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2009-06-28(Sun)

やまだ紫初期イラストや画稿の美しさ

6月28日(日)

夕べは寝室へ上がったのは11時半ころ、ニュースを見て寝ようと思ったが、土曜なので定番のニュース番組がなく12時過ぎに寝てしまう。
今朝は6時過ぎに目が醒め、比較的よく寝られた。そこから少しまたうとうとするが、蒸し暑いのでタイマーで切れていたクーラーをまた入れる。起きたのは8時半を過ぎてから。

朝のことをして片付けをして、洗い物は食洗機で済ませる。もう9時半。外は曇っているが、日射しが多少あって明るい。昨日も32度だかあったらしいし、今日も同じくらいだという。梅雨なのにと思うが、明日くらいから曇って雨になるという。

昼頃、そういえばもうご飯がないなと思い、米を4合研いで炊飯器にかけた。とぎ汁はペットボトルに入れて、二階のベランダに移した枇杷の木にあげる。クーラーの排熱がきつそうだったので移動したのだが、元気になったようだ。
それから下のベランダの苔たちにも水をやり、着替えて自転車で買い物に出て、切れた洗剤や今日・明日の食事などを買って帰宅。
部屋に戻って「暑かったよお、三津子…」と思わず遺影に声をかける。荷物を置いて着替え、仕分けをして一息つくと、炊飯器がもう保温になっていたので、慌ててしゃもじでかき混ぜ、熱いうちにビニール袋に小分けをして荒熱が取れたら冷凍して、ちょっとずつ食べるのだ。
それやこれやを終えるともう1時40分。外はかんかん照りだ。

…それから5時間以上、机とパソコンに向かっていた。時折資料を取りに動いたが、気が付いたら7時近く、外は西日が消えかかり、空の青と薄い赤が混じって紫色になっている。
午後はずっと、三津子の原稿リストと単行本リストにかかりきりだった。
やまだ初期イラスト

やまだ初期イラスト

途中、先日発見した70年代初期に描かれたと思われるモノクロイラストの余りの美しさに思わずスキャンしたり、寄り道もしつつ作業を進めるが、先が余りに長くしばしば呆然としてしまう。

やまだ紫というと、極限まで研ぎ澄まされた、省略の線の美が賞賛される。けれど初期の作品はかなり描き込まれたものも多く、『鳳仙花』所載の作品でも最初期のものは画力も不足しているところもあれど、巻頭の「落花生」ではほぼ完成の域に達していることが作品の並びでよく解る(タイトル画など、後の「しんきらり」やそれ以降の画風にも重なる)。
彼女の画力は相当なものであることが、もうこの段階で証明されている。
その上で、ストーリーテラーとしての個性は画力よりも先に遥かに高いところへ達していて、そういう意味では『鳳仙花』は本当に貴重な作品集になっていよう。
(…それにしてもブロンズ社は倒産し、彼女は一銭も貰えなかったというのはひどすぎる話だ)
やまだ紫は、言うまでもなく、非常に絵のうまい作家で、そのことは描き込みが多い初期でもちゃんと個性が煌めき、その個性が線を省略していく課程で、どんどん輝きを増していくのが「クロニクル」を作成しているとよく解る。
本当に、絵「も」、素晴らしい。

発見といえばこれも先日、スケッチブックに本人が原稿を切り貼りしたものが見つかった。「天空(そら)への詩(うた)」という「COM」に入選した翌年に、漫画とは別に掲載された1頁ものの詩画作品だ。
原稿を渡すと、版元(出版社、この場合は虫プロ商事のCOM編集部)の担当編集者が、原稿に書かれた著者の鉛筆書きのセリフやナレーション(総称して「ネーム」と呼ぶ、下書きのネームとは違う意味なので注意)を元に、写植を発注し、当時は直接原画にそれを貼り込んでいた。
俺も「ガロ」に勤務していた頃は、神経質な人で「直接写植は貼らないで」と言われない限り、そうするのが常識だった。
(写植とは写真植字の略で、フキダシの中なんかの文字を昔は印画紙で打ち出して貼っていた)貼るのは糊を使う人もいたし、「ガロ」ではペーパーセメントといって溶剤で溶かすゴムのような強力な糊を使っていた。その代わり石油系だったと思われ、時間が経つと変色したり、脱落したりするのが難点だったが、打ち出された大きな印画紙の裏一面にハケで塗り、乾いたらカッターマットに貼って、あとは一つ一つのフキダシなどに合わせて切ってシールのように貼るだけだったので楽だったのだ。
性悪猫「日向」の原型
「天空への詩」は、戻ってきた原稿(失礼な人は原稿を版下と言う)を三津子が丁寧に切って、スクラップブックに貼り込んだものだった。1回目は何かに使ったのか、あるいは気に入らなかったのか、絵の右下半分がざっくり切り取られている。
写植が時間が経って脱落したり変色していたりしているのは経年劣化としても、「COM」は漫画にしても原稿を何本も紛失させているし、この詩画連載も半分ほど抜けていたりと、当時の出版社いやCOM編集部いや担当編集者のいい加減さが解る。
その中のシリーズNO.4つまり第4回目が「おひさまいっこ」というタイトルで、「COM」1970年7月号に掲載されたものが、後の『性悪猫』の名作『日向』の原型であることが解った。
連載当時を知る年齢の読者の方であれば、「そんなの常識」と思われるかも知れないが、実は70年に「COM」に掲載された「おひさまいっこ」の方は、知らなかった。単行本にももちろん未収録のシリーズで、だいたい原画も揃っていない。
けれどそれから十年後に単行本『性悪猫』に収録され、多くの人を感動させたあの一篇。その原型が生原稿で残っていたというのが、感動的だった。
そのスクラップブックには「COM」に8回連載された「天空への詩」シリーズが最後のNO.8「紅茶」(COMではなぜか「No.9」となっている)まで、数回分が貼られている。それをひとつの「作品集」のように構成したようで、片方にはイラストがやはり切り取られて貼ってあったりする。
最後の方はデッサンや淡い花の水彩画が、やはり切り貼りしてあって、この水彩画が非常に綺麗だった。
とにかく彼女の画業は40年に及ぶ。その間の全てを補足することは恐らく不可能で、何しろ原画が散逸しているものも多い。それに「離婚までのレジスタンス」時代に描いていたカット類はもちろん、描かれた年代や掲載媒体すら不明なものも多い。
解る範囲でいろいろ調べながら進めるが、これは一人でこの調子だと完成するまでそうとうかかりそうだ。いや、「完成」は出来ないわけだから、完全なものに近付ける努力はどこまで行っても終わらない。
それまで生きていないといけない。
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2009-06-27(Sat)

性悪猫の口絵を発見

6月27日(土)

夕べは12時前に二階へ上がり、ニュースを見ていたがすぐに寝る。今朝は何度か目を覚ましたものの、6時ころまでおおむね良く寝られた。このところ寝苦しいのもあるが、とにかく4時前後に目が醒めてそこから浅い眠りが続いて起きると疲れるという状態が多かったので、今日は6時間でも「寝られた」という感じ。
今日も雨はなし、外は薄曇り。
朝のいろいろを済ませて、BSでアトランタ・ボストン戦。
10時過ぎに昨日スーパーで買っておいた弁当を暖めて食べた。レンジにかけている途中、新聞を取りに行った。

何か見るものはないかと新聞のテレビ欄を見るが、何も見たいものがない。HDDレコーダに録画された番組のリストを順番に見ていくが、ここまではまだ三津子が生きていたんだな。ここからはもう、彼女の居ない生活が続いているんだ…と、何もかもが三津子を基準にしか考えられていないことに気付く。
もう俺は一生そうやって生きていくしかない。いや、そうしていたい。
彼女を忘れたくない。忘れないし忘れるわけもないが、あの人の声をすぐ傍で聞けなくなってから、もう60日以上が経つ。寂しさは募るばかりだし、恋しい、愛しいという思いも大きくなるばかりだ。それでも確実に、認めたくはないが、あの人の声や、手や髪の感触を忘れていく。
一年後はどうなんだろう、もし俺が生きていたなら、三年後は。五年後は。
俺が生きていられる限り、彼女は死んでもずっとずっと俺の最愛の人であり続ける。だがその記憶が自分の中で薄れていくことを、今からもう恐れている。

その後結局何も見ず、午後にポストを見にもう一度下に降りた。
先日無料視聴を申し込んだら、さっそくWOWOWの視聴勧誘の冊子が送られてきた。
それから旧知のライター・神田ぱんさんからのハガキが届いていたので、取って戻る。
ぱんさんが救った仔猫は、その後順調に育っているようで、良かったと思う。三津子が死に向かっていた時に、ぱんさんは仔猫を数匹保護した。三津子の死の前後、奇跡的に仔猫を救うことが出来た。
あとで、「やまだ先生が助けて下すったんだと思って」と、ぱんさんも泣いていた…。お送りした『性悪猫』のイラストをモチーフにしたストラップに、仔猫がじゃれているそうだ。

それから、やまだ紫の作品リストを作らねばと思い、「COM」時代の作品を集めた『鳳仙花』収録の作品からリストを作っていく。
エクセルで、タイトルや発表媒体やページ数、原稿の有無などを記入していく。「COM」は原稿管理がいい加減で、3本も紛失されている。
『鳳仙花』は彼女の処女作品集で、「COM」発表時からは十年経っていない。それでも、原稿を無くされるというのはどういう管理だったのだろう。
もっとも、彼女はずっと自分のデビューを19歳の頃だと思い、処女作品集は『鳳仙花』だと思っていた。実際は「COM」への投稿が19の頃で初掲載は21歳。それから『鳳仙花』収録作品群がもちろん『性悪猫』より古いが、単行本としては『性悪猫』の方が初版発行時の日付では早い。これは俺が一緒になってから気付いたことだった。
作家というものは、作品を創る、それが発表され人々の手に渡ったら、その後の細かいことは気にしないものなのか。それとも、彼女という人がそういうタイプだったのだろうか。
そういえば、細かく自分で自分のリストや年譜を作る人もいる。
やまだ紫は、作家としてはもちろん優れた、そして尊敬されるべき才能だと思う。けれども、三津子という女性は、尊敬されるべき人というよりも、愛される人だった。おっちょこちょいで、方向音痴で、クソがつく真面目、バカがつく正直者と言われた。それでも意外とひょうきんで、お酒が好きで、歌の方は音痴どころかめっぽううまかった。寂しがり屋で、大人になっても誰かに頼り甘えたいという一面も持っていた。
正しくありたい、あろう、そう努力することで損な役回りをさせられた。
その瞬間その瞬間に反射神経で対応することが苦手だった。理屈で人を折伏しようとしても、その時にはとうに相手は目の前から消えていた。
料理がほんとうに上手だった。
自分よりもまず家族のことを思い、実際に行動した。
華美な贅沢やブランド信仰を嫌い、自分の価値観を信ずる人だった。
挙げていけばキリがなく、それらを裏付ける自分の記憶が、思い出が辛い。

俺は一緒になった頃、作家としての彼女が余りにも偉大で、個人としての彼女とのギャップに驚いた。ギャップというのは個人としては偉大ではなかったということではない。
あのような若い頃から異才を発揮し、達観したような、人の心に残る作品をたくさん発表してきた人が、実際に目の前にすると、愛らしく少女のような笑顔が素敵なひとだということに驚いた。後輩や年下ばかりの中にいても、常に気配りで立ち歩く、小柄で優しいひとだった。
俺なんか人間的にも才能も何もかも、彼女に比べれば本当にちっぽけでカスみたいな存在だと思った。だから余計に、その代わりにこの人を絶対に守ろう、と思った。
いっしょになった当時、少しずつ周辺へその事実を知らせるようにした。だんだんとそのことが「既成事実」になっていったが、俺たちふたりのことを「ずっと一緒に愛し合って暮らしていく」と思った人は、実は少なかっただろう。
ある人は「やまださんもタチが悪いよな、若い男をたらしこんで」と言ったそうだ。
ある人は「あのシラトリってのも田舎者のくせに、やまださんちへ転がり込むなんてたいした野郎だ」と言ったそうだ。

何とでも言えばいい、と思った。
俺たちは今もこうしていつも「一緒に居る」。

若い頃、「ガロ」のやまだ紫特集号で内田春菊さんが書いてくれたように、俺はそれこそ鎧を着て槍や縦を持ち、彼女を攻撃したり嫌な思いをさせるような奴は、本気で殺してもいいと思っていた。
でも、作家・やまだ紫への尊敬と畏敬の念は忘れなかったものの、いつの間にか、私生活では「三津子」の愛情にどっかりとあぐらをかいていなかったか。作家としての彼女を守ることはしていても、一人の人間としての彼女を守ることを忘れていたような気がしてならない。それを、心の底から後悔し続けている。
だからせめて、まず作家としての彼女の業績をできるだけ遺し、伝えて行きたい。命を賭けて。
それから、個人としての彼女もどれだけ素晴らしかったかを、こんな個人のブログでもいいから残しておきたい。そういう思いで、彼女が倒れてからずっとずっと、この記録に向かっている。
理解できないとか、バカだと嗤う人がいることも知っている。
でも自分の中ではこうして整合性がとれていると、理性でちゃんと解っているつもりだ。

『鳳仙花』のリストはすぐに終え、それから単行本のリストにかかる。奥付の日付が解ればそれをなるべく日単位で記録する。ISBNやカバー類のツキモノも。もっとも奥付の日付は、版元がその時々のスケジュールに合わせて勝手に印刷するから、本当に書店に並んだ日ではない。そんなことは編集者ならば誰でも知っている、だけど出来るだけ詳しく残したい。
それらの作業が一段落して、ツキモノ…業界ではカバーや帯類のことを言うが、そういえばあれの口絵はどうしたんだっけ、あれのカバーに使った絵は…と気になってくる。
『鳳仙花』のカバーに使われた絵は、知り合いの子たちをモデルに描かれたもので、確かお姉さんのところにあったと思う。『性悪猫』の青林堂版の表紙に使われた油彩画は、(長井夫人である)香田さんのところだったか。じゃあ、口絵は…。
考えていくと、本文原稿以外にもいろいろな画稿がある。カット類なども入れると膨大な数になる、でもなるべく解る範囲で記録したい。こういう執念深さと細かさには自信がある。
青林堂版「性悪猫」口絵原画
突然思い立って、先日調べた階段の下の納戸を開けた。箱は基本的に著作物ごとにまとまっている…と思ったが、一番上の箱に作品名が書いてない。ただ三津子の字で「原稿」としか書いていない。
開けてみると、「COM」の頃の未発表の原稿がどっさり出て来た。鉛筆で下書きだけを入れたものが数十枚、ペン入れまでしてあるが、タイトルとラスト周辺の数枚が見あたらない、未完のものなど。
そして、ついさっき「どうしたんだっけ」と思った『性悪猫』の口絵のカラーイラストが見つかった…。
どう考えても、彼女が「ここにあるのよ」と教えてくれたとしか思えない。
しかも一応トレーシングペーパーはかけられていたが、それは彼女自身の手によってテープでかけられたもので、鉛筆で輪郭線をなぞった線が描いてあった。そして当て紙もなく、そのまま茶封筒に入れてあるだけだった。トレーシングペーパーにはくっきりと折れ線がついていたが、肝心のイラスト本体は何とか無事だった。
さっそくそれを手近にあったコルク地の写真用の壁掛けのビニールを開けて、保護した。
あの、青林堂版ハードカバーの『性悪猫』を手にした人なら知っているはずの、美しく、慈愛とぬくもりに溢れたイラストだ。
本当に、彼女の絵は美しい。
『性悪猫』所収「梅雨」のなかのひとコマ、

「砂袋みたいに 抱いていてよ」

の、あのシーンを元にカラーで描かれたものだ。
この美しい絵は残念ながら、青林堂版以降では収録されていない。しかし、この美しく素晴らしい作品を、よくもよくも十年もの間、「品切れ」という扱いで侮辱してくれたものだ。
出版人としての見識、良識をおおいに疑う。というより、はっきり言うが、頭がどこか狂っているとしか思えぬ。
絶対に、手に取り、読んでくれさえすれば、胸に抱きしめて愛おしく思える、心を癒すものだと信じている。
必ずこの本を、もう一度世に送り出す。
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2009-06-25(Thu)

画稿の整理

6月25日(木)

朝は6時前に目が醒めた。外はもう明るく、足元の送風機だけでは寝苦しい。クーラーをつけてもう一度寝ようとして、そのままごろごろした挙げ句、結局7時過ぎには起きる。
今日は薄曇りで青空も覗くような天気で、暑くなりそうだ。朝のルーティンを終えてから、7時半ころジーンズに履き替えて半袖シャツを羽織って下へ降りる。暑くなる前に買い物をと、コンビニでおにぎり2つと昼の弁当、キムチ、温泉玉子、冷凍のシュウマイと焼きおにぎり、文春、イチゴヨーグルトなどを買ってすぐ戻る。
おにぎり2つとウーロン茶で朝食。その後は8時過ぎからずっとBSでアトランタでのヤンキース戦を見る。先発の川上憲伸は制球が良く、打たせて取るピッチングで3回までパーフェクトピッチングを続けていたが、3回ツーアウトでピッチャーのチェンバレンのライナーを右鎖骨から首のあたりに直撃され、チェンバレンはショートがバックアップしてアウトにしたものの、川上はマウンドに座って呆然と首を抑えた表情が大写しになる状況だった。
ベンチからは監督やトレーナーが飛び出してきて、付き添われてベンチに下がり、結局そのまま次の回の攻撃で代打が出て降板となった。ようやくメジャーに順応してきたかと思われ、この日はいいピッチングをしていたのに残念だった。

その後、四十九日も終わったので、ちょっとずつ始めよう…と思い立ち、階段下の納戸を少しだけ整理。
ここは三津子の原稿の箱や袋、そして一番奥はVHSのテープラックが入っている。

やまだ紫の単行本として一度出版されたものは、そのタイトルごと一袋にまとめてあり、基本的に段ボール箱へ収めてある。だからそれらを敢えて引っ張り出してまた再度仕分けをする必要はあまりないし、古い原稿はそういうことをすると写植が剥離したりする。なので最後に慎重にやることにする。こういうことは餅は餅屋で、自分も漫画編集に関わってきた人間だから良く知っている。
その他のイラストや連載のものも、きちんとした編集者なら一枚一枚トレーシングペーパーをかけたうえ、「要返却」の印を押すなりシールを貼って、連載が終了したら御礼の手紙と共に返却されてくる。そういうちゃんとした編集さんは当然当て紙もちゃんとあててくれているから、原画もシャンとしたままだ。
けれどだらしのない、と言ったら失礼だが、ズボラな編集だと普通の封筒にそのまま入れて返却してきたりする。すると折れていたり、ひどい場合は周辺が黄ばんだりしていることもある。漫画家の原稿というものは、画家における一枚絵と同じ、世界にたった一つしかないものだという意識が欠けているように思われる。
とにかく一点もののカットやイラスト、細かいものも、解る範囲で整理用に作った角0号の名入れ封筒に、摘要を書きながら入れていく。
それから懸案だ、いや懸案だろうと思っていた包みを取り出した。これは『やま猫展?』(92年)の際にパネルに原画を透明フィルムで挟んで展示したものが、それがそっくり3つほど包みになったままあるものだ。
懸案というのは、このパネルには粘着面があり、そこへ原画なりを貼って、その上に透明フィルムをかけてカバーするというものだからだ。このパネルは、値段が安く軽くて、会場のコンパネに四隅をブスリとピンなどで貼れば展示完了というお手軽なもの。
だがそのまま放置しておくと「フ●ルアルバム」のように原画が接着面に張り付いてしまい、はがせなくなる。余談ながらあのタイプのアルバムに大切な写真を貼ったことで、取り返しがつかなくなった人は多いのではないか。
このパネルも展示からもう十数年経って、それをどううまく剥がすなり切り取るなり、あるいはそのまま分類するなりしようか…と思っていた。それが「懸案」だった。
意を決してそれらを取り出し、一つの包みを開けてみると、パネルに原画がない。残りも全部確認したが、何と、当時の俺たちはちゃんと展示が終わったら原画がくっつかないように外してくれていたのだった。
そりゃあそうだよな、いくら何でもな、と思ってホッとしたものの、ならなぜ使い終わったパネルをそのまま後生大事にずっと取っておいたのかが意味不明だ。
京都へ越す前の住まいに引越したのは99年だから、その時わざわざその前のマンション(ガロ93年2/3合併号、やまだ紫特集号参照:「仕事場」となっているところ)から運んだことになる。
その後京都前のマンションの納戸にずっと原画の箱と一緒に入れておいたので、ということは「大事なもの」=「原画がそのまま貼ってある」といつの間にか俺たちが勘違いしていたらしい。
ならば遠慮なく捨てられるな、と思ってそれらの大きな包みを3つ、廊下に出した。

それから納戸の隅に、一度も俺が見たことのない、かなり大きな紙の古い手提げ袋があった。その中には古いスケッチブックのような大きなものが入っている。
それをエイコラと引っ張り出して見ると、スケッチブックは三津子がデザイン学校へ通っている頃のものらしかった。
街の線画のスケッチ、課題と思われるデッサンやレタリング。学籍番号らしい数字が67とあるから、三津子が19歳の時のもののようだ。今見ると「COM」時代、単行本でいう『鳳仙花』収録の作品群につながっていく、彼女の絵が完成しつつあるのがわかる。
それからもう一つの大きな束は、1964年つまり三津子が高校一年の時の、美術部時代の課題などが入っていた。石膏デッサンや鉛筆での課題のデッサンはだいたいがC-とかD+とか失礼な点数がつけてある。
遺影を思わず振り返る。
大丈夫、君のことを尊敬しこそすれ、笑ったりバカにしたりする筈ないじゃないか。こういう昔の、「やまだ紫」以前のものが見られるなんて、ファンとしてはこの上なく嬉しいことだよ。
これはまだ君が未熟なころのものだから、君が恥ずかしいと思うのは当然だけれど、その作家の全てを蒐集し研究したり展示をしたりする場合は、非常に貴重で重要な「資料」でもあるんだよ…。
それにしても、高校一年生だった「山田三津子」の石膏デッサンや課題制作は、本人がそれほど熱心でなかったことが解る。一生懸命やってはいるが、別なところに描かれた未完成の猫や犬、植物などの簡単な素描の素晴らしい出来に比べ、決められたことを「こう描け」「言う通りにやれ」と言われてこなすことが、苦痛だったと解る。
絵を描く上でのいわゆる「絵画技法」、基本的なデッサンや道具の使い方など、それはそれで必要なのかも知れない。けれど誰でもが同じような到達点を目指す、そういったルーティンを学びながら、彼女は「漫画」、それから「詩」という「手段」で自分を表現したい、世の中に一人で立ちたいと思っていた。
十代の少女がスケッチブックの隅っこにチラっと描いた、煌めくような才能の萌芽。
ひどい採点で傷ついただろう、つまらんデッサンの課題類に比べて、のびのびと描かれた「描きたかったもの」の素晴らしさ。
途中からは課題もいい加減にこなすだけで、描きたいものがある、やりたいことをやりたい…という抑圧が伺える。
「アート」「美術」「芸術」何でも良いが、人に「表現」を教える場合に、もっとも必要なのはその人の個性の煌めきを発見し伸ばしてやることだと思う。
たくさんの先達あるいは同志の作品に触れることによって、感性が養われ磨かれる課程で、個性=作家性が涵養されるものだと信じている。
その最も重要な「個性」を抑圧するだけの「教育」だったら、有害だと思う。三津子の「やまだ紫」になる前のデッサンや素描は、そのことを教えてくれている。

どうでもいいことだが、俺も高校時代は美術部に入った。中学の時すでに周囲から「漫画がうまい」「将来はプロ漫画家」とおだてられ、鼻高々で入った美術部で、名物だったU先生に鼻をへし折られた。
課題のポスターデザインを絵の具でキャンバスに描いている時、「お前のはデザインじゃない。漫画だな」と言われた。何かバカにされたようで、もの凄く恥ずかしかった。
その先生は連凧をもの凄い数揚げる名物先生で、いい先生だった。だから余計に漫画ってバカにされてるんだな、と思い失望した。
けれど後でその先生から「お前は美術じゃなくて漫画を学んだ方がいい。レタリングなんかちゃんとやればすぐ仕事が出来るレベルだし、うまいこと組み合わせてやればいいじゃないか」と言ってくれた。「美術」という漠然とした概念より「漫画」が低いと言われたと誤解していたのだが、実際は高校で習う「美術」というものは画一的で基礎的な技法が中心で、むしろ「漫画を目指せ」と言われたことは、珍しく「個性を伸ばせ」と言われたのに等しかったのだった。
いい先生に当たって良かったと思った。それで、受験はモラトリアムにしてもらい、その一年間で漫画家を目指す約束を母親に取り付けたのだ。(実際はほとんどだまし討ちのようだったと母は後に述懐しているが)

「山田三津子」は高校から美大へ進学を希望したが、経済的に余裕がないのと、高校の推薦が受けられなかったのとで断念したという。
推薦が受けられなかったのは「基礎的な絵画技法」の成績が悪かったからで、そのまま美大を受けても、恐らくそこで落とされるだろうと言われたそうだ。
俺はその話を聞いて「大丈夫、ビートルズやカーペンターズだってデモテープがレコード会社で落とされてる」と頓珍漢なことを言ったことがある。
それで彼女はデザインの専門学校へ通う。それからデザイン事務所でアルバイトのようなことをしつつ、漫画を描き始めるのだ。
結果として、彼女はそれからすぐに「やまだ紫」になる。
ということは、それで良かったということだろう。漫画界にとっても、俺たちファンにとっても、あの『性悪猫』はじめ名作の数々に出会えたのだから。
何度も書いているが、絵も、素人ほど実物そっくりの写実画を「うまい」と褒める。実物に近いことを評価とするなら、写真でいい。それに評価が高くなればなるほど、誰が描いたのか解らない=個性の否定ということになる。
字も少しそれに似ているが、文字の場合はいくら達筆でも読めなくては仕方が無いので、すっきりとした楷書体が好まれる。そう、ペン習字の教材ノートに、見本として薄く印刷してある「あの字」だ。誰が書いても、あれをなぞれば読みやすい楷書体になる。よく国語の先生が板書するような字というか。
だから基本を習い、そこからどう崩すか、どう個性を出すかが難しいのだ。
やまだの字は誰にも真似の出来ない、個性のある文字だと思う。俺は彼女の絵の隅に一字「紫」とあるのが大好きだ。

気が付くと1時を過ぎていたので、お茶漬けを残っていたたらこで食べた。

その後、封筒に入れていったん整理してあった、三津子の水彩画を取り出した。全部猫の絵で、三津子の死後注文しておいた大きな額にあらためて額装し直す。ちゃんとマット加工もして貰った額だ。
今入れてあるものは、額ではなく東急ハンズでまとめて買ったフォトフレームみたいなもので、1つ1000円もしない安物だ。しかも三津子はそのサイズに合わせて絵を描いたから、大きな額に余白を取って入れる場合は、ほぼきっちりの大きさにマットを作って貰わないと額装できない。
厚紙に絵を載せて、慎重にマットの中心に絵が来るように位置を調整するが、やはりどうしてもマットちょうどにはならない。これはもう仕方がないので、そのままとりあえず額装して箱に入れ直す。それらを終えると3時前。

その後、二階へ上がって、もう一度原稿の箱がもう無かったか押し入れを見てみると、下の段に積まれた箱に「やまだ原稿 COM」と書いてある箱があった。
まだあったじゃないか、しかも大変なものが! と思い、押し入れの手前の場所をあけて、エッチラかつぎ出した。こういう作業はしんどいのだが、これこそ俺がやらねば誰がやる。
一応一度開けて確認したようで、ガムテープは剥がされていた。
それを下まで汗をかきつつ下ろしてきて、さっき一段落したばかりの整理用封筒をまた出して、順番に整理を始める。

「COM」時代の原稿はもちろん『鳳仙花』に収録されたものだが、原稿を紛失されて刷り出しにホワイトを入れたりして版下にしたものもある(『鳳仙花』参照)。
原稿だけでなく、同時代の美麗なイラストの原画もあった。今の整理され研ぎ澄まされた最小限の線ではなく、描きこまれた、それでも美しいやまだ紫の「漫画絵」のイラストだった。思わず「うわあ綺麗だねえ」と声が出た。遺影を見ると三津子はにこっと笑っているように見える。
ブロンズ社『鳳仙花』はいわずと知れたやまだ紫の最初期作品集で、彼女はしきりに「あれは未熟な頃ので恥ずかしい」と言っていた。だが原画を見ると、その素晴らしさがまた一段と伝わってくる。
本当に、彼女は、二十代のはじめに、これらを描いたのか。
「凄い」とか「早熟」といった言葉ではとても足りない、本当に「才能のある人の凄み」を感じる。
昼に発見した、三津子の高校〜専門学校時代のデッサンやスケッチなどの時代からわずか数年で、「山田三津子」は「やまだ紫」へと見事に変態を遂げた。ただ、やまだ紫という作家の足跡を見ていくと、醜い毛虫が華麗な蝶に変化した…というメタモルフォーゼではなく、元々美しかったものが、成熟してより一層気高い、凛とした大人になったという印象で、『鳳仙花』の時代はまさにその大人へと歩み出した「作家」の歩き始めであった。

その箱からは、原稿だけではなく、色々なものが出て来た。
個人的な電話番号の早見表。几帳面にレシピが書かれた「料理手帳」と表紙にある、新書判くらいのノート。『アサヒグラフ』や『週刊文春』から『BeLOVE』『コミックモーニング』などの掲載誌とその切り抜き。資料に使おうとした大量のグラビアのスクラップや写真。
それから、俺ですらもう忘れていた、団地で暮らしていた頃の「家族」の連絡メモや家庭内新聞なども出て来た。
三津子が打ち合わせかパーティかで遅くなると言っていない日の夜、俺がその日のことをレポート用紙に簡単に漫画風に描いて、先に寝たりしたことがある。
「ももちゃんが洗濯をしてくれてたから後で褒めてあげて」とか「ゆうちゃんに算数を教えた」とか、他愛のない内容だ。
別なものは子供たちに「朝、8時何分に俺だけ起こして、ママは仕事で遅かったから寝かせておいて」と書いたメモ。逆に「ママ」である三津子が俺を起こしてと書いたメモ。ゆうちゃんが俺たち4人のコミュニケーションのために作った家庭内新聞…。
何度も何度も思い出す、あの狭い団地での、4人と3匹の暮らし。こんなものも、あの人は取っておいたんだ。きっと捨てられず、そっと原稿用紙の間に隠して、保存しておいたんだね。あの頃はそれが「日常」で、そうやってみんな一生懸命「家族」をうまくやっていこうとしていた…。
涙は出ず、そのかわりに暖かい気持ちに包まれ、顔がほころぶ。遺影の三津子に「ほら、ゆうちゃんの絵!」とか言って見せる。
それら俺たちのプライベートなものや写真は分けておいて、作家・やまだ紫の原画や原稿を、黙々と整理用の封筒に入れては、摘要と確認日などを記入していく。気が付いたら日は西に傾いていた。
絶対にもう不要というものはゴミにして、段ボールをホコリなどが出ぬようベランダに出してから中のゴミを袋に開けて、畳む。ついでにベランダの苔や草に水をやってから戻る。
ずっと俺の仕事机の脇で寝ていたユキが、ベランダが開いた気配で起きてきたのが見える。水で濡れているから今日は出せないよ、ごめんな、と声をかけてベランダから戻り、ゴミと畳んだ段ボールを玄関へ運ぶ。そしてパソコンに向かって仕事のやりとりをして時計を見たら6時近かった。

こうしてやることがあると、時間が経つのを忘れるから、まだいい。けれどもその「やること」が、あの人の思い出に直結する作業だから、どうしても作家である「やまだ紫」と妻である「三津子」がクロスする。原稿などの袋をいったん整理してから、改めて団地の頃のものを見ると、やはりこみ上げるものがあった。
「懐かしい」とかそういうレベルではなく、もっともっと、切なく愛おしい、二度と来ない日々。しかも、それを懐かしく思い出し笑い合う「連れ合い」はもう居ないのだ。これほど残酷なことがあるのか、この世にこれほど辛いことが他にあるのかと、真剣に思う。

作業を一段落し終えると、両腕が軽く痺れたように痛い。これは作業のせいで、病気による今日の「腫れ」は縦隔=胸の真ん中のようだ。鈍く突かれたような鈍痛がする。そんなことより、やっぱり三津子を失った心の傷の方が遥かに痛い。だから物理的な痛みになかなか気付かないのだろう。
そういえばつい一週間ほど前、気がついたら左足のふくらはぎ、力こぶが出来るあたりが4cmほど切れていた。どこでぶつけたか切ったのか、全く記憶がない。なので放置しておいた格好になり、どうやら化膿しかかっているようだ。「そういえば痛い」というような傷ではなかった。カッターですう、と切ったような傷で、下の方がぱっくりと開いて膿んでいた。
俺の病気は免疫力が落ちているので、こういうところから雑菌が入ると治りにくい。気付いたのはまだ三津子の四十九日前だったので、動けなくなるとまずいと思い、すぐにアルコール消毒をし、抗生物質軟膏を塗ってガーゼでフタをした。
次の日もその翌日も同じことを繰り返しているうち、何とか化膿が進むことはなく、無事東京の納骨と四十九日法要に出て戻ることも出来た。ただ傷がなかなか塞がらず、今日あたりになってようやく治ってきたようだ。一週間以上かかったことになる。
今、こうして書いていると、思い出したようにふくらはぎの傷が痛み出した。心にあまりに大きな傷を負うと、体の表面の傷や痛みなどこれほどまでに小さなものかと、改めてぞっとする。
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2009-06-24(Wed)

調子の悪い日

6月24日(水)

夕べは明青のおかあさんが来てくれた後、一杯だけビールを飲み、12時半ころ寝た。
今朝は調子が悪く、頭痛がひどく腹もしんどい。
6時ころに目が醒め、その後は寝られず起きられず、朦朧としていた。体がしんどいのでもう少し寝たいと思い、トイレへ行ってからもう一度寝ようとして、結局9時半ころまで強引に薄く寝た。
調子は依然悪く、ふらふらする。本当の貧血かも知れないが、もうしんどいとも痛いとも、訴える相手もいない。三津子の写真にいつも通り「おはよう」と言って脾臓を抑えると苦しい。でも笑顔で写真に「大丈夫」と言う。君が生きている時から、ちょっとくらい平気だと、普段から彼女に笑顔で安心させていれば良かった…。
本当はしんどいが、そのことを聞いてくれる人が居ないのだから、黙っているしかない。三津子が居たから、つい俺は弱音を吐いたのだ。そして、三津子はそれを自分の痛みとして、いつも心配し心を痛めていた。痛かろうが苦しかろうが、黙っていれば良かった。

三津子の陰膳を片付け、洗い物はしんどかったので、ゆすいでから食洗機に入れてスイッチを入れる。それから新しいウーロン茶に氷を入れてテーブル上の写真にあげて、飾り棚の上にある遺影の前には冷たい水をおちょこにいつも通り備えて、線香を立てて手を合わせた。毎朝毎朝、こうしている。
それからはソファに転がって、テレビをぼーっと眺めていた。BSでヤンキースの試合、でも経過などどうでもよく、しばらくうとうとする。
11時前に起きてみると若干具合が良くなっていたので、冷凍してあった食パンをトースターで焼いて食べる。ペットボトルのコーヒー牛乳を飲むが、予想通りこれで下痢。今日のはいつもよりひどい下痢で、2度3度と水のように出る。おかげで下腹部が常に下痢の不快感といつもの膨満感で最悪の状態になった。
それでも今日は仕事があるので、データをチェックして黙々と作業をする。
ユキは常に俺の仕事机の横に積んである箱の上に寝ている。そうして時々「ニャー!」と鳴き、俺がちゃんと居るかどうか確認する。トイレへ行くとしばらくして俺が見えなくなったのが不安らしく、鳴きながらトイレの前へ来る声が聞こえる。出ると鳴きながら去っていくところで、気配を感じて振り向いて、俺の顔を見て一段と大きな声で鳴く。前から寂しがりだったが、三津子が死んでからは一層ひどくなったように思える。

仕事をしていると2時半ころ突然家に電話が入る。着信番号は携帯からで、誰かなと思って取ったらひさうちみちおさんだった。やまだの四十九日が終わったと思うので、近日中にお線香を…と言われる。
けれど我々も仏教徒ではないし、仏壇もありません、どうしてもと言われた方と、お隣さんがお花を持って来られた時ぐらいで、あとはどなたもそういうことはしていただいてませんから、どうか思い出していただいて、心で冥福を祈っていただければ…と話した。ひさうちさんも三津子が亡くなる数日前に、交通事故で大怪我をした後だし、無理をされない方がいいとお伝えする。
最後に「ひさうちさん、いつも酔っぱらって自転車乗るから心配だ、とやまだがいつも言ってましたよ」というと笑っておられた。ひさうちさんもお大事にとお伝えする。


そうしてもう、今日も4時近くになった。
4時過ぎに冷凍うどんでも食べようと冷凍庫を探すと、うどんは無かったが塩ラーメンがあったので、よく煮込んでから食べる。それから7時ころ三津子に晩酌の酒をあげて、ちょっとだけビールを飲んだ。下痢は俺のデフォルトだ、三津子の晩酌に付き合うくらいはいいさ。
夜は本当に、何もないので映画のDVDをあさり、『キル・ビル』の1と2を続けて見た。続きものなのに、続けて見るもんじゃないなと思った。
1は見ていたのだが、2は今日初めて見た。1のまるで劇画のような新感覚の面白さに比べて、2の1という作品への「言い訳」のような作りの落差に驚いた。一つ一つのシーンを良く言えば丁寧に、悪く言えば冗長に撮りすぎで、1の痛快なチャンバラやドタバタをそのままビルへの対決となるであろうラストシーンへ続けて行くものと思っていたこちらを退屈にさせる。

そんなこんなで午前中の調子の悪さがようやく薄れ、下痢もおさまったようなので、11時過ぎに二階へ上がる。時計を見ると11:11になったところだった。三津子が守ってくれるのだろうか。ニュース23やNEWSZEROをちょっとだけはしごして、12時半ころ寝た。

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2009-06-23(Tue)

脱力

6月23日(火)

昨日の夜、9時ころにソファでうとうとしてしまい、10時前にハッと起きて、朦朧としながらレンドルミンを飲み、ふらふらと二階へ上がって寝てしまった。3時過ぎに目が醒め、ふらふらと下へ降りてトイレへ行き、どうしようかと思ったが朦朧としているので、もう一回二階へ上がった。
ベッドに転がってチラと時計を見ると333。「三津子、三津子…」と声に出しているうちに寝てしまう。
朝は7時前に目が醒め、8時ころ起きて洗顔など。
夕べ、函館のお袋から夜8時ころにまた電話があった。俺はその時はじめて父親の戒名を聞いてメモしたが、その字の中の一字がどうしても自分の字なのに判読できない。
朝おふくろにメールをすると、親父の戒名は「普光院純誉秀道居士」だった。解らなかった一字は「秀」の字だった。

10時半ころ、冷凍してあったご飯を温め、レトルトの中華丼をかけて、ミニワンタンと水。食べ終わるとぐったり。何だか今日は力が出ない、脱力する日だ。
仕事をした後、3時ころにベランダの苔や木に水をやった。ベランダの戸を開けておいたらユキが出て、その間に中途半端に腹が減ったので、どん兵衛の「鴨だしそば」にお湯を入れる。ユキが戻ったので戸を閉めようとしたらシマもいつの間にか出ていて、ててて!と慌てて入ってきた。梅雨なのに晴れ間があって、暑すぎず、いい陽気だよ…三津子。猫を出せるベランダ。窓からは素晴らしい景色が見える。一人で見ていると、じんわりとこみ上げるものがある。
食後に一息ついていると、ユキがダイニングテーブルの横でゲロを吐いた。ベランダに出した時、見てない隙に植木を食ったらしい。
それを拭いてからまた一息つくと、今度はユキがトイレの下に敷いた新聞をバリバリとひっかいている。どうやらトイレを替えろと言っているようなので、食後で苦しかったがハイハイと立ち上がって掃除をする。
このトイレ掃除は毎回毎回本当に難行苦行で、重労働。途中から汗が噴き出し、口から自然に「うう、うう」と苦しい声が漏れる。拷問みたいなものだ。それでも必死で十分くらいかかって何とか終えて、ゴミ袋に入れると袋が一杯になった。今度は下までゴミ出し。
本当にこんな些細な「労働」でもくったくたになるが、一人なんだからずっとこうして暮らしていくしかないのだ。

夜11時ころ、明青のおかあさんから電話があり、マンションまで来てくれるというので、こちらは桑原さんに送っていただいたさくらんぼと筑摩のやまだ紫作品集の5巻を持って下に降りた。
いただいたサクランボはすこぶる高級品で、美味しいのだが一人では食べきれない。そうだと思って夕方明青さんにメールしたが、今日はお店が休みなので、たぶん午後から飲んでるだろうな…と思っていたが、わざわざ来ていただいた。

11時ころ下の応接セットで待っていると、おかあさんが自転車で来たのが見えたので、すぐに迎えて応接セットに座って話した。
とにかく、悲しいんやったら泣いたらええんやし、そんなん我慢することはないよと言っていただいてるうち、やっぱり涙が出た。こないだお袋を連れて行った時には憂鬱だったが、とにかく三津子の母親が、今回の納骨と四十九日の法要を全部やってくれ、しかもその後の会食も和やかで良かった、やはり三津子がそう導いてくれたのだと話した。
おかあさんも、行く前と行った後とでそれだけ気持ちが違うんやったら、やっぱりそれは良かったんやね、と言ってくれた。
本当に、京都で知り合いというかこれだけ親身になって下さる人はいないので、有り難いと思った。涙と鼻水が、我慢していたけどやっぱり出てしまった。
「次は東京から彼女の娘達が来ますから、そうしたら伺います」と話した。
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2009-06-22(Mon)

四十九日を記録する

6月22日(月)

朝は6時半ころ目を覚ました。夕べは12時半ころ眠れたと思うので、6時間くらいは寝られたか。最近では多い方だから、やはり疲れていたのかも知れない。
一度ごろりとベッド脇に降りるが、そのまままたベッドに戻る。どうも怠く、首と肩が異様に凝っている。この凝りは意味が解らない。新幹線は帰りはとにかく早いのをと思ってグリーンにしたので、快適だった。
7時前に起きて洗顔などし、夕べ陰膳にした温泉玉子や皿などを片付け、三津子の水やお茶を入れ換える。
今日は四十九日なので、線香を立てて、声を出して般若心経を読んだ。
前の日の納骨や法要の報告をアップした記事に書いたように、四十九日とは遺された人が悲しみを癒すために設けられた時間のような気がするが、俺の場合はまだまだ無理だ。三津子のことを考えただけで目が潤む。
色々心配ばかりかけてごめんね。こんな人間を愛してくれてありがとう。君と一緒に暮らせて本当に、幸せだった。ずっとずっと忘れない。昔から今も、これからも愛している。
謝罪と感謝、そして永遠の愛。毎日、ずっとずっと君に伝え続ける。

三津子の四十九日法要を終えたことを、ブログにアップする前、昨日コンビニで買った残りのシャケおにぎりを一つ、水を飲みながら食べた。
ブログに書くために前の日記…エクセルで俺が癌宣告を受けてから三津子が倒れるまでずっとつけていた日記を見返す。
おととしの7月19日、あのカーッと晴れた暑い日、この部屋の「二階」から送り火をやる松ヶ崎の「妙法」を見て、住むことを決めたのだ…。やっぱり京都に来てからのいろいろなことが思い出される。
昨日、三津子の骨壺が墓の下に納骨されたとき、墓の後ろからアゲハチョウがヒラヒラと舞い上がったこと。あれは君だったんだ、と改めて思い出すと涙が出る。

その前、昨日不在で今日の午前中に配達を頼んでいた、舟渡の桑原さんからさくらんぼが届いた。見事な大粒のさくらんぼがぎっしり綺麗に並べられた箱が2つも入った立派なものだった。すぐに冷蔵庫にしまい、三津子の写真の前にも皿に盛った。
三津子のお腹を隠すオーバーオールを何着も作ってくれた、桑原さん。京都へ来たらぜひお会いしましょう、と言っていたのに。とうとう俺は一度もお会いすることがなかった。
あとで俺もいただいてみると、じゅうぶん甘いが、もうちょっとで完全に熟すという、絶妙な状態だと解った。本当に有り難い。ふたりとも、さくらんぼが大好きだったから。

携帯を見ると、昨日高校の同級生で親友のUからメールが入っていた。最近は携帯もあまり見ないし、そう言えばその辺に買い物に行く時も携帯は持って出ない。この携帯は、俺と三津子が離れている時のメールや連絡のためにあるようなものだった。もう、その相手もいない。
Uからのメールは、ヤフオクに昭和63年3/25号のクロワッサンが出ていて、「献立発想法」というタイトルで「やまだ紫」の名前があるよ、と知らせてくれるものだった。うちにバックナンバーはあるかというので、調べてみると返答した。
三津子の机の引き出しに改めてしまい直したファイルを出してみるが、それらしい記事はみつからなかった。これは三津子が自分のインタビューやエッセイなどが載った雑誌を切り抜いてファイルしたものだが、見あたらない。ひょっとしたら小さなコーナーだったのかも知れないが、とにかく他にあるのかも知れないが、あとは原稿の箱ぐらいだし…と思うと、やはり居てもたってもいられない。
それから思い直して10段のキャスターつき書類入れの引き出しを開けて、茶色い箱を「これ何だっけ?」と開けてみたら、92年にあの詩人吉原幸子さんの書肆水族館を開放していただいた、『やま猫展?』の時に使ったタイトルプレート、絵やグッズの値札とか、全然関係ない写真とかが入っていた。
「ああ、この箱か…」としまいかけたが、写真はまとめておこうと取り出し、改めてよく見てみると展覧会と関係のないものも入っている。引越の時に見た時には入ってなかったものが、入れられているようだった。
三津子がたぶん突っ込んで、とりあえず仕舞ったのだろう。
古い和風の名刺入れが出て来て、中を見ると全然知らない人の名刺が一枚と、それからお守りが出て来た。お守りというか、それは小さな護符で、よく見ると「技芸天」と書いてあった。裏にはもちろん「秋篠寺」と書いてある。
「うわあ」と声が出た。
すぐに台所の入口の一番上に飾ってある、技芸天様の写真の額を外した。そして、出て来た護符を入れた。
三津子、君が一番好きでもう一回見たい、と言ってた技芸天様の護符、持ってたんだね…。ついこの間、2月の末に奈良へ行った時、この写真をいただいた時は何も言ってなかったじゃないか。
護符を収めて額を元に戻し、それから手を合わせた。
今日は三津子の四十九日なので、きっと仏様が出して下さった。三津子はきっと、成仏する。そう確信した。


それからずっと、昨日の法要の様子、一日を克明に記録した。覚えている間に彼女に関わる全てを記録しておくこと。それが俺が自分に課した使命でもある。
昼はレンジで温めるポトフと、昨日コンビニで買っておいたハムタマゴドッグを食べた。そしてずっとずっと、詳細な記録だけをつけていた。
途中函館のお袋から「どうしてる」と電話があり、昨日の納骨の様子を伝えた。やはり途中、何度かこみあげてしまう。四十九日を終えたらメソメソするのはやめよう。何度そう思い、何度無理だと思ったことだろう。

夕方4時過ぎ、ドアフォンが鳴った。出ると同じ階のお隣に住むUさんで、お花と果物をお持ちいただいた。玄関先では失礼なので、散らかっている部屋に上がっていただいた。過度な干渉をし合わない抑制のきいたご近所付き合いをさせていただいていたので、上がっていただくのは初めてのことだった。
ほんの短い間、線香を上げていただいただけなのに、また涙が出た。帰り際、ユキが出て来てやはり猫好きなUさんにお愛想をしてくれた。
ユキは俺の姿が見えないと必ず探しに来る。探してもいないと鳴く。狂ったような大音声で鳴くのでうるさくなかったですか、と聞くが、Uさんは聞こえなかったと言って下さる。本当は聞こえたのかも知れないが、そうですか、と答えておいた。

日記をつけ終わると4時半になった。
外はすっかり雨も上がっていて、曇り空だが明るい。ユキはとにかく片時も俺の側を離れず、こうしてパソコンに向かっていると傍に積んだ箱の上で丸くなり、時折目を覚ましては確認するように一声だけ鳴く。シマは二階で寝てばかりいるが、時々寂しくなると降りてきて甘える。
猫たちも、もう三津子が二度とこの家に戻ってくることがないことを、知っている。
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2009-06-22(Mon)

四十九日

今日は妻・三津子、そして作家・やまだ紫の四十九日です。
京都は朝から雨が降っています。

おとといの午後、新幹線で東京へ向かいました。
彼女の骨は埼玉に住む次女のゆうちゃんが預かってくれています。親戚一同が参集し、21日にお寺で法要の後、三津子の先祖が眠る多磨霊園に納骨となりました。

自分は武蔵境へ宿を取り、翌日の法要へは直接霊園の入口での待ち合わせを、と考えておりました。
この近辺にももちろん、東京や近郊には旧知の友人や知人がたくさんおります。
この武蔵境は同郷の友人の家にも近く、連絡をしようかどうか当日まで迷いました。
けれど顔を合わせればきっと、だらしのないところを見せてしまうと思う。そして誰それには連絡をしたが誰それには会わないということも嫌だったので、敢えて誰にも連絡をせずに過ごしました。

翌日つまり昨日は、またしても朝から涙雨となりました。

スーツの喪服に着替えると、ウエストがもの凄くきつく、大変でした。このスーツは病気で脾臓が膨れてからは下が履けず、今回ウエストを直してきたのに、日によって具合が違ったのか、苦しくて大変でした。
この上荷物を持ち、11時のチェックアウトから集合時間である12時半まで、2時間以上の時間を潰すのは大変だな…と思っていました。
念のため待ち合わせ時間の確認をしようと、ゆうちゃん一家の車と途中で合流して向かっているはずのお姉さんにメールを入れました。すると、折り返し電話が入り「あと10分ちょっとで武蔵境に着くよ」とのこと。
早く出過ぎてしまい、しかも山手通りの下に出来た道路が思ったより相当速く進み、かえって時間をもてあますところだったということでした。結局武蔵境の駅前で車に拾ってもらうことが出来て、ゆうちゃん一家とお姉さんご夫婦と近くでお昼が食べられました。

これも三津子が助けてくれたんだな、と感謝しました。

いつだったか、京都で俺が荷物を持って時間を潰さねばならないときがあって、こちらは足が腫れて大変なことになりました。彼女はそれを繰り返さないようにと、助けてくれたのでしょう。

車5台で、三津子のお母さん以下親戚一同が久しぶりに全員、集まりました。
今回の法要から納骨までの段取りは全て、三津子の母親が進めて下さり、執り行われました。
こちらは京都という離れた場所に居たこともありましたが、逆縁の不幸という悲しみの中、我が娘の四十九日法要、納骨を執り行うという心中は「察するに余りある」などという月並みな表現では足りなかったと思います。

自分は確かに最愛の妻を失い、気が狂わんばかりの悲しみと絶望の中で、日々ほぼ一人でそれに対峙しなければなりませんでした。だからといって、三津子の母親は娘を失い、また二人の子供たちは母を、姉はたった一人の妹を…と、皆それぞれに辛く悲しい気持ちを抱えていることは、きっと同じだったでしょう。

雨は少し弱まり、小雨の中、霊園から十分弱ほど歩いたところにあるお寺へ法要に向かいました。自分は三津子の遺骨を抱いて歩きました。
お寺はあまり大きくはありませんでせしたが、その分、皆がぎゅっと集まったかたちになった、いい法要でした。
三津子の戒名
「紫雲院妙津信女」
が刻まれた位牌と遺影に向かって焼香する時に、やはり涙が出ました。
メソメソするのはやめなさいよ、皆さんにそう言っていただいたのですが、法要の前にご住職が
「明日は四十九日と申します。徳を積まれた方、早い方はもう生まれ変わられるご準備をなされるそうですよ。」と笑顔でおっしゃられた話を反芻し、また身内がそれぞれ合掌し焼香を繰り返す間、涙が止まりませんでした。

あなたは素晴らしい人だったし、素晴らしい作家としてたくさんの人を救ってきた。だから本当に、あっという間に別な人になってしまうのかも知れない。
でもそれじゃああんまりじゃないか。もう少し、少しでいいから待ってくれないか。
そう思うとどうしても涙が流れました。

位牌の戒名の上には、「妙法」と書かれています。もちろんこのお寺の宗派による決まりですが、法要の前に位牌を初めて見た時から思うところがあって、溜まらなくなっていました。

京都の我が家の二階…北側のメゾネットから見えるのは、五山送り火の「妙法」。真正面が、法の字です。

おととしの夏、京都へ思い切って引っ越そう。そうふたりで決めました。
それまで三津子が京都へ行くたびに何軒か下見をして決め手がなく、次は一日二人でまわる日を作ろうと相談し、京都で合流しました。
2007年の7月19日、天気が良く、その分暑い日でした。
朝から二人で部屋を見て廻り、最後に予定していなかった物件として紹介されたのが、この部屋でした。
不動産屋のAさんに促されて、メゾネットへの階段を上がり、和室へ踏み込んだ瞬間に目に入ってきたのは、緑の山に描き出された「法」の字でした。視線を左へ少し移すと、もちろん「妙」の字も見えました。
「わあ、すごい!」「こ、これは…」
二人とも驚愕しました。すでに猫を飼える条件で、厳しい物件を何件も見て来た二人にとって、この部屋は奇跡のような物件でした。
そしてその場で手付けを払って、次回までに契約をという段取りになったのです。

三津子の四十九日、納骨の法要で東京に来た自分。その目の前にある三津子の位牌には、「妙法」の二文字。

自分は2005年の夏に白血病の宣告を受けてから、やはり病身であった三津子と、夫婦手を取り合って助け合う暮らしが続いたと思っています。
彼女が京都に教職を得てからは、年中行事だった吐血と入院もなくなり、二人であちこち散歩や旅行へ行ったり、おいしいお酒を飲んだりと、京都へ来たことは「お導き」であると感謝する日々でした。
であるとすれば、今、眼前にある三津子の戒名の上に刻まれた「妙法」の二文字が、その帰着点なのだろうか…、読経を聞きながら、そんなことを考えました。
考えていると、京都での楽しかった日々も、今、この瞬間に収斂していたと思えてなりませんでした。
そう思えば「これもまた運命ですか」と諦めに似た感情が浮かびます。
けれどそう思えば思うほど「でも余りに早くありませんでしたか…」。
そういう気持ちが涙を押し出すのです。

四十九日や納骨という儀式は、おそらく、残された者の涙や悲しみ、心の傷、慟哭、そういったことを癒し、再スタートさせるために儲けられた時間なのだと理解しています。儀式とは故人のためでもあり、生者のためでもある。

ご住職が法要を終え、笑顔で我々に向かっていろいろとお話をしてくれました。それから霊園へ戻り、皆車で山田家の墓へ向かいました。
いつもいつもそうだった、「涙雨」は上がっていました。

石屋さんの若い衆が、骨壺を墓の中に入れてくれました。ご住職が
「ご覧いただけますか、あのように、ご遺骨が収められましたね。」と促されたので、墓の中を覗き込みました。いくつか骨壺が入っていて、一番手前に三津子の骨壺が置かれていました。

その瞬間、大きなアゲハチョウがひらひら、と墓石の後ろから飛び立ちました。思わず隣にいたゆうちゃんに「あ、蝶が…」と言うとゆうちゃんも「本当だ」と言いました。涙が溢れました。でも蝶のことは他の人には言いませんでした。

納骨の確認の後、再び石で閉じられた墓の前で最後の読経の後、儀式は全て終了となりました。
立ち去る前に、お墓に水をかけ、背中を撫でました。
最後に君の背中を流したのは、そういえば割と最近だったね…。
でもあの暗い石の中に、君は居ないんだろう? それは解ってる、解ってるけど、でもこれは遺された人たちのためにも必要なんだね。

それから皆の車で新宿まで移動し、夕方からはホテルで会食となりました。
皆のテーブルを笑顔で見守る三津子の前には、いつもそうだったようによく冷えたガラスのぐいのみに、冷酒が注がれていました。
食事は和やかに進みました。
途中ゆうちゃんの次女SNが「何でバァバ(三津子)はここにいないの?」と聞いた時はこみ上げるものがありましたが、本当に暖かい場となりました。
全ての手配を三津子のお母さんがなされ、自分はのこのこと京都から来て、ただ献杯と最後のご挨拶をしただけでした。
それでも、皆さんにはよくしていただきました。
本当に本当に、いい法要で、感謝の気持ちで一杯でした。

7時10分の新幹線で京都へ戻り、まっすぐ自宅へ帰ると10時過ぎでした。

猫たちと一人、これから三津子の居ない生活と、また向き合わねばなりません。
どうしても、人生の半分以上を共に過ごした連れ合いを失った深い悲しみと喪失感から抜け出せずにいる今、強く頑張ります! とは言えません。
もっと頑張らねばならないのは理解していても、それを支えてくれた最愛のひとが居ないという現実が、心と体を締め付けるのです。

四十九日という期間は、自分にはまだまだ短すぎるのです。
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2009-06-20(Sat)

東京へ向かう

6月20日(土)

連れ合いである三津子の納骨で、京都から東京まで行く、辛い度だ。前の晩も普通に晩酌をして早めに寝た。朝は8時ころにはいつものように起きたと思う。(思う、というのは今日23日にメモを見ながら思い出しているから)
猫のカリカリを皿にたっぷり盛って、水も入れ換え、さらにボウルにたっぷりの水を2カ所に置いた。1日半開けるだけだから、これで水とご飯は大丈夫だろう。それから猫のトイレを綺麗にして、火の元など確認し、11時ころに家を出た。

コンビニでお金を下ろしてから、タクシーで八条口まで向かう。道は空いていて、2000円行かずに着いて驚いた。
京都駅に着いてすぐ、切符を自販機で買う。乗車券は武蔵境まで、11:53発のぞみ16号東京行き。
ホームで週刊誌を買い、待っていると十分ほどですぐに入って来た。席番を見ながら席へ着くと、俺の前の席には女性が一人座っていて、その後ろが自分の指定席だった。上の棚に喪服のスーツ、黒革靴などが入った袋、それからタオルや数珠などが入ったショルダーバッグを置いて、窓側に座る。
新幹線はすぐに動き出した。俺は風景などを見ていると、どうしてもいつも一緒に旅行や移動をしていた三津子を思い出す。なのでほとんど車窓からの眺めは見ずに、週刊誌をゆっくり読んでいた。

定刻通り、2時15分ころには東京駅に着いた。さすがに「週刊文春」はいくらゆっくり読んでも、ふだん絶対に読まないページまで熟読しても2時間は持たなかった。品川あたりからは仕方ないので少しだけ車窓からの眺めを見た。たった1年半しか経っていないが、ずいぶん帰っていない気がした。
東京駅ですぐに中央線快速のホームへ行くと、ちょうど特快立川行きが入ってくるところで、しかもうまく空いた列についたので、座ることも出来た。
神田からお茶の水、新宿から中野高円寺阿佐ヶ谷…と、本当に若い頃は何十回行ったか解らないほど馴染みのある場所を通る。快速が通過するが、途中の水道橋はもちろん、少し歩けばあの青林堂があった場所だ。
通勤していた当初は団地のあった三田線の西台駅から神保町まで行き、折り返すかたちで地上を歩いて会社へ通っていた。けれど途中から気分で水道橋で降りてそのまま進行方向へ歩いて通ったりしたものだ。
「同じ日の繰り返し」が嫌で嫌で、漫画界を目指したのに、結局はサラリーマンとして毎日通勤しているのが嫌だった。なのでちょっとでも何かしら変化をつけたかったのだと思う。
そういうことを思い出せば、当然当時から一緒に暮らしていた頃の三津子も思い出す。だからやはり電車の中では、ずっと下を向いて、新幹線のシートに差してあった雑誌を読んでいた。

三鷹駅に着いて、乗り換えのために一度降りる。ホテルを取った武蔵境は特快が通過する駅なので、乗り換えるのは普通の快速だ。すると同じホームの反対側に快速が入口を開けて、俺が乗ってきた特快の通過待ちをしていた。降りてそのまま、快速に乗り換えることが出来た。特快が出た後すぐに快速も発車し、次の駅が武蔵境。

今回の四十九日法要と納骨に行くにあたって、当初はゆうちゃんかももちゃんの家に前の晩寄せて貰って、当日車でそのまま向かうということを勧めてくれた。こちらもそうしようと思っていたが、日にちが近付くにつれ、ゆうちゃんの車にはお姉さん夫婦が乗り、ももちゃんの方には旦那方のご両親が乗るということが判って、それじゃあ迷惑かなと判断し、割合早めにホテルを取っておいた。
ホテルを取る際に、多磨霊園の場所をgoogleで確認し、一番近い駅が武蔵境から伸びている西武線だと解った。最悪電車でも行けるということは、絶対に迷わないという判断だ。タクシーで行くにしても、2駅程度の距離ならどんな渋滞になっても30分はかからない。そう思って予約したのがこのホテルだった。
その際googleマップとストリートビューで駅前やホテル周辺も確認済だったから、3時少し前に武蔵境駅に着いても、何の迷いもなく南口へ抜けることが出来た。駅舎が今工事中だということも知っていたから、反対口へ行くのは大変そうだなと思った。
南口の交番の手前に抜けると、風がさあっと吹いてきて、思ったより涼しく感じた。もっとムシムシするかと思っていたが、ずっと空調があった新幹線の中よりも、むしろ風がある分快適で爽やかに感じた。
ホテルはJRが経営しているもので、以前お袋を泊めた赤羽のメッツにしてもここにしても、駅から徒歩何分というより、駅の一部がホテルだというほど近い。名前を告げるとすぐにチェックインすることができた。

部屋は604。シングルなので狭い部屋だが、寝るだけなので充分。南向きに窓があって、見下ろすと眼下にはロータリーがあって、さっき自分が出て来たところにある交番も真下にあった。ちょうど3時だった。
ずっと下げてきた荷物をおろし、とりあえずクローゼット、いや入口の脇にある幅40〜50cmくらいのへこみにしつらえてあるハンガー掛けに、スーツをかける。それから着てきたシャツを脱いでかけ、Tシャツ一枚になる。
喪服の黒スーツを出してかけておくが、やはり今の時期は暑そうだ。
一息ついて、すぐシャツをまた羽織って、フロントへ降りる。落ち着いてしまうと、動くのがおっくうになる。
イトーヨーカドーが南口ロータリーから伸びる武蔵境通りを挟んで二軒あり、フロントの女性に「ワイシャツやネクタイはどっちで売ってますか」と聞くと、何かを出してきて調べて、「東館でございますね」と教えてくれた。
キーを預け、ホテルを出てそのままヨーカドーでワイシャツとネクタイ、靴下を買った。ヨーカドーは親子連れで賑わっている、そういえば今日は土曜かと気付いた。「父の日フェア」とかで、甚平やシャツ、財布や小物などの特設売り場がこしらえてあった。
ヨーカドーを出て、そういえば朝から何も食べてなかったと思い、簡単なものを食べて戻ろうと、南口を探すが、ケンタッキーくらいしかなく、思案した結果駅舎へ戻った。ホテルの西側に店がいくつかあって、揚げ物、おこわ弁当類、パン屋、奥はスーパー。
結局決め手がなく、北口へ出ようかとエスカレータを上がる。これが今工事中のせいでけっこう高くまで上らされ、下りは階段だった。
北口は王将や吉牛など何でもあり、結局久しぶりに吉牛へ入って「牛丼並つゆだくに味噌汁」という俺の定番を食べた。久しぶりの上、今日は何も食べてなかったので、本当にうまかった。うまかったはいいが滝のように汗が出た。
俺の病気の特徴の一つに盗汗といって、寝汗を尋常じゃないほどかくというものがある。だが寝汗だけじゃなく、普段から俺はモノを食べると必ず汗なり鼻水なり、体から多量に水分が出るので往生する。単に北海道生まれだから暑がりなのだ、というレベルではない。これも白血病と関係あるのかも知れない。

吉牛を出て、ハンカチで汗を拭いながら、駅舎を見上げる。さっきの高さの階段を上まで上るのはかなわんな、と思った。南口はヨーカドーがドカンとあるくらいだから、北口のようなこまごました商店街ぽいのはないのだろうと判断し、こっち側で夜のものを買って、東側の踏切を渡って迂回して戻ろう、と決めた。階段よりはましだ。
そのまま北口を線路沿いにセブンイレブンへ歩いて缶ビールと冷や奴などを買って、踏切を待って南口へ抜ける。右へ折り返すように線路沿いを今度は西へ向かって歩き、少しすると「酒」という文字とファミリーマートが見えた。ホテルのすぐ隣のへこんだところに小さな店が数軒あって、そこにコンビニもあったわけで、脱力する。まあ吉牛を食べるなら北口しかなかったから…と思いつつホテルに戻る。

ビールや豆腐を冷蔵庫に入れ、すぐに服を脱いでシャワーをし、それから明日の支度。買って来たシャツやネクタイ、靴下などの包装を開けて、明日着て行くだけに整える。今日着てきた上のシャツとジーンズ、靴下や靴は明日履く革靴を入れてきた袋や箱に収める。
袋一つに突っ込んだはいいが、ずいぶんと重くてかさばる。明日はこれ持ってチェックアウトから待ち合わせまでうろうろしてたら大変だな、と思う。
パンツ一丁でテレビをつけるが、外のロータリーでは都議選の演説なのか、政治家がやかましい。ここまでで5時11分、とホテルのメモに書いてあった。

それで一息ついたら、携帯のバイブがブーと動いて、見ると明青のおかあさんからだった。明日四十九日の法要、京都から手を合わせてくれるとのことだった。有り難い。

その後はNHKのecoがどうしたとかいう「SAVE THE FUTURE」というスペシャルを眺めていた。合間にニュースなどを挟みつつ、この「スペシャル」は続いていくらしい。
途中、アニメ『川の光』というのも見た。川に住んでいたネズミの親子が、川が環境破壊で潰されるというので別な川を目指す、という話だ。そのメッセージは非常に解りやすく、善や悪も直感的に解る作りになっていて、おそらく親子で、あるいは子供に見せることを念頭に作ったものだろう。

<以下ネタばれありなので未見の人は注意>
丁寧に作ってあって、それなりに面白く見られたし、「ああ、ここでこの父ネズミは死ぬんだな」と思ったが親子はちゃんと最後まで決定的な「死」の直裁な描写がなされずに、ラストを迎える。
ラストは雪の中で疲れ切った父ネズミと兄弟が寄り添って寝てしまい、雪が降り積もるというもので、これは親子の死を直感させるもの。しかし予想に反し次のシーンがあり、周辺に住む同じ種のネズミたちが助けに来て、それから成長した子ネズミたちのシーンがつながっていく。
だから見ている大人はそれをそのまま受け取ってもいいし、本来こうあるべきなのに…という「悲しい理想像」として見てもいい。子供には、見ている通り「ネズミさんたち助かって良かったね」と言えばいい。

そんなこんなでレンドルミン2錠も飲んで10時前には電気を消した。しかし全然眠れず、むしろ頭が冴えてくるばかり。ホテルのエレベータ裏にある販売機でビールの350ml缶を2本飲んで、ようやく寝られたのが12時だったか。
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2009-06-19(Fri)

何もしない日々4

6月19日(金)
夕べはビールを飲み過ぎた。寝室に上がったのは11時前だったというのは覚えている。
寝苦しい暑い夜だった。「最低気温」が20度を超えるということで、クーラーと送風機が欠かせなかった。目が醒めたのは3時ころ、それから4時5時までうとうとを繰り返し、いったん5時に起きて冷蔵庫にあったカルピスの小さいペットボトルをコップに一杯、飲み干した。
台所には飲み過ぎてもちゃんと寝る前にかたした食器が置いてあったので、食洗機の中の大きな皿をしまい、汚れた皿をゆすいでから食洗機にかけた。この頃はいつも食器も最低限なので、手で洗って置くだけの「水切り場」のようになっているが、この時期は逆に閉まっている分雑菌が繁殖するかなと思い、一回熱風で乾燥をかけようという判断。
それからそのまま残りのカルピスを持って上がった。もう一回寝ようとしたが無理で、ごろごろしたが結局そのまま6時過ぎに起きる。
歯を磨いて洗顔してから新聞を取ってきて読む。やはり頭が朦朧としており、8時ころにどうにもならずソファで寝てしまう。10時過ぎまで寝ては醒めをソファで繰り返し、自分で自分が嫌になった。

起きてから三津子のお酒とお茶を下げ、氷入りのウーロン茶をあげる。飾り棚の上にある遺影の水も冷たいものに替えて、線香をあげて手を合わせた。いつものように、謝って、御礼を言って、そしてずっと愛している、忘れないと繰り返した。心を込めて。
テレビではBS2で見ていたボストンとフロリダの試合は途中で雨で中断になり、好プレー集などに変わっている。

もう4時過ぎ。
今日も外は暑い一日のようだった。ようだった、というのは今日はどこへも出かけなかったからだ。午後に一度ポストを見に行ったら、ゆうちゃんから聞いてAmazonに注文しておいた『婦人公論』6/22号が来ていた。
モノクロ一ページ1ページ、追悼コラムのようなコーナーで、やまだ紫が取り上げられていた。写真は時事通信提供とかで、ちょっとロンパリみたいに見える変な顔のひどい写真だった。こちらにひと言あれば、ちゃんとしたものを送るなりしたのに…と少しがっかりした。
書いた人も存じ上げないが、ゆうちゃんも言っていたように、大変褒めて書いて下さっている。

もう明日は東京へ行き、武蔵境のホテルへ泊まり、明後日は納骨。三津子の母つまり「ばーちゃん」が仕切って下さる。
昔の日記を読み返したりすると、三津子が腎臓を摘出したあの手術、入院の際にはずいぶんといたわってくれていたし、その都度ずいぶん世話になっている。
喪服はキツく、俺も病気なので実を言うと体はしんどいのだが、俺が行かずしてどうするのかと思う。死んだ三津子は焼かれてしまった「骨」そのものではないし、暗い墓の下にも留まっているとは思わない。生前、俺たちはよく話し合っていた。
本当はどちらか先に死んだ方が、相手の骨を宝石にして身に付けていようというのが理想だった。けれど100万くらいかかると聞いて、ふたりで「それじゃあダメだね」と笑った。だったら散骨にしようか、鴨川にはジローやそう太、マイちゃんやマルたちの骨を撒いた。「私もそこでいい」と彼女は言っていた。「俺も北海道の墓まで持って行かなくてもいい」と言った。
けれども儀式は儀式を行う人のためにある。
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2009-06-18(Thu)

何もしない日々3

6月18日(木)
夜中は3時ころ、それから4時くらいからやはり1時間おきくらいに目が醒め、朦朧。またこんな感じだ。強烈に強い睡眠薬でも飲まないと、もう朝まで熟睡できないようだが、それは怖い気がする。
ついこないだ、三津子が生きていて隣で一緒に寝ていた頃は、レンドルミンを2錠飲めばちょうどよく朝7時ころに目が醒めた。そういえば夜中に目が醒めて眠れなくなるなんてことは、薬を飲み忘れない限りあり得なかったのに…。

朝は9時前に下へ降りた。
うす紫と同時に咲かないかと思って買って来た黄色いユリは結局一輪も咲くことはなく、2輪のガーベラはぐったりと頭を下げていた。可哀想だなと思って「後で花を買いに行こう」と三津子に声に出して言った。
朝は尿酸値を下げる薬を飲み、それからイチゴジュースの材料が半分あったので、「イチゴジュース飲もうか」と言って作った。イチゴジュースは飲んだ後習慣で「体にいい!」と言ってしまうが、三津子は死んでしまった。もう、健康にいいとか体にどうだとか、薬だの健康食品だのは関係ないんだなあ、と思った。

11時過ぎ、自転車で外に出る。今日も雨は降らず、日が射していて暑い。すでに27度くらいはあるかという陽気。スーパーまで行き、まず文具売り場で画鋲というかピンを買った。カレンダーの大きなやつをずっとトイレに吊っていたが、トイレにあってもあまり意味がない。なので仕事部屋の脇に吊ろうと思ったが、どこを探してもピンや画鋲が無かったので買った。再び賃貸に暮らすようになり、釘や画鋲をあちこちに刺すのは気がひけていたが、仕方が無い。
あと額も買おうかな…と一瞬思ったが、もうキリがないので、そこは我慢した。額があれば三津子の写真を入れて、置きたくなる。すでにそこここに三津子の写真が溢れている。
下の食品売り場へ降りて昼の弁当、夜のおかずなどを買う。そういや猫にもたまにはご馳走を、と思ってマグロの切り落としも買った。
いつもの花屋へ行き、4日に買ったのと同じうす紫のユリを買った。今度は一輪咲いており、もう一輪が開きかかっているもの。つぼみも2つついているから、前のように順番に咲いて行ってくれるかも知れない。
戻ってユリをすぐ花瓶にさし、壁の横の小ダンスの上、三津子の遺影の横に花が来るように置く。それから買って来た弁当を暖めて食べる。
その後はテレビを見て新聞を読んで週アスを見て、時間をもてあまし、現存する一番古いデジタルの日記データ、90年のテキストをちょっとずつ切り貼りして、日記ソフトに移していった。日記ソフトは、何年前であっても同じ日の日記がすぐに参照できるので便利だということに気が付いたのだ。

1990年というと、長井さんが「ガロ」の経営から引退をしたいと言い出して、曲折の結果、ツァイトに売ろうという相談をしていた時期だ。
俺はいつもいつも青林堂の普段のルーティン仕事に加え、会議の資料やレポート作り、そして会議に追われていた。なぜか会議のレポートはほとんど俺しか作ってこず、他の社員のものは今も手元にあるが、手書きで薄っぺらなものだ。
こちらは読者像の分析をアンケートハガキを集計してグラフにしたり、意見を抽出したり、それから年間計画を立てたり、具体的な編集作業の改善策を出したりと、ムチャクチャ頑張っていた。
その分山中さんに頼りにされて、結局俺が編集専業で「ガロ」の立て直しの中心になるように言われた。片手間だった「営業」は版元にとって死活問題だからと、先輩のYさんが役員として営業を専任でやるという分担をおおまかに決めた。
まあ、それを外部から聞いていて「おいおい青林堂金持ちのパトロン出来たって? 白取がガロの編集責任者? そうはいかないよ」ということでどなたかが「出戻って」きて、山中新生「ガロ」を牛耳っていき、やがてそれがクーデターへとつながっていくのである。このあたりはクーデターも含めた克明な記録が残っている、そして残しておいて本当に良かったと思っている。
もう、どうでもいいことかも知れないが。
90年はもちろん、その後の流れなど全く知らぬ頃で、俺は若さと体力に任せて一生懸命、仕事仕事仕事…と突っ走っていた。三津子はそれをいつも黙って、いやけっこう愚痴や不満は言われたが、「ガロ」や長井さんのことは彼女も良く解っていたから、我慢していくれていた。
ある日の日記には、会議を終えて夜くたくたで帰ると、
「刺身があって、三津子と一緒にご飯を食べた」と書いてある。あの団地のちゃぶ台で、二人でお刺身で夕飯にした夜のワンシーンが、鮮明に頭に蘇った。
刺身といっても西台のダイエーで買った、いつもの薄ピンク色の安いやつだ。それでもご飯はほかほかで山盛りで、俺用にちょっとだけ濃いめの味付けにしてくれた味噌汁。今はもうとっくに消えた「クォリティ」という銘柄の缶ビールを冷やしてくれたのと、彼女の晩酌の冷や酒。
思い出すのはやっぱりこういう、何てことはない普通の日常だ。そして彼女の優しい笑顔。
忙しかった、もの凄く駆け回って働いて走り回っていたあの頃。労働量に比べ安月給で、報われることもあまりなく、時間が足らず、一日がアッという間に過ぎて行った。三津子はそれでも我慢して俺を支えてくれていた。
あれから20年も経ってしまった。京都へ来て二人、本当に穏やかで幸せだったと思う。団地の頃は二人とも当たり前だけど今より若く、まだ健康で、大変だったけど、つつましく助け合って生きていた。
日記をつけておいて本当に良かったと思う。
あの頃の暮らしが、文字を追うたびに鮮明に蘇る。忘れていたこともあるし、記憶違いもけっこうある。でも日記には確実に、当時の生活が「記録」されていて、それを今の日記ソフトにマージしていく作業の間、その時その時のシーンや思い出に脳の多くが支配されてくる。すると、何だか三津子が生きているような錯覚を覚えるのだ。

作業を一休みし窓を見ると、とたんに現実に引き戻される。そう、ここは団地ではなく京都だ。1990年は遠く過ぎ去っていて、今は2009年。そして三津子はもういない。
5時過ぎから、外は雷が鳴り、雨が叩き付けるほどの勢いで降り出した。三津子が生きていたら、小走りでベランダへ出て行っただろう。君の大好きな雷だ。

6時ころからまた「晩酌」の支度を始める。
昨日買ってあったタコサシと、まぐろの切り落とし、それから焼き茄子。それらを並べて三津子にももちろん陰膳をして、乾杯してビールを飲む。
そういえば、俺が一人で居る時にビールを飲むなんて、ここ数年ほとんど無かったことだ。二人で飲むことがほとんどだったから。
テレビはニュースが終わり、何も見るものが無い。何年か前にHDDに録画してあった、NHKハイビジョンスペシャルの伊藤若沖の番組を見直す。もちろん若沖はプチ・ブームの来る前から二人とも知っていて、この番組も録画したあとも何度か二人で見た。HDD録画で、まだダビング10もブルーレイも無かったから、DVDにムーブするしかHDDから持ち出す術が無かった。そうすればせっかくのハイビジョン画質が著しく落ちるので、そのままHDDに残してある。

若沖の役は岸辺一徳で、京の野菜卸しの道楽息子というキャラクタが良く出ていていい。以前から好きだった若沖ゆかりの地である京都に住む不思議を思いつつ、この放送を見たものだ。
若沖というと例のモザイク画のような像とかを描いたあの大作(?)をすぐ連想しがちだけど、やはりデッサン力とか、北斎がそうであるように、優れた芸術家は基本がものすごいな、と思う。
若沖は錦の野菜問屋を若くして継ぐが、店の経営などどうでもよく、今でいう「セレブ」の社交場である青年実業家同士の集まりで「変わり者」扱いされたというのは有名な話だ。なぜかというと、芸姑さんや酒の席やビジネスの交流よりも、蛙やヤモリを見ていたからだ。
そういうところが、もちろん若沖と並び称してはいけないのだろうが、三津子…いや、やまだ紫と重なる気がしてならない。
幼少時から普通の子はお人形遊びや塗り絵などの、女の子の決まり事へと進むのに、足元の微細な苔や生き物へと興味が向いていたという。色や造形、自然の色やかたちの不思議さと美しさに、早くから魅了されていた。
京都に来てから、近くの懇意にしていた和食割烹「M」さんのカウンタで、酔った戯れ事の冗談で、「お題」を出しその場で絵を描くという他愛もない遊びをやったことがある。
もちろん俺も若い頃は漫画家を目指したとはいえ、所詮はただの編集者、プロに敵うわけがない…と思った以上の、プロの作家の凄みというのを思い知らされた。
ホンの数ヶ月前のことだ。近所の腕は凄いが気取らない、カウンタだけの飲み屋さん。客が誰もいない時の板さんとの遊びだ。「サメ」とお題を出して、手元の紙に皆が描いた。板さんのは素人だからともかく、俺の絵はそれこそマンガだった。
三津子の描いたサメは見事だった。そういう観察眼とそれを具現化する才能こそ、作家の作家たる所以だと、その時深く感じ入ったのを覚えている。本当にホンの3ヶ月くらい前の話ではなかったか。
若沖のように蛙やヤモリや、小さな生き物の、その造形と生きている不思議に思いを寄せ、そうしてそのことから自分たち人間が生かされていることを思う。
そのような作家の「感性」というものは、時代がどう遷ろうとも、不変のものだと思う。

若沖の凄いところは、単に細密画を描くということではない。それでは「個性」が出ない。重ね塗りをせず、「描く」という行為そのものに妥協を許さない姿勢と、それを許す卓越した…いや、そんな言葉では言い荒らせぬほどの高度な技術と、それこそ天が与えた才が無ければ描けない作品の、その、天が与えた「本物の凄み」だと思う。
その作品の多くは、海外の富豪の蒐集となっている。
本家日本の評価がまごついている間に、解る人には解り、持って行かれる。いい加減にしろよ日本、と思った。

ところで、この間見たアレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』。昭和天皇が筆を執り文字を書くシーンで、筆の持ち方が全く違っていた。このことはイッセー尾形を責めてはいけない。彼は彼の書いた字を見れば解るように、書道の心得はない。とすれば、あの筆の持ち方などを含めて誰かが「演技指導」しなければいけなかったと思う。
人差し指と中指、それと親指の三本で筆を動かす。残りの指はそれを支え補助するだけだ。基本的に手首の回転が重要になり、これは箸の持ち方にも似ているが、要するに、筆は洋筆のように「寝ない」。ペンの場合は持つ箇所が下へ下がり、筆が寝るが、それは寝せないと書けないからだ。毛筆の場合なら筆は必ず立っているはずで、右手の平は紙には着かずに最後まで書ける。心得のある人なら、の話だが。
『太陽』では、何と昭和天皇が筆を洋筆のように寝せており、しかも書かれた文字がひどく稚拙というあり得ない映像だった。その上「半紙」なのか洋紙なのか、便箋のようなものに書いて、めくったりしていた。不思議だが、あれが史実ならしょうがない。
だが箸の持ち方とか、筆の持ち方とか、このままデタラメで滅茶苦茶になっていくのを看過していていいのか、という思いもある。
そういう意味では、若沖が絵を描く際に、それを演じる岸辺一徳の筆使いは全く正しいもので(もともと毛筆は文字を書くためのものである)、もしそれが岸辺一徳の元々の所作だとすればそれは素晴らしく、演技指導があったとすれば、またそれはそれで大変素晴らしいと思った。
単に脚本も書けぬ漫画原作に頼り、演技も出来ぬいけメンだか知らぬが大手タレント事務所のバカをそのまま使う下らぬドラマなどに、こういった細やかな配慮や「考証」など望むべくもないのだろうとは思うが…。
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2009-06-17(Wed)

何もしない日々2

6月17日(水)

朝はまた3時4時から目が醒めた。あとはずっと1時間おきくらいに目が醒め、その間も浅い眠りで、6時過ぎからはもうほとんど寝られなかった。このところこんな日が多い。
そのまま8時半ころ起きるが、外はもう梅雨が嘘のような晴天だ。昨日雷が鳴ったが、結局その後は日暮れまで雨も降らなかった。
下に降りて朝のことを一通り終えて、三津子に「イチゴジュース飲もうか」と声をかけて、ジュースを作る。俺はプラスチックのジョッキ、三津子にはワイングラスに注ぎ、乾杯をして飲んだ。それから外の苔玉や枇杷などに水をやる。

朝はボストン対フロリダの試合を見ながら、昨日SCで買ったホットドッグを食べた。それから新聞を取りに行き、仕事をしていると、11時ころ仕事の電話。
いろいろと、難しいことがある。それでもやれることは精一杯やろう、それからじゃないと死ぬにも死ねない…。

その後夕方からやはり録画しておいた映画『グリーンマイル』を見つつ晩酌。トム・ハンクスが好きなので以前三津子と見たのだが、その後テレビで見た際の「ジョン・コーフィ」の吹き替えをやった声優が見事で、例の「コーン・ブレッドが喰いてえです」という口調をよく二人で真似をした。今回のDVD版でも吹き替えを聞いてみたら、違う声優になっていたのでちょっと残念だった。
夕飯は三津子には卵豆腐とエビグラタン。俺は同じものと、それにキムチなどでビールを少し飲む。

8時過ぎ、お姉さんから「どうですか」と電話があった。
最近はこうしてよくお姉さんが俺の様子を心配してくれる。こちらも四十九日の話とか、事務的なことから三津子のことなど、いろいろ話せて精神的にその都度楽になるのだ。有り難いと思う。

その後あった缶ビールを全部飲んでしまい、いくら何でも4本は飲み過ぎだなあと思った。一人だから余計に、気が付くとビールを取りに行き、黙って飲んでいるだけだ。いつもそうしていたように、夫婦で会話をしながらとか、あるいは外で何かおいしいものを食べながらカウンタでゆっくり…みたいなこともなく、ただガボガボと飲んでいるだけのような気がする。だから全く酔わないか、逆に気が付いたらもの凄い量を飲んでいてふらふらになったりするが、それは500ml缶を7、8本空けてしまった時だ。さすがにそういうことは滅多にないが。
もう、何というか楽しくない、つまらない。
夜は11時ころ上へ上がってテレビをつけてごろりとするが、メゾネットは熱がこもるから暑く寝苦しい。それでも何とか12時半ころ寝る。
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2009-06-16(Tue)

何もしない日々

6月16日(火)

今日も朝はいい天気だ。関西古紙の軽トラックが走りながら流す映画「誇り高き男」のテーマがあっちこっちで響いては消える。三津子は京都へ来て最初にこれが聞こえた時、すぐに「何コレ〜、ずいぶん懐かしいなあ」と言っていた。
1956年のロバート・ライアン主演の西部劇の主題歌、である。俺はずいぶん後になって、何かで見た覚えがあるが、世代的にはずいぶん後だ。
そういえば三津子の葬儀と火葬を終えた後、東京へ帰る三津子の「おんちゃん」とお姉さんの旦那さんを西大路の駅へ送っていく時、おんちゃんがやっぱりこれを聞いてすぐ「あれえ〜、懐かしいのが聞こえるねえ」と反応されていた。

今朝はまた5時あたりから何度も何度も目を覚ました。その都度何かしら夢を見たが、印象的なもの、覚えているものはない。あるような気がするものもあるが、今はもう思い出せない。だから三津子は出て来なかったと思う。

その後、「明青」さんののおかあさんが「ブログの更新がないとどこか具合が悪いのかと思った」と心配いただいたので、8日からアップしていない日記の記述をブログ用に整形した。
気が付くと昼を過ぎていたので、カップのそばを食べて、それからまた続ける。整形してアップ、たった一週間ほどの更新分だが、テキストが長すぎて時間がかかった。昨日までの分を全部アップしたら、もう午後の2時半を過ぎていた。

その後、自転車で近くの大型ショッピングセンターへ買い物に行く。夕方から雨という予報だが、まだ暑く日も照っている。途中ポストにDMMからレンタルした『アポロ13』と『太陽』を返却。『アポロ13』は何度か見ているが、アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』は未見。どちらもとりあえずダビングしておいた。

食品売り場で、またイチゴジュースの材料を買う。それから冷凍しても大丈夫なイカソーメンとタコの刺身をスライスしたものに総菜類、野菜も買った。それらを自転車に積んで、コンビニにも寄ってから戻る。
荷物を持って駐輪場からいったんポストを見て何もなく、エレベータで部屋に戻ってくると汗だくになっていた。

その後リッピングしてあったデータをDVDに焼き、まず『太陽』から見た。見てる途中、外が光ったような気がして見ると、雷だった。
映画をいったん停めて「三津子、雷だよ」と呼びかけて窓の外を見る。5時前だというのに雲が灰色に出て来て、吉田山の向こうで時々ピカッと光ったりしている。これからザーッと来るかも知れない。三津子は雷や夕立が好きで、ちょっとでもピカッとなるとすぐベランダへ小走りに出て行ったな…。そういや線路の向こうのマンションがまだ建設中、大きなクレーンに落雷した「その瞬間」をふたりで見たこともあったね…。

その後いったんDVDを途中で止め、買ってきたオードブル詰め合わせみたいなのを用意して、空豆をレンジでほくほくにし、アジフライをオーブンで焼いて、三津子と乾杯して食べる。
アジフライをまさしく「辛し醤油」(京都に来てから、この食べ方を知った。もうソースには戻れない)で食べよう…と箸を入れたところで、6時過ぎにゆうちゃんからメール。
「婦人公論みた?」とのこと。思わず「何のこと?」と返すとすぐ電話が来た。
今出ている「婦人公論」に、やまだ紫の追悼コラムみたいなものが載っていると、知り合いの母親が見て教えてくれたそうだ。もちろんこちらには何の連絡もないし、追悼記事は別に遺族の了解などなくても書ける。しかし全く知らなかったので驚いた。ゆうちゃんとはついでにしばらく今後の話や四十九日の話などもして切った。ももちゃんと相談して、こちらへ来るのは7月になるということ。

アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』は最初、映画としてはどうかと思うほど退屈であった。イッセー尾形の例の一人芝居のレパートリの一つが「昭和天皇」であるかのような錯覚を覚えるほどと思ったが、東京大空襲(このイメージもどうかと思うが)を経て、日本が米軍の占領下に置かれた後の方が興味深かった。
しかしイッセー尾形をもう20年ほど前、つまりその「売り出し時期」だった「バーテン」とか「アトムおじさん」から見ており、さらに「今上天皇」が後半3分の1とはいえ昭和天皇だった世代とすれば、やはりイッセー尾形が「ネタで昭和天皇を演っている」と見えて仕方がなかった。イッセー尾形を知らない人が見たらどうなのか、でもそれは想像がつかない。
それでも一瞬、マッカーサーとの会食のシーンで、マッカーサーが席を外し、その後一人になった天皇の様子…それをマッカーサーは隠れて観察しているわけだが、そのシーンでのやや引きで映されたイッセー尾形は、もう「昭和天皇その人」にしか見えなかった。

その後『アポロ13』を見ているうちに、いいところで寝てしまう。飛び立ってすぐに異常が出たというあたりで寝てしまい、気が付いたらもう帰りの大気圏突入のところになっていた。これじゃあ仕方ないと思って止めて、ふらふらと薬を飲んでそのまま二階へ上がってしまう。
テレビのニュースをつけてしばらく見ていたが、11時過ぎには寝る。
何だかだらしのない生活のように思えて仕方が無いが、四十九日を終えるまで、何だか何もする気が起きない。かろうじて自分のルーティンの仕事はやらねばならないので、それはキッチリとやってはいる。しかしそれ以外は脱力しているのが実際のところだ。
脱力しては、時折脅迫観念のように三津子の原稿や原画を整理せねばと思い、箱をまさぐったりする。そうすると必ず、画稿以外の写真やメモ、ちょっとしたものに思い出をざっくりとほじくり出されて、途方に暮れる。
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2009-06-15(Mon)

6月15日(月)

夕べは11時ころには上へ上がっただろうか。いったんテレビをつけるが何も無いのですぐに消して寝た。
朝は何度か目が醒めたが、はっきり醒めたのは7時過ぎだった。デジタル時計を見ると「7:17」、俺の誕生日だったので、思わず「三津子…」と声に出した。しばらくベッドの上でうとうとして、8時過ぎには起きた。ユキは足元にベランダの方を向けて置いた椅子の上にふかふかのマットを敷いてやったところに居て、ずっと外を見ていた。
朝のルーティンを終え、三津子の花の水を換えようと花瓶を台所へ移すと、うす紫のユリの花びらがぽとりと落ちたので、落ちる前に取ってしまう。もうこれであと一輪。それにしても4日に二輪開いた状態のを買ってきたのに、その後次々と三つも咲いて、凄い長持ちをした。こないだ買ってきた黄色い同じ種類のユリはまだ3つともつぼみのままだ。

朝は9時ちょいから仕事をする。今日はやけに目と首、肩が疲れた。いったん休みがてら、10時半ころにポトフをレンジでチンして、トーストにバターを塗ったのとで食べた。しばらくすると眠くなってきて、12時ころまでうとうとした。
朝食が入ると胃に血が集まって眠くなるのね、とよく三津子は言い訳ぽく笑いながら、食後はソファで寝ていた。もちろん怠惰な意味ではなく、体が疲れていてそれを要求しているという風情だったから、俺はいつもなるべく起こさないようにそっと動き、テレビの音を小さくしたものだ。
今日は晴天、日射しも強い。12時をまわってしまい、仕事を終えると、やることが山積していることを改めて考える。

三津子の遺したものたちを、どれ一つ感情的には捨てられないものばかりだが、そこはこれから子供たちと相談しながら、整理していかなければならない。原稿や画稿、形見として遺しておくもの、そういうものの分類を一人では全て出来ない。
それと相続とか準確定申告とか面倒くさい法的な手続きも残っている。これも子供たちが揃わないと何も出来ない。
その後で、ゆくゆくは引越さなきゃならないだろうし、一人の生活では不要なものを全て処分するとか、俺にしてもそろそろ人生の終わりのこと、俺が死んだ後のことを考えて整理をいろいろしたい。それも出来ないままだ。
毎日自分の仕事のある日はそれをやるが、それ以外はたいしたことも出来ずに過ごす日々が続いている。四十九日までは仕方が無いと思うが、やりきれない。三津子が居ない、一人なのだという事実をただただつきつけられる日々が耐えられない。
こういう気持ちを理解してくれと言っても誰にも無理なのだろうな、と思う。余計にやりきれない気持ちになるだけだ。

仕事部屋の机周りだけでも整理したいが、この間押し入れを整理して三津子の本を探した時に出て来た、俺が「ガロ」編集部時代の献本とか資料本の箱がドカッと2つ3つ出て来て、積んだままになっている。これらをエイヤと二階へ移動させ、いずれ不要な本をまとめて業者なりに買い取って貰うなり、いずれにしても一カ所に集めておきたいのだが、その体力がない。健康体なら問題ないが、腹に力を入れられないから、腕力だけで運ぼうとするので、どうしても限界がある。こないだはちょっと頑張ったら両腕と手首に痺れが出て、腰をおかしくした。
そんなことで出来ない作業がけっこうある。どう考えてももういらないと思うものをゴミ出しするとか、まとめておくとか。いずれにしても便利屋なり業者に来て貰って、一度整理したものを持ってってもらうしかないとは考えている。考えているがそこに至るまでの下準備、作業が出来ないのがはがゆい。

考えながら立ち歩いては衣装部屋へ行き、三津子の服の匂いをかいだり、抱きしめたり、カバンの中を探って注射針をいくつか見つけてボトルに入れたり。
仕事机の傍らに、こないだ押し入れを整理した時に出て来たビデオが数本崩れていたのを集めながら、「どうせもうこんなの見ないよな…」と思って捨てようとして、ラベルに「やまだ紫」と書いてるのを発見した。
「VARIETY vol.6」と俺の字で書いたラベルがケースに貼ってあり、中のテープのINDEXラベルの一番最初に「'89-10-25 NHKイブニングネット・やまだ紫」と書いてある。20年前の録画だ。
さっそくうちのDIGAに入れてみる。うちは前のDVDレコーダも今のHDDレコーダも、VHSが一体についているタイプのものだ。なぜならうちはVHSの録画テープが山ほどあるからだ。昭和天皇の大喪の礼の時などほとんど一日中、あちこちの局を録画していた。オウム事件も報道や特番などを録画しまくった。その他には三津子の仕事のネタや自分たちの興味が少しでもあればいずれ見ようと思って、「NHK特集」(後のNHKスペシャル)はほぼ毎回撮っていた時期もある。
一番多いのは大相撲ものと心霊・オカルト・UFOものなどだ。大相撲は子供の頃から好きで見ていて、20年ほど前は関取というとけっこうなスター扱いで、「相撲特番」もけっこうあった。それらをよく録画していたし、なんだかんだで数十本あるから、今となっては貴重な映像もけっこうあるはずだ。
オカルト関連はもちろん「面白いから」で、何もオカルト全面肯定しているわけではない。四半世紀もこうして録画したりいろいろと見ていると、ほんとうにいかがわしい奴が現れては消えていくのを見せられてきたなあ、と思う。もちろんメディアに出なくなっただけで、一回テレビにでも出れば、その残滓で地方へ行けばいくらでも稼げることだろうから、商売替えしたわけではない人たちもいるのだろうけど。
例えば今話題の「○○の母」が、何と「霊能力者」という触れ込みで、どこかに霊視だか除霊に行った番組なんかも覚えている。
もっと昔(あの逸見さんが司会した番組だった)、街頭で「名刺占い」をやっているという若い女が、十数年後に立派な「霊能者」とやらになって「除霊」を行っている映像も見た。
いずれも俺たち夫婦は「あれっ、お前占い師だったじゃん」とすぐに解って、ツッコミを入れながら笑ったものだ。
テレビ局も次から次へとほんとうに解りやすい偽物ばかり出してくるが、我々は何十年もそういうのを「ウォッチング」して来たから、ヘタな心霊研究家とかコメンテーターよりよほど精通していると思う。

そんなことはどうでも良いが、発見したVHSはかなりテープの状態が悪く、途中から「キィィイイ〜」と変な音がし出して、映像が波のように細かく揺れ出したものの、何とか10分弱のやまだ紫の放送部分はHDDに移すことが出来た。

やまだ紫という人は『しんきらり』発表後、「自分マンガ家」とか「主婦マンガ家」とかレッテルを貼られて、こうしてよく「解りやすい例」としてテレビや対談に引っ張り出されたことがある。
このNHKの夕方のニュースか何かの一コーナー、「くらしの中の芸術家たち」というのは三回シリーズだったらしく、その三回目ということだった。
『しんきらり』の中のシーンをカメラで写しつつ声優がアフレコを入れて再現したりしながら、やまだのインタビューや、子供たちとの夕食の支度の風景を撮影していた。
やまだはインタビューで
「主婦と漫画家と区別して生きてるわけじゃないですからね、全部つながってることでしょ。いつでも自分がやってるってことだから。ことさらその…大変なことだろうとか、そういう風に考えたことはないですね。」
そう言っている。
けれども報道する側としては、「主婦をしながら」「母として」「家事に手は抜かない」とかいう部分を強調したいわけで、そういうかたちで構成されている。
最後に若いキャスターが
「生活の中で言いたいこと、伝えたいことがあるんだけどうまく伝えられないときに、やまださんのように表現手段を持っているというのは強いし、羨ましいな、とも思いました」
と締めていた。
男性キャスターも「色んな価値観に振り回される時代になって、これからそういう自分が生きてきた証とか、そういう自己表現をしたいと思う人が増えて来るんでしょうね」というようなことを言って、コーナーは終わった。まあそういう了解なんだろうな、と思う。

やまだ紫という作家が「COM」でどれだけ凄い作品群を発表し、同時代の才能や読者の度肝を抜いたか、そして世間は何も知らずに「結婚・出産・育児による休筆」と簡単に総括する時間、どれほどその才能を発表したくても出来ずに泣いたか。そういうことは何も知らされていなかったのだろうな、と思った。彼女は「主婦マンガ家」とか「生活に追われる主婦だって何かを表現したいんだ」という人ではなく、
もともと
作家であった
人なのだ。
「マスコミ」は当然ながら見ている人の数もケタが違う。
だからこういう浅い「了解」のうえでイメージなりレッテルなりを決めつけられてしまうと、そういう「了解」が広く伝播することにもつながってしまう。
もちろん夕方のたった十分ほどの一コーナーで、そこに登場する作家を深く理解したうえ、「創作とは何か」という話をするのは無理だろう。だいたいが、主婦層に向けての放送時間帯なので、それを見た人に「私もこの人みたいに何かをヒョーゲンしたいわ」と思わせる、そういうことでいいという番組造りなのだろう、と。
それに、決して世間的に有名な媒体ではない「ガロ」から出た自分の作品(『しんきらり』)が少しでも売れるためには、多少の「誤解」があったとしても、こういった「マスコミ」に出ることは作家にとっても利益にはなる。

映像の中のやまだ紫…三津子は、まだ40歳そこそこで、当たり前だけど今の俺よりも若い。短髪で、当時流行っていたせいか(?)、太い眉を描き、いつもはしない濃いめの化粧をしていた。そしてもちろん、健康そうで、とても理知的に見える。
「今は二人のお子さんと三匹の猫を養う毎日です」とナレーションが入り、団地の居間や台所にいる三津子が写っている。二人の子供達や、もう死んでしまった猫のそう太やマイちゃんもいる。
ナレーションで「ももちゃんは高一で、ゆうちゃんは中三」だと言っていた。

当時、俺はもうこの「家庭」の一員だった。一緒に暮らし始めて3年ほど経っていたか。貧乏な「ガロ」編集部員で薄給で多忙で、でも元気一杯で団地でみんなで暮らしていた。
映像で3人が作っていたのは、夕食のヒレカツだった。当時、夕飯はだいたい家族みんなで、団地で食べていた。俺は出版社キンムだったから、遅い日や外食もあったが、貧乏だったので家で食べる事の方が多かった。
こういう日は俺が帰って来ると、すでに玄関から揚げ物のいい匂いが漂っていて、すぐに三津子が俺の分だけ別に取っておいてくれたヒレカツをわざわざまた揚げてくれた。いったん油切りをして、すぐ山盛りのキャベツの千切りとカットレモンが添えられた皿に、揚げたてのヒレカツがどっさり載せられた。
着替え終わるともう、居間のちゃぶ台にはソースとケチャップを混ぜたタレと辛子の皿、湯気の上がったヒレカツがあった。そして大盛りのご飯がダイニングテーブルの上にあって、三津子はもう味噌汁をよそってくれていた。それらを受け取って、俺はリビングのちゃぶ台で、もりもりと食べた。

本当に、彼女の料理はおいしかった。
ヒレカツ、餃子、煮込みチャーシュー、ハンバーグ、カレー、唐揚げ、天ぷら、焼きめし…。子供たちも育ち盛りで、俺は若くて「食べ盛り」だったから、今思い出すのは油ものが多いけれど、キュウリのぬか漬けやなます、煮物、魚料理も多かったし、本当に料理が上手な人だった。
俺がいつもバカみたいにばくばく食べるのを、あの人はにこにこ笑いながら見てくれていた。俺が一食に一度は必ず「うまい」と言ってくれる、と喜んでいた。
だって、本当に彼女の料理はうまかった。小さい頃から家の料理を任されることが多くて、自然と料理はうまくなったのだと彼女は言っていた。
俺が校了まぎわなどでずっと遅い時、三津子は子供たちと夕飯を済ませていたけれど、そういう時は缶ビールを冷やしていてくれ、自分は冷や酒をお銚子に入れて、夕飯の残りものか漬け物を「肴」に、俺の夕飯に付き合ってくれた。
団地の、家族のリビング兼彼女の仕事場でもある、あのちゃぶ台に肘をついて、彼女は洋服ダンスに背を向けた格好で、夕飯をパクつく俺を見ていた。
俺が視線に気付いて「ん?」と一瞬箸を止めると、笑いながら「何でもない」と言った。「よく食べるな、この人」と思っていたんだと思う。俺も「よく食うなと思ってるんだろうな、この人」と思いつつも箸が止まらなかった。
幸せだった。
団地の雑然とした狭い、お世辞にも綺麗とは言えない住まい。
NHKの映像に俺は映ってないし、一緒に暮らしていることも世間には明かしてない頃だから、「三人と三匹」となっている。でもそこに俺たち「四人と三匹」が居た。
裕福ではなかったけど、つつましく、賑やかでいつも誰かが笑っていた。思春期の子供たちとは、難しいこともたくさんあった、そりゃあもちろん笑いだけじゃなく涙だってあった。簡単な話ではない。
でも、あれから二十年が経った今、二人の子供たちは結婚し、それぞれ二人ずつ「孫」を産んで家庭を持っている。大きく道を逸れることもせず、幸せに暮らしている。母親が何を成したか、そのことも理解している。
その「結果」が、三津子が母として正しかったことの「結果」なのだと思う。


7時をまわって、すっかり仕事部屋が薄暗くなった。
三津子のNHKの映像を見たあと日記をつけて、やっぱり涙が出た。
三津子の料理、おいしかったな。また食べたかったな…。
京都に来てからは二人っきりになったし、君も学校のストレスがあったから、おいしいものを二人で食べておいしく酒を飲もう、というのがあなたの唯一の望みになったね。だから料理もあんまりしなくなったけど、やっぱり団地で暮らしてた頃、あの子供たちのために、俺のために料理を頑張ってくれてた頃は、あなたも元気だったから出来たんだよね。
いいよいいよ。君の料理が食べたいなんて贅沢なことだ。本当にそう思うし、もう二度と食べられないことも解ってる。
こうして現実に戻ると、三津子が死んだという事実が辛くて仕方が無い。

また夜が来る。夜になるとテレビも何もやってないし、これをやり過ごすのは「三津子と差し向かいで晩酌」するしかない。このままだと俺もアルコール依存になるかな…とちょっと怖い。いや、もうまずいかも知れない。
でももう、三津子がいないんだからいいやと思う気持ちがどこかにある。三津子が心配してそばにいてくれるのなら、節制をして二人で出来るだけ長く一緒に居ようと思えるし、実際そう言っていた。でも三津子は…。俺が癌になり「先に死ぬ」と言うから、「じゃあいいや」と思ったんじゃないか。私も死ぬよ、と。
どこかでいつも俺はそう自分を責めている。

彼女は自分のせいじゃなく医者の誤診のせいで糖尿になった。膵臓が機能しなくなったからだ。そのせいで腎臓にも影響が出た。ちゃんと日記を見ていくと、その関連性がはっきりと解る。
糖尿でインスリン自己注射をするようになれば、普通はほぼ飲酒はアウト。厳格なカロリー制限と自己管理が必要で、それでも合併症に怯え続けなければならず、高血圧を併発していれば死亡の可能性がハネ上がる。三津子は糖尿のうえ腎臓が片方しかなく、その上高血圧だった。これだけ二人で京都で楽しく過ごし、暮らせていたことの方が奇跡だという考え方もある。
そう思えば楽になれる。
でも。でも。
三津子を救おうと思えば救えたのではないか。
いや、ダメだ。例え一緒に暮らしていた俺が脳外科医だったとしても、救えなかった。糖尿の専門医だったとしてもダメだった。
救えなかったのは解った、運命だったことももう了解した、それでも、なぜ俺がこれだけ自分を責め続けているのか。

それは、もっと優しくしてやれたから、だ。
なんでもっともっと優しくしなかったのか。
なんでもっと愛しているとちゃんと伝えなかったのか。
なんで…。
ああもしてやれば良かった、こうもしてやれた。
毎日そう考えて、考えては涙に暮れる。
その繰り返しを、せめて写真と向き合って酒を飲むことで、何となく二人で飲んでいるかのように思うことで、それで、それで…。
三津子、戻ってきてくれないか。
無理を承知でそう思う。
この願いを叶えられる存在などあり得ない。
三津子、せめて俺の側に来てくれないか。

ここまで書いたら、背後のリビングでつけっぱなしにしていたテレビから流れてきたのが
「愛の季節」
だった。
これが君の答えなんだね、そうなんだね?
涙でモニタが歪む。
君は俺を愛してくれたんだね?
ありがとう。ありがとう。
19:30:31
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2009-06-14(Sun)

咳しても一人

6月14日(日)

夕べは11時過ぎに二階へ上がった。例によって夜も気温が19℃と下がらず、二階は熱がこもっていて暑い。クーラーをタイマーで、足元には送風機をやはりタイマーでつけていったんテレビをつける。
そのまま寝てしまったようで、1時ころ朦朧としたままテレビを消して寝た。2時過ぎから何度か目を覚まし、朝は6時前にはまた目が醒めた。どうも最近眠りが浅い。変な夢もたくさん見た。
それから頭が冴えないまま、ベッドの上で姿勢を変えながら寝ようと試み、結局8時半過ぎに起きる。
朝のルーティンを終え、花瓶の水を取り替えようとすると、薄紫のユリの花びらがぽとぽと、と落ちた。それでもまだ二輪も咲いている。三津子の月命日だと勘違いして4日に買ってきた花だから、もう十日も持っている。もう一つの新しい黄色いユリの方はまだつぼみのままで一輪も開いていない。うまいこと色違いで咲くのを見たいのだが。

今日は薄曇りで日が射している。このところ朝はカラスがうるさい。あちこちに家庭ゴミが収集までの間、けっこう長く放置されているので、確実に去年あたりより増えたと思う。こないだなんか、早朝に新聞を取ろうと玄関を出たら、あちこちのマンションの一番上の給水塔の上に巣があるらしく、点々とカラスがいるのが見えてギョッとした。何せこちらも6階なので、けっこう近いところにいるように見える。

朝はイチゴとレモンの残り半分でイチゴジュースをまた作った。イチゴは半分凍っていて、ミキサーでジュースにした後は冷たくて美味しかった。三津子にももちろん、ワイングラスであげた。
その後はBSでシアトル対コロラドのインターリーグ。雨で順延している間、野茂がここで達成したノーヒットノーランの試合のダイジェストをやっていた。
それから試合が開始され、ベーコンと目玉焼きを焼き、レンジで野菜スープを温め、トーストを焼いてバターを塗って食べた。

午後は休み休みながら、ずっと仕事をしていた。

その後夕方6時を過ぎたので、支度をする。麻婆豆腐の下ごしらえに豆腐の水は切っておいたので、まずは野菜不足なのでレタスをオイスターソースで炒めようと思ったらオイスターソースが切れていた。しょうがないので中華鶏ガラスープとガーリックパウダー、塩こしょう、紹興酒で軽く炒める。それからその余り汁を少し足して市販の麻婆豆腐を作り、あとは三津子の卵豆腐と梅干しを用意し、酒とビールで乾杯。写真もいつものように撮った。もう日々のルーティンのようなものだ。
ご飯だけ自分のを作るなり弁当なりで済ませて終わりでもいいが、三津子が寂しいだろう。陰膳というよりは自分のためでもある。写真と差し向かいだと、なぜかもりもりと食べて飲める。日中はいい加減なものしか食べられないのにな、と思う。

その後ももちゃんからメールで「車は大きいのに買い換えたから乗れるよ」「忘れてるわけじゃないから」とメールが来る。「毎日仕事をしているとどうしても…」みたいなことも書いてあって、苦笑する。いや、仕事はこちらもしているが俺は一人なのに比べて、そっちは家庭があり、日々子供たちに手がかかる状況だからしょうがないんだよ。

ゆうちゃんからはメールで、携帯の調子が悪くて、メールがなかなか受信が出来ず、なんだかんだで一日終わってやれやれとなるのが10時ころになってしまうという。詳しくは聞かないが、寝る前になって子供がまとわりついてきたり、旦那が晩酌してたりすれば、まあ遠慮がちになるよ。
みんなそれぞれに家庭があって、一番辛いのは「一人でいること」なのだと痛感する。
けれど三津子以外の人と暮らす気は毛頭、ない。
だからこれから、この暮らしに慣れないといけない。
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2009-06-13(Sat)

グラスが割れる

6月13日(土)

夕べは三津子の写真が大きくなって、本当に旅館で差し向かいのような気持ちで嬉しくなってしまい、ビールを飲み過ぎた。11時過ぎには寝て、今朝は5時ころ目が醒めた。ああ、またか…と思ったが前の晩寝たのが早かったから、6時間は寝たことになる。
もう一度寝ようとしたがダメで、結局テレビをつけてニュースを見ながらごろごろして、7時には下へ降りた。片付けモノをして台所の洗い物をしようと、ビールのタンブラを取り上げようとしたら手が滑って、シンクに落としてしまった。

割れた。

去年、三津子と一緒に四条高倉のたち吉へ行って、ぐいのみとお揃いで買ったやつだ。明青の旦那さんのお兄さんがガラス工芸家で、その展示会に伺った時に、ふたりで買った。
俺のタンブラは飲み口の部分が薄くて、あれで飲むようになってからビールがうまくなったし、逆に他のグラスだと飲み口が厚くて違和感があるほど、よく出来ていた。三津子のぐいのみと同じように底に金泥が入っていて、水を注ぐと綺麗ないい色になる。もっとも俺の場合は冷やしてビールばかり飲んでいたから、金泥の色はほとんど効果が無かったが。
たしか1万6〜7千円くらいしたと思う。それでも高いと思わなかった。三津子のぐいのみもいい形で、二人でフンパツしたけど、本当に満足だった。
その時見た小さな5cmくらいの高さで5つ揃いの、青いガラスの花瓶…というか実用的な花瓶ではない、極小の一輪挿しが気になって、二人で「いいねえ」とずっと見ていた。でもその時、三津子はぐいのみ、俺はタンブラを買ったので、いくら何でも贅沢かと思って、その時は小さな花瓶を2つだけ選んで帰った。
帰ってから三津子は「やっぱり残りのも欲しい、ねーちゃんにあげたい」というので、後日また出かけて、残っていたやつも全部買った。フンパツした。

ずっと前から、その時頑張れば買えないことはなかった小物や服を「やっぱりもったいないから」と諦めて、熟考したあげく「やっぱり買う!」と再び行った時にはもう売れていたり、無くなっていた…という経験を何度かしていた。
俺たちももういい年だ、一期一会だと思って、ほんとうに欲しいと思ったらその時に買おうよ。そう話し合うようになったのはここ数年のことだ。もちろんそれまで経済的な余裕が無かったことが大きかったが、何より俺たちは何十万もするブランド物や宝石や高級時計などには興味が無かった。
安物でも、本当に気に入ったもの、可愛いものを三津子は好んだ。近年、よほど気に入ったもので、ちょっとだけ「フンパツ」すれば手が届くようなものは、後悔しないように頑張ってみることに決めていた。

二人で買った、お気に入りのタンブラが割れてしまった。三津子とお揃いなのに。
実は、俺は昨日、三津子の葬儀の日に葬儀屋に
「葬儀の前に家を出るとき、夫婦茶碗があったら奥さんのを割ってから出てきてください」と言われて、言われるがままそうしたことを後悔していた。
洗い物をしているときに、自分の青いご飯茶碗を取り出して、やっぱりお揃いだった三津子の桃色の茶碗を思い出した。
「割るんじゃなかった」
と激しく後悔した。
あの日、玄関先で茶碗を割って、それから家を出た。戻ってきてその日だったか翌日だったか、手を合わせてからゴミ捨て場にそっと置いた。振り返るとポツンと割れた茶碗が入った袋が寂しそうに見えて、涙が溢れた。
葬儀屋は「この世に故人が未練を残さないためです。もうこの茶碗でご飯を食べる体は無いんだよ、ということを教えてあげないと」と言っていた。そういう決まりなんだ、と。
だから何も疑わずにそうした。「断腸の思い」とはあのことだった。
でも今となっては、何で割ってしまったのだろう、そんな「しきたり」とか「決まり事」なんて、しょせん誰かが言い出したことに決まっている。坊さんなのか昔の人なのかは知らない。実際俺の実家の方ではやった覚えがないし、例えば浄土真宗などではそういう儀式はしないという。
だとしたら、故人の形見なんだから大切に取っておく。時々はそこにご飯をよそって、一緒に食べたっていいじゃないか…。

「分骨はいけない」というお坊さんがいれば、「お釈迦さんだって世界中に仏舎利といって、分骨されてます。亡くなった方をしのぶためにお持ちになりたいのであればそれもいいのです。大事なのは形式ではなく、供養される心なのです」というお坊さんもいる。
戒名も立派なほど霊の成仏につながるという宗派もあれば、皆死ねば平等なのだと、三文字で統一する宗派もある。
決まり事やしきたりは、必ず根拠や伝えられてきた理由がある。それに納得した人が従えばいいのだし、そもそも、我々は「敬虔な仏教徒」ではなかった。
仏教徒だというのなら信仰する菩提寺を持ち、檀家としてのお勤めをキチンと果たし、その宗派のしきたりにのっとって日々信心を励行しないといけない。仏壇をしつらえご先祖の供養を日々行い手を合わせてお題目をあげるとかお経を読むとかそういう「しきたり」をして、はじめて「仏教徒だ」と胸を張ればいい。
敬虔も何も、そもそも俺たちは特定の宗教を持たなかったではないか。
けれども、ご先祖があるから連なって今の自分がある。その連なりが絡み合って「縁」となり、俺たちは出会い、共に暮らすことが出来た。それに人智や科学の及ばない何かの存在にも気付いている。だから宗教がどうではなく、一番納得できることを形にして実行していたわけで、マリア様にも手を合わせるし、お寺に行っても合掌し、神社へ行けば柏手を打つ。気持ちはどこでも同じだし、祈ることも同じだ。その場所その場所で「自分はこの宗派の信徒じゃないから」と儀式を断ったりすることはない。

それが普通の日本人の感覚だろうと思う。

八百万の神を信仰していた日本人は、そのことを逆に「無節操」とか「無宗教」と批判されることもある。実際に日本でキチンと「自分はなになに宗の信徒です」と言い、その宗教のしきたり、戒律にのっとって生活をしている人がどれくらい居るかというと、むしろそれ以外の人の方が多い。
だからお宮参りは神社へ行き結婚は教会でやり葬式はお寺でやる。特定の宗教を熱心に信仰できることは、それは素晴らしいことだと思う。例えば京都だと、有名な比叡山延暦寺(つまり天台宗、厳密には滋賀県側にある)の千日回峰行という過酷な行があるのは有名だろう。あれほどまでの過酷な、過酷という言葉では言い表せないほどの荒行を「信仰心」のみで継続し完遂するということは、大変なことだと思う。
信仰というものがああして「自分」へ向かう、「修行」することによって自分を高めて他者への救済へとつなげる、仏へと近付く。そういう考えは素晴らしいと思う。
現世利益のみや権力のために信仰を利用したり、教義のために他者の命や幸福を奪っていいという宗教もあるが、論外だと思う。

三津子が旅立ったあの日、一度家に戻ってきたら三津子が描いたジローの油彩画の額が壁から落ちて、木枠が壊れ絵がはみ出して散らばっていた。
あの時思わず「お茶碗割ったこと、怒ってるの?」と俺は中空に向かって聞いた。その時、何でそうなったのか、何を三津子が言いたかったのか、本気で解らなかった。
ジローにも、迷っている三津子を案内してくれるように皆で祈った。でもそのジローが怒って額を割るわけがない。三津子が何かに怒って、そのことを知らせたに違いない。

やっぱり、三津子は俺とお揃いの茶碗を割ったことを怒ったのだと思う。
ふたりで選んで買った、お揃いのご飯茶碗。何回も何回も、あれで一緒にご飯を食べた。亡くなるつい何日か前も、三津子はあの茶碗でたまごかけご飯を食べていた。

それを「決まりだから」ということで割っちまった。
申し訳ないことをした。未練を断ち切るためにというなら、それはきっと遺された人間のためなんだと思う。その茶碗を見るたびに思い出しては泣くからだ。
でも茶碗が無くても、あの人が居ないということで悲しくて仕方が無い今、「茶碗があるから思い出して泣く」のではない。「茶碗が無いことが申し訳なくて泣く」のだ。
ついさっき三津子とお揃いのビールタンブラが割れた。今度は俺の方だ、これでおあいこだね。ごめんな…。

その後、洗濯機を廻してシャワーを浴びた。髪がずいぶん伸びた。でもなかなか、いつも二人で行っていた美容室「V」へ行く勇気が無かった。いつも前を通るたび、わざと中の兄弟と目を合わさないようにしていた。いつも二人だった店に一人で入り、泣かずに髪を切って貰える自信が無かったからだ。
11時すぎ、郵便だしやら用事があったので、シャワーで髪が濡れたまま、自転車で出た。そして勇気を出して美容室「V」へ入ると、お客がすでに二人いた。
弟君が俺を見て「ああっ、どうも!」と笑顔を向け、お兄ちゃんの方が「ちょっと待ってもらえますか」とやはり笑顔で言ってくれたので、椅子に座って待つ。弟君は手前左の椅子でおしゃべりなおばちゃんのカラーリングをやっていて、時間がかかりそうだった。お兄ちゃんは右の奥で二十代くらいの男の子の髪をバリカンで坊主にしていた。こっちは早く終わるのかな、と思って10分ほど待ったか、そこへ若い常連客と思しき女性が入ってきて、客が2人に俺が待っているのを見ると、まるで恋人みたいな口調で兄弟に「ああ〜、だいぶ待つん〜?」と言ったので、俺は立ち上がって弟君たちに「また電話して来ますよ」と笑って出た。
待っているうちに、やっぱりここへ何度も三津子と通ったことを思い出してしまい、俺の番になっても無理だな、と思った。俺はいつも、たいがい伸びすぎというくらいにならないとここへ来ない。なのでシャンプーからカットを終えると、その後はいつもヒゲをあたってもらうから、三津子の方が早く終わっていつも俺を待っていた。
あそこでシャンプーやカットをしてもらっている間、入口脇の椅子にあの人が居たことを、どうしてもまだあ思い出してしまう。思い出しただけで涙が出そうになる。
こんな状態で自分の番になっても、弟くんと普通に会話なんか出来るわけがない。そう思って「また来る」と言って出てしまった。しかし四十九日に東京へ行く前に、このボウボウに伸びた髪を切らねばならない。
自転車にまたがって、まず郵便局手前のコンビニで用事を済ませてすぐ戻る。書店並びの安い床屋でいいかと思ったら、土曜のせいか小学生の子どもたちがわんさか待っていて無理と判断。
弁当を買っていったん家へ戻り、ヤンキース対メッツのサブウェイシリーズを見ながら食べた。その後1時くらいまでウトウトしてしまう。

その後仕事をして、やっぱり今日を逃すと髪を切る機会がないような気がしたので、もう一度今度は徒歩で「V」へ行ってみた。店の前からドア越しに覗いてみると、男性客が一人しかおらず、弟君がもうカットに入っている。
じゃあちょっと待てば入れるかなと思い、ドアを開けるとすぐお兄ちゃんの方が「さっきはすいませんでしたね、どうぞ」と言って手前の席へ通してくれた。メガネを預けて、いったん座り、お兄ちゃんとちょっとだけ話した。
「もう一ヶ月以上になりますかね」というので「そうですね、でもまだ慣れなくてね…」と言うと、もう少しこみあげそうになった。すぐにシャンプー台へ通されて、シャンプーをしてもらう。
「ちょこっと用事のついでに空いてるかな、と思って来たんで、簡単でいいですよ」と言ってシャンプーも一度にしてもらった。
席に戻ってちょっとだけ待つとすぐに弟くんがカットに来てくれた。
いつも三津子と二人で来ていた頃は、カットの間弟君とは野球の話や関東と関西の違いなどで、けっこう笑い通しだった。
去年の今ごろは「清原は何を目指してるんですかね」とか言って大笑いしていた。三津子も傍で笑顔で聞いていた。
でも今日はもう少ししたら納骨に東京へ行かねばならないこと、三津子が倒れた時の状況などを簡単に説明したあとは、お互いほとんど無言だった。
「最初のお客さんやったんでね、ハガキいただいた時は頭真っ白なって…。でもいつも写真、見てますし」と言ってくれた。
弟君はその後は静かに仕事を終え、鏡で後ろを確認させてくれたが、もう彼の腕は信用しているので、見たフリをして「大丈夫です」と言った。
それからもう一度お兄ちゃんが頭を流してくれ、椅子へ戻ってブロウをしながら「まだあそこに住んではるんですか」と聞くので「そう、まだね」と言う。
「いろいろとやらなあかんこともあって、大変ですね」と言われ、思わず「でもね…、何にも手につかなくて。実はここへももっと前に来ようと思ってたんだけど、やっぱり思い出すでしょ。いっつも二人で来てたからね…」と言うと思わず涙が出た。まずい、と思ったのですぐに手で拭った。下を向いたら鼻水が少し出た。
途中から常連さんらしい若い男性客が入ってきて、タバコをふかしながら待っていたが、先の客が帰って、弟君はその客の相手をしていた。
レジの前の椅子、つまり俺の背後の椅子には、振り返れば彼女が俺が終わるのを待っていそうな気がして、そう思うともう我慢が出来なかった。
ブロウが終わって、二人に「ありがとう、またお願いします」と言って会計をして出た。涙と鼻水が止まらない。通る人がおかしな顔で俺を見るので、ハンカチで拭きながら歩いた。
それからスーパーへ行き、割れてしまったタンブラの代わりにビールグラスを買った。明青の渡辺さんのお兄さんが造ったものに比べるべくもない、安物のグラス。でも、仕方が無い。
それからテイクアウトの簡単な寿司を買って戻った。

夜8時前、明青のおかあさんが電話してきてくれた。
ここ数日ブログの更新が止まっているので、具合が悪いのかと思ったと心配してかけてくれた。(実は6月8日から止まっていたブログを6月16日にまとめてアップした)
「こないだはお袋が一人で喋ったのを聞いていただいて、すいませんでした」と言うと
「ううん、だってお母さんっていうのはやっぱりありがたいものだし、正しいなって思いましたよ」と言って下さる。
「何か調子悪いとかあったら、遠慮無く電話でもメールでもしてよ」と言ってくれる。頼るあてのない京都で、本当に有り難いと思う。


その後、お姉さんに「四十九日は喪服ですよね」と一応確認のメールを入れると、すぐ折り返し電話があった。
泊まるとこは決めたの、というのでもうホテルを取ったというとビックリしていた。うちでもいいんだけど布団がないし…というので「ももちゃんやゆうちゃんのところにも子どもがいるし、最近は連絡もないんで、まあ迷惑かけてもいけないな…と思って」と答える。
俺は喪服を昨日着てみたらかなりキツくてやっぱり無理だと思ったが、形式を重んじる「儀式」なんだから、形式を崩すわけにはいかない。俺は病人だが、「儀式」はそんなことには配慮してくれない。苦しくても喪服というか黒のスーツをぶら下げていくしかない。しんどいが喪服を着て儀式に参加し、終わったらどこか車の中か借りるなりして着替えようと思う。じゃないと苦しくて、とても座って移動とかは無理だ。
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2009-06-12(Fri)

遺影と遺品を壁際へ

6月12日(金)

夕べはダビングした「ツインズ」を見て、その後はテレビでニュース、寝たのは12時過ぎ、今朝は6時前から目が醒めてうとうとを繰り返す。5時間ちょっとしか寝られないのはやっぱり辛く、なかなかベッドから起き上がれない。寝返りをうち、醒めては浅く眠るのを繰り返す。結局起きたのは9時半。
三津子に線香をあげて花を整えたりしてから、三津子が大量に残していった注射針の箱をまとめる。仕事部屋の後ろの箱にごっそりあったインスリン注射用の針の箱と、衣装部屋にも血糖値を測るセンサー、ソファの後ろにはテスターと採血用の針の箱。結構な量だ。こういうものは勝手にゴミに出すわけにはいかないので、医療廃棄物として病院などで廃棄して貰わねばならない。
打った後の使用済みの針なども、ペットボトルのようなものに溜めておいて、通院の際に病院で捨てて貰っていた。今まとめているのは、未使用の針で箱入りのものだ。
これらは三津子が三度三度食事の前に超即効性、寝る前にはゆるやかな効き目のインスリンを打つための注射針と、その都度血糖値を測定するためにセンサーにつける血を出すための針だから、かなりの量が毎回出される。
けれどもそこは人間、忘れることもあり、センサーなどは毎回測定できない環境もあったりして、途中からかなりダブついてきた。けれども主治医に「これこれは今うちにまだあるので少なめで」と言っていいのか解らず、そのまま処方され、いつもどっさり下げて帰って来た。そういうのがちょっとずつ溜まって、大変な量になったわけだ。
注射時に使う消毒用エタノール綿は、俺も免疫力が弱っているので何かと重宝するから、十数箱あるのはそのまま置いておくことにした。
先日I内科へ行った時に針のことを聞いたら持って来てもいいと言っていただいたので、袋に詰めていく。

あと昨日お姉さんに電話で頼まれた三津子の戸籍謄本のコピーをとるのでファイルに挟み、それらとゴミ袋を持って一回下へ降りる。ゴミを出してからI内科へ入ると、三津子の本を買ってくれたという事務の人と看護婦さんが居たので、「こないだお話しした針なんですけど…」と言うと「あ、お預かりして処分しますよ」とすぐ解ってくれる。しかしその量を見て驚かれたようで「けっこうありますねえ」と言うので、「京大に通っていた時のがけっこうありまして…。あと三度三度打たないといけないのが抜けたりしたのが溜まったりとか…」と言うと「ああ〜」と言って、「処分しますから大丈夫ですよ」と言っていただいた。
礼を言って内科を出て、それからコンビニで三津子の戸籍謄本のコピーを取る。合計5枚。
「死亡」とか「三津子」という文字を見るだけで一瞬悲しみが溢れそうになる。そこを堪えて淡々とコピーを取り、弁当と文春、飲み物などを買っていったん戻る。
それからコピーに添えるお姉さんへの手紙を打って出力してから、コピーと手紙、DMMのレンタルDVDの返送を持って今度は自転車で出る。

今日は本当に梅雨なのかという日射しで、暑い。
郵便局でまずDMMの返却を投函してからエクスパックを5枚買い、近くのテーブルで持って来たコピーと手紙を入れて封をし、メモしておいたお姉さんの住所を書き入れて、カウンタ横のポストへ入れた。
それからスーパーへ行き、夜の買い物をするが、やっぱり三津子の好きそうな総菜をどうしても選んでしまう。心の中で「これ食べる?」とか「あなたこれ好きだったね」とか。それから昨日買い忘れたイチゴジュース用の牛乳。久しぶりにパンも3枚入りのを買った。
買い物をして袋詰めをしてから、花屋へ行き、こないだのユリの色違いのを買った。あとガーベラが鮮やかな赤オレンジ色で綺麗だったので2本。ユリは黄色のやつで、まだ開いていないのにした。家のうす桃色のユリは次々に開き、もう一週間も持っている。だから色違いで時間差にしようと思い、わざと閉じているのを選んだ。
他の花を見るが、白いバラはしおれてくると茶色や黄ばみみたいになって可哀想なんだよなとか、これは粉が落ちるやつだとか、この花は日持ちしないんだよな…などと切り花にすっかり目が肥えてしまった。
花を選ぶのってこんなに楽しいことなんだな。今さらそう思っても「綺麗ね」と喜んでくれる三津子はもういない。
家へ戻って着替えてすぐ、新しいユリとガーベラを花瓶に加えた。綺麗だね、と言って写真も撮った。

お姉さんに1時頃、謄本のコピーを送ったとメールする時に花と三津子の遺影を撮影して添付すると、返信に「うちの三津子です」といって、写真が添付されてきた。白い花に囲まれ、あの銀閣寺で井坂さんたちと四人で撮った笑顔の三津子の写真と、俺が送った丸い三つの写真と絵の額が並んでいた。その周りは花だけでなく、ガラスや小さな小物も置かれていた。
うちは遺影の前に思い切り線香立ても置いてあるし、思い切り「ご仏前」だけど、お姉さんの方は明るくて何だか三津子が楽しそうにさえ見える。「仏前ぽくなくていいですね」と返信した。

それから4月30日の日記をなぜか開いて、あの辛い日々と光景を思い出しては嘆いていると、後ろで「カチンカチンカチン…」と音がした。猫のトイレの砂というか丸い球がフローリングで跳ねる、耳慣れた音だ。
「ああ、猫が来たな」と思って振り返ると、誰もいなかった。確かに球が跳ねた、猫がトイレから出て来た時に手や足にひっかかって飛んだのが床に跳ね返る時の音。おかしいなと思って、そういえば猫のトイレ掃除を忘れていたことを思い出す。
夕べ寝る前に「あ、トイレ…」と思ったのだが、明日の朝やろうと思ってそのまま寝てしまった。それほど汚れてはいなかったが、それでも猫にしてみれば嫌だろう。
こないだ買っておいた、使い捨ての透明な薄いビニール手袋をして、ユキがいつも外に飛ばすので置いてある尿で汚れた新聞紙をまず外し、床を拭く。トイレ手前に置いてある足ふき代わりの尿専用薄型トイレというかマットの外枠を拭いて、中のシートを取り替える。
トイレ本体の透明カバーはユキの尿だらけなので、洗剤をつけて丁寧にこそげ取るように拭き、上に跳ね上げ、それからトイレのウンコをシャベルでゴミ袋に入れていく。これは二段の引き出しになっていて、尿は下へ落ちて吸収シートが吸い取るようになっているが、それを引き出すと尿でびちゃびちゃになっていた。
そういえば3日ほど取り替えてなかったか。もの凄い臭いがしてぐっしょりと重いそれらを袋に入れ、洗剤をスプレーして丁寧に拭き取る。一段目のメッシュから漏れた猫砂=直径4〜5mmくらいの丸い球(消臭とか乾燥の役目をする球も混じっている)にも尿がしみこんでいるので、それらも取り除き、新しいシートを薄型のを敷いてから、厚手の「一週間取り替え不要」というのを手前と奥の2枚敷く。これでも二匹いると一週間どころか3日でぐっしょり、この有様だ。
そうしてようやく本体の下に新しい新聞紙を厚めに敷き直し、足ふき代わりの尿取りマットを置いて、立ち上がった。中腰というかしゃがんでずっと作業していたので立ち上がるとギシギシと体中が痛い。けれどもう俺しかやる人間はいないし、三津子が生きていた時だって、重労働なのは同じだから、よほど体調がひどくない限りは俺の仕事だった。
あちこちに散らばった球をほうきでかき集めて捨て、最後にサッシのレールに挟まっている球をハンディ掃除機で吸い込み、ついでにそこらの綿埃状の猫の毛も吸い取る。一通り終わるともうヘトヘトだ。
猫二匹の世話でこれなんだから、小さい子どもが二人だったら。三度三度の食事の世話やお風呂や何やで、自分のことなどどんどん後回しになって、ろくに出来るはずもないと思う。若くて健康で、そして子どもへの愛情があるから、子育てが出来るのだろう。ただそれが健康とは言えない女がたった一人でだったら、どうだろう。安定した収入のない、才能一本で食べていかねばならない仕事だったら。何をしても、思いは三津子のことへ向かう。

壁際に写真を移動そして思い立って、テーブルの上にずっと置いてあった小ダンスとその上の線香立てや遺影、周りにあった花瓶や三津子の化粧道具などなどを、思い切ってテレビ台の上に移動させた。
お姉さんのところの三津子の写真を見たこともあって、家のリビングの上に小さいとはいえドンと桐の小ダンスが置かれて遺影があり、その周りに線香立てや花や写真が置いてあるのも、考えてみれば異様な光景だ。
なのでテレビ台の上、テレビを載せてあるのより一段高い左側に、今三津子の好きだった小さなガラス工芸品や小物を入れたアクセサリボックスとその両脇に招き猫が居る場所をちょっとずらして、アクセサリボックスの隣にテーブルの上にあった小ダンスを移動させた。
その上に遺影を置くと結局ご仏前ぽくなるので、三津子が好きだったアクセサリボックスの上に遺影と、小さな陶製の狛犬ならぬ「狛猫」を並べた。「仏様」への水も遺影の前に置ける。
隣の、これまで遺影を載せていた小ダンスの上には招き猫二対と花瓶、三津子の化粧道具と遺品のシステム手帳を置いた。
小ダンスの中にはもともと、彼女が好きだったアクセサリやジュエリー、遺品などを収めてあるから、これで全てが一カ所にまとまった。さらにその手前に、色々な方からいただいた手紙や弔電、ハガキなどの束を置いた。
線香立てはアクセサリボックスの下側へ置き、テーブルの上は俺が差し向かいで飲む時の小さな写真立てだけになった。
テーブルの上が広くなった。別に狭くてもいいのだが、三津子の遺影や遺品関連が壁面にすべて移動したことで、気持ちをそこへ向けやすくなった。そこへ向かうと、三津子のものが揃っていて、写真も線香も遺品も、そしてご先祖様の遺影も仏様も全てが見える。
カメラで写真も撮った。
それから、テーブルの上の三津子があの白浜の旅館で浴衣姿で小首を傾げてご馳走を食べている写真をじっと見た。
額が小さいな…と思い、その写真をA4弱くらいの大きさに出力して、大きめの額に入れ換えた。そしてその前に改めてお茶を置くと、本当に差し向かいのように思えるほど、大きくなった。これでいい、これでまた君と向かい合ってご飯が食べられる。
そう思って6時過ぎからまた晩の支度をした。
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2009-06-11(Thu)

わすれな草

6月11日(木)

夕べは12時過ぎに薬を飲んで上へ上がった。シマが寄ってきたのでなでてやると、ゴロゴロと喉をならしながら、俺の腕にズシリと体重を預けてきて、しばらく腕枕をする格好になる。しかしその間ずっとユキが下で鳴いており、なかなか上がってこない。しょうがなく降りて行って止めさせる。
そして寝るタイミングをまた逸したので、ベッド脇の本棚を整理し始めた。東側の壁面に並べた本棚は、部屋の中央に積まれた二人の本の段ボールを、とにかく片端から開けては突っ込んでったものだ。いらないものも当然あるが、選別は後だと勢いでやった。
ベッドを挟んで反対側・西側にはガラス戸つきのやや大きな本棚が二つ並べてある。これは一人ずつ、大事な本や残しておきたい本をしまうために置いたが、結局未整理のまま雑然としている。
ここ数日、三津子の著書を押し入れや納戸で見つけては、階段の下に集めておいた。階段を上がるたびに一つずつ運んだその本の束や箱を開けて、この本棚のガラス戸の中に納めていく。

またこうして改めて並べてみると、三津子の本の残りが本当に少ないことが解る。二つの本棚のガラス戸部分をほとんど三津子の保存用の著書を並べて整理を終え、いったん下へ降りて手を洗い、薬を飲んでからベッドに戻って電気を消した。1時半ころだったか。

今朝は8時前に目が醒めた。
8時半ころ起きるとユキはもうベランダ側の窓のところに乗っかって、いつものようにじっと外を見ていた。今朝は曇り、比叡山はガスっている。
それから下へ降りて朝のルーティンを済ませ、半袖シャツだけを羽織って下へ降りて新聞を取って戻る。

朝は食べず、昼前にずっと冷蔵庫に入れっぱなしだったざるそばを食べた。いつ買ったのかもう覚えてないが、賞味期限を見ると「11日」だったので食べた。最初麺を持ち上げると全部くっついていたので、流水でほぐして水を切ってから食べたが、「本わさび」と書いてある小さなパックがついていて、つゆにネギを入れてわさびをつけると、プンと本わさのいい匂いがした。そばも「スーパーで売ってる弁当パックみたいなやつ」にしては食えたが、空腹だったせいだろうか。

その後メールをチェックすると、ブログにコメントが入っていた。「WebDice」でやまだ紫について3回に渡って異例の連載を書いて下さった、吉田アミさんからだった。

吉田さんの「やまだ紫」論は、これまで読んだ中で一番、俺にとっては納得がいくものだった。なぜなら、知り合いが書いて下さったものと違い、やまだという個人の人となりへの過剰な思い入れがなく、それでいて描かれた作品からちゃんと個人像までを的確に捉えている。(過去に、佐野洋子さんがそういう「見透し方」をされたと思う)
それと「私マンガ」「私小説マンガ」と呼ぶことをきっぱりと否定し、その愚を論理的に明かしてくれている。単純に90年代前半の「女性作家」いや「女マンガ」ブームの元にあるとか、もしくは愚かにも少女漫画の系譜上の端っこに置くという「大変な誤解」もない。この誤解というか錯誤はけっこうな「評論家」や「マンガ読み」を自称する人たちも陥っている落とし穴なのに、そういう部分もきちんと「ガロ」や「COM」を読まれた上で正しく捉えている。
吉田さんは90年代の「ガロ」の読者でもあったというから、つまりは、女性が女性であることをある意味「売りに」して、作品をどんどん自由に描けるようになった状況を、リアルタイムで見てこられている。
むしろそこから逆に時間を遡ることで、我々よりも上の世代が00年代までを含めてうまく捉えられない「女性作家の系譜」の全体像を見事に捕まえたのだ、と思う。
だから、これからは吉田さんの「やまだ紫論」を参照して貰えれば、俺にはもう何も付け加えることはないと思った。

その後、三津子が倒れてからの日記が膨大に長くなってきて、何がいつあったのか不明になってきたので、以前のようなエクセル形式の日記にしようかと、まず一日一日をテキストファイルに分割し、日付名で保存していった。
けれど途中で、この一日だけでも膨大な量のテキストをセル一つに貼り付けられるのかと思い、やってみると果たして許容量を超えていた。かといって途中でやめるのも何なので、黙々と作業をする。
三津子が倒れて数日の間のテキスト量は20kb〜30kbくらいだった。日本語は一文字2byte、単純計算で毎日10000〜15000字書きまくっていた。「書く」というよりはパソコンで打ちまくっていたのだが、もし、あの時、俺がこの記録という手段が無かったとしたら、本当に頭がおかしくなるか、後追いで自殺していた。


その後、野菜が不足しているので自転車で買い物に出る。今日はうす曇りで雨はないが、その分蒸している。時折日が射すと暑い。
いつもと違うスーパーへ行き、野菜や果物を物色する。
そうだ、イチゴとレモンを買って、いつも二人で飲んでいたいちごジュースを作ろう、と思った。それらをカゴに入れて、あとは晩飯用の総菜などを二日分ほど買い、レタスをまるまる1つ。
それから改めて買い残しがないか、総菜売り場を「三津子の好きなものはないかな」と思いつつ見ていると、何とカリカリ梅の小パックがあった。
びっくりした。京都のスーパーで普通に売っているのを初めて見た。関東なら当たり前に売ってるが、こちらではたまに弁当の真ん中にちょこんと乗っかってるのがあるかないか。梅干しと言えば本場はこちらだし、大粒で果肉の柔らかいものが上ものだ。それはそうなのだが、人には好き好きがある。本物のラーメンが食べたい時もあれば、チープなカップ麺の味が欲しい時もある。
三津子はカリカリ梅が好きで、よくあれを前歯でカリコリと噛んでいた。刻んでご飯にまぜたりもした。京都へ来てから何度も「カリカリ梅、売ってないなあ」と言って探していた。
こんな近くにあったとは…。思わずその小さなパックをカゴに入れた。
何となく嬉しいのと泣きそうな気持ちでレジへ向かい、清算して出て、そのまま帰宅。
ポストには俺がヤフオクで3000円ほどで落とした筑摩の作品集5巻(『性悪猫/鈍たちとやま猫』)と、DMMから「グリーンマイル」「ツインズ」のレンタルDVD、ももちゃんの旦那のご両親から、ストラップへの御礼のハガキが届いていた。
レンタルの映画は、夜にせめて時間を潰すものが欲しくて、借りたもの。シュワちゃんの「全盛期」、コメディとアクションを交互に演じていた頃のは他愛もなく純粋に楽しめていい。『グリーン・マイル』などトム・ハンクスの映画は夫婦ともに好きだった。

部屋に戻り、いろいろな雑事をこなし、そうして夜になると、どうしてもまた考えてしまう。
本当に三津子は俺と一緒に暮らして幸せだったのだろうか。

わすれな草こないだ箱を整理していたら、どこからか植物の種の袋が出て来た。ずいぶん昔に買ったものだと思う。
「わすれな草」の種で、裏を見ると
「花言葉…私を忘れないで」と書いてあった。
それを見て号泣した。忘れるわけ、ないじゃないかと。
それどころか、俺は後悔と自責の念で毎日君に謝っては泣いている。
確かに君が倒れることを正確に予知することは出来なかったし、あの状態ならどこへ運び込んでも助からなかっただろう、と医師も含めてたくさんの人が慰めてくれる。だからそれは「運命」であり、仕方が無かったのだと思うしかない。
でなければ生きて行けない。
けれども、一緒に暮らしていた時間、ほんとうに俺は君を幸せにしてあげられたか。
それを考えると、申し訳なく、悲しく、辛くて仕方がない。
去年の夏くらいからの日記を見ていくと、けっこう細かいケンカもしている。もちろん口ゲンカで、それもすぐに普通に戻るのは、長年夫婦をやってきたからだ。なにしろ、京都へふたりきりで来てしまって、ガス抜きをする相手もお互いふたりきりだ。
「私があなたの病気でどれだけ辛い思いをしているか知ってるの」とあなたは泣いた。
俺も「俺は自分がこんな病気だということだけで辛いのに、そのことを辛いと言われたらどうしたらいい」そう言って涙が出た。
こんな出口のないケンカをして、たった二人しかいないのに、家の中で無言で過ごしたりした。
今なら土下座をしてでも、俺が謝って許しを請う。全て俺が悪いに決まってる、許して貰えるのなら何でもする。そう思っても、もう遅いのだ。
「わすれな草」の種の袋には
「特徴 花は小輪で可愛く、紫色の美しい花です。」とも書いてあった。
何年前のものかももう解らない。なぜ彼女はこれを植えなかったのだろう。詩や漫画などにはよく、彼女が花や草木を愛でる描写が登場するが、作中のああいう描写は彼女の願望も多分に入っていた。可愛らしい花の小鉢を買ってきて「綺麗ね」と言って水をあげたり世話をするのが好きだったのに、不思議なことに俺たちが暮らした環境がひどかったのか、ほとんどがその甲斐もなく枯れた。
たまに緑が育っても、彼女が入院したりすると、その間の世話がおろそかになって、枯れてしまったこともあった。それは、俺のせいだった。
結局京都へ転居する前の住まいはその全て…つまり環境と彼女の病気と俺のズボラが連鎖して、まるで花を買ってきては「殺している」かのような気持ちになった。「もう鉢を買ってくるのはやめよう」と話し合った。
強い枇杷の苗木でさえ、葉を出した後は倒れんばかりに弱ってきた。けれどもここでも書いたように、京都へ引っ越してから、枇杷の苗は立派に実をつけた。
「わすれな草」も、ここ京都でなら育つかも知れない。
でも、
「私を忘れないで」
そんな花言葉の花を、君を失った後にを育てるなんて耐えられない。花に水をやるたびに自分の目からも水を出すなんて、シャレにもならないじゃないか。それに、俺は花を見る度に思い出すのではなく、俺は君のことを絶対に忘れない。
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2009-06-10(Wed)

「手」

その後、もう一カ所ちゃんと見ていないところがあったな…と思い出して、三津子の仕事机の背面の隅に積んである箱をいくつか調べた。
そこは俺たちのどちらか、あるいは両方が見えなくなるといつもユキが乗っかって尻尾をくわえてはくるくる廻っていたところだから、抜けた毛がわたぼこりのようになって、舞い上がる。
そこから静かに箱を降ろしては、開ける。
一つの箱は編み棒や編み物の本などで、もう一つは油彩の道具などの画材だった。最後に一番下にあった箱を開けてみると、スクラップブックやノート、写真などが雑然と入っていた。

十数年前から使っていたシステム手帳も出て来た。大学へ行くようになるちょっと前、五年くらい前までは使っていたと思う。毎日新聞に『お勝手に』というコラムとイラストの連載をやっていた頃の彼女の字は、しっかりした筆致でメモや住所録などが書き込んである。お金の貸し借りのことも、キチンと細かく書いてある。
手帳には彼女が好きで持っていたと思われる写真も挟まっていて、取られた記憶のない俺のポラロイド写真もあった。子どもたちのも、孫の写真も猫の写真も挟まっていて、つい挟んだものか、意識的に大切にしようと挟んだものなのか不明なものも多い。
途中から、彼女は病気病気の連続になって、いつしかそういう細かい「整理ごと」を諦めてしまったフシがある。
俺はこういう性格なので「ダメだよちゃんとしないと」と小言ばかり言っていたような気がする。

今ならもちろん、ここ数年はそれこそ自分にも痛いほど解る。
体がしんどい時、辛い時にそういう細かいことをしたくないし、言われたくないということが…。

病を得ると、黙ってじっと動かずにいたい時がある。ただ、一人にして欲しいわけでは決してない。むしろ、誰かが傍に居て欲しい。優しく、それでもこちらへアンテナは向けつつも普通に居てくれればいい。そうやって見守っていて欲しい…。

三津子はここ数年、「生きる」ということだけに精一杯だったと思う。ふたりで、一緒に暮らす日々をどれだけ長く続けられるか。それだけに頑張っていたのだと思う。
もちろん、暮らしの中での細かい雑事はある。けれど彼女がずっと全身全霊で守ってきたふたりの子どもたちは、もう母となり家を出て久しい。自分自身も五十を過ぎてからは病気、入院の連続だった。挙げ句の果ては連れ合いである俺が白血病、だ。
京都へ来てからは、もうとにかく「ふたりで一緒に、一日でも長く生きよう」が合い言葉だった。

彼女の歩んできた足跡が、名残が、息吹が、遺されたモノたちからしっかりと伝わってくる。書かれた文字、写真に残るちょっとした仕草。
彼女が断固として「守ろうとしたもの」があった若い頃のものからは、彼女の「強い気持ち」が横溢しているのが解る。
けれどもここ数年の文字は筆圧も弱く、文字もどこか気怠いものになっている。今年に入ってからの写真などはもう、彼女の存在そのものが、はかないものに見えて仕方がない。
もちろんそれは、今もう彼女の命が尽きたという事実から考えているのでそう見えているのだろう。それに人間だから単純に年齢的な「衰え」だってある。
娘であり、妻であり、母であり、作家であり、何よりも素晴らしい一人の人間としての三津子というひとの生涯を、俺のようなチンケな人間がどう語り、後世へ遺し伝えようというのだろう。
彼女自身がこれまで、インタビューや『満天星みた』『東京ノスタルジア』といったエッセイから、最後になった『愛のかたち』まで、自分で語っていることが何よりも全てだろう。
それと、作家としてはその「作品が全て」であることもだ。
その、
彼女自身が語った彼女の生き様と、
作家としての生き様すなわち作品
が遺せなければ、俺は死んでも死にきれない。
やはり、俺にはまだ生きねばならない理由があるのだ。理由…いや使命があるのだと思う。

気が付いたら夕飯の時間だった。朝コンビニで買っておいた弁当で簡単な夕飯にする。弁当は暖めるだけだが、冷蔵庫にお袋が送ってくれたたらこがあったので切った。三津子にはいつものように陰膳をする。小皿にたらこを少しと、弁当のおかずをちょっと。
「こんなものでごめんね、でもたらこは北海道産の最高級だよ」と言いつつ、ビールで三津子のお酒と乾杯をする。たらこはすこぶる美味で、三津子にも「うまい!」と話しかけた。
不思議なもので、傍らの携帯を見ると、ちょうどそのたらこを出して切っていた時刻にお袋からメールが入っていた。店…やらないよりはマシというバーも、不景気で寂しいという。こちらは梅雨入りして雨だが、それがまた寂しいね、と返す。
こんな他愛のないやりとりがあるだけで、寂しさが少しだけ紛れる。誰からも連絡がない、メールさえ来ないという日が、一番辛い。

食後、パソコンに保存してある三津子の『樹のうえで猫がみている』のデータを見ていた。
『樹のうえで…』はもちろん、詩人であったあの故・吉原幸子さん主宰の『ラ・メール』に連載されたものだ。もう20年ほど前だろうか。当時は当然一家に一台パソコンがあるどころか、携帯さえなく、インターネットさえ誰も知らない時代だ。なので、当然見開きの詩画連載は手書き原稿で入稿していた。
それを筑摩書房が本にしてくれたはいいが、例によって全くその後再版をせずほったらかしだったので、俺がデータ化をして、CD−ROMにしたのだった。

原画のスキャンは印刷レベルの解像度で保存してあるが、WEB閲覧形式のCD−ROM用データ、つまり詩と合成した「版下」データは当然ながらWEB解像度だ。印刷には向かない、モニタで見るためのデータである。
思えばCD−ROM化するにあたって複製や不当に印刷などされないため、当然印刷クオリティより劣る解像度で収録したのは当然のこと。けれどその元になったはずの高解像度の「版下」データがない。
原画自体は高解像度でスキャニングしたデータがあるので、版下も当然残してあると当時の俺が勘違いしたようだ。フォルダの名前が「PSD」になっているから、きっとそれが高解像度の版下データだと思っていたフシがある。

この見開きの詩画作品は、『樹のうえ…』から十数年を経て、今度は短歌誌『コスモス』で『見上げれば虹』として再開された。
『コスモス』は『ラ・メール』誌と同じA5判で、この頃はもう毎回原画を取り込んで版下にし、データ入稿していた。
一度には無理だが、出版出来るくらいの高解像度データはあるので、版下さえ作っておけば製版・印刷コストがずいぶん削減されるし、自費出版してもいい。利益を出すことなど目的ではないので、いっそのことそうして全国の図書館や学校に寄贈したいとも思っている。

とりあえず『樹のうえ…』から、俺の大好きな一篇『冷や酒』を版下データにした。モノクロ2階調で、350dpi。プリンタで出力してみると、綺麗に出た。商業印刷に出来るクオリティだから当然で、「紫」の落款を押してフレームに入れて飾ってみる。

やはり、本当に絵といい詩というか散文があの人らしくていい。子ども達が寝た後の団地のちゃぶ台。仕事を終えた自分へのささやかなご褒美に、湯豆腐に冷や酒を用意。そんなひととき、何を思ったのか、感じたのか、彼女は涙する。
その光景を思って今、俺が涙している。

今、仕事机の前には彼女が元気だった頃の写真が何枚も立ててある。
たぶん1984年ころ、俺と知り合う直前の団地に居る三津子。
85年に「ガロ」の編集や作家さんたちとソフトボールをやっていた頃、俺たちがエビスさんたちと公園の椅子でカメラにポーズを取っている奥で、羨ましそうにこちらを見ている三津子。
86年ころ、いっしょに住むようになってすぐの、優しく微笑む三津子。
87年に家族四人で旅行した時、俺の隣でちょっと照れたような顔をしている三津子。

これらから二十数年後に京都で、彼女の頭の中の「時限爆弾」が炸裂することなどもちろん、誰も知らなかった。
俺も病を得てから、人間誰もが生まれてから避けられない「死」に向かって歩む…などと悟ったようなことを言ったこともある。
だけど俺たちが一緒になってから、彼女が先に死んでしまうなど、本当に考えたことがなかった。特に4年前に癌宣告を受けてからは、絶対に俺が先だと決めつけていた。
十七も年上なんだから仕方がない、と考えたりもした。それにもし俺が先だったら遺された彼女はどうなっていたかと考えれば順序はこれで良かったと考えもする。
でもそれらは全部「彼女が俺の側にもういない」という事実をどう脇へ追いやるか、いかに直視せぬよう視界の隅へ隅へと移動させるか、そのための屁理屈に過ぎない。

写真を見れば思い出が吹き出してくる、激流のように彼女と過ごした時間が、記憶が、感情が押し寄せてくる。メソメソするわけではない、むしろあまりに真正面からそれを見据えて受け止めたら、自分が崩壊しそうで怖い。だからわざと気を逸らしている。

ここまで書いたところでユキが俺の左後ろに積んであった段ボール箱に飛び乗ろうとして、足場にした本を崩した。ユキが載ろうとした箱は昼間にいったん開けて、あとで原画や掲載誌などを整理していこうと思っていたものだ。
フタがピシッと閉じておらず、その上に額を入れてあった箱が軽く乗せてあっただけで、ユキはどうやらその上に載ろうとして額の箱を落としてしまったらしい。
抑えていた額の箱が落ちて、フタがパカッと開いている。その段ボール箱を見て、なぜ開いているのかを確かめると、中にあった一つの封筒が出っ張っており、フタを押し上げていることが解った。

その封筒を取り出して見ると、中にはスケッチブックが入っていた。
もちろん三津子のものだ。
開いて見ると、2003年のカレンダーを作った時の原画だった。
前に展覧会をやったり、招き猫のシールを作ったりしたらけっこうファンの人が喜んで下さったので、三津子の絵を取り込んでCGで着色し、カレンダーを作ったのだった。原画は買えないけれど、カレンダーなら欲しい! と言って下さる方が何人か居て下さって、好評だった。
その元になる原画なので、当然モノクロの線画だけが描かれている。CGで着色などするよりも遥かに、彼女の繊細な線が美しい。
見たことのない絵、いや下書きも数点だけ描かれていた。でもその数点以外はほとんど使っていないスケッチブックだ。

メモするとその間に小さなメモ用紙が挟まっていた。
「耳セン、リップクリーム」
とメモ書きがしてあって、それを線で打ち消した下に、散文が書かれていた。耳センとリップ、これは入院の時の買い物だとすぐに解る。恐らくは詩画のアイディアやフレーズを、手近なメモ用紙に書いて、いずれちゃんと推敲して絵を添えようと思ったのだろう。


「手」

「子育て盛りの娘の腕は、日焼けをし
血管が浮き出して筋肉もたくましい

子育てを終え娘達も結婚し
力仕事もしなくなった私の手は
生白く偏平で力もない

その手を握ってくれる夫がいる」


と書いてあった。

それを見た瞬間、今まで堪えてきた涙が一気にあふれ出た。

俺が昔の写真や動画を見て、自分を責めている。それを見た三津子が、今、これを見せてくれたのだ。
ありがとう、君はほんとうに優しい人だ。
メソメソする自分をいつもこうして慰めてくれようとする。それが俺には嬉しい反面、やはり悲しくて寂しくて仕方がない。

彼女の手の感触はまだはっきりと覚えている。忘れたくない、ずっと。
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2009-06-10(Wed)

夜は辛い

6月10日(水)

寝られなかった。
日記をつけブログをアップしたら12時をまわっていたので、レンドルミンが切れてしまったのでそのまま寝室へ上がった。なかなか寝付けず、うとうととしては目が醒めを繰り返し、時計ばかりを見ていた。2時半ころからは本格的に寝られなくなり、目を閉じ悶々とするが全く駄目。3時、4時…となり、進んでいるデジタル時計の4:44に続いて6分後にDVDプレイヤの時計が4:44になったのも見た。外は薄明るくなってきて、ユキは隣のベッドの足元にあるクッションで、いつものように寝ている。シマはいつの間にかいなかった。
結局5時近くになって下へ降りた。
シマは俺が足元につけている送風機の風が嫌らしく、最近は仕事部屋の三津子の椅子の上で寝るようになっている。
導眠剤…レンドルミンがないともう寝られないのかと思うとちょっと怖い気もするが、よく考えたら俺はもう重篤な病人なわけで、寝られないのなら薬を飲めばいいと思う。これも対処療法だと思えばいい。若くて健康な体なのに精神を病み、不眠や薬物依存になっているわけではないのだから、と納得する。

5時頃に下へ降りて三津子の薬箱を探すと、「アモバン」があった。これはハルシオンより超即効性があるが依存性や副作用は少ないという薬。これを一錠飲んだ。「苦み」が強く人によってはそれが残って不快だという人もあるようだが俺の場合は噛まずにゴクンと水で飲んでしまうので、あまり関係ない。

それからもう一度ベッドに上がった。ユキが気配に気付いてじっとこちらを見たので「おいで」と手招きすると、すぐにゴロゴロ言いながら近寄ってきた。しばらく撫でてやると満足してまた足元のクッションへ戻って、こちらをじっと見ている。「大丈夫、寝るよ」と言いながら目をつぶったり開けたりして見つめていると、向こうも同じ動作をし始める。俺たちがよくやっていた、猫への「催眠術」だ。
そうしているうちにこちらも眠くなってきて、どうにか5時半過ぎには寝ることが出来た。

次に目が醒めたのは10時ころ。何とか4時間以上寝られた、良かった…。それにしてもレンドルミンが切れたらこうなるとは恐ろしい。旅先などでは気をつけよう…と思ったが、よく考えたらもう泊まりがけで動くことは、三津子の四十九日前に東京でやる納骨くらいしかないだろうが。
洗顔や三津子の写真周りを整え線香をあげ、それから着替えてすぐ下のI内科へ行く。
診察券を出して座ろうとしたら、大家さんのKさんが居たのでビックリ。こちらに通院されておられるようだ。
すぐに奥からI先生の奥さんが紙袋を持ってきてくれ、「奥さん大変な方だったんですね、あれから奥さんの本とか色々探したんですよ」と言いながら渡してくれた。俺がいつ来院するか解らなかったので、生花ではなく造花の綺麗なすずらんのポットだった。
「ご主人もね、お体、大変だと思いますが気をつけていただいて…」と心配して下さる。ちょっと前ならここで泣いていたと思う。けれどさすがに受付にお2人、先生の奥さん、さらに待合には大家さんまで居る中でぼろぼろ泣くわけにもいかない。
何とか持ちこたえた。そして「綺麗ですね、ありがとうございます」と頭を下げた。
受付の係の女性で、前に三津子が履いていたクラークスの靴のことを聞いた方が、三津子の本をネットで色々調べてくれ、「何冊か買ったんですよ」と言ってくれた。
診察室から看護婦さんが出て来て「白取さんは、いつもの…」というので「はい、薬が切れましたので」と伝え、それから待合のソファに座って大家さんにもご挨拶をする。

それからすぐに看護婦さんに呼ばれて診察室へ入る。
I先生にお花の御礼を言うと
「どうですか、ちゃんと寝られてますか」と聞かれるので、「薬が無いとやっぱり…」とお伝えする。
「昨日でちょうど切れたんですが、2時半ころから結局寝られなくて悶々としました」と話すと「ああ〜」という顔をされて、「じゃあまた一ヶ月分出しましょう」と言ってくださった。アモバンを飲んだことは言わなかった。(ていうかこれでバレるか。今度から切れる前にちゃんと来ます…)
それから「目眩はどうですか」と言われるので、「はい、日によって全然違って、手首あたりが腫れたり膝だったりするんですが、耳の中の日はやっぱりくらくらします。そういう時は目眩止めが効くみたいで助かってます」と話すと、「じゃあ効くということですね」と、それも一ヶ月分出していただけた。
目眩は症状がない時はいいが、出た時は大変なのだ。一度、桜の頃に三津子と二条城を歩いていた時に、突然猛烈な目眩に襲われたことがある。それこそ、壁づたいじゃないと怖いくらいで、すぐにタクシーで帰った。あんなことが駅のホームなんかで起きたらと思うと、怖い。だから薬はいつも持ち歩くようにしている。
I先生は「次は京大病院はいつですか」というので「十週間置きになったので、次は七月です」と言うと、「じゃあその間に何かちょっとでも体調に変化があったらいつでも来てくださいね」と言って下さる。こういういい先生が自分の住んでいる下に居て下さるというのは本当に心強い。
そういえばその間の採血も、ここでお願い出来るわけだし、とも思った。とはいっても、採血をすれば俺の場合はもの凄い「不健康な数値」が出てくるわけだが。
ただ、日大病院にお世話になっていた頃、採血を終えて予約時間に診察室に入ったら、当時の主治医だったU先生にいきなり「白取さん、風邪ひかれませんでせした?」と言われたことがあった。CRPという炎症反応が通常よりもハネ上がっていたので、何かに感染したんじゃないかという。そういえばちょっと風邪っぽいかも、ということで感冒薬を出してもらって、当時は大事に至らなかった。あとで自分で数値を入力したら、CRPのグラフはそこだけ剣山の針のように突出して異常に高かった。
I先生に採血もよろしいでしょうかと言うと「あ、そうですね。じゃあ次の時に京大の先生にも相談してみてください」ということになり、身長・体重、血圧を測ってもらう。
会計に呼ばれてカウンタへ行くと、I先生の奥さんが今度は三津子の本を何冊か奥から持って来て見せて下さった。
青林堂版のA5判の単行本もあった。文庫の『性悪猫』など含めて5、6冊はあった。
「ああ、こんなにいっぱい大変でしたでしょう。ありがとうございます」とまた頭を下げる。
奥さんは「あのね、ご自分を責めてられるかも知れませんけど、うちの先生も『絶対(倒れることなんて)解らへんかった』って言ってますし…」と慰めて下さった。色々な方に心配していただき、慰めていただき、助けていただいて、申し訳ないと同時に感謝。
カウンタには、三津子の密葬を終えた挨拶状に添えた、ユキちゃんのポストカードがちゃんとプレートに入れて飾っていただいてある。
三津子の靴を「可愛い」と言ってクラークスで買ったことを教えて貰ったという事務の女性は、「あの後靴を買いに行ったんですよ」と言うので「足に合わせてインナーもちゃんと宛ててくれるし、いいでしょう」と言うと「ええ、履き心地もすごく良くて」と喜んでいた。そして三津子のことを「こんなにね、立派な先生なのに全然普通のいい方で…」と言われる。「そういう性格の人だったんでね…」と返しつつ、やっぱり涙が出そうになった。
処方箋いただいて会計をして出ると、曇天でポツッと時折雨が落ちてくる。薬局で薬を貰い、コンビニでガス代を払ってカップラーメンを買ってすぐ戻る。
新聞などを取って上に上がり、着替えて買っておいたハムタマゴドッグと、柔らかチキンとコーヒーミルクのボトルで遅い朝飯。

近畿地方は昨日あたり梅雨入りしていたらしい。
外は昼を過ぎたらすっかり一面の曇天で、さあさあと雨が降っている。京都の桜が終わり梅雨までの新緑のころが、一番俺たちが好きな季節だった。
そして三津子もこの時期に逝った。梅雨に入り、その季節も終わろうとしている。

君のいない暮らし、誰とも話さない日もある暮らしがもう50日近く続いている。確かに「日常」としてはもう慣れた。何か言っても笑顔や声のレスポンスはない。台所で簡単なこしらえものをして振り返っても、ソファに君の姿はない。
そういう生活そのものは何もせずとも過ぎていくものだし、確かに慣れていっているところはある。
でもこの部屋にはまだあちこちに、君の名残がたくさん遺されたままだ。それなのに、この部屋から君という存在だけがすっぽりと抜け落ちたかのように、ここに居ないということ。
それから無理に目を逸らして考えぬようにしているだけなのかも知れない。
陰膳をし、写真に話しかけ、わざと居るかのように振る舞う日常。
その「自分への嘘」に慣れてきただけだ。

やらなければいけないこと、ルーティンでやること、時間はそれなりに過ぎてはいくけれど、嘘で誤魔化さずに「君が、もういない」ということに真正面から向き合ってしまう瞬間があると、やっぱりまだ俺はダメだ。

だから無理に立ち歩いては思い出したように本の整理をしたり、出て来た原稿を封筒に入れて内容を書き入れたりしている。あちこちから大量の写真が出てくる。アルバムに貼られているものはまだいいが、未整理の写真が本当にあちらこちらから、しかも時代がバラバラで出てくる。
それらを時代ごとに整理していくような作業はとても一人で出来るものではないから、とりあえず写真は写真、とアルバムなどとひとまとめにしておくしか出来ない。でもそうして出て来た写真を見ていくと、その時代時代へ心が及び、現実を忘れる。
原稿や校正刷り、スクラップブック、水彩画などをひとつひとつ整理していくのも、膨大な時間と手間がかかる。けれども、やっぱりその時間は作業に没頭している限り、あの人が居ないという現実から離れていることが出来る。

もっとも辛いのはやはり、夜だ。
箱を降ろしたり、整理の物音を立てるのは近所迷惑だから、夜はそういう作業を控えざるを得ない。
いつもあの人が座っていたソファの空間を見ては、自然に自分の足元に視線が下がる。視線を上げれば目の前には花に囲まれた三津子の写真。そして旅行の時、夕飯を前に浴衣で小首を傾げておどけている写真。
真正面から「彼女の死」というとてつもない喪失感がぶつかってくる。
そうして彼女とだけ、向かい合う。
そんな日がもうずっと続いている。
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2009-06-09(Tue)

黙々と整理

6月09日(火)

今朝は7時頃目が醒めて、しばらく朦朧とした後、7時半頃起きる。外は薄曇り。
その後食欲が無かったのでサンドイッチでも買ってこようかと、8時前に着替えて出る。ポストにDMMのレンタルDVD返却分と、昨日書いた苫小牧の伯母さんへの手紙を投函する。
苫小牧の伯母さんは先日伯父さん、つまり俺の亡父の兄を亡くしたばかりだ。伯父さんが病床にある時、実は三人の息子たち…俺の従兄弟…の長男が急死した。その訃報は、病床にある伯父にはあまりにむごいということで、しばらく伏せておかれた。
遺された伯母さんの心中は察するに余りある。数少ない身内に立て続けに不幸が重なると、確かに、弱い人間ならもう生きていたくないと思うし、得体の知れない宗教にすがるかも知れない。俺も辛いが、伯母さんもお辛いだろう。

手紙を投函して、そのままコンビニでサンドイッチと昼用の小さなコッペパンにハムなどを挟んだやつに飲み物を買って戻る。サンドイッチを喰べながらBSでヤンキース対タンパベイを見る。試合の経過よりも、無音の中黙々と一人でものを食べる状況が嫌なだけ。

昼前にネットで三津子、やまだ紫の本を検索するが、ヤフオクではもう筑摩の作品集が高騰している。5冊セットだと3万近い値段をつけている人がいる。悪いけど「あざといな」とも思う。好きな作家だったら、その人が亡くなってしまったら余計に売れない、手放せないと思う。商売なのかも知れない。
楽天のオークションでは2冊しか出てなくて、そのうち「空におちる」も希少ながら450円と良心的な価格だった。
でも結局ヤフオクで筑摩書房の作品集の5巻『性悪猫/鈍たちとやま猫』だけ、これを3000円くらいで落札してしまう。
何でこんなことをしているのかというと、もう人にあげられる本がないからだ。特に筑摩の作品集はいつの間にか本当に数が少なくなって、中でも5巻つまり『性悪猫』の入った巻がほとんどない。(こういうことを書くと、また「商売」の人たちが値をあげるのだろうが)確かもううちで保存してあるのも2冊とかいうレベルだ。
それに本家の青林堂版はいつの間にか一冊だけあった初版はもうなく、あとは再版だがそれももう3冊しかない。いくら俺たちがお人好しでも、もう人にホイホイあげられる状況にはなくなった。

そう思って、やはり取り置きの本の箱が無いのはおかしいと思い、仕事部屋の押し入れを探した。力仕事は一人だときつい。腕力だけで重い箱を動かすのは重労働というより、もはや苦行である。汗が滝のように流れてぽたぽた落ちるので、貴重な本についてはいけないと思い、タオルで拭きながらの作業。
必死で箱を開けては確認し、違ったらいったん外へ出す…と繰り返す。
三津子のスケッチブックや、雑記帳、切り抜きのスクラップ、未整理の写真…。色々なものが京都への引っ越しの時に「とにかく持って行くものと捨てるものだけ分けよう」というので、雑多になっている。そしてそれらを見るたびに、どうしても三津子を想う。
箱を開けていくたびに、彼女との思い出、記憶に包まれる。不思議と悲しいというより、暖かな気持ちになった。
果たして、保存用にやまだの著書をまとめた箱があった。ちゃんと外側に「しんきらり・青」と書いてある。俺が会社で「断裁するなら持って帰る」と言って貰ってきた青林堂版の『しんきらり』の返本が十冊ほど。
当時筑摩書房から作品集が出ることとなり、同時に青林堂版は在庫の注文がはけたら絶版になることに決まっていた。青林堂は倉庫も小さかったし、絶版になった本をいつまでも積んでおくわけにもいかない。会社かあるいは倉庫に資料として数冊あればよく、返本の結束は不要だというので、数百あった在庫で綺麗なものを在庫として売り、残りは断裁(古紙業者へ処分すること)するという。なので、その中からひと束貰って帰って来たのだと記憶している。
当時はずーっと田端に青林堂の倉庫があったのだが、そこの社長がもう年で、やめるということになって、板橋の蓮根に倉庫を見つけて移したあとだった。そして俺はそこから徒歩5分くらいのところに、三津子と暮らしていた。

押し入れから出て来た箱からは、筑摩版の作品集も何冊か出て来た。3巻『しあわせつぶて/金魚の殿様』と4巻『はなびらながれ/陽溜りのへやで』が数冊ずつ。しかしもっとたくさんあったはずの1巻『ゆらりうす色/Second Hand Love』、2巻『しんきらり』や5巻『性悪猫/鈍たちとやま猫』が見つからない。ということはもう、今二階の保存用の本棚にある以外、やはり手元には無くなったのだ。とすると5巻『性悪猫/鈍たちとやま猫』は本当にもう我が家には2冊しかないということになる。落札分をいれても3冊だ。
ひとに「どんな作品書いてるんですか?」と聞かれ、言葉を濁しているうちはいいが、成り行きで本をあげなくてはいけない状況になることがある。
そういう時に作家は本当なら「注文して本屋さんで買って下さい」と言えればいいのだが、いや、作家は本当にそれで食ってるわけだから、そう言うのが正しいのだと思う。けれどもお人好しにもホイホイ贈呈しているうちに、手元には気が付いたら一冊とか二冊しか無くなっていたりする。
とにかくもう人に本はあげられないな、と思った。俺が守っていかねば貴重な彼女の足跡が無くなってしまう。
だが彼女の本はいずれ新しく必ず復活させる、けれども「その時のそのかたち」の本はもう二度とない。それに全ての著作が復活される保証はない。

箱から出て来たのはかろうじて筑摩の作品集が5巻ひと揃い、あとは貴重な絶版の書籍がほぼ全てだが、たくさんはない。そうだ、引っ越す前のマンションの納戸に、「これだけは死守しよう」と二人で一番上に置いたのがこれらの本だった。
これと今二階の書棚に保存してある分を永久保存用にすればいい。
これは俺の財産でもなければ二人の娘たちのものでもなく、やまだ紫という作家とそのファンのための、漫画界、出版界の財産だ。保存する義務がある。
いずれは俺もそう遠くない日に死ぬ。
そうなった後のこういった「財産」の管理をいったいどうしてもらえば良いのか、実はまだ解らない。二人の子らは娘だから家を出て他の家庭を持ち、守る立場にある。そこへ貴重な書籍とはいえ、けっこうな量の本や原稿を保管してもらうというのは無理な話だ。
嫁に行った娘に子々孫々作品や原稿を受け継いで行けというのはある種の暴力だろう。そう考えると、原稿と著作権(の財産権)ごと、心ある版元なり美術館なり教育機関なりへ引き取って貰い、管理をお願いした方がいいような気もしてくる。

とにかく、著作はひと通り押し入れや納戸からは出そろったので、あとはゆっくり二階へ上げて行こう。いっぺんには無理だし、どうせ一人でやるしかないのだから。
一息ついたら、4時間以上経っていた。


それから新たに出て来た三津子の原稿や校正などの整理をする。何かが出てくるたびに、新しい封筒に入れて表に解る範囲で何の原画か、あるいは何の校正かを書き入れる。掲載誌であれば雑誌名や発行年月日も書き入れる。気が遠くなるような作業で、やはりこうしていたらとても8月の引越など無理だった、と改めて思う。

途中、いったん休憩がてら宅急便で届いていた額の箱を開けた。ちょっと前に注文しておいた額が入っている箱だ。

三津子が死んだ、あの日の夕方。俺がいったん家に戻ったら、猫のご飯置き場の上にかけてあったジローの油彩画が下に落ちていて、木製の額が壊れて絵がはみ出していた。
あのことがどういう意味なのか、いまだに解らない。
前の日に、「ママが迷わないように連れて行って貰おう」と、子供たちと祈った。ももちゃんも「ジローにもお願いする」と言っていた。その翌朝に三津子は逝った…。
そして俺の目の前にジローの額が落ちて壊れていたのは、どういう意味だったのだろう…。

ジローの額とにかく、ジローの絵をそのままむき出しにしておくのは忍びなく、壊れた額をくっつけてそれに収めておいた。けれどずっと気になっていたので、額縁を探して注文しておいたのだった。
ジローの油彩画は「F0号」という小さなものだ。でも注文した額は思ったより大きな箱で、一瞬間違ったのかと思ったほどだった。しかし絵を入れてみると、たいそう立派になった。
もともと三津子の油彩はあっさりとした、水彩のようでいてそうではない、不思議な魅力のあるいいタッチだ。だけど、この絵は割と油彩ぽいというか、けっこう「盛ってある」感じがする。あの人が最も愛した猫、ジロー。立派な額に入って、また部屋にかけることが出来て良かった。

それから畳んだ段ボール類と燃えないゴミの袋を持って下へ降り、戻りがけにポストを覗く。
津野さんから『鱗粉薬』の増補改訂版が届いていた。装丁も造本も綺麗で、とても瀟洒な本だった。
中に津野さんから手紙が入っていて、これがあの復活青林堂から出た時は、お金を全然貰えなかったと書いてあった。どんな形であれ作家は作品が世に出ることが素晴らしいと思う、だが、作家に対価が払われないというのは論外だと思う。
いずれにしても、今回ほんとうに素晴らしい形で「復活」したのは、本当に良かったと思う。
あとは三津子のアシスタントをよくやっていただいた、漫画家の宮脇要子さんからも手紙が来ていた。事情があってよく関西方面へは来るそうだ。「やまだ先生にお焼香をしたいと思うけれども、まだその気持ちになれない」と言う。
俺も、誰かに焼香に来てもらう気持ちにはなかなかなれなかった。出来ればそっとしておいて欲しい、そうずっと思っていた。
旧知の編集者であるSさんが焼香に伺いたいと言って下さった時は、最も人に会いたく無い状態だったのだが、こちらには三津子の本を遺すという意味で何かいいお話が出来ればとも思った。
絶対にこのまま、やまだ紫の本を品切れのままにして死ぬわけにはいかない。
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2009-06-08(Mon)

吉田アミさん「マンガ漂流者」

webDICE!の「骰子の眼」で『マンガ漂流者(ドリフター)』を連載されている吉田アミさんが、やまだ紫について3回にわたって書いて下さいました。

webDICE - 骰子の眼 - 『マンガ漂流者(ドリフター)』第3回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【前編】
webDICE - 骰子の眼 - 『マンガ漂流者(ドリフター)』第4回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】
webDICE - 骰子の眼 - 『マンガ漂流者(ドリフター)』第5回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【後編】

三津子いや、やまだ紫が亡くなってから、彼女の訃報が新聞やメディアに掲載された後、色々な方からメールをいただいたり、当ブログにもコメントを寄せていただいて、本当に感謝しております。
彼女が亡くなったことが公になってから、すぐに主な検索サイトでやまだ紫のことを調べる日々が続きました。調べるというより、彼女がどう思われていたか、どう評価されてきたのかを、確かめたかったのです。
その中で、吉田アミさんの連載はすぐに自分も目に留めて、全て拝見しておりました。

実はここでそのことをご紹介しようかと、迷っていました。
色々な方がそれぞれに「やまだ紫」を悼み、慕い、尊敬をして下さり、また救われたと感謝をして下さっていました。そういう方々のサイトを逐一ご紹介するのは大変な作業ですし、漏れた方が出ればそれはまた変な誤解を生むでしょうし。

けれど先日来、複数の方から「ここにやまだ紫評が載ってますよ」と、吉田アミさんの連載を教えていただき、それだけたくさんの方が納得できる内容であるならば、では知らない方がおられれば読んでいただきたいと思いました。
自分が常々、やまだ紫について思っていたこと。書いてきたこと。声に出してきたこと。
そのほとんどが、整理されて、俺なんかよりももっと的確に書かれています。
たった一つだけ、俺が付け加えて言いたいことがあるとすれば、吉田さんに対してではなく、世間に、いや出版界・漫画界に対して
「生きているうちに、なぜもっと評価しなかった?」
それだけです。
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2009-06-07(Sun)

明青さんへ行けました

6月7日(日)

夕べはBSでサッカーW杯予選、日本対ウズベキスタンの試合をやっていたので、薬を飲み二階へ上がってからベッドで見た。試合は見始めるた時にはすでに日本が1点を先取していて、その後は相手の猛攻をひたすら凌ぐという展開だった。前半が終わったところで導眠剤が効き出して、そのまま寝てしまった。

今朝は8時ころ目が醒めた。
朦朧としていて、やはり夢も見なかった。いや見ていないわけはないので、覚えていないだけだ。
三津子に夢の中でもいいから会いたい…とずっと呼びかけているが、なかなか出て来てくれない。5日ほど前だったか、最後にゆうちゃんから電話があった時に、「うちにママがいる気配が全然ないから、きっとちかちゃんのところに居るんだよ」と言っていたが、こちらは最初のころはよく弱音を吐けば音を立てて叱ってくれたり、色々と不思議なシンクロを体験させて「わたしは居るよ」と教えてくれたのだけど、最近は何だかそういう気配もないようで寂しい。
彼女の四十九日が近付くにつれ、少しずつ「向こうの世界」へと行く準備をしているのか。
時々振り返り振り返り、歩んでいるのか。
でも四十九日という「区切り」も、いわゆる仏教が決めたものではある。四十九日を過ぎたら「向こうの世界」へ行ってしまい、お盆以外には戻ってこないなんて、あんまりだという感情もある。
あの人は正しく生きた人だ、人を騙したり謀略で陥れたり、自分の利益のために人を不幸にしたりなど、絶対にしなかった。むしろその逆に、あれこれ世話をした人に踏みつけにされ、ある女性作家には自分が仕事中に話したエピソードを盗まれ、挙げ句陰では嘘ばかり吹聴された。俺もそれは傍で見ていて知っている。
ほんとうに、「バカ正直」で「クソ真面目」だけに、小ずるい連中にはいいように手玉に取られたと思う。
自分の立場を相対的に高めるために、お世話になった人を悪し様に言う、そういう恩知らず、いや「鬼畜」が、世の中には本当にたくさん存在するということを、彼女を通して知った。
だから彼女の魂は凛として高潔なまま、旅立つはずだ。もし仏教のしきたりというか教えが正しいのなら、彼女はきっとすぐに仏様になってたくさんの人を救うだろう。

ふたりが知り合って一緒に暮らすようになった頃、あの人は俺のを見て目を潤ませながら、
「あなたは神様が私にくれた宝物なんだよ」と言ってくれた。
そのとき俺には彼女がそう言ってくれる深い意味はよく解らなかった。若かった。未熟だった。
けれど俺はすぐに「あなたこそ、俺にとっては女神様だよ」と言った。
今ならとても言えない台詞だろうけれど、蜜月時代だった当時、ふたりで本気でそう言い合った。
冗談ではなく作り話でもない、だいたいがこんな甘ったるく恥ずかしい話を今まで人に、いや子ども達にすら話したことはない。

いま、彼女がまさしく俺の人生において女神のような人であったと、実感している。
いつも俺の心配をし先回りをし、そして守ってくれた。今もきっと。
けれど俺が彼女の「宝物」としてずっといられたのかどうか、それを考えると切ない気持ちで一杯になる。
もっともっと愛せたのではないか。
この気持ちは、彼女が倒れてからずっとずっと、一瞬たりとも頭から離れたことはない。
きっと今後も、死ぬまでの残りの時間をずっとそう考えて過ごすと思う。

あの人がベッドで意識を失って十日目、長女のももちゃんから、「ママが暗いトンネルの中を迷っている夢を見た」と聞いて、子どもたち二人と「迷わずに明るい方へ行きなさい」と祈った。
その後、カーペンターズの「Only Yesterday」がずっと俺の頭の中で響いていた。その時、歌詞の意味はよく知らなかったが、どうしても我慢出来ずに翻訳を調べた。
その意味を知って、俺は彼女が迷いを捨て、旅立つのだと確信した。

その翌朝、彼女は逝った。


小説でもドラマでも映画でも何でもない、本当にあった出来事だった。
それ以来、ずっと「Only Yesterday」の歌詞と対訳をプリントしたものを傍の壁に貼ってある。時々それを眺めて、彼女のメッセージを噛みしめる。
もう二十五年近く前に、団地で、彼女が俺に言った「あなたは私の宝物」と言ってくれた言葉の意味を、この「Only Yesterday」の対訳を理解してはっきりと感じた。
理解するのがずいぶん遅かったけど、三津子は俺のことをそう思っていてくれたのだ、本当にありがとう、と心から感謝した。
ということは、やっぱりあなたは俺の「女神様」なのだとも思った。
でも「神」と呼ぶのか「仏」と呼ぶのか、いずれにしても、彼女はもう俺だけのものではなくなり、たくさんの人たちを救う本当の女神のような存在になるのだろう。
いや、実際にやまだ紫はその「作品」で、いったいどれほどの人たちを救ってきたかと思えば、最初からそうなのだったかも知れない。

今日の京都は薄曇りに時折青空が覗く、おだやかな天気だ。
9時前に朝飯は冷凍していたご飯を温めて中華丼の具をかけて食べた。レトルトやインスタントや買ってきた弁当や総菜類ばかり…と思うが、三度の食事をたった一人のためにその都度作らねばならないとなると、当然同じようなものを続けて食べることにもなる。だいたい一人の食事を三度三度作る方が、体力・労力などを加えて考えると実際は不経済な場合も多い…と納得している。

その後はBSでヤンキースとタンパベイの試合をしばらく眺めていたが、ユキがソファの背、俺の頭の上ですやすやと寝てしまったので、こちらもそれを見ているうちに何となくうとうとしてしまう。
猫たち、シマの方はもう一日のほとんどを二階のベッドで過ごし、ユキもこうして下に来ても寝ていることが多い。
俺が仕事やいろいろな雑事をこなしたり、記録のためにこうしてパソコンに向かっている時間が多く、「ママ」はいない。寂しいのだと思う。

お姉さんからはもう枇杷の種が届いたとメールが来た。「久しぶりにお母さんとゆっくりしてください」とも書いてあった。


夜9時前、さっき帰宅した。

4時ころにお袋から電話があり、うちへの道順を説明した。その後苔玉に水をあげたりするのでベランダを開放し、ユキが出たりしたのをカメラで撮ったりした。天気が良くいい陽気の中、ユキがベランダに出てバケツの水を飲んだりしている。のどかな光景だ。
その後お袋から「タクシーに乗った」と電話があり、三津子が居た時にはいつもそうしていたように「もうそろそろかな」という時間にベランダの手すりにひじを載せて道路を見下ろしたり、山の緑を見たりしていた。頃合いになるとヤナセの前にタクシーが一台停まり、お袋が降りてきた。
電話してそのまま来た方向へ歩くよう言い、内科の隣のマンションだから入口にいてと言ってマンション下に迎えに行った。エレベータの中でお袋が「しかしねえ…」と溜息をつくので「まだ部屋入ったら居そうでしょ」と言うと「ウン」と言っていた。

それから1時間ちょっと、いろいろと話をした。
お袋は自分のことをあまり書くなというので、簡単に事実だけ記録しておく。

その後5時半を過ぎ、歩いて明青さんへ向かう。
明青さんに上がって行くと、すぐにおかあさんが気配で出て来てくれた。奥の小上がりの部屋ではなく、カウンタの一番奥の四人掛けに席を取ってもらっており、入口を背にするかたちで俺が座り、奥にお袋に座って貰った。

俺が写真を持って行くとお伝えしてあったし、明青さんのはからいで、カウンタを背にするかたちで三津子の席も用意してくれていた。そこへ小さな額を立てて、陰膳にする。
三津子にはいつもの日本酒、俺もいつもの生、お袋はちょっとでいいというので小さなグラスに生ビールを注いでいただいた。そうして三津子の写真と箸の前に、お酒が注がれた小さなぐいのみが置かれた。
これは明青のご主人のお兄さんが作られたガラス工芸作品で、我が家で三津子が愛用していたものと同じく底に金泥が入れ込んである、美しいもの。我が家のよりも一回り小降りで、それが小さな写真の三津子によく合う。

ビールで三津子の写真の日本酒とまず乾杯した。
お袋の思い出話などを、明青のおかあさんが立ったまま相づちを打って聞いて下さった。詳しくは書かないが、本当に感謝しています。
三津子がずっとずっと気にしていた、比叡山で買った切れた水晶の腕輪(「比叡山へ登る」)もお預けした。「これ直さはる方がお客さんで来られるから、お預けしときます」と言って下さる。

それにしても、やっぱり明青さんの料理は美味しい。京都の季節のもの、はもおとしを梅肉でいただいたし、お造りのホッキもシャキシャキだった。三津子の好きだったサザエの壺焼きなども頼んで、後半はけっこう日本酒を飲んだ。
9時半過ぎにタクシーを読んでいただいて、俺が先にマンション前でおりて、手を振ってタクシーがUターンするのを見送った。

三津子の死後、明青さんに初めて伺った。
良かったと思う。
明青さんのおかあさんと、ご主人の抑制の効いた心配りが本当に有り難いと思った。

お袋とここ数年会ったといえば、俺が白血病で一時退院したあの日。それから、去年京都へ招いた日。そして、今回。
悲しみと喜びとが交錯し、最期はこんな深い悲しみの中でというのは、本当に我が身を呪う。けれども俺がここで三津子の後を追うように死んでしまっては、やはりまた新たな不幸を産むことになるとも思う。
肉親というのはやはり、無条件で有り難い存在であると思う。
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2009-06-06(Sat)

一人で河原町へ

6月6日(土)

夕べは映画のDVDを見た後日記をつけて、12時過ぎに寝た。
昼過ぎ2時、部屋にいると暑いのでクーラーをつけている。ちょっと動いただけで汗が出る。
朝は8時過ぎに下の電話が鳴ったので起こされた。外はうす曇り。電話はお袋からで、飛行機に乗るのが何時だという連絡。朦朧としたままトイレ、洗顔。今日はやることが一杯ある。
まず下の階の全ての電気をつけて、掃除機(ダイソン)をえっちらと持ち出し、手前の衣装部屋から順番に掃除機をかけていく。猫の毛が綿埃状になったものが多くて、それに爪研ぎの段ボールくずが混じってすぐに集塵ケースが一杯になる。吸引力と音は確かにもの凄い。だがうちの場合は「ゴミ」というよりは猫の毛が多いので、特殊なのだと思う。
一階を終えて階段から二階に掃除機をかけているうちに汗だくになり、着ていた肌着のメッシュTシャツで汗を拭く。メガネも汗で水を被ったようになっている。掃除機がけを何とか終えて、それから今度はダスキンの床拭きモップで細かいゴミなどをよく取って、ベランダ側の奥の部屋からクイックルワイパーで床掃除&ワックスがけを同時に行う。
これはかなり腹筋やら腕力を使うので、作業的にはかなりきつい。病身には堪えるが、ここしばらく掃除をろくにしていなかった。あちらこちら動くたびに綿埃が舞う、という状態だったから、健康上も良くなかったろう。
それらを何とか終えて少し休んでから、シャワーを浴びた。
外を見るとカッと太陽が出て青空が広がっている。ここ数日が梅雨入り前の最後の晴天かも知れない…と昨日天気予報で言っていた。ベランダの苔や枇杷などに水をやり、やれやれと思ったら10時半になっていた。

今、テーブルの上には三津子の遺影と花、そして夜には陰膳を置くのが習慣になっている。けれど好きだった小物や、いつも持ち歩いていた大学の手帳や研究室の鍵、財布やメガネ…といったものをまとめて置くところがない。
そもそもが我が家には昔から仏壇というものはなくて、その時その家でタンスの上や棚の高いところなどを「ほとけさま」と称して、ご先祖様の写真や仏様の写真や線香立てを置いて、手を合わせていた。
今はリビングのテーブルの上に、三津子の大きな写真と花にお茶やお酒を置いている。その背面の壁際に手帳類と飾り棚の上に「仏様」のお水と線香立て、さらにその上の壁面の飾り棚に三津子のメガネや財布、その上に三津子の小さな額装された写真と技芸天様の写真…と、位置関係が無宗教の自分が見てもバラバラになっている。
かといって仏教徒でもないのに仏壇というのも仰々しい。
日本人は仏教徒であると無自覚に思い込んでいる人が多いようだが、では果たして「檀家」としてのお勤めをちゃんと果たしている人がどれだけ居るか? と思う。田舎はそういう結びつきや習慣は守られているところが多いが、都合のいい時だけ「供養」とか「仏教」を持ち出す人も多い。
ネットで検索すると、今は小さな「メモリーステージ」とかいう仏壇みたいなものも売り出されていて、マンション家庭や若い人に好まれているらしい。けれどどれもやっぱり宗教ぽいというか、まあ仏教徒でいう「仏壇」ぽいものばかりだ。そういうものを置いて何となく亡くなった人への言い訳にしている感もある。
うちでは仏様用の線香はあるのだけど、部屋やトイレ用のお香が切れたのと、仏壇とは言わないがせめてちょっとした小物を整理できて上に遺影も置けるような小ダンスはないかな…と思い、とにかく一度買い物へ出ようと決意した。
洗濯物を洗濯機に入れて乾燥までかけてから、着替えて外に出る。
いつも三津子が行っていて、二人で何度かお世話になった美容室の前を通り、中をチラと見る。この美容室はナイスガイの兄弟で経営されていて、いつも俺の髪を切ってくれていた弟くんの方が俺と目が合うと走り出てきた。
「どうも、この度は…」と言ってくれたので、俺も最初は笑顔で「本当にね、急だったんで…」と言うが、弟くんが「いやでもほんまに、あのハガキいただいて、頭真っ白になって…。やっぱりね、白取さんはウチの最初のお客さんやったんで、特別な方やったもんですからもう…」と聞くと、思わず目が潤んでしまった。
「もう一ヶ月経ったんだけど、まだやっぱり辛くてね…」と声が震える。本当はお客が居なかったら、だいぶ伸びた髪を切ってもらおうと思ったのだが、通りすがりに見たらお客さんが一人いたので、「また、髪切って貰いに来ますから」と頭を下げた。弟くんも「ぜひぜひ、いらして下さい」と最敬礼してくれる。
あの店が出来る前の内装段階から、三津子と俺は通りかかるたびに「美容室だね」「どんな感じだろうか」と話していた。そうしてオープンしたその日に三津子はシャンプーをして貰いに行ったのだが、それがあの店の最初の客だったというわけだ。
何の副作用か、あるいは皮膚病か、毎日頭を洗わないと髪がギトギトになりかゆみが出るため、それから三津子はよくこの美容室にお世話になった。
「いい子たちだよ、ナイスガイで。あなたも一緒に行こうよ」と言われて、夫婦で並んで髪を切ってもらったこともたびたびあった。それだけに、俺が一人遺されてからあそこへ行くというのは、やっぱりまだ辛すぎる。隣であの人が笑顔で髪をセットしてもらっている映像がリアルに浮かぶ。
弟くんと別れて、そのまま郵便局横のポストまで行き、お姉さんへ送る枇杷の種が入ったエクスパックを投函した。スーパーの前でタクシーを拾い、寺町御池まで行ってもらう。
この頃にはもう外は30℃近かったのではないか、タンクトップ一枚の男が自転車で川端を疾走していたりする。二人でタクシーに乗って、この道をいったい何十回通っただろう。京都へ来たのが一昨年の秋、まだたった二度目の夏だけど、やっぱり密度が濃かった分、思い出がありすぎて車窓から見る景色が辛い。

御池通り、寺町三条へ下がるアーケードの入口脇で降ろしてもらい、鳩居堂へ行く。
「のどか」という、うちでリビングやトイレに使っているお香の小さいのを2箱と、金属製のお香挟みも2つ買う。今の陶器皿のお香立ては真ん中が盛り上がってお香を差す穴が開いてるのはいいが、その穴でお香が消えると、ひっくり返さないと燃え残ったお香が取れない。なので結局金属製のお香挟みを皿の上に立てて置くのが一番楽だ。(レシートを後で見たら11時12分だった)
それらを入れた袋を下げてつらつらと寺町を下がる。
一人でここをぶらぶらすることがあるなんて思わなかった。いつもいつも、ふたりだった。額縁を見たり、お寺で賽銭を投げて手を合わせたり、ウィンドウショッピングをしては笑顔で語り合った。パチンコをしたりもした。でも、今は一人だ。
観光客らしい若い女がピッチリしたジーンズで腰をかがめて、本能寺の山門を写真に収め、少し前方で振り返って待つ「旦那」にしては年配、恐らく「パトロン」と思しきおっさんの方へ駆け寄って行った。ミュールだかサンダルだか知らないが、「バッカバッカバッカ」ともの凄い靴音を、文字通りバカみたいに通りに響かせながら走って行った。

三条へ出て左つまり東へ折れると仏具店があるのは、前から知っていた。三津子といつも通ったのだけど、通るたびに、ショーケースの中に並んでいる木彫りの精巧な仏像を二人で眺めたものだ。
「良く出来てるね」「いいお顔だね」と話し合った。「でも高いんだろうね」とも話して、いつも見るだけだった。
その店へ初めて入って、何気なく仏像を見る。
柘植や白檀を彫って作られた仏像はどれもいい出来だけど、やっぱり高いなあ…と思った。なので店員さんに立体的な仏像ではなく、手のひらに載るくらいの水滴型の木に仏様を彫ったものの、千手観音様を見せて欲しいとお願いする。それだと4000円弱くらいで安い。三津子は子年生まれなので、守り本尊様は千手観音様だ。
そのガラスケースを開けてもらう間に何気なく別の棚を見ると、高さ6〜7cmほどで、精巧な手彫りの千手観音座像が目に入った。
これだと三津子の写真の傍に立てられる。値段を聞くと3万円ほどだったが、これだけの出来で3万円なら安いと思ったので、いただくことにした。さらに、今俺は自分の左腕に比叡山延暦寺で買った黒檀の数珠をしているが、三津子のために、白檀の数珠をもう一つ買い、それはその場で同じく左腕に重ねてつけた。
綺麗な千手観音様をいただけたので何となく気持ちが楽になり、久しぶりに河原町へ抜けた。三津子が倒れてから、河原町を散策するなんてもちろん初めてのことだ。
河原町へ抜ける手前のサークルKでガス代を払ったレシートの時間が11時31分。日射しはいよいよ強く、真夏を思わせるようなまぶしさで、猛烈に暑い。
河原町のアーケードをそのまま南下し、六角を過ぎたところにある上島珈琲へ入る。
ここも三津子と何度か来たところだ。
カウンタでクロックムッシュと黒糖アイスコーヒーを頼んで、コーヒーだけを受け取って入口の一番近くの二人掛けに座る。レシートは11時36分。この席にも何度か座ったことがある。もちろん向かいには三津子がいつも居た。
出来たてのクロックムッシュが運ばれてきた。噛むとザクッと焼きたてのパンが香ばしく、熱々のチーズとハムが絶妙の味になっていて、うまい。考えたら一人で外食なんて久しぶりだった。
観音様とお香は買ったから、あとは…。
食べながらしばらく考えて、店を出てから来た道を逆に戻る。御池を渡って、市役所の裏側の寺町通りを歩いた。このあたりはアンティークショップやしゃれた小道具を扱う店が多く、ここももちろん夫婦で何度も歩いたところだ。ホコリの積もったどうでもいい陶器を店先に並べているやる気のない店も、ちゃんと奥へ入ってじっくり見ると、安くてなかなかいいお皿があったりした。夫婦でささやかな楽しみに、そういうところで二人が気に入ったものを買ったりした。
寺町通り沿いの、いつも通っては何となく足を止めてしまい、それでも中には入ったことの無かった家具店を覗くと、木製でB4くらいの大きさだろうか、引き出しが4つついた小ダンスを見つけた。
まさしく「こんなのないかな」と探していたものだった。
思わず中に入って値段を見ると、6000円くらいと手頃だったので、出て来た店の女性に下さいと告げる。幸い在庫もあり、大きな紙袋に入れて貰った。
それをぶら下げて河原町へ抜けると、荷物もあるせいか、大変な暑さと汗だくになった。信号待ちをしていたタクシーを拾い、マンション前まで帰った。

帰って来てすぐトイレへ行き、お香とお香立てをセッティングした。それからリビングの三津子の写真周りを片付け、買ってきた小ダンスを取り出し、意外と変な木くずやカスがついていたりするものだから、一回外側を濡れティッシュで綺麗に拭く。
それからその小ダンスの引き出しの中に、三津子が気に入っていた『宝石箱』の中身を整頓して行く。
『宝石箱』といっても、ちょうつがいの壊れた安物の木製の寄せ木細工もどきの小箱で、中には若い頃に買ったネックレスや指輪、ピアスやブローチなどが雑然と放り込んであるだけだ。
高価なものはほとんどと言っていいほど無い。でも、その時々にブランドや値段ではなく、彼女が「これ可愛いな」「これ欲しい」と思い、なおかつそれが手の届く価格の範囲だったものが入っている、彼女の『宝石箱』だ。
他人から見ればゴミのようなものだろうが、俺にとっては文字通り彼女の大切な『宝石箱』で、俺の大切な彼女の愛したものたちが入っているのだから、俺にとっても大切なものなのだ。
小ダンスの引き出しの中に、厚紙を探してきて山折りをいくつか作り、仕切りにした。
その山と山の間の平面に、ネックレスをそっと並べていく。大振りなものや、彼女が身に付けているのをあまり見たことのないようなものは、その下の引き出しの底に鳩居堂の包み紙を丁寧に敷いてから、並べていく。
「こういう作業ってさ、俺って本当に天下一品だと思うよね…」
自分でそう言いながら、今日買ったばかりの箱が、見る見るうちに三津子の宝物を収めるものに仕上げていく。
「遺品」というには余りに安い、それでもかけがえのないものたち…一つ一つを『宝石箱』から取り出していくうちに、「高いものなんか、本当に自分で買ったことなんかないんだな…」と思った。彼女がとてもいじらしく思えた。
俺が買ってあげた、大して高価でもないものを気に入ってくれて、最後まで身に付けていてくれた。それらは子供たちにもう渡してある。
そうやって整理していくとやがて『宝石箱』はカラになり、最後に何か残っている。よく見るともの凄く小さなネジが2つ、箱の底に転がっていた。そのネジは、寄せ木細工もどきの安物の『宝石箱』の上蓋と箱をつなぐ、ちょうつがいのネジだった。左右二つあったちょうつがいは左側が壊れていて、箱の蓋を開けると右側に大きく傾き、取れそうになって何年も経つ。
こんな安物の小箱をここまで大切に使って、中に入っていたものも安物ばかりだ。それでも、中のものたちにも、この箱にも、あの人の気持ちが一杯に詰まっている。

この箱を直そう。
そう思って、メガネのネジを廻す微細なねじ回しを持っていたので、小箱のちょうつがいに突っ込んで廻してみた。ネジ穴がバカになっているのか、最後まで廻しても、ずっと空回りするだけだった。けれども、カラになった箱の底にあった二つのネジ…彼女が大事に取っておいたネジは、ちょうつがいにキチンと二つとも収まった。それで箱が普通に開閉できるようになった。
三津子の笑顔が脳裏に浮かんだ。
それから、今日買った小ダンスの一番上の引き出しにお香や数珠などを入れて、順番に彼女の大切にしていたアクセサリを収納していき、一番下のちょっと深い引き出しには、手帳などの遺品を入れた。
それから小ダンスに布をかけて遺影を置き、その前に線香立てを置いて、横には千住観音様を並べた。
そうして改めて手を合わせて、線香をあげた。
立派な仏壇はないけれど、君が大切にしていたものがここに詰まってる。そう思うと心が温かくなる気がするよ。

その作業の途中、東京の烏山団地でご近所だったという、三津子の友達のMさんから電話があった。
かって書肆水族館で開催した「やま猫展 ?」に来ていただいたというから、俺も恐らく顔を合わせてはいるはずだが、お互いに覚えていなかった。俺から届いた三津子の訃報を読み、信じられず、ショックで、電話をかけてくるまで一ヶ月かかったと言っていた。
三津子の二人の娘であるももちゃんやゆうちゃんがまだ赤ん坊で、お姉さんの子どもさんが…、ということも話していた。俺の知らない時代の三津子を良く知る人で、京都へ転居した後も「遊びに来てよ」と言われた、とのことだった。

三津子はやっぱり夫婦二人っきりで京都に越してきて、寂しかったのだと思う。
母や姉、娘たちや友達とも遠く離れ、知り合いも関西にはほとんどいない。寂しかっただろうと思う。
俺など、もともとが田舎者だから故郷を出て東京や千葉を何カ所か転居し、それから彼女と一緒になった。だから寂しいとかそういう感情は余り持ったことはない。でも彼女は東京で生まれ、ずっと東京で暮らした。良きも悪しきも、思い出は全て東京にある。

Mさんとは電話で、三津子の最後の様子を突然のことで本人もほとんど苦しまなかった…と少しだけお伝えし、それから京都での生活はとても穏やかでお互い幸せでした、と話した。

その後、やはりどうしてもご先祖様の写真額が一番高いところに並んでいるのが気になり、まず額を外し、技芸天様の写真を一番高いところに飾った。それからその隣に、お袋が送ってくれたマリア様の小さな写真の額。次にこれまで技芸天様の写真と三津子の小さな写真額を置いていた飾り棚の上に、ご先祖様の写真額を並べて置いた。その飾り棚の下に三津子の小さな額。そしてテーブルの上に、遺品を収めた小ダンスと遺影、そして花。
それらを入れ換えたあと、ソファに座って壁を眺めて「ああ、良くなった。良くなったねえ…」と言いながら手を合わせた。
写真も撮った。宗教的に仏様やマリア様をいっしょくたにし、さらに仏壇すらないのに線香だの何だのというのは滅茶苦茶だろうとは思う。
しかしそういう仏教の側だってやれ分骨はいけないとか、戒名は長い方がいいとかいろいろ形式を言うくせに、お釈迦様はあちらこちらに分骨されているし、戒名だって全ての人がたった三文字と決められている宗派だってあるではないか。
「宗派」によって細かな「解釈」が違うのは構わないが、基本は宗派どころか宗教が違っても同じなのではないか。

右側にあるのが千手観音の木像「神」や「仏」という「大いなる存在」を認めて敬う心を持つこと。
亡くした人、ご先祖様や愛した人を偲び、忘れずにいてあげること。
心からそういうことを信じて、真摯な気持ちで何かをする人を、端から見てこれはいかん、それは間違ってるなどと言う方がどうかと思う。俺は、そう思う。ましてや「ちゃんとしてやるから」と言って大金をねだる新興宗教や詐欺まがいの宗教など、何をか言わんやだろう。

三津子が一番好きだった秋篠寺の技芸天様と、油彩画のモチーフにも選んだマリア様の写真。その下にご先祖様の写真。そして三津子の写真が好きだったものたちを収めた小ダンスの上で、花に囲まれている。
俺はこのかたちが一番、こちらの心も安まると考えたからそうしている。


夕方4時半ころ、お袋から電話が入った。
携帯から4時ころメールをしたが行ってないかというので、来てないという。京都に着いたが団体旅行なので予定があって今日は動けないという。
明日、明青さんに行こう、と話す。
その後明青さんへ電話をすると旦那さんが出たので、明日「三人」で伺いますと予約を入れる。俺が「泣いてしまって他のお客さんにご迷惑になるかも知れないので」と言うと、旦那さんは明るく「大丈夫ですよ!」と笑って下さる。人前でメソメソしたくはないが、一ヶ月も経つのに、いまだに朝美容室の弟くんとちょっと話しただけで涙目になった。いつも二人で座った明青さんのカウンタで泣かずにいられる自信が、全くない。
自信がないどころか、確実に泣いてしまうに決まっている。
三津子と二人で何度も何度も通った、階段を上ってドアを開けるとご主人とおかあさんがいつも笑顔で俺たちを迎えてくれた。いつもいつも、二人だった。俺の隣には必ず三津子が居た。
それなのに、もう二度と彼女と並んで「おいしいね」と言い合うことがないなんて。
そう考えただけでもう、滂沱の涙が流れ出す。こんなことではタオルか箱のティッシュでも持って行かねばならない。

その後6時前に、A3の用紙一杯に思い出の写真を配置したのを出力してアルミフレームに入れた。京都へ来てから、色々なところへ出かけた、飲みに行った、旅行へ行った…そんな思い出の写真を散りばめてフレームに入れた。
それを見てやっぱり泣けてきた。これはいかん…。と思った。
二人で旅行へ行った時にタクシーの運転手さんに撮ってもらったツーショット。
遠慮がちに俺に寄り添い、笑顔の三津子。
家のソファでシマの首に顔をうずめて幸せそうな三津子。
明青さんのカウンタでおどけた表情を見せる三津子。
チューリップ畑の前で困り眉で微笑む三津子。
旅行先の旅館のご馳走を前に小首を傾げる三津子。
孫の肩に手をかけて笑顔の三津子…。
いい顔だな、と思う写真はどれも、裏返せばもう絶対に見ることの出来ない光景なのだ。フレームに入れて壁にかけたはいいが、見れば見るほど、幸せだった思い出が蘇って現在が辛くなる。
寂しい、ほんとうに寂しい。
振り返ってもソファに君の姿はなく、もう二度と俺の前に現れることがないことも知っている。
一ヶ月以上が経つのに、俺だけ時間が停まったままだ。
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2009-06-05(Fri)

月命日

6月5日(金)

夕べは12時半をまわってからようやく寝られた。シマはずっと俺の脇のベッド、つまり三津子がいつも寝ていた場所に敷いた毛布の上でごろごろ言いながら丸くなり、珍しくユキも「夜泣き」をせずにすぐ上がってきて、その足元のクッションの上で丸くなった。

今朝は7時前に目が醒めた。
窓の外は曇りで、少し雨音が聞こえる。外を見てみると、小雨が降っているか、あるいは止んだあとのようだった。そのまましばらく外を見ていたが、ユキも目を覚まして泣くので、撫でてから下へ降りる。トイレ、洗顔、三津子の写真前のお酒やお茶、お膳の片付け。
明青さんからいただいた花に水をやり、花瓶の花も整えて水を換える。
仏様のお水を取り替えて線香を立てて、祈る。

三津子、君が逝ってもう一ヶ月が経ったよ。
色々ごめんね、そして本当に、たくさんありがとう。
今までも、これからもずっと愛してる。君のことを絶対に忘れない。
いつものように手を合わせ、声に出して繰り返す。

それから洗い物をして、朝は昨日夕飯に買っておいた弁当を暖めて、インスタント味噌汁で食べた。
今日は夕飯はお寿司でも取ろう。
それから次の月命日からは、明青さんに行ければいいな…と思う。
もう一ヶ月、まだ一ヶ月。
ソファにあの人が座って二人でテレビを見たり笑い合ったり飲んだり食べたりしていた記憶が、つい昨日のようでもあり、そして遠い日の幸せな「かげろう」のようでもある。
東京に居る知り合いの手紙で、彼女が「まだ京都におられるような気がします」と書いて来る人がけっこうおられる。そうだろうな、と思う。無いと絶対解っていても、三津子が玄関からガチャリと入ってきて、コートも脱がずカバンを置くのももどかしく、小走りにリビングへ、俺の方へ一直線に帰って来ないかと思う。
その映像も容易に想像出来る。想像というか、つい4月の末までは普通の日常だった。
けれどもう、二度と来ない「日常」なのだ。
やっぱり遠い日の「かげろう」なんかじゃない、ついこの間までのしっかりとした「日常」だ。「かげろう」のようにはかなかったのは、あの人だったのだ。

その後、気が付くと昼になっていた。食欲があまり無いが、昨日買っておいた小さなおいなりさんの4つパックのをウーロン茶で食べた。今日の夕飯は月命日のご馳走にしたいが、昨日だと思って総菜をけっこう買ってある。明青さんから思いがけずお花やお弁当をいただいたので、それらがそっくり残っている。けれどそれで月命日というのも何だから「フンパツしちゃる!」と写真に言った。どちらかに給料が入ったり収入があると、相手に「おごっちゃる!」「今日はオジサンが何でも好きなもの喰わしちゃる!」とか言ってふざけ合ったものだ。

それにしても、今日はどうも左手の小指が痺れるようだ。
前に京大でそう言ったら整形外科を紹介されて、尺骨のあたりのリンパ節が腫れて神経を圧迫していると言われた。手のひらを広げて指を一本ずつ圧迫され、反発する力で調べてもらうと、「麻痺」というレベルではなく、軽い痺れという段階だったから、神経の発達を良くするというビタミン系の薬を貰って「痺れがひどくなるようならまた来て下さい」と言われた。
人間、不安を抱えた時にその原因を科学的に説明されると「そういうものなんだ」と納得してしまい、以後、痺れがあっても元の病気つまり白血病のせいで、仕方のないことだと諦めてしまう。慣れと言ってもいい。
実際俺の病気の場合は全身のリンパのどこが腫れるか、日によって違うから困ったものだ。
慢性的に腫れているのはもちろん巨大化した脾臓だが、耳の奥のリンパ節が腫れればメニエル様の症状が出るし、腕の関節あたりだとこうして手指に麻痺が出たり、膝だと足を曲げると痛かったり、縦隔だと胸をキリキリとすりこぎで押されているような鈍痛があったりする。
それらは根本的な治療…つまり元の病気である「白血病」を治さない限り、どこにどういつ現れるか知れないもので、その現れ方がひどい場合にはその都度「対処療法」がいる…という理解をしている。

その根本的な病気治療だが、自分の場合のように慢性的なタイプの血液腫瘍に効く薬はないと知っている。慢性骨髄性白血病の治療に効果があるかも知れないという医学的発見がつい最近あったが、要するに、いかれた血を造る元の細胞の段階で癌化した白血病幹細胞を「活性化」させて、抗癌剤を効きやすくするというような発見だ。
門外漢が聞きかじりでこういう事を書く不遜を承知でいうと、抗癌剤が効きやすくなれば助かるのかというと、決してそういう意味ではないし、そこからは急性タイプと同様の、「生き地獄」のような過酷な化学療法、幹細胞移植…というプロトコルが待っている。
慢性タイプの白血病幹細胞は休眠しやすい…という記述をどこかで見たが、休眠というかおとなしくしてくれているから、俺はこうやって生きていられるわけだ。それに俺の場合は慢性の「リンパ性」白血病という珍しいタイプで、こうして「くすぶっている」間は敢えて命がけの治療を選択しないというのが、従来の医療では常識であった。これからは知らない。何やらいい薬が出たとか出ないとかいうニュースもここ数年耳目に入っては来るが、数年前のように逐一鵜の目鷹の目で探さないようになった。

それより今の俺に一番怖いのは感染症で、先のインフルエンザ騒動などでは「騒ぎすぎだ」とか「弱毒性なんだから心配無用」と、何か怖がっている方がバカだと言わんばかりの情報「リバウンド」が起きている。
冗談ではない。
重度の糖尿病患者、HIV感染者、腎臓病患者、妊婦…とあげればキリがないが、例えば、自分のような免疫力が低下している白血病患者や抗癌剤投与を受けている癌患者、臓器移植後に免疫抑制剤を飲んでいる人たちはどうなる?
健康だと過信して潜伏期間にある人間が「なんだ、大丈夫なんだ」と勝手にマスクや手洗いをやめ、菌をバラ撒くこともじゅうぶん考えられる。多くの人は大丈夫だろう。けれども免疫力が落ちている人のことを、健康な人はあまり考えないようだ。想像力がない、と言ってもいい。
「弱いやつが居るんならそいつらが勝手に防御してろ」という論理もよく目にする。ではせめてマスクを買おうと思ったら「品切れ」や、3倍5倍に値上げなんて例をいくつも見た。
「勝手に防御しろ」「少数派なんだから引きこもってろ」と弱者を切り捨てて平気な人間の多さに驚くが、まあ人間なんてそんなものだろう。自分がその立場にならない限り、想像する頭すら持てないらしい。

それにしても防御ではなく「人に感染させないこと」が最大の目的である「マスク」を軽視し、平気で病室の見舞いに来る人間の何と多いことか。
4年前、癌細胞が出るかどうかの組織検査のため、入院して左腋下のリンパ節切除手術をした。外科処置だけだったので入院は短期だったが、2人部屋の相方は男子高校生で、恋人らしい女子高生が毎日、長時間「見舞い」に来た。こう書くとほのぼのした微笑ましい若いカップルと思われるかも知れないが、その二人は最低の人間だった。
こちらが静かにしていると寝ていると思ったのか平気でベッド上でイチャつき、知性や品格という単語がケツまくって逃げて行くような下品な会話ばかりをしていた。彼女の方はあろうことかもの凄い騒音を立てて、厚底靴を履いて病院内を歩いてきた。さらにゲヘンゴホンと咳をし「あっしさぁ〜、カゼひいたみたいでぇ〜」とマスクもせず、当然口に手もあてずに平気で病室に入ってきた。
誰も注意しないのが不思議だった。俺は自分が癌かも知れない、死ぬかも知れない…という時期で、正直を言うとその二人のことなどどうでもいいと思っていた。別段注意もしなかったし、数日で退院だから、余計に不快な思いをしたくなかったので黙っていた。
結局その時の組織検査で出た結論は「黒」だった。つまり、俺はその段階でもう血液腫瘍に冒されていたわけだ。もし俺が当初予測されたような急性タイプの白血病で、免疫力も急激に低下していたら、その高校生たちの持ってきた得体の知れない菌に「院内感染」していたかも知れない。
かろうじて、こちらが常にマスクをしカーテンを決して開けなかったことと、部屋の出入りにはアルコール消毒など細心の注意を払っていたことで、感染を「予防」出来ただけのことだ。
今思い出しても、本当にゾッとするほど知能の低い高校生たちだった。今ごろ、彼らがまだくっついているのかどうかは知らない。一緒にいてくれればまだマシかも知れない、別々ならあの程度の人間が別な相手とくっついているはずだから、倍は存在することになる。
「防疫」という単語すら聞いたこともなく意味すら解らない人間に、今回のインフルエンザ騒動は「マスクは人に感染させないためにあるもの」という知識いや「常識」を多少なりとも伝えられたのなら、結構なことだと思う。

俺が今お世話になっている京大病院で、十年ほど前の輸血の患者取り違え事故が起きた。それ以降、同様の事故防止対策を話し合い、採血の際には必ず氏名を患者に言わせて確認をするようにした。そうしたら、劇的に院内事故が減ったと報じられていた。
そういえば、俺が京都へ来て転院してからも、採血の際は必ず氏名を言わされてきた。いいことだと思うし、逆に当然だと思うし、それが当然ではなかった時期があったことに驚く。それでも、あれほどの大病院になると、事故は劇的に減ったもののまだゼロではないという。
きっかけになった輸血取り違え事故は、幸い間違えられた患者さんの血液型が同じだったために大事故にならなかっただけで、もし違っていたら死亡していてもおかしくないほどのあり得ないミスだった。
それ以降、そのような「取り違え」のないよう、採血や静注(点滴)のたびに必ず氏名を確認することしたら、事故が減った…ということで、まあ結論だけ見れば「災い転じて」で、良かったと思う。

昨日見たテレビ番組によると、依然全国の病院で慢性的な看護師不足が続いていて、大変な状況にあると言っていた。そんなことはもうずっと前から指摘されていたことだが、医師不足と並んで解消されていない。かといっって医師や看護師も、足りないからと言って粗製濫造されても困る。
人出不足を解消しようと、医療機器のハイテク化が進んだ。しかし結果、その操作法や技術の習得が追いつかず、結果的に現場の人手不足と混乱を招くというマッチポンプ的な現象が起きている現場もあるという。
番組の中では二十代前半、まだ二年目の若い看護婦が信じられぬ過剰労働の挙げ句「過労死」したということも報じられていた。あまりのきつい勤務に、上の先輩がどんどん辞めていき、とうとうその二年目の看護婦が新人教育までやらされたという。
連日の手術立ち会いなどの過剰労働、残業に次ぐ残業の末、彼女は手術用のストレッチャー上でほんのひととき仮眠を取ったまま、亡くなったそうだ。不整脈が原因で、過労死と認定された。
病気に苦しむ人の助けになりたい。そう理想に燃え、看護師という職業を選んだ彼女は、その職業に殺された。娘を亡くした父親は「職業の選択を間違えた」と静かに憤っておられた。
京大病院で患者取り違え防止策として「その都度患者の氏名を確認する」という、今では当たり前に行われ効果をあげている方策が提案された時、実は現場の反発が大きかったそうだ。
「余計な仕事が増える」「ただでさえたくさんの患者さんを相手にしているのに大変だ」ということだったそうだ。ただ、もちろん、結果的には導入して良かったわけで、今ではそうした声はないというが、過酷な看護の現場で「これ以上仕事を増やさないで」と訴える真剣な声も解る。

ここで何度も書いてきた通り、連れ合いであった三津子も若い頃からあちこちの病院へ通ったり入退院を繰り返した。もちろん俺もその都度あちこちの病院に出入りをした。いい病院もあれば、クソみたいな病院もあった。いい病院なのにクソみたいな医師もいた。クソみたいな病院なのに、いい看護師さんや医師もいた。
結局、医師も看護師も「いい人」であるかどうか、だと思う。
これは四半世紀、健康な人が知らない経験を数多くしてきた人間の「実感」だ。
大きな病院はたくさんの患者を相手にしているところだから、安心だということもない。逆にヘンに場慣れしているから、採血の際あさっての方向を見ながら人の静脈に針を刺したりする人もいる。針を入れる角度が急すぎて、血管を上から下まで貫通させられたこともある。やられた人じゃないと解らないが、それはそれは腕が痺れるほどの激痛が走った。悪気がなく未熟なのは仕方がないのかも知れない。けれど患者は練習用のマネキンではない。
三津子ももちろんそういう経験は幾度となくしていたし、全て記録しているが、本気で看護婦に意地悪をされた病院もあった。悪気がなくてもしんどいのに、悪気があって向かってくる「看護婦」に、患者が太刀打ちできるはずもない。
何が気に障ったのか、あるいはストレスのはけ口か、点滴の針はわざと動きにくいところに入れられ、しかもその都度痛くする。鎮痛剤で日中うとうとして夜が眠れないと訴えると、「楽してるからじゃないのぉ?」と信じられないような嫌味を言われる。朝になれば刑務所のように強制的にカーテンをもの凄い音をたてて開けられ、心臓が止まるかと思った…などなど、今思い出しても心が痛む。
何がその「看護婦」をそうしたすさんだ気持ち、人格にしたのだろうか。過酷な勤務か、人間関係か、待遇か。何か理由があったのは間違いないだろう。「患者をいじめるために看護師を目指す」という劣悪な人間はそうはいないと思う。最初は皆「病を得た患者さんたちの助けになろう」と思って看護師を選んだのだろう。その看護婦はたまたま何かのストレスのはけ口を、おとなしそうな、文句を言えなさそうな弱った患者に向けた、ということだったのかも知れない。
その時は我慢し続けたが限界だと言い、三津子はその病棟の婦長さんにそっと打ち明けた。婦長さんはいい人で、その看護婦を叱ると一緒に憤ってくれたそうだが、もちろん、その後さらに陰湿で巧妙な「イジメ」に逢うことは容易に予測がついたので、やんわりとそれとなくお願いします、と頭を下げたと言っていた。
こう聞けばこの病院はクソみたいな病院だな、と思われるかも知れない。けれど、そこは三津子が一番多く入院期間を過ごし、何度もお世話になったところだ。いい先生もたくさんいらっしゃったし、お世話になった。
結局はその人その人の「資質」だろう。

左手の痺れに効果があるかどうか解らないが、めまい止めに貰ったセファドールと、以前貰ったビタミン剤を食後に飲んだ。明日は重篤な痛みがどこにもありませんように、そう祈るしかない。


1時過ぎ、お姉さんから電話があった。
送ったストラップが不在で持ち帰られ、その不在通知がポストの奥にあるので気付かず、今日受け取ったそうだ。それからお互い写真見ると辛くて…というような話をするうち、涙声になってしまう。
お姉さんは「近くに居れば慰めたりも出来るけど、それも出来ないし…」と言うので俺も「でも悲しいのはお互い同じですもんね」という。「そうよね、こっちも慰めて貰いたいくらいだからね」とお姉さんはちょっと笑った。
俺は愛する連れ合いを失った悲しみの渦中にまだある。
お姉さんはたった一人の妹を。
お母さんは自分より先に次女を。
ももちゃんやゆうちゃんは、母親を…。
その悲しみはこうして話し合うことで共有でき、その時その時の「癒し」になる。そのための涙は恥ずかしいことではないと思う。

お姉さんのところではお酒や陰膳はせず、花だけを絶やさないようにしているそうで、俺の方は花とお酒、陰膳をやってると言うと良かった、と言っていた。それは俺の勤めだし、俺自身のためでもある。何よりそうしていないと、俺自身がご飯を食べられないからだ。
お姉さんはブログで「枇杷の話」を見てくれたそうで、実がなったということに驚いていた。たった2年で、しかもあんな小さな苗木のようなのに実がなるなど、信じられないと。
「大事にしないといけないわね」と言うので俺も
「何かふたりの子供みたいに思えて…」と言うとまた涙声になってしまう。
お姉さんには、鉢植えやプランタでも育つからと、種を送ることにした。


ほかに何人の方からか「欲しい」というメールをいただいたので、お送りします。
枇杷は強い木です。冬に寒くなる地方の人はその間だけ室内に入れておけば、あとはそれほど手間はかかりません。けれどベランダでも日当たりが全く無かったり粉塵にさらされたり、クーラー室外機の熱風に常にさらされるような場所では枯れてしまいます。そう、かつての我が家のように。
「枇杷の木を植えると病人が出る」という迷信を言う人がいますが、逆で、病人が居るから、わざわざ枇杷を植えるのです。傷む患部に葉を湿布したり、種を煎じて飲んだりなど、枇杷に薬効があることは昔から知られていました。
愛情をかけてやると、たった2年で実が成るのです。
何の木でも花でもそうでしょうが、愛情をかけて世話をしてあげれば、応えてくれると思います。
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2009-06-04(Thu)

こころの手紙

夜8時ころ、そういえば朝に朝刊を取りに行ったきりだったなと思い、マンションの下へ降りてポストを覗きに行った。
イラストレーター・漫画家の吉田光彦さん、「コスモス短歌会」の桑原正紀さん、それから舟渡の桑原登志江さんから手紙やハガキが届いた。「コスモス」の桑原さんからは香典返しにお送りしたストラップの御礼が、ハガキに丁寧に小さな字で書き添えてあった。吉田さんと舟渡の桑原さんからはそれぞれ封書で、三津子の死を悼み、俺の健康を気遣って下さる内容が綴られていた。

吉田光彦さんは高取(高取英)さんと割合に連絡を取っておられるようで、先日も「今度飲もうって言ってたのにねえ」と話したそうだ。
結局、高取さんとは大学の三津子の研究室でお会いしたきりになってしまった。「今度飲みに行きましょうね」と皆で約束していた。
吉田さんとはもう十年以上お会いしていない。青林堂時代は『夢化色』(1990年)という単行本を担当させていただいた。その頃にはもう吉田さんは繊細な線や独特のエロティックな画風で読者を魅了していて、現代の「耽美派」絵師だと思った。丸尾(末広)さんよりもむしろ先行していたイメージがある。
単行本を担当させていただいた頃、よく下北沢の喫茶店でお会いした。「ガロ」の忘年会などの集まりでも、親しくさせていただくことができた。
俺が言うのもおこがましいが、吉田さんご自身の風貌も、いつまでも「美少年」というか、白い歯の笑顔が似合う素敵な方だと思った。俺みたいな若造にも偉ぶることなどなく、いつも変わらずに笑顔で接して下さったことに、今でも感謝している。
その笑顔が、そして便箋に丁寧な楷書で綴られた文章が、吉田さんご自身の性格、生き方を現しているように思えた。三津子・やまだ紫と共通する、時代に媚びない作家性を持ち、じゅうぶんなキャリアと実力、実績があるのに偉ぶらない「いい人」だ。少女の面影を持ち、自分の作品に誇りを持ち必要以上に媚びることを良しとしなかった、あの人によく似ている方だと勝手に思っている。

舟渡の桑原さんは、三津子がいつも来ていた何着かのオーバーオールを縫製して下さった方だ。丁寧な便箋の文字を追っていくだけで、本当に三津子の人柄を好いていただき、良く理解して下さった方だと解った。
「つたない素人の縫製の服を喜んで着ていただいた、こちらこそもっともっと学びたいところがあった…」と書いて下さった。
三津子の方も、この桑原さんとの出会いを本当に喜んでいた。工場ばかりで文化的な匂いなどほど遠いと思っていたところに、しかもこれほど近くに本当にいい方がいらっしゃったと言って、いつもお宅から帰って来ると笑顔だった。
自分は手術で胴回りをこんなに醜くされた、悔しいがもうこういう体で生きて行くしかない。せめて、その体型を隠す服を好きなように作ってもらって着たい。その願いをこんなに身近に叶えていただける人が居るとは思わなかった。生地やボタンを選んだりするのが楽しいと言っていた。脇には注射を打つために簡単に開けられるボタン、あるいはファスナーもつけていただいた。
インスリンの自己注射で食前のものは、ラピッドという名が示す通り、本当に食事の「直前」に打たなければ、逆に低血糖発作を起こしてしまう。だから外食のたび、彼女はカウンタで俺の体で周囲から隠れるようにして腹部に注射を打たねばならなかった。トイレで打つと、手元が狂って下に落としたら不衛生だし、それに誰かが入ってきたりすると心臓に悪いと言っていた。だから人前で打つことが多かったが、その注射が「本当に楽になった」と喜んでいた。
元々、三津子はあの高島平の団地にいる頃から、ちゃぶ台で原稿を書き、子供がむずがればすぐ立ち歩き、台所仕事や家事にくるくると動きやすいよう、既製品のオーバーオールを愛用していた。それはけっこう着込んでヨレヨレになっていたが、新しいものは微妙に体に合わなかったり肩紐の調整が効かなかったりで、結局その古い物を何度も何度も洗濯しては着ていた。そのオーバーオールの型紙を取っていただいて、冬用や夏用の生地を選び、何着か作っていただいたのだ。
二人で四条河原町から高倉あたりまでつらつら散歩した時にみつけた布地屋で、「今度はこういう生地で作っていただいたら?」なんて生地を見繕ったりした。侍のひょうきんな顔がちりばめられた生地を「面白いね」と選んで、「これで作ってもらったらウケるかしら」と言って本当に作っていただいたりした。それを、卒業生の謝恩会に着て行こうと笑っていた。

事情を知らぬ若い学生の中にはその「トレードマーク」とも言えるオーバーオール姿を見て
「やまだ先生、可愛い〜!」と言ってくれる子もいたそうだ。それはそれで本人も苦笑しつつも喜んでいた。
大学の授業が終わり会議が終わった後、暗くなった建物の影でしゃがんで、家から持って行った乾燥えさを猫たちに与えているやまだ先生を見ました、という学生もいた。
学生たちからは「いつもヘンな格好だけど優しい、猫好きの先生」と言われていた。

そうして猫たちに手を振って帰るとき、暗い中で携帯電話のほの明るい画面を見つめながら疲れた体にむち打って、彼女はいつも俺に
「今終わった。晩ご飯どうする?」とメールをしてくれた。
薄暗い中、携帯電話の青い光に照らされるあの人の顔を思うと、涙が出て仕方がない。
大変だったね、本当に。よく頑張ってくれたよね、君は。


桑原さんは「奥様がお好きだと、それにご主人様もお好きだと伺っておりました、さくらんぼをお送りするよう手配をしました」と書き添えてくださった。
あの人が自分のオーバーオールの打ち合わせでお伺いした時に、俺たち夫婦がさくらんぼが好きだという話をしていたという。
あの人がどんな笑顔で、「うちの連れ合いも好きなんですよ」と言っていたのだろうか。
あの人を知る誰もが「ほんとうに素敵で、優しい、いいお方でした」と言ってくださる。
そういう人に嫌味を言ったり、非礼な態度を取る人間がいる。いや、実際にいた。
人間の生き様は、最後に必ずその顔に出る…三津子の持論だった。。
「裁き」は必ず、行われるのだと思った。
身内びいきで言うのではない。三津子の最後は少女のように可愛らしい、穏やかな顔だった。
あの人は正しく生きた証だと思った。

夕方から民放、NHKとニュースを見終え、11時に薬を飲んで寝室へ上がる。それからまたニュースを見ているうちに眠れそうだったのでテレビを消す。だが暗くなると眠れない。気が付くと「三津子」と闇の中に呼びかけている。
明日は月命日だ、夢にでもいいから出て来てくれないかな。この前みたいな、あの幸せな夢でなくてもいいから…。
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2009-06-04(Thu)

明青さんに感謝

6月4日(木)

今朝は7時ころまで割合ぐっすりと寝られた。それからうとうとを繰り返し、8時半ころ起きる。
さすがに間違って飲んだメイラックスの効き目は無くなったようで、昨日までの猛烈な眠怠さはなく安心。
外は曇り、昼過ぎには薄日が差すが、気温はやや低め。にしても家の中は暑く、温度計を見ると27℃以上ある。
朝の洗顔などを終え、いつものように三津子に「おはよう」と声をかけてお茶を入れ換える。それから花の水も入れ換えて、しおれた花を捨てたり、しなびた葉を取ったりという手入れをする。
台所でしなびた花に「ありがとうね」と声をかけては捨て、ぬるぬるになった茎を洗ってダメなものはやはり捨てる。元気なものは選って、新たに生け変える。
そこで、そうだ、今日は月命日だ、花を買ってこなくちゃ点と思い、10時ころ自転車で近くのスーパーに出かけた。
前にバラを買った食品売り場にあるショボい花のコーナーではなく、フロアに別にある花屋へ行く。ひまわりの元気のいい大きなのとうす紫色の綺麗なユリ、あと白い綺麗な花数本の束を買った。花を買うというのは気持ちが和む。
あの人が生きているうちに、「ほら、花を買ってきたよ」と渡して、喜ぶ顔を見られたら良かったな。でも今はせめて、こうして毎日綺麗な花で囲んであげよう。

それからフードコーナーで今日明日のご飯を買う。そこで食品の日付を見ていて、三津子の月命日は今日ではなく明日だと気付いた。カレンダに月命日と書いてあるのを毎日見ていたし、リマインダーで毎月携帯にメールが来る設定にしてある。一日前と当日に。その「一日前」のメールを見て慌てて花を買いに出たわけか。日にちの感覚も曜日の感覚もおかしなことになっている。毎日、「君が倒れてからもう何日…」と数えて暮らしているのに。
とにかく今日・明日のものを買い、彼女の好きだった空豆を茹でようと思って探すが、野菜売り場には見つからない。それからコンビニでウーロン茶なども買って帰宅。

すぐに花瓶に買ってきた花を切って整えて活け、三津子の写真の両側に飾る。昼は三津子におこわを軽く盛り、俺はサンドイッチにコーヒー牛乳にした。

午後は苔や草に水をやり、それから仕事をしたり。夕方猫のトイレを掃除すると、腹筋と足腰が痛くて往生した。立とうとしたがしばらく動けなかったのがショックだった。

それにしても本当にテレビのバラエティを見る気が全くせず、午後はBSのメジャーリーグの試合が終わったら、ほんとうに何にも見るものがない。元々俺たち夫婦はテレビを「見る」というよりただ何となく一日つけていただけなので、ならばいっそ消した方がいいのだろうとも思う。実際、あの人が一人で京都へ「通勤」していた頃や、入院していた時など、俺一人の時はテレビをつけないことも多かった。
けれど、今こうして本当に一人の生活になると、仕事でパソコンに向かっていてもテレビから何か音が漏れているだけでも何となく気が紛れる。何も音もなく画面も動いていないと、一段落でリビングへ移動した時に、どうしても辛くなる。
テーブルの上には三津子の写真と、花。
その他に俺が視線を向ける場所がない。

夕方5時ころ、「明青」のおかあさんから電話があった。
5時半ころお花とお弁当が届くようにしてあるから、今日は何も作らないでね、とのこと。有り難いやら申し訳ないやらで、「もう大丈夫ですから…」と御礼を言う。
身内でもメールの一通すら来ない日が多くなったというのに、本当に本当に、有り難い。こういう人が居て下さるから、この京都という街を離れがたく思う。
俺は実際もともと生まれは函館だ。その「ふるさと」を自分勝手に捨ててきたような人間だ。親爺は物心ついた時には死んでいたから、母親にとっては辛酸を嘗めた地かも知れないが、俺にとっては小さい頃からいい思い出ばかりの街だ。なのに、大きくなると東京の方が刺激的で楽しいと勝手に「捨てた」。
その東京で三津子に出逢うことが出来た。
三津子と出会い、ふたり一緒に寄り添って暮らすことが出来たこと、生涯をかけて愛する人と出会い過ごしたことが、唯一かけがえのない東京での素晴らしい体験だったと思う。
その三津子が死んでしまった今、もう俺が東京に戻る理由はない。



5時20分ころ、いつも配達をしてくださる花屋さんが明青さんのご飯と花を届けてくれた。メッセージカードには「明日は月命日ですね」「ご自愛ください」と書いてあった。
有り難くて、涙が出た。
たった二人で京都に来て、知り合うことができた人が、こんなに良くして下さる。その有り難さで視界がゆるむ。すぐに三津子の写真の周りを片付け、いただいた花を飾り、それからお茶を入れ換えてお酒をあげる。
そうして写真に合掌した。
お弁当には三色のふりかけがかかったご飯に、美味しそうなおかずが上品に盛りつけられていて、さらに、俺たちが絶品だといつも楽しんでいたサラダ…レタスとオニオンスライス、キュウリの薄い薄い短冊切りに、和風の素晴らしいドレッシングがかかっているもの…もついていた。
このドレッシングは我が家でも真似しようとして、結局二人とも挫折した。ドレッシングが小さなボトルに小分けしてあって、さらに、毎年季節になると出店を出すがすぐに売り切れる農家の冷やしトマトもあった。トマトの皮はちゃんと湯むきしてある。
もう、本当に「有り難い」という簡単な言葉では表せないくらい、感謝の気持ちで一杯になる。
三津子の写真に改めて合掌をし、さらに明青さんご夫婦にも合掌した。

さっそく写真の前に、せめてもと綺麗な小皿を出して料理を盛りつけ、箸を置く。それからビールを淹れて、三津子の写真に目を合わせ、ぐいのみにグラスをあてて乾杯をした。
そしていただいた料理を食べながら「二人で」晩酌をした。

また、明青さんへ行こう、二人で。
まだあの「長〜いカウンタ」に一人で、いやあなたの写真と二人で座って、泣かずに飲む自信なんかないよ。でもこれだけのことをしていただいて、いつまでも「行けない」というのも寂しい。何より、君が寂しいだろう。だって明青さん大好きだったもんね。
そう思いながら、差し向かいで飲む。
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2009-06-03(Wed)

ひまわり

6月3日(水)

なので今朝は何と5時過ぎに目が醒めた。
外は曇りで、カラスが「ギャー、ギャー!」と鳴いている。いつものうるさい奴で、どうやら近くに巣があるらしい。カラスだって子があり生きている。
トイレへ行くので下に降りて、トイレから出てそのまま新聞を取りにマンションの1階まで降りて、戻る。もうそのまま起きようかとも思ったが、新聞を置いてまた二階へ上がり、部屋の中より外の方が涼しいだろうと、思い切って北側のベランダを全開にして網戸にした。猫二匹がすぐに飛んで来て、網戸の下で仲良く外をじっと見ている。本当はベランダに出してやりたいが、そこここが筒抜けになっているので、どこへ出歩くか解らない。なので網戸にして我慢させる。
そのままベッド脇の小さなテレビをつけてごろりとする。窓からは思ったより涼しい空気が入って来ず、送風機をつけたままにした。もう一度寝ようかとも思ったが、送風機を消して、6時半頃に下に降りて洗い物をしたり。

ブログにコメントがいくつかと、あと会ったことはないが知っている人からからメールが入っていた。
毎日、必ず誰かしら「元気ですか」「食べてますか」「寝られてますか」「ご自愛を」と心配していただくメールが入る。

身内からではなく、何年も会っていない知り合いや、顔も知らない人の方が多い。
本当に有り難いと思う。


朝は8時前に冷凍のご飯を温めて、中華丼の元をかけて食べた。するとまた猛烈に眠くなり、8時過ぎからソファで寝てしまった。途中何度も夢を見て、テレビの音は聞こえているのに目は閉じていて夢を見ているという、おかしな状態が続いた。昨日と同じだ。間違って飲んだあの薬のせいだとしたら、ずいぶん長く続くんだな、怖いなと思った。
結局そのまま10時過ぎまでソファの上で寝ていた。覚えている夢がいくつかある。
一つは大きな部屋がいくつもある家に住んでいて、兄貴が別の部屋に居る。しかし俺らはなるべく顔を合わせないように暮らしているようだ。こちらではテレビを見ていると星野監督の珍映像をやっていて、画面側を向きながら誰かと喋って歩いていたら車にぶつかって二人ともコケたところで爆笑。兄貴の方からも同じものを見ているらしく爆笑がシンクロする。
次のシーンはやはり星野がタクシーか何かに荷物を積もうと数人でタクシーの横で何かをしているが、タクシーがまだ星野が載っていないのに動き出してしまい、閉じたドアからはみ出たバッグの持ち手を握り慌ててタクシーの動きに合わせて動くが、結局無様にコケるという映像。これも思わず爆笑すると、別の部屋に居るらしい兄貴の方からも爆笑が聞こえる…みたいな夢。
別な夢には三津子が出て来た。といっても、普通にあの黄土色のオーバーオールを来て、いつものように俺に「じゃ、行ってくるからね」と普通に声をかけて学校へ行くという風情だった。俺はいつもそうだったように起き上がって玄関まで見送ろうとする…というところで醒めた。
他にもたくさん夢を見たが、よく覚えていないものの方が多い。何か示唆的なものでもなく、ただ朦朧とした間のレム睡眠の間に、脳の引き出しの中にあるシーンをあれこれくっつけて作った映像を見せられただけという感じだった。

その後は午後から仕事。夕方には終えたので、いろいろと面倒な手続きのための勉強をする。
それにしてもこれらの「やらなければいけないこと」が多すぎて、頭が混乱してくる。一つ一つ、それこそ悲しみと混乱のまっただ中にいる、その「当事者」である自分が、しかもたった一人で動かねばならないことが多すぎて嫌になる。長年連れ添った伴侶を失った人が、本当に後を追うという心境が良く理解できる。
かといって、後を追ってはいけないことも理解しているが。

司法書士や弁護士に相談のメールもした。けれどだいたいが「ここから先は有料で」になる。
とかく世の中は金、金、らしい。

その後、昼ご飯を食べ損ねたこともあって5時過ぎから晩飯の支度をはじめた。
といっても家にあるもので済ませようと、三津子には「先にやっててね」と声をかけ、ぐいのみに『花の舞』の新しいのを冷蔵庫から取り出して注ぐ。それからいつも温泉玉子ばかりだったので、今日は玉子豆腐にした。似たようなもので申し訳ないが、一品でも彼女が好きだったものをあげたい。でもさすがに飽きたかな…とも思う。でも俺の気持ちの問題だろうとも思う。
写真の両側に立てている花がちょっとしおれてきた。明日、スーパーへ行って買ってこよう。

それから夜は何もテレビ番組で見るものがないので、DVDの録画アルバムをめくり、いっそのことバカバカしい映画とかアクションもののがいいかと思い『レッド・ブル』を取り出した。プレイヤに入れてみると、読み込みはするものの、再生してすぐエラーでブロックノイズが出て止まる。まだDVDが何たるか良く理解していない頃に買ったディスクに録画したもので、○○製の安いディスクを使って録画したメディアだった。しょうがないのでそのままゴミ箱行きにした。

結局、夜も長いので国産ディスクに録画してあった『日本のいちばん長い日』を見始めた。三船俊郎(阿南陸相役)を始めとする役者陣の重厚な演技力、とりわけ若き日の黒沢年男の三白眼の狂気じみた熱演が、一件退屈そうな「ポツダム宣言受諾」にまつわる一日を追うというドキュメンタリ的な手法に迫力を与えている。これらの俳優をこの時代に揃えて撮ったという奇跡に感心すると共に、今の日本映画界ではもう絶対に制作できないだろうし、そもそも役者が揃わないな、と思った。
寝たのは11時前。
三津子にはひまわりが似合うな、と思った。
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2009-06-02(Tue)

枇杷の実を食べる

6月2日(火)

昨日は夕方から何も見るものがないので、DVDで伊丹十三の映画「たんぽぽ」と続けて「お葬式」を見た。
それから寝ようと思い、レンドルミン2錠だと効かないようなので、暗がりの中二人の薬袋などを入れた箱の中から錠剤を一つ見つけて飲んで寝た。12時過ぎに割合すうっと寝られた。

ところが今朝目が醒めると8時だったのはいいが、猛烈に眠くだるい。起き上がる気力がなかなか出ない。ビールをしこたま飲んだわけではないし、おかしいな…と思いつつ9時前にのろのろと起きた。
朝のルーティン…トイレや洗顔のあと仏様の水を換え線香をあげ、三津子のお茶を取り替えて、写真の周りの花の水を換えたり枯れてきたものは捨てたりして整える。それから台所の洗い物をする。さらにTシャツを着て新聞を取りに行き、ソファに倒れ込むが、どうにもそれだけで何もやる気がおきない。確かにこの上猫のトイレの始末や仕事のメールチェックなどをしなければいけないことが残っているのに、気力が出ない。やる気が出ない上に生あくびが出る。ソファに転がってBSで何とはなしにイチローの試合を見ていたら眠くなってしまった。眠っているのと起きているのとの中間くらいの間で、部屋の中にいて同じ状況の夢を見ている。この部屋の今真正面にある壁の壁紙がなぜか濡れて、ぺろりと剥がれ落ちそうになるのを必死で抑えていたり…という変な夢だ。そうして朦朧としているうち、アッと気付いた。
昨日飲んだ余計な薬は何だ。
ゴミ箱を見ると銀紙に「メイラックス」と書いてある。
これは三津子が生前貰っていた抗うつ剤、いわゆるマイナー・トランキライザーだ。うかつだった、しかも持続時間は超長時間、60時間以上から100時間以上残る場合もあると書いてあるところがあった。つまり今もこうして眠いようなだるいような感覚があるのは、この薬のせいだった。
確かに自分は最愛の妻を亡くし、ただでさえ鬱状態に近いところにあるのは自覚している。けれども処方薬、それも抗うつ剤を飲むなんてとんでもないことをしてしまった。深く反省すると同時に、これまで三津子が貰っていた薬、残っていたものは全て整理し、注射針などは病院で医療廃棄物として処理して貰おう。


その後昼はまた日射しが強くなってきたので、苔玉を水につけ、枇杷の木や草などに水をやる。それから1時前、冷凍のピラフを温めて食べた。
その後メールチェックしていると、Nさんという知らない方から、新聞にやまだ紫の追悼コラムが載ったと教えてくれ、その画像を添付してくれた。「朝の風」という匿名連載の囲みコラムだが、ずいぶんとキチンとやまだや「COM」、「ガロ」について把握していて、評価して下さっている。どうやら同世代の人が書かれたらしい。何のコラムか解らなかったので、御礼と何に掲載されたかを聞くメールを返信した。
そうするまでもなく自分で検索してみると、そのコラムは「しんぶん赤旗」であることが解った。間もなくNさんというその人からも、「赤旗」であることを連絡してくれた。携帯でわざわざ撮影して添付してくれたそうだ。俺が読んだこともなく、これからも読むことのない新聞でしょう、とも書いてあった。

そもそも「ガロ」や「COM」が元気だった頃のアクティヴな読者というのは、バリバリの学生運動世代だ。知り合いの学生運動世代のご夫婦によれば機動隊との「戦い」の中、「腹に『マガジン』を巻いてた奴も多かったけど、本当の硬派は俺たちみたいに『ガロ』を巻いてたんだよ」と笑っていたことを思い出す。
そうしてその世代の人たちは朝日新聞や赤旗といった、いわゆる左翼系の言論・出版界へ入った人も多く、「ガロ」時代はそういう人たちがずいぶん好意的に作家や作品を取り上げてくれていたことも思い出す。
もちろん、あの時代を経験した人たちは右も左もなく、さまざまな分野へ散って行かれたのだけど、何か通底する意識というか(それが鼻持ちならない部分があったとしても)、金持ちのボンボンの世間知らず、政治家の二世だの三世だの、金や権力と見れば何もかも捨ててヨダレを垂らし尻尾を振る、そういったことを嫌う意識は共通であったと思う。もっとも徹底的に運動が弾圧されたために「転向」し、むしろそっち方面へ意識的に邁進する人も多かったらしいが。
ともかく、やまだ紫という作家を正当にキチンと評価して下さるということにおいては、嬉しいことだ。それをご連絡していただいたことにも、感謝申し上げた。

その後3時ころ、自転車で銀行から送られてきた書類の返信、簡易書留を出しに郵便局へ行った。切手はすでに銀行によって貼られていたが、嫌な予感がしたのと、書留はポスト投函では駄目だったかなと思って出向いた。窓口へ出すと簡易書留には速達印も押してあって、80円切手が7枚貼られていたが、案の定料金が90円足りないと言われて差額を支払った。こういう予感は当たるものだ。

郵便局を出て向かいのスーパーで今日の晩飯に弁当と、明日用に納豆巻き、それからサラダなど総菜をほんの少し買う。2000円でおつりがくる程度。買い物籠をぶら下げて総菜類を見ながら、心の中で三津子に「これ食べる?」「食べないか」と話しつつ買い物をする。
そういえばあの人がたびたび病院に入院していた頃、よくこうやって一人で買い物をした。家へ帰ってもあの人はおらず、買ってったものを一人で食べた。それでもあの頃は病院には三津子が居て、しょっちゅうメールでやりとりをしていた。だから寂しいと思ったことはあまりない。でも今は溜まらなく寂しい。

外は天気が良くて暑い。梅雨の前の、本当にいい季節だ。自転車を漕いで近くの交差点で信号を待つ間、山を眺めながら「三津子、いい天気だね。ここまっすぐ行ったら百万遍。曲がって川端抜けて河原町、それから二条もよく行ったね。」と心で話しかける。信号が変わってすぐ走り出し、まっすぐマンションへ帰った。

ポストには舟渡のマンションの管理費関連書類と、「放送人の会」の今野さんからの手紙が届いていた。今野さんの手紙は「たった二度しか会っていないのに、凄く印象に残る方だった」、また三津子が招かれた「InterBEE」でたった一度しか会っていない他の役員や出席者も、訃報を聞いて一様にそう言っていたという。
今野さんは『樹のうえで猫がみている』を見返して、改めて「大変な才能を失ったのだ」と思ってくれたそうだ。


…ひと段落すると、外でパトカーがうなり声をあげてマンション前で止まった。叡電の踏切安全確認の停止を怠った車を待ち構えてはつかまえている、いつもの光景だ。
網戸にしてあるベランダをそろそろ閉めようかと出て枇杷の鉢を見て、「そういえば」と思った。
さっきスーパーに買い物に行った時、レジで精算して帰ろうとフと出口の脇を見たら、枇杷の実がパック詰めされたのがたくさん売っていた。淡いオレンジ色の可愛い実が整列していた。

あっ、と思った。
そういやうちのベランダの枇杷の実も、もうこんな色だ。

さっきスーパーでそう思ったことを思い出して、ベランダへ出る。
4月の末にはまだ緑色だった実が、すっかり淡いオレンジ色になって、重そうに細い苗木がしなっている。
枇杷の実
その枇杷の実を2つもいで、よく水で洗ってから皮を剥いで食べてみた。
ほんのり甘くておいしい。
三津子の写真に「ほら、俺たちの枇杷。もう実をつけて、こんなに美味しいよ」と見せる。
あの地獄のような東京暮らしの最後、三津子が手術後の痛みでのたうち廻った日々。井坂さんに送っていただいた枇杷の葉を湿布して腹に巻いた。藁にもすがる思いだったが、「楽になった」と久しぶりに見せた三津子の笑顔が忘れられない。
その葉が無くなって、マンション前の工場の隅っこにあった枇杷の木から、葉をよくいただいた。「枇杷ちゃん、ちょうだいね」といつも声をかけた。その枇杷の木が工場移転とかで無残に切り倒されて、俺たちは泣いた。「今までありがとう」と合掌した(その時のことはここに書いた。)。
そうして今度は自分たちで苗から育てようと、近くのホームセンターに注文した。それが届き、取りに行ったのが一昨年(2007)の正月2日のことだ。
それが今、ベランダにあるこの枇杷の鉢だ。
枇杷は手がかからない、強い木だというが、実がなるまでは何年かかかると聞いた。
枇杷の苗木東京で住んでいたマンションは煤煙だらけの過酷な環境で、三津子が好きだった草花のプランタはことごとく全てが枯れ果てて、二人ともとても嫌な気持ちになった。植物を置くのはもうやめよう、と思った。
けれども一昨年の正月に手に入れたこの枇杷の苗は、何とか育ってくれないかと手を尽くしていた。
けれども、いくら枇杷といえども、ほとんど日が当たらず空気も悪い環境で、苗木はなかなか大きくならなかった。葉も力なくしおしおで、やっぱり駄目かと諦めかけていた。
その年の9月、京都への転居が決まった。
もちろん、枇杷の苗木も一緒に京都へ来た。
京都のベランダで、枇杷はぐんぐん成長した。途中から枝分かれをして、俺たちに嬉しい驚きを与えてくれた。
その枇杷が実をつけてくれた。

何だか俺たち二人の子のようで、可愛い。

あの、東京のマンションの目の前で無残に切り倒された枇杷の木。人目を忍んで、三津子の痛いお腹に貼るために、「ごめんね、ありがとうね」と言いながら葉を貰ったあの木。気が付けば京都のうちの周辺は枇杷の木だらけだった。枇杷が俺たちを守ってくれると思っていた。

三津子は逝ってしまったけれど…。

こんなに早く実をつけてくれるなんて思わなかった。そして、うっすら、ほんのりと甘くて美味しい。実一つから種が三つ四つ取れる。これを誰かの庭に植えて貰おうか、それとも疎水脇にそっと埋めようか。
「俺たちの枇杷」がどこかで生き続けてくれると嬉しい…。
三津子に枇杷を見せる
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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