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2009-05-03(Sun)

「わたしも遍在である」

19:48
イズミヤの帰りに通りすがりなので何の気なしに買った持ち帰りの寿司(機械握りのやつ)を開けて、三津子のほうじ茶を台所へ移し、三津子には酒をぐいのみに軽く注いで写真の前に置いた。
そうして自分のウーロン茶をコップに注ごうともう一度台所に戻って冷蔵庫からペットボトルを出す。コップに注ごう…としたところで、二階からシマが「どどどど!」と降りてきた。
そうか、猫も寂しいだろう。俺がこんなだし、三津子は帰って来ない。猫たちは寝てばかりいる。ゴメンな、と言いつつソフトえさをあげるために、皿を洗って、パウチのご飯を2つの皿に分けた。
シマはすぐにペチャペチャと舐め始めた。ユキも二階に居たらしく、気配を感じて降りてきたかと思うと、まっしぐらに皿に向かっている。毎朝水とカリカリ=固形粒のごはんは変えているけれど、本当はパウチのソフトごはんの方が二匹とも好きなのは解っている。

自分の寿司を食うお茶を後回しにして猫にソフト餌をあげるなんて、俺も三津子のところにちょっとずつ近付いて行けているのかな、とこんな小さなことで考える。いい人で、ありたいな。

三津子のぐいのみとウーロン茶のコップを乾杯し、酒の方にちょっとだけ唇をつけた。
「おいしいね。」と写真に笑顔を向ける。そうして安い持ち帰り寿司を食う。猫たちはソフトごはんを舌を鳴らして舐めている。夫婦差し向かいで晩酌の、いい時間だ…。

テレビの娯楽番組はまだ見る気になれないので、食べながら朝刊をゆっくり読んだ。番組欄の方から開くとあるコラム(読売新聞5/2朝刊)に目がいった。
『物言わぬペットの気持ち』と書いてあり、近隣の犬への虐待を目撃した読者の投書を紹介している。
何だかタイミングいいな。まるで三津子が「ほれ」と読ませてくれているみたいだ。

投書の主は「隣家で飼われている犬への虐待を見かねて隣人にやんわり意見をしたら、『だったら保健所に連れて行く』と逆ギレされた」というものだ。そういう逸話と自分の目撃例を重ねて、さらに池波正太郎の言葉を引いている。

このコラム書き手の人は、投書を読んで自分もかって隣家の留守がちな家に、いつも鎖でつながれたままぐったりしていた犬のことを気にかけていた…と投書に共感しているものの、それではどうしたのかと思ったら、結局3年経過したそうで「今どうしていることだろう」と言っている。

もし三津子が居たら俺と顔を見合わせて、
「何だよ、助けてやんなかったのかい!」と突っ込んだだろう。
ご近所のことだ、余計なお世話と取られたり逆ギレされたり「じゃあお前が飼えよ」と言われたりでも自分の家では飼えなかったり…とか、まあ色々な「言い訳」は考えられる。
この投書を引いたコラムを書く時に、この記者(?)氏というかコラム子は何を言おうとされたのだろう?
「助けよう」としなかった自分を恥じていないし、先の投書に目頭を熱くした、と綴っておられる…。
池波正太郎は
「ことばの通じない小さな生きものが一緒に暮らしていると、相手の気持ちを読み取ろうと神経を研ぎ澄ませるようになる、そういう心配りが男には大切だ」
というようなことを言っていたらしい。それは正しいと思う。でもこのコラム子はその言葉を紹介して
「男を飼い主と置き換えると作法、心得が読み取れる」と書いている。うーん何となく言いたいことは解るけれど、置き換えなくとも池波正太郎は最初から「飼い主」のことを話しているわけだし、それを池波自身が発言の中で「男」に置き換えているんだから、ええと…と思ったら笑いがこみ上げてきた。
「犬が言葉を理解できなくて幸いでした」とも書いている。だんだんおかしさがこみ上げてくる。
犬や猫に限らず「家族」として共に暮らすいきものは、言葉は理解できなくても、こころで解ることもある。それは誰でも知っていることだ。
「解らないねえ」と笑いながら三津子の写真に記事を広げるように見せた。いや、あなたが見せてくれたんだっけ。
何だか二人でテレビを見ながら、片方が新聞を読んでいて面白い記事を見つけると「ほらほら、これ」と見せていた時のようだ。一緒に居るような気持ちになる。

俺たちがまだ蓮根のマンションに住んでいた頃、隣の一戸建ての家で犬を飼っていた。いや、虐待していた。
常に鎖でつながれたままのその犬は、いつも寂しそうな鳴き声を出していた。俺たちはたまに星を見るために(本当はいけないのだが)マンションの壁面にあるホチキスの針みたいな、はしごというか取っ手というか、それを登って屋上へ抜けたりしていた(「ガロ」1993年2/3合併号やまだ紫特集、知久氏との対談参照…)。
その時に犬の悲しい声を聞いた。そうして心を痛めていた、いや俺は怒っていた。
「散歩連れてってやればいいのに」「庭があるんだから、せめてその中くらいは鎖外してやればいいのにね」と話していた。「今度やったらすぐケーサツに言おうか」「いや区役所?」とか話してもいた。
そんなある夜、隣の駐輪場とを隔てているトタン塀の下の土を掘って首を挟んで悲鳴を上げているのを見たのだ。
犬は虐待に耐えきれず逃げだそうとして、首を挟まれたのだ。

思い出して自分の日記を検索したら、
1998年の5月のことだった。(ふだんの私生活で俺は俺のことを「俺」と呼ぶので、今ではそう書いているが、この頃は格好をつけて自分のことを「僕」と言っている。)

俺…「当時の僕」は高い塀からジャンプして目測を誤り、アスファルトに着地する際に着いた右の手のひらの皮をベロリと剥いたマヌケな「救助隊」だった。もの凄い痛い目に合ったけれど、結果としてご近所有志と飼い主にお灸をすえる形になり、飼い主も反省したようで、その後犬の悲鳴は無くなった。
傷は痛くてその後も大変だったけど、俺たちは「正しいことをした」と思っている。

…そんなことを考えていたら、フと猫トイレが気になった。あ、掃除…。
寿司の途中だったけれど、うんこを取り、下のシートを確認すると尿でべちゃべちゃだったので、綺麗に洗ってシーツを取り替えた。すぐにシマが来てうんこをした。綺麗にしたばかりだけど、綺麗だから、したのだ。猫は綺麗好きと言うけれど、「トイレ掃除してよお」と言えない。
家猫は体臭がほとんど無い、というか何ともいえない「猫くささ」=いい匂いがする。その代わり排泄物は大変な臭いだから、すぐに掃除をしないと家中が臭くなる。そして汚れる。東京に居た頃は二人とも体がしんどいと、3〜4日トイレ掃除が出来ないこともあった。
そんなことはもう、したくない。「ペット」ではなく「家族」だと思っているなら当然だし、だいたい彼らは自分で掃除なんか出来るはずもないのだから。

俺だって人のことを偉そうに言えるような人間ではない。
というより、もう他人を非難したり怒ったりしたくはない。
犬の件で2003年の日記テキストをしばらく見た。ああ、俺はやっぱりいつも怒っている。三津子は頑張りすぎて下血で入院している…と思ったり。日記を読み返すのは自慰行為みたいなものなのは解るのだけど、今はそれで文字通り自分を慰めると思っているから、いい。

21:19
やっぱり何かしていないと駄目だな…と思ってノートPCに向かってしまう。そしてもう一時間が経った。サイダーを飲み排便。下痢だ…。

それから片付けごとを済ませ、疲れてソファに転がったまま、隣にいるかのように三津子に語りかけた。
「…俺はあなたと一緒になって二十余年のうち、寂しい思いをどれくらいさせてたかな。
半分かな。そんなに多くないか。でもケンカもしたり嫌な思いもさせたし、そういう時間を含めると、やっぱり俺って駄目な男だったね…。」すると

(また始まった!)
と言わんばかりに、部屋の壁が「どん!」と軽く鳴った。そっち側のお隣は、引越して行かれたので、誰もいないはずである。
「そうか、ゴメンゴメン。もうやめよう。楽しい思い出ばっかり話そう」と写真に謝る。
そうして、今度は写真に向き直って話しかける。
「…君はよく俺に『そんな怖い顔しないで』とか『口角を上げて笑って』と言ってたよね。
だからほら、今はこうやって笑顔を向けている。今まで嫌な思いをさせたり心配かけたり悲しませたりもしたけど、これからはなるべく笑顔でいられる人間になるよ。
そうしていつか、明青さんや一緒に行ったあちこちのお店や色んな名所を、また二人で巡りたいね。
でも俺はそうやって行ける自信がまだないんだよ。
京都へ来ることで、あなたは俺に命を賭けて色んなことを気付かせてくれたね。そして楽しい思い出いっぱいの場所にしてくれた。だからこそ、笑顔でいなきゃいけないのは解ってるんだ。
…本当にどこへ行っても君との楽しい思い出が一杯だから、やっぱり辛いものは辛いよ…」

(ほら、また悲しい顔する!)
今度は廊下の方で不自然に「ビシッ!」という音が鳴った。
「ごめん、ついつい…」と苦笑する。

(ね、写真撮ってよ)
と三津子が言ってるような気がしたので、デジカメで部屋の中の写真を何枚か撮影した。
廊下を写した二枚目の写真に、冷蔵庫のあたりに薄く丸い球が写っている。心霊ファンが言う「オーブ」というやつだけど、まあ信じない人らは「レンズの前にある空気中を舞っていた埃や塵が写ってるだけ」とか「レンズの汚れ」と言うやつだ。
でも他の写真には写っていない。
俺には何だか解らない、けれども三津子は「信じる」側の人だったし、俺もそうだ。それはいろいろな実体験を経ての話で、まあ今その議論はどうでもいい話だ。

「私は死んだら必ずあなたの側に来る」
お互い、いつもそう言っていた。お互い、相手を守ろうと約束もした。

「お願いします。生まれ変わっても一緒になってください。」
改めて、写真に向き直って、頭を下げた。

つきあい始めのイチャイチャ時代が俺たちにもあって、当時はよくこういう恥ずかしいことを言い合った。「来世も一緒になろうね」とか「ずっと一緒にいよう」とか、誰でもそうだろうけど、もちろん恥ずかしかったから誰にもそんなことは言ったことはない。
そうして二十年以上が経過して、お互い病も得た。人生の山坂を二人で乗り越えて京都に来た。
そしてこの二年近く、真顔でしみじみとお互い、心からそう言い合っていた。
もう恥ずかしくない。

「これから頑張って、あなたと同じステージに立てる人間になります。
だから今生では出来なかったけど、きっときっと来世では100%「幸福な時間」になるように、幸せにします。
だから、次は最初から、一緒になって欲しい。
結婚して下さい、お願いします。」と誰もいない部屋で写真に向かってお辞儀をしている。
写真の三津子はただ笑っている。
でも何だか
(本当だな、よし!)
と笑いながら体をのけぞらせている映像が浮かぶ。
都合のいい男だな、と思うだろうか。バカなこと言ってらあ、とか調子に乗るな、で済ませてくれればそれでもいい。

…俺も三津子も、繰り返すが特定の宗教を持たない。けれども「神や仏と呼ばれる存在」があることは信じている。

…怒りや憎しみは体に悪いよ。
…人を裁けば自分が裁かれる。
…魂はほんとうのことを知っている。
…「神」は「遍在」だから。
…恥ずかしいことは、したくない。
…正しくありたいと思う。

今、彼女の口癖はどれも、輝く「ことば」となって俺の周りを舞っている。
いつも自分に言い聞かせよう。そして、正しくあろう。ありがとう…。

なんて殊勝になっている俺はちょっとおかしいぞ、と三津子が思っているらしい。
デジカメで思い出して、そういやもう一つのデジカメにも写真があったと思って、発作的にテレビ台の引き出しを開ける。そこに入っているデジカメは、俺が下らないシーンを撮りたい時にサッと取り出せるよう、引き出しに入れておいたもの。メモリに入っている写真データを確認してみた。
猫とかの下らない写真が20〜30枚ほど。
その中に三津子の写真が一枚だけあった。
それが、顔に保湿剤というか化粧水?が染みた紙を貼り付け、アイスホッケーのゴールキーパー状態のトボけた顔でこっちを向いているやつだった。一ヶ月ほど前のものだ。今見ても思わず吹き出してしまう。

それを見て「アッ!!」と気付いた。

すっかり忘れていたが、昼間病院から戻って看護婦さんに言われた買い物をしている時に、買わなかったものが一つだけあった。

「あと奥さんが使っていた化粧水とか、保湿用のものがあったら…」

家に使ってたやつがあるはずだからと、買わずに帰ってきて、すっかり失念したままだた。すぐに化粧道具箱を探して、2種類のボトルが見つかって、明日の荷物に加えることが出来た。
…なるほど、教えてくれたのか。
(あなた完全に忘れてたでしょ)
…うん、ごめん。
それにしても、笑わせてくれたんだね、ありがとう! 元気になった。23:12
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2009-05-03(Sun)

連れ合いが倒れた 20

■ミニコミを読んで改めて思い出したのだけれど、三津子は子供たちの名前をちゃんとメディアに公表してきた。二人が生まれた70年代前半、「ひらがな2文字だけの名前は珍しかった、でも本当にいい名前だと思う」と常々自慢していたものだ。その自慢の名前を匿名にすることはない。二人とももう姓も変わり、立派な家庭を築き、母になっている。
だから、これまでの三津子の長女「Mちゃん」は「ももちゃん」、「Yちゃん」は「ゆうちゃん」といつもの通り、記すことにする。本人たちからクレームが来たらまた戻す。
二人とも三津子が名付けて立派な大人に育てたんだし、二人ともその母をちゃんと敬愛している。


15:46帰宅。
1時過ぎ、家にいても落ち着かなく、着替えてしまった。看護婦さんに昨日持って来るように言われていたタオルを3枚ほど袋に入れて外に出た。薄曇りでちょっとだけ風がある。
近くのドラッグトアで言われたものを買い、タクシーで病院に着くと1時半にもなっていない。お姉さんたちとの待ち合わせは2時だ。
ちょっと暑かったので、コーヒーショップでアイスラテで休憩をした。それから反対側のテーブルや椅子が並んでいるスペースへ移った。
今日も連休中なので人は少ないし、工事の騒音もない。相変わらず躾のなっていない子供がワーキャー走り回っているが、俺はもう怒らない。
手のひらに載る小さな額に入れた三津子の写真を取り出して、両手で包むようにして見ながら、時間の過ぎるのを待った。

写真は去年の春にゆうちゃん一家が上洛した時に、タクシーの運転手に
「今は府立植物園のチューリップが綺麗ですよ」と言われて皆で見に行った時の写真だ。
色とりどりのチューリップをバックに、なぜかほんのちょっとだけ困ったような、でも口元と目は微笑んでいる。もちろん俺が写したものだ。
チューリップと三津子。2008年4月12日
今年に入ってからの三津子の写真は、旅行の時のこれまで見たことのない輝くような笑顔の他は、なぜかあまり冴えない顔のものが多い気がする。
あの人が『愛のかたち』で綴った「かげろう」のように、はかなく見えて仕方がない。
むろんそれは今の俺の心情が「そのように見せている」ことも知っているが、このチューリップ畑での三津子の顔が、一番普段一緒に居るときに近いような気がする。
ちょっとだけ、ほんの少しだけ「困り眉」になって(…ねえ?)とでも言っているような、微笑み。これをいつも持ち歩く。俺は三津子の魂と一緒に居させて貰えるような人間ではない、でもせめて写真とだけは許して欲しい。

お姉さんに1時ころにメールをした時は、しばらくして返信が来て「道が混んでるので遅くなるようならメールします」と入っていた。座って、目を閉じて待つことにする。そうして
「三津子さん。今日ばーちゃんとねーちゃんが来るよ。そうしたら、もう本当にお別れだから。
あとはもう誰も他には来ない。だから、肉体から抜け出して、本当に自由になっていいよ」
と心で話しかけた。そして
「どうか三津子の魂が、今日をもって肉体から無事離れられますように」と祈る。
テーブルに組んだ写真を持つ両手を額につけ、目を閉じて、ずっと繰り返していた。
なぜだか、左足の中指がビクビク痙攣を起こすように震える。三津子は夜ソファやベッドでよく「いたた! つった!」と言って足や足の指を抱えていたのを思い出す。単なる偶然だろうか。
何度か目を閉じて祈り、病院の入口を確認して、脇のタオルを入れた袋の上の携帯を見る。
それを繰り返しているうちにうとうとしそうになった。

「白取さん」
と声をかけられたのは2時20分頃だったか。お姉さんだった。お母さんも目の前に来ていて、慌ててハネ起きた。「すみません〜」とお姉さんに言われて「いえいえ」と目をこすると「何、目眩する?」と心配顔をされたので「大丈夫です」と言って時計を見るフリをして、三津子の写真をバッグにしまった。
お母さんに「遠いところを大変だったと思います、本当にありがとうございます」と挨拶をした。
荷物を持ってすぐ病棟へ移動する途中、お姉さんから
「すみません、あんまり新幹線が混んでて疲れちゃって、いったんホテルに荷物置いて、ほいでサンドイッチ食べちゃって。時計見たら『もうこんな時間!』なんて言って遅くなっちゃった」と謝られる。こちらは全然大丈夫です、と言うが俺の額が手の痕で赤くなっていたらしく笑われる。

それから脳外科病棟の扉を開けてナースステーションに声をかけ、病室へ入った。昨日の担当看護婦さんがいたので挨拶をし、タオルやパットを渡し、3人分の椅子を並べた。
看護婦さんに三津子の本『愛のかたち』も「皆さんで読んで下さいね」とお渡しし、それから「昨日お伝えしておけば良かったんですが…」とメモを取り出され、足りないものを持ってくるように言われる。
シャンプー、もう少し小さい歯ブラシ、マウスウォッシュ、お尻を拭くのに使う赤ちゃん用のオイルスプレー、ティッシュ、ボディソープ…。

お二人はその間に三津子のベッドの脇で、顔をのぞき込んで「ミッコ、来たよ〜」と声をかけて、なでさすっている。「こないだよりちょっとむくんでない?」と言われるが、俺は昨日よりむくみというか腫れは引いている感じに見えた。ただ、まぶたがちょっと赤くなっていたのが心配だ、と話し合う。

早く肉体から魂が離れて、顔の腫れが引いて元通り綺麗になってくれたらいいのに。あとはもう、ただそれだけを願うのみだ。

それから少し、看護婦さんとベッドを囲んで話をした。
三津子のお母さんは、看護婦さんも幼い頃父を亡くしたと聞き、
「ああ、じゃあうちと一緒だわねえ。この子と一緒」と言って三津子の顔を見た。
そういえば、お母さん以外にこの部屋にいる人間は全員、幼くして父を亡くしていることになる。
男って弱いもんだな…と思って天井を見上げた。
「お母さん、お一人で頑張って来られたのね。大事にしてあげてね」と言っていた。

看護婦さんが「では、あとはごゆっくり…」と言って出て行かれたので、3人で三津子の枕元に立って「もういいからね」と口々に話しかけた。
俺が「お父さんに迎えに来てもらいな」と言うと、お母さんが
「でもこの子の父親はだいぶん若いからねえ、解るかねえ」

解りますよ絶対に、魂で。俺たちが出逢えたように。

俺は病室の天井あたりを見回して「見てるんでしょ、もういいからね」と言う。
そして、昨日のももちゃん夫婦が来た時のT君(旦那)の「ワイシャツ事件」をお姉さんにしたら
「知ってる、ブログで見ました」と言われた。
ビックリした、見られていたとは思わなかった。そういえば今は携帯でWEBでも何でも見られるので不思議ではない。
三津子の携帯もWEBが見られるものだけど、たまたま調べたいことがあったりして「これでも見られる?」と言うのを操作してあげたりだった。あの人が自発的に携帯でネット接続をしたところを見たことがない。三津子の「ねーちゃん」は凄いなあ、と思った。

いったん椅子に座ってちょっとだけ落ち着いたが、お母さんが
「あんまりこういう事言っちゃ何だけどさ…この子は幸せだったのかねえ…」と言うと、
お姉さんがすかさず「幸せだったのよ、うん」と引き取った。
俺は黙っていた。
それから「お母さんが一番お辛いでしょうに、先日から取り乱していて申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
お姉さんが「いいのよ、みんな動転していたんだから。しょうがないわよ」と言ってくれる。
それからすぐ、ばーちゃんが「さ、あんまり引き留めても何だからさ」と言って立ち上がった。
「じゃあね、ミッコさん。また来るよ…って言っちゃいけないのよね」
俺も一人でここに居ても、三津子が離れがたいかと思い、一緒に引き上げることにする。

ナースステーションに挨拶をして病院出口まで歩きながら話すと、お姉さんは「ばーちゃんが疲れてるから、ホテル帰って休ませます」とのこと。

帰り際、病院の玄関脇の椅子に座って、お姉さんが「あのね…」と切り出し、今後のことを話す。
俺は三津子がいつも「ばーちゃんのやりたいようにさせてあげて」が口癖のようだったので、それを伝え
「全てお母さんの思い通りで結構です。
こちらはこんな体ですし、肉体的にも経済的にも限度がありますが、やれる範囲でのことは最大限やらせていただきますし、手続きなどでも動きます。
申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。」と、お二人に頭を下げた。
不甲斐ない、情けない、しょうもない…と思われるだろうが、出来ることと出来ないことがあり、そこで衝突もしたくない。

そうしてタクシーを見送ったあと、次のタクシーの運ちゃんたちがおしゃべりをしていて下がって来ないので、そのままゆっくり戻った。そして病院の玄関と反対側へ歩いた。この南へ延びる長いスロープを、三津子と一緒に何度歩いたことだろう。
俺の通院や入院。三津子の通院や検査。薬を貰うために、スロープを通って真向かいの薬局へ。お昼を食べるのに、薬局の横の小路を入ったり。熊野神社の裏へ抜けて四条へ出るためにタクシー拾ったり。いつも一緒だったな…。
東山の新緑が綺麗だ。ちょっとスロープの中ほどで立ち止まって、山を眺めていた。
子連れの若夫婦が歩いてきて、年長組くらいの男の子が走ってきて「ママー! こっち入ってもいい?」と笑顔で芝の方を指さしたり。それを後ろに聞きつつ、ゆっくり病院の敷地を南に抜け、聖護院方面へ左折する。三津子の診察待ちが長引くとメールが来て、時間つぶしに聖護院の裏通りをぶらぶらして戻ったりしたこともあったっけ…。また、いい季節になったね。

東大路に抜けて、通りがかったタクシーを拾い、自宅近くのスーパーへ入り、看護婦さんに買ってくるよう言われたものを、4階でメモを見ながら買い物籠へ入れていく。ここも、三津子と何十回一緒に来たか知れない。買い物を済ませ、マンションへ帰った。
誰もいない部屋に「ただいま」と声をかけて、着替えてから三津子の服を抱く。それから16時ちょっと前に、メールでももちゃんゆうちゃんに今日のママとみんなの様子を伝えた。
記録をつけ終えると、もう17時過ぎだった。
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2009-05-03(Sun)

「正しくありたい。」

11:25
前の記録をつけたあと、二階へ上がり、病院へ寄贈する本を持って行こうと、大きな本棚の前に立った。『愛のかたち』がもう棚には無くなっていた。仕事部屋には「保存用」の20冊弱の箱があるが、あれは貴重なので保存しておきたい。永久に保存し人々に見てもらえる保障があるのなら、喜んでいろいろなところへ出すつもりだけど。
そう思って、自分のベッドの上に立って、本棚の上の箱が何かを探る。
まず上に乗っていた俺の昔のカセットテープの箱をのける。チラと中を覗くとLPから録音してウォークマンで通勤時に聞いていたレベッカやオフコース。…懐かしい。でももう、要らない。

それから変色した封筒。
中には『FULL-HOUSE』というミニコミみたいな雑誌が入っている。付箋がついていて、見ると「やまだ紫インタビュー」と書いてある。1981年5月号だ。下へ持って行って、後で読もう。
その横の箱が『愛のかたち』だった。保存用は下にあるから、2冊取って一冊本棚へ補充し、一冊は病院へ持って行くためにミニコミと一緒に左手に持つ。その箱と本棚が倒れぬように天井との間に渡したしんばり棒との隙間があって、そこに立ててある大きな封筒は東京の書類入れ。
もう一つは奥に隠すように立ててある。下からだと角度的に見えづらい。A4の茶封筒だ。…三津子の日記らしい。日付が鉛筆で書いてある。今俺の目の前に出て来たということは…。下へ持って行く。

ミニコミ『FULL-HOUSE』のインタビューの方は、のっけから「Oさんちの奥さん」と銘打ち「やまだ紫インタビュー」となっている。81年だから、まだこの頃は籍を抜けておらず、Oという姓はもちろん前の夫のものだ。
インタビュアーの質問は不躾で、人のことは言えぬがあまりうまいとは思えぬものだ。でも当時の「やまだ紫」はサバサバと答えているようには見える。活字ってそういうものだ。時期的には、もうとうに夫から心は離れ、物理的にも離れる準備を整えつつある頃のせいもあるのかも知れない。
実際は暴力や不実で絶望と苦痛の日々だったはずの結婚生活や、あれほど憎み嫌った「ご主人」像などをしつこく聞かれても、相手を気遣い「忙しくて」家を空ける事が多い、とか「ロマンチストだから」と庇うようなことを話している。

でも、そうか、そうだったね。

あなたはさほど親しくもない他人に、誰かのことを悪し様に言うようなことは、しなかった。
それに、よく言っていたのは
「私にはメディアという発信の場がある」から、そういう
「一方的な力を使って、相手に反論する場を与えずに批判したりすることは、卑怯だ」とも。

そう。常にあの人は「正しくあろう」としていた。

俺に、それを解って欲しいと思って読ませたのだ。

それに、いくら暴力や不実に泣かされた結婚生活だったとはいえ、一度は愛し合い共に暮らしたのだという、そのことも、だ。
俺は前の夫との生活を聞くたびに怒髪天をつく思いで怒り狂った。そのことで彼女を癒せると勘違いしていた。若かったからだ。

「一度呼んできてよ。俺があなたがされた分を、全部まとめて返してやる」と言ったこともある。三津子は困ったような笑顔で「やめてよ、タイホされちゃうよ、あなたにやられたら死んじゃうような奴だから」と言っていた。
一度だけ、団地に一緒に暮らしていた頃、電話で怒鳴ったこともある。
俺たちが留守だと思って子供を連れ出そうとかけてきた、そして俺は
「てめえ、女殴ってんじゃねえぞ卑怯者。
サシで勝負してやるから顔出せこの野郎!」と怒鳴った。
相手は意外と細い声で、何か言っていたと思う。丁寧語だったのは記憶している。

(怒らないで。怒りや憎しみは自分に返ってくるよ。体に悪い。
自分が正しいと思って信じていれば、他人が何をしても、何を言ってもいいの。)
三津子が今、そう言っている。

ミニコミをしまい、もう一つの包み…日記らしい紙の束が入っている封筒を開けてみた。
ルーズリーフ用の26穴の白い横罫の紙の束で、なぜか穴の側つまり本来閉じる方の側を外にして、書き綴って行ったようになっている。ということは、ルーズリーフ形式の状態で記録していたのではなくて、一枚一枚、紙を取り出しては書いて行ったものを重ねて行ったらしい。

読んで行くにつれ、気持ちが重くなった。

これは1995年から、1998年5月あたりまでの飛び飛びのもので、全て三津子の手書きだった。
この当時、三津子はそれ以前の膵炎の影響で腎臓が悪く、原因不明の下血を繰り返していた。俺たちは同居し十年以上が経っていた。
もう、これ以上は書きたくない。今発表すべきことでもない。
色々な意味で、読んでいて心が痛くなる記述ばかりだった。
だから、あの人は読まれまいとして、本棚の上に隠したのだろう。

だって今二人は、こうして京都で幸せなのだから、と。

それを、今彼女は「読んで」と言って俺の前に突きつけたのだ。
(わたしがあの頃どんな思いでいたか。
 わたしが、あなたや母の 何を許し
 何を許していないのか
 そしてあなたがこれからどうすべきか
 読んで、理解して)

そう言っている。

するとタイミング良く電話が鳴った。ゆうちゃんからだった。
こないだ外して送った「wiiが届いた」、さっそく子供たちが遊んでいるという。MTとSNにも代わった。
二人には「ばぁば(三津子)と一緒にまた遊べたら良かったね」と言うと「…うん」と、MTの声が沈んだ。
SNには「また一緒に遊ぼうね」と伝えると、「ウン!」と元気のいい返事が返ってきた。
再びゆうちゃんに代わった後、日記の話をチラとして、俺はもう何に対しても怒らないし、ママ(やまだ紫)の作品を遺していくこと以外には何にも執着はない、と改めて伝えた。
『怒りが俺の生きるモチベーションだ』と、誤解していることを、
三津子がそれは違うと言ってくれた。

俺は俺で、自分のステージを高めて、少しでもあの人の近くへ行けるように生きないといけない。
彼女の別の記述にもあった。
「人を裁こうとすれば、自分が裁かれる」と。
これはリーディングで著名なエドガー・ケイシーの言葉で、これまた「トンデモ話かよ」と嗤う人は嗤えばよろしい。
問題は「それが正しいのかどうか」の話だ。

常に正しくありたい。

このことを、若い人はしばしば「自分に対して正しい」「自分に正直」などとすり替えて「自己の欲望に忠実である」ことを肯定する言い訳に使ったりする。「自分が正しい」と確信的に思うことは時に傲慢さにもつながる。個人主義、利己主義的な物言いにも聞こえる。
三津子の考え方、生き方はそうではなかったし、彼女はいつも悩んでいた。「これでいいのだろうか」「わたしが間違っているのだろうか」と。そういう思いも、日記には綴ってある。

それでも、私は間違ったことはしていないし、したくない。
恥ずかしいことは、したくない。

そういうひとだった。敢えて言えば「お天道様」でも「お日様」でもいいし、「神」「仏」「ご先祖様」でもいい。とにかく、そういう目に見えない戒めを持ち、自分を常に「正しくあろう」と、無宗教でもここまでの境地に達し、そうしてそれを実践して生きていた。

俺は、恥ずかしい。
今はただそれだけしかない。12:30
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2009-05-03(Sun)

「最良の日々」

夕べは11時過ぎ、二階の寝室へ上がった。その前にリビングのフローリングの上で丸くなっていたユキが目を開けたので、(おいでおいで)の手話をするが、じっと見ているのに来ない。仕方なく電気を薄明かりにして、階段を上がると、隅っこの畳の上に置いてあるフリースの「猫つづら」の中で寝ていたシマがベッドに飛び乗ってきて喉を鳴らした。
あの猫つづらは、いつもシマが二人の間に割り込んでくるし、冬だったのもあるが、「ねぐらをちゃんと決めてやろうよ」と言って通販で買ったものだ。しかしシマは全くそこへ入る気を見せず、相変わらず俺たち夫婦の間、どちらか(俺が多かったが…)の肩にズシリと体重をかけて寝ていた。つづらは結局ベッドの足元に放置された。そこにどちらかが自発的に入って寝ているのを見たことは、ほとんどない。
枕元にも、夜に作った手のひらに載るほどの小さな額に入れた、三津子の笑顔の写真を置いた。「おやすみ、三津子」と声をかけて、電気を消した。

…あの思い出したくない、いやそれでも三津子の声を聞いた最期の夜。
「頭が痛い」「薬…」

あれからちょうど一週間が経った。

救急車。脳CTの写真。残酷な告知。ホンのわずかな奇跡に賭けた手術。そして絶望…

今でも、目を閉じるとこうしてフラッシュバックする。あの忌まわしい一連の光景を思い出すと、動悸がする。時間を戻したい、とも思った。けれども時間を戻し、寝る前の三津子を前にした俺は、「君の頭の中に時限爆弾がある。リミットはもうない、すぐ手術しよう!」と言って助けられたか。それは無理だ。
A先生にはもちろん、助けられただろうか、という話をさんざん伺っている。

「そういう脳の奥の血管奇形…あるいは血管障害などは、『まず手術できるかどうか』を判断するために、血管造影その他の精密検査をしなければなりません。
 仮に『できる』と判断した場合でも、とても高度な技術が必要ですし、もちろん万全の用意と体制をつくってからになりますが、成功するとは限りません。
 手術した結果、術中に命を落とされる方もたくさん、おられますし、手術の目的そのものは成功したとしても、脳ですから、命と重度な麻痺とが引き替えだったりということも多いです」

「それに、検査した結果、該当する部位が余りに脳の奥だったり、手術そのものが今の医学では不可能だという判断に至る場合も、たくさんあります。
 そういう場合は、もう爆弾を抱えたまま慎重に暮らしていただくしかありませんし、『残念です』といってお帰りになられた後、あちこち病院や医師を廻られたあとで、1年後に『亡くなりました』という悲しいご連絡をいただいたこともあります」

「ですから、ああすれば良かったこうすれば良かった、助けることが出来たかも知れない、そういうご家族のお気持ちは当然ですし、よく解ります。
 ですが、助かるのも亡くなるのも、これは皆さん人それぞれの運命やと思いますし、それは我々医師には解らないことなんです」

解っている、それは本当にその通りだと思う。もう、理屈では理解している。
三津子の頭の中にあった『爆弾』を発見することは、奇跡のような偶然が重なれば、出来たかも知れない。例えば去年の段階で精密検査のために入院をし、彼女がアレルギーを持つ造影剤とは違う方法で、ピンポイントで脳の血管撮影を精密に行って複数の医師の所見をいただく…とような形であれば。
そこでもし仮に発見できたという奇跡が一つ起こる。その上で、手術可能かどうかを調べたら可能だという奇跡が起きる。そうして手術をして、爆弾を除去できるという奇跡がまた重なる。さらにその上、重度の障害が残らなかったという奇跡が重なる。
そんなことは、ほぼ考えられないことだし、考えても詮ないことはじゅうぶん承知している。

一番近くにずっと一緒にいた俺が、あの夜、彼女が痛みを感じて目を覚ました瞬間に「脳内出血だ!」と天啓のようにひらめいて、救急車を瞬時に呼び、アッという間に病院へ搬送したとする。状況から緊急手術へすぐに入れたとしても(実際はCTや各種検査、説明、同意、処置、移動がある)、救命確率は著しく低い状態だった。
それでも救命の可能性は「手術をする・しない」では、明らかにした方が救命確率は上がる。

通常はだいたい一度の出血で終わり、そこに出来た血腫を速やかに除去する。救命率は高いものの、障害が残る可能性は高いという。
けれど三津子の場合は出血は一回ではなく、複数回起きたと考えられ、脳内に出た血液の量がかなり多かった。断層写真でもそれは解ったので、血腫をうまく取り除いてあげても、重度の障害は避けられないという説明も受けた。

出血部位が取り除ければ、あとは失われた脳の部位の機能を、他の部分が埋めていくのか、あるいはリハビリなどで辛抱強く待つか、それはいくらだって出来る。俺や子供たちだって、生きていさえくれれば、必ずどんな辛い介護だってする。

命が助かれば、寝たきりだろうが車椅子だろうが、筆談だろうが何だろうが、とにかくいずれ「奇跡」は起こる。そういうことは何度も実例としていくつも紹介されているし、二人でそういうドキュメンタリーをも何度も見たものだ。
「一生寝たきりです、意識回復は100%ありません」と言われていた人が回復した例は山ほどある。

そこに賭ける。家族なら当然だ。
生きてさえ、いてくれたら…。
だから、「一生介護になってもいいから」と手術をお願いした。

この判断もA先生は「ご家族ならそうされるでしょう。私も妻がそうなったら、お願いすると思います」と言ってくれた。

そうして手術をするため開頭をしてみたら、「単なる脳内の出血」ではないことが解った。
さらに画像では解らず、該当部位を見て初めて解ったことがある。
それが、「元々今回出血した血管に、何らかの病変がすでに存在していた」ということだった。
なので、すでに脳内に流れていた血液や、固まった部分は除去できたが、出血箇所周辺を処置しようとすると、その都度さらに大量に出血をし出したという。これでは術中に命がなくなる。
なので、最大限の処置をして、手術を終えた。
結果は、脳の活動の停止だった。

この残酷な手術中に解った事実、そしてその術後、つまり予後の状態を、手術する前に100%予想し一致させることは、神でもなければ無理だ。

「だから手術をしなければ良かった」という嘆き・後悔は、こうして順を追って理性的に確認をしていけば、間違っていることが解る。
「手術に踏み切ったことは正しかった」そう確信している。

いくつもの奇跡が重なれば、最悪でも脳全ての死は避けられたかも知れない。そうすれば残された部分の機能で、残り全体をカバーすることは不可能でも、ホンの1%以下でも、再生の可能性がある。ゼロ、ではない。
医学的には、肝臓のように細胞が少し残っていても再生するのとは全く意味が違うということも解っている。それでも、奇跡を信じて祈るのが、愛する者の当然の行為だと、はっきりと胸を張って言える。

奇跡は起こらなかった、いやあの人の時限爆弾が残酷な時を刻み続けていたとしても、それが解ったとして延命は難しいという状態だったとしても、それを知らずに居られたお陰で、俺たちは残された時間を京都で楽しく過ごてきたことは事実だ。
人生の最後をこの美しい古都に住まい、ふたりで楽しい人生最良の日々を送ったこと、そのことが「奇跡」ではなく何だというのだ。

俺の向かいに座り、大好きだった焼きフグを網の上でひっくり返したあと、俺の顔を見て

「わたし、今が一番幸せだと思う」

と、目を潤ませながらにっこり笑って言ってくれた。あの顔を思い出すと、今でも涙が滲んでしまう。
俺も「うん、俺も今が人生で一番幸せだよ。」と言った。
俺は癌を患っているし、時限爆弾のことは知らぬとはいえ、三津子も満身創痍だった。それでも、俺たちは幸福感に包まれていた。

もし「時限爆弾のことを知っていたとしたら」。京都へはもちろん来られず、教職もお断りして、爆弾を除去できる「神の手」を求めて日本を、世界を探し続けただろう。俺たちがよく見ていた番組で、そういう難度の高い脳手術を高い確率で成功させている「神の手を持つ医師」がいることも知っていた。
それでも、出来る場所と出来ない場所があるだろう。それに除去するのは固形の腫瘍ではない、脳の奥にある「破裂するかもしれない血管の障害」だから、それはまた別の手が必要になるものかも知れない。

いずれにせよ、人から「クソ真面目」と言われ頑張り抜いてきた彼女の小さい体が、二人で「人生最良の時間」を過ごせたかどうかは、解らない。俺は、苦しいまま、そのストレスを抱えて辛い死を迎えるよりも、むしろ爆弾の存在を知らず、「人生最良の日々」を暮らせたことに感謝したい。

また爆弾の存在が解ったとしても「手術は不可能」と言われていたら、俺たちは毎日、絶望のカウントダウンの日々を送ることになっていたはずだ。
酒を飲んだり旅行へ行くなどはもっての外、それこそ買い物はおろか普段は安静に寝かせておき、たまに車椅子などでそろりそろりと外の空気を吸わせたりの生活だろう。食事もなるべく血圧や糖尿に影響の少ないものをコントロールされ、あとはいつ破裂するかも知れない爆弾の影に怯える日々…。
何より、俺を自分の代わりに立ち働かせることになり、俺の体を自分のことよりも気遣ってくれていた三津子にとって、それは耐え難い苦痛の日々になったと思う。
三津子はそれに耐えられなかったと思う。
精神が壊れるか、自分の命を自ら絶ったかも知れない。いや、彼女は常々自殺はいけないと言っていたから、それはしなかったかも知れないが、自ら命を絶つことも出来ないのであれば
「結局は運命に任せる」
しか無かったということではないのか。
最期は同じ「運命」なのだとすれば、俺たちの暮らした「人生最良の幸福な日々」が、最も三津子にとって、いや二人にとってそれこそ「幸福であった」と言うことにならないか。

二人で行く最期の旅行になった、南紀白浜温泉から奈良への楽しい旅行の写真を見て欲しい。
今まで、何度も三津子の笑顔は数え切れないほど目にしてきた。
しかし、これほどまでに輝く…そう、西日があたって文字通り輝いている、最高の笑顔を見たことがない。少女のような、そして仏に感情があったならこういう笑顔なのではないか、と思えるほどの輝き…。
この「笑顔」が、何より俺たちが「人生最良の時間」を過ごせていたことの証明だと思っている。だから、涙が出る。
2009/2/26、東大寺大仏殿前で

…こういうことはもう何度も考え苦しみ、悩み嘆いて、後悔し涙した結果に、ようやく、ようやく血の涙を流す思いで到達するに至った「結論」だ。
正直を言うと、直後は後を追うことを真剣に考えていた。
そのうちに、理性で、次に知性で「彼女が死ぬ」ということを少しずつ理解をしていった。
三津子は毎日、瞬間瞬間、常に俺の健康や回復を願っていた。ずっとずっと。
その俺が自ら命を絶つことで一番悲しむのは誰か。
そう考えて、「考えて」後追いへ転げそうな自分を何とか乗り越えた。
周りの人のお陰でもある。

俺の順番では、次は「感情」だけど、ここが一番難しいと思う。悲しみはきっと一生消えないだろう。
これらの全てを包み込んで、それでも生きて行けるのは、「愛」があるからだ。
愛し愛される、過去形でもいい、愛したし愛されたという実感があれば、やがて感情も癒されるのだろう。別な幸せな場所へ行き、彼女はそこで一切の苦悩から解放されて、猫たちと笑顔で遊びながら、俺を待つ。
そこに俺がもし行くことを許してもらえれば、その時が二人の「人生にとって」ではなく、「二人の愛にとって最良の日々」を迎えることになる。

だから俺は三津子に迎えに来て貰える人間になりたい。

今のままの俺では、とても彼女と同じ世界へは行けない。
そんな人間ではない。09:06
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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