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2009-11-29(Sun)

寒い季節

11月29日(日)

夕べは借りていたDVDで50年代の戦後西ドイツ映画シリーズ「ロンメル将軍の密使」を見てから、ニュースキャスターに切り替えた。三津子にお酒を一杯出して、俺もビールを一本だけ飲んだ。先日、まぐろが残っていたので冷凍からチルドへ移しておいたのだが、二日放置した切ってみたらうま味がドリップとして出ちゃっており、まずかった。仕方なく内側の方だけ細かく切って猫にあげた。勿体ないことをした。そうして寝たのは12時ころ。
今朝は7時半ころに起きる。
予報で今日は冷え込むと言っていたが、なるほど家の中も小寒い。ユキは布団には来ず、暖かい一階の床暖房で寝ていた。エアコンの暖房をつけ、朝のことを済ませ、買った食パンの前に冷凍してある最後の食パンから片付けようと思い、トーストにする。よく考えたら順序が逆か。生で食える方を先に食ってカビないうちに冷凍するのが手順だった。

その後は仕事を少し片付ける。
しかしどうにも昨日から気持ちが沈んでいる。鬱の症状だろうか。三津子がいないことが寂しくて仕方が無い。何をしていても、別なことを考えていても、思いは彼女へと向かう。
仕事を終えて、自分のブログをぼーっと読み返した。
もう3年以上前、彼女が最後の吐血をした前後から順繰りに読み返していく。ブログの記事を読んでいると、三津子がまだ生きていたから、当然一緒に何をした、どこへ行った、何を食べたという記述がそこかしこに見える。読んでいる間だけ、彼女が生きている姿が鮮明に蘇ってきて、何だか本当にまだ彼女と一緒に暮らしている錯覚に陥る。ブログから離れると途端に「三津子はもういない」という現実に戻るので、その「錯覚」が途切れないように次々と日記をたぐる。気が付けば3時間経っていた。

トイレに立ち、リビングへ戻ってくる。二人でいつも座ったり横になっていたソファ。もう君はいない。猫が床の上とソファの上に転がっている。君だけがいない。こんな短い時間「現実」に引き戻されただけで、反動で涙が溢れる。俺は鬱病に違いない。
この季節は鬱を発症しやすいということは知っている。木々は徐々に色を失っていき、気持ちが気温の低下とシンクロして沈んでいく。クリスマスや正月は恋人たちや家族が集まって憩う、そうして自然にお互いの心も暖め合う。逆に、冬の寒さはそうした物理的な「暖かい人間の体温」を近くで感じられないことで、余計に強く寒く感じる。そうして心まで冷える。
こうしてまだ客観的に自分の状況を記録していられるだけ、俺の場合はまだマシだ。鬱傾向は認めるが、暗い鬱の沼へと沈んでいくことはしない、たった一人だけど何とか耐えていかねばならないと、強く思う。

昼はカップ麺。食べたくなかったが薬を飲むので仕方なく。
午後は仕事。休み休み、そろりそろりといった感じ。
永島先生のお嬢さん、フミちゃんからりんごが届いた。ありがとうございます。ジュースにしよう。「しんきらり」をお送りしたお返しのようだったけど、永島先生が亡くなった後ご本をたびたび頂いていたので、お返しとかお気を遣わず…。
その後頼んでいた「またたび粉」が届いたので、猫たちにやる。またたびは枝のもの、枝を細かいチップにしたもの、粉状のものとたくさんあるが、このコメットの細かい粉のものが一番喜ぶようだ。これは長年の経験。
新聞紙をトレイ状に折り目をつけてそこへパパパッと粉を振りまいてやると、フッ飛んで来て嘗める。いつもはオッサンと化してまったりしているシマがピキーン!となって、近寄ってくるユキに「ぱしぱし」と猫パンチをしたりするのがおかしい。

夕方からは大相撲九州場所。白鵬が結びで朝青龍を上手投げでひっくり返し、一年納めの場所を全勝優勝で終えた。今年の成績は90番中86勝、恐らくこれはもう破られることはないだろう。ただ6場所中3場所いずれも決定戦で敗れ優勝が3度というのは残念だった。決定戦=大一番に弱いという誹りもあるが、今年は落日の横綱対決には全勝しているし、全場所優勝か優勝同点という成績は横綱として大いに褒められていいと思う。
それよりも、悪童・朝青龍の突然の失速にはガッカリさせられた。
強ければ憎らしい、色々な意味で相撲の歴史や伝統、「型(かた)」をブチ壊していく様は本当に腹立たしい横綱で、これに敵う者が出て来ないというのが昔からの相撲ファンにとってはストレスであった。本当に稀代のヒールで、自分もいつの間にか朝が勝てば「チクショウ」負ければ「やった!」と夫婦で手のひらが真っ赤になるまで叩くようになっていた。要するに、見てしまうのだ。「アンチもファンのうち」という喩えを体現しているかのような存在だっただけに、気持ちが切れたか右肩が痛んだか、いずれにしても全勝での楽日対決が見たかった。
陰膳「これより三役」あたりからチラチラと相撲を見ながら晩酌の支度をする。買ってあったチキンの照り焼き、揚げ出し豆腐を暖め、もずくとシーザーサラダを陰膳に盛りつける。いそいそと彼女のお膳を作るのは久しぶりだけど、やっぱり楽しい。たとえアリモノや出来合いのものを並べるだけでも、ちょっと格好をつけるのは気持ちの問題だ。その気持ちが彼女に通じればいいと思っている。

ビールと日本酒で乾杯しつつテレビを見ていると、ゆうちゃんから電話。「メール見た?」というので携帯を見るが来ていない。おかしいね、と話し合うが、お袋からまぐろと毛ガニが届いたという電話。お袋には電話で久しぶりに話したと言っていた。しばらく話していて、聞くとまだ食事中だというので、マグロを堪能しなよと言って切る。
離れていても、時おりこうして連絡があるとこちらも気持ちが温かくなる。三津子の写真に「マグロうまいってさ」と話しかけ、ビールを一口飲む。

TBSでWBCフライ級の世界タイトルマッチ。チャンピオンの内藤大介VS3位の挑戦者・亀田興毅との戦いを見る。
一人なので証人はいないけど、前半2Rまで見て「あー、内藤負けるな」、4Rまで見て「こりゃ亀田の勝ちだな」と声に出た。
連れ合い…であった三津子はいつもこういう「殴り合い」は目を逸らしながら「ひっ」とか言いつつ見ていたっけ。血が出たりすると「何でこういうことするのかしら」と眉をひそめていたから、途中内藤が明らかに鼻を骨折し変形した顔を見たら何と言っただろう。
試合は足を使い積極的に責める内藤に、アウトボクシングというか、落ち着いてカウンターを当てに行く戦術をとった亀田のパンチが的確に内藤を捉えていた。内藤の動きは決して悪くなかったので、やはり亀田が成長したというべきか、どっちがチャンピオンか解らない老獪なボクシングをしたと思う。今回の判定=0−3で亀田の圧勝・新チャンピオン誕生には全く意義なし。
亀田の勝利の弁を聞いて「大人になったな」と思った。親父、いや周囲の大人のしつけさえちゃんとしてれば、ここまで国民的ヒールにならずに済んだろう。途中弟が内藤に「反則負け」を喫した時は率先し長男として謝罪会見まで行った。あのあたりから、彼は変わっていったのか。とにかく「ボクシングのみ」徹底的な英才教育を施しても、結局は当たり前ながら教育・躾も大事なのだと改めて思う。
相撲もそうだが、格闘技に限らずそのスポーツにいくら秀でていても、結局は人間である。一生そのジャンルで頂点にいられるわけじゃなし、必ず現役引退をせねばならず、そうしてからは「ただ俺は強い」じゃ周囲の協力は得られない。そうした周りの人の助け無しに人は生きていけないのだから、そのことに早くから気付いて謙虚になるかならないか。
「気付き」は早い方がいいと思う。
まあしかしこれでまた、バックであるTBSがこの一家をメディアにゴリゴリと押しこんでくるだろう。何度も書いてきた(亀田や朝青龍についていろいろ)が、その時また天狗になるか、調子こいて「気付き」を忘れるのか、あるいはチャンピオンとして自覚を持ち大人として行動できるようになるのか。

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2009-11-28(Sat)

情動失禁

11月28日(土)

夕べは11時過ぎに酔っぱらって帰ってきて、たぶん12時ころには寝たと思う。酒の強さには自信があるので、飲もうと思えばもっと飲めたのだが、生ビール5、6杯で日本酒に切り替えて2杯くらい飲んだ後はウーロン茶にセーブした。全然セーブしてないか。
ともかくひさびさに飲んだのでさすがに廻ったのだろう、帰宅してからのことはよく覚えていない。

今朝は目を醒ますと8時過ぎだった。薬とアルコールの相乗効果で爆睡。ユキはもう先に起きた様子で、布団には居なかった。
降りて朝のことを済ませる。朝はトーストに目玉焼き、ボトルの小岩井ミルクコーヒー。薬を各種飲む。外はうす曇り。今日も暖かくなるそうだが、朝は少し小寒い。テレビを見て、そのままリビングのモニタをパソコンに切り替えてメールチェックなどをする。それから昨日の日記をつける。

花を持つように記録を終わってブログにアップしようと思い、テーブル上の三津子の写真を見た。昨夜川村さんにいただいた小さな花束を添えたのだけど、俺の位置から見ると、ちょうどその花を彼女が持っているように見えた。
その写真は彼女の最後の作品集となった「愛のかたち」出版の打ち上げの時に、花束を貰って困ったような笑顔でこちらを見ているものだ。
それを見たら突然ぶわっと涙が出て来て、思わず顔を覆って号泣してしまった。
「何であんたがここに居ないんだよー!」と声が出た。
「うわーん」と子どもみたいな鳴き方になって、涙が大量に出た。
「何で」って、俺の隣で突然あなたは倒れた。病院へ搬送した。一縷の望みに賭けて手術もした。無駄だった、集中治療室で生かされているだけの悲しい時間、早朝に駆けつけ最愛の人の死を看取った、荼毘に付した、骨を拾って食べた…。
全部自分が体験したことだ。
もう解っている。彼女が死んでしまったこと。二度と一緒に暮らせないこと。もうその手を握ることも肩を抱くことも、髪をなでることも声を聞くことも笑い合うこともケンカすることも、もう何もかもが不可能だということなど百も承知している。
それでも「何で」「どうしてだ」と思うとたまらなく寂しい。悲しいし口惜しい。涙が滝のように流れ出る。視界が涙でにじみ、歪む。俺はこれから死ぬまで、こうして生きていくのだ。
「しっかりしなさいよ」「泣いてばかりいちゃ駄目」
そう言ってくれる人もいる。
ありがたいし申し訳ないが、しっかりできるか、泣かずにいられるか、と思う。自分の命より大切な人を失った。自分の「最愛の妻」「伴侶」というありきたりの言葉では追いつかない。自分の分身いや、自分そのものを引き裂かれて持っていかれた気持ちだ。
自分の半身を失い、その傷口はいまだに癒えずじゅくじゅくと血膿を垂らしている。とても痛く触れないし、怖くて直視できない。そんな中、ヘラヘラと笑って過ごせるか。
それでも、じっと傷口を見続けていたら発狂する。
そう知っているから、何とか必死で目を逸らそうと、気持ちを散らそうとしているのだ。彼女の遺した素晴らしい作品を後世に伝えようと、原画や原稿を毎日狂ったように「整理」した。見たくもない映画を借りて、時間を忘れようと思った、こうして記録することで何とか自分を相対化しようとしていることも一環だ。
錦秋とはよく言ったもので、京都の山々はそこかしこの紅葉が本当に錦の織物のように美しく色づいている。二人でこの四季の表情が豊かな、穏やかな歴史の街をあちこち歩いた。
とても一年や二年では周りきれるものではない、だけど俺たち夫婦は京都にたった二人で来た、これからゆっくりと時間をかけて歩こう。そう思っていたのに、一年半で先に逝っちまった。この美しい街を、たった一人で泣きながらさまよえというのか。どこそこの何が綺麗だ、何が見頃だと言われても何も感じないし、見たくない。
人生の喜びも楽しみも、苦しみさえも、俺たちは二人でいつも分け合って生きて来た。彼女と分け合うことが出来ないのであれば、部屋に一人こもっていても同じことだ。

「あなた、そんなことじゃ駄目だよ。頑張ってちゃんと生きて」
彼女はきっとそう言ってくれていると思う、優しく俺の肩に手を置いて。そう、「愛のかたち」の最終話のあの場面のように。
あの本であなたは「まだ当分死ぬつもりなはい」って言ってたじゃないか。それなのに…。こんなに生きていて辛いと思った時間はない。これまでも振り返れば辛いことばかりだった。
人に裏切られ騙された。恩義のある人には不義理をせざるを得ない環境におかれ、世話をした人たちからは足蹴にされた。夫婦ともに病気には苦しんだ。金銭的にどん底も味わった。もう、これでもかと不幸が俺たちを襲った時期が数年あった。
それでも、それでも俺たちは夫婦で助け合い、手を取り合って支え合ってきた。どちらかが病気ならばどちらかが踏ん張って、どちらかに不幸があってもどちらかが励まし慰めた。どうしようもない時でも二人で冗談を言って笑い、酒を飲んでウサを晴らした。唯一ささやかな贅沢が夫婦の晩酌だった。
とにかく、二人でいたら、どんなことでも乗り越えられたし、乗り越えて来た。
白血病なんか力でねじ伏せてやる。大人しくさせてやる。実際そうしてきた。全て、三津子が居てくれたからだ。
俺が死病を患い、生きて行くこと、生きることそのものが人生最大の目的になってしまってから、では何のために生きるのかと聞かれたら、それは三津子のためだった。
その彼女が先に逝ってしまった今、俺は何のために生きるのか? 自分のためか?
もちろん、俺の健康を願い、俺たち夫婦の時間を一日でも、一分でも長く持つことが二人の願いだった、彼女もそうだった。だから死んでしまった今、彼女は見えないが、きっと俺が生きることを願ってくれている…。

知ってるよそんなことは!

解ってる、アタマでは理解している、けれど現実に彼女が物理的に存在しない、声が聞けない体に触れない、やりとりが出来ないことがこれほどまでに辛いことか、誰が解るだろうか。
「自分の苦しみなど誰も解っちゃくれないんだ」
そう世をすね、恨み言を言い続けて生きたくはない。なるべく心穏やかに、彼女の冥福を祈り、聞こえない声を聞き、触れない彼女を感じて生きたい。でも、それでも時おりどうしようもない感情の洪水に襲われて抗えない。

俺は昔から「泣かない人」だった。
彼女は涙もろく、感動的なドキュメントがあるとすぐに俺に気付かれないように眼鏡の下の涙をそっと拭いた。眼鏡を上げるとカチャリと音がするので、俺は彼女が泣いていることを知って顔を見るのだが、小バカにされていると思うのか、いつも彼女は「見ないで!」と言って俺にティッシュをぶつけたりしてきたものだ。
男がメソメソ泣くなんて、男らしくないと思って生きて来た。
だから本当は泣きたい時でも無理に堪えたし、そういうものを見たり場面に遭遇したりしても、彼女が先に泣いてくれたので、自分は抑えることが出来た。
そうして生きて来た。

4月の末に三津子が倒れ、5月に亡くなってから、いったい俺はどれくらい涙を流しただろう。俺たちは日常、よく二人で生き死にの話をしていたものだ。お互い先に逝った方はこうしよう、ああしよう。生死、人生、人間、宇宙、いのち…色んな話をした。答えの出ないことも多かったが、認識や価値観は一緒だった。
だから、ずっと一緒にいた。
人間は生まれた時は平等なのだろうか、前世というものがあって、その清算のために今生があるとしたら、生まれた時に前世の因果を背負っており、最初から不幸な人生を歩むのだろうか。
人間には運というものの定量が決まっていて、小出しに使っている人は大きい運をつかめず、まったく運に恵まれなかった人が、一世一代の大勝負に勝ったり、突然の幸運に見舞われたりするのだろうか。
バイオグラフのように人生や運、健康でも何でも人間には起伏があり、そのマイナスとプラスを埋め合わせてならすと、みんな直線になるのだろうか。
色々なことを話したり議論したりした。

今思うのは、人が流す涙の量も決まっているのか、ということだ。これまでの人生、俺は極力泣かずに生きてきた。実際に涙を流した回数も少ない。
けれど、これまでそうしてきた分、今は毎日泣かない日はない。彼女を失って以来、これまでの人生で泣かなかった分の穴埋めをさせられているように泣いている。これまでの人生と比べたら、尋常な回数ではない。
こうして日記をつける、彼女のことに記述が及ぶ、それだけで涙が出ないことの方が珍しい。部屋のそこここに彼女の写真を飾っている、それを見るたびに目がうるむ。
こうやって、死ぬまで生きて行くしかないのだろう。

気が付くと昼をまわっていた。
何か食べないと薬が飲めないな…と思い、夕べ帰り際、明青のおかあさんに「これ食べて」とおにぎりやみかんをいただいたのを思い出した。
おにぎりを食べながら思った。こうして心配し助けて下さる人がたくさんいる。俺に生きてと願ってくれる身内もいるし、友人や知人もいる。名も顔も知らない人が励ましを下さる。
死ぬまでは精一杯生きよう。
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2009-11-27(Fri)

皮膚科受診、夜は打ち上げ

11月27日(金)

夕べは11時ころ二階へ。9時のオキシコンチンと一緒にレンドルミンも忘れず飲んだ。12時前には消灯し、しばらくユキが出入りし下で鳴き歩いた後布団に入ってきて、それからすぐに寝られた。ユキは俺の布団で一緒に、シマは下の床暖房の上で、というのが定位置になったらしい。
今朝は8時前までぐっすり寝た。ユキは一度夜中出て行ったがすぐ戻ってきて、それからずっと布団の中にいて一緒に寝ていた。

朝のことを済ませるが、今日は三津子のお茶は熱いほうじ茶を淹れた。彼女は冷たいお茶が好きで、冬でもお酒のチェイサーは氷のたっぷり入ったウーロン茶だったのでずっとそうしてきたが、さすがに冬の朝イチ、たまには熱いお茶がいいだろう。
朝、冷蔵庫の製氷引き出しから氷をグラスにガラリガラリとスコップで入れて、そこに冷たいお茶をペットボトルから注ぎ、氷のカランカランという音を立てながらソファに戻ってくる。そんな彼女の日常の映像が、今でもつい昨日のことのように浮かぶ。浮かぶたびに涙が出る。
今朝のほうじ茶は、柳桜園で二人で買って来たものだ。柳桜園を知ったのはもう何年も前、二人でまだ東京に居た頃だ。ここのグリーンティの紹介をテレビで偶然見て、取り寄せた。最初はたしか「清涼糖抹茶」と言ったと思う。夏はこれを冷たい水に溶かすだけで、うっすら甘い緑茶が楽しめる逸品だった。それから親戚や三津子の友人に送ったりしたっけ。京都に二人で引っ越してからは、河原町や三条に出た時、散歩がてら店まで歩いて行って店頭で買い求めた。その時に香りがいいので、一緒に買って来たのが今日のほうじ茶だ。茶筒を開けると今も香ばしくていい香りがする。
外はうっすら曇りにところどころ青い空。気温もこれからは徐々に上がって行くようだ。

今日は退院後、京大の皮膚科に経過を見せに行く日。朝はどうしようか、食べずに受診後、病院のドトールでレタスドッグを食べようかとも考えたが、それだとせっかく規則正しく戻った朝8時昼12時という食事の時間が崩れる。なので冷凍のトーストを焼いてバターを塗り、ペットボトルのミルクコーヒーにした。入院中の朝食は基本パンだったけど、病室に来るのは暖かいはいいがふにゃふにゃのものばかり。カリッとしたトーストなど望むべくもなく、マーガリンはついたことがあるがバターは皆無。久々に香ばしいバタートーストがうまい。

その後9時半ころ支度して出る。ずいぶん暖かい。タクシーですぐ病院へ着いたので、自動再来受付をし、お知らせ端末を持ってまず病院内の郵便局へ行く。こないだの入院費の支払いだが、まずATMでお金をおろしてから用紙で支払う。つくづく健康が羨ましい。
領収書を貰って地下へ行き、ローソン(この巨大病院にはコンビニもある)で領収書をコピーして、用意しておいた都民共済の入院給付金申請書類の封筒に入れて、再び上の郵便局のノリを借りて封をし、投函。今回は25日の入院。もし保険が無かったら本当にえらいことだった。皆さんもくれぐれも入っておいた方がいいっすよ。健康な時にしか入れないし、必要になるのは病気の時だ。病気になるとぶっちゃけた話、あれこれ金がかかる。入院給付金は掛け捨てでもいいから手厚くしておかないと、後で絶対後悔すると思う。

それから急に下痢が来たのでトイレに入っていると、突然携帯端末が「ブー!」と鳴ったのでびっくり。見ると「診察室へお入り下さい」となっている。予約時間にまだ10分ほどあるので安心していたのに、と慌てるがどうしようもない。終わって出ようとするとまたバイブと同じ表示。皮膚科は3階だ。あせってももう間に合わないし、そもそも今の状態では走ることも出来ない。何しろ動くと疱疹部分が痛いから、ゆっくり歩くしかない。
エレベータを待って3階へ行き、皮膚科の受付に「呼ばれたけどトイレにいましたが飛ばされましたか」と聞く。受付の人は「診察室のドアをちょっと開けて、先生に聞いてみて」という。オマエが行けよ仕事だろう、と一瞬思ったが忙しそうなので「そうですか」と柔和に答えて診察室前へ。
中待合の椅子にはけっこう患者が待っている。診察室を開けようとしたが、中には明らかに患者の影があって声もするので、仕方なく椅子に座る。しかし数分ですぐ出て来たので、患者が出て来るのと同時に「あの、白取ですが…」と顔を突っ込むと、「ああ、お待ちしてました」と言われて安心。

経過を聞かれ、ガーゼ交換も自分で出来た、もう体液が出てきているのは背中の一部だけになった、ただ表面の痛みがまだ強く、モルヒネを飲んでいる…という話をする。
先生はふんふんと聞きながらキーボードで俺の言ったことを電子カルテに書き込んで、「じゃあちょっと見せて下さい」と言うので、右腹部から背中に巻くようにして固定してあるガーゼをめくると、腹の方は「ああ、もうほとんど上皮化が終わってますね…」、背中を向くと「ああ。ここだけですね…でももうこれなら大丈夫ですよ」と言われる。
「もうガーゼも背中の出てるところだけでいいということですか」と聞くと「そうですね、全体に宛てる必要はもうないですよ」とのこと。「痛みはどうですか」というので「疱疹部分全体がまだ痛いんです」というと「夜中にビクッとして目を醒ますとか、そういうのは…」というので「それはないです」と答える。
すると「ああ、じゃあ神経痛も今のところないようですね。お若いから、たぶんこのままだと疱疹後神経痛も出ないで済むかもわかりませんね」とのこと。
「もう、こちらで適切な対応をしていただいたので…」と答えると「いやいや、でも良かったですね、順調で。うち(皮膚科)の方はこれでいいですよ、あとは血液の方の先生にね、また見てもらってください」と言われた。

御礼を言って診察室を出て、少し気分が楽になった。繰り返すようだが、疱疹が完治したとしても単なる「白血病患者」に戻るだけなのだが、常にどこかが激烈に痛いというストレスなど無い方がいいに決まっている。
採血の予定も入っていたので、2階に降りて受付をする。407番で、中待合へ入っていい番号の表示は360番台。けっこう混んでいる。
外待合で10分以上待ったろうか、掲示板に表示されている番号がようやく自分の番までになったので、中に移動。そこから5分くらい待って、ようやく採血。今日は試験管4本くらいと多かった。採血係の女性も「今日はだいぶ待ちました? 多いんですよね」と言っていた。
それから会計の受付に並んで手続きをし、あとは端末が鳴るのを待っていると5分ほどで「ブー!」と鳴る。1400円ちょっとと表示されたのでデビッドカードで払おうと診察券のバーコードを機械に読み取らせると、さっき支払ったはずの入院費が一緒に表示される。あれ、払ったのに…と思い仕方なく支払いの行列に並ぶ。若い人はほとんどが自動支払機で払うのでサクサク進むが、年寄りは概ねこうして対面で支払う。その中に並んで支払いを終える。入院費の支払い済みの連絡が郵便局から入るまで、タイムラグがあるようだ。

支払いを終えて、タクシーで近所のスーパー前につけてもらい、買い物。久しく食べてなかった牛肉も買う。他にはここ数日のもの、野菜サラダ、食パンなど。そして三津子に百合や菊も買った。それらを下げて家まで歩くが、やはり右足の付け根が痛み出す。ヘルペスウィルスは神経を破壊するというが、この足の付け根、いわゆる鼠蹊部のちょうつがいを動かすと痛むというのはしんどい。まったく因果なことだ。
まずいったん帰宅して荷物を冷蔵庫に入れたりして、処方箋を持ってもう一度下へ降りる、調剤薬局へ行くと顔見知りの薬剤師の女性が二人いて、「大丈夫ですか?」「まだ痛いですか?」と口々に言われる。「火曜に退院しました」「まだモルヒネで抑えてる状態です」とそれぞれ回答して、処方箋を渡す。
今日皮膚科の先生に出してもらった薬は例の神経の発達を促進させるメチコバールと、ノイロトロピンという錠剤。家へ帰って調べると、これは鎮痛剤だが、ロキソニンのような消炎鎮痛ではなく、神経痛などの痛みを抑えるものらしい。ということは今俺は幸い神経痛は出ていないようなので、もし出て来たら飲めということだろうか。
とにかく全部終わって一息つくと12時半。疲れた。着替えて食パンと一緒に買ったソーセージパンを昼に食べた後はぐったり。

午後はテレビを見ながらウトウトしたりと、体を休ませる。午後のテレビは下世話なワイドショーしかないのだが、これがただ「眺めているだけ」にはうってつけである。
夕方になって相撲を見ながら支度。今日はこれから明青さんで、やまだ紫の復刊事業の打ち上げをやるのだ。といってもちくまの青木さんとつないでくれた中野晴行さんと、そこから話を聞いて引き受けて下さることになった小学館クリエイティブの川村さんと俺の3人だけだけど。
中野さんが今日は精華大で講義がある日なので、6時にお店で直に待ち合わせということになっている。歩くには今の体だとしんどいし、タクシーだと近すぎて勿体ない。さてどうしようかと考え、結局バスで行くことにする。
44分のバスの北8はほぼ時間通りに来た。たった3つ先の停留所までだが、やはり歩くのよりは全然楽チン。夫婦で何回このバスに揺られたかな…とまた考えてしまう。何をしても何を見ても聴いても、思い出すのは彼女のことばかりだ。
高木町まで行き、久しぶりに明青さんへ。一階は整骨院に改装され、とっくに営業されているのだが、俺は初めて見た。階段を登ってお店に入り、おかあさんに挨拶をしていると、ちょうど川村さんも到着。カウンタ一番奥に飛び出た3人掛けにカウンタに通された。その手前、俺たち夫婦の「指定席」だったところにはすでに初老の夫婦が一組座っていた。もう俺があそこに座ることはないだろう。もし誰かと来るならこういう場所だし、一人で来ることはあり得ない。あったとしても、あそこには座れないと思う。隣にはいつも、必ずあの人が居たから。

川村さんによると、中野さんは講義が7時までだそうで遅くなるという。なので二人で先にやってましょうということにした。カウンタに三津子の写真を置き、小さい日本酒をその前に置いてもらう。川村さんは「あの、これを…」と小さな花束を出してくれたアレンジに使う切り花を出してくれた。京都駅に着いてから、花屋で本当に数輪だけのを小さく作ってもらったそうで、「机の上に置けるように、下を平らにって無理を言ってもらって…」とのこと。三津子、嬉しいね…。そう思いながらお酒と一緒に写真の前に飾った。

まずはビールで乾杯。久々のビールの一口目はうまいというより「苦い」だったが、すぐに「うまい」に変わった。飲んべえだな俺。川村さんが来月出る「ゆらりうす色」のカバーラフを持ってきて下さったので、その話などをチラとする。それからは刺身やふぐの唐揚げなどを肴に、今回の復刊のことやいろいろ話していると、7時過ぎに中野さんも合流、それからは11時過ぎまで盛り上がって話をしてしまった。後半はほとんど今の漫画界の問題点や将来のことなどかなり有意義な話になったのだが、何せ久しぶりの酒席ゆえに酔っていたせいか、細かく思い出せない。いや、覚えているが細かく書き記す体力が今はないので、折に触れて出せれば。

帰りがけ、中野さんは「でもねえ、白取さん生きて下さいよ。生きなきゃ駄目だよ」と言って俺の手をグッと握って下さる。「大丈夫ですよ、死ぬまでは行きますから」と笑うが、もう一度「生きて下さいよ」と念を押された。
お二人とも今回の宿はバラバラだが京都駅の南側しか取れなかったそうだ。おかあさんが呼んでくれたタクシーでうちの前まで送ってもらい、二人を乗せた車はUターンしてそれぞれのホテルへ向かった。家へ着いたのは11時15分ころ。
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2009-11-23(Mon)

入院25日目・やまだ紫作品の復刊に思う

11月23日(月・祝)

6時半、夜勤ナースに起こされてバイタル。血圧は上が90と低く、脈拍は80から90台と早い。だがこれが白血病を患っている俺の正常値だ。
外は曇り、夕べ寝付きが悪かったせいかもの凄く眠かった。
7時過ぎに病院の下へ降りて、販売機でホットコーヒーを買って戻った。今日も祝日なので病院内は静かなもの。コーヒーをすすりながらTwitterをしたり。8時の朝食でコーヒーにパック牛乳を入れてカフェオレにしてパンとサラダ、パイナップルを完食。
9時過ぎになってもオキシコンチン(痛み止めのモルヒネ)が来ないので、日勤のナースに貰おうと病室を出る。するとちょうどこちらへ来たところで、薬を貰ってプリンペラン(吐き気止め)と一緒に飲む。9時半からはシャワー、疱疹の傷痕に軟膏塗ってもらい、ガーゼ交換。疱疹は背中が一番治りが遅く、痛みも強い。背中ゆえに一人では軟膏もガーゼ交換も難しい。腹部だけだったら一人で出来るのになあ、と情けない。
髪を乾かして着替えてすぐ、ポータブルHDDと使わないタオル、洗濯物などの袋を持って一時外出。「一時帰宅」もこれで最後、明日は退院だ。それなのにこんなに痛くてモルヒネで抑えているような状態でいいのか。

外は晴れており、暖かい。
タクシーで家の前のコンビにまで行き、昼のサンドイッチと晩の弁当を買ってマンションへ帰った。シマもユキも床暖房の上で寝ていた。
まずは着替えてHDDをメインのノートPCに接続し、データを受けて仕事をしてしまう。ルーティンの仕事を終えた後は、しばらく新規の仕事のことで試行錯誤。
その間にサンドイッチで昼食。

それから立て続けに「明青」のおかあさんと、元出版社の社長で昔からお世話になっているSさんから、やまだ紫復刊第二弾「しんきらり」が届いたと、御礼の電話をいただく。
明青の渡辺さんご夫妻には、本当に今回の入院ではお世話になりっぱなし。こちらが御礼を言わなければいけない。ご挨拶にうかがいたいが、まずは自分が退院しなければ始まらない。

その後、Sさんとは少し長く話した。

やまだ紫という作家の業績は、もっと漫画界の内側から大きく評価されるべきだ、という話。
また今回の復刊事業もメディアが積極的に紹介に動かないというのも、おかしな話だろうと。俺も今のところキチンと紹介してくれたメディアを知らないし、共同通信がコラム配信という形で地方紙へ配信してくれた程度だと話すと、「それはおかしい」という。俺もおかしいと思う。

女性誌などからもっともっと紹介されるべきだろうし、例えば「しんきらり」はまだ「ジェンダー」なんて言葉も誰も使わなかった時代に、女性解放や男女同権と拳を突き上げ声を出していた人たちの一部から、高い評価を受けたものだ。
もちろん本人はそういった「女性解放」という強い調子や意識で描いたわけではなく、「主婦」とひと言で片付けられる存在にも当然感情はあり、実はけっこう大変な労働をしているのあり、「家庭」や「夫婦」「親子」といった当たり前のことも、ドラマになり得るのだ…という今なら当然のことを淡々と静かに描いただけだ。

そう、やまだ紫というひとはいつだって静かに、しかし毅然と、凛として自分の「こう思う」ということ、正しいと思うことを描いてきたし、言い続けてきた。それだけに、もっとセンセーショナルに、もっとエキセントリックに同じことを言う人に比べればコマーシャル的には不遇だったとも言える。
「時代と寝る」という言葉があるが、本人が一番嫌ったことだった。

「たくさん売れればいいと思うよ。でもそれを前提に作品を創ることは、卑しいと思う。別段非難する筋合いもないけど、わたしはそれをしたくないだけ」…彼女の言葉は印象に残るものが多すぎる。特に、失って、公私ともにその存在の大きさがゆえ、喪失感も大きすぎる。
ブログで連載しようと思って、録音した言葉もたくさん残っている。いずれ発表したいが、まだ俺は彼女の声を聞くと、冷静でいられない。あの穏やかで、優しい口調を思い出しただけで涙が出る。

出版の世界では大先輩でもあるSさんとは、共通の認識がたくさんあった。

例えば、大学での漫画教育の話。
こんにち大学で内外の文学を研究するのは当たり前だ。マンガも表現として確立して久しいわけだし、文学と単純に優劣をつけられるものではないことは常識だろう。そしてマンガ学部を持つ大学も出来た。学科としてマンガを教える大学も次々と続き、今後その流れは拡大するだろう。
ところがその現場では、相変わらず基礎的な技法や技巧を教えることに重きを置き、肝心な「作家性」の涵養をおろそかにしているところが多いのだ。

せっかく四年もの間高度な「専門教育」を受けられるというのに、アシスタント養成講座や同人誌作りみたいなものを中心にやっていていいのか?

オリジナリティ=個性、作家性をどうやって教え育成していくのか、それをどうやって作品というかたちに昇華させるのか、その部分こそ、これからの大学における漫画教育にもっとも重要だと思う。
それには基本的な絵画技法やデッサン、漫画における独特な表現や技巧を習得するのは当然として、座学でいいから、さまざまなジャンルの「名作」を強制的にでも読ませて何かを学び取らせる「教養講座」をもっと重要視すべきだ。
ただ名作といっても、商業的に成功したものやビッグネームの作品だけを読ませていては駄目だ。
劇画や「ガロ」系、少女漫画からエロまで、4コマやカートゥーンも含めて多彩な日本漫画の広がりを体験させて欲しい。もちろん、漫画に限らず文学や映画・映像なども含めた優れた表現を教養として学ぶこともいいだろう。(何度も同じことを書いているが

自分と全く違うタッチ、筆致の作家の模写も絶対に勉強になる。好きな作家の絵ばかり真似をしていたり、得意な構図ばかり描いていては何も進歩しない。これは身をもって体験していることだし、俺の師匠であり「ガロ」編集長であった長井さんも、漫画家の卵たちに模写を第一に勧めていたものだ。

漫画だからと(最近ではタブレットも含め)ペンばかり握っていないで、水彩や油彩など違う技法に触れるのも刺激になるだろう。やまだは実際、大学で「チョークアート」を取り入れて、学生たちに好評だった。

そして、学んだ者はそれらを全く無視してもいいのだ。問題は「知っているか・知らないか」だ。その上で自分は何を使って何をどう表現するかなので、結果的に漫画という手段を選ばなくてもいいとさえ思う。
しかしその人が漫画を自己表現として選んだのなら、「他の誰でもない自分という作家」を目指すのは当然だと思う。
確かにきれい事を並べても、メシが食えなければ仕方が無い。だからといってコマーシャルな、商業的に成功した「誰かのもの」を真似て、楽しいだろうか? メシが食えれば楽しくなくてもいいか? 楽しい部分は勝手に同人誌で補完するからいいのか? だったら大学なんか要らねえだろうし、もはや「作家」ではない。そういう人はそういう世界で勝手にやればよろしい、文句を言うつもりも筋合いも何もない。軽蔑もしないし尊敬もしない。それだけの話だ。

日本の漫画がこれだけ世界に誇る「文化」「表現」として確立されたのは、何も資本の力で強引に売ったから、というだけではない。表現として面白いから、独自だったから、優れているからだろう。
その表現としての日本漫画=MANGAをここまでにしたのは、ビッグネームたちの「商業的に成功した作品」だけの力ではない。「表現の裾野」を拡げた数多くの、本当にたくさんの先達がさまざまなジャンルで頑張ってきたからじゃないのか。
「売れる・売れない」だけで作品を「いい・悪い」と評価するんなら、「ナントカ漫画賞」は全て廃止してオリコン1位に賞をやりゃあいい。「今年一番売れたので一番優秀な作品デス」でいいだろう。
今現在、漫画業界で、漫画の内側でメシを食ってる批評家や研究者、漫画読みと言われる人たちで、今回のやまだ紫の復刊事業に関して公にキチンと評価をした人がどれくらい居るのか?
知っている限りでは、片手で足りるたった数人だ。
作家が死んで、その訃報を聞いて慌てて「凄い人でした」と言う。そういう愚かな「言論人」を、俺は今まで嫌というほど見てきた。カネを払って好き・嫌いでモノを語れる一般消費者ならともかく、もはや「知らないということは罪」だと思う。

Sさんとはそういうような話をした。
それでも、評価してくださる人がいる限り、いや、今はいなくなったとしても、彼女の作品を後の世代に伝える義務が、俺にはある。漫画に関わった「内側の人間」として、その責任がある。
コマーシャルな漫画は黙っていてもたくさんの人に読まれる。だがその陰で、素晴らしい作家、作品がひっそりと誰にも知られずに消えていく。
やまだ紫の作品はそうして消えて行っていいものでは断じて、ない。

午後は仕事休みに「ミヤネ屋」を下らぬと思いつつも笑いながらダラダラ見て、相撲。だんだん病院に帰る時間が迫ってくる。
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2009-11-20(Fri)

やまだ紫 復刊第二弾「しんきらり」発売!

しんきらり広告画像

皆さん、お待たせいたしました。10月の『性悪猫』に続いて、いよいよ11月22日『しんきらり』が発売されます!
<11/20>
★Amazonさんから購入可能になりました。
しんきらり
やまだ 紫
小学館クリエイティブ

このアイテムの詳細を見る



著者:やまだ紫
書名:しんきらり
発行:株式会社小学館クリエイティブ 発売:小学館
定価:本体1,800 円+税
ISBN978-4-7780-3130-5 C0079 1800E

判型はA5判並製で、総ページ数は352ページ、うち巻頭20Pが2色です。
解説は齋藤愼爾さんです。
解説ページには、「しんきらり」執筆当時のやまだ紫の写真を掲載しております。うち一点は貴重な、吉祥寺・ぐゎらん堂での個展の際、「ガロ三人娘」が映った写真です。
収録作品はもちろん、「性悪猫」連載終了後に「ガロ」に続けて連載された「しんきらり」全話を一挙収録となっております。
本作は、1982年に青林堂版「しんきらり」、1984年「続しんきらり」の2冊で刊行され、のちに1988年ちくま文庫版「しんきらり(全)」〜1992年筑摩書房「やまだ紫作品集2巻」として単行本化されています。
今回はその全編を、青林堂版以来の「A5版」という大きいサイズで一挙にご覧いただけるようになっております。

今回解説をご執筆いただいた齋藤愼爾さんは、やまだが「しんきらり」連載開始直後、『アサヒグラフ』誌「新進マンガ家・やまだ紫の世界」(1982年4月23日号)という特集に、インタビュー記事をご寄稿されています。
今回の復刊にあたり、白取が原稿や掲載誌を整理していた際、ほんとうに偶然、その『アサヒグラフ』が発見されました。小学館クリエイティブの担当・川村さんと相談させていただいた結果、このインタビュー記事を改めて改稿の上、復刊に掲載させていただくこととなりました。齋藤さんと川村さんがその直前に偶然お会いしていたという不思議なご縁から、お話はスムースに決まったのです。
★(そのくだりはここに記述させていただいております「神の見えざる手」



白取より、僭越の極みながらひとこと。
これまで、特に「ガロ」時代、自分は彼女の「夫」という「私的な立場」と、「公」的にはたかが「編集」という立場をわきまえ、彼女の作品について言及するという行為をほとんどしてきませんでしたので、あしからずご容赦下さい。

このたび復刊される「しんきらり」は、前作「性悪猫」で素晴らしい詩とマンガの高度な融合を成し遂げ、一躍注目を浴びたやまだ紫が、「ガロ」誌上で自身初の長期連載に挑戦した代表作です。長期連載といっても一話一話が完結する短編となっており、平凡な夫婦、親子、家庭のどこにでもある「日常」が、全体で一つの大きなお話を構成しています。

団地に暮らす夫婦と子供二人の四人家族。この平凡な家庭の日常こそが、この作品の全てであり、そして本質でもあります。なんと言うこともない日々だけれども、その陰にはそれぞれの抱える思い、感情があり、揺れ動いている。ゆえに、そうした日常もすなわちドラマなのである、と。
いや、無自覚に生きていれば、流していけば、それらはそれこそ単なる退屈な日常です。家庭、夫婦、親子、ご近所…ともすれば流され通り過ぎていくそれらありふれた「平凡な日常」を、やまだはその鋭い感性で鮮やかに切り取り、ドラマにして見せてくれます。
時にスリリングに、時にほっこりと、笑わされ、泣かされ、気づかされ、ハッとさせられ、時にゾクリとさせられる。
あり得ないエピソードや過度な「演出」を排し、それでいてキラリと輝く何かを毎回見せてくれる、日常を見事にドラマに昇華させた漫画史に残る作品だと思います。
彼女は生前
「もしこれを描いていたのがガロじゃなかったら、たぶん編集からもっとこうしろ、ああしろと言われたと思う。だからああいう作品は描けなかった」と語っていました。
また、この「しんきらり」があったからこそ、後に「ゆらりうす色」(コミックモーニング)、「BlueSky」(婦人公論)が自由に描かせてもらえたのだろう、とも。

あり得ない「非日常」を描くのではなく、敢えて「日常」をドラマとして描きだす。簡単なようで、実はとても難しいことです。
ここにまさしくストーリーテラーとしてのやまだ紫の真骨頂と言えるのですが、逆に、その淡々とした「リアリズム」があたかも彼女の「現実」であるという誤解を受け、以後彼女はしばらくの間「私小説漫画家」「私(わたし)マンガ家」などという珍妙なレッテル(私小説「風」ならば解らないことはないが)を貼られることとなります。
「何でも『ありそうなこと』を描くと、すぐそれを現実だとしか受け止められない人がいる」と、やまだは苦笑していました。面倒なので、そういう思考の人には「おっしゃる通りです」と言うことにしていた、と。

やまだ紫はプロの漫画家です。エッセイストや日記漫画家ではありません。(もちろんエッセイや日記風マンガも多く描いていますが、だから「しんきらり」もそうだ、ということではありません)
もちろん、読み手が勝手にそう想像すること、自分の思いを作家に重ねることは何ら問題ないことであり自由なのですが、つまりこの作品は、そしてやまだ紫という作家は、それだけのリアリティをもって作品を紡いでいったのだ…という、本物の放つ輝きを再認識すべきでしょう。

本作を描いていた当時、現実のやまだ紫…山田三津子の結婚生活は事実上破綻しており、実質的に離婚状態にありました。登場人物の家族構成、高層団地での猫との生活などのディテールなどは現実から取られてはいますし、ちょっとしたエピソードも実話が挿入されたりはしています。しかし作品に描かれている、鈍感だけれども愛すべき、どこにでもいそうな「夫」像は、現実とは大きくかけ離れていました。
彼女はまさに生皮をはがす思いで血を流しながら、誰の手も借りずに離婚を「決行」し、その後も二人の子どもを必死で育て、守り、家庭を支えてきたのです。(ちなみに、ナントカ手当だの公的な扶助だのは、一切受け取っていなかった)
そんな状態にあった彼女が、どういう思いで、この作品を紡いでいったのか。

自分は近年、特に彼女を失った今、もうそろそろ紋切り型の図式で作家とその作品を安易に「片付ける」のはやめた方がいいと考えています。
浅学非才の極みである自分ごとき小物が語るのは、本当に僭越を通り越して生き恥でさえあると思いつつも、それでも、敢えて声を大にして言いたいのです。
やまだ紫という才能がいなかったら、間違いなく日本の女性作家の系譜は違ったものになっていただろうし、表現の幅も狭いものになっていた、と。
またこれも忘れられがちですが、本作が描かれた80年代初頭という時代性、つまり「働く女性」「主婦」「離婚」「片親」などなどが、今とは全く違う視点で見られていたこと、語られていたことを、今一度想起すべきだと思います。
その時、彼女の描いたこの「しんきらり」という作品の凄さがはっきりと理解できるでしょうし、彼女がこの作品で描こうとしたことが、四半世紀を経過しても全く古びないどころか、むしろ今の若い夫婦や親たち、そしてこれからそういう立場になる若い人たちに読まれるべきだと、強く思うのです。


お近くの書店さんに無い場合は、上記の書名、版元名を言っていただければ注文することが出来ます。書店さんでお受け取りになれば、送料もかかりません。
皆さん、やまだ紫の素晴らしい作品を、これからもよろしくお願いいたします。

◆11/20追記
今回、復刊ということで部数が少ないため、本来ならば謹呈せねばならない方すべてにお送りすることが出来ません、申し訳ありません。
この名作との「新たなる出会い」を優先させていただきたく、ご容赦願えれば幸甚に存じます。
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2009-11-15(Sun)

入院17日目

11月15日(日)

もうすっかり外は秋が深まっている。いや、いる様子なのが見てとれる。
気がつけばもう入院してから半月以上が過ぎた。もう消灯時間をまわったので暗い二人部屋のベッドの上でUMPCを打っている。
入院してからこれまでの記録は全てボールペンと紙、クスリの袋、買い物に行けるようになってから買った大学ノートなどに取ってある。信じられないような帯状疱疹の「激症化」のさなかでさえ、記録魔としては何とか残しておこうと必死でそこらの紙に脂汗を垂らしながら走り書きをしていた。
ここ数日はもっぱらノートにボールペンだが、自分がもう筆記用具で長く自筆モノを書くという行為さえ重労働になってしまったことに愕然としている。
入院してからのこと、疱疹の経過などは日付を遡って時系列にいずれアップしようと思っている。今のところ、リアルタイムで当ブログをアップしたのは入院以降この記事が初めてだ。

とはいえ別段何を書くわけでもないのだけど、まあ、生きてますよ、あと日に日にちょっとずつだけど良くはなってますよ、というご報告。
こう見えても(?)本当にたくさんの人が「大丈夫ですか」「その後いかがですか」とメールなどで聞いたり心配して下さる。
俺は「書くこと」によって生きられて来た人間だし、記録をやめる、書くことをやめる時は恐らく生きる気力や体力が、そして生命そのものが無くなった時だと思うから、こうして記録は出来るだけ残そうと思っている。

病院というところは病気になってしまい、入院加療が必要と判断された人たちが否応無しに入っているところだ(、普通は)。だから誰も長く入っていたいとは思わないし、そもそも日常から切り離されて病室という異空間に居なければならないことが、「病気」に次ぐか、あるいはそれ以上のストレスになっている場合が多い。
例えばこのような「相部屋」だと、全く関係なかった人たちがいきなり本人同志の意思確認も何もなく突然、寝食を共にせよと強制的に狭い空間に押し込められることになる。
誰でもどんな人でも、パーソナルスペースというものをぼんやりと持っていて、大小の幅はあれどそれを他人に侵されたり共有させられたりするのは不快なものだ。しかも病気というストレスを抱えた上に、さらにそのストレスが加えられるのだから、溜まったものではない。
こんなことでもなければ一生付き合うことのないだろう、わがままなクレーマーのごとき人間や、食事の際にくっちゃくっちゃ咀嚼音を響かせる人、ゲアッとかウグファッとか口から発しているとは思えぬ音をたてながら飯を食う人、さらには本当に口ではなく尻の穴から大きく長いガスを音をたてて発する人さえ、いる。飯を食いながら、だ。
これらはコントでも何でもなく実際の話であり、こういうことを気にすれば「神経質すぎる」「そんなんじゃどこ行っても暮らしていけないよ」とこっちが悪いかのように言われるのがオチである。大前提が間違っているような気がするのだが、そもそもそういったおおざっぱな言動を是とする人たちにとっては、マナーとか公共のなんちゃらとか、まあそういった意識がハナから欠落しているから、最初からかみ合っていないだけなのだ。
かみ合わせようとするから、齟齬が生じる。
夜は耳栓をし、普段はヘッドフォンでテレビか音楽で外の音を一切遮断する。ナースや医師が用事があって来る場合は呼ばれるから解る。それ以外は基本的にどうでもいいか関係ない情報なので遮断するのが一番だ。

考えてみれば今回、俺は連れ合いであった三津子がかつて罹患したために、すぐに自己診断で「帯状疱疹」であると解った。
解ってすぐ医師の診察を受け、投薬も受けた。
つまり「普通の人間ならこれで万全」であるという対処はしたものの、そこで欠落していたのは「俺が普通の人間ではなかった」という当たり前の認識であった。
免疫力が抑制とまではいかずとも、かなり低下していた自分にとって、ヘルペス=水疱瘡のウィルスは強敵なのであった。即刻入院し点滴で強力な抗ウィルス剤をブチ込んでいればここまで悪化することは無かっただろうが、そんなことを全く考えなかったこちらが無知すぎた。
どなたかが書いて下さったが、5月に最愛の連れ合いを亡くし、人生でもっとも辛く苦しい、悲しみと喪失感の中にずっと一人で居た。そこから何とか這い上がろうとして、毎日彼女に花と陰膳と線香を欠かさず、そのことを自分も何とか日々を乗り切るモチベーションとした。
もう一つは、彼女の大切な素晴らしい作品を世に残す手伝いをすることだった。これも原稿を一から全て整理し、打ち合わせを重ね、色々な算段をした。その他にも色々、本当に自分でも頑張りすぎたと思う。
帯状疱疹が発症したのが、まさしくその復刊第一弾である「性悪猫」刊行のさなかであったことが、象徴的であったと今は思う。
「白取さん、無理してたんだよやっぱり」
そう言ってくださる人はたくさんいるし、実際そうだと思う。
だがしかし、俺以外に誰が無理をし、誰が手伝って、誰がまっとうしてくれるのか?
だとすればこれは必定で、偶然なんてものはなく、流れの中で避けられなかったことの一つであろう。であればこのあまりにひどい仕打ち…痛み、苦しみ、ストレスの責め苦にも何かしらまた意味があるらしい。

生きるって本当に、面倒くさい。
心が折れそうになったことは一度や二度ではない。
そうしては誰かしらに励まされ、何とかふらふらとまた立ち上がる。
生きるってそんなことの連続なのか。だったらやっぱり、面倒くせえ。
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2009-11-04(Wed)

入院6日目

11月4日(水)

前の晩は激痛のあとは汗びっしょりになり、夜中も寒くて3時間ほどしか寝られず。意地を張らずに布団を貰えば良かった。しかし病院内、日中は暑い。
朝は5時半に起きて、まずトイレへ行く。これがまだ重労働。何せ痛いので起き上がるのに一苦労、さらにベッドから降りて廊下を歩いてトイレへ行くのも重労働。戻ってきて寝る体勢に戻るのも、もう全てが大変。

外は快晴。テレビをつけると、この朝はこの冬一番の寒さだったという。なるほど寒かったのは汗をかいただけではなかったのか。というかもう季節は冬になったんだから、病室とはいえふとんも何もかけずに寝ている方がおかしいのか。しかし日中は気温が上がるという予報で、結局布団は貰わないことにした。
シャワーは午前中に浴びる人が少なく、ゆっくりできるそうなので、急遽9時からの点滴を落とした後、10:30〜11:30と1時間取ってもらい、ゆっくり入っていいですよということになる。
俺の場合30分だと、体を洗ってからナースにガーゼ交換をしてもらう時間を考えると30分だとかなりきつい。なのでいつも15分くらいでちゃちゃっと洗って出て来ていたのだが、1時間取ってもらえると有り難い。
今日はゆっくり洗えて、20分以上経ってあがる。風呂には湯が張ってあるが、共用なので誰が入ったか解らないし、そもそもこの傷だと湯に浸かることは到底無理だが。
担当はTさんで、ガーゼ交換の処置もスムースに終了、部屋で落ち着く。

それにしても困るのは洗濯だ。下着類など毎日替えるものは、仕方が無いので使い捨ての紙おむつにした。けれどバスタオル、フェイスタオルは洗わねばならない。かといってトイレへの往復でも重労働なのに、タオル一、二枚くらいで洗濯室へ行って洗濯乾燥機を使うのも面倒だ。顔を拭くタオル、風呂で体を洗うタオルは毎日洗って干しておくが、バスタオルを洗うのがしんどい。
毎日掃除に来る係の人は病室の洗面台、蛇口なども綺麗に洗ってくれる。その後を見計らい、洗面台でバスタオルに手洗いの洗剤を染みこませて水でエッチラ洗う。それから絞るのが大変な作業。細くヒモ状にしてから、編み込むようにひねっていくと、水が絞り出されていく。蛇口のところへひっかけてぐいぐいひねっていくが、ある一定以上の力が痛みで出せない。限界まで何とか絞って、あとは仕方が無いのでパイプ椅子に拡げてかぶせるようにして乾かす。病室は乾燥しているから、これで翌日の風呂までには乾くのだ。
家のことをお願いしている明青のおかあさんは「洗濯物とかあったら言ってよ、そんなん一緒に洗えば済むことやし」と言ってくれるのだけど、この上そんなことをお願いするのは申し訳ないと思ってしまう。

その後データが来るのを待ち、昼を挟んで仕事をする。パソコンに正対して作業を出来ないから、脇の台に置いて開いたパソコンから、モバイル用のマウスを限界まで伸ばし、ベッドに仰向けに寝て右手も伸ばしたままのかたちで、首だけを傾げてマウスで操作する。
幸いこの日の作業はほとんどデータ変換とftpだったので、苦労しつつも2時からの点滴前には終了した。
途中、医師団のうち男性N先生が来て「やはりソセゴンは強いので効きますが、依存性と副作用を考えるとやめた方がいいと思います。今日の夜から薬を変えましょう」と言われる。
俺としては今のところ、もっとも痛みを和らげてくれるのはソセゴンなので、代わりのものが効いてくれるかは不安だったが、医師にそう言われては仕方が無い。
新しい薬というのはモルヒネの錠剤で、オキシコンチンという。もちろん麻薬扱いなので、使う量によってはソセゴンよりも一段上の効果が期待できる。そして俺のように「常に痛い」状態にある人には、その痛みをカバーし続ける底上げ的な使い方が出来るので、使ってみましょう、という。で頓服にはモルヒネの粉薬もあるので、痛みが強い時は出しますから、併せて使ってみてください、とのこと。
とにかく今はヘルペスウィルスを完全に駆逐し、ズタボロにされた皮膚表面の「糜爛」のケアが最優先。そして痛みは薬で抑えつけておくしかない。体表部の傷が治って安心しても、俺たちのような免疫力が低下している人の場合、抗ウィルス剤をやめた途端に再びウィルスが暴れ出して帯状疱疹を再発させることも多いそうだ。

水疱瘡を小さい頃にやる、その時のヘルペスウィルスは抗体で抑え込まれ神経の中で大人しくしている。それがだいたい20年ほど経つと抗体が薄れてくるが、その頃は体は一番元気な頃だから、普通のひとは余り帯状疱疹を発症したりはしない。中年以降に体が弱くなってくると発症したりする。で、水疱瘡をやった人がそうして大人になってから帯状疱疹を発症した人は、それが治るとほとんどの人はそれで終了だ。けれど10人に1人くらいは2度目があるという。しかし3度4度と繰り返す人はほとんどいない。
俺のような血液の病気や、糖尿などで免疫が低下している人、さらには抗癌剤治療中で免疫抑制下にある人は抗ウィルス剤の服用をやめた途端にウィルスが暴れ出し何度でも発症する場合がある。
まとめるとそのようなことです。

その後、お袋から明青さんにお礼に海産物を送ったよ、とメールが来たので返信したり。
猫たちは主がいなくなった部屋で日がな一日諦めて寝て暮らしているのか。時おりご飯と水を替えに来てくれるご夫婦に、俺かもと思って出て行ったシマは違うと知って二階へ駆け上がって隠れて震えているのだろう。そう思うと不憫で、じーんとくる。一度気分が落ち込むと鬱症状が出る。
ベッドの上で点滴につながれながら三津子のことを考えてしまう。彼女が何度も何度も入退院を繰り返していた頃は、個室へ入っていたことは手術の時以外はほとんどなかった。ほとんどが4人や6人といった相部屋で、彼女はよく同室の誰それさんがうるさいとか、食事中にわざとおまるで用を足すとか、ナースに文句を言ったら意地悪をされたとか、しょっちゅう不満を訴えてきた。
たった2人の相部屋でさえ、相手が合わない人だと、一挙手一投足が不快なストレス源となる。冗談抜きで、頭がおかしくなりそうなほど、ストレスを感じることもある。
彼女を差額ベッド代の高い個室へ入れてあげることがなかなか出来なくて、本当に可哀想なことをしたと思う。つくづく、相手の身になって理解してあげることが出来ず、済まなかった…。色々思い出したら泣けてきた。ごめんなあ。悪かった。君がどれほど辛く寂しい思いをしていたか、俺は今たった一人になってそれを噛みしめている。
情けない、自分が不甲斐ない。体を清潔に保ち、弱い免疫力を何とかこれ以上落とさず、俺が一日も長く生きることを祈ってくれていた今は亡き三津子の気持ちに報いることが、俺の使命じゃないか。
なのにダラダラとこんなことになってしまって、情けない。申し訳ない。
昨夜の地獄のような経験は、きっとそのことを戒めていたのだろう。知らしめてくれたに違いない。
病室で一人、涙が止まらない。
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2009-11-03(Tue)

入院5日目 夜、激痛で死を感じる

11月3日(火) つづき

消灯後にベッド脇のライトだけをつけて「虹の話」をノートPCで打ち込んだ。半身を起こしてベッド上に渡したテーブルに置いたPCに正対してキーボードを打つのは久しぶりで、軽快。幸い痛みもロキソニンで我慢できそうだ…。そう思って終わってノートをぱたんと閉じた瞬間。

右足の付け根にかつてないほどの激痛が走った。
「激痛」という言葉では全然足りない。これまで経験した最も強い痛みを凌駕するような、それこそ経験したことのないほどの超弩級の激痛だ。
あえて表現するなら、まず右足の付け根、鼠蹊部の上あたりで小型の局地核弾頭が爆発したかのような熱さにも似た痛みが突然きた。焼けたハンダゴテをズブズブと突き立てられたというか、いや、内部でそれがはじけたというか、まさしく「ドカーン!」と爆発が起こった感じ。
これまで自分は癌宣告以来4年半の間に、かなりの痛みを経験してきた。
抗癌剤治療をするために奥歯を一日に4本ずつ抜かれた時。癌細胞の検査のための骨髄穿刺(マルク)の痛み。胆石発作の痛み。その切除手術後の痛み。今回の帯状疱疹の激痛の連続。
そしてこの時の痛みだが、正直、これまで経験したあらゆる痛みの中でも群を抜いて痛かった。
そしてその強烈な痛みの「波」が、じわじわじわと上半身へ上がってくる。
「う、うわわわ」と悲鳴に似た声が思わず病室に響く。何だコレは、一瞬で汗がドッと噴き出て、右手でベッド脇のパイプにしがみつく。その手がガタガタと震える。その間も痛みはじわじわ…と伝って肋骨の下へ上がってきた。

痛い、
痛い、
う、
わ、
これが、心臓へ達したら、
…きっと、
俺は、
し、死んでしまう!

「数秒後に死ぬ」と本気で思った。
よく「死ぬ死ぬ」とか「死ぬほど何なにだ」とか言うが、この時は本気だった。
ベッド脇のパイプを折れんばかりに握りしめていた右手を引きはがし、左の顔の横にぶら下がっていたナースコールに震える手を伸ばす。届け。届いた。押した。

スピーカから夜勤のナースの「はいどうされましたー?」という穏やかな声が聞こえる。
「い、痛くて、い、た、み、が…」と言うと「お待ちくださーい」という声。
その間にも猛烈な痛みは上がってくる。
あの、核爆弾が破裂し、衝撃波が放射状に拡大していく映像。右足の付け根で爆発が起こり、猛烈な痛みの波が徐々に心臓に迫ってくるイメージ。
死ぬ!

…幸い、痛みは肋骨で止まった。
けれど、右側の足の付け根から胸のあたりまで、つまり疱疹で神経がやられた部分全体が炎に包まれたように痛い。(今こうして記録していても=12/11午後、あの時の恐怖を思い出すと心臓が縮む思いがする)
夜勤ナースのHさんが「どうされました?」と笑顔で入って来た。
説明しようとするが、声が出せない。息も絶え絶えという感じで、「も、ものスゴイ痛みが来て…が、我慢しようとしたんですが…で、できません…」と言うと「ソセゴン使います?」と言われる。
つい数十分前、Hさんに消灯の前に「今日はソセゴンやめてロキソニンで我慢してみようと思うんです。副作用もありますから」などと言ったばかりなのに、脂汗を垂らして痛みを訴え、「お、お願いします」と言っている自分が恥ずかしい。けれどこの痛みに耐えられるはずがない。
というより、ソセゴンで収まるのかと思うほどの激烈な痛みだ。
すぐにHさんがソセゴンを持って来て、点滴ルートにつないでくれた。俺は「すいませんね、もう要らないって言ったんですが…」と言うと「いいえ、我慢しなくていいんですよ」と言い、「これで大丈夫ですからね、眠れますよ」と言ってくれる。
灯りを消して貰い、Hさんが出て行った後はただひたすら痛みが薄れることを祈りつつ、ベッド上で目を閉じていた。自然と懺悔と祈りの言葉が駆け巡る。
三津子や仏様に今までの自分の生き方を謝り、赦しを請う。「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
夢ではなく、映像として怖い顔をした不動明王か閻魔大王のような形相をした法衣姿の仏か神かが、
「オマエは本当に懲りない人間だ。何度言っても自分を改めようとせず、更正の機会を失っている。いつまでそれを続ける、いつまでその生活を続ける!」
と言い、俺に鞭をあてるのだ。それがしなって体に当たるたびに、疱疹部全体に激烈な痛みが走る。全身があまりの痛みに反動で脈打つほどの痛み。よく見ると、その横には口に手をあてて、「もう許してあげて」という格好でおろおろしている三津子が居る。ああ、ごめんなさい。俺はダメな、不完全な、未熟でどうしようもない人間です、お許し下さい。
笑われるかも知れないが、本当にその映像が見えた。俺はひたすら謝り、赦しを請うた。もう一回、チャンスを下さい。

数分か数十分か、ひたすらそう思って目を閉じ痛みに耐え続けていると、ホンの少し痛みが薄らいだ。
目を開けた。薄暗い病室の中。点滴はもう4分の1以下。ゆっくり右手だけを注意深く動かし、傍らの充電器にセットされている携帯を押す。時計で確認すると40分経っていた。時間の感覚が全然無かった。俺は一瞬どこに行っていたのだろう。
とにかくこれがウィルスの断末魔だったらいいのだが…。汗びっしょりだったが、まだ普段よりずっと痛い。それでもさっきの痛みに比べれば屁でもない。本当に死ぬかと思った。痛みで死ぬことってあるのか解らないが、これまでで一番「死」を本当に間近で感じた。
1時間ほどで点滴が落ちきった頃には通常レベルまで痛みが下がり、これで寝られるかもと思った。そう思ったら、びっしょりと濡れたパジャマが今度は寒い。点滴を外す時に布団を持って来てもらおうかと思ったが、足元に畳んであった布団を「暑いから使わない」と言って持ってってもらったのがこの日の日中。それをまた持って来いというのも…と思って黙っていた。何よりあの猛烈な痛みがおさまったことで、とにかくホッとした。
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2009-11-03(Tue)

入院5日目

11月3日(火)

夕べは枕元に隣の談話室の声がずっと響いてた上、とっくに消灯時間が過ぎているのにテレビまでつけ始めた。せっかく導眠剤を飲んで電気を消して寝に入っているのに、全く寝られない。ナースたちも詰め所の真ん前なのに、ここはけっこう規律がゆるく、誰も注意しないようす。就寝前の痛み止めが効き始め、暑くてたまらなかったのも枕の下に入れたアイスノンでやっと眠れそうになってきたのに…と思い、たまらず夜勤のナースが来た時に訴える。
ナースは「あ、すみません、すぐ注意しますから!」と言って出ていき、やめさせてくれた。こっちは動けないので、仕方が無い。ちょっとやそっとのこと、みんな何らかの事情で入院し不自由な生活を送っているんだから、大目にみたい。実際そうしているが、いくら何でも図に乗りすぎという患者グループが一部にいるのも確か。結局は眠れたのは12時を廻ってからだった。

朝は4時半か5時ころには尿意と痛みで目が醒めてしまう。とりあえず何とか痛みをこらえつつトイレへ行くが、濃い嫌な色。もっと水分採った方がいいのか、いや点滴をずっと入れてるし、腎臓に逆に負担をかけるだろうか…と考えつつそろりそろりと壁の手すりづたいに戻る。
ベッドにまず登り、戻ってすぐに貰ってあったロキソニンを飲む。そこから体を倒すのが大変な重労働のうえ、激痛を伴う。治るんかこれ…、と不安。
仰向けになりフウウと深い息をついてやれやれと思ったら、ナースが入って来て「さっき白取さんの後ろ姿を見たら、背中に染みがあったように見えたんですけど」と言うので、せっかく寝たがまた体を起こして見てもらう。
するとやはりパジャマの背中に傷からしみ出た血とリンパ液、アズノール軟膏の混ざった染みが出来ていた。ガーゼ交換するのは大事なので、とりあえず今あてているガーゼの上にもう一枚充ててもらって、パジャマの替えをもらって着替える。
とにかく自分は今感染が一番怖いので、こういう対策は迅速でキッチリしているから、その面では安心だ。しかし3Lのパジャマ(腹部が脾臓で肥大している上にガーゼを巻いているので、3L以下だとウエストが食い込んで痛い)がなく、XLしかないという。小さいよりはマシなのでそれに着替えたが、ヤンキースのサバシアみたいにダブダブで、ヒップホップの人みたい。
その時、左手の点滴ルートが痛くなってきたというと、抜いてくれた。

今日の日勤担当はI君。若くて元気な男性ナースで、老人病棟のご婦人がたに人気だ。バイタルの後7時から朝食の8時まで、少しウトウト。
朝食は食パンに小さなコッペパン、キャベツサラダ、小パック牛乳にバナナ一本。バナナは食欲がない時に備えて備蓄しておく。
窓の外はいい天気で、青空にゆっくりと白い雲が動いている。
9時から抗ウィルス剤の点滴を持って来て、左手首のルートを手首に近い別なところへ開け直してくれる。スムースに落ちて、痛みもないので安心した。考えてみれば昔と違いソフトな針とはいえ、四六時中静脈に針が入っているというのは気分のいいことではない。もう何度も何度もやってるので慣れたが。
とにかく動けないので、10時ころまでベッドでじっと点滴が落ちるのを待つ。脇のテレビも朝のワイドショーが終わると何も見るものはない。

すると、明青のおかあさんから「今タクシー乗りました」と携帯に電話が入った。これから病室へ来て、猫の餌のことなどをお願いすることになっている。
10時半ころ、朝の点滴ルート開けの時にシーツに血が垂れたので、I君にシーツ交換をして貰っていると、おかあさんが病室に来てくれた。
おかあさんは「大丈夫? 大変やねえ」と心配して下さるが、その時は幸い痛み止めが効いていて多少楽だったので、「こんなことに」とチラッとガーゼをめくったり。もっともさすがに出血したひどいところまでは見せられなかったが。
それからI君が出て行ったあと、ベッド脇に座っていただいて、マンションの部屋の見取り図をメモ用紙に書き、ご飯と水の場所、トイレの位置などを説明して、三津子が持ち歩いていた合い鍵のキーホルダーをお預けする。
最初俺は「ご飯と水だけ替えていただければ、猫のトイレは匂いもキツいし飼っている人でも大変なことなので、何日かいっぺん強い痛み止め打ってもらって、自分がやって帰ってきますから」と言ったのだが、おかあさんは「うんうん、いいからいいから。とにかくまず行ってみるしね」と、これからご主人と買い物などもあるからというので、すぐに出て行かれた。
明青さんのおかあさんは、夏に娘二人とお店へお邪魔した際(「娘たちと明青さんへ行く」)に、
「奥さんはね、ほんまにいっつもいっつも白取さんのことを心配してはったんよ。
だからね、もう白取さん一人なんやし、もし何かあったら私らが飛んでいくし、お嬢さんたちにもすぐ連絡しますしね」
と言って、二人の連絡先まで書き留めていただいていた。
今回の入院でも、当初俺に連絡がつかないので、二人と連絡を取り合って下さったり、本当に「有り難い」では済まないくらい、申し訳なく、そして感謝している。自分が倒れてしまったら、頼る人は他にいない。

その後、I君が来てシャワーの段取りを話す。今日は午後だと3時〜4時が空いてるというので、そうしてもらう。で「抗ウィルス剤の点滴が落ちてから、痛み止め(強いソセゴンというやつ)を落として行きましょう」ということになった。
その後昼食を挟み、ワイドショーを見て点滴が落ちるまで待っていたが、途中でハタと気付いた。
抗ウィルス剤の点滴は毎日3回、朝9時からと昼2時から、そして夜9時からだ。この2時からの抗ウィルス剤はもうすぐ終わりそうだが、時計を見ると2時25分。次の痛み止めソセゴンは小さいとはいえ、落とす時間が足りなくないか…?。
2時半過ぎに抗ウィルス剤が落ちたのでナースコールをするとI君が来て「はい、じゃあシャワー行きましょうか」とさわやかな笑顔で言うが、俺が「痛み止め…」というと「アッ!」。やはり忘れていたらしい。
入浴時間は他の患者さんの希望などと照らし合わせ、毎朝ナースがシャワー室前のホワイトボードに「何時から何時だれそれさん」と書き込んでいく。なので午後からはたいていびっしり埋まっていて変更はきかない。
俺が「何だったら病室で生食(生理食塩水)で傷だけ洗っても…」というと「いや、大丈夫です!今から落とします」と言ってソセゴン点滴に交換。
「少し早めに落としますけど大丈夫ですか?」と言うので「え? あ、はあ」と答えて落としてもらうが、ポトッ、ポトッ、と落ちるのがトトトトトトトという感じで落ちていく。「どうですか、痛みとかないですか」と言うので「大丈夫です」と答える。「じゃあ落ちたらすぐ呼んで下さいね」と言って、交換用のガーゼや軟膏などを用意して去って行った。
何と15分でソセゴンの点滴は終わり、ナースコールする。
点滴を外して貰って身を起こすと頭がボーッとする。「どうしました?ご気分悪いですか?」と言うので「いえ、大丈夫です。ちょっとぼーっとしますけど」と言う。点滴ルートを塗れないようビニール袋とテープでガードしてもらい、「歩けます?」というので、「何とか」と答えて立ち上がる。
まあ朦朧とか目眩がするとかいうほどではない、ただ頭がふわふわするようだ。幸い痛みも弱まったので、そのままバスタオルと小タオルなど風呂道具を持って浴室へ。
I君はパイプ椅子を立ててガーゼ交換の道具を置き、「転んだりすると大変なのでお背中流しましょうか」と言ってくれるが、若い女性に洗って貰うのでさえお断りしているのに、若い男性にアレとかソレなどを洗ってもらうのはアレなので、丁寧にお断りした。彼は「気をつけて下さいね、終わったら呼んで下さい」と言って出ていった。

痛み止めが消えているとはいえ、シャワーはしんどい。普段と違ってまず頭を洗い、慎重にややぬる目のお湯を首から廻すように傷の上を洗う。それから柔らかいタオルにボディソープを沁ませて泡立て、全身を洗う。前屈みで足の方を洗うのが一番痛い。右鼠蹊部あたりの傷がふさがる形になるので激痛が走る。
とにかく何とかシャワーを終えてナースコールをすると、I君ではなく入院初日に俺のひどい状態をデジカメで撮影したUさんと、もう一人の若いナースが来た。I君は別な患者で手がふさがっているというので、そのまま二人にガーゼ交換をしてもらう。
こっちはいい年したオッサンが半ケツ状態でオムツ一丁だが、もう羞恥心など捨てた。二人は俺のガーゼ交換は初めてなので、こちらが「拡げたガーゼにアズノールをまんべんなく塗ってもらって、被せてもらってます」とか指示してやってもらう。かなりアズノールは厚めに塗ってくれた。厚めくらいじゃないと、乾いてくっついたら剥がすのは地獄だから助かる。
それから二人が交換した汚れ物を持って出ていき、俺はパジャマに着替えて風呂道具を持って病室へ戻る。点滴ルートのカバーを外しに来てくれるはずなのでベッド上に座ってしばらく待っていたが、誰も来ない。だんだん中が汗で蒸れてくる。点滴ルートを止めているテープまで浮きかかったきたので、まずいと思って詰め所へ行くが、誰もいない。入口でうろうろしていると中年男性のナースが来たので「あのコレ…」というと「あー、はいはい」と言って病室へ一緒に戻り、ハサミで切って外してくれ、出て行った。
袋が取れてホッとした…ってオイ、ルートから伸びた管がプランプランしているYO!
普通はそのプランプランした管を二つ三つ折りにして輪ゴムで束ね、それを手首と一緒にネットでリストバンドのように包んで終わりなのだ。なのでベッド上にある外したネットを使って何とか一人でやろうとすが、管を束ねて輪ゴムで止めるのがまず無理。
仕方なくまた詰め所まで歩き、入口で再びうろうろしていると、さっきのUさんが戻ってきた。なので「あのこれ…」と言うと「ああ! ごめんなさい」と言って見てくれるが、ビニールの中の湿気と汗でルートがぶかぶかに浮いてしまったので、奥へ通されて、ルートを入れ直すことになる。
I君も戻ってきたので、彼に一回外して貰い、再び針を入れて、新しいテープで固定。ネットまでやってもらった。やれやれ、である。

病室に戻って今度こそホッと一息ついていると、おかあさんから電話が入った。
ご主人と買い物などのついでに、一緒にマンションへ行ってくれたという。猫のご飯や水は替えていただき、今まさしく猫トイレの前にいるけどどうしたらいいか、とのこと。
うちの猫トイレは箱形で、猫は入口をくぐって中に入り、用を足す。引き出し状の床は網目になっていて、消臭の直径4〜5mmくらいの玉状の「猫砂」が敷いてあって、その下がさらにもう一段引き出しになっている。
つまり猫たちは一番上の引き出しに敷かれた玉の上で用を足す。尿は下へ通り、下の引き出しに敷かれた尿取りシートに吸収される。便は玉の部分に溜まるので、時おり便だけをすくって取れば、尿取りシートは厚手のものなので、数日は交換不要というものだ。
ただその仕組みを説明するのは難しかったが、おかあさんは理解されたようで、
「うんうん大丈夫、じゃあやっておくし。あと何かあったらまた電話します〜」と言って下さる。
ご主人…おかあさんは「旦那様」と呼んでいるが、ベランダの植木に水までやって下さったというので、恐縮しきり。いやありきたりだけど、本当に有り難いです。
それから、お袋や子どもたちにもメールで報告。俺はともかく猫たちは誰かが世話をしなければ飢えてしまうし、トイレだって綺麗にしないと可哀想だ。本当に助かった。

その後、家の心配が一つ減ったので安心して、夜まで大人しく過ごす。というより大人しくしているしかないのだが。ソセゴンが切れてくると疱疹部の表面が焼けるように痛み出し、内部からは神経の痛みか、時おりナイフで切られるような激痛が走る。ただこの日は夕方から大人しくしていたら、表面の痛み以外は落ち着いていたので、寝る前のソセゴンはやめて、ロキソニンで我慢してみると夜勤のナースに伝えて寝ることにした。
毎日様子を見に来ていただく医師団のうち、男性のN先生の方が痛み止めについては主導しているようだが、その際ソセゴンは強い薬なのであまり常用はお奨め出来ないと言われていた。なので、出来るだけ我慢しようという試み。

そうして消灯前にベッドの背をゆっくり起こし、よりかかる格好でノートPCをあけ、昨日の「虹の奇跡」(「入院4日目 奇跡を見た」)を記録しておこうと打ち始める。
どうしても、あのことは記録しておきたかった。もちろんこのようにメモ書きでもいいのだが、退院したらテキストにするから、同じことだ。そう思って、キーボードを叩く。正対して打つとやはり当たり前だが速い。幸い痛みもそれほどでもないようだ、今日は調子がいい! そう思ってノートPCを閉じた。

つづく
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2009-11-02(Mon)

入院4日目 奇跡を見た

11月2日(月) 入院4日目

痛みの中必死で持って来ておいたUMPC(非力だが小さく、割合軽い)を、ベッドの背を立ててようやく打てるようになった。だが長時間作業は無理で、記録を休みつつ途切れ途切れにするのみ。それも痛み止めが効いている間しか出来ない。

この日「奇跡」を見た。

朝方4時ころには痛み止めが切れて、やはり体表部の傷の痛みと内部の神経のビクビクッとする嫌な感覚で目が覚める。神経痛と体の体表部の痛みのダブル攻撃はキツい。気持ちが沈むし、萎える。折れそうになる。
思えば三津子も、病を得てからはこういう事の連続であった。辛かったろう、苦しかったろう。自分の身に置き換わってようやく、ほんとうの辛さが文字通り体感出来る。
何より点滴はおろか入院さえ一度もしたことのなかった俺が、2005年に白血病を宣告されてから、彼女の苦痛を追体験するようなこと…体にメスが入ったり、腹部が膨満してしまったり、体力が落ちたり、こうして腹部の神経痛になったり…が続いている。俺たちはよく一心同体だと言っていたが、本当に同じようなことになってしまった。
そのままぼうっと寝ようと試みるがダメ。しかも痛みが強くなっていく。「絶え間なく痛い」のは辛い。
どうしよう、ロキソニン頼もうか…と迷ってるうちに軽くうとうとを繰り返し、5時半ころになった。もう今から薬貰って寝ようとしても、6時にはどうせ起床時間となる。しかも病院の朝は忙しいし、その上今日は月曜だ。
結局痛みはそのまま我慢していると、6時になるやナースコールがすぐ横のナースステーションでひっきりなしに鳴りはじめ、病院内がザワつき始めた。一日、一週間の始まりの喧噪。
こちらは6過ぎに検温と血圧測定に来たナースに、ロキソニンをついでにお願いした。病院では我慢強い人、控えめな人は損をする…ということは三津子を看病してきた経験でわかってはいるが、やはり自分もついつい「今忙しそうだし」「これくらいで呼ぶのは…」と遠慮してしまう。

昨日、今朝は8時から採血だから朝食はそれまで食べるなとのことだったので、8時ちょっとにベッドに渡してあるテーブルに届いた朝食を前に我慢する。パンといり卵、オレンジと牛乳小パックなどのトレイを前に「おあずけ」状態。結局忙しかったらしく、採血担当のナースが来たのはさらに30分後だった。
試験管4本血を採られ、終わってすぐ朝飯を食べる。この病院は朝食が特別に言わない限りパンなのだが、日替わりで暖かいものが出てくる。もっとも暖かかったのだろうがすでにビニール袋の中で蒸れてぶよぶよになっているが。その食パンにりんごジャムをまんべんなく垂らして食べる。朝食は完食。

その後今日の担当のナースが来るが、今日もN本さんだった。この人が丁寧かつてきぱきとしていて、一番安心する。バイタルのあと今日も9時から抗ウィルス剤の点滴開始。(よく点滴点滴、というが病院ではこれは「注射」の一つになる。静脈へ直接長く投与する注射、静注と言ったりする)これは1時間ちょいで終わる感じで、入院直後から一日三度欠かさず投入されている。俺の体内のウィルスを駆逐するには、これくらいやらなきゃ駄目なのだ。

それから今日の予定を相談。シャワーは11時からと午後からとどっちにしますか、というので今日は午後にしてもらった。傷を洗う意味もあるシャワーは、この体だと重労働で終わるとへとへとだ。なるべく後にしたいというのが本音。
N本さんは「じゃあお昼のあと、2時からの抗ウィルス剤点滴を早めに落として、続けて強い痛み止め(ソセゴン)を落として、3時半からシャワーにしましょう」ということにしてくれる。痛み止めの強いが効いていないと、とても疱疹部の糜爛を洗浄することなど不可能だ。実際はそれでも激痛なのだが。

その後は痛み止め(ロキソニン)が効いている間に、UMPCにe-mobileで夕べのうちにデータを落としておいた仕事をやろうと試みる。こんな状態で殺生だが、仕事に穴はあけられない。他人にも頼めない。とにかくやっつけるが、マシンの非力さより通信の遅さがしんどい。
何せベッドの右脇にあるテレビ台の下のトレイにマシンを置いてあるので、そこに正対して作業をすることが出来ない。体をねじったりひねったりすると激痛に襲われるから、体はベッド上に仰向けに寝たまま、小型のモバイル用マウスをぎゅーっと延ばし、斜めに首だけを傾げて画面を見ながらの作業なので、汗だくだ。
ただこの日の作業はファイル変換や転送といったキーボードをさほど使わないものなので、何とかかんとか昼をはさんで終えられた。痛みと姿勢を変えられない中でだったので、へっとへと。

昼飯はちらし寿司だった。お吸い物と忘れたが何かついていたが、まずいのはもう解っている。ちらしの上には固そうなうなぎの蒲焼きがほんの一切れ乗っかっている。食ってみると案の定、うなぎは固く皮はゴムのよう。うなぎだけは関東のように蒸して焼かないとダメだろう。3口ほどでとても食えず、お吸い物だけで諦める。もともと朝食も遅れたしそんなに腹も減ってなかった。
それからすぐに下の売店へそろそろ歩きながら行く。痛いが足が萎えないようにという意味と、病室ばかりだと気が滅入るからだ。その辺のお年寄りよりさらに遅い速度でじりじりと壁の手すり伝いに歩く。一歩一歩が拷問のようだ。伸びた髪を束ねる髪留めとお茶のペットボトルの大きいの、夕飯までつなぎがいる場合に備えてマドレーヌの小さいのを一つ。帰りはその荷物の重さが体にきつい。
6階の病棟に戻ってくると、もう疱疹部分というか右腹部から足の付け根までが激しく痛み出した。まずいまずいとつたい歩きをしながら部屋に戻り、ベッドに横になる。疲れた。そしてどこもかしこも痛い。辛い、しんどいキツい苦しい。

戻るとすぐにN本さんが来て、午後の点滴開始。
抗ウィルス剤が入ると、いつも右足の付け根のあたりの、内部がもぞもぞと変な感覚に襲われる。中に虫でもいてうごめいているような、気持ちの悪い嫌な感じだ。これが突然前触れもなく始まると「ううっ!」と声が出て体がビクンと跳ね上がるほど。神経痛の一種なのか。こんなので社会復帰出来るのだろうか。
ケロイド状になってしまった右の背中から腹部、腰にかけての疱疹部分は、疱疹による皮膚の糜爛(びらん)と水疱が破けたり潰れたりした「外傷」なので、常に必ず痛みがある。表面は重度のやけどがただれたようなものだ。常にビリビリと激痛が全体にある中、時おりスッ、スッとランダムにカミソリで切られるような強い痛みに襲われる。さらに突然、MAXに近い猛烈な強い痛みがあると思わず「ヅウッ!」とか声が出る。
それら体表部の痛みとは別に、ウィルスによって破壊・傷つけられたのだろう、体の内側が痛む「神経痛」もあって、さらにそれは痛みと虫がうごめくような「もの凄く嫌な感じ」も加わる。
こんな拷問があったら、きっと誰でも何でもすぐに白状すると思う。

点滴が落ちるのをぼーっと眺め、それから窓の外を見る。

今日は午前中もこうして空を見ていた。そうするしかないから。
大文字山から吉田山のこんもりした緑の奥に比叡山の裾野が重なる。もっともベッドの位置からはその間しか見えないが、雲がけっこうな速度で流れていく。比叡山の左手から大文字山の方へ動いていく。

三津子、お互い二人で生きていた頃はよく、どちらかが先に逝ったら、必ず相手のところへ来てお互いを守ろう、そしてそのことを解るように知らせようと話し合っていたね。
今まで君は色々なサインをくれたけど、はっきり君の姿をもう一度見たいよ…。
「病院で幽霊」なんか怪談そのものだけど、それが君なんだとしたら、俺はむしろそれでもいい、歯磨きの鏡に背後に立ってたって驚かない。夜中にベッドの上に浮いていても構わない。抱きしめたい。逢いたい。
雲が君のかたちにならないか。せめて何かの文字やサインを示してくれないか…。
そう思って眺めていたが、結局午後はいつの間にか曇ってきたと思ったらけっこうな強さの雨になった。「ひょおお」という音がするので、ちょうど入ってきた掃除のおばさんに
「あれ風の音ですか?」と聞くと「あ、そうですねえ。何やら雨もけっこう降ってますわ」と言われた。その後しばらくすると同じおばさんに「これから窓の掃除しますんで、カーテン閉めた方がいいでしょう」とのことで、カーテンも閉められた。ここの窓はもちろん中からは開けられないが、よく見ると鳥の糞の飛び散ったのがついていてけっこう汚れていたので、掃除はいいタイミングだと思った。何せこちらは窓を眺めているしかないから、綺麗に超したことはない。

俺の個室は今ナースステーションの真横、談話スペースの裏、という最悪な場所だが、眺めはすこぶるいい部屋だ。東を向いているので大文字山〜吉田山〜比叡山が見渡せる。もっともそれら全てを見渡すには窓際まで立って行かねばならない。ベッドからはその一部分しか見えないが、吉田山の背景に比叡山の稜線があり、青空に雲が流れる光景はヘタなテレビよりも和むものだ。

それにしても、朝の鎮痛剤ロキソニンはもう切れたので、ベッドの上で姿勢を変えるのもしんどい。体を起こすのさえ、もの凄い「苦闘」だ。ベッド上で体を起こし、さらに体勢を変えてサンダルを履き、立ち上がる…というこれだけで重労働になる。なのでテレビもあまりつけず、ただじっとしていることが多い。考えること、思いは三津子にばかり向かう。
抗ウィルス剤が落ちきり、一回別なナースが来て外して出て行った後、ナースのN本さんが来てシャワー前の強い痛み止めソセゴンを続けて落としてくれた。小さいので30分くらいで半分以上入る。これが効き始めると、皮膚の焼けるような切られるような激痛が多少弱まり、内部の神経の嫌な痛みも緩和される。これがないとシャワーで疱疹のケロイドを流し洗うなんてことはとても出来ない。

3時前に予定通り鎮痛剤も終了し、いったん点滴を外してもらい、シャワー室に行く支度。鎮痛剤が効いている間だけが「勝負」だ。よいしょと体を起こし、いったん支度をしに出て行ったナースを見送った後、こちらはシャンプーとボディソープ、かかとをこする軽石とタオルの入ったビニール袋、バスタオルを準備。てきぱきとしているように感じるかも知れないが、これでも普段の数分の一の速度だろう。
支度を終えてナースを待つ間にふう、と一息ついてから窓へ歩く。
カーテンを閉め切っているのは嫌いなのだ。
窓ガラス清掃があるというので閉められていたカーテンをシャッと一気に開けて、息を呑んだ。

虹だ!

それも右手は大文字山のふもとの寺の三重か四重の塔を出発点に、比叡山をバックに左手は町中に落ちるまで全部が見える。





虹 右端
虹 中央
虹 左端


ああ、「虹の橋」だ…

ベッドにふせっていたら視野角度的に見えなかったし、気づかなかったろう。
痛み止めが効いていなかったら、例え気づいても窓までは行けなかったと思う。
そして何よりあのままシャワーに出かけていたら見られなかっただろう。
まさに今しかない、このタイミングで…。

そうか、三津子、「君」だね。
「あなた、頑張って」
そう言っている声が心の中で確かに聞こえた。

はっきりと、わかる「サイン」がこれなんだね。ベッド脇に置いてある、彼女の小さな写真を思わず振り返るが涙でゆがむ。写真の手前にある携帯を手に取って窓際まで戻り、写真を撮った。鎮痛剤のお陰で動きも少し楽だ。まさしく「今しかない」というタイミングの完璧な虹。何枚か写真に収める。
凄い凄い凄い、こんなの生まれて初めて見たよ。虹の始まりから、終わりまで、それが街中、しかも京都の俺が入院しているこの部屋から全てが、今、見られるなんて…。感動で震えるほどだ。
戻ってきたN本さんが背後で「うわー!虹!」と大声を出した。平静を装い、鼻をすすりながら「凄いでしょう、端から端まで見えますよ」と窓際に誘うと「ほんまやー、こんなん初めてやわ−」と言ったあと「みんなに教えてこよ」と踵を返して走り出て行った。
その間にも何枚か撮影した。携帯のカメラなので、どうしても綺麗に取れない。「今ここで見えている光景の凄さ」が切り取れないのがもどかしい。
だけどもういい、ありがとう三津子。心折らず、何とか耐えてみせる。頑張るよ。
それからすぐN本さんが戻ってきて、「患者さんもみんな見てましたわ〜」と言って、また窓の外を見る。こんな「奇跡」を目の当たりにすることは、普通の人でも嬉しいだろうし、俺にとっては何よりも特別なことだ。
俺が「これで治りますね」というと「ほんまですね!」と言われる。そして「さ、じゃあ行きましょうか」と促され、シャワー室へ向かった。
着替え中にタオルの小さいのを忘れたので取ってきて貰うと、「虹もう消えてましたわー」と言っていた。やはりホンの一瞬の「奇跡」だった。

いろいろ準備を終えて、今日は出血の具合を報告するためにガーゼを外したのを持ち、いったんN本さんは出て行った。外したガーゼのそこここには血膿のひどい汚れがついている。俺は紙おむつを脱いでゴミ用に持って来た袋に入れて口を縛る。入院初日に生理食塩水で傷を洗浄された時に、履いてきた下着のトランクスはビショビショになってしまったので、履き替えさせられたオムツだ。
この年でオムツ…ということも心が折れそうになる要因の、たくさんあるものの一つだが、もう洗濯ものが溜まって結局後で大変になることや、そもそも着替えを取りに行ったり買い物をすることもしんどい今、使い捨ての紙おむつがどれだけ助かっているかと、前向きに考えることにしている。というより、もはや体裁もプライドもヘチマもない。
それにしても疱疹部分全体がひどく痛い。ぬるめの湯で弱くとはいえ、シャワーで流せているのは強力な鎮痛剤が効いているお陰だ。一通り洗い終え、疱疹ケロイド以外の体をそっと拭いて、替えのオムツを鼠蹊部まで挙げた状態でナースコール。
N本さんが来てくれて、ガーゼで疱疹部分を軽く押さえるように水滴をとってもらい、さらにアズノール軟膏をヘラでまんべんなく塗って薄くのばした大きいガーゼで疱疹部分全体を覆ってもらう。アズノールが薄かったり塗りもれた箇所があると、そこにケロイドがくっついてしまって剥がす時に大変なことになる。

「ああ、背中はずいぶん良くなりましたねー」と言ってもらって、こちらもホッとした。軟膏を塗ったガーゼでつぎはぎのように疱疹部分をまんべんなく覆ってもらい、テープでずれないように固定し、オムツを上にあげ、パジャマを着て終了。
いつもながら看護婦さんって重労働だ、大変だなあ、と思う。それにこんな作業工程は自分一人ではとても無理だったし、そもそも点滴治療が必要なほど弱っていたという自覚もなく、ほっといたらウィルスは増長し傷は雑菌に感染して化膿し、苦痛に転げ回った挙げ句動くことも出来ずに死んでいたかも知れない…。
N本さんにお礼を言っていったん廊下の手すりをつたいながら部屋に戻り、テープが足りなかったガーゼ部分を補強してもらって終了。すぐ洗濯室でドライヤをして髪を乾かして戻る。

ゆうちゃんに携帯で、撮った写真と虹のことをメールすると、すぐに「凄いね」と返信。
とにかくソセゴンが効いている間が勝負なので、今日の「奇跡」を記録しておこうと、UMPCをベッド上のテーブルへ移動させ、ベッドの背を起こして正対して記録。それがこの文章だ。
キーボードが小さいので打ちにくいが、脇にあるのを右手だけで斜めに打つのよりははかどる。
今、この記録をつけ終えて夕方の5時25分。雲が低く垂れ込めているので夕焼けもなく、もう夜のような暗さになった。東山は黒くなり、比叡山は雲の奥に見えない。

有り難い、感動の体験だった。

生きる希望を貰った。ありがとう、三津子。
君のために、もうちょっと我慢して生きてみるよ。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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