2009-07-31(Fri)

欠けていた原画発見

7月31日(金)

夕べは12時半頃寝たか。
今朝はまた明け方暗いうちから足元にユキが寝ており、どうにも寝返りをうつたびに気を使ってしまうので、熟睡できず。朦朧としたまま8時ころ起きた。
今日は三津子の住民税の納付期限だったので、9時過ぎに納付書を持って銀行へ行く。その帰り道スーパーに寄って、ちょっとだけ総菜とカップ麺をいくつか、それから三津子に小さな可愛い花を一束だけ買って戻った。
こないだ買った小さなバラは2日ほどしか持たなかった。昨日買ったひまわり2輪だけになってしまったので、細かい薄赤い色の小さな花がたくさんついているのにした。

部屋に戻ってから昨日コンビニで買っておいたおにぎり、解凍したたらこでご飯。それから洗濯をする。
下着類の他は軽い室内着、バスタオルやフェイスタオルくらいだから大した量ではない。きっちりアイロンがけが必要なものもないから、そのまま乾燥まで指定する。
その後はiTUNESにLAN上のサーバに保存してある音楽を登録。音量を統一しないとアルバムでボリュームがバラバラだから、その読み込みと診断に時間がかかった。
テレビにHDMIケーブルでPCの画面と音声を出力し、さっそくSTYXのプレイリストを作って聞く。テレビのスピーカの音はそれなりだが、元々見るものが何もないし、かといって画面が暗いのも寂しい…というだけの話だ。
そうして猫のトイレ掃除。今回は二段になっている上下の引き出し共に外して、一度丸い砂を総入れ替え。さらにこぼれて溜まっていた砂も箒で掻き出したり、内側の壁も洗剤とティッシュで丁寧に拭く。
シマはオス猫なのでやたらと砂をひっかき廻して丸い砂をあちらこちらへ飛ばすが、大や小はちゃんと中にしてくれる。ユキちゃんはさっと入ってさっと出てくるが、大はともかく小は腰高でそのまま行うので、後方へ放物線を描いて飛んでいく。これがトイレの外へ向けられると床が小便だらけになるので、ユキのために外にもう一つ受け皿的な薄い尿取りトイレや新聞紙を敷いている。
いずれにしても生き物なので当然排泄をする。その始末は室内である以上人間がやらねばならない。猫の場合、猫自体はいい匂いがして抱きしめたりすると溜まらないが、その代わり(?)大小便の匂いは尋常ではない。冗談抜きで「エづく」(軽い吐き気のこと)ことしばしば。
猫トイレ掃除はけっこう大変な重労働。終わったあとはぐったりして音楽を聞く。

2時過ぎ。
たった今、思潮社のFさんという女性編集者から電話があった。
先日、代表である小田久郎さんからやまだの作品を永久に遺したいと、心のこもったお手紙をいただき(復刊打ち合わせと、新たな嬉しいしらせ)、その後役員の小田康之さんとお話をさせていただいた。
Fさんは今回復刊予定の『樹のうえで猫がみている』の担当ということで、一度京都に打ち合わせに来られるということ。日程はお盆の週は混雑するので、お盆跡の週でということになり、詳しい日程は近くなったら調整するということになる。

最後にFさんは控えめな口調ながら「やまだ先生のずっとファンでしたので、お仕事が出来るのはほんとうに嬉しいです」と言って下さった。
思潮社さんはもちろん(左翼系の現代思潮新社とはもちろん違う)、「現代詩手帖」が有名な、詩では名門の出版社さんだ。こつこつと、いい本を残す誠実な版元だと思う。
やまだ紫が詩人の吉原幸子さん(故人)主宰の『現代詩ラ・メール』に創刊から『樹のうえで…』を連載したとき、版元は思潮社さんだった。途中から発行は吉原さん主宰の「書肆水族館」に変わったが、ずっと思潮社さんが発売されていた。
詩の本は、たくさんの部数が一度に売れるということはまずない。けれど、それでも後世に表現として、文化として残し伝えて行くべきものであることは言うまでもない。
だから、こうした誠実な版元さんが必要になる。それはそれは、傍から見ているだけ、口で言うだけでは計り知れぬご苦労があるだろうと思う。増してや、今はこんな時代である。
ただ、俺が「ガロ」編集部、つまり弱小貧乏版元・青林堂に勤めていたころは、小さいけれども、ベストセラーは出せないけれども、いい作品を、いい本を頑張って世に送り出したい、後世に残したいという気概のあるところがたくさんあった。
それらもここ20年の間にどんどん姿を消してしまったが、悲しいしつまらない「文化」だと思う。

さあ、今度は『樹のうえ…』の原稿を整理しなきゃ。
あとCD-ROMにした時に描き下ろしたカラー原画はどうしたか、まとめて筑摩版のと一緒にあるはずだ。短歌誌『コスモス』さんに連載した作品については、病気で満足な絵が描けなかった時の作品もあるから、掲載にあたって追加するとしたらそれらも選別しなければならない。

いずれにしても、これで順調にいけばやまだ紫の代表的な作品が、4冊は再び皆さんの手にとっていただけることになる。。
まだまだやることはたくさんある。頑張ろう。

そう思ってすぐ、階段下の納戸を開けて『樹のうえで…』の原画が入った大封筒を出して中を見る。ちゃんとCD版のために描き下ろしたカラー原画2点も入っており、安心。あとは筑摩版と筑摩版には未収録だった作品の原画も揃っているし、これらは高解像度…300dpi以上のスキャニングデータもある。
やれやれ良かった、一枚一枚の確認はあとでゆっくりやろう…と思って何気なく脇にあった小さなビニール製手提げ袋の中を覗いたら、何と『性悪猫』の原稿が一枚入っていた。
これは先日一作一作確認した際、一枚だけ欠けていたと思っていた原画だ。
あの
「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば」
…名作「日向」の原稿だった。
「COM」時代に一枚ずつ詩画を連載していた「天空への詩」(そらへのうた)の中にある、「おひさまいっこ」という4作目の作品を、後年青林堂で『性悪猫』を単行本化するにあたり、描き下ろしとしてリメイクしたものではないかと思う。なので「ガロ」掲載作品ではないことは解っている。
それに加えて、同じ袋から『性悪猫』連載前のもので、「COM」後からいわゆる「休筆期間」の間に描き溜めていた、猫の細密な線画が2点入っていた。
スチロールの板で保護されていて、恐らく何かの展示に使ったと思われる。これら猫の細密画は『性悪猫』の原画整理の際、けっこうな枚数が束で見つかったので、もう小学館クリエイティブのKさんの元へ送ってある。だが額装とまでは行かぬものの、展示用に自分でスチロールを「マット加工」までして保護したのだから、気に入った絵だったのだろう。
これはぜひ、収録してもらわなければ。
そう思い、Kさんの携帯へ電話して報告すると、
「そうですか、それはよかったです。助かります」とのこと。あそこは2色の頁だったので、原画がないと本から起こさねばならなかった。そうすると2色の頁から起こすことになるので、やはり原画があるのと無いのでは仕上がりは雲泥の差だ。
さっそくさらに保護しエアキャップのシートで保護し、封筒をつなげて宅急便で送る手配をした。
やっぱり「お日様いっこ」も、その他の名作と一緒に居たかったのだ。良かったなあ。
関連記事
スポンサーサイト
2009-07-30(Thu)

連れ合うひと

7月30日(木)

夕べは11時過ぎにレンドルミン飲んで床に就いたのに、2時過ぎまで寝られず、ようやく寝たと思ったらすぐ朝。足元になぜかシマがいて気になって目が醒め、朦朧としていたら今度はユキがにゃあにゃあ鳴いて起こされた。時計を見たら8時前。
「ユキちゃんちょっと早いよ」と声をかけるが平気でにゃあにゃあと鳴く。
結局そのまま8時すぎに起きる。外はいい天気になっている。青空に白い雲。暑くなりそうな気配。

朝は調子が悪く、カップ麺で簡単に済ませた。
ところでこの「どん兵衛」の「鴨だしそば」というのはなかなか関東の人には溜まらない味に仕上がっている。けれど関西人にはこの濃い目の醤油味が馴染めないのだろうか、冬に少しの間コンビニで見かけた後は、どこへ行っても置かなくなった。

今日は仕事をほとんど休み、10時過ぎに自転車でスーパーへ買い物に行った後は、ネットでニュースやあちこちのサイトを見たり、本を読んでだらだらと過ごす。
台所の流しにある蛍光灯が寿命で点滅を繰り返すようになったので、蛍光管を買った。我が家では引っ越してからほぼ2年間、24時間ついていた。蛍光灯は点滅を繰り返すようになるととたんに電気代がかかる仕組みになっているから、早めに取り替えた。
買い物は三津子にひまわりを2本と、あとは今日の夕飯に弁当と総菜類、野菜を入れて炒めるだけのレトルトおかずとか。
そういえばついこの間、お袋から電話があって話していた時に、俺が普通に掃除洗濯や料理をするというのを聞いて驚いていた。別に三津子が亡くなったからというのではなく、上京してしばらくは自炊をしていたし、団地で一緒に暮らすようになってからも普通に「言われれば」だが手伝いはしていた。
子供たちが独立して二人だけになってからも、お互いが助け合うのは当たり前だと何の疑問もなく思っていた。フェミニズムがどうだとか、そういう堅苦しい思想やポーズとか、そんな次元の話ではない。
顔を洗ったり歯を磨いたりする時にそれほど手順や決まりをいちいち考えたりはしない、それと似ている。普段から夫婦で自然に役割分担が出来上がるのが自然だと思うし、「話し合い」や「取り決め」などせずともそれが呼吸をするのと同じような感覚になるのが、連れ合いだと思う。
片方が病気をすれば日常の家事はもう片方が思いやる、動ける方が動ける時に動く。当たり前だ。
確かに三津子は、自分が病気で入院がちになって、俺の包丁さばきが上達していくことを、複雑な思いで見ていたようだ。エッセイでもそのことを「申し訳ない」と書いていたと思う。
「申し訳ない」と思われるのは辛い。もっと早くからいろいろと助けてあげられたら良かった、と思っている。若い頃、会社から帰ってきて、確かにへとへとに疲れていたが、彼女は冷えた缶ビールとコップをくれ、笑顔で夕飯の用意をしてくれた。
俺が外で働いている間も自分だって仕事をしながら家事をこなしてくれているのは知っている。そこへわざわざ考えを巡らせなくても、考えなくても、そんなことは当たり前の話ではないか。そして、8時になると子供たちを子供部屋へ「はいはい、これからは『大人の時間〜』と移動させて、お互いに「お疲れ様」と改めて晩酌をしたものだ。

そういえば最近「AERA」の記事で、専業主婦が無償で家事を行うのはおかしい、家事も労働だ…というので夫から弁当代を徴収したり、「夫婦生活」さえ料金を取るという
「本当かどうか疑わしいが、何年も前からまことしやかに伝えられるネタ話」
をまた、掲載していた。
ネットでも袋だたきにされているが、これはもちろんいわゆる「釣り」というわけだろう。「夫婦の間のことなんだから金で解決することを二人が良しとすれば、周囲がとやかく言うことじゃない」…という「物わかりのいい意見」も見られるが、問題はそういう「夫婦が家庭内で納得していればいいだけのこと」を「マスコミ」がさも進歩的なようにで、見習うべき例であるかのように取り上げることの愚にある。
夫婦は愛し合い、お互い求め合って一緒になったはず。四半世紀近くも一緒にいれば、その関係は性愛を超え(超えなくてもいいが)、やがてお互いが自己の体の一部のようになってくる。相手が病気をすれば自分も苦しいし、その痛みも自分のものとなる。小さな諍いやケンカはしても、一番深いところで「心」「精神」がつながっていることはお互いに解っているから、塞ぎきれないほどの亀裂は生じない、生じる前に「自分たちの体を自分たちで守る」免疫力のごとき力が働いて、治す。
そうは言っても、俺はそこまで完璧に彼女を守ってあげることは出来なかった。
三津子は、自分のことと俺を同じこととするどころか、自分よりも俺のことを常に気にかけ心配し、優先してくれた。人間、何だかんだいっても究極、ほんとうの極限のところでは結局「自分」なのではないか。
聖人や映画のヒーローみたいな生き方は、なかなか凡人には難しいと思う。
日常、かなりのところでそれに近いいたわりをお互いに持つことは微笑ましく、実際そうありたいと思って生きてきた。けれど、彼女のように自分の命を賭してまでも相手を守る、愛するということを貫いたひとを、俺は他に知らない。いや、彼女に幸運にも愛されたおかげで、俺はそういう人が実際にいるのだということを知った。そしてそんな価値が自分にあるのか、今でも毎日疑問に思っている。
ほんとうに、人間とは弱く、脆く、不完全で、利己的で、欺瞞に充ち満ちた存在だと思う。日々、自分の未熟で傲慢で無知でカスのような生き様を恥じている。
ただそれは彼女の無償の愛に対してであって、俺は、人を陥れたり、騙したりして、人の不幸の上に利益を得ようとしたことはないし、その意味では我ながら「ちゃんと生きた」自負はある。
だが三津子の自己犠牲と愛、そして「やまだ紫」という偉大な才能の前では、俺なんか鼻くソ以下のゴミみたいな人間だと思うだけだ。
だから、彼女の素晴らしい作品を後世に伝えるためなら何でもする。たくさんの方に「あんまり頑張らないで、お体を大切に」と言っていただくのは本当に有り難く嬉しい、でも俺の「体」なぞ、今となっては半分ヌケガラのようなものに過ぎない。
魂が、半分もぎ取られたから。
むき出しでダラダラと血か体液が流れ出て行くのをじっと見ているのが辛いので、何かをしていないといられないだけなのだ。
その「弱さ」「脆さ」を自覚しているから、情けない。


夕方。
昨日ポストを見に行くと、冊子小包が一つ入っていた。
山本ふみこさんからだった。
山本さんはやまだ紫最後の単行本となった『愛のかたち』をPHPさんにつないで下さった、編集者・エッセイストの方だ。
入っていたのは「mom」というイオンのイオンクレジットサービスの会員向けの雑誌で、山本さんが連載エッセイを書かれているものだった。
三津子の死後に「お二人のことを少し書かせていただきます」と言われていたのだが、やまだ紫の訃報について書いていただいた。心にじんと来る、一文だった。

俺にもう「連れ合うひと」はいない。そのことが寂しくて悲しくて、心が痛くて仕方がない。だが、目には見えないだけなのだ、それは彼女が倒れてからの、あの辛い日々に他ならぬ三津子が教えてくれたことだったじゃないか。
読んでから、三津子の霊前に置いて合掌した。

それにつけ、やまだ紫という作家を悼む記事や論評が、
まったく、漫画界から聞かれないこと
がほんとうに信じられない。

やはり「マス」で売れるものイコール良い作品ということなのかと、改めて絶望感を覚える…というより唖然としているというのが正直なところだ。
日本が今世界に漫画だアニメだゲームだ…と騒いでいるが、それらは全く別世界の話。
やまだ紫という作家は生前からそうだったが、漫画界よりもむしろ、詩や短歌など他の分野からの心に沁みる追悼が多く寄せられていて、追悼の記事もこうした婦人誌が多い。
それらの書き手の多くは編集者やライターとして表現に関わってこられた「女性」ばかりだ。
それでも、彼女の作品を正当に評価し、後世に残したいという方と共に、その仕事を全うしたい。いや、絶対にさせる。

夕方、こないだ「ちょっとまずい兆候」があったとここで書いたら、ゆうちゃんが「大丈夫?」と電話してきてくれたので、このところ疲れていただけだから大丈夫だと話す。

実際のところは俺には時間がないと、気ばかりがあせっている。
関連記事
2009-07-29(Wed)

神の見えざる手

7月29日(水)

夕べは12時過ぎには眠れたが、朝方4時過ぎにまた目が醒めた。寝ようとしても寝られない。下へ降りてレンドルミンをもう1錠飲み、すぐにベッドに戻る。その後5時過ぎあたりから何とかうとうとする。

途中、一度だけリアルな夢を見た。

いや、夢なのか何なのか、俺は夢の中でも同じようにベッドに寝ていて、ふと枕元に目をやると、東京で使っていた大型ブラウン管テレビを置いている場所に、三津子が立っていた。
思わず大きな声で「みつこー!!!!」と叫んだ。
実際に声を出したかどうか定かではない。ただそれで、はっきりと目が醒めた。
怖いとか悲鳴などではなく、もちろん、とうとう出て来てくれた、来てくれたんだという喜びと、嬉しさしかなかった。自分では大声外はもう明るく、時計を見ると7時ころだったか。

彼女が立っていた…はずの場所には元通り大型テレビが置いてあって、その上には不要なコード類を突っ込んだ箱が積んである。
三津子はそれらを置いてある脇にある、押し入れ部分が出っ張っている壁にちょっと寄りかかるようにして立っていた。そしてこちらをじっと見ていた。
笑っているわけでもなく、かといって怒っているようでもなく、ただこちらを見ていた。
上はフリースの白に雪の結晶模様のやつで、下はやはり赤のフリースでパンタロン型のだった。倒れた時の服装(白地に花柄、下は茶だった)ではないが、あの頃よく着ていた、ユニクロの冬物の室内着だ。
なぜか顔のあたりがぼーっと赤というかオレンジっぽく光っているように見えたのを記憶している。
もちろん俺は「大声を出した」のだけど、喉の感じから、どうやら俺が現実に声を発したわけではないらしかった。
だから今のは夢なのだ、と悟った。それでも嬉しかった。
夢ならばすぐに忘れてしまう。なので、ベッドに寝たまま、立っていた場所、表情、服、色などを反芻した。そういえば髪型が違った。10年ほど前のショートカットでパーマが少し伸びたような感じ。しかし着ていた服がつい最近のフリースというのが不思議だった。
とにかく忘れぬよう、覚えておこう…としているうちにまた寝てしまい、8時半ころにユキがベッドに上がってきて起こされるまで寝た。
今日は薄曇りながら比叡山頂はよく見えた。合掌。

朝のことを済ませて、下へ新聞を取りに行って戻る。
その後、昨日スーパーで買っておいたオムライスをレンジで温め、食べながら新聞を読む。

読売はこのところ、記事というか囲みで「マンガ50年」という特集を連載していて、劇画のあたりはけっこう面白かったが、このところは「ジャンプ」として『少年ジャンプ』について。
その中で漫画家の次原隆二氏が新潮社「コミックバンチ」で80年代前半の『ジャンプ』編集の現場をモデルに『リーダム』という連載をしていると紹介されていた。彼自身「よろしくメカドック」という作品(82年)で『ジャンプ』に連載していた漫画家であるが、堂々と
「マンガはマンガ家と編集者のコンビネーションでできるもの」
と述べているので、やはり「メジャー」「マス」の方らしいな、と思った。

俺の師匠である長井勝一翁は
「漫画ってのは絵とお話(ストーリー)の両方があって成り立つんだからよ、それを一人でやっちまう漫画家は小説家より絵描きより偉いっちゃ偉いんだよな」

と話してくれた。
この耳で確かに聞いているし、覚えている。
俺は今でもそう思っているし、たった一人で、「無」から「作品」へと昇華させる素晴らしい作家が「漫画家」であると理解して生きてきた。だからそういう人を俺は小説家や写真家や画家や詩人や音楽家と同じように「作家」と呼ぶ。「漫画家」も「作家」だと思う。
編集者の「助言」というのは確かに必要だが、俺の了解では、それは作家に「求められれば」の話である。調べ物をして欲しいと言われれば走り回り、どうも展開に詰まったと相談されればアドバイスはする。(もちろん「ガロ」なので、アシスタントをしろと言われればした)
こうしたらどうか、こうしてもいいんじゃないか。でも最終的にはそれらは「作家が決めること」だろう。
作家が世に問うことは「作品」という自分の「作家性」の発露としてのものしか、ない。
自分で自分の「作品」のことを「解説」したり「弁解」する人もいるが、そういうことは「あまりしたくない」という人が「ガロ」には多かったように思う。
当然取材などで聞かれれば仕方なく答えるが、例えば、やまだ紫はいつも
「何でいっつもいっつも、
『あなたにとって漫画って何ですか』とか
『あなたのなになにという作品はなにを言いたいんですか』とか、考えもなしに聞いてくるんだろう」

と言っていた。
「(そういう質問をされるたびに)うんざりする、作品読んでよ! って思う」
とも。
一読して幼児から大人までが、それこそコマを追っていくだけでその全てを「理解できる」ような作品は、それはそれで存在意義はあるだろう。
けれども「表現」とはそういう直裁なものだけではもちろん、ないだろう。
であれば「この作家はこの作品で何を言わんとしているのか」を考えることは、読み手にとって一つの愉しみであり喜びである。そしてそれは必ずしも作家の言いたいことと一致せずとも良いのだと思う。当たり前のことだ。
だから聞くとすれば、「私はこう受け取りましたが」という自分なりの解釈を述べるのが礼儀というものだろう。

「作家」とは作品を生み出す才能ある人間のことで、「編集者」とは単にそれを世に送り出すお手伝いをする人間だ。場合によってはサポーター、プロデューサー的なこともするだろう。でも基本的に作家が一番偉いのであって、編集者がオラオラと前に出るものではない。縁の下の力持ちでしかないし、それでいいと思っている。
実際プロの現場では小説でも漫画でも何でも「名作」の「作家名」は世間に知られるが、では担当編集者はと聞かれてもそうそう出てくるものではなかろう。
「メジャー」の世界ではしばしば、「名物編集者」として担当が有名になる場合もあるが、それは作家の側が「この人にお世話になりました」と言ってくれる結果であれば、喜びだと思う。でも自分から「俺が俺が」と出てくる編集にはロクな野郎はいねえじゃねえか、と昔から思う。(ただ取材や記事に関しては、責任の所在という意味で編集者であっても「署名記事」にすべきだということも、持論ではあるが)

「超」のつく大手の、「ド」がつくメジャーの、「マス」がつくコミックの世界では、当然ながら何度も何度も言ってきているように、「商売」「銭・金」「市場原理主義」という価値観優先になることは、幼児じゃないんだから嫌というぐらい承知している。
ただ「漫画家」と名乗るなら、一人で素晴らしい作品を世に送りだそうと思うのではなかろうか。自分が自分であるという煌めく個性と作品の輝きを目指すのではなかろうか。
でも世の中はそんなきれい事だけで食っていけるほど、甘くはない。ゼニカネのために平気で「編集者」の言いなりに不必要なパンチラを描かされたり主人公の名前を変えさせられたり話の筋そのものを変えられたり突然無理矢理打ち切られたり…を受け入れることも、それは全く否定しない。
ただ俺はそれを「作家」と呼ばないだけだ。個人的な価値観の話です。

たとえば編集者が「俺の言うことを聞け」「俺がオマエを育ててやる」「言う通りにしてれば売ってやる」「アンケート下がってるぞ!」「もっと読者にサービスしろや!」とマンガ屋の頭を押さえつけてブンブン振り回そうが、それでも「わかりました!」と出来る人がいるのを、俺は本当に凄いと思う。
尊敬するとかきれい事は言わない。尊敬は出来ないが、俺には絶対に出来ないという意味において、驚嘆する。だって普通、そんなことされたらそいつボコボコにして、以後商売で漫画描くのを辞める、俺なら。
「ガロ者」だから。
おなじ記事中、『ジャンプ』黄金期の名物編集者だった西村さんが
「新人賞で落選した原稿を、夜中に編集部員がコツコツと呼んでいた」と話しているが、この人は
「売れないマンガなど存在しないと同じ。売れるマンガこそいいマンガなのだ」と公言し憚らず、『ジャンプ』の黄金時代を作り上げた人ではなかったか。
いや、それはだからそれでいい。だが過剰なという言葉では追いつかぬほどの「アンケート至上主義」=「市場原理主義の極み」のような体勢で、いったいどれだけの才能が「人気がないから」ダメ作家、「売れないから」駄作、という理由で消えていったのか、俺はそっちへどうしても思いが行ってしまいます。
新人賞落選作を編集部員がコツコツ読む…それはどこの編集だって当たり前にやっていることだと思う。俺たちも、「ガロ」の毎月の入選作をどれにするか、毎日何通、日によっては何十と来る作品に目を通してましたよ。(「ガロ」の実売部数を考えたら、それは大変な投稿作数です)ことさらに自慢することでもない。
俺たちは「見たことのない個性の輝き」を探すために投稿や持ち込みの作品をコツコツ読んでいたが、「取りこぼした砂金が爪の間や服の縫い目に残ってないか」血眼になり金金カネカネ、ってことだって、別にそれはそれでよかろう。そのことを別に美談とか綺麗なことだと言わなければ、の話だが。
記事の結びは「アンケート至上主義が生んだ異様な熱気。それは(中略)やがてマンガ雑誌史上最高の発行部数653万部へと押し上げていく」となっている。そうですか。

『アサヒグラフ』…それにしても漫画といえば「マス」のコミックにしか目を向けない悪癖って、もう無くなったのかな。いや、かえって30年40年前の方が、新聞や週刊誌などの「マスコミ」様の中にも「いい漫画を取り上げてやる!」という気骨ある記者がいて、「ガロ」や「COM」を取り上げたり、作家を紹介してくれたよなあ…と思う。

そういえば先日、『アサヒグラフ』のバックナンバーの見出しに「新進マンガ家 やまだ紫の世界」とある号を発見した。1982年、4月23日号だ。単行本は『鳳仙花』『性悪猫』『鈍たちとやま猫』、そして『しんきらり』が出版されたばかり。凄みのある女流作家として注目された頃だ。
『しんきらり』を読んで、よく「世のオトコたちが震えあがった」という評判を聞かされたものだ。本人は「こっちから見たら当たり前のことを描いただけなのに」と言っていた。本当に、男って結婚した途端に無神経になるものだとも。いや、結婚する前も、している間も、ひょっとしたら終わった後も、女が基本的に男とは違う生き物であり、当然ながら女は妻であり母にもなるという「現実」に目を向けないだけなのかも知れない。
この『アサヒグラフ』では、後に『はなびらながれ』に収録される「烈風」という作品と、モノクロながら彼女の写真がずいぶんグラビアとして使われている。もちろん彼女はまだ若く、髪は長くてメガネはずいぶん大きい。
この「特集」内には、齋藤愼爾さんがやまだ紫へのインタビューを元に構成された文章を掲載されている。
先日、小学館クリエイティブのKさんが我が家へ来られた際、『しんきらり』の復刊について話していた時、この『アサヒグラフ』のことを思い出してお見せした。

Kさんは頁をめくると、
「ええっ、齋藤さんが書かれてるじゃないですか! つい一週間ほど前にお会いしたばっかりなんですよ。美空ひばりについてようやく本を出せたよ、って言われて一緒に飲んだんです」
と驚いていた。そして
「これ、『しんきらり』に載せませんか? 齋藤さんなら承諾していただけると思いますし」ということになった。
俺も、それは新しく手に取っていただける読者の方に、いいプレゼントになると思った。

ほら、「偶然」なんてない。
彼女の作品は、後世に残されるべきものとして、もう「神の見えざる手」によってことが動いている。
関連記事
2009-07-28(Tue)

診察日・原稿は東京へ

7月28日(火)

昨日は寝る前、どうにも腹が張って一日便も出なかったせいか苦しかった。朝から掃除だ何だと働いたせいか、両腕に痺れのような痛みもあって、やっぱり病人は無理しちゃいかんなあと思った。
夕方5時ころ小学館クリエイティブのKさんを見送ったあとは、ビールの代わりにオレンジジュースやお茶、水などの水分を多めに採った。昼間だらだらと汗を出して掃除をし、シャワーを浴び、水分不足の上にビールしか飲んでいなかった。ビールは水分補給というよりは利尿作用があるので、実は逆効果。ゆえに夕べは11時ころ同眠剤を飲み、早めに2階へ上がって休むことにした。

しかし一仕事というか一段落区切りがついたこと、やまだ紫の代表作である3冊が年内に出せそうだというメドがついたことが嬉しくて、気持ちが高揚してしまったのか眠れない。暗い中、
全部、あなたの人徳と遺した素晴らしい作品の賜だよ。俺はそのホンのちょっとの手伝いをさせてもらってるだけだし、そのことを誇りに思う…。
結局1時近くまで眠れなかった。

今朝目が醒めると7時ころだった。
今日は十週間ぶりの自分の診察日だ。
外は薄曇り、比叡山頂はひとかたまりの雲に隠れている。予報では午後から雨が降るというので、折りたたみ傘を用意しておいた。
朝はペットボトルのミルクコーヒーを飲むと、しばらくしてようやく便が出たので、ホッとする。夕べから続いていた腹の張りもおさまったが、昨日夕方からの水分補給が過ぎたのか、逆に下痢を2回。やれやれ、やっぱり「特急」か。
京大病院の診察予約時間は10時10分。採血は1時間前が目安だから、8時45分ころに支度をして出た。

道路を向かい側へ渡ってタクシーで病院まで。960円。東京に居た頃より、往復してもまだ安い。
すぐ自動受付機で連絡端末を受け取って、二階の採血受付へ行くと、なぜか長蛇の列だ。前の父娘らしい二人連れも「おかしいなあ、いつもこんなんあらへんのになあ」と顔を見合わせている。9時5分前くらいには並んでいたと思うが、俺もこれじゃいったいどれくらい待たされるんだろうと戦々恐々。
しかし5分くらいでじわじわ列も進み、番号はA-174。AかBかは採血カウンタの違いで、174人目ということで、いつもと比べてそれほど多くはない。何でこんな行列だったんだろうと不思議な気持ちで座って待つと、けっこう早く数字が移動して、採血室の中の待合へ移動。そこで4〜5分待って順番が来て、採血が終わると9時10分台だった。
まあ診察予約時間まで1時間あるから、結果も間に合うだろうと思い、同じフロアの血液・腫瘍内科の外待合に座る。それからまた下痢でトイレへ行く。

それからずっとひたすら待ち、10時10分になっても端末は「病院内でお待ち下さい」のまま微動だにしない。普通は診察時間が近づくと「外待合へ」になり「中待合へ」となり、最後は「診察室へ」と、その都度バイブレータと音と共に連絡表示が変わっていく。
延々30分過ぎてようやく「外待合へ」となるが「もう居るし…」と思いつつ、近くでゲヘンガホンとマスクもせずに咳をしているオバハンが居たので、離れている採血受付の方の椅子へ移動。
吹き抜けの病院メイン受付のフロアを見下ろしてひたすら待つ。大画面のテレビではNHKの「まほろば総体」(?)の開会式の様子を写しており、皆それをぼーっと眺めている。
1時間近く経ったところで「中待合へ」となったので、診察室前の廊下の椅子へ移動。I先生の診察室の前の椅子は埋まっていたので、奥隣の診察室前に座って待つ。ちょうど一人患者が出て行き、入れ違いに一人入ったところで、次かな、次だといいなあと思いつつ待っているとその人が15分近く経って出て行き、それから数分で「診察室へお入り下さい」と手元の端末が鳴った。11時15分か20分だったか。

I先生は「お変わりありませんか」と言われるので「ないですが連れが亡くなった後は不眠が多くて…」と訴える。今は処方していただいたレンドルミンを1錠ではなく2錠飲んでいると伝えるが、今後そうして、それ以上別なものを増やさない方がいいということになる。
採血の結果も変わりはないということだったが、血液中のリンパ球の割合などが細かく出るのを待っていたが間に合わなかったとのこと。でも他の所見では変化なしということで一安心。その後ベッドでいつものように脾臓の大きさも測って貰うが、変わりないということ。良かった。
このところ「ビールが好きなものでちょっと尿酸値が…」と告げると、「ああ、夏はおいしいですもんねえ」と笑われてしまう。でも尿酸値が上がるのはこの病気の傾向でもあるそうだ。今はザイロリック錠で抑えており、副作用も出ていないから「このまま薬を飲み続けていきましょう」ということ。心配していたγの値は140と高めだったが、これはビールのせいだろう(笑)。
最後に「今は慢性の骨髄性白血病にはいい薬があるそうですね」と言うと、
「そうですね、あれはもう10年ほど前から使われて効果をあげてるんですが、白取さんのタイプにはまだ…。」とのこと、それは俺もよく知っている。
「でも、もう時間の問題だと思いますよ」と言われる。確かにここ10年15年の医学の進歩はそれ以前とは比較にならぬスピードで、新薬も次々と開発されている。白血病についても各国が分担でゲノム解析を行っていて、たしか「慢性リンパ性白血病」はスペインの担当じゃなかったか、何かで読んだ記憶がある(スペイン…シエスタ…ワイン…と思うが頑張っていただきたい)。
「それまで病気が大人しくしてくれればいいんですけどね」と言うと、先生も「そういうことですね」と笑顔で言われる。とにかく今のところは俺の癌も大人しくしているようなので、次も10週間後でいいでしょうということで、次回は10月6日の同じ時間ということになった。

御礼を言って診察室を出て、心の中で
「三津子、ありがとう。また進行が無かったよ」と報告する。報告というより、彼女が守ってくれているのだ。有り難い。俺にはまだやることが残っている、それまではちょっとだけ待っていてよ。
いずれすぐ、逢いに行く。でもまだ、ダメだ。

それから下へ降りて会計に並び、10分足らずで2千いくらと金額が端末に表示されて支払いを自動精算機で終えた。
朝から何も食べておらず、下痢ばかりでさすがにお腹が空いたので、病院のレストランで醤油ラーメンを…と思ったらちょうどお昼前で客が並んでいるのが見えた。どこか外でというのも一人じゃつまらんし、何かを食うと大量に発汗するから、ここで済ませておこうと思いドトールでレタスドッグと黒糖ミルクコーヒーを食べた。

食べながら、三津子が脳死状態にある間、ここでレタスドッグを食べたことを思い出した(連れ合いが倒れた 17 )。彼女が元気だった頃だって、お互いの診察日にはお互い相手を待って、醤油ラーメンを二人で「おいしいね」と食べたこと(京大病院の「醤油ラーメン」 )も、今はすっかり大きな囲いが出来た癌研究棟の基礎工事を何十分も眺めていたことなども思い出す。でも泣かなかった。
食べ終えてすぐタクシー乗り場へ行くと、雨がぽつぽつ降ってきた。傘があるのでそのままうちの近くのスーパーへ向かって貰う。道々、やっぱり彼女と一緒に入った店、歩いた道を見ていると、濃密な京都での一年半の記憶や思い出が蘇る。でも、泣かなかった。

スーパーで来客用のスリッパ、俺の室内用サンダルがいかれたので新しいのと、ご飯を冷凍してそのままレンジで解凍出来るパックなどを買う。今までは薄手のビニール小分け袋で冷凍していたが、あれはレンジで解凍するともの凄い大きさに膨らんで破裂するのだ。どうでもいいが。
それから食品売り場で今日の晩、明日の日中のもの、総菜などを買い、花屋でバラを2束と小さな蘭の一種…名前を忘れた花を買い、歩いてマンションへ帰る。両手に荷物を持っていたが、幸い雨は上がっていたので助かった。
途中マンションの隣の調剤薬局に処方箋を渡して「後で取りに来てもいいですか」というと快諾してくれる。

部屋に戻ると汗だくだった。
冷凍食品や野菜などを冷蔵庫へしまって、花を花瓶に活け、三津子に手を合わせる。
「ありがとう、君のおかげでまだこうして進行なく生きていられるよ」
それから隣の薬局へ降りて薬を受け取って戻った。
宅急便のに原稿を入れた大箱を取りに来てくれるよう頼み、一息ついたらまた下痢。

詳しくは書きたくないが、ちょっとまずい傾向があった。
今は猫たちの世話も俺しか出来ないし、三津子の本のことも原稿や原画の整理も、とにかく俺じゃなきゃダメなことばかりだ。
きっと、ここ数日自分でも無理をしすぎたと思う、だから疲れが出たんだろう。だって俺、癌患者だしな…。
怖い、という気持ちよりまずい、やばい、もうちょっと待ってくれ、という思いが強い。まだ死ぬわけにはいかない、もうちょっと、三津子のためにやることがある。それまでしばらく猶予を下さい。午後1時50分


そのあと、思潮社さんに電話をして「専務の小田さんはいらっしゃいますか」と告げる。小田康之さんは思ったより声の若い方で、こちらがやまだ紫の夫というと、小田久郎さんから話は聞いているとのこと。
『樹のうえで…』はかつて思潮社が出していた「ラ・メール」での連載作ということもあるし、ぜひにと言っていただく。
筑摩書房から出た版は、ずっと「品切れ」のまま放置されていたのでやむなくCD−ROM化をしたが、その時に描き下ろしたものがカラー作品であるのと、近年短歌誌「コスモス」さんに連載した同じ形式の詩画作品が20本ほどあるので、それらを増補すれば以前買って下さった方も再び手に取っていただけるのではと言うと、それはぜひ、と言っていただいた。
現場と話してこちらへ来ていただくなり、詳細は相談の上ご連絡しますと言っていただく。
良かった。話している途中で有り難さで少し涙が出そうになって声が震えて困った。でも本当に良かった。
電話のあとは、今日は休むことにしてソファに転がる。


午後2時51分、たった今ヤマト運輸が三津子の原稿を収めた大箱を預かって行った。
彼女の名作、入魂の原稿。『性悪猫』『しんきらり』『ゆらりうす色』…。
原稿が東京へ向かった、いや、帰って行った。
しばらくはまた本になりかたちになる日を待つ。
写真に手を合わせ、「送ったよ」と報告。
俺はまだ「死ぬ準備」も完了していない、原稿の整理も単行本の話も進めなければ。
関連記事
2009-07-27(Mon)

復刊打ち合わせと、新たな嬉しいしらせ

7月27日(月)

夕べは「続しんきらり」の原稿保護作業を終えた。これで小学館クリエイティブさんから復刊される3冊の原稿は全て確認・整理を終えた。なので「お疲れさん」で晩酌の支度をする。
といっても冷蔵庫にはろくなものがない。このところ原稿の整理・確認作業が続き、買い物に出なかったから、コンビニの冷凍食品などで我慢する。空豆の塩ゆで、ポテトフライ。それと冷蔵庫に残っていたピーマンで、きんぴら風の炒め物を作った。ごま油を熱したところに細切りのピーマンを投入し、フライパンを返しながら塩コショウ、ガーリックパウダ−を振る。仕上げは鍋肌から醤油を注いで絡めたら出来上がり。いい肴になりますよ。
これはそれこそ「何もない時」に三津子がちゃっちゃっと作ってくれたものだ。あの『ゆらりうす色』で笑美さんが「愛人」を待つ時の様子に似ている。「あり合わせ」という言葉は悪い印象もあるが、「相手に今あるもので待たせず精一杯のものを作る」という暖かい情景が思い浮かぶ。気持ちの問題だと思う。
それやこれやで三津子のグラスとぐい飲みにビールを「乾杯」とあてたら8時だった。

寝たのは11時ころだったかよく覚えていない。ビールを飲み過ぎてしまい、二階へ上がってすぐに寝た。レンドルミンを飲むのさえ忘れたが、飲んだせいかちゃんと寝られたのは良かった。
ところが朝目が醒めたら4時。結局5時になっても寝られず、起きてしまった。
朝の諸々を終えてベランダの苔や草木に水をやり、昨日ここで公開した三津子、いや「やまだ紫」の作品リスト、昨日のブログを見てメールを下さった「漫棚通信」の細井さんが教えてくださった部分を補完した。(細井さん、ありがとうございました!)

なるほど「復帰作」と勘違いしていた「ときどき日溜まりで」は、単行本『性悪猫』に収録されている「ときどき日溜まりで」ではなく、「背中合わせ」と改題されて青林堂版『鈍たちとやま猫』に収録された話だ。
筑摩の作品集では初出で「1978年12月号」と表記されているが、はなのまり編「ガロ総目録」やそれを元にした各種リスト、TBSブリタニカ「ガロ曼陀羅」の巻末リストなどでも、12月号は「ときどき日溜まりで」となっていて、同じ名前の作品が『性悪猫』に収録されている。『性悪猫』一つ一つの作品の初出が記載されていない以上、バックナンバーで確認していくしか方法は無かったのだ。
つまり、彼女の「結婚と出産・育児による休筆」からの「復帰作」と言われた「ときどき日溜まりで」は、これから始めようとした連載作品のストーリー名で、その二回目が1979年2/3合併号の「ときどき日溜まりで 性悪猫」なのだ。こちらが次号から「性悪猫」というタイトルでの連載の事実上第一回である。

バックナンバーを調べて下さった細井さんによれば、作品の扉には「ときどき日溜まりで 性悪猫」とされているが、「性悪猫」の方は副題としてかなり小さく、(性悪猫)とカッコ内に表記されているそうだ、。だから当初は「ときどき日溜まりで」をメインタイトル=シリーズ名とするつもりだったことは間違いないだろう。
しかしなぜか、その号のガロの目次では「性悪猫」と表記されているという。
このあたりどうしてそうなったのか、流れは当時のガロ編集部にいた人間しか解らないし、たぶん覚えている人もいないだろう。なにせもう35年前(!)のことなのだ。
そして1981年の単行本『鈍たちとやま猫』に収録された「復帰作」の方は、収録にあたって「背中合わせ」と改題された(筑摩書房「やまだ紫作品集4」所載)ので、まずはバックナンバーと収録作品を付き合わせなければ確認できなかった。

いずれにしても、細井さんのお陰でずいぶん助かった。
やまだ紫作品のリストは「ガロ」に関してだけは、これで1990年まではほぼ完璧に把握できたので、あとは他紙に発表されたもので、『鈍たち〜』のように初出一覧表記のない作品の調査が必要になる。だがこれはいっそう困難を極めると予想される…。

もう夜7時前になった。外はまだ薄明るい。

早朝に目が醒めて眠れなかったわけだが、6時過ぎからソファでそのまま、三津子が寝ていた同じ場所に同じ方向で、初めて寝た。
テレビはつけていたので時おり目が醒めて、途中からメガネを外してテレビも消して本格的に寝る。朦朧として、今日は小学館クリエイティブのKさんが来られるので、部屋の掃除などせねば…と思いつつ、朦朧とする。眠気に抗えずにそのままソファでうとうとを繰り返し、10時半ころ起きたのだったか。
洗顔して歯を磨き、今度こそ本当に起きて、おもむろにソファの上のものをどかして、掃除機をかける。ソファはちょっとほっとくと猫の毛だらけになるので、T字型の吸い口を取り付けて、丁寧に毛を吸引していく。面白いように毛が取れるが、けっこう大変な作業。
それから前から気になっていた、リビングの絨毯の汚れているところの向きを変えようと、ソファをエイヤと動かして絨毯を外すと、もの凄いホコリとゴミが舞う。
三津子側のソファは二人掛けなので力をこめてエイヤと縦に起こすと、下に三津子の履いていた靴下の片方やらインスリン注射器、スリッパ、ティッシュの丸めたのやらがごろごろ出てくる。ゴミは取ってホコリなどは掃除機で吸引する。スリッパなどは面倒なので放置。一人だと大変な作業なので、絨毯を少しずつずらしながら何とか外していったん丸める。
これを機会にいっそのことフローリングだけにしようかとも思ったが、絨毯を置いておく場所もないし、捨てるには惜しい。二人で引っ越してきてから一緒に選んだカーペットなのだ。なので向きを変えて汚れている方をソファの下にして、汗だくで敷き直した。
何とかそれを終えて掃除機を仕事部屋、リビング、台所、廊下、トイレ…とやっていく間にぽたぽたと汗が落ち、何度もメガネに汗が溜まる。ダイソンはサイクロンゆえ綿埃には弱いので、しょっちゅう止めてはゴミ袋に猫の毛の綿埃を捨てては掃除機をかける。何とか掃除機は終えて、今度はフローリングをクイックルワイパーでスプレーしながら拭いていく。これも汗だく。タオルを途中から額に巻いてやるが、だらだらと汗が出る。くたくたになって全てが終わると12時を廻っていた。うーん普段から綺麗にしておかねばならないなあ。
Kさんが来られるのは1時半なので、すぐにそのままシャワー。それから髪も濡れたままオールバックで下にゴミを出しに降りて、新聞と郵便物を取って戻った。

すると、詩の世界でも名門である思潮社の代表・小田久郎さんから直筆の封書が届いていた。
すぐに開くと、こちらがお知らせした訃報に添えた「何とかやまだの作品を遺したい」という思いに応えていただく内容で、
「やまだ紫という作家を失ったのは衝撃であった」こと、『樹のうえで猫がみている』を「(女流詩人であった)吉原幸子さんが絶賛していた」こと、そして「もうその吉原さんも居ない」こと…などが綴られていて、こちらが「たとえ少部数でもいいから本を後世に残したい」と書いたことを、
「小社の図書目録に永久に刻印しつづけていけるのは、よろこびでもあり、誇りでもあります」とまで書いて下さった。

手紙を拝読し、ありがたくて涙が出た。

『樹のうえで猫がみている』は当初、吉原さんが主宰・編集し、思潮社が発行していた「現代詩 ラ・メール」に連載されたものだ。後に発行は「ラ・メールの会」にはなったが、そのことも「ご縁」であるということが、やまだ紫という才能へのリスペクトと共に、心に伝わってきた。
小田さんはご年齢のこともあって今は常勤しておられないが、役員である康之さんや編集の責任者の方に「話は通しておくので、連絡をしてください」とのことだった。

「やまだ紫」という作家が素晴らしい作品を残したからこそ、それを後世に伝えたい、遺したいという志を持つ出版人が、こうしてちゃんと現れてくださる。
凡百の才能ではないことの証だろうと思う。
そういえば、今日は「大安吉日」だった。
三津子の遺影に手紙を添えて、手を合わせた。

その後、約束の1時半きっかりに小学館クリエイティブのKさんが来られた。
詳しいことは省略するが、ほんとうにいい打ち合わせをさせていただいた。
何よりKさんご自身がやまだ紫という作家のファンであり、大事に思って下さることが伝わり、同時にこれまで大切にして下さったファンの方へも改めて手に取っていただける本にしましょう、ということで一致した。

5時前までいろいろと楽しく話して、川村さんは帰られた。
本当に良かった。単行本の進行はスムースだし、思潮社さんからもいい知らせが届いた。そのことを告げると、Kさんも一ファンとして喜んで下さった。
打ち合わせが終わった後、缶ビールで乾杯をして、いろいろと業界の話や、懐かしい神保町の話などもさせていただき、公私ともに楽しかった。

Kさんが帰られた後は、ひたすらルーティンの仕事を行う。缶ビールを3本飲んだが、全然平気。もう外は暗い。今日は本当に良い日だった。
仕事を終えて、今度は復刊するためのやまだの原稿を、京都へ越した時の大きな段ボール箱に入れる。しかし高さが飛び抜けてしまい、蓋にもう一つ同じサイズの大箱がいると思ったが、これまで原画を入れていた箱が若干小さくて被せられない。なので二階の押し入れを見て、やまだのイラストTシャツを入れた箱を空けて降りる。
段ボールを上からかぶせるように覆うが、うまく入らないので一カ所に切り目を入れて蓋をし、ビニールテープで周囲を頑丈に補強した。さらに天地をひっくり返されないように側面4カ所と箱の上面に原稿整理用の大封筒を貼り、それらに「天」と方向を赤マジックで書き入れる。さらに放り投げられたりしないように「取り扱い注意」と大書して「原画」とも書き、その上でヒモをかけた。
それらが終わるとまた汗だく。
さすがに今日はへっとへとに疲れたのでもう休むことにする。午後8時7分
関連記事
2009-07-26(Sun)

やまだ作品復刊決定・初出調査のお願い

やまだ紫作品の復刊が決定しました。

これまで数年間書店で手にすることが出来なかった、やまだ紫の代表作「性悪猫」「しんきらり」「ゆらりうす色」の3作が、今秋より復刊することが決まりました。
発行は小学館クリエイティブさんです。
名作の復刻を非常に丁寧に行われており、また少部数でも発行を続けていただけるということで、お願いさせていただきました。
またこの復刊に関しては、漫画評論家の中野晴行さんにご協力をいただきました。
中野さんには大和書房時代にエッセイ集「満天星みた」(1985年)を担当し、筑摩書房に移られてからも担当を続けていただいた青木真次さんが連絡を取って下さったそうです。
青木さんが「商売」の論理だけで動く編集さんではないことは、やまだからも伺っており、またお会いしてもそう思っておりました。

しかし残念ながら筑摩書房には
「やまだ紫の作品など、後世に残す価値などない。売れないんだから出せない」
という許し難い判断をした人間が上におります。(既報の通り。「 やまだ紫作品を伝承する決意新たに 」)
恐らくやまだの訃報を知れば、
「死んだのなら話題になって売れるだろう」
と思われるに違いありません。
そのような人の不幸を、「死」を、遺族の悲しみを踏みにじるような「商売」をさせるわけには断じていかない。
そういう思いで、青木さんには断腸の思いでやまだ作品の版権引き上げをお知らせすることとなりました。

今回、その青木さんが中野さんと連絡を取って下さり、小学館クリエイティブさんをつないで下さいました。
この場を借りてそのことをやまだ紫ファンの皆さんにお伝えすると共に、御礼を申し上げます。

また、他社さんからも「ぜひ」というお話をいくつかいただきましたが、代表作三冊を同時に、かつ切らさず大事に出して下さるということ、また文庫サイズよりも大きくという、破格のお話をいただいたのが小学館クリエイティブさんでしたので、こちらもぜひにとお願いさせていただきました。
結果としてお断りすることとなったC社のFさん、元S社のSさん他、皆さん申し訳ありませんでした、本当にありがとうございました。


現在、「やまだ紫作品リスト」を作成中です。
本当なら、今回復刊される作品集にも掲載をしたく思い、頑張ってきました。
しかしながら、手元にある原稿や原画は彼女の長い間の業績が示す通り、かなりの点数があります。
初出掲載誌の情報が判るものは出来る限り正確に記載しておりますが、初単行本化の時に「初出一覧」が無かったもので、掲載誌のない作品で、媒体や版元も不明なものもあります。
リストは完全なものでないと、本にして残す意味がありません。
ですので、今回の復刊には間に合いませんが、こちらも命が尽きるまでは、全身全霊を傾けて調査をして参ります。

幸い、今はインターネットで検索方法をいくつか工夫すれば何とか調べられたものもありますが、やはり、当時の掲載誌そのものがないとお手上げというものもあります。
例えば「性悪猫」にしても、
月刊「ガロ」(青林堂)に初出のあと
->青林堂版「性悪猫」として初単行本化(1980)
->ちくま文庫版「新編 性悪猫」として文庫化(1990)
->筑摩書房「やまだ紫作品集5 性悪猫/鈍たちとやま猫」(1992)
と3冊世に出ていますが、「初出」が判る作品は後に「性悪猫」シリーズの第一作扱いとなった「ときどき日溜まりで」(「ガロ」1978年12月号)、「梅雨」(「ガロ」1979年8月号)だけです。
よくある「ガロ総目録」やバックナンバーの目次表記などでは「性悪猫」としか書いてありませんから、掲載誌がなければ、何という作品が何年何月号に掲載されたものかが全く判らないわけです。
これは初版(青林堂版)刊行時に「初出一覧」をつけなかったことによる問題で、後になってかたちを変えたものは「青林堂版性悪猫に増補」といった表記を取りますから、これでは永久に初出が判らないままとなります。
何度か書いた覚えがありますが、我が家では、何度かの引越でかなりの量の雑誌を失いました。もちろん「処分」したものもありますが、初期の「ガロ」など貴重なものは残しておいたはずが、今では全くといっていいほど保有しておりません。
もちろん雑誌だけではなく、貴重な書籍も多数、「いつの間にか」なくしてしまったようです。
ここでお願いがあるのですが、もし、下記作品が掲載された雑誌のバックナンバーをお持ちか、あるいは初出詳細がお判りになる方は、お教えいただければ助かります。
コメント欄にご記入いただければ、他の方に閲覧されることなく私だけが拝見することも出来ます。
原稿は手元にあり、掲載誌も判っていながら、何年何月号か不明というものがけっこうあります。よろしくお願いいたします。
(★編集者の皆さん、作家の単行本を作る際は「初出一覧」を必ず掲載すべきです。もしその作品が後世に残る名作であればあるほど、雑誌は散逸しやすく、検証が不可能になりますから…)


<現在初出が不明な作品>
・「性悪猫」掲載順【】内は判明
●青林堂版 性悪猫
野良

日向
天空
【ときどき日溜りで 「ガロ」1978年12月号】
以上2C1折
柳の下
さくらに風
山吹

【梅雨 (「ガロ」1979年8月号】
残暑
八月
おーい
山の水
窓の外
ひかげ
(性悪猫に関してはこれらが1979年から1980年2/3合併号にかけて発表されたことは判明していますが、タイトルが全て「性悪猫」となっており、個別の作品がどの号かが不明です。)


・「鈍たちとやま猫」収録分【】内は判明
●青林堂版 鈍たちとやま猫
【鈍たちとやま猫 (「ガロ」1980年6月号】
【ししの恋 (「ガロ」1980年8月号】
【静かな将軍 (「ガロ」1980年7月号】
背中合わせ
夜の坂道
星見酒
室内
【立春 (「ガロ」1980年4月号】
やるせない頃
【おくり火 (「ガロ」1980年5月号】
【夏休み (「ガロ」1980年10月号】
子供の制服
(「鈍たちとやま猫」青林堂版に関して、初出が判明していない作品は「ガロ」掲載作品でないことだけは判明しています。)


上記二冊は、筑摩書房作品集では5巻になりますが、青林堂版「はなびらながれ」と作品が入れ換えられているものもあります。


筑摩書房やまだ紫作品集3
陽溜まりのへやで1〜6
(講談社「コミックモーニング・パーティ増刊に1987年に連載されたものですが、号数が不明)

まだ原稿を全て整理しきれておりませんが、引き続いてリストの作成を続けて参ります。
よろしくお願いいたします。
関連記事
2009-07-25(Sat)

「しんきらり」の原稿確認

7月25日(土)

朝5時過ぎに目が醒めて結局眠れず、そのまま6時過ぎに起きた。こういうのは本当に辛い。5時間半ほど寝たのなら不眠というほどではないし、眠りの少ない人なら普通かも知れない。でも俺の場合はかなり辛い。
外は薄曇り。


そしてもう夜8時前だ。
今日は腕が痺れるように痛かったので、ぽすれんのお試し無料レンタルで借りた映画「遠すぎた橋」と「大脱走」を見た。何でこんなん見てるかというと、完全に暇潰しである。
「遠すぎた橋」の完全版はだらだらと戦闘シーンが意味無く長く、そしてあの「オチ」なので、冗長すぎる凡作と感じた。ずっと昔にテレビで見たダイジェスト版の方が遥かに締まっていて良かったくらいで、こんな駄作だったかと驚いた。
その後「大脱走」を見るが、こちらはDVD版の方が逆に遥かに見応えがあって、さすが戦争映画の古典的名作という感じ。これもテレビで小さい頃に何度も、大人になってからもビデオやCSなどで数回見ているが、やはりいい映画は面白い。映画の公開は1963年と俺の生まれる少し前のもの。DVDは1996年のもので、特典映像で当時の撮影秘話や出演者のインタビューが見られたのも貴重だった。

それから今日も原稿の整理にとりかかる。
今日は『しんきらり』だ。
『しんきらり』はいわゆる「正」・「続」として青林堂から出て、後にちくま文庫では二冊を合本して『しんきらり (全)』としている。
もちろん連載作品で「正」も「続」もなく、「ガロ」掲載時はずっと『しんきらり』である。ただ青林堂版の最初の一冊『しんきらり』の「夢からさめて」で終わる、あの一冊の印象は強烈だったと思う。もっとも連載自体は「夢からさめて」(1982年9月号掲載、連載時は単に「しんきらり (16)」)からほとんど間をおかずに継続(「しんきらり (17)」は1982年12月号)しているし、あそこで切れているのは単行本化という一つの区切りであった、のだろう。
やまだ紫の油の乗った頃の作品ゆえ、連載といっても一篇一篇が短編として面白いが、油の乗ったという意味では、その当時つまり「しんきらり」の連載中に『はなびらながれ』『ゆらりうす色』『しあわせつぶて』『金魚の殿様』といった名作の連載も描いているのだ。
どう考えてもこの時期の彼女はオーバーワークだが、「しんきらり」連載中に長く別居中だった前夫と協議離婚が成立し、その開放感と執筆に集中できる喜びとで、恐らく彼女は創作意欲が横溢していたのだろう。これだけ質の高い作品をこの時期に集中して描けるとは、もの凄いことだ。

そういえば長井(勝一・元青林堂社長/ガロ編集長)さんは青林堂版『続しんきらり』がいわゆる「正」より今ひとつ売れ行きが鈍いことをよく、
「だからさあ、『続』ってつけなきゃ良かったんだよ。何でも一発目は売れるんだけどさあ、次からはちょっとずつ売れなくなってくんだよな。山上さんの(喜劇新思想大系)もそうだったしさあ。違うタイトルで出しゃ良かったんだよなあ」と言っていたのを思い出す。あのしゃがれ声で笑いながら、半分冗談のように聞こえたが、本気だったと思う。

そんなこんなで原稿の全確認が終わり、整え、保護のためにパネルをカットして函状にしたものに収めて、さらに封筒を切り貼りして保護した。そんなこんなであっという間に夜になったというわけ。
関連記事
2009-07-24(Fri)

原稿整理つづく

7月24日(金)

もう夜8時前になった。

今朝、目が醒めたのは5時過ぎ。それからまた8時半に起きるまで朦朧。今日はいい天気だった。

午後はずっと仕事をしていた。
復刊予定の3冊『性悪猫』『しんきらり』『ゆらりうす色』の原稿は何とか箱から探して出してあるのだが、まだそれ以前の原稿や原画の整理を終えていなかったので、整理できていない。
個人的には『性悪猫』は青林堂版のオリジナルが口絵も入っていて、A5判という判型と上製本という作りも一番いいと思う。だが布クロスはもう不可能だし、それに頁数も少ない。
それでも布クロス上製、厚い本文用紙…というスタイルは当時の青林堂だから出来た造本だ。見返しに散りばめられた猫のイラストといい、本当に丁寧に作られ愛蔵にふさわしい名作の体をなしていると思う。
僭越を承知で言えば、本文の最後のあの名作「おひさまいっこあれば」に見開きで奥付というのはちょっと…とは思う、でも素晴らしい本だと思う。
ちくま文庫『新編 性悪猫』はその意味でボリュームはあるが、文庫という大きさはともかく青林堂版の読後感、余韻に比べると薄まった感じがある。けれど本としての読み応えはある。
『やまだ紫作品集5巻』はその上に青林堂版『鈍たちとやま猫』を合本したので、これはもう『性悪猫』ではない。しかも本の最後は酔っぱらって描いた「たま」の知久さんとの下ネタ満載の「ヘタウマ絵しりとり」なので、余韻もヘチマもあったものではない。
これは別に編集が悪いとかそういうことではなく、あれには「影」として俺も参加しているし、やまだは「悪ノリ」していたのだ。

俺としては個人的にはやっぱり思い入れのある青林堂版で再発して欲しいという希望はあるが、カバーの油彩画はもう失われた。カバーを変えて、青林堂版に同時期の猫マンガを加えて新・新編とするかどうか、悩ましい。
乱暴な合本のようなものにはして欲しくないし、かといってざっくりと削るとなると、青林堂版をお持ちの方がまた手に取るメリットはない。それに削られた作品を今後出せる保証もないから、難しい…というわけで、詳細は版元さんと相談しましょうということになっている。

いずれにせよ原稿は整理しなければならないので、『作品集5』と書いてある原稿の入った手提げ袋を納戸から出して、順番に取り出しつつ原稿の枚数を確認し、新しい封筒に作品ごとに入れ直し、作品名、頁数、判明している限り初出や収録単行本名などを書き入れていく。

ちくま文庫の「新編」のトップに収録された「出口」(8P)は元々青林堂版の『性悪猫』にはもちろん収録されておらず、青林堂版『はなびらながれ』に収録されていたものだ。これを文庫にあたってなぜトップに持って来たのかちょっと意味がわからないが、おそらく猫が出てくるからであろう。
青林堂版の収録順に原稿を確認し一作一作整理していくが、あの「COM」の誌画作品が原型の一枚作品「日向」が欠けていた。手提げ袋には、Kちゃんの字で「日向 抜け」と書いてある。Kちゃんというのは次女のゆうちゃんの友達で、アルバイトで一度原画の整理を手伝ってくれたことがあり、その時のものだろう。やまだの漫画のアシスタントをしてくれたこともある。
文庫収録時点で一枚欠けていたのか、青林堂版の返却時に欠けたのかは不明。とにかく青林堂版は「日向」一枚以外は全て揃っていた。トレーシングペーパーを原画の幅より大きくかけてある作品も多く、そういうものは封筒を切って2枚貼り合わせ、大判封筒を作って入れ直す。けっこうな手間と時間がかかるが、原稿を束でぼこっと手提げ袋へ入れておくよりはいいだろう。

あと「長ぐつ はかない ねこ」はちくま文庫版『新編』にあたって「猫の手帖」3P連載ものを7編つなげて、扉絵を一枚描き加えたものだ。つまりそれぞれが独立した3P作品で、収録時にタイトルを改めてつけてある。「ガロ」連載の『性悪猫』や『しんきらり』もその方式=連載時個別タイトルなしで、これが連作でない限り初出掲載誌の確定を難しくしている。
これら「猫の手帖」作品も、初出が81年から82年の連載作品ということしか判らず、詳しい月号が不明。こういう作品はリストを作っていても、本当に困る。「猫の手帖」はもう存在しないから、バックナンバーがなければもう調査のしようもない。版元が倒産してしまえば調査の難易度が大きく上がる。
20年以上前のバックナンバーを全て揃えている奇特な人っているのだろうか。…まあ事実上無理、ということだ。
従って「まとめて一本」扱いという、つまりは文庫版のくくりのまま整理するほかない。
初出の正確な記載は本当に大事だと思う。

ただ文庫版にも作品集にも収録されていない、つまりは「未収録」と思しき同連載の3P作品が2本入っていた。これは今回新に収録してもいいかも知れない。こういう発見は嬉しいが、途中ネットで検索したり、封筒の切り貼りもあるのでけっこうな時間が経つ。
ここですっかり夜になってしまったのでやめることにした。
やっぱり気が付いたらアッという間に4,5時間が経っている。

休憩して「週刊文春」を読んだら、ちょっと嫌な記事を見た。
慢性骨髄性白血病にはいい薬が出来たということで、従来のインターフェロンに比べて生存率がぐっと上がったという記事。一見いい情報のように思えるし、まあそれはそうなんだけれど、俺の場合は「慢性リンパ性」だから病気の「型」が違う。
この病気は「白血病」とひとくくりに勘違いしている人が多いが、型が違えば全く効く薬が違うし、そもそも「型」というかタイプも厳密に分類すればもの凄く細かく別れるのだ。
記事では薬によって生存率も「7年生存率」がインターフェロンの36%から86%に飛躍的に上がったと書いてある。確かけっこう前に見つかった薬のはずだが、そうか、7年生存率のデータが確定したということは十年ほど前から使われていたわけだ。
しかし、そうは言ってもつまりは服用から7年経てばやっぱり「生・死の問題」なわけで、それはまあ俺も同じ道程を歩んでいるわけだ、ただし薬なしで。
なので発病、というか俺は病気の発覚からもう丸4年が経っているので、どう考えても俺の余命は長くてもあと4〜5年というところだろう。
でも当初、「あと一年持たない」と言われ、その時に「あと10年生きられるようにしてあげる」言われたら歓喜していたと思う。
それが4年経ってあと4〜5年だと思えば、別に怖れることはもうないのかも知れない。

それに俺が一番怖れていたのは、俺が死ぬことではない。
最愛の連れ合いである三津子を遺して、先に死ぬことだった。
それも、彼女が逝ってしまったので、もう心配しなくてもいい。あとはあの世で再会出来ることを祈るだけだ。

今現在一番心配なのは、とにかくやまだ紫の作品の整理と、作品を後世に伝承する準備を終えておくことだ。単に遺品の整理、原稿の箱を保管するだけなら子供たちに任せることも出来るが、作品の管理というのは初出も含めたリストの把握、そのための掲載誌の管理や推理など、付帯する作業が山ほどある。出版や編集に明るく、しかも連れ合いであったという俺以外に誰が出来るか。
よく「なんでも鑑定団」ではないが、オリジナルの原画と複製の差でさえ素人にはなかなか判らないものらしい。もっとも最近の複製技術は相当高いので俺でも高度な美術品の複製なら判らないが、やまだの時代のものなら紙焼きか原画かぐらいはすぐ判る。4C(一般で言う「カラーグラビア」)なんか網点があるから判らない方がおかしい。
なのでどれが大切でどれがそれほど重要ではないか、という判別がすぐに出来る。写植の脱落やトレペがけなど、ノウハウは編集者なら了解しているから、とにかく俺がまだ元気で動けるうちにやっておかねばならないのだ。
そういうことを終えてしまえば、あとはゆっくり身辺を整理していけばいい。
とにかく文春の記事を読んで、自分があと何十年も生きられるわけではないという「現実」に改めて気付かされた。知ってはいたが、日常あまり考えないようにしていただけだが。

何のために生きるか。それは愛するひとのためだろう。
その人がもう死んでしまったので、以前ほど生というものに執着がなくなった。でもまだ死ぬわけにはいかない。やることが山積なのだ。
そして俺しか作業をやる人間はいないのだ。
関連記事
2009-07-23(Thu)

日のあたる洗濯物

7月23日(木)

夕べはユキが写真を倒しグラスを割ったりした「惨状」のせいで晩酌のスタートが最悪の事態になってしまったので、へこんだ。何が悪かったのか理解できない。
寝たのは12時前だったと思う。しかしまたもや今朝は5時ころ目が醒めてしまい、その後寝たり醒めたりで8時過ぎにぐったりして起きる。
朝の比叡山山頂はちょっとガスっていたが、合掌。曇りだったが時おり雲の切れ目から日が射し、雨はなさそうな気配だ。
降りて朝のことを済ませて、一昨日取り替えたベッドの汗取りシートと枕カバー、あとついでにタオルと半袖シャツ一枚も洗濯する。
このところ雨だったので前回の洗濯は乾燥までかけたのだが、半袖シャツはくっしゃくしゃになってアイロンでもしなけりゃとても着られない状態になってしまった。なので今日はシーツを外に乾せそうだったから、ついでにもう一度くしゃくしゃのシャツも一緒に洗う。
その間に冷凍してあったご飯を解凍し、わかめの味噌汁とたらこなどで食べ、一息ついて、ベランダの物干し竿を雑巾を濡らして丁寧に拭く。京都とはいえ、北大路に面しているベランダは知らぬ間に車の粉塵が薄黒くこびりつく。これが洗濯物に付くと困るので、先に拭いておく。それでもまあ東京のベランダに比べれば綺麗なものだが。
そうこうしていると洗濯は脱水が終わったので、エッチラと持って行ってベランダに干す。シャツはハンガーにかけて、縮まないようあちこち伸ばしつつ、ボタンも着ているように数カ所止めてから干す。
三津子が死んでから何度か洗濯はしたが、フェイスタオルやバスタオル、下着類、Tシャツ類、あとは靴下や室内着のようなものが中心。なのでいつも乾燥までかけて、乾いたら畳むだけだった。

前にベランダにこうして洗濯物を干したのは、彼女がまだ生きている時、ちょっと洗濯物が溜まってしまって、カゴ2回分廻した時だったか。二人でてきぱきと端から干して行って、その間に二度目の洗濯機を廻す。それも干し終えて、ベランダから天気のいい外を眺めながら、彼女は「やっぱりお日様で乾かす方が気持ちがいいよ」と言っていた。4月だけど夏のように暖かい日が何度かあった、そんな一日だったと思う。
彼女の作品の中にも、白いシーツを干すシーンが何度も登場する。自分でも風に揺れる真っ白なシーツが好きだと言っていた。
外は日射しが出て来た。曇りというよりは青空に雲と、天気も逆転して洗濯物にも良く陽射しがあたる。
ゆらゆらと時おり微風に揺れるシャツを見て、あの人を思い出す。
関連記事
2009-07-22(Wed)

税務署へ行く

7月22日(水)

夕べは寝室でテレビをつけて横になっていたらいつの間にか寝てしまい、途中テレビを消してそのままぐっすり寝る。目が醒めたら4時過ぎで「またか…」と思ったが、その後は比較的寝ていた方が多かったと思う。
起きたのは9時。洗顔や三津子への水、お茶、線香、お祈りなどを済ませた後、花の手入れ。白いユリはもう2輪になったが、花が落ちたところをハサミで切る。アレンジの花はバラして、しおれてしまった花を取って小さく活け換えた。
今日は外は曇りで、午前中に皆既日食が見られると大騒ぎしていたのに、日本全国ほとんど曇り空という状況。特に数十万円も出して南洋の「悪石島」まで遠征した見物客もたくさんいるというのに、朝の中継では、当地は雨である。
京都市内は曇り、日がちょっとでも刺せば、例えばボール紙に穴を開けて日を通すと、光が丸ではなく欠けたかたちになるという不思議な現象が見られるはずなのだが、そんな感じでもない。

BSでNYY対ボルティモア。松井はサヨナラHRを打った次の試合なのにスタメンを外されていた。やはり監督と折り合いが悪いのか。それを見ながら昨日の帰りに買っておいたコンビニのサンドイッチと小岩井ミルクコーヒーで朝食。

皆既日食だが、悪石島は雨どころか「暴風雨」だった。ネット上ではやっかみ半分もあるのか笑いものになっており、ちょっとした祭り状態。自宅のテレビでNHKの中継を見たが、太平洋上を晴れ間を探して動いた船上からの映像が素晴らしかった。360度、全てが「夕焼け」と同じ状態で、船は月の影の真下にいるから、この世のものとは思えぬ幻想的な光景に思わず見入る。
いやでも、30万も払って暴風雨の中右往左往するのもいい思い出だとは思うし、俺たちも夫婦二人で健康だったら、きっとどこかへ出かけていたかも知れない。でももう一人になっちまったし、病人だ。だからタダでエアコンの効いた部屋でこの映像を見た人間が一番「勝ち組」だったような気がする。

昼は何も食べる気がしなかったが、何か食べないと…と思ってコンビニで買ってあった一●堂の「博多とんこつラーメン」を食うが、まずくてとても食えたものではなく、残してしまった。スープは油っこくそれでもまだマシだが、博多ラーメンの麺をインスタントで再現するのはやっぱり無理だろう。ヒモかと思った。ていうかまあカップ麺食っといて文句は言えないが。

その後は雨も降らないようなので、12時過ぎに支度をして出た。
コンビニで電話代2ヶ月分と都税事務所への固定資産税(東京のマンションの分!)の支払いをすると財布がすっからかんになった。お金をおろしたあと、タクシーで左京税務署へ向かう。
左京区役所は熊野神社のある交差点から東へ少し入ったところにあるが、京大病院へ行くのとたいして変わらない距離だ。左京区は実は山の方を合併して偉い広さになっている「区」だけど、公的な機関は割合近いところに固まっているので、街中に住んでいる人にとっては楽だ。何にしても東京に比べれば、天国のようなところである。

税務署には12時40分くらいに着いたか。そういえば昼休みのはずだったと気付いて引き返そうとすると職員が「どうぞ」と促してくれたので、中に入る。昼休みが終わるまで待とうとソファに座ると、職員が出て来てくれて対応してくれた。
俺が「実は先日お電話で伺った、故人の準確定申告についてお聞きしようと思って…」と言うと「あ、はい、どうぞ」とカウンタに座るよう言ってくれ、すぐ対応してくれた。
声の感じから、こないだ電話に出た人かも知れない。俺が途中まで記入した国税庁のサイトからDLした申告用紙を見せて、説明を受ける。どうやら他に書類が必要なようで、相続が確定しないと、まず還付が受けられない。それと故人が亡くなるまでに支払った国保の金額の合計も書き入れれば、還付金が増える可能性があるという。とはいえ、4ヶ月と数日分の還付金などが目当てで来たわけではない。
「人が死んでも申告はせよ」という決まりになっている、とどこのサイトを見ても書いてあるのでわざわざ来たのだ。
俺が「これは申告する決まりになってるんですよね」と言うと、係の人は「そうですね、でもこれが区役所へ行くことになりますが、ご本人様はもう亡くなられてますし、どちらかというと『申告』というよりは『還付金の請求』という意味合いが強いと思いますね」とのこと。
なるほど、普通はこうした国税の所得申告はその後自治体へ回されて、住民税や保険料の算定に使われるから「申告は必要」というわけなのだが、故人の場合はもう住民税や保険料自体かかる人がいないので、役所へ申告書類が回っても何もない…ということだ。
ということは俺が医療費のレシートをしこしこ計算し整理しここへ足を運んだことは…。まあいい。
とにかく相続人確定の書類、故人の除籍謄本の写し、それから今年支払った国保の合計金額を出さないと書類が完成しないことが解った。親切な対応をしてくれた係の人に御礼を言って、税務署を出る。

日射しが少し出て来たが、猛烈に暑いという気温ではない。昨日雨が上がった後、明青さんたちと路上を歩いている時も「思ったより涼しいねえ」と話したが、今日もそれほど暑くはない感じだ。
そのまま歩いて熊野神社前の交差点手前まで行き、スーパーで野菜、夜の総菜、三津子用の温泉玉子、炒め物をしようと牛肉を買い、タクシーで帰宅。家に着くと1時20分くらいだったか、もうこの頃には日が照って暑くなっていた。
着いて一段落してから区役所へ電話して、事情を話して今年支払った国保の合計を教えて貰うよう依頼する。個人情報なので三津子の生年月日や住所、保険の番号などを聞かれて、調査するというのでいったん切る。10分ほどして折り返し電話があり、改めて俺が配偶者であるということで名前と、転居する前の東京の住所を言えというので答える。何だかスパイ映画みたい。
ようやく合計金額が解ったので、あとは書類を揃えて税務署へ持って行けばOKだ。でもこれは本人の死後4ヶ月以内なので急がない。その後は今日やるはずだったルーティンの仕事をひたすら。

6時前に仕事を終え、相撲をチラチラ見ながら晩酌の用意をした。三津子にはいつものように「先に飲んでていいからね」と言ってウーロン茶を氷入りに差し替えて、冷やしたぐいのみに酒を注ぐ。温泉玉子を入れた器と取り皿、箸も先に並べておく。
俺の方は昼間買った金目鯛の刺身の切り身とコンビニの野菜サラダをドレッシングで和えて皿に盛り、一口餃子をごま油を敷いた鍋で焼く。仕上げに水を入れて蓋をして蒸し焼きにしたところでビールを出し、冷凍庫からグラスを出して、餃子を皿に移し、テーブルに差し向かいで座る。
さあ、と餃子のたれの袋を破ったとことで、突然傍らのソファの背に大人しくうずくまっていたユキがテーブルに向かってハイジャンプをし、グラス類を蹴散らしてあろうことか線香立てをクッションにし、吹っ飛んで逃げて行った。
思わず「何なんだこれは!」と声が出る。さっきまでいつものような静かな普通の晩酌の時間だったのが、三津子のウーロン茶を入れたグラスは粉々に割れて破片が散乱し、ぐいのみは無事だったが酒も床にこぼれ、線香立ては蹴飛ばされて斜めになって灰がこぼれている。三津子が今年の旅行で旅館の夕飯時に微笑んでいる写真の額は吹っ飛ばされて床に転がっている。

惨状あまりの「惨状」に思わず写真まで撮ってしまった。
ユキは刺身を欲しがるので、ちゃんと別に細かく切った切り身を「ここにあるからね」と床に置き、ユキもそれを認識した後なのに、何がどうしてこうなったのか全く理解不能。
とにかくテーブルの上がびちゃびちゃなので新聞紙やティッシュで水分を吸い取ろうとするが、氷かと思ったらグラスの破片だったりして、怖い。
なので新聞にまず大きな破片を慎重に載せて、細かいものは別の新聞でかき集める。途中うっかり極小の破片に指先が触ってしまい、激痛と共に血が少し出た。ガラスは怖い、床に飛び散っているものも取っておかないと裸足で歩いた時に足の裏へ食い込んだらおしまいだ。それに猫も歩くし、猫は異物は嘗めるから、体内にそのガラスを取り込むことになる。
さっきまでの気分が最悪なものに変わり、情けない思いで床の拭き掃除もする。サンダルを履いて、とにかく広い範囲からクイックルワイパーで集めるようにして床を拭き、最後に残ったものは慎重に破片一つも残さないように取って、新聞に来るんでテープで巻いてゴミ袋へ。くたくたになる。
何とか終わってビールを改めて飲むが、何がいけないのか解らない。もっと頑張れよ、ということだろうか。それともまた別のことで怒っているのか。
偶然ということは無いと、人生経験上良く理解している。三津子の死後にも、ブログにもアップしきれないような、いろいろな「現象」が事実としてたくさん起こっている。だからこの「惨状」にも何かきっと意味があるのだろう…。
大きな写真立てはまた万が一倒れた時の周囲へのダメージが大きいので、陰膳の額は小さな額に換えた。
5年前、最後の単行本となった『愛のかたち』(PHP)が出た時に、担当編集者だったKさんが開いてくれた「お疲れ様パーティ」で、思いがけず花束を貰い、ちょっと驚いたような嬉しそうな顔をしている三津子の写真。
それを立ててまた陰膳を整えて、改めて晩酌をした。
関連記事
2009-07-21(Tue)

明青さんに焼き肉をご馳走になる

7月21日(火)

夕べも12時頃眠剤を飲んで寝たのに、目が醒めて時計を見たら4:44。それからはどうしても寝られず、俺がもぞもぞしているのを見てユキも時おり鳴きながら足元に来たりするので、ほとんど寝られずに9時前に起きる。朦朧。こんな感じで朝を迎えるのは本当に、しんどい。
外は霧雨みたいな感じで、部屋も薄暗い。
トイレ洗顔などを終えて三津子の陰膳を片付け、冷たい水、氷入りのお茶をあげて線香を立てる。祈ってから、花を活け換える作業。一息ついてパソコンを休眠から戻すと、リマインダーが入っていた。
今日は三津子の父・仲信さんの命日だった。
そうか、と思いまた三津子の上のご先祖様の写真へ行き、改めて線香を立てて合掌する。三津子の亡父が描いた「自画像」は、団地の頃からずっとずっと、俺たちの部屋の一番高いところに飾られて、見守ってくれていた。
その自画像…額装もしておらず、薄い板に油彩で描かれた絵は、彼女が亡くなった時、棺に一緒に入れた。だからもう小さな写真しかない。

その後9時過ぎ、三津子の税金の残りを相続人が払えという通知が郵送されてきたのををる。こうしたこまごまとした色んな手続きが、本当に多すぎる。例えば死んだ人も「確定申告」をせねばならず、それを準確定申告というが、これも死後4ヶ月以内に行わねばならない。
そういえば未整理だったので、1月〜4月末までの医療費の領収証などを全部引っ張り出して整理・集計して医療費を出す。それと前に国税庁の頁から出力しておいた確定申告書と「準」確定申告の手引きみたいなものを付き合わせて記入しようとしたら、安物の万年筆がうまく書けない。
こないだインク入れたばっかりなのにおかしいな、もう無くなったっけ…と思ってインクカートリッジを外してもう一度差し込んでみると、ペン先からぼとぼとぼと! とインクが大量に出て手が汚れ、申告書類にも大きな黒いインク染みが出来た。
あららら、これは「家で今やってもダメよ」という三津子の暗示だろうか。
なので電話で左京税務署へ電話してみると、そういう場合は渡す書類とかがあるので、とにかく一回来てもらって説明をして、その時渡された書類を持って改めて申告に来た方がいいと言われる。要するに一度では終わらないということだが、確かに説明を受けずにこっちがやって出かけて、書類が足らないここは書き直せとやられるよりはいい。
いったんガックリして、それでも俺がやらねば誰がやると思い、インクで汚れたのもあったので、外出前にシャワーを浴びる。ユキが俺の姿が見えなくなったので、とたんにニャアニャア大声で泣きながら家の中を探し始めた。濡れたままシャワーから出て床のマットごとずりずりとユキの視界に移動して、こっちへ来いと手を振ると、すたすたやってきた。風呂のドアをちょっと開けて手招きをするが、シャワーのしぶきがあるので入らない。だがその後は安心したようで鳴かなかった。

12時ころ、外はいつの間にか吉田山さえ霞むほどの大降りになっていて、「ざあー!」という音がする。今日も苔に水をやったが、やらなくても良かったようだ。
それからたらこを切って、冷凍したご飯が切れたのでコンビニで売っている保存用ご飯をレンジで温める。昔に比べりゃ便利になったし技術も向上したとはいえ、こういうご飯はそのままだと匂いがまずい。なのでお茶漬けにして食べた。
今日は「明青」の渡辺さんご夫婦が焼き肉に誘って下さった日なので、昼は軽めでいい。というか朝は結局何も食べてなかったが。
このところ買い置きしてあったもの、インスタントだのレトルトだの冷凍食品だのだったから、そろそろ買い物へまた行かねばならない。いずれにしても今日はこんな雨なので税務署へ聞きに行くのはやめて、夕方の焼き肉までは大人しくしていることにする。

その後5時過ぎに、たらことチーズ、函館から送ってきたカール・レイモンのソーセージを保冷剤とプチプチにくるんで出る。明青のおかあさんに電話すると、もうちょうど出たところというので、部屋には戻らず、そのままお店の冷蔵庫へ入れて貰おうということになる。
傘をさして出たが、もう降りは小降りになっていた。渡辺さんご夫妻と落ち合ってタクシーで前に開店したばかりに行った焼き肉屋(5月26日)へ行く。

店に着いたら5時15分ころで、またしても開店前だったが、快く入れてくれた。今回は上がりのど真ん中の4人掛けテーブルにゆったり座れた。
まずは生ビールで乾杯し、レバ刺しやユッケやタン塩やハラミやカルビやに舌鼓。焼き肉はどうしたって一人で食うもんじゃないし、食っても楽しくも何ともない。やっぱり何人かでワイワイやるもんだ。
前に三津子と比叡山に登った時(「比叡山へ登る」)に買って、半年も経たずに切れた彼女の水晶の腕輪の話をしたら、おかあさんが「直すところがあるから持って来て」と聞いていた。その後二人で探したがどうしても見つからず、三津子の死後になってようやく見つかった(「「偶然」など、ない。」)。
それを先月お袋と(明青さんへお邪魔した時)に、おかあさんにお預けしておいたのだが、「はい、これ直りましたよ」と戻していただいた。
買った時と同じく、綺麗に治っていた。
さっそく自分の右手に通して、お勘定を聞くと、何と、三条の俺が三津子の供養にと買った千手観音の木像を買った(「一人で河原町へ」)お店だそうで、しかもそこの人が明青さんのお客さんだったという。
なので、サービスでタダで直してくださったと聞いて、何というご縁かと驚いた。これもきっとお導きなのだろう、思わず合掌し御礼を言うが、お二人は「うちは何もしてへんし」と笑われる。それにしても何ということだろう。
これだけのことを「偶然」と片付けるか。
三津子、君と比叡山に登った時に買った水晶の腕輪、半年も経たずに切れた腕輪。それが今直って、俺の腕にあるよ。ずっとずっと気にしていたのが直って良かった。本当に…。
そう思ったら少し涙が出てしまった。

久々に飲んで食って話をして、何度か三津子のことで涙が出たりはしたが、もりもり食べて飲んだ。本当に楽しく過ごせた。
ちゃんと割り勘でと言ったのに、「誕生日やから」と絶対に勘定を受け取っていただけず、結局ご馳走になってしまった。何だか一人で食ってがぶがぶ飲んでご馳走になるというのは申し訳ない限り。次はご馳走します、させて下さいと約束。

帰りは雨が上がっていた。なので散歩がてら歩いて東大路まで出て、百均でおかあさんが買い物をするのにちょっとだけ付き合って、タクシーで近くのコンビニ前で下ろしてもらい、明日の食べ物などをちょっと買ってから7時半ころ帰宅。
ありがたかったし楽しかった。それに美味しかった。久々のニンニク醤油でのレバ刺しはやっぱり、溜まらないものがあった。夫婦で焼き肉を食べる時は、「肝臓にいいからねえ」と言って二人で一人前ずつ食べたものだ。
昼間は何かしら仕事なりやる事があるから、それなりに時間を潰すことが出来る。でも夜になると、やっぱり写真と差し向かいになり、あの人のことを思うしかない。それは何ヶ月経っても辛い。辛くないわけがない。
関連記事
2009-07-20(Mon)

一休み

7月20日(月) 海の日

今日も原稿整理を一休みする。
夕べは薬を飲んで11時過ぎに寝た。朝方何度も目を覚ますこともなく、ぐっすり8時前まで寝られた。醒め際までリアルな夢を見ていたが、三津子は出て来なかったと思う。ユキがにゃあにゃあ鳴いて起こしにきたので、もし静かだったらもう少し寝られたはず。
比叡山は山頂がガスっている。北側のベランダは屋根がないので、枇杷の鉢をみると薄く水が溜まっていた。けっこう雨が降ったと見える。
下へ降りて朝のことを済ませて、食欲が無かったのでペットボトルのアイスオレだけ。
それから仕事をして、昼は「豚しゃぶカレー」をレンジで温めて食べる。カレーをレンジにかけている間に下痢でトイレへ行き、一瞬ちょっと嫌な気持ちになるが、問題なく食べた。空腹は強し。
その後はリビングのテレビでニュースを見るが、本当に昼間は何も見るものがない。逆に仕事に集中できるからいいのかも知れない。
その後今日は休もうと思ったのに、仕事部屋の本を少し整理。整理といっては俺が青林堂時代に集めた懐かしい本を少し読みふけったりで、全然進まない。
三津子の画稿の整理も、ひとまず単行本の打ち合わせをしてからにしようと、一休み中。打ち合わせは来週中の予定だ。
もちろん、詳細ブログで公表していくつもり。
時間が経つのは早く、もう夕方4時半。
関連記事
2009-07-19(Sun)

老いていくこと

7月19日(日)

夕べは11時過ぎに寝室ヘ上がってテレビを見ながら横になっていたが、ニュースも見たし何もないので、DVDレコーダに入っていたマイケル・シェンカーのmp3・CDを聴く。当然ながら寝る前にはふさわしくなく、結局1時半ころまで聴いてしまった。
その後眠れず目が醒めたら6時、朦朧。それから悶々と眠れず結局8時半ころ起きた。このパターンが多く、本当に朝はしんどい。薬も飲まずにぐっすりと泥のように熟睡し、一日8時間はしっかり睡眠を採っていた頃が嘘のようだ。
「あなたはよく寝られていいよね」と三津子は半分呆れて言っていたものだ。若い頃、青林堂に勤めていた頃は編集者などとは名ばかりで、それこそ「肉体労働」が多かった。
団地で暮らしている頃は、家に帰って三津子の手料理で夕飯をもりもり食べて、寝る前に「お疲れ様」で晩酌をした。彼女は冷や酒を一合か二合、俺は350mlの缶ビールをせいぜい1、2本。だいたい12時過ぎには寝て、8時半まで爆睡していた。それこそ目覚ましでは不安で、大事な日は子供たちに「起こして」とメモを置いたり、「目覚まし猫」のジローに優しい声で起こされたりしたものだ。
その後も、数年前に癌宣告を受けたあとしばらくは、ストレスからか睡眠が中断することは時々あった。それでも、まさかまさか、自分が不眠に悩み導眠剤を飲むことになろうとは思わなかった。
そしてそれが効かなくなるということも想像できなかった。
人間にとって、一番の大敵は「ストレス」だと良く聞く。ストレスのない人はいないし、人間生きて行く限り何らかのストレスと常に共存せねばならない。よほどの無神経か傲慢な人間でない限り。
ほんとうに、自分は今生で最大のストレスと今闘っているのだと実感する。

朝のことを済ませて、インスタントのもので朝食。薄曇りに時々晴れ間がのぞくという穏やかな天気だ。連休中のせいか外も静かなもので、何より車のアイドリングの不愉快な重低音がないのがいい。
うちは隣が外車のディーラーなので、車の騒音はけっこう日常的にある。といっても普通の走行音は別に慣れているから気にはならないのだけど、あの不必要な「ブゥゥゥゥン」という重低音は、6階に居るのに後頭部、首の付け根のあたりに不愉快な震動を与える。冗談抜きで何らかの健康被害を受けているような気がする。
もう何年も前、「車のマフラーの直径とその車の持ち主の知能は反比例する」と書いたことがあったが、他人というか周囲に爆音や重低音で不快な思いをさせてまで、「この音がいいんだよ」という気持ちが解らない。F−1などはサーキットでやるもので、好きな人だけが「聞きに行けばいい」。公道では「不快だと思う人間の方が多い」ことを、なぜ想像できないのか理解に苦しむ。

1時すぎ、カレーを食べたら腹が苦しくなったので、ソファに転がってパソコンのモニタをテレビにして、しばらく食休みでネットを見る。WEBカムのライブ映像のリンクサイトがあって、今はけっこう街や道路などを「生中継」しているところが多いのだなあ、と感心。
リンク先のあちこちの映像を見たりしていたが、行ってみたら静止画像が数分おきとか、固定で変化のない風景が映っているだけとか、今一つ面白い「中継」はなかった。
ただどこかの家の猫がすやすや寝ているのと、新宿の東口の路上を映したカメラ(新宿大通商店街振興組合)は面白かった。新宿のタカノなんて何回打ち合わせで利用しただろう。もちろん、ここが歩行者天国になった時も、そうでないときも、仕事でもプライベートでも、一人でも三津子と二人でも大勢でも、新宿は何十回…いやひょっとしたらもう一桁多く来たかも知れない。
こないだ「浦」の女将さんと世間話をしていた時に話したのだけど、いつ頃からか自分は渋谷が「しんどい」と思うようになった。歩いている人たちが若く、低年齢化しているような印象を受けるようになって、街もそのように変わった気がした。
三津子は三軒茶屋の近く・三宿の生まれで、彼女の家は代々東京だ。(関係ないが東北の某県出身なのに「自分は江戸っ子」とずっと嘘をついてきた漫画家を、彼女は「東北に失礼だよねえ」と言っていたっけ)
渋谷はかつて「大人の街だったよ」と言っていた。というより、夜の街は子供が歩くところではなかったし、今のように一晩中眠らない街というのはそう多くはなかった。
渋谷も打ち合わせや仕事で何十回と出かけてはいるが、30過ぎあたりからしんどくなったのは事実。それから40前になると新宿がキツくなった。ずっと楽だったのは池袋。それも、京都へ来る前つまりここ数年は、しんどくなり始めていた。
老いる、というのはこういうことかも知れない。自分の年齢で老いるというのはまだ早い気もするが、老いは確実に誰にでも来る。「アンチエイジング」と良く聞くし、整形だ何だと姿形を変えてまで「老い」に対抗しようとする人たちもたくさんいる。
だが自分が生きて歳を重ねていくことに、それほど「アンチ」にならずとも良いのになあ、とも思う。渋谷新宿池袋、どこでもそうだがそこは「若く健康であること」が前提で、それら「消費する人」を相手にする商売が多い場所だ。だからガチャガチャしていてスピードが速く、結果として病身や老人にはしんどい場所になる。
だが実はこれからはよく言われているように、団塊の世代(こないだ本当に「ダンコンの世代」と真顔で言っていた人を見た。驚愕した)がどんどん「老人」になっていく。
その「老人」たちをターゲットに、良質な「コンテンツ」を与えていくこと、そのことを俺たちは90年代はじめから話していた。文藝春秋が『コミック94』を出した時、三津子…やまだ紫は向田邦子さんの『嘘つき卵』を原作に漫画を描いた。例えば、そうした「人生を重ねてきて一定の年齢になったひとたち」を相手にじっくりと読ませる、心に残るものを、漫画でもゲームでも何でも作っていくべきではないか。そう話し合った。
本人たちが「老人と呼ぶな」「まだ若い」と言い張ったって、現実に年齢は確実に増えていくし、体も衰えるのだ。それを無視して無理をすれば、先日来ニュースになっているように山で遭難したりすることになりかねない。

病人や老いた人間が歩きやすく、暮らしやすく、住みやすい…と思える社会は、おそらく、これだけ資本主義というより市場原理主義で長く来てしまった国では実現は難しいと思う。
「弱者」を切り捨てたり足蹴にするような風潮は許せないと思う、自分が病気になったり、老いてみなければそこに気持ちを寄せられないというのは、想像力の欠如というだけでは済まされないほど「貧困な知性」の問題だ。
例えば生活保護にしても障害者給付金にしても何にしても、弱者救済のシステムを悪用したり、詐欺のように「利用」する輩も多いのも事実。だがその「システム」につけいる隙を与えることが間違っているのと、つけいる輩が悪いのであって、やっぱり弱者は社会で救済してあげなければ、それはもう「国家」ではないと思う。

その後夕方は相撲を見る。
朝青龍が稀勢の里に土俵際で頭を押さえつけられて負ける一番を見て思わず拍手喝采。
個人的に朝が憎いわけではない、ボクシングの亀田一家にしたってそうだ。メディアが「これくらいやっても大丈夫だろう」とか「ここまでやらないとメディアで大きく扱ってくれない」、そういう「ヒット&アウェイ」的な計算が周辺も含めて働いていることは、普通の大人なら言わずもがな、というところだ。
それを理解して、その上で相撲を見ていると、プロレスの黄金時代をふと思い出した。
それからテレビを見つつ、三津子の写真と一杯。キムチ、お袋が送ってくれた生ハムをスライスしたり、シーザーサラダなどをつまみにする。

9時前、たまたまチャンネルのザッピングの合間に何かの番組でタモリを見た。
自分の子供に「いい大学へ入りいい生活をすること」だけを至上命題にして加熱する「教育ママ」の様子をリポートしたフィルムのあと、タモリは静かに
「ああいう(ことで作られる)エリートってのは必要なんだよね、そういう世界があるってことは解る。でもね、そっからこぼれた人は…というところへ目を向けなきゃいけない」とはっきり発言をしていた。
さすがだな、と思った。この人がダテに何十年もギネスに載るような番組を、ダラダラ続けているだけの才能ではないことは、深夜の「タモリ倶楽部」をずっと見ていた人間としては、よく解る。タレントや芸人「養成所」、「学校」で作られ集団で送り出される中には本物も稀にいようが、やはり本物の「才能」ある人だけが持つ凄みが、この人にもある。唯一にして無二の存在であるという個性がある。
もっと言えば、芸人だけではなく、もちろんどんな分野にも「表現」である以上、そういった存在はある。40〜30年以上前に起きた日本人作家によるSF小説ブームの洗礼を、兄の影響で早くに受けたが、死のうが生きていようが、時代が古かろうが、星新一は神であり小松左京も筒井も豊田もみんな凄い人たちだ。
「SF」が小説の一ジャンルとしては低く見られていた時代から、良質な作品と作家性で地位を高めてきた、先達であり開拓者であるという評価は絶対に変わることがない。
それは漫画が漫画として表現の幅を広げ、「表現」としてではなく馬鹿にされていた時代から頑張ってきた「開拓者たち」に重なる、同じようなリスペクトが俺にはある。
漫画ではもちろんやまだ紫がそうだし、80年代の岡崎京子だってそうだろう。以前「岡崎京子って何か今さら古いって感じで」と言った教え子に懇々と説教をしたことがあるが、先駆者や開拓者の功績をキチンと後世の人間が評価していかないと、その表現に未来はないと思う。

俺がテレビや新聞でたまに漫画を紹介することがあってもほとんど見ないのは、「それはすでに知っている」と思うからだ。じゅうぶんに流行り現象になったような超有名作を、わざわざテレビや新聞という「マス」のメディアで取り上げても、もう遅いだろう。「マス」のコミックを「マス」メディアが取り上げる。
だから「マスコミはもう終わっている」とネット住人に言われる。
そういえば先日、2ちゃんねるで「後世に伝えたい漫画」というスレが立った(主なログは「「痛いニュース」」参照)。スラムダンクとかドラゴンボールとか、まあ誰でも読んだことのある「マス」のコミックスばかりだった。
つまり、すでに「漫画好きの大衆」は、そういったメジャーな「マス」のコミックスなど、今さら紹介されんでも解説されんでも他人がごちゃごちゃ「どこがどういいか」などと「理屈」をこねくりまわさんでも、読んでるし知っているのに、と思う。

「これがなぜ面白いか」を「他人」に「その他人の基準」で「教わる」のって、そんなに楽しいことだろうか?
今の世の中は情報が溢れかえっているから、「面白いもの」は自分で探すより、教えてもらった方がいいのだろうか。そうなのか。
自分の青春時代、自分がモノを知らないダメでバカで本当にチンケな人間であることが許せなくて口惜しくて、古書店を巡ったり図書館へ通ったりあちこちにアンテナを張り巡らせて、漫画業界へ入ってからもメジャーマイナーを問わず漫画を読みまくった…のは、そういえば二十年以上も前の話なのだ。
なるほど、「老いる」わけだ。
そして「老いた」人間は「退場」しなければならないのだ。
だから、人は「老い」を認めず、戦おうとする。なるほど、マスコミに「これが面白い」と教わってでも貪らねば、今の世の中ではすぐに取り残されてしまう…。

外はいつの間にか暗くなってきて、雷が鳴って大雨が降り出した、意外とベランダの内側へは降り込まない感じで、つまりは風がないからストレートにざあざあと下へ落ちていく。なので苔や草にはいつも通り水をやった。
6時過ぎから晩酌。カクテキとキムチ、三津子には温泉たまご、函館から送ってきた生ハム、チキンピカタの載ったサラダ。
関連記事
2009-07-18(Sat)

台所の掃除

7月18日(土)

夕べはブログをアップしたあと、6時頃から三津子の写真と晩酌。飲みながら写真に話しかけているうち、何気なく冷蔵庫へ何かを取りに行って、一番上の段に置いたままの箱に目が行く。
また泣いてしまった。
その青い小箱は、今年のバレンタイン・デーに三津子が「これ、一応ね。」と言ってくれたチョコレートだ。これがあの人からの、最後のチョコレートになった。賞味期限は過ぎたかも知れない。でも捨てられるわけがない。
俺みたいな人間と一緒になってくれて、愛してくれて本当にありがとう。これまでもそうだったし、今俺が生きていられるのだって全部君のおかげだ。それなのに君が居てくれないなんて。
だったら板橋でもいい、あなたが笑顔で隣に居てくれさえするのなら、もう京都じゃなくてもいい、どんなところでもいい。寂しい、本当に寂しくて仕方がないよ三津子。
今日は俺の誕生日だ。もう44のオッサンだよ。君が守ってくれたお陰だよ。せめて、今日ぐらいは出て来てくれないか、それとも俺には見えないけど居てくれるのか。二人でどちらかが先に死んでも、解るように側に出て来よう、知らせようって約束し合ったじゃないか。
頼む、もう一度君と会いたい。誕生日くらい…。自分でも、いつまでもグジグジするなと思う、解ってはいるのだけど、これまで生きてきた中でこれほどの深い悲しみ、強い孤独感を感じたことはない。たぶん今後も無いだろう。
夜は、辛く、寂しい。
これなら寝る寸前まで仕事なりなんなりに没頭した方がましだ。でもそれは恐らく、俺の体にとって良いことではないだろう。だとしたら、そういうことをするのは、俺の命が少しでも長らえるように祈ってくれていた三津子に申し訳ない。「6時になったら仕事はおわり」。その代わり、そこからの夜が長く、辛い。

その後、寝たのは12時ころだったか。
朝方3時ころに目が醒めてしまい、フラフラと下へ降りて、三津子がもらっていたハルシオンの残りを一錠飲んで、ベッドに戻る。
もう、レンドルミン2錠では全く効かなくなった。必ず夜中、それも早朝に目が醒め、その後は朦朧として浅い眠りと覚醒を繰り返す。だから起きる時にはぐったり疲れていることが多い。
心療内科のK先生が手紙で、愛する人を亡くしたという「強いストレス」下にいるのだから、睡眠薬を飲んででもちゃんと寝た方がいいということを書いて下さった。
人間が受ける最も強いストレスが、愛する配偶者の死だ。このことが俺のくすぶっている癌に障らないかと、こないだの電話でお袋は心配していた。
人間は寝ることによって、体をリセットすることが出来る。単に休ませるという意味だけではなく、「修復」も行われるという。それは体も、心もだ。
だから「眠れない」ということは薬ででも解決した方がいい、と俺も思う。

その後何度か目が醒めたような気がするが、次にはっきり目が醒めたのは9時だった。やっぱりレンドルミン2錠では足りなかったようだ。いったん中断した眠りを再開させることが難しい。そこへ1時間程度で血中最高濃度に達するというハルシオンは、中断した眠りにも有効なのだろうか。
こういった安定剤や導眠剤は、昔は依存性や副作用が指摘されたが、今は本当に良くなっていると聞いている。アルコールとの併用はもちろんNGに決まっているが、一日の終わりに多少のアルコールを「写真と差し向かい」で摂取すること、そして薬で安眠を得ること、どちらも今の俺にとっては大変に重要なことだ。

今朝はうす曇り、比叡山の山頂はややかすんでいた。
朝のことを済ませて、花を活け換える。イズミヤで買った黄色い「すかしユリ」はぽとぽと、と残っていた花が落ちてもう花が2輪になっている。神田ぱんさんからいただいたアレンジの白いユリはまだ生き生きしているので、花瓶にすかしユリと一緒に活け換えた。アレンジの残りの花や緑は、花瓶とガラスの小瓶などに活け換えた。
その後昨日コンビニで買ったタマゴハムドッグとペットボトルの小岩井ミルクコーヒーで朝食。新聞を取って戻る。
しばらくすると荷物が届いた。見るとお袋からで、たらこと生ハム、クリームチーズ、あとは三津子が載った昔の新聞や雑誌の切り抜きが入っていた。
たらこはたっぷり入ったパックが2つもあって食べきれない。俺が先日電話で話した時に「たらこはいいから筋子を送って」と言ったのを間違えた、とその後の電話で聞いた。明青さんに料理で使っていただこう。
切り抜きの入った袋をあけてみると、ほとんどはこちらで持っているものだったが、懐かしいものもあったので、しばらく読みふける。
そんなことんなでもう2時。外は日が射したり曇ったり。
その後リビングのテレビにパソコンの画面を出力し、ネットのニュース等を見た後、ゴミ袋がっぱいになったのでゴミ袋に開け、ついでに縛って下に捨てる。戻ってきて手を洗い、台所を何気なく眺めていて、発作的に掃除を始める。
この部屋の台所は夫婦二人で居た時からちょこちょこ掃除はしていたので、それほど汚れてはいない。料理は三津子がメインで俺が補助、洗い物は気が付いた方で、食洗機の操作は俺。それからキッチン全体の掃除は俺がやっていた。そう決めたわけではなく、元々俺は掃除が好きなのと、自然に役割分担が出来ていた。
ちょこちょこ掃除はしていたといっても、隅の方に手つかずで積んであった箱類なんかもあって、これを機会に要らないものは捨てる。
三津子が食欲のない朝、何かしら「胃に入れなきゃ」と言って買ってあったコンビニのカップスープの箱。開けてあるのも入れて2種類ずつ4箱。シリアルの手つかずの袋が1つ。もう賞味期限が来ているのは捨てる。シリアルも、俺は食べないな…と思うが、あの人が手に取って買ったと思うと、そんな袋もの一つにも何となく執着が沸いて困る。二人で買い物をしていた、何気ない日常が蘇る。
キチンと輪ゴムで縛っている使いさしのパン粉や小麦粉、唐揚げ粉…この先俺が一人で使うことなんてあるのだろうか。二人でグラタンをベシャメルから作り、オーブンで焼いて食べたりしたけど、もうやらないだろう。
にんじんとたまねぎの掻き揚げも、活きのいいエビをサッと素揚げにして塩レモンで熱々で…何もかも、二人だったから「美味しいね」と言い合って食べた。そのために買ったものは、一人ではもう作らないし、作れない。作ったところで一緒に食べて笑い合う三津子はいないから、面白くも楽しくもない。
部屋に居る時はしょっちゅう、無意識で三津子に声を出して話しかけている。この間はエレベータを待っている時に「今日も暑いね」と思わず一人で喋ってしまい、あせった。外でこれがクセになると、完全に危ない人に見られるだろう。
小一時間かけ、壁は重曹クリーナーで磨き、油汚れはアルコールで、シンク周りはハイター系の泡洗剤で綺麗にしていく。それらを終えて最後はいよいよ油で汚れたレンジフィルターの交換だが、さすがに力尽きたので、5時半過ぎにやめた。
「あなたもうそれくらいにして」と、いつも彼女が頃合いを見て言ってくれていた。仕事にしろ掃除にしろ、時間を忘れて没頭する習性の俺に「体にさわるから」と休符を入れてくれた。
5時半になったらそろそろ「オワリの支度」、6時になったら「仕事はおしまい」。京都に来てからは、そんな感じでお互いが暗黙のルールを作っていた。

一日中家にいると、時間の感覚が無くなる。一人になると余計にそうだ。腕時計をする習慣がすっかりなくなって、こないだから携帯を持たずに出ることが多くなったことに気付いた。
誰のために時間を気にするのか、誰のために体や健康に気をつけるのか、誰のために生きるのか…と考えると、虚しい。虚しいが彼女によって守られ生かされている以上、投げやりに生きることはしたくない、してはいけない。
関連記事
2009-07-17(Fri)

癌宣告から1433日目の誕生日。

7月17日(金)

44歳の誕生日。

病気になってからは、一日一日生きているだけで有り難いと思う。誕生日も、その積み重ねの一日でしかない。けれど「2005年の夏」からもう4年。あの頃、「今」が自分にあるとはあまり想像出来なかった。
この4年の間に京都へ転居し、そして5月に最愛の人を失った。このことも、あの夏にはこれっぽっちも想像しなかったことだ。
一人になったことは辛く悲しすぎる、けれど生かされていることには素直に感謝したい。この命は彼女が命がけで守ってくれたのだから、頑張って生きねばならない。

夕べは12時ころには寝たと思うが、2時過ぎからきっかり1時間おきに目が醒め、結局そのまま7時前に起きた。寝て起きたばかりなのに、全く体が休まっていないように思うほどぐったりと疲れた。
比叡山はガスっている。また今年も誕生日を迎えられたことを感謝し合掌する。
今日は祇園祭のクライマックス、山鉾巡行の日だ。夜のうちに雨が降ったらしく、ベランダが濡れているが、雨は上がったようす。
昨日は宵山で、ニュースによれば宵々々山から四条通はずいぶん観光客で賑わっていたらしい。
俺たちは去年、巡行が始まったあたりから京都テレビの中継を見ていたが、「やっぱり近くで見たいね」と言ってタクシーを飛ばし、通行止めの御池通手前ギリギリまで行った。
先頭の長刀鉾からほとんどが過ぎてしまった後だったが、山や鉾が豪快に直角に向きを変える「辻回し」も見られて、楽しかった。観光客は「四条河原町」に集中して早くから場所を取ってひしめき合っているため、病人にはきついし、ゆっくり見られない。
でも実はそこから少し上がった「河原町御池」でも西への「辻回し」が見られる。こちらも混んではいたが、じゅうぶん近くで見ることができた。
三津子と二人で御池の地下をくぐり、河原町から山・鉾をすぐ近くで見上げて、途中でもらったうちわで扇ぎながら「綺麗だねえ」と声をあげた。「来年は宵山来て、もっと近くで見ようよ」と話した。暑い日だった。その後、思わずクーラーに誘われて二人でパチンコ屋に入った。
その日の夜はふたりで家の近くの「みよじ」という和食ダイニングへ行った。普段はカウンタ6、7席だけの小さな店だが、大将は静岡出身で、京都三大旅館の一つで十年修行をしたという腕前だ。我が家から歩いて1分という場所なので、文字通り贅沢な「ダイニング」がわりだ。
そこで、俺が「いやー実は今日誕生日なんですよ」と話すと、大将が「えっ、それはおめでとうございます!」と言ってくれて、静岡の酒『花の舞』をいただいた。純米酒特有のさわやかでやさしい甘口の酒で、こういう日本酒を飲むと、日本人で良かったと思う。

実はこの『花の舞』はこの直前、二人で静岡へ出かけた時に、初めて出逢っていた。
三津子が大学の仕事で静岡へ出張するという日、「帰り観光でもしようよ」と言われて一緒に出かけた。体調も良かったので、その日はビジネスホテルに泊まって、翌日は浜名湖の舘山寺温泉の旅館を予約しておいた。
その旅館での夕食時、「何か地元のおいしいお酒はありますか?」と聞いて勧められたのが『花の舞』だった。
つまり去年の俺の誕生日のほんの一週間ほど前、二人の旅行先の浜松で初めて出逢った酒が、「誕生日プレゼントです」と近所の店のカウンタに置かれるという「偶然」。
二人で顔を見合わせて「これって、こないだの…」「すごい偶然だねえ!」と驚いた。その日から三津子はこの酒を愛飲するようになった。

あれからもう一年が経つ。

今、逝ってしまった三津子に毎晩あげているのが、この『花の舞』だ。いくつか種類があるが、彼女が好んだのは青い瓶の、一番安いもの。ラベルには彼女の大好きだった桜の花が舞っている。ごくたまにだけど、自分も冷蔵庫で冷やしたこの酒を飲むことがあった。逝ってしまったあの人のように、やさしい味わいの酒だと思う。
本当に、去年の誕生日からもう一年が経ってしまった。いや、たった一年しか経っていないのだが、隣に居るべき人はもう居ない。

朝のことを済ませてから、8時前に着替えて外に出る。
昨日のうちに暑中見舞いをくれた方に返事を書いてあったので、そのハガキを持ってコンビニへ行き、50円切手20枚と朝食のおにぎり、ウーロン茶のペットボトルを買う。その袋をぶら下げたまま、踏切を越えたところにあるポストの前まで行き、立ったままハガキに切手を貼る。ちょうど上がっている雨のしずくがポストに少し溜まっていたので切手をハガキに次々に貼り、投函。そのままマンションに戻る。

しばらくしてドアフォンが鳴り「ゆうパック」を持ってきたというので受け取ると、ももちゃんからの誕生日プレゼントだった。
開けてみると「甚平」で、思わず笑ってしまう。
実は何年か前にも一度貰ったことがあって、その時俺は度付きサングラスにメッシュ長髪に口ひげで、着たら三津子に「ヤクザ」と言われた。今ならもう大丈夫だろうか。そうでもないのか。

その後お袋からも電話があって、途中今度はゆうちゃんから花が届いた。
三津子、俺も頑張って生きねばならないなあ。

それからお昼に塩ジャケを焼いたのでお茶漬けを食べ、テレビを眺めていると、明青のおかあさんからメール。
「お誕生日おめでとうございます」と絵文字入りでお祝いメッセージをいただき、来週お店の休みの日にまた焼き肉へ行きましょう、というお誘い。もちろん「ぜひ」と返信。
買い物に出て2〜3日分の食べ物を買ったらあとは引きこもりという生活を察して、こうしてお誘いを下さるのだなあ。ありがたいなあ、と三津子の写真に話しかける。君の人徳だよね。本当に、頑張って生きねばならないなあ。

1時半ころ仕事をしていると、今度は和食割烹「浦」の女将さんから電話がある。「浦」さんは二人でちょこちょこ伺っていた、徒歩5分ほどのお店。「メール読んでくらはりました?」というので携帯を見ると、「たまには外に出てお茶でもどうですか」と入っていた。
最近携帯はテレビの脇の充電器に起きっぱなしで、かつマナーモード。一服してテレビを眺めている時は気が付くが、仕事部屋に居るとほとんど気が付かない。
「晩ご飯にとおかずも持って来ましたから」と言われて、慌てて着替えて下に降りる。
浦さんは車で来られ、じゃこご飯とおかずをいただいてしまう。申し訳ないです。「店のランチが終わったので、ご飯食べはりました?」と言われるが、俺はお昼にお茶漬けを食べてしまったところなので、ご飯が食べられてお茶だけでもいいところで、ということにする。
俺が引きこもっていると察して、「無理にでも引っ張り出さな思て」と誘って下さったのだ。
俺は三津子が生きていた時に一緒に行ったところはとっさに思いつかなかったので、行き先は女将さんにお任せした。
車を走らせながら、浦さんは「先生、痩せはったんちゃいますか、ちゃんと食べてはりますか?」と聞かれるので、「あの直後はほとんど食べられなかったんで痩せたんですが、最近は戻ってきたんですよ」と話す。色々な方が心配して下さる、申し訳ないのと有り難いのとで、じんとくる。

車が着いたのは北山通りの「S」だった。隣が大きな回転寿司の店で、そちらは夫婦で夕方たまに出かけた店だが、「S」の方は入ったことはなかった。
駐車場に車を入れて、女将さんには気にせずお昼をとってもらい、俺はアイスオレだけにする。
浦さんは「先生いろいろ物知りやから、お聞きしたいことがいっぱいあって」と言われるが、俺なんか浅学非才の極み(?)のようなこざかしい男だ。編集者という職業上、どんな人とお会いしてもそれなりに「世間話」が出来るというレベルで、44年も生きてきたというのに何も成していない、本当にしょうもない人間だと思う。
浦さんは三津子、やまだ紫という素晴らしいひとと「一緒にいる俺」を見て下さっていたので、買いかぶっておられるのだと思う。

聞かれるままにとりとめのない話をするのだけど、やはり話が三津子のことになると、気持ちが不安定になる。衆目環境で目頭を抑えるのはまずいと思い、気持ちを立て直すのに必死な場面もあった。

それでも先日娘たちと三人で明青さんに出かけたきり、外で誰かと何かを食べたり飲んだりということは一切なかった。久々の「世間」の雰囲気はとても賑やかに思える。いい気分転換になった。
2時過ぎ、浦さんにはマンション近くの踏切まで送っていただき、ご主人にくれぐれもよろしくと挨拶をして別れる。


それにしても、明青さんにしても浦さんにしても、京都でいい出会いがあって、有り難い限りだ。
本当に、三津子のお陰だと感謝するしかない。
彼女のためにも、頑張って生きねばならないな、と思う。
関連記事
2009-07-16(Thu)

オーバーワーク

7月16日(木)

43歳最後の日だ。
朝は6時過ぎに目が醒め、そのまま7時前に起きた。
今日も雨はなく、暑くなりそうな気配。比叡山は山頂まで見えた。
朝のことを一通り済ませて、今日はブログを更新せねばと思い、空白だったところの日記を片端からエディタで開いて、ブログ用に書き換えていく。
昨日の夕方、お袋から電話があり、何しろ俺は京都という親戚もいないところで一人で居る。「しかもあんた癌なんだよ」と言う。万が一何かあったとしても、倒れても誰にも気付かれないかも知れない、そう思っただけで気が気じゃないという。
ブログというのは「しょこたん」ではないが、思ったことをその都度、それこそモバイルからでもササッと書き込めることが手軽でいいわけで、そこがブログたる所以でもある。
でも自分の場合はどうしても毎日記録魔の性癖が出るせいか、日記を詳細に記録して、そこからざっくりと削りながら掲載するという「手法」のため、作業が膨大になる。ついついサボる。「更新がない、どうした」と心配させる。
俺のような病人は「生きてます」だけでも、伝える意味があるのだと思った。なので、今日は仕事以外の時間を「ブログの更新の日」にあてる。
ユキ
朝は昨日買っておいたサンドイッチを食べるが、さすがに飽きてきた。ちょっと違うものが食いたいと思いつつ、その後は仕事、合間はブログ更新。気が付いたら夕方5時過ぎ。
ユキは1時ころ上から下りてきて、2時過ぎからずっと俺の机の脇にある段ボール箱の上で寝ている。時どき思い出したように「にゃぁ!」と鳴く。俺が振り返って撫でると安心して寝る。
一人だと何かの作業に没頭するとアッという間に4,5時間が経過している。健康上これはまずい。
6時になったら仕事はオワリ!
という三津子の声が聞こえるようだ。
関連記事
2009-07-15(Wed)

「初盆」に花をいただく

7月15日(水)

ゆうべは11時過ぎに二階へ上がり、テレビをつけて横になった。とにかく部屋が暑い。一階がクーラーが効いていたので、階段を上がっていくと余計に上へ行くに従って熱が籠もっているのが解る。しばらくは暑くて寝られたものではない。
テレビのニュースは夕方から民放、NHK、さらに夜とはしごしているので、ほとんど主要なものは既報、あとはそれぞれのニュースショーごとの小さな特集だったり特ダネだったりに興味があるが、それらがあまり面白そうじゃないと、もう消すしかない。
この日もいったん消したが、眠れなかったので、テレビにつながっている古いDVDレコーダに何かが入ってるので再生してみたら、マイケル・シェンカーのアルバムを発表年代順にmp3にして入れたCD-Rだった。
「Armed and ready」から始まる80年代のハードロックの「神」の旋律は若い頃を思い出し、思わず体でリズムを刻んでしまうが、これは眠る時には全くふさわしくない。
それでも目を閉じて聞いていたらいつの間にかうとうとしてしまい、結局すぐに消した。

朝は6時前に目が醒め、それから変な夢を見て8時半に起きる。朝のことを済ませてゴミ袋を出しがてら、下に新聞を取りに行く。セミがじわじわと鳴き始め、外は快晴といっていい天気。青空に比叡山がくっきり見える。合掌。

部屋に戻ってパソコンに向かいメールチェックし、昨日の細井さんへの御礼の返信。すると背後でまだつけていないテレビが突然ついたのでドキッとしたが、よく考えたら昨日のうちにMLBオールスターゲームを「視聴予約」しておいたのだった。
なのでテレビの前に行き、華やかなフィールドにイチローが呼ばれて飛び出していく、その次はジーター…という影像を見ていると、三津子のお姉さんから電話。
先日電話で子供たちが来た時のことを話したが、その時お姉さんは親戚の法事があってよく話せなかったので、改めていろいろ話した。
東京は昨日梅雨明け、こっちも真夏のような青空に緑が映えるいい天気だ。暑くなりそうですね、と話し、お互い体に気をつけましょう、ばーちゃん(三津子の母)によろしくと伝えて切る。

その後買い物があるので、暑くなる前にと思い、着替えて外に出る。自転車のタイヤの空気が減っていたので、空気入れで入れて、スーパーへ行くが、もうこの時点でむちゃくちゃ暑かった。
あまりの暑さにそのまま外に履いて出られる半ズボンを2980円で買う。文具売り場で切れていたセロファンテープの換え、原画整理用に一枚ものの原画や原稿が入れられるA3のクリアファイル2冊、B4のを1冊買う。
帰りはコンビニに寄って夕飯の弁当と明日のサンドイッチとおにぎり。もの凄い暑さと日射しで、これでも関西は梅雨明けじゃないのかと思うが、まだ宣言はなし。
自転車置き場に戻って荷物を持ち、エントランスまで出てポストを除くと、封書が2通。一通は三津子が通っていたK医院からで、もう一通は東京でお世話になっていた福音館書店のFさんからだった。
家へ帰るとクーラーが涼しい…と思ったらそうでもない。それほど今日は外が暑いのか。着替えてジーンズを洗濯機に放り込み、手紙を開ける。

K先生からは、三津子が亡くなった後の診察予約の時間、あえて別の患者で埋めず、「愛のかたち」を読み返して下さったとあった。ブログも見ていただいていたそうだ。愛する人を失った心痛はじゅうぶん理解して下さっており、睡眠が不足しないよう、睡眠薬を服用してでも眠るように、とのこと。
Fさんからは、預かっていた原稿があるのでお返しにあがりたい、その時にお花でも手向けたいとのこと。ずっと以前からのお付き合いかと思っていたが、やまだ紫が福音館の月刊誌「母の友」で『やま猫の宝箱』を連載したのが初対面だそうで、93年のこと。
お二人とも訃報への返事が送れたのは申し訳ないと書いてくださるが、その分ショックが大きかったということも伝わってきた。
三津子にも見せて、小ダンスの前に添えた。
神田ぱんさんからお花をいただいきました
その後花屋さんから電話があって、東京のWさんからお届けがあるが居るかというので、居ると伝える。しばらくして、神田ぱんさん(筆名)から「初盆だから」と花が届いた。綺麗なユリなどのアレンジで、思わず三津子に見せて合掌。
こういう綺麗な花を見せて三津子の写真を見ると、いつも涙が出る。生きている時に、俺から彼女に花を贈ったことなんかあったっけ、と。「綺麗だね」と話しかけ、心から有り難いと思うと同時に、彼女に済まなかったと思い、辛くもなる。
自分が今、毎日彼女に花を飾り陰膳をあげたり水や茶を添え手を合わせるのは、もちろん彼女の供養のためだ。でも、ある意味そういう馬鹿野郎だった自分の贖罪という意味もある。
済まない、申し訳ない、ごめんなさい。
そしてこんなクズ人間と一緒に居てくれて本当にありがとう。それでも君を愛していたし、今もこれからも愛している。それだけは許して欲しい…。

気を取り直して仕事をしていると夕方、電話が鳴った。出ると「明青」のおかあさん。「ちょっと聞きたいんやけど」というので何事かと思ったら、ネットで電話番号から住所は調べられるかというので、会社ならともかく個人だと恐らく公開する人はほぼいないので、検索でも出て来ないでしょうね、というと「やっぱりねえ…、諦めかけたんやけど、一回白取さん聞いてみてからにしようと思って」とのこと。
すぐ電話は切ったが、よく考えたら、きっと昨日今日とまたブログ更新がないので、様子見に電話してくれたのかも知れない。
(というわけで、今日=7月16日に一気に空白の十日分ほどを更新中)

もう7時近くになった。外は青空と西日が綺麗なグラデーションになっている。東山は西日を受けて緑が薄い黄色のフィルタをかけたようになっている。
「長月三津子」名義の「わたしの青い星」について教えて下さった偽野つみれさんと漫棚通信の細井さんや、メールで「読みたいなあ」と言っていたゆうちゃん、花に「いつか『わたしの青い星』を読みたいです」と添えてくれた神田ぱんさんたちだけにでも何とかと思って、原稿をスキャンしてみる。

だがスキャナはA4までで、漫画の原稿はB4大。やはり版面がギリギリ入る程度で、タチキリなどが出るともうダメだ。コンビニでコピーを取るとかしかないが、こんな貴重な原稿、しかもトレペや写植が脱落するおそれがあるものを外に持ち出すのは怖い。なので仕方なく断念。デジカメで撮ってみるかとも思うが、白抜きのセリフはトレペ上だし、悩ましい。
やまだ紫の「COM」時代の作品を集めた『鳳仙花』はもちろん絶版だが、ほんとうに素晴らしい作品集だ。「性悪猫」や「しんきらり」だけの作家ではない、彼女の作家としての凄みは、これら初期の作品からすでに十二分に発揮されている。
これらに未収録の作品やこの「わたしの青い星」なども加えて、どうにかして一冊に復刻したい。自費ででも何とかしたいと思うが、もうちょっと頑張らねば…。

関連記事
2009-07-14(Tue)

今日はひと休み

7月14日(火)

夕べは12時過ぎに寝る。朝は5時過ぎに目が醒め、その後とろとろしていると6時ころまたユキがベッドの足元に載って来て起こされる。結局寝たり醒めたりで8時過ぎに起きる。
外は晴れていて、比叡山の山頂がよく見える。
下へ降りていつものようにテーブルを片付けて三津子の茶と水を取り替え、線香を立てて祈る。それから食洗機、朝は昨日コンビニで買ったおにぎり2つと水。
MLBはオールスター休みで何も見るものがないので、昨日録画しておいた日本人メジャーリーガーの特集を見る。

一息ついてメールを見ると、「漫棚通信」の細井さんから、自分も78年の「だっくす」を調べてみたら、12月号「今月の登場」という欄に、

やまだ紫(むらさき)
先日、だっくす編集室を訪ねて来てくださった。
ギャルズライフ創刊に「わたしの青い星」、
ガロ12月号に「ときどき陽溜りで」を発表。
サインをねだったら生まれて2回目、と悩んでらした。

という記述があったそうだ。
これで本人が「わたしの青い星」を描いたことがはっきり裏付けられたわけで、さらに、香月千成子氏による「COMの時代をふりかえる」という記事中、

さて、やまだ紫。“GALS LIFE”創刊号のわたしの青い星はこの人である。

という記述もあったという。

それにしても、なぜ彼女はペンネームを変えたのだろう。その後一度も使用していないし、彼女の口からも聞いた覚えがない。
またその号には彼女が「となりのヒロミさん」というタイトルの漫画も描いていて、細井さんによれば

1作=1ページという形式で、6作
ぼうし(5コマ)
密室(8コマ)
会話(6コマ)
世間のくち(7コマ)
秋刀魚(6コマ)
注射(5コマ)
あと、4コママンガが2本
しかえし・やおや
計7ページです。
「となりのヒロミさん」というタイトルが
二か所に出てきていますので、
他誌に描いたものを流用したものでしょうか。

とのこと。

この漫画は「だっくす」12月号の目次になぜか掲載されていないそうだから、ひょっとしたら「何か描いて欲しい」と言われて再録したものかも知れない。
「再録〜?」と思う人もいるかも知れないが、昔は割とそういうことは頻繁にあったのだ。「ガロ」でも初期の貸本漫画の再録とは別に、新作を依頼した作家さんに新作は無理だけど、「これ●年前にどこそこに載ったやつでよければ」と普通に言われて掲載したということもあった。まあ、おおらかということだろうか。
「ガロ」の場合は原稿料を出せなくなっていたから再録でも仕方がない。当時の「だっくす」がやまだ紫にどういう依頼をしたのかも不明なので、まあ関係者が証言してくれないともう解らない。

細井さん、どうもありがとうございました。

その後昼は昨日買っておいたざるそば。麺がくっついてるので流水でほぐしてから食べる。それからポストを見に外へ出ると、セミが今年初めて「じわじわじわ」と鳴いているのを聞いた。もう、本格的な夏か。
三津子が倒れた、あの寒い夜からまだ2ヶ月半。今ではセミが鳴いている…。
今日は関東甲信越で梅雨明けしたそうで、京都もちょっと外に出ただけでも汗ばむほど。梅雨明けしたかと思われるほど、青空に白い雲がぽっかりという天気だ。

このところオーバーワークで両腕が痺れてきたので、今日はリスト作成と画稿整理を休むことにする。
午後からBSで相撲、4時過ぎからは地上波NHKに切り替えて見る。BSの解像度と地デジのハイビジョン画質の差には、こうして相撲を切り替えて見るといつもながら驚かされる。

それにしても、白鵬、朝青龍と続けて土俵入りを見ると、白鵬には「うまくなったなあ」という感想、朝には「どんどん我流になっていくなあ」という感想。
朝の土俵入りの下手糞さ加減というか「美しく無さ」は前からずっと気になっていたが、ここにきて、例えばシコの前に両手を左右に広げるところの形や、手指がバラバラなところがますます「モンゴル風」に変化してきている。あの、相撲の前の「踊り」の所作だ。どういう動作を美しいと感じるか、思うかは民族や文化によって違うので、モンゴル相撲の戦いの踊りを否定するとかそういう幼稚なことではない。日本の相撲の横綱が土俵入りをする、そういう形の話。
前々から(朝青龍注射疑惑と最近の大相撲)朝の土俵入りは、明らかに所作に含まれる意味を知らずに型だけを慌てて覚えた風情があると思って来たが、先の上半身の「形」から手先への注意の無さ、ハエが手を摺るようなしぐさ、両手のひらをパカッと開くところの雑さ、体が常に上下に動くところ、場所ごとにどんどんひどくなってきている。
それに比べて白鵬は実に丁寧で、風格すら出て来た。
個人的な「好き・嫌い」で見ているのではない。日本人でも不知火型はともすればマヌケになりがち(旭富士、二代目若乃花)なのだが、40年くらい見て来て少ない実例ながら、白鵬が一番うまいと思う。
雲龍では好き好きがあろうが、やはり千代の富士だった。シコの際の足の高さ、せり上がりの前、グイと体を低く落とし、鋭い目線で正面を見据えたままゆっくりとせり上がっていく様は、まさしく「伝統の美」を感じさせた。
ここで相撲とは神事ではなく、江戸時代の異形を嗤う見せ物だったとかいう人もいるが、それはそれ、確かに現代の相撲も「興行」である以上見せ物であることは否定しない。けれどそこに神道由来のさまざまな所作や作法、「かたち」が組み合わさっていることも、否定してはいけない。
京都も千年の都と言っているが、では千年前の建物や町並みが残っているかと言ったら、ほぼ皆無だ。千本釈迦堂以外は応仁の乱で全て焼かれているし、その後も何度も火災や戦乱で貴重な建物や寺社が失われては再建されている。この「昔のものではないけれど、出来る限り再建し伝承する」ということが枢要で、現代の相撲だってそういうことだと思う。
それにしても、このまま日本人の横綱が「候補」すら現れないようなら、本当に復活させた「伝統」すら失われかねないと思う。白鵬とて結局はモンゴル人、日馬富士も親思いで素行はいいと言われているが、それは朝青龍という「反面教師」を見ているからだろう。
そういえば相撲漫画「ああ播磨灘」が『コミックモーニング』に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたが、朝青龍が現れた時は漫画が現実になったかと思った。まあ、播磨灘はそれでも「日本人」であったが。
結び前はその朝青龍に日本人では若手有望株の豪栄道が挑む。立ち会いは朝が左から「かちあげ」ならぬ肘で「エルボー」。

これは「反則」だ。

豪栄道は逆にそれに耐えたことで前褌を取ることが出来たが、投げで体勢を崩すに留まり、あっさり土俵から突き飛ばされた。それにしても、この朝の「反則」に、解説の北の富士だけは「あれは…かちあげじゃないね」とちゃんと言っていたが、アナウンサーはスルー。明かに反則というより「ケンカ」なわけだが、朝の「強さ」の秘密は実はここにある。
要するにメンタリティがヤンキーとかヤクザと同じで、「オラオラ」であり「てめぇブッ殺す」であり「強けりゃ何してもいいだろコラ」であり「相手への敬意? 知るかアホンダラ!」なのである。まあこういう「相撲」とは対極にある映像を見せられるにつけ、何とかしろよ日本相撲協会…と思うが、もうどうしようもない。
「力こそ全て」「強い奴が弱者を踏みにじる」「礼節なんか知ったことか」的な悪役に喝采を送る「物わかりのいい人」を演ずる知識人・相撲通もいるが、そういう連中が今声を挙げなかったことの「大罪」は、おそらくそう時間を待たずに、この日本社会のモラルや安全性が崩壊していくことで思い知らされることになるだろう。
ボクシングの亀田一家は、そのモラル意識のかけらもない「解りやすい憎まれるべき言動」(例=こういう感じ)によって叩かれ、スポイルされることで、彼ら自身の意識改革を促した。
もちろん本気かどうかは疑わしいものの、結果としてそれがメディアを通じて映像として出たわけだ。それは社会にとっても、彼ら何も知らぬ「子供」たちの将来にとっても良かったと思う。相撲にはそれをはっきりと指摘する人間が、内部に居ないというところが問題だ。
このまま行くと、大変なことになるよ、この国。
まあ病人の遺言とでも思ってくれれば良い。

その後、このところ野菜が不足してるなと思って、キャベツ、にんじん、ピーマン、しめじの乱切りと少量の豚バラ肉で野菜炒めを作る。
豚肉は日本酒でもんで塩コショウで下味をつけ、先に炒めたところへ野菜を投入。頃合いを見て中華スープにショウガとニンニクを足しておいたのを加え、塩コショウ、醤油で味を調えて完成。白飯が合ういい味。その他は昨日買っておいた総菜の茄子の煮浸しとポテトサラダ。ついでにもやし炒めも作った。
それらを三津子に陰膳をして、食べながらビールを飲む。野菜炒めを作っている時に、フとそういえばまだ彼女と知り合う前は、よくこうして野菜炒めやチャーハンを自分で作ったなあ、と思い出す。でもその時はせいぜい塩コショウと仕上げの鍋肌醤油くらいしか知らず、今一つ深みに欠けた味だった。
中華の鶏ガラスープを入れるとか、料理によっては和風ダシを使うとか、そういうことは全部三津子から教わった。今ではフライパンの返しだって、自分で言うのも何だがけっこうな腕前だと思う。それだけに、「おいしいよ」と言ってくれる人がいない寂しさがつのるのだけど。
あの人が病気で入退院していた頃、俺がけっこう頑張って料理をしていた時があった。たいていはたいしたものではなく、炒めたり煮込んだり、まあ男の素人料理だったが、彼女はいつもすまなそうで、でも嬉しそうだった。
多少の味のばらつきはともかく、いつも「おいしいよ」と言って食べてくれ、そして時々最後には「あなたにこんなことさせて申し訳ない」と言って泣いたこともあった。

俺が若くて団地で一緒に暮らし始めた頃は、危なっかしい手つきで洗い物をすることさえ、笑いながら写真に撮ったりしていた。俺にしてみれば一人暮らしの時は自分で自炊をしたり洗濯をしていたから当然のことで、何がそんなに珍しく、そして嬉しいのか良く理解できなかったものだ。
でも彼女にしてみれば、俺が「家事を手伝う男」であることが嬉しくて仕方が無かった様子だった。今にしてみれば、そう思う。

最近、彼女が逝ってしまってからデジカメの画像データを整理していた時、俺が知らない間にこっそり彼女が俺を撮影した写真がいくつかあることに気付いた。
台所で洗い物をしていたり、買って来た刺身を切っていたり、あるいは乾燥ヒレをトングを使って網焼きしてひれ酒を作っていたりする他愛もない写真だが、俺はそれを撮られたことに気付いていなかったものがほとんどだった。俺は自分のような不細工な男が写真を撮られるなんてゾッとすると昔から思っていて、今でも自分が写真を撮られるのが嫌いだ。
彼女がカメラを構えてくれても、「俺はいいよ」と言ってたいがい断ってきた。それゆえ、彼女はフラッシュをオフにして、俺に気付かれぬよう「こっそり」撮ったのだろう。なぜそこまでしてこっそり撮ったかと言えば、それはやっぱり「家事を普通にする男」が嬉しかったのだと思う。
洗濯物が乾けば普通に二人でベランダに出て、あ・うんの呼吸で取り入れてはテレビを見ながら畳む。メシの支度も晩酌の支度も、二人で打ち合わせも無しにてきぱきと整える。
そういうことがもう当たり前でずっと暮らしてきたと自分では思っていたけれど、彼女は死の直前まで、そのことをきっと嬉しいと感じてくれていたのだろう。
彼女が最初どういう結婚生活、夫婦生活をしていたかは知らないし、今はもう知りたいと思うこともない。それなりに愛し合って交際し、それなりに蜜月があり、暴力や不実はあっても二人の子をなした結婚生活だから、それを全否定するつもりは、もうない。
けれど、少なくとも、仲良く二人で家事を普通に分担するような関係ではなかったのだろうということは、こうしたことからもよく解る。
人それぞれ価値観が違い、夫婦観も男女観も違うだろう。だから何が正しいとかどういうスタイルが理想だとか、つまらぬことはどうでもいい。
ただ俺たちは、長年一緒に暮らすことで、お互いがお互いを普通に気遣い思いやることを「日常」にしただけの話だ。

7時ころ、まだ明るいベランダにユキを抱いて出た。
北大路を行き交う車や人、自転車にユキは視線をその都度動かして興味深げに見ている。時折何が怖いのか、抱かれている俺の胸にギュッと手を握って爪をたてる。それでも体はぐにゃりと力を抜いて預けている。
三津子が生きていた頃は、こうしていつも猫たちのどちらかをベランダに抱いて連れ出して、外を見せていたっけ。
団地の13階は向かいもただの団地の壁面だったし、だいたいこっそり飼っていたから出すのは気が引けた。その次のマンションとは名ばかりのアパートは3階で、片方の窓は電車が数メートル先を轟音と共に通り過ぎ、反対側はせせこましい家々の隙間が見えるだけだった。
東京で暮らした最後のマンションも3階だったが、その環境の劣悪さはこれまでで最悪と言っていいほどだった。
京都に来てからのこの住まいが、これまでで人間にも猫にも、最高の住まいだ。

西に傾きつつある日射しを受け、東山や吉田山の綺麗な緑を見ていると、隣に三津子が居ないことが、本当に悲しく辛く、寂しいと身に染みる。たった一年半。この素晴らしい場所で暮らしたのは、本当に短い期間だった。
でも、この短い最後の一年半が、二人にとっても本当に幸福な時間と場所であったとしみじみと思う。感謝したい。
関連記事
2009-07-13(Mon)

「九月三津子」作品の掲載年わかる

7月13日(月)

今朝はユキがうるさく、6時前から暴れて起こされる。何とか寝たり醒めたりで8時ころ起きて、猫たちのご飯と水を先にして、それから洗顔やらを済ませ、三津子に冷たい水と氷入りのウーロン茶をあげ、線香を立てて祈る。

今日は朝から薄曇りで日射しがあるが、比叡山の山頂はちょっと雲がかかっていた。お姉さんによると関東では今日が初盆だそうだが、知らなかった。ちょうど花もしおれたのが増えてきたので、買いに出よう。
いつものようにまずシャワーを浴びてから、髪を乾かしつつMLB、ボストン対カンザスシティを見る。それから10時前に着替えて外へ出ると、エレベータ前でお隣のUさんと会い、そのまま下へ降りてしばらく立ち話。
自転車でコンビニへ寄ってからショッピングセンターまで行き、10時開店ゆえ1分ほど待たされて入店。地下食品売り場で今日明日のものを買い、マクドでクオーターパウンドのセットをテイクアウト。カートを押してぐるりいったん売り場を廻るが花屋がないので、仕方なく外へ出る。

駐輪場まで行って自転車にまたがると、もう青空に白い雲という真夏のような天気で、実際まだ10時過ぎだというのに暑い暑い。帰り道にある別のスーパーの裏口に自転車を停め、荷物はそのままで花屋へ寄る。このスーパーの花屋は裏口からすぐにあるのだ。
今日は「すかし百合」の黄色いのがあったのと、もう一種類ピンク色の花とあわせて買う。猛暑になりそうな気配の中、ヒイコラ漕いでマンションへ着き、荷物を持ってポストから新聞を取って部屋へ戻るとやはり大汗。
すぐ冷凍食品などを冷蔵庫にしまい、着替え、MLBを見ながらクオーターパウンドを食べ、それから花瓶に花を整える。

先日(三津子の)お姉さんに聞いたところ、今日は新盆らしい。亡くなった次の年という認識があったのと、京都では8月で、毎年それで「五山送り火」が16日と決まっているから、うっかり忘れるところだった。
けれどもそういう節目節目が何であれ、毎日彼女を思い、手を合わせる。花を添え、自分が食べるものを少し分けて、夜は差し向かいで晩酌をする。何日経とうが彼女のことを忘れることなどあり得ないし、愛する思いが変わることもない。何となく、それでいいよね? と彼女に問いかける自分がいる。

やまだ紫=九月(ながつき)三津子「わたしの青い星」、「GALS LIFE」1978年8月号掲載作品メールを見ると、昨日発見した三津子の「変名」によるSF少女漫画(昨日の日記)の情報をご存知かどうか訪ねた方から、メールが届いていた。
Cafe Tsumireの管理人、偽野つみれさんで、何と『ぱふ』のバックナンバー(1979年2月3月合併号)の
「1978年度少女マンガ作品リスト(雑誌別)」を調べて下さり、間違いなく『GALS LIFE』1978年9月号掲載作品に、九月三津子『わたしの青い星』の記載があると教えていただいた。

偽野さんによると『GALS LIFE』はこの号が創刊号ということで、
もしかすると創刊記念で編集者の方に特別に依頼された
作品なのかもしれませんね(真相はわかりませんが)。

とのことだった。
なるほど、そういうことはあり得ることだし、現実に彼女が変名で発表した原稿が手元に存在している。それが資料で裏付けられた。他の数年、長月・やまだどちらの名義でも発表はないようなので、恐らくこれだけだろうけれども、もっと詳しく調べたい場合はと、国際こども図書館でバックナンバーを調べる方法も教えていただいた。
偽野つみれ様、本当にありがとうございました。

今日も作業は続く。

やまだ紫は、実は少女漫画に「挑戦」したことがあると、『アイエル』の中で述べている。(『アイエル』はやまだ自身が過去のイラストやスケッチなどを解説風エッセイで構成したもの)
もともと子供の頃は人並みに少女漫画は読んだが、白土三平やの貸本漫画、「ガロ」などへと興味は移り、漫画を描こうと開眼したのは「COM」の岡田史子の作品を見てからだと、語っている( やまだ紫、「COM」との出会い )。
絵が好きで、漫画を描こうと思った時に、女性は少女漫画へ行くのが普通だった。だから実は少女漫画誌へも投稿したことがあったが、それこそ「漫画の様式」を全く知らなかったために「ケンもホロロ」だったそうだ。
彼女は『アイエル』で十代後半、ほとんど少女漫画を読んでいなかったと語っている。少女漫画を「挫折した」とも言っていた。あの独特の大きなお星様だらけの目、異常に長い手足、マネキンのような美形ばかりという「世界」が、どうしても自分には描けなかったという。
それでも何とかかんとか作品を仕上げて「マーガレット」や「セブンティーン」へ持ち込みをした結果が、「ケンもホロロ」である。

それでも「COM」は才能を認めて採用してくれた。
おかげで「やまだ紫」は、誕生することが出来た。
だから彼女を少女漫画誌が採用してくれなくて、本当に良かったと思う。
ちなみに、『アイエル』でこの頃のことを述懐したのは1984年の『コミックアゲイン』だ(のち『空におちる』へ収録)。この時彼女は
「先日、かつてラブコールを送り、ザセツしたトコロのひとつ「セブンテティーン」から原稿の依頼を頂いた」
と書いている。少女漫画をザセツした経緯からお断りしようとしたが、熱心に依頼されて断れず、引き受けたそうだ。
少女漫画に挑戦してザセツしたのが恐らくは1968年ころ。
ザセツしたはずの少女漫画誌から依頼が来たのが1984年ころと思われる。
昨日発見した「GALS LIFE」にSF少女漫画を「変名」で執筆したのは1978年。
ちなみに『アイエル』ではこの「九月三津子」のことに全く触れていない。変名にしたくらいだから、恐らく「ヘンシューさんに頼まれてコトワレきれず」描いたのかも知れない。(九月=長月は彼女の誕生月)
それでも「GALS LIFE」の『わたしの青い星』は実に素晴らしい作品で、少女漫画としても当時なら絵柄も全く問題なかったと思う。彼女がそれを全く忘れていたのか、あるいは変名にしたくらいだから、「少女漫画」を描いたことを隠したかったのだろうか。
ザセツした「セブンティーン」に発表された作品は、もう「しんきらり」後期のやまだ紫の絵柄で、しかも内容も全く少女漫画ではない。「やまだ紫」として、堂々と媒体に関係なく自分の世界を描いている。(「あれはわたしの(リメイク)」「小さいぐみの木」)
今発作的に思い出したが、「セブンティーン」に発表した「あれはわたしの」について昨日の日記で書いたばかりだった。その後にこの変名による「少女漫画」を発見したのも、何か彼女の見えざる手、意志が働いている気がしてならない。

自分は日記ソフトを常に起動させていて、何かの作業の合間や思い立った時に時系列にだらだらと記述している。記述は自動保存されるので楽なのだ。
その順で行くと、全く別のことで調べ物をしていて「あれはわたしの」に言及し、「COM」時代と「セブンティーン」版を比較したりしたのだけど、それから何時間か後に新たに開けた箱から出て来た「わたしの青い星」から少女漫画について述べる彼女の『アイエル』にまたぶつかる。
ひとりの偉大な作家について本気で調べようと思うと、こうして「偏執狂」になる。
これは、今後も大変だろうな、と思う。
関連記事
2009-07-12(Sun)

変名によるSF少女漫画作品を発見

7月12日(日)

昨日は一日下痢ぎみと腹が張り気味で往生した。寝たのは12時ころだったか。
今朝は6時過ぎまで寝られた。そこから何度かまた薄く寝て、起きたのは8時前。すっかり年寄りのような早寝早起きになってしまった。日中はやることがあるからいいが、夜はやっぱり一人だと辛い。いまだに、居るべき場所に居るべき人が居てくれないことが寂しい。だから早く寝るに限る。

今日はうす曇り。寝室から見ると比叡山の山頂はうっすらと曇っていたがちゃんと見えた。思わず合掌。
トイレ洗顔、猫のご飯と水、それから三津子に冷たい水と氷入りのお茶、線香を立てて祈る。しおれた花を取り、花瓶の水を入れ換える。「すかしユリ」は長持ちだ。時間差でつぼみが次々に花を咲かせてくれるので、こちらも気持ちがいい。
朝は野菜スープと冷水で薬を飲む。その後MLBを見て一休みした後でパソコンへ向かう。昼に冷凍ご飯を温めてレトルトの中華丼をかけて食おう…という時に埼玉に住むゆうちゃんから電話。
このところブログの更新がないからどうしたかというのと、まあ身内の話。ゆうちゃんとの電話を切った後、平塚に住むももちゃんとも話した。

その後はこのところ原画・原稿整理と平行して行っている、三津子・やまだ紫の全作品リストにとりかかる。「COM」はほぼ終了し、「ガロ」は90年代まではほぼ終了しているが、逆に復刊以降の詳細なデータがないので逆に新しい方が困難。
リストは掲載雑誌と版元、年月号、作品タイトルとページ数などの他、掲載誌の何頁からどう掲載されたか、なども解る範囲で記載している。もちろん不明なものも多く、特に「ガロ」時代の「ガロ以外の作品」が極めて困難だ。
例えば過去の作品集でも、「初出一覧」で収録した何という作品が「どこから出た何という雑誌の何年何月号に掲載された」とキチンと記載されている場合はいいが、「初出一覧」とうたいながら全く初出が不明なものも多い。これは作った編集者の性格の問題だと思う。
「編集者は偏執狂でもある」というのが昔から俺の持論なのだが、別に冗談ではなく、その作家の本を作る場合はその作家に惚れこんで全てを知りたくなるし、全てを網羅したくなる。もちろん作品のよしあしを判断したりするから収録作品が決まるわけだけど、こういうリストなどの作成は、「記録魔」である自分にとってはやり甲斐のある作業ではある。
けれど最終的には「これで完璧」というものが出来ないこともまた、解っている。原稿や原画は散逸されたものも多いし、返却された原稿に「何という雑誌の何年何月号掲載」と記載されている方が稀だ。ヘタをすると単行本未収録作の中には、「何という雑誌にいつ頃掲載されたのか不明」というものもある。

そんなこんなで原稿の箱や袋を取り出してきて、開けては新たに封筒に詳細を記入して入れ直し、リストに掲載ということを繰り返すが、途中途中で必ずこういう「不明」点が多々出てきて、作業が止まる。
ネットという便利なものがあるから、今は相当助かってはいるが、それでもwikipediaなどの記載には、実は間違いも多い。引越を何度かするうち、俺たちは二人ともかなりの数の雑誌を捨てた。いや、捨てざるを得なかった。「ガロ」のバックナンバーはもちろん、その他の貴重な掲載誌や、学生時代に読んだものなどは、ほとんど失った。
やまだ紫の掲載誌はそれでも死守してあったと思い込んでいたが、いつの間にか「あったはずのもの」が無くなっている。ひょっとしたら99年の蓮根から舟渡への引っ越し(4tショートトラック一台が廃棄物で満タンになった)の際、もう嫌になって「いらない、いらない!」と半泣きで捨てたものの中にあったのかも知れない。けれどもう遅い。

また不明点が出て手が止まったので、二階の本棚から持って来た「コミックアゲイン」を元に作品リストを修正する。
これは俺が上京した頃に、自分で買ったものだ。「AGAIN」としてB5判だった頃の数冊とA5判になってからの創刊号から3〜4冊はあったはずだが、A5のものはなぜか2号しかない。こういうものがたくさんある。(それでも大友克洋のあの伝説の作品『危ない生徒会長』が収録された「AGAIN」休刊号はちゃんと持っている。)

持って来た「アゲイン」に、やまだ紫の「アイエル」が掲載されていた。三津子が十代から「COM」初期時代に描いたスケッチやラフ、イラストを集めて構成したものだ。それに自らが「過去の絵柄」について解説風のエッセイを付け加えたものが8P。
これがのちに河出パーソナルコミックス『空におちる』に掲載されたというわけだ。ちなみに河出版では「アゲイン」版にさらに自分へのツッコミのような文が追加されている。

『空におちる』といえば、ここに「COM」時代の「あれはわたしの」がリメイクされて載っている。「コミックセブンティーン」に掲載されたもので、もちろん、過去の自分の作品を自分でリメイクしているのだから全く問題はない。
双方を改めて読み返してみると、やはりテーマが「母子の愛」であることが解る。主人公のチヨ(千代子)は働いている母と離れて暮らしていた間に、すっかり「おばあちゃん子」になついてしまった。母親はそのことを引け目に思いつつ、しかし娘を愛する気持ちをうまく伝えられず、ぎくしゃくしている。
母親はある日、チヨの気を引こうと人形を買って帰ってくる。もちろんチヨは大喜びし、一緒に寝ると言って布団に入る。おばあちゃんが電気を消すと、チヨは思わず暗闇の中で、もらったばかりのお人形の顔を潰してしまう…。
チヨはすぐ泣きながらおばあちゃんを呼び、祖母はお湯に漬けたり空気を入れたりして何とか人形を救おうとするが、それを見て母親は「もういい!」といって人形を潰す。チヨが「おばあちゃん」ばかりを頼りにするのに嫉妬したのだ。
そのことで、祖母と母親がちょっとした言い合いになる、そしてそれを聞いていたチヨは「おかあさんをいじめないで!」…。
「COM」版では祖母が母親に本を投げつけ、母親は思わずざぶとんを祖母に投げ返す場面だ。
「セブンティーン」版では祖母がみかんを投げると、それが火鉢の上の薬缶にあたる。
「ざぶとん」には伏線があり、それは両バージョンに共通していて、チヨの心に開いた穴を埋めるフタ、寒い心を温める分身だと言っている。「あれは わたしの…」と。
「セブンティーン」はおそらく1984年、「COM」は1969年発表なので、15年を経て絵柄も変化しページ数も24から21へと落とされて、その分シャープになっている。
現実の「三津子」はやはり祖母に優しく育てられたお婆ちゃん娘で、作品にも出てくるように家の手伝いをよくさせられていた。買い物もよく任され、料理が上手になったのも、この頃から手伝わされていたからだと言っていた。
ちなみに母が人形を買って帰って来た時に、チヨは「COM」版ではすりこぎとすり鉢で何かをさせられており(ヤマイモだろうか、あるいはゴマだろうか)、「セブンティーン」版では枝豆かさやえんどうの下処理をさせられている。
いずれにしても、「チヨ(千代子)」は間違いなく「三津子」であり、この家事の手伝いの様子などもおそらくは実生活の描写だろう。ただそれは、「日常をそのまま作品化する」という安直な意味で言うのではない。だいたい、現実の家族構成とは違う。
作品で描かれているのは
「娘にうまく愛情を伝えられないい母親」と
「母にストレートに愛して欲しい娘」の、母娘の心情だ。
三津子からは、この頃の現実の話はよく聞いている。それに彼女自身がエッセイやインタビューでこれまでけっこう語っているから、今は置いておく。
だがよく「私小説作家」とか「わたし漫画」などと簡単に作家や作品をククる大馬鹿者がいるので何度でも言うけれども、「そんなわけねえだろ、ちょっとはアタマ使え」と思う。
リアルな心情描写、キャラクタ造形や台詞、ストーリー構成の作品を読み、「これはきっと実話なんだなァ」と思える、その単細胞が信じられない。
何より作家に失礼だろう。
この「あれはわたしの」という佳作もいいが、『鳳仙花』所載の初期やまだ紫作品はどれも、実にこういった味わい深いものが多い。
これもまた繰り返すが、まだ21・22歳の娘がこれだけのドラマをたった一人で作り、描いたのだということに改めて驚くと共に、深い感銘を受ける。
『鳳仙花』にいくつか当時の作品や残っている詩画などを収めて、自費出版でもいいから出したいと思う。

作業に没頭していると、夕方「明青」のおかあさんからメールが入る。俺は二階の書棚で調べ物をしたり、その後リストを作るのでパソコンに向かったりで気が付かず、あっと思って返信を打ってるところで家に電話が入ったわけ。このところ、ホントに携帯を見なくなった。いつもメールでのやりとりは9割方三津子とだったから…。
やはりブログの更新がないので心配していただき、いやはや申し訳ない限り。冗談抜きで「東京の息子にメールが届く〜」じゃないが、朝起きたらポットをつかう年寄りが「生きている」という知らせを遠くの息子にメールするようなシステムを導入した方がいいのではと思った。
ただ、こうして心配して下さる方の「俺が生きている」ということの目安にも、このブログはなっている。

そういえば、もの凄い発見があった。
原稿を出していると、主婦の友社の今はなき「GALS LIFE(ギャルズライフ)」の封筒が出て来た。「わたしの青い星」と書いてある。
中を改めると、32頁もの漫画原稿だった。
タイトルにはアオリと作者名、そしてタイトルは「描き字屋さん」がちゃんと描かれたものが貼られている(昔はパソコンやデジタル入稿でのCG加工などもちろん無かった)。
当然ノンブルとネームも写植が全頁貼られていて、キチンと全頁にトレーシングペーパーがかけてあり、縮小率や白抜きの指示などは全てそこに書かれている。
当然ながら完全に、それもかなりちゃんとしたプロの編集さんの仕事だ。そしてこれまた当然ながら、これは商業誌に掲載されたものに間違いない。
なぜそんな当たり前のことを書いているかというと、作家名が
「九月(ながつき)三津子」
となっているのだ。
三津子はもちろんやまだ紫の本名だ。
しかもタイトル頁のアオリは
「愛とやさしさあふれるユニークなSFロマン珠玉作!」
である。つまりSFで、少女漫画だ。

発見した原稿
絵柄は掲載誌を考慮してか、あるいは編集さんからの依頼からか少女漫画風になってはいるが、「やまだ紫」のものに間違いない。内容も、突飛で頓珍漢なSFではなく、とてもハートフルでいい作品だ。
しかも出てくる惑星名が「プロキシマ」とか、一時流行った「浦島効果」も使われていて、彼女の実はSF(というより宇宙、星)好きとも合致する内容である。
「ギャルズライフ 9月号」までは、この几帳面な編集さんのお陰で解った。けれど、ネットでその後いくらあちこち検索しても、それ以上の情報が出て来ない。

1時間近く探した挙げ句、少女漫画ファンで詳細なリストなども記録されている方のサイトを発見したので、非礼を承知でメールで伺ってみた。時代的には70年代の後半だと自信を持って言い切れるが、年号の特定は出来ない。ご存知だといいなあ、と思いつつ今日はそこで作業をやめる。

性格上、こういった作業を始めると気が付くと4時間5時間が平気で経過している。腕や腰はガチガチになり、目はしょぼしょぼだ。健康な人でもしんどいと思う。実際癌患者である自分はもうちょっとペースを落としたいところだが、
俺が生きているうちに完成させる
ためには、頑張るしかないだろう。

その後三津子にキムチとカクテキ、あと麻婆豆腐を作ったのを分けて陰膳。よく考えたら全部辛いものだったと反省。
下痢も治ってお疲れ様で三津子の写真に乾杯をし、ビールを飲みつつ、NHKで都議選の開票特報を見る。すぐ大河に変わったので続きを民放を見て、44年ぶりの自民の「大敗」が決定的。まあ予想通りといえばそうなのだが、投票率の低さ=今回も50%程度という割に、やはり厳しい審判が下されたのだな、と思った。それにしてもこのご時世、まだ一票を行使しない「納税者」が多いということに驚く。
都議選の大勢判明直前まで、中国の医療制度のドキュメンタリを見ていた。「民間」の大病院が金にあかせて多角経営によるコンツェルンを形成しようと目論んで、貧乏人は徹夜で並ばせ、金持ちにはホテル並の病棟を増やそうと画策していた。
何が共産主義だと思った。これからこの国はきっと大変なことになっていくだろう。よその国のことと思って呑気に構えるのもいいが、隣の国でもある。そして世界中にもの凄い数の「華僑」が散らばっている国でもある。通常、(チベットやウイグルの例を見るまでもなく)こういった「外から自国を見ている人」たちは、比較的冷静かつ客観的に祖国を眺めることが出来るので、民主化を叫んだり、国の政府に圧力をかける動きを起こすものだが、中国に関しては元々が「中華」思想なのでどうしようもないらしい。

自民党は複数人区では3番目4番目などへ滑り込むので後半になると盛り返すだろうが、過半数割れは確実。上に上がってすぐ電気を消し、12時過ぎには寝る。


関連記事
2009-07-11(Sat)

単行本未収録作「太郎」、作品リストは難航

7月11日(土)

夕べは何時頃寝たか、とにかく今朝は最悪だった。
5時前に目が醒め、朦朧としたまま全然眠れなかった。ふらふらと下へ降りたのは6時過ぎ、洗顔などをして三津子の水と茶を取り替えて祈り、下へ新聞を取りに行き、新聞を読みながらカップラーメンを食べる。とても何か作ろうとかそういう気分ではない。そのままソファでうとうとする。
その後1時間かそこいら寝ても、まだ朦朧。もういい加減嫌になるが、その後は起きてパソコン仕事。
その後MLBを見たり、サイト検索などでニュースを拾ったりして気力が回復するのを待つ。そのうちやはり「これはいかん」と思い、階段の下の納戸を発作的に開ける。

ここには「やまだ紫」の貴重な原画・原稿を入れた箱が積んである。ここしばらく、一つずつ開けたり袋のまま立てかけてあったりするのを整理してきたが、次の箱に取りかかる。
箱には「しんきらり」「続しんきらり」「性悪猫」などの原稿がまとまって入っていた。筑摩の「やまだ紫作品集」5巻をまとめたときのものだが、そこから今回の再刊のため、3つの袋をまとめて取り出す。
箱にはその他にも単行本別ではないバラ原稿がいくつかあって、青林堂版の「しんきらり」のツキモノ(本文以外のカバーや帯その他)版下とか、全然見たことのない漫画原稿も出て来た。
また中公の「BlueSky」と「御伽草子」のカバーに使ったカラー原画や、なぜか昔展覧会で売る商品のために作ったモノクロ絵はがきの原画3枚とか、とにかく未整理で時代も全てバラバラで、整理に困った。
それらを単行本のものは別にして、細かいものをまた整理袋へ入れて摘要を書いていく。

「太郎」
今まで読んだことのない漫画原稿は「太郎」という作品で、とてもいい作品だった。隣家に住む「太郎」という名の障害児童を母親の留守の間に預かる母子の話で、恐らくは「COM」の後、「性悪猫」の前後だろうと思う。…と思ってよく見たら、最終頁に「S 53.7.15」と本人の手で書いてあった。

「COM」で次々と作品を発表し、注目されていた女流の新進漫画家であった「やまだ紫」は、1971年「ガロ」2月号で「ああ せけんさま」が入選した年の10月、最初の結婚をしている。
そして1978年に再び「ガロ」12月号で「ときどき日溜まりで」(のちに「背中合わせ」と改題)を発表して「復帰」をする。
この間を、大雑把な漫画研究者は
「結婚・出産による休筆期間」
確かにとしているだけだ。
その間は「風の吹く頃」で超難関「ビックコミック賞」佳作入選(1972年)以外、目立った活動をしていないように見える。
この「太郎」は昭和53年7月に脱稿している。
昭和53=1978年といえば、やまだ紫が「休筆」していたのではなかったのか。
「ガロ」の掲載リストにはないが、もちろん未発表とは限らない。この原稿には写植ではなく、手書きの文字の紙焼きがネームに貼ってある。そのほとんどが年月が経ってほぼ脱落しているが、幸いフキダシやナレーションの鉛筆書きが残っていたので、作品そのものを読むことは出来た。
いずれにせよ何らかの媒体…商業誌か非商業誌かは不明ながら、発表されている可能性が高い。脱落しているが、ノンブルが貼られた形跡がちゃんと残っている。個人が趣味でフキダシに紙焼きは貼らないだろうし、まして何らかの「媒体」に掲載しないものにノンブルまで貼るはずはない。

また「謎」が増えた。どなたか、リアルタイムで「やまだ紫」と交流のあった方にお聞きするしかないだろうと思う。

このところ余りの作業の多さに脱力してダラダラ過ごしがちだったが、こうした三津子の、いや「やまだ紫先生」の素晴らしい作品を見ると、また新たに使命感が湧く…というより尻を叩かれた思いで、中断していた作品作品リストにとりかかる。
とにかく単行本収録作品でも「初出一覧」を掲載していなかったり、入っていても単純に雑誌名だけのようにいい加減なものだと、手がかりがそこで寸断される。
作品名とページ数、収録された作品集しか解らないから、作品そのものが描かれ、掲載された雑誌名も年号も不明になってしまう。作品集から推測して、だいたいこのあたり…として入れておくしかない。
そういう作品がけっこうあるのと、俺の作るリストは詳細なものなので、タイトル以外の情報もけっこうあるから、調べつつ書き入れていくだけでも大変な作業だ。でもやるんだよ。

コミックモーニング連載の「ゆらりうす色」も、初出(といっても連載期間だけしか不明)と、その間の号数に連載回数がどうしても合わず、往生してあちこち調べたら、連載開始の時は隔週刊で翌年から週刊になったのが判明した。
まあことほどさよう…である。もうつくづく単行本を作る時は「初出一覧」を必ず詳細に入れるべきだと、強く思った。
もう部屋は薄暗くなり、気が付いたらこんな時間(午後7時前)になっていた。何時間パソコンに向かったり原画を見たりしていたか。とにかく疲れた。
関連記事
2009-07-10(Fri)

「演技」と「役者」について雑感

7月10日(金)

夕べは日中膝がきつくて疲れたせいか、9時過ぎには寝室へ上がり、テレビをつけているうちに寝てしまった。気が付いたら1時で、テレビを消して寝直す。あまりに早すぎたせいか、次は4時前に目が醒め、下へ降りてペットボトルのミルクコーヒーの残りを飲み、トイレへ行きベッドへ戻る。
その後の眠りは浅く、結局8時過ぎに起きた時は朦朧としていた。睡眠時間は長く取れた気もするのに、睡眠は「質」だとよくいうが、その通りだと実感。
今日は曇りで、比叡山の山頂はガスっているが合掌する。
下へ降りて、いつものように朝の一連のことを済ませる。それからテレビをつけるが、見るものが、いや見たいという気持ちになるものが何もないので、9時半過ぎに着替えて外に出る。
しとしと雨が降っていたのでいったん傘を取ってから下へ下り、I内科へ行く。
診察券を出すとすぐに診察室へ呼ばれ、レンドルミンが切れたので処方していただく。もうレンドルミン2錠だとあまり効かないみたいでと相談。結局やはり追加で何か出すとか、強くするというのはやめて、様子を見ましょうということに。こちらもこの上に何か強い薬剤を、といのは怖い。
それから今月末に京大の診察日なので、かかりつけの内科で採血も出来ると伝えて、それでさらに間隔が空けばそれでいいし、何か変化があったら京大へ行けばいいということにしていただく。

診察室を出て、血圧と体重を測ってもらう。
俺は普段から血圧は低く、そのかわり(?)脈拍は異常に高い。
この日もやはり血圧は110-80と低く、その代わり脈拍が早い。
「いつも普通に100とか90台なんですよ」と言うと看護婦さんもビックリしていた。脈をとって「本当ですねえ、今ドキドキするとかそういうのじゃなくて?」というので「家で安静にしてても90とか普通なんですよ」と言うと「不整脈とかはないですか?」と言うのでそれはないですと答えた。

何かの本で読んだが、生き物の心臓の鼓動の数は大体決まっていて、象のようにゆっくりと鼓動する生き物は長寿で、ネズミのように早死にする生き物はチマチマセコセコ動き鼓動も早い。
俺も大人の男としては1.5倍速くらいだから、それほど長くは生きられないのかな、とフと思った。
ずっと昔、元気だった頃はせいぜい60台だった脈拍が、白血病になって以降は安静時でも90台。ベッドに寝ているだけなのに100ということもあった。三津子に言うと心配するから黙っていたこともあったが、心臓がバクバクと走った後のようになることもあった。不整脈というのではなく、動悸というやつだ。
まあ彼女との年齢差を俺が急いで埋めていて、きっと同じ頃に一緒に死ねるだろう…と思っていたのだが。
薬を隣の薬局で貰って、そのまままっすぐ家に戻る。それからしばらくして小岩井のボトルコーヒー(うまいが自分の場合糖分と下痢に注意)と、昨日買っておいたサンドイッチを食べた。それからはずっと仕事。

その後一休みでテレビを見る。BSのMLB中継、テキサス対シアトル、ヘルナンデス9勝目。好投が報われた。
それにしてもメジャーリーグは、球場に来るお客さんがいかに野球を愛し真剣に試合を見ているか、楽しんでいるかが良く解る。決してプレイ中は余計な鳴り物での応援はしない(一部、アスレチックスの太鼓などはあるが)し、インプレイになると球場のオルガンや音楽がピタリと止まる。自然に、客の耳目がフィールドに集中する。
中継を見ていると、家族連れも多いが、女性だけというファンもとても多い。7thイニングストレッチなんかは全員で「Take me out to the ballgame」を合掌。そういう球場に来ているファンの様子を見たいのに、MLB中継はイニングの合間に「それでは今日のここまでのハイライトを」とか「今日のイチローの打席を振り返りましょう」とか、余計なことをする。試合が終わった後ならともかく、たった今見ていたばかりの試合中のリプレイを何度も何度も見せてどうする、と思う。
それより球場のファンを映すとか、グラウンド整備の様子を映すなりしてくれる方が、よほどサービスだろうと思うのだが。MLBはもちろん開幕戦を日本人選手(とマーケティング)のために日本で開催するような例外を除いて、アメリカへ行かなければ公式戦が見られない。日本にいながら、せめて球場でとは言わぬが一体感のある中継をしてくれるのが親切と、なぜ思わないんだろう。
日本人が出て活躍するのはそれは同じ日本人として嬉しいけれど、それ以前に野球というゲームが好きで見ている人のための放送スタイルに気付いて欲しい。
でないと、「野球観戦が好き」というファンが育たず、単に「日本人が出ているから見る」という人が増え、結果日本人がいなくなれば誰も見なくなる…ということぐらい、予想できないだろうか。

テレビは見るものがないからと、消していると淋しい。
夫婦二人の時でさえ、三津子は一日中起きてから寝る直前までテレビをつけていた。俺が一人でいる時は逆に消すことが多かったが、今、彼女が逝ってしまって本当に「一人」になると、何かしら音が出たり画面が動いていないとほんとうに寂しい。

午前中はたいていBSを流している。世界のニュースを順繰りに流してたりするし、メジャーリーグ中継があればずっとそれをつけている。仕事の合間に一休みの時、それを眺めたりする。
問題は午後、MLBが終わってニュースも一段落した後だ。特に民放地上派がワイドショーを流すあたりからは、もう決定的に見るものがなくなる。民放のBSはたいてい通販番組か、なぜか「韓流ドラマ」が異常に多い。
ドラマの再放送なら、日本の、それも自前で持ってる昔のドラマの再放送でも流せばいいだろうに、わざわざライセンスを支払ってまで、なぜ隣国のドラマを持ってくるのか、しかも各局揃って…というのが理解に苦しむ。
なので本当に見るものがない。

仕方が無いので黒沢の映画や小津の映画はさすがにもう何度も見たものばかりなので、数年前に撮り溜めたDVDを漁る。「日本映画専門チャンネル」で成瀬巳喜男生誕百年のとき、全作品を放送したのを出来る限り撮り溜めたDVDがあって、それを見直したりする。

関係ないが、「痛いニュース(痛いニュースノ∀デーブ・スペクター 「日本のドラマは末期。俳優が『自分は演技が下手』という自覚が無いから恐ろしい」)」のねらー諸氏の誰かが「森光子に賞(国民栄誉賞)をやるなら高峰秀子にやれ」というようなことを書きこんでいたが、なるほどと思う。今の役者とも呼べない連中の、演技とも呼べない学芸会もどきと比較するつもりは毛頭ないし、比較することすら失礼だと思うが、本当に高峰秀子の演技は素晴らしいと思う。
『馬』や『秀子の車掌さん』など少女時代の溌剌としたものから、『放浪記』で見せるあの感じまで、本当に幅広く、本物の女優というのはああいう人のことを言うのだな、と。
原節子もいいが、戦前の『望楼の決死隊』という貴重なものからほとんどの作品を見て思うのは、いいけれども、原節子は「演技派」というより、笠智衆のように「存在感」の人だと思う。またあの美貌から、任される役柄もどちらかというと決まったものが多く、そのことが彼女自体の演技の幅も狭いという誤解を受けているのではと思えるほどだ。
高峰秀子の場合は本当に役柄も幅広く、そしてその分演技も実に広く、深い。凄いなこの人、と見るたびに思う。何十本も見ると、その分だけ伝わってくる「女優の凄み」が増すと思う。
『放浪記』といえば今では森光子の「でんぐり返し」だが、戦前の夏川静江・藤原釜足のものも録画してあるし、何度か見た。戦後の角梨枝子・岡田英次のものは見たかも知れないが、あまり印象にない。
森光子の舞台は見ていない。
ちなみに森光子の舞台の初演は、高峰秀子の映画版「放浪記」より1年早い。何かのインタビューだか記事だかで、無名当時の森光子の口癖は「あいつよりうまいのになぜ売れない」というようなことだったと思うが、その「あいつ」とは誰だったのだろう。高峰秀子に対してではなかったと思いたいが。
そういえば「痛いニュース」では書き込んでいる年代が違うのだろうか、「舞台から来た俳優は基礎が出来ているからうまい」のに、総じて「アイドルや芸人など演技のプロでもないタレントを使う」からダメなのだ、という論調が多い。
でも我々、というか三津子ともよく映画を見ながら話していたものだが、俺たちの認識としては
「舞台俳優がそのまま映画やドラマに出ると、見られたものではない」
というのが共通のものだった。舞台役者は当たり前だが声を張る。所作が大きくなる。総じて演技がオーバーになるというわけだが、それは「舞台上で見せなければならない演技」だから、舞台では仕方がない。というより当たり前のことだ。
クレバーな役者は舞台では舞台用の、映画やドラマではそれ用の演技が出来るだろうが、舞台俳優だからドラマの演技もうまいとは限らない。演技って、演技だと思った瞬間に見ている側は冷める、いや醒める(教祖誕生)。
もちろん最初から「つくりごと」だと了解して映画なり舞台なりテレビドラマなりを見始めるわけだが、演技のうまい役者がいい脚本とスタッフに恵まれると、いつしかその「世界」へ入り込むことが出来る、誰でもそういう経験はあるだろう。漫画だってそうだろう。夢中になって見る、「引き込まれる」というのはそういうことだ。
せっかく誰かがいい演技をして没入しかかったところに、台詞棒読みの大根が出て来て失笑したり、考証が間違っていて吹き出したり(着物の着方や箸の持ち方などは言うまでもなく、時代劇でも現代劇でも「考証」は重要だ)、そういう経験も誰でもあると思う。
後者の「あ〜あ、ダメだこりゃ」がいつから多くなったのか定かではないけれども、俺たちは、もう20年以上大河も含めてテレビドラマをほとんど見なくなった。
バブル期のひどいドラマをチラと見たのだったか、映されている部屋や暮らしぶりを見て、このドラマの登場人物は全員が年収数億の富豪なのかと思ったら、ただのサラリーマンだったりした。「考証」が出来ないから、ああなる。
最近でも嫌でも見せられる「番宣」とやらで時折見ると、アイドル歌手が学芸会よりもひどい口調で台詞を喋っていた。リハかと思ったらそれが本番らしいと知って驚いた。
こういう経験も、一定の年代の人なら、いや一定のリテラシーがある人なら(というか少なくとも意識的に見ているなら)誰でも持っていると思う。
今の若い人たち、たぶんイケメンたちがあり得ない設定でわめいたり怒鳴ったり意味無く殴り合ったりしているのを当たり前に見ていられるのは、たぶん、そういう「設定」を楽しんで、その上でイケメンを目をハートにして愛でているのだろう。
だから動物園に動物を見に行って、「動物好き」だと思っているのにも似ている。(本当の「動物好き」なら、動物があそこでいかにストレスに耐えているかと思って同情するだろう。)
「そういう設定」を理解した上で「好きな人だけ見ればいいじゃん」なので、別に何にも文句はない。言う筋合いもない。
では違うものを…と思うが、ワイドショー以外はそういうつまらん和製ドラマか韓流ドラマと通販もの…というでは、この先これでいいのかと余計な心配をしてしまう。

先日はもう10回以上になるかと思うが、また小津の『お茶漬けの味』を見た、と書いた。佐分利信というと「強面」という晩年の印象に比べて、あの映画での演技はさすが役者というものだ。
小津は独特のカメラワークがあるのと(役者の会話を正面からそれぞれ個別に撮ってカットバックさせるとか)、キッチリとした「演技指導」(それも自分の思った通りにやらせる)で、ヘタするとちゃんとした役者でも大根に見えたりするものだが、他の役者の「セリフ言ってます」的な中で、自然体を貫いていた。もし小津がそれを計算し、他の役者を皆ああいう形で「喋らせて」、佐分利信を意図的に浮き上がらせたのだとしたら、もの凄いことだなあ、と思ったりした。いや、小津の研究家が聞いたら噴飯ものかも知れないが。

そんなことをつらつら思っていたら、もう夕方4時半。外は雲の合間から明るい日が射してきた。
関連記事
2009-07-09(Thu)

映画「エージェント」

7月9日(木)

夕べは12時ころに電気を消して、目が醒めたら4時。参ったなあと思いつつ寝ようとするが、その後浅い眠りで8時過ぎまで寝ては醒めての繰り返し。どうにもこうにも、以前のような「一回寝たら朝まで」という眠りが得られなくなった。レンドルミンを2錠飲んでもこれなので、どうしようもない。
今日も外は曇り。
花のしおれたのを取って活け換えたりして、三津子にいつものように、冷たい水と氷入りのお茶を入れ換え、線香をあげて手を合わせる。謝罪と感謝と愛を心から伝えるために祈る。毎朝、こうしている。
新聞を取りに行くために玄関を出ると、比叡山の山頂は煙っていた。いつの間にか、俺も比叡山の山頂に向かって自然に手を合わせるようになった。「明青」のおかあさんがいつも、橋を渡るたびに比叡山に手を合わせて、俺たちの健康もお願いしていくれていたという話をよく聞いた。有り難かった。
祈りの「効力」とかそういう話ではなく、自分たちだけではなく、他人の幸福や健康を素直に祈ること。それはきっと自分に返ってくると思う。ただ自然に比叡山様、ありがたいな、という気持ちでただ、合掌。
三津子は逝ってしまったが、それはそういう運命だったのだろう。そして先に逝くとばかり思っていた癌を患う俺が遺され、生かされているということは、それも何かの意味があるのだろう。

新聞はほとんどはネットやテレビで見た既知のニュースが多く、こういうところからも「新聞不要論」というのは理解できる部分はある。感覚的には朝刊のみ2000円程度だとちょうどいいという感じだろうか。時折、新聞の取材力でじっくり読ませるいいコラムが連載されていたりして、そういうのはネットという「自らそれを読みに行く」メディアとは違うから、まあ良しとしている。
昨日コンビニで買ったハムタマゴドッグを食べつつ新聞を読む。母親はたまに電話してきては兄貴にプリントして貰って、このブログを読んでいるという。「コンビニとかろくなもの食べてないね」と言うが、品質管理が厳格だし競争も激しいから、最近のコンビニはバカにしたものではない。
それに「サンドイッチが食べたい」と思っても、一人だと食パンを切ってバターを塗りレタスを置いてハムを敷き、ゆで卵を作ってトマトも薄切りに…と考えただけで買った方が早いし経済的でもあると思う。もう、仕方が無い。

その後パソコン作業をしていると、11時頃に明青のおかあさんから電話があって「トマトを取りに来て」というので、お昼の邪魔にならないよう1時ころ伺うということにする。
ちょっと仕事が立て込んでいて、あっという間に1時になってしまい、慌てて支度をして出る。

バスの時間に合わせたつもりが、車の切れ目を待っている間にバスが反対車線を通り過ぎたばかり。仕方なく自転車にするかと思ったが、今日は膝が腫れ気味だったので、歩きで行くことにした。
ガスの支払い伝票と、昨日ネットで注文した猫エサの払い込み票をプリントアウトしたのを持ってコンビニで支払い、歩いて?野川方面へ向かう。
曇り空だったのが、歩き始めると日が射してきて猛烈に暑い。両膝も、膝蓋の両側に重りがくっついているような感覚でしんどい。思わず交差点のバス停から停留所2つだけでも乗ろうと思ったら、信号でまさしくバスが左折し、バス停を走り去ったところを目撃。
余りの暑さに木の影で信号待ちをしてバス停へ行くと、次のバスは来ない様子で、仕方なくそのまま歩き出す。結局1時過ぎに明青さんに着いた時には汗だくのヘトヘトで、階段を登るのもやっとという体たらくだった。
おかあさんは「ごめんねえ、持ってけば良かったのにねえ」と言ってくれるが、いただき物を「もってこい」なんて非礼もはなはだしい。「とんでもないです」と言ってトマトをいただいた。
このトマトは冷やして(冷やさなくてもいいが)スライスしただけで甘くて美味しい。教えて貰った八百屋に朝から並んだこともあったが、結局俺の前で売り切れという経験があるほど人気のトマト。さらに明青特製のポテトサラダもいただいた。もうほんっまにいつもいつも申し訳ないです。ていうか嬉しいです。
御礼を言って階段を降りるが、どうも膝が固い感じで、しんどい。首まわりのリンパが腫れる日もあれば、両手首だったり縦隔だったり脾臓だったり鼠蹊だったり膝蓋だったり…もう、この病気は朝起きて「今日はどこだ?」と体に聞かないと解らない。
どこも痛くない、という日は稀だ。因果なものだと思う。

そのまま北大路がちょうど車が切れてくれたのでそろそろと渡り、ゆっくり汗を拭きながら京都生協へ入る。買い物ではなく、冷房の効いた店内で携帯で市バスの時間を調べるため。
するとまだ10分くらいあるので、店内でゆっくりピーマンや玉子、などを買う。それから頃合いを見て外に出たのに、バス停の「まもなくきます」表示は俺の家の前を通るバスではなく、なぜか右折して京都駅へ向かうものだった。それがすぐ来たので、膝も痛いしもういいや、と乗ってしまう。帰宅するとまた汗だくのへとへと。
何だか今日は本当に「膝の日」らしい。
「膝の日」だと歩くのもしんどいから困る。暑い中ゆっくり歩かねばならないので、よく道を老人が同じような感じで歩いているが、気持ちが解る。暑いからとっとと行きたいが、進めないのだ。健康な頃は解らなかった。

ポストには都民共済の割戻金の連絡が来ていて、8月に振り込まれるという。東京に居た頃から入っていたので都民共済だが、全国にある府や県民共済は掛け金の割に保証も手厚いし、割戻金があるからかなりお得だと思う。俺が死ねば死亡保険金が遺族に下りる契約にしてあるから、母親や兄より先に死んでも、ここの後始末くらいはしてもらえるだろう。
死んだ後のことも、大人ならちゃんと考えておかねばならない。後に遺す人に迷惑をかけるような死に方はしたくないと思う。

その後、今日は仕事を切り上げて、DVDで撮っておいたトム・クルーズの「宇宙戦争」を見てすっかり脱力して、気を取り直してトム・クルーズつながりで「エージェント」を見る。
その間に晩酌の支度。生協で買った小さな鯛の柵を薄切りにして、カンパチの刺身と盛りつけ、それから明青さんからいただいたポテサラ、トマトは湯むきして切った。それで映画を見ながら三津子と晩酌。
「エージェント」の途中、思わず「ワッハッハ」と声を出して笑ってしまう場面があって、そうしたらシマが二階からギシギシドンドン、降りてきた。
俺が笑うということは、きっと「ママ」が一緒に居るのか、帰って来たのかと思ったのだろうか。そう思ったらいきなりブワッと涙が出てきた。シマはずっと二階で寝てばかりいるが、こうして下で俺が独り言を言ったり笑ったりすると、階段を降りてくる。
三津子が生きていた時から、俺が喋ったり笑ったりする相手は「ママ」しかいない。ひょっとしたらと思って降りてきたと思うと、不憫に思える。シマをなでながら「ごめんな、ママはもう戻って来られないんだよ」と言うとまた涙が出た。

『エージェント(1996)』は昔何気なく見た印象では、アメフトの黒人選手役のキューバ・グッディング・Jrがとにかく素晴らしく、ハートフルな箇所もあるが全体としてはハリウッドお得意の笑いあり涙ありで、どちらかというとコミカルなところが多かったと思う。
今回改めて見ると、夫婦愛とか子供を抱えた再婚とか、家族愛を描くところで、何となくやっぱり涙が出る場面が数カ所あった。この類の映画を見て泣いたことなどただの一度もないのに、三津子を失ったからだと思う。夫婦が素直に愛し合い、心通じ合わせる場面では、素直に涙が出る。
関連記事
2009-07-08(Wed)

忙しい日

7月8日(水)

夕べは「差し向かい」でビールを飲んだあと、寝たのは12時ころ。
三津子が倒れた直後からしばらくはほとんど何も食べられず飲めず、5kg以上痩せた。もちろん今は回復したが、とにかく飲めて食べられるようになったのは、彼女の写真と「差し向かい」が出来るようになってからで、それからいつの間にか、そうせずにはいられなくなった。
一日の仕事を終えて夕方になると台所へ立ち、三津子のぐいのみに冷酒を注ぎ、ウーロン茶を氷入りに差し替える。いつも彼女が飲んでいたのと同じかたちで、写真の前に置く。それから、あるものでつまみを作って、彼女の分も陰膳をし、乾杯をして、一緒に飲む。
今朝は目が醒めたら6時だった。すぐまたうとうとして、7時過ぎに起きた。今日も曇り空だが明るい。下に降りて見る吉田山のこんもりした緑が近い。

日中はやることがたくさんあって、溜息が出る。

だいたい、三津子が亡くなった後、この部屋を出るための荷物の整理や、引越の算段をするつもりだったが、そんなのは土台最初から無理な話だった。俺一人ではとてもとても、8月までになど出来る作業ではなかったのだ。遺品の整理、不要なものは処分し、原稿や原画などはキチンと整理。本棚に入れた本もある。
それらをやりながら、三津子の作品のリストを作りクロニクルを作成し、原稿を全部一度確認して封筒に摘要を書き入れて再度整理をする。誰かに聞かないと解らないものもけっこうある。
大学の研究室も手つかずのままだ。俺が行って一人でこつこつ、彼女の遺したものを整理するしかない。最終的には部屋に残すものと捨てるものを分け、何とか綺麗にしたいが、おそらく俺一人では無理。そんな中、不動産屋を廻って部屋を探して荷造りを…なんて、俺が健康な男だったとしても難しかっただろう。
もう何もかもが一人では遅々として進まず、日常のことで手一杯というのが本音だ。
パソコンに向かうが、日常の仕事のうえに作業がありすぎて、ついついぼーっとニュースを見たりAmazonを見たり、現実逃避の傾向が出る。
それでも今日は仕事のデータが来たので、それを集中して片付ける。気が付くと3時で、目はしょぼしょぼ、肩腰両腕がガチガチに疲れた。

夕方はスーパーまで行く気力がなく、コンビニで明日のおにぎりとサンドイッチ、今日の夕飯に鱒とカニ&錦糸玉子の押し寿司を買って戻る。
その後またちょっとパソコン作業をして、気が付いたら6時過ぎ。もう集中すると数時間が平気で経過する。「もうそろそろ今日はおしまいにして」と言ってくれる人がいないから、ワーカホリックにならないよう、6時以降は仕事をしないことに決める。
三津子に大根のべったら漬けとセブンイレブンで買った押し寿司を切って酒とお茶をあげて、お疲れ様で一杯。
ユキは耳が聞こえない分不安らしく、俺の側を離れない。
シマはずっと二階で寝ているようになったが、時々思い出したように降りてきては甘える。そのたびに「ちゃんと可愛がる」ようにしている。
猫はクールに見えるという人がいるが、甘えたがりで、寂しがり屋な生き物なのだ。おまけに嫉妬深い。

甘えるシマこないだ子供たちに送るために三津子のバッグを整理していたら、あの人らしくポケットティッシュ、小銭、チューインガム、インスリン注射の針などが、それぞれのバッグからわらわらと出て来た。
いつも学校で使う資料を入れて持って行った信三郎帆布のトートバッグには、その他に猫の乾燥エサ=通称「カリカリ」の試供品の袋が数個入っていた。動物病院が犬猫の療法食を通販しているサイトから、注文品と一緒に同梱されてきたサービス品だ。
うちの猫は尿路感染症や腎臓病用の乾燥餌か、そのパウチしか食べない。なので、三津子は貰った試供品の小袋を5つほどバッグに入れて、大学の野良猫にあげていた。
あの人の、ずっしりと小さな肩に重く食い込んでいたバッグには、こういうものも入っていた。帰りがけ、いつも大学の猫たちに鳴き真似で「ニャオ、ニャオ」と声をかけては、しゃがんでカリカリをあげていたのだ。

フと思ってソファに横たわるシマにその小袋の封を切り、手のひらに載せてひとかたまりやってみると、思いの他気に入った様子でアッという間に食べた。なので、いつものカリカリのボウルに誘導してそこへ残りをあけると、カリカリと嬉しそうに食べた。
シマはこのところ、ユキにマグロをやると欲しそうにするので試しにやったら食べたり、どうも以前に比べてユキへの対抗心というか嫉妬心もあるのだろう、何かと嗜好が増えた。
猫も寂しいのだろう。
関連記事
2009-07-07(Tue)

写真と晩酌

7月7日(火)

夕べは1時頃寝て、目が醒めると7時。一度も目が醒めず、久々にぐっすり寝られた。それから8時ころまでとろとろして、9時に下に降りる。
今日は薄曇り。夕べは何度か雷が鳴ったり雨がぱらついたりしたが、今日は曇りの予報。でも朝から蒸し暑い。
朝は陰膳を片付け食器類を食洗機にかける。それから花がたくさんあるので、水を替えたりいたんできた花を生け換えたり。ウーロン茶で薬を飲んだだけで、朝は食べず。

何か食べないとまずいと思い、11時半ころに冷凍してあったご飯を温め、レトルト中華丼の具をかけて、ワンタンスープで食べた。化学調味料特有の、同系統の味が口の中に広がる。それはそれで体に良いとか悪いではなく「うまい」と感じられる成分で作られているから、それなりに満腹感と満足感がある。
昔ほど有害なものは規制で入れられないわけで、インスタントやレトルトに目くじらを立てず、病人とか一人暮らしには便利な時代になったと素直に喜んだ方が、精神衛生上はいいと思う。
その後宅急便がケンコーコムに頼んだ洗剤の詰め替え、箱ティッシュ、レトルト野菜スープなどを持って来てくれたので、引き替えにももちゃんに荷物を送った。
外はずっと朝の曇りに時々日が射すという感じ。時たま霧雨のようなのが降ったか。

この日は夕方まで仕事や連絡などあれこれ忙殺される。
その後、一段落したので5時半過ぎから空豆の残りを塩ゆでして、三津子に陰膳。升形で買った小ぶりの牛肉の塊をラップでくるんでからすりこぎで叩き、包丁で筋切りをしてから、バターを熱したフライパンでジュウと焼く。バターと馴染ませたらすぐにひっくり返して、今度は赤ワインを少量入れたらフタをして火をとめる。その間に三津子が好きだった大根のべったら漬けも薄切りして、酒とお茶と一緒にあげる。
いい匂いが漂い、俺も下痢が治ったので思わずビールを飲む。三津子のぐいのみにグラスをあて、「お疲れ様、いただきます」と声をかけてグビグビと飲む。「ああ、やっぱりおいしいね」といつものように笑顔を向けた。焼きたての牛肉も小皿であげて、俺も食べる。「うん、うまい!」と声が出る。
あの人は昔っから、いつも俺がご飯のたびに必ず一度は「うまい!」というのを喜んでいた。
陰膳の向こうで微笑む三津子の写真に向かい、毎晩こうしてビールを飲むのが今のところ何より、いや唯一の楽しみだ。尿酸値が高い傾向にあるので、薬を飲んでいるから飲み過ぎには注意、だが。
関連記事
2009-07-06(Mon)

「尻豆」

7月6日(月)

今朝はまた5時代に目が醒め、それからが眠れず悶々とする。今朝はユキのせいではなく、単に目が醒めてしまっただけで、どうにも眠りが浅くてしんどい。うつらうつらとはするが結局それからほとんど眠れずに、7時過ぎには起きてしまった。
外は雨が梅雨らしくシトシト降っていた。子供たちが来てくれた土日は本当によく天気が持ってくれたなあ…と、煙る比叡山の山頂に手を合わせた。
朝のいろいろを終えたが食欲があまりなく、ウーロン茶で尿酸値を下げる薬だけを飲んだ。

それから、今日は午後から手続きのことで行政書士さんに会うことになっていたので、そのための経過説明などの文書を書いて打ち出したり、必要書類なども揃える。準備が終わったら9時を過ぎており、いつの間にか外は雨が上がって日が射していた。

その後昨日子供たちと出かけている間に不在で戻っていた、お袋からの荷物が届く。カール・レイモンのハム、ソーセージ詰め合わせと、五勝手屋羊羹。これは明青さんに間に合うはずだったが、一足遅かった。
五勝手屋羊羹は、前に三津子が甘い物をそれこそ「病的に」欲していた頃、大好きで食べていたものだ。函館の老舗の羊羹で、筒状の入れ物に入っていて、フタを取って下からグイと押し出し、糸で輪切りにして食べる。北海道産の小豆の濃厚な甘さがたまらん逸品だ。

なので夕べ明青さんにメールで、帰り寄れたら寄って下さいと打ったが、片付けとかでいつになるか解らないから、という。なのでじゃあ今日俺が出かける用事があるので、その行きがけに届けますということにした。
よく考えれば、こちらから「お渡ししたいものがある」と言いつつ「取りに来い」とは失礼だ。なので、行政書士さんのところは13時なので、12時過ぎに顔を出すことにする。早起きしたせいか、もうずいぶん働いた気がしたが、まだ9時半だった。

その後昼過ぎに支度をして玄関を出ようとしたら、ユキが俺の外出の気配に気付いて起きてきた。玄関で「すぐ帰ってくるから泣くんじゃないよ」と撫でて出るが、きっとまたどこかで尻尾を加えてくるくる回りながら鳴くんだろうな、と思いつつエレベータで下へ降りる。
ほぼ時間通りに来たバスでまず明青さんへ行き、おかあさんに、五勝手屋羊羹を渡して、こないだの御礼を言う。おかあさんは美味しいトマトを持たせてくれようとしたので「これから行政書士のところへ行くので、帰りに寄りますよ」と言うと、お昼が終わったらいったん閉めてるかも知れないというので、じゃあ夕方自転車で来ます、ということにして、ご主人にも挨拶して降りる。

雨はもうすっかり上がって、日射しが強まってきた。
俺が何か三津子のことで動くたびに涙雨に濡れたものだ。それらはほとんどが、悲しいことばっかりだった。愛する彼女が倒れ、もう戻らないと解ってからの、辛さ、悲しさ、絶望、慟哭…ありとあらゆる辛苦が自分に襲いかかってきた。それでもやらねばならない事があり、その状態で雨に打たれるのは、本当に辛かった。こう書いても、誰にもその痛みは伝わらないだろうと思うほどに。
けれど四十九日の納骨が終わってからは、こうして逆に雨の予報だった日であっても、晴れてくれる。まだ梅雨は開けていない、単に「それは季節の問題だよ」と済ませられる気持ちを、俺は持ち合わせていない。

明青さんから出るとすぐにタクシーが通りかかったので、行政書士事務所へ向かう。アポは1時からで少し早かったが、対応してくれる。朝打ち出しておいた詳細を読んでいただき、相談して、いろいろと面倒な手続きを委任状を書いてお任せすることにした。帰り際、「いろいろとね、奥さん亡くなられた後は大変だったでしょう」と言われて、ちょっと泣きそうになったが、何とか持ちこたえた。

外に出ると日射しが強くまぶしいほど。気持ちも少し楽になった。このあたりは御所の南、「町屋風」家屋もそこかしこに残っている。もっとも、昔から住んでいる人にとっては「ずいぶん少のうなりましたわ」ということらしいが。
丸太町に出るまで竹屋町を東へちょっと歩くと、八百屋があった。通りがてら何気なく見たら「空豆」があった。このところずっと、スーパーへ行くたびに探していたが、どこにも売っていないのが不思議だった。へたごとの空豆の束が、一つ350円。これを剥いて、中の豆を塩ゆでして食べるのが、二人とも大好物だった。
「三津子、空豆あったよ。今日の夜食べようか」と心で思いつつ、八百屋のおっちゃんにお金を渡して受け取る。その緑の薄い袋を書類カバンにひっかけてぶらぶら歩きながら、河原町まで出て4番のバスで出町の升形商店街へ。
ここは大福で有名な「出町ふたば」が手前にあるが、西へ入る商店街もなかなか庶民的でいい感じだ。以前、三津子と夕方買い物ではなく、飲み屋を探してぶらぶらしたことがある。
入ってすぐの個人営業のスーパーへ入り、今日の夕飯を物色。アジフライと刺身、野菜類を買う。安かった。その隣の総菜屋が作っている弁当を昼飯に買い、タクシーで帰宅。
もう一人になってからはたまにしか外出しないので、こういう機会にちょっとでも違ったもの、野菜などを食べるように気をつけている。

家に着くと、ユキは大人しく俺の仕事机の脇にある箱の上で丸くなって寝ていて、本なども落とした形跡がない。けれど尻尾の真ん中が黄色くなっていて、押し入れの戸が10cmくらい開いていたから、今日は押し入れの中でクルクル回ったらしい。
その後、夕飯に升形で買った弁当を食べた。総菜屋さんが作っただけあって、なかなか白飯にあうおかずがうまい。うーんここが近くだったらもっといいのにな、と思いつつ完食。外は暑くて汗をかいたし、喉も渇いていたので、食べる前後に大量にウーロン茶を飲む。

一息ついてから、こないだ二人の娘と話した、三津子の形見の服をどれか送ろうと思い、こないだ猫の砂とシーツが届いた空き箱を二つ用意。
そうして衣装部屋のハンガーから三津子のオーバーオールを二つ外した。ぷん、と三津子の匂いがした。
思わず抱きしめると思いがけず涙が出てきて、結果オイオイと声をあげて泣いてしまった。
春ものの赤いのと夏用の薄いデニム生地のオーバーオール。一緒に買い物に行く時はトートバッグに使っていた信三郎帆布のピンクのカバン。俺が彼女の誕生日にプレゼントしたアニエス・ベーのオレンジのバッグ。それらを持って、嗚咽しながらリビングへ戻る。
ときどき、どうしてもこのような「情動失禁」みたいなことになるが、自覚しているのだからいいじゃないか、そう思うことにしている。

それから気を取り直して、明青さんがお店を開ける前にトマトをいただきに伺おう…と思っていたら、どうも下腹が痛い。
どうやら弁当の時にウーロン茶を飲み過ぎて下痢をしたようで、トイレへ行っても治らず、何度か行き来するような形。ゲッソリ疲れる。とても自転車など漕げず、おかあさんに申し訳ないですとメール。
下痢は何とか7時過ぎにはおさまったものの、消耗してダメ。下痢の時は逆に水分を摂った方がいいのだが、「そのまま」出そうで怖い。尾籠な話で申し訳ないです。

その間に何とかバッグを箱詰めをして、ゆうちゃんに送る荷物は宅急便の集荷に間に合ったが、集荷が思いがけず早く、ももちゃんの分が間に合わなかった。二人には今日の司法書士さんの件を報告するので「時間がある時に電話して」とメールしておく。
夕方ももちゃんから電話があったので、今日のことを報告した。
ゆうちゃんは少し遅く7時ころだったか、よく覚えていない。とにかく今日のことを話した後、少し原稿の話もした。
ゆうちゃんは出来れば預かりたいけど、管理が心配だという。場所的には、俺が整理をしている感じだと、漫画原稿そのものは段ボール箱で4,5個という感じ。とりあえず俺が死ぬまでは三津子の遺品同様俺がきちんと守り、死んだ後のことも考えていろいろと準備しておこう、と思った。

その後、夜は昼間八百屋で買った空豆を茹でた。空豆を剥いていると、またちょっとだけ涙が出た。団地の頃、三津子が晩ご飯の支度をしていた時、よくみんなで手伝いをさせられたっけ。ボウルいっぱいの空豆のことを、我が家ではぷりっとしたお尻のような形をしているから、「尻豆」と言ったりしていた。
厚い皮を「パリッ」と開くと、ふかふかのビロードのベッドにキチンと寝ているような豆が数個出て来て、それらを取り出して「爪」を取らされた。
その後塩ゆでされたほっかほかの空豆を、皆でぱくぱく食ったっけなあ…。懐かしさと、それから現実の孤独感からくる寂しさで、涙が出たのだと思う。
今日は「お尻の割れ目」に包丁を入れてから塩ゆでをするのだが、包丁が浅かったようで、塩味は今一つだった。そういう時は茹でたてにパラッと塩を振れば良かったのだが、忘れたのでそのまま食べた。それでも旬のものはやっぱり、おいしい。
三津子の陰膳にお酒とお茶を入れ換え、温泉玉子を置き、皿に空豆と、升形商店街で買った刺身を薄く切って置いた。
こっちは下痢ぎみだったのでビールはやめとこうと思ったが、止瀉薬を飲んで止まったので、やっぱり乾杯をした。

それから録画してあった「タモリ倶楽部」を久々に見て、「空耳アワー」を立て続けに見て、思い切り笑った。
関連記事
2009-07-05(Sun)

鴨川散策

7月5日(日)

今朝は5時頃にユキが鳴いて足の間に上がってきて起こされ、それからはずっと寝られず。朦朧としたまま8時ころ起きる。
今日は天気予報では雨のはずで、夕べの月もそんな感じだったが、薄曇りで雨は降っていない。
今日は三津子の月命日だ。いつものように水とお茶を取り替え、線香を上げて手を合わせる。
朝はレトルトの野菜スープを温めて食べた。BSでMLBを眺めていると、9時ころゆうちゃんからメールが来て、ホテルの下にあるパン屋で朝食を買って食べるとのこと。それから二人とも10時前にはチェックアウトして、マンションへ来る。

昨日話していたハンディカムのビデオをテレビにつないで、2001年、まだ三津子が手術前で元気だった頃の影像を見た。猫を連れて二人で近くの公園へ出かけた影像。彼女は元気で、俺が買って来たハンバーグ弁当を食べたり、猫たちがビビってバッグから出ないのを見て笑ったりしている。
そういえば、やっぱりいつだって俺たちはこうして笑っていたよ。辛いことも苦しいこともいっぱいあった、とてもひと言では語れないような、色々な山坂があった。でも、概ね、笑顔で乗り越えてきたよね。辛い記憶は忘れて、良かったことをこれからは思い出して、心に残して行こう…。

11時ころに、二人に「ぼちぼち、何かおみやげ買うとかあるだろうから出ようか」と話し、出かけることにする。外は曇り空ながら、雨はない。
三津子が倒れてから、いつもいつも節目には涙雨が降った。
彼女が天から涙を降らせているとしか思えぬ符合ばかりだった。そして先だっての四十九日の法要の日、朝からざあざあと降っていた雨が、納骨の時には嘘のように上がった。
そして、二人が来る昨日・今日も、京都の予報はずっと「雨」だったのに、昨日は降らず、昨日の時点で雨の予報だった今日も降らない。
彼女はもう、泣いてはいないんだ。再び強くそう思った。

北大路を渡ってタクシーを停めて、二人を後ろに座らせて助手席に乗り、河原町三条へ向かって貰う。道々ルートを考えて思い直し、寺町御池で下ろして貰った。
言うまでもなく夫婦で何度も何度も歩いたアーケード街を、御池から寺町三条方面へゆっくり抜ける。途中二人がきっと何かしら気に入るものがあると思った鳩居堂に寄るが、日曜は定休だった。そのまま寺町京極を四条手前まで歩いて、錦小路へ入る。
両側に並ぶ店を見ながらゆっくり歩き、二人が家に乾物を買ったり、俺は自分の夕飯に豆ご飯と肉じゃがを買った。
錦は観光で来るたび、ここにあるものを持って帰って食べられたら…と何度も思ったものだが、今それが出来る嬉しさと、共に味わう人の居ない寂しさが交錯する。
二人に帰りの新幹線で食べればと、わらび餅を持たせる。それからちりめん細工の店へ入り、二人のおみやげ選びに付き合ったり。
錦を抜ける頃にはもう昼近くなって、すっかりあたりの店からいい匂いが漂ってきている。
「どうする、何が食べたい? 中華、寿司、そば…」と言うと「そば、いいね」と言う。「いいところがあるんだけど、ちょっと遠いんだよね」と俺が言うと「いいよ、せっかくだから行こうよ」と言ってくれたので、高倉を北へ方向を変えた。
その頃には雨どころか気温がぐんぐん上がり、暑いほどになった。六角から麩屋町へ出て、御池を超えて押小路の「宇一朗」へ向かう。
店を覗くと日曜のせいか、客は一人だけだった。いつも夫婦二人だったので、座ったことのない4人掛けに3人で座った。町屋を改造した雰囲気のいい蕎麦屋に、二人とも携帯で写真撮りまくり。
ももちゃんは「へぎそば」のせいろ、ゆうちゃんはふつうのせいろ。俺はいつものように鴨汁せいろにする。暑い日なのだが、ここの鴨汁のうまさには換えられない。
そばもつゆも美味で、皆満足。デザートにぜひ食べろと言ってオーダーした、蕎麦粉ゼリーに黒豆きなこアイス乗せが絶品のうまさ。俺はゆうちゃんのをちょっとだけ貰ったが、こっちはいつでも食べられる。二人とも満足してくれたようで、良かった。

それから寺町の小物屋をちょっと覗いたりしてから、「鴨川にでも出て歩こうか、でも疲れてるかな」と聞くと、二人とも「いいよ、子供がいつも居るから逆に一人だと楽だよ」と言うので、市役所前を通って御池大橋から鴨川へ降りる。
そこから鴨川の東岸をゆっくり、四条までそぞろ歩いた。白鷺が小魚を狙って水面をじっと見ていたり、鴨がゆっくり泳いでいる。川鵜のような鳥が川の中央で羽根を広げてゆっくりゆすりながら屹立しているのがおかしい。上空にはトンビが舞い、鴨川の西岸はずらりと川床が並んでいる。
曇ってはいるが、日射しがその上から強く注いでいるのが解り、かなり暑くなってきた。三津子、晴れてくれたのはいいけど、さすがにこれはちょっと暑いよ…。
それでもゆっくり散歩をしたあと、四条大橋の手前で川端へ上がって橋を渡り、河原町へ抜ける手前で、タクシーに二人を乗せて、別れた。
二人とも手を振って、京都駅へ向かった。
二人が来てくれて、昨日はいい夜になった。三津子も家族四人が久しぶりに揃って、いい月命日の供養にもなったと思う。今後のこともちゃんと相談できた。
後は任せてくれ、俺がしっかりママの作品を遺す仕事をきっちりとやる。その他のものは要らない。俺が死んだ後のことも、考えてちゃんとする。二人とも、ありがとう。
そう思いながら車を見送った。

それから高島屋のタクシー乗り場で車に乗り、マンションまで戻ると2時過ぎだった。二人はこれから新幹線でそれぞれの家庭へ戻っていく。二人とも遠くまで来てくれてありがとうと思った。そう、メールでも伝える。

5時をまわっても、今日は一滴も雨が降らなかった。
三津子はもう泣いていない。俺だけが彼女を思ってメソメソしているのはおかしいと思う、京都に来て良かった、幸せだったと、子供たちも誰もが言ってくれる。
それでも笑顔の彼女の写真を見ると、寂しさと喪失感で時々ギュウウ、と胸が締め付けられ、気が付くと涙が出ている。
仕方がない、これはもうしょうがないことだ、明青のおかあさんが言ってくれたように、最愛の人を失って辛い、悲しい、どうしようもなく淋しい、だから涙が出ても仕方が無い。
泣きたい時は泣いて、あとは彼女のための仕事をしよう。そのために生きよう。
関連記事
2009-07-04(Sat)

娘たちと明青さんへ行く

7月4日(土)

夕べは11時過ぎに寝室に上がり、寝たのは12時前だったと思う。しかし朝は5時に目が醒めてしまい、ずっと寝られずに往生した。7時過ぎに起きるが眠く、朦朧としている。
天気は晴れ間がある薄曇りで、今日の予報は雨だ。
関東から三津子の二人の娘が京都に来る。もう「涙雨」はおしまいのはず、降らないといいが。

朝のメールチェックや仕事関連のことを終えてすぐ、着替えてコンビニでサンドイッチとおにぎりの他、ヨーグルトや週刊誌も買って戻る。
サンドイッチを食べてから一息ついて、段ボールを畳みゴミ袋を一つ縛ってマンション下に出す。それからダスキンの床モップでホコリ取り。掃除機はかけたばかりなので、軽くホコリと毛取り。
それから猫トイレを掃除。3日目なのでむちゃくちゃに汚れている。ユキがせめて中に収まるようにオシッコをしてくれれば、後は便をこまめに取ってやればいいのだが、どういうわけか頭を奥に突っ込んで腰を上げたまま尿をするから、全部外へ飛び出してしまう。なので毎回ユキが飛ばした尿の始末で大変。
何とか掃除をヒイコラ終えて、前に買っておいた消臭剤を垂らす。同じものと知らずにお袋も「これは効くよ」と送ってくれたもので、数滴で匂いが消えるというもの。確かに匂いが消えたのは凄いが、反面大丈夫なのかという不安もある。
それからクイックルワイパーで床の掃除&ワックスがけ。腕、肩、腰などに力がかかって辛い。でも放っておくと夏場は床がすぐべたべたしてくるので、これだけはこまめにやらないとダメだ。

そして一仕事終えて、ようやくシャワーで汗を流す。
シャワーで体を洗っていると、いつも三津子のことを考える。
病気になると解るが、こうして自分の体を洗うことでさえ「重労働」だ。彼女は恐らくストレスだったのだろう、一時肩が顔より上に上がらなくなったことがあった。そういう時は風呂やシャンプーがしんどそうで、よく手伝ってあげたものだ。
その後俺たち二人とも、病気の違いはあれど「腹が膨れて右側に傷を負う」という、全く同じような体の不具合を持つようになった。俺は白血病による脾臓の腫れと胆嚢切除の手術痕。三津子は右腎臓摘出手術の傷と、それによる腹筋の寸断で腹が膨れた。「ぽっこりお腹に右に傷」。
若いころ、また健康な人であれば何でもない普通のことが、つくづく病気になるとしんどいと感じることが多い。年齢差が17もあったのに、俺がこんな病気にかかって同じような体の不具合を持つことは、まさしく「手を携えて助け合え」という啓示であったと思う。

三津子の死の何週間か前、昔っから背中の毛穴に油が溜まるところがあって、そこがぼっこり膨らんだのを切った。近くの個人病院へ毎日通ってガーゼ交換と消毒をしてもらっていたが、そのあたりで風呂場から呼ばれて背中を流してやったことがあった。
あれが、最後になったな…。でも最後に背中流せてやれて良かった。小さな背中だった。

その後昼はおにぎりで済ませる。今日はいい加減な食事だけど、夜はご馳走だ。
そうこうしていると、1時前に次女のゆうちゃんから「今向かってる」とメールがが入り、ももちゃんと食事をしてから向かうとのこと。1時半ころにマンション下からドアフォンで到着を告げられ、玄関で二人を迎える。
四十九日の法要から2週間ぶりに二人の顔を見た。

長女のももちゃんは旦那のT君が作ったという梅の実を漬けた瓶詰めを持って来てくれ、ゆうちゃんはいつもお世話になっっている明青さんに箸置きを買ってきてくれた。
二人ともソファに落ち着いてから、先日オーダーして届いた銀のリングをそれぞれに渡した。これには三津子の遺骨が入っており、首から提げても良いし、ふだん写真と一緒に飾っておいても、身につけておいても構わない。ちなみに俺は違う形のものに遺骨と遺髪を入れて、常に首にかけている。
二人ともすぐにそれを首から下げた。これで三津子の遺骨は常に、俺たち三人と共にある。

その後、三津子のアクセサリや愛用品を整理した小ダンスを開けて、ネックレスや指輪などを見せるが、もとより高級品やブランド品はない。「好きなの持って行きなよ」というと二人とも、「これはこれでこうしておけば?」と言う。
なるほど、この箱一つに「ママの形見の小物」が収まっていれば、俺が死んでもこれごとどちらかの家へ行けばいいか。

「猫たちは?」というのでユキはすぐ起きたが、シマが二階へ逃げたきり降りて来ない。ゆうちゃんが「見てきていい?」というので皆で二階へ上がると、ベッドの下に隠れていた。出て来ないので、3人でさんざん呼ぶが結局そのままだった。
シマは諦めて、壁面の本棚を見せる。これもちょっとずつ俺が整理して、ガラス戸の中には貴重な「ママの本」を保存してある。もうオリジナルの本も残り少ないこと、でも新たに代表作については復刊が決まった、ということなどを話した。

それから下へ降りて一息ついてから、ぼちぼち今後のことを話した。人が一人亡くなると、いろいろと面倒な手続きが生じてくる。相続もその一つ。詳細は置いておくが、俺はとにかく「やまだ紫」の作品を後に遺し、伝えていくことにしか執着はない。
二人とも、それは任せると言ってくれた。
また衣装部屋へ行って三津子の服で欲しいものがあれば送るよ、と話す。しかし服というのはサイズや好みがある。これらにしてもブランド物などないし、ここ数年着ていたオーバーオール数着は本人の体を採寸してオーダーで作ったものだ。着るにしても大幅に直さないとならないし、結局「これもこのままでいいんじゃない?」ということになる。
俺は「そうだね、まだどうせ俺、捨てられないし…」と言うとちょっとだけ胸にこみ上げるものがあった。ちょっと前は、この部屋に入るたびに彼女の服を抱きしめては泣いていた。
子供たちの前でヒイヒイ泣くことは避けたかったし、だいたい三津子が生きていた頃、俺はそんな姿を見せたことはただの一度もない。
じゃあ愛用していたカバンは適当に分けて送るよ、ということにした。要するに二人に今何かを持たせても荷物になるだけだし、送った方がいいわけだから、じゃあそれはまあちょっとずつ整理しながらその都度考えよう、と話す。
それからは3人でデジカメの写真やハンディカムのムービーを見たりして、もっぱら思い出話をする。
みんなが忘れていたのに、遺品の中から三津子が団地時代の子供たちとのやりとりやメモを大事に取っておいたのを見せて、当時の話をしたり。懐かしい、気が付けばもう25年も前のことだ。

途中、函館のお袋が三津子の月命日だからと手配してくれた花が届いた。三津子の写真の周りがまた花で埋まり、華やかになった。
団地の頃のことを思い出して一度ちょっと涙が出たが、それでも久しぶりに家族が集まって、笑顔で思い出話が出来た。子供たちと花に囲まれて、三津子もきっとこの輪の中にいて笑っているだろうと思った。

5時をちょっと過ぎたので「そろそろホテルへ行こう」ということにして、3人でマンションを出た。
ゆっくり歩きながら、「ここもよくママと通ったんだよ」と話しながら、近くのホテルへチェックインをする。6階のツインの部屋へ一回落ち着いて一息ついてから、5時半ころ予約しておいた明青さんへ向かうことにする。
少し歩いたらもう蒸し暑くなっていたので、クーラーの効いた隣接するSCの中を歩いてから川端へ抜け、高木町へ向かう。ほんとうに、京都に来てから何度も何度も三津子と歩いた道だ。徒歩で、バスで、タクシーで何度ここを通っただろう。
バスで金閣寺方面へ行く時。彼女の大学への通勤もここを通って深泥池へ抜けた。河原町方面へ出る時は信号のない「泉川通り」を抜ける指示をして通った。もちろん、明青さんへも数え切れないほど通った。
?野橋の上から「あそこが猫たちの骨を流した飛び石」、下鴨病院の前で「ここの桜が見事で、脇の桜はしだれ」、下鴨病院も「ママがコケた時何度か通ったよ」と話しながら歩いた。本当に、一緒に三津子が歩いていればどんなに良かったかな、と思う。

明青さんには6時前に入った。
毎週毎週通っていたのに、三津子が死んでしまってから、お袋と一度来ただけでご無沙汰しているのが申し訳ない。
店の「長ーいカウンタ」の俺たち夫婦二人がいつも座っていた席には、すでに知らない夫婦が座って飲んでいた。俺たち二人が必ず行くと決めていた曜日は、あの席におかあさんが「御予約席」という紙を置いて取って下さっていた。
俺が一人でカウンタへ座れるようになる日は来るのだろうか、まだ解らない。

おかあさんはいつもの笑顔で迎えてくれ、旦那さんもカウンタの奥から威勢良く「いらっしゃい!」と言ってくれる。「こんばんは」と言って俺の後から着いてくるのはいつもいつも、三津子だった。今日は彼女が愛した娘が二人。
奥の小上がりを取って下さっていて、すでにテーブルの上には三津子の写真の額と花、陰膳までおいてあって、驚いた。
「明日は月命日やからね」と言ってお花を置いて下さったのだ。陰膳のぐいのみはよく冷やされていて、すでに彼女が好きだった日本酒が注がれていた。
(ああ、待ちきれずに先にやってたんだね、良かった)と思った。

俺も、いつも部屋に飾ってあった遺影を持って行ったので、その額の横に並べた。おかあさんはおしぼりを持ってきつつ笑顔で「あ、今日は大きい写真やね!」。
カウンタのお客さんに配慮して、小上がりの内側でおかあさんに二人の紹介をした。
「こちらが長女のもも、こちらが次女のゆうです」と言うと、
「あ、ももちゃんに、ゆうちゃんやね」と確認するように言われ、二人は「何で知ってるの?」みたいな表情。おかあさんは「だってブログ読んでるもの〜」と言ってくれ、みんなで笑う。
そうして「やっぱりお母さんによく似てはるね」と言われて二人は顔を見合わせていたが、なるほど、俺も向かいから遺影と見比べると、だんだんと母娘3人がゆるやかに近くなってきたように見える。
二人とも、もう俺と三津子が知り合った頃の年齢なのだ。

俺は「ここへ来たら生ビールだよ。どこも同じと思ったら大間違いだから」と言って、3人ともまず生ビールで「ママと乾杯」。
二人とも「おいしい!」と言っていた。生ビールのサーバーの管理や掃除、グラスの洗い方は乾かし方、そして冷やし方。全てに神経が行き届いていると、明青さんの生ビールになる。決して「どこだってサーバから出すんだから同じ」なのではない。
料理は「何でも美味しいから」と俺が夫婦で来てた頃のようにオーダー。突き出しからして綺麗で美味しいと、二人とも料理が出るたびに写真を撮っては「おいしい」と言ってくれる。

美しいつきだし


はもおとし、しまあじのたたき、サザエのつぼ焼き、手羽中の唐揚げ…、どれもすこぶる美味で、二人とも大満足の様子だ。俺も久しぶりに明青さんの絶品料理を食べられて嬉しい。
二人とも母親と違って大酒呑みではなく、生ビールも1杯2杯程度。俺だけ夫婦で来ていた頃のように、お代わりお代わりでがぶがぶ飲んだ。そうして3人で楽しく食べた。


しまあじのたたき
サザエのつぼ焼き
はものあぶりと牛の握り

途中忙しいのに何度もおかあさんが相手をしに来て下さり、
「京都に来てから、お母さんはとても幸せそうでしたよ。その前は知らへんからあれやけど、うちのお店に来られた時はいつもいつもお二人で仲良くしてらして、お二人とも相手のことを気遣わはってね。だから順番にしてもね、きっと良かったんやと思いますよ」と言ってくれる。
そういう話を聞くと俺もつい溜まらなくなって、やはり涙が出てしまった。娘二人が泣いていないのに、俺だけ「すんすんすん」と鼻を鳴らしておしぼりで涙を拭くなんて、こんなこと三津子が生きている時はただの一度も無かった。
「ちかちゃん、ママそっくりだよ」とゆうちゃんに笑われる。そうだ、この泣き方はまるっきりあの人の泣き方じゃないか。そういうゆうちゃんの目もちょっと赤い。
おかあさんも「ご主人のご病気のことを心配されてね、そういう話をするだけでいっつも奥さん涙ぐまはって」と言うように、いつだって三津子が先にこうなっていた。本当に三津子がいなくなって、俺が彼女と同じようなことをよくしていると思う。
おかあさんは「悲しいんやからね、別に我慢することはないんよ。泣いたらええと思うわ」と言って下さるので、余計におしぼりが目から離せない。子供たちの前では泣くまいと思ったが、無理だった。
それでも、久しぶりに「4人」でおいしい料理を食べて酒が飲めて、本当に嬉しかったし、楽しかった。締めにははものあぶりと近江牛の握り。料理も絶品で、10時過ぎまで長居してしまった。
最後にレジまで出てくれたご主人に改めて二人を紹介して、御礼を言って階段を降りる。おかあさんも下まで降りてきて手を振って下さった。飾って下さっていた花も戴いてしまって、本当に有り難かった。幸せなひとときだった。

ホテルまでの道をまた、3人で歩いて帰る。
?野川の上に浮かぶ月は朧で、「明日は雨かな」と見上げる。三津子がほろ酔いで俺の腕にぶら下がって、よくこうして二人で月を見上げたのを思い出す。
今日は雨の予報だったのに、やっぱり三津子が止めてくれた。もう、彼女は悲しんでいないのだろう。

いただいた花とシマホテルの下で二人と別れ、いただいた花をぶら下げて、ゆっくりゆっくり歩いてマンションへ帰ると、10時20分頃だったか。
仕事机の横にあるスキャナの上に、三津子の本を積んでおいたのが、何冊か下に落ちていた。ユキが俺たちが居なくなったので、寂しがってそこでくるくると自分で自分の尻尾をくわえて、泣きながら回転したらしい。
本を片付け、着替えてから遺影を元の場所に戻し、いただいた花を飾った。シマがすぐに出て来て甘える。
それから三津子に手を合わせて「今日は子供たちと明青さんへ行けて、良かったね」と話しかける。
本当に幸せな一夜だった。
関連記事
2009-07-03(Fri)

やまだ紫作品の復刊の見通しがつく

7月3日(金)

夕べは11時半ころ上へ上がり、12時過ぎまでテレビを見ていたが、1時前には寝た。朝はまた6時前にユキがベッドの上に乗ってきて起こされ、その後ずっと朦朧。足元に座り、しかも時折けっこうな音量で鳴いたりする。こっちも寝返りをうつたびに足元のユキを蹴飛ばさないように気にしなければならず、疲れたかたちで起きねばならないのがしんどい。
だからといって猫は「家族」だ。
耳の聞こえない猫に「しつけ」はほとんど無理だし、仕方が無い。捨て猫だった母猫と七匹兄弟で生まれたユキは、生まれつき耳が聞こえなかった。幸い、団地時代からの知り合いだった「猫おばさん」のMさんがすぐに保護してくれたから、命が救われた。野良で耳が聞こえなかったら、生きて行くことは絶望的だったと思う。その子が縁あって家に来たのだ。
悪意のある人間の怒声や威嚇を全く知らないユキは、撫でるとすぐに喉をゴロゴロと鳴らし、両手をいじいじと握り開く。
必ず俺たちの側で寝て、時折俺たちを確認するように目を覚ましては「ニャア!」と鳴く。「はいはい」と撫でてやると安心してゴロゴロ言いながら寝る。姿が見えないとそのまま大音声で鳴きながら探し歩く。
人間の保護がなければ消えてしまう命なのだ。
…本人(猫)はそんな「宿命」など知らず、すっとぼけているのだが。

昨日は一日脾臓側の腹部が張って、嫌な感じだった。幸い今朝はそんな感じでもないようす。そのかわりなぜか肩こりがひどく、眠だるい。足元を無意識に気にしながら寝ていたので、凝ったのかも知れない。
外は曇って雨が降りそうな天気だが、予報では今日はこの後降らないはず。ただ、子供たちが京都へ来る明日は雨だという予報だ。「涙雨」はもう降らせないはずなのに、今日まで持った天気がよりによって…と思う。

洗い物をして三津子に朝のお勤めをする。お勤めというより、水とお茶を替えて線香をあげ、いつものように謝罪と御礼と愛を告げる。まだ、そのたびに涙が出そうになる。
花の水を替えようと思ったら、もう「すかしユリ」がぐったりと首をうなだれており、触ったら花びらがポトリと落ちてしまった。
花を買わなきゃ。
そうだ、ついでに朝飯は久々に吉野家の牛丼でも食おうと思い、9時半ころ外に出た。バスは5分ほど待つとすぐ来て、R高校前の吉野家に入る。「牛丼並つゆだく味噌汁付き」430円を食べて、一息ついてバス停へ。
うちの近くの交差点へ戻ってスーパー前へ行くと、入口の前に客が数人待っている。携帯を見ると9時56分。客が待ってるんだから開けりゃあいいのに、と思うがレジや何かも全部今はタイムスタンプがつくし、そうすると営業時間を守らないということになったり面倒なのかも知れないな…とぼーっと考えつつ待つ。
10時きっかりに開いたので、食品売り場で今日、明日のものを買う。明日は子供たちが来るんだっけ、と会計をする直前に気付いて、簡単な総菜ばかりにする。
それから花屋でいつもの薄紫のすかしユリと、小菊が白黄赤の三色ミックス束があったので買う。そのまま徒歩で帰宅。曇っていた空は明るくなって、しかも気温が上昇中。家に着くと汗だくだった。これは俺の体質に加えて、病気のせいもあると思うが、夏に向かうとこうした「極度の発汗」が本当に自分でもうざったい。

その後、一休みしてから中野晴行さんからいただいた『マンガ進化論』の続きを読む。
つくづく、こういう「『論ずる』という行為」は若いうちからその基礎をきちんと習っておかねばならんなあ、と思う。
俺は三十代までならともかく、もう先も短いようだし、その意味での向上心はなくなってしまった。いや、無いことはないが、何となく「無駄だ」と思う気持ちがどこかにある。自分ほどの頭脳程度の人間ならごろごろいるし、もっと優秀な論者もたくさんいる。そっちへ任せておけばいい、と思ってしまうのだ。
しょせんは自分は「経験したこと」を記録することに軸足を置いているだけの人間だ。才能もない、だから編集者になった。
ということは、まさしく、こうした「日記」や「記録」こそが、俺の経験した事実の蓄積なのであって、しかも継続し俯瞰できる状態にあることは、それなりに強みではあると思う。つまりそういう「論」文を書くことが得意な人でも、個人の日記・記録を継続して蓄積しているかというと、案外「自分」にはズボラな人も多いようだ。
そういう人は論文を書く行為のために大量の資料や書籍などに目を通さねばならず、また資料や統計は「そこから何を読み取るか」という知的作業が重要だ。なので、おそらくまともに何かを論じている人なら、その上で個人の記録を詳細につける時間などないだろう。簡単な備忘録程度のものはつけられても、詳細かつ長く続けていくというのは、ある意味「病気」でなければ稀なのではないか。
俺の場合は「記録魔」というその「病気」的な部分があるので、こんな案配になっているというわけ。
もっとも十代の頃のアナログのものは、俺の寿命がそう長くないと知ってから全て処分した。「日記とは人に見られることが前提である」という簡単かつ重要な真理を知らなかったからだ。
だから十代の頃のものは赤裸々にその時々の「自己」を叩き付けてあり、とても人様に見せられたものではなかった。それこそ他者に見られたらそいつを殺すか自分が死ぬかというレベルの恥部である。
今はブログ時代なので、誰でもどんな人間でも、多少の思い・つぶやきや日記、「論」は簡単にネットにアップ=公表できるし、それが後で恥ずかしければ削除すればいい。ただ、何となく「ただ書く」「記録する」「論ずる」という行為がいっしょくたになり、しかも敷居が低く同時に相対的なレベルも低下したような気はする。

話が大幅に逸れたが(これがアタマの悪い人の特徴でもある)、中野さんの『マンガ産業論』は、そういう意味つまり「本を読む」ことの重要性を訴える意味で、まずネットにテキストを公表した上で、敢えて本というかたちで出版をした。画期的な試みだと思う。ケータイ小説やブログ本というお手軽な意味とは全く違う。


この記録をつけていると、メールの着信を知らせるチャイムが鳴る。見ると某出版社のKさんからだった。

三津子の、いや、やまだ紫の代表作からぜひ出させて欲しい、それ以降についてはまた相談させて欲しいとのこと。
いずれにしても彼女の代表作…「性悪猫」や「しんきらり」は確実に再び「本」というかたちで世に出ることが決まった。
嬉しい、本当にありがたい。
(詳細は決定次第、お知らせします)
「代表作」といわれる作品の他もたくさん、いや俺にとっては全てが、愛しいあの人の素晴らしい作品たちだ。作品は作家にとって子供のようなもの。出来の悪いのもいいのもある。でも、出来ればなるべくたくさんの作品を再び世の中に送り出してやりたい。途中で消えることなく、ずっと生きていてもらいたいと思う。

夕方中途半端な時間に弁当を食べてしまったので、夜は7時頃、三津子に酒とニラ玉の薄く焼いたものを出し、俺はビールだけ飲む。「本がまた出るよ、良かったね」
そう言って乾杯した。

それから前に撮っておいたDVDで小津の『お茶漬けの味』と『秋刀魚の味』を見た。
もう何度も何度も見た映画だけど、『お茶漬け』では解っているのに、小憎らしい生意気な妻(木暮美千子)と夫(佐分利信)の和解のシーンで泣けてしまう。これまでこんなことは一度もなかった。夫婦で笑って見たことは何度もあったのに、涙もろいあの人の性格が乗り移ったようだ。
佐分利の抑えた、田舎育ちで純朴で仕事一筋の静かな男の好演が生きている。夫婦は二人居るのがいいものだ、それが当たり前だ。二人いれば、例えケンカしたって和解が出来る、わかり合うことが出来る。自分が悪かったと思えば謝り、その後の生活で仲良く暮らそうと思えば出来る。
相手が生きてさえいてくれれば。
俺はこれまで、三津子に夫婦ゲンカで自分から謝ったことはほとんどない。だから、今は毎日彼女に謝っている。

『秋刀魚』の方も何度も見ていたが、いつも通り面白く見る。当時の岩下志麻の美しさには、何度見てもハッとさせられる。
小津やあの時代の成瀬の映画には「家族」や「夫婦」「親子」をテーマにしたものが多く、三津子の死の直後はとても感情的に見られなかった。だからアクション物や他愛のないハリウッド映画で時間を紛らわせたり、映画の中へ没入するようなもの、例えばトム・ハンクスの一連の作品などを見た。
ようやく二ヶ月経って、小津の映画が見られるようになった。
関連記事
2009-07-01(Wed)

「偶然」など、ない。

今日のブログ(前の記事)をアップした後、仕事のデータが来たので済ませた。傍の箱のうえで寝ているユキをなでて、何気なく居間へ行き、本当に何気なく三津子が座っていたソファの背に重ねてあったティッシュの箱を手前に下ろした。それからその下にある、薬などを入れてあった小箱を開けた。
何度ももう見た箱だ。中には彼女の血糖値の検査キットの古いやつ、胃薬の束、化粧水の使い残しやハンドクリーム…。あと、昔ゆうちゃん夫婦と真夏に旅行へ行く前、遊びで作った丸めがねのサングラスケース。
そういえば、このサングラスをすると俺たちが「謎の中国人みたい」とか言って笑ったから、あなたは怒ってしなくなったんだよね。その後これが出てくるたびに「何でわたしこんなの作ったんだろう」っていつも言ってたっけ。
そう思いつつケースのフタを開けると、サングラスと一緒に、切れた水晶の腕輪が出て来た。

「うわー」と声が出た。もう、こんなことばっかりだ。

去年の夏、比叡山へ登った時に延暦寺で一緒に買った数珠のような腕輪。俺は黒檀のにして、三津子は水晶で自分の守り仏様である千手観音の梵字が入ったやつにした。
それを彼女はしばらく身につけていたのが、突然切れた。
「こういうのって何だか嫌だな」と言って、「直してもらおうよ」と話してしまっておいた。
明青さんに去年だったか、お邪魔した時に何気なくそういう話になったら、おかあさんが
「お数珠や腕輪直す方知ってますよ。ほんなら今度持って来て」と言ってくれた。
その後、二人で必死であちこち探したのに、見つからなかった。どこを探しても無くて、おかあさんに「見つからないんですよ〜」と情けない顔で話していた。
彼女はあの腕輪が切れたことを不吉だと思って気にしていた。もちろん俺も嫌な感じがしたから、直したいと言っていた。アクセサリで買ったものならともかく、高価ではないが延暦寺まで登って買ったもの。その時二人はお互い、相手の健康と二人長く暮らせることを祈ってきたはずだ。
それが突然切れた、彼女も気にしていたし俺も気にしていた、だから探したのに、どうしても見つからなくて、そして彼女は逝ってしまった。
不吉な予感は「予感」ではなかったのだ。
…それが今突然出て来た。これも、彼女が教えてくれたのだろう。
なぜ、そう言えるか。
なぜ、「たまたまだよ」とか「偶然だ」と思えないのか。
それは、この腕輪が見つかる直前に、明青のおかあさんに子供たちが京都へ来るので、その日の予約のメールをしたばかりだったからだ。彼女が
「あなた、明青さん行くんならあの腕輪持ってって」
と教えてくれた。
おかあさんに返信で、すぐにこの腕輪が見つかったことをお知らせした。君が逝く前に見つかったのなら良かったけど、きっとこれは決まっていた「運命」を教えてくれたのだ。だから、逝く前に直すことはきっと出来なかったんだね…。でもこれで直せる。

それからちょっと前に押し入れを整理したときに出て来たハンディカムとそのテープ類を片付ける。孫たちのムービーはそれぞれの親つまり娘たちへ渡そう。けれどその前にムービーを見たいと思っても、カメラからつなぐコードがどうしてもみつからない。液晶モニタで見ればいいが、せっかくテレビがあるのに…と思って二階のゲームやコード類の箱を見に行く。
すると、愛着があって捨てられずに持って来たブラウン管テレビの上の大箱の中に、A4大のノートを見つけた。パラパラとめくると三津子のアイディアメモのようなものだったが、なぜこれを今見つけたのか、全然意味がわからない。コードは結局見つからなかった。
この箱は何度も何度も見たし、だいたいこれは舟渡のマンションで、テレビの周辺にあったものを引越社のバイト軍団がてきぱき詰めていってくれたものだ。それをこちらへ来てから開けて確認をしているし、その大半は出して捨てるなり整理なりしてある。だから、あとはもう不要ということでテレビの上に放置してあった。
こういうノートがあれば彼女は見ただろう、それが自分のものなら出して持ってくるなり、見られたくなければ捨てるなりしたと思う。

よくよく見てみると、「金魚の殿様 2」とメモがあって、その簡単なアイディアが数行書いてある。キャラクタ造形のスケッチらしいラフもあった。
「金魚の殿様」はあの『COMICばく』の1984年春号から連載されたものだ。2回目ということは、季刊だから夏号…か。
メモには「殿様のおばはスチュワーデスをやっている…」と数行書いてあるが、あの「金魚の殿様」にはそんな話は出てこないから、恐らくボツにしたのだろう。
とにかく、いずれにしても1984年の夏ころのものであることが解った。つまり、まだ俺と出会う前のノートであることは間違いなかった。
彼女と俺が出会うのはその年の夏〜秋、けれどそれは彼女は「ガロ」で活躍する先生であり、俺は長井さんの学校のただの学生だった。ちなみにその時は水木しげる、林静一といった豪華な「講師」も来られ、俺はサインをいただいた。もちろん、彼女のサインも。
その84年の暮れに、俺は長井さんに「明日から来てくれよ」と言われて「ガロ」でアルバイトを始め、翌85年の春、正式に社員として勤めるようになった。
その間、彼女とは編集部や忘年会などで何度か顔を合わせている。飲み会の時は俺が巣鴨に住んでいたから、彼女と帰り道が一緒で、急接近した。だから本当に相手を個人として意識しての「出会い」は、翌85年以降ということだ。

ノートをめくると、たった2行だけの鉛筆書きの文字。

私は卑怯な人を憎み
   至らぬ人を 除外視します。

さらにその後
「6/30〜7/1にかけ
 浅川マキのオールナイトコンサート 池袋(文芸座)始発まで」とメモがあり、数行つぶやきのようなコトバ。
やはり、1984年の6月から7月ころのノートらしい。
そして
「7月○日 <待つ>」
と題して、これも数行の日記の書きかけのようなもの。
それをめくると、今度は詩なのか散文なのか、あるいは単なるメモなのか、数行の文章があった。

狭い団地の
水色をした ホーロー風呂だった
なまぬるい湯に 顔面をつけ

泪を流した

悲しくなく 淋しくなく
痛くなく 口惜しくもなく
(こんなのはいやだなあ)
と思い乍ら
同じ日が 明日もくる
その次の日も 次の日も…

恐ろしい泪だった
もう 幾年も前のことだ


この「泪」を流した日が、この時点から数年前ということは、つまり、離婚の後だろうか。
彼女は彼女いわく「地獄の結婚生活」の後、心からの安堵と幸福の日々を送ったと、後年俺に語っている。
朝は「もう殴られなくて済むんだ」、夜寝る前は「明日も誰にも殴れないし、怒鳴られなくて済むんだ」、そのことに感謝をした、と。
つまり、その「安堵と幸福」の数年を綴ったのではないだろう。

三津子が斃れ、この世から旅立とうとしていたとき、俺の頭に響いた彼女からのメッセージが、カーペンターズの「Only Yesterday」だった。その詩の意味と、彼女が俺に伝えようとしてくれたメッセージは、もう理解している。
彼女は俺と出会えて良かったと伝えてくれた。出会う前はずっと誰にも解ってもらえず、一人で悩みや困難と向き合っていた。ずっとこんな日が続くのかと、ただ何かを「待つ」だけの日々なのかと、ようやく得たささやかな幸福、愛する娘たち二人と猫三匹との安寧な暮らし。それを一人で必死で支え守ってきた数年間。
けれど、そのまま老いていくことを、きっと彼女は怖れたのだと思う。

彼女は「しんきらり」で壊れゆく「夫婦」という関係を、実際の壮絶な体験とは別に、凛としたかたちで、心に響く彼女のことばで描いてみせた。
その後に、実は「しあわせつぶて」があり、それから「Blue Sky」へと繋がっていく。「しあわせつぶて」は一緒に暮らし始めたばかりの若い夫婦の、まだ危うい「揺らぎ」を描いた作品だ。そのラストは現実の自分の「結婚生活」ではあり得なかった結末を、ひとつの理想の姿として提示している。
彼女は、本当はちゃんとした幸福な結婚生活と育児を、安寧な普通の夫婦生活をやり直したかったに違いない。もちろん、それは叶わないことだし、前の夫とそれをするつもりは毛頭なかったと思う。
「しあわせつぶて」は『新鮮』(祥伝社)1984年1/2合併号から1985年11・12月号まで2年間にわたって連載された。
その間に俺たちは出逢った。
単行本でいえば『続しんきらり』の後半と重なって描かれた「しあわせつぶて」は、同名で86年の秋に青林堂から単行本化された。
これが、はじめて俺が彼女の単行本を編集者として担当したもので、最初で最後のものになる。
俺たちはこの頃にはもう団地で同居していたから、表紙はどうしようとか、途中にこんな漫画を入れたいとか、相談しながら作ったと記憶している。
彼女はそれからの5年後、婦人公論に「Blue Sky」を連載する。そのラストが、俺への答えなのだと、今ははっきりと理解出来ている。


もちろん「やまだ紫」という作家は、「しんきらり」「しあわせつぶて」「Blue Sky」を夫婦、男女が共に暮らし連れ合うということを軸に、さまざまな時々の彼女の「想い」をからめつつ、フィクションとして、エンターテインメントとして作品化している。
でなければ、あれだけたくさんの人に影響を与え、今なお心に残る作品とはなっていないと思う。
何度も繰り返しているように、「しんきらり」を読み現実の三津子もそうであると重ね、現実生活がそのままあの作品に描かれていると断じるのは、「作家としてのやまだ紫」をいかに冒涜しているかお解りだろうか。
「漫画家は作品に真実を描きません」彼女は『愛のかたち』でそう断言している。それまで説明するのもヤボで面倒だと、愚問を繰り返す連中には「『ハイハイ、おっしゃるとおりです』と言ってきた」と笑っていた顔を思い出す。

俺は当然、連れ合いとして彼女の最後まで一緒に居られた幸福な人間だ。だから、後半生、作品に含まれるさまざまなメッセージを読み取れるというのは特権だと思う。ほんとうに、幸福の極みだと思っている。
誤解していただきたくないのは、「やまだ紫」が世に送り出した作品は、彼女が俺に宛てた私信ならともかく、全ての読者に対する作家としての彼女の「作品」というかたちのメッセージであるという当たり前のことだ。

それぞれの読者の方が、それぞれの「今」に、彼女の声がどう響くのか。

メロドラマでもホームドラマでもない「人間のドラマ」だから、彼女の作品は時代を超えて人の心を打つ、射貫くのだと思う。
彼女が二十代前半で描いた『鳳仙花』の一連の作品が、今、四十年経って彼女の倍の年齢になった男の心に染み入り、感動させる。
三十年以上前に発表された『性悪猫』の一篇が十代の自分の心を打ち、三十年後に別な一篇がまた同じ人間の心を打つ。

昨日、ある漫画評論に関わる方に
「そういう作品が『品切れ』という状態にあるということは、読者にとって大変な不幸なんですよ。だって、書店へ行って手に取ったら絶対に読みたくなるし、共感できる作品でしょ。その機会が奪われちゃってるんだから」と言われた。

ほんとうに、その通りだと思う。(この方が誰なのか、それは後で明かします)
そしてもし、彼女の作品から何も感じられない人間が多いとしたら、たいそう不幸なことだと思う。


それから何をどう思ったのか、あれほど調べた仕事部屋の押し入れをもう一度、調べ出した。突然、本当に自分でもよく解らない行動だと思いつつ、この間二度目か三度目に調べて積み上げた箱を脇へどかして、何度も見たはずの袋や箱をもう一度開けては中を見る。
写真があちこちの箱や袋から出てくるが、どれもこれも年代もバラバラで、後で大変だな…と思いつつ、まとめて箱へ入れて行く。
「自分は何を探してるんだっけ」、ふとおかしな感覚になって、押し入れの整理棚が全て露出したところで、一番下をあけた。

原稿の袋がいくつか出て来た。
まだ、あった!

性悪猫の「梅雨」の漫画原稿描き下ろしの『御伽草子』全部。デジタル入稿した女性誌のカラー漫画の原画とデータ3本分、毎日新聞に連載したイラストとコラム「お勝手に」の原画…。
まだこんなに原画があったじゃないか、おいおい俺は何をやってんだ、と思った。
そして、「性悪猫」と書かれた厚紙で保護された大きな固い封筒。
開けてみると、数年前にロッテルダムで開催された国際交流基金主宰の漫画展に貸し出した原稿だった。基金の担当者からの御礼の手紙も入っている。

出て来たのは、『性悪猫』のあの、「梅雨」の回だった…。

つい先日、その「梅雨」の一場面を青林堂版単行本のためにカラーで描きおろした原画を、全然違う納戸から、当時の箱から発見したばかりだ。
今日出て来たのは、その元絵となった漫画原稿そのものだ。しかも全く違う、ここ数年の雑多な掲載誌や返却原稿の中から。

「ああ、これであのカラー原画と原作が一緒になったね」
そう思って、立てかけてあったカラー原画と一緒に、封筒を立てた。

これからの作業を考えるとあまりに膨大で、冗談抜きで俺の命が持つかどうかという感じだ。けれど彼女もその節々で、何となく手伝ってくれている感覚がある。
俺は何か作業をやる場合は、それこそ単行本の台割を作るかのごとく段取りをエクセルなどで緻密に組み、その多くを自分でやらねば気が済まないタチだった。大掃除や引越も含め、健康だった時は非力な彼女をなるべく立ち働かせないように…と思ってのことだったが、彼女は俺がそう言い出したら聞かないので、手を貸そうとしては俺に「あなたは休んでて」とか「あなたはこっちの(軽い方の)作業をして」と指示されて、周囲をオロオロしつつちょこっと手を出しては引っ込めたり、という風情だった。
今、俺がやっている原稿や写真の整理、それも何となく彼女が遠巻きにして、時折「ここにもあるんだけど…」と見せてくれたり、解るようにしてくれたりしている。

青林堂版『性悪猫』原画が見つかった時、まさにこの記録を打っているキーボードの横には、青林堂版『性悪猫』。

世の中には「偶然」とかそういうものはない。

それに、「人は死んだらそれでおしまい」ということも、ないのだ。そう言い切れる人は一度死んでみるか、心通じ合った最愛の人に死なれてみねば解るまい。いや、それでも何も気付かない鈍い感性しか持たないようなら、それはその人にとっては「人は死んだらそれでおしまい」なのだろう。

とにかく、これからも彼女の助けがないと、これは俺一人では無理だと思う。そしてこうしてその助けは、その都度きっとくる。
pm6:58
関連記事
2009-07-01(Wed)

君がいる

7月1日(水)
今朝は何度か目が醒めたものの、8時前には起きた。
今日は薄曇りで、雨はない。梅雨入りしてから京都は昨日一日ようやく梅雨らしくはなったが、ほとんど雨がないという印象だ。
朝のもろもろを済ませて、三津子の写真に手を合わせて祈る。四十九日が終わってしばらく放心状態が続いた。最近になってようやく作品の整理を再開し、彼女の作品リストを作り始めた。
ほんの一歩だけど俺がやるべきことに踏み出せたという、何となく安堵感がある。

俺のやるべきことは決まっており、それに向かって一歩一歩進んでいくしかない。
「やまだ紫」の作品、業績を後に遺し伝えて行くこと。そのために作品の整理やリストを整備したい。個人的なことでいえば、出来るだけ「三津子」という個人と俺のことも、遺しておきたい。これはたくさんの人にでなくてもいい。俺たちが生きた証を、何らかの形で覚えていて欲しい。このブログがずっと残るように、お金を入れておきたい。そういうことも生きるモチベーションになる。

朝のうち8時過ぎにコンビニへ出かけて、電話代を払ってからサンドイッチやおにぎり、などを買った。
それからマンションへすぐ戻るが、新聞がない。
あ、今日から7月なんだ…と思った。
三津子が亡くなってから、あまりに多い手続きやその他のことに追われて、ここも引越さなきゃならない、新聞ももういらないと思って断ったんだ。けれどやはり一人の生活が続くと、新聞を読むというのも話し相手のいない生活では句読点になってはいたので、どうしようか…と悩む。
その後サンドイッチとボトルのコーヒー牛乳で朝食を済ませ、一休みしてヤンキース対シアトルの試合。

7月1日その後11時過ぎに宅急便が来て、一週間ほど前に頼んでおいたリング型のメモリアルペンダントが届いた。
さっそく開けて、2つそれぞれに小ダンスの引き出しにしまってあった三津子の遺骨を入れた。リング型なので遺骨がなかなか奥へスムースに入ってくれず難儀したが、何とか入れられた。2個目はコツが解ったので簡単に入った。そうして接着剤を垂らしてからネジを固く締めた。
今週末京都に来るゆうちゃんとももちゃんに渡すための銀製のリングで、首から下げても、お守りのようにしてもいい。「MAMA 09.5.5」と刻印も入れて貰った。
テーブルにほんの少しこぼれた骨の粉は、指先につけて俺がなめた。

今日は仕事のデータがなかなか来ないので、パソコンに向かい、またデジカメの写真をずっと日を追って見ていた。
俺たちは一緒に暮らすようになって四半世紀近く経つのに、彼女が「山田三津子」から「白取」になってからは、まだ十年経っていない。
一緒に暮らし始めた当初は子供たちがまだ小中学生だったので、離婚前の姓から山田に戻したあと、三つ目の姓を名乗らせるのは可哀想だと思った。それと、彼女は「なぜ結婚のたびに女が姓を変えるということが決まり事のようになっているのか」とよく言っていた。夫婦別姓論者というほど強くはなく、イデオロギー的にどうこうというものではなかった。ただ、素朴に「なぜ」と思っていた。
なので俺たちは未入籍のまま「事実婚」を続けることにした。今のように「事実婚」というコトバはなかったかも知れない。とにかく内縁のまま、二人が仲良く暮らしていればいいのだと思っていた。
けれど彼女が病気をして、生き死にの話を二人するようになり、内縁のままだと後の人たちに迷惑がかかると話した。もう、子供たちも独立したし…と、彼女は「白取三津子」になってくれた。
写真をずっと見ていくと、三津子はここ十年ほど吐血や腎臓などで入退院を繰り返しており、その度に顔がゲッソリと痩せていくのが解る。どんな大病院へ行こうが、どんな最新設備でくまなく調べて貰おうが、結論はいつも「原因不明」だった。
彼女はもう「更年期障害としか思えないね」と言っていた。

「山田三津子」に比べ、「白取三津子」は病気、病気…の印象ばかりだ。そう思うと本当に申し訳なく、可哀想に思えてならない。
すまん、俺と一緒になったばっかりに…。
あなたに苦労ばっかりさせてたんじゃないかな、俺は。
それで幸せだった、と言えるのかな…。

そんなことをまた考えてうなだれていたら、突然電話が鳴った。
長野の三津子の旧友のS子さんからだった。納骨も終えたと思うので、お墓にお参りして線香でも…と思ったそうだ。しかし東京の多磨霊園の山田の墓に入れたことをお伝えし、彼女も生前「あんな暗い石の下にわたしは居ないよ」と言っていたので、写真に手を合わせていただければ、と話す。S子さんも「そうですよね、そうします」と言ってくださる。
S子さんは三津子が亡くなってからの5月16日、電話してきて下さって、
「白取さんと一緒になって良かったと思いますよ。前からいろいろ聞いてましたから」
と言ってくださった人だ。
今日、たった今写真を見ながら三津子のことを幸せだったのか、俺と一緒になって良かったのか…と悩んでいた。
そうすると、こういうことが起きる。

三津子、ありがとう。これが君の答えなんだね。
もう何度も何度も、君はこうして「私はちかおと一緒になれて、幸せだったよ」というメッセージをくれているのに、俺ときたら、毎度毎度同じ問いかけをして、メソメソしてばかりいる。
君が死んだあと、あまり俺のまわりで気配がしない、きっとばーちゃんの方だろうと思ったりもしたけど、君はどこにいるとか、誰のところにいるとか、もうそういう存在じゃないんだね、きっと。
だから君は俺にいつでもメッセージを送ることが出来るし、つまり、俺の側にも居るし、ばーちゃんやねーちゃん、子供たち
の傍にも居るんだね。

君もまた「遍在である」存在になった…ということなんだ。

いつもいつも君は俺にこうして色々なことを教えてくれる。人として高いステージへ行けるよう導こうとしてくれる。
あとは俺がそれに応えられるかどうか、そういう人間になれるかどうかなんだろう。
本当に、世の中にはどうしようもなく愚劣な人間っているんだよね。君ともよく話していたように、お世話になっておきながら、「そのこと自体を無かったこと」にしようとする奴。
嘘やデマで人を陥れ、傷つけてまで自分たちの利益を優先しようとする奴。

人が死病にかかり、夫婦ふたりで病身を寄せ合い助け合って生きていることを、「早くくたばれ」と嗤う連中。酒を飲みながら下品なジョークで俺たちを貶めている。

現実に、そういう人間が、この世の中に、存在している。

君はいつも、「そういう人には必ず裁きが下る」と言っていたね。君は正しく生きたし、何より自分に対して恥ずかしいことや、天に唾するような行為を最も嫌い、実践してきた。
だから君はいま、必ず幸せだという確信があるよ。
あなたは、今、ほんとうに幸福の光に包まれて、ある。そう心から思う。
ばーちゃんが納骨のあと、皆の前に備えられた遺影を見て何度も、
「この子は今が一番、幸せなんだから…」って言ってたよね。
子供時代にどうだったとか、俺と一緒になってどうだったとか、そういうことはもうどうでもいい話なんだ。今のあなたは、病気の苦しみや痛みや、あらゆる苦痛や困難から解放されて、慈愛に満ちた笑顔で俺たちをいつでも見守ってくれている。そう、心から思う。
思うことによって、俺も救われるんだ。
そう思っても、やはり涙が出る。
でもこれは君を失った「悲しみ」よりも、もっと違う種類の涙のような気がする。自分でもよく解らないけど、何かとても暖かくて、優しい君の笑顔が頭に浮かぶ。心から、魂の深い奥の奥から、君に感謝している、そのための涙なんだ。
俺と一緒に暮らしてくれてありがとう、三津子。
俺を愛してくれてありがとう。
そして、やまだ紫先生、たくさんの作品で俺たちを癒し、感動を与えてくれてありがとうございます。
個人として、作家として、両方のあなたに出会えたことと、愛せたことへの感謝を、ずっとずっと忘れない。

頑張って、君の業績を、素晴らしい作品を後に伝えよう。そのための仕事がたくさん待っているから、俺も頑張るよ。
関連記事
カレンダー
06 | 2009/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

広告
アフィリエイト・SEO対策
検索フォーム
プロフィール

シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

シンプルアーカイブ
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる