと話していた、おばあちゃん達に祈った。

「三津子さんは迷っているようです。早く、連れだして下さい。導き出して上げてください…。」
それから立ち上がって、部屋の中を声を出して見回しながら呼びかけた。

あなたはひょっとしたら今、迷っているのかい。
俺は全てを達観しているものと思っていたんだけど、違ったのか。
あなたの肉体はもう、戻ってはいけない体になっているんだよ。
あそこに執着していては駄目だ。早く抜け出て、自由になってくれよ。
ほら、何で君の結婚指輪がここにある? 何で俺のネックレスに通ってる?
あなたは今、どこに居る? 見てるんでしょ?
俺には残念ながら君の姿が見えないし、声も聞こえない。
あなたはそのことを知って、混乱しているのか?
自分の声が届かない、触っても解らないって、ひょっとして混乱している?
あなたの手を握ったり腕を組んだり、抱きしめたり出来なくなるのは俺も辛い。
俺だってあなたの肉体が無くなってしまうことを、完全に受け入れられていない。
でも何とか、ちょとずつ今、時間をかけ、理解しようとしているじゃないか。
あなた自身も恐らく、気が付きつつあるんじゃないか?
もう迷わなくていい。早く自由になって、本当に側に来てよ。
三津子さん。
何か解るように返事は出来ない?
壁を叩いてもいい、あの飾りを動かしてもいいよ。
とにかく、もうそのトンネルを出て、光の方へ向かって…。

知らない人が見たら芝居の稽古か、あるいは気が違ったかと思うだろう。
でもこちらは大まじめだ。真剣に話しかけている。

ももちゃんから「ジローにもお願いしてみる」とメールが来る。
たいそうなことは頼んでないが、今まで、三津子が最も愛した猫のジローへの願いは全部叶ったそうだ。そういや昨日・一昨日か、ジローの写真だけ額に入ってなかったのを可哀想に思って、綺麗に額装したばかりだ。そうちゃんやマイちゃんの額と一緒に、三津子の写真を囲むように置く。

これまで忘れ物を気付かせてくれたり沈んだ気持ちを笑いで盛り上げたり、そういうことを身の回りでやってくれたのは、「確信的に」やってくれていると思っていた。
違うのかい?
それとも自分は普段と同じように俺たちが沈んでいると、わざとふざけてくれていたのか。それでもずっと俺がふさぎこんだり写真に向かって話したりしているのがおかしいと思うようになった? なぜ自分から話しかけても答えてくれないんだろうって思った? それは…。

フと見るとPCの方に函館のお袋からメールが来ていた。
三津子さん三津子さん、悔しい悲しい、悪夢なら醒めてと彼女の魂を引き留めている。何度かのやりとりのあと、安らかに旅立つよう皆で祈る。

全てがつながっていて、動いていることが解る。
あとは、迷わないように、光の方へ進め…、そう願い、祈ろう。
不思議と涙は出ない。俺は強くなったのか、人として階段を着実に登っていられているか。

人のせいにしない。
人を呪えば自分に返る。
他人に迷惑をかけない。
悪いと思ったら謝ろう。
良くされたらお礼をその都度言おう。
人として恥ずかしくない生き方をしよう。
変な宗教みたいで何だが、当たり前のことを当たり前に実践し生きて行くことは難しい。
こんなこともキチンと出来ていなかった自分が情けなくて仕方がない。

よそ様にはそこそこいい顔をしていたくせに、最愛の「連れ合い」にはなぜおろそかになる?

看護婦さんにはしたり顔で「墓に布団はかけられませんしね…」などと言えた口か。
愛するひとにその愛を告げること、相手に愛されている、必要とされていることをちゃんと理解してもらえるようなことが、そんなに「恥ずかしい」ことか。
当たり前のこともまともに出来ない人間の方がはるかに恥ずかしい。
辛いのはみんな同じ、楽々と生きられる人間は「何か」に「気付いていない」方が多い。
誰かのせいに転嫁したり人を非難するのは、やめにしたい。そして祈りたい。

今朝…いや日中からなぜか、どうにもカーペンターズの「Only Yesterday」が頭の中で鳴り響いている。気が付いたら口ずさんでいる。
きっとこの歌詞が彼女からのメッセージだ。でも調べられないでいる。
知るのがちょっと怖いような気もする。
21:47
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2009-05-04(Mon)

連れ合いが倒れた 21

今日の様子
やまだ紫の容態にあまり変化はありませんでした。
血圧がやや降下していましたが、看護婦さんによると「著しい変化」と呼べるものではないようです。
今日も彼女の母と姉が来てくれました。 以上です…。
何か変化があってもなくても、ここで必ずご報告します。

以下は個人的な日記ですので、読まずに飛ばしていただいて結構です。
たくさん、励ましのメールをいただいて、ありがとうございます。全てに御礼をキチンと出来ないのがもどかしいです。御礼申し上げます。
「あなたは書き続けるべきです。書いて下さい。」「もっともっとお二人のことを知りたいです」
自分を癒し、この最大の悲しみと苦痛を乗り越えるために始めたことですが、そう言って下さる方が多くて、有り難いです。



夕べは二階の寝室へ行って電気を消し、目を閉じて三津子に語りかけながら寝ようと横になった。暗い中、これまでのことを色々思い出して、謝ったり礼を言ったりの繰り返しだ。
そして、最近よく思い出す話をした。

数年前にまだ東京のマンションに居た頃、病気のことや色々あって三津子の気持ちが不安定だった頃だ。毎日すぐ側に居ながら、気持ちの浮き沈みに俺は注意深く対応をしていたつもりだった。彼女は自分を責めていた。
その日も俺は居間のソファの横にある仕事机でパソコンと向き合いながら、チラチラとソファに座っている三津子の様子を気にしていた。常にパソコンのモニタの視界の端には、三津子が居るようにしていた。
彼女はテレビがついているのを「ただ眺めている」だけだった。また仕事をしてチラ、と見ると今度は頭が下を向いていた。目をつむり、口元はギュッと結ばれていた。
とても可哀想で見ていられなくなって、思わず仕事の手を止めて立ち上がった。
三津子の側に立ち「ちょっと立って」と言うと、困ったような驚いたような顔をしてゆっくり彼女が立ち上がった。
俺はその彼女の体をぎゅう、と力一杯抱きしめた。
瞬間三津子は「う、ううううう!」と俺の腕の中で号泣した。

俺は抱きしめながら「ごめんね、もっと早くこうしてあげるべきだった」と言ったらちょっと俺も涙が出た。
溜めて溜めて、俺が「大丈夫?」と聞けば力なく頷くだけで、辛い思いを一人で抱え、そうして気持ちを深く沈めていたのだ。三津子はずっと泣いていた。
この場面を思い出すと、俺はいつも後悔と自責の念で苦しくなる。涙が出る。

…「あれから毎日、あなたのことを抱きしめ、愛してるよ、俺のために元気になって欲しいと言い続けてあげていたら…」と暗闇の中、語りかける。
「俺は本当にあなたに悪いことをし…」まで言ったら、外から突然
「うおーーー!」という男の大声がした。
マンションの裏手の方か、酔っぱらいかも知れない。寝に入ろうとして脇で丸くなっていたシマが、ビクッとして外の方を見る。
そうか、悲しい思い出話や暗い話はやめよう。

そして、今度はこないだの楽しい旅行の話にした。
「楽しかったなあ、あの旅行。あれも500円玉貯金で行ったんだよね、能登の時みたいに。
とにかくケチケチするのはやめて『二人で貯めたんだからドーンとやろうよ』と言って。
 覚えてる? あなたは白浜から奈良へ向かう電車の中で、騒いでいた女子大生グループの騒音に顔をしかめていたね。普段なら俺が顔をしかめて先に怒るところだけど、あなたが先に怒ってくれた。俺の方が気にするなよ、とか逆になだめたりして。俺が怒るのを先回りして、フタをしてくれた。
 そしてせっかくの旅行なんだから…って別な車両に移ることにしたんだよね。
その時振り返ったら、あなたはその5人に
『周りの皆さんの迷惑も考えなさい。静かにしなさい』って注意していた。
あれは立派だった。
あなたは本当に正しいし、それを実践していたよね。
本当に立派だった…」

寝る前に飲んだレンドルミンが効いてきたようで、あくびが出た。ゆっくり切れ切れに、話す。
「奈良公園では…鹿せんべい買ったらあなたに鹿が群がって…ワーキャー逃げ回ったりして。楽しかったねえ。
 あなたがどうしても一回泊まりたい、長年の夢だって言ってた奈良ホテル。
 あのディナーも最高だった。
『また絶対来ようね』って言ったよね。
 それなのに…もう駄目なんだね…」とまた湿っぽくなってしまう。すると、また外で
「いあーおうーー!!!!!」というような、意味不明の男の大声が響き渡った。
さっきの声と同じようだ。
俺の話が湿っぽくなりかかると2度、これで諫められた。
「解った解った、もうしないよ。それにしても凄いな…」そう思ったらちょっと怖くなって、暗いままベランダに出てみた。シマもベッドの上で起き上がってこちらを見ている。
大声がしたのは、うちの裏手を流れる疎水分流のあたり。けれど、何の声もしない。誰も歩いていないし、そもそも人がいない。
最初の声がしてから5分以上は経っていたので、酔っぱらいがずっと居たのなら、その間や前後、そして今誰かがいないと不自然なのになあ…、と思った。それにしてももの凄い大音声だったから、路上ではなくどっかのマンションから叫んだのにしても、周囲の灯りがついたり苦情が出たりしないのだろうか。
そういう「異変」に対して「ざわついた感じ」が全くない。直後だというのに、マンションの裏の家々、路地は静まりかえっている。
いろいろ考えたが、「偶然」で片付けようと思えば片付けられる話だ。でもその「偶然」が、このタイミングで続けて起こることは、きっと「必然」なのだろうね。

(もう悲しい話はやめようよ。楽しい思い出話をして、笑って。)
そう言われていると思って、隣に戻ったシマをなでていたら、いつの間にか眠っていた。


朝、目が覚めたら6時過ぎだった。夕べ寝るときにずいぶん長く三津子に話をしていたので、眠い。
7時半頃までとろとろとしてから、8時前に起きた。三津子に「おはよう」と言う。
しばらくぼーっとした後、夫婦が起きたらすぐそうしていたように、テレビをつけた。トイレと洗顔を済ませて戻り、三津子の赤い室内着を抱いた。その時テレビから流れたきたのはちょうど、アンジェラ・アキの「愛の季節」だ。目を閉じて立ったまま、二人で聞いた。
それからお酒を捨てて熱いお茶を淹れ、しばらくお茶を飲んでから昨日買っておいたおにぎりを食べた。

昼ころまで何をしていたか、あんまり覚えていない。
突然思い立って押し入れの中にあった古いビデオカメラを取り出してコードを電源に差し込んだり。テープが入っていたので巻き戻してみたら、どこかでゆうちゃん一家とお姉さんとご飯を食べた時の映像だった。
今は二人とも小学生になっている孫娘だが、MTはまだ4つか5つくらいでカメラに向かってはしゃいでおり、SNはまだ赤ちゃんだ。
三津子ももちろん、みんな笑っていた。
そうだ、俺たちはいつも集まって笑っていたじゃないか。

それからその頃の写真をデジカメのフォルダで探したりしているうちに、奥湯河原への温泉旅行のフォルダにあたる。そこで三津子のいい笑顔の写真を見つけた。そうだ、この写真…。
三津子は何とも言えない幸福そうな、嬉しそうな心からの柔和な笑顔で写っている。「ばーちゃん」つまり彼女の母と並んで、「娘」の顔になっている。
この写真は俺が向かい側からお母さんのフィルムカメラで撮影したもので、あとで焼き増しして送っていただいたものだ。それをスキャニングして、デジタル画像にしてある。
同じ日にこちらのデジカメで撮影したデータを見て、撮影日を確認すると、奇しくも2003年の9月5日、つまり三津子の55回目の誕生日のものだった。
そうだ、あの日はそうだったんだね。

あの旅行で終始、お母さんは三津子に優しかったね。
行きがけに、秋口でまだまだ暑いのに薄着で来た三津子を見て、「冷房で冷えるから」と言って大丸で真っ白な、カーディガンを買ってくれた。三津子は少女のように喜んでいた、「ばーちゃん、ありがとう!」って。心から嬉しそうな、気持ちのいい笑顔だった。

その旅行の中での、一枚のスナップが、先の9月5日の午後に撮影されたものだ。

途中お昼に寄った蕎麦屋の座敷で、お母さんのカメラを借りて、俺が向けたレンズにお母さんが笑顔を見せて、その隣で三津子が笑っている。母親にちょっと寄り添うような傾き方をして、何とも言いようのない、素晴らしい微笑みを浮かべている。
積極的に腕を取ったり、くっついたりして甘えられるような人ではなかったので、三津子も母に寄り添うのも遠慮がちな印象さえ受ける。何よりも二人とも素晴らしい笑顔のスナップだ。

それを見て改めて、俺は思った。

「…そうか、あなたにとって人生最良の幸福の瞬間は、ここだった…」

俺は京都へ転居し、二人であちこち一緒に歩いたり、おいしいものを食べたり出来た、この2年足らずの間がそうだと思っていた。三津子も確かにそう言ってくれた。だから、そうなのだと思っていた。

けれど、奈良で二人で撮ってもらった三津子の笑顔(「最良の日々」)は、一緒に暮らした三津子の最高の笑顔というよりは、何かはかない仏様のような神々しさを感じる不思議な顔だ。
確かに素晴らしい、最高の瞬間、最高の笑顔ではある。けれど、あんな少女のようで女神のようにも見える顔は、普段一緒に暮らしている三津子ではない気がしてならない…。

それに比べると、あの遠慮がちに寄り添う母子のスナップでの三津子は、そういう「はかなさ」というか、現実世界に存在していないかのような「ゆらぎ」や「疑い」がない。
しっかりとこの世界で生きている人間が最大の幸福に浸っている「確かさ」がある。

そうだ、俺などと出会うずっとずっと前から待ち望んでいた、まさに幸福でいっぱいの瞬間だったのだ。

これが三津子の人生で最大の幸福の瞬間だ。

俺の方こそ独善的で思い上がった人間だった、と思った。
俺と一緒が一番シアワセだったはずだ、などと調子に乗っていた。

…そうだ、この写真をプリントして、改めて彼女の母と姉に渡そう。持っていてもらおう。そう思ってPhotoshopに貼り付けて2枚印刷しようとした。気がついたら、もう1時半になっていた。
ところがこないだライトマゼンタのインクを取り替えたばかりなのに、今度はシアンが切れたと表示が出た。アレと思って取り替えて印刷をかけようとしたら、今度はフォトブラックが切れたサインが出る。

そうか、「今そんなことをしなくていい」と三津子が言っている。

お母さんは「俺という人間」そのものに対して、怒りの感情を持っていて当然だ。
母として「娘を先に失う」というやり場のない「怒り」は、全てが俺に向けられるだろう。
「あんたと一緒になったばかりに」と。
無理もないし、その通りかも知れない。
その「ばーちゃん」に、俺が今あの楽しかった最良の瞬間の写真を見せるのは、傷に塩をすり込むような行為だ。無神経にも程がある。

三津子はそれを察知して、やめさせようとしてくれている。
「わかった、持って行かない。俺が悪かった。」
そのまま着替えをして、病室へ持って行く荷物を持って部屋を出た。

今日は少し曇っており気温は高めだけど、何となく気持ちが沈むような天気だ。
向かいへ渡ってすぐタクシーを拾い、病院へ着くとまだ1時50分だった。面会は2時からだが、まっすぐ脳外科のNSへ行き、持って来た袋を見せて
「白取ですが、昨日言われたものを揃えて来ましたのでいいですか」と言うと
「あ、ありがとうございます、どうぞ」と快く通してくれた。

三津子の顔の腫れはやや引いていたのは嬉しかったが、まぶたが相変わらず赤いのが気になる。
今日の担当は昨日とは違う若いナースで、昨日頼まれたものを持って来たと、確認してもらう。血圧がちょっとだけ下がっているが、こうして徐々に、「その時」に向かっているのだろうか。
ナースが三津子の顔に持って行った保湿液を塗ってくれたりして、少し話をした後、あとは二人きりになった。
手を握って、枕元に顔を近付け、囁くようにずっと話し続けた。

「君はゆうべ、俺の周りに居てくれたね。もう、肉体から完全に離れていいんだよ。
 60年もこの体に居たんだから、離れがたい気持ちはよく解るよ。そんなに簡単に服を脱ぎ捨てるようには行かないってことも。
 でも、いつまでもこうして居られるわけじゃない。ばーちゃんやねーちゃんをいつまでも泣かせないでよ。
 俺だってこうやって手を握ればあったかいし、まるでソファでいつも寝ていたような顔を見ると、切なくてしょうがない。
 君の手をこうして握ったり、細い肩をさすったり、髪をなでたり、何よりもう抱きしめられないことが辛くて仕方がないよ。
 でも、俺がそうやって君の肉体があることに執着をすれば、あなたはますます去りがたくなってしまうんだよね。自由になろう。
 ばーちゃんは『東京へ帰ろう』って言ってる。魂になれば、どこへだって瞬時に行ける。
 誰かがあなたに『今ここに来て』と望めば、いつでもそこへ行けるはずだよ。だから…」
ひたすら、手を握って目を閉じて、囁き続ける。ベッドはカメラでモニタされているが、関係ない。
30分近くそうしていたか。
ナースが入ってきて、「あの、体拭きをさせて戴きたいので…」という。終わったら声をかけてくれるというので「じゃあ出てますね」といったん外へ出ることにした。
脳外科の外のソファなどがあるところへ腰掛け、しばらく休んでいると、お母さんたちが通りかかった。挨拶をし、「今体を拭いてもらってますので…」と言って、ソファで待つ。5分ほど待って「ちょっと見て来ます」と言って病室を覗きに行く。体拭きと着替えは終えてくれていた。
とって返して、お二人に終わっていることを告げて、病棟へ向かう。病室ではナースが点滴交換などの処置をしており、二人はすぐに三津子の枕元に並んで顔をのぞき込んで話しかけている。
昨日と同じ光景が繰り返される。

「ミッコ、来たよ。」「もう頑張らないでいいから」
そう言って頭をなでたり、手を握ったり、肩をさすったり。やはり、辛い。
血圧の話をしたり、保湿剤の話をしたり。ナースにばーちゃんがまたちょっと話しかけたが、その後3人だけになった後、皆が無言になった。
重苦しい沈黙の時間が流れる。もう、3人とも言う言葉もない、というよりもう言い尽くした感があった。
お母さんが椅子に座ってうつむいて、鼻をすすりながら小さな声で何かを言った。
俺は何も答えなかった。よく聞こえなかったが、おそらくこの状態にいることへの呪詛の言葉だろう。でもそれを大きく言えば俺を非難することになるし、それはおそらくお姉さんに止められていることが察せられる。でも言わずにおれず小声で。そういうことは全部、痛いほどよく解る。
だから俺も黙ってずっと下を向いていた。
心の中で、さっきずっと繰り返していた三津子への「説得」を続けるだけだった。お姉さんも黙って三津子の肩をずっとさすっている。何も言葉が出てこない。

「さあ、こんな辛い場面もう見ていられないね」と言ってお母さんが立ち上がった。お姉さんが椅子を畳んでくれ、二人と反対側の枕元に居た俺は「僕はもう少し、説得してみます」と言って二人と一緒に病室を出た。お姉さんがちょっと風邪気味で咳をしているのが心配だ。皆疲弊している。ほとんど会話もなく、皆押し黙ったまま病院の玄関へ向かう。
すると、若い父親に手を引かれて歩いていた女の子が、突然バタ! と手を付いて転んだ。
お母さんが笑顔になって「あらあ、大丈夫?」と腰をかがめた。俺もしゃがんでのぞき込み「大丈夫?」と聞くと、ちょっといわゆる「ヤンチャ」系みたいな父親が「大丈夫っすよ」と笑った。
その子…まだようやく歩けるようになったばかりだろう、女の子は泣きもせず、父親に手を引っ張られて立ち上がると、おぼつかない足取りでまた歩き始めた。
「偉いわねえ」「強い子だなあ」と自然と笑みが浮かんだ。何となく重苦しい気持ちがほどけ、病院の外に出ると、涼しい風が吹いていた。お姉さんが「寒っ!」と言って俺を見たが、俺がTシャツ一枚なのを見て「あら半袖」と言ってちょっと笑った。
それからタクシー乗り場で二人を昨日と同じようにお礼を言って見送った。お姉さんの風邪が心配だ。ばーちゃんの体力も…。俺も健康体ではないが、今踏ん張らないでどうすると思っているから、きっと脳から何かが出て、脾臓の腫れやあちこちのリンパ節の腫れ、きしみを感じないのだと思う。そういえばあの低気圧が去ってから、徐々に目まいも薬で収まってきている。

ゆっくりゆっくり、また病室へ戻った。
三津子の肉体はまだここにある。
今度は立ったまま左手で三津子の左手を握り、頭に手を置いて、目を閉じて話しかける。先ほどの「説得」を繰り返す。
ばーちゃんたちをいつまでも泣かせ続けてはいけない。肉体に執着せず、脱ぎ捨てて自由に、楽になろう。お願いだから…。
それからまた、小さな写真の額を取り出して、じっと見つめて同じことを念じた。チューリップをバックに、三津子はいつもの「困り眉」で微笑んでいる。
最後にまた額に手を置いて、「いいね、もうここから出よう。自由になろう」と声に出した。そうして、俺も病室を後にした。
NSに声をかけ、病院出口までゆっくりと歩く。松葉杖の人、車椅子の人。お見舞いではしゃぐ子供。パジャマ姿のまま見舞い客と話し込む患者。病院は悲喜こもごもの人生の交差点だ。
俺は端から見たらかなり沈んで疲れているように見えるかも知れない。いけないな、と思ってシャンと歩くが、やはり笑顔にはなれない。なれるわけがない。
コーヒーショップで夕飯にパンでも買うかと思ったが、メニューを見ると食欲がない。いったん立ち去ろうとして、いや食べないと…と思い引き返してメニューを見上げ、結局そのまま買わずに外に出た。ゆっくり東大路まで歩いた。
東山の大文字がこちらへ左ほほを見せるように向いている。
あれを見るたびに「今年の送り火はベランダでバーベキューをしながら見よう、ばーちゃんたちを呼ぼう」って言ってたよね…と思い出す。ネットや煉瓦も買った、二人で作業をしようと思っていたがそのまんまだよ…。
いけないと思いつつ、気持ちが沈んでしまう。三津子の暖かい肉体を見た後はどうしても、こうなってしまう。だから病院から帰る車中は、辛い。

まっすぐ自宅へと思ったが、何か食べないと。運転手に左右を間違えて告げたことにして、スーパーの方へ曲がってもらった。生鮮売り場もいつも二人で来てあれこれ言いながら買い物をしていたから、入れなかった。けれど無理にでも食べなければと思い、おにぎりとおかずのセットとお茶を買い、自宅へ戻った。

「ただいま」と無人の部屋に声をかけてリビングへ進むと、ソファの上のタオルケットにユキが丸くなっていた。寂しそうだったので、思わず撫でて声をかける。
「ママはもう居るのかい? お前は耳が聞こえない分目がいいんだろ、教えてよ」と話しかけるが、喉を鳴らすだけだった。17:48
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2009-05-03(Sun)

「わたしも遍在である」

19:48
イズミヤの帰りに通りすがりなので何の気なしに買った持ち帰りの寿司(機械握りのやつ)を開けて、三津子のほうじ茶を台所へ移し、三津子には酒をぐいのみに軽く注いで写真の前に置いた。
そうして自分のウーロン茶をコップに注ごうともう一度台所に戻って冷蔵庫からペットボトルを出す。コップに注ごう…としたところで、二階からシマが「どどどど!」と降りてきた。
そうか、猫も寂しいだろう。俺がこんなだし、三津子は帰って来ない。猫たちは寝てばかりいる。ゴメンな、と言いつつソフトえさをあげるために、皿を洗って、パウチのご飯を2つの皿に分けた。
シマはすぐにペチャペチャと舐め始めた。ユキも二階に居たらしく、気配を感じて降りてきたかと思うと、まっしぐらに皿に向かっている。毎朝水とカリカリ=固形粒のごはんは変えているけれど、本当はパウチのソフトごはんの方が二匹とも好きなのは解っている。

自分の寿司を食うお茶を後回しにして猫にソフト餌をあげるなんて、俺も三津子のところにちょっとずつ近付いて行けているのかな、とこんな小さなことで考える。いい人で、ありたいな。

三津子のぐいのみとウーロン茶のコップを乾杯し、酒の方にちょっとだけ唇をつけた。
「おいしいね。」と写真に笑顔を向ける。そうして安い持ち帰り寿司を食う。猫たちはソフトごはんを舌を鳴らして舐めている。夫婦差し向かいで晩酌の、いい時間だ…。

テレビの娯楽番組はまだ見る気になれないので、食べながら朝刊をゆっくり読んだ。番組欄の方から開くとあるコラム(読売新聞5/2朝刊)に目がいった。
『物言わぬペットの気持ち』と書いてあり、近隣の犬への虐待を目撃した読者の投書を紹介している。
何だかタイミングいいな。まるで三津子が「ほれ」と読ませてくれているみたいだ。

投書の主は「隣家で飼われている犬への虐待を見かねて隣人にやんわり意見をしたら、『だったら保健所に連れて行く』と逆ギレされた」というものだ。そういう逸話と自分の目撃例を重ねて、さらに池波正太郎の言葉を引いている。

このコラム書き手の人は、投書を読んで自分もかって隣家の留守がちな家に、いつも鎖でつながれたままぐったりしていた犬のことを気にかけていた…と投書に共感しているものの、それではどうしたのかと思ったら、結局3年経過したそうで「今どうしていることだろう」と言っている。

もし三津子が居たら俺と顔を見合わせて、
「何だよ、助けてやんなかったのかい!」と突っ込んだだろう。
ご近所のことだ、余計なお世話と取られたり逆ギレされたり「じゃあお前が飼えよ」と言われたりでも自分の家では飼えなかったり…とか、まあ色々な「言い訳」は考えられる。
この投書を引いたコラムを書く時に、この記者(?)氏というかコラム子は何を言おうとされたのだろう?
「助けよう」としなかった自分を恥じていないし、先の投書に目頭を熱くした、と綴っておられる…。
池波正太郎は
「ことばの通じない小さな生きものが一緒に暮らしていると、相手の気持ちを読み取ろうと神経を研ぎ澄ませるようになる、そういう心配りが男には大切だ」
というようなことを言っていたらしい。それは正しいと思う。でもこのコラム子はその言葉を紹介して
「男を飼い主と置き換えると作法、心得が読み取れる」と書いている。うーん何となく言いたいことは解るけれど、置き換えなくとも池波正太郎は最初から「飼い主」のことを話しているわけだし、それを池波自身が発言の中で「男」に置き換えているんだから、ええと…と思ったら笑いがこみ上げてきた。
「犬が言葉を理解できなくて幸いでした」とも書いている。だんだんおかしさがこみ上げてくる。
犬や猫に限らず「家族」として共に暮らすいきものは、言葉は理解できなくても、こころで解ることもある。それは誰でも知っていることだ。
「解らないねえ」と笑いながら三津子の写真に記事を広げるように見せた。いや、あなたが見せてくれたんだっけ。
何だか二人でテレビを見ながら、片方が新聞を読んでいて面白い記事を見つけると「ほらほら、これ」と見せていた時のようだ。一緒に居るような気持ちになる。

俺たちがまだ蓮根のマンションに住んでいた頃、隣の一戸建ての家で犬を飼っていた。いや、虐待していた。
常に鎖でつながれたままのその犬は、いつも寂しそうな鳴き声を出していた。俺たちはたまに星を見るために(本当はいけないのだが)マンションの壁面にあるホチキスの針みたいな、はしごというか取っ手というか、それを登って屋上へ抜けたりしていた(「ガロ」1993年2/3合併号やまだ紫特集、知久氏との対談参照…)。
その時に犬の悲しい声を聞いた。そうして心を痛めていた、いや俺は怒っていた。
「散歩連れてってやればいいのに」「庭があるんだから、せめてその中くらいは鎖外してやればいいのにね」と話していた。「今度やったらすぐケーサツに言おうか」「いや区役所?」とか話してもいた。
そんなある夜、隣の駐輪場とを隔てているトタン塀の下の土を掘って首を挟んで悲鳴を上げているのを見たのだ。
犬は虐待に耐えきれず逃げだそうとして、首を挟まれたのだ。

思い出して自分の日記を検索したら、
1998年の5月のことだった。(ふだんの私生活で俺は俺のことを「俺」と呼ぶので、今ではそう書いているが、この頃は格好をつけて自分のことを「僕」と言っている。)

俺…「当時の僕」は高い塀からジャンプして目測を誤り、アスファルトに着地する際に着いた右の手のひらの皮をベロリと剥いたマヌケな「救助隊」だった。もの凄い痛い目に合ったけれど、結果としてご近所有志と飼い主にお灸をすえる形になり、飼い主も反省したようで、その後犬の悲鳴は無くなった。
傷は痛くてその後も大変だったけど、俺たちは「正しいことをした」と思っている。

…そんなことを考えていたら、フと猫トイレが気になった。あ、掃除…。
寿司の途中だったけれど、うんこを取り、下のシートを確認すると尿でべちゃべちゃだったので、綺麗に洗ってシーツを取り替えた。すぐにシマが来てうんこをした。綺麗にしたばかりだけど、綺麗だから、したのだ。猫は綺麗好きと言うけれど、「トイレ掃除してよお」と言えない。
家猫は体臭がほとんど無い、というか何ともいえない「猫くささ」=いい匂いがする。その代わり排泄物は大変な臭いだから、すぐに掃除をしないと家中が臭くなる。そして汚れる。東京に居た頃は二人とも体がしんどいと、3〜4日トイレ掃除が出来ないこともあった。
そんなことはもう、したくない。「ペット」ではなく「家族」だと思っているなら当然だし、だいたい彼らは自分で掃除なんか出来るはずもないのだから。

俺だって人のことを偉そうに言えるような人間ではない。
というより、もう他人を非難したり怒ったりしたくはない。
犬の件で2003年の日記テキストをしばらく見た。ああ、俺はやっぱりいつも怒っている。三津子は頑張りすぎて下血で入院している…と思ったり。日記を読み返すのは自慰行為みたいなものなのは解るのだけど、今はそれで文字通り自分を慰めると思っているから、いい。

21:19
やっぱり何かしていないと駄目だな…と思ってノートPCに向かってしまう。そしてもう一時間が経った。サイダーを飲み排便。下痢だ…。

それから片付けごとを済ませ、疲れてソファに転がったまま、隣にいるかのように三津子に語りかけた。
「…俺はあなたと一緒になって二十余年のうち、寂しい思いをどれくらいさせてたかな。
半分かな。そんなに多くないか。でもケンカもしたり嫌な思いもさせたし、そういう時間を含めると、やっぱり俺って駄目な男だったね…。」すると

(また始まった!)
と言わんばかりに、部屋の壁が「どん!」と軽く鳴った。そっち側のお隣は、引越して行かれたので、誰もいないはずである。
「そうか、ゴメンゴメン。もうやめよう。楽しい思い出ばっかり話そう」と写真に謝る。
そうして、今度は写真に向き直って話しかける。
「…君はよく俺に『そんな怖い顔しないで』とか『口角を上げて笑って』と言ってたよね。
だからほら、今はこうやって笑顔を向けている。今まで嫌な思いをさせたり心配かけたり悲しませたりもしたけど、これからはなるべく笑顔でいられる人間になるよ。
そうしていつか、明青さんや一緒に行ったあちこちのお店や色んな名所を、また二人で巡りたいね。
でも俺はそうやって行ける自信がまだないんだよ。
京都へ来ることで、あなたは俺に命を賭けて色んなことを気付かせてくれたね。そして楽しい思い出いっぱいの場所にしてくれた。だからこそ、笑顔でいなきゃいけないのは解ってるんだ。
…本当にどこへ行っても君との楽しい思い出が一杯だから、やっぱり辛いものは辛いよ…」

(ほら、また悲しい顔する!)
今度は廊下の方で不自然に「ビシッ!」という音が鳴った。
「ごめん、ついつい…」と苦笑する。

(ね、写真撮ってよ)
と三津子が言ってるような気がしたので、デジカメで部屋の中の写真を何枚か撮影した。
廊下を写した二枚目の写真に、冷蔵庫のあたりに薄く丸い球が写っている。心霊ファンが言う「オーブ」というやつだけど、まあ信じない人らは「レンズの前にある空気中を舞っていた埃や塵が写ってるだけ」とか「レンズの汚れ」と言うやつだ。
でも他の写真には写っていない。
俺には何だか解らない、けれども三津子は「信じる」側の人だったし、俺もそうだ。それはいろいろな実体験を経ての話で、まあ今その議論はどうでもいい話だ。

「私は死んだら必ずあなたの側に来る」
お互い、いつもそう言っていた。お互い、相手を守ろうと約束もした。

「お願いします。生まれ変わっても一緒になってください。」
改めて、写真に向き直って、頭を下げた。

つきあい始めのイチャイチャ時代が俺たちにもあって、当時はよくこういう恥ずかしいことを言い合った。「来世も一緒になろうね」とか「ずっと一緒にいよう」とか、誰でもそうだろうけど、もちろん恥ずかしかったから誰にもそんなことは言ったことはない。
そうして二十年以上が経過して、お互い病も得た。人生の山坂を二人で乗り越えて京都に来た。
そしてこの二年近く、真顔でしみじみとお互い、心からそう言い合っていた。
もう恥ずかしくない。

「これから頑張って、あなたと同じステージに立てる人間になります。
だから今生では出来なかったけど、きっときっと来世では100%「幸福な時間」になるように、幸せにします。
だから、次は最初から、一緒になって欲しい。
結婚して下さい、お願いします。」と誰もいない部屋で写真に向かってお辞儀をしている。
写真の三津子はただ笑っている。
でも何だか
(本当だな、よし!)
と笑いながら体をのけぞらせている映像が浮かぶ。
都合のいい男だな、と思うだろうか。バカなこと言ってらあ、とか調子に乗るな、で済ませてくれればそれでもいい。

…俺も三津子も、繰り返すが特定の宗教を持たない。けれども「神や仏と呼ばれる存在」があることは信じている。

…怒りや憎しみは体に悪いよ。
…人を裁けば自分が裁かれる。
…魂はほんとうのことを知っている。
…「神」は「遍在」だから。
…恥ずかしいことは、したくない。
…正しくありたいと思う。

今、彼女の口癖はどれも、輝く「ことば」となって俺の周りを舞っている。
いつも自分に言い聞かせよう。そして、正しくあろう。ありがとう…。

なんて殊勝になっている俺はちょっとおかしいぞ、と三津子が思っているらしい。
デジカメで思い出して、そういやもう一つのデジカメにも写真があったと思って、発作的にテレビ台の引き出しを開ける。そこに入っているデジカメは、俺が下らないシーンを撮りたい時にサッと取り出せるよう、引き出しに入れておいたもの。メモリに入っている写真データを確認してみた。
猫とかの下らない写真が20〜30枚ほど。
その中に三津子の写真が一枚だけあった。
それが、顔に保湿剤というか化粧水?が染みた紙を貼り付け、アイスホッケーのゴールキーパー状態のトボけた顔でこっちを向いているやつだった。一ヶ月ほど前のものだ。今見ても思わず吹き出してしまう。

それを見て「アッ!!」と気付いた。

すっかり忘れていたが、昼間病院から戻って看護婦さんに言われた買い物をしている時に、買わなかったものが一つだけあった。

「あと奥さんが使っていた化粧水とか、保湿用のものがあったら…」

家に使ってたやつがあるはずだからと、買わずに帰ってきて、すっかり失念したままだた。すぐに化粧道具箱を探して、2種類のボトルが見つかって、明日の荷物に加えることが出来た。
…なるほど、教えてくれたのか。
(あなた完全に忘れてたでしょ)
…うん、ごめん。
それにしても、笑わせてくれたんだね、ありがとう! 元気になった。23:12
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2009-05-03(Sun)

連れ合いが倒れた 20

■ミニコミを読んで改めて思い出したのだけれど、三津子は子供たちの名前をちゃんとメディアに公表してきた。二人が生まれた70年代前半、「ひらがな2文字だけの名前は珍しかった、でも本当にいい名前だと思う」と常々自慢していたものだ。その自慢の名前を匿名にすることはない。二人とももう姓も変わり、立派な家庭を築き、母になっている。
だから、これまでの三津子の長女「Mちゃん」は「ももちゃん」、「Yちゃん」は「ゆうちゃん」といつもの通り、記すことにする。本人たちからクレームが来たらまた戻す。
二人とも三津子が名付けて立派な大人に育てたんだし、二人ともその母をちゃんと敬愛している。


15:46帰宅。
1時過ぎ、家にいても落ち着かなく、着替えてしまった。看護婦さんに昨日持って来るように言われていたタオルを3枚ほど袋に入れて外に出た。薄曇りでちょっとだけ風がある。
近くのドラッグトアで言われたものを買い、タクシーで病院に着くと1時半にもなっていない。お姉さんたちとの待ち合わせは2時だ。
ちょっと暑かったので、コーヒーショップでアイスラテで休憩をした。それから反対側のテーブルや椅子が並んでいるスペースへ移った。
今日も連休中なので人は少ないし、工事の騒音もない。相変わらず躾のなっていない子供がワーキャー走り回っているが、俺はもう怒らない。
手のひらに載る小さな額に入れた三津子の写真を取り出して、両手で包むようにして見ながら、時間の過ぎるのを待った。

写真は去年の春にゆうちゃん一家が上洛した時に、タクシーの運転手に
「今は府立植物園のチューリップが綺麗ですよ」と言われて皆で見に行った時の写真だ。
色とりどりのチューリップをバックに、なぜかほんのちょっとだけ困ったような、でも口元と目は微笑んでいる。もちろん俺が写したものだ。
チューリップと三津子。2008年4月12日
今年に入ってからの三津子の写真は、旅行の時のこれまで見たことのない輝くような笑顔の他は、なぜかあまり冴えない顔のものが多い気がする。
あの人が『愛のかたち』で綴った「かげろう」のように、はかなく見えて仕方がない。
むろんそれは今の俺の心情が「そのように見せている」ことも知っているが、このチューリップ畑での三津子の顔が、一番普段一緒に居るときに近いような気がする。
ちょっとだけ、ほんの少しだけ「困り眉」になって(…ねえ?)とでも言っているような、微笑み。これをいつも持ち歩く。俺は三津子の魂と一緒に居させて貰えるような人間ではない、でもせめて写真とだけは許して欲しい。

お姉さんに1時ころにメールをした時は、しばらくして返信が来て「道が混んでるので遅くなるようならメールします」と入っていた。座って、目を閉じて待つことにする。そうして
「三津子さん。今日ばーちゃんとねーちゃんが来るよ。そうしたら、もう本当にお別れだから。
あとはもう誰も他には来ない。だから、肉体から抜け出して、本当に自由になっていいよ」
と心で話しかけた。そして
「どうか三津子の魂が、今日をもって肉体から無事離れられますように」と祈る。
テーブルに組んだ写真を持つ両手を額につけ、目を閉じて、ずっと繰り返していた。
なぜだか、左足の中指がビクビク痙攣を起こすように震える。三津子は夜ソファやベッドでよく「いたた! つった!」と言って足や足の指を抱えていたのを思い出す。単なる偶然だろうか。
何度か目を閉じて祈り、病院の入口を確認して、脇のタオルを入れた袋の上の携帯を見る。
それを繰り返しているうちにうとうとしそうになった。

「白取さん」
と声をかけられたのは2時20分頃だったか。お姉さんだった。お母さんも目の前に来ていて、慌ててハネ起きた。「すみません〜」とお姉さんに言われて「いえいえ」と目をこすると「何、目眩する?」と心配顔をされたので「大丈夫です」と言って時計を見るフリをして、三津子の写真をバッグにしまった。
お母さんに「遠いところを大変だったと思います、本当にありがとうございます」と挨拶をした。
荷物を持ってすぐ病棟へ移動する途中、お姉さんから
「すみません、あんまり新幹線が混んでて疲れちゃって、いったんホテルに荷物置いて、ほいでサンドイッチ食べちゃって。時計見たら『もうこんな時間!』なんて言って遅くなっちゃった」と謝られる。こちらは全然大丈夫です、と言うが俺の額が手の痕で赤くなっていたらしく笑われる。

それから脳外科病棟の扉を開けてナースステーションに声をかけ、病室へ入った。昨日の担当看護婦さんがいたので挨拶をし、タオルやパットを渡し、3人分の椅子を並べた。
看護婦さんに三津子の本『愛のかたち』も「皆さんで読んで下さいね」とお渡しし、それから「昨日お伝えしておけば良かったんですが…」とメモを取り出され、足りないものを持ってくるように言われる。
シャンプー、もう少し小さい歯ブラシ、マウスウォッシュ、お尻を拭くのに使う赤ちゃん用のオイルスプレー、ティッシュ、ボディソープ…。

お二人はその間に三津子のベッドの脇で、顔をのぞき込んで「ミッコ、来たよ〜」と声をかけて、なでさすっている。「こないだよりちょっとむくんでない?」と言われるが、俺は昨日よりむくみというか腫れは引いている感じに見えた。ただ、まぶたがちょっと赤くなっていたのが心配だ、と話し合う。

早く肉体から魂が離れて、顔の腫れが引いて元通り綺麗になってくれたらいいのに。あとはもう、ただそれだけを願うのみだ。

それから少し、看護婦さんとベッドを囲んで話をした。
三津子のお母さんは、看護婦さんも幼い頃父を亡くしたと聞き、
「ああ、じゃあうちと一緒だわねえ。この子と一緒」と言って三津子の顔を見た。
そういえば、お母さん以外にこの部屋にいる人間は全員、幼くして父を亡くしていることになる。
男って弱いもんだな…と思って天井を見上げた。
「お母さん、お一人で頑張って来られたのね。大事にしてあげてね」と言っていた。

看護婦さんが「では、あとはごゆっくり…」と言って出て行かれたので、3人で三津子の枕元に立って「もういいからね」と口々に話しかけた。
俺が「お父さんに迎えに来てもらいな」と言うと、お母さんが
「でもこの子の父親はだいぶん若いからねえ、解るかねえ」

解りますよ絶対に、魂で。俺たちが出逢えたように。

俺は病室の天井あたりを見回して「見てるんでしょ、もういいからね」と言う。
そして、昨日のももちゃん夫婦が来た時のT君(旦那)の「ワイシャツ事件」をお姉さんにしたら
「知ってる、ブログで見ました」と言われた。
ビックリした、見られていたとは思わなかった。そういえば今は携帯でWEBでも何でも見られるので不思議ではない。
三津子の携帯もWEBが見られるものだけど、たまたま調べたいことがあったりして「これでも見られる?」と言うのを操作してあげたりだった。あの人が自発的に携帯でネット接続をしたところを見たことがない。三津子の「ねーちゃん」は凄いなあ、と思った。

いったん椅子に座ってちょっとだけ落ち着いたが、お母さんが
「あんまりこういう事言っちゃ何だけどさ…この子は幸せだったのかねえ…」と言うと、
お姉さんがすかさず「幸せだったのよ、うん」と引き取った。
俺は黙っていた。
それから「お母さんが一番お辛いでしょうに、先日から取り乱していて申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
お姉さんが「いいのよ、みんな動転していたんだから。しょうがないわよ」と言ってくれる。
それからすぐ、ばーちゃんが「さ、あんまり引き留めても何だからさ」と言って立ち上がった。
「じゃあね、ミッコさん。また来るよ…って言っちゃいけないのよね」
俺も一人でここに居ても、三津子が離れがたいかと思い、一緒に引き上げることにする。

ナースステーションに挨拶をして病院出口まで歩きながら話すと、お姉さんは「ばーちゃんが疲れてるから、ホテル帰って休ませます」とのこと。

帰り際、病院の玄関脇の椅子に座って、お姉さんが「あのね…」と切り出し、今後のことを話す。
俺は三津子がいつも「ばーちゃんのやりたいようにさせてあげて」が口癖のようだったので、それを伝え
「全てお母さんの思い通りで結構です。
こちらはこんな体ですし、肉体的にも経済的にも限度がありますが、やれる範囲でのことは最大限やらせていただきますし、手続きなどでも動きます。
申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。」と、お二人に頭を下げた。
不甲斐ない、情けない、しょうもない…と思われるだろうが、出来ることと出来ないことがあり、そこで衝突もしたくない。

そうしてタクシーを見送ったあと、次のタクシーの運ちゃんたちがおしゃべりをしていて下がって来ないので、そのままゆっくり戻った。そして病院の玄関と反対側へ歩いた。この南へ延びる長いスロープを、三津子と一緒に何度歩いたことだろう。
俺の通院や入院。三津子の通院や検査。薬を貰うために、スロープを通って真向かいの薬局へ。お昼を食べるのに、薬局の横の小路を入ったり。熊野神社の裏へ抜けて四条へ出るためにタクシー拾ったり。いつも一緒だったな…。
東山の新緑が綺麗だ。ちょっとスロープの中ほどで立ち止まって、山を眺めていた。
子連れの若夫婦が歩いてきて、年長組くらいの男の子が走ってきて「ママー! こっち入ってもいい?」と笑顔で芝の方を指さしたり。それを後ろに聞きつつ、ゆっくり病院の敷地を南に抜け、聖護院方面へ左折する。三津子の診察待ちが長引くとメールが来て、時間つぶしに聖護院の裏通りをぶらぶらして戻ったりしたこともあったっけ…。また、いい季節になったね。

東大路に抜けて、通りがかったタクシーを拾い、自宅近くのスーパーへ入り、看護婦さんに買ってくるよう言われたものを、4階でメモを見ながら買い物籠へ入れていく。ここも、三津子と何十回一緒に来たか知れない。買い物を済ませ、マンションへ帰った。
誰もいない部屋に「ただいま」と声をかけて、着替えてから三津子の服を抱く。それから16時ちょっと前に、メールでももちゃんゆうちゃんに今日のママとみんなの様子を伝えた。
記録をつけ終えると、もう17時過ぎだった。
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2009-05-03(Sun)

「正しくありたい。」

11:25
前の記録をつけたあと、二階へ上がり、病院へ寄贈する本を持って行こうと、大きな本棚の前に立った。『愛のかたち』がもう棚には無くなっていた。仕事部屋には「保存用」の20冊弱の箱があるが、あれは貴重なので保存しておきたい。永久に保存し人々に見てもらえる保障があるのなら、喜んでいろいろなところへ出すつもりだけど。
そう思って、自分のベッドの上に立って、本棚の上の箱が何かを探る。
まず上に乗っていた俺の昔のカセットテープの箱をのける。チラと中を覗くとLPから録音してウォークマンで通勤時に聞いていたレベッカやオフコース。…懐かしい。でももう、要らない。

それから変色した封筒。
中には『FULL-HOUSE』というミニコミみたいな雑誌が入っている。付箋がついていて、見ると「やまだ紫インタビュー」と書いてある。1981年5月号だ。下へ持って行って、後で読もう。
その横の箱が『愛のかたち』だった。保存用は下にあるから、2冊取って一冊本棚へ補充し、一冊は病院へ持って行くためにミニコミと一緒に左手に持つ。その箱と本棚が倒れぬように天井との間に渡したしんばり棒との隙間があって、そこに立ててある大きな封筒は東京の書類入れ。
もう一つは奥に隠すように立ててある。下からだと角度的に見えづらい。A4の茶封筒だ。…三津子の日記らしい。日付が鉛筆で書いてある。今俺の目の前に出て来たということは…。下へ持って行く。

ミニコミ『FULL-HOUSE』のインタビューの方は、のっけから「Oさんちの奥さん」と銘打ち「やまだ紫インタビュー」となっている。81年だから、まだこの頃は籍を抜けておらず、Oという姓はもちろん前の夫のものだ。
インタビュアーの質問は不躾で、人のことは言えぬがあまりうまいとは思えぬものだ。でも当時の「やまだ紫」はサバサバと答えているようには見える。活字ってそういうものだ。時期的には、もうとうに夫から心は離れ、物理的にも離れる準備を整えつつある頃のせいもあるのかも知れない。
実際は暴力や不実で絶望と苦痛の日々だったはずの結婚生活や、あれほど憎み嫌った「ご主人」像などをしつこく聞かれても、相手を気遣い「忙しくて」家を空ける事が多い、とか「ロマンチストだから」と庇うようなことを話している。

でも、そうか、そうだったね。

あなたはさほど親しくもない他人に、誰かのことを悪し様に言うようなことは、しなかった。
それに、よく言っていたのは
「私にはメディアという発信の場がある」から、そういう
「一方的な力を使って、相手に反論する場を与えずに批判したりすることは、卑怯だ」とも。

そう。常にあの人は「正しくあろう」としていた。

俺に、それを解って欲しいと思って読ませたのだ。

それに、いくら暴力や不実に泣かされた結婚生活だったとはいえ、一度は愛し合い共に暮らしたのだという、そのことも、だ。
俺は前の夫との生活を聞くたびに怒髪天をつく思いで怒り狂った。そのことで彼女を癒せると勘違いしていた。若かったからだ。

「一度呼んできてよ。俺があなたがされた分を、全部まとめて返してやる」と言ったこともある。三津子は困ったような笑顔で「やめてよ、タイホされちゃうよ、あなたにやられたら死んじゃうような奴だから」と言っていた。
一度だけ、団地に一緒に暮らしていた頃、電話で怒鳴ったこともある。
俺たちが留守だと思って子供を連れ出そうとかけてきた、そして俺は
「てめえ、女殴ってんじゃねえぞ卑怯者。
サシで勝負してやるから顔出せこの野郎!」と怒鳴った。
相手は意外と細い声で、何か言っていたと思う。丁寧語だったのは記憶している。

(怒らないで。怒りや憎しみは自分に返ってくるよ。体に悪い。
自分が正しいと思って信じていれば、他人が何をしても、何を言ってもいいの。)
三津子が今、そう言っている。

ミニコミをしまい、もう一つの包み…日記らしい紙の束が入っている封筒を開けてみた。
ルーズリーフ用の26穴の白い横罫の紙の束で、なぜか穴の側つまり本来閉じる方の側を外にして、書き綴って行ったようになっている。ということは、ルーズリーフ形式の状態で記録していたのではなくて、一枚一枚、紙を取り出しては書いて行ったものを重ねて行ったらしい。

読んで行くにつれ、気持ちが重くなった。

これは1995年から、1998年5月あたりまでの飛び飛びのもので、全て三津子の手書きだった。
この当時、三津子はそれ以前の膵炎の影響で腎臓が悪く、原因不明の下血を繰り返していた。俺たちは同居し十年以上が経っていた。
もう、これ以上は書きたくない。今発表すべきことでもない。
色々な意味で、読んでいて心が痛くなる記述ばかりだった。
だから、あの人は読まれまいとして、本棚の上に隠したのだろう。

だって今二人は、こうして京都で幸せなのだから、と。

それを、今彼女は「読んで」と言って俺の前に突きつけたのだ。
(わたしがあの頃どんな思いでいたか。
 わたしが、あなたや母の 何を許し
 何を許していないのか
 そしてあなたがこれからどうすべきか
 読んで、理解して)

そう言っている。

するとタイミング良く電話が鳴った。ゆうちゃんからだった。
こないだ外して送った「wiiが届いた」、さっそく子供たちが遊んでいるという。MTとSNにも代わった。
二人には「ばぁば(三津子)と一緒にまた遊べたら良かったね」と言うと「…うん」と、MTの声が沈んだ。
SNには「また一緒に遊ぼうね」と伝えると、「ウン!」と元気のいい返事が返ってきた。
再びゆうちゃんに代わった後、日記の話をチラとして、俺はもう何に対しても怒らないし、ママ(やまだ紫)の作品を遺していくこと以外には何にも執着はない、と改めて伝えた。
『怒りが俺の生きるモチベーションだ』と、誤解していることを、
三津子がそれは違うと言ってくれた。

俺は俺で、自分のステージを高めて、少しでもあの人の近くへ行けるように生きないといけない。
彼女の別の記述にもあった。
「人を裁こうとすれば、自分が裁かれる」と。
これはリーディングで著名なエドガー・ケイシーの言葉で、これまた「トンデモ話かよ」と嗤う人は嗤えばよろしい。
問題は「それが正しいのかどうか」の話だ。

常に正しくありたい。

このことを、若い人はしばしば「自分に対して正しい」「自分に正直」などとすり替えて「自己の欲望に忠実である」ことを肯定する言い訳に使ったりする。「自分が正しい」と確信的に思うことは時に傲慢さにもつながる。個人主義、利己主義的な物言いにも聞こえる。
三津子の考え方、生き方はそうではなかったし、彼女はいつも悩んでいた。「これでいいのだろうか」「わたしが間違っているのだろうか」と。そういう思いも、日記には綴ってある。

それでも、私は間違ったことはしていないし、したくない。
恥ずかしいことは、したくない。

そういうひとだった。敢えて言えば「お天道様」でも「お日様」でもいいし、「神」「仏」「ご先祖様」でもいい。とにかく、そういう目に見えない戒めを持ち、自分を常に「正しくあろう」と、無宗教でもここまでの境地に達し、そうしてそれを実践して生きていた。

俺は、恥ずかしい。
今はただそれだけしかない。12:30
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2009-05-03(Sun)

「最良の日々」

夕べは11時過ぎ、二階の寝室へ上がった。その前にリビングのフローリングの上で丸くなっていたユキが目を開けたので、(おいでおいで)の手話をするが、じっと見ているのに来ない。仕方なく電気を薄明かりにして、階段を上がると、隅っこの畳の上に置いてあるフリースの「猫つづら」の中で寝ていたシマがベッドに飛び乗ってきて喉を鳴らした。
あの猫つづらは、いつもシマが二人の間に割り込んでくるし、冬だったのもあるが、「ねぐらをちゃんと決めてやろうよ」と言って通販で買ったものだ。しかしシマは全くそこへ入る気を見せず、相変わらず俺たち夫婦の間、どちらか(俺が多かったが…)の肩にズシリと体重をかけて寝ていた。つづらは結局ベッドの足元に放置された。そこにどちらかが自発的に入って寝ているのを見たことは、ほとんどない。
枕元にも、夜に作った手のひらに載るほどの小さな額に入れた、三津子の笑顔の写真を置いた。「おやすみ、三津子」と声をかけて、電気を消した。

…あの思い出したくない、いやそれでも三津子の声を聞いた最期の夜。
「頭が痛い」「薬…」

あれからちょうど一週間が経った。

救急車。脳CTの写真。残酷な告知。ホンのわずかな奇跡に賭けた手術。そして絶望…

今でも、目を閉じるとこうしてフラッシュバックする。あの忌まわしい一連の光景を思い出すと、動悸がする。時間を戻したい、とも思った。けれども時間を戻し、寝る前の三津子を前にした俺は、「君の頭の中に時限爆弾がある。リミットはもうない、すぐ手術しよう!」と言って助けられたか。それは無理だ。
A先生にはもちろん、助けられただろうか、という話をさんざん伺っている。

「そういう脳の奥の血管奇形…あるいは血管障害などは、『まず手術できるかどうか』を判断するために、血管造影その他の精密検査をしなければなりません。
 仮に『できる』と判断した場合でも、とても高度な技術が必要ですし、もちろん万全の用意と体制をつくってからになりますが、成功するとは限りません。
 手術した結果、術中に命を落とされる方もたくさん、おられますし、手術の目的そのものは成功したとしても、脳ですから、命と重度な麻痺とが引き替えだったりということも多いです」

「それに、検査した結果、該当する部位が余りに脳の奥だったり、手術そのものが今の医学では不可能だという判断に至る場合も、たくさんあります。
 そういう場合は、もう爆弾を抱えたまま慎重に暮らしていただくしかありませんし、『残念です』といってお帰りになられた後、あちこち病院や医師を廻られたあとで、1年後に『亡くなりました』という悲しいご連絡をいただいたこともあります」

「ですから、ああすれば良かったこうすれば良かった、助けることが出来たかも知れない、そういうご家族のお気持ちは当然ですし、よく解ります。
 ですが、助かるのも亡くなるのも、これは皆さん人それぞれの運命やと思いますし、それは我々医師には解らないことなんです」

解っている、それは本当にその通りだと思う。もう、理屈では理解している。
三津子の頭の中にあった『爆弾』を発見することは、奇跡のような偶然が重なれば、出来たかも知れない。例えば去年の段階で精密検査のために入院をし、彼女がアレルギーを持つ造影剤とは違う方法で、ピンポイントで脳の血管撮影を精密に行って複数の医師の所見をいただく…とような形であれば。
そこでもし仮に発見できたという奇跡が一つ起こる。その上で、手術可能かどうかを調べたら可能だという奇跡が起きる。そうして手術をして、爆弾を除去できるという奇跡がまた重なる。さらにその上、重度の障害が残らなかったという奇跡が重なる。
そんなことは、ほぼ考えられないことだし、考えても詮ないことはじゅうぶん承知している。

一番近くにずっと一緒にいた俺が、あの夜、彼女が痛みを感じて目を覚ました瞬間に「脳内出血だ!」と天啓のようにひらめいて、救急車を瞬時に呼び、アッという間に病院へ搬送したとする。状況から緊急手術へすぐに入れたとしても(実際はCTや各種検査、説明、同意、処置、移動がある)、救命確率は著しく低い状態だった。
それでも救命の可能性は「手術をする・しない」では、明らかにした方が救命確率は上がる。

通常はだいたい一度の出血で終わり、そこに出来た血腫を速やかに除去する。救命率は高いものの、障害が残る可能性は高いという。
けれど三津子の場合は出血は一回ではなく、複数回起きたと考えられ、脳内に出た血液の量がかなり多かった。断層写真でもそれは解ったので、血腫をうまく取り除いてあげても、重度の障害は避けられないという説明も受けた。

出血部位が取り除ければ、あとは失われた脳の部位の機能を、他の部分が埋めていくのか、あるいはリハビリなどで辛抱強く待つか、それはいくらだって出来る。俺や子供たちだって、生きていさえくれれば、必ずどんな辛い介護だってする。

命が助かれば、寝たきりだろうが車椅子だろうが、筆談だろうが何だろうが、とにかくいずれ「奇跡」は起こる。そういうことは何度も実例としていくつも紹介されているし、二人でそういうドキュメンタリーをも何度も見たものだ。
「一生寝たきりです、意識回復は100%ありません」と言われていた人が回復した例は山ほどある。

そこに賭ける。家族なら当然だ。
生きてさえ、いてくれたら…。
だから、「一生介護になってもいいから」と手術をお願いした。

この判断もA先生は「ご家族ならそうされるでしょう。私も妻がそうなったら、お願いすると思います」と言ってくれた。

そうして手術をするため開頭をしてみたら、「単なる脳内の出血」ではないことが解った。
さらに画像では解らず、該当部位を見て初めて解ったことがある。
それが、「元々今回出血した血管に、何らかの病変がすでに存在していた」ということだった。
なので、すでに脳内に流れていた血液や、固まった部分は除去できたが、出血箇所周辺を処置しようとすると、その都度さらに大量に出血をし出したという。これでは術中に命がなくなる。
なので、最大限の処置をして、手術を終えた。
結果は、脳の活動の停止だった。

この残酷な手術中に解った事実、そしてその術後、つまり予後の状態を、手術する前に100%予想し一致させることは、神でもなければ無理だ。

「だから手術をしなければ良かった」という嘆き・後悔は、こうして順を追って理性的に確認をしていけば、間違っていることが解る。
「手術に踏み切ったことは正しかった」そう確信している。

いくつもの奇跡が重なれば、最悪でも脳全ての死は避けられたかも知れない。そうすれば残された部分の機能で、残り全体をカバーすることは不可能でも、ホンの1%以下でも、再生の可能性がある。ゼロ、ではない。
医学的には、肝臓のように細胞が少し残っていても再生するのとは全く意味が違うということも解っている。それでも、奇跡を信じて祈るのが、愛する者の当然の行為だと、はっきりと胸を張って言える。

奇跡は起こらなかった、いやあの人の時限爆弾が残酷な時を刻み続けていたとしても、それが解ったとして延命は難しいという状態だったとしても、それを知らずに居られたお陰で、俺たちは残された時間を京都で楽しく過ごてきたことは事実だ。
人生の最後をこの美しい古都に住まい、ふたりで楽しい人生最良の日々を送ったこと、そのことが「奇跡」ではなく何だというのだ。

俺の向かいに座り、大好きだった焼きフグを網の上でひっくり返したあと、俺の顔を見て

「わたし、今が一番幸せだと思う」

と、目を潤ませながらにっこり笑って言ってくれた。あの顔を思い出すと、今でも涙が滲んでしまう。
俺も「うん、俺も今が人生で一番幸せだよ。」と言った。
俺は癌を患っているし、時限爆弾のことは知らぬとはいえ、三津子も満身創痍だった。それでも、俺たちは幸福感に包まれていた。

もし「時限爆弾のことを知っていたとしたら」。京都へはもちろん来られず、教職もお断りして、爆弾を除去できる「神の手」を求めて日本を、世界を探し続けただろう。俺たちがよく見ていた番組で、そういう難度の高い脳手術を高い確率で成功させている「神の手を持つ医師」がいることも知っていた。
それでも、出来る場所と出来ない場所があるだろう。それに除去するのは固形の腫瘍ではない、脳の奥にある「破裂するかもしれない血管の障害」だから、それはまた別の手が必要になるものかも知れない。

いずれにせよ、人から「クソ真面目」と言われ頑張り抜いてきた彼女の小さい体が、二人で「人生最良の時間」を過ごせたかどうかは、解らない。俺は、苦しいまま、そのストレスを抱えて辛い死を迎えるよりも、むしろ爆弾の存在を知らず、「人生最良の日々」を暮らせたことに感謝したい。

また爆弾の存在が解ったとしても「手術は不可能」と言われていたら、俺たちは毎日、絶望のカウントダウンの日々を送ることになっていたはずだ。
酒を飲んだり旅行へ行くなどはもっての外、それこそ買い物はおろか普段は安静に寝かせておき、たまに車椅子などでそろりそろりと外の空気を吸わせたりの生活だろう。食事もなるべく血圧や糖尿に影響の少ないものをコントロールされ、あとはいつ破裂するかも知れない爆弾の影に怯える日々…。
何より、俺を自分の代わりに立ち働かせることになり、俺の体を自分のことよりも気遣ってくれていた三津子にとって、それは耐え難い苦痛の日々になったと思う。
三津子はそれに耐えられなかったと思う。
精神が壊れるか、自分の命を自ら絶ったかも知れない。いや、彼女は常々自殺はいけないと言っていたから、それはしなかったかも知れないが、自ら命を絶つことも出来ないのであれば
「結局は運命に任せる」
しか無かったということではないのか。
最期は同じ「運命」なのだとすれば、俺たちの暮らした「人生最良の幸福な日々」が、最も三津子にとって、いや二人にとってそれこそ「幸福であった」と言うことにならないか。

二人で行く最期の旅行になった、南紀白浜温泉から奈良への楽しい旅行の写真を見て欲しい。
今まで、何度も三津子の笑顔は数え切れないほど目にしてきた。
しかし、これほどまでに輝く…そう、西日があたって文字通り輝いている、最高の笑顔を見たことがない。少女のような、そして仏に感情があったならこういう笑顔なのではないか、と思えるほどの輝き…。
この「笑顔」が、何より俺たちが「人生最良の時間」を過ごせていたことの証明だと思っている。だから、涙が出る。
2009/2/26、東大寺大仏殿前で

…こういうことはもう何度も考え苦しみ、悩み嘆いて、後悔し涙した結果に、ようやく、ようやく血の涙を流す思いで到達するに至った「結論」だ。
正直を言うと、直後は後を追うことを真剣に考えていた。
そのうちに、理性で、次に知性で「彼女が死ぬ」ということを少しずつ理解をしていった。
三津子は毎日、瞬間瞬間、常に俺の健康や回復を願っていた。ずっとずっと。
その俺が自ら命を絶つことで一番悲しむのは誰か。
そう考えて、「考えて」後追いへ転げそうな自分を何とか乗り越えた。
周りの人のお陰でもある。

俺の順番では、次は「感情」だけど、ここが一番難しいと思う。悲しみはきっと一生消えないだろう。
これらの全てを包み込んで、それでも生きて行けるのは、「愛」があるからだ。
愛し愛される、過去形でもいい、愛したし愛されたという実感があれば、やがて感情も癒されるのだろう。別な幸せな場所へ行き、彼女はそこで一切の苦悩から解放されて、猫たちと笑顔で遊びながら、俺を待つ。
そこに俺がもし行くことを許してもらえれば、その時が二人の「人生にとって」ではなく、「二人の愛にとって最良の日々」を迎えることになる。

だから俺は三津子に迎えに来て貰える人間になりたい。

今のままの俺では、とても彼女と同じ世界へは行けない。
そんな人間ではない。09:06
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2009-05-02(Sat)

連れ合いが倒れた 19

(15:35、病院から戻る)
結局お昼は家では食べず、ももちゃんに渡す連れ合い=三津子の写真の額と、ずっとつけていた腕時計、いつも振りかけていたお香入れを袋に入れて、マンションを出た。いい天気で気持ちがいい。
タクシーで病院に着いたのは13時ちょい。連休前は、任○堂の会長からの数十億の寄付で建てられるという癌研の工事でもの凄い騒音だったが、今日は病院も閑散としたものだ。お昼はまた、レタスドッグとアイスオレにした。
(あなたそれ好きねえ…)
2人掛けの小さなテーブルの向かいで、三津子にいつもの笑顔で言われているような気がする。

食べ終わるとちょうど約束の1時半になり、入口脇の椅子に移動して、そこにいるとメール。すぐそこでは小さな男の子を連れた母親とそのまた母親らしい3人連れ。子供の声は野放図に大きく椅子の上に靴のまま上がっても注意もしない。
いつもなら睨み付けたり注意したくなるところだけど、
(怒らない怒らない。体に悪いよ)と言われてる気持ちで淡々と待った。
そうだ、言われてる気持ちではなく「言われている」のだった。うんうん、もう怒らない。君の前で眉をひそめたり顔をしかめたり怒ったり、もう絶対にしない。

程なく、ももちゃんと旦那のT君と合流できた。
「遠いところ、ありがとうね」と挨拶をして、「ここはうるさいから(工事騒音はないが子供が笑)、上へ行こう」と言っていったん移動することにした。
ICUからの移動は1時半だけど、まずCTをもう一度撮り、それから病室へ移動して、セッティングや処置があるから、2時くらいに行けば落ち着いているだろう…という判断だ。
エントランスホールを見下ろすような形で、2階の採血受付の前に椅子やソファセットが並んでいるスペースがあり、そこは落ち着けるから…と階段を上っていったら、上がりきったところにシャッターが降ろされていた。休日なので閉めているらしいが、シャッターの手前にかろうじて、1組だけソファセットが取り残されている。
まるで誰かに「ここへどうぞ」と言われたようなスペースだった。

そこに3人で腰を下ろし、いったん落ち着いた。「わざわざどうも」「いえ」みたいな型通りの挨拶はそこそこにして、涙なく
「残念だし悲しいけど、一人の時とかね、こっちがいない時に突然…というのだったらと思うと。お別れの時間と、受け入れる時間を貰ったと思わなきゃね…」と話す。
そして、持って来たデジカメで旅行の時の楽しかった写真などを見せた。三津子の心からの笑顔がいっぱいの最後の旅行の写真。二人で旅に出ても、お互いにお互いの写真を撮るばかりで、二人の写真はなかなかない。
俺たちは、同じように楽しんでいる他人の時間を「写真いいですか」と奪うことを、なかなか出来なかった。俺たちは頼まれればしっかり「念のためもう1枚」なんて構図を変えたりして快く写してあげていたけれど、こちらが頼んで嫌な顔をされたり断られたりしたこともあって、そんな嫌な思いをするのを最初から予防するという意味もあった。
本当はいつも二人で腕を組んで撮りたかっただろう。心なしか、一人で写っている三津子の顔は、いつも寂しそうか、困ったような顔が多い気がする。

でも、この旅行は本当に、楽しかったよ。500円玉貯金を二人でコツコツみごとに30万円も貯めて、目いっぱい贅沢をして、豪華な旅行をしたんだよ。観光タクシーをチャーターして、あちこち廻ってもらったりして。
ももちゃんは「それで二人の写真もあるんだね」と笑顔だ。
「いい笑顔でしょ、大仏殿の前のなんか、文字通り、西日があたって…輝いてるでしょ」と言うと泣きそうになったので、グッとこらえた。

そういえば「カーペンターズ」はももちゃん夫婦の前でも、もちろん流れたという。
「あちこちにママ、行ってるよね」みんな笑顔で語り合った。
でも、俺が今朝のシンクロニシティの話をももちゃんに
「…朝、ママの写真を立てて、服を抱いていたら突然…」
アンジェラ・アキの唄『愛の季節』の、ちょうど「その歌詞」が被さったという話をしたら、どうしようもなく涙が出て来た。嗚咽が混じり声が震える。ダメだ、三津子に怒られる。

するとその時、俺たちが座っているソファの脇の階段を、無表情なオバハンがすた、すた、すた…と上がってくる。3人とも目が点になる。もちろん階段を上りきったところにはシャッターが降りており、ソファには我々が座っているだけだ。オバハンはシャッターの手前まで来ると、無言のまま「!」という顔をすると、ゆっくり廻れ右をして、すた、すた…と引き返していった。全て同じペースで。
思わず3人で顔を見合わせて吹き出してしまった。
俺が「ママ、笑かしてくれたな」と言うと、ももちゃんも「やってくれるよね」と笑った。
俺が泣き出したので
(ダメダメ、泣いちゃ。ほれ!)
と言ってオバハンを見せてくれたのか。それにしてもユーモラスというか爆笑コントのような光景だった。

三津子は何度も辛い入院生活を繰り返してきたけれど、こういうユーモアセンスでカラ元気を出しては、周りを笑わせてくれたものだ。同室のお婆さんが氷を食べたいとわがままを言う時に、「かーんごーふさーん」とリズム良く呼ぶ節回しを真似て、あいの手まで入れて笑わせてくれた。
笑顔でいなきゃ、駄目だ。

2時になったので、「そろそろ行こうか」と病棟へ向かう。エレベータの脇の案内図を見ると「脳神経外科」は2階と書いてあったのを見て、エレベータを待り、2階で降りる。ナースステーションで「今日ICUから移動になった白取ですが」と聞くと、「え…?」と戸惑われたので、アレと思って説明すると、1Fですよと言われた。
おかしいな、案内板にあったのに…と思いつつ階段を降りて、すぐ脇を見たら両開きの扉があって「脳神経外科」とデカい字で書いてある。話はすぐ通り、「こちらです」と案内されたのは、ナースステーションからすぐの「115」号室だった。
入ろうとしたら、別の一家と患者が見えた。「アレ」と思ったら、「115は2つになってまして、こっちの方ですね」と言われる。何かちょっと妨害されてないだろうか。
(もう『肉体』は見に来なくてもいいよ)と。
個室と聞いていたが「115−1」と「115−2」に分けられていて、真ん中がアコーディオンカーテンで仕切られているだけだった。個室ではなく実質2人部屋である。「115(いい子)だって」と言いながら3人で入る。隣の声が筒抜けだし、ということはこちらの声も同様だ。うるさいと気にする意識もないことが幸いだろう。

「ももちゃんとT君来たよ」と言って、囲む。すでに移動もそれに伴う処置もほぼ終えてくれており、三津子は先ほどと変わらず、規則正しい呼吸をさせられている。目や唇の周りが光っていて、涙やよだれかと思って拭おうとしたら、それは乾かないように塗ってもらっている、グリースのような油分だった。
処置をしてくれたり、椅子を持ってきてくれた男女二名のナースと挨拶を交わし、移動してくれていた荷物(…といっても小袋一つだが)から写真立てを取り出し、冷蔵庫の上に立てた。女性ナースが「あ、お写真持って来て下さったんですねー」と笑顔。
すぐ若いF先生が来て、「これからじゃあご説明がありますから、どうぞ…」と言われ、すぐにA先生が来て病棟の並びにある個室で、撮ったばかりの脳CTの画像を見せていただき、説明を受ける。

やはり、結果は変わらない。解っていた、知っていたが残酷な画像だ。
詳しくはもう、記したくない。
俺はもうじゅうぶん説明を伺っていたので、頷きながらほぼ聞いており、A先生はもっぱらももちゃんの方を見て説明をされた。あとは「ご本人さんの運命」ということで…。

ももちゃんは俺を勇気づけようといつも気丈に振る舞ってくれていたが、こうした残酷な画像を見て説明を受けたのはやはりショックだったようだ。ハンカチを手に、鼻をすすりながら黙って頷いて聞いている。
こちらから多少の質問をいくつかしたものの、それはまあ要するに解っていることの「確認」に過ぎない。そして結果も変わらない。
10〜15分ほどで説明は終わり、お礼を言って病室へ戻る。担当のナース(女性)に明日持って来て欲しいものなどを伺ったりした後、椅子に腰掛けて三津子を囲む。
もう、ここにいる俺たちも十分解っているし、ももちゃんに解らせてもらったこともあるし、みんな同じ気持ちだ。だけどやっぱり「肉体」がまだ滅びずに存在していると、どうしても寝ているように思えてしまうし、奇跡を望む気持ちになりかけるから、皆で
「ここにいるように思っちゃダメだよね。ママは外から今これを見ているから」と話す。けれど「でもやっぱり明日バァ(三津子の母)が来るから、まだ逝けないんだよね…」とも話す。その気持ちも、解る。
しばらく、もう涙を見せずに、思い出話や、京都へ来られて良かった、お別れも出来て良かったという話もした。そして、本当にお別れをしてもらう。

「最後に握手してやって」とT君にも促すと、T君は「ハイ」と素直に笑顔で三津子の手を軽く握った。
ももちゃんも目を真っ赤にしながらではあるが、「じゃね、ママ。バイバイ」と言う。
T君は立ったまま軽く会釈をしたので、俺が「ホレ、ちゃんとせい!」と言って肩を軽く叩くと、腰を折って最敬礼した。
そのシャツの襟首に「M」というサイズシールが貼ってあるのをももちゃんが見つけて、笑いながら「ママ、貼ったな」と言って取った。T君は「あ、ついたままだったコレ」とバツの悪そうな顔をした。
だから、みんなが笑顔での別れになった。
(これは本当の話だ。下手な脚本家のドラマではない真実なのだ)

病院の前で、「どうする? お茶でも…飲む?」と顔を見合わせたが、新幹線の切符もあるしあまり遅くなってもと思い、ここで別れようという話になった。

俺が「次は…辛い場になるけど、よろしくね」と言うとももちゃんは「大丈夫だよ。頑張ろう」と言ってくれた。そうして「これ食べてください、酢飯なので夜まで持ちますから」と言ってT君が鯛飯をくれた。お礼を言い、タクシーに先に乗せられ、手を振って別れた。3時半少し前だった。
…本当に、次は辛い場で会わねばならない。いや、辛いのではないな、安堵と新しい俺たち二人の生活のスタートだ。

家へはアッという間に到着した。
ももちゃんに「着いた、速いだろう」とメールすると「はやっっ!、また今度ゆっくりね」と返された。お礼のやりとりの中で、また色々励まされる。
ももちゃんは三津子の娘だけど、もう立派な母親だし大人になっていた。
「家族なんだから、みんなで助け合おう!」と言ってくれたのが嬉しい。

三津子、あなたは本当にいい子たちを育ててくれたんだね。小さな体で歯を食いしばり、頑張り抜いて命を賭けて。感謝しても感謝しても、し切れないほどの気持ちで胸が詰まる…。



17:01
…なるほどなあ。深い溜息が出た。
三津子のため、「やまだ紫」のため、二人のため…と言いつつ「自分が乗り越えるため」にこの記録を狂気じみたスピードで続けている。(自分で狂気じみていると思えているので、オツムは大丈夫だ)
しかし、ともすればやはり気持ちは三津子へと向かう。
病院で今寝ている三津子の体は、三津子であって三津子ではもう、ない。魂はもう、そこに縛られてはいない。
しかし縛ろう、そこに居続けて欲しいと引き留める魂が、縛ろうとするのか…。

そのことへの三津子自身の回答があった。

記録を打ちつつ、途中で「そういえば一緒に画材店へ行った時に、二人で『これ可愛いね』と言って猫の写真を入れようと買った小さな額があったな…。そう思って探したらすぐ見つかったので、そのまま三津子の写真をプリントして、3つの額に入れた。家中をあなたの写真で埋め尽くしたい。あなたのいない寂しさを、この空間をせめて写真で一杯にしたい。
バカバカしい、少女漫画か(失礼)お前は、と思われてもいい、だってこれは本心からそう思っているからだ。パソコンの周辺、視線を向ければすぐそこに彼女の笑顔が見えるようにした。
そうして、肩肘をつき何気なく彼女が綴ったブログの記事を、最後の記事から遡っていく。一年前まで来ると、文章もずいぶん長いししっかりしている。

そうしていくうちに、「みぞれ雪」という記事に当たった。
そこの記述を見てガンと打たれたような気持ちになった。

これまでの人生を振り返り、色々なことがあったけれども

 私は死ぬまで学びを続けたいと思っている。
 たとえ死の床について
 脳死のような状態になったときも
 魂が体から抜けてもだ。

と書いてある。

彼女は自分の運命=寿命を、理性ではなくその「魂」で知っていたのだろうか…。

そうなんだね、やっぱり君の魂はもう体から脱けているんだね。
まるで遺される者たちを癒すために残したような「ことば」に、彼女の魂の崇高さと潔さを感じる。
ありがとう。やっぱり、あなたは凄い人だったね。


この洪水、激流のような記録を全て読んで下さっている方が多くて、戴くメールやコメントに嬉しさとお礼の言葉もない感謝の気持ちで一杯です。

嫌なことも本当に多かった人生、でも二人で肩を寄せ合い手を取り合って生きて来られたことを、今は素直に喜びたい。
今自分が生きている、いや生かされている奇跡へ、二人が出逢い一緒に愛し合って最後まで暮らせたことへの感謝を、ずっと忘れない。
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2009-05-02(Sat)

連れ合いが倒れた 18

【やまだ紫の容態をご心配いただいている方々、申し訳ありませんが俺の雑記(たわごと)は飛ばしていただき、容態報告のみをご参照下さい。この場を借りて御礼申し上げます。】



朝8:30、家の電話が鳴った。ナンバーディスプレイなので着信番号を見ると075つまり京都市内、病院か。取ると、やはり病院の脳外科、執刀医のA先生からであった。何だろう…
すると「容態に特に変化は見らず、血圧も安定しておられます。なので、この状態なら脳外科の病棟へ移動していただいても問題ないと思うのですが」とのことだった。
「それで、そういったことも含めまして、一度ご説明をと思いまして」と言われて、10時にICUへ行くことになった。
ICUは入室制限があるし、面会時間も一日のうち2回のシフトが決まっていて、厳格に守られている。一般病棟であれば、ICUよりも長い時間面会時間が取れるので、その間ずっと側に座っていることも可能だ。
もちろん、そうしていなくても三津子はもう俺と一緒にいて、目の前にある「肉体」は仮の宿であることをもう知っている。時々娘のももちゃんやゆうちゃん、ばーちゃん(三津子の母親)やねーちゃん、親友、気にかかっていた人のところや場所へあちこち飛び回っていることも、解っている。
でも、その都度必ず俺のところへ帰ってきて一緒にいる。


…10:50、病院より帰宅した。
あれから、昨日持って行くと看護婦さんに約束した三津子・やまだ紫の本(「性悪猫」初版、「愛のかたち」「しんきらり(文庫)」「どうぞお勝手に(文庫)」「やま猫人生放談」)を紙袋に入れ、持って出る。
10時ちょうどにタクシーが病院に着き、早足でICUへ向かう。もうふらふらしてなんかいられない。ICUの待合で少し待っていると若い方のF先生が呼びに来てくれて、いったん個室に入って三津子の顔を見た。

今日は真上を向かされており、その分むくみが下へ落ちていて、ちょっとまともな顔に戻っていたので嬉しかった。声をかけて、いつものように滲んでいる「涙」をタオルで拭く。
それからナースに「これ、昨日の看護婦さんに話した、この人が書いた本なんです、寄贈しますんで皆さんで読んでください」と渡すと「わあ、これ全部ですか?ありがとうございます」と言われる。
すぐにA先生が来て、隣のカンファレンスルームでF先生と三人で面談した。

状況は変化がなく、血圧も安定しているとのこと。
実は一番危なかった状態というのは3日ほど前までで、本当にいつ逝ってもおかしくない状態だったそうだ。しかしそういう時期は脱し、現在は麻酔ももう止めて、積極的治療行為はほとんどしていないという。もちろん、やめればそれが死に直結するようなこと、例えば生きるために最低限必要な呼吸とか体液の循環はさせてもらっている。
けれども、例えば血圧が下がる傾向にあっても降圧剤を入れるなどの言わば「積極的延命治療」は
「もう望まれないというご希望を伺ってますので、そのようにさせていただきます。」とのこと。俺も頷く。
「なので、今血圧も安定されていることですから、ここ(ICU)から脳外科の病棟の方へ移動していただこうと思うんです」ということになる。
俺も「そうですね、こちらは面会もシフトで区切られてますし…」というと
「そうなんですよ、病棟だと面会時間もね、ずっとおられたいと思えば終了時間まで居ていただけますし。それに病棟だと我々もずっとおりますし、何かあっても誰か脳神経外科の医師が必ずおりますから、対応できますからいいと思うんです」
で、「この後は…どうなんでしょうか」と聞くと、
「それはもう、実はこういう風に安定されるということも、予想がつきにくかったものですから、はっきり言いまして我々にもわかりません。『安定してます』と言ったら翌日…という例もありますし、二、三日と思ったら一ヶ月という例も実際ありましたから…。」
「はあ…やはり心臓が強いんですか?」と言うと
「いや、お強いという問題ではなくて、これはもう患者さんの『運命』やと思いますよ」と言われる。
俺も「そうですね、見ればどうしても寝ているように見えるし暖かいし、それを見ると辛いのかと思って『もう頑張るな』とか思っちゃいますけど…頑張ってるわけではないし、痛みも感じてないし、意識もないわけですから…」と言うと
「おっしゃる通りです。ですから、変な話旦那さんもそうやってポジティブに考えてくらはるんでね、我々としてもそれはその方がいいと思いますし」と言われる。
俺は「そういう、周りが受け入れる時間をね、与えてくれてるんだと、ようやく思えるようになりました」と答えた。
先生は「でもね、やっぱりお母様とかね、『手術しなければ良かった』みたいに思われる方もおられます。そのお気持ちもじゅうぶんわかります。」という。
俺も「そうですね、僕ね、そりゃあここ数日の間は…泣いて泣いて、しなきゃ良かったんだろうかと後悔もして…苦しんで苦しんで、ようやくこうして現状を受け入れるという『理解』を得るまで…ここまでそうとうの努力が必要で…」と言ったらちょっと涙がにじんでしまった。

先生は頷きながら聞いてくれ、
「…でも、僕もまあ結婚してますけど、同じ状況になったらたぶん頼むと思いますよ。」とはっきり言われた。A先生の左手の薬指にも、結婚指輪が光っていた。
俺も「そうですよね。夫だったら、可能性がわずかだと思ってもそこに…賭けると思います。実際、後で後悔される方も多いとはっきり、あの時先生に言われたのも覚えています。それで今、全く後悔はしていません」とはっきりお伝えした。先生は黙って何度も頷いた。

気持ちがすーっと、楽になった。

それから先生に「あの、南病棟というとあの…」と言うと「そうですそうです、ご存知ですか」と言われたので「実は去年、こちらで胆嚢切除手術を受けまして。お化け屋敷みたいな棟が向かいにある部屋でした」と言って皆で笑う。
「まああそこも古いですからね、外来はあの通り立派なんですけど。今隣にご寄付で癌研建ててますでしょ、あちら終わってからなんですよね。だから10年度とかになるん違いますかねえ」ということ。10年後なんか俺だって生きていないかも知れないなあ…と思うと、また笑うしかなかった。
おそらく今頃三津子はふわふわと漂いながらか、(ええー、あの病棟かよ〜!)と顔をしかめているだろう。
(俺の南病棟への入院時の様子は一年前のこの記事をご参照ください)

「あとは、個室へ移っていただくように今準備してますし、移動時間とか病室とかは看護婦から説明があります。我々も病棟だとちょくちょく顔出せますんで、よろしくお願いします」と言われて、こちらもお礼とお願いをして部屋を出た。
で、ちょっとだけ三津子に「じゃね、後で」と声をかけて、ナースステーションに戻った先生二人に黙礼をして、待合へ向かう。

いったん待合へ出ようとしたら廊下で先ほどのナースに声をかけられた。
「移動時間、先生から聞いてます?」と聞かれたので「いえ、まだ決まってないというので…」と言うと「病院内で待たれますか?」というので「すぐ移動なんでしょうか」と聞くと「たぶんそうなると思うんですが」と言われ、ICUと外の廊下との間にある待合で待つことする。
ソファに座っていると、5分ほどでナースが来て
「すみません、午後からになるみたいで、いったんお帰りになっても結構です」と言われた。
そうかと思って立ち上がると、「あとご本、ありがとうございました。今日は管理者が居ないんですが、皆で読ませていただきます」と言ってくれたので
「こちらこそ、こちらへ寄贈すればずっと長くたくさんの人に読んで貰えるので、嬉しいです」と言って、いったん帰ることにする。

病院の外へ出ると、ちょうどいい陽気で気持ちよく晴れ渡っていた。

お姉さんに状況を携帯で説明し、こちらへ向かっているももちゃんへはメールをした。お姉さんが「10時何分だかの新幹線の切符が取れたのよ」と言ってたので、もう向かってるのだと思い、慌ててどうしたら全員がうまく合流出来るかを、帰りのタクシーの中であれこれ思案をする。11時前には家に着いたので、あれこれ連絡のメールを入れて調整。
しかし途中でおかしいと思ったらしいお姉さんが電話してきて
「あたしら行くの明日なんですが…」と言われる。
「あっ、そうなんですか!!」と言ったら大笑いされた。俺も思わず笑ってしまい「完全に勘違いしてました!」と言ったら「そうでしょう、白取さん絶対勘違いしてるわ、と思ったもん」と話す。
何だか前によく三津子の入院とかみんなでの食事とか、ワイワイ集まっていた頃のやりとりみたいな雰囲気が戻ってきた。
電話を切ってから「ありがとう、三津子」と声に出した。

結局ももちゃん夫婦には「どうせまっすぐ向かってもらってもすぐ移動とかで待たされるだろうから、どこかでご飯でもゆっくり食べて、1時半過ぎに病院来たらいいよ」ということにした。やれやれ俺も先走り過ぎか。
…途中、知り合いからのメールや、「反映させなくていい」という友人からのコメントなどを読む。
皆、三津子はもちろん俺のことも心配してくれて、有り難い。返信は不要、反映不要というものはそう甘えさせて貰っているが、一つだけ、今朝の記述へのコメントは、是非他の方にも読んでいただきたいと思い、反映させていただきました。

そんなこんなでもう12:00だ、お腹が空いてきた。
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2009-05-02(Sat)

「愛の季節」

5/1 20:15
ちょっとした面白い「シンクロニシティ」があったので、「余談」としてアップした後、晩ご飯を食べることにした。
ウーロン茶をコップに注ぎ、コンビニで買ってきたおにぎりをもりもり食べつつ、三津子の写真に話しかけた。
「君のこのとびきりの笑顔にね、こちらも早く同じ笑顔を向けられるようにならないといけない。…そう解ってはいたんだけど、なかなか出来なくてごめん。
 でも、今はほら、こうやって笑顔で向かい合ってる」
(うん。見えるよ。よかった)
「ありがとう」
ウーロン茶を飲みながら、シャケイクラとエビ天のおにぎりを2つ(笑)、もりもり食べた。
ウーロン茶を足そうと冷蔵庫に立つ時、自然と声が出た。
「飲む?」
(ううん、もう、いいの)
「そうだったね」

でも、これからも「生きている人のため」に、君の前に申し訳ないけどお水やお酒を並べたりするよ。だってほら、こちらにも「目標」ってもんがいるじゃない。三津子も笑っている。なぜかそう思える。

22:58
9時半頃から、押し入れの中や仕事机の周りに、読み終わった雑誌だの、使わなくなった機材だのの箱が山積みになっていたのを、全部片付け始める。俺の「溜め込み癖」は、全て自己愛の権化のようなもんだろう。もう全部、要らない。
何だか自分でもおかしくなったと思うようなスピードで、ガンガン片付けていたら、いつの間にかかなりの時間が経っていた。そして、左手の人差し指の爪の付け根から血が出ていた。

(ねえ、体に障るからもうやめてよ)
「解った、やめるやめる。これでやめるよ。」
いつも俺が根を詰めて仕事をしていると、よくこうやって諫められたものだ。
バンドエイドを貼って、何気なく足元の箱を見た。上にごちゃごちゃと積んで合った、使いもしない昔の機材やコードの類の箱の下から露出した段ボール箱。
なぜかフタが内側に折り曲げられていて、中にノートが入っているのを見つけた。三津子の覚え書き、ネタ帖か、雑記帳だろうか。一番上の何てことはないルーズリーフを手にとった。ピンクや黄色などの色違いの紙で構成されている。
パラ、とめくったら、「5/10」というページに目が釘付けになった。

「…そんな時、私は(多分)神を見た。
 神様の方から 来てくれたと思う。」

何年か前、俺が転んで手のひらの皮をベロリと剥がしたことがあった。その頃、二人で買い物へ出た時のことを書いた、日記のような記述だ。彼女も体調が本調子ではなく、しんどいようなことも書いてあった。

「本屋にも寄り、一冊の本を買った」

と書いてある。そして

「神との対話」という 臆面もなく恥かしいタイトル
だった。 けれど本屋で パラパラとめくり、惹かれ
たので 恥をしのんで という態度でレジへ持って行っ
たのだった。」
(原文ママ)


どうだろう? これも「偶然」だろうか。
でも三津子は(もう今日は休んで)と言っているから、これでおしまいにする。
ちょっと一休みして、もう寝る時間だ。

二階へ上がってから、外したカバーの『神との対話』の中身を本棚で探すが、見つかったのは3冊の続編で、肝心のカバーの元は無かった。
そうか、無理に探して読まなくても別にいいのね。必要だと思ったら目の前に来る。
そう思って、寂しがり喉を鳴らしてすり寄ってくるシマを脇に、眠った。

夜中また目が覚め、光っているデジタル時計の文字を見ると2時半ころだった。夕べも見た。これは俺の自責や後悔の念が、起こし見させているのだろうね。



5/2
朝は6時少し前に目が覚めた。体のアチコチが鈍く重い。やはり夕べ張り切りすぎた反動が来ている。でも、昨夜はコレが来ることもちゃんと解ってやっていた。シマが脇で丸くなったのでまた少しまどろんでから、起きる。ベランダからは、少しだけもやった「法」の字が描き出された山の斜面。
「三津子、今日もいい朝だよ」
6時過ぎには下へ降り、写真にも「おはよう」と声をかけ、お酒を捨てて、熱いほうじ茶を淹れる。そうして二人で飲んだ。
メールを見ると、夕べ「余談」としてアップした記述へのコメントをいただいていたので、公開させていただいた。(「余談」のコメント欄参照)
俺も三津子もキリスト者ではないので、「リンボ」とは何かを少しだけ勉強しました。しかし、しょせんは「無神論者」ではないものの、「無宗教者」ではあるので(日本人に多いですね)、カソリックの原罪がもたらす「死」や、死後の5つの世界という考え方や、プロテスタントのやはり原罪によって皆地獄行きが決定していて、キリストを信じある意味契約をした人だけが永遠に天国へ行く…という考え方も、なじめないような気がします。

俺たち夫婦はふだんからよく「死後はこうじゃないか」「死んだらこうしよう」と話していました。まあこういう話も、「死後の世界などあるか」という人たちに取ってはバカな話でしょうけど、他人の嘲笑などもう、どうでもいいのです。
とにかく二人とも、
「どちらかが例え先に死んでも、遺された方の側にいる。守る」
という約束でした。だから、おっしゃられるように

「最愛のひとは、体があろうと無かろうと、白取さんとともに、
これまでずっと生きてきて、またこれからもずっと生きるでしょう。」
ということに尽きるのだと思います。ありがとうございます。6:38


7時前、ソファに座ってほうじ茶を飲みながら、三津子に語りかける。そうだ、朝はいつもテレビをつけていたね。
あれから初めて、テレビのスイッチを入れた。

NHKの朝のニュースを見ながら、おにぎりを2つ、ほうじ茶でゆっくりと食べた。そうか、今世の中では新型インフルエンザが大流行の兆しなのか。俺の免疫力は相当低いようなので気をつけなきゃ。
(そうよ、あなたマスクよ!(笑))
いつもそうだったように、三津子の声が聞こえてくる。
わざとギュッ、とこちらを上目遣いににらむような顔をしていた顔を思い出す。
ニュースを見ながら、いつも傍らに座った三津子と見ていた時のように、普通に感想を言ったりする。ことさら無理に「居るかのように」振る舞っているわけではない。なぜなら「居る」のだから。
それとわかる「声」での反応はなく体もここにはないが、それでも「居る」のはわかる、だから普通にする。
おにぎりを食べていたらユキがベランダ側の窓の端に置いてある猫トイレでウンコをした。
「人がご飯食べてる時に〜!」

ご飯を食べ終わったあとから、長女のももちゃんに渡すママ=三津子の写真をプリントするために出力。次女ゆうちゃんには、もうこの前病室に来た時に渡してある。その他にも飾っておきたい写真を出して、トリミングしたりいろいろ。
その間もリビングからはつけておいたテレビの音声が聞こえてくる。一段落して、写真を彼女が大好きだった小物を収めた小さな飾り棚の前に立てた。

そうして振り返って、ソファの上にあった、三津子の匂いがする赤い室内着をいつものように立ったまま、ぎゅうと抱きしめる。いつの間にか、テレビからは朝ドラの主題歌なのか、アンジェラ・アキの歌声が流れている。

三津子と俺はふだん日本の音楽番組はほとんど見ないが、三津子は最近だと「コブクロとか一青窈とかアンジェラ・アキはいいね」と言って、たまに出ることがわかっていれば、見たりはしていた。けれど今は偶然である。
目を閉じて、立って室内着を抱いたまま聞く。

「二度目の春が始まる 季節を乗り越えてきた
 二人の絆は深まって また新しい花を咲かす
 忘れないで 季節が変わっても 変わっても 愛の花は咲き続ける」


…俺たち二人が京都へ来て二度目の春だ。
 桜の京都をついこないだでちょうど二度、楽しんだことになる。

 絶対に忘れないし、ずっと俺たちの愛の花も、咲き続けるね。久しぶりにテレビを見る気にさせてくれたら、こんないい唄を聞かせてくれたんだ、ありがとう。8:19
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2009-05-01(Fri)

余談

上までの報告をブログにアップしたら、お袋の携帯からPCにメールが来ていた。

凄いタイミングではないか。
「やたらに鶯が鳴いてる。
 鍋が美味しいとのメールの写真に写ったMさんのかほそい白い指みたら泣けて 悔しくて
 あんなに才能あって優しくて可愛い人が
 千夏雄をあんなに愛してくれて この母にまでやさしくしてくれて
 それなのに病人をひとりにしていくなんて
 奇跡はおきないの また鶯が不思議なくらい鳴いてるの
 写真や手紙みたら泣けて 何も手につかないよ
 見てないから別れた時の笑顔しか 浮かばなくて
 信じたくない これからのあなたの事が心配
 どうぞ倒れないで」

三津子の死を、俺が苦しいけれども受け入れつつあるということ、そしてその意味…三津子の死を受け入れず嘆き、悲しみ、引き留めるようなことをせずに送ろうとメールする。

三津子どうかね、これでいいんだろう?
(ちかお偉いわね、そうよ)
偉くなんかないよ。悲しいのは一緒だし。
(私だって本当は悲しいんだよ)
そうだよね…。
生きて一緒に居られたら一番良かった。
(でもこうしていけばきっと、本当にずっと一緒にいられるね)
うん。ありがとう。待たせてごめん。

(皆さん、気は確かかとお笑いでしょう。ええ、確かだからこそ、理性で解ろうとしているのです。)

そういえば。 生まれ変わり、魂、霊、神…三津子はここ数日そんな本ばかり引っ張り出して読んでいた。
今唐突に気付いた。ソファの横に、カバーを外した本がある。無意識に魂がそうさせていたか。

走って確認に行った。
三津子がいつも座っていたソファの周辺を探す。無い、確かにあった。どこだ。絶対見た。周りに積まれた本や薬箱、ソファの横やを探す…。
「どこだったっけ、教えてよ」と聞くとソファの下に本がある。これか!
引きずり出したら『ナニワ金融道』だった。

「ふざけないでよー!」思わず笑ってしまった。
(へへへ、ごめん)三津子の笑顔が浮かぶ。
「もうー」と言いつつソファの背の週刊誌などの山をもう一回確認。あった。カバーだけだ。


『神との対話』
「これか…」
カバーを外した本を見たはずだったが、それは二階へ持って行って読んだのか、とにかくこれもそうだ。
でもカバーを外した本をMが読んでいた記憶が確かにある。それもここ半月以内だ
が…そう思いつつ三津子の仕事机の上を見ると、普通に置いてあった。カバーの外れた本は
『宇宙人ユミットの謎』…これは違うのか。

思わず携帯を取り出して、本の写真を撮ってしまう。
それを笑ってみているテーブルの三津子の写真に「そうかあ〜、そういうことかあ。ありがとう。」と言ったら、本当に心からの笑顔が自分に広がった。

こういう類の本は唯物論者や、霊や魂や生まれ変わりや虫の知らせや何もかもを「トンデモ話」「非科学的」「知能が低い」と嗤う人たちにとってはバカバカしいもの以外の何モノでもないだろう。

実は俺も、「あんまりそういうのばっかり読まない方が…」とか生意気にも話したことがある。
自分とて、神=つまり人智を超えた大いなるものがあることは信じているし、だから神仏に祈る。人間が死んだらハイそれまでよ、とはどうしても思えない。なぜなら、それでは説明できないことが古今東西数千年に渡って余りに多すぎる。実例がある。
「科学的」には全て、ひと言で一笑に付すことが出来るのも知っている。
そして、時折、ひとの信仰心や、神仏などにすがりたい気持ちを利用して、金儲けや詐欺行為が行われていることも、よぉぉく知っている。
読むのは人の自由で、その行為自体を「バカ」と呼ぶのは人間として失礼、そう、まさしく礼を失している。それは理解しているのに、読みもせずに諫めたのは、本当に申し訳なかった。

三津子は
「神とか霊とか言うから、そういう人は信じられないんでしょ。問題は

書かれてあることが 真実かどうか

でしょ。」といつも言っていた。

そうだ。やまだ紫作品も、フィクション=作りごとではあるが、そこに込められた「三津子が言いたかった事」が何であるかを考えろと、俺自身がいつも他者へ伝えようとしてきたではないか。
やまだ紫は「正しい」と。
…こういうことを書けば書くほど嗤う人は嗤うんだろうけど、もう他人は関係ない…

と書いてたら突然に家の電話が鳴った。
ももちゃんからだった。
「明日やっぱりT君(俺たちの前での旦那の呼称)とさあ、車でそっち行くよ」
ということだと。
なので
「さっきはメールでいろいろやりとりしたでしょ、それをブログにアップしたのね。そうしたらその途端、うちのお袋からメールが入ったのよ。」
というと驚いていた。
「三津子がもう助からないという悲しい現実を受け入れなければいけない。悲しいけど。身内ならなおさらだけど。まるで昨日までの俺みたいに、悲しい悔しい何とか奇跡よ起これと、この世に引き留めようとする人が居る間は、ママはなかなか逝くに逝けないよね…」
道中気をつけて、と話して切った。
電話を切って思わず拍手をした。パチパチと乾いた音が響く。
「凄い凄い三津子さん、あなた凄いよ。色々なことが回り始めてる、つながり始めてるねえ」
ニコニコ笑顔になっているのが自分でも解る。
いや、気は確かです、皆さん。

この一連の記述に、ウソや偽りはありません。全てリアルタイムです。今19:50になりました…。
たぶん昔からの知り合いには「まずい、白取が壊れかけている」と思う人も居るだろう。
いや、本当に気は確かです。これから夕飯を食べます。

<6月10日 自分の母親から、ブログに自分のことを書いてくれるなと言われましたので、細かいやりとりをざっくりと割愛しました。なので意味が通らない部分が出ると思いますが、仕方ありません。けれど最愛の妻、三津子が倒れてから、いや今までここに作り話や嘘を記載したことはありません。>
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2009-05-01(Fri)

連れ合いが倒れた 17

5月1日(金)
夕べは猫たちと11時半ころに寝た。朝は6時目に目が覚めてしまい、そのまま起きる。

とうとう5月になった。

今日は穏やかに薄日が優しく射すいい陽気のようすだ。
京都は新緑が夏に向けて、萌葱色から少しずつ濃さを増していく、一番いい季節を迎える。桜の季節も雪景色も京都はいつも美しいが、年々雪は減り、桜はほんの一瞬だ。だから、紅葉の時期と、毎年ゴールデンウイークが開けて観光客の大波が去り、入梅前までが、俺たち夫婦が一番好きな季節だった。これからまた、その最高の季節がやってくる。

また三津子と散歩にでかけたかった。
もうそれらは叶わないと思うと、何だかこの京都の素晴らしい季節や風景が、とても残酷なようにも思えてくる。
写真の三津子に声をかけてから、二人が時々飲んでいたウコンドリンクを一本飲んだ。それからカーペンターズをかけて、溜まっていた片付けものを始めた。
いい天気だからベランダを開けて空気を入れ換え、淡々と整理を始めた。気持ちのいい風が入ってくる。東山も吉田山もこんもりと緑が綺麗で、気持ちが和む。叡電の踏切がカンカン鳴り、一両編成の電車がゴトンゴトンと通る…。
二人でいつもベランダに手をかけて並んで、山や空や町並みや通る人を眺めて、たくさん話したな。

やはり何かをしているとそれなりに気が紛れる。気合いを入れてどんどんゴミ出しをする。まるで遺品整理のようだから、あの人のものはまだ捨てられない。お昼に長女のももちゃんにも電話した。みんな帰ってしまったので、次女のゆうちゃんとだけ連絡を取ってゆうちゃんから伝えてもらうのは、同じ三津子の子供なのに不公平だし失礼だ。
ももちゃんは勤務先でお昼に入るからかけ直す、という。少し経って「速攻で食べたから大丈夫」というので、昨日の様子からいろいろ話した。

思えば二人ともまだ小学生の頃に俺たちは知り合い、長女のももちゃんが中1になる頃には、もう同居していた。あの狭い団地で肩寄せ合って暮らしていた一家に、俺は「父親にはなれないから」と言って『ママの恋人』として、参加させてもらった。4人でこれから俺を「何て呼べばいいか」と相談した。もちろん、それまで遊びに行った時やソフトボールなどの時に呼ばれていたように「『ちかちゃん』でいい」ということになり、俺は家族に入れてもらったのだった。

あれからもう二十数年が経った。

二人とも結婚をして子を設けて母になった。ももちゃんは、気がつけば俺が出逢った時の三津子の年齢になろうとしている。ゆうちゃんはいつだったか、三津子が辛い状況に置かれているときのメールのやりとりの中で、当時(俺が団地で暮らすことになった頃)は子供たちとしても、正直けっこう複雑な心境もいろいろあったと言っていた。
そう、ドラマや作り話のように簡単な話ではなかった。立場や年齢の違った俺と三津子だってそうだし、子供たちとだって。俺たち3人も、一緒に「いろいろな山坂」を乗り越えてきた。そのことをちゃんと知っている人は少ない、いや、俺たちたった4人しかいない。

1時半を過ぎた頃、Tシャツに長袖のワイシャツ一枚で外へ出た。
タクシーを拾うと運転手が「今日はほんま暑いですなぁ。30℃近くあるんちゃいます?」というので「ええっ!? ほんまですかぁ!?」と思わず聞き返してしまった。
「あ、30℃は大げさやな、でも26、7℃はある思いますよ」とのこと。
確かに街は半袖一枚の人も多く、車の中もむあっと暑い。暑がりの俺なのに、言われてようやく気付いた。あ、本当だ、暑いわ今日。これは気持ちの問題だろうか。

病院に着くと2時10分ほど前だったので、左手にあるコーヒーショップのカウンタに並ぶ。だんだん、食欲も出るようになってきた。
三津子が(何か食べないとダメよ)と言っている。
前の大雑把そうな子連れの若い夫婦が、がさつに店員を扱い、見苦しく下品な態度をしている。普段なら顔をしかめイライラするところだけど、
三津子が(怒っちゃダメ、体に障るよ)と言う。うんうん、大丈夫。

テーブルに座り、レタスドッグとアイスオレをゆっくり噛みしめて食べた。以前「出来たてはパンがサクッとしてうまいよ。」と、三津子に教えて一緒に食べたことがある。三津子は歯が良くなかったので、ソーセージが噛み切れず、むりやり引っ張ったら「スポッ」と脱けて二人で大笑いしたっけな…と思いつつ食べ終えた。

ICUに着いてインターフォンで名前を告げると、「ちょっとお待ちください」と言われた。しばらく耳を澄ましていたが応答がない。もう一回押してみたところで、なぜか看護婦さんが小走りに出て来て、
「すみません、こちらでちょっとお待ちいただけます?」と言われて中にある待合スペースに座ってるよう言われた。時計は2時5分頃だったが、何事だろう。

まさか…? いよいよ…とか、いや、ひょっとしたら何らかの反応でも…とか、ついいろいろと考えてしまう。

三津子が倒れたあの日、手術を待つ間に俺は待合室で奇跡を祈った。
「俺の命があと3年なら、半分あげますから1年半、あの人とまた一緒に暮らせるようにしてください。余命1年なら半年でいい、半年なら3ヶ月でもいい。とにかく、二人の時間をもう一度下さい」
と願い続けて、そうしてそれは叶わなかった。

だからもう、やめよう。
そう思って待っていると、数分で先ほどの看護婦さんが出て来て
「すいません、処置中なので、10分ほどお待ちいください」とすまなそうに笑顔で言われた。
しばらく待って、「すみませんお待たせして、どうぞ」と呼ばれたら、2時20分ころになっていた。
「容態は…変わらないですか?」と聞いたら、
「…はい、昨日とほとんど。」と言われる。

病室に入ると、三津子は体を少し横にして、窓の方、つまり向こう側を向いていた。千羽鶴は足元の方に移動していたが、ちゃんと飾ってくれてある。

ラジカセからはカーペンターズではなく、オルゴールの優しい音色で、音楽がかけられていた。その意味は解っている、二人の好きなカーペンターズは、もうわが家でかけているからだ。

「ちょっと出入りしますけど、どうぞ」と言われて、顔の方へ廻る。やっぱり顔が少しむくんでいるが、「おーい、もういいぞー」と声をかけ、目の周辺をタオルで拭き、唇にリップを塗り、頭をなで、そして右手をずっと握っていた。

変な話かも知れないが、人の肌には相性というものがあると思う。いわゆる抽象的な「肌が合う・合わない」もあるがそうではなく、物理的な意味でだ。と言ってもいやらしい意味でもない。
三津子の手と俺の手は、吸い付くようにお互いピタリとくっつく感覚で、それは知り合った頃から感じていた。もちろん恥ずかしいので余り自分から率先して握ったことはないし、このことを告げた覚えも残念ながらない。今は本当にいろいろ残念なことだらけだけど。
今はこうしてずっと手を握っていられる。やっぱりぴったりと手と手が合う感覚がある。

看護婦さんが何度か出入りして処置をしながら「学生さんからって、凄いですね!」と言うので
「凄いでしょう、いい先生だったからですよ」と言うと
「そうですねー。…漫画って、何を教えはるんです?」と直球で聞かれる。
「ええと…それはまあ技術とかお話の作り方とか、まあいろいろですねえ」と思わず苦笑した。三津子もいつも「やまだ紫」のことを聞かれて困っていた。毎回困るんだから模範解答を用意しておいても良さそうだが、なるほど、こうしてストレートに聞かれると説明に困る。
「教えらはる方もやっぱり漫画家さんなんですか?」というので「そうです」といったら「ええと、白取さん…?」というので「いえ、これがペンネームですよ」と千羽鶴につけてある、「やまだ紫」という名札を見せる。
「あ、やまだ紫…さん」という。
え、名札があるのに…と思ったら、そうだ、これは三津子が自分の胸につけていたやつなので、敬称がなく呼び捨てだ。それが千羽鶴に付いていたということは
「じゃあ『やまだ紫』という先生が、学生の千羽鶴を漫画家の『白取三津子さん』に届けてくれた、と思われたんですね?」と言うと
「そうですそうです!」と合点がいった様子で「これは勘違いしますよ」と看護婦さんに笑われる。
なので、「じゃあ今度『やまだ紫』どれくらい素晴らしい作品を描いていたか持って来ましょうか。夜勤の時とかに皆さんで読めるように」と言ったら
「ああ、それは嬉しいです! ぜひお願いします!」と大喜びされた。

少しでも多くの人に作品が触れれば、俺も嬉しい。大学病院に寄贈すれば、毎年新しい人もどんどん入ってきて入れ替わりも多いから、後世にも残るし、それが俺の本意でもある。明日にでも持ってくることにしよう。

その後看護婦さんは「日本の漫画って凄いですよねえ。何ていうか…色んなジャンルがあるし。大人でも読めるのもあるし」というので、
「この人の作品は大人の人が本当に深く感じ入るものが多いですよ」と話した。
「どういうのですか?」とこれまた直球なので、
「ええと…例えば週刊少年ナントカとかありますよね、ああいうのの対極のようなものですかねえ。詩的なものもあるし、とにかく読んでいただければ解りますから、持って来ます」と話す。

それから看護婦さんが出て行き、二人きりになれたので、手を握りながら顔を近付けて、諭すように話しかけた。

「もう本当にいいよ。
 あなたが時間をくれたお陰で、
 こうしてだんだんと立ち直ることが出来つつある。
 だから、もう頑張るな。
 聞こえてるんでしょ?
 この体の中にいるんじゃなくて、どこからか見てる?
 それとも俺から見えないようにわざと後ろにいるのかい?
 全てが済んだらはっきり解るようにしてくれるんだね? 
 とにかく、もうここへは戻らなくていい。
 早く体から離れて、俺と一緒に帰ろう。」

今日は、泣かなかった。
三津子の「肉体」はまだ生かされている。
ということは、まだそのことにきっと何らかの意味があるのだろう。

病院の玄関に出て、お姉さんに報告の電話を入れた。
お姉さんは、お母さんの昨日の様子を「白取さんは気にしないでいいのよ」と言ってくれる。そうして、あさってから今度はお姉さんと二人でまた京都に来る、とのことだった。
ああ、そうなのか。それでまだ…。

それからタクシーに乗り、自宅近くのスーパーでおろしてもらって小物を買い、コンビニで夕飯や飲み物を買って4時前に帰宅した。日差しがまぶしく、そして何よりも、暑い。ようやく暑さを体感できる精神状態に戻ったのか。食欲も戻りつつある。
突然に連れ合いである三津子を失う…という余りにも大きな衝撃に、体が一時的にショック状態になっていたのだろう。

唐突だが、この記録は決してお涙頂戴で書いているのではないことを、ご理解いただきたい。

たくさんのご心配をおかけしている方々への報告が義務だと思っているし、もちろん、このことで自分を癒しているわけでもある。
それはつまり一人の男が「愛する人を失う」という最大の苦痛のどん底から立ち直っていく様子を、例えば精神医学的に、メンタルケアの現実例、参考例としても、とにかく残しておけば何らかのお役に立てるはずだ。
どうだい三津子さん、俺はここまで立ち直ったぞ。


家に着いてから、ゆうちゃんにもメールで今日の容態を報告。
それから二度もご飯を届けていただいた、「明青」のおかあさんの携帯にも電話をした。

おかあさんに「本当にご厚意に甘えてばかりで、すみませんでした。ありがとうございました。でも、もう立ち直りつつあります。ゆっくりですけど、もう大丈夫ですから」と伝える。
おかあさんも「本当〜? 奥さんもね、きっと白取さんがそうやって立ち直るための時間をくれはったんやと思うわ。ほんっまに、いっつも心配してたもの〜」と言われる。

本当に、その通りだと思う。

 もし、あれ…時限爆弾の炸裂が家のベッドではなく、
 一人で買い物に行っていた時だったら。
 外を歩いていた時だったら。
 信号や踏切を渡っている時だったら。
俺は「奥さんが亡くなられました」という連絡を、「事後」に他人からもらうことになる。
もしそうだったとしたら、俺はいきなりに「最愛の人の死」に直面させられていた。
目の前にあるのは「モノだ」という心境には到底達する時間はなかっただろう。
三津子の死をずっと受け入れられなかっただろう。

あの人がかつてもし俺が先に死んだら、自分は「ヌケガラになる」と言っていたように、俺もヌケガラのようになって、毎日三津子の来ていた服を抱き、オイオイ泣き暮らし、そうして後を追っていたかも知れない。かも知れない、ではなくきっとそうしていたはずだ。

だから、三津子はゆっくりと、自分の死を受け入れる時間を俺に与えてくれている。いや、俺だけではなく、子供たちや母親や姉、その他のみんなにも。
そして俺は、少しずつ少しずつ、実際に受け入れつつあるのだ。
「明青」さんのおかあさんにも、そのことを伝えて
「いつになるか解りませんが、写真を持って二人でまた飲みに行きますよ。必ず」とお伝えし、ご主人にもくれぐれもよろしくとお願いした。

いつもはメールをあちこちに打つの大変だから「ももちゃんには伝えておくから」とゆうちゃんに言われて甘えていたが、何度も言うようにそれは「不公平」だ。
三津子はいつも母として「ふたりの子供を公平に扱う」ということを絶対的なルールとして自分に課してきた。
東京からちょっと離れているという地理的なものもあって、長女であるももちゃんの家族とは確かに、次女のゆうちゃん一家ほど密には会えないようにはなっていた。それに、細かい感情の行き違いだって、それは親子なんだから当然あった。
でも、どちらも親・子なんだから、どちらも三津子の子供だし、三津子は「差別」「ひいき」「分け隔て」を嫌っていた。
「自分がされて嫌なことは、しない」のだから、俺がちゃんとしよう。そう思ってももちゃんにもメールで今日の様子を報告した。

そうしたら、不思議なことがあったそうだ。
ももちゃんによると、YM(三津子の孫、男児)が普段使ってない部屋の押し入れから突然普段使っていないオモチャを引っ張り出してきたというが、それは三津子が送ってあげたテレビゲームだったという。
俺たち二人で選んだので俺も覚えている。カーペンターズの話も聞いたのだろう、「ママはあっちこっちにいるんだね」と言っていた。

それから「俺が救えなかった」のではなく、俺の側にいた三津子が、俺が「気付いた」時に、神様が連れて行ったのだと言ってくれた。
「死」とは「人生のカリキュラムからの卒業」である、と。

やっぱり「やまだ紫」の子だ。三津子、聞こえているね。

自分の命をかけて、あの人は俺という人間の「ステージ」を高いところへ引き上げようとしてくれたのだろう。生きているうちに、全てを悟り、「気付く」人はなかなかいない。だから、人は宗教に頼り、祈り、修行をする。
俺も人生は苦行であると、ずっと思っていた。苦労ばっかりだと。
三津子が病気やさまざまなことで苦しめられたり悲しんだりしているのを、俺はさんざん、側で見て来た。そして今も助けられなかったことを後悔し、何でこんな目に…と何かを憎み怒ること、そういうことの連続だ。

実際にももちゃんと俺も、些細な誤解ですれ違うこともあった。けれど、三津子はそのことで俺が怒る前に、自分が「怒ってみせること」で、俺の怒りを先回りしてフタをしようとした。そして彼女が命をかけて、氷解させ気付かせてくれた。

自分の命をかけて、他者の魂を高いところへ引き上げる。
これほどの強い「愛」があるのか。
本当にそういうことを実践できる人間がこの世にいて、その人の側に居られたこと、愛された幸福を、俺は感謝しなければならないと思う。
ダラダラと「気付き」のないままに過ごしていたら、俺は三津子と同じステージへはたどり着けなかっただろう。俺が高いステージへ自分で駆け上がることが不可能だったとしたら、二人が願ったように「死んでも一緒に」は居られない。だから、あの人は命をかけたのか。

凄い人だ。

だから、これからは俺も三津子が逝く世界へ一緒に行けるような人間にならなければいけない。
そうなった時に、きっと彼女が笑顔で俺を迎えにくるに違いない。いや、そう決めた。
他人が笑おうが、何も知らない人に「何だコイツ」と思われようが、別に気にしない。
そのことで自分がまた一歩三津子に近づけると思えばいい。

メールのやりとりで「いつか3人でママの思い出話をしながら、おいしいものを食べよう!」ということにする。
「ママをたくさん愛してくれてありがとうね」とももちゃんに言われた。
今日初めて、滂沱の涙が出た。

いや、これはうれし涙だから、許してくれ。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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