2009-08-31(Mon)

上野昂志さんから手紙をいただいた

8月31日(月)

朝方、三津子の夢をまた見た。
いま、この記録をつけているのはもう夕方なので細部まで覚えていない。夢の中で、小さな部屋みたいなところにいる。俺は三津子と並んで壁によりかかって座っている。上半身だけ向き合って、髪を撫でて「チュッ」という感じで軽いキスをした(笑)。三津子も笑っていた。
髪にウエーブがかかって、フチのあるメガネをしていたから、十年以上前の感じだったろうか。(後で確認したら中央公論社『Blue Sky』の文庫版(1996年)の時あたりの彼女だった)
俺はいまだに彼女に釣り合う人間ではなく、そして彼女には謝らねばいけないこと、感謝しなければいけないことばかりだ。毎朝、いつでもそれを思い続けている。それでも、彼女はこうして夢に出て来てくれ、ちゃんと愛し合っていたということを伝えてくれた。嬉しかった。

9時前に起きて、朝のことを済ませ、すぐに朝刊を取りに行く。
読売の一面は「民主308 政権交代」という号外のような大きな活字と、鳩山代表の笑顔だった。テレビをつけて自民党敗戦の弁や民主党勝利の映像などを各局はしごして見る。
朝はペットボトルのミルクコーヒーだけでザイロリック錠を飲む。
その後、2時前に今日が31日だったことに気付いて、慌てて着替えをして出る。市民税と府民税の「第2期分」の納付期限が今日なのだ。税金は期限を過ぎると延滞金がつくし、払わないわけにはいかないものだ。着替えて納付書を持って玄関まで行くと、出かける気配を察知したユキが玄関までついてくる。
ユキはいつもそうするように、俺が外へ出るとしばらくドアの前で待ち、一定時間以上戻ってこないと、泣きながらどこかで回り出すのだろう。そう思いつつ「すぐ帰ってくるからね」と声をかけて出る。

外は朝と違ってうっすら曇ってきた。
歩いて近くの交差点にある銀行まで行くと、ATMにズラリと10人以上人が並び、例によってずっと振込をしている人、通帳を何枚も持って何やらやっている人やら、それをイライラした表情で待つ人々。その光景を見て、すぐにきびすを返す。
そのまま交差点を渡り、スーパーの横にあるATMでお金を下ろして郵便局へ行き、若い男の職員に税金の納付に来たと言うと、待ち時間はないのですぐですよと言われて、住所氏名と金額の紙を一枚書かされて、番号札を取って一旦座る。すぐに呼ばれてお金を支払い、数分待っておつりと領収書を貰って出た。
あのまま銀行で並んでいたら、きっとまだお金を引き出せてもいなかっただろうな、と思いつつコンビニで買い物をし、スーパーの花屋で三津子の花を買う。それから総菜類を買って帰宅。

ポストには、上野昂志さんからの手紙が届いていた。
(このところ、残暑見舞いにたくさんの人からハガキや手紙をいただき、感謝しております。)
部屋に戻るとユキが案の定、仕事部屋のプリンタの横に上がって自分の尻尾をくわえて「うわあ、うわぁああ!」と泣きながらくるくる廻っている。凄い声だ。「帰ってきたよ」と視界に入り知らせると、「にゃーん!」と普通の声になって降りてきた。耳が聞こえないというのは不幸だが、可愛い。
買って来たものをしまって着替えて花を活けて、上野さんの手紙を読む。

上野さんは日本ジャーナリスト専門学校の副校長だと思っていたら校長になられていた。やまださんの訃報を聞いても何も出来ず申し訳なかったとのこと。
上野さんはもちろん評論家として活躍されているが、何度もここでも書いている通り、俺を教職へ導いて下さった恩人でもあり、何より、「ガロ」の草創期からの大先輩である。夫婦ともどもお世話になっていた方で、ここ数年は詳しくは書けないが、専門学校の仕事に追われて大変なご様子だ。こちらこそ、何も出来なくて申し訳ないと思います。

1996年。当時から専任講師だた上野さんに、「来年度、ジャナ専の編集科にマンガ編集専攻コースを作るから講師に来てくれないか」と上野さんに誘っていただいた。そして翌年春から2005年の夏に白血病宣告を受けて「休職」するまで、ずっとジャナ専で教壇に立たせて頂いた。
ジャナ専というのは出版業界にたくさんの人材を輩出してきた名門校だ。
確かに専門学校というところを、大学受験に失敗したやる気のない人間の受け皿と考える学生、大学合格までのつなぎという学生もいた。しかし明確に「好きな出版、編集と関わりたい」「本が好きだから、企画や編集をやりたい」という目的を持った子がたくさんいて、そういう子たちが即戦力として2年間で見違えるほど逞しくなって巣立っていったのを、たくさん見て知っている。
出版業界へ行けなくても、少なくとも通って勉強になった、良かったと言ってくれた子もたくさんいる。
どんな学校だって、それこそ偏差値の高い一流大学でもバカはいるし、優秀で真面目な子もいる。専門学校だって、割合的にはともかく、真面目に目的意識と夢を持った学生はたくさんいた。ジャナ専はその中でも、歴史があり、講師陣も単なる客寄せで有名人にすがるようなこともせず、業界でちゃんと実績のある人たちが多い。
「マンガ編集コース」は結局、数年後に編集者専攻科に統合された。ただマンガ編集に特化したことは、時代を早く読み過ぎただけで、むしろ正しかったと思う。
大手のマンガ編集のシステムも、「ガロ」という弱小零細版元も両方知っている人間にすれば、システマチックでルーティン的な「編集」という業務だけではなく、もっと即戦力でもあり、かつ「編集魂」みたいなものを持った人間を育てる場は、これからの時代こそ、絶対に必要だと今でも思っている。
本当は、だからジャナ専でずっと講師はやっていたかった。
病気になって「休職」したままなのが口惜しいし、そういう意味では誘っていただいた上野さんには申し訳ない気持ちで一杯です。
時代は大学でマンガ学部が出来るところまで進んだ。しかしマンガ編集者養成に特化したところは残念ながら、未だにない。ジャナ専ではマンガ編集だけではなく、もちろん編集現場論、卒業制作、雑誌研究、流通現場論などなど色々な講座を持つことが出来たが、今さらながらマンガ編集専攻に特化した講座の必要性を思う。
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2009-08-30(Sun)

衆議院議員選挙

8月30日(日)

夕べはBS朝日で「男たちのYAMATO」をやっていたのを見てから寝るが、何とまあCMでここまで細切れにする事かと思った。民放で映画を見るのは今さらながらアカンわな、と思いつつ途中で寝る。
この映画、DVDで見た時に思ったが、戦艦大和の、この映画のために作ったという船首部分の実寸大セットはもの凄い迫力だ。その分(?)CG合成が下手なのが目立ったのと、重要なところの配役ミスが残念だ。物静かで「教養ある大尉」というのに長嶋一茂はないだろう。とても「演技」と呼べるものではない一本調子のセリフ廻しでズッこけたのを思い出した。
ただ、やはりマツケンこと松山ケンイチの演技は素晴らしいの一語。あの若さでこれだけ多彩な役柄を、それぞれの映画やドラマでキチンと演じ分けられるという才能は、近年希に見る逸材だと思う。
最近の邦画やテレビドラマは配役を見てほとんど失笑して見ないが、彼だけは別だ。他にも演技派と呼ばれる若手俳優はけっこういるそうだが、彼だけ他次元にいるほど、群を抜いていると思う。
それだけに、戦後生き残った彼=仲代達矢の回想と交互に展開していく最後の散骨シーンでフラッシュバックする、復員してからの戦友の母への息子の死の報告と謝罪、原爆の被害に逢っていた彼女との再会と「別れ」…というところをもっと丁寧に描いた方が良かったのではないか、と思う。
大和の巨大モデルを使っての戦闘シーンはさすがに迫力満点で、確かに日本の「戦争映画」では出色の出来ではあったと思うので、未見の人はレンタルなどで見てもいいだろう。
米軍の戦闘機の「いかにも」CG丸出し、精神的に水兵たちの支柱となるべき重要な役だった一茂の一本調子などが足を引っ張っていたのが残念ながら、マツケンの演技は見る価値がある。

ところで大和の生き残りの水兵さんの証言というのを、もうずいぶん前にドキュメンタリ映像で見たことがあるが、最後、大和がゆっくりと沈んで行く際は、これはタイタニックでも何でもそうだが、人々を一緒に海の底へ巻き込もうとする巨大な渦が起こり、そこから脱出するだけで間一髪、実際にそれで溺死した人もたくさん居たという。そういうクライマックスの「大和、轟沈す」部分ももっともっとそれこそタイタニックばりに丁寧に描いても良かったと思う。雑感。

寝たのは12時半ころ。明日はいよいよ投票だね、と三津子に話しかけ、次に目が醒めたら朝の7時前だった。
また、三津子の夢を見た。このところよく出てくれる。

夢の中で、まさしく寝室の自分が寝ているベッドの脇へ、起きようと思ってごろりと降りると、そこに、つまり俺のベッドの下に三津子が寝ていた。こちらに足を向けるようにちょっとだけ斜めになっていた。
俺は「うわあ、三津子!」と言って、思わずベッドの下から引き寄せて抱きしめて、髪をなでながらわあわあ泣いた。三津子は目をつむってじっとしていた。
俺は「こうやって、ちょっとずつ、俺が心配だから様子を見に来てくれてるんだね、ありがとうね」と言って泣きながら抱きしめ、そして髪をなでた。
いつも、毎朝手を合わせている時、写真の彼女の髪をそうするように髪をなでながらずっと抱いていた。

そして目が醒めたが、俺はもちろんベッドの上で普通に寝ていた。
しばらくそのまま、たった今見た夢について考えていた。
夢の中の自分はあれだけわんわん泣いていたのに、実際は少し涙がにじんでいる程度で、冷静だったのが不思議な感覚だった。
これは俺の願望、つまり「夢でもいいから逢いたい、抱きしめて髪を撫でたい」と寝る前にいつも思っている、その「脳」の記憶が見せたものか。夢とは科学的にはそういうことになるんだろう。でも、それでもいい。夢でいいから逢いたい、つまり「夢を見たい」と願ってそれが叶うのなら、結果的にはそれでいい。
それから少しして、8時過ぎに起きる。

外は晴れていて、それほど気温は高くないようだ、絶好の投票日和だ。
起きて朝のこと…トイレ洗顔、陰膳の片付け、食器やフライパンを洗い、猫に水とご飯、シマが来たのでソフトエサをあげ、三津子に水と氷入りのお茶を出して線香を立てて、いつものように話しかける。今日は「夢に出てきてくれてありがとう」と礼も言った。写真で微笑む彼女の髪を最後に指でそっと撫でる。
それからベランダに出て、バケツを取り水を汲んで苔玉や緑に水をやる。部屋に戻ると猫のトイレにウンコがいっぱいあったので、それも取る。
最近はコツを覚えたというか、猫トイレの一番上はメッシュになっていて、そこに消臭&吸尿の玉を敷き詰めてある。尿は直径2〜3mmの吸水玉に吸い取られるか、通過した場合はその下の引き出しに敷いてある吸水シートに吸われる。糞は通過せずメッシュの上に残るので、シャベルですくって、汚れた周辺の玉も少し取れば、下の吸水シートはけっこう厚めのものと薄手を2枚ずつ敷いているので、交換は4〜5日不要。ユキがトイレの手前に飛ばす尿が少なければ、一週間とは言わぬがけっこう長持ちすることが解った。

今日はこれから10時前に投票へ行き、買い物する予定。

9時半過ぎ、自転車で投票所のある中学校へ行く。中学校の隣にある公園ではリトルリーグか何かの試合をやっていて、親たちも多く観戦しているが、隣が投票所だからきっと投票は済ませたのだろう。
それを横目に西側の門から入り、投票所のある東側の入口に自転車を停め、ハガキを持って中に入る。
この段階ですでに続々と有権者が集まってきており、自転車やバイクもけっこうな数だ。車で来る人はいないようだが、天気もそう暑くはなくちょうどいいせいもあって、人の出は凄くいい。というより、こういう光景は初めてだ。
投票所の受付カウンタで、うちの町内はの番号が下がっているところへ並ぶ。俺の前にはおっちゃんが一人いるだけだったが、7、8人くらい並んでいる受付もある。ハガキを渡して名前と生年月日を確認し、奥へ進む。
まず小選挙区の投票用紙を受け取るが、何と投票する台が足りない。空き待ちで5、6人待ちの列。選挙権を得てからずっと、地方・国政全ての選挙に投票している(一度だけ棄権があったっけ?)が、こんなことは本当に初めてだ。
すぐに空いたので投票を済ませ、比例代表と最高裁判事の信任。最高裁判事ではバツをつけたい判決を出したのが数人いたのを覚えていたが、それをメモしてくるのを忘れたので、仕方なく無記入で投入。といってもどうせ確実に全員信任されるのは解っているが。

投票所を出て、自転車でスーパーで買い物をして戻る。
テレビは8時になるまでは、出口調査の結果などは民意を変えるおそれがあるため、発表できない。なのでどうでもいいような番組しかない。
しょうがないのでリビングのモニタにPC画面を出して、ネットを斜め読みして、本を読む。
そして6時頃から三津子にウーロン茶と酒、俺はビールを開け、ほうぼうの刺身と味噌、九条ネギ、しょうがなどで「なめろう」を作り、マグロブツでユッケ風、大根サラダで晩酌していると8時。
NHKがいきなり「民主300議席超える勢い」と発表。民放も次々と同様に自民の大敗、大物議員の落選の様子を伝えていった。
三津子に「見た? この結果、凄いねえ!」と話しかける。
それにしてもまあ色々と面白い一夜だった。12時半ころまで開票速報を堪能してから寝た。
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2009-08-27(Thu)

完全休養日

8月27日(木)

先日軽く腰をギックリしたので、昨日、今日も完全休養日とした。幸い昨日の仕事はそろそろと注意しながらすぐに終えたので、それ以降ずっとソファに横になったり、そろそろと動く程度だった。

朝のうちにコンビニへ行き、文春と朝のサンドイッチ、夜の総菜とサラダなどを買い、文春読み終えた後はテレビを眺めたり。
メールをチェックすると、中野晴行さんから
「9月の頭に精華大へ集中講義へ行くので、2日か3日あたり夕方会いませんか」とのこと。
こちらはどちらでもいいですよ、と返信。
こんなことでもないと明青さんにはすっかりご無沙汰だ。
明青さんには、京都へ俺たち夫婦二人で引っ越してきてから、いったい何度通ったことか。
そして三津子が逝ってから、どれだけお世話になったことか…。

でも、想像すると一人で飲みに行くのはまだ無理だ。カウンタでオッサンに一人で泣きながら酒を飲まれても、お店は迷惑だろう。
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2009-08-25(Tue)

夢と気配

8月25日(火)

夕べ寝たのは12時前。
今朝は5時ころに目が醒め、それから断続的に寝たり醒めたり。
その間に夢を見た。
三津子と二人でどこかへ旅行へ出かけているが、なぜか泊まったのは旅館か民宿か、割合広めの和室。しかしなぜか老夫婦と相部屋という変な部屋だ。こちらは俺たち夫婦の布団が並んでおり、向かい側に並んだ布団で年寄りはこちらに足を向ける格好でもう寝ている。俺たちはそちらに足を向けるかたちで寝る案配だ。
老夫婦、と書いているが、相手もこちらも足を向け合って寝ているわけで、顔も様子も見ていないが、夢の中で老夫婦だということだけ何故だか解っている。
そして「いびきの大きい人だったら嫌だなあ」「逆にこっちがいびきかいちゃったら顰蹙だなあ」「ケチらないでもっといいとこに泊まれば良かったなあ」…というようなことを頭の中で考えている。

一度その夢から醒めて、アレ、夢を見てたな…と思ってまた眠りに入ったら、夢の続きを見た。しかしその中ではもう朝になっていて、向かいの老夫婦の布団はカラになっている。年寄りは早起きなのでもう出かけたのか、と思って隣を見る。すると三津子が浴衣を着て正座していて、化粧道具を出して鏡を見ながらいつものように顔をはたいていた。
朝の日が差し込む明るい部屋。旅行の時いつもそうだったように、彼女が一緒にいる。俺はそれを見てとても安心して、これから海岸を歩こう、そして今度こそ手をつないだり、腕を組んだり、肩を抱いたり、いろいろしよう…そう考えている。
そしてまた目が醒めた。続きはもう見られなかった。

この夜…というか朝方、5時過ぎから何度かまた下からギシ、というような音を聞いた。先日鍵をかけずに寝て、寝ぼけて玄関が開いたと勘違いした時から、施錠は忘れずにちゃんとしている。猫たちは二匹とも俺と一緒に寝室にいる。
けれど誰もいないはずの下で、何か音がするのだ。こういう場合、心霊ファンだと「ラップ現象」ということになり、自分もそうかも知れないな、と思う。
まあでもこのマンションは昭和の物件なので、「老朽化」とまでは言わぬが、割合にあちこちギシギシと音はする。階段なんかどれだけ忍び足で降りようが、音を立てずに上り下りするのは絶対無理なほどだ。けれど、さすがに何でもない時にギシリと大きな音はしない。
夫婦で一昨年入居した時から、この部屋に「何かいる」的なものを感じたことは一度もないし、そうした現象、不審な音もしなかったと思う。

でも、今は何かいるのかも知れない。
でもそうだとしたら、それが誰か知っているから、怖いどころか嬉しいと思う。

そのままとろとろして、時々足元から枕元にきて甘えるシマをなでたりしつつ、8時半過ぎまでベッドにいて、降りた。
朝のことを淡々と済ませ、夢のことを記録する。


夜は晩酌しつつ、バラエティを久しぶりに見た。
三津子が亡くなってからずっと、おチャラけたお笑い番組やバラエティ番組が見られなかった。一時はテレビすら全くスイッチをつけることもなかったほどだった。なので昔の映画やビデオなどに逃避していたが、百か日を過ぎたあたりからようやく、普通に民放が見られるようになってきた。
今晩見たのはさんまのトークバラエテイだが、坂上忍というタレントの異常さに驚く。この人は「潔癖症」とかで有名らしく、タレントにありがちな「キャラ」演出かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
このような異常な人間が、まるで「潔癖=清潔」でいい人みたいな扱いがもしあるとすれば、異常を肯定するようなものだろう。
彼は最初は恐らく他人より多少潔癖…というレベルから始まったと思うが、科学的根拠によらない過度な潔癖症は、精神的に異常な状態だと言える。
例えば、詳しくはまあ番組のことなので書かないが、合理的な説明、科学的根拠というものに全く依拠しない、つまりは本人の「気分」で「清潔か不潔か」を選んでいるということが良く解る。それはやはり社会的に適合異常ではないかと疑う。
しかしまあ同じ番組で女性タレントが一週間パンツを交換しなくても平気とか、数日なら風呂さえ入らなくてもOKというのもまた、従来の日本人的感覚から言えば異常と言えるかも知れないが。

いずれにせよ、「常識」というものの「範囲」が、どうにも先鋭的な一部の異常者(といったら言い過ぎかも知れないが)の意見で、振幅が大幅に振れているような気がする。そしてそれを増幅させているのがマスコミなのだけど、言葉遣いなんかは確かに時代で変わるし、自分だって人のことは言えた義理ではない。
一応、女性が「おいしい」を「うまい」とか「大きい」を「でかい」とか言うのは違和感がある世代だ。最近はもう若い子らがこういう言葉遣いをするのは「常識」らしいので、それに文句は言わない。
でも「料理人」を名乗る人間で箸を正しく持てない人がいたり、いい年をしてくっちゃくっちゃにっちゃにっちゃ音を立ててモノを食べ、食べながら話をするとか、口の中に咀嚼物を入れたまま大笑いをしている映像なんかを見せられると、やはりキツいな…と思ってしまう。

「時代の変化」で済ませられるもの、済ませていいもの、仕方のないものってあるじゃん?みたいな−。でも絶対無理、てかそこはどんな時代でもアカンやろ、ってのもあんじゃね? と無理して書いてみました。
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2009-08-24(Mon)

軽くギックリ

8月24日(月)

夕べは12時ころ寝たか。たまにはロヒプノールを飲まずに寝てみようとしたら、割合すっと寝られた。ところが目が醒めたら朝5時。もう一度寝ようとトイレへ行ってから戻り、ベッドに横になって軽くうとうとしたら、玄関のドアがバタンと閉まった音が聞こえたような気がして、ハッと目を醒ます。
耳をすますが、階下はその後無音。(我が家はマンション6階で、メゾネットになっており、階段を上がった普通の7階にあたる一部屋が寝室)このところけっこう油断しているというか、目の前のコンビニくらいなら鍵はかけなかったり、夜寝る前に施錠するのをこうして忘れたりする。
まずいな、泥棒か…と思ってそっと起きる。畳から階段の上の板の間に踏み出したところで「ギシリ!」とけっこう大きな音を立ててしまったので、もう忍び足の意味なし。なのでそのままどすどすどすと階段を降りる。
これでもし進入者がいれば、突然の音に向こうもびっくりして何らかの音や動きを立てるはずだ。しかし結局玄関の扉の音は気のせいだったらしい。結局何事もなく、もちろん侵入者の形跡など全くなく、玄関から外へ出てももちろん誰もいない。
そのまま新聞を取って戻り、あらためて玄関を施錠し、結局そのまま起きてしまった。6時になっていた。

今日は晴れ、いい天気になるということだが、予報では30℃。ずいぶん低いな、という感じ。それに、朝だったせいか外へ出ると涼しい風が心地よい。もっとも京都は朝晩の寒暖差がけっこうあるので、日中はジリジリと暑くなるかも知れない。
そう思って着替えて下へ降りる。自転車に乗ってシャーと走ると、やはり涼しいというか、気持ちがいい。通りを気持ちよく下って、いつもと違うコンビニへ行く。本当は向かいの店が売り切れで買いそびれていた週刊文春を買いたかったのだが、先週の木曜発売の号だからもうあるはずもなく、結局何も買わずにそのまま出る。そしてまた別のコンビニで週刊誌数冊とカップ麺やサンドイッチを買って、引き返す。
やはり帰りはゆるやかな登りになっていてきつい。今日はなぜか右膝がコブ状に腫れてる気がして軽く痛む。自転車のペダルを漕ぐとしんどいが、漕がねば帰れない。マンション前の踏切は特に勾配になっているので立ち漕ぎをして、車も来ないので一気に線路を越えてマンションへ戻った。
それからはサンドイッチを食べて週刊誌を読み、9時からはBSでMLB、フェンウェイでのNYYとの最終戦を見る。
それにしてもいい天気で、スカーッと「抜けるような」青空という感じだった。疲れたが。
昼前、冷凍ご飯を温めて、お袋が送ってくれた筋子を切り、目玉焼きを焼き、インスタント味噌汁を作って食べた。

食休みでごろりとして朝買って来た週刊誌を読んでいると、ドアフォンが鳴る。玄関に出て受け取ると、注文しておいた缶ビール。近所の酒屋さんには悪いが、配送料を入れてもネットで安いところを探して宅配してもらった方がお得なのだ。とはいえ飲み過ぎと贅沢は禁物なので、こうして配達をしてもらったらなるべく長持ちさせるように気をつける。
今回は500ml缶24個入りケース2つを1梱包にまとめて送ってくるというもので、送料も1つ分で済む。
受け取った後三和土からヨイショと持ち上げ、冷蔵庫へ少しだけ入れる。たくさん入れて冷やしてあると、調子に乗って飲んでしまうからだ。
それからソファに戻って座り、体勢を変えようとしたら右の後背面にビリッと激痛が走った。
ヤバい、このところの運動不足で、さっきビールの箱をエイヤと持ち上げた時に、背筋か何かがどうにかなったらしい。
そろそろと横になってみるが、痛い。今度はソファにもたれて座るかたちにしてみるが、痛い。
こ、これじゃ動けねえ。しばらくじっとしていたが、今日は仕事もあるので、そーっと立ち上がって、パソコンのある仕事机に恐る恐る向かう。椅子に座ってキーボードに手を置いた姿勢を取ってみると、何とか大丈夫そう。
仕事に支障はないので何とかこなすが、例えば「床に落ちたものを拾うような体勢」になると、とたんに背中というか腰全般に激痛が走る。

思えば4月の末に三津子が倒れてからというもの、当初こそ病院や役所だと動いてはいたが、その後はほとんど買い物以外は外出せず、部屋にずっと居る。運動不足にもなろうというものだ。
たまに自転車を漕いだりするが、それとてT通り程度の「坂」とも言えぬゆるやかな傾斜でさえ、帰りがしんどいほど筋肉が衰えていたか。
本気で電動自転車欲しいなあ、でも高いからアカンなあ、と考えたほど。電動自転車なんかになった日にゃ、逆効果で余計に運動不足に輪がかかるんだろうな…。絶対買えないけど。

この日はそんな感じ(?)で、午後はずっと仕事をしていた。ちょっと面倒な作業があって、時間がかかったが何とか夕方までに終了。
その後、原稿を探してあちこちの箱を確認した時に出て来たCDの箱にあった、ライブDVDを久々に見た。
レベッカというバンドには、個人的に強い思い入れがある(癌宣告前に書いた、恥ずかしい拙記事参照= REBECCAとNokkoのころ )。

このDVDは1990年、最後のアルバム「ブロンド・ザウルス」発売の翌年の、武道館ライブの映像だ。いつ買ったか覚えていないが、一回しか見ていないし、それは三津子が入院中か何かで一人で見たと思う。また結局、一人で見ることになってしまったが。
まさにバンドとしてのレベッカの実力・人気共に頂点に達しており、Nokkoの体もトレーニングの成果もあって絞られていて、しかもセクシーだ。ダンスやファッションなどは、当然20年前のことだから残念な部分もあるが、純粋にバンドとしてのパフォーマンス、サウンド、楽曲、そして何よりNokkoという希有なヴォーカリストの存在は、今見ても素晴らしいものがある。
レベッカは割合早くから(84年の終わりころ)聞いていた方だが、テレビでたまに見る映像以外、意識的に映像を見ないようにしていた。ライヴでのパワフルなパフォーマンスに定評があり、そこから鍛え上げてきた実力派のバンドであることは知っていた。
が、深夜放送(笑)で一度見た当時のNokkoは、男のファンに向けて、やはり「売るための路線」上、意識してステージでのパフォーマンスを行っている…という印象を受けてしまったからだ。
そういう印象を一度持つと、もう先入観を持ってしか音楽を聴けなくなってしまうので、以後、なるべく本人たちの映像を見ずに、オリジナルアルバムが出れば買って聞くだけ、というスタイルでこのバンドに接してきた。
Nokkoはこのステージの前に筋トレというか、体を鍛えているという噂があって、オープニングから激しいダンスを踊りながら歌うという、マドンナばりのステージを見せる。
何せ、90年というとリアルタイムで音声を処理し、観客をごまかすということが「技術的に」追いついていない時代だし、カメラが入っているから口パクも出来ない。もちろん元々ライブで鍛えてきた彼女だから、そんな真似をせずとも天才的な動きと歌を見せてくれるが、とにかくヴォーカルは自分が出すしかないから、当然激しいダンスは危険だ。けれど序盤Nokkoは息を切らすこともなく、踊りをこなし、そして彼女の持ち味のパワフルな声を保っていた。そしてもちろん、セクシーさも醸し出していた。
うーん、これはもっと早く見ておくべきだったな、とVHSで発売されたと聞いた当時、迷った結果買わなかったことを後悔した。しかし今回はテープの劣化のないDVD化だから、まあいいか、と見終わってHDDにバックアップする。
そういえばレベッカファン仲間(笑)でもあるゆうちゃんに、こちらが持っている全CDとあわせて「DVDもあるけどいる?」とメールすると「いる!」とすぐ返ってきたので、CDとDVDをプチプチで梱包して、送る算段。
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2009-08-23(Sun)

また夢

8月23日(日)

夕べは12時過ぎに寝室へ上がり、すぐに寝られた。
そして夜中、また夢を見た。
また三津子が出て来た。このところずっと、自分の枕がどうも合わない気がして、首と肩が凝る。なのでここ数日、彼女の死後もずっと隣においてあった枕と取り替えて寝ていた。彼女がよく夢に出てくるようになったのはそのせいだろうか、と目が醒めて考えた、そしてその時夢の内容を覚えていたのだが、眠さに抗えずそのまま寝てしまった。
次に目が醒めたらもう8時前で、夢の内容はすっかり忘れていた。でも三津子が出て来たことだけは覚えている。

朝のことを済ませて、MLB、BOS−NYY。昨日は20-11でNYYが勝つというという荒れた試合になったが、今日のボストンの先発は田沢だ。それを見ながら洗い物をし、うどん玉を茹でてカレーうどんの元を暖めて、食べながら見る。
田沢はバシバシ三振を取るというピッチングではないが、ヒットは打たれるものの要所要所を締めて、6回まで無失点というナイスピッチングだった。打線の方はバーネットを早々に打ち崩して7点を先取してもらったので、そのお陰で伸び伸び投げられたこともあっただろう。
見ながら猫のトイレ掃除。ゴミ箱の上に段ボールを敷いて「椅子」にしながらやるようになってから、若干楽になった。若干、だが。腹部を折り曲げるようにしてする作業は、やはり巨大化した脾臓にはしんどい。よくあるガーデニング用の座ったまま移動の出来る、車付きの椅子を買おうかと本気で考える。

その後は仕事。
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2009-08-22(Sat)

8月22日(土)

今、朝の5時24分。
これは記録しておこうと思って、パソコンに向かっている。
さっき、夢を見た。
夢の中で、俺と三津子が並んで寝ていた。何故か二人とも裸だった。何気なく左側に寝ている三津子の方へ首を曲げて見ると、その横つまり三津子のさらに向こうにお婆さんの顔があり、こちらを見ていた。
驚いて俺は思わず「うわあ!」と叫ぶと、目を閉じていた三津子が目を開いて隣を見た。俺が「おばあさん?」と聞くと、三津子は驚いた様子もなく、「うん」というように無言で頷いた。
俺は全く恐怖感がないどころか、「おばあさん、お会いしたかったです」と言うと、おばあさんは俺の両手を握ってくれて「話したかったんだよ」と言ってくれた。それからさっき夢から醒めるまで、ずっと両手を握ってくれていた。
目が醒めるとベッドの上で、自分の両手もしっかり握られていた。

当然ながら、俺は三津子のおばあさんには一度もお会いしたことはない。三津子だって、おばあさんと別れてからずいぶん経っているのだ。ただ、彼女の祖父や父親と一緒に飾ってある写真で、もうずっと毎朝見ている。
最初に俺と三津子が寝ていた場面というのは真っ暗で、隣の三津子の向こう側に浮かんだおばあさんの顔にだけ、なぜか明るくスポットライトがあたったようになっていた。だから両目を開けて首をこちらに傾けてじっと俺を見ていた顔が、はっきりと見えたのだ。その瞬間、驚いて叫んだ。怖い、ではなく驚いた。

そこからいつの間にか、場面は大きな窓のある明るい部屋になって、なぜか俺がソファみたいな椅子に座り、両手を握り合っているおばあさんは俺と向かい合って正面に正座をするかたちだった。三津子は俺の隣に座っていた。
前方には外に出られるような大きなガラス戸、右側にはやはりガラス戸の窓があって、両方から日が入ってくる、日中のすごく明るい部屋だった。
気が付くと左手のすこし離れたところに、別の男性も、別のおばあさんか、あるいはおばさんか、女性と同じようなかたちで手を握り合って、腰掛けていた。
三津子はにこにこ笑っていて、嬉しそうに俺にぴたりと寄り添っていた。
おばあさんは「あのね、話したいことがあるのよ…」と俺に言ったところで、なぜかその部屋に不似合いな作業員みたいな男性がガラリとガラス戸を開けて俺に「あのー、もういいでしょうか?」と言い、それから俺たちの体勢を不思議そうな顔で見ていた。
「ああ、この人におばあさんは見えないんだな」と思った。つまり何もない空間に両手を差し出して誰かと話している風情なのだろう。俺たちは両手を握り合ったまま、三津子と別な部屋へ移動することにして、歩き出した。

あ、今思い出したが、この時一緒にもう一人「誰か」が居た。男性だったか女性だったかはもう思い出せない。
次はかなり大きな仏壇のある広間に着いて、そこにはテーブルやソファもあり、俺たちは絨毯の上にじかに座った。仏壇、というよりお堂かと思うほどの立派なものがあり、幅は3m以上あったか、上は天井までが仏壇という不思議な大きさのもので、ちゃんと立派な果物などのお供えもある。
一度も見たことのない部屋だった。三津子から生前聞いていた世田谷の家ではなさそうで、本当に法事をやるお寺さんに来たみたいな、脇にはモノ入れのようなタンスがあったりする、生活感のある部屋だった。強いて言えば、俺の祖父が亡くなった時に法事をやったお寺の広間に似ているかも知れない。
おばあさんはずっと俺の両手を握ってくれているのに、脇のテーブルの上には透明なお酒の瓶があって、おばあさんがそれを「持って来た」ということが、言葉ではなく「理解」できた。
俺たちはすでに服を着ていて、他には先ほどの若い…というか良く見ると短い頭髪にホンの少し白髪交じりの、俺くらいの年齢の男性が一人、やはり誰かご婦人と両手を握り合うかたちで正座していた。
不思議なのは、その男性には小学生くらいの子どもが後ろから首に両手をだらりと巻き付けて甘えるように体重を預けていて、その後ろにはさらに少し小さい子どもがいて、その後ろにもさらに小さな子どもがいた。つまり、その男性は誰かと手を握り正座しつつ、三人の子どもに乗っかられている妙な体勢だった。そしてよくよく見ると、その全員が同じような顔だちだったから、きっと家族なのだろう。
俺が両手を握ってくれているおばあさんに「…あの方も?」と聞くと「そうですよ」とにこにこと笑われた。そしてその男性の方を再び見ると、彼が俺の方を見てちょっと照れたような顔で会釈をしたので、俺も軽く頭を下げた。
男性は立ち上がってどこからかビールを仏壇のあたりから取ってきて、コップにそそぎ、飲み始めた。
俺の両手をずっとにぎって向かい合って正座しているおばあさんに、三津子がやはりどこからか日本酒を持って来た。よくある小ぶりの、ガラスの口がちょっと広がったかたちのコップで、それをおばあさんの横に置いた。

…いかん、こうして情景を思い出しているうちに、もう肝心の「何を話されたか」が思い出せない。
けれど三津子も一緒だったし、俺にというより、俺たち二人に何かを話してくれていた。おばあさんと一緒に俺たちといたのは、もう一人、男性ではなくこれも中年以上の女性だったような気がする。
懇々と、優しく何かを言い含めるような「あのね…、なになには、なになになんですよ。だから…」という話し方だった。それなのに内容がどうしても思い出せない。目を醒ます直前まで覚えていたのに。午前6時0分

この記録をつけてすぐ、三津子の写真と花を飾ってある壁の上にある、「ご先祖様」の写真にも線香をあげて手を合わせた。写真でしか見たことのない、それもずっと前に亡くなった三津子の祖母の写真は、さっき見た夢の中で見た顔のようでもあり、違うようでもあった。

それから朝のことを色々済ませて、仕事。
午後はずっとそれにかかっていた。

朝の夢は、いったい何を意味するのかしばらく考えたが、結局おばあさんの言葉を思い出せないから、考えても解らない。
三津子は俺に何も隠し事はせず、嘘もつかなかった。
彼女の愛は本物であったことは、もう疑いようのないことだ。
おばあさんの夢は、そういうことに関連しているのかも知れないな、と思った。
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2009-08-20(Thu)

精華大やまだ研究室の片付け

8月20日(木)

朝目を醒ましてデジタル時計を見ると「4:44」。思わず苦笑して「三津子ぉ…」と声が出た。その後また少しうとうとした後、7時半頃に朦朧としたままトイレに立つ。このところ割合薬が良く効いて寝られていたのだが、どうにも眠い。
ソファでうとうとしていると9時前にドアフォン。いつもの宅急便のドライバさんで、思潮社さんに送った原稿の宛先が今「建て直し中」とかで、このままだとこちらに返送されてしまうと連絡が来たそうだ。なのでこちらへ一度確認するようにと言われたので、そのまま先方が言う転送先へ転送の指示を出しておいた、という報告。いったん戻されてまた新たな転送先へ…というのは時間の無駄という判断で、こちらも助かった。
結局そのまま起きて朝のことを済ませる。

今日は、先日メールで精華大の教務課に三津子の研究室の片付けへ行くと伝えてあったので、とりあえず朝は面倒だったのでカップ麺で済ませた。
一息つくと今度は郵便局が小包だというので受け取ると、旧知のBunさん(もちろんハンドルネーム)からだった。開けて見たらティファールの湯沸かしの箱で「?」と思ったら中に「また造ったからどうぞ」と、梅酒の入った瓶が入っていた。
昨日、Fさんと久しぶりに再会して、三津子とみんなで舟渡の浮間公園でやった「梅酒オフ」の話もしたのだが、Fさんから聞いて送ってくれたのだろうか、偶然ということはないだろう…。
ありがたく、冷蔵庫で冷やす。氷入れてチビチビやるとうまいんですな、これが。Bunさんありがとう。

それから11時過ぎに、支度をして、精華大の教務課へ「30分くらいで行きます」と伝えて家を出る。メールで伝えておいた学部担当のMさんは今日まで留守というので、直接研究室のある棟へ行くことにする。

外はやはり暑い。まずスーパーまで行き、ゴミ袋、梱包用のエアキャップ(プチプチ)、それから厚手の段ボール箱を3つ買う。ビニルテープやカッターは研究室にあるだろうと判断。宅急便の着払いの伝票は一枚しか家になかったので、それに俺宛の住所を書いた上で、タオルと一緒に持って行く。
スーパーを出てタクシーに乗り、精華大へと告げる。個人タクシーの運転手のおっちゃんは「どうやって行きます?」と言うので「深泥池ぐるっと廻って叡電超えてでいいですよ」と告げる。

大学へ行くのは久しぶりだ。自分の講座は今年2月に終了。それから三津子の講座に呼ばれて「ガロ」やメジャー・マイナー漫画についてなどを講義した。

三津子、いややまだ紫は、数年前に末期ガンのランディー・パウシュ教授の講義「心から伝えたいこと」の映像を俺と一緒に見た時から、
「あなたにも、学生たちに「命の講義」をして欲しい」
と言ってくれていた。

個性よりも流行の絵柄を描いたり、技法ばかりに拘泥したり、あるいは作家性などよりも単に売れれば勝ち…と考えがちな学生たちへ、「こういう漫画もあるのだ」「作家性とはこうあるべきだ」と伝えて欲しい。
白血病という癌に冒されている人間だからこそ、安直に人生を流さず、今という時間を、自分という個性を大事にして作品を創っるようにと、伝えて欲しい。
そのことは必ずしも、大学の方針とは合わないかも知れない。
それに、個性を尊重して貰える確証もなく、逆に、そういう創作を続けることは「荊の道」を歩むことになるかも知れない。
でも、あなたはそういうことをうまく伝えられる人だと思う。

そう言ってくれていた。
そう言いながら、涙ぐんでいた彼女の顔を、忘れない。

だから昨年度に俺が「作家研究」という座学の講座を持ったことを、一番喜んでくれたのは彼女だった。
そして、それがたった一年で無くなったことに、俺よりも一番落胆していたのも彼女だった。
「大学で漫画を教育するということ。」でも書いた通り、俺にはまだまだやるからにはたくさん、伝えたいことがあった。
しかしもうその場は失われた。
そして、やまだ紫という偉大な先達も、精華大学マンガ学部から失われた。
俺の熱意も、もう失せた。

精華大のマンガ学部の教室や研究室のある「自在館」へ着くと、3階はAO入試の最中だった。どうやら実技試験中らしく、受験生は皆黙々と漫画の原稿用紙に向かっている。
教室はオープン教室なので、その横の中廊下をそっと通り、研究室側の廊下へ抜けると、三津子の研究室の前に女性が一人立っていた。
その人が教務課の人で、今日までいつも担当だったMさんが留守なので対応すると行っていたKさんかOさんらしい。らしい、というのは名乗られなかったからで、不明だったからだ。
こちらが「やまだの夫の白取です」と言うとすぐ了解してくれ、鍵を出すともう開けてくれてあった。もう鍵は返却済みだと思っていたらしく、俺が鍵を持って来たと知るとちょっとびっくりしていたので、俺が「…ということは今日、入試で開いてたから勝手に入れば良かったんでしょうか」と言うと「あ、ええ、いや、そうですね」と困った様子だった。そうか、入試中だから開いてるわけだった。
やまだ研究室の入口

研究室に着いたのは12時ちょっと過ぎだったか。
教務課の女性が去ったので、まず暖簾のかかっている入口をデジカメで撮影した。俺がパソコンで打ち出した「やまだ紫」という名前と彼女のキャラクタ「やま猫」のイラストの紙をはがし、ドアの前に置かれた「やまだボックス」と彼女が書いた箱の中から、返却するよう言っておいた本を数冊取り出して、中に入る。
ドアを開けると、彼女が椅子に座って机に向かっているような気がした。
カレンダー

それから中もデジカメで撮影した。彼女が勤務していた時、そのままの状態。テーブル、本棚、ソファ、事務机…。
机の上は彼女が出勤していた時そのままで、壁際に立ててあった本や資料、書類は斜めに崩れている。その手前にノートPCがあって、窓際には彼女が使っていたカレンダーが4月のまま、倒れていた。

机の手前の椅子に彼女が「学校に忘れてきた」と言っていた黒のカーディガンがかかっていた。そのカーディガンを拾って抱きしめると、気のせいか彼女の匂いがするようで、少し涙が出た。
「頑張ってくれて、ありがとうね…。」と声に出した。
小さい体で、病気で、組織に属したこともなかったのに、にこにこと学生たちに接し、病気の俺を心配し、終わったらすぐに俺の元にすっとんで帰ってきた。
ご苦労様でした。ほんとうに、本当にお疲れ様でした…。
研究室の机

泣いてばかりいられないので、気を取り直し、まずは水まわりから片付ける。クーラーのスイッチを入れるが、効きが弱いのか、全く涼しくならない。ドアを閉めて19℃設定にするがぬるい感じ。それでもタオルを出して首からかけ、汗を拭きながら作業開始。
研究室には小さな流しがついていて、そこにはペットボトルが数本置いてあり、一本は中が入っていたので捨てる。意外と片付いていたので、後任の人でも使えるような紙コップや割り箸、プラスチックのスプーン類はそのまま棚に整頓しておき、その他のものは思い切って捨てることにする。
冷蔵庫の中には毎食前と就寝前に打っていたインスリン注射針の他は、「ウコンの力」に麦茶の瓶が一本。それらはよく冷えており、汗だくなので賞味期限を確認してから、二本立て続けに飲み干す。それだけで冷蔵庫はもう空になった。
入口手前のテーブルの上には学生たちの出席票や資料のコピー、書類が雑然と置いてあり、脇にはコーヒー類、緑茶や紅茶のティーバッグ類もあったが、それらも残されても困るだろうと思い、思い切って全部捨てる。
困るのは書類なのだが、もう何年も経過して不要と思われるものは捨てて、成績表や三津子の字が書かれてあるもの、学生のプライバシーに関わりそうなものは何かあると困るので、一応取っておく方向で進める。
ソファの上にも本や書類が積み上げてあるので、それらも整理していく。

本棚も、基本的に上半分には青林堂や「ガロ」系のA5判の漫画や三津子の著作、それから彼女が資料として買ったり持ち込んだ画集などもあるので、それらをキチンと並べ替えて整理する。
上半分のものはこれで、もう大学へ寄贈というかたちを取らせて貰うので、後進に活用して貰えればいいだろう。
帰って来ない貴重な本もたくさんあるが、本と人というのは「出会い」だ。これもまた出会いなのだから、もう仕方が無い。その子が「いい本に出会えた、このまま持っていたい」と思ったのなら、それもいいだろう。
研究室の本棚

下半分は学生の提出した課題の原稿や講義の資料などがあるので、軽く整えるだけで、基本的に手をつけずにおく。
そして、彼女がいつも帰りに学校の野良猫にあげていた、乾燥エサの袋もあった。「本当はいけないんだけど、あの子たちのせいじゃないんだから可哀想」と言って、猫たちの鳴き真似をして呼び寄せ、笑顔でエサをあげていた。学校で履いていたスニーカーもあった。一つ一つが短い間だったとはいえ、濃密な思い出につながっていて、切ない。

事務机の整理は大変だった。机の上は書類や学生の提出物、コピーなどの整理用に買った大きな20個くらい引き出しのついた書類整理棚があるが、その中にももちろん書類やら資料が詰まっている。
それらも、基本的に本と書類と資料を分けていき、本は本棚へ、書類は明らかに不要なものは捨て、保存しておくものは積んでいく。
資料は彼女がコピーしたものは本棚にオリジナルがあるので捨てる。彼女が自ら作成したものはそのオリジナルを保存。成績類、学生の態度へのメモ類はプライバシーに関わることなので安易に捨てられず、いったん保管の方へまわし、大学側で不要と言うならシュレッダーにかけるなりするか、いずれにしても教務に聞くことにする。

とにかくぶっ続けで作業のし通しで、汗を拭き拭き休み無く働くこと約3時間半、部屋は何とか片付いた。
家に着払いで送る遺品や書類などが段ボールに3箱満タン。スーパーで買ってきた箱がちょうど3箱で、いい読みだった。
それと燃えるゴミがずっしり45リットル袋に2つ、燃えないゴミが1つ。ソファや衝立、プリンタ、足元ヒーター、電子レンジなどは不要なのでそのまま置いておき、後任の人が使うか捨てるか判断してもらう。電子レンジなんか一度も使ってないんじゃなかろうか、と思うくらい新品に近い。

研究室片付け後

最後に片付いた室内をもう一度一通り見回して、最後に合掌した。改めて、本当にご苦労様でした、と祈った。

クーラーと電気を消して施錠して出る。入試会場の教室を見ると暗くなっていて、何かのビデオを見せられている風情だったので、中廊下を通るのはやめて、階段で外へ出る。
蒸し蒸しとしていて、暑い。しかも作業をブッ通しでやった後なので、ダラダラと汗が出る。それをタオルで拭きながら本館へ戻り、教務課のマンガ学部担当に行くと、最初の女性はおらず、別の若い女性にいったん片付けは終わった旨、伝えた。
それから学バスで帰ろうと思ったが、全く来る気配すらない。しかも陽があたってじりじりと暑い。仕方がないのでエッチラ坂を登ってまた降りて、叡電の駅まで歩いた。
駅のホームにはどこかの運動部らしい女子高生がギャーギャー騒いでいて、その他にもけっこうな人が待っている。しかし電車の来る気配がまったく無い。かなり待っている風情の人もいる。
いったん座って待つが、とにかく疲れたし暑いので、心が折れる。
もう一度階段を登って本館へ戻り、アオイタクシーの配車を頼んだ。タクシーは数分で来てくれて、ホッと一安心。国際会館手前から上高野、旧大原街道をまっすぐ下がっていつものスーパーの真ん前へ抜けた。たった1290円。これが最短だったのか? …もう、どうでもいいが。

スーパーで野菜類と夕飯に巻き寿司を買って、コンビニで文春を買おうと思ったら売り切れ、帰宅すると4時半。
もうくったくたに疲れているのが解る。
でも、懸案がまた一つ片付いた。いや、片付いたわけじゃないが、一段落はした。今日まで留守という教務課のMさんに今日の報告をし、あとの手配のお願いのメールと、学生だったG君に三津子が預かっているパネルをどうするか聞くメールを出し、この記録をつけている。
G君からはすぐ返信が来た。「今度こそ、飲みましょう」と言ってくれた。そう、俺たち夫婦二人が偶然ばったりバス停でG君と会った時、「今後うちに飲みにおいでよ」と約束したっきりになっていた。
もう5時半だ、お疲れ様…。
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2009-08-19(Wed)

思わぬ再会と、出会い

8月19日(水)

夕べは12時前に寝室へ上がり、1時ころまで色々考えて眠れなかった。朝方は7時ころ目が醒めたが、割合その間はちゃんと寝られた。
その後8時過ぎに起きて朝のことを済ませる。
いただいた花のアレンジを台所でしおれた花を取り、固い給水スポンジのような土台から別の小さな土台を切って、以前取っておいた丸い籠に入れて活け換えていく。こんな作業はもう慣れっこだが、三津子が亡くなる前は一度もしたことなどなかった。少し小さめの籠に花が再び綺麗にアレンジされると気持ちが良い。
だが、男が花をいじるのが愛する妻を失ってから…などというのは、余りに遅すぎる。

洗い物をし、ベランダで苔などに水をやるが、今日も薄い雲がかかっている程度で青空が見えるいい天気だ。朝ご飯を食べて食後は茶を飲み、ザイロリック錠も忘れずに飲む。
お隣のUさんが今日引越のはずだが、予定通り玄関ドアの向こうでそれらしい動きの気配と音がする。暑い中大変だな…と思ったがそういえば一昨年俺たちが越してきたのも9月だった。

その後12時前に携帯に着信があったので見ると、元・ツァイトでお世話になった「さっくりジョン」ことFさんからだった。自分のパソコン歴はもうだいたい15年以上になるが、プログラムやシステムの世界はド素人同然。
90年代、WEB上で動く掲示板のcgiとか、perlなどで何かトラブルや不具合があると彼がアッという間に「さっくり」直してくれるので、いつの間にか「さっくりジョン」というハンドルネームになってしまい、通称化した。
「ガロ」のクーデターでツァイトも倒産し、Fさんも苦労をしたと思う。それでもそれから数年は、ツァイトや掲示板の仲間たちと「オフ会」と称して飲み会をよくやった。
三津子もFさんのことは「ジョンさん」と呼んでいた。思い切り日本人だが。
すぐにかけ直すと、何と今京都に居るというのでビックリ。聞くと遅いお盆休みを郷里の和歌山で過ごして、車で父方のお墓がある福井へ行く途中だそうだ。考えてみれば、ジョンさんいやFさんとはメールや電話ではやりとりはあったが、会って話すのは何年ぶりだろう。
「お昼でもどうかと思って」と言ってくれたのに、まさしくこちらは朝昼兼用のご飯を食べたばかり。じゃあお昼を食べて、12時半ころこちらへ来る、ということになった。

それからちょこっと片付けてソファの猫の毛を取っていると、12時半ちょいにドアフォンが鳴り、Fさんが来る。
本当にもう6〜7年ぶりとかになるか、メガネをかけて髪をほんの少し染めている以外はほとんど変わりがない。おみやげにと、和歌山の梅うどんと梅干しをいただいてしまう。ごちそうさまです。
それから三津子の写真の前に線香を立てて、手を合わせて貰った。
Fさんは写真に手を合わせるとその瞬間少し声を詰まらせて、じっと目を閉じて祈ってくれた。それを見ていたら俺もジンときた。
みんなで焼き鳥屋行ったり、カラオケ行ったり、浮間公園でめいめいが作った梅酒を持ち寄ったり、いろいろ楽しかったことを思い出す。
それから、Fさんや旧知の人たちの近況などの話もする。
なんと言っても、97年の「ガロ」クーデター事件前後の話だが、Fさんは俺と同様に、一部始終を見てきた人でもある。
そのFさんも、「あの事件の当時さあ、『みんながおかしかった』とかさ、『何かちょっと昔の切ない事件』みたいな回想(こちらを参照下さい)されるのってアタマ来るよなあ」と憤る。
思わずこちらも「ねえ、俺らどんだけ苦労させられたか、って」と、今だから笑って言えるが、当時は、本当に本当に筆舌に尽くしがたい辛苦を俺たちは与えられたのだ。
そして、俺がずっと一貫してあの「事件」について嘘いつわりを述べていないことの、Fさんも「生き証人」である。

記憶というのは脳内変換される。時間が経つとあたかも外傷が塞がれ傷が癒えるかのように、記憶は自分にとって優しいものになる。そうしないと、人間の精神は壊れるか、生きていられないからだ。いや、生きて行けるズ太い、無神経な連中もたくさんいるが、とにかくそういう意味でも俺のこの「記録魔」ぶりは有益であると確信している。

とにかく本当に久しぶりなのだが、全くブランクも感じず、楽しく話した。できれば泊まってって貰って一杯やりたかったのだが、今日中に福井へ行ってお墓を掃除して、それから仕事があるので関東まで帰るという。
残念だったけど、Fさんは「また来ますよ!」と言って2時ころ帰って行った。俺は下に新聞を取りに行きがてら一緒に降りて、オートロックなので自動ドアの前で見送った。
思いがけず旧友というか旧知の知人に会えて嬉しかった。Fさんは俺より年長なので旧友というのはどうかと思うが、「あの事件」を共に戦った戦友の一人という意識があるのだ。




その後上へ新聞と郵便物を取って戻ってくると、精華大からの封筒があり、何だろうと開けてみたら中にさらに封筒が入っている。
大学へ届いた俺宛の手紙の転送らしい。

差出人を見たら、千葉大作君のお母さんからだった。

便箋二枚に手書きで、最近ネットを始めたら、俺のブログを発見し、やまだ紫が千葉君の冊子を配ったこと…など、そして、そのやまだが死んだことを知った、ということだった。そして俺の心中を察し、体に気をつけてという気遣いもいただいた。
母子ふたり、夢に向かって送り出した息子を殺人という理不尽な事件で失ったお母さん。いまだ犯人は捕まらず事件は未解決のままだ。
三津子の生前、俺たち夫婦も大作君の優しい笑顔を思い、お母さんの心中を察して涙が出たものだ。そのお母さんが、今はやまだを失った俺に手紙を下さった。香典も入っていた。
こちらこそ、有り難くて涙が出た。
手紙と香典を三津子の霊前に供え、すぐに便箋を取り出して返信を書く。どうにもとりとめがなく長くなってしまったが、それでも、こちらがどういう思いで大作君の事件を思っていたか、やまだがどういう人間だったかを伝える。
今は天国でやまだと二人、好きだった漫画の話をしていることだろうということ。そしてお母さんも大作君と共にあり、俺もやまだと共にある、つまりは皆つながっているのだとお伝えする。

犯人逮捕にご協力ください 0120-230-663
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2009-08-18(Tue)

整理は続く

8月18日(火)

夕べは12時過ぎに起きて、それからは朝までぐっすり。8時前から何度か目が醒めてはうとうと、結局起きたのは10時! こんなに寝られたのは久しぶり…というか三津子を失ってから初めてではないか。昨日、復刊の打ち合わせが一区切りついたので、気がゆるんだのか。それにしても寝過ぎだ。
朝というか昼というかハンパな時間になったが、11時前に冷凍ご飯を暖め、レトルト中華丼をかけて食べる。

思潮社さんに送る『樹のうえ…』の原画をヤマト運輸が持ってってくれたが、「コスモス」連載分のデータを入れるのを忘れた。結局データCDだけを別送することになり、もったいないこと。

MOREのインタビュー原稿の整理はほぼ終わったが、まだスケッチブックや雑記帖の類、日記やスクラップブックなどもある。
スクラップブックを見ていると、81年の「MORE」のインタビューの切り抜きを見つけた。カラーの見開きで、「性悪猫」発刊後のもの。さっそく小学館クリエイティブKさんにデジカメで画像を送ろうとするがサーバーが拒否、ファイルサイズの問題だろうとうちのサーバに上げてURL直打ちで見て貰おうとメールすると、見られないそう。
恐らくブラウザが自動的に縮小する設定になっているのかも知れないと思い、スキャナで取り込んでpdf化してサーバにアップ、これならプラグインでブラウザでも読める。ひょっとしたら「性悪猫」に入れるかも知れないということで送るが、これは後で電話で話して、収録しないこととなった。
それほど「表現」や「作品」に突っ込んだ内容ではないので、敢えて入れなくても…ということになる。それでもKさんは「こういうのは読むのも楽しいので、載せる載せないはともかくまた見せて下さい」と言われる。

その後3時過ぎに着替えて自転車で買い物にスーパーへ行く。総菜、野菜類などここ2日くらいのものを買い、最後に花を買って帰宅。
それからまた整理しながら日記を見ると、90年あたり、急性膵炎の頃の日記などでは、同室のお婆さんたちの様子、看護婦や先生とのやりとりなどが生き生きと書かれている。
身内のことやプライベートなことも多いので発表は差し控えるが、あれからもう20年近く経つのか…と思うと感慨深い。この時、最初に行った病院の医師が適切な診断さえしてくれたら、その後の彼女の健康状態は大きく違っていただろう。
だがもう、過去のことだ。そして彼女ももう、居ない。
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2009-08-17(Mon)

『樹のうえで猫がみている』復刊打ち合わせ

8月17日(月)

今朝は8時半ころに目が醒めた。途中もちろん何度か目が醒めたが、その都度ちゃんとまた眠りに戻れた。眠れずに朦朧と疲れた状態で目覚めるか、ぐっすり寝たなごりで朦朧としているかだと、眠れる方がいいに決まっている。
今日もいい天気だ。

今日は誌画集『樹のうえで猫がみている』の復刊打ち合わせのため、思潮社さんからお二人が来られる予定。なので洗顔などをして、掃除機がけをし、ゴミ袋と畳んだ段ボールを下に出して戻り、次にクイックルワイパーで拭き掃除&ワックス掛け。効率的にてきぱきとこなし、昨日届いていたメールを見ると午後に来られるとのこと。
シャワーを浴びて、一息ついたら11時45分。お昼はおにぎりを2つ、ウーロン茶で食べてしまう。そうしてごろりとしていると、12時45分頃電話があり、担当の編集者Fさんが2時か2時15分頃までにはお伺いできると思います、ということになった。
Fさんは詩の版元さんゆえ「マンガの編集のことは良く知らないので、詳しい人間と一緒に伺います」ということだった。
外はギラつくほどの真夏の青空。昨日より数度高いという。


…5時45分。
約束のほぼ2時15分ちょうどにドアフォンが鳴り、思潮社の女性編集のFさんと、営業のOさんお二人が到着。お二人とも荷物が重そうだったので、まずソファに座って荷物を下ろしていただいて、名刺交換をする。
お土産までいただいて恐縮してしまう。昨日まで出しておいた灯籠がそのままだったので片付け、テーブルの写真と一緒に置いてある花を灯籠を置いていた台に移す。
テーブルを広くして、お二人に冷茶を出し、まず納戸から整理済の『樹のうえで猫がみている』の全原稿を出して、打ち合わせに入る。
これが筑摩版の方、これがCD-ROMで新たに収録したもの、これがその時描き下ろしたもの…と順番に説明していく。
Fさんはメモを取りながら、「原画を見てもいいですか?」と言われ、膝の上に乗せてめくりながら話を進める。

今回、判型はA5上製だと値段も高くなってしまうし、ちょっとでも多くの人に手にとってもらいやすいよう、並製にしましょうということになる。こちらは判型や編集方針には口を挟むつもりはないので、「文庫以外なら」と笑う。
それに思潮社さんの装幀はいつも素晴らしいので、本文レイアウトや装幀などもお任せします、とお伝えした。
また増補するなら、として短歌誌「コスモス」さんの連載があることを、テレビモニタにPC画面を出してリストを見ながら伝えるが、病気の時があって絵が不調な回もあるから、それは見ていただいて判断しましょう、ということにする。
それから世間話ぽく、たまたま昨日本棚から昔のインタビューが載った「広告批評」が出て来たことを告げて見せると、Fさんは一読して「これ、面白いですね、入れましょう!」ということになる。

その「広告批評」1985年3月号は「特集・女はなにを考えているか」という中で、島森路子さんが「聞き手」でインタビュー構成されたもの。見開きで写真がずらりと並ぶ目次を見たら、偶然「やまだ紫」と「井坂洋子」が並んでいたのでびっくり。他には林真理子など錚々たる顔ぶれだ。
「広告批評」自体はもう休刊して久しいので、島森さんご本人に了解が取れれば掲載は可能では、ということになった。
昨日の朝、起きてベッド脇に座ったら目の前の棚にあった「広告批評」。
四半世紀も前の汚れたバックナンバーで、まるで三津子が「これ入れたらどう?」と気付かせてくれたようなタイミングである。

あと、解説や帯などでご希望は、と聞かれたので、やはりここは親友の井坂洋子さんに新たに書いていただけるとありがたい、とお話をする。また、「ガロ」の特集号(93年2/3合併号)を見ていただくと、つげ義春先生のコメントを見て「これをもし載せられたらいいですね」という話にもなる。
その後世間話や業界の話などにもなったが、営業のOさんはキクチヒロノリさんと知り合いというのでビックリした。「読むドラッグ」と言われた単行本『げだつマン』は俺が担当させて貰ったというと、Oさんもビックリ。キクチさんが結婚し、そして離婚したと聞いてこちらがまたビックリ。意外なところで意外なつながりがありますねえ、と笑う。
Fさんは井坂さんが話されていた通り、しっかりした仕事をなさるという印象の方で、Oさんは「ガロ」系にも詳しく、けっこう共通の話題もあって楽しい打ち合わせになった。

4時過ぎ、Oさんはこれから大阪の書店に営業へ行くそうで、Fさんはこのまま帰られるという。お二人とも昨日来られたそうで、思いがけず送り火が見られて良かったです、と言っていた。
こちらは玄関で失礼させて頂き、打ち合わせは一段落。
原画と「広告批評」、「ガロ」の特集号などは併せて発送することにした。

とにかくまた一つ、三津子の仕事が一つ進んだ。
良かった良かった。
あとは大学の研究室の整理だ、まだまだやることが山積しているけど、頑張るよ。
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2009-08-16(Sun)

五山送り火

8月16日(火)

夕べは寝る前にロヒプノールを1錠飲んだ。お陰で途中目が醒めることもほぼ無く、朝7時過ぎまでぐっすり。ロヒプノールは持続時間が長いので、12時ころ寝たせいか、7時ころにはまだ若干朦朧とする。しばらくベッド上で朦朧としたままで、結局9時過ぎに起きた。
今日もいい天気で、送り火も順調に行われるだろう。比叡山に合掌。
今日は時間のかかる作業があったのだが、お盆の最後の日だし、明日にしようということにして、先日整理した三津子の化粧品や香水で使えそうなやつを梱包したのと、ゆうちゃんが「持ってない」と言っていたエッセイ集『東京ノスタルジア』と『満天星みた』の2冊を同梱。小箱に余裕があったので、クローゼットから夏物の綺麗なアロハを出す。これは洗ったら縮んだのか、とても大人の女性が着られるサイズではないが、ゆうちゃんの娘ならちょうどいいだろうと思い、赤い薄手のジージャンと一緒に畳んで入れて、宅急便で送る。

それやこれやでもう3時過ぎ。
今日は寿司の出前を頼んだ。本当は明青さんに料理を頼むつもりだったのにアレコレで忘れていて、ハッと気付いたら2日前だった。明青さんは毎年お料理をたくさん依頼される。どう考えても2日前に送り火の日の料理を頼むのは暴力だ。でも頼んだら無理をして作って下さるかも知れない。その、「無理」を通すことが俺には出来ない。
なので寿司にしたわけだが、今晩はそれで一杯やりながら、送り火をまた「二人で」見ようと思う。
夕方まで時間があったので、買っておいた中古DVDでゲイリー・ムーアを聞く。見終わると5時過ぎだった。

送り火は8時からだから、うちもそろそろ三津子に酒を出して灯籠をつけようと思い、用意をする。
6時近くになって宅配の寿司と茶碗蒸しが届いたので、三津子と晩酌を始める。7時半から京都テレビでは毎年恒例の五山送り火生中継番組もつける。
そうして8時少し前から部屋の電気を消し、送り火中継のテレビ画面と、灯籠の明かりだけにして待つ。三津子の写真の額と、ぐいのみの日本酒を持って南側のベランダへ出て、デジカメのムービーをまわそうか…という瞬間、東山に「大」の文字がぼーっと浮かび上がってきた。あちこちの窓にも人影が見える。誰かが遠くで拍手をしているのが聞こえた。
写真の三津子にも見せて、ぐいのみに「大文字」を映して飲む。去年もこれを二人でやったよね、「これで一年無病息災だ」って言ったのにね…、と話しかける。

しばらく見て、二階へそのまま上がった。寝室の和室は真っ暗だが、そのままベランダへ出る。二階の寝室は熱がこもっていて蒸し暑いが、北側のベランダへ出たら風がさあっと通って気持ちがいい。確か去年もそうだった。
ユキが後をついてきて、ベランダに出せとにゃあにゃあ鳴く。けれどいったん出すと耳が聞こえないので、呼び戻すのが大変だから、可哀想だがガラス戸は閉めた。そうして今度は北東にあたる方角になった大文字を見る。
今年はお隣の角部屋のUさんは娘さんと二人で、じっと並んで見つめていた。お盆が開けたら引っ越されるそうだから、荷造りなど大変だと思うが、いっとき心が安まる光景だろうと思う。
ベランダで三津子の額を写真に撮ったが、ユキが「出せ」とガラス戸の向こうで立ち上がって鳴く。余りにうるさいのでちょっと抱いて出してやるが、今度は離せ下ろせと「うわあにゃあぎゃあ」と鳴くので、結局また部屋の中に入れた。
その時Uさんたちがこちらに気付いたので、「どうもすいません」と軽く会釈をする。ユキを戻そうとしていると奥さんが「ユキちゃんや(笑)」という声が聞こえた。こないだ玄関で少し立ち話をした際、ユキがさんざん甘えたのを思い出した。

それからは松ヶ崎の「妙」「法」がほぼ同時に、しかも一瞬で浮かび上がった。思わず「おお」と声が出る。
送り火の「火床」は五山全て方法が異なるという(by京都テレビ)から、火のつきかた=つまり文字の浮かび上がり方というか、速度も各々違うのだ。
去年、二人でここで座って酒を飲みながら眺めた二文字。
三津子の写真を脇に置き、俺もガラス戸のへりに腰掛けて、写真に乾杯をして、しばらくじっと眺める。今度は北西の方角に舟形が浮かんだ。ぐるりと右手斜め後方に大文字、真正面に法,少し左に妙、そして北西つまり左前方に舟形。
デジカメの画面で撮ると画角の都合で遠く映っているが、肉眼で見るともの凄く近い。特に「法」は松ヶ崎だから、すぐそこのようだ。
ベランダに出たユキ背後ではユキが余りにうるさいので一回自由に出してやると、静かに出て来たはいいが、すぐに西隣の今は誰もいない方のベランダへ、柵の下をくぐって行ってしまった。普通にてくてく歩いて呑気なもんだが、そのまま歩いて端の死角まで行ってしまったらどうしようかとひやひやする。何せ呼ぼうが手を叩こうが耳が聞こえないので、見えなくなったらもうどうしようもない。
そうだ、首輪にヒモでもつけておけば良かった…と思ったらすぐにくるりとこちらを向いたので、手をくるくると廻して誘導するとこちらへ戻ってきた。何とかそのまままた寝室へ戻すことが出来た。その頃にはもう真西の遠くに、文字はさすがに読み取れないものの、「左大文字」の灯りが平面に見えた。

去年もそう思ったが、やっぱりここは凄い場所だ。
大文字から妙・法、舟形までがはっきり見えて、さらに左大文字も平面ながら火が見える。鳥居はさすがに無理だけど、こんな場所は市内でもそうはない。だいたい五山全てをクリアに見られる場所はないのだから、最も素晴らしい場所の一つであることは間違いない。
それを見届けてから、下へ降りて、もう一度、消えかかっている東山の大文字を見て、一年の無事を感謝した。

去年二人で見て、「これで一年安心ね」と言って笑った三津子は逝ってしまった。彼女はきっとあの火に向かって、自分ではなく俺の無事を祈ったに違いない。そういう人だった。
だから今俺がこうして生きていられるのは、あなたのお陰です。ありがとう。
写真と乾杯
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2009-08-16(Sun)

Gary Moore Live at Monsters of Rock DVD、神。

夕方、送り火まで時間があるのでAmazonから届いていたゲイリー・ムーアのモンシターズ・オブ・ロックでのライブDVDを見る。

ライヴ・アット・モンスターズ・オブ・ロック [DVD]

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送り火の日には全くふさわしくないサウンドだが、四半世紀の思い入れのあるギタリストだから許して欲しい…。
高校生の時に最初に聞いた「CORRIDORS OF POWER」でブッ飛ばされたのを思い出す。あれは1982年だから17歳、バンドをやっていた頃で、LPを貸してくれたのはギターのSだったっけ。
1曲目の「Don't take me for a loser」から3曲目の「Wishing well」に至る間に、もう完全に打ちのめされた。
何だこのギタリスト! と卒倒しそうになった、マジで。
そこからThin Lizzyへ遡ったり、もちろんその後のブルースへの傾倒を見せた「STILL GOT THE BLUES」まで全部聴いた。

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2009-08-15(Sat)

朝の本棚

8月15日(土)

前の日働いて(?)疲れたせいか比較的よく寝られて、目が醒めると7時頃。その後もうとうとを繰り返して8時半ころ起きる。
起きるというより、何かがフと気になって、ベッドの脇にごろりと落ちるように降りて、座ったまま西側壁面の本棚をじっと見た。
この本棚は「二階」(メゾネットの和室)を寝室にするために二人で大量の本が入った段ボール箱を片付ける時に、幅を測って壁面に入れたものだ。
東側壁面には背の低い本棚を並べて、ゆくゆくはそこに豪徳寺の招き猫を飾ろうと話し合った。招き猫たちはまだ梱包をほどかれずに、しまったままだが。
二階を寝室にする前まで、玄関の脇にある狭い洋室に二人で寝ていた。四畳半よりも若干狭く、ドアもなぜか内側に開くのでどう測っても普通のベッドが入れられず、仕方なく当座しのぎに折り畳み式のベッドを2つ並べてキチキチで寝ていた。
ところが、今はもう引っ越されたが、西側のお隣さんには幼い女の子が二人いて、毎朝保育園へ行く時にそれはそれはもの凄い声で騒いでいた。俺たちは毎朝、その「騒音」で叩き起こされるのが日常だった。
けれど二階の和室には山のような本の段ボール箱が、引越の時そのままにずっと積まれていたし、それらを整理するのは病人二人には重労働だった。
しかし我慢を続けるのは体に良くないと意を決し、去年の秋ころに本棚をまず買って、それから二人で毎日こつこつ、本の箱を開けては手当たり次第に棚に突っ込んでいった。そして、最後に便利屋さんを呼んでベッド二つを二階へ上げてもらい、ようやく「寝室」が二階の和室となったわけだ。

朝起きて見ているこちら側…西側の2つの本棚は、反対側のものと違い、ガラス戸と手前にスライド式の棚のついたもの。これらは二人で比較的大事な本を入れようと並べたのだけど、結局最後は箱を開けることを優先したので、あまり統一性のないままになっていた。
三津子が亡くなってしまってから、この二つの本棚の上段部分、ガラス戸のついているところには、全て彼女の本を整理して並べた。その下半分はそれぞれ、お互いがランダムに突っ込んだままになっている。
三津子が入れた部分の本をじっと眺めていたら、吉原幸子さんと井坂洋子さんの詩集、河野裕子さんの歌集がまとまって全面に並んでいることに気付いた。それらを改めて判型や著者別に入れ直す。それからどうでもいいような文庫や思いつきで買った本などは出して、比較的彼女も思い入れがあると思われる本を整理して、入れ直した。

そうしていたら、横部分の比較的大判の本を差し込む棚に、アルバムかスクラップブックのようなものが2冊ささっているのを発見した。もちろん三津子がそうしたものだ。
取り出して見ると、1つは次女のゆうちゃんが小学生の頃、俺が「漫画が面白いから描いてみれば」と言ったらいくつか描いたギャグ漫画と、当時の親子のメモのやりとりみたいなものだった。
もう一つは彼女のスクラップブックで、猫の水洗トイレの記事とか、興味があった記事や資料を入れた風情のものだ。

そこに、97年の「ガロクーデター事件」当時の『創』のコピーが入っていた。俺が入れたものではもちろん、ない。これは掲載誌を持っているはずだが、今のところ見つかっていない。
事件当時は篠田編集長が自ら取材に来てくれた。
他のメディアがほとんど憶測や片方=つまりクーデター側の言い分と、想像や勝手なシナリオでこちらに取材もせずにいた中、ジャーナリストとして「正しい」と思った。
篠田さんはこちらの話も聞いた結果、クーデター組の首班であるTと、残った青林堂・ツァイト側で事情を知る俺の双方に「その日のこと」「そこに至った過程」を書くように依頼された。そして『創』誌には、Tと俺の文章が続けて掲載された。
三津子、いややまだ紫は当時から一貫してTらの「やり口」を卑怯で汚いことだと、批判してきた。同調する人は多かったのに、表だってそれを言える人はほとんど無かった。
「正しいと思うこと」を堂々と顔と名前を出して言うこと、その難しさは理解できるが、俺としてはたくさんの人に傷つけられ、失望させられた中で、彼女の存在は公私ともに本当に有り難かった。
その記事のコピーをベッド脇にあぐらをかいて久しぶりに読んでみると、やはり、俺は当時から今に至るまで全く主張も「事実」として語っていることも、ブレていないことが解った。何も間違ったことは言っていないし、少なくとも俺にとっては「真実」とは言わぬが、見聞し体験した「事実」を記述している、と思った。

三津子はこれを俺に見せたかったのだ、今。

なるほど、俺は彼女を失い、いっときはもう「せけんなどどうでもいい」と思った。
はっきり言うと、まあ「死にたい」という心境だった。
彼女の居ない世界で一人生きて行くということが、どうしても想像出来ず、そして自分には出来ないと思った。
しかし俺が白血病を患い、彼女はその俺の命が一日でも長く続くことを願っていた。自分も健康ではないのに、常に俺たちはお互いにお互いの体を心配してきた。
だから、その俺が「死にたい」と思うことは、何よりも一番彼女を悲しませることだと、俺は理性で自分を立て直した。
まず、彼女の心に応えて頑張って生きること。そして彼女の優れた作品を後世に伝え、遺す作業をすること。自分には役割がある、それまでは死ねないと悟った。
だから、「ガロ」のクーデター事件や過去の日記などは、俺にとってもうどうでも良く、実際に97年からずっと開示してきた俺の日記つまりクーデター事件当時の詳細を含む日記や、当時の状況をリアルタイムで実況し続けた掲示板のログも、全てリンクを切った。
もう、人を憎んだり、怒ったりしたくなかったからだ。
でも、彼女は「それは違うよ」と言っている。俺は何も根拠もなく怒ったのではない、俺は間違ったことはしていないと言ってくれている。正しいと思い過ごしてきた日常の記録を抹消してしまうということは、俺たち二人が過ごした日々の否定になる。

リビングへ降りたら9時をまわっていた。
それから改めて洗顔ほか朝のことを済ませ、おにぎりで朝ご飯。今日も外は青空に白い雲。明日はもう盆の終わり、五山送り火だ。東山の大文字を見ると、何やらもう文字にそって火を灯す準備が整えられている。毎年、ああいう人たちは偉いな、それをただ「わあ」「綺麗」とか言って見ている人たちは、あれを真夏のさなかに斜面を駆け回って支度をし、時間通りにちゃんと点火する人たちの伝統を守る心と、信心にもちゃんと感謝してあげて欲しい。
京都のまちの人たちはもちろん知っているが、何かただの花火のような「イベント」と思っている人もいるらしい。まあそう思う人たちには、それだけのことなのだろうけど。

今年の「送り火」は、三津子の初盆になってしまった。あれら五山に灯される壮大な送り火が、我が家の「送り火」にもなる。
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2009-08-14(Fri)

壁に絵を飾る

8月14日(金)

昨日は低気圧だったのだろうか、一日腹が苦しかった。脾臓の腫れで外気圧の下降がする解る。人間の体の約七割は水分。外気圧の影響はバカにならないと思う、いや実感する。
今朝は朝方5時ころ目が醒めて、その後は寝ているというより朦朧として浅い眠りのまま、夢をたくさん見た。もう忘れたが。

結局起きたのは9時近くで、最近としては遅い方だった。
朝のことを済ませて一息つくと、9時半ころ携帯に行政書士さんから着信があった。かけ直すと、何と確認ミスで完了したはずの手続きがまだとのこと。こちらのミスではないので、引き続き進めて下さいとお願いする。その後三津子の姉、つまり義姉にすぐ電話をいれるが出ない。30分ほどしてもう一度電話をするが出ないので、旅行だろうかと思っていると、折り返し電話があった。
お姉さんは「電話の呼び出し音を小さくしていたので気が付かなかった」とのこと。なので、これこれこうなんです、と事の次第を報告。
その後こちらの様子を「どうですか」と聞いてくれたので、最近は原稿整理もだいぶ片付いてきた、ただ大学の研究室の整理もあるし、こういう手続きもまだ残っているのがあるから大変だとちょっとグチっぽくなってしまった。
それでも、やることがあるという事は張り合いにもなるし、寂しさを紛らわすことにもなるので、と話す。それは本当だ。今はこうしてバタバタと忙しい毎日なのだが、それやこれやが落ち着いてしまったら、俺は彼女の居ない「日常」を、どう過ごすのだろう。
お互いまだまだ寂しいですね、と話して、手続きなどの件もお願いをして切る。

その後、あとは俺が走り回って終えるはずの手続き書類を、いったん返却するため、全部エクスパックに入れる。ポストに投函するため着替えて11時過ぎに外に出た。
マンション下にゴミ袋を捨ててからポストにエクスパックを投函し、それからコンビニへ行く。今日も陽射しが凄いが、この前までの梅雨どきのような湿度がなく、真夏のじりじりくる本物の(?)暑さだ。
おにぎりとサンドイッチ、夕飯の弁当、料理用の赤ワインなどを買って帰宅。調味料類は「もう二度と料理なんかしないだろうな」と思い、けっこう捨ててしまった。何せ、三津子が倒れてからいったん冷蔵庫を発作的に全て空にしたくらいだった。一週間ほどほとんど食べられなかったのを、心配した明青さんや井坂さんなど、心配する方々に救われた…。
今は、ちゃんと食べないと心配していた三津子に叱られる…という思いで、料理というほどではない簡単な調理はするようになれた。
昼は結局サンドイッチと缶コーヒー。その後トイレへいくと便が真っ黄色だったのでギョッとする。が、すぐ昨日作ったカレー風味のもやし炒めの色だと思い出して苦笑い。
先だって、ちょっと無理をしたら嫌なことになったので、それからは排便の度にちゃんと確認することにしている。尾籠な話ですいませんが。
午後はMLB、シアトルでのヤンキース戦を見て少し休む。C.C.は相変わらず絶好調で、ポサダやAロッドが休みで松井が4番DHに座ったが、4安打2HRで5打点、結果NYYが11対1で勝つ。松井の2本目のHRはライトに上がり、フェンス際でイチローがハイジャンプを見せキャッチするか…と思われたら寸前にファンのグローブがキャッチでHRとなった。イチローも憮然としていたが、ああいう「ここだ」というギリギリのプレイ、野球の醍醐味みたいな場面を邪魔するのは、本当に無粋な野郎だ。


さて、ようやく原稿の整理もほぼ終わりが見えた。
ただ『夢の迷子たち』収録作品まるまる全編がどうしても見つからない。押し入れの箱から何から全て見たし、もう原稿が入る大きさの箱で未開封のものはない。
間違って捨ててしまったなんてことがあり得るだろうか、可能性としては、蓮根の二部屋と赤羽の「仕事場」を統合して舟渡へ越す時の「地獄の引越」時に、不要物に紛れたのだろうか、だとするともう絶望的なのだが…。返却して貰ったのは確実なので、こちらの問題である。もし復刊できることになったら、最悪の場合は本から起こすしかない。とにかくもう一度、全ての箱を調べよう…。
階段の下の納戸へ箱改めて整理を終えた原画の箱を綺麗に収納し、全てを入れ終えるとやはり腕と腹が少しジンジンした。何をやるにしても、病人にはしんどいことが多い。
一息ついていると、お隣のUさんが「檀家さんにお配りしてるものです」と、お香を一箱下さった。Uさんのご主人は詩仙堂近くのお寺のご住職だ。お盆明けには引っ越されてしまうが、この階も寂しいことになる。

その後は納戸の手前に雑然と積んであったものも片付ける。三津子が生前、いつも座っていたソファの周辺に置いていた、薬や化粧水などが入った箱や袋。
そして、倒れた後に病院へ持って行ったもの…。
三津子が意識を無くし、ただそこで「生かされているだけ」という状態の時に、顎や首をささえるために丸めて置いたタオル、顔に塗った化粧水。それらはどうしても捨てることが出来ない。見るだけであの辛く悲しい時間を思い出し、涙がにじむ。とりあえず別の紙袋へまとめて今は物置とクローゼット部屋と化した洋室へ移した。
それから使ってもいなかった古い化粧品や薬品類は、思い切って捨てる。つい最近買ったばかりの香水や化粧水はエアキャップにくるんで箱に入れた。それからハンディ掃除機で綿埃を吸い、ついでにそこらも片付ける。

壁に絵を飾るそして、かねてからやろうと思っていたのだが、ソファの壁面に三津子の絵を飾る作業をする。
ソファの背面、真っ白な壁紙の広い壁面は正月のお札以外は何も飾らず、スカーッと広いままなのが気持ち良かった。でも今はそれが寂しい。だから彼女の絵を飾ろう、と思った。
まず天井からの距離を測り、端と端に画鋲で印をつけ、メジャーを使って等間隔に3カ所、フックを打ち込む。
それから残っている額装した水彩画のうち、横画面の猫を3つ飾った。ベランダ側から順に「もの想い」「眠い」「青い瞳」の3枚。
やまだ紫の描く猫。ポストカード大の水彩画はいい味を出しているが、これまでに描いた絵はもう全てファンの方の手に渡っている。どなたがどの絵を買われたかはメモしてあったはずなのに、なぜかそのメモが見つからない。もう手元にはこれらを入れて数枚しかないが、たくさんの漫画や原画が残っている。

それやこれやをしていたらもう夕方になった。
西日と夏の青空のグラデーション。今日は原画の重い箱の移動やらいろいろ力仕事もしたので、少しくらくら目眩のような症状が久しぶりに出た。まずい、ちょっと今日はもう休まないと。午後5時51分。
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2009-08-13(Thu)

初盆

8月13日(木)

夕べは12時過ぎに寝たのに、今朝は5時前に目が醒めてしまい、どうにも寝られずに起きてしまう。外は薄曇りで雨が降りそうな天気。
リビングに降りて、朝のことを一通り済ませてから、テレビをつけて見ていると眠気が来るような気がしつつも、やはり寝られない。薬を飲んでもう一度寝ようかとも思ったが、6時前という時間を考えてやめておく。
テレビを見るが全く眠くならないので、7時過ぎに一度着替えて新聞を取りに行きがてら、コンビニへ買い物に行く。
お盆に入った早朝ゆえ、さすがに車の通りは少ない。ゆっくり道路を歩いて渡りコンビニへ…と思ったらタクシーの空車がけっこうなスピードで近付いてきて、慌てて早足で渡る。早朝のお盆で空いている道、車の方も歩行者が横切るということを考えていないわけだ。ていうか信号を渡れよと思われるだろうが、コンビニ前の信号は「点滅信号」で、普段から近隣の人は皆そこらを車の切れ目を見てホイホイ渡っているのだ。
コンビニで暇潰しの週刊誌類と朝の卵サンド、パックの「白バラコーヒー」、足りなくなったゴミ袋などを買ってすぐに戻る。パンを食べて新聞、週刊誌と読んでいくが眠気は来ないままだった。

その後郵便局がエクスパックを届けに来たので受け取ると、行政書士事務所から。いろいろと手続きがあることの関連書類。この「手続き」が詳しくは書かないがけっこう大変なのだが、それらと平行して復刊する単行本の手配、原稿・原画その他の整理、大学の研究室の整理もしないといけない。
考えるだけで頭がクラクラしてくる…って本当に貧血ぎみなのか目眩なのか、頭がクラクラする。
とにかく他の人に任せられない、いや、任せるとその都度お金がかかる。そしてここは京都、親戚もいない。

それから階段下の納戸を開ける。ここに収めてある原稿や原画などの主な段ボール箱は全て開封し、新たな封筒に全て出来るだけ詳細に摘要を書き入れて整理をした。
年内復刊の単行本に収録のものを優先して整理を進め、その他の主な作品類はほぼ終わっているが、まだ未整理のものもある。それが気になったので、それらを出して整理を始めた。
前に一度重要な原稿がないかは確認しておいたものなので、あとは新しい封筒に摘要を書いて移していったり、返却時に乱暴に入れられているものをきちんと保護したり、揃えたりする。

三津子・やまだ紫が毎日新聞で連載していたイラスト&コラム『お勝手に』が最初の単行本になったときの、カラー原画や描き下ろしのモノクロカットが出て来た。
この時の花束を持つ「お母さん」の絵が大好きなので、いったん高解像度でスキャニングしておいた。それから新しい封筒に整理していくが、内容確認で単行本『お勝手に』(最初の上製本の方)を取り出して少し読む。
今読んでも鋭い指摘や示唆に富むコラムで、面白い。内容が深刻に思えるような場合でも、軽妙なイラストがそれをうまく和らげていて、独特のいい味を出している。これが文章だけの人や、漫画だけの人には出せない「味わい」だし、やまだ紫という「作家」の優れた才能でもあると思う。

ちなみにこの時、俺はカバーデザインと本文レイアウトもやらせてもらった。実は、本文は今定番のアレとかソレではなく、あのPC-98シリーズ用の国産名DTPソフト「JG」でDTP出力したものだ。
高解像度でのスキャナがなかったので、イラストだけは出力した印画紙に指定で入れるという変則的な方法をとった。というより、当時は漫画が完全DTP化されることは難しいのではないか、という時代だった。技術的な問題とハードの能力の問題で、繊細な細いタッチはやはり従来の製版印刷の方法でないと無理だったのだ。
データ入稿した出力屋さんで、各頁が連なった状態の印画紙ロールを受け取り、それを見開きごとにトンボを打った状態で切って行き、束にする。
各々のページに入れるイラストは製版で入れるしかないので、アタリ用に全部コピーを取ったのと一緒にそれらを持って、竹橋の毎日新聞社へ行って作業をさせてもらった。確か校正室を借りて作業をしたんだっけ、と思い出す。大詰めの頃はもう初冬だったか、皇居のお堀に冬の青い空とまぶしい陽射しが反射していたのを記憶している。
1996年の暮れに本が出たので、もう12年以上前になるのか…と感慨深いものがある。カバーには彼女のキャラクタ「やま猫」の置物の写真を使った。これはどこかで買った紙粘土の猫の置物をベースに、彼女が紙粘土で耳などをアレンジして、「やま猫」カラーに色を塗った。
「あれ、気に入ってるんだから絶対返して貰ってね」
と言われていたのに、結局返却はされぬままになった。本が出来た安堵感から、ゲラやイラスト一式を返して貰ってすっかり全て返却済みと思い確認を怠った俺のミスである。
人形を返して貰ったという記憶がない。原画類はすぐに自宅へ持ち帰ったが、版下やゲラは勤務先にしばらく保管していた。俺は当時青林堂の親会社であるツァイト(「JG」の開発・販売はここだった!)へ移籍して、そのまま「ガロ」の担当箇所を編集していたが、その時の自分の机の引き出しに入れていたと記憶している。
翌年の夏、あの「ガロ編集部クーデター事件( 顛末日誌はこちら )」が起こって、何もかもがメチャクチャにされてしまった。猫の置物はその後、結局見つかることはなく、今に至っている。
何度も繰り返しているように、クーデター組の動向や報道の様子、こちらの受けた被害等は当時逐一掲示板に「生中継」しており、ログもそっくりそのまま保管してある(GARO Board LOG1997)。
当時は今に比べればインターネット普及率も信じられないほど低かったので、彼らの主張=
「青林堂はヤクザ(のような人物)に乗っ取られた、
山中は海外へトンズラした、
白取は金で転んでそいつと新しい「ガロ」を始める、
自分たちは長井さんの「ガロ」を守るために原稿を持ち出して保護し、身を隠す…」

という、まあ今にして思えばそれこそマンガ(笑)のような主張が取引先や書店、取次、マスコミに至るまで極めて計画的にバラ撒かれ、そしてそれが「そのまま」鵜呑みにされたわけだ。
いまだに、この突飛なシナリオを信じている人さえ居ると聞く。というか、漫画批評家や研究家と称する人たちで、ここら辺の事情を全く理解せぬまま「ガロ」を総括したり批評している人が居るようだけど、ちゃんと普通に考えたり、ちょっと調べたら解るのに…と思う。
まあ今もし、あんな行動と「言い訳」をしたなら、差し詰め2ちゃんねるあたりで「祭」だワッショイ状態、ぼこぼこに叩かれ「メシウマ」となっただろう。そうして果ては「痛いニュース」掲載か(笑)。

事件当時、「やまだ紫先生」は「ガロ」の古参作家では唯一、俺の連れ合いであったこともあったが、「正論」を貫き通した。
「新しい出版社を興したい、そこで自由にやりたいという気持ちは解る。しかしやり方が間違っている」と。

彼女にお世話になった人間もいるのだから、今は「やまださん」に手を合わせ、お詫びの一つでも言ったらどうなのかと思う。どれだけ俺たちが傷つき被害を被ったか、彼女がどれだけ哀れな「ガロ」の末路に心を傷めていたかに、少しは思いを馳せてみたらいい。それでもまだ舌を出し、我々へ嘲笑と非礼を続けるのなら、まあ死ぬまでそうしていればいい。
裁きは誰にでも必ず、訪れます。

ある人間は、俺が「デジタルガロ」の「編集長」という肩書きが欲しいがために欲を出して失敗した、そしてそれが「ガロ」を崩壊させたのだ、と中傷した。その人が編集していたエロ本か何かに、つまり「メディア」にそう書いた。
何のことはない、その人間はクーデター組と昵懇であり、裏でつながっていて、グルというか「一体」であったことが事件後に判明した。逆にこっちが「そういうことだったのか」と思った。
その上、俺たちがその人に発注したWEBでの仕事のギャラを払わないと、自分たちで潰しにかかった会社から「債権」を取り立てようと別の人間を立てて「サルベージ屋を呼ぶぞ」と脅しまでかけてきた。
俺はまだその人間がグルだと知らず、謝って待って貰おうと話そうとしたが、当時社長だった人に「君は経営者じゃないんだからそういうことはしなくていい、逆に出ていくと面倒なことにもなるよ」と言われて、忸怩たる思いでいた。
それにしても、その人間は俺よりも先輩で年長だが「やまだ紫先生」には新人の頃から公私ともにそうとうお世話になったはずだ。せめて彼女には、心から謝罪し、赦しを請うべきだと思う。なぜなら、その人間は、温厚なやまだが珍しく相当に憤慨していた一人だからだ。
言っておくけど、あなたは、彼女に、赦されていませんでしたよ。その他の人もね。


ところで原稿を整理していくと、とにかく担当していた編集さんによって、管理が雲泥の差であることが解る。
ある媒体から返却された原画には、担当さんの丁寧な礼状が添えられており、原画はキチッと厚紙で宛て紙をし、トレーシングペーパーが綺麗にかけられていた。封筒には媒体名もちゃんと記載されていて、なおかつトレーシングペーパーには「何月号」という記入もあるので、整理する側としては非常に助かった。それに、何よりも保管状態が素晴らしくいい。
ところが別なところからのものは、封筒こそ厚紙の大型のものだが、中に乱雑に原稿を「放り込んである」状態で、しかも媒体も何も不明どころか、あまりの悪筆で担当者の名前さえ読めない。しかもそういう編集に限って、ご丁寧に原稿のネーム(フキダシの中のセリフやナレーションなど)を全て消しゴムで消してくれている。

あのね、作家が書いたネーム=鉛筆書きのセリフを、消しゴムで、消したら、絶対にいけませんよ!!

漫画家が執筆した時に書き入れた「鉛筆書き」が許可なく消されてしまったら、その作品が掲載された「媒体」が無いと、永久に「ストーリー」が解らなくなってしまう。原稿を返却されても、媒体が保存されていなければ作家でさえ一語一句再現するのは記憶頼りとなり、増して、作家が亡くなってしまったらもう「お手上げ」だ。
こんなことはあり得ない初歩中の初歩的なミスである。致命的に作品を傷付けるミスでもある。何せ、台詞やナレーションが全て「無」なわけだから、もう作品として成立しない。
掲載された媒体があれば再生させられるが、こういうトンマな編集の場合、当然のように何ら礼状もなければ、原画にトレペもかかっていない。そして何という媒体の何年何月号に掲載した、という手がかりも皆無。しかも、枚数や順番の確認もせずに原稿を放り込んだだけ、という風情である。
漫画の原稿って、世界にたった一枚しかないオリジナルなんだよオイ。

先に書いたように、漫画の原稿というものは繊細な「画稿」なので、長くDTPは不可能だった。当然ながら低解像度では印刷に耐えられずモザイクのようなガタガタの線になるし、高解像度で取り込むと、ハード面でとても採算が合わなかった。十年ちょい前で、1GbのHDDが10万円した。タイプミスではないですよ。
今ではスキャナも高解像度になったし、そのデータを保存するストレージの容量も格段に上がった。原画をいったん取り込んで、そこに直接ネームを載せていくことが出来るが、それはようやくここ十年くらいの話だ。
それまでは作家さんからいただいた「原画」にマニュアルで写植を直接貼り込むのが当たり前だった。「ガロ」時代のある作家さんは「原稿に写植を貼られたくないから」と、自分でセル(透明度が高く、薄くて強度のあるシートのこと、昔のアニメは全部これに色を塗って動かしていた)を上に貼って入稿してきたが、それは極めて特殊な例だった。
写植指定はトレーシングペーパーをかけた上からか、あるいはコピーを取ってそれに入れるのが、まあ「丁寧な仕事」と言えよう。
ちなみに「ガロ」の場合、というか俺が勤務していた頃はコピー機すら無く(出版社なのに!)、コピーは一枚いくらで会社の前のコピー屋さんに取りに行かねばならなかった。それに貧乏な会社だったのでコピーどころかトレペだって、よほどのことがない一作ごとに一枚ずつなんてとても使えなかった。
なので、「ガロ」は原画に青鉛筆(青は製版で出にくい色だ)で「指定」を入れるのが普通だった。今にして思えば、「ガロ」ならしょうがないや…と思うが、作家さん側に立てば「『版下』扱いかよ」ということになるだろう。

それにしても、彼女の原稿を整理していると、本当に幅広い媒体で仕事をして来たんだなあ…と改めて感心する。いや、敬服する。

漫画雑誌はもちろんのこと、婦人雑誌だけでなく、一般週刊誌や新聞から詩の専門誌や短歌誌まで。漫画だけではなく文章やイラストだけというものも含めれば、その多方面への活躍に、凄い才能の人だったと、失ったことが惜しまれてならない。

夜は初盆の迎え火に、昨日もつけた灯籠をつけた。
迎え火
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2009-08-12(Wed)

百か日

8月12日(水)

夜は良く寝られた。
今朝は7時頃から目が醒めていたが、起きたのは8時過ぎ。
スカッと晴れたいい天気で、比叡山の山頂まで良く見えた。合掌。
下に降りると猫のゲロ跡が2カ所。トイレ・洗顔の後まずそれらの掃除。

その後は洗い物を軽くゆすいで食洗機にかけ、花の水を替えて活け直したりして、三津子に氷入りウーロン茶と冷たい水をおちょこに入れて、線香3本でお祈りをする。三津子に毎朝毎朝手を合わせ、写真を見ながら語りかける。涙が少し出る日もある。


もう、今日で百か日なのだ。

花を一通りしおれたのをとって活け換えて、今日は百か日だからあとで花を買って来よう…と思っていると、ドアフォンが鳴る。出ると
「お花の配達です」とのこと。
三津子、いや「やまだ紫」のアシスタントをしていただいたこともある、Nさんご夫妻からだった。
三津子に見せて「君は花が絶えないね、人徳たね…」と話しかける。「初盆に心ばかりですが」とカードが添えられてあった。ありがとうございます。

それから少しすると、今度は郵便局がポストに入らないからと、冊子小包を持って来てくれた。
先日ネットの古書店で青林堂版「しんきらり」の正と続があったので、注文しておいたもの。いわゆる「正」の方は綺麗ではないが、一応十数冊保存してある。けれど、「続」の方が実はたった一冊しかない。なので、2冊揃いで2000円+送料という価格は良心的だとも思い、発注したのだ。
さすがに二冊とも天地、小口(本文が露出している三カ所)は日焼けしているが、「続」の方はカバーがとても良い状態だった。うちで保存してあるものよりも遥かに綺麗だったので、そのままビニールに入れたままにしておく。
「正」は背の上部にテープの貼り跡のような茶色い汚れがあったが、カバーの汚れは基本的にPPがあればアルコール綿などで丁寧に拭き取ったりして、かなり改善されることを知っている。「続」の綺麗な状態のものが揃って、良かった。

それから11時過ぎに自転車で買い物に出かけた。
川端の大きなSCの方へ…と思ったが、この時点で陽射しがけっこう出て来たので、結局いつもの近いスーパーに裏から入る。
まず4階で洗剤の詰め替えなどを買って、食品売り場で今日明日のものを買う。
最後にピンクと黄色の「すかしユリ」を一本ずつ買って自転車にまたがるが、前籠に食品と花、ハンドルに洗剤類で、駐輪場に着く頃には汗だく。ほんの数分だというのに、いやはや京都は今日も暑い。
ポストから新聞を取り、部屋に戻って冷蔵庫に買って来たものを入れて、ユリを花瓶に活けた。本当はひまわりを買ってきてあげたかったのだけど、売っていなかった。
それから昼を食べて、すぐに仕事をする。

迎え火の灯籠
昼過ぎ、こないだネットからお盆用に注文してあった灯籠が届いたので、さっそく梱包をほどいてつけてみた。
ちょうちん型のはよくあるが、三角形で中に電球が入っているタイプにした。ほんのりと明るく優しい光。明日の迎え火までに間に合うか気をもんだが、ちゃんと発送してもらえて良かった。
それに今日は百か日だから、夜はこれを灯そう。

その後1時半ころだったか、隣のUさんが来週引越しされるというので、ご挨拶に来られた。三津子に花と、俺には缶ビールをいただいてしまった。玄関先で「寂しくなりますねえ」と少し立ち話。そのうちユキちゃんが出て来てお愛想をしたり、15分ほどお話をさせていただいた。
この部屋に入ると決めた一昨年の夏、決めてになったのは「2階」つまりメゾネットに上がって北側のベランダから見えた景色だった。真正面に送り火の一つ「法」の字が見えるという素晴らしい立地に、当初予定より少し予算オーバーだったのだが、決めることにした。
それ以前に見ていた部屋は紹介店が違っても結局重複していたり、あるいはもの凄く古かったり辺鄙なところだったりで、「ペット可」物件が賃貸ではいかに少ないかを思い知っていた。そこへこの部屋だったので…というような話をしたら、Uさんのところも全く同じだったという。
Uさんのご主人はお寺さんなので、これからはお寺の近くにあるマンションへ引っ越しされるそうだが、これでこの階は一番端の若夫婦一家と俺だけになってしまった。
俺たちが一昨年引越て来た時に、川端の大きなSCで夫婦で選んだタオルのつめあわせを持って「ご近所」にご挨拶をしたのは、両隣と真下の部屋の人たちだ。真下のご一家はアメリカへ転勤が決まって出られたし、もう一軒のお隣さんは何だか急に挨拶もないまま引っ越された。
これでUさんが引っ越されると、俺たちが引っ越してきた時の「ご近所さん」が全戸居なくなるということになる。こんなことってあるのだろうか。
真正面に見える妙法の「法」とは、人智の及ばぬ決まり。
俺もここをいずれ去るだろうが、その時は…。

ビールを冷蔵庫へ入れ、いただいた花をさっそく花瓶に活けた。
本当に花が絶えないひとだと思い、改めて写真に合掌する。
百か日
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2009-08-10(Mon)

原稿の追加と写真を発送

8月10日(月)

夕べは12時ころには寝たのに、夜中に何度も目が醒めた。その都度変な夢ばかり見たが、三津子は出て来なかった。朝方5時過ぎからはもううとうとと朦朧を繰り返し、寝返りばかりでへとへと。8時前に起きる。
朝、トイレに行ったあと歯を磨くと、喉に何かひっかかりがあるような気がして吐き気が来る。黄色い色の苦い液体がばしゃばしゃと出た。以前、舟渡に居た頃「緑色」の液体を吐いたことがあるからもう何が出ても驚かない。
洗顔を済ませたあとは花瓶3つ、しおれた花を取り、活けかえたり。お線香をあげてお祈りしたあとは何か食べないと胃が荒れるなと思い、レトルトの野菜スープを温めて食べる。

その後朝のワイドショーを久しぶりに見るが、のりピーこと「酒井法子容疑者」の話題でもちきり。チンピラのような旦那、近年の奇行、そして旦那が連行される時の態度、当初は失踪を装う巧妙な「逃走」と、覚醒剤の痕跡隠し。
世論の同情をいったんは誘導し、自殺の可能性さえ心配させておいて、自分はちゃくちゃくと(恐らくは「専門家」の指導で)体からシャブを抜いていたか。それも、旦那の愛人に子供を預けて。もう、何というか、言葉を失うとはこのことだろう。ドラマや映画でもない、これらのことが事実だということそれ自体にただただ驚くばかり。

10時前、仕事のデータが来たのでとりかかる。
外は雨、今日は夜にかけて台風が接近するかもというので、早めに買い物へと思い、傘をさしてスーパーへ徒歩で向かう。数パックだと安くなる肉類、あとは今日明日のものなどを買って帰宅。
肉類はジップロックに一回分ずつ小分けして冷凍。それをしていたら、野菜を買うのを忘れたことに気付く。豚バラは野菜炒めに入れるために買ったのに、ピーマンしか買わなかった。まあいいか、冷凍ならいつでも使えるからまた今度にしよう。

それから昼を食べて一休みしてから、整理した原稿の袋の箱から「Second Hand Love」を取り出して、発送する手配をする。
昨日、小学館クリエイティブのKさんに、やまだ紫の復刊三冊分の原稿や原画は全て送った…と思っていたが、『ゆらりうす色』の分は表題作だけだったことに気付いた。連載分の表題作だけだと薄いし、ちくま文庫版では「Second Hand Love」を併せて収録している。なのでメールでそう連絡すると「原稿を送って下さい」ということになったのだ。
このたび復刊する三冊には、それぞれを執筆した当時の彼女の写真を入れることにしたので、先日アルバムを見直した時にいくつか探しておいた。
その中から78・9年頃の写真と、81年ころ、83年ころの3枚を原稿に同梱する。
雨に濡れぬように青いビニール袋で丁寧に原稿と写真の封筒をくるんでテーピングしてから、缶ビールの空き箱(笑)を2枚重ね合わせて挟み込むように保護し、やはりビニールテープで頑丈に補強。それから宅急便を呼び、持って行ってもらった。

その後夕方、またしばらく休んでいたブログを更新。気が付いたら外は薄暗く、もう6時半になっていた。
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2009-08-08(Sat)

ゴキブリ退治、原稿整理。

8月8日(土)

夕べ夜中2時半ころ、「コーン、コーン」と柔らかいもので金属を叩く音で目が醒めた。何だろう、三津子かい? と思って半身起こすが、しばらく無音。
俺たちは大きなベッドはいずれ買おうということで、引越後のままずっと折り畳みの簡易ベッドで寝ていた。この折り畳みベッドのマット部分は固くて二人とも体が痛いので、その上にさらにマットレスと敷き布団を敷いて寝ている。金属音はベッドの足を叩く音だ。
ハッと気付いた。
ゴ、ゴキブリがいる。
それを追って猫が手を出し、ベッドに当たって音を立てたのだと、すぐに解った。
電気をつけると、案の定枕元からユキが「にゃーん」といつもように鳴きながら出て来た。こいつの猫パンチの音だったようだ。
と、いうことは、
「奴」はこの部屋に上がってきたわけだ。

すぐに枕元のテーブル上に置いてあるLEDの小型ハンドライトのボタンを押し、ベッドの下に光を入れる。しばらく探索するが、見えない。しかし確実に「奴」は居る、そう思って下に置いてきた「電気ラケット」を握りしめて、すぐに戻る。
明るいと身を隠すだろうと思い、いったん電気を消す。そしてしばらくベッドの上で目を凝らしてじっとしていると、「カサ…」と音がした。どこだ。見えない。
足元の窓際にいたユキが何かを追うような動きをした。居た! ササササと凄い速さで、本棚の脇あたりから反対側の本棚を目指し、ベッドの下へ入った。すぐ電気をつけてベッドの下を覗き込むが、もう見えない。
下の三津子の仕事机の椅子で寝ていたシマが何事かと上がってきたので、シマの「耳」とユキの「目」に頼る。
じっとしていると、シマがベッドの足元、すなわちベランダ側に目を向けた。ユキが何かを発見した。カーテンだ。そう思ってラケットを持ってベッド上を移動し、カーテンのひだを見ると、
居た!
寝る前に見たのと同じ、茶色く首筋に白い線のある、3〜4cm大の奴。スス、スススとカーテンを上へ登ってくるので、狙いを定めてスイッチを押しながらラケットを被せるように当てる。
薄暗い中、ゴキの体のあちこちからパチッ、パチッと白い火花が見える。普通、蚊くらいならこれでお陀仏なのだが、こいつの場合はラケットを浮かそうとすると、動き出す。
1分以上スイッチを押したまま宛て続け、抑えたままスイッチを離してみると、まだ動こうとする。なので再び強めに抑えて、スイッチを押し続けた。何分か続けていると、いい加減動かなくなったが、こいつらの生命力は油断ならねえ。
なので、そのままラケットで上から抑える格好でカーテンの下までずらし、握りの部分に本を2冊重しに置いて抑え、もう一本の大きいラケットを取りに下へ降りる。うちは蚊の大嫌いな三津子のために「一人1本」電気ラケットを持っていたのだ。
それを持ってすぐ取って返し、ラケット2本で挟むようにしてゴキブリを持って下へ降りる。だって触れないし。
そうして北大路側のベランダに捨てて、バケツの水で流すと排水溝へ落ちていった。やれやれ、大捕物であった…って普通は新聞か何かで叩いて終わりなんだろうが…。
もう3時をまわっていたので、レンドルミンを1錠飲み、寝室へ上がり、7時ころまで熟睡。

起きたのは8時頃、今日は少し曇っているが晴れそうな気配。

朝のことを済ませて、何を食べようかとおもったが、とりあえずDVDの返却もあるので、着替えて自転車でポストに投函。そのまま通りを下っていつもとは違うコンビニへ入る。たまには違う店へ入らないと、飽きてしまう。
おにぎり、サンドイッチ、キムチ、糖質0とかいう缶コーヒーなどを買ってすぐ戻る。戻りは北大路に向かってゆるく登りになっており、ちょっと膝がしんどかった。
帰って来て新聞を読みながらサンドイッチとペットボトルのミルクコーヒー。外はいつの間にか晴れて青空。風もないようで、もくもくとした夏の雲もじっと動かない。いかにも暑そうだ。

午前中は調べ物などをして、昼過ぎにおにぎりを食べ、それからは原稿の整理の残りにかかる。
もうそろそろラストスパートだ。今日は筑摩の作品集でいう1と4の原稿の整理。初収録でいうと『鈍たちとやま猫』『はなびらながれ』『空におちる』などで、年代も画風もばらけている。
その中からなぜか、『鳳仙花』所載の描き下ろし「落花生」のタイトル画が出て来た。
こないだ未発表や未完成の古い原稿の中から、紛失されたと思われていた当時のオリジナルのタイトルページが出て来たばかりだったが、続いて『鳳仙花』時に「紛失したので」描き下ろしたのに、それがまた「紛失された」と思われた二枚目のタイトル画だ。
ややこしいが、つまり、これで「落花生」は描かれた当時のタイトルページと本文、さらに『鳳仙花』収録時に描かれたタイトルページが全て揃った、というわけ。
その他、初出が相変わらず不明な作品もけっこうある。特に『鈍たち…』に初収録のもので、「ガロ」発表ではない作品はもうお手上げである。
あと「セブンティーン」掲載、としか解らなかった一作で、「COM」時代のセルフカバーというかリメイク作品「あれは わたしの」が、原稿を一枚一枚見ていくと、柱にアオリが貼ってあり、それを白い印画紙でカバーしてある。
アオリというのは商業誌には付き物の、柱にある宣伝文句などのことだ。(余談だが新人編集者になると、商業誌の場合こういうアオリをけっこう書かされるが、その人のセンスが出るので面白い。)
透かしてみると
「コミックSTは偶数月18日発売です!次号は2月18日発売」と書いてあるのが読める。
つまり、これが掲載されたのはその前の偶数月だから12月18日号ということだけは解った。そう思って最後まで原稿の枚数を確認するうち、今度は別のページのアオリで
「…85年2月からの科学万博に出展します」みたいなものが読めた。
ということはこの作品の初出はその前年、「コミックセブンティーン」1984(昭和59)年の12月18日号掲載、ということが判明。
いやはや、「ガロ」時代から実は商業誌のアオリを、綺麗な作家の原稿には余計なモノだ、とずっと思っていた。なのであまり好きじゃなかったのだが、こうして役に立つのだなあと改めて感心。

しかしその他の「佐和子叔母」や「小さいぐみの木」は、それぞれ「スピリッツ」「セブンティーン」としか初出が解らない。よってその後の収録単行本にも、そうとしか書けないから、もはや「初出不明」というしかない。だいたいの年代として同時期、84〜85年という推測しか出来ない。

それにしても、こうしてほぼ全作品を彼女の死後に生原稿というかたちで一枚一枚見ていくと、初期のつたない画力ながら個性ある絵柄と、すでに「やまだ紫」としてしっかり確立された作家性、そして中期にいくと画力が一気に高い次元へ上り詰め、後期に至る間にその線がどんどん省略されていく課程が解る。
その意味で、筑摩書房の作品集は時代が時系列ではなく、あえて作品の内容や傾向で分けてあるため、例えば「敏江さんの日記」(85年)の次に突然「やるせない頃」(恐らく70年代後半)が並んだりすると、絵柄的には唐突というか違和感を覚えるだろう。

作品集『鳳仙花』は彼女本人が「未熟だ」「恥ずかしい」と謙遜していた作品群ではあるが、その描かれている世界は「やまだ紫」の世界そのものだ。
なのでやはりそこ(70年代)から1980年つまり『鈍たちとやま猫』(青林堂版)にまとめられたあたりの画風と作風のものを、ぜひ一冊に復刊したいという気持ちが強くなる。
本当にいい作品ばかりで、「ガロ」だけではなく後に「アサヒグラフ」「奇想天外」「WINGS」などから女性誌まで、幅広い媒体にその才能をも広げていく前駆的な段階だ。
例えば恐らくは最初の結婚時、母との別れの場面を描いた「夜の坂道」、逆に全くのフィクションなのに見事にリアリティを持って描きあげる「やるせない頃」など、名作「しんきらり」を連載しならが、よくもここまで高いレベルでの短編を発表し続けられたかと、作家としての凄さを感じる時代だ。
かと思えば「夏休み」(「ガロ」1980年10月号)のように、たった6ページながら日常の一瞬を切り取ってぞくりとさせられる小編もある。
ちなみにこの「夏休み」は、タクシー乗り場で子連れの一行の一員としてガヤガヤやっているところへ、通りかかった「アベック」の若い女が「やあねえ、あんな中年にはなりたくない」みたいな悪態をついて通り過ぎる。
それを耳にした主人公(…恐らくは三津子)が無言で睨み付け、心の中で「おい小娘」と「テレパシー」を送るのだが、この時の「顔」が凄い。何もそんな怖い顔をせずとも、というほど怖い。
あの「顔」とこの小さな話が、俺は彼女らしくて大好きだ。この作品を描いた時の彼女は、まだ32歳。「おい小娘」って。
「COM」で入選以後高いレベルの作品を次々と発表したときの彼女はまだ「たったの」22、3歳だった。24歳から出産育児のために休筆をやむなくされ、30歳で「復帰」するまでの間、彼女の中にいったいどれほどの「思い」があったのか。何度もここに書いているように、それはそれはさまざまな「思い」がマグマのように渦巻き、熟成され、そして噴火したのだろう。
作品リストをこつこつ作っていっても、彼女の30代の作品は質、量ともに大変なものだ。その後半に俺は同居することとなったけれども、あの団地で、子供2人と猫3匹で、別居と離婚を挟み、あれだけの作品を彼女は描き続けた。そう思うと、あまりの壮絶さに「驚嘆する」などという安直な表現では失礼にさえ思えるほどだ。

今はもうそれから20年以上が経った。
社会でも世間でもいいが、漫画という「表現」いや漫画家という「職業」にさえ理解があって当然、「女性」「離婚」「母子家庭」だってもう、珍しくもないし引け目でもない。だから、今の若い人たちが、あの時代に、彼女のような状況で必死に「漫画という表現」で「立つということ」が、どれほど壮絶なことだったか想像するのは難しいだろう。
そのことを加味して読まずとも、彼女の作品が高みにあることは間違いないが、時代性を考えてみると、その凄さはその辺の凡庸な作家など足元にも及ばないことが解る。

「好き・嫌い」でしかものを評価できないということは、消費者つまり読者の勝手だし、自由だ。
けれども漫画を一つの表現として理解し、もし研究したり評論をしようと考える人間なら、女流とわざわざ銘打たずとも、「やまだ紫」という作家の偉大さに気付かないのなら、それは「馬鹿」だということを、はっきり言っておきたい。

もっと言えば、あの時代に個人的にも彼女の世話になった人がずいぶん居たと思う。彼女はいつも他者に優しく誠実に接してきたはずだ。彼女はそういう「だれそれに世話をやいた」ということを他の第三者にあまり言わなかった。けれど実際俺はそういう人間をずいぶんたくさん知っているし、夫なので直接彼女の口から聞いたこともある。もちろん彼女の日記にも残っている。

そういう人たちで、
彼女の死
に対し
何の追悼の気持ちも持たず、
へらへらと暮らしている連中
がいる。

裁きは必ず訪れるというのに、「恥を知れ」と思う。
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2009-08-07(Fri)

映画二本、そしてゴキブリ

8月7日(金)

夕べは11時前までニュースを見て寝室へ上がった。
朝は4時ころ目が醒めたが、そのまま強引に眠る。結果7時過ぎまで、割合寝られた方だ。
起きたのは8時過ぎ、今日もうす曇り。

朝のことを済ませて、仕事を片付ける。ペットボトルのコーヒーミルクとサンドイッチ。その後は「のりピー」旦那覚醒剤所持逮捕、現場に呼び出されそこから「失踪」したのりピーが今日になって自宅のガサで所持と使用の疑いで逮捕状出る、という一連のニュースを見たり。
午後、三津子のアルバムと写真の未整理の束をもう一度見直して『性悪猫』や『しんきらり』当時のものを何とか見つけた。こないだ出しておいた数枚とで、何とか3冊の「著者写真」(近影、ではない)になりそうだ。
とにかく写真の年代特定が意外と難しい。アルバムに整理されて年代が書き込んであったり、日付を写し込んであれば別だが、そうでないと、もう推測するしかない。
このパーティは恐らくこの時のだから何年ころか、これは同じ服とメガネだからたぶん同年のもの…と推理していくつかの写真を並べた。
写真を見ていくと、やはり90年に膵炎を胃炎と誤診されたことが、彼女の寿命を色々な意味で大きく縮めたのだと解る。その後の写真ではふくよかさも、健康そうな佇まいというか、「気配」が変わってしまった。
膵炎は本人が若い頃からお酒や油ものが好きだったせいもあるが、もし最初の急性膵炎を起こした初期段階で手を打てていれば、予後がずいぶん変わっただろう。それが慢性膵炎〜ランゲルハンス島の機能障害、その後十年で腎臓にも影響を及ぼすなど、いいことは一つもない。
当時医者たちは皆「そんなことはあり得ない」と俺たちの「推理」を一笑に付していたものだが、ずいぶん後になって「そういうことはあるかも知れない」に変わった。プロのくせに気付くのが遅すぎる、それに「患者が今訴えていること」をもっと真剣に考えるべきだっただろうとつくづく思う。
済んでしまったこととはいえ、本当に病院と医師には裏切られたことの方が数知れず、多い。
彼女はその後更年期も重なって、病気がちになった。吐血や下血をするたびにげっそりと痩せ、それが戻ったかな、という頃にまた何らかの病気をする、その繰り返しだったような気がする。

彼女は病気、病気…で、その後鬱になり酒へ傾いたこともあったが、それこそ元にあるのは「誤診」とそれによる相次ぐ病気、挙げ句は腎臓摘出手術による絶え間ない「激痛地獄」があったからだ。
つまりそれらは結局彼女の「自業自得」ではないのだ。
そういう中でようやく安寧の日々が訪れた京都生活だっただけに、もう少しふたり、一緒に居たかった…。

その後は6時ころから三津子にお酒とお膳をあげて、DVDで未見だった『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』を続けて見る。
どっと疲れた。
映画としての出来・不出来で言えば、確かに『硫黄島…』の方が遥かにいい出来映えだったが、イーストウッドが2006年に、あの戦争を日米双方の視点から描いた、描いておいた、ということは非常に重要なことだったと思う。つまり二本で一本なのだろう。
演技云々で言えば『硫黄島』の渡辺健は安心して見ていられたし、脇にあまり有名どころを使わなかったのも幸いした。「西中佐」の伊原剛志は型にはまっていたとはいえ、あの時代の「アメリカを知る」日本軍人という体(てい)はちゃんと出せていたと思う。それと憲兵くずれの「清水」役、加瀬亮の演技はとても自然で、「投降させてくれ」と泣く場面ではヨダレの糸が月明かりに光るところなど、悲痛さが伝わるいい演技だった。
さて「嵐」の二宮君だが、頑張っていた、とても頑張っていたと思うが、残念ながら「あの時代の日本人」にはとても見えなかった。軍人に見える・見えない、ではない。どうしても「あの時代の人」に見えないのだ。口調や姿かたちということもあるし、たたずまい、全てが「現代の人」なのだ。
当時戦争も末期は職業軍人を除けばたいていは赤紙で引っ張られた民間人ばかりで、当然前職を持ち普通の暮らしをしていた人たちだ。だからナチュラルな口調で楽に話す感じは悪くはない。
…が、そこが逆に見ていて最大の欠点でもあった。まずあんな口調で「昭和の男」は喋らない。若者であろうが、妻を持ちパン屋として独立し、子をなしたところで戦地へ来た、という人間の語り口ではない。
設定がもの凄く若い父親だったとしても、昭和19年当時、まあ19歳か20歳で結婚して招集された若者だとしよう、だとしても、留学していたか山の中に隠れていたのでもない限り、逆に「少国民」として徹底した軍国教育にさらされていたはずだ。そうでなければ、例えば左翼運動にかぶれた学徒動員の大学生ということも考えられるしあの厭世観はそんな感じに見えなくもない、彼の設定はパン屋であって「アカ」ではない。
階級章も二つ星ということは一等兵、つまり練兵され戦地へ送られて一年程度という、ほぼ新兵に近い兵士である。昭和期の場合、一つ星、いわゆる二等兵というのは訓練中の新兵=初年兵で、基本的に戦地に居るのは二つ星以上と思っていい。それがあれだけ、末端の兵士同士とはいえ、厭世観丸出しの不良国民のような態度をしていたら、戦争をする前に分隊長や下士官に殴り殺されているだろう。
兵士が数名いれば必ず下士官がついている。この下士官がたいていの場合は兵士たちのお目付役で、戦争開始時から居る場合もあり、戦争前からの職業軍人の場合もある。
俺の爺さんも帝国陸軍の上等兵として南方戦線へ行ったし、大叔父さんも主計軍曹としてだが、やはり戦地へ赴いている。だがその孫の世代で、もう俺の年だ。二宮君は当然「戦争の時大人だった『昭和の男』」というものに身近に接していないだろう。
兵卒として南洋に赴いた祖父の方は、上等兵つまり「三つ星」で、つまりは消耗品としての一兵卒だ。「突撃」と言われれば三八式(歩兵銃)を持って機関銃に突っ込まされ、態度が気に入らないと言う理由で意味なく上官に殴られることは日常。それでも兵隊同士ではフランクな話をしたが、そこに士官でも来ようものなら、リラックスしていた全員が直立不動になって迎えねばならなかった時代だ。
もしそれが高級将校だったら、さらに将軍だったら。
恐らく足が震えたと思う。一兵卒にとって、佐官や将官というのは雲の上の人に等しい存在だ。日常接する上官といえばせいぜいが軍曹どのぐらいまで、たまに尉官が来れば緊張するという案配だろう。こういうところが米軍とは全く違う。
上官によって、その小隊なり中隊の雰囲気ががらりと変わったそうだ。例えば嫌な古参の下士官が居て、日常兵士をガンガン殴る。それを士官学校出たての少尉どのは止められず見てみぬふり。何せ部下とはいえ自分の親父くらいの年齢の下士官だ。しかし大尉どのがそれを知るとその下士官を呼びつけ、逆に朗々と説教を兵士たちに聞こえるように行う…。
または中隊長殿(階級は尉官だと思われる)が恐ろしく嫌な職業軍人で、とにかくやたらと兵士を将棋の駒のように動かしたがり、消耗品としか考えていない。なので虫ケラのような扱いだ。けれども直属の上官である下士官(曹長や軍曹、伍長など)がいい人で、「まあ適当に言うこと聞いてるように見せようや」と言って庇ってくれた、という話…。
帝国陸軍、と一口で言っても末端ではさまざまな「人」がおりその集団として分隊や小隊があり、構成されていた。だから色々な人間が居たのは、もちろん事実である。
けれども総体としての帝国陸軍、というより「昭和の軍人さん」たちは、厭世気分あり負け戦と知っての無力感あり、逆に皇軍としてお国のために死ぬ名誉意識満々の人ありの中、最後までほぼ「日本軍」としての統率は取れていた。このことは何より「玉砕」という不幸が多かったこと、戦った英米軍の証言、さらには戦地から帰還した生き残りの人たちの証言からも常識だ。
例えば旧大日本帝国における陸軍と海軍の対立は有名なところではあるが、いくら何でも「将官」に佐官が、ましてや尉官が「休め」と言われる前に直立不動を守らないという場面はあり得るはずもない。
栗林中将はそういう意味ではフランクなお人柄であったと聞くが、それは将軍側からの話であって、だからといって一兵卒や下士官が「休め」と言われたとしてもリラックスなど、将軍の前では絶対にあり得ない。ましてや言われてもいないのに最初から力を抜いて接している、という光景は全くあり得ないし、あってはならない光景だ。
「バロン西」中佐の副官が、最後まで彼の上官つまり西中佐に接していた態度が一番違和感がなく、彼は副官ゆえに忠誠心に厚かったことを考慮しても、その他の「兵士」の態度はずいぶん米国式のように思われた。
もっと言えば応召される時に近所の婦人会…まあ「愛国婦人会」と読めたが、たすき掛けのご婦人が数人来るわけだけど、あの「字」はないだろう。識字率は今より低かったとはいえ、ほとんどの人が普通に毛筆で文字を書くことが出来、ましてやたすきに文字を書く場合はそれなりの心得のある人に依頼するはずだ。そういうことはごく普通の成り行きだろう。あんな「いかにも油性マジックで殴り書き」みたいなひどい字のタスキなど、金輪際見たことがない。
これまでたくさん見た「戦争映画」はフィクションだ、それは置いておくとしても、たくさんのノンフィクションのフィルム、写真集、その他どれを見てもまずあり得ない。まあ米国人のイーストウッドにそこまで望んではいけないのだろう。
こういうことは「重箱の隅」だから、逆に言えばそういう部分をつっつきまわすほど、大筋では良く出来た映画だったと言えるかも知れない。

数年前に、この硫黄島での戦いが映画化される、それも今や「巨匠」となったイーストウッドで日米双方の視点で…となった時に、当時の生存兵のインタビューなどが放送されたことがあった。
あれによると、硫黄島守備隊の戦いはすさまじい消耗戦で、というより、洞窟の中には水が溜まり、得体の知れぬ虫が湧き、死体はすぐに腐敗し悪臭を放ち、そして飢えのあまりその死肉さえ喰らうような想像を絶するものであったという。
この映画ではそういう場面まではもちろん、敢えて描かれていない。主題はそういう「戦争の悲惨さ」をことさらに「浮き彫りにすること」ではない、からだ。
だから硫黄島の戦闘を実際に戦った生存者の方からすれば、「こんなもんじゃなかった」と言われるかも知れないが、これは「映画」だ。そして、その「映画」であるがゆえに「訴えられること」がある。イーストウッドがもう一本、『父親たちの星条旗』を同時に制作したことでも、その意味がわかる。
「戦争」を善悪、敵味方…といった単純で不毛な描き方をするのではなく、敵にも味方にもそれぞれ守るべきもの…国や家族がおり、当然ながらそれでも戦わねばならないことが、戦争の不幸であり、簡単に「じゃあ戦争だ」「そういう事言うんだったら武力行使でいいじゃん」みたいな短絡的な思考に待ったをかける意味を持っている。

『父親たちの…』の方は、あの歴史的なスクープ…擂鉢山に星条旗を掲げた兵士たちが英雄視され、戦時国債を売るためにセールスマンとして全米を行脚させられていったという「実話」を背景に、やはり同じ戦場での「攻める側」の不幸も描いている。そして「勝てば官軍」という嫌な言葉があるが、敗戦後しばらくは日本社会が手のひらを返して米国礼賛、民主主義万歳となり、アメリカが「次の戦争」へ向かう際の補給基地となって特需に沸いた…という歴史へとつながっていることも考えさせられる。
3人の「英雄」の中で「インディアン」の兵士の苦悩、没落ぶりを執拗に追いかけていたが、あのあたりがこの映画を今一つ盛り上がりに欠けさせた要因かも知れない。なので、二本を同時に見ると、どうしても『硫黄島からの手紙』つまり日本側守備隊の戦いの方が印象に残らざるを得ず、映画としての評価もそうならざるを得ない。
それにしても、イーストウッド。この人の名は、21世紀では優れた「映画監督」としてずっと語り継がれていくのだろう。俺たちは「ダーティ・ハリー」や「荒鷲の要塞」みたいな時期の俳優のイーストウッドも大好きなのだが。


そんなこんなで映画を見ていると、後半、ユキが何か俺の仕事部屋の方であらぬ方向を見ているので、何だろう…と思って注意深く見ていると、何とサササッとゴキブリが横切った。
ユキは耳が聞こえないから、箱の間などへ逃げ込まれるとお手上げで、ただじっと引っ込んだところにうずくまって見張っている。

俺は北海道で18年間暮らしたが、ただの一度もゴキブリという昆虫を見たことがなかった。読んでいた漫画でも小説でも映像でも、その邪悪な容姿と異常に素早い動き、さらに強靱な生命力の「お噂はかねがね」知ってはいた。

19で最初に住んだ上北沢の部屋は、真っ黒で大きい、5cmくらいのタガメのようなゴキブリが夜中になるとゴミ袋のあたりで嫌な音を立てる部屋だった。何度か発狂しそうになったことがあるが、それでも見つけるたびに箒で外へ叩き出したりした。とても素手ではおろか、分厚い軍手をしていても触ることなど到底無理だった。

次に引っ越した柏の部屋も、出た。ちょっと色の薄い、それでも3cmは普通にある首すじに白い線のある奴らだった。あそこも多かった。
一度カップ麺の空いたのでダイスのようにカパッと蓋をしてつかまえたことがあった。中でカサカサと這い回る音がして、その感触がカップごしに手に伝わるだけで冷や汗がドッと流れ、鳥肌が立った。そーっとそのまま玄関までカップを浮かさぬように移動し、玄関の扉を開けると、思い切りカップを滑らせて外へソイツを吹っ飛ばした。
暗かった夜の柏の奥地、あっちこっちまだ緑がいっぱいあった闇にゴキブリは飛んで行った。すぐドアを閉めてなぜか鍵をかけて、手を中性洗剤で死ぬほど洗った。触ってもいないのに。

次に住んだのは巣鴨の1Kのマンションだった。もう、青林堂に勤めていた頃だ。ここは比較的少なかったから助かったが、一度寝ている時に無意識でつかまえたらしく、朝起きたら手のひらに動くものがおり、指の間から触覚が二本出ていた時には、心臓が止まる思いをした。いや、一回止まったかも知れない。
もちろんもう「握ってしまっている」ので、そのまま窓を開けて、思い切りあらぬ方角へ投げ捨てた。たたきつぶすとそれなりの汁なり内容物が飛び散ったりするし、そんな事態になったらもう二度とその場所に座ったり触れたりすることが出来なくなるから、殺さずに出て行っていただくしかなかったのだ。
結局その巣鴨の部屋に居たのはほんの少しで、三津子と交際をするようになってからは、よく団地へお邪魔し、結局引き払うことになった。

そして移った団地は…。
いや本当によく出た。参った。何で13階にまでコイツらは登ってくるのか、じっとしていてくれるなら問い詰めたかった。いや、じっとしてられても逆に恐ろしいが。
一度、夏の夕暮れに団地のベランダから外…といっても向かいの団地の窓窓窓…が見えるだけだったが、見ていると、何かがこちらへ向かって飛んでくるのが見えた。何だろう、と思って見ていると、すぐ近くまで来た時に奴だということが解った。「ひぃぃ」と男のくせに変な声を出して窓をぴしゃりと閉めた。台所側は網戸になっていたが、そっちも閉めた。その場に誰が居たんだったか、もう覚えていない。

…ともかく、それほど俺はゴキブリが苦手なのである。

団地の後に仕事場として借りて、結局生活も移した蓮根のマンションは、大きくても1cm以内の茶色い色をした、小型のゴキブリがわらわらと無数に沸くところだった。何かの整理していた箱を開けるといるし、何かをよければいるし、ちょっと置いていた食べ物にはいる…、というので本当に往生した。「お前はキリストか?」と思った。いやそれは今思いついた嘘ですが。

最後に引っ越したマンションは新築だったのに、引越の荷物にまぎれていた小ゴキらに一時、席巻されてしまった。猫たちがいたのでなかなか出来なかったが、何度かの「バルサン」で全滅作戦には成功したが、とにかく、俺は18まで見たことのなかった「未知の生物」に、いまだに背筋が凍り付く。
今はさすがに昔ほどではないものの、素手で触ったり新聞でたたきつぶしたりは無理だ。だって汁が出るし…。
なので、実は秘密兵器を持っている。
従来ヤブ蚊や蠅が飛ぶ時に対峙するために買ったものだが、ラケット型で金属線が張り巡らせてあるもので、単三乾電池2本で動作する。動作といってもボタンを押すだけで、その金網に電流が流れるだけだ。
実は人間でも乾電池の電流というのはけっこうバカにならないものだが、小さな蚊や蠅にとっては即死に近いことになる。なのでブーンときたらスイッチを入れて、ラケットをそれらに向かって金魚すくいかゆるいサーブのように上下させれば、だいたいは感電して逝ってくれる。微弱なスタンガンみたいなものか。
とにかくそれを握りしめ、ユキが睨んでいるあたりをこちらもじっと待機しているが、全く出て来ない。
仕方なく止めていた映画のDVDをまた見始めるが、気が気ではない。12時過ぎには映画も終わったので寝ることにしたが、その間に猫の餌やゴミ袋をあさったりするのだろうか、と気になる。たが出て来ない以上、待っていても仕方が無い。そのまま寝る。

それにしても、確かにこの付近でゴキブリは路上でも何度かみかけたことがある。ゴミ捨て場の箱を開けたら、真っ黒で5cmはあろうかという巨大な奴(本当です)が蓋の内側にいて、度肝を抜かれたこともあった。エレベータを待っていて、何かの気配を感じて目を凝らしたら、背後の鉄製の扉と壁の隙間に奴が居たこともあった。夜、夫婦で帰って来た路上を横切られたこともある。
それでも、この部屋に越してきてから、部屋の中に出たことは一度も無かったのに。
三津子、とうとう出たよ…。何とかしてくれよ…。
男のくせに弱音が出る。
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2009-08-05(Wed)

三度目の月命日

8月5日(水)

夕べは11時前に寝てしまった。その後朝方4時過ぎに目が醒める。ちょうど三ヶ月前のこの時間、三津子は息を引き取った。あれからもう三ヶ月、三度目の月命日がきた。

三津子と仲良く元気に暮らしていたここでの暮らしは、なぜか遠く感じるようになってしまっった。けれども、あの「悲しい十日間」の記憶はあまりに辛く厳しい現実だったせいか、いまだにはっきりと記憶と映像で刻み込まれ、はがれない。思い出すと今でも情動失禁を起こしそうで怖いほどだ。
彼女が深夜に倒れ、救急車で搬送し、医師からの残酷な診断を受け、それでもほんのわずかな可能性に賭けた。そして、その結果の非常な宣告。彼女は十日の間、遠く離れたところから肉親がお別れに来て、俺自身にも、突然に半身を引き裂かれるという現実を直視する時間をくれた。
肉体が温かく「そこにある」という状態は、とうにそれは「三津子」という人格ではなく魂は別にあるのだという理解を超えさせるリアルさで、遺される者に執着をもたらし続ける。
もし、あの状態が一年、二年…続けられても、「脳死」という悲しい現実はどんなに医学が進歩しようとも、絶対に覆すことはできない。ごく一部でも脳の機能が残っていれば、意識が戻りリハビリによって運動機能の回復に期待も持てる。そういう人を何人も知っているし、我々の近いところにも、何組かそういうご夫婦がおられる。「コスモス短歌会」の桑原さんご夫妻。「ねこ新聞」の原口さんご夫妻。
三津子の場合は、残念ながら、何らかの血管異常がすでにあり、手術を開始して初めて、「救えない」ことが解った。その後の脳のCT映像は、もう奇跡は起こらない、二度と彼女の意識が戻ることは完全にないという現実を残酷に示していた。
ありありと、蘇るあの人生で最も悲しく辛い日々。
あれから、もう三ヶ月。

12日には百か日、そしてここ京都では13日には迎え火をし、16日には五山・送り火で霊を送る。

けれど彼女はもうすでに「遍在」であり、どこかから帰ってきて、どこかへ戻る…という存在ではない。彼女は「つねにある」。彼女を思う、慕う、愛する、全ての人とともにある。
だからお盆や法事は、生きている俺たちのために区切りとして行われる儀式だ。そして、そのことで彼女を思う人たちの思いが「一つになる」という意味において、その「儀式」も大切なのである。
昨日はグーグルストリートビューでなつかしい街々を見た。京都へ転居する前に住んでいたマンション。そこから浮間公園やら、清竜丸のマスターたちとよく遊んだ蓮根駅周辺、団地のあった西台や買い物にしょっちゅう出かけた志村坂上や大山ハッピーロード…。
いろいろと懐かしく見た。どこも、三津子といったい何度、何十回歩いただろうか。そこへ戻れば二人の生活がまだ続いているような、濃密な二人の「思い出」という記憶の塊に比例するかのような、「重さ」さえ感じる映像だった。

今日は新聞を取りに下のポストへ行くと、ゆうちゃんから封書が来ていた。その後、携帯でメールを打つのはもどかしいので、返信をパソコンで打つ。
手紙を書きながら彼女の母である三津子のことを思い、ちょっと涙が出る。三津子は突然の死が訪れる直前まで、何度も
「いっかい休みになったら泊まりがけでゆうのとこ行って来ようかな。」と言っていた。
ゆうちゃんは「マミー」つまり三津子にいろいろ相談したいことがあっただろう。でももうそれは出来ない。俺が愛するひとを失ったのと同様に、彼女も愛する母を失ったということは、とても辛いことだっただろう。大きな精神的な支えを失ったことにもなる。
手紙を書き終え、三津子の仕事机の上にずっと置いてあった、あの人が集めていた小さな「キューピー人形」がたくさん入った藤の手提げ籠と、それに入り切らず収めてあった箱を梱包し、手紙と箱に入れて送る手配する。

お盆が開けたら今度は詩画集『樹のうえで猫がみている』の打ち合わせで思潮社さんが打ち合わせに来られる。しかし百か日を終えたらと思っていた、大学の研究室を整理しに行かねばならない。これもけっこう大変な作業と思われるが、ここは京都だ。俺しかいない。

月命日のご馳走
ドアフォンが鳴ったので応対すると、花のお届けだという。
受け取ると、三津子の親友、詩人の井坂洋子さんご夫妻からだった。手紙も添えてくださり、有り難かった。さっそくテーブルに飾り、三津子に
「こうしていつも花に囲まれるのは君の人徳だね」と語りかける。

夜は晩酌しながら、たまたま新聞を見たら懐かしい番組「YOU」の再放送があると書いてあったので、見た。
「YOU」はNHK教育の若者向け番組で、再放送はその第一回目だ。司会は糸井重里と青島美幸。27年前のことなので当然ながら、お二人とも若く、今見るとかなり恥ずかしいほどのハイテンションである。「お堅い」NHKでもさらに固い「教育テレビ」で、それまで放送していたのはその名も「若い広場」(笑)。これが退屈でつまらぬ番組であったゆえ、深夜に本格的な若者向けトーク番組としてリニューアルを始めるというので、当時高校生だった自分も第一回から割合に見た記憶がある。
第一回のテーマは「サラリーマン」で、当時としては珍しくぐるりと周囲を高校生大学生、そしてサラリーマンという「素人衆」が司会を囲むかたちで進行される。
ゲストは当時まだ第一勧業銀行に勤めていた頃の、「サラリーマン歌手」として有名だった小椋佳だ。(余談だが三津子も小椋佳の曲や歌は好きだと言っていた)
番組では赤チョウチンで憂さ晴らしをするサラリーマンのVTRを見たり、会場の若者たちに「サラリーマン」という言葉や「就職」というものへの印象や考えを聞いたりしたあと、小椋佳に先輩としてアドバイスを求めていた。小椋佳は
「スポーツはルールが決まっているが、会社の場合はそれを変え得る立場に(あなたたちが)なれるかも知れない」という示唆に富んだ話をしていた。
またグチばかり言っているようだと、
「それに赤チョウチンで上司や会社批判をするのもいいが、それが過ぎると結局自分が上司になった時に、その『批判される側』になるだけだろう」ということも話していた。小椋佳はもちろんその後一勧を辞めて歌手専業となってもう長いわけだけど、この放送の段階でもう20年以上「サラリーマン」をやっている。その経験を若い世代に伝える、的確にかつ示唆に富む「言葉」を持っていることに感銘を受けた。
関係ないが、スタジオにいる27年前の高校生も大学生も、今見ると皆驚くほど「老けている」。悪い意味ではなく、外見だけではなく「大人びている」という意味だ。
日本人はネオテニーかと思えるほど、大人という年齢になっても見かけはかなり幼くなってきている。若くなった、というレベルではないような気がする。
このことを世界一の長寿国化と結び付ける向き…例えば寿命が長くなりすぎたために相対的に「幼児期〜少年期」も伸びた…というような意見もあるが、日本以外、欧米の長寿国ではこういう現象は見られない。
ではアジア系特有なのかといえば、日本以外のアジアの国では年相応に老けている民族の方が遥かに多い。
自分でも、俺が十代だった頃の「四十代半ば」というのはもう完全に外見はもちろん、本人の意識も世間の扱いも確実に「大人」どころか、下手すると「中年」いや「初老」という線引きすらあったと思う。
自分は今病身だし、分相応に老けている自覚はあるものの、世間では「アラフォー」とか言ってやる気マンマンである。あれは同世代として見るとかなり恥ずかしい。だいたい、「超なんとか」という「チョー」が使えない世代が俺くらいからだと思う。それがメディアに踊らされて若ぶっているのは、とても見苦しい。まあ不景気だし、「景気」というのは消費者が踊ってくれないと回復しないし、その役目を広告で持っているテレビというメディアが負っていることは承知の上だが。
30代といえば今では世間の扱いも本人の意識も完全に「青年」だし、20代なら下手をすると「少年」に近い。実際街中でもネットでも、あるいはテレビに出ている人たちを見ても、話している内容や話題、知識や興味の幅などを注意深く見聞してみると、かなり若返った印象を持つ。

こういう中で最近「成人年齢を引き下げよう」という動きもあるが、今の18歳だと、ネオテニー的外見がどうだこうだよりも、「意識の問題」で大いに不安がある。
今の18歳の全部が全部とは言わないが、テレビにバラエティが増え、レベルの低い「大人」がどんどん「タレント」「役者」「芸人」としてその無知・幼稚ぶりを世間に流布するようになってから、それを見せられている下の世代もどんどん「上があれだからこれでいいんだ」と思うようになっていったと思う。
大宅壮一が「一億総白痴化」すると警告してからそろそろ50年らしいが、テレビを低俗なメディアとする活字信奉者的な高所からの指摘ではなく、テレビというメディアの特性を考えれば、さもありなんと感じる。
テレビが「黙って口を開けて見ていても次から次へと情報が送られてくる」メディアであるという性質上、物事をあまり考える習慣のつかないうち…例えば幼児期から「それ」を与えられ、しかも疑問を持たずに慣れきってしまうと、そりゃあ想像力、創造力が低下するという指摘は間違ってはいないと思う。
俺もバリバリの「テレビ世代」だが、俺が高校生になる頃はまだテレビはほぼ「一家に一台」の時代だった。テレビを見るには居間におらねばならず、必然的に通常の家庭ならば親兄弟という他者とそれをシェアせねばならなかった。テレビを囲む全員がそうして「白痴番組」を望むのなら、もうそれは家庭の問題なので仕方のないことだが、普通の高校生は一人でやりたいことが山ほどあった。
もちろん若い男なら当然エロ本を見るとかそういうこともあるが、好きな作家の本を読んだり漫画を読んだりレコードを聴いたり、借りたレコードをカセットにダビングしたり、その時に曲目やタイトルを写したり、ギターを弾いたり、座布団をドラムがわりに叩いたり、こっそり酒を飲んだり煙草を吸ったり、もちろん友達と騒いだり、それなりに高校生は忙しかったのだ。
テレビは特別に見たいものだけを見る、という時代だった。その「見たいもの」が例えば「アイドルが出るから」という理由で、テレビにかじり着いている奴は「馬鹿」というレッテルを貼られたものだ。
「中二病」という嫌な言葉があるが、中学生や高校生なんて人生で一番マヌケな季節だ。根拠もなく他人を馬鹿だと思い、邦楽より洋楽の方が格好いいと思い、ジュンブンガクを解りもしないのに読んだり、偏頗な知識をどこかから仕入れてきては披瀝しては悦に入るとか、まあ今のようにネットなんて無いから、それはそれで仕入れ先が違うからあちらこちらに個性的な「馬鹿」が居て、もちろん自分もその中の一人で、面白い季節ではあった。
今の高校生など子供たちも「テレビなんかもうとっくに終わっている」という意見も多いが、それは他に面白いことがたくさんある、という意味において当時の俺たちと同じではある。
けれども、今の子供たちの「他の面白いこと」は携帯だったりネットだったりテレビゲームだったり、30年前には無かったものばかりだ。そういえばウォークマンの初号機は中学生の時だったか、金持ちの子が遠足にこれ見よがしに持って来ていたのを見た。ベルトに単1だったか単2だったかの電池フォルダーを重そうにぶら下げていたのが強烈に記憶に残っている。

ともかく、「情報」は確実・不確実なものも含めて、今は大量にある。求めれば際限なく入手できるし、求めなくても嫌でも入ってくる。ネットはかなりの割合で不確実なものも多く、学生がレポートなんかであちこちからコピペで切り貼りして来るというが、そんなものちゃんとした大人が一読すればすぐにバレるに決まっている。

一番大切なのは自分が大人になることを、一つ一つ段階を踏んで経験していくことだろう。その積み重ね、失敗もたくさんするし恥もかくが、それによって過ちを繰り返さないという知恵が生まれ、賢くなっていくのだと思う。それが「地頭(ぢあたま)」の良さであって、偏差値的な詰め込み教育でいっとき暗記した「情報」とは違う。情報はすぐ忘れてしまうが、経験を積み重ねてきた結果に得たことは意外と忘れないものだ。とはいえ40の坂を越えるとそれもどんどん消えていくような気がするが。
昨今のクイズや雑学ものをたまに見たりするが、どう考えてもネタ本というかクイズの解答のための「情報」しか見ていない連中が、したり顔で「知識」や「教養」があるかの如き態度をしているのを見るが、たぶん収録が終わったらそのほとんどを忘れるだろう。
では芸人に多いが「なになにオタク」系の連中も、やれ「キン肉マン」のなんとか超人だとか「ガンダム」の何の名前だ名台詞だとか言うが、狭すぎて恥ずかしいし、昔だったら30代を超えて衆人環境で話せる内容ではなかったろうに、と思う。
日本人は幼くなった、と思う所以だ。
今の日本で成人年齢を下げるという議論が真顔で行われるということにちょっと信じられない気持ちがするが、俺だけなんだろうか。
四半世紀前の自分が「成人」と言われたら「ちょっと待って下さい」と言うに決まっている。
何ら知識も経験もない自分が、いきなり大人扱いされ社会に放り投げられても困る。もちろんそこから何とかしてやっていこう、そういう気概はあっただろうと当時の自分を過大評価する自信はあるが(笑)、今の、この日本という国、社会で、18歳に成人年齢を引き下げるというのは「若い世代を守ろう」という意識と配慮に欠けているのではないかとさえ思う。
成人年齢を引き下げることによって、いったい誰が得をするのか、若者ほどよ〜く考えてみた方がいい。
税収が増えるからもちろん国家と官僚は喜ぶ。「大人だから」「自己責任」という美名(?)のもと、ローン件数やカードの発行枚数は激増するだろう。誰が喜ぶだろうか、すぐに解る。当然それらを悪用する詐欺も爆発的に増えることも容易に想像がつくけれども、その時はもう「大人の判断でしたこと」だから、と突き放されるだろう。
過去に一度導入され、さんざんな評判で中止された「サマータイム」の導入を今になって言い出す連中とか、まあ社会の趨勢や普通に世の中を見ていれば生活者として「?」と思うようなことを言い出す連中は、かなりの確率で自分の利益つまり「金」と結びついていると思った方がいい。
誰が得をするのか、どことつながっているか。そういうことはすぐにバレる、そのことは歴史が証明している。

「景気」対策のためにメディアは小金を持っている中高年を何とかして踊らせようとしている。いっぽうでこれから長く消費をして貰わないと困る若者を、とっとと「大人」に仕立て上げようともしている。
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2009-08-04(Tue)

明青さんから花をいただく

8月4日(火)

近畿地方もようやく昨日梅雨明けしたそうだ。そういえば昨日はいい天気だった。
夕べは10時半ころベッドに上がった。早いな、と思ったが何だか話し相手もなく写真と差し向かいで晩酌をしていると、酔いがまわるのが早い。自分の場合十代の頃から大酒呑みで(もちろん法的にはいけないのだが)、それこそ飲めと言われれば一升酒を飲んでもケロリとしていたものだ。高校からの友人たちなら知っているが、ウィスキーをコーラやジュースで割るという気持ちの悪いものを、平気でそれこそジュースのごとくがぶがぶ飲んでいた。それでもたいして酔わないと、呆れられた。
三津子も酒が強かった。
好きだったし、実際に飲めた。だから青林堂関係の忘年会でも飲み会でも、だいたい最後まで残っているのは俺と三津子だった。先輩のYさんはそれほど強くはないのに量を飲んだので、最後はへろへろになっていたし、もう一人の先輩は酒は強かったが量を飲むより眠くなるたちだった。
女の人では、恐らく彼女が一番俺が一緒に飲んだ中では強かったと思う。病気を得たここ数年こそ足元が怪しくなったが、それが普通であり、それまでは誰よりも強かった。
それが今では俺も缶ビール数本で酔っぱらうとは安上がりでいいよな、と思う。

今朝は7時ころ起きた。ジジイかよ、と自分で思った。
ユキは今朝もベランダに向けて置いてある丸い折りたたみ椅子ですやすや寝ていた。シマはいつもそうしているように、下の三津子の仕事机の椅子にいるはずだ。
ユキをそのままにしてそっと下へ降りていくが、よく考えたらユキは耳が聞こえないからそっと行く必要はなかったのだ。降りて行くとシマがもう階段の下へ来て「ひゃっ、は!」と鳴く。
ユキは「にゃーん」という正統派(?)の「猫らしい鳴き方」をするがシマはそういう声が出せない。呼べば返事をするが、それは「きゃっ」とか「ひゃっ」という喉力を必要とするような声だ。何の加減か時々「ひゃっほぉぉーーう!」とか言って走って行ったりするので、夫婦でよく顔を見合わせて笑ったものだ。
猫に水と乾燥エサをあげて、トイレや洗顔、ひげそり。三津子に「おはよう」といつものように声をかけて、お茶をさしかえ、杯に冷たい水を入れて置く。そして線香を立てて祈る。祈るというよりは、いつも「謝罪と感謝と愛」の言葉を毎日語りかけている。
朝は食欲がなく、冷たい水を一杯飲んだ。
しばらくしてザイロリック(尿酸値を下げる薬)を飲み忘れたことに気付いて、胃酸過多ぎみだったこともあり、野菜スープを温めて食べ、薬を飲んだ。

さすが梅雨明け、外はもう絵はがきのようないい天気だ。東山、大文字山に日が降り注ぎ、青空に白い雲がゆったりと流れている。夏の陽射しが外にある木々や街、家々を白く輝かせている。予報では35℃まで上がるというから、路上の体感温度は大変なことになるだろう。
その後11時過ぎまで仕事をしてから、自転車で買い物に行く。
いつものスーパーの裏口に自転車を停めて、明日の月命日のために肉や刺身など、ご馳走を買う。花も4種類。それらをカゴに載っけたりハンドルにぶら下げて帰宅すると汗だく。
花を花瓶に活けるが、こないだ買ってきたひまわり2輪はまだ頑張ってくれている。「ありがとうね、綺麗だね」と言うと、切り花だってのに長生きするのだろうか。

花で埋まるそれから買って来たオムライスでも暖めて食べようかと思ったところでドアフォン。出ると「明青」のおかあさんで、上まで来てくれるという。
玄関でスリッパを出して上がっていただこうとすると、「ここでいいしすぐ帰るし」と言われ、三津子の月命日にと花束を持って来て下さった。「紫でまとめてみました」とのことで、綺麗だ。それから、あの美味しいトマトもいただいた。すぐ帰られるというので、御礼を言って頭を下げる。
すぐにいただいた花も大きい花瓶を出して活けた。
「三津子、また花でいっぱいになったね」と語りかけて、オムライスを食べた。
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2009-08-03(Mon)

「主人」

8月3日(月)

夕べは8時ころトイレに立ったら外で「バン」という音が何度かする。何だろうと思ってトイレから出て玄関を開けると、何と松ヶ崎の方から花火が上がっていた。デジカメを持って上へ行き、北側のベランダから撮影しつつ見る。8時から、たった10分ほどの「花火大会」。地蔵盆か何かで子供たちに見せるためのものだろうか、ずいぶん小規模だから地域のものだろうが、すぐ近くだったので綺麗だった。
寝たのは10時半過ぎと早かった。なので3時ころ一度目が醒めるが、そのまま寝続け、浅くだが7時ころまで、最近では割合よく寝られたほう。
今日は朝から晴天。比叡山に合掌。暑くなりそうだ。
ユキはベッドの足元に外を向けて置いた折りたたみ椅子にいて、外を見ながら寝たり起きたりしていたらしい。そのためもあって、眠りがあまり寸断されなかったようでもある。

下へ降りて朝のことを済ませて、仕事をする。
午後も仕事をしたり、リビングのテレビにPCモニタを出力して音楽をかけて、ここ数日のブログを更新したり、夕方は三津子の作品リストを補足したりしていた。
6時過ぎに晩酌の支度をしていつものように写真の前へ氷入りのウーロン茶を差し替え、ぐいのみに冷えた純米「花の舞」を注いで、「先に飲んでてね」と声をかけて簡単なつまみを用意する。
三津子には小皿に梅干し、金時豆、らっきょうを突き出し風に。
そういえば牛肉を冷凍してあったな、と思い出したので解凍し、すりこぎで軽く叩いてから塩コショウ、ガーリックパウダをよくすり込む。それから熱したフライパンにバターを放り込んで、肉の両面をこんがり焼く。赤ワインと醤油をほんの少し垂らして蓋をし、火はすぐ止める。これで中はほどよくレアに仕上がる。
一口大に切ってから、ほんの少しのだしつゆをかけ、テーブルに持って行って三津子と乾杯。肉はおろしにんにくとわさびで食べる。
う、うまい。
580円のステーキ肉が極上肉のようだ。三津子にももちろん切り分けたものを添えた。お疲れさんの「夫婦で晩酌」。
その後、テレビではなくPCのモニタで彼女の年譜を見ていて、いったん押し入れにしまっておいたアルバムの箱を取り出し、彼女の若い頃のアルバムを見る。若い彼女は当たり前だが健康的で、ぴちぴちとしている。友達と団体でどこかへ旅行したような写真もあって、楽しそうだ。
その中に「昭和46年・夏のスナップ」と書かれた自画像があった。自画像といってもペン画の簡単なイラストで、当時の実際の彼女の方が可愛い。彼女の自画像というのは、意外に少ない。若い頃ならともかく、俺と出会った頃には「もう自分は若くない」とじゅうぶん自覚していて、自画像をまともに描いたのを見たことがない。だからこれはとても貴重なものだ。
昭和46年=1971年といえば、やまだ紫が「ガロ」に入選を果たした年。

今年、10月から小学館クリエイティブさんより復刊される予定の『性悪猫』『しんきらり』『ゆらりうす色』には、それぞれそれらを描いた当時に近い彼女の写真を著者像として掲載したらどうか、というアイディアを出させていただいた。
この「自画像」は「ガロ」に入選後、しばらく作品を描かなくなった頃だから、これは使えない。
他のアルバムには、どこかの公園でももちゃんとゆうちゃんをしゃがませて、その横にしゃがんで微笑む三津子の写真があった。上のももちゃんでも3〜4歳だろうか。ということは1976〜77年頃か、三津子がまだ20代後半で、いわゆる「休筆期間」がそろそろ開けようかという頃。
だとしたら、彼女はこの頃夫の暴力、浮気で絶望の淵にいたはずだ。けれども写真の三津子はおだやかに微笑んでおり、幸せな母親の表情そのものだ。子供たちも表情を作ることなく、自然に微笑んでいる。
これは不幸のどん底にいる母親の顔ではない。
暴力や浮気に日々悩まされ苦悩している女の顔ではない。

つまり、彼女は少なくともゆうちゃんの出産時には「もう夫の浮気があった」と言っていたが、完全に別居するのは1981年になってからだ。そしてその年の9月に前夫と別居し離婚協議に入るが、彼女自身は78年に「復帰」してからは立て続けに素晴らしい作品を発表し、多忙のさなかにあった。なので完全に離婚が成立するのはさらに数年が経った、1983年7月18日。奇しくも俺の18歳の誕生日の翌日のことだ。

「FULL-HOUSE」前に発見したミニコミ誌「FULL-HOUSE」に「やまだ紫インタビュー」が掲載されたのは、完全別居をする直前の1981年5月号だから、インタビュー自体が行われたのは、きっとその年の4月あたりだろう。
その中で彼女は夫のことを「あんまり帰ってこない」と話しているが、写真の表情や語り口は明るい。インタビュアはやまだ紫という作家よりも、その私生活に興味津々という風情だ。
恐らく前夫の知り合いか何かかも知れないが、とても馴れ馴れしいし、作品のことにはあまり興味がなさそうで、Oとの夫婦生活のことばかりを聞こうとしているフシさえ伺える。友人として、「最近うまくいってないらしい妻」の様子を伺いに来た、という感じだろうか。
三津子は明るいし、その「あんまり帰って来ない夫」がたまに帰ると連絡があれば、「ちゃんとやさしくしてあげなきゃって思うんだけど、めんど臭いって感じが先に立っちゃって…」と言っている。また俺が話でしか知らない、かつて団地で飼っていた猫のコキは、
主人が拾ってきたの、コレ。」と話し、夫を「ロマンチストですよ」と持ち上げている。最後には「anan」の取材を受けたときのことを話し、「主人のために」夜食のおにぎりを握ったが作りすぎてスタッフにもあげた、と話している。
1981年。三津子32歳と半年。「結婚生活」は破綻状態にあったとはいえ9年が経過し、漫画を再び描き出してから3年目。あの名作、「しんきらり」の連載はまだ3回目までしか発表されていない時期のインタビュー。
内容はたいしたものではなく「雑談」のようなものに終始しているものの、はっきりと解ることは、この頃にはもう夫婦は離婚へ向けて崩壊していたということだ。もう長く「半別居状態」にあり、夫婦の愛はとうに冷め、それでも帰って来れば「主人」だからと淡々とご飯は作る。自分は自分で誰はばかることもなく、漫画を描けている。確かに、気持ちはもうバラバラになっているようだ。さばさばしている、という感じもする。

彼女は二十歳前、カントリーのバンドを組んでヴォーカルをやったと言っていた。そこでウッドベースを弾いていたのが「Kちゃん」と愛称で呼んでいた、前夫のOだ。二人はやがて恋愛をし、交際を経て1971年に彼女が23歳の時に結婚をする。25、26と立て続けに出産するが、26の時…ゆうちゃんの出産時、愛する夫であった「Kちゃん」はすでに浮気をしていたことを、本人が知る。それでも幼い赤ん坊を二人抱えて「離婚する」ことは、まだ出来なかった。
彼女は「結婚直後から」夫の暴力と不実に悩まされたというのは「嘘」で、少なくとも25歳くらいまでは、円満な夫婦生活が続いたと思う。その後に「夫の浮気」という決定的な事実を知り、その瞬間から気持ちが離れていったのだろう。
長野に住んでおられる、彼女の親友の丸山さんは、三津子の結婚生活の末期をよくご存知だ。確かに、浮気と暴力でひどい目に逢っていると、三津子から「よく聞かされた」と話しておられたから、「嘘」というのは言い過ぎかも知れない。
けれど彼女にしてみれば、前の夫との結婚生活の後半は、前半の幸福だった時間を覆い隠してなお余りあるほど「振り返りたくもない不幸」だったのだろう。

「やまだ紫インタビュー」その後「広告会社に勤務」していたという前夫・Oは「仕事が忙しい」あるいは「出張」という口実でたびたび家を空けるようになり、ついには家に帰ることの方が少なくなるという、逆転生活になっていく。
彼女はその間、我慢し続けていた。子供たちがまだ幼すぎたから、彼女は漫画も描けず、ただ夫の不実に耐えるしかなかった。そして30歳のころ、1978年になってようやく、漫画を描きはじめた。
「復帰作」は既報の通り漫画史的に言われていた「ガロ」ではなく、長月三津子名で発表した「ギャルズライフ」であった。同年暮れには「ガロ」にも復帰し、翌年から本格的に「ガロ」で連載を開始するのが、あの『性悪猫』シリーズなのだ…。
この間も、すれ違ったままの夫婦生活は続いていた。
先の「FULL-HOUSE」のインタビューは81年の春。単行本『性悪猫』『鳳仙花』の2冊がすでに世に出ていて、下のゆうちゃんが小学校に上がる年だ。インタビュー中、その日が「ゆうちゃんの卒園式だった」と言っているが、つまりそれは二人で行ってきたわけで、父親の姿はもうない。
それでもインタビュー中、彼女は「外に向かって」は「主人」という言葉を使って子供の父親を立てる発言をしている。
彼女は俺のことを「主人」と言ったことは恐らく一度もないと思う。俺は早いうちから彼女に
「自分の夫のことを『主人』って言う人がよくいるけど、あれ妻の側から言うのを聞くと卑屈な感じがするのは俺だけかな」と話したことがある。彼女はその時「そうだよね、何か主従関係がアンモクのうちにあるような感じだね」と言っていた。
その言葉を、彼女はインタビュー中何度も使っている。もちろん、俺と知り合う数年前だが。
心はとうに離れ、生活自体もほとんど別居状態、つまり心身ともに離れてしまった相手に「主人」という言葉を使ったのは、彼女の優しさなのか、それとも単なる体裁だったのだろうか。
いずれにしても、1981年のこのミニコミ誌の他愛のないインタビュー(失礼)は、いろいろなことを考えさせてくれる。
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2009-08-02(Sun)

『樹のうえで…』全原稿確認

8月2日(日)

もう夜の7時過ぎ。外は日が落ちて暗くなった。
夕べは11時過ぎに寝室へ上がって、12時ころには寝たと思う。夜中に目が醒めて時計を見ると3:33。思わず苦笑いして枕元の三津子の写真に「確変だね」と声をかける。いったんトイレへ行って追加の薬は飲まずに戻るが、4時、5時…と、浅い眠りと目が醒めるのを繰り返して朦朧、6時前には起きてしまった。
起きてしばらくぼーっとしたあと、洗顔その他のことを済ませ、着替えて玄関を出る。すると、廊下の軒下あたりで休んでいたのか、コウモリが「キーッ、キーッ!」と叫んで逃げて行った。たった一羽の小さな薄茶色のコウモリだった。前にも何度か三津子と一緒に、うちの裏の疎水あたりの上をけっこうな数で舞っていたのを見たことがある。きっと近所にねぐらがあるのだろう。驚かせてごめん…。
コンビニではおにぎりとハンバーガーを買って戻た。出た時は雨は上がっていたのに、線路の向こうにあるポストに郵便物を入れて渡って戻る頃にはぽつぽつと雨が降ってきた。コンビニを出て慌てて小走りでマンションに戻った。
それからおにぎりをたらこの残りとインスタント味噌汁で食べ、胃に血が下がるのを待ってソファでちょっとうとうとする。2〜3時間ほど薄く寝た。

その後はパソコン仕事をして、昼はハンバーガーをチンしてペットボトルのミルクコーヒーで食べた。
朝、熟睡出来ずに朦朧とすると、半日無駄になるような気がする。なので午後は『樹のうえで猫がみている』の原画を出して、一枚一枚確認して整理をする。筑摩書房版のものは前にスキャンするために一度収録順にひとまとめにしてあり、CD−ROM化の際に描き下ろしたカラーの作品2編と、新に加えた「ラ・メール」連載分のものも全部あったので、ひとまず安心。
ただ半数くらいはトレーシングペーパーがはがれていたり破損したりしているので、新に補修したり、折れているものを直したりしつつ、最終的にはスチロールパネルでがっちり補強用に箱状にしたものを作って原画を全部収めた。

この「ラ・メール」の詩画連載の途中で、俺たちは団地で一緒に暮らすこととなった。作品の中には俺とのことを書いた作品もあって、改めて懐かしさと共に彼女への愛がつのる。そして同時に大きな喪失感も覚える。
それを終え、同じ形式…見開きで詩画を作るという、『コスモス』誌の連載(2004年1月号〜2006年3月号、21回で休載)「見上げれば虹」も改めてデータで検証するが、こちらは彼女の最後の連載作品であり、絵を入れたものとしても最後のものとなる。やはり体調が思わしくなかった時期なので、数回分は線が不安定なものになっていたり、全く描けずに過去のものをCGで加工したり流用したりすることとなっている。
彼女の「COM」入選以来、研ぎ澄まされて極限まで達した美しい「線」は、病という抗えない力によって失われつつあった。
詩そのものも、かつてのように多方面へと関心が向けられることが減り、ごく近い猫や生活の範囲・内面にとどまり、今にして思えば、ほんとうに「今にして」なのだが、彼女の命と作家としての命も最晩年に向かいつつあったことが解る。そしてそれはとても切ない。
それでも、時おり素晴らしい往年の「やまだ紫」の線が蘇った作品もあって、これも『樹のうえ…』を再び世に送り出すにあたり、ぜひ収録していただけないかと思う。
それやこれやで、一段落すると5時半。

三津子には小皿に小梅、金時豆、プロセスチーズとレタスに鶏肉とキュウリのサラダの小盛りを「突き出し風」にしたものと、アスパラのベーコン巻きに実家が送ってくれたカール・レイモンのブロックベーコンを切って焼いたものを添えた。
それでまた、夫婦で晩酌の時間。もう7時半をまわった。
今日の晩酌
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2009-08-01(Sat)

未発表作に思うこと

8月1日(土)

夕べ寝たのは1時ころ。
今朝はまたユキが足元で寝ており、熟睡出来ず。言葉がわからない生き物を、無碍に蹴飛ばしたりベッドに来るたびによけたりすると、嫌われていると思わないかと、変な心配をしてしまう。なので途中で気付いても、そのままにしてこちらが気を使っている。

朝方からそういう状態で朦朧としたまま10時手前にふらふら起きると、ユキはいつの間にか足元に置いた折りたたみイスの上ですやすや寝ていた。俺の足元から移動して外を眺めているうちに寝てしまったらしい。
曇っていたが比叡山は山頂まで見えた。
下へ降りて朝のもろもろを済ませる。しばらくメールなどチェックしたり返事を書いたりしていると、ゴゴゴンと雷の音。いつの間にか空は薄暗くなっていて、大雨になった。
こういう天気、三津子が好きだったなあ…と思いつつ外を見る。あの人は雷が鳴り出すと飛び起きて、満面の笑みでベランダへ出て行ったっけ。
その後しばらくして雷雨は止み、夕方までには青空に白い雲。どうなってんだか。

その間、『樹のうえで猫がみている』の原画を整理をしようかと思って納戸を開けて原画の袋を取り出し、ついでに別の袋を出して中身を改めると、「COM」以後「ガロ」でいわゆる「復帰」をするまでに描きためられたと思しき、描きかけの原稿の束が出てきた。

その中に、けっこうな枚数があり最後までペン入れを終えている作品があった。それは「描きかけ」といっても扉がないのと、本文の鉛筆線を消しゴムで消していないだけで、あとはタイトルとタイトル画があれば立派な完成作品だ。原稿のようすと画風からいって、「ガロ」復帰よりは数年前、だから「太郎」や長月三津子名義での「GALS LIFE」への執筆よりも以前と思われる。
誤解されがちだが、彼女の処女「単行本」上梓は遅く、青林堂の『性悪猫』(1980=昭和55年8月)である。
漫画家としてのデビューは「COM」に掲載されたのが1969=昭和44年(「ひだり手の…」)なので、そこから単行本が出るまでずいぶんかかってしまった。それはもちろん、結婚と出産育児によってのブランクがあったためである。それにしても、10年のブランクがあっても、作家性に衰えはなく、いや、さらに進化して画力も大幅に向上しての「復帰」は、いかにこの「休筆(せざるを得なかった)期間」にも、彼女が精進を欠かさなかったかということの証明だろう。

そういうわけで「COM」に描かれたものを中心に編まれた初期作品集『鳳仙花』(ブロンズ社)が最初の単行本だと誤解されることがよくあって、実際やまだ自身も数年前までそう勘違いしていたことが、彼女に聞いて解った。
「あれっ、『鳳仙花』が先じゃなかったっけ?」と言って笑っていた。「休筆」前の自分にとっては未熟と思っていた作品群が、『性悪猫』のあとに出たとは、本人でも記憶上思えなくなっていたのだろう。
もっとも『鳳仙花』は『性悪猫』とほぼ同時期(…同じ年の10月)に出版されたから、勘違いも無理はないが。

さて、新に発掘した「未発表作」だが、例によって執筆された年代の特定が困難だ。
そもそも『鳳仙花』所載の「落花生」にしても、『鳳仙花』のために「描き下ろした」のではない。「未発表作」だっただけで、描かれたのは恐らく「ガロ」の入選前後だろうと思う。画力からいうと「ガロ」入選作(1971年2月号掲載「ああ せけんさま」)よりも上のように見えるので、その後に描かれたもんかも知れない。
ちなみに「ああ せけんさま」は現在に至るまで単行本には未収録だ。
そして今回発見した未発表作より、『鳳仙花』に収録した当時未発表作だった「落花生」の方が漫画としても画力も、上だと思う。こういうパラドックスみたいなことがあると、「クロニクル」作成には本当に困ることになる。
しかし今回の「未発表作」、執筆時期は恐らく1971年の中頃と見た。
主人公は、両親はおらず姉と二人で暮らす中三の少女。繊細な心を持つがゆえに同級生や教師と折り合いが悪く学校をサボりがちだが、それを友人に「不良」と断じられ、危うく本人もそういう道へと傾きかける。だが踏みとどまり、姉の自分への思いへも気持ちを寄せて、精神的に一つ大人になる…という「小さな日常」を描いた小編だ。
大事件が起こるわけでもない。大雑把に過ごせば何てことはなく過ぎ去ってしまう、子供と大人の間の一瞬、その日常を切り取った、まさしくやまだ紫の作風と言えるもの。こうした感性とテーマは「COM」時代からのもので、その意味では立派な「やまだ紫の作品」だ。
ただ彼女は完成寸前だったこの作品を発表することはなかった。
つまり、『鳳仙花』出版にあたって彼女は、十年前の「COM」時代の「未熟な作品」をまとめるというのは、かなり「恥ずかしいこと」だったと後に述懐している。それで、せめて当時の、つまり「結婚・休筆」前の未発表の作品の中から「これなら」というのを選んだのが「落花生」だった…。
『鳳仙花』所載の作品は、確かに後の「やまだ紫」から見れば未熟かも知れないが、今見ても、どれも素晴らしいと思う。何気ない日常、暮らしの中でひとの内面を鋭く描き出し、読む者に「気付き」を与える。画力が少々追いついていないだけで、これぞ「やまだ紫の世界」という作品ばかりだ。
ちなみに「落花生」のタイトル画は紛失したとして、『鳳仙花』出版時(つまり十年ほど経って)描きおろしたものだ。なのでこの扉の一枚絵だけ、収録作と絵柄が違うことに、お持ちの方なら気付かれるだろう。
今回、その「落花生」の幻のタイトル頁も未発表原画の中から発見した。
『鳳仙花』に収録された、「COM」から十年を経て大幅に向上した画力に磨き上げたものではなく、どこか無骨で初々しさの残る絵だ。やはり「ああ せけんさま」と同時期だという推理は正しいのではないか。
そしてもしこれが『鳳仙花』にそのまま「落花生」のタイトル頁として収録されていたら、どうだっただろう…と想像してしまう。

無題の「未発表作」をなぜ1971年ころと推測するかという理由はもう一つ。「ガロ」の「ああ せけんさま」の画力と「落花生」では、「落花生」の方が画力からみて後であろう。「未発表作」は、この「落花生」と同時期か、少し後のように見える。
しかし彼女があの超難関・「ビックコミック賞」に佳作入選したのは1972年(掲載は73年)。この作品では、たった一年でメジャー一流誌に認められるまでに、めざましい画力の向上を見せている。
つまり、この間…1971年の「ガロ」入選以後一年ほどの間に、何作かこつこつと描き溜めたものが「落花生」でありこの「無題」の未発表作品だと推定するわけだ。
おそらく、『鳳仙花』の出版にあたって、未発表作で何を入れるか、彼女は「落花生」を選んだ。そして今回出て来たタイトルのない「無題」作品は没とされ、いつしか彼女もその存在を忘れた…。
そういうことではないかと、想像するわけだ。

同じ封筒からは、ペン入れだけをざっと粗く入れてあるもの、鉛筆線だけのもの、さらにラフっぽい線だけのものなど、けっこうな未完成原稿が出て来た。
これらは恐らく、先の推測からしても、使っている原稿用紙などからも、1971年から1979年にかけてのものにはもう間違いがない。
1971年に結婚し、1972年「風の吹く頃」という少女が父親を殺すというある意味ショッキングなストーリーで見事「ビッグコミック賞」佳作を受賞してから、1978年に『ギャルズライフ』に長月三津子名義で「わたしの青い星」を描くまでの間、彼女はこつこつと作品を創ることを忘れていなかったのだ。

彼女自身が後年よく話してくれたように、単に「結婚・出産・育児による休筆」ではなく、「結婚直後から夫の飲酒による暴力、度重なる浮気、挙げ句の別居」もあったという。
けれど、数年間好きで交際した相手と結婚し子をなすということは、愛し合った男女の生活がそこにあったことは間違いがない。
一方的に彼女の最初の結婚が、その日その瞬間から全てがどす黒く暗いものだったとは思えないし、思いたくない。
これも彼女自身の口から聞いたことだ、結婚はともかく出産や年子で生まれた赤ん坊を、たった一人で面倒を見ながら「漫画を描く」なんて「物理的に不可能である」と。
目尻を下げて何もかもやってくれる優しい夫や義理の父母でもいれば、それは苦労はないかも知れない。しかし彼女は「一人」だった。
赤ん坊という生き物は、知性を持って生まれては来ない。傍にいる者に、ただ欲望と本能のまま、一方通行で泣いたり笑ったりして訴えることだけしか知らない。側に居る人間が自分だけだったとしたら、それをほったらかしにするということは、「母親」としても「人間」としても、出来ることではないでしょう? 彼女はそう言っていた。

作家「やまだ紫」が生まれた「COM」入選作『ひだり手の…』(1969年5月号)、そして「ガロ」入選作『ああ せけんさま』(1971年2月号)、さらに「ビッグコミック賞」佳作受賞作『風の吹く頃』(1972年、掲載は1973年5月15日増刊号)。
「ガロ」と「COM」という伝説の雑誌に加え、「ビッグコミック」という超メジャー、マスの世界でも高い評価をされたという「事実」は、作家・やまだ紫が単に彼女が謙遜して言っていたような「単なるマイナー作家」などではないことを示している。
このことは、漫画史にきちんと記しておかねばならないと思う。







凄い三作●これほどの凄いスリーショットがあろうか…
「ひだり手の…」●「ひだり手の…」・「COM」入選作、1969年5月号
「ああ せけんさま」●「ああ せけんさま」・「ガロ」入選作、1971年2月号
「風の吹く頃」●「風の吹く頃」・「ビッグコミック」佳作受賞作、1972年・掲載73年
柱には白土三平先生評が!●掲載時、柱には巨匠三人の論評つきだった/コピー提供…小学館クリエイティブさん

ちなみに「ビッグコミック賞」の選者が73年の作品掲載にあたってコメントを寄せている。
その顔ぶれがもの凄い。
白土三平、横山光輝、藤子不二雄である。
白土三平は、絵には「一見粗雑さを感じる」としつつ、「もう一水準上での表情の工夫があれば、グーンとよくなる作品です!」と絶賛している。
横山光輝は「少し荒い感じのする絵だが、この作品の場合は、これでいいという気がする。」、「これだけの描破力のある人だから、次回はゼヒ読者がとびつくようなおもしろさへの挑戦を!!」とやはり絶賛。
藤子不二雄は「作者の才気と生活の実感がよく出てい」るが、「ドラマとしては若干絵に頼りすぎ」としている。
これらの先生方を「巨匠」と呼ぶのに、誰も反論はないと思う。そして、その先生方からの「やまだ紫への評価」も。
まったくもって惜しい時期に、彼女は「休筆」をしたものだ。いや、「休筆せざるを得なかった」のだが。
もちろん、二人の子供たちにとって、母親がちゃんと赤ん坊の時に常に守ってくれたことは幸いだったと思う。しかしこの時期に「作家・やまだ紫」がほぼ6年間作品を発表できなかったということは、漫画を愛し漫画業界の端くれに居る者とすれば、不幸以外の何ものでもない。

自分は、一人の女性、妻、連れ合いとしての三津子というひと、ももちゃんやゆうちゃんの母親としての三津子と一緒に暮らすことが出来たが、その部分と、尊敬する偉大な才能であった「やまだ紫」とをなるべく分けて接していた。
そうしなければ、とても彼女に料理をつくってもらったり、「夫」などという立場に居させてもらえるわけがない。敬愛する作家に「ねえもうちょっとご飯よそってよ」とか言えるわけがない。
もともと「編集は黒子たるべし」という自分なりの哲学があったのと、やまだ紫に比べて自分という人間などカスみたいな存在だという認識があったので(今でもあるが)、一緒に暮らすようになってからずいぶん、公には二人が「夫婦」であることを隠してきた。隠さないと、彼女の作品の読者にも失礼だと思ったからだ。

今、三津子は死んでしまった。でも俺と共に彼女はある。
やまだ紫も作品と共にファンの皆さんと共にある。
俺もファンの一人だから、今、俺の中でようやく三津子とやまだ紫先生が一つになって、共にあるのだ。
三津子の歩んできた人生と、作家であるやまだ紫を重ねて研究していくことで、作品の理解は深まるし、違った感動もまた生まれる。つまりはファンとしてまた違う喜びを新にする、ということだ。
こんな作業を任されるとは、幸福の極みだと思わねばならない。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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