FC2ブログ
2009-06-04(Thu)

こころの手紙

夜8時ころ、そういえば朝に朝刊を取りに行ったきりだったなと思い、マンションの下へ降りてポストを覗きに行った。
イラストレーター・漫画家の吉田光彦さん、「コスモス短歌会」の桑原正紀さん、それから舟渡の桑原登志江さんから手紙やハガキが届いた。「コスモス」の桑原さんからは香典返しにお送りしたストラップの御礼が、ハガキに丁寧に小さな字で書き添えてあった。吉田さんと舟渡の桑原さんからはそれぞれ封書で、三津子の死を悼み、俺の健康を気遣って下さる内容が綴られていた。

吉田光彦さんは高取(高取英)さんと割合に連絡を取っておられるようで、先日も「今度飲もうって言ってたのにねえ」と話したそうだ。
結局、高取さんとは大学の三津子の研究室でお会いしたきりになってしまった。「今度飲みに行きましょうね」と皆で約束していた。
吉田さんとはもう十年以上お会いしていない。青林堂時代は『夢化色』(1990年)という単行本を担当させていただいた。その頃にはもう吉田さんは繊細な線や独特のエロティックな画風で読者を魅了していて、現代の「耽美派」絵師だと思った。丸尾(末広)さんよりもむしろ先行していたイメージがある。
単行本を担当させていただいた頃、よく下北沢の喫茶店でお会いした。「ガロ」の忘年会などの集まりでも、親しくさせていただくことができた。
俺が言うのもおこがましいが、吉田さんご自身の風貌も、いつまでも「美少年」というか、白い歯の笑顔が似合う素敵な方だと思った。俺みたいな若造にも偉ぶることなどなく、いつも変わらずに笑顔で接して下さったことに、今でも感謝している。
その笑顔が、そして便箋に丁寧な楷書で綴られた文章が、吉田さんご自身の性格、生き方を現しているように思えた。三津子・やまだ紫と共通する、時代に媚びない作家性を持ち、じゅうぶんなキャリアと実力、実績があるのに偉ぶらない「いい人」だ。少女の面影を持ち、自分の作品に誇りを持ち必要以上に媚びることを良しとしなかった、あの人によく似ている方だと勝手に思っている。

舟渡の桑原さんは、三津子がいつも来ていた何着かのオーバーオールを縫製して下さった方だ。丁寧な便箋の文字を追っていくだけで、本当に三津子の人柄を好いていただき、良く理解して下さった方だと解った。
「つたない素人の縫製の服を喜んで着ていただいた、こちらこそもっともっと学びたいところがあった…」と書いて下さった。
三津子の方も、この桑原さんとの出会いを本当に喜んでいた。工場ばかりで文化的な匂いなどほど遠いと思っていたところに、しかもこれほど近くに本当にいい方がいらっしゃったと言って、いつもお宅から帰って来ると笑顔だった。
自分は手術で胴回りをこんなに醜くされた、悔しいがもうこういう体で生きて行くしかない。せめて、その体型を隠す服を好きなように作ってもらって着たい。その願いをこんなに身近に叶えていただける人が居るとは思わなかった。生地やボタンを選んだりするのが楽しいと言っていた。脇には注射を打つために簡単に開けられるボタン、あるいはファスナーもつけていただいた。
インスリンの自己注射で食前のものは、ラピッドという名が示す通り、本当に食事の「直前」に打たなければ、逆に低血糖発作を起こしてしまう。だから外食のたび、彼女はカウンタで俺の体で周囲から隠れるようにして腹部に注射を打たねばならなかった。トイレで打つと、手元が狂って下に落としたら不衛生だし、それに誰かが入ってきたりすると心臓に悪いと言っていた。だから人前で打つことが多かったが、その注射が「本当に楽になった」と喜んでいた。
元々、三津子はあの高島平の団地にいる頃から、ちゃぶ台で原稿を書き、子供がむずがればすぐ立ち歩き、台所仕事や家事にくるくると動きやすいよう、既製品のオーバーオールを愛用していた。それはけっこう着込んでヨレヨレになっていたが、新しいものは微妙に体に合わなかったり肩紐の調整が効かなかったりで、結局その古い物を何度も何度も洗濯しては着ていた。そのオーバーオールの型紙を取っていただいて、冬用や夏用の生地を選び、何着か作っていただいたのだ。
二人で四条河原町から高倉あたりまでつらつら散歩した時にみつけた布地屋で、「今度はこういう生地で作っていただいたら?」なんて生地を見繕ったりした。侍のひょうきんな顔がちりばめられた生地を「面白いね」と選んで、「これで作ってもらったらウケるかしら」と言って本当に作っていただいたりした。それを、卒業生の謝恩会に着て行こうと笑っていた。

事情を知らぬ若い学生の中にはその「トレードマーク」とも言えるオーバーオール姿を見て
「やまだ先生、可愛い〜!」と言ってくれる子もいたそうだ。それはそれで本人も苦笑しつつも喜んでいた。
大学の授業が終わり会議が終わった後、暗くなった建物の影でしゃがんで、家から持って行った乾燥えさを猫たちに与えているやまだ先生を見ました、という学生もいた。
学生たちからは「いつもヘンな格好だけど優しい、猫好きの先生」と言われていた。

そうして猫たちに手を振って帰るとき、暗い中で携帯電話のほの明るい画面を見つめながら疲れた体にむち打って、彼女はいつも俺に
「今終わった。晩ご飯どうする?」とメールをしてくれた。
薄暗い中、携帯電話の青い光に照らされるあの人の顔を思うと、涙が出て仕方がない。
大変だったね、本当に。よく頑張ってくれたよね、君は。


桑原さんは「奥様がお好きだと、それにご主人様もお好きだと伺っておりました、さくらんぼをお送りするよう手配をしました」と書き添えてくださった。
あの人が自分のオーバーオールの打ち合わせでお伺いした時に、俺たち夫婦がさくらんぼが好きだという話をしていたという。
あの人がどんな笑顔で、「うちの連れ合いも好きなんですよ」と言っていたのだろうか。
あの人を知る誰もが「ほんとうに素敵で、優しい、いいお方でした」と言ってくださる。
そういう人に嫌味を言ったり、非礼な態度を取る人間がいる。いや、実際にいた。
人間の生き様は、最後に必ずその顔に出る…三津子の持論だった。。
「裁き」は必ず、行われるのだと思った。
身内びいきで言うのではない。三津子の最後は少女のように可愛らしい、穏やかな顔だった。
あの人は正しく生きた証だと思った。

夕方から民放、NHKとニュースを見終え、11時に薬を飲んで寝室へ上がる。それからまたニュースを見ているうちに眠れそうだったのでテレビを消す。だが暗くなると眠れない。気が付くと「三津子」と闇の中に呼びかけている。
明日は月命日だ、夢にでもいいから出て来てくれないかな。この前みたいな、あの幸せな夢でなくてもいいから…。
関連記事
スポンサーサイト



2009-06-04(Thu)

明青さんに感謝

6月4日(木)

今朝は7時ころまで割合ぐっすりと寝られた。それからうとうとを繰り返し、8時半ころ起きる。
さすがに間違って飲んだメイラックスの効き目は無くなったようで、昨日までの猛烈な眠怠さはなく安心。
外は曇り、昼過ぎには薄日が差すが、気温はやや低め。にしても家の中は暑く、温度計を見ると27℃以上ある。
朝の洗顔などを終え、いつものように三津子に「おはよう」と声をかけてお茶を入れ換える。それから花の水も入れ換えて、しおれた花を捨てたり、しなびた葉を取ったりという手入れをする。
台所でしなびた花に「ありがとうね」と声をかけては捨て、ぬるぬるになった茎を洗ってダメなものはやはり捨てる。元気なものは選って、新たに生け変える。
そこで、そうだ、今日は月命日だ、花を買ってこなくちゃ点と思い、10時ころ自転車で近くのスーパーに出かけた。
前にバラを買った食品売り場にあるショボい花のコーナーではなく、フロアに別にある花屋へ行く。ひまわりの元気のいい大きなのとうす紫色の綺麗なユリ、あと白い綺麗な花数本の束を買った。花を買うというのは気持ちが和む。
あの人が生きているうちに、「ほら、花を買ってきたよ」と渡して、喜ぶ顔を見られたら良かったな。でも今はせめて、こうして毎日綺麗な花で囲んであげよう。

それからフードコーナーで今日明日のご飯を買う。そこで食品の日付を見ていて、三津子の月命日は今日ではなく明日だと気付いた。カレンダに月命日と書いてあるのを毎日見ていたし、リマインダーで毎月携帯にメールが来る設定にしてある。一日前と当日に。その「一日前」のメールを見て慌てて花を買いに出たわけか。日にちの感覚も曜日の感覚もおかしなことになっている。毎日、「君が倒れてからもう何日…」と数えて暮らしているのに。
とにかく今日・明日のものを買い、彼女の好きだった空豆を茹でようと思って探すが、野菜売り場には見つからない。それからコンビニでウーロン茶なども買って帰宅。

すぐに花瓶に買ってきた花を切って整えて活け、三津子の写真の両側に飾る。昼は三津子におこわを軽く盛り、俺はサンドイッチにコーヒー牛乳にした。

午後は苔や草に水をやり、それから仕事をしたり。夕方猫のトイレを掃除すると、腹筋と足腰が痛くて往生した。立とうとしたがしばらく動けなかったのがショックだった。

それにしても本当にテレビのバラエティを見る気が全くせず、午後はBSのメジャーリーグの試合が終わったら、ほんとうに何にも見るものがない。元々俺たち夫婦はテレビを「見る」というよりただ何となく一日つけていただけなので、ならばいっそ消した方がいいのだろうとも思う。実際、あの人が一人で京都へ「通勤」していた頃や、入院していた時など、俺一人の時はテレビをつけないことも多かった。
けれど、今こうして本当に一人の生活になると、仕事でパソコンに向かっていてもテレビから何か音が漏れているだけでも何となく気が紛れる。何も音もなく画面も動いていないと、一段落でリビングへ移動した時に、どうしても辛くなる。
テーブルの上には三津子の写真と、花。
その他に俺が視線を向ける場所がない。

夕方5時ころ、「明青」のおかあさんから電話があった。
5時半ころお花とお弁当が届くようにしてあるから、今日は何も作らないでね、とのこと。有り難いやら申し訳ないやらで、「もう大丈夫ですから…」と御礼を言う。
身内でもメールの一通すら来ない日が多くなったというのに、本当に本当に、有り難い。こういう人が居て下さるから、この京都という街を離れがたく思う。
俺は実際もともと生まれは函館だ。その「ふるさと」を自分勝手に捨ててきたような人間だ。親爺は物心ついた時には死んでいたから、母親にとっては辛酸を嘗めた地かも知れないが、俺にとっては小さい頃からいい思い出ばかりの街だ。なのに、大きくなると東京の方が刺激的で楽しいと勝手に「捨てた」。
その東京で三津子に出逢うことが出来た。
三津子と出会い、ふたり一緒に寄り添って暮らすことが出来たこと、生涯をかけて愛する人と出会い過ごしたことが、唯一かけがえのない東京での素晴らしい体験だったと思う。
その三津子が死んでしまった今、もう俺が東京に戻る理由はない。



5時20分ころ、いつも配達をしてくださる花屋さんが明青さんのご飯と花を届けてくれた。メッセージカードには「明日は月命日ですね」「ご自愛ください」と書いてあった。
有り難くて、涙が出た。
たった二人で京都に来て、知り合うことができた人が、こんなに良くして下さる。その有り難さで視界がゆるむ。すぐに三津子の写真の周りを片付け、いただいた花を飾り、それからお茶を入れ換えてお酒をあげる。
そうして写真に合掌した。
お弁当には三色のふりかけがかかったご飯に、美味しそうなおかずが上品に盛りつけられていて、さらに、俺たちが絶品だといつも楽しんでいたサラダ…レタスとオニオンスライス、キュウリの薄い薄い短冊切りに、和風の素晴らしいドレッシングがかかっているもの…もついていた。
このドレッシングは我が家でも真似しようとして、結局二人とも挫折した。ドレッシングが小さなボトルに小分けしてあって、さらに、毎年季節になると出店を出すがすぐに売り切れる農家の冷やしトマトもあった。トマトの皮はちゃんと湯むきしてある。
もう、本当に「有り難い」という簡単な言葉では表せないくらい、感謝の気持ちで一杯になる。
三津子の写真に改めて合掌をし、さらに明青さんご夫婦にも合掌した。

さっそく写真の前に、せめてもと綺麗な小皿を出して料理を盛りつけ、箸を置く。それからビールを淹れて、三津子の写真に目を合わせ、ぐいのみにグラスをあてて乾杯をした。
そしていただいた料理を食べながら「二人で」晩酌をした。

また、明青さんへ行こう、二人で。
まだあの「長〜いカウンタ」に一人で、いやあなたの写真と二人で座って、泣かずに飲む自信なんかないよ。でもこれだけのことをしていただいて、いつまでも「行けない」というのも寂しい。何より、君が寂しいだろう。だって明青さん大好きだったもんね。
そう思いながら、差し向かいで飲む。
関連記事
カレンダー
05 | 2009/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

広告
アフィリエイト・SEO対策
検索フォーム
プロフィール

シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

シンプルアーカイブ
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる