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2009-12-31(Thu)

年越しの料理

12月31日(木) つづき

午後、明青のおかあさんから携帯に電話がある。
これから年末のお得意様まわりをするので、こちらへも寄って下さるということ。

「明青」さんに入ったのは偶然だった。
一昨年、夫婦二人で京都へ来て、あの素晴らしい割烹と出逢うことが出来た。ネットで調べては夫婦で近隣の店を探索するのが、何より楽しみだった頃。
北大路の少し東側にある居酒屋を目指して、うちから二人で散歩がてら歩いて行ったら、目当ての店は学生や若い人ばかりで、しかもまだ早い時間だというのにガーッと盛り上がっていて、うるさそうだった。
「これは俺たちのような年代が入る店じゃないな」と二人で顔を見合わせ、「どこかあるかも知れないから…」と不安なまま、高木町を西へ歩き出した。間もなく左手に居酒屋が見えて、その脇の階段を上がったところが「明青」さんだった。

もちろん当時そのことは知らず、ちょうちんとメニューが出ているのが見えたので、「あそこに何かお店があるよ」という感じで歩いて行った。一階の居酒屋を覗くと女将が暇そうに空の店内を睥睨していた。二人で無言で顔を見合わせ、目で会話した。「ダメだコリャ。」
「この上もお料理屋さんだね」と彼女が言うので見ると、二階へ上がる階段の脇に、スタンドにメニューがある。そこには手書きの墨文字でおすすめ料理が書かれていた。旬の料理が並んでいたが、何より、メニューが手書きであるということは、毎日仕入れや仕込みをして、季節ごとに旬のものを料理しているところだと思った。
理屈より、夫婦長年のアンテナで引き寄せられたと言っていい。

普通なら二階の、それも一見の割烹には絶対に入らないと思う。というか、これまでずっとそうだった。ガラッと入った途端、常連さんたちのざわめきが一瞬止まり、我々に好奇の目が注がれる…そういう気まずい雰囲気は苦手なのだ。しかもここは京都だ。
なのに、その時はなぜか二人とも「ここなら大丈夫」という確信に近い予感があって、階段を上がった。当時の日記を見返すと、2007年、9月26日・水曜日だった。

「・・・夜になると満月が明るく綺麗で、空気も涼しくほどよい。北大路をちょっとだけ歩くと、左手にビルの2階へ上がったところへ明青という割烹があり、お品書きを見るとお造りや料理もしっかりしてそうなので上がってみた。
 客は誰もおらず、和服のおかみさんと板さんだけだった。こちらは一見さん、ここは京都だし地元のお客さんだけなんだろうな、と思ったが、二人で長い黒塗りのカウンタへ座り、俺は生、三津子は純米酒を頼む。
 突き出しにはキュウリとアナゴを薄い玉子焼きで巻いた小さな巻物、鶏レバと思しき煮物が出るが、レバは柚子コショウで風味付けしてあって臭みが全くなく、噛むと旨みが染み出してくる。
 これはタダ者ではないなと思い、三津子の顔を見ると、俺の目を見て「いける」と無言で伝えてきた。
 俺も同意見なので、お造り盛り合わせ、アジのたたきを頼む。
 アジは実に新鮮。刻みしょうがと大葉の刻んだのをまぶしてあり、すこぶる美味。シマアジってこんなにシコシコしていたか。これほどに身にうま味があったか。東京の居酒屋でもリーズナブルな定番メニューだが、これほどの鮮度と味にはまずお目にかかったことはない。

 俺たちはすっかり嬉しくなった。幸い(?)俺たちが早かったせいか、お客さんがしばらく来なかったので、おかみさんが気さくに話しかけてくれて、話もはずんだ。おかみさんは山梨、板さんは日光だそうで、ずっと東京に住んでいたと聞いてビックリ。
 お二人とも京都には20年ほど前に来て、板さんは祇園で修行をした後、7年ほど前にこの店を開いたという。関東の人間が京都で食い物屋をやるというのは素人が考える以上に大変なことだろうに…と思いつつ、この腕なら「さもありなん」と味わう。
 銀杏を頼めば銀杏の枝が添えてあるのも嬉しかったし、よもぎ麩の田楽はアツアツで外はカリカリ中はもっちり、味噌の味とあいまって絶妙のうまさ。
 俺は生4杯、三津子は純米酒を3杯も飲み、最後はエビと豆腐の揚げ出しでしめた。ご夫婦は気取らずお住まいもご近所さんということもあり、すっかり俺たちは満足して、タクシーで帰宅・・・」

昨日のことのように思い出す。この日は満月だった。

タクシーを拾うために北大路を渡り、コンビニへ寄ったあと、三津子は上機嫌で空を見上げて「ほら、お月さんがまん丸だよ」と指さした。
幸福な夫婦の時間だった。

もう三津子はおらず、明青さんの素晴らしい料理を楽しむ機会は激減した。
一時は三津子の学校勤務の前日と、終了する日の夜、週に二回は必ずお邪魔していたのに、俺は一人で行くことがいまだに出来ずにいる。カウンタに座れば、隣にはいつもあの人がいた。一人でそこに居られる自信がまだ、ない。
関東から知り合いが訪ねて来たり、何かの折りにはお邪魔させていただくだけの、もう常連とは呼べぬお付き合いになってしまった。
それなのに、明青さんご夫妻は三津子が亡くなったあと、いつも俺の体を気遣い、ブログに更新がなければ何かあったのかと心配して下さり、先だっての帯状疱疹の入院では猫のご飯や水はおろか、トイレ掃除までして下さった。俺たちが二人とも病人であることを明かした後は、おかあさんはいつも比叡山に手を合わせる時、俺たちが健康であるように祈ってくれたという。

この感謝を、有り難い「ご縁」などと軽々に言うのさえおこがましい。それほど、ご夫妻には感謝してもしきれない。
明青さんにいただいたお料理
マンションの下に降りて郵便物と新聞を取って待っていると、数分でおかあさんが小走りで紙袋を下げてきた。
「元気してた?大丈夫?」と満面の笑顔。差し出されたのは、去年もいただいたお料理と丸餅、そして三津子への小さな花束だった。
明青さんにいただいたお花

「紫をイメージして」と言って下さった。有り難くて涙が出そうだったが、何とか堪えて、頭を下げてお礼を言った。
すぐに花を花瓶に移し、いただいたお料理を三津子の写真に見せた。風呂へ入ってから、今日は夕方からまた一杯やろう…。

今年は君が天国へ先に逝ってしまった、俺にとってみれば人生最悪の年だった。自分が癌になってから5回目の正月を、まさか俺が一人で迎えることになるとは、夢にも思わなかった。
それでも俺はまだ生かされている。たくさんの人に支えられて。
うちのおせち

年越しの陰膳
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2009-12-31(Thu)

大晦日の「メッセージ」

12月31日(木)

夕べは晩酌はそこそこに、あとはずっとテレビをザッピングしていた。どこも年末特番で長い番組が多いが、それなりに面白い場面もあれど無理矢理に伸ばすことによって薄まっているとしか思えない。ゆえに日本酒を水で割ったような感じ…ちょっと違うか。
寝室に上がってしばらく元プロ野球選手のその後、みたいな番組を見た。
あの「ドカベン」香川が透析を受けているとか、元近鉄の加藤哲が舌禍事件以来その後も自身の口が災いして不遇であったとか。その他にも数人出たが詰め込みすぎで、後半バタバタと駆け込んだ印象。ドキュメンタリというには突っ込みが中途半端で、一人に絞った方が良かったんじゃないかという印象。
1時過ぎにユキが布団に入ってきたので、そのまま一緒に寝る。
夜中何度か出ては戻ってきて、そのたびに「にゃあ」と言うので起こされつつ、浅い、薄い眠り。朝は9時ころまでゆっくり布団に居る。というより猫が体に体重をかけているので動けなかった。それと、今朝は気温も低かったようだ。

外は晴れ、ただ風が少しあるようす。陽射しは強く冬の薄青い空に雲がすーっと流れていく。もう大晦日だ、今年も終わるのかと考えると、このままガラガラと人生の後半、時間が崩れていくような気がする。早い。
年末だが体力的に大掃除は無理。三津子が生きていた時も、ここ数年は二人とも病身ゆえ、やってもせいぜい簡単に水まわりや掃除機をかけたりする程度だった。
今年は起きて洗顔などの後、猫のご飯まわりを綺麗にしてトレイや食器も洗ってやり、台所、人間のトイレと猫のトイレを掃除した。それだけでもうヘトヘト。朝風呂に入る気満々だったのに、後に回すことにする。

パソコンを見ると、ツイッターである人が名前を入力するとその人の「今年の漢字」が表示されるサイト(一文字 2009 俺様jp)を試していたので、軽い気持ちでやってみる。よくある簡単なプログラムによる占いの類と同じものだろうが、本名で入力してみたら、驚いた。
白取千夏雄の今年の一文字、俺に表示されたのは、「生」…。

たぶん「プログラム」とも呼べぬ簡単なスクリプトだろう、無作為に俺の漢字の組み合わせからたまたま抽出した漢字が、「生」だろう、そこに何ら人為的な意図など入っていないだろう。
けれど余りに…、と心臓がドキッとした。
「生きて」
こういうところに「誰かからのメッセージではないか」と考えてしまう、それが非科学的だと一笑に付されることは解っていても。
今年は最愛のひとを失った、半身引き裂かれ生きる気力も一時は失い欠けた。彼女の死後、彼女からさまざまなメッセージを受け取った。全て「偶然だ」「科学的にはこうだ」と言う人は言うし、きっとそういう人たちにとってはどんな奇跡も偶然なのであろう。それはそれでいいし、それらは間違いなく「偶然」だろう。

今年は何度、彼女から、他のたくさんの人から「生きて」と言われただろうか。
いや、癌宣告を受けた2005年の夏から、三津子が死ぬまでずっと祈ってくれていたのは、「俺が生き続けること」だった。俺が彼女の生を、二人が一日も長く一緒にいられるように祈ったのと同じように。
彼女は恐らく、いや絶対に、自分の体のことよりも俺の体を気遣ってくれていた。夫婦で馴染みのお店にお邪魔して、何ということはない世間話の時でさえ、俺の体のことを話すと涙ぐんでいた。泣きながら笑っていた。
冗談めかして「大丈夫、死んだら俺が守ってやるから」と言ったが、酒の席だというのに本気の顔になって「ダメ、あなたが先に逝ってわたしが遺されたら、すぐ死んじゃうからね」と睨んだ。
つきあい始めで発情している中学生カップルではない。四半世紀も一緒に過ごしたいい年の夫婦だ。ここ数年は二人大まじめで、二人で出来るだけ長く暮らそう、と話していた。
色々な人生の山坂を乗り越えて来て、お互い病気を得た。たぶんもう人生の最後に近い、そこに訪れた穏やかな幸福の時間。この京都での夫婦のささやかな贅沢、その時でさえ彼女は「クソ真面目」で「バカ正直」だった。人生、常に「まっすぐ」な人だった。

軽い戯れ事とはいえ、連れ合いを失った年の最後に、「生」という文字が出てしまうことに、俺は動揺した。
このところ、いや彼女を失ってからずっと、そしてここしばらくは特に、「何かメッセージがあったら解るように教えて」と思い、願い続けて来た。色々なことがあった。
これもそのうちの一つ、今年最後のメッセージだと考えよう。

俺にとって今年の年末〜年始は、新年を迎える慶びの時間ではない。
最愛のひとの死を見つめ、うちのめされ、耐えに耐え、さらにそれを乗り越え何とか生きて行くこと…につなげていく、これまでの時間の連なりに過ぎない。
「おめでとう」はなく、ただ皆さんには「良いお年を」とお伝えいたします。


★このサイトは大晦日しか試せないそうです。
色々な人が遊びで名前を入れたりハンドルでやったりしていますが、「仏」とか「汁」だったと笑っていました。そんな中で、俺のツイッターのハンドルである「shiratorichikao」で試したところ…結 果
このあまりの符合はひょっとして…
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2009-12-30(Wed)

かたちある「本」の未来

個人が印税35の電子書籍を出版できる時代 - Amazon Kindleの衝撃:in the looop:ITmedia オルタナティブ・ブログ


今はモノとして存在する「本」と、電子出版という実体のないメディアとの過渡期にあると言われて久しい。
俺の周辺にも、けっこうそのアタリに関わっている人が多いので、そういう話題はよく聞く。マンガなどの絵の入ったコンテンツは難しかろうと言われていたのはもう十五年以上前の話で、テクノロジの進化はもはやマンガもデジタルで、それもお手軽に携帯で見られる時代に突入している。
一時期、「ケータイ小説」つまり「携帯向けに特化させた小説」、センテンスを短くしたり改行を多くしたり、まあ読み手のこと…と「読み手の端末」に配慮して書かれたものが話題になった。(有名なのはプロのもの書きからはボロカスに言われていた「恋空」である)
これと似たようなことがもうちょっと前にあったな…と思ったら「ライトノベル」だった。今回の話とは全然関係無かった。いや、少しあるか。
ともかく、ハード面での画像処理能力の向上、回線インフラの整備とスピードアップなどで、俺が「ガロ」の頃に「電子出版コンソーシアム」の立ち上げの会合へ顔を出した時との激変ぶりは、その後実体験してきてよく知っている。(関連…「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その6

携帯電話のあの狭苦しい画面に、紙媒体で発表することを前提に描かれたマンガを表示する場合、コマを切り出したり、うまいこと変形させたりと、かなり面倒な作業が必要になる。1ページ全体を無理やり縮小表示させ、その一部分をクリックしたら拡大…なんてまどろっこしい作業は、本来の紙媒体の利便性の対極にあるものだから、やはり相容れない部分が多い。
だが、最初から携帯に表示されることを前提として描かれたマンガなら、そのあたりのイライラ感も無いだろうし、若い学生などに聞くと何の違和感もなく操作して楽しんでいるということだ。
つまり「紙媒体の発表を前提に描かれた作品」と「携帯端末での閲覧を前提に描かれた作品」との2種類が今存在している。で、ハードとソフトの進化はその垣根をどんどん曖昧にしつつある。

今話題のAmazon Kindleは、使った人のレポートを見る限りでは、「よく出来ている」という印象だ。「本を読む」という行為をじゅうぶんに意識し、その代替いや進化形としての端末であるということで作られている。今のところ活字しか読めないが、今後マンガなどへも対応していくことは必定だろうな、と思う。
このAmazon Kindleが「本を読む」という行為をスムースに補完し代替していくのかどうか…はともかく、斉藤 徹氏のブログを読んでもっとも考えさせらるのは、今後の「出版業界への個人参入」の敷居を大きく下げる、という部分だろう。

今、日本の出版流通は
作家(書き手)→版元→取次→書店(やコンビニ)
という流れになっており、作家と版元の間で交わされるのは概ね10%という印税額=作家の取り分だ。
Amazonの場合は版元と取次が不要になるので、そのマージンが消え、印税額が35%になるという。
一応同人誌ではなく、書店(Amazonも当然そうだ)を流通させるためには、ISBNコードや雑誌コードの取得が必要だ。雑誌の場合は取次が認可しないだろうから個人の取得は絶望的。しかしISBNコードなら、斉藤氏の文中にあるように、個人でも時間と金はかかるが取得出来る。
これまでISBNを個人で取得したところで、取次を通じて全国の書店へ展開できなければ意味がない=版元でない限り無意味だったので、自費出版でOKという場合が多かった。
しかし「Amazonでの電子書籍登録がオンラインで誰でも簡単に」行えるようになると、作家は個人でISBNを取得(日本図書コード管理センターの「図書コード取得のご案内」参照)して、作品をいつでも個人で「出版」することが出来るようになる。
「本というかたち」にさえ拘らなければ、作家にとってこの印税パーセンテージは大きいし、自費出版にしても初期投資額がケタ違いに安くなる。(だいたいまあごく普通の書籍を一冊作ろうと思ったら、200万〜300万くらいかかると思えばいい)
ただここで考えるのは、「そうなったらどうなるか」だ。
もちろん、これまではブログで発表しそのうちどこかの版元の目にとまって、出版して貰えるのを待っていたような「アマチュア作家」たちが雪崩を打って「個人出版」へ参入する…ということは想像がつく。
ただ俺の場合は、出版社や編集者というのは「作家」と「世間=読者」をつなぐ橋梁のようなもの、フィルタのようなものだと思っている。(また僭越承知ながらもっと言えば、玉石混淆状態から玉や原石を見つける役割もあり、それを磨いていく役割もあろうかと思う)
つまり昨日の記事(「コミックギア」が2号で終了)にも関連するのだけど、そういう「フィルタ」を通さないものが大量に出回ってしまうと、要するにそれは今のインターネット上で発表されている玉石混淆のコンテンツの中から、どうやって「玉」を探すのか、非常に難しい時代になる。そのフィルタ、つまり審美眼のようなものを「編集者」などという訳の解らぬ存在に任せんでもいい、俺が面白いと思えばそれでいい…そういう時代になりつつある。こうした一種のメディアリテラシー的なものが自分個人に求められるというのは、ネット隆盛となり、テレビや新聞という与えられるメディアではなく、好きな時に好きな情報だけを取り入れる人が増えた状況と同じになるのではないかと。
それでいいではないか、と言う人も多くそれはそれでいいが、ただ、ネットに溢れる「情報」「ニュース」「話題」も、アップした「誰か」というフィルタを通している。そのフィルタが信頼できるかどうかを見極めるのは、けっこう大変で、大変だから「編集者」「記者」が存在していたのだが、フィルタ部分を否定されれば、あとは実務としてただ、自分は意見を挟まずに黙々と本を…それは実際の本でも電子データでも…作る「作業をする人」でいいということになる。

現実にはまだ今、「ネットで話題の」とテレビなどのマスメディアに紹介されて、はじめてそこで「本当の世間の話題」になるかならないか、というスタートに立つ。「ネットで話題」の段階では、世間一般への認知度はそれほど高くはない。「世間」が「ネット」と限りなく一致するような状況になるにはまだ十数年かそれ以上かかりそうだけど、まあいずれはそうなるだろう。
この膨大なネットの中で日々発信される「つぶやき」から「ブログ」からマスメディアのニュースサイトまで、「アクセス数」の多寡で認知度が大きく変わる。大手通信社が配信したニュースでも誰も顧みないものもあれば、個人発信のものでも2ちゃんねるにスレが立ち、それをニュースサイトやブログが取り上げ、さらにそれをツイッターが拡散し、もの凄い勢いで伝播していく…ということも現実に起きている。当然ウソやデマ、あるいは悪意ある誹謗中傷も同様に拡散し、それを否定するには膨大な労力と時間がかかり、事実上は無理だ。
よく言うけれど、ラーメン評論家でもグルメでも何でもいいが、人の舌ってあまりアテにならない。好みは人によって違うし、万人誰もが「うまい」と認めるものは最大公約数的でつまらん味になるかも知れない。元もと味も含めて「好き・嫌い」という極めて個人的な感情を、他人に説得力を持ってどう伝えるかは大変に難しいこと。だから逆に「好き!」「嫌い!」と短く言う方が説得力があったりもする。理由もなくそう言われてしまえば、他者には反論の余地もない。何しろその人の主観に他人は「ああそうですか」としか言えないだろう。

ほんとうに「読むべき価値があるもの」など、もう誰にも解らない。
我々「紙の本」世代の、それも発信する側に携わる者は、これまで「この本を世に出すべきか否か」という立場にいて、常にそのフィルタの役割を果たしてきた。いや、とってもまあそういう「上から目線」ではなく、「この作家さんの作品をもっとたくさんの人に知って欲しい」という気持ちで送り出していた。
しかし個人出版になれば「俺が俺の作品を勝手に世に出したいから出す!」でいい。
これから大変だなあ、いろいろ…と率直に思ってしまう。

先日ある週刊誌を読んでいたら、学生の質の低下が著しく、論文の参考資料欄に漫画を平気で掲載したり、Wikipediaの記事をまんま引用してきたりする…という例が載っていた。もちろん、大学生の劣化ということはそれだけではなく社会的常識に欠けるとか、躾を受けてないのか幼児性が抜けないとか、達するべきところまで成熟しきっていないという指摘も多々あるうちの一つで、そんなことはずーっと繰り返し言われ続けて来たことだ。
「知力の低下」ということを考えると、自分も偉そうに言えた義理ではないが、それはもう明らかに自分の若い頃から比べればそうだと思うことも、確かに多い。何しろ読書量の低下は留まるところを知らない(むろん「漫画」は読書のうちに入らない)。
「本を読む」ことが「知力の向上」に直結はしない、そんな子どもみたな事を言うつもりはないが、俺の場合強制的に「活字を読まされた」世代。「読書」に何を求めるかは強制されたから娯楽へという人もいれば、強制されているうちに知的好奇心を満たす方向へ向かう人もいた。まあ要するにそれもこれも「本を読むという習慣」が早くから無理矢理でもいいから叩き込まれた結果であることは事実。いい・悪いの話ではなく、現実の話だ。

ただ、ここでいう従来の「読書」はもちろん紙の本のことだけど、これからはネットや電子書籍の「本」も読書量に入れなければ、正確なことは言えなくなる。
誰かがパソコンの画面は果てしなくスクロール出来てしまうので、「本」の見開き単位での記憶への残り方に比べると、やはり薄くなってしまうというようなことを書いていた。福岡ハカセだったかな。Amazon Kindleはそういう意味では「本を読む」感覚に近くなるよう配慮されているそうなので(ページをめくる、という感覚など)、これからはAmazon Kindleに限らず他社からのものを含めた、ああいう電子携帯端末の「画面」が「本の一頁」の記憶に代わっていくのだろうか。


今日、ちょっとどうしても読みたくなった本があって、我が家の二階を探した。
引っ越してからゆっくり、連れ合いと二人で山のような段ボール箱をちょっとずつ整理して、本棚に収めていった。8畳の寝室の壁面2つを使った本棚が満杯になったが、本の箱はまだ20箱以上残った。それらも、連れ合いの三津子が亡くなってから、彼女の「やまだ紫」としての掲載誌や原画を探したりする過程で、調べていった。
その過程で、自分が学生〜青林堂時代に集めた貴重な漫画の本がゴッソリ欠落していることが判明した。このことはもうすでに書いたけど、あるはずのもの…例えば青林堂の「現代漫画家自選シリーズ」ほぼ全巻とか「傑作シリーズ」全巻、その後の貴重な絶版となった本…が抜け落ちていて、とっくに捨てたと思っていた、小中学生の頃に集めていた星新一や小松左京、筒井康隆などの大量の文庫本がなぜか見つかった。
文庫本、それも30年も前のものなど売るにも売れずただのゴミなだけ。しかしまあそれらも懐かしいものなので、いずれまた読むかも知れないと思いつつまとめておいた。
結局今日も捜し物は見つからず、忘れていた十年ほど前の本の箱が出て来たりして、脱力。
しかしこうして山のような本を見ていると、電子書籍は「データ」なので場所をほとんど取らず、最初からIndexがついて分類されているようなものだから、検索にも便利だよなあと思う。

本は、これからはその「存在」を楽しむ「高級な嗜好品」になっていくのかも知れない。だとしたら、「いつも傍に置いておきたいもの」「目で見て手で触れたりしたいもの」としての、愛すべき「かたちある本」は無くならないと思う。
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2009-12-29(Tue)

「コミックギア」が2号で終了

漫画家だけで作る編集者不在のマンガ誌が出版中止に - Ameba News アメーバニュース

いつも漫画関連の情報を教えてくれるT君から、このニュースと関連して2ちゃんねるに立ったスレを教えてもらって、それぞれしばらく目を通した。
「漫画家だけで作る編集者不在のマンガ誌」というのはもちろん芳文社の「コミックギア」のことだけど、来年早々に発刊予定だった3号が出版中止となったそうだ。つまり2号で終わった、ということ。
このことを「カストリ雑誌かよ」と年配者のようなツッコミを入れる御仁もいたようだが、単純に考えて「売れなかったから、中止しました」という一点に尽きるのだろうと推察する。
まあ、出版不況と言われて久しいし、そのことについてはずいぶんとここでも色々雑感を述べては来た。(→考察【出版不況】
このところ聞こえてくるのは同業者、知人友人仲間たちからの「本が売れない」という悲鳴に近い嘆きばかりである。その理由を単に「不況だから」と言うのでは思考停止。

さて、「コミックギア」がスタートした時点では話題になったこともあり(業界内では)、リーダーのヒロユキ氏のアジテーションも読ませていただいた(公式サイト内で読める)。
彼はその中で

普通のマンガ誌は、編集者と漫画家が一対一で打ち合わせを重ねて作ります。
掲載されるマンガ家同士は、基本特にお互いの作品にタッチすることはありません。

それに対し「コミックギア」は
連載作家全員が、毎日一つの仕事場に集まり作業をし、
マンガ家同士が、協力し合って作っています。

と述べている。
この時点で、彼の言う「普通のマンガ誌」が恐らく、一ツ橋や音羽系を頂点とするいわゆる「メジャー系」であることが大前提であることは自明だ。それに対して「ギア」のやり方は、その対極にあると言ってもいい「同人誌的手法」であろう。
プロの編集者が介在しない本は普通、同人誌になります。
これは俺がまだ小中学生だった頃、つまり漫画家志望のひよっ子だったころから変わっていない。その当時は漫画家志望の学生たちは皆自分の学校で、あるいは仲間と「漫画研究会」「漫画同好会」というものを作り、創作に励むことが普通だった。ちなみに「パロディ」と「創作」の割合は1対9よりも創作が多かったはずだ。
漫画専門誌(「漫画誌」ではなく、評論や漫画家情報も載っていた=「だっくす」〜「ぱふ」「ふゅーじょんぷろだくと」〜「COMIC BOX」などの他にも「コミックアゲイン」などたくさんあった)の巻末にはだいたい、そうした全国のアマチュアさんが送って来た作品や同人誌(つまり漫研やサークルの)が紹介されていたものだ。
そういう「プロ漫画家を目指そう」という文字通り志を同じくする「同人」が集まって作られたのが漫画同人誌なわけだ。けれどその現場に「俺はプロの編集者を目指す」という人はほとんどいなかったと思う。というより、「編集者」という存在というか仕事の内容があまり外へ知れ渡っていなかったこともあっただろう。
編集さんのことがクローズアップされるのは、大作家や雑誌の休廃刊による「回顧」の文脈の中であったり、あるいは作品の中にチラチラとキャラクタ化されて登場させられたりすることで、「たまーに」読者が意識させられる程度のものだったはずだ。
今でこそ漫画読みや研究者には有名な、貸本時代の我が師匠・長井勝一ら三洋社の面々だって、「編集」というより面白い「出版関係者」として業界内で認知されていたと思う。(ちなみに自分の年代だと「Dr.スランプ」の「マシリト」が有名)業界に入るまでは、編集者という仕事がいったいどういう業務を行っているのかを、はっきり認識していたわけではなかった。
近年は「サルまん」「編集王」から「バクマン」まで、編集者の中でも特殊な「漫画編集者」を題材にした作品まで出て来て、ずいぶんとその業務内容は広く伝わることになったと思う。
でも、それらは結局編集者の中でも極めて特殊な漫画編集者の中でもまたさらに特化した、「大手漫画産業システムに組み込まれたサラリーマン」としての編集者である。
彼らは時には原作者のように、いや作者そのものであるかのように、担当の作品に「意見」を述べる。
今ではこうした作家と編集のやりとりも、時おりブログなどで赤裸々に明かされることも多くなったので、色々とこちらも興味深く読ませてもらうようになった。(以前なら絶対外には出なかっただろう)
自分の場合、どういう立場で作家と関わってきたかということは、これまで何度も何度も述べている(→【漫画家になりたい人へ】 )ので繰り返さないけれど、つまり、「意見は述べるが干渉はしない」とでも言ったらいいだろうか。作家さんに助言を求められれば、それは出来るだけ的確かつ効果的な回答を提示しようとする。当然だ。ラブコメにおける「不必要なローアングル」からの「パンチラ」や「入浴シーン」などとは違った意味での、「読者へのサービス」だって考える。
だが「言う通りにすれば売ってやる」「読者アンケートで上位に来るためにはこうしろ」という思考回路はない。正直に言うと「ガロ」の頃は皆無だった。「この作家さんの場合、どうすれば作家性をもっと際だたせて、個性でよそへ行って勝負できるようになるだろうか」ということはしょっちゅう考えていた。

自分が入った頃は「ガロ」の世界はもうすでに個性煌めく大変な才能に囲まれ、お陰様で漫画家への夢を完全に絶ち切ることが出来たほどだった。すでに白土三平や水木しげる、つげ義春…と言った御大だけではなく、70年代デビューの人たちは中堅となっていて、80年代からも続々と「異才」が生まれていた。
ちなみに自分が入ったのとほぼ同期にデビューされ、担当もさせていただいたのはイタガキノブオさんと津野裕子さんで、イタガキさんは当初北海道、津野さんはずっと今に至るまで富山県。つまり携帯もない頃、やりとりは手紙が主で、よほどのことがない限り電話もしなかったと思う。
イタガキさんはその後上京してきたので仲良くさせていただいたし、それ以降たくさんの作家さんと触れ合うことが出来た。

だが「ガロ」時代はほとんど、作家さんにこちらから「こうしたら」的なアドバイスをしたことは無かったと思う。なぜなら、相手を「作家」だと思っていたからだ。
作家は当たり前だがその作家性を発露として作品を創り出す。他人から「こういうものを創れ」と言われるのは面白くなかろう。そう思ってこちらから余計なことを言うのは遠慮していた。
もちろん、根本敬さんのように、作品の構想頭の中で生まれると、担当を呼び出してそれを延々と語り聞かせて、その中でまたさらに膨らませていく…というタイプの作家さんもいる。また名前は伏せるがある人はとにかく悩む人で、よく電話で話したり、呼び出されたりしたものだ、そういう人とは「こうしたら」「じゃあこういうのは」と徹底的にアイディアを出し合った。
編集の師匠である長井さんからは「褒めて伸びる人と叱咤されて伸びる人と居るからな」と言われたことがある。俺ごときが叱咤できるキャリアでも年齢でもなかったということもあるが、基本的に今に至るまで作家さんという「尊敬する立場」にある人を叱咤した経験はほとんどない。(学生はまた別、大いに叱咤した)

編集者、というのはこのように大手メジャー系と、俺のような職人系とでは、作家という相手へのスタンスがまず全く違う。もちろん俺でも(もう無理だけど)大手の仕事を任される立場になったら、それはなるべく企業の論理を反映しつつ、作家に気持ち良く作品を描いてもらいたいと考える…いかん、それじゃダメなんだな(笑)。大手の仕事の現場では、編集者は絶対的に企業側の、つまりは市場原理主義者として「商品」を生み出す漫画家に対峙する存在だから。俺には無理か。
しかしそういうスタンス、関係に乗って、うまいことスイングできる人…つまり編集が「こうすりゃ売れる」「言うとおりにすりゃアンケート上位に来る」に乗っかって「ヨッシャア!」とやっていける強いハートを持った人は、メジャーで描いていくことが出来る。
自分を「作家なのだ」とさえ思わなければ、収入と引き替えに引きこもる生活を容認すれば、今ガンガン入ってくる原稿料と印税の使い道を考えなければ、それなりに快適な生活が出来るだろう。
なぜって、今どきなら誰でも物心ついた時には側にマンガがありアニメに親しんで普通にゲームで遊んだだろう。マネして描いてみることから始まって、たくさんの友達は才能がないことに気付いてザセツしていく中、「描くことが楽しい」からこそ続けてこられたこと。それでメシが食えるんだから、こんないいことはない…。頑張って描き続けてれば、そのうちきっと自分の好きなようにやらせてもらえる日が来るんだから…。
まあその日が来るかどうかは不明だけど、そうやって歯をくいしばっている人も多いだろう。

話は「ギア」に戻るが、今、大手商業マンガの世界でそれなりに結果を出そうと思ったら、何かエポックメイキング的なことをしなければ、と思ったことは正しかったと思う。

しかし「編集者を排除した」というより「漫画家同士が切磋琢磨して作品を描き、本を作る」梁山泊的な方法は、前述した数十年前の創作同人系のサークルがやっていたことと同じだ。
ただでさえ売れない、部数がダダ下がりのマンガ業界で、「プロの編集者」の「ああしろこうしろ」無しで立とうと思った心意気や良し。
だけど、ということは、つまり、
「100%作家の実力だけで作品を生み出し、世に問う」
ということに他ならない。
それも、すでに「ガロ」がやっていたことだったのだが。そして「ガロ」は全国書店流通でありながら、原稿料さえ出せない「商業誌」であった。

今回の「出版中止」の件は、原因として色々挙げられようが、芳文社さんが望む「結果」を出せなかったこと=部数に届かなかったことが最大であろう。「ガロ」は最悪の時期、実売3000部程度まで落ち込んだこともある。
「ギア」の掲げた「編集者の介入を排すること」が『「作家性の尊重」「個性の重視」を掲げながら商業的成功をおさめるということ』だとしたら、残念ながら、経験した人間としてはとても難しいと言わざるを得ない。

★追記
つのがさんによれば、「ギア」のサイト内をちゃんと読むと、いわゆる大手の常道ほどではないにせよ、ちゃんと編集者と打ち合わせ…というか摺り合わせも行っていた、という記述があるそうだ。ならば取り立てて「画期的な試み」ではなかったわけで、つまりは、「作家の実力不足」による「売上げ不振」に原因は集約され、その責任はもちろん版元と編集者にもあるという当たり前の一事件であった。
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2009-12-24(Thu)

クリスマス・イブ

12月24日(木)

世間はクリスマス・イブ。
こちらは8時ころ起きて、色々と朝のこと、仕事の連絡などをキリキリやる。
どうも食欲がないのでしばらく仕事をするが、昼前に昨日の鍋の残りを雑炊にした。鍋というのはもつ鍋ベースにキャベツやもやし人参などの野菜にキノコ類、最後にニラを入れた味噌味ベースのもの。これの残りに火を入れてご飯と溶き卵、九条ネギを刻んだのを散らして作った。結構な量の雑炊が出来上がり、結局半分近く残すことになってしまう。
昼前に配達で今晩の簡単なオードブルとチキンの照り焼きが届いた。「夫婦」二人分。バカバカしいと思う人がいるかも知れないが、毎日毎晩、陰膳を作り「二人で」食べ、飲む。
午後はテレビを見て小休止をはさみつつ仕事。パソコンに向かい続けるだけの仕事がほとんどなので、時々もの凄く遠くに目の焦点を合わせたくなり、ベランダへ出て山や遠くの京都タワーを見たりするが、寒いのですぐやめる。
年末だが居職の自分にはあまり暦は関係ない。それでも一日で、5時以降はなるべく仕事をしないようにした。彼女が生前、大学は6時で終わり、家では5時で、遅くとも5時半には仕事を終わりにしてメリハリをつけようと言っていたし。
クリスマスイブ
晩はクリスマスイブなのでオードブルとチキンを並べて一杯。まあクリスマスであろうがなかろうが、いつも通り「夫婦で晩酌」タイムだ。
「酒が無ければもっと長生き出来る」という人もいるが、酒もなく、その分多少長生きするのもつまらない。

夜は10時半過ぎにげウさんのなめくじ長屋奇考録 「このマンガがひどい!2010」第四夜(最終回)の更新を見届けてしばらく笑っていた。げウさんはこちらからは何も頼んでいないのに、最後にやまだ紫の本へのリンクをつけてくれていた。ツイッターのダイレクトメッセージで「そちらのサイトのカラーもあるから無理しなくても」と送ったが、「ぜひ貼らせてください」とのことだった。
さんざんエロバカ劇画の対談をやったあとに、対極にあるかのような本が並ぶ。これもまた、俺たちのマンガという表現への愛情というものなので、ありがたくそのまま表示していただくことにする。
マンガに貴賤はないし、またマンガに限らずこうした「振幅」がどれだけ大きいか、それをどれだけ容認できるか、で何となく人の「度量」ってもんが決まるものだと、この年になるとよく解る。自分は少なくとも、マンガに関しての振幅はかなり大きいと思っているし、それはげウさんとて同じことだろう。

そういえば日中チキンが届いた時、三津子の写真に「今晩はクリスマスだし久々にヒレ酒を作ろうかね」と話しかけたことを思い出した。テーブルの上の写真に「ヒレ酒飲む?」と語りかけて何気なく時計を見たら11:11:11だった。語呂ではなく、これは「飲む!」ということだと了解して、真空パックのフグヒレの大きいのを2枚、ガスコンロでじっくり網焼き。
付け根の方に火をゆっくり通すように炙り、ヒレ側は最後の最後。じゃないとヒレはすぐ燃えてしまう。付け根に火が通ってくると、あのたまらなくいい匂いが漂ってくるので、頃合いを見てお酒を燗してアツアツにする。
俺が台所で料理をしたり、こうして火を使ってたりするのを、三津子はいつも嬉しそうに見ていた。知らない間にそっと写真を撮られていたものも、後で彼女の携帯メモリから見つかった。
「自分の酒のつまみくらい、サッと立って作れる男がカッコイイ」と言っていたけど、そんな気持ちで見てたのだろうか。ヒレ酒は俺の担当だったが、今コンロの前からソファを見ても、テレビを見て「あはは」と笑っている彼女の姿はもうない。
ヒレは最後に強火で表面を軽く焦がすように焼いたら、「ジュッ!」と音がするように燗酒に入れ、すぐフタをする。それを持って、陰膳の前に素早く持って行く。
こちらは何せ夕方からだらだら飲んでいると、夜中にはけっこうな量を飲んでいる。これは連れ合いのためのもの。
ヒレ酒
数分待ってフタの上部に指を充てると熱くなっていたら、飲み頃。フタを開けると、黄金色になった燗酒から素晴らしい芳香が立ち上ってくる。思わず「うはぁあーー!」と声が出る。
いつも二人で、外でも家でもこうしてヒレ酒の香りを嗅いでは声を出していたものだ。一口だけもらって、あとはゆっくり飲んでと声をかけ、12時ころには寝室へ。テレビで芸人たちの「美女裁判」をつけているうちに眠くなったので、そのまま寝る。
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2009-12-23(Wed)

「樹のうえで猫がみている」ゲラと絵本をいただく

12月23日(水)

夕べはげウさんところ(なめくじ長屋奇考録)の最低漫画イベント「このマンガがひどい!2010」の更新を待っていたら飲み過ぎてしまった。ドルショック竹下嬢との対談は最低の一コマを肴とした猥談と化し、大いに笑う。
ちなみに3夜〜4夜は自分がゲストなのだが、まあまったりと行きましょう。
それよりも、「すごい!」とか「読め!」などのランキング・紹介本が話題になるこの時期、巷の漫画読みたちが「いやちょっと待て!」「俺にも言わせろ!」と、そこここから声を挙げ出すのが愉快だ。マンガとは、こういうことに下支えされてこその素敵な表現である。

寝たのは12時過ぎで、今朝は7時前に起床。
今朝も寒い。朝のもろもろを済ませるのだが、シャワーは寒すぎる。また午後にしよう。
朝は食欲がなく、9時過ぎから仕事に取りかかる。今日は祭日だが、通勤もない分休日も祝日もない。しかも今は立て込んでいる最中。正直きつい。
昼前に一段落したので何か食べないと、と思いつつ結局カップのそばで済ませる。薬を飲むためにしょうがないという風情。(関係ないがカップそばの「どん兵衛」付属、「あと乗せさくさく」の天ぷらは、最初から投入し、ふやふやにして食べる派。この感じが、昔「ガロ」に居た頃、神保町や都内各所でよく食べていた立ち食い蕎麦に似ている)

その後、やまだ紫の誌画集『樹のうえで猫がみている』を新たに出していただく思潮社の担当、Fさんからゲラ一式が届いた。
本文と、カバーの想定案、それから「投げ込み」のゲラ。
本文は『樹のうえ…』筑摩書房版にCD−ROM版を加えた完全版で、今回はさらに短歌誌「コスモス」に連載した『見上げれば虹』も収録している。
なので、復刊というより今回の『樹のうえ…』は「新編」であろう。改めて読み返すと、やはり彼女のことば一つ一つが心に染み入る。
特に、今回は「投げ込み」という形で、小冊子が入る。これは「現代詩ラ・メール」誌上で主宰者であった吉原幸子さんとやまだが対談したものや、「ガロ」特集号でいただいたコメント抜粋、書評などが再録された貴重なものだ。

また、自分にも一文寄せるようお誘いを受けた。
お断りしようかとも思ったのだが、吉原さんとの対談では、俺たちのことをはっきり、いやかなり詳しく語っている。
当時、「やまだ紫」という大好きな尊敬する作家に、自分のような余計なモノの影がチラチラするのは良くないと思い、公に夫ヅラして出ることは極力避けた。いや、今でも編集者という立場からすれば、彼女は偉大な作家であり敬意を払っている。
けれど亡くなった彼女の「夫」として一文を、というご依頼なのであれば、それはその通りなので、個人的な出会いからのことを短く寄せることを承諾させていただいた。
彼女のことを思うと、やはりいまだ冷静でいられない。それに、この時期は団地でみんながつつましく暮らしていた頃だ。色々な思い出がありすぎて、なかなか筆が進まない。

ゲラを読んでいると、再び別の配達が来る。
受け取ると、福音館書店でやまだの担当だった、福永牧子さんからだった。
福永さんからは、やまだの原稿を預かっておられると夏ころにお聞きしていた。「いずれお返しに伺いたいと思っておりましたが年内は叶わなかったので、新刊の絵本をお送りします」とのことで、「エリーちゃんのクリスマス」(メアリー・チャルマーズ作/おびつゆうこ訳)をいただいた。
エリーちゃんのクリスマス (世界絵本傑作シリーズ)
メアリー・チャルマーズ
福音館書店

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福永さんは「母の友」3月号で、復刊された「性悪猫」を紹介してくださるという。いろいろ、本当に有り難い。まっすぐなメッセージの美しい絵本をめくると、やはり涙が出る。

思潮社さんは詩の名門、福音館さんは絵本の名門版元だ。
それぞれが、漫画家・やまだ紫を高く評価して下さる。彼女も喜んでいるだろう。
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2009-12-22(Tue)

マディ上原さんが亡くなった

夕方、友人であるBunさんからtwitterでマディ上原さんの訃報を聞いた。

「マディ上原」と聞いていったいどれだけの人が彼の画風、作風を想起するか、いやマンガ家であったことを知っている人がどれだけいるのかと思う。
マディさんは52歳だった。俺より8つ上だ。死因や詳しい状況はまだ解らない。

マディさんと知り合ったのは、「ガロ」に入ってから、やめた先輩の後を引き継いで、杉作J太郎さんの担当を引き継いだ時だった。当時、杉作さんとマディさんは大の仲良しで、当時いつも一緒に居た記憶がある。というより、お会いする場面では常にお二人が一緒だった、ということだろう。
杉作さんもマディさんもマンガだけでは食えず、エロ本のカットやライターなどで糊口を凌いでいた。80年代半ば〜後半の話だ。実は「ガロ」の給料…安月給では食えなかった俺も、編集者でありながら、色々な雑誌や出版社で公認のバイトをして糊口を凌ぐ身であり、その意味では同じような作家さんとは多くの接点があった。
「ガロ」は純粋な「ガロ」デビューではなくとも、個性がありそれゆえにメジャーとはうまくいかない作家の発表の場、アピールの場であったという側面があったことは否定できない。このあたりの「雰囲気」を、今の40歳以下の人に伝えるのはなかなか難しい。
記憶が確かならまず杉作さん、それからマディさんも「ガロ」に登場したと思う。程なくどちらの担当も、俺が担当させていただくこととなった。
根本敬さんの担当を受け持っていたこともあり、根本さんが言い出した「特殊マンガ」系の担当がなんとなく俺だった、という感じだったかも知れない。

杉作さんとは、当時「ガロ」作家や編集者、周辺の人らでなぜか流行ったソフトボールで一緒になって、その日のうちに意気投合した。二人でギャグや世間話でゲラゲラ笑い合って、ソフトボールのあとなだれ込んだどこかでも、朝まで笑い合った。朝になると早朝の年寄り相手にゲートボールの番組が始まるのだが、それさえネタにして「ダブルスパーク!」とか言って笑い転げた。
マディさんもその時一緒だったと思うが、確かあの時は俺と杉作さん以外は全員潰れて寝ていたので、定かではない。
でも、何かの時、麻雀へ行くんだったか、あるいは飲み会へか、当時マディさんの奥さんだった原律子さんと杉作さんと、ジープみたいなオープンカーに乗って、甲州街道を新宿へ疾走したのを鮮明に覚えている。杉作さんたちは「土方」のコスプレをしていたと思う。

それからずっと、俺は杉作さんの担当として毎月お付き合いをさせていただいた。原稿をいただくのは三軒茶屋とか、新玉川線沿線が多かったが、パチンコビデオに出演させられたり、同じくバイトをしていた「平凡パンチ」編集部でお会いすることもあった。濃密な付き合いだった。マディさんとは作家と担当としてではなく、何かあるとよくお会いするという感覚だったのが、「ガロ」で描くようになったのはちょっと今さら的な、不思議な感じだった。
杉作さんは「ガロ」連載後、その独自のキャラクタ(マンガより本人の方が数段面白い、という失礼な評判が多かった)から、役者、タレントとして起用されるようになる。
けれど万人受けしないアーティスト肌の作風だったマディさんは、作家としては売れるという状況とはほど遠い感じではあった。実生活ではごく普通の、というよりどちらかというとシャイで人見知りするような印象の人だった。何か、人と話すときにいつも照れたように、柔和な笑顔で接してくれたことをよく憶えている。
マディさんの「ガロ」での連載は、今だから明かすが、その後読者からも同僚からの評判も良くはなかった。常人の理解の範囲を超えていたと思う。それでも俺は毎月、依頼を続けた。原稿料も出せないのに。
マディさんも原稿料が出ないのに、渾身の力をぶつけた原稿を描いて下さった、あの幡ヶ谷のマンションで。
「俺さあ、ローラーブレイド始めたんだよ」と、いつだったか世間話のときに、いつものように照れた様子で話してくれたことがあった。ろーらーぶれいど、なんて知らなかった。「ローラースケートじゃないんですか」と聞き返すと、「ちょっと違うんだよ」と言って靴を見せてくれた。そして「これでさあ、若い人らと一緒に滑ってんだよ今」と笑った。
俺より8つ上だから、当時でも凄いな、と思った。

マディさんはその特殊な作家性から、同じく特殊マンガの「大統領」である根本敬さんと深い親交があった。後進のためにも「ガロ」のマディさんの連載をそろそろやめてもらわねばならない、その苦渋の決断を、マディさんにお話するのは本当に辛いことだった。そのタイミングとほぼ同時に、根本さんはあるエロ雑誌にカラー連載していたマディさんとの合作を、本に出来ないかと相談してきた。

当時、三流エロ劇画やエロ本など、非大手の雑誌、版元にはたくさんの「ガロ」シンパがいたし、お互いに連帯感を持っていたので、根本+マディなんて今にして思えばとんでもないユニットが実現し得ていたのだ。
根本さんは「こんなのイッパン書店に流通させられるわけないじゃん、だから限定版で何とかさあ」と俺に言ってきた。
根本さんに「何とか」と言われて、やらないわけにはいかんと思った。
「ガロ」本誌の連載は、残念ながら終えていただくマディさんを、特殊マンガ家としては油にノリ始めていた根本さんとのユニットで送る。マディ上原という作家の再評価につながるかも知れない。
オール4色で、しかもB5判で、という無茶な注文を実現させようと、俺は原価計算を必死でした。エロ本からの切り抜きが貼ってあったり、死体写真があったりなどは当たり前で、極めつきは死んだゴキブリを貼り付けた「原画」だった。
「あのー、これ、4色分解出来ますかね?」と聞いた俺に、製版屋は
「アンタらおかしいんじゃないの?」と真顔で怒鳴った。
それでもなんとか製版印刷方面とも交渉して、根本敬+マディ上原合作・限定版「お岩」は、1993年8月末日無事、発刊された。
限定1000部で価格は3980円と高額になったが、B5版全84頁オールカラー、表1は金の箔押し、全てにお二人直筆のカラーサインとイラストまでつけた(これが漫画史上最悪の限定版「お岩」
全部数売り切るまでには一年以上を要したが、それでも最終的に赤は出さなかった。
限定版「お岩」の1冊目、お二人による俺への「お疲れ様」のサインがカラーで入れられた。今でもそれは編集者として、自分の宝物の一つである。

その後、97年にあの「ガロ」クーデター事件(この記事の最下部参照)が起こる。
その後根本さんとは行き違いもあって没交渉となった。
あれほど、作家と担当として二人で毎月濃密な時間を過ごしたのにも関わらず、当時クーデター側のマスコミ工作、自己正当化の工作はすさまじいものがあり、俺は被害者のはずが単なる「悪者の一味」とされた。いまでもそれを信じている人も多い。
俺は当時から一貫して、ネットを通じて全ての成り行きと自分の立場や意見を公開し続けているというのに、俺をあからさまになじった人から謝罪はほとんどない。マスコミという力の強大さ、恐ろしさを今でも実感している。
もう、あの事件に関して「白取さんの方が正しかった」という総括、謝罪が欲しいという気持ちはあまりない。
もう自分の余命もさほど長くはないことは解っている、つまり、俺に対しやましいと思い、謝らねばと思う人らは、俺が死ぬのを待てば、それをせずに済む。
その気持ちも理解できないことはない。ただし、俺から赦されることはないと思えばいいだけの話だ。
俺は「ガロ」時代、一生懸命担当の作家さんに接してきたつもりだ。
「ガロ」時代は公にすることはなかったが、やまだ紫という誠実で正直に生きた人と、ずっと連れ合ったということでその証明としてもいい。
俺は俺で何も変わっていない、97年のあの「事件」への思いも言い続けてきた「事実」も、今でも1mmもブレることはない。ずっとネット上で公開してきた通りだし、尋ねてくれた人に言い続けてきた通り。
やがて時代が「判定」してくれるだろう、そう思っていたら、時代は事件を「風化」させただけった。
なるほどやはりその時に徹底的に正しいと思ったら戦うべきだったのだと思うものの、その体力も時間も財力も、俺にはなかった。

話が逸れたが、とにかく、幸い俺はまだ今生きている。けれど癌宣告を受け死を覚悟した間に、愛する連れ合いをはじめ、永島慎二、鴨沢祐仁さんなど、たくさんの大好きだった人を失った。俺がまだ生かされているということは、それなりになんらかの意味がある、そう思わねばとても耐えられない。
マディ上原さんのご冥福を、心からお祈りします。
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2009-12-22(Tue)

京都は寒い

12月22日(火)

朝は9時前に起きた。
今朝も気温が低い様子。外は青空だがガラスの結露というか曇りが気温差を感じさせる。というか、布団から出たら寒い。北海道で生まれ育ったせいか、寒さにはたいがい強いのだが、今朝は本当に寒かった。
下へ降りてトイレへ行くが、玄関脇のため外気の寒さがひしひしと伝わってくる。トイレから出て来た時のために、洗面台のお湯の蛇口を捻っておき、それからトイレを済ませる。出て来ると蛇口からは氷のような冷水ではなく、お湯が出ているという寸法。この作業が古いマンションの給湯システムの辛さ。
洗顔をしてから、メールチェックなど。
仕事をするが、やはり脳に栄養が行かないのかアタマがぼーっとするので、昨日二人の子どもたちに書いた封書を出しがてら、買い物に出る。もちろんマスク手袋帽子など完全防備。
「買い物」といっても、ポストに封書を投函したあと、向かいのコンビニでサンドイッチとレンジでチンできるうどんを買って戻っただけ。
若い頃、三津子が誕生日プレゼントに買ってくれたダウンのコートを着て行ったからそれほど寒くはなかった。とは言うものの、このコートはよく雪山へ着て行ったり、真冬に二人で河原へ行って流星を見たりする時用のかなり暖かいコートなので、これでちょうどいいということはそれほど寒いということなのかも知れない。
それからサンドイッチを食べ、仕事。
外は青空に白い雲というこのところずっと同じ風景。見る度に毎日、「ああ、散歩に行きたいなあ」と思う。観光客の減るこういう谷間に、俺たちは夫婦二人であちこちへよく出かけた。地元の特権を活かして、桜でも紅葉でも祭でも、ちょっと見所や盛りをズラして名所旧跡、神社仏閣を歩いたものだ。
でももう一人ではつまらない。

夕方まで仕事をするが、一休みしているとベランダから射す陽だまりにユキがコロンコロンと気持ちよさげに転がっている。
そういえば猫トイレ忘れてたと思って掃除。プラスチックの丸いゴミ箱を持ってきて、その上に段ボールを敷いて「椅子」を用意。それに座ってトイレ掃除するのだ。
しゃがむのより格段に楽とはいえ、とにかく下腹部を折り曲げてする作業全般がしんどくて仕方がない。ガンによる脾臓の腫れ以降ずっとそうなのだが、その上にこないだの帯状疱疹が加わって、とにかく健康な普通の人なら何でもないことがひどく苦痛で、重労働なのだ。
かといって「これだけ」をしてくれるのバイトなどあるはずもなし、あっても頼むこともなかろう。俺がやる以外に誰もいない。
何とかトイレ掃除を終えるとヘトヘトだが、それから床をちょっとクイックルワイパーで磨いて、ワックスがけをする。それらが終わると、じっと掃除の一部始終を見ていたユキが、さっそく一層嬉しそうに床の上でコロンコロンして喜ぶ。

夕方5時半からは自主的にすっぱり仕事をやめて、晩酌の支度。そうでもしないとズルズルと何時間も気が付くと仕事をブッ通しでやっていたりするから、意識的にやめることにしている。俺は健康体ではないのだから。
今日の陰膳。 on Twitpic
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2009-12-20(Sun)

M−1グランプリ2009

毎年書いているので、今年も見た。
以下はリアルタイム視聴による極私的雑感。

司会は今田と上戸彩。進行でいっぱいいっぱいの今田より、彩ちゃんの方がリラックスしている。
審査委員は松本人志、上沼恵美子、オール巨人、渡辺正行、中田カウス、島田紳助というおなじみメンバーに、なせか芸人としてはカスに等しいそのまんま東が加わった。東を加える意味が全く理解不能。東京ダイナマイトとの関係などちょっといろいろ想像する。
東は「たけしの一番弟子」というが、大森うたえもんとのコンビツーツーレロレロなど、本当にひどいものだった。場数を踏めば開き直れるとでも言いたげな、客を全く無視したゴリ押しの無駄芸。自分たちを理解せぬ方がバカだと言わんばかりの態度に辟易したが、案の定すぐに消えて泡沫芸人集団の一人と化してくれた。若いモンはだませても、俺たちは騙せねえぞハゲ。
というか本当に木村祐一がウザすぎる。芸人としてというより、芸能界でいつの間にか席を取っていた「安全な立ち位置」からのレポートが腹立つ。
敗者復活は恒例の大井競馬場。朝からここで全組を見ている客には、正直「バカじゃねえの?」という最高の賞賛を送る。ていうか風邪ひかないのか。ただ夕方からちらりと放送された敗者復活の模様は全てダイジェストで、であれば本当のお笑いファンならばあそこへ行くべきで、あそこで全てを見た人間しか語れない何かがあることも事実だろう。
などということをtwitterしながら見る。
ファーストラウンドでいつも通り、9組から3組みにふるい落とされるが、漫画家の浦沢直樹が来ているというアナウンス。年末進行は終えたらしい。

トップバターはナイツ。
「確信的言い間違え」ネタはヤホーネタ以来変わらずだが、やはりうまい。イントネーションの「違い」も取り入れるなど強化されてきた。こういう「知らないと笑えない」ネタも嫌いじゃない。もの凄くレベルの高い「話芸」なのだが、順番的には会場をあっためる役割なのだろうか。前説がくまだまさしだったというが、その効果はどう影響したかが気になる。
採点では東の88、松本の85の低さが気になる。東は芸が解らぬゆえOKとして、松本の点数は何だろう。「最初だから基準点」という考えは、芸人に失礼だと思うが。評価合計は634点。自分としては88点。

2組目は南海キャンディーズ。
初登場のインパクトが強すぎ、その残滓で生きてきたと言われても仕方のないコンビだが、確かにあの時のインパクトは凄かったし、実力はあると思う。
山ちゃんがネタを書いているわけだが、彼の「作家」としての才能はそれだけで食える才能だと思うが。ただ中盤までのテンポが今一つだったか。
審査員の評価は607点。
90点台をつけたのは上沼恵美子の90点だけ。あと渡辺リーダーが「順番が」と言ったのは、芸人に失礼だと思う。出て来る順番は我々視聴者や観客には大いに影響するが、審査にそれを反映するのは最初から公平な視点を放棄して、自らの審美眼を否定するようなものだ。自分としては82点。

大井でのキングコングのインタビューはイタさに溢れていた。
ネットでは大言壮語、自意識過剰、そして実力不足としてもうすっかりイジられキャラと化したコンビ。欲しい、取りたい、取る、そう宣言してチャレンジし続けた結果、敗者復活、9番目の枠を勝ち取ったのは昨年の覇者NON STYLE。

3組目は5年振りの東京ダイナマイト。
格闘技終了後の選手にインタビューするというネタ。「ミュージックステーションにジャニーズが1枠ある」とか、彼らの危なさもチラリと出したり。途中のテレビネタは、見てない人には伝わりにくかったか。キレという意味でいうと、たたみかけるような「勝利を伝えたい人」の連呼も、じわじわくる笑いで爆発には遠かったような。79点。
審査結果は614点。正直90点台はどうかと思った。

4組目はハリセンボン。
面白い。この二人、コントと漫才を近藤いや混同していたところもうまくやって、話芸を磨いてきた。キャラクタも見ている方にはじゅうぶん解っているのも、得していると思った。前と違って立ち位置もほとんど変えず、想定内の春菜の「泣き」も、もはや伝統芸。「漫才」という観点からは格段に進歩していて驚いた。でも81点。
しかし審査員の点数は低く、595点。この段階で敗退が決まった。緊張が伝わったとかそういうことではなく、松本80、紳助82という低評価が何か探りたくなる。大阪ではないこと、吉本ではないことがハンデになるということをあからさまに見せてはいけないはずなのだが。(この二人は吉本だけど)

さあ続いては笑い飯。
夜店の話からいきなりシュールな世界へ一瞬で引き込む実力はさすが。そして持ち味のダブルボケへと持って行く。「出席番号はチキン南蛮」は反則やろ、と。「鳥人」というある意味キモチ悪いネタの世界に、見事に観客を引き込んだ話芸はさすが。90点。
審査員の評価は668点、しかも紳助が100点をつけるという高評価。やはり「笑い飯チャンピオン既定路線」の噂は本当か。

ここでトイレ。

6組目はハライチ。
M−1初年度は中学生という若手コンビだ。「お笑いってこんなにかっこいいのか」と思ったそうだが、その時の優勝は中川家だったのでは…。
ネタへの入りはCMがあって良かったというところからスムースにペットの話へ持って行き、落ち着いていたと思う。慣れているネタとはいえ、「ふしだらなペット」〜「おんぼろのヨット」からの流れに笑った。シュール展開かよと思いつつうまいなー、と。正直一番笑わされた。92点。
審査員は628点。東京ダイナマイトを抜いてここで3位へ食い込むが、中田カウス95点。、東86点という評価の分かれかたが、今一つ点数が伸びなかった理由だろうが、東の審査がキャスティングボードを握るのは許せない。

7組目はモンスターエンジン。
彼らは何と言っても「神々の」「遊び」が鮮烈で、去年は優勝したノンスタの背後で無表情というかブルーな顔をずっとしていたのが印象に残っていただけに、今年は期待したい。
もし結婚したら、という設定へ持って行くスピードはあるが、関西弁に頼りすぎる滑舌の悪さが、恐らく関東の人には聞きづらいだろう。漫才として見たら、伝統的な関西のしゃべくり漫才。「面白さ」という点では突出はしなかったか。89点。
審査委員の評価は610点。審査委員との評価がほぼ重なった。第5位、笑い飯がここで最終決戦進出決定、モンスターエンジンは敗退。

8組目はパンクブーブー。
悪いが素人がネタを一生懸命にやっている、うまくやっている、たいしたもんだね、というレベルに見えて仕方が無い。昔の麒麟を見ている思いだ。個々の小ネタや語彙は凄く面白いのに、なんだろうこの「精いっぱいな素人臭さ」は。緊張か。実力もキャリアもあるのになあ、と。面白かったが89点。
審査委員の採点は651点と予想外の高評価。笑い飯に続いて2位に入り決勝進出。特にカウスの97点、上沼の98点が突出。

いよいよ9組目は敗者復活からのNON STYLE。
高校の友人が不良にボコられた、という設定。途中の小ネタにクスリとも出来ず。ニコッ、とした程度なのに自分でも驚いた。去年、石田のセルフツッコミが気になって、というよりキモチ悪くて仕方なく、以後全く面白くなくなったのを思い出した。ああそうか、個人的に好きじゃないんだ、この二人を、そういうことか。審査員なら公平に審査せねばならないが、感情を割り引いても並の出来、88点。
審査委員は641点で、ここで3位に入りナイツは敗退。カウス95点上沼が98点と関西漫才の重鎮が突出した評価をつけたのも、全国に散らばる冷静なお笑いファンと評価の分かれるところではないかと。

最終決戦のネタ順はNON STYLEーパンクブーブー笑い飯とシャッフルされた、
いよいよ最終決戦、上戸彩「今一番面白い3組ってことですよね」にちょっと疑問が。可愛いからいいか。

NON STYLE。
時代劇ネタ、コント的な演出を絡めて勝負してきた。ビールをずいぶん飲んでいるのに、冷静になるばかり。ドタバタとここで騒ぐ「コント」にしたのは、彼らなりにたたみかける計算があってのことだろうが、逆効果だと思うが…。全体に抑揚もなく爆発もないまま、ネタを終えた。前の方がまだましで80点。

パンクブーブー。
漫才の仕方というか導入から古典的なスタイル。陶芸家を弟子志望の男が訪ねるという設定。
「先生の作品を見た時に思ったんです、これなら僕にも作れそうだ!」とか、その後の意味不明の吃音とかスピード感もいい。面白い、凄い実力派。92点。

そして最後は笑い飯。
「笑いでメシを食う」がコンビ名の由来。
いきなりプロ野球でキャッチャーと審判の判定での諍いネタ。導入は例によって一瞬で。そしてボケツッコミの入れ替わり。おもろいし個人的な頑張れ感もあるが、爆発までは至らず中盤へ。その中盤が中だるみ気味、惜しいというかここなんで頑張らんねん!というところ。おいおいおい…と思ったまま、哲夫のたたみかけへ行くが、爆発までは至らず、「チンポジ」連呼でまさかの終了へ、嗚呼。88点。

まっとうに冷静に判断して、今年の優勝は間違いなくパンクブーブーである。
さあ紳助、松本がどう判断するか。
ジャッジ前のインタビューではやっぱり笑い飯がダントツの面白さ。この二人は毎年、ネタより「普段」が面白いというパラドックス(?)だっただけに、悲願達成なるか。
ファイナルジャッジの結果は
中田カウス パンクブーブー
渡辺正行 パンクブーブー
オール巨人 パンクブーブー
そのまんま東 パンクブーブー
上沼恵美子 パンクブーブー
松本人志 パンクブーブー
島田紳助 パンクブーブー
全員一致、こちらの個人的採点とも完全一致。文句なし。
ただパンクブーブーの二人が今後華のあるお笑いタレントとして活躍出来るのかどうかは、未知数。
漫才師として実力があっても、例えば普通の番組で普段見る笑い飯の面白さは評価されるべきだし、広義でのタレントとしての寿命を考えれば、純粋な漫才の実力だけでは生き残れないわけで、色んな意味で彼らの今後が興味深い。

2009-12-20 20:51:54
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2009-12-18(Fri)

「やまだ紫、41歳」

12月18日(金)

夕べはうっかりソファで寝てしまい、気が付いたら2時半過ぎ。風邪でもひいたらえらいこっちゃと思い、慌てて2階へ上がって寝た。
その後は浅く途切れ途切れの眠りで、結局朝は7時ころに起きる。外はいい天気だが、今朝はまた一段と気温が下がった様子。リビングに降りて夕べのものをかたして温度計を見ると19度台。床暖房をつけていて、その床から30cmもないところで、ちなみに前の日の朝は21度だった。
朝は昨日買っておいたサンドイッチとカフェオレ。その後はネットを見たあと、テレビを見る。寒そうだけどいい天気で、以前なら二人で「どっか行こうか」と言っていただろう、絶対。
もう外に散歩に行ったり、ついでにちょっとパチンコをやったり、ぶらぶら買い物をしたり、お寺や神社を訪ねたり…なんてことは二度とないかもな、と思う。一人では何をしてもつまらない…というか、何かをしようという気が起こらない。
眠いでも寒いでも、何気ないことを口に出し共有できる相手がいない。それがこれほどまでに寂しいかと、思い知る。仕方なくネットにつぶやいたり、日常をこうして記録したりする。
昼は弁当を暖めて、解凍しておいた筋子もちょびっと切って食べた。何せ筋子は白飯と組み合わさると「何杯でもいける強烈タッグ」の一組となるが、塩分が強いので食い過ぎには注意だ。

その後、メールで思潮社のFさんと打ち合わせで何度かやりとりをする。Fさんはやまだ紫の誌画集「樹のうえで猫がみている」の復刊を担当していただいている(『樹のうえで猫がみている』復刊打ち合わせ)。
来年の発刊にあわせて「現代詩手帖」で特集を組んで下さるそうで、代表の小田久郎さんにも高く評価をしていただいて、本当に感謝しかない。漫画界はともかく、「ことば」を大切にする詩壇から高く評価されているのは、やまだ紫という作家の勲章の一つだと思う。
単行本には既出の書評などを、特集には新規依頼の文章を掲載するという基本方針の確認のあと、親友だった詩人の井坂洋子さんが「樹のうえ…」について書いた書評はありませんか、と聞かれたので、とっさに思い出せずスクラップを探してみます、と送信した。
その直後、やまだ(三津子)が自分の本の書評や書いたコラムなどを切り取ったり、コピーしたものを集めたスクラップブックを探そうと手に取った。
「探す」というより、開いたところが「樹のうえで猫がみている」刊行時の書評だった。
ライターさんが書いてくれたもの、自分が著者インタビューに応えたもの、そして「トランヴェール」誌に井坂さんが書いてくれた書評のコピー。
探していた、『井坂洋子さんが「樹のうえ…」について書いた書評』がピンポイントで。
三津子が「はい、これ」と見せてくれたような、一瞬のことだった。

この当時うちにはスキャナもコピーもなく、感熱紙のFAXでコピーを取ったものが挟まっていて、退色してよく読めない。それを読み取って、トーンカーブで直接γ補正をかけたりして、何とか読めるレベルにしてメールに添付する。
90年のはじめ「クロワッサン」掲載のやまだ紫
同じスクラップブックにあった、当時著者インタビューをあちこちから受けた掲載誌の切り抜きから一枚、「クロワッサン」掲載の記事もスキャンして送った。
吉原幸子さん主宰の「現代詩ラ・メール」の1983年夏・創刊号から連載された、見開きの詩画「樹のうえで猫がみている」は、1990年の1月に筑摩書房から上製本として刊行された。なので、著者インタビューや各誌の書評記事などは、その年の年頭に出たものだろう。
この年、彼女は膵炎を胃炎と誤診されて、その後ずっと色々な病気、入院の連続につながっていった。
「クロワッサン」に掲載された写真の彼女は、とても40代とは思えない少女のような可愛らしい笑顔で微笑んでいる。ああ、これはまだ大病をする前だな、お互い若くて健康だった頃だな…。そう思うと懐かしさで切なくなる。
記事には「これが出るころには次女の高校受験が終わっている」と書いてある。

壮絶な暴力との戦いを離婚という形で終え、二人の子どもを漫画家という不安定な仕事で支えていた、彼女。そこに17歳も年下の若い男が狭い団地に同居することになった。ドラマや映画ではない、現実の話だった。子どもたちは出逢った頃は二人とも小学生だった。俺も三津子も若くて健康だった。狭い団地に4人と猫3匹、笑いの絶えない暮らしだった。
それから子どもたちは思春期を迎え「家庭」よりも外や友人・異性へと関心を向けはじめ、俺は編集者として忙しく駆け回ることになり、彼女は病を得ることになる、その直前。

色んな意味で、皆が全員「幸福な時期」であったと言えるかも知れない。
若さも健康も、命も、取り返しがつかないものだ。そして、若い頃はそれを疑いもしなかったのに、確実に失われるものだ。
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2009-12-16(Wed)

やまだ紫 復刊第三弾「ゆらりうす色」発売!

ゆらりうす色広告画像

皆さん、お待たせいたしました。10月『性悪猫』、11月『しんきらり』に続いて『ゆらりうす色』が発売されます!


ゆらりうす色
やまだ 紫
小学館クリエイティブ

このアイテムの詳細を見る



著者:やまだ紫
書名:ゆらりうす色
発行:株式会社小学館クリエイティブ 発売:小学館
定価:本体1,600 円+税
ISBN978-4-7780-3131-2 C0079 1600E

判型はA5判並製で、総ページ数は224ページ。
解説は村上知彦さんです。
村上さんは「チャンネルゼロ」以来公私ともにやまだをよく知られた方で、今回は79年ころに描かれたやまだのギャグマンガの一部も紹介されています。

収録作品は講談社「コミックモーニング」誌上に1983年12号から翌年10号まで、24回にわたって連載された表題作「ゆらりうす色」全話と、日本文芸社「季刊・コミックばく」1986年春季号から翌87年春季号まで連載された「Second Hand Love(セコハン・ラブ)」全4話となっております。

本作は、1984年6月に講談社よりA5判・KCモーニング版「ゆらりうす色」として刊行され、のちに1992年筑摩書房「やまだ紫作品集1」、さらに1995年7月には同じ構成でちくま文庫化されました。
今回はその全編を「ゆらりうす色」は初版以来の、「Second Hand Love(セコハン・ラブ)」は初の「A5版」という大きいサイズで一挙にご覧いただけるようになっております。

また復刊特典として、巻末に小説「恋する家族」(三田誠広作)の読売新聞連載時の挿画から、何点かギャラリーとして掲載しました。これらは単行本化されるにあたり全く掲載されていない貴重なものです。

さらに今回の復刊にあたり、「ゆらりうす色」の巻頭を二色で
また「Second Hand Love(セコハン・ラブ)」も「ばく」連載開始時の「カラー原画」から復刻しました。(後の版では全てモノクロに描き直したものが使われています)
これも小学館クリエイティブの担当である川村さんの、出版人としての心意気であります。ぜひ、ご覧下さい。


白取より毎度毎度僭越の極みながら。

このたび復刊される「ゆらりうす色」は、「性悪猫」「しんきらり」と立て続けに素晴らしい作品を世に送り出したやまだ紫が、「不倫」をテーマに男女の心の機微、特に女性心理を内側から鋭く描きあげた作品です。
鋭く、などという陳腐な言葉を用いるのもどうかと思いますが、主人公「笑美」の態度や言葉は凛とした「やまだ紫作品」に共通する魅力に溢れています。
笑美はクールに不倫を楽しむ女性のようでありながら、熱く、哀しく、切ない女としての感情を当然ながら持ち合わせています。そして「私マンガ」「私小説マンガ家」だのと単純なレッテルを貼られたやまだ紫の、漫画家としての「答え」ともいえる作品です。

作家研究的に述べるならば、やまだはこの作品を執筆当時、地獄の結婚生活から別居という事実上の離婚状態を経て、連載中に「協議離婚」が成立しています。
二人の子の親権を引き受けること以外、慰謝料も一切受け取らず、もっと言えば公的な扶助も全く受けずに、漫画一本という不安定な立場で立ち上がったばかりでした。けれども、彼女は幸福に溢れていたと言います。
その時期、彼女はこの作品で「不倫」というテーマを選びました。もちろん、実生活とは全くリンクしていません。「私マンガ」では全くあり得ない、しかし「やまだ紫」の凛とした女性の描き方、その研ぎ澄まされた「ことば」の鋭さは、「性悪猫」以来、いや「COM」時代から何ら変わりなく魅力に溢れています。
つまり、やまだ紫はやっぱり優れた漫画家であったという当たり前のことが、今さらながら作品の連なりを見るにつけ、確認できるでしょう。

やまだ紫はこの作品と平行し、「しんきらり」(青林堂版では「続」扱い)の連載も継続しています。さらに祥伝社「新鮮」にて「しあわせつぶて」、思潮社「ラ・メール」にて詩画「樹のうえで猫がみている」学研「ベルママン」に「陽炎もえて」…と、大変な多忙期に入りました。
余談ながら私と出会ったのもこの時期になります。
彼女は尊敬すべき素晴らしい作家であったと同時に、二人の子どもをしっかりと支える凛とした母親であり、そして可愛らしい一人の女性でもありました。
つまりは、やまだ紫が、全てにおいて頂点に達していたのが、この頃であったと思います。

彼女の理想とする男と女の関係、夫婦、家族、人間そして社会いや「せけんさま」
への確かな視線は、一貫し、ゆるぎのないものです。猫を通して描いても、ごく普通の家庭を描いても、不倫カップルを描いても…。それは1991年「BlueSky」(婦人公論)に至っても、いえ、最後の作品集となった「愛のかたち」まで終世全く変わらないものでした。


お近くの書店さんに無い場合は、上記の書名、版元名を言っていただければ注文することが出来ます。書店さんでお受け取りになれば、送料もかかりません。
皆さん、やまだ紫の素晴らしい作品を、これからもよろしくお願いいたします。
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2009-12-15(Tue)

鶏ちゃんこ鍋

12月15日(火)

朝は7時過ぎに起きた。外は曇り。
朝のことを済ませて仕事の連絡をいくつか。食欲がなかったがカップのそば。
シャワーの時は風邪をひかぬように、いつもリビングを強めの暖房で暖めてから浴室暖房も入れてから入るのだが、リビングから浴室までの一瞬、玄関からの廊下を通るのが寒い。こればかりはどうしようもないか。
疱疹の傷はシャワーの湯が直接あたったり、そっとならさわっても大丈夫になったが、とてもとてもゴシゴシとタオルで洗える状態にはまだ遠い。ちょっと手の平でなでるようにするくらいが関の山。それにしてもひどい傷跡、というかケロイドが残った。小さい子どもに見せたら泣くレベルかな。
浴室で体を拭いてから着替えてすぐ、小走りでリビングへ入る。
疱疹部分はまだ下着のゴムがあたると痛いので、カバーするようにガーゼを巻いてテープで止めてから、下着をそっと被せるように履く。全くいちいち全てが面倒で仕方が無い。それからシャツをかぶせ、次にスエットをシャツの上に被せるかたちで履いて、トレーナーを着る。我が家は男の小用も座って行うので、トイレの度にこれを繰り返すわけだから、面倒極まりない。まったく因果な体になっちまったものだ。

その後じゅうぶん体も乾かし暖まってから、気温も上がってきた昼過ぎ着替えて出かける。
今日は所用があって行かねばならないところがあるので、完全防備で出る。用事は30分ほどで無事済んだので、郵便局経由でスーパーへ行き、4階で焼き網を買った。こないだ買い物に来た時、1階の食品売り場に餅が売ってたので係に「これを焼く網は…」と聞いたら済まなそうに「4階なんです」と言われたので、その日は諦めたのだった。
買った焼き網は餅を焼くために使うというより、三津子が好きだったヒレ酒を作るために買った。乾燥させたフグヒレを知り合いからいただいたのが真空パックであるので、それをあぶるための網だ。二人で晩酌をしていた頃に使っていたのは、円形で網目の細かいフッ素加工がしてある網だった。ガスの直火からの距離もほど良くて、じっくりあぶって燗酒に入れると天国のような味になったものだ。
三津子が死んでしまったあと、冷蔵庫の中のものやこの網も、もう二度と使うことはないと思って捨てた。ヒレ酒なんか金輪際作ることもないと思い、網も捨てた。
けれど今は、陰膳のため、「ふたりの晩酌」のためにもう一度、君の好きだったヒレ酒を作りたい。そう思って、「あの網」を買いに来たわけだが、売り場では残り最後の一枚だった。時節がら正月用に売れているのだろう。あって良かった。
同じ売り場に、前から探していた中くらいの花瓶もあった。特大、大、ミニと花瓶があるが程良い中くらいのが無かったので買う。それから下へ降りて、総菜や食材、三津子への花などを買って帰宅。書類カバンもあったのでけっこうな荷物になり、毎度のことながらしんどかった。
鶏ちゃんこ鍋
帰ってきて着替えて、花を買って来た花瓶へ活け、昼は買って来た弁当。
夕方は鶏ちゃんこ鍋を作った。
市販の鍋用だし汁を使ったら思ったような味ではなくガッカリしたが、野菜を入れて煮込んだあと鶏の肉だんご、手羽中、ササミを入れて味を調えたらまあまあうまくなった。晩酌は買って来たまぐろの切り落としと餃子に、鶏ちゃんこ鍋。
鍋を一人で食べるのは虚しいと思って来たけど、夫婦でと無理やり思うことにしている。陰膳を作るのはそのためだ。俺は一人ではない、と言い聞かせている。
夜は録画しておいたドラマJin−仁−」を二本続けて見たら12時になってしまった。
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2009-12-14(Mon)

イチゴ−!

12月14日(月)

夕べはDVDで借りた映画「謀議」を見ているうちに寝てしまった。この映画はナチのユダヤ人「絶滅」のためのガス室送りを「正当化するための会議」の模様を淡々と描いたもの。悪名高いハイドリヒと、戦後イスラエルで絞首刑になったアイヒマンを中心にした「謀議」の様子だが、映画そのものは本当にほぼ「会議」のみ。恐らく第二次大戦史やナチスドイツに興味のない人には全く面白くなく退屈なものだろう。
途中、どうしてもハイドリヒがSS制服の襟を閉じているのが気になって、中学生の頃買った「Waffen SS」というナチ親衛隊の軍装図解を二階へ探しに行ったのだが、見つからなかった。これと国防軍・空軍のA5判軍装図解の2冊は、中学生の頃にジオラマを作っている時、36分の1サイズの独軍の階級章などを「自作」するために必須だった本。かっての青林堂の貴重な本などと共に、何度かの引越で失ってしまったのか…。鷲のエンブレムの位置、左袖の帯などにもちょっと違和感があったのと、勲章などにもおかしなところを感じたのだが、もう記憶が定かではない。とか思っているうちに寝てしまったのだった。
寝たといってもウトウトした程度で、DVDはとめて、1時ころ寝室へ行った。

今朝は4時過ぎから目が醒め、その後は浅くウトウトしただけ。こういうのは本当にきつい。かといって強い睡眠薬を飲んで依存してしまうのも怖い。
朝はココアだけを飲み、テレビをつけてソファに転がっていた。しかし今日も仕事が立て込んでおり、午前中から午後まで仕事。こういう時に限ってサーバーが挙動不審になったりして、イヤになる。
大粒イチゴ!
午後、荷物だというので受け取ると、ローリングクレイドルさんから。開けて見たら見事なイチゴ! であった。一つ一つが大きく、しかも丁寧に紙が敷いてある高級品。さっそく三津子にも1つ皿に出して、俺も食べた。甘酸っぱくてうまい。この時期のイチゴとは本当に贅沢、ありがとうございます! イチゴジュースは夫婦の「健康ドリンク」だったけど、このイチゴは飲んでしまうのは勿体ない。大事にいただきます。感謝。

その後、げきがウるふ氏のサイトなめくじ長屋奇考録さんにて、12月21日から24日(クリスマスイヴ笑)に渡って開催される「このマンガが酷い!2010」の対談の告知を書く。
俺は「ガロ」系だけだと思われがちだけど、昔から幅広くマンガ全般を読んできた。マンガに貴賤なし、差別はしない。萌え系もBLも普通のマンガも劇画も分け隔てはしない。
それにずっとエロ本や成年コミックの仕事を端っこで手伝ったりもしたので、今でもそれらを送ってもらったりしているし、かつての教え子が送ってくれるものもある。何より家で一人じっと何もしないでいると、どうしても三津子のことばかり考えてしまうので、DVDを借りたり、マンガも今はレンタル出来るので、話題作は一通り読んだりしている。十代の頃に匹敵するくらい、今はさまざまなマンガを読んでいると思う。
本当は漫画喫茶へ行ったりもしたいのだが、「不特定多数の人が出入りする閉鎖空間」は今の自分の免疫状態では避けたいから、家に居る方が安全。結果、けっこうな量の読書を近年にないくらいしている。
でも、おかげですっかり目が痛くなった。病気の進行じゃなければいいが、ここ数週間は本を読むのがしんどくなってきた。まあ急な進行がなくて来ているんだから、急に失明したりコロッと行ったりはしないだろうとタカをくくってはいるが…。

夕方はサーバ不調なので仕事を諦めて、晩酌にする。今日は中華、エビチリと麻婆豆腐を作って間にさっぱりしたお新香で陰膳を作る。そして昨日途中で寝てしまった。
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2009-12-14(Mon)

「このマンガがひどい!2010」対談に参加

【緊急告知】
なめくじ長屋奇考録さんにて、12月21日から24日(クリスマスイヴ笑)に渡って開催される
「このマンガがひどい!2010」
のエロバカ劇画総括対談に参加します。


自分は漫画家志望の19歳のとき、師事していた長井勝一「ガロ」編集長の誘いを受けて、マンガ編集の世界に足を踏み入れました。
長井さんから受けた薫陶、「長井イズム」については再三述べてきました(「4コマガロ・「長井イズム」のこと」)が、
マンガに貴賤はありません。
物心ついた時から、自分の側にはいつもマンガがありました。
もちろん「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」「冒険王」などなどのメジャーどころから始まって、3つ上の兄のおさがりや家の真ん前にあった児童館、図書館などで色々なマンガを読みました。
かろうじて、函館には昭和40年代、まだ貸本屋が残っていた(太陽模型店の側だった)ので、旧いマンガにも親しむことが出来たし、年の離れた従兄弟の家で「ガロ」や「COM」などにも触れることが出来ました。

マンガを自分で描き始めたのは、小学校2年ころだったと思います。
母親が関西旅行のおみやげに、なぜかボンレスハムのような二十数色のボールペンを買ってきてくれたので、それで絵を描き始めました。
家にあった新聞の「活字」がおもしろくて、レタリングの真似事をしたりしたのも、その頃です。北海道新聞の一面全てを模写して驚かれたものでした。当時確か瀬戸内晴美「幻花」というタイトルをレタリングしたことをはっきり記憶してます。(ちなみにレタリングはその後もLPをダビングしたカセットのINDEX書きなど、マンガと平行してずっと続け「ガロ」時代はアルバイトまでしたものです。ちなみにギャラはもちろん無かったけど、沼田元氣さんの写真連載のレタリングはほとんど俺がやってました)
また本がどういう作りになっているのかを調べるため、雑誌をバラして製本の仕組みを解明し、自分で自分の漫画を「製本」したりもしました。オールカラーで100ページ近い大作でしたが、もちろん内容は稚拙かつ極めて子どもじみた真似事に過ぎませんでしたが。
中学に入ると、ご多分に漏れずエロ方面にも興味が行き、友人の兄が持っていたエロ劇画を見るようにもなりました。同時に、兄がなぜか少女漫画を読み出したので、その影響でオトメチックな少女漫画も読むようになりました。
中学の同級生なら憶えていると思いますが、当時俺はクラスでも有名な「漫画のうまい子」で、『エースをねらえ!』の岡ひろみを模写して友人(男子、O君元気?)にあげて喜ばれたり、文化祭の出し物で先生全員の似顔絵と口癖などを図解した張り紙を掲げて喝采を浴びたりしたものです。(函館市立本通中学校の皆さん、憶えてますか?)

自慢話はともかく、高校に上がる頃には、いっぱしの漫画家志望のガキに仕上がっていました。とにかく模写に励み、陸奥A子や田渕由美子から高橋留美子に鳥山明、果ては石井隆に滝田ゆうまで模写をしたものです。
兄は私立名門校から超一流と言われる理系の難関大学へ進学したので、母親は俺にも期待して、某有名大学へ入るようにと、家庭教師を呼んで勉強させました。
残念ながら自分はお勉強にはとても向いてなくて、よくサボったものです。とにかく漫画を描いたりバンドをやったり小説を読んだりと、とてもお勉強どころではなく、忙しかったので仕方がなかったのです。
最終的に母親を「漫画家になりたい、そのために学校へ行きたい。その間になれなかったら、大人しく受験をして大学へ行く」と説き伏せ、あこがれの「ガロ」編集長、長井勝一が講師を務めていた専門学校へ進学したのです。(今はもう廃校して、ありません)

長井さんは作家性、オリジナリティを何よりも重視する人でした。
荒削りな素人の「個性」も大切ながら、いかに先達の優れた「個性」を感じ取り、自分に活かすのか。
そのために、独創性溢れる作家さんたちの絵、タッチを「模写」することを勧めました。(関係ないが昨今マンガを「商品」としてしか見られぬボンクラ編集がいると聞くが、一回でいいからマンガ描いてみろ。模写してみろよアホンダラが、と強く思う)
そして同時に「絵」を活かすストーリーを作る助けになればと、映画を見せたり、マンガでも古典的な名作を読ませてくれたりもしました。要するに、作家志望の学生に古典文学から現代文学まで幅広く読ませ、さらに自分でも書かせる。そして人に見せて批評を受ける。今考えれば芸術系の大学教育での基本みたいなものを、漫画でやっていたわけです。
さて俺にとってはお得意だった模写の成績は、胸を張って誰よりも良かったと断言します(★ここにあり
が、他人の模写はうまくても肝心の「独創性」つまりオリジナリティに全く欠けていた俺は、結局漫画家にはなれませんでした。

そのことにうすうす気付き始めた、けれど俺は大好きな漫画の側にいたい、作家がダメなら編集者でもいい、それがダメなら漫画専門店の店員でもいい。とりあえず母親には謝って、来年受験でもしないと駄目か…。
そんな事を思っていた時に、長井さんから
「君さあ、明日からうちに来いよ」
と言われて、青林堂でバイトをするようになったのが1984年の冬でした。

長々と何を書いているのかというと、「このマンガがすごい」とか「読め」という企画はありますが、「このマンガが酷い」ということもまた、俺たちの漫画への愛だということです。

日本が世界に誇るマンガだ、アニメだ、とうとう国家もその文化的価値を認めた…。とか言ってるくせにあまり顧みられない「三流エロ劇画」の世界。
そこに21世紀に入って10年も経っている今、熱い視線を注ぎ続け、一銭にもならないのにその魂をぶつけ続けるげきがウるふ氏のサイト「なめくじ長屋奇考録」は、やまだ紫という最愛の連れ合い、最も敬愛する作家を亡くし絶望と慟哭のどん底に居た自分に、いつも勇気と笑い、そして脱力を与えてくれました。

そう、マンガに貴賤などない。

どのマンガがすごくてどのマンガが酷いか、どのマンガに価値があってどれに無いのかなんて、人に言われたくない。俺たちが言いたい。だから俺たちが言うことから何も学ばなくて結構。ただ俺たちは、言う。語る。そんな企画です。

蛇足ながら、「ガロ」クーデター事件が起こる直前に、知り合いだったF社「P誌」(廃刊)の副編集長Kさんから、「貴重なエロ劇画のコレクションを預かってくれないか」と頼まれました。
エロ劇画はもちろん、原稿料の出ない「ガロ」の作家さんたちがずっとお世話になってきたし、そこから出た才能だってたくさんある。そして何より、「世間の主流」、マンガのど真ん中だか何だか知らないが、そこから外れている者同士の連帯感があった。
それに、国会図書館にバックナンバーがあるわけでもなし、特に雑誌は読み捨てられゴミと消えることがほとんどの、とても貴重なものだ。
だから、喜んで預かった。
段ボール5箱ほど届いた時は愕然としたが、幸い初台の「ガロ」編集部の大きな書棚がまるまる一つ空いていたので、俺はみんなに
「これらは後々貴重な資料になるから、預かった」
と言って棚に収めた。
「ガロ」のクーデター事件の後、俺たちツァイトのスタッフは、ほとんど無給で事態の収拾にあたりました。失業保険の給付を受け、内職のようなことを掛け持ちしたりして多忙を極めていました。(後にクーデターを起こした張本人の側が同じようなことをどっかで言っていたが、それは自業自得というものだろう。自分たちで事件を起こして飛び出しておきながら、苦労をしたことを殊更に吹聴することは恥ずかしいと、俺は、思う。さらに、自分たちの「明かな違法行為」を感情論でチャラにするのはよかろう、だが、俺を「ヤクザの手先」「山中と手を組んで次のガロというブランドを乗っ取ろうとした」などとデマを吹聴する必要はなかろう?俺が言ってること、どっか間違ってるか?)

さてとんでもなくひどい状況に置かれていた俺は、Kさんから譲り受けたエロ劇画誌は散逸させるわけにはいかず、さりとて家には置く場所もなく、気がかりでいたところ、処分される寸前で当時タコシェの店員だった大西祥平君に引き取られたのです。所有権は自分にあったのだが、それを知らぬ人たちが処分しようとしたのを引き取ってくれたと、後で彼から聞いた。その後それを彼がどう活用しようと勝手だったわけで、今は純粋に感謝しています)
とにかく、もうそんなことはどうでもいいことなのだが、その後某グループによりエロ劇画の復刻や再評価でちょっとしたブームが起きる。それは俺がやりたかったことでもあった。だがもうそれも結果的にキチンとエロ劇画に日が当たり、再評価されるのなら誰がやっても結構。掛け値なしで嬉しい。

そして「今」だ。
俺たちはすごかろうがひどかろうが、愛を持ってマンガを語る。バカバカしくゲラゲラ笑う。それもまた、マンガに対する態度として正しいことの一つなのです。
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2009-12-12(Sat)

このマンガがすごい・・・んですか。

12月12日(土)

今朝は6時過ぎにトイレに起きる。一応6時間近く寝たからいいかと、そのまま寝ずに起床。
日中はほぼ仕事ばかり。休み休みとはいえ、その休みにtwitterりしている。昨日届いた宝島社「このマンガがすごい! 2010」を読むが、これA5判にしては字が小さくて読みづらいところが多い。俺の目が悪いのか、若い人向けなのでこれでいいのか、とにかく目が痛くなる。

言いたいことは山ほどあるが、もう面倒くさい。

この本…というより「この手のランキング」や紹介本に何の意味があるのか、もはや意味不明だ。
個々の人物にそれぞれ聞いて、この人はこういうものを好んでいるのか、という下世話な興味を満たすのならそれに特化すべきだし、「売れている」という基準で選ぶのなら、再三言っているようにオリコンの年間順位出しとけばOKだろう。別に本なんか作らんでいい。
その年に単行本が出たものの中から、誰かが勝手にランキングをつけるのなら、そいつらの好みなんだから見る必要もない。
マンガはジャンルも多岐にわたり、メジャーからドマイナーまでさまざまな作品が生み出されている。しかもその作品を評価する際、個人の場合はどうしてもそこへ「好み」つまり「好き嫌い」が入る。
何度も繰り返しになるけど、カネを払ってモノを買うだけの「消費者」なら、その基準はその人の「好き嫌い」でいい。というより嫌いなものをわざわざ買うバカはいないだろう。
だが批評したり紹介をしたり、つまりはプロ、生業にしている連中の審美眼が素人と同じ基準であるならば、プロなんか必要ない。そこに要求されるのは「一般人に今売れているこれ」をわざわざ紹介することではなく、埋もれた名作を伝え残すことであるだろうし、いまだ知らぬ人々へ紹介することもであろうし、「今なぜこれが売れているのか」「この作品のどこがどう優れているのか」などを分析するような仕事だろう。
よく喩えに出すが、「ラーメン通」とか「ラーメン博士」だの言われる連中のガイド本を見てみたらいい、本当にムチャクチャで、こいつら本当にラーメン以外のものをたくさん食べてきたのか、つまり
プロとして「味を表現し他人に説明するだけの『リテラシー』」を持っているのか、と疑われるような阿呆が多い。
四六時中ラーメンばっかり食ってるような奴に、ラーメンの味を説明できようはずがない。このことになぜ誰も腹を立てないのか、疑問を持たないのか理解に苦しむ。そんなものをアテにする方が間違っているのだが(味なんて好みだし、元々が形而上的なものだ)。

ではマンガはどうか。
マンガは文学や映画や写真や音楽などと並ぶ、いやとにかく一つの「表現」方法だ。芸術だとまでは言わぬ、芸術と呼ぶべきものもあればそうでないものもある。その雑多なものが一緒くたになって「表現」なのだし、そのことは音楽や文学だって同じことだ。
この本で「マンガ批評家のだれそれ」とか「ライター」とかの「個人的なベスト」なり「オススメ」が見られるのは、それなりに面白い。
誰がボンクラかすぐ解る。

ただ、書店の現場にいる人間が出すベストは意味が違ってくる。
旧知の友人T君がメールをくれた。ブログへもコメントをくれたが、
「書店が単に『店頭で何が売れたか』をランキングで出すのでは、意味がない。むしろ書店の現場で、自分はこれを今の読者に読ませたいという行動が、書店の書店たる存在価値だろう」と憤慨していた。
なるほどと思う。
世間の売れ行きがどうこうではなく、この作品がもっと読まれるべきだと思うこと。
この作品はずっと後世に伝えたいから、棚を作って自分のベストだと思う品揃えをすること。
まあそれが書店文化というか、書店の存在価値だとも思うが、取次の言うがままに売れ筋を揃え、送られてきた配本をただ並べる…じゃあ書店は早晩潰れていく。(いやそんなことはもう20年も前から始まっていて、そのことも再三俺も書いているが「考察【出版不況】」
勢いまっとうな読者の足も書店から遠のく。というより、書店に通うあの「わくわくした感覚」を味わう、次の世代が育たない。育ててきたのは書店だったはずだが、もうその役目を果たす書店員がいない。だから結局どこの書店へ行っても同じだ。
何年か前、夫婦でけっこう大手の書店へ足を運んだら、レジ前の「一等地」に「店長のオススメ!泣けます!」というポップがあり、『世界の中心で愛を叫ぶ』が大量に平積みになっていた。二人で顔を見合わせて苦笑した。

ではAmazonやネットでプッシュされている大量のものから「自分の審美眼だけ」を頼りに「ほんとうにいいもの」と出会える確率は低い。
レビューなんかしょせん、他人の主観にすぎない。書店へ行き、自分の全く興味のない分野の棚の前で、上から下までなめ回すように本を探し、手に取り、そして新たな好奇心や知的探求心を刺激された時の、あの感覚。ネットでは無理だ。

そのために本のソムリエのような人が必要で、つい数年前までは、それが実は書店という出版文化、流通の現場の最先端にいる書店員のはずだった。
かつて個性のある品揃えで、「ジャンプ? よそで買えるだろそんなもの」という書店がたくさんあった。本当の話だ。
どこでも買える、誰でも知ってる本ならよそへ行けよ。うちはな、棚つくるのに誇り持ってんだよ。本当にそういう書店がたくさんあった。

俺の高校時代、よく通っていた函館の五稜郭交差点から近いデパートの裏にあった小さな書店で、俺はガロを買い、写真時代を買い、OUTやファンロードにも出会い、漫画ブリッコの創刊を目撃した。青林堂だけじゃなく北冬書房、けいせい出版や東京三世社のコミックにも触れた。別な書店ではエロ劇画がカンペキに揃っていた、主人が好事家だったと思う。また別な書店では翻訳ものの小説ばかり買った。
いわゆるメジャーどころ、ジャンプやマガジンやサンデーや少女漫画のコミックは当たり前だがどこでも買えた。今のようにコンビニが無かった頃だ。
大きな書店をはしごするのと、個性ある小さな書店をめぐるのは、それぞれ別な楽しみがちゃんとあった。こちらもそれを使い分けて楽しんでいたし、書店側も「棲み分け」をしていた。

この晩秋、入院する前に買い物がてら近所の名物書店を覗いたことがある。
発売日直後のやまだ紫「性悪猫」はみつからなかった。
部数から言って委託、パターン配本で入る部数はほとんどないと思う。ただそこはアート系の本に力を入れていたし、サブカルにも強く芸術系の学生が多いところだ。1部か2部入ったのを返本したか売り切ったか、それで終えたのか。あるいは最初から入らなかったか。いずれにせよ、その店で能動的に「これは今の時代でも売るべきだ」という選択肢に入らなかったのだろう。入っていれば注文で平積みするぐらいは頼むはずだし、俺が書店員ならポップを作ってレジの真ん前に置く。
しかしそんな書店は恐らくもうないのだろう。
書店員は売れる本をより売るために、ポップを作る。
売れ筋をよりたくさん売るために、特等席に平積みをする。
皆判で押したように大手の、それこそ数十万数百万売れるものを大量に仕入れて大量に売り切る商売しかしない。書店なんかどこへ行っても同じだ、と言われる所以だ。
俺ももう書店の店頭へ足を運ぶのをやめた。
病気のこともあるが、こちらが読みたいものはピンポイントでAmazonに注文すればいい。若い頃の、あのわくわくするような「未知との出会い」を期待して行くような書店はもう、ないのだろう。あったとしても俺が行ける範囲にはないだろう。
「出版文化は、その先端で読者と対峙している書店そのものが破壊している」…T君の言葉だが、なるほどと思う。

<追記>
『このマンガがすごい!』がちょっと納得いかない件について 漫棚通信ブログ版
カンペキな分析結果。小中学生をはじめ大学を含めた「子どもたち」のアンケが…。だったら本にする意味って…
【以下はコメント欄に残そうとしましたが、遠慮させていただきました】
自分はむしろ今年の路線変更には疑問なので、漫棚通信さんと同意見だ。
アンケートの集計結果=人気投票や書店員の売れ筋ランキングなど本にして何の意味がある?
しかも年間の「すごい」と銘打ってだ。
オリコンの売上げ一位からでいい、せいぜい年代別性別くらいなもんだろう。数頁で終了。あとは巻末の著名人(だか何だか知らないが)の「個人的な趣味趣向によるセレクト」くらいか、読めるのは。
ONE PIECEが売れていることは事実で面白いことも事実で、それを今さら「すごい」ということに何の意味があるのかということを、たくさんの人が疑問に思っている。
あと今年の、この本の校了(10月か?)までに出た全ての漫画単行本を対象にするのなら、来年は、今年の10月末から刊行されたやまだ紫の復刊も当然選考対象でしょうね。
ただ「売上げ上位からスゴイ」という価値基準だとしたら、やまだ紫を読める「漫画読み」とやらがどれだけ執筆陣に入ってるかが不安ですが。
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2009-12-11(Fri)

自転車に注意

12月11日(金)

夕べは10時ころレンドルミンを、寝る直前の11時半にベンザリンを飲んだ。万全の準備で寝たので、朝6時までぐっすり寝られた。しかも昨日寝られなかったせいか、寝足りなくて9時近くまでうとうとして、ようやく起きた。
朝のことを済ませるが、気が付いたら10時半ころ。半端な時間だが薬を飲まねばならないので、コーヒーを淹れてバタートーストを食べる。
三津子の花がしおれてきたのが辛い。とにかく体が万全ではないのと、その上インフルエンザ、いや普通の風邪さえ怖い体なので、なるべく外へ行く回数を減らしたい。だけど冷蔵庫もそろそろ空になり、新鮮な野菜も食べたい。
外は雨だけど、意を決し2時ころに買い物へ行くことにする。
襟巻き、手袋、マスク、さらに耳まですっぽりの帽子で完全防備で外へ出た。完全防備のせいなのか、単に気温がそれほど低くないのか、あまり寒くない。

昔、体が健康だった頃、それこそ大酒を飲みタバコを煙突のように吸い、編集というストレスの多い仕事で不規則な生活を続けていた。元々がせっかちなために、外を一人で歩く時は東京の雑踏をスイスイと身を翻しつつ誰よりも早く歩いていた。
その頃、自分の前を若い男がゆっくりゆっくり歩いていた。邪魔だな、追い越そう…と思ったら、夏だというのにマスクをしていた。その時は単におかしな奴だなと思った。場所は池袋の東西をつなぐあの大きな地下道だったので、ひょっとしたら犯罪者や変質者かとさえチラっと思ったものだ。

思えば、あれは未来の俺の姿だったのかも知れない。
免疫力が低下し風邪をこじらせると肺炎など、悪化しやすい体なのかも知れなかった。
あるいは手術の後か、それとも神経痛などで、ゆっくりじゃないと歩けない体だったのかも知れない。
その後で、夫婦二人で歩いている時、自分では一人の時の数分の一にスピードを落として、連れ合いである三津子に配慮をしていた「つもり」でいた。それでも、彼女は「もうちょっとゆっくり歩いて」と言ったことが何度かある。
つくづく、人の痛みというのを他人が理解し、ましてや暖かく配慮するということは難しい。
いや、難しいことではなく簡単なことなのだが、気がそこへ自然に向くのは、身内が病気になったり、ごく近いところにそういう人が居ないとなかなか出来ない。
数年後に自分がそんな体になろうとは思わなかった。

京都の街に限ったことではないだろうが、雨だというのに歩道を傘をさして、自転車に乗りけっこうなスピードで走っている人がたくさんいる。とっさに身をかわす瞬発力、体力のない人にとっては、まさしく走る凶器、いや狂気だ。
そういえば先日、テンレンス・リーが路上を自転車で走っていて、男性と接触したことがきっかけで殴られ、眼窩底骨折という重症を負ったという。彼はサンジャポで「元傭兵」「危機管理アドバイザー」などとして売っていただけに、ネットでは祭となったそうだ。障害事件で男性は逮捕されたのは当然としても、そもそも歩道を自転車で走り、酔っていた男性=つまりとっさに身をかわすことの出来ない人に接触したという時点では明らかに自転車側に非があろう。(そこから先の話はまた別問題)
こんな例を出さずとも、自転車に乗りながら携帯をしていた女子高生が、女性に追突して重度の後遺障害を与えたという事件は記憶に新しい。事件にならない小さな被害は日本中で日常的に起こっていることだ。

自分の場合、もし左側から疾走してきた自転車に追突されたら、最悪の場合は脾臓破裂・出血多量で死ぬことになる。冗談や大げさな話をしているのではない。普通の人でも脾臓は破裂したり損傷した場合は摘出することが多い(縫えないから)。自分は骨盤まで達するほど巨大化したもので、たっぷりと血液を含んでいる。それが損傷を受けたらどうなるか、考えただけでも恐ろしい。
郵便局へ書留を出す用事もあったので、数百mとはいえ徒歩で歩いていると、「暴走傘自転車」とけっこうすれ違う。病人としては、ゆっくり歩きつつも、これじゃあ外を歩くことさえ命がけじゃないか、と苦笑。

郵便局のあと、大型スーパーへ行って買い物。
数日分の野菜や食材、最後に花を買ったらけっこうな金額が飛んだ。そしてけっこうな重さの荷物になった。
肉類は一人分の量をチマチマ買うと高くつくし手間なので、何パックか買うと安くなるのを買って、小分けして冷凍しておくのだ。なので無くなるとそれなりの量を買わねばならない。あと、大根ってけっこう重い(笑)。
それらをレジ袋の大きなの2つ満タン、それに花を持って傘をさすのはなかなかしんどい。しかも行き交う傘差し自転車にも注意しつつ。何度か持ち手を替えつつマンション前に戻ると、息が切れ腕がパンパンだ。情けないが、今の自分の体力、病気ではしょうがないこと。

戻ってきて荷物をしまって花を活け、買って来たブタばら肉の薄切りを数枚、きのこ鍋に投入。鍋の表面にフタのように並べて火を通し、アクを取ってからよそる。
う、うますぎる。
味噌仕立てのキノコ鍋は3日目で、ほどよく煮詰まりキノコの味がしっかり出た汁は絶品。イノシン酸のうま味がそこに加わると最強の味だ。思わずお代わりまでした。残りは今晩、雑炊にしておしまい。冬は鍋。一人でも鍋、いや夫婦で鍋。
仕事をしてブログで入院日記を更新(入院5日目)したあと、晩は今日買って来たカツオたたき、厚揚げ、しらすおろしで晩酌。
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2009-12-10(Thu)

調子悪い日

12月10日(木)

夕べは12時前に寝に入ったが、2時過ぎに目が醒め、その後ずっと寝られなかった。
いったん下に降りてトイレへ行き、寝室に戻るが全く寝られない。何か胃に入れればと思い再び下へ降り、居間でココアを飲みクッキーを食べ、しばらくソファに転がる。
眠気が来たような気がして寝室へ上がると、今度は猫たちがついてきて、右脇の下にずっしりとシマが丸く腕枕状態、左側には布団の中にユキが入って来て寝た。結果身動きが取れず、そのまま寝られず、色々なことを考えているうちに目が冴えてしまって下に降りて電気をつける。
ずっとソファに転がっているが、目眩がひどく読書も出来ない。薬を飲んで無理に寝ようかとも思うが、その頃にはもう明け方近くで、サイクルがずれてしまうのでそのまま起きていた。

「寝られない」というのは本当にしんどい。
病気の身には特に堪える。数年前には三津子に「布団に入ったら5分で寝る」と呆れられていたほど寝付きが良く、しかも8時間はキッチリ寝ないと起きないほどだった。それが今や導眠剤を飲んでも数時間で目が醒めてその後寝られなくなるとは、自分の身ながら心配だ。

日中はそんな感じでずっと目眩がして、しかも下は下り気味で本当にしんどかった。何がどう具合が悪いとか、どこがどうとかではなく、帯状疱疹の痕はずっと痛むし、こうして目眩や下痢などが積み重なると、本当に気持ちも沈む。
それでも時おり「いけるかも」という起伏があり、その時を見計らって何とか雑炊を食べた。
そんな調子で居間のソファに横になっていたら、夕方になってようやく目眩が取れてきた。これで少しは楽になった。

何か食べないとと思うが買い物にも行けず。火を毎日通していたキノコ鍋と、冷凍庫をあさって冷凍食品の餃子などで三津子に何とか陰膳をつくり、ビールをちょっとだけ飲んだ。
その後7時過ぎに小学館クリエイティブの川村さんから電話があり、「ゆらりうす色」の原稿を返却します、とのこと。これで年内3冊のやまだ紫作品の復刊は無事メドがついた。お疲れ様でした。
今回の復刊事業に関してのパブリシティのことを少し話した後、こちらの体のことも心配していただく。
「元気にしててもらって、また京都へ行くので飲みましょう」と言っていただいた。やまだの作品も「細く長くで申し訳ないが、ずっと出して行ければ」と言っていただき、ほんとうに有り難かった。
今日は一日最悪の調子だったが、夜になって少し気持ちが上向いた。
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2009-12-09(Wed)

平常心

12月9日(水)

夕べは12時ころ寝室へ。何だかおかしな夢をたくさん見た。
今朝は7時ころベッドに上がってきて鼻面をこすりつけるユキに起こされた。「ご飯がないよ」と言っているのは解ったが、眠い。布団を上げてやると中に入ってゴロゴロいい始めたので、そのまま小一時間ほどこちらもウトウトしてから起きる。
ユキは布団の中へ入ったらぬくいのが気持ち良かったせいか、こちらが起きてもしばらく出て来なかった。起こしに来たくせに。
下へ降りて朝のことをもろもろ済ませていると、降りてきたのでソフトエサもあげる。シマは最近歯が弱くなってきたので喜んで長時間ぺちゃぺちゃやっている。パウチのソフト猫療法食(尿路感染症、腎臓病予防)は柔らかく汁気が多いのが好きらしく、二匹ともお気に入りだが、コスト的にはちょっと高い。普段はカリカリ=乾燥エサだけだが、二日に一遍くらいは開けてやることにしている。

まあ、俺もこの先そんなに長くないようだ。
その間、お互いに幸せな時間を過ごそうや。

その後昨日作ったキノコ鍋になめこを投入、少量の醤油と多めの味噌で仕上げ、朝食にする。もちろん三津子にもあげた。キノコのうま味が存分に出ていてうまい。肉類のうま味を足したくなるが、ここはヘルシーにキノコに白菜と豆腐だけの味噌汁のような感覚の鍋にした。
それから朝イチで仕事のデータが来ていたので、ずっと集中。途中昼を食べそこね、おとつい詩人の井坂洋子さんに送っていただいたクッキーとコーヒー。そういえば冷蔵庫にコンビニで買ったグラタンがあったな、と思い暖めて食べるがすこぶるつきにマズいので、途中でやめる。胸焼けがするわマズいわで、思わずベリチーム入りの胃薬を飲んだ。
午後は休み休み仕事。
冬になったので室内に入れて時おり水にザブリと漬けていた「苔玉」が、見ると表面にポツポツと白い点が浮かんでいる。
白カビだ、そう思ってすぐ流水で丁寧に洗い落とした。幸い外は晴れてきたので、物干し竿にぶら下げて太陽の光で乾かす。
11/30撮影。
この苔玉は夫婦二人で散歩に出かけた時、グリーンショップにぶら下がっていたのを買って来たもので、もう一冬越冬している。今年は春になるとシダのような葉を八方にふさふさと茂らせ、ベランダに吊されて目をなごませてくれた。秋になるとそれら青々とした葉が見事に黄色くなり、紅葉とは言わずとも季節の移ろいを感じさせてくれた。なので今年も絶対に越冬させる。
(ちなみに写真の様子は11/30、室内へ入れた時のもの。これらの葉は全部、やさしく触っただけでハラハラと落ちた)
午後は仕事の合間にミヤネ屋を見るが、押尾再逮捕、タイガー・ウッズの浮気問題やら、警視庁捜査一課の元刑事が出て知られざる刑事の生活を明かしてくれたり、まあ本当に世間の下世話な好奇心を満たしてくれるものだ。昼下がりの日本はこういう番組で平和だな、と確認する。
夕方仕事を終え、積んでおいた本や送っていただいた漫画などを順番に読んでいくが、休み休みという感じ。何だかこのところ目がいけない。眼鏡がくもっているのかと眼鏡拭きで磨いたりする頻度が高くなった、けれど読書をすると目が霞むような、くらくらするような感覚になる。この「感じ」を説明するのは難しい。老眼かとも思ったが、老眼は近くのものが見えにくいので遠くに目を細めるようにして離すわけで、俺の症状とは違う。
白血病があるので、それが目に来ることもあるそうだから、ちょっとそう考えると怖い。
ただ、ここまで進行がゆっくりとしているのだから、突然失明したり、突然脾臓が破裂したり、そういうことはないのだろうと漠然と自分に言い聞かせることにしている。そう考えないと精神的に危険だ。
6時前からはあり合わせのもので陰膳をつくり、晩酌を軽く。「こんなものしかなくてすまんね」と言いつつ、彼女のぐい飲みにビールのコップをあてる。これからのゆったりした時間が、今の自分の癒しとなっている。
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2009-12-08(Tue)

夢のあと

12月8日(火)

夢を見て起きた後、リビングのソファでそのままごろりとする。もう一回寝ようかとも思ったが、もう「朝」だ。
テレビでみのもんたの声を聞いているうちに眠くなりちょっとウトウトしたが、あまり寝られず。7時ころ着替えてコンビニへサンドイッチと昼の弁当を買いに出た。マスクに襟巻きと手袋をしたが寒く、インフルエンザも怖いが風邪も怖いと思いつつすぐに戻る。

帯状疱疹の痕は相変わらずで、もうとっくに皮膚の表面の痛みは取れてくる頃だと思うのだが、相変わらず痛い。もっとも入院していた頃最大に痛かったのと比べれば屁のようなものだが、日常生活を普通にこなしていると、常に気になってしょうがない痛みが存在している。
退院して十日以上経つのに大丈夫だろうか。疱疹の内部というよりケロイドになった表面の痛みのようだし、疱疹後神経痛って、これのことじゃないよな…と不思議に思う。

サンドイッチとコーヒーで朝食のあとは、またソファに転がってちょっと寝ようかとも思うが結局寝られず。
急がない仕事をゆっくり休み休みやりながら、昼の弁当を食べ、合間に猫のトイレ掃除でヘトヘトになったりしつつ、あっという間に日が暮れる。冬は日が短いのは当たり前だし、もう気が付いたら40回以上経験していることなのに、毎年季節の移ろいを実感するのは考えてみればおかしなことだ。おかしなことだけど、風流なことでもあり、日本人的な感性の源でもある。


陰膳夕方は5時過ぎにスパッと仕事をやめ、晩酌の支度。三津子の陰膳を作るのは自分のためでもある。買って来たものでもパックや容器のまんま並べるより、一手間二手間かけて盛りつけたり彼女の好きだった味つけにしたり、何かしら考えるのが日課。
団地で一緒になった頃から、彼女の料理でどれだけ幸福な時間を味わったことか。そう思えば、陰膳をつくる手間なんか何の苦労でもないし、それどころか自分自身の気持ちを上向かせる大事なことになっている。
思えば、俺は彼女に色々なことを教わった。
考えてみればそれはとても幸福なことで、今自分が死病を抱えて生きているということすら、別段たいしたことではないように思えてくる。

その後は晩酌も終えたころ、9時過ぎくらいからまた土鍋を出し、買ってあったシメジ舞茸しいたけエノキに白菜を出し、最後に豆腐を入れて鍋を9割方作ってしまう。
だが今日は食べない。
一日おいて、キノコからじゅうぶんダシが出たところで食べるのだ。ちなみにナメコは食べる直前に入れる。
明日が楽しみだ。
きのこ鍋
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2009-12-08(Tue)

夢の記録

12月8日(火)

いま、朝5時15分。三津子が夢に出て来てくれた。

夕べ12時前に寝室に上がり、そのまま寝た。何度か目を醒ましたが比較的良く寝られ、最後に目を醒まして時計を見ると4:45だった。「惜しいな」と思ってそのまま寝ようと目を閉じる。尿意があったが下のトイレまで起きて降りるのが面倒だった。それに今朝はぐっと冷えるということだったので、玄関の横にあるトイレまで暖かい布団から抜け出していくのも嫌だったから、そのまま朝まで我慢しようと思った。
玄関のすぐ横の今はクローゼットと物置みたいになっている洋室は、引っ越してきてからしばらく、メゾネットの2階の本が一杯詰まった段ボール箱の山があった間は夫婦の寝室になっていた。
マンションの玄関を出た廊下がすぐだったので朝はいつも近隣の人の出入りで起こされたものだ。トイレは近かったのくらいが救いだったか。
引越から1年が経つ間に、メゾネットの2階和室には本棚をぐるりと置き、部屋の中央に積まれた大量の段ボール箱を夫婦二人で時間を見ては開けて、本を二人で周囲の棚に突っ込んで行った。そうしてようやく簡易ベッドとはいえ、去年の秋にようやく2階を寝室にした。

ここは一人じゃ広すぎるな。隣のベッドは今でも、彼女が寝ていた頃のままだ。ふと隣を見たら普通に寝ていてもおかしくないように、カバーをちゃんと取り替えた枕も置いてある。
でも、そろそろ下に独りで寝て、上を広く開けて親戚が来た時に寝られるようにした方がいいだろうか。そんなことを考えているうち、ウトウトしたんだと思う。ここまでは現実の話だ。

その後いつの間にか俺は地下鉄の駅に急いでいた。どこか解らない、意識は「今」で京都市内だったと思う。階段を昔健康だったときのように飛び降りるように降りて、改札に近付くと電車が来るのが見えた。でもよく考えたらその駅はかつて団地の頃によく使った、都営三田線のどこかの地下駅みたいだ。
券売機で券を買っていたのではもう間に合わない。走りながらもどかしく財布を開くが、あったはずのカードが見つからない。改札前で探しているうちに電車は行ってしまい、何だよと息を切らしてがっかりしつつ券売機で券を買った。
そこから場面は急に飛んだ。

昔、「ガロ」という雑誌を出していた青林堂という貧乏な出版社に勤めていた頃、編集業務の他に営業もやっていた。自分たちで作った本を、自分たちがあちこちの担当地域へ、ネクタイを締めて出版物一覧表を持って、注文を取りに散った。もちろん電車で、山手線内や中央線などいい場所は先輩に抑えられていて、俺の場合はだいたい行ったら一日かかる常磐線や京浜東北線、東武線や総武線の秋葉原以東などだった。
その、どこかで行ったことのある大きい書店の雑踏の中にいた。

ずいぶん混んでいるな、と思いつつ書店の担当さん…書店名の入った揃いの前掛けをつけ、やはり揃いのポロシャツを着た中年と若い女性のコンビが棚を整理している。そこで俺も同じようにしゃがんで棚を見ている。
書店の棚は平台と言って本を床と平行に積み重ねる部分と、棚とに別れている。棚は壁際だけではなく平台の上にもある。売れ線の場所は店によって違うが入口やレジ近くとか、新刊書のコーナーの平台、次が客目線が来る棚だ。
そのコーナーの新刊の平台には、かつての「ガロ」の作家の新装版が並んでいて、新刊が何点か薄い平積みになっている。
俺は営業に来たはずなのに、いつの間にか客になって三津子、やまだ紫の本を一生懸命探していた。
見つからない。
書店の担当さんにしゃがみながら「亡くなった妻の本を探してるんですよ。やまだ紫という」と話すと、中年の方の書店員は「あの!」というようなビックリした顔をして、すぐに済まなそうに「入荷が少なくて、品切れになっちゃったみたいですね」と言った。
そうして立ち上がって、ちょっと離れた壁際の棚を指さして、「あっちへ棚挿し(背を見せて棚に普通に入れること)にする予定だったんです」という。俺も「はあ」とがっかりして立ち上がり、顔を上げる。
広い書店だ。そうだ、ここは池袋のリブロ…か昔の三省堂じゃないか? 二人で何度も何度も来た店だ。
たくさんの人が立ち止まって俺がしゃがんでいた平台の上の棚の向こう側の通路を移動していたり、立ち止まってこちらを向き、本を立ち読みしていたりする。

その中に、こちらを向いている三津子の顔があった。
俺の顔を見ている。色が真っ白な人だったが、周囲の人に比べてひときわ白く目立った。
俺と目が合うと、彼女は笑ってペロッと舌を出した。そう、俺をちょっとバカにするときにした仕草だ。
俺はまた「うわあ!」と叫んでぐるりと棚を回り込み、「どれだけ会いたかったか…」と言いながら彼女をつかまえようとしたが、彼女はいたずらっぽく逃げてしまい、小柄な人だったので、アっという間に雑踏に紛れてしまった。
そこで目が醒めた。

彼女の顔は、ちょうど俺と出会った頃の髪を短く切ってすぐの頃だった。まだ顔はふっくらしており、当時30半ばだったと思うが、可愛らしい印象さえ受けた、あの頃の顔。つい先日見せていただいた、次の本『ゆらりうす色』に掲載した写真の前後あたりの、可愛い顔だった。

寝室の時計を見ると5:15だったから、一度目が醒めて、数分でレム睡眠に入り、その薄い眠りの中で見た夢だったようだ。しばらく布団の中で今見た夢を反芻する。何度も、何度も。
ありがとう、夢に出て来てくれて…。
そのうち、この夢をもう一度寝て起きたら忘れていたら嫌だ、と思った。なので降りてきてこうして記録した。外はまだ真っ暗で、叡電がガタンゴトンと通り去った。
5:54
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2009-12-07(Mon)

何でもない日

12月7日(月)

夕べは一度寝室で寝に入ったが目が醒めてしまい、下に降りてネットを見る。そのうち眠くなり、2時前に再び寝た。
今朝は目が醒めるたびに時計が5時、6時…と1時間ずつ進んでいて、最終的には8時過ぎに起きた。朝方ちょっと冷えた感じで、寝室の窓は結露して外が霞んで見える。
下へ降りて、朝のことを済ませ、一息ついて床のホコリをモップで取る。本当はガーッと掃除機をかけたいが、まだ痛みがあってきつい。ダスキンモップで丁寧に階段から床のホコリや猫の毛を取っていく。幸い入院中のと合わせて2回分新品のがあったので付け替えつつ掃除。
それから居間にエアコンの暖房をつけ、風呂場の浴室暖房をつけてそれぞれドアを閉めて暖かくし、しばらくしてからシャワーをする。風呂に浸かりたいのだが、まだちょっと疱疹の痕が怖い。実際痛みもチリチリとある。
風呂上がりに洗濯機のスイッチを入れて、湯冷めしないようにすぐ暖房をつけておいた居間へ移動、疱疹部分にガーゼをあてて止める。腹巻きの半分のような感じで、下着があたるのから保護する役目。もう「傷」はない。なのに全体に痛みがあって、一番最後まで傷があった背中、脊髄の部分が時々ズキンと痛む。
ここのマンションは旧いせいか水圧が弱く、シャワーの勢いも弱いのが難儀。その上に同時に洗濯機を廻すと、さらに水勢が弱くなるので同時に出来ないのだ。
一息ついて、仕事をしながらおでんに火を通し、ミニ中華丼というのを暖めて食べる。仕事をしながら食事を採るというのは、本当はいけないらしい。頭と胃とに血が分散されるからだろうか。
外はどんよりと灰色の雲が垂れ込めてきた。それにしても吉田山は紅葉が綺麗。もう後半だが、緑とほどよく混じった赤や黄色で、こんもりとした感じがいつも和ませてくれるのだけど、陽があたらないと紅葉は生えない。

引越してきて一年ちょっと経ったころ、うちから見て吉田山の手前つまり北側に、夜になるといつも強烈なライトがいくつも並ぶように点灯するようになった。信じられないほど強烈なライトなので何だろうと地図で調べたら、京大のグラウンドがあった。もの凄く迷惑で、夜なので余計に目に突き刺さる。吉田山を眺めるのはあのライトがつく前しかない。9時5分になると計ったように(計ってるのだろう)消えるが、それまでが非常に不愉快極まりない。

その後仕事をして、夕方5時までにはスパッとやめる。いつの間にか外は晴れていた。
一休みしてからおでんの残りに火を入れ、サラダ菜をちぎって刻み野菜とでサラダを作り、ローストビーフとビール。三津子には好きだった卵豆腐も添えた。
昨日どうにも最悪だった体調は本調子ではないが、なあにこういうことはもう慣れっこだ。死ぬまで生きるだけだ。

酒だけではいけないので宮脇さんからいただいたパンを食べるが、これは天然酵母で有名な店のものらしく、焼かずにそのまま食べてもすこぶる美味で、さらに軽くトーストしてバターで食べると絶妙にうまい。ここまでうまいとビールのつまみにさえなる、と思って店の名をここに記載しようとしたのだが、食べきれない分はゆうちゃんに送ることにしたのでもう見られないのであった。

外はけっこう冷えたようで、風邪でもひいたらいけないと思い、玄関から続く廊下のドアを閉めてエアコンの暖房をつける。猫たちは暖かいのが嬉しいのか、それぞれ床とソファでごろりと手足を伸ばして寝ている。
シマが思い出したように顔を見上げて甘えに来るが、三津子が描いたかつての絵にそっくりな表情と佇まい。時計を見たら7:17、俺の誕生日だった。つまらぬ「偶然」だろう、それでも何となく幸福感に包まれる。
明日はもっと冷えるそうだ。
やまだ紫2004年限定カレンダーより
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2009-12-06(Sun)

怖いインフルエンザ

12月6日(日)

夕べは1時前に寝た。なぜか首の後ろあたりが重苦しく、ビールも2本、ヒレ酒は一杯しか飲めなかった。「しか」って充分だろう、というツッコミがそこかしこから聞こえそうだが。
首は鈍痛というか頭痛というほどではないが、目眩のちょっと強いような感覚。かといって酒に酔ったわけではなく、むしろ飲み足りないくらい(だから、酒は飲んだら誰でも酔うというツッコミが…)。
寝る前に鍋は雑炊にするので片付け、三津子の陰膳の刺身は細かく刻んで猫の皿にあげた。「ひろうす」を入れたのは失敗というか、ふぐ鍋には合わないので別な鍋に移しておく。

今朝は6時ころ目が醒めた。外は薄曇りで、時おり晴れ間がある感じ。気温は低いという予報だったが、そうでもない。
朝のことをもろもろ済ませて、しばらくごろりとソファに横になってテレビを眺める。昨日の首から頭にかけての鈍痛はほとんど消えているが、どうも腹周りもきつい感じで気味が悪い。

しばらくしてメールチェックするとここしばらくやり取りが続いている「ある企画」(そのうち明かします)の続きが入っていたので返信。
ふぐ雑炊!!!朝食は雑炊。昨日の鍋の残りに火をつけて塩とごく少量の醤油を足して味を調える。それから冷凍してあったご飯を解凍したものを加えてちょっとだけ煮て、最後に溶き卵を廻し入れ、フタをして火を止めたら出来上がり。
ふぐのダシが出た雑炊は美味かった。三津子にも一杯よそって「一緒に」食べる。
その後しばらくテレビを見て、トイレに立つとまたちょっとイヤな感じ。
それにしても秋口からガタガタとイヤな感じだ、帯状疱疹やら腹部の違和感、首や頭の鈍痛。俺もそう長くないということだろうか。血が止まりにくいから、脾臓に何かあるとそのまま死に直結しかねないし、若い頃の不摂生でもし脳の血管に何かあったら、三津子と同じことになるだろう。
いずれにしても自分は健康な体ではないし、帯状疱疹をやったことからも、免疫力も日常生活ギリギリOKというレベルだ。いつ何があってもおかしくない。

死ぬことを想像すると確かに怖い。当たり前だが経験したことがないからだ。どこへ行くのかも解らない。
けれど意外と悲壮感はないもので、例えば週刊誌やテレビでやれ何がどこに効くとか、何が癌封じになるとか、こうしろああしろ何を食えどれがいい、という情報に全く無関心にもなれる。だから騙されることもない。
俺が癌になってから、いや、三津子がもうずいぶん前からさまざまな疾患に悩まされてから、俺はどれだけ医学に関する情報を集めたことか。逆に薄っぺらいエビデンスのない情報をしたり顔でひけらかされると、申し訳ないが知性を疑ってしまう。
不遜な意味ではなくて、まず冷静な科学的根拠を求める。もちろんその上で目に見えない力が働くことがあることも、経験上知っている。

それより、俺のようにこれだけ体の防御態勢が弱くなると、普通の人なら何でもないことが重症化したり、命に関わる問題に直結しやすい。文字通り薄氷を踏むような「危うい日常生活」だと理解してしまえば、少なくとも自分のマヌケさから何らかの重篤な事態になることは避けよう、そうじゃないと無事を祈ってくれている人たちに申し訳ないと思う。例えば酔っぱらって階段から落ちて頭を打って死ぬとか、酔っぱらって階段から落ちて脾臓破裂の出血多量とか、酔っぱらって階段から落ちて・・・死んだ後に笑われるようなのは嫌だな、と。
夫婦の晩酌くらいはまあ精神衛生上許してもらいたいが、その他は気をつけすぎるくらい注意しているつもりだ。
それでも、目に見えないストレスや若い頃からの習慣でつい根を詰めて仕事をしてしまうところは、なかなか回避することが難しい。
実際、この度の帯状疱疹も、解ってからその原因…過労、重度のストレス、免疫力低下などその全てにおいて発症条件を満たしていたわけだけど、だからといって「このままだと帯状疱疹を発症するかも」なんて誰が考えるだろうか。

その後ゆるゆると仕事をしていると、立て続けに荷物。
三津子、いややまだ紫のアシスタントもして下さっていた宮脇要子さんから「おいしいので食べて下さい」とパンをいただいた。ありがとうございます。食べきれない分は冷凍します。
もう一つはケンコーコムから大箱。大きいが過剰梱包というか、ほとんどがくしゃくしゃの紙のクッション。
荷物は春に買ったフライパンがテフロン加工が無きに等しいくらい劣化したので、ティファールのちゃんとしたのを買った。あとは天然だしとか床拭きシートの替えとか液体洗剤など、細々したもの。こういうのって食品を買った上にドラッグストアへ寄って持って帰るのは、体力的にとてもしんどい。
夫婦二人で買い物へ出かけていたときは分担して持ったり出来たが、今は無理。通販で頼んだ方が送料無料だし、有り難い。感染リスクもそれだけ回避できる。

その後はパソコン仕事をしたりするが、どうも腹回りが苦しいというか、きつい。帯状疱疹が痛いというのよりも、ふくれた腹全体がキツく苦しい感じ。脾臓がふくれあがっているのが限界に達したのか。
そういえば入院前の診察日に、I先生が脾臓の大きさを測って「ちょっと大きくなりましたかね」と言っていたが。怖いな、と思う。破裂したら死だもんな…。
そう思ってその後は大人しく転がってテレビを見ていた。
再放送で村上もとかさんの漫画が原作のドラマ「仁」を途中から見たが、なかなか面白かった。子役がいいし、主演の大沢たかおの演技も素晴らしい。原作がいくら面白くても演技の出来ないタレントを使ってブチ壊し…という例が近年余りに多すぎるが、これは健闘していると思いつつ見る。

陰膳夕飯は5時過ぎから、昨日の鍋からひろうすを移したのにパックのおでんを加えて暖め、昨日買っておいた鯛の刺身とごまあじのタタキ、パックのもずく酢でビール。三津子にももちろん陰膳。
しかしビール2本で腹が苦しくなってしまい、横になる。そのうちウトウトしてしまい、30分ほど寝てハッとして起きた。こんなことして風邪なんかひいたらどうする。
その後はビールはやめて、クッキーを食べつつNHK「坂の上の雲」2回目を見る。
同年代の俺から見ても若いとはいえ、「どう見ても中年」の主演陣が若者役を奮闘、ちょっとハシャギすぎかなというきらいはあったものの、大筋の「大きな話」の強さでグイグイ引っ張られた。役者では菅野美穂の演技は良かったと思う。

ドラマが終了した直後、9時半のNHKニュース。トップで新型インフルエンザのニュース。
京都市の老人が新型インフルで亡くなったそうで、とうとう死者が100人を超えたという。
この老人は悪性リンパ腫つまり俺と同じ血液腫瘍=癌患者であり、しかも老人という二重の「免疫低下」状態にあったと思える。(あるいは治療中で免疫抑制下にあったのか、それは解らない)
統計では「疑わしい例」も入れて、やはり致死率は十代以下が一番多く、あとは高年齢になると高くなっている。というより、二十代と三十代という「壮年期」の免疫力の高い若者はそれだけ強いということだろう。
さらに怖いのは、何らかの基礎疾患…例えば糖尿や俺のような悪性腫瘍の患者の場合の致死率は、幼児のそれよりもさらに高いという点だ。
つまり一番弱いのは小さな子ではなく、「中高年以上で免疫力が何らかの基礎疾患などで低下している人」ということになる。

何だ俺じゃん、と思った。
今のところ外へ出る時はマスクをし、帰宅後はすぐに着替えてうがい、手洗い(どころかアルコール消毒)をして気をつけてはいる。その外出も必要最低限だ。もっともここ一ヶ月は帯状疱疹の悪化で外出も何も入院中だったわけだけど。
「マスクでウィルスは防げない」と解ったようにせせら笑う人がいまだに多いが、「健康な感染者(言葉がおかしいが、要するに免疫力の高い感染者)」があちこちへマスクもせずに出歩き感染を拡大している今、とにかくマスクをする習慣を他人に知らしめる、という効果だってあるはずだ。
いや、スーパーなどで平気でヘックショイとマスクもせずにする人を見ると、発作的にその場を離れるが、その場合必ず相手を睨み付けることにしている、それもマスクをした顔で。とはいえそういう無神経な人はなぜ自分が睨まれたのかに永久に気付かないと思うが。

血液のがんと解って、それでもここまで数年生きて来た。インフルエンザでコロリと死んでたまるか。
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2009-12-05(Sat)

7回目の月命日

12月5日(土)

夕べは11時過ぎに寝室へ上がり、なかなか寝付けなかったのでmp3を焼いた音楽CDを低く再生しつつ寝る。だがそのCDはRebeccaだったので、むしろ聞いていた当時のことを思い出したりして切なくなる。挙げ句、変な夢を見たり。
朝は6時には目が醒めたが、足元に丸くなっているユキが気になってその後も寝られず、結局7時前に起きた。外は雨だった。

朝飯は食欲が無かったが、こないだ安売りで箱買いしておいたかに雑炊をレンジで作る。この手の食品は近年技術の進歩か、まあまあ食べられるものが多くて、バカにしたものではないな、と思いつつ食べた。
帯状疱疹の痛みは、背中のごく一部と、時おり鼠蹊部より上、下腹のあたりがずきずき来るが、モルヒネはもう不要。ロキソニンだけ、食後に他の薬と一緒に飲んだ。
その後は仕事をささっと片付けたりして、昼前に雨が上がったので、買い物へ出る支度をする。

今日は三津子の月命日だ。
早い、もう7ヶ月か…という気持ちなのだが、彼女を失ってから独りの暮らしはメリハリがなく、しかもそのうち一月はほぼ丸々入院していたり、どうにも時間の感覚がおかしい。
二人で最後に出かけた、本当に何でもないごく普通の一日
あの日は春だというのにひどい低気圧が来ていて、寒い日だった。二人で洋食を食べに出て、買い物をして帰ってきて、テレビを見て笑い、寝た。
そしてその夜に君は倒れた…。
ついこの間のように鮮明に思い出す。一生消えない記憶。俺の腕の中でガクリと力の抜けた、あの感じ。握った手、名前を叫んだこと、何もかもはっきりと覚えている。
その後の辛い辛い時間は、ここに克明に記録したことで、逆に頭の中の記憶は圧縮され薄くなっている。彼女が意識を無くして病室で生かされている間、葬儀、火葬…。何だか本当にあったことなのかどうか、リアリティがない記憶としてぼーっと残っている。
彼女と暮らしていた、確かで濃密な日常の記憶と比べると、彼女の居ない日々は本当に薄っぺらく、霞がかかったような記憶しかない。

着替えて外に出ると、雨は上がっていたがやはり寒い。襟巻きも…と一瞬思ったが、革手袋があるのでいいかと思い、そのまま出る。
溜まっていたゴミを下のゴミ置き場の箱に入れていると、I内科の看護婦さんがゴミを捨てに来て、「もう大丈夫ですか、(ガーゼ)交換できてます?」と話しかけてくる。「お陰様で…」と答えると「あ、もう交換(の時期)は終わったんですよね」と言うので、「ええ、ただ痛みが残ってるのと、傷のところの皮膚は薄いので、ガーゼをまだ巻いてます」と話す。「買い物にも行けるようになりましたし」と言うと、「良かったですね、お大事に」と言われる。

そのまま近くのスーパーまで歩くが、だいぶ普通の早さに近い速度で歩けるようになったことに気付いた。
でもこれはロキソニンのお陰かも知れないし、前も調子に乗って動いていたら痛くなったりしたので油断禁物。
スーパーは昼時で混んでいた。
今日の月命日は何にしよう、三津子の好きだったもの…と考えて、「そうだ、久しぶりに鍋をやろう」と思い立つ。
こないだテレビで見たキノコ鍋にしようか、あなたシメジとエノキが好きだったな…俺はマイタケと椎茸が好きで…と思いつつ、それらを買い物籠へ入れて行く。白菜も。
それから鮮魚の方へ行くと、てっちりの具が安くなっていた。ふぐの身が丸々さばかれて1セットになっているが、養殖のせいかかなりお買い得。彼女が焼いて食べるのが大好きだった皮も入っていたので、迷わず「ふぐ鍋にしよう」ということにした。
鍋なんか、独りでやったって虚しいし楽しくないことは重々承知している。けれど月命日くらい、彼女の好きだったもの、それが鍋であっても「二人で」食べたい。
猫たちにお裾分けする刺身も盛り合わせを買い、最後に花を買った。いつもよりカラフルに、多めに買う。
レジも混んでいたが、何とか会計をし袋詰めを終えて店を出る。ちょっと薄日も射す感じで、これからは降らない様子。ゆっくり歩いて、マンションまで戻った。
着替えてすぐに買って来たものを冷蔵庫にしまってから、花を花瓶に活けて、改めてもう一度三津子に線香をあげて手を合わせる。
そして「ありがとう」と御礼を言う。今、俺がこうしていられるのは君のお陰だ。一緒に暮らせて本当に幸せだった…。
夜は君の好きだったふぐを食べよう。ふぐなんか食べるようになったのは、ここ数年だったよね。でも特に京都へ来てからは、安くて美味しい店があって、君の大好物は焼きふぐ、特に皮をよく焼いたものだった。それに、アツアツのヒレ酒。
去年真空パックにしてもらったヒレがあるから、今日はヒレ酒も作ってあげるよ。いつも、ヒレを網焼きしてヒレ酒を作るのは俺の役目だったもんな…。
そんなことを考えながら、もう使わないと思っていた土鍋を出して洗い、水を張る。昆布も北海道の立派なのがいくつもあったのに、これも使うことはないだろうと思い、知り合いに使っていただこうと差し上げた。まさか、家で鍋を作るなんて考えもしなかった。
昆布がないので水に酒、粉末の天然こぶダシとかつおダシ、少量の塩などで味を調え、白菜の固いところを入れて少しだけ煮る。その他白菜はざっくり切り、九条ネギなどを用意。焼き豆腐はキッチンペーパーにくるんで水抜きをしておき、糸コンニャクはよく洗って臭みを取ってざるに置いておく。普通はてっちりには入れないひろうす(関東でいうがんもどき)はダシを吸うとうまいので、自分の好みで買って来たのを、熱湯で湯がいて油を落としておく。あとは夕方、食べる時に作ろう。

…その後仕事を休み休みして、5時前から鍋の仕上げにとりかかる。下ごしらえは済ませていたから、具を入れて、最後に水で洗っておいたふぐの身を入れて、フタをして弱火にする。その間に刺身の盛り合わせを皿に盛りつけ、卓上コンロをテーブルに運ぶ。
ふぐの身には見事な皮や「とうとうみ」、口の縦割りまで付いている。皮は彼女が生前大好きだったように、あとで焼いて食べようということにして、苦労して包丁で一口サイズに切っていく。それから皿に移して、だし、醤油、酒に浸しておいた。それから煮えてきた鍋をテーブルのコンロ上に移動。

土鍋のフタを開けると、ぶわっといい匂い。もう出来上がりだ。ぐつぐつといい音をたてる「てっちり」、だしはちょっと薄めかな、と思ったが俺が薄いくらいのが彼女にはちょうど良かったので、そのまま器に取ってやる。ポン酢は好まなかったので、俺だけポン酢を使う。
彼女は純米「花の舞」、俺はビールで乾杯。…うまい。鍋を一口。衝撃的にうまい。写真の彼女に「美味しいね!」と声をかける。
ゆっくりふぐ鍋を堪能しつつ、テレビでニュースやら、いい加減なものを見る。鍋に刺身のサーモンを入れてしゃぶしゃぶのような半生で食べるのも、うまい。
そうこうしていたら腹が膨れてきたので、一年前に知り合いのお店から譲ってもらった、真空パックのふぐヒレでヒレ酒を作ることにする。

彼女と家で晩酌をする時、ヒレ酒の担当は俺だった。
ガス台に火から距離を置くようにアミを置いて、中火でヒレをカリッと焼く。いい匂いがしてきたら、あらかじめ用意しておいたコップ酒をレンジで熱々にお燗をする。お燗があがったら、焼いたばかりのヒレを数枚ずつジュッ、と投入し、フタを閉める。それをソファで待つ彼女にいつも、「あちち、お待ちどう」と持って行くのが常だった。
コップのフタが熱々になるくらい数分待って、ヒレ酒の出来上がり。何とも言えないヒレのいい香りと、そのうま味の出た熱々の燗酒。寒くなってきたら、これに限る…。
ヒレ酒
今日も二つヒレ酒を作って、一つずつテーブルに運ぶ。ちょっと燗が弱かったかも知れないが、フタを開けると鼻孔いっぱいに香ばしい香りが広がる。
乾杯をして、一口すするとやはりうまい。いつもヒレが勿体ないので「継ぎ酒」で2杯ずつ飲むのが我が家の流儀だった。ちなみに純米酒はヒレ酒には勿体ないし、甘口の酒はヒレの香ばしさを邪魔するので、剣菱など普通の清酒の方がうまい。皆さんもぜひ、お試しあれ。(焼き加減が大事、焼きすぎず焼かなすぎず、だけど焦げていい匂いがしてきたらもうOK)

月命日はどうしても改めて最愛の人の死と、独りの辛さを噛みしめる日でもあり、メソメソ湿りがちだった。だが久しぶりに鍋を作り、ヒレ酒を用意すると、何だか夫婦二人で一杯やっている気分になって楽しい。
陰膳
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2009-12-04(Fri)

「4コマGARO1988-1994」

12月4日(金)

何だか腹の調子が悪くて、早朝に目が醒めてトイレに降りた。そのまま起床。6時半ころだった。
外はどんよりと雲が垂れ込めていて陰鬱な気分になるが、一緒に寝ていたユキが降りてきてにゃあにゃあとまとわりつく。撫でてやるとすぐに嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし、やがてすぐにシマも降りてきた。猫たちが居てくれて本当に安らぐ。連れ合いを失ってもし独りだったら…と考えるだけでもゾッとする。
朝は昨日買っておいた総菜パン。コロッケとタルタルソースが挟まっているやつに、熱いコーヒーを淹れて食べた。
朝のワイドショーを何ということもなくぼーっと眺め、Twitterに書き込み…いや、つぶやきを入れる。毎朝、とりあえず「俺が無事であるかどうか」を確認してくれる人たちのために。
その後、下へ新聞と郵便物を取りに行って戻る。取引先から仕事の修正の指示が封書で届き、開けるとwebプリントに修正やら新規作業が細かく書き込まれてある。ここだけの話だがゲッソリ、という感じだ。それでも家に居ながら作業が出来る幸運に感謝せねばならない。
昼のカップそばを挟んでずっと仕事に没頭、気が付いたら夕方だった。いかん、こういう体質だから帯状疱疹になったりするのだ。

5時半になったのでスパッと晩酌タイムにすべく、野菜サラダを作り、冷凍しておいた肉を焼き、アスパラベーコン巻きも添える。三津子には「花の舞」とたっぷりの氷入りウーロン茶。彼女が生きていた時そのままだ。俺はもちろん冷凍庫に入れてあったグラスでビールを飲む。
本当に、二人でいつもそうしていたように晩酌が出来たら…。
そう思っていると、郵便局が配達だとドアフォンを鳴らしたので、玄関に出て受け取る。エクスパックで、京都精華大に届いたものを教務のマンガ学部担当・Mさんが転送してくれたものだ。
Mさんからは昨日「青林堂から白取さんがお探しの原稿が届きましたので、転送します」というメールが来ていた。俺が「探していたもの」って何だろう、と思いつつエクスパックを開けると、何と何と、かつて「ガロ」で読者コーナーとして十年以上担当していた「4コマGARO」の94年までのコピー誌だった。
(4コマGAROについては拙ブログのこちらを参照ください… 「4コマガロ・「長井イズム」のこと」 
当時読者で投稿の常連だったI君が、初回から55回まで(雑誌の校了に重なったため、毎月つくることが出来なかった)の誌面をコピーしたものと、さらに途中から俺が愛読者向けに「4コマer通信」というのを出していたものもコピーしたものを製本した立派なものだ。ちゃんと装幀され、段ボールの箱入りで、「限定5部」完全手作りというものだった。
これは当時I君から「作っている」と連絡を受け、最後のところに一文いただきたいというので、テキストを送った覚えがある。覚えがある、というか当時編集部で使っていた国民機PC-98の国産名DTPソフト、JGで版下を作って出力したものを送ったのだった。
「限定5部のうち1」というロットをご送付いただいたのだけど、いつの間にか、というより97年の「ガロ」クーデター以降のドタバタでどこかに行ってしまったようで、その後どこを探しても見つからなかった。まさか、青林堂(法人としての青林堂も二転三転した)に保管されていたとは…。
エクスパックを開けるとただこのコピー誌が入っており、誰が送ってくれたのか、どういう経緯かも全く解らない。
4コマGARO1988-1994
しかしこの「4コマGARO1988-1994」を取り出して開いて見ると、いやあ、本当に自分も若かったし、読者の皆さんの投稿を楽しみ、一体となって紙面を作っていたのがよく解る。本当に毎回楽しみで、やっていても楽しかった。

当時、俺は紙面ではもちろん立場をわきまえて明かさなかったが、すでに板橋区の高層団地でやまだ紫先生=三津子と一緒に暮らしていた。
「ガロ」編集部に入って4年目か、若さと体力で、ほぼ肉体労働が主な「何もかも社員がやらねばならない零細出版社」の社員として地べたをはいつくばるように暮らしていた。
ヘトヘトになって満員の地下鉄に揺られ、団地に帰りつくと、エプロンをした三津子が、あの眼鏡に優しい目の笑顔で迎えてくれ、いつも作ってくれていた晩ご飯のイイ匂いが漂っていた。風呂に入り、着替えて彼女の作ってくれた美味しい夕飯をほおばるのが何より幸せだった。
彼女の手作りの料理は何でも本当に美味しくて、晩ご飯が終わると、残りをつまみにしてお新香なんかも添え、子どもたちには悪いが大人だけのゆっくりした「晩酌タイム」になった。
たくさん、色々な話をした。
俺たちは年は17も離れていたのに、魂同志が引き寄せ合ったかのように、障壁を乗り越えて一緒になり、そうしてそれからずっと一緒に暮らした。
団地での二人の晩酌タイムでは、下らないテレビを見て笑ったり、借りてきた映画を見たり、会社での出来事を話したり、俺の知らない「ガロ」や「COM」の話を聞いたり、酔っぱらって人生論やマンガ論を交わしたり、ほんとうに楽しかった。
そして幸せだった。
彼女と一緒に暮らせたことを、心から、魂の底から感謝している。今思えば俺の人生ではあの頃が一番幸せだったかも知れない。何故かというと、二人とも「健康」だったからだ。
京都に越してきて、ちょっと暮らしも楽になって、二人であちこち出かけたり、おいしいものを食べたりすることが出来るようにはなった。けれど、彼女は誤診による膵炎から糖尿を発病し、その後幾度か死線をさまようこともあったくらい、病気に悩まされた。俺もずっとそこに付き添ったものの、4年前からは白血病を患うこととなった。そんな中の、病身の二人が寄り添うような「幸福」は、やっぱり長くは続かなかった。
でも、団地の頃は、お金には汲々としていたことも多かったけれど、何より俺たちは若く、彼女も健康で元気だった。
今はそれぞれが二人の子の母となった、三津子の二人の子どもたちはまだ中学生で、そろそろ思春期の不安定な時期を迎え家の中がざわつき始めてくる直前の、本当に幸福な家族の時間が過ぎていった時期でもあった。

90年代に入ると、長井さんが高齢のため健康問題もあり、「ガロ」=青林堂の後継者を捜すこととなり、中堅社員になっていた俺も色々と忙しくなり、残業に次ぐ残業で、家庭的には彼女にも寂しい思いをさせたと思う
つまり「4コマGARO」の開始から数年は、平和で、健康で、幸福な私生活の思い出と重なる時期なのだ。
ページを開くと、当時の気持ちや記憶が蘇る。その日その日、どうやって過ごしてきたか、何を食べ誰と会いどんな日を過ごしたのかは思い出せないが、この版下を作っていた時、楽しかったことだけは思い出せる。
しばし、時間を忘れて、いや時間を遡って読みふけった。

改めてこれを作ってくれたI君に感謝、そして全ての投稿者の皆さんにも感謝、そして送ってくれた今の青林堂のどなたかにも感謝したい。
生かされていると、こうした思いがけないプレゼントもあるのだなあ。
陰膳
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2009-12-03(Thu)

猫じゃらし

12月3日(木)

夕べは何だか、やたらと夜中に目が醒めた。夜になったら冷えてきたようで、猫たちも下の床暖房の上にいたらしく、猫の出入りで起こされたわけでもない。
そのまま朝は朦朧とした感じで7時前に起きた。外は昨日までとは打って変わって、どんよりと一面曇り空。今日は雨だと予報では言っていた。

猫たちにご飯と水を換え、三津子と仏様のお茶を用意する。それから突然台所の排水のところを掃除する。ゴシゴシ、とやると右背中から腹部の疱疹部分に響いて痛い。いったいいつになったら痛みが取れるのだろうか、と憂鬱になる。仕方なくキッチンカビ取りスプレーをまんべんなく吹き付けて、後で流し洗うことにする。

朝は食欲無し。
メールを見ると、このところちょっとした企画ものでやり取りしている人から返信が入っていた。この企画はまだオープンに出来ないことになっているが、面白い(いずれ告知します)。
仕事ではなく「企画」と書いたのは、全くギャランティなど発生しない、純粋な企画だからだ。自分はまあこういう病気なのでバシバシ以前のようにあちこち飛び回って取材やインタビュー、はたまた対談やトークに出かけることはもう出来なくなった。でもこうした企画の提案は面白いし、面白ければ別に対価が発生しなくてもいい。意気に感じる、というやつだ。今は離れていてもメールでやり取りできるので、そういうハードルも低い。
自分は、ともすれば鬱の淵にズルズルと陥ってしまいがちな境遇にある。
そういうことを一瞬、一時でも忘れさせてくれる面白いことには、出来るならば参加させていただき、その間だけでも笑っていられるのは貴重なことだと感謝している。

その後、痛み止めだけを飲み、雨が降らないうちにと着替えて9時前に外へ出た。するともう雨がざあざあ降っていた。何のことはない、最初から降っていたのであった。
けっこう寒く、手袋持ってくれば良かったと思いつつ近くの大きな郵便局へ着くと9時数分前。とりあえず三津子の税金を払うため、金をおろす。何だか金が入っては出て行くばかりな気がする。
あとはある事務手続きに必要な戸籍謄本を板橋区役所に申請するために、手数料の定額小為替が必要なのだ。これはゆうちょ銀行の管轄。申請書はもう出力して記入・押印して、返信用封筒と身分証明のコピーと一緒にエクスパックに入れて用意してある。あとは小為替を入れて送るだけ。局の開店時間である9時まで数分あったので、自動ドアの前で待つ。

2分ほどすると自動ドアが開いたので、まず銀行へ行くと係の人が用を聞いて来たので、指示された定額小為替の申込み用紙を書いて、すぐに呼ばれたので申込み。それを待つ間に、税金の支払いの用紙も書き込んでおく。
それからまず定額小為替分1550円(1350円は1000円1枚と350円1枚の発行となる、つまり1枚につき発行手数料が100円というひどい話だ)を払い、エクスパックに入れながら、「税金も今払えますか」と言うと続けて受け付けてくれるというので、申込み用紙と払い込み票、そしてお金を出す。その場で数えておつりを出してもらい、受け取って終了。

郵便局の帰りにサンクスで朝のパン、文春などを買ってとぼとぼ雨の中を歩きつつ、三津子のことを考えた。どんな時も思いは常に三津子へと向かい、感情は時に抑えきれない激流となる。
家に戻ってくると猫たちがデデデと追っかけっこをしていた。ユキが俺が見えなくなったので鳴いて探し、シマがそれをうるさがって追い回したのかも知れない。シマにしては珍しい。
そういえば朝、一週間ほど前にAmazonに注文していた「猫じゃらし」がようやく発送されるとメールが来ていた。猫たちだって優しい「ママ」を失って寂しいのだ。もっと遊んでやらなきゃ、と思って注文した。
サンドイッチを食べて『週刊文春』を読む。最近暇潰しもあって、漫画以外にも色々な週刊誌はじめ新聞、月刊誌を読むが、文春がやはり一番「読める」か。阿川対談のゲストは内田裕也。今週号はこれを読むだけでも価値がある。あと連載小説「一刀斎夢録」も毎回面白い。
猫じゃらし
そうこうしていると荷物の配達がきて、開けて見ると猫じゃらし。さっそく一本取り出して(持ち手つきの1本、スペアを2本)、ユキをじゃらしてみる。
すると、もはや「じゃれる」というレベルではなく、猫じゃらしを陵辱しているかの如く、異常なテンションで遊ぶ。やっぱり普段娯楽がないし、一人になってからはあんまりこちらも遊んでやったりしていないので、欲求不満もあるんだろうな、と思いつつ放り投げたりじゃらしたり。ドドドと走ったり二本足で立ったり空中に新体操のごとく放り投げたりと、凄い勢いで遊んだあと、そのうち遊び疲れて寝てしまった。

その後、夕方まで入院日記を元に記憶をたぐって、ブログにアップする。二日目までがやっと。何せまだ本調子にはほど遠い。
陰膳



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2009-12-02(Wed)

忙しい日

12月2日(水)

明け方からなぜか猫たちが入れ替わり、顔のところへ来て鼻づらを押しつけたりする。その都度ヒヤッとして目が醒め、寒いのかと思って布団をあけてやっても入るでもなし。8時過ぎにそのまま朦朧としつつ起きて、猫のご飯皿を見たらカラだった。それで起こそうとしてたのね、「お腹空いた」と。申し訳ない。
トイレ洗顔など済ませてすぐ猫のご飯と水。それから三津子やご先祖様のお茶、水を換えて線香を立て、合掌。
朝はほうじ茶と、買ってあった小稲荷を4つほど食べて薬を飲む。今日は雲一つない快晴だ。予報では17度くらいになるという。朝晩は冷えるが、日中はかなり暖かくなりそう。
それから午前中に今日やらねばならなかった仕事を片付けていると明青のおかあさんから電話。お袋からまた魚が届いたという。そのあとお袋に電話する。最後はやはりいつも三津子のことになり、「惜しい人を亡くしたね」「寂しいね」という話になって切ない。電話しながら昨日作ったいわしのつみれ汁を温め、昼飯がわりに食べた。

その後1時ころ、もろもろやらなければいけない手続きのためにあちこちへ電話。それから支度をして、1時過ぎに出かける。まだ病み上がりというか、元々病人の上に痛みはまだ残っているので出かけたりするのは本当にきつい、でもこちらが動かねばならないことが多く、そうこうしているうちに帯状疱疹になって入院してしまった。なので途中から全く動けず放置していたこともある。

詳しくは書かないが、ともかく役所関係の手続きをはしごして、とりあえず今日やれる事を終えた。その後天気も良く気温も暖かいので、歩いて升形商店街へ向かう。鴨川の上を渡ると、気持ちのいい風がそよぐ。市中の紅葉はもう洛北でも終わりに近い。あとは鞍馬山など周辺の山が見頃。二人であちこち見に行きたかったな…。傷も痛いので、しんみりしつつゆっくりゆっくり歩く。

途中、交番の地図をデジカメで撮影している老夫婦が居た。
おそらく観光客だろう、夫は恐ろしい早足でずんずん歩いて行き、その後を妻が小走りに近いスピードで追いかけていくが、両者の差は常に5mほど。もっとゆっくり歩けばいいのに、旦那も女房に合わせて歩いてやればいいのに、と思いつつその後をゆっくり歩く。そう、かつての俺もあそこまでではないが、よく三津子に「もうちょっとゆっくり歩いて」と言われたものだ…。
人間病を得て、その身にならねば色々解らないことが多い。病気の人の辛さ、きつさを健康な周囲の人間がもっと親身になって、それこそ自分に置き換えて考えてあげられれば、もっともっと社会は人に優しくなれるだろう。もっとも、「相手の身になって考える」ことはもはやかなり次元の高い「美徳」になって久しいが。
途中コンビニでお金を下ろしてから、升形商店街入口の書店を冷やかして「クーリエ・ジャポン」12月号と暇潰しの週刊誌を何誌か買い、お菓子屋さんでポテトチップやクッキーの小箱といったジャンクフードを少し買う。ひきこもっているとどうしても小腹が空いたりするが、飯を食うまでもないということもある、そういう時にコーヒーとクッキーで凌いだりするためだ。

夜の総菜類は家に何かしらあるので、そのままタクシーで帰宅。帰宅してから明日の朝のものを買えば良かったと思ったがもう遅い。郵便物を取って、そのまま部屋に戻る。
それから電話で本籍地の板橋区役所に戸籍謄本申請方法の確認。半年前に一度やっているが、忘れてしまった。何しろあの時は最愛の連れ合いを失ったばかりで、何かしていないと本当に気が狂いそうだった。いつも言っている通り、何かの拍子に後を追いそうなこともあった。
今でもそういうところはあるが、当時よりはまだ少し落ち着いている。
webで申請書を取り出して書き込み、身分証明書の複写を用意し、返信用封筒をつくって、あとは交付料分の停学小為替を郵便局で用意せねばならない。結局また外出しなきゃならないが、もう着替えてしまったので今日はここまで。だいたい帯状疱疹が治りきっていないので、無理は禁物。
その後横になって買って来た週刊誌を読むが、本当に読むところがなく、暇潰しにさえならず。ただ、「週刊現代」でずっとダイジェスト連載をしていた「明日のジョー」の最終回の号は、やっぱりジョーがホセとの死闘のあと、真っ白に燃え尽きたシーンでジーンとくる。もう30年以上も前に読んだことを思いだした。
こういう名作は何年経っても、リアルタイムでなくても感動は同じだと思う。

ハンバーグその後は夕方までいくつかの業務連絡でおちおち寝転がってもいられない。病人とはいえ一人だと、全てをやらねばならないからしんどい。
それでも、取り寄せて賞味期限があるものを消費せねばというので、鶏ハンバーグの和風おろしソースを作る。一緒についているレシピが「鶏肉だんご鍋」に間違っている。しかしまあハンバーグなんざここまで出来てりゃ簡単だ。
出来上がってみるとご飯に合う味でうまい、つまり肴になる。それで夫婦の晩酌タイムにする。
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2009-12-01(Tue)

血液内科の診察日

12月1日(火)

夕べはソファでうとうとしまい、夜中に目を醒まし慌てて寝室へ上がった。
今朝は明け方から何度か目を醒まし、夢を途切れ途切れに見ながら8時過ぎに起床。起きがけ最後の夢は、なぜかプロ野球の試合でサードを守っており、ショートの外人選手と目配せをしてサードランナーを隠し球でアウトにし、ベンチに下がるというもの。アウトにした相手ランナーは球団マスコットの着ぐるみで、俺はちょこちょこっと外人に話しかけてハイタッチをしながら戻るのだが、ベンチに戻ると俺が英語を解すると勘違いした外人選手が流ちょうに話しかけてきて聞き取れず困っている…というところで目が醒めた。わけわからん。

今朝は快晴の京都。その分少し寒いが、この分なら気温は上がっていくだろう。
朝のことを済ませて、三津子にも淹れた熱いほうじ茶を飲む。朝はどうしようか考えたが、食欲がない。今日は病院なので、外で何か食べようかと逡巡。
疱疹部分は相変わらず、全体が痛い。痛み止めのおかげで動かなければまあそれほど気にならないが、体を起こしたり、ひねったりすると痛い。一番痛いのは、まだホンの少しだが傷が残っている、背中のあたり。
シャワーをし、大きいガーゼを長方形にたたみ直したのを用意してから、鏡を見つつ体をひねって背中の該当部分に軟膏を塗る。それから畳んだガーゼを被うようにして、テープで止める。
上皮化の済んだ脇から腹部、鼠蹊部にかけてはもう巻かなくていいのだろうが、むき出しでいるのはいくら何でも無理だ。ズボンのちょうど腰の部分が触れることになるので、何か緩衝材がないと擦れて痛い。
ケロイド後は全体の皮膚が茶色く、上皮化といっても薄皮のような敏感さで触ると「ウッ」と声が出るほど。そしてそれら全体がぼうっと痛み、一番その痛みが強いのが脊髄のあたりという案配だ。
外は相変わらず青空にぽっかり雲が浮かんだいい天気。
今日はかかりつけの血液内科の主治医であるI先生の診察日なので、支度をして11時半ころ出かける。やはり外は暖かくなってきた。

タクシーで京大病院正面玄関まで行き、まず郵便物をポストに投函。それからドトールを見ると混み始める気配があったので、先に3、4人の行列に並ぶ。ラテとレタスドッグを頼んで中央のテーブルでゆっくり食べる。出来たてはパンがサクッとしていてこの上なく美味…と前にも同じことを書いたような気がするがまあいい。
昼前なので案の定混みはじめてきた。白衣を着た病院の人も並んでテイクアウトを待っていたり、入って来た患者がまっすぐこちらへ向かって来たり、はたまた受診を終えた人が帰りがけに寄ったり。危ないところだった。
ゆっくり食べ終えて、持って来た薬を飲んでから、自動受付機にカードを入れる。血液内科予約時間は13時10分。呼び出し端末を受け取ってそのまま2階の採血へ。424番、しかし中へ入っていい番号は434となっているので、まっすぐ行けばいいわけか。今日は空いているようだ。
中へ入ってバッグを置き上着を脱いで腕まくりをしたら、ちょうど呼ばれたのでカウンタへ。今日は試験管4本。「アルコール大丈夫ですか」「血が止まりにくいということは言われていますか」といつも聞かれていずれも「ハイ」と答えるが、そういうのを示す記号とかアイコンを患者名と一緒に表示させるようなシステムは開発できんのだろうか、とちょっと考える。
全てをICチップのようなものか、あるいは腕輪でもいいが、患者の受診番号、氏名・生年月日・血液型などの基本情報に、例えばアルコール消毒の可・不可、採血時の注意、あるいはその他のアレルギー情報などをコンパクトに表示させたり、番号札に名前を印字する際に付加するのって、そんなに難しいことじゃないと思うのだが。
採血を終えて、止血のテープを抑えつつ血液内科の外待合に座り、携帯の音楽プレーヤでなぜかRainbowを聞く。この時間に「Tarot woman」なんか聞いてるの、日本全国で俺くらいなもんじゃないのか。

1時ころうとうとしかかると、端末がブーと鳴っていきなり「診察室へ」というので、慌てて上着やら荷物を持ってイヤホンを外しながら移動。
診察室へ入ると、I先生が「どうですかその後?」と言われるので、これこれこうですとお伝えする。ガーゼ交換も一人で出来たが、まだ患部が痛いということと、そのために腹巻きじゃないがガーゼを巻くように宛てていることなど。
I先生は先日の皮膚科の帰りと、今日の採血で特に変化はなく、落ち着いているとのこと。要するに帯状疱疹は順調に治癒へと向かいつつあり、既往症の「慢性リンパ性白血病」に大きな進行はない、ということだ。
採血の結果を見ると、炎症があると大きく上昇するCRPが正常値に戻っている。肝機能も落ち着いてきた。これはどの薬の副作用だったのか、今となっては不明。モルヒネは一日一回に減ったせいか、それとも吐き気止めを飲まないせいか、あるいは…と考えても仕方が無い。結果オーライ。
次回は15日が以前から予定に入っていたのを、「これなら1月で大丈夫でしょう」ということで、新年明け5日になった。次回はもう来年である。
先生に御礼を言って診察室を出て、会計へまっすぐ向かう。会計の行列も今日は短い。サクサク進行し、受付を終えて端末に金額が出るまでも5、6分と早かった。
会計を終えて病院を出ると1時半くらい。

タクシーで自宅近くのスーパー前へつけてもらい、肌着のコーナーへ上がって腹巻きを買った。いちいち大きなガーゼを巻くのは不経済なので、今後背中が治ったらしばらく保護のために巻くため。
それから食品売り場で簡単な買い物と、最後に三津子に白い花を買って戻る。途中調剤薬局に処方箋を渡して、すぐ取りに来ると言っていったん部屋へ上がって荷物を冷蔵庫に入れたり。それからすぐ下へ降りて、薬局で薬を受け取るが、抗ウィルス剤だけ今在庫がなく、今日中に届くというので、ポストでいいですということに。
調剤薬局の薬剤師の女性は俺が帯状疱疹の一番ひどい時にガーゼやらを買いに来てるのを見ているので、「どうですか、だいぶ良くなりました?」と言われる。俺も「まだモルヒネ飲んでるんですが、痛いのは痛いんですよね…」とこれまでの経緯を簡単に話した。ここまで重症化してしまったのはやはり免疫力が普通の人では考えられないくらい低下していたからで、恐ろしい、ひどい目に逢いましたと話す。
部屋に戻ってくるとピーピーと何かの警告音がしている。「?」と思ったら冷蔵庫が開いていた。「オーマイガッ」と言いながら閉めたが、無意識に「オーマイガッ」と言った自分が妙におかしかった。

花とお膳それから花を活け、三津子に「綺麗だね」と見せる。
花の好きな人だった。花の似合う人だった。でも俺は生前ほとんど花をあげたことはなかった。だから花を絶やしたくない。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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