2009-09-30(Wed)

切り花

9月30日(水)

朝は6時ころユキがにゃあにゃあ言って起こすので、撫でたりしてやるが、その後は朦朧。8時前には起きる。外はさあさあと雨が降っている。まさしく秋雨という感じで静かに降っている。
朝のことを済ませて、三津子の花が枯れかかってきたので10時ちょっと前に着替えて買い物へ出る。雨なので、自転車ではなく傘をさしてまずコンビニで電話代を払い、それからスーパーまで。総菜などは買ってあるので、不足しがちな野菜サラダなど少量だけ買って、テッポウ百合、すかし百合と小菊の束を買った。帰り道、コンビニにまた寄ってサンドイッチを買って戻り、朝はそれで済ませる。
前に買った百合と赤い花、黄色い菊などの花束は枯れたものから外していき、最後に菊と名前を知らない緑色のものと赤い花だけが残っている。切り花とはいえ健気な気がして、捨てられず台所へ移動し、中くらいの花瓶に買って来た百合や小菊を生けて写真に添える。
その後は仕事。ひたすらパソコンに向かって作業。一段落すると1時を過ぎていたが、携帯に仕事の連絡が入り、その手配などをする。雨はいつの間にかあがっていた。
テレビは見るものがないので少しだけ読書をする。まあ昔買って内容は忘れた新書とか。
夕方、そういえば昼を食べそびれたので腹が減って、5時半ころ少し早めに晩の支度をする。といっても買ってあった総菜を暖めたり皿に盛りつけたり、野菜をサラダにしてトマトを添えたり簡単なもの。三津子にはいつものようにお茶と酒、陰膳を整えてビールで乾杯をする。
九条ネギのぬた、野菜サラダと冷やしトマト、少量の肉じゃがと酢豚。食べながらニュースなどを見て、缶ビールを飲んだら眠くなってしまった。何だかこうして一日が終わってボケていくような気がしていかん、と思う。

台所へ皿などを置きに行くと、朝移した花の花瓶、緑色の名も知らない花は枯れかかっていたので、「ありがとう、もう頑張らなくていいよ」と声をかけて花瓶から外し、ゴミ袋にそっと入れた。そうしたらブワッと涙が出た。「ありがとう。もう頑張らなくていい」というのは、三津子が倒れた後、病室で何度もあの人にかけてあげた言葉だった。
トンデモな話だと笑われるのは平気だが、これらの花に毎朝水を換えるときに、「ありがとう、綺麗だね」と声をかけている。気のせいかすごく長持ちしている、というか切り花なのに、懸命に水を吸って生きているような気がして、それが枯れていくのを見るのは、まるで人の生を見送るような思いがあり、どうにも辛い時がある。
枯れた花を捨てる時はいつも合掌し「ありがとう」と自然に言葉が出てしまう。
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2009-09-28(Mon)

永観堂にて「秋季焼骨灰供養法要」

9月28日(月)

朝は7時に起きた。外は曇っていて、小雨が降っているようにも見える。
今日は永観堂(禅林寺)で行われた「秋季焼骨灰供養法要」に行かねばならない日。行かねばならないというか、行こうと思っていた。
関西は、というか京都しか知らないが、火葬のあとお骨は全ての骨を拾うわけではないという。足の先から頭までの中から、重要な骨の一部分を皆で集めて行き、最後にのど仏を仏様に見立てて飾るように載せて骨壺を閉じる。よって骨壺も関東のものに比べるとかなり小さい。
当然のことながら、焼け残ったご遺骨の灰が大量に残る。あの辛かった連れ合いの火葬の時、最後に指先につけた彼女の骨の粉を飲み下しながら振り返った光景が頭から離れない。葬儀屋さんは
「残ったご遺骨はですね、ねんごろにお弔いを致しますから。キチッとやらせていただきますから、大丈夫ですよ」と念を押すように言ってくれたが、それでは一体あれらの残った骨を具体的にはどうするのかは知らなかった。
その後調べてみたら、京都では年に二度、春と秋のお彼岸に、それまでの半年間の間に京都(と宇治市)で亡くなった人の拾い残された焼骨灰を合同供養するのだと知った。
8月か9月になって、密葬をお願いしたところからハガキが一枚届いた。そのハガキを持参して永観堂へ赴くと、本堂での供養に参加できるということだった。

朝、洗顔などを済ませたあと、三津子とご先祖様に水と茶を取り替えて、線香を立てていつものように手を合わせる。それから、ずっと招き猫にかけてあった数珠を持つ。朝ご飯は食べてしまうと外でトイレへ行くことになるのが嫌なので、何も食べずに薬だけを飲んだ。
10時半から宗務総長というお坊さんの法話があるそうなので、10時過ぎに支度をする。喪服は腹がしんどいので、黒いジーンズに革靴、上はいつか三津子が俺にプレゼントしてくれた、ちょっとオシャレな黒の半袖シャツを着て、家を出た。
雨が降りそうだったので折り畳みの小さなミニ傘と、デジカメも持った。タクシーはすぐにつかまり、十数分で永観堂の前に着く。
三々五々、喪服を着た人もいれば平服の人もおり、また供養とは関係のない観光客らしい人も少数いた。
境内に入っていくと、喪服を着た係の人がそこここで案内をしており、ハガキを見せると遺族たち専用の受付へ廻る。インフルエンザ対策でマスクをしようと思ったら、ちゃんと無料でマスクも置いてあったので、「一枚いいですか」と門徒の方らしい受付の人に聞いたら「どうぞどうぞ」と笑顔で言われた。上品そうな老婦人だった。
受付でハガキと引き替えに、手提げ袋を貰った。式次第と、おそらくハンドタオルかハンカチ的なものが入っているらしい小箱が入っていて、「お念珠もどうぞ」と言われて小さな紙袋も一ついただく。
それから、卒塔婆を出して供養していただくため、三津子の戒名と俗名、俺の住所氏名を用紙に記入し、三千円を支払う。これは必須ではないらしく、何もせずにそのまま奥へ進んで行く人も多かった。

それらを終えて本堂へ向かうと、ぽつ、と一滴雨が軽くあたったような気がして空を見上げると、明るいが一面の曇り空。
本堂の手前に置かれた焼香台で、霊前でするように焼香をし、合掌する。それから靴をビニール袋へ入れて持ち、上がって本堂へ進むように促され、皆ぞろぞろと歩く流れに従っていくと、本堂内はもうすでにたくさんの人が座っていて、周辺にも人が座り始めており、全く本堂内が見えない位置まで来てしまう。
しばらくそこで我慢していたが、10時半になると本堂から降りる階段前にあった焼香台が移動された。なので本堂の正面にスペースが出来たので、いいタイミングでご本尊の正面にある扉の前へ立てた。
俺の前に立っていた人が疲れたのか座ったので、視界が開けた。
改めて本堂の中を見回すと、正面のご本尊をまつる祭壇を三方囲むようにして、遺族の人たちがぐるりと座っている。その前列にはお坊さん用と思われる椅子があり、ご本尊の真正面にはひときわ立派な椅子が置かれていた。
まずは宗務総長というお坊さんが遺族側、つまりこちらを向いて法話をされる。実際は卒塔婆の用意が整い法要を開始するまでのつなぎであろう。ちょうど11時、法話が終了して、西を向いているご本尊の両脇から僧侶が入場してくる。
左側つまり北側にはこのお寺の僧侶たち、右側・南側からは京都市と葬祭業協会の代表、それから別の宗派のお坊さんたちが入って来て、それぞれご本尊に向かって並んで椅子に座った。最後に管長猊下が入って来て、ご本尊の正面に置かれた椅子に着席した。
永観堂本堂京都仏教会の会長である東伏見慈洽猊下の弔辞から読経が始まり、それを立っている列では一番前から見ることが出来た。三津子が「ここ、ここ」といい位置へ連れてきてくれたみたいだな、と思いつつ合掌。
ずっと立っていると足の裏に痛みが出て、膝も痛くなってきたが、これは彼女のための法要なのだし、つまりは生きている自分のための法要でもあるのだ。
じっと立って時おり「南無阿弥陀仏」と合掌しながら居ると、汗が出て来た。しかし境内をすう〜っと涼しい風が通り、それが心地良い。
「儀式」はとても厳かで有り難い雰囲気であった。「ねんごろに弔う」という言葉が脳裏に浮かんだ。

最後に椅子に座っていた猊下がこちらを向かれ、柔らかい京都弁で法話を短くされた。けっこうなお年に見えた。
こんなにたくさんのご遺族の方がお集まりになられて、御霊、魂、霊。必ず皆さん今こちらにおられますよ。さぞかしお喜びのことと思います。残念ながら亡くなってしまった方はもう、この世には戻られません。けれども皆さんがたがこのように供養をずっと続けられるということは、とてもいいことです。そしてそのことは、皆さんのこれからの幸せにもつながることなのです…。
そのようなことを、笠智衆のような柔和な語り口で聞かされると、思わず涙が出た。

法要が終わり、階段を降りようとするが、膝が固まっていた。そのまま階段を降りると転ぶな、と思ったらちょうど良く、すぐ前にお婆さんとその孫娘らしい二人連れがおり、「ちょっと、転ぶからそこつかまって」と言って欄干につかまりながらゆっくり降りる。そのペースで俺もつかまって、一段ずつゆっくり降りる。
靴を履き直して袋を返し、境内をぞろぞろと引き返す列に加わる。永観堂は観光客も訪れる、小さいがいい庭を持ったお寺なので、池の写真も少し撮った。山門を出たあたりで雨がサーッと降ってきたので、折り畳み傘を広げる。傘を持ってきている人は多く、あちこちで傘が開く。
白川通りまで出て、タクシーが通りかかったので手をあげる。あまり歩くと膝がいかん。
「出町の升形商店街まで」と言って乗り込むと運転手さんが「観光ですか」というので「いえ、今そこで法要があって」と言うと「ああ、永観堂ね」とすぐに了解したようだった。「出町の升形」というと豆大福で有名な「出町ふたば」があるので、観光客かと思われたようだ。確かに、あの近所に住んでいるのでもないのに、わざわざタクシーであそこの商店街へ乗り付けて買い物をする人はいない。
道々、自然と先ほどの法要の話になる。

そこで車中で思い出したのだが、そういえば、先日夕方のニュースだったか昼のワイドショーだったか記憶にないが、大阪の天王寺近くの逢坂にある一心寺の「骨仏」の話を見たのだった。運転手さんに聞いてみると関西の人なので「話にはチラッと聞いたことはありますねえ、詳しくは知りませんけど」とのことだった。

その一心寺というお寺では、明治より十年ごとに一体、納骨された骨をお坊さんたちがすりつぶして粉にし、それで阿弥陀仏様を作って、本堂に安置するのだという。1887年から10年ごとに一体ずつ作られ、途中初代から7体目までは一度戦争で焼けてしまったそうだが、何と、戦後その灰を集めて、またそれで骨仏を作り、今に至るまでまた作り続けているというのだ。
俺が見た映像では、その現存する最初の阿弥陀仏は多少黒ずむというか灰色にはなっていたが、しっかりとした風情であった。10年ごとに15万体〜20万体の遺骨が使われて、一体の阿弥陀仏さまとなるそうで、現在もう13体目だそうだ。(つまり消失した灰で作られたのが7体目で、現存するのが7体)
なぜこんなことを詳細に覚えているかというと、「こういうことがあったのか」と思い近くにあった封筒に筆ペンでメモをしながら見ていたからである。
このお寺では宗派を問わず、全国どこからでも遺骨の持ち込みを受け入れており、遺骨は次の阿弥陀さまが作られる際まで供養をしつつキチッと保管されていくという。
しかも、法外な料金を取るわけではなく、1体につき1万円から高くても3万円程度まで、とその放送では言っていた。
例えば無縁さんだけではなく、今現在自分が死んだらもう墓を守る人がいなくなってしまう、というような人も、全国から今のうちにと骨壺を持参されることもあるそうだ。
また墓を維持することをとりやめ、中のお骨は地元のお寺で供養して散骨などしてから、重要な骨=例えば喉仏などだけを持ち込む人も多いという。
いずれにしても、亡くなった方の骨が阿弥陀仏となって、そこに一年三百六十五日、必ず誰かが線香を焚き手を合わせに来る。お盆の時だけ思い出したように手を合わせに行く人も多いが、ここに骨をお預けすれば、間違いなく末代まで全国の人たちがお参りに来るわけだし、何より、文字通り本当に「仏」となるということが素晴らしいと思った。
俺が死んだら大阪の一心寺に納骨をして貰おう。本当はそこらに蒔いてもらってもいいのだが、そういうわけにもいくまい。そう思ってメモしておいた。
「人間死んだらモノだから」こういう人はたくさん居るし、現実に焼かれた骨を見ると確かにもうそう思うしかない。けれど、ではモノだからぞんざいに扱えるか、何度も握り合った手や一緒に歩いた足や、顔や、頭の骨を、モノだからといってそこらへ捨てられるものか。それは単に感性が鈍磨しているだけの話だろう。
なので、生きている人が「死んだら骨なんかそこらに捨てていい」というのは、残された人の気持ちを考えない、不遜な言い方だと思う。
愛する人を残して逝ってしまった人がもっとも気がかりなのは、何より残された人のことだろう。その人を安心させることは、すなわち自分の安らぎにもなる。

タクシーは出町升形商店街に着いた。スーパーで切れていたねりからしとショウガにアジフライ。それから隣の、前に買っておいしかった総菜屋でおかずと松茸ご飯を買う。「おかずセット」という総菜の詰め合わせをレジのお姉さんに渡しながら松茸ご飯を取ろうとすると、「あったかいの、おひつからよそりますよー」と元気に言ってくれる。1パック480円くらいで、たっぷり1人前半、という感じ。
ほかほかの松茸ご飯のパックを受け取るときに思わず「おおきに、ありがとう」と言ってしまった。「おおきに」が自然に出たのはこれが初めてだ。
それからタクシーで自宅前へ直行。12時半ころだった。
着替えて三津子に線香をあげて数珠をまた返し、買って来たものをしまって、おかずセットを暖め、松茸ご飯を食べる。今日初めての食事なのでうまい。三津子にも小さな椀に小分けした。
松茸ご飯
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2009-09-27(Sun)

ゆうちゃんの写真サイト

9月27日(日)

いつものように8時前に起きた。京都は今朝も、穏やかな天気。朝のもろもろを済ませたあと、ユキが窓際の日溜まりでコテンと寝てしまったので、今のうちとシャワー。
しかし途中で俺の姿が見えないことに気付いたらしく、もの凄い大音声で鳴きながら捜し回っている声が聞こえてきた。そのうち声が小さくなったので、またベランダ側の机の上で「くるくる行動」をしているのだろう。
数分後浴室から出て仕事部屋を覗くと、案の定自分の尻尾をくわえて「うわぁ!わにゃぁあ!」と鳴きながらくるくる廻っていた。
こちらと目が合うと、ハッとしたように「にゃーん!」といつもの声に戻って飛び降りてくる。
俺はちゃんと居るよ。
…いい加減学習してもらいたいと思うのだが、耳が聞こえないので声で居ることを知らせることも出来ない、常に視界に入っていないとならない…ってお前は俺の看守か、と苦笑する。と同時に、もし俺がほんとうに居なくなってしまったらどうしようか、とも思う。

朝はそばを茹でてざるそばにする。刻みノリはストックしてあるし、ダシつゆとわさび、あとネギは刻んだばかりのものがチルドしてある。それから少し仕事をして、今日も読書と音楽。

3時過ぎに、関東に住むゆうちゃんから携帯にメールが来て、「WEBサイトを再開した、ママの詩も使ったから見て」とのこと。三津子の長女であるももちゃん、次女のゆうちゃんは二人が中学生くらいの頃に何度か「ガロ」の4コマ投稿欄に描かせたりしたことがあったが、その後は二人とも母と同じ漫画や表現の方向へは進まなかった。
「この世界は議員やタレントみたいに二世がそれだけで食えるほど甘いもんじゃない」と、母であるやまだ紫は言っていた。我が妻ではあるが「凛としたひとだ」と思ったのを、覚えている。

そうして大人になってからは二人とも仕事を持ち、そして結婚後はそれぞれ子育てでアレコレと忙しくしている。
ゆうちゃんの方は以前から趣味としての写真が好きで、時おりくれる写真を見て三津子は「なかなかセンスがある」と言っていた。断っておくが、「やまだ紫」は身内だから、娘だからといって手放しに褒めるというバカ親では、ない。
それに「才能」は遺伝などしない。ただ伝えることが出来るのは、一緒に暮らし教えることで、その子の感性を鍛える環境を作ることだ。
俺が見ても、ゆうちゃんの写真は「オッ、いいねえ」というものが何点もあったので、公開したらどうか、という話をよくしていた。そのうち「俺が作ってやるよ」なんて言ってたら、自分で(独学で!)htmlを学んで、サイトを作ってしまった。イケてるサイトをほとんど自分一人で作ってしまったのだから、このあたりの「感性」は親譲りと思うしかないのだろうか。
写真といっても、使っていたカメラも「機材」と言うほどのものではなく、どこにでもある何ということもないコンパクトカメラだった。
俺は「ガロ」に入る前に実は写真の通信教育も受けており、マニュアル式カメラから入って、その後自費で(青林堂が機材など買ってくれるわけもない)一眼レフ、レンズや三脚やフラッシュやレリーズやらフィルタなどとにかく一式を中古などでコツコツ揃えていき、「ガロ」の作家取材やブツ撮りも全部自分でやった。
もちろん、元々カメラも写真も好きだったので(撮られるのはイヤだが)それなりに風景や猫や何やと撮ったりはしたが、同じところへ行って同じ場所で写真を撮っても、こちらのゴツい一眼レフで撮った凡庸な写真よりも、やまだ紫がコンパクトカメラで一枚だけ撮った写真の方が、遥かに「いい絵」になっていた。
そんなことが何度もあり、また同じことはゆうちゃんの写真からも気付かされたものだ。
つくづく、「写真は機材ではない」ということを教えてくれたのが、やまだ紫とこの娘であった。

それから2005年に俺は病気をし、もうゴツい銀塩一眼レフや交換レンズを持って飛び回ることはないと思い、持っていた機材を全てゆうちゃんにあげることにした。
彼女はその後も子どもたちの写真や風景を切り取り、ブログにアップしたりするようになった。俺たち夫婦は時々その写真を見ては「なかなかいいね」と話し合っていたものだ。
そのうち、ゆうちゃんは二人の娘が上は小学校、下は年長組になったあたりから、忙しくてブログが更新できないといって閉鎖してしまった。
母親である三津子、やまだ紫はしばらくそのことを知らずにいて、いつだったか「あれ、ゆうのサイト開かないよ」と言うので聞いてみたら、学校のことや家事や仕事で忙しいし、放置しておくのも見てくれる人に失礼だから閉鎖したということだった。そのことを一番残念がっていたのが、他ならぬ母親の三津子だった。
「あの子いい感性してるのに、残念だね」と言っていた。俺もそう思っていた。

今年5月、ゆうちゃんの母、三津子・やまだ紫が亡くなった。
その後、俺はご覧の通り自分の悲しみの大きさに耐えきれず、それを乗り越えようと必死でもがくあまり、二人の娘たちにはむしろ励まされることしかなく、情けない限りだった。
けれどここ最近、ゆうちゃんが持っていない母の本を欲しいというので送ってあげたり、また家庭内のことでやりとりをしたりする中、「やりたいことがあるんだったら、やった方がいいよ」とだけ伝えたことがある。
きっと彼女は彼女なりに色々と考えた結果、サイトを再開したのだろう。これまでもそうだったように、「やまだ紫の娘であるということ」をあまり出さずに、控えめに好きな写真を掲載していくのだと思う。

自分の愛する母が斃れ、意識が二度と戻らぬという残酷な時間、何も知らず公園ではしゃぐ娘らと京都に居たとき、彼女は公園の足元にカメラを向けた。

4月29日に撮られたその写真には
「母がいる京都。苦しいくらい眩しい。」
というキャプションと、木漏れ日で輝く眩しい緑が映っていた。

あの、ほんとうに辛く苦しい、そして何よりも人生で最も悲しい日々を思いだし、俺も胸が苦しくなった。
ひねもす雑記帳
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2009-09-26(Sat)

「カムイ外伝」映画化・白土先生の鼎談

9月26日(土)

最近は12時過ぎには寝て、朝方5時前後に目が醒め、あとは薄く眠って8時あたりで起きる…というパターンがほぼ定着している。規則正しいと言えばまあそうとも言えるかも知れない。

朝、目が醒めてどこも痛くない。普通に起きられる。
こんな何でもないことが、有り難いと感じられるのは、間違いなく「病気のおかげ」だ。自分の病気もあるのだが、連れ合い…三津子もここ十年ほどはずっと、病気に苦しめられてきたこともある。

自分には何も誇れるものも成し遂げたこともなく、連れ合いに先立たれてしまっては何を目標に生きるのか。そう自問自答する日々が続いたし、今でもそういう気持ちが時おり頭をよぎるけれども、結局は
「生きているのではなく、生かされていること」
に感謝することへ帰着する。
つまり、まあ生きていられるということそのものが、生きるということでもあるということだ。禅問答のようなこういうことを、ベッドの上で半身を起こして考える。
毎朝目を醒まし体を起こすと、松ヶ崎の山肌に浮き上がる「法」の字と、東北にそびえる比叡山の山頂を見ることが出来る。癌に冒されていようが、朝無事に目が醒めてこうした環境に居られることに、感謝以外の何があろうかというものだ。

朝のことはいつも通り済ませて、買ってあった明太子のおにぎりとお茶。今日は仕事が空いているので久々に読書というか、雑誌を読む。

シマちゃん「文藝春秋」10月号、『カムイ外伝』映画化にちなんで白土三平先生が崔洋一監督、田中優子法政大教授と鼎談をしている。
内容よりも何も、白土先生がお元気でおられることに感激した。導入で「俺がそこの海で捕ったタコの刺身です」なんてテーブルを指さして話されている箇所など、自分が伺った時のことと鮮明にダブる。
白土先生は俺が「ガロ」時代に当時の山中社長とインタビューにご自宅へお伺いした際も、実は時おりダイビング雑誌に登場するなどのご壮健ぶりであった。
その時は「これは俺がそこで潜って捕ってきたトコブシですよ」と、やはりこの鼎談の冒頭のように奥さんが煮付けてくれたトコブシその他の海産物をふるまって下さった。それからビールを飲みながら、カムイ伝の話や当時はまだ健在だった長井さんとの思い出話から、夢のような時間を過ごしたことを思い出す。
この鼎談でも語られているように、白土先生は「付け焼き刃」と謙遜されているが、「カムイ伝」にしても忍術ものにしても、時代ものを描くにあたって、もの凄い勉強をされていたことが印象に残っている。当然ながら漢文体で書かれた資料を読んだり、文献を大変な苦労をして調べ、作品を作り上げたというお話は、今でもその迫力ある、文字通りこちらの胸に響くようなお声と共に、記憶に刻まれている。
崔さんや田中さんら、学生運動を経験した人たちが白土先生を勝手に「左翼」と誤解していた話も、やはり当時白土先生から「皆から勝手に誤解されていた」とお聞きした覚えがある。
例えばこの鼎談中でも、北小路敏(中核派の指導者)が突然白土先生のアパートを訪ねてきた時に、
「てめえらみたいにケンカばっかしで、殺し合いやっててもしょうがないじゃないか」と言って追い返した話などは興味深い。
イデオロギーがどうだ、左翼だ右翼だということではなく、「真理」の強さがそこにある。学歴など関係ない、無学だろうが何だろうが、こうした「解っている人」には、そういった真理を語る強い「ことば」がある。
そういう部分に読む者がそれぞれ、時々の「自分」を重ね、何かを読み取って影響を受けたり、感動したりするわけだ。
ご本人はいたって普通に、謙虚に接して下さる方だし、別段「これからいいことを言うぞ」的な構えで言葉を発するわけではない。
だから鈍感な人間ならば気付かない場合もあるだろうが、時代を超えて残るべき「作品」を生み出す優れた「作家」には、こうした共通する「凄み」がある。
そう、やまだ紫もそうであったように。

…にしても、とうとう「カムイ外伝」である。永島先生の「黄色い涙」といい、よほどのバカの手にかからない限り、「ガロ」や「COM」時代の名作の実写映画化は「原作レイプ」的結果にはならないと思うが、松山ケンイチの「カムイ」は白土先生のお墨付きだ。
白土先生はマツケンを一目見た時に「彼は、カムイだ」と直感したという。役者としてこれほど力になることはないだろう。何と言ってもマツケンの演技力は若手俳優ではちょっと数段階次元の違う高みに一人立っている、という印象だ。久々に楽しみな映画ができた。

昼は冷凍ご飯を温めてレトルトカレー。テレビは見ないことにする、(つい先日書いたように)唐突にムチャクチャな映像を見せられるおそれがあるからだ。

その後本を読みつつ音楽を聴いたり猫トイレを掃除したりあれこれをやっていたら、アッという間に夕方になった。
6時前、青空と夕焼けが溶けるように混じり合う。
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2009-09-25(Fri)

マンガの保存

9月25日(金)

京都は穏やかな秋空が広がる、いい気候。
夜中、なぜか数時間おきに目が醒め、深い眠りが得られず朝は朦朧とした。何とか朝のことを済ませて、気を取り直してコンビニへおにぎりと週刊誌を買いに行って、すぐ戻る。
食べながら朝のニュースワイドショーを見て、週刊誌を読み、仕事。
仕事は割合早く片付いたので、ここ一週間くらい更新できなかったブログをアップする。

その後メーラーがメール着信を知らせたので見てみると、ブログに承認待ちのコメントが入っていた。
高取英さんからだった。
「来週会いませんか」ということだったので、すぐに携帯に電話をすると、東京に帰る新幹線の車内ということだったので、詳しいことは来週講義が終わったら電話で、ということになった。
生前の三津子いや、やまだ紫の大学の研究室であれこれおしゃべりをさせていただいて、「今後ぜひ飲みましょう」と言って、やまだとは結局あれが最後になった(「こころの手紙」ご参照ください)。
高取さんはもちろん、月蝕歌劇団を主宰されている劇作家であり編集者であり評論家でもあり今は精華大の先生でもあるマルチな方だけど、昔から「ガロ」とも縁の深い、業界の大先輩でもある。
けれども全く偉ぶらないお方だし、何より話が面白い。やまだが「いい編集者は、いい人間でもある」と言っていたように、魅力的な人である。
もともと何度かパーティや酒の席でおみかけはしていたが、直接ご挨拶をしたのは、青林堂での吉田光彦さんの単行本『夢化色』を担当させていただいた時のことだから、思えばあれから20年になる(…と改めて今愕然とした)。
高取さんに本の解説をお願いするので、確か最初に待ち合わせたのは新宿の?野フルーツパーラーではなかったかと記憶している。昼下がりで若い女性がパフェ的なものを食べたりもするところだけど、割合業界の打ち合わせ・待ち合わせにも使われていた。
その後自分が「ガロ」の情報欄の入力やDTPを担当していたこともあって、劇団の情報や著作をお送りいただいたりというお付き合いがあったが、俺が白血病を宣告されたとき、一番最初に電話をしてきて下さったのが、高取さんだった。
来週が楽しみだなあ。

さて、自分のWEBサイトを開設してもう12年、このブログを開設して4年になる。こうして愚にも付かない駄文をダラダラと書き続け、たれ流してきているが、それでも、「ガロ」時代から懇意にして下さる人たちがたくさんいらっしゃる。
本当にありがたく、感謝申し上げます。


先日Yahoo!ニュースの事件のこと(『押尾事件、「野口社長に怒り爆発」』 )を教えてくれたTさんが、今度は2chでの国立メディア芸術センター=いわゆる「アニメの殿堂」中止問題で立ったスレのログを見せてくれた。

この人は業界の人だな、ちゃんと解っている…と思われる書き込みは意外に少なく、単に政治と絡めてやれネトウヨがどうしたミンス工作員がどうしたという不毛な「口論」も多い。そしてそれらを面白がってからかう書き込みも多い。まあ、匿名掲示板とはそのようなものだ、だから俺は時おりこうして「教えてもらったら見る」というスタイルだけにしている。

しかし、知ってしまうと、さすがに書き込みはしないが「ちょっと待てよ」と思うこともある。
かって明治期に浮世絵が海外へ流出し、散逸してしまったことを引き合いに出し、漫画やアニメなども国家的にそろそろ保存事業に乗り出すべきだ…という至極まっとうな意見に対し
「浮世絵も漫画もコピー文化なんだから原画に価値などない」
という、レスがつけられていた。
うーん。
当然ながら浮世絵の版木は一つではない。
色ごとに版が違い、それらを刷り重ねていくことで一枚の「浮世絵」が完成する。絵師の描いた元絵を元に彫り師が版ごとに版木を彫って行き、それらは刷り師が「印刷」する。全てもちろん手作業で行われる。こんなことは常識だろう。
その完成形としての「印刷物」つまりコピーさえ保管しておけば、オリジナル=版木に価値はない? いやいやそれは違うだろうオイ、と。(ちなみに今でも出版社のことを業界では「版元」と言うが、もちろん語源はこの浮世絵の版元からだ)

漫画も、作家がどれだけの思いと労力を一枚の原画に注ぎ込み、完成させているのか、一般の人で見たことのある人はそうはいないとは思う。
原稿には印刷つまりコピーされた本では解らない、作家の筆致やベタの塗りムラやホワイト修正があって、その「制作過程」が解る。あるいは作家によっては版面(はんづら)の外や、原稿の裏面にまで、その作家の何かしらの思いや書き込みが加えられている場合もある。

漫画家ではなくても、例えば小説家でも、そのオリジナルの「原稿用紙」に後世、計り知れない価値が生じることは、もうすでに言うまでもないことだ。
昔は編集者が作家の原稿に文字のポイント数(大きさ)を指定したり、あるいは作家が原稿用紙に自ら赤を入れ推敲を重ねたりしたが、単に複製された本では解らないそういう「過程」が、原稿や原画にはある。
完成形さえあれば良いというのは歴史、史料的な価値というものを考慮しない単純な読者としての目線からの意見であろう。だがそれでは金輪際、作家研究などは出来ないことになってしまう。

こうした単なる一読者としての私見、「感想」という「意見」も匿名掲示板では「レス」として全て等価に表示されるし、匿名掲示板はその「等価」であることがまた、存在意義でもある。だから世間でキチンと名前を出して意見を述べる場合のソース=論拠なり証拠に「2ちゃんねるのレス」と言うと失笑を買うのはそういうことだ。

ところで、では後世に「何を残し何は残さなくて良い」という「選別」はどうするのか、という疑問もあろう。後世どの作家が、どんな作品が「研究対象」になるのか…、当然の疑問だ。
そしてその判定、作家と同時代の「選別」や「評価」ほどアテにならぬものはないことは、歴史がイヤというほど証明している。ゴッホが生前全く評価されなかった…などの有名すぎる例を出さずとも、そんな事例は枚挙に暇がないだろう。
だからこそ、公的なアーカイブが必要になると思う。
まずはあまねく出来る限り収集して保存する。民間の営利事業や個人ではそれが難しい、いやまず間違いなく出来ないから、公的機関の必要性をそろそろ言ってもいいと思うのだ。

これまでの、「税金ムダ使いつまり&予算なるべく多く取りたい&使い切りたい官僚」と土建屋の癒着による公共事業、いわゆる巨大ハコモノとしての「アニメの殿堂」など確かに不要だろう。そもそもあの「予算」には収蔵するものの取得費用さえ計上されていないという体たらく、大雑把ぶりだし。

ただそれとこれとは別で、例えば現実に俺の連れ合いであるやまだ紫の原画や原稿は、遺族である俺が保存するしかない。
大学への寄贈も考えたが、どのようなかたちで保管されるのか不明だし、恒久的かどうかも解らない(私大というのは企業でもある)。
それとまずは編集者でもある俺の手で、全てをチェックして分類・整理する必要もあったこともある。幸い、俺の死後は彼女の娘であるゆうちゃんが「私が守るよ」と言ってくれたので、俺が死ぬまではここに保管しておくことにしている。

ではもし、守るべき遺族が「途絶えてしまったら」どうするのか。
二束三文で売られるのか、あるいはゴミとして処分されるだろう。奇跡的に、モノの価値が解る人が整理にあたり、その価値に気付いてくれぬ限りは、恐らく消滅すると思う。

ネットのログを読むと、色々な意見の中には「しょせん消えたり散逸するのなら、その程度のものだ」というものもある。
しかし、例えば貸本時代の水木しげる先生の原画はプレゼントにコマごとにバラバラにして文字通り「散逸」「消滅」してしまったものもある。水木しげる作品を「その程度のもの」呼ばわりは、いくら何でも許されないし、水木しげる原理主義者でもある俺も許せない。

さらに「今現実に昔の作品は単行本から復刻されているから、原画などいらない」という意見もある。
これも出版には素人の意見だと思うが、確かに貸本時代のように写真製版の精度が低く、カラーの色分解もジンク板という鉛板を使って職人が作っていた時代のものなら、印刷物=状態の良い貸本が残っていれば、今の技術・精度であればかなり忠実に再現できるだろう。実際にそういう復刻もされている。
けれども、それでも、原画には敵わないのだ。

貸本漫画まで遡らずとも、近年でも普通の人が「カラー」と読んでいる印刷物のほとんどが、作家が着色したデータを写真製版で、つまりたった4色(C,M,Y,K)で分解された網点の集まりなのだ(もちろん美術印刷などはもっと多色刷りをする場合もあるがとてつもなく高価になる)。
そこから「復刻」することももちろん技術的には可能だが、当たり前ながら原画と比較すること自体がナンセンスだ。簡単に言えば、比較にならぬほど汚くなる。こんなことは出版に素人でも、ちょっと想像すれば解ることだろう。

では印刷物からではなく、最初から原画を高解像度でスキャンし、データを保存しておけば、もう原画は無価値だろうか。

恐らく出版界の誰に聞いても、一人も「Yes」とは答えまい。
漫画家ではなくても、画家でも、版画家だったらどうだろう?
「コピー文化なんだから原画なんか不要・無価値」と言ったら殴られると思う。
戦後だけでも、もう漫画の歴史は半世紀を軽く超え、今も進化し続けている。その初期の手塚治虫やトキワ荘世代の先生方で、それこそ「ビッグネーム」ならば民間か、あるいは生誕地の自治体などで、個別に博物館なり美術館が出来て収蔵保存されているものも多い(参考=「マス・コミックの力に驚嘆」)。
しかし貸本漫画や劇画、あるいは「COM」や「ガロ」といった「非メジャー」系のものはどうする?「淘汰されてOK」「残す価値なし」と、誰が、今、言えるのだろうか?

だから、敢えて「浮世絵」という解りやすい喩えを出し、その愚を繰り返さないように、今この瞬間から収蔵を始めろと言っているのだろう。
もうすでにどんどん貴重な漫画の原画、アニメならそのコンテやシナリオも散逸したり、汚濁したり、紛失・消滅し続けている。個別に民間の力でそれらを保存していくのは無理だろう。
あの、漫画に関しては同人誌も含めて圧倒的なコレクションを誇った米沢嘉博さんでさえ、十数年前にご自宅に伺った際に「もう全てを個人が集めるなんて無理ですよ」と直接話してくれたことがある。
とにかく毎日、毎週、毎月送られてくる漫画の雑誌や単行本、それに主宰していたコミケに参加する同人誌まで含め、その数は膨大に増え続けた。それらを出来る限り収蔵しようと、米澤さんがその保存場所を確保し続けたことは余りにも有名な話である。
近年、米澤さんの死後に母校である明治大学がそれら漫画史料の保存事業として「米沢嘉博記念図書館」開館に向けて分類作業を続けていることは有名だが、それでも、コレクションの「全て」を収蔵するわけではないし、ましてやコレクション全てであったとしても、これまで出版された漫画雑誌や単行本全てではなく、さらに、原稿などはほとんど含まれていない。
また俺たち業界人なら一度はお世話になっている、現代マンガ図書館いわゆる「内記図書館」でも、全てを網羅しているわけではもちろんない。
国立国会図書館には、マンガ雑誌や書籍も寄贈され保管はされているが、これまた全てではない。
俺自身版元にいた頃担当をしていたことがあるので解るのだが、版元側が自分たちのところから出すものを「自主的に」取次を通して「納品」するかたちを取っているから、当然、極端な話エロ劇画などは保存・収蔵されていない。税金使ってエロマンガなど集めることがあるか、という意見があろうが、エロだろうが少女漫画だろうがマンガはマンガである。
ちなみに浮世絵にだって枕絵はある、つまりエロは古今東西表現の中の、一つの重要なモチーフなのは常識だ。それらに価値があるのかないのかは、そんなもの同時代の人間が簡単に判断するものではない。その取捨選択が出来ないから、国家的になるべく全てを差別せずに網羅する必要があるのではないか。

「マンガやアニメなんか税金で保護しなくても良い」と今言っている人たちは、つまり、自分の審美眼にかなう表現にしか価値はない、と言っているだけの話だ。
繰り返すが、巨大ハコモノとしての天下り先・利権がらみの「アニメの殿堂」は不要だが、文化としての漫画やアニメを国家的に保存・維持管理していく施設は必要だと俺も思う。

京都にある国際マンガミュージアムにも漫画は収蔵されているが、あれも国家的なプロジェクトではないし、そもそも物量的に保存量が少なすぎる。公開もメジャー系に偏り過ぎている。悪いが、現状ではあれこそ「巨大マンガ喫茶」ではないか。申し訳ないけれど、これは自分が現実に何度か足を運んで見た感想だ。
けれど、例えばすでにあるそういった施設を拡充していくという方策はある。そして何らかのテーマや作家別などで展示を行うなどして、収益を上げるという考え方も出来よう。

原画は、例えばそれを公的な機関が恒久的にキチンと保管してくれるというのなら、俺のような作家の遺族は、喜んで無償で「寄贈」する。
個人で保管していくよりも破損・紛失・汚損の危険性がなくなるわけだし、何より後世に残っていくという安心感があるからだ。
原画を収蔵したいのなら金を寄越せというのなら、それこそ「コピー」つまり単行本なりを保管し、とりあえずは漫画史を埋めていけばいい。パソコンのHDDにおけるデフラグのごとく、まずは全てのジャンルのスキマ、穴を埋めていこう。そして原画を保管できるなら、出来るだけそれを行おう、ということ。
著作権はそもそも死後も(一定期間)著者のものであるし、財産権は遺族が持っていてもいい。それも含めての「寄贈」であっても、個別に変えてもいい。
とにかく作家の貴重な原画や原稿、そして著作物を専門に維持管理する重要性は高い。漫画はMANGA、アニメはANIMEとしてもう世界標準語になっている。付帯するゲームなども含めて「日本が世界に誇る文化」「コンテンツ産業は重要」などと声高に言うのなら、キチンと今のうちに大系づけて保護・管理をし、そして制作の現場の育成プログラムや援助システムも作るべきだろう。

俺は以前、漫画も含めた「表現」に国家や官が口を出すな、ほっておいて欲しいと書いたことがある。だがもう時代は変わった。おかしな選別や検閲などをされる前に、むしろ全てを網羅すること、包括的に「保護」していくことが必要な時代に変わったのだと思う。

先日、京都精華大マンガ学部の、ストーリー分野だけとはいえ、「講師・院生展を見にいった」と書いた。参加していた院生は全て(見た限りでは)韓国や台湾からの留学生だった。
彼らは日本のマンガをもはやスタンダードな表現手段として認めて積極的に学びに来ている。レベルも恐ろしく高い。

こう書くとすぐ「彼らは日本から本国へ帰り、そして日本からパクったものをオリジナルと主張するのだ」と怒る人もいるだろうが(笑)、日本のマンガはもう「世界から真似されるだけのものに高まっている」ということは解りきった事実。
ずいぶん前、「色んなアメコミの絵を見せられても、すぐに作者の名前を思いつかない」と友人の誰かが言っていたのを思い出す。全てがそうとは言わないが、日本のマンガはとうの昔に独自の進化を遂げており、今現在昔のアメリカン・コミックからスタートしその直接の影響下のみにいる人の方が少ないだろう。
日本のマンガはもう「MANGA」であって、そのスタイル、様式に沿って描くことがすなわち「MANGAを描く」ということになってしまった。だから、世界中から学びに来る。
もう真剣に国家的な保護、そして出来れば育成プログラムをちゃんと真面目に考えてもいい、いやもう遅いとさえ思うようになっている。
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2009-09-24(Thu)

「性悪猫」復刊ちゃくちゃくと 2

9月24日(木)

夕べは1時くらいまで寝られず、悶々とする。だが気が付いたら朝6時だった。昔は8時間寝ないとしんどかったが、最近ではもう、これだけ寝られれば御の字という感じ。トシか。

今日も穏やかに晴れ、京都はいい季節だ。気温は30度くらいまで上がるという予報だが、もう真夏の鍋底のような暑さではない。
リビングへ降りて朝の事を済ませ、マンションの下に新聞を取りに行って戻る。今日は3階で引越があるらしく、エレベータの内部は緩衝材でガードしてあった。部屋に戻って新聞を読みつつサンドイッチを食べる。その後はテレビを食休みに少しだけ見てから仕事。
昼は1時ころ、冷凍してあった「横浜あんかけラーメン」というのを食べることにした。(横浜あんかけラーメン マルハニチロ食品
これは三津子がまだ生きていた時に彼女が自分用に買って、そのまま冷凍されていたものだ。しかも、一度自分で買ったのを忘れて同じものをもう一つ買ったらしく、2袋もある。

俺たちは東京に居た頃、関東風のあの甘じょっぱい「野菜あん」が乗った「広東麺」が好きで、よく食べたものだ。近所にあった、何てことはない普通の中華料理屋で一緒に食べた。
だが何度か書いたような気がするけれど、京都へ来てから、そもそも広東麺自体を置いている店が少ないことに驚いた。一度チェーン店ならあるだろうと思って近くの「餃子の王将」へ行ったら、全く別なものが出て来てガッカリした。
いやそれは地域の食文化の差なので、例えば京都ではラーメンの主流がちぢれ卵麺ではなくストレート麺だったり、そういうことには慣れたものの、二人でいつも「あそこの広東麺食べたいねえ」と話していたものだ。
いつだったか、河原町三条を下がったところにある「ハマムラ」に入ったら広東麺があったので頼んだことがある。若干味は薄めで甘みもなく、あんの状態も弱かったが、「東京で食べていた広東麺」さえ望まなければ別にうまいものはいくらでもある。そう思って諦めつつも、こういう冷凍食品があると「ひょっとしてあの味かも」と思ってついつい手が伸びてしまったのだ。

この冷凍「横浜あんかけラーメン」は、水を沸騰させ、その間に野菜あんをレンジで半解凍する。沸騰したお湯にその野菜あんの具を投入して混ぜながら再度沸騰させる。そこに今度は別になっている冷凍麺を、そのまま投入。ほぐしながらまた沸騰してきたら出来上がり…という簡単なものだ。
三津子の分も小分けをして、食べてみると、これが意外にうまい。俺たちが好きだった、あの広東麺ほどではないが、野菜あんは少し甘みのある濃いめの味で、麺の固さというかコシも味も冷凍とは思えぬうまさでびっくり。
食べる前にそれほど期待していなかっただけに、ちょっと感動的だった。関西の人には濃いのかなー、どうだろうなあ、と思いつつ完食。汗と鼻水が出た。


その後、小学館クリエイティブの川村さんから、デザイナさんからの転送というかたちで「性悪猫」の本文各扉、モノクロの猫ギャラリーなどのpdf、中野さんの解説などがメールで届いた。
編集やデザインに文句をつける気は毛頭ないので、中野さんの解説を読ませていただいた。
川村さんの返信にも書いたが、とにかく自分が言いたかったこと、訴えたかったことを的確に書かれていて、今回の一連の「やまだ紫作品の復刊」が、単に我々ファンのためというだけではなく、漫画界、大きく言えば表現という分野で絶対に欠かせない役割を負った事業であるということも伝わってくる。
やまだの作品は単に漫画や詩や文章といった枠に収まるものではなく、それらの高度な融合であり、そうであるからこそ、単に漫画界だけにとってではない遺し伝えるべき「財産」なのだ。

デジタルでモノを記録しそれを残すという方法は今後拡大するし、それは当然の流れだ。そして、今後それだけにしか触れられない人が出てくる時代になるだろうことも、恐らくあり得ると思う。
しかし「情報」としてのメディアであれば、それはデジタルで保管されても問題はないし、むしろINDEX的なことも作りやすいし保管する場所的な問題も解消され、好都合といってもいい。
しかし。
では、あなたが子どもの頃から大切にしている愛着のある人形があったら。とても気に入っていつも触っているグラスや茶碗があったら。それらがデジタルで、データとして画面の中だけにあって、それでいいだろうか。
「性悪猫」は漫画というかたちをとってはいるが、何度も述べているように、時代時代、同じ人間でも年代で感じ入る場所が違う。その時々で与えられるもの、得るものがある。そんな大切で愛おしいものは、やはり「本」という「かたち」であって欲しいし、大切に胸に抱けるものであって欲しい。
やがてはそういう感性さえ否定され、全てはヴァーチャルになっていくのかも知れない。それでも、本は残ると思うし、残すべきだと思う。
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2009-09-23(Wed)

かんたん料理

9月23日(水)

昨日は昼間からビールを飲んだあとうたた寝をしたせいか、薬を飲んでもなかなか寝られず、2時近くまで悶々としていた。それでも何とか朝6時過ぎまで寝られ、その後はずっと朦朧としたまま、結局7時ころ起きた。
今日はうす曇り。そういえば夕べは夕飯を食べなかったので、猛烈に空腹なのに気付く。着替えてコンビニへ行き、切れていた卵と、朝用にまたもやジューシーハムサンドを買う。
新聞を読みながらゆっくりサンドイッチを食べる。その後は仕事をして、昼は小さめの冷凍ご飯をチンして卵かけご飯で簡単に済ませる。それからまた仕事をして、夜は晩酌。

例えコンビニの総菜や冷凍ものしかなくても、三津子の陰膳はそれなりにちゃんと盛りつけ、好みも考えて買って来たりしているし、作ったりもする。
ところで最近はまってるのは牛肉。
といっても毎日食べるような「贅沢」は敵なので、特売日などでまとめて買っておいたステーキ肉を冷凍保存パックに小分けして冷凍しておき、「今日食べよう」と思った日の朝にチルドに移しておくと、いい感じに解凍されている。

それをまずはパックのまますりこぎで叩いて柔らかくする。それから肉を取り出して少し包丁を入れて繊維を切り、塩コショウ、ガーリックパウダーを両面に擦り込んでしばらく置き、フライパンを熱したら肉屋で貰ってきた和牛の油を溶かす。そこへ肉を投入。
片面が軽く焦げるくらい焼いたら裏返し、あまり動かさないようにしつつ、頃合いをみて赤ワインでフランベし、すぐにバターをちょっと載せてからフタをして、火はすぐ消してあとは余熱。
その間に皿や摺りおろしニンニクとねりわさびを用意。トングで取り出した肉をまな板の上で手早く切ると、中はほどよいレア状態。肉を焼いた油はうまいのだが、バターが混じっていてクドい場合は使わず、そうめんつゆか和風だしつゆを肉にかけ、醤油を少し振る。あとはおろしにんにく&わさびで熱いうちに食べる。ビールが進む、進む。生にんにくがある場合は、先に薄切りを油でカリッと揚げたのを添えておくとなおよろしい。
9月23日
たまにはこういう贅沢(?)もするが、まあ普段は逆に質素なものだ。
野菜などの素材を買って来て調理すると、結局同じものに偏ったり途中で腐らせたり、一人なら総菜を買った方が安上がりだったりもする。ただ少しでも手を入れると格段にうまくなるものもあるので、自分一人ならともかく、彼女の陰膳を用意するために、なるべく一手間かけたりする。
例えば麻婆豆腐でも豆腐を切って入れるだけのものを買うが、その前に紹興酒を少し足してアルコールを飛ばしたのに、刻みニンニクとショウガを少しと鶏ガラスープをちょっとだけ足しておく。そこへ既存の麻婆豆腐の元を入れると味が濃くなるから、水は多めにしておき、豆腐も一丁使う。白ネギは刻んでおき、出来上がり直前にふりかけるようにして、食べる時に混ぜる。そのまんま作るよりちょっと美味しい。
量的にはこれで2回分になるので、半分は夜の晩酌用にしたりする。おつまみにする場合は水を少なめにして豆板醤と四川山椒を少し足すといい感じの辛さになる、とかまあそんな感じで「自分だけの分」というより「二人の晩酌用に」という意識で台所に立つと、孤独な世界もちょっとだけ楽しくなるのだ。
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2009-09-22(Tue)

精華大講師・院生展を見にいく

9月22日(火)

朝は5時過ぎに目が醒めてしまったので、そのまま強引に寝ようとしたがダメだった。結局6時ころ起きて朝のことを一通り済ませ、テレビをつけるとソファでうとうとしてしまう。ユキは俺の枕元…というかクッションの頭のところに来て、一緒に寝ていた。

今日は精華大のマンガ学部・ストーリー分野の「講師・院生展」の初日で、「明青」の渡辺さんご夫妻とギャラリーへ行く約束だった。
11時半に近くで待ち合わせをしていたので着替えて出かける。東大路の待ち合わせ場所に着いたのでおかあさんに電話すると「向かってます」と言われ、すぐにこちらへ歩いて来るご夫婦が見えた。合流してタクシーで展示のある御池東洞院のギャラリーへ向かう。(東洞院は「ひがしのとういん」と読みます)

運転手さんに「東洞院は下がれましたっけ」と聞くと「下がれますよ」と言うので、御池通りを左折=下がってもらうと、道路工事中だった。タクシーがその脇を徐行するとすぐ、左に展覧会の立て看板が見えたので、結局御池を下がってすぐだった。
通りからは少し奥まったところに入口がある、目立たないギャラリーだった。入口を入るとすぐ右手に受付の女の子が二人おり、「こんにちは」と挨拶をして入る。思っていたよりギャラリーは小さく、展示も少なかった。
やまだの展示
講師&院生展なのだが、講師つまり教授などの先生の展示も控えめで、院生の展示の方が数も多く、どちらかというと「院生展」という印象だ。院生はほとんどが韓国からの留学生だったのが印象的だった。
三津子、いや「やまだ紫先生」の展示は精華大に寄贈した20号の油彩と、油彩の説明用に俺が作った写真とユキちゃんのポストカードを収めたパネル、さらに先日展示用に送った「COM」に連載していた詩画を彼女が自分でスケッチブックに切り貼りしたもの。
展示前に、簡単な説明パネルをA5判程度の大きさで作ると聞いていたので、俺が彼女のものをIllustratorで作ってデータを送ったのだが、結局全ての展示の説明にそれがフォーマットとして使用され、統一されることになった。やまだのパネルには黒い、弔意をあらわすリボンが添えてあった。
事前に見た展覧会の宣伝サイトには彼女の「そう太」のイラストが入っていたので、てっきり水彩画は先に渡してあったか何かしたのを展示するのだと思っていた。なので、説明文にはそう書いたのだが、実際は油彩画のプレートに俺が彼女の写真とプロフィールと一緒に収めた、ユキちゃんをモチーフにした水彩画「青い瞳」のポストカードだった。
もう直す時間もないし、まあいいか…と思いそのままにする。

受付をしている学生に記帳する時、
「やまだの身内なんですが写真撮っていいですか?」と聞くと「どうぞ」というので、展示の箇所を何枚かデジカメで撮影した。
それから渡辺さんご夫婦と学生の展示などもゆっくり見る。おかあさんは「奥さんはこういう線(COM時代のもの)も描けば、こういう油絵も描かはるんやねえ」と感心していた。
俺もついつい調子に乗って講釈してしまう。
「結局ホンモノそっくりに絵を描くと、普通の人はうまい、上手だって思っちゃうんですけど、漫画はそういう細密画とか写実から、そこからどうやって線を省略していくか、というところでその人の個性が出るわけですよ」とか話す。
油彩画「かわいいもの」
20分ほどゆっくり見たか、ギャラリーを出て路上でおかあさんに「どうしましょ、何か食べたいものあります?」と聞かれたので「いえ、別に何でもいいですよ」というと、「じゃあいっそのこと飲んじゃいますか?」と言われて、ビヤホールへ行くことにした。
アサヒビールのビヤホールが河原町三条をちょい下がったところにあるのは知っていたのだが、これまで入ったことはなかった。なぜかというと飲む時はいつも夫婦二人だったし、三津子はビールではなく日本酒のひとなので、ビヤホールには入れなかったのだ。

つらつらと寺町のアーケード街を抜け、三条から河原町を下がって、ビヤホールへ向かう。道々、やはり連休のせいか観光客も多く、何てこたぁない蕎麦屋には並びの待ちが出来てたりする。まあちょうど時間はお昼どきで、しかもこの辺の立地で客が入らないようならおしまいなのだが。
ビヤホールに着くと、1階は満席だった。渡辺さんのご主人も「こんなの初めてやわ〜」と驚いていた。禁煙席を希望すると地下の4人掛けに通された。そこで今日は中ジョッキが半額と聞いて、とりあえず生を3つ頼み、乾杯。半額というと一杯たった300円で生ビールのジョッキが飲めるなんて嬉しい。
「ここはつまみの量が多いんですよ、3人くらいで頼むのがちょうどええわー」とおかあさんが言う。その通りで、生ハムサラダ、ジャーマンポテト、スペアリブをさらにベーコンで巻いて焼いたようなものを頼んだが、なるほど、どれも量が多い。
ビヤホールはだいたい一人で来るところじゃないし、そもそもこういう機会でも作ってもらえないと、普段は買い物をして帰宅するだけという引きこもり状態。こうしてワイワイビールを飲むのは楽しい。
だいたいこのあたり…河原町三条に来るのなど、三津子のために仏具店で木彫りの千手観音像と遺品を整理する小ダンスを買って以来(「一人で河原町へ」)だから、3ヶ月以上来ていなかった。
前は週に一度は必ず、このあたりは夫婦で歩いていたものだが、一人で目的もなく雑踏をぶらぶらする気にはならない。

それにしても、たまにはこうして外へ連れ出してもらって、なんだかんだおしゃべりをして飲むのは楽しいものだ。お二人は俺が引きこもっているので敢えて連れ出して下さっているのだろう、有り難いと感謝。感謝とか言いつつ調子にのってビールをガンガン飲んでしまった。
3時半ころ「少し歩いてから帰ります」というお二人と別れ、河原町をちょい上がったところからタクシーで帰宅、家に着くと4時近く。3時間以上ビールを飲んでいたが、楽しかった。特に昼間から飲むビールはうまい。うまいが効く。
その後ソファで相撲を見ようとテレビをつけたら寝てしまい、気付いたら3時間くらい経っていたので自分でもびっくり。
夜は三津子にはお酒とお茶を替えて卵豆腐を添え、俺は飲まずにウーロン茶だけにした。
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2009-09-21(Mon)

生きるという苦行

9月21日(月)

今朝は6時過ぎに一度目が醒めたがそのまま強引に薄く寝続け、9時過ぎに起きる。
今日もいい天気で、昨日より若干雲が多いだけで綺麗な青空の秋晴れだ。
下へ降りて朝のことを済ませて、朝飯…と思ったがあまり食欲がない。冷えていた缶コーヒーで薬だけ飲み、しばらくして仕事をする。
仕事に集中しているとあっという間に昼を過ぎ、さすがに空腹になる。冷凍してあったご飯、たっぷりオトコの一膳分の量をレンジで暖め、その間に熱湯でボイルするハンバーグを温めて、解凍しておいた筋子を少し切った。
それを食べつつテレビをつけると、「ひるおび!」でB級グルメグランプリの様子だかをやっていた。どこかの焼きそばがうまそうで、この映像を空腹状態で見なくて良かったと思いつつ、ご飯を食べながら見る。
こちらが食べ終わる頃に次のコーナーとかで、おカマのIKKOと彦麻呂が築地をグルメリポート…というのでイヤな予感がしたが、時すでに遅し。CM前のコーナー紹介の映像を一瞬だけ目にしてしまった。

この彦麻呂とかいう下品なタレントが、口いっぱいに丼ものをほおばり、大きく口を開けてその中途半端な咀嚼物を見せながら大声で喋る映像。慌てて目を逸らしたがもう遅かった。
何やら海産物らしい赤いものと、白い大量のご飯つぶが口蓋の上側にびっしり貼り付いた、汚ならしい、どうしようもない映像がアップで画面一杯に映し出されたものを一瞬だけ、見てしまった。
すぐに目を逸らしてチャンネルを変えるが、人が飯を食う時間帯に、なぜ他人の咀嚼物を、その口中の映像を見せられねばならないのか、理解に苦しむ
いや「理解に苦しむ」というより、猛烈に腹が立った。
病人にとっての「一食」というのはけっこう大切だし、食欲がないのに義務感で食べている人もいるのだ。それを小汚い、いや大いに汚らしい口中映像で食欲を失せさせるというのは、放送免許を剥奪してもいいとさえ思った。
とにかく以前も書いたことがある(「 メディアについて思うこと 2 」)が、この手の「口内咀嚼物公開映像」(こう書いているだけで吐き気がする)、放送コードで禁止にして貰いたい。百歩、いや五千万歩くらい譲って、せめて「これから不快な口内映像を交えたグルメロケ映像が流れますので、それらを見ても平気だという鈍感な人以外はじゅうぶんご注意下さい」とテロップを出してから、放映しろ。
以前から、俺たち夫婦はこの手の下品な映像とタレントが大嫌いで、もちろん見る(見せられてしまう)たびに慌てて目を逸らしつつリモコンを手にしたことは数知れない。
いつの間にか普通になってしまった、箸もロクに持てない「カリスマ料理人」だとか、まともに話せない「アナウンサー」だの言い出したらキリのないテレビの劣化ぶりは今さら書くまでもないこと。
「昔はこうだった」と書くと「今はそんな時代じゃない」と必ず言われるのだけど、時代が変わっても許されること、許していいことと悪いことがあるだろう。
食事の時間帯に下の話題は放送しない。(もちろんタレントの汚い口の中もだ)
タレントはともかくアナウンサーくらいは鼻濁音くらい正確に話す(外来語のガスでさえ『nガス』と言うアナウンサーは多い)。
こういうことは常識だと思っていたが、もはや崩れ去って久しい。「言葉遣い」や目上の人への態度などは、時代によって常識というものも変わるのだろうから、それはそれでいいが、テレビというマスメディアは映像+音声という最強のかたちでその導く「方向」を自由に変えることが出来るし、「幅」も広げることが可能だ。
女の子が「大きい」を「デカい」とか「おいしい」を「うまい」というのはもう当たり前らしく誰も気にしないようで、それは気にする人が古いと言われれば、もう仕方のないこと。
けれどお笑いやネタでもないのに、目上の人や先輩へ無礼な態度を取るのは「人として」どうかと思うし、明らかに言葉を誤用していたりすることを「時代」のせいにして容認するのはおかしなことだと思うのだが…。

今に始まったことではない、これまでもテレビにいちいち腹を立てていたら憤死してしまうので笑って見過ごして、いや敢えて意識的に見過ごしてきたことが多かった。
けれども、ここ十年ほどのテレビの制作現場の「劣化」ぶりはひどすぎる。報道もCMもドラマも、バラエティも、本当にひどい。このあたりの話は、INTER BEEにやまだ紫が招かれた際、テレビマン・ユニオンの今野さんと少しだけ話をさせていただいた記憶があるが、とにかくテレビ局の社員はスポンサーの顔色を伺い、広告代理店と大手タレント事務所と三位一体で金を廻すことしか考えていない。報道にしても構造的には同じことなので、「事実を正確に」とか「偏重なき報道」や「権力の監視」など期待してもムダなのだろう。
そこへ来て、常識だのモラルだの言っても虚しいだけである。


夕方、ニュースというか「報道バラエティ」番組を見ていたら、連れ合いと死に別れた人たちのサークルの様子をレポートしていた。
人生最大のストレスである「愛する配偶者の死」をどうやって乗り越えるか、これは遺された者の大きな問題ではあるが、同じ体験をした人同士が語り合い、慰め合い、体験を共有することで癒しとする集まりだという。
皆が定期的に集まって会合を持ったり、旅行に出かけたりしているという。なるほど確かにたった一人残された者は引きこもりがちになり、これまで喜びも悲しみも共に語り合い、分かち合ってきた存在の喪失が、そのこと=孤独によっていつまでも乗り越えられないこともあると思う。
そう、今の自分のように。
しかしレポートで放送されていたサークルは、いわゆる「高齢者」の方々のもので、しかも遺された人のほとんどが「健康なご老人」ばかりだ。
つまり、連れ合いに先立たれた悲しい「気持ち」さえ何とか立て直すことが出来れば、そしいてその気持ちを「外」に向けることが出来さえすれば、同じ体験を共有する人たちと集まり語り合い出かけたりすることが出来る。

自分の場合は自分自身も重篤な病いに冒されているため、そういう集まりがあっても恐らくは参加できぬし、だいたい二人で居た時から不特定多数の人が集まるような場所には注意をしていたくらいだから、結局俺はこうして一人、喪失感、孤独感と向き合うしかない。
それには、自分で言うのも何だが、恐ろしく強靱な精神力を必要とする。毎日がこの喪失感、孤独感、虚無感との戦いだと言ってもいい。自分が癌という病を抱え、唯一の支えであった最愛のひとを先に失い、見知らぬ土地でたった一人になる。
こう、現況という「事実」を記しただけで、客観的にも「大変なことだな」と思う自分がいる、つまり客観視している自分がいるお陰で何とか生きている。
三津子の死後、本当に、よく死なずに今まで生きて来られたと、自分で自分に感心している。
健康でさえあれば、新しく何かのサークルに参加したり、何かスポーツに打ち込むなり、新しいことをチャレンジし人脈を広げたりという様々な可能性がある。あとは気持ちの問題だけだ。
悲しみは歳月が徐々に癒してくれるし、他の新しい何かに自らを忙殺、集中させることで「わざと忘れる」ことも出来る。
俺の場合は連れ合いを失った悲しみから何とか気持ちを立て直したところで、今度は病気の自分という現実と向き合い、結果行動が制限される。
そして、自分の「生きるモチベーションとは何か」を自らに問い直す日々が続く。これまでは辛いことがあっても、何があっても何をされても言われても、三津子の笑顔と存在そのものさえあれば、頑張って耐えて来ることが出来た。

それはもう、ない。

けれど彼女は、俺の命が一日でも長らえることを常に願い、祈ってくれていた。俺が逆に彼女のことをそう祈っていたように。だから、俺が生きることがすなわち彼女の願いであった、と思うしかない。そう思うしか、俺にはもう生きて行くための「理由づけ」がない。
同じこと、つまり彼女が一日でも長く俺の側に居てくれることを、俺は毎日、毎晩祈っていたのに、彼女は俺の前から居なくなってしまった。
では彼女の願いと俺の願いの差は何だったのだろう。
二人一緒に死のう、そう何度言い話し合ったことか、そんなに人生うまくいかないこともわかっていた。それでも、お互い本当にそう思い願って生きてきたはずなのに、今、現実は違う。
やること、やらねばならないことがあるうちはいい。彼女の作品を遺し伝えること、あとは俺たちを心配して見守り励ましてくれる人たちのために、生きることか…。
気持ちの建て直しを、日々、毎日、瞬間瞬間行いながら、生きる「理由付け」を無理矢理自分に納得させながら生きる。
これは辛いことだ。
9/21
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2009-09-20(Sun)

「くるくる猫」

9月20日(日)

夕べ寝たのは12時半過ぎ、朝は5時か6時ころ一度目を醒まし、その後うとうとと浅い眠り、トイレへ一度立ったあとまた寝室へ戻って再び薄く寝る。結局起きたのは9時前で、今日も見事な秋晴れのいい天気だ。
朝のことを済ませて、買い物に出ようとジーンズを履くと、ポケットに自転車の鍵がない。あれ、鍵かけ忘れたか、しょうがないな…と思いつつエレベータで下に降り、自転車置き場へ行く。
すると自転車がない。ここの住人はだいたい自分の置き場をめいめい決めているものだが、俺の自転車のところが空いている。
と、いうことは鍵を抜き忘れていたとすれば、誰かがここまで来て俺の自転車に乗って行っちまったかも…。しばし呆然とするが、無いものは無い。ガックリしつつとりあえず買い物へ、と思って向かいのコンビニへ渡ると、店の前に俺の自転車が置いてある。小走りで近寄っていくと、ちゃんと鍵もささっている。
そこで「あっ!」と思った。昨日の朝郵便局へ行った帰り、スーパーが開いてなかったのでこのコンビニへ寄ったのだが、自転車を放置して、そのままマンションへ戻ってしまったのだ。いつもはスーパーの帰りに寄る時は前籠に買い物の袋があるわけで、それを忘れるはずはない。しかしコンビニの荷物だけの時は徒歩で来ていることがほとんどなので、「コンビニから出て来た=徒歩」という条件反射で自転車を忘れたまま戻った…というわけだった。

ポツンと、しかも鍵もささったまま放置されていた自転車を見て、サドルを軽くなでながら「ごめんなー」と心で謝る。またがってスーパーのある交差点方面へ軽快に走り出す。それにしても、日本て治安のいい国なんだなあ、とも思った。
ポストに返却DVDの封筒を投函して、スーパーの裏へ自転車を停める。今日・明日のものと、最後に三津子の花を買って帰宅。
もちろん自転車はちゃんと自転車置き場のいつもの位置へ停めて、鍵もかけて部屋に戻った。

朝飯に買って来た398円だかの小さな「アジたたき丼」を食べて、ちょっと食休みにMLBを見た後仕事。
ベランダのユキ3時過ぎに天気がいいので一休みでベランダに出て、ユキも出してやる。ユキもシマも、夜は一緒に寝て朝は一緒に起きるが、その後はずーっと、ほとんど寝てばかりだ。
ベランダの苔や植木に水をやって、ユキを部屋に戻したあと、二階のベランダで敷き布団をはたいたり、汗取りシーツの猫の毛を落としたり。それから汗取りシーツと枕カバーがわりのバスタオルはそのまま洗濯するので下へ持って降りる。
ユキは箱の上でいつものように丸くなって寝ていたので、そのまま洗濯機をまわして、シャワーを浴びる。俺が浴室へ入りシャワーするだけで、ユキが俺を捜して「うわぁ、わあぁ!」と大音声で鳴きながら探し歩くので「今のうち」という感じだ。

シマはマイペースで上で寝ており、時々階段を降りてきてはズシリと体を預けて甘えてくる。ユキは耳が聞こえないから、目に見える範疇に俺が居ないと不安らしく、自分の傍で日がな一日じっとしている。三津子が生きていた頃は二人同時に外出する時はともかく、家に居る時は俺が仕事をしていても彼女がかまったり、彼女が大学へ出勤している時はこちらが遊んでやったりしていた。

こうして今はただじっと俺の側にいるだけだ。見ていると「可哀想だなあ」「さみしいだろうな」と見えてしまう。そう思って時々意識的にかまってやることにはしている。
毛を猫櫛で梳いてやったりマタタビ粉をちょっと嘗めさせたり、三津子が大学で使っていたポインタの赤い点を追っかけさせたり、こうしてベランダに出して日向ぼっこさせてやったり。

野良猫のようにエサや繁殖相手を探したり、縄張りの保守監視をする必要のない家猫は、一日のほとんどを寝て過ごす。なので俺が居さえすれば、安心して寝ていられるわけだが、目が醒めて俺が居ないと、ユキはにゃあにゃあ鳴きながら探しまわる。買い物などに出てどこにも居ないと解ると、何故か狭いところへわざわざ入ったり登ったりして、それはそれは大きな声で鳴きながら自分の尻尾をくわえてくるくる廻る。
ちょっと長く家を開けて戻ってくると、鳴き疲れて寝ていたりするが、尻尾のくわえた部分がびちょびちょになっているので、「くるくるしたな」というのが判る。

三津子が居なくなって俺一人になってからは、四十九日と納骨のために上京した時、一晩だけ家を空けた以外は、買い物くらいでずっと俺は猫たちと一緒にいる。だからユキは「くるくる行動」を前ほどは取らなくなった。出かけてもすぐに帰って来る、と学習したのかも知れない。

ただ、毎晩寝る段になって俺がリビングの灯りを消し、上の寝室へ行く…というとき、手招きをして「上へ行く」と見せているのに、ひとしきり下で凄い声で「何か」「誰か」を捜すのをやめない。
まるで親を捜して鳴く子猫のような、切ない悲しげな声で鳴きながら捜し回るのだ。
そうして「誰もいない」と解ってはじめて、寝室へ上がってきて俺の隣で寝る。「もう寝るよ」という段階になって鳴いて「誰か」を探しまわり、諦めてあがってくる、その「誰か」というのがもう二度と戻らない「あの人」であることを解っているので、ユキが毎晩鳴く声は本当に辛く悲しいものだ。
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2009-09-19(Sat)

孤独の日々?

9月19日(土)

夕べは12時過ぎまでニュースを見て、12時半頃寝る。
薬のせいで最近は寝付きは凄くいい。灯りを消してしばらくすればもう眠りに堕ちる。今朝は目が醒めたら5時だった。それでも頑張って寝よう寝ようと意識的に試みると、薄くではあるが、途切れ途切れに何とか8時過ぎまでは寝られた。
不眠というのは本当に体に悪い、新たな病気の発端にもなりかねない。「薬を貰ってでも寝る」ということはやはり正しいと思う。

起きて朝のことを済ませ…と思ったら、シマがいきなりゲロを吐いた。猫エサの色じゃなく白っぽい胃液みたいなもの。お腹が空いたのかと思って見たら、明青の渡辺さんが持って来て下さった、三津子の種から育った水引の先っぽが混ざっていた。どうやら夜の間にかじったらしい。
始末をしてから朝のいつものことを済ませて、9時半過ぎに着替えて自転車に乗り、郵便局へ簡易書留を出しに行く。
途中のコンビニでガス代を払ったりして、帰りがけスーパーへ寄ろうとしたらまだ10時前、つまり開店前。
三津子に花を買いたかったのでしばらく立ってお年寄りなどに混ざって開店待ちをする。最近は病院以外は近所の買い物くらいしか外出しないので、腕時計も携帯も忘れて出ることが多い。従って時間も解らない。「あと何分」というのが解らないと、もの凄く長く感じるし開きそうな気配もないので、そのまま自転車で引き返し、コンビニで朝ご飯のおにぎりと弁当を買って帰宅。

その後はBSでMLBをつけつつ、仕事部屋で仕事。
今日は穏やかな秋晴れ。3時ころベランダに出ると、けっこう陽射しが強い。けれども渇いていて、肌に日があたるのが心地よく、暑いのだが体にいい感じさえした。北海道の短い夏の暑さ…湿度がほとんどなく、カラッとして肌に心地良い、あの暑さを思い出した。

バケツと2リットルペットボトルにたっぷり水を汲んで、苔玉をジャボッとバケツに泡が出なくなるまで漬けて、引き上げて吊してやる。ゆっくりくるくる廻りながら、下へタタターッと水がしたたり、それが物干し竿にあたって跳ね返るしぶきを見て、「マイナスイオン」という単語が浮かんだ。
他の緑にも水をやり、しばらくベランダの手すりに体を預け、太陽の陽射しを浴びる。ユキがいつの間にか出て来て、日溜まりで目を細めてじっとしている。
北大路通りは地図を手にした観光客らしい二人連れが立ち止まり、西・東と交互に頭を向けてきょろきょろしている。どうやら母親と娘という感じ。その横を叡電側からTシャツ一枚の外人カップルが通り過ぎ、反対の東からは買い物を終えた地元民の自転車が何台もすれ違う。
「散歩には一番いい季節になったねえ。」と声に出す。振り返るとソファで彼女が手鏡を出して、化粧をしていそうな気がする。「ねえ、あそこ行ってみない?」と言いながら。
ユキはそのまま日向ぼっこをさせておき、2階へ上がって窓を全開にして網戸にし、空気を入れ換える。シマは折り畳み椅子の上に敷いたクッションの上に座って外を見ていた。
ベランダに出て、もう枯れてしまった植木の鉢に水をやる。真夏にうっかり数日水を忘れていたら、水引がすっかり枯れてしまった。三津子が大事に育ててきた水引なのに…。種をとって、明青のおかあさんにあげたらあんなに元気に育ってくれたのに、その元を俺が枯らしてしまった。「ごめんな」と言いながらこぼれ種でもないかと、わずかな望みに水をやる。
いつの間にかユキが2階に上がってきており、じっと俺を見ていた。何だか責められているような気がした。

その後、夕方一休みで音楽を聴いていると、明青のおかあさんから電話があった。22日からの精華大の講師・院生展はどうしはるんですか、というので「何日とは決めてませんが、行くつもりです」と答える。
というのは、俺がそういう「場」へ行くのを躊躇しているのではと察してくれて、もし行くのであれば一緒にと思ったということだった。初日の22日はちょうどお店も休みだし、じゃあ一緒に行きましょうということにする。
いろいろ気を使ってというか、考えていただいて本当に有り難い。俺がグジグジと一人で行けずにいるかも知れないと考えてくれたのだろう。俺はこっそりというわけではないが、誰であるということ無しに、そっと見てそっと帰ってくるつもりだった。
でも明青の渡辺さんご夫妻と一緒なら、展覧会のあとご飯でも食べて、いい気晴らしになる。何せそういうことでもないと、買い物と家の往復だけで、当然一人で「個食」するのみだから。

その後は6時過ぎから弁当を食べてちょっとビールを飲み、夜はDVDでまた大戦ものを見る。こないだから「アンネの日記」「トラ!トラ!トラ!」「ドキュメント・硫黄島」とかそんなんばかり。戦争ものやSFなどある意味「浮世離れ」したものを観ていると、辛い一人の夜がいつの間にか過ぎていく。
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2009-09-18(Fri)

インターフォン交換

9月18日(金)

夕べは気が付いたらソファでウトウトしていて、慌ててテレビを消して寝室へ上がって寝た、12時半ころだったか。朝はユキが5時前からにゃあにゃあ鳴いて起こすので往生した。その後は全然寝られず7時ころまで悶々としたあと、うすーくレム睡眠に入り、起きたのは9時過ぎ。
ユキが起こそうとしていたのは、カリカリ(乾燥エサ)がなくなっていたからで、「お腹が空いた」ということだったらしい。ごめんごめん、と言いながらカリカリを足して水も取り替えてやる。
こっちの朝は昨日買っておいたジューシーハムサンドとペットボトルの小岩井コーヒーミルク。
俺は一つ何かにはまると、それを食い倒したり飲み倒して飽きる…というクセがある(笑)。今はセブンイレブンのジューシーハムサンドにはまっているが、これはマヨネーズがトロリと確かにジューシーで、本当に家庭で作ったサンドイッチのようにおいしい。

朝、こうしてご飯を食べるとしばらくすると下痢。一回か二回。これがだいたい、毎日のデフォルトとなっているサイクル。昼はその日によって食べたり食べなかったり。ただ朝ちゃんと食べると、人間の体はちゃんと昼に腹が減るようになっているし、そうすると夕方もそれなりの時間に腹が減る。
入院して規則正しい早寝早起きを強制されて、三度三度決まった時間にご飯を食べさせられると、そういうサイクルが定着して実に健康的になったりする。それが退院するとだんだんとズレたり、いい加減になったりするのは経験のある人ならお判りだろう。

そう思って、ちょうど4年前に自分が退院した頃のブログを読み返した。「無治療で様子見」という所見に変わっていき、退院していくあたりだ(2005年9月)。
当時は「連れ合い」と書いていた三津子が、俺が退院した後、11月に吐血して入院したりしている。
進行が遅く無治療で自宅へ戻れたとはいえ、俺の抱える白血病という病気がいかに「連れ合い」である彼女にもストレスだったかがよく解るし、本当に辛い思いをさせたなあ…と思うと悲しい。
彼女自身もここ十年ほどは病気の連続で苦しかったろう、けれど踏ん張って来れたのは連れ合う相手がいたからだ。俺自身もそうだった。
今はもう、その彼女が居てくれないと思うと、ともすれば踏ん張っても仕方が無いと思いがちになる。だが自分にも母親がまだ健在でおり、三津子の愛した子どもや孫たち「家族」や身内もいる、そして友人や知人含め心配してくれる人たちがたくさんいる。しみじみと、この4年間無事であることと、応援して下さった皆さんへの感謝の気持ちを再認識した。

その後、今日はうちのインターフォンの交換日なので、インターフォン周辺を片付ける。インターフォンの下には三津子の遺影や花、遺品を収めた小ダンス、壁面の棚にはご先祖様の写真などがあったので、それらを作業のために全部いったん移動させる。
うちは猫の毛も含めたホコリが多いので、これを機会にそのあたりを掃除。三津子の遺影はいったんソファの彼女が座っていた定位置に立てて置いた。
テレビを観つつ待っていると、1時ころ交換の作業員が2人来る。ユキが例によって興味深そうについてまわっているが、「気にせずやってください」と言って作業してもらう。
幸いユキはすぐにつまらなそうに窓ぎわの日溜まりに転がって大人しくなったし、俺も作業をじっと見ていても仕方が無いので、仕事部屋でパソコンに向かって仕事をする。
うちはメゾネット=「2階」にもインターフォンが付いているので、作業員は上担当のおじさんと下の若い二人がそれぞれ、古いインターフォンを外した後、壁の奥から出した配線をいろいろいじって新しいのをはめ込んだりしていた。
40分ほどで電動工具の音がやんだので、ちょっと様子を見に行くと、もう作業自体はほぼ完了しており、そのうち「じゃあテストをします」ということで、2階との通話を試す。できない。作業員は「あれ?」という感じでまた配線を少しいじった後、通話テストOK。次は玄関ドアのインターフォンとの呼び出しと通話テストもOKで、あとは下のオートロックのテストだけということになり、二人は引き上げ体勢に入る。
その後先に降りたおじさんの方が下から呼び出しをし、モニタに映像が無事に映るのと、会話・解錠が出来ることを確認して終了。
作業の間1階のリビングはクーラーが効いていたが、2階は窓を全開にしていただけでは暑かったらしく、2階担当のおじさんは汗だくだった。
なので若い方の作業員がテストを終えて引き上げる際、冷蔵庫で冷えていた缶コーヒーを2本、「上の方暑かったみたいなんでどうぞ」と言って渡した。

今度のインターフォンは最新式で、何とビデオカメラはタッチパネル式のカラー液晶だ。誰かが訪ねてきて部屋番号で呼び出されると、その映像がはっきり部屋から確認出来る。しかもハンズフリーで会話が出来て、解錠ボタンも軽快になった。呼び出し音もタッチパネル操作でメニューを呼び出して変更可能。
前のインターフォンは古く受話器を取る方式のもので、もちろんモニタなど付いてなかった。しかも接触が悪かったらしく、呼び出し音が途切れがちというか割れるというか、時々
「ふんがふんがひんがほんが…」とマヌケな音を出したりして、三津子とよく顔を見合わせて吹き出したものだ。それがこんな最新式になるとはねえ…と遺影を元に戻しながら話しかける。取り替え工事のために周辺を片付けておいた線香立て、写真類や花、小物などを順番に戻していく。

その後「のりP」保釈と記者会見の映像、ニュースなどを見て夕方は6時ころから晩酌。「女優」だなあ、と感心。
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2009-09-17(Thu)

「性悪猫」復刊ちゃくちゃくと

9月17日(木)

夕べは12時過ぎに寝る。目が醒めたら6時前だった。このパターンがだいたい定着か。それでも眠れなくて困る、ということはなくなったので助かる。そのままとろとろして8時半ころ起きる。今日も穏やかな晴れ、本当にいい季節だ。

朝は食欲なく、アイスオレで済ませて薬だけを飲む。新聞を取ってきてゆっくり読み、10時過ぎに着替えて買い物に出る。スーパーに行き、まず文具売り場でプリンタのハガキ大用紙を100枚買い、総菜などを買ってすぐに帰宅。

4月に三津子・やまだ紫が倒れたあと、彼女の大学の教え子たちが、皆で千羽鶴を折ってくれたのを、講師の小川先生が届けて下さった(「 連れ合いが倒れた 14 」)。それはもちろん病室に飾り、最後まで、天に昇る時も彼女と一緒だった。
俺は学生さんたちに直接、会って御礼を述べねばならないのは重々承知していたものの、とてもたくさんの人の前に出られる状態ではなかった。とにかく彼女の死を受け入れねばならないことと、それを乗り越えて生きて行かねばならぬこと…つまりは自分のことだけで精一杯だった。

本当に恥ずかしいし、申し訳なかったと思っている。

四十九日、納骨、百か日…と日々過ぎて行く中、こちらの気持ちもようやくホンの少しだけど余裕が出てきた。そうしたらもう大学は夏休みに入っていたので、御礼状にポストカードを添えたものを作って、休み明けに学生さんたちに渡して貰うように大学へ預けた。
その際、千羽鶴を折ってくれたのは「やまだゼミの学生を中心に20名くらいです」と伺っていたので、20セットと少しをお送りしたのだが、先日休み明けに小川先生が配って下さる際、学生に聞いたところ実は百人以上の学生さんが折ってくれたことが判明した。
もちろんゼミの学生さんが中心にたくさん折ってくれたのは言うまでもないのだが「一羽だけでも」という学生さんも居て、結局百人以上になったのだという。
小川先生もそのことを聞いて、代表で呼びかけてくれた学生数名だけにとりあえず渡して下さり、残りの学生さんたちの分を作ってもらえないか、という連絡をいただいた。
なので、昨日でこのところの仕事も一段落したのでハガキを買いに行って、御礼状を印刷することにした。
一応110セット作ることにし、五月に身内や友人知人に発送した彼女の密葬の連絡を入れた封筒に、ポストカードと、印刷した御礼状に直筆の署名を入れながら、納めていく。
お昼は買って来たレンジで暖めるだけというラーメンを食べ、それからまた作業。110セットと少しのセットを作って梱包し、小川先生あてに発送の準備を終えたら2時過ぎだった。

その後宅配便で、小学館クリエイティブの川村さんから、三津子の写真が返却されてきたのを確かに受領。
前にも書いたが、今回復刊していただく三冊「性悪猫」「しんきらり」「ゆらりうす色」には、著者の写真としてそれぞれの作品を描いていた頃の彼女を載せてもらうことを提案した。川村さんも「それはいいですね」と賛同して下さったので、アルバムから3枚選んでお送りしたわけだ。ちなみに「性悪猫」に掲載されるのは78〜80年ころ、彼女が子どもたちと一緒に外で写した写真だ。

小学館クリエイティブ版「性悪猫」はA5判並製、164ページ(うちカラー4P)、定価1470円、10月23日ころ発売予定、ということ。
収録作品は青林堂版「性悪猫」〜ちくま文庫版「新編・性悪猫」〜筑摩書房「やまだ紫作品集5巻」の一連の「性悪猫」に準拠しているが、
・青林堂版のカラーイラストを復活させたこと
・「性悪猫」発表以前に描いていたと思われる猫の細密画などを掲載するイラストギャラリー
・「長ぐつ はかない ねこ」の単行本未収録作品2本
を、今回復刊の「特典」としました! 解説はもちろん、中野晴行さんです。
持ってた人はもう一冊、持ってない人は必ず、買ってください(笑)。

自分がはじめて「性悪猫」に触れたのは、青林堂版のハードカバー(業界的には上製本)だった。
確か初版ではなく、とにかく自分は高校時代だったと思うから、出版されてから数年後だろう。漫画家になろうと思っていたので、劇画から少女漫画まで、とにかく貪るように何でも漫画というだけで読みあさっていた時代だ。
今思えばなぜあれほど時間があったのか不思議なくらい、本を読み、音楽を聴き、バンドもやり、漫画も読み、描いていたと思う。余談ながら親父の遺品だった「世界文学大系」を全巻読破したのもその頃だ。
「性悪猫」は、はじめて「ガロ」で読んだ人はその時の、あるいは連載ごとに一連の作品で、また単行本で出逢った人はその一冊で、文庫は文庫で、作品集は…と、それぞれの年代ではじめて出逢った人たちがそれぞれ、いる。
「ガロ」にはじめて発表されたのは79年(2/3合併号、つまり執筆は78年暮れ)で、連載は80年まで続いた。青林堂版の単行本初版発行は1980年8月。
つまり、この作品との出会いの時代というか、年代の幅は今回の復刊でもう30年になるのだ。
今の若い読者がもし、はじめて今回の小学館クリエイティブ版「性悪猫」に出逢ったとしても、きっとそこには30年前から延々と続いてきた、「感動」という人々の連なりの中にまた一人、加わることになると確信している。

30年前に発表された「性悪猫」に、俺が出逢ったのは27年前。「日向」の一節に涙がぽろぽろとこぼれたのを、昨日のように思い出す。それから数年後に、まさかその作者と一緒に暮らすことになるとは、もちろんまだ夢にも思わなかった頃だけど、それからもずっとずっと、自分にとっては「宝物」のような作品だ。
その後自分は漫画家にザセツし「ガロ」の編集者になるわけだけど、そうなってからも、よけいにこの作品は自分だけの「宝物」ではなく、漫画界の、いやそんな狭い世界にはおさまらない「宝」であると強く思うようになった。

ちくま文庫版「新編・性悪猫」が出たのは1990年で、「性悪猫」収録の「やまだ紫作品集」全5巻が完結したのは1992年の6月だ。けれど文庫版はその後も毎年数千部ずつ、地道に売れ続け、再版されていった。文庫だけで数年後の11刷の段階で5万部を軽く超えていたから、青林堂版と全部合わせれば10万部は超えていると思う。だからその後も「ベストセラーにならずとも名作」というかたちで、ずっと読み継がれる名作だと思っていた。
しかし残念ながら筑摩書房の判断は「売れ行きの悪いものは出さない」というものに変わり、そしてここ十年ほどは「品切れ」のままほったらかしにされた。
この素晴らしい作品を、十年もの間、読者の目に触れる機会を奪ったということは、俺にとって、いや日本の漫画界にとって犯罪にも近い行為だと思っている。
けれど、他ならぬ筑摩書房の編集担当であった青木さん〜評論家の中野晴行さん〜小学館クリエイティブの川村さんというつながりで、彼女の死後、異例とも言える速さで復刊が決まった(「 やまだ作品復刊決定・初出調査のお願い 」)。

何度も何度も書いている通り、この珠玉の作品を後世に残し、伝えることが俺の最大の望みだったので、詳しくは言わないが、それを大前提として話を進めていただいた。俺が個人的な欲を出すことや、編集に口を出すようなことはしたくないし、すべきでもないことは承知している。そして、いよいよもう大詰めに近くなってきていると聞いた。
自分は原稿や原画を整理し、用意して整えただけで何もしていないが、今から新しい「性悪猫」のどこで、また新たな感動が自分にわき起こるのか、楽しみで仕方が無い。
十代には十代の、二十代には二十代の…と、いい作品は同じ人間が何度読み返しても、その都度新しい感動がある。
この作品には時に泣かされ、時にほっこりと暖かい気持ちにさせてもらい、時には背中を押すように励まされた。
恐らく、これを描いた彼女がもうこの世にいなくなってしまった今読めば、どこを読んでも俺は泣くに決まっている。けれども、俺にとってはそれもまた、この作品による「新たな感動」の一つなのだと思う。
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2009-09-16(Wed)

夢、水引、政権交代

9月16日(水)

朝方また、夢を見た。
俺たち夫婦が暖房の効いた暖かい部屋にいた。家具もないピカピカに磨き上げられたフローリングも新しい部屋で、床に普通に座ってくつろいでいた。
俺は立ち上がってトイレに入って座り、小用を足すと、便器の内側がちょっと汚れていた。我が家ではもうここ数年来、男も座って小用を足してもらうことになっている。(男性が立って様式便器に小をした時の飛沫が便器周辺にどれだけ飛び散るか、という実験映像を見てから、自発的にそうするようにした)
「ああ、トイレ掃除しなきゃ」と思い、流した後で傍の掃除用具と洗剤で便器を掃除してから、トイレを出る。トイレを出たところの正面にある蛇口から水を出して手に受けると、それは洗濯機だった。慌てて止めて、右手に座っている三津子に向かって、照れ隠しに声に出し「間違って洗濯機で手を洗おうとしちゃったよ」と言った。
三津子はフローリングの上で横座りをして笑っていた。俺は洗濯機の左隣にある洗面台で手を洗いながら、洗濯機(なぜか蛇口と受け皿のようなものがあって、一度も見たことのないもの)もあちこちに汚れがあるので「これも後で綺麗に磨こう」と考えている。
手を洗い終えて、右手に三津子を見ながら、左手つまりトイレを背後にした壁側にある窓の方へ近付き、外を見る。
窓といっても正方形のもので、生活感のない小窓だ。季節は秋も遅いようで、木々には枯れ葉がある。街中ではないようだ。振り返ると、三津子は薄いピンクの、いつも来ていたトレーナー式のスエットの上下のパジャマ兼室内着を着て、床の上でにこにこしてこちらを見ている。
部屋の中は、東京にいる時に新築で入ったばかりの時のような、綺麗なフローリングだ。家具類は何も無く、トイレから出て来た時にあった変な洗濯機とその横の洗面所周辺は生活感があったが、それ以外の周囲は思い出せない、というより見ていない。
三津子はクッションさえ置いていない床にただ、座っていた。

俺は突然、大変なことに気が付いて、窓ぎわから彼女の元に走り寄った。フローリングがつるつるでよく滑り、ランナーがベースに滑り込みをするような格好で彼女の傍へ座り込み、それから彼女の体を思わず抱きしめた。
彼女は無言だったが、黙って俺に抱かれている。なぜ、突然そんなことをするのかという風情で一瞬キョトンとした顔をした。暖房が効きすぎるというように、俺に抱かれながら傍らの障子かスライドドアだかをすっ、とほんの少し開けた。それから、三津子も目を閉じて俺の背中に両手を回して抱き合うかたちになった。
俺は彼女を両手で抱きしめながら、
「あんた今まで何してたんだよ、どこへ行ってたの? あれからもう…何ヶ月だ? 今はもう9月、10月?」などと言いながら、ぎゅううっと抱きしめた。三津子は両手を俺の背中に回して、無言で目を閉じていた。
両手で包むように抱き、時々髪を撫でてやるが、髪は洗いたての乾きたての質感だった。間近で顔をよく見ると、化粧っ気も全くなかった。ほんのりと血の気があり、健康そうな顔色までちゃんと見てとれる。元気だった頃の、風呂上がりに髪を乾かした直後…といった風情だった。
俺は抱きしめながら「本当に今まで俺がどれだけ…。どこ行ってたんだよ…」と言葉につまり、あとは涙声になる。彼女は困惑したようなあの「困り眉」で、笑顔のまま俺に抱かれてじっとしている。

そこで目が醒めた。

俺は二階の寝室のベッドの上で、左を下にして、誰かを抱いた形で両手を交差させて寝ていた。自分の背中を抱いていたのではなく、「そこに誰かが入っていたように」、両手の中には空間があった。しばらくそのかたちのまま、じっとしていた。

以前二人は抱き枕をそれぞれ持っていたが、俺のは反対側の右側にあった。抱き枕を抱いてたのではない。
たった今まで、俺は両手で三津子を抱きしめていた。
事態が把握できた…つまり夢だと解ったので、時計を見る。まだ6時過ぎで、右隣の三津子のベッドの上ではいつものようにユキがすやすや寝ている。
俺が泣いていたのは夢の中だった。けれども、朝の柔らかい光で明るくなった部屋のベッドの上で、今の光景が全て夢だったと理解して「三津子…」と声に出すと、涙がぽろぽろ落ちた。
彼女が生きて一緒にいた、何と幸福な夢だったんだろう…というその幸福の余韻があるだけに、何と現実は残酷なんだろうと思った。
この夢と、たった今まで両手の間にあったぬくもり、体の質感を忘れたくないので、寝室から降りて、この記録をつけた。am6:45



夢の記録をつけてからすぐ、片付けものをして、三津子にいつものようにお茶とお水をあげて線香を立てて合掌。
「出て来てくれて、ありがとう」と声をかける。
それから7時過ぎ、着替えてコンビニへサンドイッチを買いに出て、すぐに戻る。
こないだここにも書いた例の「押尾事件」というより犯行現場を提供した野口社長の責任を問う声がやまない…というニュースサイトを教えてくれたTさんから謝罪のメールが届いていた。
「どうにも腹にすえかねる事件なので思わず出しゃばっちゃってすいません」とのこと。
確かにあの後すぐに妙な上げ足取りのメールが匿名で(だいたい、そういうことを言ってくる奴は顔や名前を明かさぬものだが)届いたりしたので、「俺たちのような、一応業界の人間はあんまりああいうところには出ない方がいいんじゃないか」と忠告しておいた。

外はうっすらと比叡山の中腹に霞がかかったようになっているが、日が射して過ごしやすい穏やかな天気だ。今日も合掌。
9時過ぎ、明青のおかあさんから電話。
「ちょっとお渡ししたいものがあるので、下までいいですか」というので、こちらもBunさんからいただいた梅酒を半分に小分けしたのを持って降りて待つ。しばらくすると、マンション下におかあさんが到着、何と三津子が種をあげた水引が元気に育ち、「ちょうど紅白が揃ったから」というのでわざわざ持って来ていただいた。
三津子が育てていた紅白の水引はもう、うちのは夏の間に枯れてしまった。しかし彼女が育てて取っておいた種が、渡辺さんのお宅でこんなに元気に…と思うとジンとくる。
味見程度の量ですいませんが、と「クラッシュアイスでちびちびやるといいですよ」と梅酒をおすそわけして、手を振って去るおかあさんを見送る。
水引をいただく
部屋に戻り、さっそく水を入れたちょっといいコップに生けた。遺影に「ほら、こんなに綺麗に育ったよ」と見せて写真も撮ったり、今朝の夢にも出てくれたし「朝からいい日だなあ」としみじみ思った。

その後一休みしているとお袋から電話がある。たまたま見た雑誌に「癌には青魚がいい」とか書いてあったというが、まあその類の情報ならたくさんあるし…と苦笑。向こうもそりゃそうだ、と言っていた。1時間ほど世間話。
その後も仕事をして昼飯のあと、食休みでテレビを見る。
TBS(こちらではMBS)の「ひるおび!」くらいしか新内閣誕生を伝える番組がないので眺めていると、右下に小さくワイプ画面で国会の様子が中継されている。それが突然無くなり、映画「ゴースト」でデミ・ムーアの相手役をやった俳優の死のニュースになって、話そのまま映画情報に。
パトリック・スウェイジが57歳、膵臓癌で亡くなったというニュース。癌が発覚した段階ではもう?期で化学療法を続けていたそうだが、海外のゴシップ誌では恐らくその影響でやせ細り見る影もなくなった写真が掲載されていて、辛い商売なのだなあと思った。
で、それらの一通りのお悔やみのあと、出演者の石黒賢が「この俳優はゴーストだけではなく、元々ダンサーでもあり、『ダーティ・ダンシング』というミュージカル映画でも吹き替え無しでやるほどの役者だった、ボクらの世代には溜まらない」という内容のことを悲痛な表情で言うのに頷いていると、司会の恵がウンウンと悲痛な表情で頷きながら、
「鍛え上げられた筋肉、肉体で表現するというか、そんな印象がありますよねえ」とトンチンカンな相づちをうっていた。
確かにどんなに興味範囲外・守備範囲外のネタにも瞬時に反応するこういう「瞬発力」というか、ある種の「小器用さ」がないと生放送の司会は仕切れないのだろうが、逆にそういう場合はそれなりに瞬時に的確な語彙を選択する「早押しクイズ」を続けているようなものだ。
つまり正答=コメントを誤ると、逆に「心の無さ」や「無知」が浮き彫りになることもあるので、つくづくテレビとは怖いものだと思った。思ったし、その現場で普通に働く、つまり一般の大衆の耳目に我が身を晒すということを思うと、さらに怖いと思う。
テレビ業界で長く仕事を第一線で続けるということは、つまり、そういう異常な状況下に長く置かれることになるので、そりゃあ通常の感覚が鈍麻していくのは仕方のないところだろう。だからといって麻薬や覚醒剤に逃げるのは論外だが。


その後2時から衆議院本会議の中継がNHKで始まったので、仕事の合間にチラチラ見る。例の「動議」で正副議長の選出などを終えた後、首班指名選挙へ移る。自民党の面々が議長に向かって右手、つまり画面で見ると顔の左側が映るのを見るのは、何かとても違和感があった。
左翼から席順通りに点呼が行われて投票が粛々と進む。投票が公明党から自民党に移り、新人議員から席順に投票、しばらくして麻生前首相が投票の後でいつもの「右翼」側つまり与党側へ戻りかけて「あ、違った、俺らこっちだっけな」というような感じで苦笑して、左翼席へ戻っていった。町村信孝が苦り切った表情で叩きつけるように投票箱へ用紙を突っ込んでいたのが印象的だった。
民主党側に投票が移ると、やはり新人議員から登壇し投票するが、その長いこと数の多いこと。鳩山代表は議場では終始見た感じでは普通の笑みで、そのまま投票した。しばらくすると小沢幹事長の後をヨボヨボの羽田元総理が同僚議員に支えられるようにして投票へ向かう様子が見られた。大丈夫かこの人、と思った。
30分ほどして、参議院でも議員の入場が始まり、首班指名が行われた。集計が終わり、両院一致で鳩山由紀夫新総理が誕生。
まさに歴史的な瞬間だった。これまで自民党が野党になったことはあるものの、議会での第一党の座を失ったことは一度もなく、ましてや「野党」に過半数を取られて政権与党の座を奪われるなど、保守合同以来初めてのことだ。まずは組閣、そしてお手並み拝見というところか。
ネガティブキャンペーンや上げ足取りはとりあえずやめて、本当に政策がどのように実行されるかを見たい。


午後、小包が届いたので何だろうと思ったら、北海道のマリさんからお菓子をいただきました。チョコレート好きなのをしばらく忘れていましたが、思い出しました(笑)。ありがとうございます。
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2009-09-15(Tue)

書きすぎで結構

9月15日(火)

朝5時ころ目が醒めた。また何やら夢を見ては醒め、起きると8時。小雨が降りそうなどんよりした天気だが、比叡山の山頂はよく見えた。
午後仕事をしていると、精華大のマンガ学部の院生という子から電話があった。「ギャラリーおいけ」で22日からはじまる講師・院生展に出品するために俺が発送したやまだ紫のスケッチブックを受け取った、という連絡。
あと他の出品者は展示に添えるのは作品の簡単な解説だけなのだが、やまだ先生については5月に亡くなられたということで、そのことについての説明を展示に加えたいという。こちらはスケッチブックの展示方法については昨日すでに学部長の竹宮先生にメールをしておいたことと、説明文などもこちらで作成したデータを添付してあると伝える。院生は竹宮さんと会うのは明日の予定だとかで聞いておらず、明日聞いてみますとのこと。

その後「性悪猫」の刊行作業中の、小学館クリエイティブの川村さん(これまでKさんと表記してきたが、中野晴行さんがブログ「南区大宝寺町西之丁21番地」でお名前を出しておられるので、ならう)からも電話がある。
中野さんがブログで「性悪猫」のカバー案を見た、とのことだったので、「こちらも見せて欲しい」とメールしたところ、電話で「まだラフが何点かあがってきた段階で…」と申し訳なさそうに言われる。特段注文をつけるつもりも文句を言うつもりもなく、純粋に早く見たかっただけ。
今回の一連のやまだ紫作品の「復刊」は、とにかく作品を後世にかたちとして伝え、残して行くことが目的だ。ゆえに自分が編集などに出しゃばるつもりは毛頭ないし、実際「何かお書きになりませんか」と川村さんに言っていただいたのも、固辞させていただいた。
連れ合いとしての「三津子」の夫として、彼女を失った慟哭の底から何度も何度も転げ落ちながら這い上がりつつある、そのことはこのブログで「書きすぎだ」という誹りを承知の上で、公表している。心ない中傷があることも、ちゃんと知っている。
そんなことはもう97年のあの事件以来慣れっこだし、人の心を踏みにじり、あざ嗤い、不幸を肴に酒を飲む連中のことも漏れ聞こえてくる。善人ヅラをして世間にいくらイイ人ぶっていても、いずれ、必ず裁きを受けることになろう。その時にきっと後悔することになるだろう。俺は宗教家でも何でもないが、そのことを知っているから、何を言われても平気だ。

このブログを見て「何もそこまで書かなくても」という人も確かに、いる。
だが、そうしなければ、彼女が倒れてから、そして亡くなってしまってから、俺自身が生きられなかった。
俺が生きられなければ、お互いに毎日心の中で祈った、「相手に一日でも長く生きて欲しい」という思いを裏切ることになる。だから「自分が生きるため」に必死で書き綴った。今も、そうしている。

個人的なことなら思い出はいくらでも、それこそ溢れるほどある。
けれど本という「かたち」として残る作家「やまだ紫」の作品に、自分のようなチンケで何の才能もない小物が何か口を出す、モノを言う立場にはない。個人的なファンとしての思い、誰でもそうだろうが、大好きで敬愛する作家への滾る思いはある。だがそれは個人的なものだ、「論」ではない。

朝、コンビニで昼飯用に買った弁当は仕事に集中していたら夕方5時をまわり、結局夕飯がそれという情けないことになる。
自分はいいのだが、三津子の陰膳がコンビニ弁当の余りではショボくて申し訳ない気がする。陰膳は毎日盛りつけや好みを考えてちゃんとしようと思っている。毎日、彼女のお酒と簡単なつまみを用意するのが今は唯一の楽しみでもある。
ここ数日
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2009-09-14(Mon)

精華大学マンガ学部 院生・講師展

9月14日(月)

朝は5時ころ目が醒め、それからとろとろ。起きたのは8時過ぎ。朝のもろもろを済ませて、ずっと仕事。
途中、イチローが9年連続200安打を達成する瞬間を見逃す。試合そのものはつけていたのだが、仕事に集中していたらいつの間にか実況がVTRでもう一度、というので気が付いた。
それにしても、内野安打ばかりでセコいとかいう人もいるが、じゃあその内野安打を年間200本、9年連続で打てる打者がいるのかと逆に問いたい。確かにイチローは個人的に付き合うとどうなのかという気もしないではないが(特に自分が目上ではなく後輩だったら)、選手は現役である以上プレーで評価されるべきで、それは間違いなく超一流だ。

その後精華大の竹宮さんからメールがあり、22日からの精華大マンガ学部の院生と講師展(ストーリーマンガコースからのお知らせ参照)にやまだの油絵と水彩を出すが、そこに同時に表示するA5判大のプレートをどうしようかというので、こちらで作成するということと、あと追加の展示品として、原稿整理で見つかった「COM」当時の詩画連載「天空への詩」を自分でスクラップブックに貼って作ったものを、送ることを提案。

このスクラップブックは前に原稿や原画整理の課程で見つけたものだが、何しろ描かれたのは彼女がまだ22歳の頃で、つまり、大学4年にあたる年齢だ。
院生・講師による展覧会は当然一般の客も入るだろうが、やはり学生が多いだろう。そういう子らに、つまり「マンガ」という手段を自己表現の一つとして選んだ学生に、何より作家性とは何か、個性とは何なのか…を学んで欲しいと思い、学生と同時代の頃の「やまだ紫」を見て欲しいと思ったのだ。

「漫画家はマンガだけ読んでちゃダメ」

「他の誰でもない、自分っていう個性を出さないと」

「作家性っていうけど、それって個性と感性のこと。それを鍛えるには、若いうちにいい映画とか小説とか、詩とか、漫画以外にもたくさん見て読んで聞いて、鍛えておかなくちゃ」

「わたしは別にマイナー作家でいい。売るってことを最初に考えてものを作ってきたこと、一度もないから」


今の学生たちに伝えたい、彼女の珠玉の「ことば」はたくさん、ある。
だが作家は作品で評価をされるべきであり、自らが多くを語るべきではない。ましてや他人の作品に同じ立場の作家が多くを言及するのは、どうにもマナー違反の気がして、と語っていた彼女を想う。

もし彼女が漫画という表現を選ばなかったとしたら。

例えば十代の頃からずっとそうだったように詩作だけで行ってたとしたら。あるいは逆に、漫画だけを描く人であったら。文章の人であったら、と色々考える。
だがやはり、彼女は「やまだ紫」であったろう。
いずれにせよ、つまり漫画家としても、詩人としても、エッセイストとしても、そして何よりもモノを作る、生み出す「作家」として尊敬すべきひとになっていた事は間違いない。
まだ世間では漫画といえば女性は少女漫画という時代に、十代で岡田史子に触発されて漫画をはじめて描き、「ガロ」に行きたかったが「男のひとばかりでちょっと怖くて」、「COM」でデビューしたやまだ紫。「マイナー作家だから」と自身を卑下していたが、実はあの超難関の「ビッグコミック賞」で佳作を取ったこともある、ストーリーテラーとしても一流だった、やまだ紫。
その作家としての凄みを、ほんの少しでいいから若い人が感じ取って貰えれば、今回の展示に出品させていただく意味が何かしら生じると思うのだ。もっともこんなことは自分のような小モノが言うべきことではないが、役割としてそういう立場にある者の義務だと思っている。

どこへ送ったらいいかというメールにはその後返信が来なかったので(注:深夜にあり、翌朝確認しました)、以前原画展をやった時のスチロールプレートにスクラップブックを開いたかたちでフィルムで保護したあと、エアキャップで巻く。さらに別のプレート2枚でサンドイッチのように挟んで新聞紙でくるみ、さらに梱包用の宛紙を巻いて、とりあえず大学の教務へ送る手配をし、宅急便を呼ぶ。

晩は仕事のあと、6時過ぎから晩酌。
総菜で買ってあったコロッケを温め、ウィンナを炒め、厚揚げを焼いて生姜とダシ醤油で。考えてみたら油こいものばかり。三津子には陰膳に、漬け物なども添える。いそいそと彼女にお膳を盛りつけている時が一番楽しい気がする。
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2009-09-11(Fri)

押尾事件、「野口社長に怒り爆発」

9月11日(金)

このところルーティンの仕事をこつこつやっている日常なので、時々曜日の感覚が無くなることがある。日付や曜日はこうして記録をつけていることで、かろうじて「ああ、そうか」と思う。そういえば今日は「911」、アメリカ人にとっては、というか世界にとって特別な日なのだが。
夕べも12時過ぎに寝た。そして朝方5時台に目が醒め、それからトロトロを繰り返して何度も夢を見た。起きたのは8時。今日もいい天気で、比叡山がはっきり見える。
朝方起きた時に、こちらが動いた気配で隣のベッドの上で寝ていたユキが顔を上げて、チラとこちらを見た。こちらが寝相を変えただけだと知ると、安心したようにまた丸くなった。もう起きる頃になって足元の送風機を消すと、その気配で今度は起きるのだと知り、ユキも起き上がって四つ足をググーっと踏ん張り、あくびを一つして「にゃあー」と鳴く。足元にいたシマはいなかった。
階段を降りてトイレ洗顔などをしていると、その都度ユキがついて廻る。朝のことを済ませて猫にもご飯と水をあげて、パソコンでメールをチェックしてからテレビに切り替え、一息つく。
するとユキはいつものようにリビングにおいてベッドがわりにしてある段ボール箱の上のクッションに丸くなって、もう眠そうな顔をしている。
テレビを見つつ、立ち上がって玄関を出て新聞を取りに行く。戻ってきて玄関のドアを開けると足元にユキが待っていた。
何だか「女房」みたいな猫だ(笑)。
仕事を始めると、ユキはもう段ボール箱の上で丸くなって寝ている。

昼前にうどん玉をゆでて、レトルトのカレーうどんを食べる。それからおもむろに部屋の掃除。ダスキンモップでホコリや猫の毛を取り、クイックルワイパーで床拭き&ワックスがけ。汗だくになり、シャワーですっきり。
外は30度近くまで上がるという予報で、ベランダに出ると朝の涼しい風がウソのよう。それでも空気が爽やかで、散歩日和ではある。残念ながら散歩を一緒に愉しむ連れ合いがもう、いないが。

それから仕事にとりかかるが、時たまブログについて感想をくれる人(Tさん)からメール。
「押尾事件、部屋を貸してた野口への責任を問う声が止みませんね」とのこと。
もうすでにそこら辺は日記にすでに書いたのだが、Yahooのニュースサイトを見てびっくり。一ヶ月も前の記事がエンターテインメントカテゴリに、いまだに掲載されている。
他のニュースはもちろん9月の、それも一両日中の記事で、
ピーチ・ジョン野口社長、押尾事件に「全く関与していない」(オリコン) - Yahooニュース
という8月8日(土)8時20分配信の記事だ。一瞬日付の見間違いかと思ったが、本当に一ヶ月以上前のものである。
コメント投稿者は3千人を超え、コメント数も2万超えと、異常な関心を保っている。
コメントを丹念に見ていくと、なるほど、Tさんの言うように明かな「荒らし」や複数idのマッチポンプ、なりすまし、「サイコ」など確かにおかしなものもあるが、概ね皆さんこの事件に関して疑義を投げかけており、押尾の保釈に怒り、野口社長の説明責任を問うている。
俺も見ながら、もっともだと思うことは
押尾学が女性を連れ込んで薬物を使用した、
その相手が亡くなった、
なのに救急車も呼ばず、
所属事務所に後始末を頼んでその場から逃げた、
そしてその「犯行現場」を提供した(押尾のパトロンと言われる)
野口社長が「全く関与していない」
では通らないだろう
…ということだ。
もっと言えば、押尾学が「死者まで出た事件の最重要参考人」であるのにも関わらず、保釈されたということに驚くのが普通の感覚だろう。

ネットではYahooだけではなく、他でも背後にはパチンコ業界の大物や政治家が絡んでおり、警察に上から圧力をかけているのだ、というまことしやかな噂が駆け巡っているらしい。
そういえば最近、一人で食事をしている時に仕方が無くぼうっとワイドショーやニュースを眺めたりしているが、酒井法子夫婦の件に比べて、こちらの事案はもう全て終結したかのような「無視」ぶりではある。全マスコミがまるで示し合わせたようだ、という「噂」さえある。それをあながち妄想だと笑えぬ状態であることが、最近めっきりテレビを真剣に見なくなった自分にも解る。

Tさんは「知り合いにブログなんかでもどんどん書いてもらうようにお願いしている」とのこと。
「こういうカネや権力にモノを言わせて一般人を見下し、何でも出来ると思っている連中に無性に腹が立つ」とも。あんまり腹を立て続けていると俺のように病気になるから気をつけてと返信。

ただ、こうした「義憤」、疑問はこの事件を知った人なら誰でもが感じ、覚えることだろうとは思う。ただ多くの人たちはニュースを「消費」してしまう、つまり報道がなければ忘れ、関心が次の何かへと向かうということだ。
ただこのニュースサイトでは、高い関心が継続していて、一部では記事削除後に備えて事件のまとめサイトを作ろうとか、ピージ・ジョンやその親会社であるワコールの不買運動を起こそうとか、色々な「動き」もあるそうだ。

昔、というか「ネット」が無かった時代…ネットはあったのだが、一般の不特定多数の人がこのように意見を交わす場は、ニフティサーヴや「草の根BBS」(懐かしい!)と呼ばれた狭い範囲でしかなかった。(タイガー・マウンテンなんか格好良かったなあ)
いわゆる「巨悪」というと大げさだけど、企業や政治家の不正への不満に一個人が対抗することは、マスコミに内部告発するなど、本当に手段が限られていた。ビラを撒くとか、ミニコミを作るとか座り込みとかデモとか、「賛同するけどそこまでは…」という引き気味で見る人が圧倒的に多かった。
今ではこうしてネットが携帯を含めれば、ほぼあまねく普及したことによって、誰でも賛同すれば意見を書くことも出来るし、書かなくても同意する旨クリックすることで意思表示を重ねることも出来る。
ネットは匿名性が保証されているので、そういった「賛同するけどそこまでは」的な敷居を取り払ったのだと言える。
けれど匿名ということは、つまり身元を隠せるということ、そのことを「何をやってもいい」と解釈する人もいるわけで、時々某巨大掲示板で「脅迫」や「殺人予告」をして逮捕される人が出るのはご承知の通り。最近は警察も事件性があると簡単に発言者を特定できるので、皆さん注意した方が良いし、自分も嫌がらせを受けた人間を告訴する寸前まで考えたこともある。(やることがたくさんあるので、余計なことに気を患わせたくないし、今は告訴するとほとんどプロバイダも情報を開示するからと警告したら収まった。)

ちなみに、俺の場合もう十年ほど前になるが、例の「ガロ」クーデター事件の後、2ch(某巨大…ってもうここしかないのでぼかす意味無し)でスレが立ち、そこに「俺が出ている」という「チクリ」を突然、貰ったことがあった。
当然俺は書き込んだりしていないので仰天して教えて貰ったスレッドを覗いてみると、確かに当時から俺が主張しているようなことを書き込んでいる人=つまり俺だと見なされた人が居た。
思わず自分の名前を書いて俺がまずシラトリ本人であることを告げて、自分はこういう場所に来ることはないし、意見があれば名前と顔を出して言う、と宣言して二度と書き込まなかった。

さてYahoo!のニュースサイトの場合は、ヤフーIDがアタマ3つだけ表示されることになっており、完全に匿名で別人の如く一人が何度も書き込むことは出来ない。が、IDを複数取得し、とっかえひっかえ書き込んでいるとおぼしき人も散見される。(一応自分は編集者なので、だいたい書き込む内容や文体で見当がつく)
それにしても、一ヶ月経ち、被害女性は「薬物摂取による突然死」で、押尾被告は単純な「薬物使用」のみの立件で、その他女性の救護をしなかったこと、携帯電話の証拠隠滅工作その他の「疑惑」解明に全く捜査の進展がないことが、一般市民を怒らせているようだ。

聞いたところによれば、あるヴィジュアル系バンドについての記事を、ファンが出来るだけ長く掲載させておこうと、それこそ申し合わせて複数IDを用いて書き込みを重ね、前代未聞のコメント数になったことがあったという。
それが明かな「工作」だと解ってはいても、そのバンドの知名度は確実に上がり、結果的には「宣伝」という目的は果たせたわけだ。尊敬や共感を集めたかどうかは不明だが。

この「押尾(+野口)事件」に関しては、被害者=死亡した女性の遺族が民事で真相究明の訴訟を起こしたいと考えておられるようだ。
ただ公判維持には経済的・時間敵・肉体的精神的な負担も多く、難しいだろうということ。亡くなった被害者の女性は面白おかしく書き立てられ、ネットでは例によって「自業自得」論者も多い。
たとえどんな人間であっても、被害者つまり亡くなった人がその場で押尾学を殺そうと襲いかかったのならともかく、死ぬつもりもなかっただろうし、死にたいわけもなかったのなら、それはやはり「被害者」でしかない。
ましてやその遺族を「金目当て」と誹謗する動きもあるそうで、家族いや残されたご遺族にしてみればたまらないだろう。

それにしても、「実業家」なら道義的責任や説明責任を負う、ショーバイで金儲けをしているのならそれくらいの最低のモラルは守らないと、守銭奴とか拝金主義とか誹りを受けるのは免れまい。被害女性ではなく、まずこの野口社長に怒りや非難を向けるのが、正常な感覚のように思えるのだが。


ところで、三津子=やまだ紫を失ってから、たくさんの人たちからメールやハガキ、お手紙などなどでお悔やみや励ましをいただきました。
ここへのコメントも含めて、それら一つ一つにとてもまともな御礼が出来ずに、重ねてお詫び申し上げます。

また、丁寧なお手紙を下さった方もおられますが、ブログなどへの公開はご遠慮下さい、という方もたくさんいらっしゃり、もちろんそういう方への言及はいたしておりません。ただ、感謝申し上げるのみです。

毎日毎日、彼女の写真に花を添え朝はお茶と水を、晩はお酒と氷入りのウーロン茶を供え、簡単なおつまみでも何かしら、陰膳を作ります。それが唯一、今の自分の愉しみで、素人の盛りつけた陰膳をパチリとデジカメで撮影したりしています。
前にも書きましたが、仕事ややる事のある日中はともかく、それらが落ち着いた夜は本当に辛いです。彼女にお膳を作り、話しかけ、そして一杯やることで何とか、その時間をやり過ごしています。

世の中とまっとうに向き合うと、腹が立ったり、アタマに血が上ることも多いですが、やはり夫婦二人で楽しい時間を過ごすことが一番、こころと体にいいでしょう。今は彼女は写真ですが、それでも、自分はその時間がないと生きて行けないようです。
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2009-09-10(Thu)

魅力ある街

9月10日(木)

夕べは12時過ぎに寝た。
寝る前に、夕方干しておいた敷き布団を取り入れた。敷き布団は俺のではなく、隣に三津子が寝ていた時のもので、猫の毛だらけになってきたので日中叩いたりはけでこすったりして毛を落として、干しておいた。それをまた、彼女が寝ていた時のように、隣のベッドに敷いてから寝た。

夢をたくさん見た。三津子が2回出て来た。
一回目の夢は、彼女がいつも着ていたオーバーオールの下の両足がなぜか大きく腫れて、俺はそれを心配して病院へ連れていこうと言っている夢。
もう一つは割合長いストーリーのある夢で、醒めた時は5時過ぎだった。この夢は何を意味しているのか、いずれにしても覚えておこう…とキチンと反芻し、じゅうぶん記憶にとどめたつもりでそのまま寝てしまい、8時ころ起きる。
今朝のもろもろを済ませてパソコンへ記録しようとして、その夢をなかなか思い出せずにしばし呆然。「ええと…」と何とか脳内のシナプスを繋げて思い出せた。

その夢は二人でマクドナルドへ入り、ハンバーガーを食べようと並んでいたのに、いつの間にか店は洋風のカフェレストランみたいな店になっている。内装はイメージ的には後楽園にあった(今もあるのだろうか)野球が見られるベースボールカフェみたいな感じの内装。
セルフサービスなので二人でめいめいにトレイを持ち、4人がけテーブルの席につこうと椅子を引く。すると、俺の椅子の上には透明な手提げ袋が置いてあり、中にはフルーツがたっぷり載った綺麗なケーキが入っている。忘れ物だろうか。
俺がすぐ横の壁際にある二人がけテーブルにいた若者…といっても皮ジャンを着た30歳くらいの長髪の子に目で「これキミらの?」という風に袋を持って見せるが、二人とも顔を見合わせて違う、という風に首と手を振る。
なので一度それを自分の隣の椅子の上へ置き、座る。向かいには三津子が同じように腰掛けた。
トレイの上にはハンバーガーではなくて、何かチョコレートスポンジケーキの塊を食パンのようにナイフで切って食べるようなものとコーヒーが載っかっている。「こんなに食べきらないね」と言いつつそれをプラスティックの白いナイフで切っていると、隣の若者が「あの、それいらないんならいいスか」と先ほどのケーキの袋を指さして言ってきた。俺は「ああ、どうぞどうぞ」と言ってそれを彼に渡す。キウイとかオレンジとか色々カラフルで新鮮なフルーツがたっぷり、びっしり載った綺麗なケーキだった。昔「夢に色はない」と言った人がいたそうだが、夢にはちゃんと色彩があることはもう誰でも知っている。
「この夢」が何を意味するのか全く解らない。
隣を見るとベッドの上に畳んだ毛布の上で、ユキがすやすやと寝ていた。

今日もいい天気だ。
着替えてコンビニへ週刊誌と朝のサンドイッチだけを買いに出る。空気が完全に秋のものに入れ替わった感覚がある。気温は今日も高くなりそうだが、朝晩には本当にしのぎやすいいい気候になった。
京都は紅葉の時期もまたいいが、初夏やこうした季節の合間の、ほんの一瞬の素晴らしいときもある。


そういえば先日民間シンクタンクが行った「地域の魅力度調査」の結果が発表されて、「全国で最も魅力的な街」に函館が選ばれたらしい(ブランド総合研究所 ホームページ)。2位は札幌市、3位は京都市が入ったというが、函館の1位は市が去年観光PRのために制作した例の「イカール星人」の侵略の動画のおかげだと思う(笑)。何しろテレビのニュースで俺ですら見たぐらいだし、この調査はネットで行われたそうだから、恐らく公開中の動画も見た人は多いだろう。(と、あんまり動画のお陰だと言うと函館に失礼だけど)

函館というと、もちろん自分が生まれ育った、18歳までを過ごした故郷ではある。
良く言われれば当然悪い気はしないが、若者にはとても退屈な街であった。
それこそ俺の母校のモットーであった「青雲の志」を持つ若者なら、ほとんどが脱出を試みるような、やる気のない街という感覚がずっとあった。このあたりはまあ以前日記にも書いたことがあるので割愛するけれど、トシを取ると、あの何ともいえないユルい時間の流れとか、観光客誘致にガツガツしていない感じがいいと思うのも理解は出来る。しかしそれは年寄りにとってという意味で、若者にとって魅力があるかどうかは別の話。
とにかく、自分が過ごしていた時期の、
『黙っていても「夜景」「異国情緒」「新鮮な海の幸」「温泉」などの観光資源があるので、特に積極的に行政は産業育成もせず観光誘致もせず、だらだらと地方都市にありがちな「漫然とした地方公務員のダラ勤」を続けていた印象』
と、その結果としての
『覇気のある若者が残らず老人だけになり地場産業がなく気が付いたら観光だけになっていたが時すでに遅く駅前シャッター街で経済最悪』
となってしまった街…という印象が強すぎる。

ところが、十年ほど前だったか、夫婦で最後に帰省した時にお袋が連れてってくれたのは、史跡五稜郭を舞台にした市民の「野外劇」で、それはまあ頑張っていたし面白かったし、何より舞台が素晴らしかった。五稜郭タワーも新しくしたり、観光誘致も「イカール星人」動画(笑)じゃないが、積極的にPRを行うようになったとは、たいした変わりようだと感心した。
北海道といっても函館は温暖で、雪もそれほど積もらないから…とよく言う人がいるが、津軽海峡を越えただけで冬は真冬は鼻毛が凍るほど寒くなる。夏は短く、ホンの一瞬だ。うちのお袋は7月、ひどい時は8月でも夜に寒い日があってストーブをつけたと言っていたことがあるくらいだ。
しかし、まあいわゆる梅雨の時期、梅雨のない北海道特に函館は最高だ。食べ物も、生ものは確かにうまい(ただし観光客向けの店は高い)。ゆるい街の雰囲気も、逆にゆったり過ごしたい世代にはいいだろう。

さてその函館から東京暮らしの方が長くなり、そして今は魅力ある街3位の京都に住んでいる。
京都市に無いのは海くらいなもので、歴史ある街、四季の移ろい、その季節の節々に行事や祭があり、街中はそれなりの繁華街があって便利。けれど車で10分も走れば景観条例もあって町並みは落ち着き、本当に住みやすい街だ。日本中、いや世界からもこの街を目指してわざわざ来る、そこに住んでいるということの素晴らしさは、毎朝比叡山を、そして東山や吉田山を見る度に実感する。
自分は函館で生まれ、世田谷区上北沢、千葉県柏市、豊島区南大塚、そして板橋区で何カ所か移動して京都へ来た。間違いなく、今居るところが一番魅力的な街だと思っている。
誰でも今自分が住んでいるところが「クソみてえな場所だ」と思いながら、嫌々暮らしていたら心身ともに良くない影響が出ると思う。それと逆に、「素晴らしいところで暮らせている」と思い感謝すれば、いいと思うのだ。
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2009-09-05(Sat)

月命日と、誕生日

9月5日(土)

本当ならば、今日は三津子の61回目の誕生日のはずだった。
たぶん、生きていればお昼は何か食べたいものがないかと聞いて、それを食べに出かけて、散歩がてら買い物へ三条あたりまで歩いたりして、プレゼントを買う。そしてあちこち歩いた後、ちょっと一休みで喫茶店へ行くか、はたまたパチンコなんかちょっと弾いたりして、夕方には明青さんで一杯…。
きっとこんな感じで普通にお祝いをし、過ごしたことだろう。

夕べはなかなか寝られず、2時過ぎにようやく寝られた。今朝は8時前には目が醒めていたが、朦朧とした感じで、結局10時過ぎまでベッドにいた。
下へ降りて朝のことを済ませ、パソコンを立ち上げる。夜に寝られずに更新したブログを見る。夜に書く文章は経験上、恥ずかしいものが多い。もう一度ブログを読み返すと、やっぱりこっ恥ずかしいことを書いている。でも本気で思ったことでもあるので、そのままにする。

朝飯を食べる前に、まず下のI内科クリニックへ行く。もうレンドルミンが切れてしまうからだ。買い物もあるので、自転車の空気入れを持って行き、自転車置き場の自分の自転車の脇に置いてからクリニックへ入る。
患者さんが2人居たが、一人は会計待ちの人で、もう一人女性が待っていたが、なぜか俺の方が呼ばれたので、診察室へ。
I先生に「お変わりありませんか」と言われ「はい、おかげさまで…ただ、夜寝られないことが多くなりまして」と相談。
今、寝る前にレンドルミンを2錠飲んでいるが、それでも明け方あたりで目が醒めてしまって、悶々とそのまま寝られないことが多い。
こないだはあまりに苦痛なので思わずロヒプノールが残っていたので併せて飲んだら8時過ぎまでほとんど切れ目なく寝られた、と報告。
I先生は「ロヒプノールかあ…! あれはちょっとなあ…」と言われる。「強いんですよね」と言うと「そうですねえ、ちょっとお奨めしませんねえ」とのこと。
「薬というものはね、だんだんと耐性がつくと言うか、効かなくなってくるものなんですよ。だからといってね、じゃあ次はこれ、次は…って強くしたり増やして行くと、それこそマイケル・ジャクソンみたいなことになるわけでね」と言われる。

ていうか、基本的に自分に処方された薬剤以外を飲んではいけないのだし、普通の先生なら「そんなもん飲んじゃあかんやろ!」と怒られても不思議ではない。
I先生は俺の状況を良く知っておられるのと、優しい方なので、「じゃあ、追加ということでベンザリンというのを出しておきましょう」ということにしていただいた。
それから最近、朝に痰が絡むことがあるというと、聴診器で肺の音などを聞いていただいて、去痰薬も処方していただく。
めまいは幸い、夏の間は治まってくれていることが多く、薬がまだ残っているので今回は無し。「かかりつけ医」が同じマンションにおられるというのは、本当に心強い。
慢性疾患というか、自分のようなとんでもない病気を持っていると、日常色々と不安もあるものだ。増して連れ合いを亡くした後は、寝られなくなったりもした。寝られないどころか、一週間ほどほとんどモノが食べられなかった。
しかし「不眠」というのは、運動などをして体を適度に疲れさせ、自然に寝られるのが一番いいということ。けれど俺の場合は重大な病気を持っているので、健康な人のように外で運動するのは危険でもある。何せこれだけ巨大化した脾臓では何かがぶつかったり、あるいは転倒しただけでも大出血の怖れがある。
こういう「諸事情」をご理解いただいているのが、心強い。

白血病という病気になってから、自分の病気がどういうもので、出ている症状がどうで、どういうことになるとまずいのか…等々、とにかくヒマさえあれば徹底的に調べて勉強した時期があった。あれからもう4年になる。
医学は日々進化しており、例えば脾臓も、近年までその役割の全てがよく解っておらず、不要な臓器とさえ思われていた時代もあった。しかし、近年は免疫に関係する「らしい」ということが解り始め、「Science」誌の7月31日号では、マウスの実験で、脾臓には血液よりも多くの単球が貯蔵されていることが判明し、体の免疫力、修復力に極めて重要な役割を持っていることがほぼ、確実となった。

つまり、単球とは白血球細胞の一種だが、これまでは(俺の癌が巣くっている)「骨髄」の中で生成されて、体内を循環している(循環しながら保存されている)と考えられていたのが、実はその血液の十倍以上の単球が脾臓に貯蔵されているというのだ。
簡単に言うと、これ=脾臓を取ってしまうと、手術などからの「回復力が大幅に落ちる」という言い方が出来る。
脾臓はもし破れたり切れたりしても、修復が極めて難しい臓器であることは、従来から解っていた。
以前手術の際に執刀していただいた京大病院のO准教授(肝・胆・膵・移植外科)からお聞きしたのだが、もし傷つけてしまった場合、脾臓自体を縫合すること=つまり針に糸をくくって臓器をちくちくと通常のように縫い合わせることが出来ないのだ。
脾臓が切れたり破けたりすると、血がじわじわ沸いてくる。普通はそこへ向かう血管をとめ、縫合して止血する。けれど脾臓は大きな血管が通りたくさんの血液が循環している、スポンジの塊のような臓器だから、完全な止血自体が困難。縫合するために針を入れると、またそこから新たに出血する。だから、ボクサーが打たれて…とか交通事故などで脾臓が損傷を受けると「即、摘出」となるのはそういうことだ。
脾臓が腎臓の左上あたり、通常なら肋骨に守られているのは、やはりそういう「ダメージに弱いから」ということもあるのかも知れない。人間の体はちゃんと、大切で弱いものは肋骨で囲んで守るように出来ている。
ナショナル・ジオグラフィックによると、こういう発見は例えば「盲腸」つまり虫垂が役割不明の時代、役立たずと言われていたのに、実は「食料の消化を助ける善玉菌の貴重な貯蔵庫だった」ことが判明した例を挙げて
「虫垂は、非衛生的で寄生虫の多い環境に合わせて進化した結果だ。下痢性疾患が当たり前のように広がる地域では、病後の腸内善玉菌の回復に虫垂が欠かせない」というデューク大学医療センターの助教授の話を紹介している。
脾臓も、免疫力に関係している「らしい」ということまでは、30年も前から第二次大戦の帰還兵の調査で判明していた。脾臓の有無で心臓病や肺炎にかかるリスクを調べたら、無い場合が何と二倍以上高かったという。
自分の場合、脾臓が肋骨に守られるどころか骨盤に至るまで巨大化してしまったので、もはや摘出術そのものが命に関わる重大事となる。なので、考えたら日常腹部を保護するアメフトや剣道のような「防具」をつけて暮らした方がいいくらいだ。自転車だって衝突や転倒は危ないし、怖い。

繰り返しになるが、I先生は簡単に「眠れないから睡眠薬を出しましょう」と言って下さっているのではなく、あくまでも、こういう俺の病気のことをご理解いただいているので、そういう対処をいただいている、ということはご理解されたい。
メンタルケアという意味でも「配偶者の死」はストレスでは最も高い状態で、それによる不眠は他の病気の元にもなりかねない。アタマでにわか仕込みの勉強をした理解があっても、それでも、俺も彼女の死をまだ乗り越えられていない。
白血病で免疫力が低下している、脾臓は信じられないほど巨大化している、配偶者の死で不眠状態にあるが、健康な人のように運動で快眠というわけにはいかない…という特殊な事情を鑑みて、ということなので、くれぐれも医者に言えば簡単に薬が貰えるという「誤解」のないよう、お願いしたい。

I先生に御礼を言って、会計を終えてそのまま並びの薬局に向かう。処方箋を渡すとレンドルミンが足りないそうで、取り寄せたらポストへ入れておいてもらうようにした。I内科、調剤薬局ともにマンションの玄関から「数歩」のところにあるので、もの凄く有り難い。

自転車置き場で自転車の後輪と前輪に空気を入れてから、ポストに入っていた新聞と村上知彦さんからのハガキを持って、いったん部屋に戻る。空気入れと薬などを置いて、改めて買い物に出た。
自転車はこのところタイヤの空気が抜けてどうにもペダルが重かったが、空気を入れてサドルをちょいと高くしただけで、もの凄い快適に走るので爽快。とはいえ衝突や転倒は自分の場合死に直結するおそれがあるので、交差点などは慎重に確認しつつ漕ぐ。

一乗寺にあるスーパーで、いつものように今日〜明日のものを買った。
今日は三津子の月命日、生きていれば誕生日なので、何かおいしいものはないかと探す。すると生さんまでいいのがあったので、一匹買うことにした。さんまは目を見れば新鮮かどうかすぐに解るのだが、赤くなっておらず透明で、油ものっている。これを焼いて食べようね、と心の中で思う。総菜類と、彼女が好きだったこし餡の小さなまんじゅう、花も買った。
この頃になるともう外はけっこう陽射しが強く、汗だくになるかと思ったが、自転車が軽快なので汗をかく前にさーっとマンションに到着。それにやはり、徐々に秋が近付いているという空気も感じる。

今日村上知彦さんから届いていた残暑見舞いのハガキは、過日こちらがお出ししたものへの返信。こちらが出した時、遺品を整理していたら、やまだと近藤ようこ、村上さんたちが数人で「交換日記」をしていたのが見つかった、と書き添えた。今日届いたハガキでは、
「見つかったということは、読めということかも知れませんね。お手数ですが送って下さい」とあったので、3〜4冊出て来たのをまとめて送るように、手紙も添えて梱包する。
若い頃の日記って人に見られたら絶対に死にたくなるようなものだろうけれど、「交換日記」とは人に見られることを前提としたものなので、今で言えばチャットやSNSみたいなものだ。なので、村上さんも懐かしく読まれることと思い、お知らせした次第。

夜は三津子に旬の焼きさんまやご馳走を陰膳して、晩酌。
月命日と誕生日
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2009-09-04(Fri)

愛と感謝

9月4日(金)

今朝は7時ころ目が醒めた。自分ではとろとろしたつもりが、もう一回時計を見たら8時をまわっていて驚いた。
朝のことを済ませて、朝食はどうしよう…と思いつつ、一昨日の夜、明青さんから帰ってきたら青木さんが香典を帰り際に置いていったのに気付いたので、昨日礼状書いたのをポストに投函しに出る。
それからコンビニでサンドイッチ、夕飯の弁当、缶コーヒー2つ、さらにおにぎりを2つ買って戻る。
朝のワイドショーの類を見てサンドイッチを食べて、その後は明青さんの帰りに週刊誌を4冊も買って、ぱらぱらと順番に読んでいた残りをまた読み始める。
軽くギックリ腰をやってから、どうもパソコンへ長時間向かうのが怖い気がする。仕事は休み休み。
1時ころ、昼は冷凍しておいたご飯を温め、買ってあった山芋をすり下ろしてダシと醤油を混ぜたのと、やはり冷凍してあったのをパーシャル室で解凍しておいた筋子を少し切って、インスタント味噌汁で食べる。何か気が付くと一日じゅう飯食ってる感じ。

ネットを見たり週刊誌を読んだりで、アッという間に夕方だ。
仕事もしたが、休み休みなのでほとんどダラダラと過ごしていた感じで、自分がつくづく情けない怠け者のように思えてくる。「ヒキニート」とか、家にいてネットばかりやっている人間を差別する呼称が頭に浮かぶ。俺は仕事をしているのでニートではないが、かといってこれでは引きこもりには違いない。
でもこんな体では何か外へ出て運動というわけにもいかないし、そもそも運動や散歩だってたった一人ではつまらないものだ。
つまらないというか、時々ググッと得も言われぬ寂しさに襲われることがある。
もう、三津子は居ないんだなあ…。
二人で笑ったり、話したり、飲んだり食べたりケンカしたり仲直りしたり。散歩したりパチンコ行ったり、買い物したり映画を見たり。もう何もかも、二人でやれることはない。何一つ、あり得ない。

夕方、6時前になって、朝コンビニで買っておいた弁当を暖め、三津子には酒とお茶に温泉玉子とサラダ、トマトと小さな鶏の唐揚げ、冷や奴を添える。
俺は弁当とサラダ、冷や奴で晩酌にちょっとだけビールを飲む。
冷や奴は一乗寺のスーパーで小さな豆腐が3パックになっているやつを買ってあったものだが、大きさがちょうどいい。三津子に4分の1ほどを切って、残りを俺が食うという適度な大きさ。おかかを振りかけたらユキが寄ってきて鳴くので、少し皿にあげる。

それにしても、テレビのバラエティは本当に見るものが少なくて困る。三津子の死後ずっと、とてもお笑い番組やバラエティを見る気がしなかったのだが、そういう気分の問題は脱した。実際夕べは変な生き物映像集を見たし、一人でも面白い番組があれば見られるようになったのだけど、なかなか「その面白い番組」が見つからないのだ。
仕方なくBSで日ハム対楽天の試合を仕方なく眺めていたが、中継ぎの楽天・有銘が死球、さらに連続四球で2点を与えたあげく満塁HRを打たれてガックシ…というところで見る気が失せる。
明らかに、彼は死球の後で腕が振れなくなっていており、動揺しているのが素人でも画面からよく解っていた。替え時を明らかに誤った采配だ。ノムさん采配はもちろん当たる時も多いが、理屈が多くこういう選手の「気」を見ることがさすがに鈍くなってはいないか、と思う。どうでもいいが。


その後いったん12時前に二階へ上がって寝ようとしたが、12時をまわって「ああ、もうあれから四ヶ月、一年の三分の一が経ったのか」「今日は君の誕生日なんだよね」と暗い中話しているうちに、やはり涙が出て来てしまう。
解っている。
別にいつまでもこうしてぐじぐじメソメソすることの、女々しさを。女々しいというのは女に失礼だ、何というか、要するに諦めの悪さだ。だってもう、彼女は死んでしまった、目の前で骨になった彼女を見た。骨を拾った、口にも含んだ。もう彼女の髪をなでることも、手をつなぐことも、腕を組むことも何も、一切が不可能であることは充分過ぎるくらい知らされた。
酒井順子さんが週刊誌の連載コラムで、夫や妻を亡くした人のことを「ボツイチ」と呼び、最初は悲しみの底にいた妻や夫も、しばらくすると元気を取り戻し、積極的に「ボツイチ仲間」と交流し、それなりに楽しく生きて行く様を紹介していた。それが正しいとかいいこと・悪いことというよりも、何だか無性に腹が立った。
何がボツイチだ。
心と魂で結びついた一心同体すら超えた二人の、相方がもぎ取られて、へらへらと「次の相手」など探せるものか。
一生で、例えば極端に言えばお互いが幼稚園の時に、一生添い遂げる運命の人に出会ってしまう人生だってある。確かに家庭を顧みず仕事だ仕事だといって最終的に定年後に妻に捨てられる人生もある。昭和の男、それも俺たちくらいまでの世代に多いが、いわゆる蜜月を過ぎれば、お互いに無関心になり空気のような存在となり、やがては不快な同居者となっていく例も多々ある。
ただ、それらは全て「俺と三津子」という夫婦とは違う人たちの人生の話だ。俺たちの人生、夫婦の生き方とは全く関係のない話だ、当たり前だが。

俺は二十歳そこそこで、「運命の人」と出会ってしまった。そのひとは十七歳も年上で、しかも離婚して二人の子どもを引き取り、懸命に暮らす母親であると同時に、偉大な敬愛すべき漫画家の先生でもあった。
でも、俺たちはお互いが惹かれ会って、今考えれば異常な速度で愛し合い、一緒に暮らし始めた。誰もが一様に驚き、そして長続きしないと言った。
普通に考えれば、子どもたち、それも多感な小学校高学年の二人の娘との生活に、いきなり十歳も違わない若い男が入り込んできたのだ。どう考えても、まっとうに成立するはずがない。
それでも俺たちは、色んなことをさまざまな局面で、それなりに乗り越えて来た。正直、二人の思春期には振り回されたこともある。親の愛情を束縛や干渉と勘違いされ、恨まれたり、行き違ったことも多々、見て来た。それに俺も関わったこともたくさんあった。
それでも概ね、俺たちはいつも「話し合い」でそれらを何とか乗り切ってきた。子どもたち二人はやがて独立しそれぞれに家庭を持ち、妻となり母親になって、上の子はいつの間にか俺と三津子が出会った年の母親と同じ年齢となっていた。
俺たち夫婦と子どもたちは本当の意味で、血縁や年齢差、家庭環境の違い、いわゆる「普通の家」とは全く違う暮らしの中で、お互いに大きく何かを壊すことも、大きく道を逸れることも、大きく行き違うこともなく、皆、成長しながら暮らしてきた。
いわゆる「血の幻想」を超え、たいせつな「家族」としてお互いを見ているし、俺は自分の子ではないが、二人のことも、間違いなく愛している。
安手のドラマや小説を見ても、そういう意味では俺たちの現実の方が遥かにドラマティックだったし、下手な脚本家の貧困な想像力の及ばない「現実」を暮らしていた。なので、そういう安手の作り事には共感も出来なければ感情移入が出来ないという「弊害」は生んだが、それでも「まっとうな大人」にそれぞれがたどり着いていることに、俺たちの四半世紀が間違いではなかったと確信している。
だってこれは作り事やきれい事なんかではないからだ。

俺たちは京都へ転居してから一年半、彼女が倒れるまでの間、二人であちこちの名所旧跡や神社仏閣を訪ね、貯金をして豪華な旅行へ行ったり、おいしいお店でよくしていただいたり、本当に楽しい暮らしを満喫していた。
それもこれも全て、彼女の頑張りのお陰だと、俺は近所の行きつけのお店のカウンタで、頭を下げた。
「俺が今こうして生きていること、楽しく京都で二人いられること。これは全部、あなたのおかげです。ありがとう。」
そう言って、彼女に向き合って頭を下げた。心からそう思ったし、そのことをどうしても伝えておきたかった。
彼女は涙ぐんで、「どういたしまして」と頭を下げた後、無理におどけて「解ればいいんだよ! 苦しゅうない」と言ってふんぞり返った。そして二人で笑った。
でも、彼女がとても喜んでいたこと、そして「私はね、今が一番幸せだよ」と言ってくれたことを、今本当に良かったと思っている。

若い頃、蜜月だった数年間はともかく、その後は手をつないだり腕を組んだり、いいトシをしてベタベタするのは恥ずかしいなんて思いながら、スタスタと彼女の歩調よりも早く先に歩いた。「愛してるよ」なんて言葉をかけたことは、たぶん最初の数年を除けば、ほとんど無かったと思う。心ではもちろん日々感謝し、彼女を愛していることを常に心に刻み続けてきた。
だが、もうそれを目の前で伝えて、人を愛し愛されるという「幸福感」を実感させてあげることは出来ない。
俺は彼女に病気のことで心配をかけ、頑張らせてしまい、常に気をかけてもらい、そして何より無償の愛で大きく包み込んで貰った。
そのことに対して、俺は百分の一、いや千分の一でも彼女に返してあげられたか。普段から手をつなぎ、「君が一番大切なんだ」「世界で一番、愛している」と伝えてあげられたことが何回あったか。
毎日、毎日彼女の写真にお茶とお水を供えて線香を立て、ごめんね、ありがとう。ずっと忘れない、君を愛している。
そう伝えている。いったい何度それを繰り返せば、彼女の愛に報いることが出来るのか、想像もつかない。それほど、俺はダメな男だった、愛情表現においては。

先日、俺が青林堂時代の最後の担当漫画家であり、今は多方面で活躍している古屋兎丸くんからハガキが届いた。
「やまださんが倒れてからの日記は涙なしには読めませんでした。日記を書くことによって、乗り越えていく白取さんの姿は、うまく言えませんが感動します。白取さんは「書く人」なんだと思います」と書いて下さった。
彼は四月に結婚したそうだが、俺たちのような「強い結びつきの夫婦になりたいと思います」とも書いてくれたのが有り難かった。
こちらの方こそ、そう言っていただいて、思わず目頭が熱くなった。
俺は、彼女が倒れてから、そして失い、それからもずっとずっと、そのことを「書くという行為」で相対化し、何とかギリギリのところで乗り越えてきた。そうしなければ何かが壊れていたはずで、だとすれば、俺は今こうして生きていられなかったと思う。
そんなことよりも、俺が彼女に出来る恩返しがあるとすれば、愛する人が生きて、傍に居てくれること。そのことの幸福を、忘れないで欲しいということを、一人でも多くの人に伝えることではないか。
明治の男じゃあるまいし、男子厨房に入ったって構わない。相手が体調が悪ければ心配し、家事を引き受ければいい。洗濯だって掃除だって、片方しかやっちゃいけないなんて決まりはない。自分が手伝うことでお互いが楽をし、結果二人の楽しい時間が増えるならば、協力して何でもやったらいい。

一番大事なのは、今、自分にとってもっとも大切な愛する人と、後悔のない時間を過ごすことだと思う。
悪いと思ったら「ごめんね」、有り難いと思ったら「ありがとう」、大切な人だと思うのなら「君を愛している」…。
いずれもそのことを伝えることは当然であって、何ら恥ずかしいことではないということだ。
それに、相手にそれを伝えられるのは、相手が生きていればこそだ。
でなければ、俺は残りの人生を一生、後悔と自責の念に苛まれ、辛い日々を過ごさねばならない。何より、失った相手がその幸福を味会わぬままに「ある」ことを、いったい誰に謝罪したらいいのか、どうしたら許して貰えるのか、永久にその答えを貰えぬまま生きなければならないのだ。
それは、拷問であり苦痛でしかない。
多くの人が連れ合いを亡くした後に悲嘆に暮れるのは、その後悔だろう。「ああしておけばよかった」「ああもすればよかった」「ああ言ってあげられればよかった」…。
今、俺は毎朝、三津子の遺影に手を合わせて謝罪し、感謝をし、そして愛していること、これからもずっと愛することを伝える毎日だ。もう遅いということは充分理解している。それでも、今までそれが出来なかったと思う分、俺はそれをし続けねばならない。
別に何か彼女に悪事を働いたり、ましてや暴力や不実を重ねたことはない。しかし、お互いに病を抱えた身で、今こそ、二人手と手を取り合って、支え合い、同じスピードで歩むべきだったのに、俺ときたら…。
いいトシをしてベタベタしたくない。とっとと歩かないと繁華街では迷惑だ。いちいち言わなくたって、解るよね。などなど。
もうお互い年齢を重ね、しかも病気の体同志だ。とっくの昔にリビドーの時期は過ぎた。しかしいったい何度、彼女を抱きしめてそれでも「愛しているよ」「感謝している」「これからもずっと一緒にいよう」と言ってあげられたか。その「幸福感」を、何度与えることが出来ただろうか。
その後悔と自責が、今の俺を苦しめているのだ。
俺に与えられた使命はたくさんあるが、その一つに、その苦しみを持つ人を一人でも減らすことがある。
今、もしあなたに心から愛している人がいたら、そのことを全身全霊で伝えるべきだということ。相手もそれを受け止めて実感できるように、それを行うこと。
そのことがいかに大切なことかを、自分という未完成な人間を通じて一人でも多くの人に解って貰えること、だと思う。

暗い中、三津子にそう話しかけていたら、寝られなくなった。
明日…といってももう明けてしまって、9月5日は三津子、やまだ紫の誕生日になるはずだった。しかし、月命日でもある。
お祝いをして、そして皆さんも彼女のために祈って下さい。
そして、愛する人が居るのなら、その人に心からの愛をちゃんと伝えてあげて下さい。
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2009-09-02(Wed)

中野晴行さん、筑摩書房青木さんと飲む

9月2日(水)

夕べは12時過ぎに寝た。
一度醒めて何か夢を見た記憶があったが、再び寝たら思い出せなくなっていた。7時過ぎに目が醒め、8時前には下に降りて朝のもろもろを済ませる。
百合と紫の花を活けた花瓶は小さめのものだが、一晩で水が一滴も無くなっていてビックリ、たっぷり入れてやる。朝はペットボトルのコーヒーだけで、新聞を取ってきて読む。コーヒーを飲むと大が出る、出たら空腹になる(人間って…ミもフタもない生き物)ことは解っていたので、トイレへ行った後、さて何にしようかと思案。
三津子が生きていた頃は、お互い相手がいるので「何にする?」とか「どこか食べに行く?」という相談をしたものだが、一人になるとどうもいい加減になってしまうので、彼女にも食べてもらうつもりで、久々にナスとトマトのパスタを作ることにした。
別段難しいパスタソースではないので、よく作って食べて貰ったメニューだ。
まず大鍋にパスタを茹でるための湯を沸かしつつ、下ごしらえをする。
ホールトマトの缶を二つ開けて網の上に出し、マッシャーで濾して種を取る。塊も少し欲しいので3つ4つは残しておいて、大きめに切っておく。それから茄子を2本輪切りにしておいて、玉葱とベーコン、ニンニクをみじん切り。
パスタを茹でる湯には塩とオリーブオイルを入れておきつつ、茹で時間を考えて、フライパンにオリーブオイルを敷き、ニンニク、玉葱の順に炒めていく。
最後にベーコンを加えて軽く塩コショウしたら、先ほどのホールトマトを濾したジュースを足し、ブイヨンを少々加えて味を見る。甘みが弱く酸味が強いので、ほんの少しのトマトケチャップと蜂蜜、瓶のソース(果汁の多い甘めの揚げ物用ソース)を少量足す。
それを弱火にしてとろとろ、水分が半分近くなるまで煮る間、沸騰した大鍋にパスタを投入。くっつかないように混ぜつつ、フライパンもかき回す。茄子がいい感じにしんなりしてきて、トマトソースも水分が飛んできて、ふつふつ沸いている。
最後にパスタのゆで汁を少量足してから軽く味を塩コショウで調えて、小鍋に一回分のソースを取り分ける。湯切りをしたパスタをソースへ投入して絡め、トングでひねるように皿に盛りつけ。
最後に瓶入りバジルをちょこっと散らして完成。
三津子の分ももちろん小皿に盛りつけて、一緒に食べる気分。
ナスとトマトのパスタ
うーんなかなかうまい。どうですか、作りたくなったでしょう。

作るのに数十分かかったのに、食べ終えるたらたった十分弱。食べ終えてすぐに洗い物を済ませ、食休みにテレビを見たあと仕事をしていると、1時半ころ電話。

この日記でも書いたことのある、筑摩書房の「Aさん」=青木さんからだった。

今日の夕方、俺が中野晴行さんと会うということを聞いたそうで、自分も「ぜひやまださんにお線香をあげたい」とのこと。わざわざこちらまで向かうというのだ。
そもそも中野さんにやまだ紫復刊の話をつないでくれたのが、この青木さんだ。中野さんがいなければ小学館クリエイティブからの復刊がこれほど早く進むことはなかった。
なのでこちらとしては、青木さんさえ良ければぜひ、とお話する。
中野さんの方は精華大での講義を終えてからになるので、「明青」さんへ行くのはおそらく7時前というと、では6時ころ自宅の方へ伺うようにします、ということになった。

その後、夕方に備えて少しリビングの片付けをして、ダスキンモップで床をなで回す。とにかくうちは猫の毛が凄く、綿埃状になった毛玉があちらこちらにわだかまっているので、ダスキンが一番日常的には楽にそれらを取れるのだ。
もちろん定期的に掃除機をかけて床を拭き掃除・ワックスがけをするが、こないだギックリをやったので、今日は軽めの掃除に留める。
それから「重労働」が猫のトイレ掃除。ゴミ箱を椅子がわりにして座ってやるようになってから、ずいぶん楽にはなったが、体を常に折り曲げる体勢は腫れた脾臓にはしんどい。

俺一人だと普段から散らかしようがないので、掃除もすぐ終わった。
というと三津子がまるで「散らかす人」のように聞こえて申し訳ないが、家族なら皆が知っている通り、彼女は「自分の手の届く範囲」に日常使うものを並べたり積んだりする癖があった。なので急な来客時にはそれらをまずエイコラとどこかへ運んで隠したりしてから、やおら掃除をしなければならなかった。
といっても、彼女の「自分が日常使うもの」の多くは化粧品と本を除けば、注射針や注射器、大量の処方薬と市販薬の箱、袋類だった。
確かに団地に住んでいた頃から本や雑誌を周辺に積む癖はあったものの、ここ数年はとにかく病気関連のものが多かったのが、可哀想だった。
「掃除が一人になって楽」というのは、「彼女が居るべきところに居なくなってしまった」ということでもあるから、寂しい。「もう、こんなところにまた本積んで」と小言を言ったり、お客さんが来ると言っては二人で慌ててそこらのものを別な部屋へ移動したことも、今では懐かしく愛おしい「日常の記憶」である。

5時過ぎ、中野さんから電話で講義が終わったと連絡が入る。
「青木さんが急遽こちらへ来られるということになりましたが、ご存知でしたか?」と聞くと「今日白取さんと会うよ、という話をしましたから」とのことだった。
青木さんは前から「やまださんのご焼香に一度ぜひ伺いたい」と話して下さっていたそうだ。中野さんと青木さんは旧知の間柄なので、中野さんが京都に居り、俺と会うというタイミングでと思われたそうだ。
「だそうだ」というか、中野さんは「そういう話をしたような気がするけど、その時酔っぱらっていたので…」と笑っていた。
とにかく青木さんが6時ころに来られると伝えると、中野さんも「じゃあぼくもそのタイミングで伺います」ということになった。中野さんはもちろん京都に土地勘もあるので、叡電で向かうとのこと。

その後6時前、中野さんが先に到着され、少し最近のマンガの状況について雑談をしていると、20分ほどして青木さんがマンションに到着した。
挨拶もそこそこに、玄関から三津子の遺影の前へ案内し、焼香をしていただいた。青木さんは線香を立てた後、三津子の遺影の前で正座をして、じっと合掌をされた。それからしばらく今年の春に白浜へ行った時の、ニッコリと微笑む彼女の写真を見ておられたが、その目は充血していた。
中野さんが「彼は(編集者としての)スタートからだったからね…」と言うと、青木さんは無言で頷いた。編集者と作家としての関わりはもちろん、俺よりも青木さんの方が長い。

それからソファに座っていただいて、3人でいろいろ話をする。
青木さんとは俺もお会いするのは何年ぶりだろう。ひょっとしたら彼女の個展『やま猫展?』を池袋PARCOでやった時、つまり十年ぶりかも知れませんね、と話す。
青木さんは大和書房時代にやまだ紫の『満天星みた』(1985)を担当され、筑摩書房へ移籍した後も、ずっと文庫や作品集の実務を担当していただいた担当編集者だ。『満天星みた』に収録されているエッセイなどは、まだ俺が彼女が知り合う前のもので、その本が出る頃にはもう、実は俺たちは団地でほぼ同居状態だった。
だから俺と三津子が有り体にいうと「付き合っている」頃、まさしく『満天星みた』が進行しており、青木さんとはその後も何度かお会いしていたが、そういえばもう十年もご無沙汰していたのだ。

三津子・やまだ紫の本を「品切れ」にし、彼女を侮辱し続けたのはこの人ではない。青木さんはやまだ作品のファンであったし、人間としても、彼女と通じ合うところがある人だ。それは、彼女がもういなくなってしまった今、連れ合いであった俺が一番良く解っている。
俺が「やまだ紫の死」の報せを筑摩書房へ報告する時、青木さんにするしかなかった。筑摩の重役だったMという人間には、どうしても彼女が死んだということを「冷静に伝えられる自信」がなかった。
怒りで何を言うか解らなかった。
なので前にも書いたように、俺も断腸の思いで青木さんに彼女の全著作を「品切れ」から「絶版」にして貰うように連絡した。
出版業界外の人はこの違いを知らないと思うが、「品切れ・重版未定」というのはもう本は切れたが重版をいつするか決めていないということで、契約書を交わしていない場合(交わさないことは多い)、著者の許可がなくても「そらきた!」と重版をかけることが出来てしまう。作家が死ぬと突然、それまで知らん顔をしていたくせに葬式商売をすることが出来る。
「絶版」は著者側から申し入れると、もう版元はその本を出すことが出来なくなる。出版業界は体質が古く、いまだに出版契約書を交わさないことも多い。よく「版権を引き上げる」「版権を移す」とか言うが、「版権」なんか口約束の世界だ。
作家の側から版元に「絶版を申し入れる」ことは、「よその版元からそれらを出すから」という場合、あるいは「もうオタクから本は出さない!」という絶縁の意味合いが多い。
今回の場合ももちろん、やまだ紫作品を長年品切れ状態で放置するという「無礼」をもう許さないという、「絶縁」宣言である。

青木さんにとってその報せはとてもとても、辛いことだったと思う。俺も「その節は申し訳ありませんでした」と直接頭を下げることが出来て、良かった。
ただ、その頃の話…Mという男の非情な態度と、そして彼女の作品を「残すに値しない」と評価した無礼を思い出すと、どうしても彼女の悔しさを思い出す。
そして涙が出る。
十年近くも彼女の大切な大切な、日本の漫画界にとっても宝物のような作品を
「売れねえから」
という理由でほったらかしにしておいた奴を、俺は生きている限り、いや死んでからも、絶対に、許さない。


…そういう「辛い話」はともかく、中野さんは漫画論も含めてお話も面白い人なので、7時頃、そろそろ「明青」さんに行って一杯やりましょう、ということで腰を上げる。
徐々に暗くなっていく道を、話しながらつらつらと高木町へ向かった。
明青さんは長いカウンタの一番奥の、出っ張りになっている「ボックス席」を取っておいてくれた。
本当に久しぶりで、ご無沙汰してしまって申し訳ない限り。

まず絶品の生ビールで乾杯、三津子には写真の前に日本酒の小さいぐいのみを置いてもらった。はもの落としと炙り、旬のさんまの刺身、おろしとダシで食べる柔らかくて絶品の地鶏フライなどなど、お二人も舌鼓。
中野さんは青木さんとけっこう一緒に仕事をされているそうで、その関係もあり、今回の復刊の話をこれだけ早く繋げていただけた。
話は尽きず面白く、あっという間に青木さんは新幹線の最終に乗る時間になって、タクシーを呼んで貰い、お別れとなった。
中野さんとはそれから二人で、途中から日本酒に切り替えてしばらく飲む。気が付いたら閉店時間で、おかあさんに「そろそろ…」と言われてこれまた申し訳ない限り。
中野さんは明日も精華大の集中講義があるので、タクシーでホテルへ帰るのを見送った。それから路上でおかあさんとちょっとだけ立ち話。
本当は一人でまたここへ通えればいいんだけどなあ、と思う。でもいつもいつも、隣に居た人がいない。「おいしいね」と言い合い、笑い合う人がいないのは辛い。まだ、乗り越えられていない。ただこうして旧知の人と少人数で楽しい酒が飲めるのは、本当に有り難い。
おかあさんに御礼を言い、そのままゆっくり歩いて帰宅。途中コンビニで明日の朝用にサンドイッチと、週刊誌を4冊(文春新潮ポスト現代)も買ってしまった。酔っぱらっているのだな、と帰ってきて週刊誌を眺めて思った。
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2009-09-01(Tue)

九月の風

9月1日(火)

今日からもう九月だ。
今月の5日は彼女の61回目の誕生日になるはずだったのに、月命日になってしまった。
夕べは12時前に寝室へ上がり、12時半には消灯。割合すぐ寝られた。レンドルミンは寝る1時間以上前に飲んでいるから、毎晩寝付きは凄くいい。布団に入ったはいいがなかなか寝られず…ということは薬のおかげで、無くなった。
しかし夜中、朝方に目が醒めてしまうと、レンドルミンだけではもう再度眠ることが難しいようだ。これは病院で相談しないといけない。

今朝は目が醒めたら7時前だった。6時台といっても7時に近い方だったので、そのままうとうとして8時ころに起きる。
今日は快晴。空気の通り方というか澄み具合は秋のように見える。そういえば昨日までうるさいほど鳴いていたセミの声が全くしない。
昨日は関東地方に台風が接近して大荒れだったそうで、気温も10℃近く下がって大変だったらしいが、こちらは多少過ごしやすいといった程度だった。

今日は朝のことを済ませて新聞を取りに玄関を出ると、涼やかな風がふわーっと吹いてくる。北側というせいもあるが、抜けるような青空に比叡山の頂きがはっきり見える、気持ちのいい朝だ。
新聞を取って戻り、いったん空気を入れ換えようと玄関のドアを細めに開けて固定し、南向きのベランダを全開して空気を入れる。しかし想像したより風が通らない。苔や植木に水をやったあと、しばらくそれで新聞を読み「スパモニ」を見たりしていたが、そのうち日がちょっとづつ高くなってきて室温が28℃になったので、仕方なくドアと窓を閉めて、いつも通りクーラーを入れる。
もし今日風があったら、本当に気持ちがいいだろうなあと思うが、もうあと少しで本物の秋になる。

三津子が倒れたのは春だというのに小寒い雨のそぼ降る日の夜だった。その後は何かにつけ涙雨に見舞われ、自分もぐずぐずと悲嘆に暮れていた。もちろん今でも毎朝彼女に手を合わせ、話しかける時、時々涙が出る。
それに友人知人から彼女のことを手紙やメールで伝えられると、やっぱり悲しみがまたぐっとわき上がってくる。以前中央公論新社で三津子・やまだ紫がお世話になっていた編集者のTさんからいただいた手紙で、夫君を三年前に亡くされたことを「身近にいた相棒を失うという喪失感と孤独感は、いまだに超えられていない」と書かれていたのを思い出す。
俺もすっかり部屋では独り言が増えた。
彼女がいつも座ったり横になったりしていたソファの「定位置」に座ることは、ほとんど今でも出来ずにいる。肉体はもうとうに滅び、モノとしての彼女はもうこの世にはない。だから、「ここにいる」という概念そのものがもう間違いであることは充分理解している。であるがゆえ、彼女が「わたしは遍在」と言うがゆえに、そこここに彼女が居ると思えてならず、その最も強い場所が、やはり生前定位置だったソファになるからだ。

三津子は今どこにいて何を見たり何を話したり、思ったりしているのか、そう考えること自体ある意味ナンセンスなのだろう。それは魂や霊といったものを一笑に付す人たちの言う「ナンセンス」という意味ではない。
彼女は彼女のことを愛する、慕う、思う、その全ての人と共に確かに、ある。だからこれまで一般的に言う「共時性」というようなことを遥かに超えるさまざまな具体的な「事象」が、俺や子どもたちはもちろん、付き合いのあった知り合いだけではなく、一度も逢ったことのないやまだ紫ファンの方にまで、そういった「現象」が起きていると、たくさんの報告をいただいている。
人心を惑わすカルト宗教など以ての外だが、人が死んだら「ハイそれまでよ」というものではないことだけは、はっきりと実体験を通じてもう了解しているし、せざるを得ない。
おそらくそういうことを否定し一笑に付す人は、単にそういった現象への「感性」が鈍いのか、あるいは敢えて「否定のための否定」をして暮らしているうちに、慣れてしまったのだろう。
何にせよ、うちには仏壇もないし特定の宗教に入信してもおらず、科学や理屈で説明できるのなら、まずそれを採る。当然だと思う。何でもかんでも超常現象だとか、霊のしわざだとか、そんな妄信をしているわけではないし、カルトはそういうところへつけ込むのだということも知っている。

人が生きて行くということは、多くの場合、難行苦行であったりする。若い頃から裕福で何も苦労を知らずに一生を終える人もいて、それは傍から見れば幸福かも知れないし、事実多くの場合は客観的に見ても幸福であろう。
けれど、我々庶民が暮らしの中で、些細なことに喜びを感じたり、高級品やブランドものではなくても、愛する相手から心のこもった贈り物を貰った時の、あの涙が出そうなほどの喜びという「幸せ」は知らないし、理解できないだろう。つまりそういう意味では一生を凡庸に、他の人が築いたものの上で気付きのないまま過ごすということは、別の視点から見れば「不幸」であるかも知れない、ということだ。
当たり前だが、幸福や不幸といったものは相対的なものだ。
日々労働が辛くても、その人が仕事を終えて帰ってきた時、妻の明るい笑顔と冷えたビール一杯で、頑張ろうと思い疲れがフッ飛ぶ…のも幸福だ。親から引き継いだ何億という財産をさらに殖やそうとした挙げ句、数億減らしたことを「不幸だ」と思う人もいるだろう。

俺は十代の終わりまで、金銭的には何不自由なく暮らすことが出来た(その後はずっと恵まれなかったが)。これはもちろん、俺が生まれて半年ほどで父が逝ってしまった後、幼い子二人を抱えて途方にくれた母親が、血のにじむ思いで働き、母子の団欒を犠牲にしてくれたお陰だ。
母親は最近ちょくちょく話すと、「あなたたちの世話をおばあちゃん(俺には曾祖母)にまかせっきりだった」と済まなそうに言うが、少なくとも俺は曾祖母に愛され、本当によくしてもらったから、幸福だった。
福井の出で明治生まれの「ひいばあちゃん」は料理がとてもうまかったし、箸の持ち方や「お百姓さん」への感謝、魚でも何でも他者の生を喰らうことへの感謝などなど、昔の日本人のいいところを早くから躾として教えられたことが、何より幸福であったと思う。
大人になってから知ったが、母の父、つまり俺の祖父は後妻を貰い、その間に出来た子を溺愛し母には後妻(つまり俺の祖母)ともども冷たかったそうだ。
もちろん俺はそんな事情は全く知らず、祖父は孫である俺には、戦中派らしく厳しいけれども優しい「おじいちゃん」だった。祖父が書道の達人で、ずっと教えて貰えたことは、今でも自分の財産だと思っている。
その「書」を通じて言葉や文章に興味を持ち、意味を知りたいと思い、また書そのものの美しさからレタリングやデザインへも興味を持った。そこから小説や絵画への興味が広がった。つまりは全て、その後の自分の感性につながったわけで、こうした基礎的な「感性」の育成が家庭(身内)で行われたことも、本当に幸いだった。

本来はこうした躾や、文学や絵画あるいはスポーツでもいいが、そういった表現や運動への興味は広ければ広いほど、自分の適性が解る。やってみたけど、ダメだった。やってみたら、合っていた。こういう「機会」をどれだけ持つか、与えるかが親や周囲の大人の役割だと思う。
今では本来家庭で行うべき躾さえ学校に任せ、本来学校で教えるべき勉強が押し出されて塾に補完させられている。価値観が全て偏差値や学力テストの成績といったものに置き換えられてしまうため、人の価値さえ偏差値の上下で決められ、その先のいい大学かどうか、いい会社に入ったかどうか、果ては年収が…と、つまらない「感性」しか育たなくなってしまった。
そういう人たちの話を聞いたり読んだりしていると、本当につまらないし、何より感性が貧相だと思う。だから不幸な人だな、と思うことさえある。もちろん、幸・不幸は相対的なものだ、その人が金さえあれば何でも出来ると思い、金儲けこそ至上と思い、それを実践し実現したことを「幸福」と言うのなら、それがその人にとっての幸福だ。

押尾学が昨日、保釈された映像をニュースだかワイドショーだかで見た。
それまで普段何をやっていたのか特段知らなかったが、有名女優と結婚したことでその名を知った。その有名女優が清純派と言われていたはずなのに、選んだ相手は入れ墨を入れ、根拠のない大言壮語を売りにする、生意気で言葉も知らぬ「自称ミュージシャン」の俳優であったことも、その時から知った。
今回の事件で、この男が女をナンパしてはヒルズの部屋へ連れ込んでは合成麻薬MDMAでハイになりセックス三昧、またロスへ飛んでは同じことを繰り返していたことが複数の報道で明らかになった。
押尾学「被告」の場合、妻である先の女優に愛想をつかされて、ピーチ・ジョンという下着販売会社の社長である野口美佳という人物から金銭的に援助を受けていたことは、もう間違いのないことだという。何より、押尾「被告」が逮捕された今回の事件の「現場」であるヒルズのマンションを提供していたのが、この野口という人物だ。
彼女のブログというのがあると知って、少し前になるが、チラチラと見た。(俺にとってはだが)全く読む価値のない、興味のないことばかりで、誰と会った誰とメシを食ったこんなモノを買ったどこへ出かけたとか、まあ物欲と拝金の権化のような人物であった。
有名なモデルとVサインをしておどけた写真も掲載されていて、その口からは舌が出ていた。年齢を確かめて、失笑するしかなかった。この人に、人が一人死んだという犯行現場を提供した責任を問う声が上がっているが、ムダだと思った。

ほとんどの人がそう思っているように、別に金儲けだけを目的に生きる人がいても別段構わない。したければすればいいし、合法的な経済活動ならその能力があることはむしろ、有能であるという価値観もあっていい。
日本という国は資本主義、自由主義経済の国だ。昨今市場原理主義みたいなものがどんどん幅をきかせてきたし、庶民にさえ「金儲け」をすることを公然とマスコミ、メディアも煽ってきた。「セレブ」と称して成金を紹介し、豪勢な生活ぶりやブランド品を「これがお前らの目標だ」とでも言うように、庶民に見せつけてきた。

マスメディアによる「拝金主義」の奨励だ。

多くの庶民にとっては、「お金」は生活の「手段」であって、そのために日々労働し、その対価として受け取るものだ。生活のためにお金を「稼ぐ」ということは何にも恥ずかしいことではないし、当たり前だし、義務ですらあると思う、働ける体と精神を持つ人なら当然だ。
生活にじゅうぶんな金を得られれば、ささやかな貯蓄をし、たまの旅行や突発的な事態のために備える…というのが普通の感覚だろう。
そこから何故か、「この金を元にもっとお金を増やしたい」という思考へ変わる、スイッチが切り替わる人たちがいる。つまり金儲けが生活のための手段ではなく「目的」化するわけだが、そういう「もっと金を」「もっともっと大金を」「増やしたい、儲けたい」という人たちが増えれば日本経済が浮上する、と考える人がけっこう多いことはご承知の通り。
数年前からはネットでも株取引が簡単に行える時代になり、信用取引で手持ちの金の何倍、何十倍もの金を動かせるようになった。メディアはその成功例をばんばん出して庶民を煽るから、「よし、自分も」という人が増える。
その結果ここ十年でどうなったかというと、証券会社や銀行、ネット関連会社も含めた大企業の内部留保が信じられないカーブを描いて上昇し、国民の平均所得は100万円減った。景気が良くなったかというと、ご覧の通り。
「サブプライム問題で」とか「リーマンショックが」と、「煽った連中」は言い訳をするが、もう遅い。つまり生活が何とか出来て、たまには旅行へ言ったり…なんてささやかな幸せを味わって来られた中流家庭が激減し、その多くは派遣労働者という不安定な身分に落とされたり、ワーキングプアという状態に留められている。
「金儲け」を志向して実践した結果、転げ落ちた連中は「自己責任」と言われても仕方のない側面はあろう。
また、働けるのに働かない、そのくせ国家に養って貰おうというのも「さもしい」と思う。しかし身を粉にして働いて働いて、それでもいつクビになるか知れず、給与は抑えられ、ひどい場合は人材派遣会社にピンハネさえされている人たちも多い。

小泉元総理は、経団連が作ったシンクタンクに「天下り」した。選挙区を息子に世襲させて。
盟友の竹中平蔵は、人材派遣の大手パソナの会長に就任したそうだ。

今回の選挙で自民党が大敗をしたのは、民主党への期待もあるかも知れないが、これまでの自民党のやり方で世の中がどうなったのか、今現実に社会がどう変わってしまったのかを実感している庶民が、普通に下した冷静な判断の結果だと思う。
何も「風」が吹いたり、「気分」で民主に入れたとか、そういう分析は国民を愚弄するものだろう。風なんか吹いてないし、気分で一票なんか投じていない。そういうノンポリやふざけた連中も一部いるのは認めるが、多くの人たちが「もういい加減にしてくれ」と思った結果だろう。

自分は今、あと何年生きられるのか解らない病気に冒されている。何年、という単位なのかさえ不明だ。そんなことはないと思うが、明日、明後日、普通に生きていられるのか全く解らない。
「そんなこと言ったら健康な人はみんなそうだよ」
と笑う人がいることは知っている。自分も、自らそう思うことで、気持ちを立て直している。だが健康で何の不安もない人がいう「人間いつ死ぬか解らないんだから」という言葉は、やはり俺の耳には羨ましく聞こえてならない。
小さな癌を早期発見された時の「癌宣告」と、俺のような「血液癌宣告」=「いつ執行されるか不明な死刑宣告」とは違う、こっちの方が不幸だぜ、という不幸自慢などしたくない。正直そう思ったことはある、「癌を克服した」ということを「売り」にしてタレントをしている人だって居るのも事実だ。
だが幸・不幸は相対的なものだ。

長くここにつきあって下さっている方々はご存知の通り、俺は白血病と確定診断され、このままでは余命一年ないだろうと言われ、2005年の秋に一度入院した。
その時の治療で「生きて病院を出られる確率」がどれほど低いか、仮に出られても「その後何年生きていられるか」の数字の低さも、嫌というほど知っていた。
その時に、三津子と猫たちとの「日常」がどれほど「幸福」であったかを思い知らされた。
日常下らぬことで些細な口ゲンカはする、心ない人から嫌な思いをさせられたりもする、些末な日常の面倒なこともたくさんある、けれどもそれらをひっくるめた「何ということのない普通の暮らし」がどれほど愛おしく、かけがえのないものであるかを思った。
病院のベッドの上で、「長生きせずともいい、もう一度、もう一回あの日常に戻して下さい」と、それだけを毎日祈った。

ご承知のように、それは叶えられた。
病気のタイプが違うことが解って、用心深く血液の状態を観察し、免疫力低下による感染、巨大化した脾臓破裂などに注意すれば、あとはほとんど普通の暮らしが出来るようになった。
夫婦と猫たちとの、「何でもない普通の暮らし」に、自分の死病と引き替えではあるが、戻された。この時、生きていることは「生かされている」ということであり、それが奇跡なのだということも知った。
それまでも口では何とでも言えたが、心からそう気付くのが遅すぎた感はあったが。

それから4年、最愛の「連れ合い」だった三津子が先に逝った。
彼女はここ十年以上、病気病気の連続で、しかもそこに「夫の癌宣告」というストレスまで抱えることになった。
それでも最後の2年、彼女は「人生で今が一番幸せ」と言ってくれた。
そして、俺より先に逝ってしまった。
俺は彼女を失ったことは人生で最大の不幸だけど、彼女と知り合い、愛し、愛されて一緒に居られたことがどれほど幸福であったかを、今心から感謝する日々だ。自分が今、生かされていることも。

この、俺たちの言う「幸せ」の意味が、どれだけの人に伝わるのか、それはよくわからない。解ってくれと言う気もない。
ただ知って欲しいとは思う。

何で、この国は毎年3万人以上が、つまり一日に100人もの人が自殺するような国になったのか。
ささやかでいいから「幸せ」だと言える、思える人たちを増やせば、この数は減るに決まっている。それは政治の責任もあるし、国民にもそれはあると思う。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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