2009-10-31(Sat)

入院2日目・決死の一時帰宅

入院2日目・10月31日(土)

昨日から夏のような暑さで、とにかく病室も暑くて仕方が無い。バイタルで熱を測るが、37度台と俺にしては高めながら熱があるわけでもない。
入院荷物も何も携帯すら無いままなので、下着は使い捨ての大人用オムツ、パジャマも洗濯のことを考えて病院から借りることにした。病院から借りると一日70円。一ヶ月入っていても2000円ちょいと、まあ洗濯の手間を考えたら仕方が無い感じ。たった一人で家族もいないと、こうして病気をした時にたちまち何もかも不便で困ることになる。
今日は予報では25度だというのを見て、自分の体感の方が正しいのだと安心。窓が開けられないのが辛い。といっても体を動かすたびに激痛が走るので、なるべくベッドの上にただじっとしているだけだから、窓の外の景色を見る余裕もないが。
テレビもずっと首だけを右に傾げて見るから、時おり左へ傾げて緊張をほぐしたりと、不便なことこの上ない。

テレビといえば、唯一財布以外に持っていた保険証に、去年手術で入院した時のテレビカードが2枚ずっと入ったままだった。その間何度も何度も病院へ来たというのに、とうとう清算せずに再び使うことになってしまった。
縁起が悪い、とよく言う。
こういうのは、スパッと清算しておかないと、こうして使うことになっちまうのかな…と考えたが、買い物にすら動けない今、このテレビカードがあって本当に助かったというのも本音で、複雑。

ガーゼ交換前にケロイド部分を洗浄しなければならないので、シャワーをすることになる。ベッド上で体を半身起こすのさえ、手すりにつかまって命がけでエイヤと激痛に耐えてやってるのに、シャワーまで行って、あまつさえ傷を洗うなんて考えただけで失神しそうだ。
と、今日の日勤担当ナースのN本さんに伝えると、じゃあ痛み止めを落として、効いてきたところで行ってみましょうとのこと。今のところ、ロキソニンでは完全に痛みを封じ込められていない。そのロキソニンも、6時間置かねば使えないという。
しかし昨日劇的に効いたソセゴンは一日2回まで使ってもいいそうなので、じゃあ半分ほど入れてもらい、効いて来たところでシャワーをし、残りを入れて、それが効いているうちにタクシーで自宅へ荷物を取りに行きたいと伝える。
ぶっちゃけて言えば、どうせ今日・明日は土日で先生がたも居ないから、患者が外出出来れば、それは医師が許可すれば何ら問題ない。
確認を取って貰うとOKが取れたので、ソセゴンを投入。4分の3ほど落ちたところで効いて来たので、起き上がる。
ベッド上にエイヤと半身起こせれば、痛み止めが効いてるということだ。効いてないと、手すりにガクガクつかまってまず左を下に転がるように体勢をかえ、そうして腕力だけで半身を起こさねばならない。
今のうちとばかり、病院のタオルを数枚借りて風呂場へ。

ガーゼを剥がす時にやはり痛かったし、シャワーも直接湯をあてるのは無理で、首のあたりから垂らしかけるように湯を廻していく感じながら。
風呂道具も何もないので、病院から借りたタオルに病室にあった手洗い用の洗剤を伸ばして、疱疹部分以外のところを流し、頭も洗う。完全ではないものの、久々に他の部分もさっぱりした。
脱衣所で体を拭き、紙おむつを半ケツまで上げたところでN本さんが「どうですか?」と聞いてくれたので、「大丈夫です」と答えてガーゼ交換してもらう。
昨日巻いて貰ったのを外したガーゼには、複数箇所から血膿が出ていて、自分の体に巻いてあったものとはいえ気色のいいものではない。発作的に小松左京の小説「件の母」を思い出した。
N本さんは外したガーゼを見て「ああ、けっこう出てますねえ…痛そうですね」と言いつつ、大きいガーゼを拡げてパイプ椅子の上でアズノールを滅菌された木へらで伸ばしていく。
ガーゼの表面にまんべんなく軟膏が伸ばされたのを、傷に背中から充て、こちらが抑えてる間にもう一枚同じものを作り、腹の方へつなげて行く。ここで一回テープで止めて、中くらいのガーゼに同じように軟膏を拡げたのを右の尻たぶと、臍の上あたりに被せて、全体をずれないようにテープで止める。これでガーゼ交換完了。
病室にある透明ビニール袋に脱いだ紙おむつと外したガーゼを別々に入れたのと、脱いだパジャマ、さらに軟膏など処置道具を持ってN本さんは「はい、お疲れ様でしたー」と先に出ていった。
いつもいつも思うが、本当に病院で働く看護師さんたちは大変だと思う。重労働だし、忍耐もいるし、精神的にも肉体的にも過酷な職場だと思う。誰でも患者になってみると、心底ありがたいと思うようになるだろう。

病室に戻り、いったんパジャマで4分の1ほど残ったソセゴンを落としきって貰う。それから点滴を再び外して貰って、病院に来た時の服に着替えて、財布を持ってそろりそろりとエレベータへ。
何とか行けるかも知れない。
ちょっと気のせいか目眩がするが、俺が行かねば誰も何もしてくれないし、そもそも入院していることすら誰も知らないのだ。
何とか正面玄関までたどりつき、タクシー中腰でまず家の近くの家電量販店まで行く。そこで入院中の仕事のため、e-mobileを契約して端末を受け取らねばならない。
週末なので店内は混んでいたが、係を呼び事情を説明し「すぐUSBの通信端末を契約して持って帰りたい」と伝え、契約の用紙などを書く。「設定に15分くらいかかりますが」と言われたので、マンションまで行って戻ってきて受け取ろうかと思ったが、薬が切れたらとても立っていられない。帰りここに寄れないおそれもある。モバイル通信環境がないと、仕事に穴を開けてしまうから、絶対にこちらは落とせない。なので店内でそのまま待つことにする。
いい天気というか陽気で人の出も良く、店内も忙しそうだ。こちらは暑くて汗が出て来るし、痛み止めのせいかアタマもぼーっとする。椅子に座ったまま、朦朧として15分から20分くらい経ってようやく「お客様、商品の準備が終わりましたので」と言われた。まるで1時間にも感じられるほど長く、辛かった。

とにかく痛み止めが効いているうち…と焦るものの、早足では歩けない。気持ちだけジリジリしながらようやくマンションまでたどり着き、まず猫たちのご飯を通常のご飯皿以外にボウルを出してたっぷり盛る。それから水もたっぷり3箇所ほどに用意。
そうして休む間もなく、クローゼット部屋からキャスター付のキャリーバッグを出し、バスタオル数枚、普通のタオル、前から用意してある「入院セット」(歯ブラシやコップ、箸やスプーン、筆記用具や鏡に爪切り、耳栓など)などを詰め込んでいく。
それから肝心のUMPC(ウルトラモバイルノートパソコン)とACアダプタ、マウス、USBハブなどをタオルにくるんで突っ込み、さっき受け取ったばかりのモバイル端末を箱から出してそれも入れる。脂汗が垂れる。
あと何かあったはずだ、ああ、そろそろ切れてきた! 痛みが強くなってきた。やばい、携帯だ! そう思って携帯と充電器を突っ込むのがもうやっと。それらを入れたキャリーバッグを転がし、最後に玄関に置いてある予備の鍵を持って、施錠して出る。
携帯には着信とメールが来ていて、俺に連絡がつかないと心配するゆうちゃんと、明青のおかあさんからだった。
もう入院の間のことは、明青のおかあさんにお願いする以外にない。友人も知人も身内も親戚も、誰もいない土地にたった一人なのを思い知らされた。
とにかく早く病院へ戻らないと、路上で動けなくなる。冗談抜きで、それほど痛みは強い。

すぐにタクシーが来たので手を挙げ、病院へ戻って貰った。病室へ戻り、持って来たものをてきぱきとセッティング。疱疹部分は全体が焼けるように痛み、腹部の皮膚を剥がした傷と、背中と脇腹の水疱を潰したところがズキンズキンと痛み出した。1時間も経たずに戻ったことになるが、ギリギリセーフという感じだった。
夜中、痛みで目を醒ましたくないので、寝る前にソセゴンを落として貰い、レンドルミンを飲んで寝る。
しかし結局この夜の睡眠時間は3時間ほどだった。
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2009-10-30(Fri)

帯状疱疹悪化で一発入院

10月30日(金)

★注★ここから入院中の記録は、手書きでそこらの紙や薬の空き袋に書いたメモから起こし、記憶を頼りに書き加えています。痛み止めが効いてる時しか書けず、しかも動けない状態が続いたのでノートも買えず、途中まではそんな状態でした。

朝、前の日にヒイコラ貼り替えたガーゼを見ると、一部貼り付いていたので、軟膏を塗って貼り替えるためにそっと剥がす。…そっと剥がしたのに、腹部の疱疹が破れたところの皮膚がベリッとガーゼと一緒に剥離。思わず悲鳴が漏れる。
それでも地獄のような痛みに耐えながら軟膏を小さなガーゼを拡げて伸ばし、疱疹のケロイドにパッチワークのように貼りあわせて行く。
とてもジーンズは履けないので、ゆるいひらひらの室内着のズボンをそっと履いて、上着を着て外へ出る。もう、歩くのさえ必死。

道路を渡る力がなく、そのまま出たところでタクシーを拾って病院へ向かって貰う。車中、常に前の座席に両手でつかまり腰を座席に充てないように浮かしているのがキツかった。ちょっとした段差やブレーキなどの揺れにも激痛。
病院へ着き、すぐに再来受付機で手続き、血液内科の待合室へ。とにかくじっとしていも激痛が絶え間なく襲ってくるので、前屈みでひたすら耐える。
そのうち中待合へ呼ばれたのでそろそろ歩いていくと、それを見たナースが診察室前の中待合ではなく処置室で休んでいるように言われたので、助かった。ホッとして、手前のベッドに横になると、カーテンを閉めてくれたので、じっと待つ。
それにしても横になっても痛いものは痛い。我慢していると、まず別な中年の看護婦が来て「どういう具合ですか?」と言うので、帯状疱疹が悪化して…とズボンをめくると、看護婦が思わず「うわ!」と言って引くのが解る。「こんなになるまで我慢してたんですか?」と言うので色々言い分はあったが、結果的にはその通りなので「…はい…」と力なく答える。
先生が来るまでしばらく待ってと言われ、再び横になっていると、主治医である血液・腫瘍内科のI先生と看護婦が一人、それから先ほどの看護婦と3人でベッドに来た。
先生は「見せて貰えますか」というので先ほどと同じようにめくって見せると、「うわあ…」と言って「白取さんね、これもう入院です。今からすぐ」とのこと。
こちらはまさか入院までは考えておらず、「え?」と聞き返すが、皆の表情を見ると「オマエこの症状で帰れるとでも?」と顔に書いてあったので、また大人しく「…わかりました」と観念。

うちのこと、猫のご飯や水はどうしよう…。それに入院の荷物も何も一切ない。それどころか今日は財布だけ、携帯すら持って来てないし…。色々ぐるぐる考えたが、すぐにI先生が戻ってきて、「これからね、抗ウィルス剤を点滴しますからね」と言って寝ている俺の左手首静脈にブスリと点滴用の針を刺し、ルート確保。そしてすぐに抗ウィルス薬ゾビラックスを解かした生食(生理食塩水)が接続された。もうこれで観念するしかない。
俺は帯状疱疹と自分で解った日…16日から、数日おきに撮影しておいたデジカメの画像に日付や症状の説明を加えてプリントしておいたワードの文章数枚を渡す。先生はそれをパラパラと見て、「これは明らかに悪化してますね」とのこと。

それからベッドの上に膝を折って立つように言われ、家で貼ってきたガーゼを注意深く剥がされる。貼ったばかりなのでくっついてはいないが、やはり筆舌に尽くしがたい痛さ。
さらに右腹部の、家でバリッと剥がしてしまったところは赤く真皮がむき出しになって、血とリンパ液が浸潤している。
全体が露わになったところで改めて、先生やナースたちが「これはひどい…」という様子。とりあえず新しい大きなガーゼで改めて傷の部分をカバーして貰うが、家のものとは違ってかなり大きいガーゼで、しかも厚みがあってちょっと安心。
処置の間「痛みはどうですか」と聞かれたので、「絶え間なくひどく痛いです…」と答えると、「とにかくお部屋を今用意してますから、もうちょっとお待ち下さい、それから病棟へ行きましょう」と言われる。

カーテンが閉められ、点滴が落ちるのをじっと見ていると、数分で最初のナースが来て「お部屋の用意が出来ましたから、病棟へ行きましょう」と言われる。「歩けますか」というので「無理です…」と言うと車椅子を用意してくれ、腰から腹にかけて疱疹があるというと、腰が当たらないように、車椅子の背もたれにタオルを畳んでかけてくれ、首の下、背中あたりまで寄っかかれるようにしてくれて助かった。

車椅子を押してもらい、去年胆嚢切除で入院し、半年前は連れ合いの三津子を見送った南病棟を左に通り過ぎる。「病棟はね、北病棟の6階になりますからね」と言われ「南じゃないんですね」と言うとナースは「そうですね、北はだいぶ、いやちょっとマシですからね」と笑う。南病棟のボロさは笑い話のレベルなので、南というと皆同情するくらいだ。今回俺は血液内科=略して血内(ケツナイ)の患者なので、北6という病棟へ入院することになる。

北病棟6階のエレベータを出て扉を左へくぐると、抜けたところがナースステーション。病棟では「詰め所」と呼んでいた。後で知ったのだが、本格的な血内の患者…例えば白血病や悪性リンパ腫で苛烈な治療をしているような人の病室は7階が主で、この6回は「老人科」と共同だという。しかもほとんどが老人の患者で、糖尿など既往症の治療のために長期入院していたりする人も多いという。なので敢えて外来語ではなく「詰め所」と言ったりしているのかな、とぼんやり考えた。

俺の部屋はナースステーションの真横で、けっこう広い一人部屋だった。
俺の場合は子どもの頃にやった水疱瘡=ヘルペスウィルスが免疫力低下によって暴れ出したわけで、つまりは感染症の患者だ。なので老人や血液の病気の患者に万が一院内感染があってはいけないので、入室は制限され、ナースや医師もいちいち透明ビニールの使い捨て手袋とエプロンをかけてから入ってくる体勢。
そういうのを説明を受けたり見たりしていると、凄い重症かつ重病患者になった気分…て重症なんだった、俺。

しばらく左を下に横になって落ち着いていると、I先生とチームの男性Dr.N先生、女性Dr.のN先生3人が病棟のナースたちと一緒に入って来た。俺は半身を起こすように言われ、必死の思いで激痛に耐えながら体を起こす。I先生はこれこれこうでと他の人たちに説明をし、とりあえずは疱疹の糜爛部分の処置をすることとなった。
まずズボンを脱ぎ、ベッドに腰掛ける状態で半ケツ状態までトランクスを下げて、医師たちに背中を向ける格好で座る。先ほど処置室で被せてあったガーゼを剥がすと、やはり皆一様に「う…」「わ…」というリアクション。
さすがに「こりゃひでえ!」とは言わないが、恐らくそういう風に思われているのだろう、ということが伝わってくる。
俺は思わず「すいません、こんなことで痛みもあって3、4日お風呂にも入ってないもので…」と謝るが、そういう問題じゃないという雰囲気。
ナースが申し訳なさそうに「あの、すみませんね、まず患部の写真を撮りますんで…」と言って、デジカメで数枚、背中や腹など疱疹部分を撮影していく。
I先生は「とにかくまず傷のところを洗浄しましょう、それから皮膚科の先生を呼んでありますから、所見を伺いますからね」と優しく言われる。

そのまま、男性N・女性Nの二人の先生が俺に近付いてきて、「じゃあまず洗浄しますね…」と言って生食(生理食塩水)の点滴容器から直接チューブで、ダーッと洗うようにして疱疹部分に水をかけていく。これだけでも痛いこと痛いこと、フッと息がかかっただけでも痛いのだ。
「うぐぐぐ…」と言うと「痛いですか?」と聞かれるので「はい、凄く…」と正直に答える。男性N先生の方は「あー、こりゃ水疱を潰さないと駄目だな…」と言ってナースに何事か指示をすると、注射針と小型のピストン式の注射器が来る。針の太さを「えーと何号かな」と言いつつどれかを接続し、おもむろに俺の背中の水疱へブツリと刺した。
俺は足の裏とか、長く歩くとよく水疱が出来たりしたものだけど、そういう時は水疱に縫い針を熱して消毒したものをプスリと刺して、自分でよく水を抜いたりした。水疱は水疱が出来ているから激烈に痛いので、水疱自体を潰す=中の水を抜くのが一番いい。
思ったほどの激痛ではなかったものの、やはり猛烈に痛い。「うぐぐぐぐ…」と振り絞るような声が、我慢しても出てしまう。「痛いですか?」と再び聞かれるので、「もの凄く…」と言うと「じゃああれ、落としながらやりましょうか」と言ってナースに何かを指示。間もなく来たのが、ソセゴンという薬の点滴。(ちなみに病院では点滴のことを「注射」という)
「これは強い痛み止めで、すぐ効いて来ますからね」と言われ、抗ウィルス剤の点滴をいったん外し、ルートに痛み止めを接続して落とす。「少し早めに落としちゃおうか」との指示で、ポタポタポタと落ちていく。
10分ほど様子を見る間、世間話ではないが、ここまでの経過などを話したりしていると、皮膚科の先生が病室に入ってきた。
T先生というフランクな感じの先生で、「あっこれはひどいね。あーー、水疱も…」と言って患部を見回し、「とにかく表面は清潔に、よく洗ってね。あとここまでひどいと、痕は残ると思うよ」と言われる。
痕が残ってもいいが、とにかくこの激烈な痛みがいったいいつまで続くのかが解らない。
「どれくらい…」と聞くとT先生は入院加療期間のことと思ったのか「そうねえ、点滴は一週間。あと傷が治るまでは二週間から一ヶ月近くかかりますよ」と言われる。「そんなに…」と思わず声が出るが、病室の鏡で改めて自分の疱疹部分を見渡して、自分でも客観的に「これはもう駄目かもわからんね」と思ったほどなので観念した。
皮膚科の先生は外来の途中だったらしく、バタバタと慌ただしく出て行ったが、こちらはその間にだんだん痛みが軽くなってきた。というか、鈍く感じられなくなったという感じ。ソセゴンの効き目か。

男性N先生が「どうですか?」というので「効いてきたみたいです」と言うと、改めて水疱にブスリと注射針が刺さり「これどうですか?」と言うので「大丈夫です」と答える。
それからうまいこと真皮に当たらないよう、慎重に角度をつけて水疱へ針を入れて、中の血膿をポンプによって手作業で吸い出していく。体をちょっとひねって様子を見ようとするが、そうするとさすがにソセゴンでも激痛が来るので、大人しくしていた。
大小十数カ所に出来た水疱を一つ一つ、注射針で中の血膿を吸い出す作業が、途中女医のN先生に代わりながら続けられ、一通り終わった後、二人はナースにチューブの「アズノール」という青い軟膏(火傷の時によく処方される、アレ)を大きいガーゼにまんべんなく厚く塗ったものを用意し、それを疱疹部分全体に被せるようにして貼り付けて行くよう指示。
女医N先生は俺が渡しておいた疱疹の経過報告と写真の出力を手に、「これお借りしてもいいですか?カルテに取り込みますので」と言われたので、「あ、お渡しするために出してきたものですからどうぞ」と答える。
一番大きなガーゼを畳んだものが2枚と、尻たぶまで伸びた疱疹のところに中くらいの1枚、さらにヘソのあたりに1枚、つぎはぎでテープで貼り付けられて、とりあえず終了。
終わったはいいが生食で傷全体を流されたので、トランクスや床までびしょびしょだ。ナース(Uさん)が「換えの下着とかありますか?」と聞くので「いえ、今日は入院すると思わなかったので、何にもないんです」と言うと「じゃあご家族の方に連絡して…」というので、これこれこうで一人だと話す。
Uさんは気の毒そうに「じゃあ一応病棟に紙おむつがありますけど、それを履いておきますか?」と言われたので、もう仕方なく「お願いします」と答える。下の売店にトランクスは売ってるというが、今の体ではとても買いには行けないし、毎日履き替えて行っても洗濯も出来ないから、いっそのこと使い捨てのオムツに割り切った方が楽だ。何しろ身内もいない、たった一人なので、買い物も洗濯をしてくれる人もいないのだ。
間もなく「一番大きいのがLサイズだったんですが…」と持って来てくれた。しかしそれでも脾臓が腫れて膨満している腹に、さらにガーゼが厚く巻かれているので苦しい。結局締め付けるところを2箇所くらい切ってもらって、オムツ生活に入る。
ナースに片足を支えてもらいつつ、「生まれて初めてですよ、こんなオムツなんて…」と言うがよく考えたら生まれてしばらくは紙ではないがオムツをしていたのだな、とどうでもいい事を考える。
とにかく後は安静にしているしかないということだし、実際痛み止めがなければじっとしていても痛いので、動けない。そのままゆっくりベッドに仰向けになると、背中の脊髄のあたりの水疱痕が痛いが、何とか体重をかけられた。このところ左を下にしてばかりだったので、仰向けになったのは久しぶりだ。
痛み止めもあり、すぐに眠気が襲ってきた。しかし何かとナースが出入りしたりナースコールのメロディがすぐ横で鳴り響くのと、ソセゴンが切れると絶え間ない痛みが襲ってきて、結局寝られなかった。
猫たちのこと、家のことが気がかりだが、携帯を持って出なかったので何もできない。観念してただ、ベッドの上で大人しくしている。
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2009-10-29(Thu)

疱疹の治り遅く死にそう。

10月29日(木)

6時ころ目が醒める。
寝ている間に痛み止めが切れたせいか、疱疹部分がひどく痛い。この「痛み」を説明するのは難しいが、要するに指の先にやけどをして水ぶくれが出来たりすると痛いだろう、あれが背中から足の付け根にかけて、数十〜百数十出来ていると思えば遠くないかも知れない。

かといって左を下にするのは、白血病で肥大した脾臓を押し潰すようで嫌だ。だが、そうしないと寝られない。8時ころまで寝たような寝ないようなで横になっていたが、結局そのまま起きた。
トイレへ行き疱疹を見てみると、背中にはプクッと膨らんだ水泡がいくつか、そこから幅15cmか広いところでは20cm近い幅で帯状に、左下腹部へ疱疹の群れが伸びている。全体的にとにかくひたすらに重傷の火傷のごとくに痛いが、ところどころ水疱があって、そこが特にひどい痛みだ。
歩くのでさえようやく、ふらふらになりつつ、猫の水とご飯、仏様のお茶と水、花の水替え、線香と三津子やご先祖様へのお勤めを終えるともう限界。食欲などあろうはずもなく、鎮痛剤のロキソニンを飲もうとペットボトルのコーヒー牛乳で流し込み、軟膏を痛い痛いと思いつつ擦り込み、そしてぐったりと横になる。
8時半からはBSでいよいよワールドシリーズだが、もう痛くて気もそぞろ。それでも小一時間ほどでようやく痛みが薄らいできた。

11時ころ、下のI先生から電話があった。「どんな具合ですか」と聞いて下さり、「水疱が痛くて…」と話すと、やはり治りが遅すぎるという。普通はもうとっくに水疱の時期は過ぎて、かさぶたになって快方へ向かっている段階だというので、「免疫が落ちてるからでしょうか」と伝えると、「そうですねえ、普通やったらバルトレックス一週間飲んだら終わりなんですけど、追加でといっても強い薬やし内臓に副作用とか出るとあかんし、ゾビラックスという別な薬を出しますからまた飲んで下さい、一日5回のやつなんですけど。あと軟膏も、ステロイド系やったら白取さんの場合どうなんか、点滴も考えなあかんかも知れませんしね、とにかくいっぺん京大の先生に聞いてみますわ」と言って下さる。
「水疱が潰れてそこから雑菌が入って化膿するのは一番怖いですね」と言うと「ガーゼに軟膏塗ってもらって、軽くあてるようにしてもらったらいいですよ」とのこと。
いったん電話を切り、ここ数日風呂がおろかシャワーさえ浴びられないので、下着を替え、滅菌ガーゼを探す。我が家は病人夫婦だったので、割合感冒薬や抗生物質系の軟膏やら傷薬、消毒薬、ガーゼ類は常備してある。薬箱をひっかきまわすと、新品の滅菌ガーゼが一箱見つかった。しかしそれは5cm角程度に折りたたんだ小さいものが10梱包くらいのもので、普通眼帯にあてたり小さな傷にあてるような大きさのもの。
とにかく疱疹があまりに広範囲なので、そのガーゼを薄く大きく広げ、軟膏をガーゼに伸ばすように塗る。それを一枚ずつ4,5枚使ってようやく全体を覆える程度。軟膏は一回で一本が無くなった。
それをテープでゆるく固定し、腹帯をその上からやはりゆるめに巻いていると、電話が鳴って切れた。I先生からで、慌てて折り返す。
京大病院で俺の白血病を見ていただいている、血液腫瘍内科のI先生と色々相談していただいたそうで、やはり元の病気=白血病のせいで免疫が落ちているので、回復が遅いのでしょうということ。それからステロイド系の軟膏は、と訊くと「うーん」ということで、京大のI先生は「とにかく一度患部を見せて下さい」ということになったそう。なので明日の午前中、京大病院へ行かねばならない。直接血液腫瘍内科の受付へ行けばいいとのこと。ていうか俺外へ行けるだろうか。

それから下のI先生はうちのマンションの並びにあるいつもの調剤薬局にも電話していただいて、処方の会計と薬とを一度に済ませて貰えるように頼んでいただいた。
何から何まで、本当にありがたいことです。
その後すぐにいつもの調剤薬局から電話があり、指示されたもう一つの抗ウィルス剤=ゾビラックスは在庫がなく、近隣の薬局から手配をするということ、それからガーゼとサージカルテープがあるか聞かれたので、それも一緒にお願いする。あと軟膏も追加で出してもらい、それらが揃ったら直接届けて頂けることになった。会計も病院の分とあわせて、その時でいいということ。
ああ、皆さん本当に助かります。ていうか室内移動でようやくギリギリというのが正直なところ。とても着替えて外へ出るという状況ではない。それでも明日の京大病院は死ぬ気で行くしかないだろうが、今のところもう大人しくしているしかない。
その後痛み止めのお陰か、動かなければ少しはマシなので、ひたすら横になっている。タイミングを見計らい、うどん玉を茹でてカレーうどんの元を暖めたのとで、昼は済ませた。
テレビはワイドショーの類しかないが、もう仕方が無い、気を紛らわす。

4時ころ、薬局の人が玄関口まで薬を届けてくれた。病院の処方箋出しの分もあわせて会計をしていただき、助かった。新たな抗ウィルス剤、切れた軟膏と大判の滅菌ガーゼ、サージカルテープの予備も含めて一万円弱。
すぐに腹帯を外し、午前中に小さいガーゼを広げて貼っておいたのをはがす。幸い剥がすときの痛みはさほど無かった。
それからが大変。大判のガーゼ、折りたたんであるのを2枚開いて20cm×10cm大の大きさにテープでつなぐ。それをさらにもう1枚、つまりガーゼを4枚使ってようやく患部ほぼ全体を覆えるくらいの大きさだ。そこへ軟膏を薄く塗って、患部に貼る。それでもまだはみ出る疱疹があるので、そこは家にあった小さいガーゼを足して、つぎはぎのようにテープを貼り、患部を覆った。これで軟膏が一度で2本無くなった。それほど患部が広いというわけだ。これらの作業を当たり前ながらたった一人でやらねばならないので、つくづく一人の不便さが身に沁みる。
背中の水疱は知らないうちに破けた気配があるが、もう仕方が無い、何もこれ以上出来ないし、そもそも背中ならどうしようもなく、さらに今晩どうせ寝ている間に破けただろう。明日は病院だ。
それから新しい抗ウィルス剤ゾビラックスを2錠飲んだ。あと寝る前にもう一度飲もう。痛み止めも。

その後、お袋が送ってくれ、昼間届いていたのを冷蔵庫に入れたままだった梱包を開けてみる。
凄い。
マグロの大トロから赤身までの部位が7、8cmくらいの幅の柵になっているもの。柵は5つくらいに別れていて、綺麗なグラデーションになっている。
こないだ電話で話したときに「近くにいい魚屋があって、いいマグロが入ると連絡をくれる」と聞いたので、「へえ、じゃあこっちにも送ってよ」と言ったら本当に送ってくれたのだった。
はいずるように電話機の子機で実家へ電話。「マグロが届いた、ありがとう、高かったでしょ」というと、「9000円くらいだった」という。た、高え。
戸井(故郷の函館の近く)というところであがったマグロで、あれが大間で上がればかの有名な「大間のマグロ」となり、トンデモない値段がつくものだ。当然同じマグロなのだが、こちらの方が断然安い。日本人のブランド信仰はつくづく愚かで知性が足らん、と笑い、しばし痛みを忘れる。
疱疹の水泡が痛いが、まぐろをさっそく赤身と中トロのところを少し切って、三津子にも陰膳をして、一杯だけビールを飲む。
う、うまい。
ていうか絶品だ。
こんなの東京とか普通に料亭でこの品質・鮮度でこの量だったら、数十倍はするだろう。
ありがたく合掌して、しばし苦痛を忘れた。

ひとり、病と向き合うということは辛いことだ。

まして自分のような死病となると、ともすれば心が折れそうになる、正直を言えば。
誰のために生きるのか、何で自分はこんな目に逢うのか・・・。
思わず「辛いな、生きるって面倒くせえな・・・」と痛みのあまり口に出して三津子の遺影を見て、何気なくテレビに視線を落とすと5:55、間もなくその下のデジタル時計が5:55:55。
「GOGOGO、か」。生きろ、ということなのか。
連れ合いを失い、これほどまでに辛い苦行のような日々を、しかも病と共に、それでも生きねばならないのか。
確かに三津子は全身全霊で俺を愛してくれ、一日も長く二人で暮らすことを願い祈ってくれた。俺もそうだった。毎晩寝る前にそのことを祈り、朝起きればそれを願った。しかしそれは叶わなかった、であれば・・・と思う気持ちが、どうしても抑えきれない。特にこうした辛い日々は。
だがしかしここで俺が心折れて生きることを投げ出してしまえば、もっとも悲しむのは誰か。
そう考えれば、ふらふらと激痛に耐えながらも、一人生きるしかない、今は。
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2009-10-28(Wed)

痛い、痛い、痛い。

10月28日(水)

朝5時前から痛みで目が醒めた。夕べ11時ころ、寝る前に飲んだ鎮痛剤=ロキソニンはもう切れたのか。
まだ小さく赤い疱疹がバラバラとあった時からすぐ治療を開始し、抗ウィルス剤を一週間内服したのに、疱疹というか「皮膚のただれ」はもはやケロイドで、右の背中下半分から腹部肋骨の下を通って腰まで、かなり広範囲に全体に一体化し、その中に無数の水泡が出来ている。
何と言っても痛みがひどい。
いっとき、数日前にはかゆみが出て痛みも軽くなった気がしたので快方に向かってるな、と安心していたのだが、ここ3日ほどはあまりの痛みにロキソニンの頓服も増えた。バファリンもあるが、俺のような血液疾患=汎血球現象の場合は血小板数のことも考えると併用したくない。
「いててて」と言いながらそろそろと寝室から階段を降りて、トイレから出てすぐロキソニンを飲み、軟膏を擦り込む。背中なので見えないが、手の感覚で水疱が出来ているのが解った。これが破れて化膿するとまずい。自分の場合免疫力が落ちているので、雑菌などが繁殖すると厄介だ。
それにしても、こんなに痛いんじゃ買い物どころか部屋の中の移動さえやっとだ。
幸い仕事は家に居て済ませられてはいるが、その他の時間をただひたすら痛みに耐えていなければならないのが辛い。痛み止めが効いてくると多少楽になるので読書や音楽、映画で気を紛らわせることが出来るが、今のように激烈な痛みの間は何もできないし、キーボードはおろかマウスを触るのさえしんどい。

・・・痛み止めを飲んでソファに転がり、ひたすら目を閉じて我慢していると、そのうちウトウトし、薄い眠りながら6時から8時頃まで少し寝られた。
10時ころに仕事を今のうちにと連絡も含めてあれこれ片付け、それから数日取り替えてなかった猫のトイレを気合いを入れて掃除。今やらねばいつやれるか解らんと思い、エイヤとやるがフラフラ。そのゴミと、しばらく出せなかったゴミ袋や空き缶を捨てに下に行き、戻る。
結論から言うとこれらが「クリティカルヒット」となって、その後しばらく動けなくなった。
いったんソファに転がるが、朝のお勤めをしていなかったことを思い出して、水やお茶、花の水を換えて、線香を立てて合掌。いつものように三津子に語りかけるが、その間も足がガクガク震えたままだった。

俺、長くねえかも。

それからまたしばらく大人しく動かずにいて、12時前に昨日近所の割烹・Uの女将さんからいただいたおにぎりの残りを、カップワンタンと一緒に食べた。そしてまた薬を飲む。薬が切れたらまた歩けないほどの痛みに襲われるから、切れ目のないようにしないといけない。
それから帯状疱疹をネットでちょっと調べてみると、痛みのひどい人、長引く人にはブロック麻酔までやる場合があるそうだ。ひええー! と思った。
三津子が腎臓摘出手術後、手術痕に後遺症のもの凄い疼痛に悩まされた時、ありとあらゆる薬を色々な病院へ連れて行って試した。結局何も効かなかったのだが、唯一効果があったのが硬膜外麻酔、つまりブロック麻酔の一種だった。
しかし痛みが劇的に止まったことで涙を流して喜んだのもつかの間、副作用で嘔吐と心臓の動悸が異常に激しくなり、結局三津子は「耐えられない、痛みを我慢する方がまし」といって中止した。
あの痛みは結局、「時間」が治しただけだった。
俺の場合ここまでひどい状態になるとは思わなかったが、これだと後遺症の神経痛が残るかも知れない。何せこんな体なので何が起きても不思議はない。

夕方は何となくニュースを見ていたが、6時前に三津子のお茶を換えてお酒をあげ、陰膳を作る。
痛かろうが何だろうが、これは欠かせたくない。彼女の供養のため、ということもあるが俺が夫婦一緒の大事な時間を続けたいのだ。自分も痛み止めとビールをちょろっと飲む。
それにしても、トイレへ行くのもふらふらになってきた。サイトを調べると、「水泡が出来たら潰さないこと」「潰すと痕が残ったり化膿したりする」とあるが、寝てる間に潰れたらどうすんの? それにここ2日ほどは痛くて朝のシャワーも浴びられない。ていうかもう普通に動けないというのに。

我が家のルールとしてトイレは男の小用も座って行うようになって久しいが、これがまた苦行だ。チ●コだけ出して普通の男のように仁王立ちしてやれば楽だが、何せいちいち短パンとトランクスを下ろす。そーっと慎重にやっても、必ず疱疹のどこかに下着が触れる。そして激痛が走る。
「小便くらい立ってやれよ」という意見も多かろうが、以前何かのテレビで見た映像がきっかけで、我が家では「男の小も座って」が標準化した。
それは蛍光塗料を混ぜた水による放水実験で、立って男が用を足した場合、いったいどんだけの量の尿が便器周辺に飛び散るか、という検証だった。あれを見たらとても立って小便なんか金輪際出来ない。トイレの悪臭は、ああして飛び散った尿のせいだということがよく解る、便器だけ綺麗にしても無駄なのだ。なのでそれ依頼、自分から自主的に座ってやるようにしたのだ。もう自宅ではここ数年、当たり前の習慣となり、自分も癖になっている。

それにしてもこれだけ苦痛の日々が続くと、さすがに心が折れそうになる。しかし「死んだ方がましだ」と軽々しく口にしたくない、「まだ死にたくない」と思いながら死んでいった人たちに申し訳がないではないか。
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2009-10-27(Tue)

疱疹、依然痛む

10月27日(火)

夕べは12時過ぎに寝る。今朝は朝方からずっと長い続き物の夢を見て、目が醒めたら8時だった。今日は曇り、比叡山の山頂は雲に覆われていた。
起き抜け、帯状疱疹がやけに痛い。熱くほてるような痛みで、動くたびに「ううー」と思わず声が出る。そのまま右足を引きずるようにして動く。
朝のことをそのまま、ずりずりと動きながら何とか済ませて、とりあえずすぐ下のポストへ降りた。朝、疱疹に塗るための軟膏がもうないのだ。ポストには昨日足りなかった分の軟膏がちゃんと5本入っていて、ホッとする。
すぐ上に戻って部屋で疱疹に軟膏を擦り込むが、これがもうホンッッッットに一番痛い。脊髄から右側、背中の中央から腰にかけてという広い幅で、それがそのまま腹部へ帯状に赤くケロイドのようになり、所々が黒くかさぶたになっている。足の付け根、鼠蹊部のあたりの集団は一番治りが遅い感じだ。あんなに早く気付いて薬飲んだってのに、明らかに範囲は数倍に広がっている。
疱疹部もこんなん本当に元に戻るのか、というほどひどいただれようだ。「つうう」とか「いててて」とか言いながら軟膏を塗り終わるが、終わってぐったり。とても食欲なし。尿酸値を下げるザイロリックと痛み止めのロキソニン、神経再生のメチコバールを飲まねばならないので、とりあえずペットボトルのカフェオレだけ。

昨日寝る前にいろいろこなした仕事の続きをして、夕方は昨日スーパーで買っておいたハモの天ぷらを温め、冷やしトマト、もずく酢などで陰膳を作る。
それにしても異常に疱疹部分が痛い。もう歩けないほど痛い。陰膳の用意も何も、いちいち足を引きずり「つー」とか「いてて」とか言いながら、まるで拷問のようだ。そこでハタと気付いたが、そういえばちゃんぽんを食べた時、つまり昼に痛み止めを昼に飲むのを忘れていた。何やってんだかと思いつつ、ロキソニンを頓服で飲む。
その後しばらくすると痛みが和らいできだので、三津子の陰膳と軽く一杯やりながらCX「ビューティ・コロシアム」を見る。何だか「人間外見じゃないよ、中身だよ」という価値観を真っ向から一刀両断に切り捨てて「人間外見に決まってんじゃん!」という内容ではあるが、実際にすがって来る人たちの容姿による苦悩と術後の「変貌ぶり」に伴う気持ちの変化を見ると、まあやりたい人はやればいいし、それで人生が楽になる人がいるのなら文句を言う筋合いはないな、とも思う。

8時半ころ、以前夫婦でよく伺っていた割烹の女将さんから、「下に居ます」と電話。部屋までおかずを届けてくれるというが、悪いので下へ「性悪猫」を一冊持って降りる。一番下のY君が一緒におり、紙袋でおかずとおにぎり、りんごなどを戴いた。うう、有り難いっす。
実はちょっと前に、月曜に女将さんの友人と炭火焼きへ行こうと誘われていたのだけど、こんな調子で行けなかった。女将さんは「どうなんですか?」と言わはるので、「ちょっと子どもさんにはキツいですが」と言いつつチラッと疱疹部分を見せると「ひえー!」驚愕していた。いやー人に見せるもんじゃないっすねマジで。化学兵器にでも逢ったのかという案配だ。幸い痛み止めがきいているので笑っていられるが、切れると地獄のように痛むのだ。
いただいたおにぎりはまだ暖かく、ありがたく頂戴して、Y君にも手を振って見送る。部屋に戻ってさっそくいただくが、全体にごまがまぶしてあり、梅が入っていて美味。暖かいおにぎりは何ヶ月ぶりか? という感じ。人の人情が本当に、有り難いです。
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2009-10-26(Mon)

無理矢理買い物へ出る

10月26日(月)

夕べは痛み止め&眠剤を飲んで、寝室へ上がって横になるとすぐ、11時ころ寝た。
今朝はそのせいか早朝から何度も目が醒めた。暗いうちから外でぴちゃぴちゃと音がするので何だろうと思っていたら、明るくなってみたら雨だった。起きたのは8時半ころ。

起きると帯状疱疹の部分が痛い。毎朝、起き抜けが一番痛い、カーッと熱を持ったようになっていて、寝る前より痛みが強いのだ。おかしいな、抗ウィルス剤は一週間飲み続ければそれで問題ないはず。その後は皮膚症状が治まっていき、かさぶたになり、脱落していけば治癒のはず…。
トイレへ行き、例によってそっと下着をこすらないようにズラしてみると、疱疹部分というか、ケロイドのようになって右の背中から腹部に20cmくらいの幅で赤黒くなっている。明らかに前より広範囲。
朝のことを済ませ、とりあえず買ってあったサンドイッチを食べ、ザイロリック、ロキソニンを飲む。ロキソニンが効き始めれば、とりあえず動かないでいると内部からの疼痛は治まる。
ただ、疱疹部分があまりに広範囲なため、最初に処方していただいた抗ウィルス剤入りの軟膏(アラセナA3%)2gチューブ2本はもう使い切ってしまった。何せ朝と夕方2度で、ほぼ1本使い切るのだ。
これはいかんと思って12時前まで安静にした後、I内科に電話して「軟膏を処方していただきたい」旨を連絡すると、ちょうど今患者さんが居ないとのこと。すぐに着替えて下に降りる。

お昼の休診時間直前だったせいか、I先生の奥さんや事務の女性、看護婦さんら全員が揃っていて、皆さんで口々に「大丈夫ですか?」と心配される。何か申し訳ないです。
すぐ診察室へ通されて、先生に疱疹部を見ていただくと、I先生も「うわあ、これはひどいなあ。こんなに広い範囲に…」とビックリしたように言われる。パンツもグイと下げられたので、一瞬「ウホッ」と思ったが先生は冷静に「でもところどころ、かさぶたにはなって来てるんやね…」とじっくり見られて、俺が「軟膏が無くなったんで…」とお伝えすると「これだけ大きいと…すぐ無くなりますよねえ。」と苦笑。
「だいたい一日2回塗るので一本弱使う感じなんです」と言うと、「じゃあ10日分くらい出しときましょうか」とのこと。
あとやっぱり通常より治りが遅いようなので、メチコバール錠も処方していただいた。これは以前左腕の尺骨あたりのリンパ節が腫れて、左手小指が軽い麻痺を起こした時(このあたり)も処方されたことがある。神経の回復を促すビタミン剤だ。

診察室を出て会計をし、皆さんに「お大事に…」と見送られて、並びの薬局へ。午前中が一番しんどい、腰を押さえつつ右足を動かすと鈍く痛いので、庇うように歩く。薬局では軟膏が1本しかないそうなので、とりあえずビタミン剤と痛み止めのロキソニン、軟膏1本を受け取って、軟膏の残りはまた下のポストに入れておいて貰うようにした。
雨がまたパラついてきたのでコンビニは諦め、すぐマンションに戻る。着替えてすぐに軟膏を擦り込むが、範囲が広いから大変だ。それに軟膏は皮膚に擦り込むわけで、つまりは塗るときが一番痛い。一人でひいひい言いながら塗り終え、ぐったりとソファに転がる。
その後は新聞を読んで大人しくしていた。テレビではちょうどNYY−LAA第6戦をやっていたのでそのまま試合終了まで見る。
ヤンクス、ワールドシリーズ進出を決め、シャンパンファイト。松井は今日は「ゴロキング」で無安打。ポストシーズン後半に来てまた調子が今一つなので、ワールドシリーズで活躍しないと厳しい評価になりそうだ。

今日は夫婦で出かけていた頃のご近所さんから「知り合いの炭火焼きのお店へ行きましょう」と誘われていた日。お誘いをいただいたのは一週間くらい前だったので、「来週の月曜くらいには治ってますよ」と言ったのだが、こんな状態じゃとうてい無理。何せ痛み止めが切れると家の中でも動くたびに「あううう」とどこかで体を支えながらゆっくり移動しているの状態だ。とても外出して酒を飲んで…という体調ではないし、お気遣いやご迷惑もおかけするだろうから、携帯のメールでお断りを入れる。
ああ畜生、たまには外でうまいもの食ってビール飲みたかったよう!!

その後は黙々と仕事。ヤケクソ気味で集中。
途中からしんどくなったので、やっぱり自分は病人だからと自覚。今度は休み休み、仕事部屋ではなくリビングのテレビにPC画面を出力して、ゆっくりやる。

夕方になって何を食うか、また何もないし、何より三津子の花がもう無いのがどうにも我慢ならない。痛みも収まっていて、雨も上がった、ベルトをせずジーンズをゆるく履いて、買い物に出た。自転車を押してそこに荷物を積んで押して戻ろうと思ったが、試しに漕いでみると行けそうだった。
自転車乗るの何日ぶりか、とにかく近所の小さい方のスーパーへ向かう。幸いペダルを踏んでも、何とか大丈夫だった。
スーパーで「生もの」が食べたいので、野菜サラダやトマト、あとは旬のさんま刺しが安かったので買う。あとは明日の総菜などと、最後にレジの脇にいつもある花を買った。すかし百合と菊、ピンクのカーネーション。それらを前籠に入れて、すぐ戻る。帰り道は薄暗く、ライトをつけるととたんにペダルが重くなり、これはしんどかった。運動不足もあるだろうが、力を入れて漕ぐとやっぱり右足の付け根の疱疹部分が痛い。

何とか部屋に戻ると、ユキが奥の部屋で「うわあ!うわあああ!」と大声で鳴いていた。学習しないやつだなあ。着替えて買って来たものを冷蔵庫にしまったりすると、このところ引きこもっていたせいか体力が落ちているようで、心臓がバクバクいってキツかった。
すぐに花も活けて、6時過ぎからサラダとさんま刺しで夕飯にする。レトルトやインスタントではなく、生の野菜や刺身はうまい!
夕方のニュースではのりPの初公判のニュース。ネット上では法廷内スケッチによる似顔絵の余りのヘタさで盛り上がっている。コチラはその後K−1を見て、寝る前に痛み止めを飲み、軟膏を擦り込んでから寝室へ。
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2009-10-25(Sun)

コンビニへ行く(のも命がけ)

10月25日(日)

夕べは薬を飲んでいったん寝室へ上がり、しばらくしてテレビを消して寝に入ってから日中の仕事で重大なやり残しに気付いた。起きて作業をして、終えたら1時前だったか。再度寝られるかな、と思ったが割合スゥッと寝られた。

今朝は早朝にシマに起こされる。小寒かったのか甘えたいだけなのか、ゴロゴロ言いながら右の脇の下で丸くなり、腕に時おりググッと爪をたてる。こっちもふかふかで暖かいが爪は凶悪。しばらくそのままウトウトすると、今度はユキがにゃあにゃあ大声で鳴く。どうやらご飯をくれと言って起こそうとしているらしい。8時前だった。
そのまま起きて朝のもろもろを済ませて、食欲がなくそのままPCも起こし(スリープ状態から文字通り、起こす)、少しだけ作業をする。どこでも出来て、出勤もない仕事はありがたいが、その分休みもないといえば無い。日常の仕事と休みのメリハリも無くなってくる。
連れの三津子が居た頃は「はいもう今日は終わり!」とかよく言われた。強制終了である。そう言わないと、俺はしごとが終わるまで、いつまでも集中してしまう癖があるからだ。
今は自分一人になってしまったが、病気になってから、意識的に自分で休憩をちょくちょく入れるようになった。というより、そんなに根を詰めて同じ作業をし続けられなくなってしまった。(とはいえ、ついつい立て込んでくると5〜6時間ブッ通しでモニタと向かいっぱなしということはよくある)

11時前、井坂洋子さんから電話があった。井坂さんはもちろん、詩人で、三津子=やまだ紫の親友である。「『性悪猫』が届いた、とてもいい本になっていて良かった」という感想をいただく。
その後本の進行の話、俺の帯状疱疹の話、向こうやこちらの猫の話などなど、小一時間ほど長電話になってしまう。
井坂さんちの猫は数年前に三毛が逝き、今は20歳の高齢猫がかなり弱ってきているそうだ。水もちょっとしか飲まず、エサも食べられないことの方が多いという。その猫と仲の良かった三毛が死んだのが10月の27日だったそうで、ひょっとしたらその日に迎えにくるかも知れない、と言っていた。20年とは猫にとっては大変な年齢で、人間なら百歳以上にもなろうかというくらいか。
それほどの時間を一緒に暮らしたどうぶつは、もはや「ペット」などではなく、大切な家族だし、ヘタな遠くの親戚よりも大切な存在であったりする。うちの場合、一番長生きだったのは17〜18歳くらいだったので、20年は立派ですよ、と慰めにならないことを伝える。辛いだろうな、「家族」を見送るのは・・・。

その後、昼過ぎに何か食わんと…と思うがもうカップ麺もレトルトも嫌だ。とにかく生野菜が食いたい。着替えて外へ出たいが、今日はちょっと足の付け根が昨日より痛い。仕方なく冷凍庫を探すと、「横浜あんかけラーメン」が見つかった。前にも書いたが、三津子が生前買っておいたものだ。
さっそく作って、彼女にも分けて、食べる。うーんやはり美味。

それからは、少し薦められたり送ってこられた漫画をいくつか読む。感想はやめておく。
もうけなしたり「クソだ」と断罪するようなことはあまり書きたくない。そのかわり絶賛したいものがあれば褒めたたえたい。それはたとえ成年コミックであろうが、差別はしたくない。

「ガロ」時代からずっとずっと、一社に限らないが、給料だけでは食えないので、色々なバイトをやった。版下製作やデザイン、似顔絵、イラスト、漫画も描いた。一番お世話になったのはエロ本業界だった。本当は「やまだ紫の夫」という手前、あんまり、いかがなものか、どうだろう、とは思いつつ、結局一番途切れなかったのがエロ関係の仕事だった。エロに不況無し。
そういえば発作的に思い出したのだが、いつだったかパソコンで何かを説明しなきゃならない時に、三津子と当時同居していた長女のももちゃんがモニタを囲み、そこへエロ写真が大写しになったことがあった。
慌てて閉じたが、それは某写真集をネット版に落とし込むという仕事で、ポジを高解像度で取り込んで、フォトショで汚れを取り画像補正をしていく…というものだった。たしか当時納品はMOだったと思う。
何とも気まずい感じが3人の間に漂ったと思うが、すぐに「プッ」と全員が吹き出した。
まあそういう失敗もあったが、エロ本にAVを見てそれをイラストと文章で紹介するというもの(4Cなんかギャラが良かった)や、ヘアヌード写真集紹介、成年コミック評、その他本当にあちこちでお世話になりました。
最近ではそういう仕事(定期のもの)はなくなったが、データを処理したり、あまり興味のない分野のことを黙々と作業をしたり、ずっと「自分の意見、考え」が反映されない仕事をこなすというのはけっこうしんどいことだと思う。
元々クリエイティブな仕事がやりたかったから普通の道から外れたわけだし、編集というのはその意味ではいつもいつも「違う、新しいもの」と向き合う仕事で、しかもそれをどう世の中へ発していくかのお手伝いだ。だから常に多方面にアンテナを立て、どん欲にニュースでも何でも新しいモノに目を向け、かつ旧き良きものも押さえておかねばならなかったから、あちこちの(自分の中の)引き出しを埋めるのに精一杯の日々だった。自分の十代半ばから三十代前半くらいまでは、もうひたすら、自分がスカスカの人間であることを必死で埋めようとする日々だったと思う。

今はもう、余計なことはしないし、しなくていいと思っている。もうこれ以上自分の器は大きくはならないし、引き出しに入れておいたはずのものは、いつしか無くなっていたり、手に取ったら崩れたりするようになった。必死で埋めたはずのものが一方でサラサラと漏れたり崩れて無くなったりしている、そしてその速度が速まっている気がする。
もう無理矢理に見たくもないものを見たくないし、読みたくないものを読ませられたくもない。仕事は仕事で、割り切ってやれればそれでいい。出来ないことは出来ない。

夕方5時前、夜をどうしようか出前サイトなどを見ているが、宅配の寿司やピザくらい。あとはちょっと離れたところのファミレスくらいで、どうにもならない。痛み止めが効いているのか、買い物に行けるんちゃうか!?と思って着替えて降りてみるが、歩き出すととてもスーパーまでは無理。
着替えていた時は自転車に乗ってスーパーまで行けそうな勢いだったのに、エレベータを降りたところでもう無理だと解った。ベルトをしていないとはいえ、ペダルを漕ぐ運動で疱疹が擦れないわけがない。
結局向かいのコンビニまでそろそろ歩き、サラダやサンドイッチ、ご飯のおかずになりそうな冷凍ものなどをちょろっと買ってすぐ戻る。いったいいつになったら完治するのやら。
6時過ぎから買って来たもので夕食。三津子と軽く一杯。帯状疱疹時の飲酒は誰もが「薦めない」はずだが、これくらい許してくれよ、という感じ。

その後は母親や三津子のお姉さんと少し電話で話したり。
やまだ紫の代表作がこれほど早く復刊できたのは、俺の力ではない。
彼女の作品の力だし、人徳だし、後世に伝え残すべきものという認識に値するだけの優れたものを、正当に評価していただいた結果だと思う、
俺などその末端でちょこっと手伝いをしたに過ぎない。
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2009-10-24(Sat)

前門の痛み後門の痒さ

10月24日(土)

早朝暗いうちに、なぜかユキがにゃあにゃあと鳴いて起こす。俺は元々暑がりなのと、マンションの上階は熱が籠もるせいもあろう、今でも寝室ではベッドの上で全く何もかけずに寝ている。
この晩は予報でちょっと冷えると言っていたが、日中は晴れて室温は25度を超えていたし、京都は昼夜で寒暖の差が激しいとはいえ、寝る時は何も無しで快適だった。目が冷めてみるとちょっと小寒いかな、という感じ。
どうやらユキはあんな毛皮を着ているくせに、寒くなって寄ってきたらしい。横に畳んであったタオルケットを掛け布団のように薄く広げて入るように誘うと、中に入ってゴロゴロ言っている。ユキもシマも猫としては短毛だが、シマはアメショーの雑種で、みっしりと毛が密集しているが、ユキは何の雑種だか知らぬがシマに比べると体毛は短くて薄い。なのでその分寒がりなのかも知れない。
そんなこんなで早朝から起こされて、また薄く眠るのだが、結局8時前に起きる。本当に年寄りのような生活サイクルだ。

朝のもろもろを済ませて、帯状疱疹には軟膏を塗り込む。まだ触ると痛いが、治りかけのせいか赤黒く解りやすくなったことで、思ったより広範囲に疱疹が出来ていたことが解りやすくなっている。背中の方は痛みよりかゆみが強くなりつつあり、腹、鼠蹊部の集団の方はまだけっこう強く痛む。つまり背中はかゆくて全面は痛い。いずれにせよベルトをして外へ出て、重いものを下げて帰って来ることは今日も無理っぽい。
朝は昨日コンビニで買ってあったソーセージドッグを食べて、とりあえず下に新聞を取りに行きたいと思ったが短パンにTシャツで外に出るのを別な住人に見つかるとアレな人かと思われかねない。かといってジーンズを履くと腰の部分があたって痛い。逡巡したが結局、今日は土曜だったことに気付き、無難な昼前あたりに速効で取って戻った。

その後は仕事を休み休み。昼過ぎに何か食べないとと思うが、もうレトルトもインスタントも食べ飽きた。かといって買い物にも行けず、しばし思案した結果結局またカップ麺。情けないし食べたくもないが仕方がない。
東京に居た頃、連れ合いの三津子が病気で伏せっていて自分も具合が悪い時に、SEIYUのネットスーパーがもの凄く重宝した。本当に、スーパーで「これとこれと…」と買い物をするようにオーダーしたものが、スーパーの袋に入れられて、冷たいものはちゃんと冷たいまま、玄関口まで持って来てくれた。あれがどれほど病人夫婦には有り難かったことか。
最近はそういうサービスも増え、さらに関西に来てからもいくつかそういうサービスを実施しているスーパーもあることは知ったが、うちはどこの配達エリアからも外れている。これからの季節、大型スーパーへ行くことで、いらぬ感染リスクを回避することも出来るし、病人や老人などには需要があると思うが。デフレで粗利も少ないスーパーも、配達料を徴収できるというのは案外魅力的なようにも思える。
そういえば一応生協にも加入しているのだが、カタログを見て一週間とかずっと後の食い物なんか今から想像つくか? という感じ。今日、明日のものを「これにしよう」という感覚とはほど遠いから、結局一度も利用していない。実在する店舗で品物をチョイスするというより、生協はカタログからお取り寄せを選ぶという感覚なので、個人、一人暮らし、少量欲しいような人は利用しにくいと思う。

そういうわけで夕食は結局思案した結果、今度は宅配ピザにした。理由は簡単、ここ二年近く食べていないからだ。京都へ来て宅配ピザを取ったことは記憶にない。一度くらいあったかも知れないが、基本的に夫婦二人で暮らしていた時は「宅配ピザが食べたい」と思ったことはないと思う。おいしい総菜屋さんがすぐ近くにあるし、おいしいお店もたくさん知っていた。それに何より家で二人でちゃちゃっと作って食べるのも、美味しいし楽しかった。宅配ピザの入り込む隙は無かったと記憶している。
注文して30分ほどでピザの小さいサイズとシーザーサラダ、あとクーポンでチキンとポテトみたいなのがアツアツで届いた。三津子の陰膳もそれらで急ごしらえをして、何だか申し訳ない感じがする。でも買い物に行けないので仕方が無い、許してね、と謝る。

さて野球。
その間、パ・リーグのCSは日ハムが楽天を下して優勝を決めた。岩隈がリリーフで出て来たのにも驚いたが、その岩隈がスレッジに渾身のストレートを3ランHRされたのにも驚いた。さらに驚いたのは、日ハムの優勝セレモニーと観客への挨拶の後で、右翼スタンドの一握りの楽天ファンへ野村監督以下楽天の選手たちが挨拶へ行ったところに日ハムの選手たちが駆け寄り、2チームの選手がノムさんが胴上げをしたことだった。
先日発売の「週刊文春」では「ノムさんは選手たちから総スカンを食っており、いなくなってくれることを全員が願っている」さらに「回顧ウンヌンも元々の既定路線にも関わらずパフォーマンスでゴネたように見せているだけ」、という記事が掲載されていた。つまり、選手たちが野村監督の胴上げのために一丸となっているのではなく、ただひたすらに「反野村」で結束しているに過ぎないのだ、という論調だった。
しかし、この日の試合を含め、映像を実際に生で見ている限り、この記事は正しくないことがよく解る。一部の「反野村分子」はそりゃあ居るだろう、そういう選手かスタッフのリークや、鬱憤晴らしのようなものから膨らませたのではないか。
野村克也というひとの「人格」は、昔から見てれば「選手としては超一流、監督としては一流」であるのは認めるが、人間的に、人格的にどうかと言われれば現実に付き合った人しか解るまい。そして確かに、そういう部分では疑問な点が多いと思われがちなひとではある。
若い頃、あのサッチーとの不倫騒動でサッチー取るか南海取るかで辞めろ辞めないみたいな騒動になったことも有名な話。
選手としての「成績」「経歴」は決してONに引けを取らないのに、人気、扱いがまるで違うことを僻むような言動がいつしか逆に注目されるという皮肉。では「なぜ扱いがまるで違うのか」、それはひとえに選手や監督や野球人としてということ以前の問題であることに、本人自身知ってか知らずか、パラドックスとでも言うしかない現象が事実だった。
まあそういう色々はあったが、今回のクライマックスシリーに関しては、あの球団をここまでよく叩き上げ、本当によく戦ったと思うし、別段ノムさんにも楽天という球団にも強い思い入れはないが、応援したくなる何かがあった。俺の実家の母親は熱烈な日ハムファンで、この不景気の中ハムだけが救いなどと言うほどである。けれど俺はそれ以前に「野球」が好きなので、面白い試合やいい選手、いいプレーが見れればどこでもいい。実際、シーズン後半からここまでの楽天の戦いぶりは、野球というスポーツ、ゲームの面白さに溢れていたと思った。面白かった。
さらに、あくまでテレビ画面に映し出されるベンチの様子、選手たちの表情や態度を見ている限りは、「文春」の報道のように全員が揃ってノムさんを嫌っており、とっとと出てってくれなどと思っているわけがないと思う。
まあ野球というのはこのようにやっても面白いが見ていても面白いものだ。チーム対チームという集団の対戦ゲームなのに、投手対打者という個々の対決が基軸となっている。それなのに「全員野球」とか、連携プレー、チームプレイがあり、ベンチワークがある。
さらに試合の制限時間が区切られていない分、独特の「試合時間の流れ」があって、その緊張と弛緩の波が、何となく心地良いものに思えるのだ。サッカーの場合は緊張と弛緩の振幅が大きく、かつ時間が区切られてためにその波の間隔も狭い。つまりノコギリの刃のようなグラフを連想するとよく解る。野球の場合は、海の水面の波のような形で、時に大きく盛り上がり、時には凪のような穏やかな水面があるような印象か。自分にはやはり野球の波形の方が合っていると思った。

その後、皿やフォーク、タバスコや三津子の酒とお茶などの用意を整えていざピザを食べよう…としたところに立て続けに荷物の配達と、別に集荷が来る。何やかやで20分ほど経過。冷めかかったピザを一人で食うほど虚しい行為もそうはないな、と思いつつかじる。陰膳に分けたが三津子にも申し訳ない気持ちだ。とにかくもう帯状疱疹が治らないとどうしようもない。
朝シャワーをしたりしても、湯船にお湯を張って「ああ〜!」と浸かる心地よさへのフラストレーションが溜まる。それも、まだシャワーの湯が痛いくらいだからちょっと怖くて無理だ。部屋の掃除も床のワックス掛けもやりたい。二階の本の整理もちょっとずつやりたいし、終えていない書類手続きに動かねばならないこともいくつかある。だがもう何もかもがこの帯状疱疹のせいでメチャクチャだ。
幸いネクタイを締めて毎日電車に乗って通うという仕事ではなかったことが救いだけど、逆に元の病気がなければそういう仕事だってやれるわけだ。病気は本当に嫌なものだ。



夜になって、「性悪猫」の「ガロ」掲載部分の初出などでお世話になった、漫棚通信の細井さんから、Amazonからお送りした本が届いたと御礼のメールがある。さっそくブログでもご紹介いただき、(復刊やまだ紫 漫棚通信ブログ版)、感謝申し上げます。

細井さんは、やまだ紫の研ぎ澄まされた「ことば」に改めて感嘆されている。
自分もまさしくその「ことば」に、高校時代に衝撃を受けた一人だ。その彼女独特の言語感覚、鋭敏な感性が紡ぎ出す「ことば」が、年月が経っても常に輝きを失わずに時代時代の人の心をとらえるのだと思う。

「やまだ紫」以前の「山田三津子」は文学少女だった。色々な小説や詩に触れ、自らも詩作に励みまがら、花や草木、虫、道ばたの苔などをじっと観察して絵も描いていた。
進学するにあたって、大学も文学部にするか美術系にするか悩んだそうだ。結局「詩では食べていくの難しそうだし」と言って美術系の大学を受けたものの、基礎デッサン力不足で落とされている。そんなもので個性の煌めきを発見できるのかはなはだ疑問な選考基準ではある気がするが、漫画界にとってはその方が良かった。
余計な「基礎デッサン」「絵画技法」などで叩かれず、自由な創作の結果「やまだ紫」の誕生が早まったとも言えるからだ。
「COM」掲載の一連の作品は、今の女子大生ほどの年齢で発表されているのだから、もの凄いことだと改めて感動する。とにかく「鳳仙花」から今回復刻された「性悪猫」を挟んで、「鈍たちとやま猫」「はなびらながれ」までの、初期の作品も素晴らしいものがたくさんある。
これらも何とかして復刻したいと思っている。

俺の愛する連れ合い・山田三津子は亡くなってしまったが、
「やまだ紫」は、漫画界に絶対に必要な人である、

と確信している。
そんな思いも、細井さんへの返信でお伝えする。


既報の通り、本当にたくさんの人に謹呈せねばならないのだけど、元の部数が少ないこと、復刊という性格上新しい読者の人に一人でも多く手に取っていただくことを優先させていただき、贈呈分は編集に協力いただいた方以外はごく限られた身内にとどめさせていただきました。この場を借りて改めてお詫び申し上げます。
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2009-10-23(Fri)

治りつつあります

10月23日(金)

8時ころ起床。京都は今日もスキッと青空、秋晴れ。
朝のもろもろを済ませた後、抗ウィルス剤入り軟膏を疱疹部に塗る。帯状疱疹は初期の「ツブ」一つ一つが赤く盛り上がっていたのが、だいぶ平べったくなり、全体に赤黒い色になってきている。この朝で錠剤の方は抗ウィルス剤が終了となったが、まだ疱疹部分は痛い。
しかしそろそろまた食べ物がないので、とりあえず着替えてそろそろと外へ出る。下のI先生の奥さんにちょっと挨拶をしてから、郵便物を出しにポスト経由でコンビニ、買い物してすぐ帰宅。
本当はスーパーまで何日か分の食材と花を買いに行きたいが、まだ自転車は危ないし、かといって徒歩で荷物を持って歩いて帰ってくるのは無理っぽい。コンビニで今日・明日の朝までのパンやらを買うくらい。

それにしても帯状疱疹だと早く解って良かった。
というより、知らなかったらどうせ癌だからと、我慢していたかも知れない。三津子が昔かかったのを見ていたので、すぐに自己診断出来たから、早めに病院へ行き、抗ウィルス剤も飲めた。手当が遅れると、痛みが長引き、後遺症の神経痛に長年悩むことになる例もたくさんあると聞く。

それから朝、Twitterに起きたことを書き込む。
昨日ブログにTwitterを始めたとアップしたのと、身内には無事の確認の意味でTwitter開始を知らせたので、とりあえず俺がちゃんと「生きているかどうか」はこれで知って貰えるわけだ。ただ、ということは一日最低一度は書き込まねば、逆に「とうとう死んだのか!?」と思われかねないが。
何年か前から、電気ポットと連動して、遠隔地にポットが使われたことを知らせる…というサービスのCMを見る。変な演歌・歌謡調の節回しで「東京の息子にメールが届くぅ〜♪」なんてのがおかしくて、夫婦でよく笑って見ていた。年寄りはだいたい一日に一度はお茶なりでポットを使う、というパターンを利用した「無事確認サービス」で、よく考えたなあと思う。
三津子はあれを見ては、彼女の母が高齢で一人暮らしであり、耳が遠く電話に気付かないこともあることを心配して「あれ、ばーちゃんちにつけて貰おうかな」と本気で言っていたものだった。
PCが使えれば、というかネット環境にあればモバイルでもいいが、Twitterで「起きました」のつぶやきだけでも、離れている人に「ああ、ちゃんと生きてるな」という確認を与えることができる。

その後はBSでア・リーグチャンピオンシップシリーズLAA−NYYを見つつ、仕事をする。ヤンクスは中継ぎに不安があるので、せっかく逆転した後、チェンバレンを出だねばいけない場面で継投ミスを犯し、逆転負け。

「性悪猫」はAmazonで割合にいい成績のようだ。
Amazonのランキングに一喜一憂するのはあまり賢いことではない、なぜなら毎日「新刊」はもの凄い点数出ているので、それらは当然発売日にもっとも売れる場合が多く、必然的に発売日から数日を頂点に日が経っていくにつれ、「売上げランキング」は下がっていく。これは誰かが何年か前に実証済みだったような気がする(そんなサイトを読んだ覚えがある)。
つまり、発売日から数日の間上位に居て、そこから下がっていくことは必然であり、いわゆる世間の実際の書店における「初速」とは若干意味が変わってくる。
それでも、「性悪猫」は最高で「本」全体で1,611位、「漫画」のカテゴリーランキングで694位と、これはかなりいい部類に入る。そう思っていたら、今日は「本」全体で1,453位、「漫画」では658位と上がっていた。
30年前の作品で、これまで青林堂版〜ちくま文庫版〜やまだ紫作品集版と、何度もかたちを変えて愛されてきた作品だ。やはり読み継がれるべき作品なのだなと、改めて強く思う。
そういえば昨日、以前やまだの担当だった編集者のKさんが連絡をくれた。その時、Amazonでは1000位台だったそうで、「これはかなりいい数字ですよ」とのことだった。書籍編集者としてバリバリ本を造っている人なので、きっとそうなのだろう。
いっときに売れなくてもいい、いい本は必ずずっと後の世まで残る。…そうは言っても、復刊をしていただいた小学館クリエイティブさんにとっては完全に商売抜きの慈善事業なわけではない。売れるに超したことはないし、より多くの人に作品の良さを理解して貰えることは、何より作家本人が一番嬉しいことだと思う。

そんな画面を見つつ、コンビニの帰りに取ってきた荷物を開ける。
先日ネットで古書店に注文しておいた「鈍たちとやま猫」と「はなびらながれ」、あと別々なところから「Blue Sky 2巻(中公コミックスーリ版)」を2冊。
「鈍たち…」「はなびら…」の青林堂版はとても貴重で、我が家にも2部ずつしかない。しかもそのうち「鈍たち…」の1部はカバーが校正刷り(PPがけのないもの)である。なのでネットなどで発見したら、法外に高くない限り、入手したいと思っていた。そうしたらたまたま2冊同じところに出ていたので購入。しかし「はなびら…」の方はカバーの背が完全に退色しており、地のグレー以外は白くなっていたのでガッカリ。
別の古書店から届いた「Blue Sky」は、文庫ではなくコミックスーリ版=新書版は1・2巻として出版されたもの。なぜか我が家には1巻だけが著者贈呈分(もちろんスリップ入りの新品)が10部ほどあり、2巻の方はたった1冊しかない。つまり1・2巻揃いが1セットしかないのだ。なので、これらは2部、別々に発見したところから取り寄せた。これで都合3セットになったので、これらは二階のやまだ紫著作物専用の本棚に大切に納める。

こうして彼女の貴重な作品は、いずれ継承していくであろう次女のゆうちゃんに預けるまで、キッチリ俺が保管しておくのだ。

昼過ぎ、カップラーメンを食べていると復刊担当である小学館クリエイティブの川村さんからメール。やまだ紫復刊第2弾「しんきらり」の解説は齋藤愼爾 - Wikipediaさんで、以前発見した「アサヒグラフ」の「特集:やまだ紫の世界」をベースに執筆いただいたものの校正。
今や東京と京都の間でもメールにpdf添付という形で、版下=ゲラ校正が出来る。今さらながら凄い時代になったものだ。こちらからは齋藤さんのページに入れる写真を2点すでにお送りしておいたが、新たにスキャンしたもう1枚も、pdfには入れ込まれてあった。
来月、今回の復刊のプロデュースをして下さった中野晴行さんと京都で打ち上げをしましょう、ということになる。楽しみだ。

その後このところサボっていた…というより痛くて出来なかったトイレ掃除をする。
ちょっとほっとくと黒カビのような「喫水線」が出来るので、トイレカビキラーでゴシゴシと掃除。痛み止めも飲んでいるので若干力んでも何とか大丈夫。便座を上げて洗剤を吹き付けてブラシでこすり、最後は仕上げにトイレクイックルで全てを嘗めるように拭き、磨き上げて終了。気持ちが良いが、リビングへ戻ると部屋全体がぼんやりと散らかっている。
本当は目に見えるところにごちゃごちゃしたものを置いたり、生活感丸出しの感じは嫌で、壁面全面収納なんかが夢だったのだが(閉じれば全く何も無いかのような壁面になるアレ)、もう体力的にもそんな生活は無理だ。
その上特に今は帯状疱疹罹患中なので、手の届く範囲にティッシュだのワイヤレスマウスやキーボード、週刊誌、新聞、各種リモコン、筆記用具その他がごちゃごちゃと散らばっている。こういうのは繰り返すが大嫌いなんだけど仕方が無い。

三津子は団地住まいの時代から(俺が知っている限りでは)自分の手の届く範囲に何でも積んだり置いたりするタイプで、俺と真逆だった。まあそういうことで日常細かい対立がちょろっと出たりすることはあったが、真逆なのでかえって良かったのかも知れない。同じ方向で一致しても、納得の仕方、好みが違えば対立は逆にもっと深刻化していたかも知れない。
それにしても、あの団地はごちゃごちゃだった。無理もない、離婚して二人の子を不安定な「漫画家」という「水商売」で育てていくだけでも大変なことだ。しかもその苦労の中、あれほどの名作を紡ぎ出していたのだから。

あと、もうそろそろ自分がアレした「後のこと」も考えておかねばならないと、ずっと思っている。だから先日来、ちょっとずつ思い出してはこれはこうして、あれはああして…という指示を書き記したり、算段をつけている。
だが一つ「この件はこれで大丈夫」と思って一息つくと、まだまだその何十倍も同じような作業をせねばならぬこと、さらには自分が動いてやっておかねばならないこと、つまりは肉体労働を伴うこともたくさんあることに気が付くのだ。
人が一人、その生を清算するということは、生きている間に本人がやっておくのが一番いい。
健康な人なら「縁起でもない」と笑って済ませられるだろうが、俺の場合はそれこそ笑い事ではないのだ。

夕方になり、朝に買っておいた弁当を暖め、三津子には陰膳とお酒を添えて食べていると、「明青」のおかあさんから電話。先週から調子が悪く、熱が出て日曜は休んだそうだ。月は一応出て、火曜の定休日も大人しくしていて、そのまま様子を見ていてようやく治ってきたという。咳はと聞くと出なかったというので、インフルエンザではないらしいが、原因は結局不明。
お店に置いてあって、いつも使っていたパソコンが壊れてしまい、ネットにもアクセス出来なくなったという。最後に携帯でメールがあった時にこちらは帯状疱疹になったばかりだったので、そうお伝えしてはあったのだが、その後どうかと心配してのこと。こっちはもう治り始めてるし、体が資本だし健康には気をつけて下さいよ、と話す。まあ俺が言うのも何だけど。

その後BSニュースを見ていると、東大病院の医師がネットで「肺がん」と検索し、上位50サイトを科学的に検証したところ、そのうち治療法や薬品などを紹介したサイトの4割ほどに全く科学的根拠のない情報が掲載されていた、という報告があった。
以前から何度も書いているが、癌宣告というのは人間、人生で一番受けたくないものの一つであろう。
普段から威勢のいいことを言い、今思えば精神発達異常かと思うほどタバコを吸い酒を飲みストレスの渦中にどっぷりと浸かっていた自分も、無意識に足が震えるほどのショックを受けた。そして、それを一緒に体験した連れ合い、今は亡き三津子もどれほどのストレスであったかと、思い出すのも辛い。癌患者でありその生活がもう4年も続いているのだが、その分、今の方があの時を思い出すと辛い。
いわゆるエビデンスのない、やれなんとかキノコがいいとか自己免疫療法は保険が効かなくて高額だが治るんだとか、その手のサイトは山ほどある(「癌とたたかうため?」)。「肺がん」というキーワードではなく、個別の癌、俺の白血病も含め全てのがんや重大な疾患には、「その手」のエビデンスのない情報で溢れている。
ニュースによるとその医師は「ネット上は有害な情報だけではなく、ちゃんとした正しい情報もあるので、そういうところへつなげてあげる努力をしたい」とのことだ。つまり「間違っている情報」も半分あるという了解・認識のもとにネットを利用しなければ、危険だということだろう。
何か他人の人生に重大な決定を与える場合…病気の治療などは藁にもすがる思いだろうし、人生相談でもなんでもいい。その時に、「オレはこう思う」で人助けだと悦に入るひとはたくさんいる。それでカネを取っている人もたくさんいる。だがことは病気となると、それこそ文字通り命がかかってくるし、お金もかかることは言うまでもない。命が助かるのならば、多少のお金、いや大変なお金がかかっても、健康が取り戻せれば返せる…と思う人だって多いだろう。
そこへ、詐欺師はつけ込むのだ。
前から何度も書いてきたように、こういう時代になり、勉強しようと思えばネットで極めて高度な専門知識から、それこそ迷信まで、いくらでも「情報」は集められる。そこに求められるのは「情報リテラシー」であることも言うまでもない。何が信じられ、何が信じられないか。
元々、ネットで情報をあれこれ探してまわる=その段階で「その人」はその分野の専門家ではない場合の方が多い。であれば当然、もっともらしいことをもっともらしく書いていることに目を奪われがちだ。俺もかつてそうだった。
しかし落ち着いて冷静に考えれば「ソースは?」「エビデンスは?」と問い直す余裕が生まれる。だが癌患者やその家族には、その「余裕」がないことが多い。このことを健康な人に伝えるのは難しいが、とにかくそういうところへつけ込む輩がいるのだ。
もともと「詐欺」という(誤解を恐れずに言えば)ある意味「単純な粗暴犯よりも凶悪」である場合もある犯罪を犯すような連中は、人の心の弱みに付け入ること、利用すること、押したり引いたり、善意の仮面を被ったり権威を装ったり利用したりすることは、常套手段だ。「自己責任」といって、最近はそういう詐欺に引っかかる人の側を責める風潮もあるが、冗談ではない。
犯罪は、あくまでも犯罪を犯した側がまず責められるべきという、大原則を踏みにじってはいけないと思う。
確かにマルチ商法など、手持ちのカネをもっと増やしたい、もっともっとカネ儲けをしたいと思う人がはまる詐欺事件は後をたたず、その被害者には半分「しょうがねえなこいつら」という目が向けられるのは仕方が無いが、病人や、病人を抱えた家族に、しかも癌などの重大な病気を宣告され冷静を保っていられない人を利用するのは鬼畜にもとると思う。
いや、別にこのニュースではそこまで語っていたわけではない。「科学的根拠のない治療法や薬品をすすめるサイトがあるから、気をつけてね」くらいのものだ。だが現実には、ちょっと検索を叩いてみれば、「その手」のサイトが山ほどひっかかってくるのは常識である。

いまだに思い出すのは、そういった「民間療法」を自らの癌を実験台として試し、それを「週刊文春」での連載中に綴って亡くなった、米原万里さんのことだ。
ほぼ全ての代替療法は効果が無かった、そして高価であったという。ヘタな駄洒落ではない。
その体を張った、命をかけた警告はもっと真摯に受け止められていると思っていたのだが。
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2009-10-22(Thu)

やまだ紫 復刊第一弾「性悪猫」発売中

性悪猫広告画像

皆さん、お待たせいたしました。
2009年10月22日、やまだ紫の、不朽の名作『性悪猫』が発売されました!
<10/21>
★Amazonさんから購入可能になりました。
性悪猫
やまだ 紫
小学館クリエイティブ

このアイテムの詳細を見る



著者:やまだ紫
書名:性悪猫(しょうわるねこ)
発行:株式会社小学館クリエイティブ 発売:小学館
定価:本体1,400 円+税
ISBN978-4-7780-3129-9 C0079 1400E

判型はA5判並製で、総ページ数は164ページ、うちカラーグラビアが4Pです。
解説は中野晴行さんです。
収録作品は1980年に刊行された青林堂版「性悪猫」〜ちくま文庫版「新編・性悪猫」〜筑摩書房「やまだ紫作品集5巻」収録の「性悪猫」に準拠していますが、今回はそれに「長ぐつ はかない ねこ」の単行本未収録作品2本を新たに収録しました。

さらに復刊特典は
・青林堂版のカラーイラストの復活
・「猫ギャラリー」にオリジナルワインと日本酒ラベルの猫イラストを収録
・「性悪猫」発表以前に描きためていたと思われる、猫の細密画などをモノクロイラストギャラリーに収録

です。
また、今回の復刊に際し、作品の収録順もオリジナルの青林堂版を巻頭に、発表年順にいたしました。

中野晴行さんの解説部分では、あの「COM」休刊後に一部スタッフが刊行した幻の「あっぷるこあ」に収録された、「性悪猫」の原型が一部見られます。これはファンにとってはたまらない貴重なものとなっています。


白取より僭越ながらひとこと。
「性悪猫」という作品は、出逢った人がその人生の節目節目で、必ずどこか心に響くところがみつかる作品です。すでに持っておられる人、かつて持っていた人も、まだ出逢っていない人は必ず、買ってくださいね!
また今回は「復刊」ですので、部数はとても少ないです。
けれどもその分、長く、切らさずに伝えていっていただけるということを、小学館クリエイティブさんに了解していただきました。心より感謝申し上げます。
お近くの書店さんに無い場合は、上記の書名、版元名を言っていただければ注文することが出来ます。書店さんでお受け取りになれば、送料もかかりません。
皆さん、やまだ紫の素晴らしい作品を、これからもよろしくお願いいたします。
Amazonからはこちら

◆10/23追記
今回、復刊ということで部数が少ないため、本来ならば謹呈せねばならない方すべてにお送りすることが出来ません、申し訳ありません。
この名作との「新たなる出会い」を優先させていただきたく、ご容赦願えれば幸甚に存じます。
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2009-10-22(Thu)

twitter公開しました

10月22日(木)

夕べは12時過ぎに寝られた。今朝は長い夢の途中、6時過ぎにいったん目が醒め、うとうとして8時前に起きる。今日も穏やかな秋晴れ。
帯状疱疹は、夕べ寝る前に抗ウィルス剤入りの軟膏を疱疹に塗り込んでから寝た(塗った時の痛かったこと!)せいか、痛みは鈍くなっている。だが相変わらず擦れると痛い。ただ発症時の、内側から疼くような鈍く強い「嫌な痛み」はだいぶ無くなった。体内のウィルスは息も絶え絶えという感じだろう。はやくバスターされやがれ。

それから階下に降りて朝のことを済ませる。昨日までと違って右足を引き摺るようなことはなくなったものの、まだ痛いことは痛い。今日は花を買いに行きたかったが、スーパーで買い物しての行き返りはまだ無理っぽい。
朝は買ってあったサンドイッチとカフェオレ。抗ウィルス剤を飲む。しばらく転がってBSを見ながら様子を見ていたが、半身を起こそうとすると痛いので、一応ロキソニンも飲んだ。
しばらくすると効いてきたのか、体表面以外は痛みが薄らいだ。メールをチェックしたり、仕事の連絡を今のうちにやろうとPCを起こす。知り合いから「その後帯状疱疹大丈夫ですか、ご飯とか食べてますか?」と心配のメールが入っている。
とにかく病人の一人暮らしになっちまったので、何かと遠方の身内や知人友人に心配をかけている。とはいえ毎日ブログ更新だとちょっと面倒なのは事実。というのも、このgooブログは異常に書き込みや画像貼り付けなどのシステムが面倒で使いづらい。ていうか他のブログ知らないけど。
手元の画像ファイルをアップロードし、記事に貼り付けるなんて作業、これ絶対高齢者とか出来ねえぞ、と思う。しかも俺の場合はgooブログのイメージ貼り付けがかなりおバかさんなので、自分でアンカーを作っている。時々面倒くさいのでタグを手打ちしたりもしている。そんなんhtml知らん人は絶対無理だろう。ローカルのフォルダからドラッグとかさせるわけに行かないんだろうか、無理か。

とにかくブログ更新だと、今こうしているように、日々つけている日記を整形してアップロードするというハードルがやや高いのだが、Twitterなら仕事の合間でも、寝転がってでもちょろっと書き込めるな…と思い立った。

実は、アカウントはもうけっこう前に取っていた。オバマ大統領がツィッてるとか、先日は日本の若者に「Twitter依存症」が増えているというようなニュースも見た。
その一人暮らしの大学生は朝起きたら携帯から「起きたなう」(笑)と書き込み、数分後に歯を磨いたとか飯食ったとか家を出たとか電車に乗ったとか学校着いたとか、もうそれこそ分刻みで「つぶやいて」いる。
正直、これがもし本当の口に出しての「つぶやき」を一人でブツブツやっていたら、完全なガイキチだよなあ、と思った。
自分は強度の「記録魔」人間であると高校時代から自覚はあるのだけど、さすがに分刻みで自分の行動を世界に発信しようという、ある意味露出狂的な部分はない。

だが、俺のような独居病人が「生きている」ということを、気にしている人たちへ知らせる手立てにもなるわけだ。取ってあったアカウントは非公開にしてあったので、公開する。そのついでにいくつかつぶやいた。
といっても「〜してるなう」はとても恥ずかしくて使えないが(笑)。だいたい「超なになに」という言葉遣いが恥ずかしくて出来ない世代だ、仕方なかろう。

昼は薬を飲むためだけに、カップ麺を食べる。食べていると下のI内科医院の奥さんから電話があり、「いらっしゃいますか?」と言われるのでハイと答えると、わざわざ上まで野菜ジュースを持って来て下さった。
先日オートロックの鍵を忘れて大騒動を起こし、迷惑をおかけしたので、御礼にとやまだ紫Tシャツなどをお渡しした。それへのお返しで今度はジュースをいただいてしまうとは情けない。
今度お持ちしようと思っていた復刊「性悪猫」に、もう「贈 I内科クリニック様」と書き入れてあったのを一冊、お渡しする。何だか贈り物合戦のようになるので、本当にもうお返しはしないで下さい、とお互いに恐縮し合って、何だかおかしな光景であった。

twitterはここです。 白取千夏雄 shiratorichikao on Twitter
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2009-10-21(Wed)

「性悪猫」届く

10月21日(水)

夕べは11時ころ寝室へ上がり、1時前には寝られた。しかしユキがずっと足元にいたので、どうにも熟睡できず、朝は7時前に起きてしまう。朦朧としてソファに転がるが眠れず、結局そのまま洗顔ほか朝のことを済ませる。
そういえば昨日も動けずにいたので新聞も取ってなかったし、DVDも返していないままだから、次が来ない。送られてきた各種支払い票もある。幸い疱疹の痛みは内部の鈍痛が治まりつつあり、ほぼ足の付け根と表面の疱疹部にとどまってきたので、またベルトをせずにジーンズを履き、ワイシャツを着て出る。
まずポストにDVDを返却し、コンビニでお金をおろして支払いを済ませる。税金やらガス代。税金は待った無し、滞納すると金利までつけられる恐ろしいものだ、まあ義務なのだが。
それからサンドイッチ、昼のパンなどを買って戻るが、やはりまだ歩くのはゆっくりじゃないとしんどい。どうにも右半身がやはりおかしい。これはウィルスが神経を傷つけたためらしいので、仕方がないのだろう。だがもうそろそろ相手も息も絶え絶えという感じだから、あと数日で治るだろう。あとは後遺症=神経痛が残らなければいいのだが。何しろフと冷静に考えると自分はとんでもない重病人で、だいたいの人が病名を明かすと「ああ、お気の毒に」という顔をされるのだ。

その後サンドイッチをカフェオレで食べつつ朝のニュースワイドを見ていると、認知症の南田洋子がくも膜下出血で倒れたと、夫である長門裕之が報告の会見をしていた。
ああ、あの様子だと彼は全てをもう理解しているのだな、ということが解った。
「今呼吸をさせられているだけ」「一生分のキスをしました」「彼女がいなくなったらどうすればいいのか今は解らない」「ただ今は洋子の死を待つだけという時間」これらの言葉で、洋子さんがもはや脳死か、それに近い状況であることが推察される。
恐らくというか、当然もう彼は洋子さんの脳のCTを見て医師から説明を受けているだろう。それを見た上で、絞り出すようにああいう言葉を出していた。
マスコミはマイクを差し出しながら「奇跡が起こるといいですね」と悲痛な声を作って言うが、長門は「奇跡?」と一瞬反駁しかかり「…そうですね…」といくつか短い言葉を付け加えた。

半年前の自分と同じ心境だろう。
奇跡が望める状況と、そうじゃない状況がある。

脳内で出血が起こる、それは突然起こるから、以前に持病があった、何らかの兆候があり検査をして注意していたりしていても、起こってしまってから「対処を考える」しかない。
出血の部位を調べ、まず血を止め、血を取り除く、それも出来る限り脳の神経を傷つけず、かつ迅速に。
それでもその部分に何らかの機能障害が残る可能性は高いし、そもそも救命できるかどうかも保証はない。全ては神のみぞ知る、だ。
つまり、奥さんが倒れ、病院へ搬送した、緊急手術をした、結果医師は夫に状況を説明した、その上での会見なわけだから、「奇跡が起こるかどうか」の可能性は長門さん自身が一番よく解っているだろう。それでも善意(?)かどうか知らぬが「奇跡を」とマイクを差し出す人らに、「そんなものはもう起きません」と気色ばむわけにもいかない。
長門夫妻の場合、もちろん長く芸能界で「おしどり夫婦」として知られ…と言われるが、ある年代以上の人は良く知っているように、夫の長門裕之さんの艶福家ぶりと、それを洋子夫人が許すのか耐えるのか、とにかくそういう夫婦像の方が有名であった。

俺たち夫婦も三津子が元気だった頃、認知症になった洋子さんをマスコミに公開する夫の映像を見た。
巷間「ここまでするか」「ボケた妻まで売るのか」などという批判もあったと思う。

でもそれは違う、と俺は今思う。

長門さんは、今、進行形で愛する妻洋子が洋子でなくなっていく姿を、そしてそれに寄り添う自分の姿を、一分一秒でも長く残したかったのだろう、そしてそれを一人でも多くの人に見てもらいたかったのだろう。自分の若い頃の贖罪の意味もあろう。けれどそんなことだけで、献身的な介護は無理だ。
やはり自分も年を取り、長年連れ添った「愛妻」に、今こそほんとうの心からの愛を捧げているのだろう。それを公開し残しておくことで、これまでの妻への「不義理」を埋めようとしている。そうしなければ、しないうちに先に逝かれてからでは、残された自分は後悔と自責の念で生きて行けなくなってしまう。
俺の場合は連れ合いであった三津子に、ひどい不義理をしたことはほとんど無いと断言できるが、やっぱり「ああしてやったらよかった」「あの時こうしていれば」という後悔、反省、自責の気持ちに押し潰されそうになる。今でももちろん、毎日感じている。
仮に100%全身全霊でお互いを愛し愛された、その幸福感の中にあった夫婦だったとしても、であれば、なおさらその片方を失うことは自分の半身を引き裂かれるように辛いことだと思う。
愛する人がただ生かされて肉体がそこにある、というだけの状態。
その人が死ぬことを、待たねばならないという残酷な時間。辛いだろう。
(10/22追記・南田洋子さんが倒れられたのは17日だったそうだ。そして実は昨日、上の日記を記入した直後に亡くなられた。長門さんの舞台の直前だったそうで、それはきっと洋子さんからのメッセージであったろう。役者は舞台を続けろという。合掌)


その後はひたすら仕事。
今日の仕事は厄介なのに加え、もし自分が死んだ場合に備えて、代わりにやって貰える人向けに手順を逐一画像切り出し、説明文書き、ペースト…とやりながらなので、通常の10倍ほどの時間と手間がかかってしんどい。でもワイヤレスキーボードにしておいて良かった。

復刊「性悪猫」来る3時ころ、作業をしていると、荷物の配達だという。出て受け取ると、懐かしい日販(出版取次)の箱だ。小クリからで、すぐに「性悪猫」だと解った。開けると、著者分の十部が入っていた。
すぐに取り出して、三津子の写真に添えて線香をあげ、手を合わせた。

「三津子、とうとう本が出来たよ。嬉しいね…」

遺影も笑っているようだった。
仕事の作業を中断して、さっそく開いて見る。真っ先に、あの青林堂版に入っていた優しい口絵が飛び込んできた。それを見たらもう駄目だ、涙がとめどなく流れてくる。
自分がはじめてこの作品と出逢った時の、あの時の感動がまた蘇ってくる。いったい何度、人生の節目節目で泣かされてきたことだろう。そして今、彼女を失った自分が、新しい「喜び」の涙を流している。
京都は今日一日、朝から穏やかな秋晴れで青空がひろがっている。ベランダはずっと網戸にして開けてあるので、車の騒音やどこかの工事の音、叡電の踏切やかすかに聞こえるつたないピアノの音…。西に傾きつつある柔らかく暖かい陽射しがベランダを照らしている。猫たちが日溜まりに転がっている。
そして俺の手には、新しい「性悪猫」がある。彼女の遺した素晴らしい作品が再び、手の中にある。合掌。

その後は仕事の続きを終え、身内に送る算段。何せびっこをひきながら室内を歩くので、時々蹴つまづいたりしてしんどいが、仕方が無い。
二人の子どもたち、お姉さんにも送る送ったとメールでやりとり。
夜はお祝いに一杯やりたいが、このところスーパーまで買い物にも行けずにいるので、あるもので済ませる。三津子、申し訳ない。こんな時に帯状疱疹なんて。

陰膳テレビでは、プロ野球が両リーグ共にクライマックス・シリーズ2ndステージが始まった。BSで日ハム対楽天を見る。自分は北海道出身なので当然日ハム応援…ではない。野球というスポーツをやるのも見るのも好きだったので、いい試合、面白い試合が見たいだけだ。どう考えても楽天の戦いぶりに興味がある。
試合は楽天優位に進み、9回裏、3点差で満塁。スレッジが逆転満塁HRで日ハムが勝つという劇的な勝利だった。この試合は面白かった、野球というスポーツの醍醐味に溢れ、見応えもあった。
巨人対中日は、ゴンザレスが早々に5点を失い、結局それを引きずる形で巨人が負けてアドバンテージを失い、1−1のタイとなったのを楽天の試合の合間にチラチラ見る。

10時、三津子の遺影の前に積んだ「性悪猫」を再び手に取る。立ったまま、やはり一作一作、一語一語噛みしめるように読んでしまう。
もう30年近く前だ。若い頃、同じように書店で手に取った青林堂版で、不覚にも書店で涙が出てしまった時のように、やはり泣けてしまうな…。
でもこの作家を知ることが出来て良かった。この作品に出会えたことを喜びたい。そして、その人と愛し合えたということに、ほんとうに、心から感謝したい。
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2009-10-16(Fri)

帯状疱疹

10月16日(金)

このところ調子が悪いなあ、と思っていたが、夕べは1時に寝て、朝方尿意で目が醒めてデジタル時計を見たら4:44。用を足して戻るが、どうにも右側の脇腹から腰のあたりが痛い。脾臓がうずいたり張ったりするのは解るが、これは何だ、押されて膵臓や腎臓あたりに痛みでも出ているのか。
ベッドに戻ってからもいろいろ悪い方向へ考えると目が冴えてくる。それでも傍らにはまた戻ってきたシマがすやすや寝ており、足元の椅子にはひとしきり暴れた後、大人しくユキが丸くなった。そのうち薄く寝られて、変な夢を見たりしたが何とか9時過ぎまで寝られる。

ところが起きてみると、右の脇腹から腰、足の付け根のあたりまでピリピリと痛い。内部からの鈍痛と感じていた痛みに加え、表面にも痛みが出ている。パンツをグイと下げると、そのこすれた程度の接触でも「ひ!」と声が出るほど痛みを感じる。
見てみると、1〜1.5mm程度の赤い斑点が背中側から右の脇腹にかけて2〜3cmの間にバラバラと出来ていて、足の付け根近くにも集団がある。

あ、帯状疱疹だ…。

すぐ解った。三津子が以前、肝臓の数値が悪く医師に「免疫力が落ちている」と言われた後、あれやこれやと働いて無理をしたときに、これが出来た。とても痛がっていたし、見てやると今の自分の疱疹と同じものが確か腰のあたりに出来ていたのを覚えている。
この病気は子どもの頃にかかった水疱瘡(みずぼうそう)のウイルスが、何らかの原因で再活性化することで起きると言われている。俺も水疱瘡ならもちろん子どもの頃にかかったし、治った=抗体が出来た。ただこのウイルスは体が作った抗体によって大人しく抑え込まれただけで、年月が経ち、再び牙をむくのだという。
このウイルスは神経節の奥でじっとしているが、主に老人など体力や免疫力が低下した人や、若い人でも「何らかの原因」つまり過労、疾患による免疫力低下、ストレスなど、あるいはそれらが複合して体の抵抗力が弱まったところで神経をつたって悪さをする。
近年、美智子皇后がこれを発症したのは記憶に新しい。
俺の場合はもちろん基礎疾患=白血病を持ち免疫力は風前の灯火状態だ。その上ここ数日ちょっと仕事で気が付いたらモニタの前に同じ姿勢で8時間、ということもあった。
さらにストレスということでいえば、人生最大のストレスつまり愛する連れあいを失ってまだ半年も経っていない。毎日、彼女を失ったという辛い現実を乗り越える努力を血の滲む思いで続けている。
なるほどウイルスの野郎も、暴れ出す環境充分というわけだったか。

朝のシャワーの時に患部を誤ってサッと触っただけで激痛。というかシャワーの湯があたるだけでも痛い。とにかく帯状疱疹だと自己診断ながら解ってしまえば、あとはとっとと退治するしかない。
髪を乾かし、着替えて11時過ぎに下のI内科へ行く。季節性のインフルエンザワクチンを打ちに来る人が多いらしく、俺の前にはおばちゃんが一人、ワクチン接種用の問診票に記入していた。後から若い男性も一人入って来て、「あのう、インフルエンザのワクチンは打って貰えるんでしょうか」と聞き、やはり問診票を渡されている。
俺は看護婦さんに「白取さんはいつもの続きですか?」と聞かれたので「いえ、帯状疱疹みたいで・・・」と言うと、いったん処置室で身長体重血圧を測ったうえ、疱疹も見てもらう。
それから待合室へ戻るとすぐ呼ばれて、I先生にこないだ京大病院で出た採血の結果をお見せすると、先生は
「ああ、好中球数も・・・もうギリギリですねえ」と深刻な表情。
確かこないだの結果ではWBCはたった1400で、好中球数は600台だ。500を切るようだと普通は何らかの「対処」が必要になると言われている。日常生活をするには本当にギリギリの数値。ウイルスも暴れだそうというものだ。

先生は患部を見て「ああ、出てますねえ・・・とにかく薬を出しますから、飲んでください」とのこと。経口薬で「バルトレックス」という薬剤があるのだが、「これけっこう高い薬なんですよー」と済まなそうにおっしゃるので、思わず「あの・・・いくらぐらいでしょうか?」と聞くと、点数で表示されているので「ええと、一回2錠が3回で一日分やから、一週間やと…2万ちょいですか」とのこと。
それを聞いて思わず「ひえぇ?」と目を丸くして看護婦さんと顔を見合わせたが、先生は「高いんですよ、でその3割ですから7千いくら、にはなりますね」とのこと。
あ、そうか3割負担だった…と自分で苦笑。
先生は「あとね、もし疱疹が破れたりするようだったら塗り薬も出しますから、そういう場合はすぐ電話ください。今けっこう熱のある患者さんも来られたりしてる場合もありますから、何時くらい、というのお伝えできますし、全然気にしなくていいですから」とのこと。
要するに俺の場合は免疫力が低い患者なので、感染リスクの高い待合室で待つより「自宅を待合室に」ということ。いろいろと細かい配慮をしていただいて、本当にありがたいです。というか、自分ちの下に内科医院があるということがこれほど心強いかと思うと、つくづくここで暮らしていて良かったと思う。
処方箋をいただき、御礼を言って診察室を出て、すぐに会計をしてもらう。何だか歩くのもちょっとしんどい、腰から下の右半身全体が鈍く痛い。そしてズボンのベルトがあたる部分に疱疹があるので、そこは鋭く痛い。

会計を終え、軽く右足をひきずるようなかたちで会計を終え、すぐマンションの隣にある調剤薬局へ。処方箋を出して「あの、この薬剤けっこう高いんですよね」と聞くと薬剤師の人が「あ、そうですねえ」と言うので「ちょっとお金おろしてきていいですか」と聞くと笑いながら「どうぞどうぞ」と言われる。
すぐ道路を渡ってコンビニでお金をおろし、ついでに朝用のジューシーハムサンドとコーヒー牛乳も買って戻る。ちょっと待つとすぐ薬の用意が出来ていて、支払い。一週間分で7460円! すごいぞバルトレックス。でも頑張ってウイルス野郎をバスターしてくれ!

薬を受け取ってそのまま部屋へ戻り、マスクを外してうがいをし、手を消毒してからサンドイッチを食べる。そしてすぐ薬を2錠飲んだ。
薬局の薬剤師さんは俺に薬を渡す際、「ヘルペスですか」と言われたので、腰を押さえつつ「はあ…」と言うと「なるべく動かないで、薬を飲んでゆっくり休んで下さいね」と言われた。
なので薬を飲んだあとはソファに転がって、新聞、買って来た週刊誌を読む。
というわけでこんな感じですいません。
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2009-10-15(Thu)

調子悪し

10月15日(木)

どうもこの所調子が悪い。
といっても何がどうしたとはっきりしているわけではなく、巨大化した脾臓が疼くのはいつも通り、あと右の足の付け根から脇腹にかけて鈍痛があって、チリチリと痛い。また右足の太ももの上側が腫れたように感じて、触るとちょっとだけ痛いような…というはっきりとしないもの。

自分の場合、元の病気が病気だし、ここ数日こんな調子なので、昨日は遺言状ではないが「自分がもし急死した場合」の指示その他を午後ずっと書面にしていた。まだまだしておかねばならないことは山積しているので、死ぬわけにはいかないのだけど、万が一その前に死んでしまった場合は、色々あとに残った人に迷惑をかけることになる。
「しょせん人間死ぬ時は一人」「死んだらおしまい」「死んだあとのことを気にして生きてられるか」と言う人も多いが、そんなものではないのだよ。
死んだ人の「あとのこと」を、たくさんの人が大変な手間をかけて行ってくれるのに、そんな傲慢なことを言ってはいけない。自分が死ねば身内にせよ他人にせよ、誰かしら複数の人に、必ず手数をかける。これだけは間違いないことだ。
自分の場合は京都という親戚や身内のいないところに居るので、もし突然ブッ倒れた場合、まずは京都でお世話になった知り合い=つまり「他人」に迷惑をかけてしまう。それを最小限にとどめるため、身内の連絡先や、これはこうして、ああして、ということを整理して書き残しておくのだ。
さらに、夫婦二人だったからこそ必要だったもの、例えばたくさんのDVDや本などは、いずれ処分せねばならない。やまだ紫の原稿と彼女の著作、そして彼女が大切にしていた遺品以外、俺のものなんか何にも価値のないものだ。俺の死後、そんなもの残されたところで結局は保管に困り処分するのだから、その手間は俺が生きているうちにやれるならそれに越したことはない。
彼女の画稿など貴重なものは、次女のゆうちゃんが守ると言ってくれた。その時になるべく他の手間を省いてあげるようにしておきたい。

夕べは気が付いたらやっぱり缶ビールを数本飲んでしまう。どうも一人だとつまらないので、ただグビグビと飲んでしまう。寝たのは1時前、今朝は朝方4時に目が醒め、それからはほとんど寝られずに結局7時前に起きてしまう。
寝られないのは本当にしんどい。薬は同じものを同じ量、同じタイミングで飲んでいるのだが、タイミングとか色々あるのだろう、不思議だ。
フラフラと下に降りてまだもうちょっと寝たいな…と思いソファに横になるが、なぜかしきりにユキがにゃあにゃあとつきまとう。気が付いてご飯と水を換え、結局そのまま勢いで洗顔や花の水換え、お茶とお水と線香など朝のことを一通り済ませてた。シャワーも浴びようとしたが調子が悪く、そこまでの勢いは出ず。
かといってそのまま寝られるわけもなく、ぐだぐだと午前中を過ごす。食欲もない。そういえばここのところ買い物もしてなかったので、これはいかんと思いつつ着替えて昼前に自転車でスーパーへ。

先に昨日届いていた小学館クリエイティブさんからの出版契約書をポストに投函し、それからスーパーへ。昼近くなるとぐんぐん気温も上がってきて、陽射しも強い。日陰に入ると涼しいのだが、日があたると暑い。
スーパーはやけに混んでいた。
今日明日の総菜、レトルトのご飯のおかず的なものなどのほか、三津子の花も買う。それからすぐに戻ってくるとポストに三津子宛の東京都からの封筒。固定資産税の納付書だ。あんなマンションでも税金取られるのだ。溜息が出る。
それにしてもどうにも、調子があがらない。
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2009-10-12(Mon)

HDD様死亡

10月12日(月)

夕べはビールを飲んで寝たのは1時前。今朝は何度も目を醒ましつつ起きられず、ぐだぐだと9時ころまでベッドにいた。外はスカッと青空の秋晴れだというのに。
俺の隣、つまり三津子のベッドの上にある畳んだボア毛布はずっとユキの寝床だった。ここ数日なぜかシマがそこで寝ている。ユキはというと、ベランダの窓に向けて置いてある折り畳み式のリクライニングチェアの上に寝ている。ただ時々そこからひょこっと顔を出してこちらが居るかどうか確認して、また丸くなっている。あそこからだと外がよく見えるので、気持ちいいらしい。

朝はそんなわけで9時ころ起きて、もろもろ済ませて一息、すぐに仕事。
起きてすぐ何も食べずに仕事とは全く良く無いことなのだが、まだ食欲がない。お昼前にちょっと一段落したので、買ってあったオムドリアをチンして食べた。2日も冷蔵庫に入れておいたので、中央部のチキンライス部分の飯粒がカチカチに固くなっていたので残す。
それから引き続き仕事。

病人なので、意識的にブレイクを入れるようにしている。その都度ベランダで植物に水をやったり、猫をかまったり、本を読んだり、軽くテレビを見たり、iTUNESで音楽を聴いたり…という感じ。
…だったのだが、先日LANでネットワーク接続していたHDDがお亡くなりになった。
もう一年ほど前から「ブウウウウウ」と変な音を立てるようになり、最近は余りのうるささに、未使用時は電源をこまめに切るようになった。ちなみに350GBくらいのもので、リッピングした夫婦お気に入りの映画のデータも入っている。さらに、300枚ほど持っているCDをMP3にした音楽データもぎっしり入っていた。
仕事でノートパソコンに向かうが、一休みの時はそのモニタをクローンでリビングの大画面テレビに移し、iTunesの音楽はテレビモニタに接続してあるアンプとスピーカに出力、という状態で楽しんでいたのだ。

HDDが嫌な音を出すようになってから1年以上経っていたということは、もう経験上「老衰」であろう。しかしあれだけのデータをLAN経由(しかも100BASE-T)で新たなHDDに移転するというきっかけがなかなかなく、そのうち夫婦で音楽や映画を楽しむ相手が居なくなってしまった。
音楽なんかもう聴かない、と思った。
けれども彼女を失って、こうして何ヶ月か経つと、つまりたった一人の日常が過ぎて行くと、逆に音楽や何かしらの音声がないと無性に寂しい時がある。どうでもいいような、若い頃に聴いたハードロックから、二人の思い出のカーペンターズまで、とにかく全データが入っていた。なので最近はLAN接続のHDDをよく使うようになっていた。
…のだが。
先日、あまりに「ブーン」という音がうるさいので、小箱に入れて緩衝材で囲んでみたが、全く消音化されるどころか逆に小箱が増幅の役目を果たして音が巨大化される、まるで「東京トホホ会」状態。いったんLANと電源コードを外し、せめて音が遠ざかるように別な部屋の隅へ…と思って移動して配線を繋ぎ直した。
すると「ぶーん…」と言って10秒くらいしたら「カッチン、カッチン」。シーンとしたらまた「ぶーん…」〜「カッチン、カッチン」。これを延々と繰り返す。なぜだか「ダッダーン。ボヨヨンボヨヨン」というCMを思い出して、一人で吹いた。(若い人は知らないか)
結局その間抜けな状態から回復することはなく、そのままHDDはデータごと絶命した。
音楽データはポータブルの2.5inch外付けHDDに去年くらいまでのものがかろうじてバックアップしてあった。なので音楽が聴けないことはないのだが、問題はiTunes様。

アルバムジャケ(アートワークってやつ)からmp3タグをコツコツ登録したのに、今は全部「曲の場所がわからん」「どこかにあるなら指定し直せ」と言われて「!」マークがつけられている。一括でHDDからゴヒュっと全フォルダを登録すると、先のHDDで消滅した曲=場所の不明な曲に上書きされるのではなく、新たに同じ曲で場所が解るものが「追加」されるだけになる。
要するに、全く同じアーティストの同じアルバムの同じ曲が、2種類になるということになる。そして一つは場所が不明で再生できないというもの。いったん全部取り去って、そこへ新たなバックアップをもう一度認識させてみると、アートワークが書き込まれていなかったり、発表順に並べようとちまちま入力した発表年タグまで消えている。要するにもう一度全ての曲に、とっても面倒臭い作業をしなければならなくなるのだ。
とてもそんなことやってられないので、そのまま放置。
iTunes様はこの方式、どうにかならないのか。なるのか、機能を知らないだけなのか。HELPファイルなんか見たことはないが、開いてみてもそれらしい記述はない。これほどバカだとは思わなかったが、iTunesのようにギャップレスアルバムを全体だけじゃなく部分的にもきちんと登録出来たり、音量を全体で統一させられたり、機能的に優れているものは少ない。しかしまた「あの作業」=アルバムのジャケ画像を探してきて貼り付けたり、発表年を検索してタグに書き込んだり、プレイリストもやり直したり…をコツコツやるのかと思うと脱力。

その後仕事をして夕方、最近ハマってる煮物を作ろうかと思い片手鍋を洗っていると東京の身内から電話。
「白取さんもさあ、あんまりミッコのことばっかり考えてちゃダメよ」と「励まし」をいただいたが、そんなこと言われても無理です。

それから大根半分を切って面取りし、椎茸や大きめの「ひろうす」を用意。(ひろうす、というのは関西に来て知ったが、平べったいがんもどきのようなもの)ひろうすは熱湯で油を少し落とす。あと冷凍の豚バラ肉があったので解凍して、だし汁に浸すように底に敷き詰め、その上に大根を並べるように置く。別に大根葉を塩ゆでしておいたのを太いものは刻み、中くらいのものはおひたし大にして別に取っておく。
ひろうすを一番上に置いて落とし蓋をし、20〜30分くらい何度か上下を入れ換えつつ煮込み、仕上げのところで大根葉を散らして混ぜる。ちょい前に作ったのより薄味だが、まあまあおいしく仕上がった。椎茸や豚肉からもうま味が出ている。
三津子にももちろん陰膳にして、夕方はそれで一杯。
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2009-10-10(Sat)

ちっちゃいおばあちゃん

10月10日(土)

今日は曾祖母の命日。
夕べは1時前に寝て、朝方何度か目が醒めて、9時ころまで起きられなかった。朝のことを済ませた後、郵便局でエクスパックを買う用事もあったので、着替えて自転車でスーパーへ行く。ちゃんとマスクも忘れず装着。
帽子、メガネ、マスクなので外見上変質者度が高まっているが、秋晴れの朝10時、郵便局の隣は交番。警官がチラっとこちらを見たような気がしたが、気にせず自転車を停めて郵便局でエクスパックを買って出る。
スーパーでは例によって今日明日のものと、三津子とおばあちゃんに甘いもの、そして花を買って戻る。

ばあちゃんは「ぼたもち」が好きだったから、ばあちゃんにはあんこのお萩、三津子にはきな粉のものを一つずつ買った。三津子はきな粉が好きだったから、ちょうど二色のお萩があったので良かった。

ひいばあちゃん=つまり俺の曾祖母は、物心ついた時から小学生の頃まで母親同然に可愛がってもらい、ほんとうに良く面倒を見てもらった。
母親が幸福な結婚からわずか数年で父を病気で亡くした後、赤ん坊の俺と幼稚園の兄の面倒を、ひいばあちゃんが一手に引き受けてくれた。
その当時俺には同じ函館市内の少しだけ離れたところに祖父=母の父一家が居たが、後妻をもらい、母にとって異母妹になる俺の叔母さん夫婦の一家と同居していた。もっともそういう事情は後年、大人になって聞いたことで、母にとってはそこはもはや「実家」でも何でもなく、居心地の悪い場所だったらしい。
俺はそんなことは知らなかったので、祖父にずっと書道を習いに行っていた。その後妻は「大きいおばあちゃん」で、我が家にいた曾祖母は「ちっちゃいおばあちゃん」と言い分けていた。

「ちっちゃいおばあちゃん」は、明治生まれで和服が好きな、小柄なおばあちゃんだった。俺が小学校から帰ってくるとすぐバケツに水を汲んできて、足を洗ってくれた。常に足を綺麗にしておくということは健康の基本、ということらしかったが、俺はもちろん小さかったので、何の疑問もなく従っていた。
福井の出身で、越前や若狭のタレントや歌手をひいきにしていた。料理がとびきりうまい、優しいおばあちゃんだった。

おばあちゃんは俺が小学校4年か5年、数えで米寿のお祝いをした後、癌だということが判った。当時俺たち兄弟には本当の病気は聞かされなかったと思う。母によると、おばあちゃんは我が家でしゃんとして変わらずに暮らしていたが、祖父と後妻=大きいばあちゃんたちが本人に「癌だ」ということを教えてしまったという。
ちっちゃいばあちゃんはそれがショックで、寝たきりになってしまった。そうなると母親は仕事があるので介護が出来ない。責任を感じたのかそうではないのか、最後は祖父の家へ引き取られて、そこで亡くなった。
ひ孫である俺の中学校の制服姿が見たいと言って楽しみにしていたのに、見ることなく逝った。大人になってから、母親から「あれは無神経すぎる、祖父と後妻が命を縮めたようなものだ」と聞いた。激しい怒りと、自分が子どもだったことで何も出来なかった無念さとで、ばあちゃんに済まないと思った。

そんなこともあって、成人してから俺は祖父の家族とは疎遠になった。一度だけ、「ガロ」に入って働くようになって、祖父の葬儀に出向いたきり、もう二十年以上交流はないままだ。その後妻だった「大きいばあちゃん」も、しばらく前に亡くなった。もう遺恨も何も無い。

先日お袋が上洛した時に、ちょっとおばあちゃんの話になった。「あんたは本当に可愛がられた」と言っていた。自分もそう思っている。多少の悪さをしても、きつく叱られたことはなかった。ただ躾に関してはビシッと、それこそ泣かされるほど叩き込まれた。食前の挨拶、箸の持ち方、食べ物への感謝、目上の人への礼儀…、「明治の女」の躾は厳しかった。
でも、今はそのことに感謝している、もちろん。

当たり前のことだけども、人はその人生、必ず誰かのお世話にならないと生きていけない。その人が自分の身内で、愛してくれたという幸福に感謝しなければいけない。
ひいばあちゃんに守られ、母親に助けてもらい、三津子にずっと愛されてきた。俺は常に誰かに守られ、愛して貰えたのだから、こんなに幸せな人生はないではないか。
誰かに必要とされている、愛されている。
この「実感」が不幸にしてない人たちが、自殺をしたり、捨て鉢になって他人を傷つけたりする。自分もこの先何年持つか、という状態になり、病気を得て愛する連れあいを失った今さらながら、それでも、こうして生かされてきた幸福に感謝しなければならないと思う。

季節のうつろい、高価ではなくともささやかな旬の食べ物。懸命に咲く草花、道ばたの苔。一緒に人生の幸福を語り合う連れ合いが居ないことは死ぬほどに辛いことだが、今俺がこうしていることにも何かしら意味があるのだろう。
意味のない生など、ないのだから。
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2009-10-07(Wed)

インフルエンザワクチン接種

10月7日(水)

夕べは腹が張って苦しく、11時には寝室で横になってニュースを見ていたが、12時前には消して寝た。
しかしまたもユキがずっとベッドの脇から上がって来ず、こちらが寝た後も夜中に何度も鳴いて起こす。
寝る前にエサはたっぷり入れてやったし水も換えた、トイレのウンコまで取って寝たのに…。お陰で眠りを寸断され、さんざん。
朝はそのまま朦朧として8時半ころ目を醒まし、そのまま寝室のベランダに出て、そこらを片付ける。今日は一面薄いグレーの雲が垂れ込めており、まだ風はないが気温がけっこう低い。
今晩から小型ながら強い台風が近畿地方を直撃しそうなので、2階に散らばっているホースをまとめ、三津子とベランダを整備するために買っておいたレンガを積んで、大きな鉢植えを囲む。それからやはり猫を出すために張ろうと買っておいたネットも、結局まとめて捨てることにした。二人でコーナン(ホームセンター)へ行って、寝室の北側にある広いベランダの手すりにネットを吊って囲み、レンガで重しをして、猫を出してやろうと張り切っていた。でももういいや…。
最後に自分のと、三津子のサンダルも飛ばされないように中に入れる。彼女がいつも履いていた、かかとのちょっと高いサンダルと、自分が部屋で履いていたのをおろした、外用のゴムサンダルとを並べて、部屋の窓際に置いた。
下へ降りて朝のことを済ませ一息つくと9時を過ぎていたので、着替えてマスクをし、下へ降りる。
昨日I先生の奥さんが届けてくれた問診票は記入済みなので、体温だけ測って記入してから出た。平熱だった。

受付で診察券と、これも昨日用意しておいたユキちゃんのポストカードを30枚ほど封筒に入れたものを、奥さんへと受付の女性に渡す。すぐ奥から受け取った奥さんが出て来て、申し訳なさそうに「こんな、あつかましいことで申し訳ありません」と恐縮されるが、やまだ紫の絵がたくさんの人の手に渡り、多くの人の目に触れる方が、こちらもとしても嬉しい。
問診票のサイン欄を落としていたのでそこだけ記入するよう言われて、すぐに処置室の方へ呼ばれた。看護婦さんがもう注射の用意をしていてくれて、「どっちにします?」と聞かれたので何となく右腕ににしてもらう。
診察室からI先生が来て「ポストカードどうもありがとうございます」と言われて、右腕をアルコール消毒してもらいつつちょっとだけお話をする。
I先生のお兄さんが最近亡くなられたそうで、生きておられれば今年61、つまり三津子と同い年だったそうだ。そのお兄さんがやまだ紫のファンで、その奥さん、つまり先生のお姉さんもやまだの作品を知り、ファンになって下さったという。不思議なご縁だし、そういうことも偶然ではないのだろう。彼女の作品は若い頃一度読んだらおしまい、忘れられる…というようなものではない。一度触れて好きになった人は、きっと一生大切に思うはずだと思う。

先生とそんな話をしている間に、看護婦さんが「はいちょっと痛いですよ」と言って右の二の腕に皮下注射。静脈注射は慣れているが、皮下注射は痛そうだな、と思っていたがほとんど痛みはなく、注射されつつ先生と話していた。
先生は次の患者さんがいるので診察室へ戻られ、看護婦さんに諸注意を受ける。けっこう風邪っぽい患者さんも来ているので、念のために会計もここで済ませます、ということ。看護婦さんは「本当は30分くらいこちらで安静にしていただくんですけど…」、つまりもっとも感染リスクの高いのは病院であり、俺の場合上の部屋へ帰る方がいいわけだ。
昨日の問診票先渡しも、接種後休むのも会計まで、色々配慮いただいて申し訳ないです。
看護婦さんに「お風呂は構いませんけど、激しい運動とかはしないで下さいね」と言われたが、元より激しい運動は出来ないので大丈夫。「すぐ上に戻りますし、部屋にはウエルパス(速乾性消毒液)もあるので大丈夫です」と言うと「万全ですね、でもうがいだけはちゃんとして下さいよ」と念をおされた。
その場で料金を支払って、会計に挨拶だけして出る。出てすぐ3秒でマンションの入口。ポストから新聞とDMMのレンタルDVDが届いていたので取り出して部屋へ戻る。

それにしても季節性インフルエンザの予防接種は、幼少時は記憶がないし、物心ついてからも覚えがない。BCGとかいろいろあったはずだが記憶がない。ところで中年以上の人なら山口百恵が引退コンサートの時、左の二の腕にくっきり2箇所盛り上がるように予防接種の痕跡があったのを覚えておられる人もいるだろう。
自分の場合はアトピーもないし食品にも何にもアレルギーはない。都会で育たなかったからだろうか、そう言う都会の良く言えば敏感な、悪く言えばひ弱な環境にいなかったのが良かったのかも知れないな、と思いつつ左の二の腕をよくよく見ると、かすかに点が並んだ正方形の痕が2つあった。
インフルエンザワクチンを接種された後は、何らかのアレルギーがあればそれなりの反応なり副作用が出る人も希にあるそうだが、今接種されて30以上経ったが異常なし。
戻ってすぐ昨日買っておいたサンドイッチを朝食に食べて、仕事。気が付いたら1時を過ぎていて、昼はおにぎり1つだけにする。
それからもずっと仕事、気が付いたら夕方になっていたので、しばらく更新していなかったブログの記事をアップする。5時半になるともう外は暗くなってきた。台風が接近しているので、これから1階のベランダの植木をしまわねば。
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2009-10-06(Tue)

10週おきの診察日

10月6日(火)

夕べはなかなか寝付けなくて往生した。
ユキがいつものように下でひとしきり鳴いた後、すぐ上へ上がってきたのはいいが、なぜかずっと俺のベッドの左下にうずくまって、階段の方を見ている。なでてやると「ニャー」と鳴いてすりすりくねくね喜ぶが、ベッドの上へ誘導しても上がってきて喉を鳴らして甘えてはまたベッドの下へ降りて、じっと階段を見ている。
昨日は月命日だったので「ママが、帰ってきたのかい?」と聞くが、もちろん何も答えない。外でピチピチ音がするのでサッシを開けてみたら、雨がしとしと降っていた。ユキがベッドに上がってこないのでそのまま寝ようとするがなかなか寝られず、1時間以上経ってようやくウトウトしたが、次に目が醒めたらまだ3時。2時間しか経っていなかっった。
それから寝ようとするが、今度はユキがベッドの上へ上がり、しきりににゃあにゃあと鳴いて起こす。隣のベッドを見ても、もちろん三津子が居るはずもない。何をそんなに知らせようとしているのか、全然判らない。「ごめんな、俺なんにも見えないんだよ…」と言いつつ、そんなこんなでその後も薄くうとうとすることしか出来ず、結局6時頃から7時までのみ、寝られた。起きたのは8時前。

今日は京大病院血液腫瘍内科の診察日なので、予約時間の10時10分より1時間前には採血を済ませておかねばならない。ということは9時前に病院へ着いていないといけない。
朝のことを済ませ、病院でトイレに入るのはあまり好きではないので、家で一度大を出しておこうと缶コーヒーを薬(ザイロリック)と一緒に一気飲み。しばらくテレビを見ていると、果たせるかな下痢に襲われる。変な話だが、これで安心なのだ、自分の場合。
支度をしていると何やかやで9時近くになってしまい、慌てて出る。すぐにタクシーを拾い、病院へ。採血受付には5〜6人の列があったがサクサく進行。受付をするとA206。番号表示は190番台で、数字もサクサク進行。ここの病院は採血台だけで10ある(Aが5、Bが5)ので、進行が速い。
採血を終えてからはそのまま、いつもの吹き抜けの受付ホールを見下ろす椅子に座って待つだけ。ずっと携帯のマイクロSDカードに入れっぱなしだった音楽を聴いていた。
順調に呼び出し端末はバイブと音で「病院内」から「外待合」から「中待合で待て」に表示が変わり、予約時間の10分前には診察室前に座ってイヤホンを外して待つ。しかしここから20分以上待たされて、診察室へ。

I先生は「どうですか、お変わりありませんか」と聞かれるので、「ええ、全く変化なく…」と話すと「そうですか、今日は(末梢血の)リンパの方の内訳が出るのがちょっと遅くなったんですが、血液の状態も変わりありませんね」とのこと。
その後ベッドに仰向けになり、脾臓を触診し測ってもらうが、I先生ちょっと首を傾げて
「ん、ちょっと…大きくなったのかな」とのこと。内心ショックを受けるが、先生は「それでもまあ血液の状態は変化がないので、今まで通り様子を見ましょうか」と言われるので、心底ホッと一安心。
もし次回も同じような所見であれば、またCTを撮ってみましょう、ということ。
それから昨日うちの下にあるI先生に言われたように、「あの、インフルエンザなんですが、ワクチンは打った方がいいでしょうか」と直球で訪ねると、先生はこちらへ向き直り
「はい。打った方がいいと思います」とはっきり言われる。
「うちのマンションの下にいらっしゃる内科の先生が、こちらの病気もご存知なんですが聞いて来た方がいいとおっしゃったもので」と言うと、「そうですか、下に先生がおられるのは安心ですね」と言われた上で「こういう大学病院では基本的に外来では、予防のためにワクチンを接種するようなことは出来ないので、ぜひ打たれた方がいいでしょう」とのこと。
自分の場合はワクチンを打ったらどうなるのかと、心配するほど免疫抑制が出ているわけでもないし、薬剤も特に免疫力を下げるものは使っていない。ただ白血病という重大な疾患を持っていることと、やはり血液の状態が良くないので、もし悪化した場合に重症化しやすいという「高リスクの患者」である。血液内科の先生が「打った方がいい」ということであれば、あとは善は急げなので、すぐ連絡しようと思った。
あとは、また10週後ということで、次は12月。いつものように薬を処方していただき、御礼を言って診察室を出る。
会計の行列はそれこそ「長蛇の列」で、ここ数回では一番長かったが、ここの会計受付も係が10人近くおり、列自体はサクサクと前へ進む。大病院では「待つ」ということが患者の最大のストレスであるが、京大病院に限って言えば、新患以外の予約患者の場合はかなり改善されていると思う。会計の受付をして、あとは10数分待つと端末が震えて値段を表示してくれる。今日は銀行のデビットカードで支払って領収書と次回予約票が吐き出されて終わり、楽チンだ。

それから病院下のローソンで買い忘れていた卵、週刊誌と夜のしめじご飯を買い、病院エントランスホールにあるドトールでレタスドッグをテイクアウトして、タクシーでまっすぐ帰宅。
着替えてすぐうがいをし、手を消毒して、それからレタスドッグを食べる。食べ終えてから下のI先生に電話して、「今日ワクチンを打った方がいいと言われました」とお伝えして予約はどうすればいいかお聞きすると「今この電話でいいですよ」と言われる。結局「季節性のワクチンはもうありますので、明日にしましょうか」ということになった。新型ワクチンが11月になるが、季節性のものはすぐに打てるということ。やはり自分は重病人である。

その後しばらくして、I先生の奥さんが問診票をわざわざ届けに来てくれた。自分の場合待合室で長く居る=問診票を書く時間が長いと感染リスクもあるというご配慮で、申し訳ないことです。その際、I先生のお身内でやまだ紫のファンがおられ、色々とご縁も重なる部分があるということを少しだけお話をされた。
京都に来たということはやはり、色々とお導きであったということだと改めて思う。

それにしても今日も一日、腹が張る。気圧が下がっているのか。
夜9時。夕方から三津子の陰膳と一杯やっていたら、ビール2杯で腹がきつく、ふうふう言う感じ。あと目眩がすごいので、以前処方していただいた目眩止めの薬を飲む。かなり大きい台風が近付いているが、まだそのせいで気圧が降下するほど近くもないだろうに、辛い。そして怖い。
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2009-10-05(Mon)

5度目の月命日

10月5日(月)

今日は三津子の月命日なので、昨日から部屋の中を掃除して花を買ってこようという予定を立てていた。
朝は体がだるく、9時頃まで寝室から出られなかったが、その後起きてからは気合いを入れてタオルを鉢巻きよろしく巻いて、掃除機をかけてからさらに床を拭き掃除&ワックスがけ。シャワーを浴びてメールチェックしてから仕事。(この間にある人と逢ったのだけど、書かないで下さいね、と言われたので割愛します)

1時ころ、自転車でイズミヤへ買い物に行き、床の拭き掃除&ワックス掛けスプレーの詰め替え、台所の食洗機用洗剤の詰め替えなどを買う。あと毎朝三津子に線香をあげているので、線香も買い足した。それから食品売り場で今日の夕飯に寿司と刺身、明日の総菜など。月命日は寿司なのだ、いや今日決めた。さらに花も赤と黄色のバラ、小菊三色の束とすかし百合を買った。それらを提げてエッチラと歩いて帰るが、マンションもだいぶ近付いてから「自転車!」と気付いた。しかしそこから荷物下げてまた引き返す気力、なし。
自転車に「一晩、ごめんな…」と思いつつマンションの郵便ポストを覗く。昨日取り忘れたので2日分の朝刊、ハガキやチラシ類が溜まっていた。それらを持って家に入ると、部屋の中がムッと暑かったのでビックリ。もうすっかり秋で、外は涼しいんだなあ。
いただいた鉢着替えて買って来た花を活けかえ、お昼にある人からいただいた花の包みを開けると、花の鉢植えが3つ。三津子に「綺麗だね、ほら」と見せてから、外のプランタの一番上に並べて水をやる。苔玉にもたっぷり水を含ませてまたぶら下げる。

その後ネットを少し見てから仕事をするが、外は曇り空で明日雨になりそうだ。
自転車が可哀想だな、と思った。
やはり取って来よう、そして帰りがけ、下のI先生にベンザリンが切れたので処方していただこう、そうだそうだそうしようと思って診察券を見たら夕方は5時からだったので、とりあえず洗濯機の中の洗濯物を出して畳んだりテレビをつけるが何もないのでネットを見て1時間半ほど時間を潰す。
それから頃合いを見て歩いてスーパーまで行くと、自転車はちゃんと係の人がキッチリ詰めて並べておいてくれ、もちろんちゃんとあった。「ごめん」と思ってサドルをポンと叩いてから鍵をあけて乗って帰ってきた。マンションの自転車置き場に自転車を置いてI内科へ入るとちょうど5時だった。

すでに中年男性と若い女性の2人が待っていたが、マスクを忘れたことに気付く。
しまった、自転車取りに行くことに気を取られて気軽に出てしまった。患者2名、受付嬢2名全員がマスクをしている。俺が受付に診察券と保険証を出し、どうしよう、上から取って来ようかと思ってしばらくソファに座っていると、小学生くらいの男の子も入って来た。その子はマスクはしていなかった。
奥から出て来た看護婦さんが俺の顔を見ると、近寄ってきて「白取さん、マスクした方がいいですよ」と言ってマスクを取ってくれた。「すいません、つい忘れちゃって」というと「気をつけて下さいね。」と真剣な顔で言われる。
俺は極めて免疫力の低い状態の癌患者であった。普通の人が軽い怪我で済む事故が「即死」につながる可能性が大げさではなく充分あり得るし、「ついうっかり」からインフルエンザに感染し、それが重篤な状態にならないとも限らない。本当に気をつけなきゃ。そう思って、とりあえず手をジェル状の消毒液で揉み込むように消毒しつつ待つ。
先に待っていた男性、女性の診察を20分ほど待ち、診察室へ呼ばれる。
I先生に挨拶をして「インフルエンザが怖いですね」と話すと先生も「そうなんですよ!」とこちらに向き直って「今ね、10月になって大学生が戻ってきたでしょう、この辺大学生だらけですからね」と言われる。
夏休みが長いところも多いのだな、と思いつつ「全国から行って戻ってくるんですもんねえ」と俺も改めてゾッとする。パンデミックが最も起こりやすい土地柄だ。というよりもうパンデミックは起きているわけだが。
俺が「自分みたいな血液の疾患を持っている場合、ワクチンはどうなんでしょう」とお聞きすると、先生は
「白取さんは免疫抑制を起こしてるということはないんでしょう?」と言うので、無治療ゆえ「はい」と言うと、「だったら季節性のも、今回の新型のも、恐らく最優先で打つ部類に入ると思うんですよ。まず医療従事者から、それから基礎疾患のある人とかになるんですけど、それでも11月なんですけどね」とのこと。
「さっきも問い合わせあったんですけどね、新型のワクチンが10月19日からだってニュースで聞いて、すぐ打って貰えるのかって。でもそれはそこからようやく全国に行くようになりますよ、という日なんで、実際はまず医療従事者から、それから基礎疾患のある患者さん…となるんで結局早くても来月になるんですよ」ということだった。
「京大(病院)はいつですか?」と聞かれるので「明日なんです」と答えると「じゃあすぐ聞いておいて貰えます? 恐らく一番最初に打たなあかん患者さんやと思うんですよね」とのこと。そうかあ、やっぱりそうなんだなあ。白血病患者だもんなあ。
それから「お薬はどうですか」と言われるので、「レンドルミンだけだとやはり寝入りはいいんですが、途中目が醒めると眠れなくなることが多くて困ってたんですが、ベンザリンを足していただいたら朝まで眠れるようになりました」と話す。
ベンザリンは長時間持続型だが個人差があるそうで、先生は「残るようなことはありませんか」と聞かれたが自分の場合はないと答える。ではそれをまた一ヶ月出しましょう、ということにしていただいて、御礼を言って診察室を出る。
いったん会計を待つので座っていると、先ほどの看護婦さんが近寄ってきて、「うがいをよぉぉく、して下さいね」とこれまた真剣な顔で言われ「は、はい。すいません」となぜか謝ってしまった。いや本当、不注意やうっかりは自分の場合命取りになりかねないです。すいません自分のことなのに。

それにしても、インフルエンザワクチンだ。明日京大に行ったらさっそくI先生に聞いてみよう。そう思いつつ薬局で薬を貰い、すぐに部屋に戻る。着替えて手を洗い、うがいを入念に何度かして、さらにウエルパスで両手を指から手首まで消毒。これはもう習慣になっていて、最近では無意識に外出から戻ると両手を消毒している。マスクも習慣なのだが、時々今日のように「つい、うっかり」がある。
インフルエンザは去年から今年にかけて新型の危険性が喧伝され、春には「この冬また流行する恐れがある」と言いつつ、結果的には切れ目なく患者が出続けた。弱毒性だから騒ぎすぎだとか、マスクのウィルスへの防疫効果を笑う人がよくいる。だがそんなことはしょせん健康な人だから言えることであり、世の中にはそうではない人もまたたくさん居ることを忘れている。ゆえに、不遜な発言だと俺は思う。
マスクにしても問題はその「行為の習慣化」であり、パンデミックが現実となってしまった今、自分が感染しているかしていないかは、はっきり言って症状が出るまで判らない。であれば、「ひょっとしたら」と思った人のマスク着用が習慣として定着すれば、無作為の感染拡大は防げる可能性が高くなる。「あんなもの素通しだよ」と言うが、そういう単純な問題だけではない。ゲッホンガッハン、ヘックショイとマスクもせずにあっちこっちで大口あけてやっている人間も依然多い中、防疫上何もしないよりは遥かに効果がある。

陰膳それより今日は昼前から腹が張って苦しい。
軽く目眩もある。どうやら低気圧が近いようだ。これは体内気圧計がそう知らせている。三津子が生きていた頃、腎臓手術痕の痛み、腹の腫れで天気予報をしてくれたが、ことごとく当たった。その後自分が病気になり脾臓やあちこちのリンパ節が腫れるようになり、実感している。
人間の体が気圧に影響されるのは当然だと思う。いつだったか密封したプラスチックケースの中にボールを入れて、そこから注射器のようなポンプで空気を抜くとどうなるか、という実験を見た。当然ケース内の気圧が下がり、ボールは膨らむ。そのボールが俺の腹だろう。

晩は6時過ぎから買ってあった寿司を出し、彼女の好きだったもずく酢、温泉たまごと出汁巻き、さんま刺しなどで陰膳を作り、月命日を弔う。
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2009-10-04(Sun)

テレビって奴は

10月4日(日)

夕べは12時半ころ寝たが、朝4時ころ目が醒めてしまい、往生した。その後全く寝られなかった。夕べはベンザリンが切れてしまったのでレンドルミン2錠だけで寝たが、やはりいったん醒めると寝られない。寝られないというのは、本当に辛い。悶々とただベッドの上で目を閉じ寝返りをうち、気配を感じてこちらをじっと見ているユキをなでる。それを繰り返しつつ、時計で時間を確認する、5時、5時半、6時…。結局そのまま8時前に朦朧としたままで起きる。
外は快晴といっていい天気で、青空が綺麗で比叡山もクッキリと見える。いつものように合掌。下へ降りてトイレから出てくるとユキも降りてきたので、ご飯をあげ水を替える。それからまた朝のいつものことを終え、テレビをつけてサンドイッチを食べる。

自民党の中川昭一が自宅で亡くなったという。ネットを見てみると8時半ころ、自宅ベッド上でうつぶせになっており、家族が発見して119番通報したという。事件性はなく、死因はこれから特定するとのこと。
ネット上ではあちこちで陰謀説だの圧力だの自殺だの、まだ特定されていないのに死因をあれこれ推測しては「祭」状態。人が一人亡くなったこと、これだけが今もっとも確かな事実だとしたら、せめて冥福を祈り、死因が特定されるまで、余計な騒ぎは抑えるべきなのでは、と思う。政治的に特別に支持していたわけでもないが、「朦朧会見」とか騒がれ、先の選挙では落選するという憂き目のさなかにいる人だ。そんな中での死なのだから尚更、ご遺族のことを考えたら今はそっとお悔やみだけを述べるにとどめるべきだろう。

夕方6時過ぎ、「バンキシャ!」を見ながら晩飯に作った青椒肉絲を食べていると、CMで「やわらか歯間ブラシ」とやらでリアルな歯垢のCGを見せられる。「オイオイ汚ねえな」と思っていると、次のCMはポット洗浄剤で、やはりリアルな湯垢のようなものが映る。本当に食欲が失せる。
もう一万回くらい思ったが、食事の時間の遠慮だか配慮とか放送コードとか何でもいいから、何かねえのか! と思ったが、腹を立てるのは体によくないのでチャンネルを変える。こういう目に逢いたくなかったら、テレビを見なければいいだけの話。見る場合は食事をしないこと、そういうことですねテレビ局の皆さん。

その後はフジ系(関西テレビ)で『世界おもしろ珍メダル・バカデミー賞』3時間スペシャルを見る。春の放送では夫婦でさんざん大笑いしたシリーズで録画もしてあるはずだ。
もう一緒に笑ってくれる人はいないが、やはりこういう作り物ではない「実際の映像」による、素人衆が醸し出すおバカな映像は抱腹絶倒である。しばし孤独を忘れて、腹がよじれ息が苦しいほどの笑いの時間をもらった。

ところがなぜか、いや「尺が足りなかった」と司会の今田耕司も言っていたが、最後に感動のVが入る。
ニュージーランドの、子ども3人を残して亡くなった35歳の母の話だ。もちろんドキュメンタリ映像で、末期胃がんを宣告された妻のため、夫が意識のなくなった妻のベッドで結婚式をあげる。
すると奇跡が起こる。意識のなかった妻の意識が戻り、その後数ヶ月自宅へ帰ることが出来るまでに回復したのだ。そうして家族の幸せな時間をじゅうぶん満喫した後、妻は亡くなる。その短い時間が奇跡的な「猶予期間」であったことは他ならぬ本人が一番よく理解しており、一人でそっとビデオで子どもや夫たちにメッセージを残していた…。
おいおいこんな感動のVは聞いてないぞ。そんなもの、自分の境遇に重ねて見られずにはいられないじゃないか。
俺は癌宣告と余命宣告をされた。けれどそれから4年、何とか生きている。しかし「連れ合い」であった三津子の方は、そんな俺を健気に支えようと頑張り、頑張って頑張った末に倒れた。その2年足らずの京都での生活は、俺たち夫婦にとって「人生最良の日々」となった。彼女が逝ってしまうまでの、本当にしばし神が与えてくれた贅沢な時間だったのだと思う。
涙が溢れて止まらない。京都に残されたのは俺一人。東京のマンションの借り手が見つからなければ、いよいよここからも去らねばならない。夫婦二人での素晴らしい京都生活も、一人になったのではもう意味がない。引きこもりならどこで暮らそうとも同じことなのか。
いずれにせよ俺はもう「流れ」に逆らわず、従うことにする。
三津子、君のしたいようにしてくれ。俺はその通りに動くよ。

それにしても笑うために見た『バカデミー賞』スペシャルであれはないだろう、反則だと思った。
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2009-10-02(Fri)

煮物に挑戦

10月2日(金)

夕べはちょっと飲み過ぎたようで、夜のニュースを見ているうちに眠くなってしまい、1時過ぎに寝室へ上がってすぐに寝た。今朝は6時ころから目が醒めてウトウトを繰り返し、9時近くになってようやく起きる。
昨日とうって変わってどんよりと曇り、比叡山は中腹から上は雲に覆われていた。
ユキが俺が起きたので半身を起こしてじっとこちらを見ている。階段を降りてトイレから出てくると、もう降りてきていた。夕べといい、お前は俺の女房か。猫たちのご飯と水をあげてから、朝のいつものことを済ませる。
今日は仕事が空いた日なので、とりあえず夕べ帰りがけにコンビニで買った冷やしぶっかけうどん。麺につゆをかけてほぐし、あとは上にセパレートされている具を載せて食べる。こういうのって結構安くてうまい、バカにしたもんじゃないなあ…と思いつつショッピング番組で菊田アナがめんたいこを買えとやっているのを見る。菊田さんは気のせいかどんどん肥えていくような気がするが大丈夫か。これは明らかに職業病=グルメリポート、ショッピング番組のせいだと思うが余計なお世話か。

食後、夕べ酔っぱらってポストから取ったままだった郵便物を改めて見る。
「ガロ」時代の先輩編集者、Sさん夫妻から転居のハガキが来ていた。奥さんの字で「やまださん残念でした」と書き添えてある。Sさんは俺が「ガロ」編集部に入った時はもう退社していたが、同じ北海道出身ということで、その後も可愛がって貰った。
Sさんは「ガロ」退社後編集プロダクションへ移動し、その後もやまだ紫「空におちる」(河出書房)を担当、また「ガロ」編集部にも「ガロ」の作家さんの新刊が出来るたびに持って来て下さった。酒を飲んだりソフトボールをやったりして、交友が続いた。(ちなみに河出書房の「カワデパーソナルコミックス」を立ち上げたのはこの人である。口ヒゲにメガネの柔和な笑顔で、当時の「ガロ」関係者なら「ヒゲのSさん」と言えば誰でも知っているはず)
Sさんはその後腎臓を患われ、透析が必要になったと、だいぶ前に聞いた。俺たち夫婦は「透析は大変だね、一度お見舞がてら伺おう」と話していたのに、すぐにこちらの夫婦もやれ下血だ吐血だ腎臓取った俺は白血病だ胆嚢取った…と入退院の連続で、結果的にはそのままずいぶんとご無沙汰したきりになった。
透析を続けていたSさんは2年ほど前に倒れて、今は透析とリハビリを奥さんのMさんが支えておられるという。
まだ俺たち夫婦と子どもたちが高層団地で暮らしていた頃、麻雀&飲み会だったか、Sさんたちが来られた時に同席していた蛭子さんが、その場に初参加だった人に「こちらがSさん。でこの人は奥さんのルリィさん。」と紹介して皆の大爆笑をかったのを覚えている。Sさんの奥さんはMさんといい、どういう覚え間違いかと、そしてうろ覚えなのに何で人に紹介するのか、と大笑いした。
その後、我が家では蛭子さんの口真似と共に「ルリィさん」は俺たち夫婦の定番ギャグの一つになった。そんなことも懐かしい思い出の一つである。

「例え寝たきりになろうとも、生きてさえいてくれれば、脳死にさえならなければいつか意識が戻る奇跡が信じられる」
俺たち夫婦はお互い、相手にどんなことがあっても残った方が絶対に支える、と話し合っていた。彼女は俺に「オムツ換えてあげるから」と笑っていた。俺も「口に入れるスプーンはプラスチックにしてやるよ」と言い返していた。
残念ながら、三津子の場合は倒れた後の手術も虚しく脳死状態に陥ったため、奇跡の可能性すら望むべくも無かった。ホンの少しの奇跡も望めず、希望もないという残酷で、人生で最も辛く悲しい、耐え難い日々が続いた。

けれどSさんのように、では奥さんがずっと介護をし支えて行かれるというのも、実際は並大抵のことではない。
愛していれば、その相手を生ある限り全力で支え助けていく。
俺も同じ境遇だったらそうしたと思う。
ただ、他人が「大変でしょう」と軽々しく言えることでもないと、俺は思っている。ひたすらに、Sさんのリハビリが順調に進むことと、連れ合いであるMさんの心の平穏を願う。それしか出来ない。

今日は小学館クリエイティブの川村さんから、『性悪猫』のカバーと帯のpdfをメールに添付していただいた。すぐに電話があり、確認させていただいたが、なかなかいいかたちに仕上げていただいたと思う。また1時半ころ次の復刊『しんきらり』の各回タイトルの件でも電話があって、「開放日」という回の漢字表記をどうしましょう、という相談。
確認してみると、確かに青林堂版つまり「ガロ」初出では「開放」で、文庫版では「解放」に改められている。しかし作品集2巻では再び「開放」に戻されている。
話の内容、夫と子ども三人を見送った後の団地のドアの開放。そしてその後、全ての窓と扉を閉ざし一人で酒でも飲んで自分を解放する…。こういう「ことば」の使い方、漢字の故意の入れ換えなどはよく使う人でもあるので、ここは初出時の彼女のオリジナルを尊重して「開放日」つまり「ガロ」掲載時のタイトルで行きましょう、ということになった。
川村さんは「細かいことでいちいちすみません」と言って下さるが、逆にそういう部分をしっかり考えて下さり、また確認もしていただけるのは嬉しいことだ。
俺の「連れ合い」としての三津子は失われたが、作家としてのやまだ紫の作品を後世に遺す、伝える、その役割の一端を担えることは一ファンとしても光栄だし、責任も重いと思っている。
川村さんからは帯の版下画像も送ってもらい「いいでしょう」「いいですね」というやりとり。

その後、突然外で非常ベルが鳴り響いた。
廊下へ出てみると、マンションの6階廊下にある非常ベルが赤く転倒し、けたたましいベルが響き渡っている。近くまで寄ってみるが、ざあざあとけっこうな雨が「豪雨」というレベルで降っている以外、変わったところはない。もちろん火の気などない。これは故障だな、と思っていったん引き返し、大家さんに電話すると、別な人からも連絡が入っていたようで、「ベルの件ですね、恐らく水が入ったんやと思います。メーカーの方へ連絡して、原因調べて直しますし、もうこちらも向かうところです」と言われる。
水が入っても非常ベルは鳴るのか、単なる火災警報というベルではないんだな、と変な感心をしてしまった。
そう思ってリビングからベランダを見やると、東山はおろか吉田山さえかすんで見えないほどの雨。閉めきっていたので気付かなかった。この大量の雨水がいっきに警報装置に入り込んで非常事態を知らせたのかと思い、納得。


大根、厚揚げとがんもの煮物夕方4時前、晩ご飯をどうしようか考えて、冷蔵庫を見ると厚揚げとがんもがあったので、煮物でも作ろうかと思い立つ。おろし用に買ってあった大根3分の1本もあったので、大根・厚揚げ・がんもどきの煮物に挑戦する。もちろん煮物なんか人生初めてだから、料理本を見て下ごしらえを始める。
「三津子、おっちゃんが人生初の煮物を作っちゃる!」と言って大根を一口大に面取りして切りそろえ、厚揚げとがんもは熱湯で一回油を切る。厚揚げは手で一口大にちぎって、用意しておいただし汁にそれらを投入。
あとは時々中を返しつつ煮込んで…と思ったら落とし蓋がない。ありゃと思ってとりあえず引き出しをサッと開けたら、紙で出来た使い捨ての落とし蓋がすぐに見つかった。三津子がくすくす笑いながら「ハイ」と教えてくれる顔が浮かんだ。いつもいつもおいしい料理を作ってもらったからね、これからは俺が全部作るよ。
とりあえず中火で時々加減を見て中身を転がし、また落とし蓋で塞いで煮込む。だんだんいい匂いがしてきた。そういえば今日は昼を食べそびれたのであった。
途中味を見たら、大根に汁が染みてほくほく。味が薄かったので少しだけ出汁と酒、醤油を加え合計30分ほど煮込んだ。タイマーが鳴って見に行くと、ちょうど煮汁がほぼ無くなったところで絶妙のタイミング。
三津子の写真に器に盛って添えて「どうだろう、ちょっと味見てよ」と言いつつ一口食べてみた。思わず写真に向かって「うまいねこれ!」と声が出た。ご飯や酒のつまみに合う少しだけ濃いめのいい味。しばらくそれ以外の陰膳や晩の支度をして、5時半から晩酌をする。
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2009-10-01(Thu)

高取英さんと明青さんへ

10月1日(木)

もう10月だ。朝7時目が醒め、8時に起きる。うす曇り、比叡山は中腹から白い煙のような雲に覆われていた。朝のもろもろを済ませ、朝食は昨日買ってあったジューシーハムサンド。飽きないのかと自分でも感心する。今日は晴れるという予報通り、雲は薄く青空が透けて見える。
仕事をするのに仕事部屋へ行くが、ノートPCに向かっていると少し暑いくらい。細かい作業を終えたのでリビングへ移動して、ベランダの窓を全開にして風を入れる。もう青空になっていた。
ユキちゃん白猫のユキは毎晩俺の隣、つまり三津子がいつも寝ていたベッドの上で寝る。ベッドの上には三津子が使っていたボア毛布を畳んであり、ユキはそれを自分の寝床にしている。朝は俺が起きると気配で一緒に起きてくる。俺がリビングに居るとソファの背で丸くなり、俺が仕事部屋に移動すると気付いて仕事部屋の床にペタ、と寝たり日のあたる窓際に寝たりする。そこからリビングへ移動すると、またついてくる。いつも視界に入っていないと寂しいらしい。
シマの方は相変わらず一日のほとんどを2階の寝室で過ごし、時々ギシギシっと階段を降りてきてご飯を食べたり水を飲んだり、あるいはまっすぐ俺の顔を見ながら甘えに来たりする。
ただ俺が下でテレビに向かって思わず何かを突っ込んだり、笑ったりする声が聞こえると、必ず階段を降りてこちらへ来る。シマは極端な人見知りだから、本当の来客があれば上へ上がって隠れてしまい、絶対に降りては来ない。下に居る俺が「話して」たり「笑って」いたりするのを聞いて降りてくるということは、来客だと思ったら降りては来ないのだから、ひょっとして三津子が帰ってきたと思って降りてくるのかも知れない。
こちらの目をまっすぐに見ながらすたすたと向かってくるシマを見ると、何だか期待を裏切ったというか、一人で済まないな、とさえ思ってしまう。それでもソファをポンと叩くと「ヨイショ」と乗っかってうずくまって喉を鳴らすのが可愛い。

一休みして、ネットでニュースを読んだりしたあと、自分のブログのアクセス解析を何気なく見る。参照された記事を確認したりしているうちに、三津子の四十九日前後の日記にあたってしまい、自分で読み続けているうちに声をあげて泣いてしまった。
その寸前まで一休みにネットを見て大笑いしていたのに、直後に自分の日記を読んで、声をあげて泣いている。誰かが見ていたら、頭がおかしくなったとしか思われないだろう。
「連れ合い」が居なくなってから、こんなに時間も経った、季節も変わった。しかし悲しみや寂しさ、何とも言えぬ喪失感・虚無感が消えることはない。
自分でも情緒不安定だと思うし、鬱状態になっても不思議はないとも思う。自分が今置かれている境遇は一人で耐えて行ける状態ではないと自分で思うし、それは「二人で支え合って来た」日々の支えを失ったのだから当然だとも思う。
何とか平静を保っている(のかどうか解らないが)のは、こうして「記録する」ことでようやく、という感じだ。つまりはこうした理屈で感情を抑えこんでいるのだから、常に抑圧されている状況下にある。
だから時々抑圧を解放せねばならず、情動失禁のような状態が起きるのだろう。
もし俺がこういった性癖つまり「記録魔」を持たず、他に自己相対化の手段を持たなかったとしたら、白血病に冒され、最愛の妻を先に失った今、自分が置かれている状態=抑圧に押し潰されているはずだ。
変な言い回しだけど、絶対に生きていけない自信すらある。


夕方、やまだ紫の代表作の復刊を進めていただいている、小クリ(=小学館クリエイティブ;すいません自分の中で略称がこれに定着しました)の川村さんから電話があった。
『ゆらりうす色』に併せて収録する『Second-Hand Love』は巻頭カラーの原稿と1色の原稿2種類ありますが、カラーを使うのでいいですか、ということ。
『Second-Hand Love』(セコハン・ラブ)は季刊誌「コミックばく」(日本文芸社)に1986年春号から4回に渡って連載された中編だ。連載1回目は巻頭4Cでのスタートだったが、後にちくま文庫版「ゆらりうす色」に収録するにあたり、モノクロに描き直されている。
「雑誌の初出以外ではもう見られないものですから、カラーがいいですね」と話し、川村さんも「そうですよね、そう思いまして」とのことで、雑誌に掲載されたかたち、つまり4Cの方を収録することになる。
ちゃくちゃくと、年内の3冊復刊に向けて動いているし、こういう形でこちらにもキチンとケアをしながら進めていただいているのは、本当に有り難いことだ。



今日は夕方、京都精華大学で講義を終えた高取英さんとお会いする約束をした日なので、6時過ぎに頃合いを見て高取さんに電話をすると、ちょうどタクシーに乗ったというところ。なので下鴨高木町へ向かってもらい、着替えて出る。
待ち合わせの信号で待っていると、向かい側にタクシーが停まって高取さんが降りて違う方向へ向かうのが見えたので、慌てて電話しながら信号を渡って声をかけ、無事合流。赤信号を待って「明青」さんへ。

「寺山修司の世界」カウンタの奥にある3人テーブルのカウンタをとってもらったので、そこで差し向かい。
高取さんに「生でいいですよね?」と聞くと、何とはもうずいぶん前から酒を医師から止められているというのでビックリ。いやだって「ガロ」時代に高取さんとはけっこう酒の席でもお会いしていたので、すっかり飲む人だと思っていたので失礼しました。
ウーロン茶とビールで乾杯。持って行った小さな三津子の写真にはいつものように、小さな日本酒をもらう。まずは高取さんが執筆や編集にも協力した文藝別冊「寺山修司の世界」をいただいた。
それからは旬のカツオ叩き、イカ刺し、さんま塩焼き、野菜の掻き揚げなどで一杯…ていうか俺だけグイグイ生を飲む。その後〆に高取さんが「ひじきご飯の卵とじ」を食べる間も、俺は生を7杯か8杯飲んだか(笑)。病人なのに飲み過ぎである。

その間、共通の漫画家さんや編集者の話題、色々と面白い話や懐かしい話を山ほど楽しんだ。業界では大先輩なのに、昔と変わりなく接していただいて、楽しい時間だった。
10時過ぎにお開きにして、下まで降りてくれた明青のおかあさんと一緒にタクシーを見送る。その後路上でおかあさんと10分以上立ち話。おかあさんはこないだのビヤホールへ行った時のことをあんまり覚えていないと言うので、思わず笑ってしまった。昼間のビールは効きますからねえ。俺もあんまり覚えてないので問題ないです。嘘ですが。

それからコンビニで買い物をして、ゆっくり歩いてマンションまで帰る。
?野橋の上を歩いていて、やっぱり三津子のことを思い出す。いつか明青さんから二人で歩いて帰った時、三津子が酔っぱらって俺の腕にぶら下がりながら、夜空を見上げて「ほら、お月さんがまん丸だよ」とにこにこ笑っていたっけ。
郵便物を取ってマンションに着くと10時半ころだった。着替えていると、どこからともなくユキが出迎えに来る。眉間に皺を寄せて「アンタ遅かったじゃないの!」という顔をしている。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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