2010-01-28(Thu)

井坂洋子さんと対談収録

1月28日(木)

朝は6時前から目が醒め、何度も夢を見ながら薄い眠りのまま9時前に起きた。
今日は朝から雨。「現代詩手帖」3月号での「やまだ紫特集」に掲載される、俺と井坂洋子さんの対談収録の日。東京から思潮社の担当Fさんと井坂さんがマンションまで来られるのだが、雨は止みそうにない。
朝は胃が空になっているのが脾臓で圧迫されているためか、このところ吐き気がひどい。胃液を吐きたくないので我慢するが、歯を磨くのでさえ地獄のように辛い。その後このところ仕事が忙しくて掃除をしていなかったので、まずは洗い物を片付けてから掃除機がけ。玄関から腰を入れてやっていくが、カーペットの猫の毛が凄い。何度もサイクロンの集塵ユニットを外してはゴミを出しての繰り返し。それからクイックルワイパーで床のモップがけとワックス。汗だくになる。
先日、帯状疱疹の痕がかゆくて引っ掻いた部分が軽く化膿ぎみ。夕べ退院時に貰ったアズノール軟膏のボトルを引っ張り出してガーゼに塗って充てておいたが、やはり少し膿んでいるようで、しかも寝ている間にズレたのか剥がす時に激痛。お湯も染みる。やれやれポンコツになったものだ。もう慣れたが。
それから11時頃にサンドイッチとカフェオレでコーヒー、お二人の到着は1時前と聞いていたので、しばらく転がって休む。

1時前に予定通り井坂さんとFさんがマンションに到着。お二人ともキャリーバッグを引いていて、玄関で出迎えた時に「雨で大変でしたね」と言うと「いえ、雨には遭いませんでしたよ」とのこと。三津子がうまいこと計らってくれたのだろう。
井坂さんとは三津子の死後たびたび、それから昨日も少し電話でお話をしていたが、お会いするのは一昨年ご夫婦で上洛された時以来。対談の収録や撮影機材はFさんがセッティング。こちらはお茶といただいたお菓子をお出しして、雑談から対談の収録へ。
本当は編集長の亀岡さんも同行される予定だったそうだが、風邪をこじらせたということで、俺にうつしてはいけないと気を遣って遠慮されたという。

イザとなると、二人とも個人的な思い出がありすぎて、「作家・やまだ紫」について改まって話すのはちょっとしっくりこない出だしだった。それでも井坂さんもやはり表現者であるので、なるほどと思えるお話もあり、とても有意義な対談になったと思う。
俺は何度も書いてきている通り、尊敬する大好きな作家さんとしての「やまだ紫先生」と、それから愛する連れ合いとしての「三津子さん」と、どうしても分けて考えてきたような気がしていたし、実際そう思って来たのだけれど、井坂さん曰く「それは分けていないっていうことなのよ」と。このあたりは掲載される「現代詩手帖」3月号の特集をご覧いただきたいが、とにかく、途中思わずほろりとしてしまったが概ね楽しく彼女について語り合うことが出来た。この機会を下さった思潮社さんに感謝しかありません。

収録も終わり、猫をかまったり思い出話をしたりして、お二人は4時半ころ帰られた。
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2010-01-24(Sun)

90年はふた昔前

1月24日(日)

朝、目を醒ましたらまだ暗かった。ぼんやりと天井を見ながら「あとどれくらい、こうして朝を迎えられるか」と考える。体調がいい悪いとかいうより、「その日」が一体いつになるのか切実に知りたい。
自分の体調は10年前と比べたら色んな意味で「すさまじく悪化」しているのだが、一ヶ月前と比べるとそれほど変化していない。毎日、全身に数え切れないくらいあるリンパ節のどっかが腫れてるんだか何だか、とにかく体調は健康な人に比べれば恐ろしく悪い。採血結果の数値を見れば何も知らない医者なら間違いかと思うだろうものだし。
ふとデジタル時計を見ると「5:55」だった。
まだ早いと思い目を瞑るが寝られず、結局そのまま8時前まで布団に入っていた。今日は抜けるような青空。
もの凄く低いところでのわずかな上下を繰り返しつつ、ゆっくりじわじわと死へと向かっていく日々だと自覚している。途中から、一緒に手を取り合って歩いてくれていた人もいなくなってしまった。体調がこのまま、もの凄く低いところまでじわじわと下がっていき、他人に迷惑をかけながらゆっくりと死ぬなんて嫌だな、どうせならスパッと…と切実に願う。今のところ最大の願いはそれだけだ。
そしてその時まではちゃんと生きる、ということ。

朝のことを済ませ、仕事にとりかかる。ここしばらくずっと忙しい。
おとといあたりでようやくメドがついたと思っていたのに、自分のミスで大量のデータの転送漏れを発見し、萎える。その作業をしつつ、合間にネットを探索したりするのだけど、結局テレビを日中一度も見ない日が続いている。そして何らそれで困らないことにも気付いてしまった。

ツイッターであれこれつぶやいている時、伊藤重夫さんの話題があって書き込んでいるうち、湊谷夢吉さんと混同して恥ずかしいことになる。
青林堂現代漫画家自選シリーズそれから二階の本棚を調べたら、あると思っていた当時の本がごっそり欠落していることを再確認。「ガロ」だけではなく「夜行」や「ばく」なども、いつの間にか失われている。もちろん捨てた憶えはないしそんなことをするはずもないのだけど、数度の引越でどうにかなってしまったのだろう。
その代わりというか、なくなったと思っていた青林堂の「漫画家自選シリーズ」が十数冊出て来た。あと自分が勤務してから出た単行本の初版(見本などを含む)が20〜30部ほど。懐かしいが、内容は全て鮮明に覚えている。本の内容は憶えているのに、その本が保存されていたことを忘れているというのはおかしな話だ。

それがきっかけで、HDDに保存されている日記データをあけてみたりした。
その時、「1990年」がもう「20年もの昔」であることに今さらながら驚愕。ついこの間、という感覚だったからだ。日記データを読み返したら、とんでもない昔であったことを再確認する。

90年当時というと、自分はとにかくこれからは必ず「電子化」時代が来ると思い、貧乏だったのにローンを組んで東芝の「Rupo」というワープロ専用機を買った。QWERTYボードなんか触るのも初めてだったが、当時担当していた作家さんで、いち早くワープロを習得していたマディ上原さんが、「キーボードに慣れるにはさあ、日記つけるといいんですよ」と教えてくれたので、毎日、とにかくワープロを使って日記をつけていた。
当時はまだパソコンは一般にはほとんど普及しておらず、ワープロ専用機全盛時代だった。データはもちろん3.5インチフロッピー(当時最先端のメディアだった)に独自のデータ形式で記録・保存をする。後にそれをPCで読み込むために、MS-DOSテキスト形式に落とし、それをさらにHDDにバックアップ保存しておいたものだ。
1990年、俺はもちろんまだ青林堂「ガロ」編集部に勤務しており、高島平の高層団地にやまだ紫…三津子と子どもたちと猫たちと暮らしていた。青林堂はあの神保町の「材木屋の二階」にあった。
俺はもう中堅編集者になっていて、先輩のYさんと後輩2人とで、忙しく走り回っていた。当時長井さんは高齢と健康上の理由で、「どこかに会社経営を代わって貰えないか」と言っていくつかの大手版元と交渉したが条件が合わず、その後、のちに経営を引き受けることになるツァイトと話がまとまって、俺たちは日中は編集と本出しや返品処理に営業に、夜は会議にと超多忙で奔走していた頃だ。

日記のデータには、克明にその日々が記録されている。

まあとてもじゃないが、世の中には出せないようなエピソードも満載で、やっぱり「20年」という歳月は大変な時間の経過であることを痛感させられる。ただもちろん、ここで言う「世の中に出せない」というのは自分の恥部という日記ならではの意味もあるが、それ以上に、内部事情、ある人の人物像・素顔みたいなこととか、「ガロ」に関わってはいたが作家さんには「絶対に知り得ない事実」とか、まあそういった話だ。
しかしまあこの当時の経営移譲の顛末や、その後の「ガロ」クーデター事件(97年・このあたりの記事参照ください)にしても、よくもまあ知りもしないくせに傍からウンチク言えるもんだと呆れる「事情通」も多い。
「見て来たような嘘を言い」というが、ここに克明な記録を持っている人間がいることをお忘れ無く。
(クーデター事件の直後に一方的にオルグされ、俺に一度も取材はおろか面会もせずにボロカスに批判しそれをメディアに発表したライターのNさんよ、俺が生きているうちに謝罪しないと、俺に許して貰えないよ? 武士の情けで名前は伏せてやるが、あんたずいぶん偉くなってんじゃねえか)
嘘も百回言えば本当になるとか、嘘でも声のデカい方が強いとか言うけれども、「真実」というものは一つしかないんだなあ。「事実」に対峙した時に人それぞれ「解釈」というものはあっていいんだけど、「事実」を歪める「嘘」はいかんだろう。

何せ俺は記録魔である、青林堂の株主総会の顛末などそうとうに面白い。宴会の時の席順、夜のカラオケの時の席順まで記録してあっておかしい。これらの日記を全て公にしたら大変面白いことになるのだが、まあ今のところはやめておく。世の中を騒がせるようなことは身辺が騒がしくなることで、それは病身には面倒くさいことだ。

インターネットなど一般の人が誰も知らなかった時代、「パソコン通信」とか「草の根BBS」とかそんな頃に、それを体験していた人たちはいずれ必ず世の中はネット時代になると思っていたはず。これほどまでになるかどうか予想していたかはともかく、95年くらいには冗談で「冷蔵庫にネット」とか「電子レンジにネット」と笑っていた。それらは今現実になっている。(さっくりジョンさん、そんな話をしましたね(笑)
余談ながら「携帯にひげ剃りついたりして」と冗談を言っていたのもその頃、もう15年前だけど、先日中国でそんなのが出たとかいう記事を見た記憶がある。
「想像力」がいかに大事かは我々メディアの端くれにいる人間なら、一番理解していないといけないこと。ただし「嘘」はもっといけないこと。
「嘘」は真実をねじ曲げることだけど、「記憶の欠落」「忘却」も事実を歪めたりしてしまう。(伊藤重夫さんと湊谷夢吉さんを混同するとは、最近物忘れが激しいので注意せねば)

それと、自分が「ガロ」崩壊以降、作家さんを含めて離れていった人たちと殊更に自分から接触を求めないのは、「嘘」を一度信じてしまった人への「配慮」もある。それと「忘れちゃった」という人との噛み合わないスキマを埋める面倒くささも。
みんな俺のような「記録魔」ではないのだから。

実際つい最近だが、当時もちろんネット環境になくネットすら知らなかったという作家さんから、「当時の状況を全然知りませんでした、後で冷静に振り返りネットなども見ると、白取さんに申し訳ない気持ちです」という言葉を戴いている。解って戴ければいいので、解って戴けない人へ声高に主張する気力も体力も時間も何もねえ。

ツイッター(日々のTLをまとめたログはTwilogに生成される)は簡単にそういう人たちとコミュニケーションが取れるのは知っているが、俺は別にフォロワーを増やしたいわけではない。十数年のスキマを埋めることは容易ではない。それに自分を心配してくれる人、気にかけてくれている人に生存を確認してもらうために始めたことなので、死ぬまで毎日頑張って生きることの方が大事なことなのだ。
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2010-01-19(Tue)

やまだ紫ファンの方から明青さんの料理を「差し入れ」いただきました

1月19日(火)

このところ仕事が立て込んでいて、こまごまと忙しい。ただ本当に、こんな病気でも自宅で仕事が出来ることに感謝している。一日のうちでも体調の変化があるような人間、どこかへ毎日通勤したり一定時間拘束される仕事に就けるはずもない。
昨日の予報だと、今日から三日ばかし気温が十五度前後に上がり、暖かくなるそうだ。といっても一瞬で、また寒くなるらしい。

今朝はユキに7時ころ起こされた。
寒いのではなく、「早く起きろ」と言いたくて来たのだろうが、布団を上げて入れてやると入って来てゴロゴロ言いながら丸くなる。昨日遅かったのでそのままトロトロして、9時ころ起きる。
なるほどそういえばここしばらくよりは寒くない…と思ったが玄関脇のトイレへ行くため廊下のドアを開けたらやっぱり普通に朝は冷えたようだった。
朝のことを済ませて、コーヒーとホットドッグを食べて薬を飲む。あとはずっと仕事。

昼も作業中で面倒だったので、カップ麺で済ませながら仕事を続けていると、明青のおかあさんから電話。
「ちょっとお話があるので降りてきて貰えます?」とのこと、「だったらぜひ上がってって下さいよ」とお話して、部屋の猫の毛を取ったりダスキンモップをかけたり。
明青の渡辺さんご夫妻には、入院中も本当にお世話になった。無人の部屋で猫の世話などをしていただいたが、俺が居る時に上がっていただいたことはない。遠慮をされているのだと思うけれど、やまだも「うちに遊びに来てくれればいいのに」としょっちゅう話していたので。
数分でドアフォンが鳴り、出るとおかあさんはインターフォンで「やっぱりブーツやし、降りて来て」と言うので着替えて降りた。
マンション下のエントランスにある椅子にかけて貰うことにする。

おかあさんによると、先日遠く九州から「やまだ紫さんの大ファン」という男性のお客さんが来られたそうだ。拙ブログもご覧いただいており、たびたび登場する「やまだ紫が愛した店」である明青さんに一度伺いたかったということで、わざわざ来られたのだという。
楽しく飲んで帰られたそうで何よりだったが、最後に
「やまだ先生のお好きだったものをぜひ、ご主人に届けてあげて下さい」
と言付けて帰られたそうだ。
やまだが好きだったふぐの「とうとうみ」(皮とその下に薄く身のついた部分)の網焼き、手羽中の唐揚げ、ポテトサラダに近江牛の塩焼き。今日はお店がお休みなので、こうして届けに来ていただいた。
「差し入れ」を下さった方はファンというだけで、お名前も告げられずにお帰りになったそうです。ありがとうございます、夫婦でご馳走になります。

何度か書いているように、明青さんの料理は突き出しから何でもおいしくて、俺たち夫婦は定番のものから季節の旬のものまで、本当に楽しませていただいた。とても一人で伺うことは出来ない意気地のない自分に、こうしたお気遣いをいただいて、ありがたいやら申し訳ないやらで、明青さんにも御礼を言うけれども、おかあさんは「いやいや私らはお届けしてるだけですし」と笑う。
そのうえ、「はい、また紫をイメージして」とお花のアレンジもいただいて、いつも本当にありがたい。

・・・やまだ紫…俺にとっては妻である三津子が逝ってしまってから、たびたび親交のあった方やファンの方まで、このように「食品」をご送付いただくこともある。ありがとうございます、しかしお気遣いはもうこれ以上なさらずに。
毎日いい加減なものを食べ、泣き暮らしていると思われていた時期もあった。
いや実際、ともすればどうしようもない大きな悲しみ、虚無感、いや絶望に近い感情に襲われる。説明するのは難しい、自分の愛する最も大きなもの…そう言えば「他者」になるからそうではない、自分の一部でもなく半分でもなく、自分に重なっていた魂のようなものが抜けてしまった感じがずっとある。
もちろん理性でフタをして、毎日お茶を淹れ線香を立て手を合わせ、話しかけて、夕方には陰膳を添えて一緒に晩酌をする、毎日毎日毎晩毎晩そうしている。その一連の行為を「儀式化」してしまうことで、何とか感情のうねり、起伏を抑え込もうとしている。そう、自分でちゃんと解っている。
だから、油断すると時々その「解っている自分」が「そんなことしていても、彼女はもう二度と現れないのだ、話すことも、触れることも、できないのだ」と教える。教えられると我に返り、彼女を失ったという「現実」に直面して感情を抑えきれなくなる。
油断というのはフとした瞬間に彼女の名残を見つけたり、思いがけず彼女の「よすが」に触れてしまったりした時だ。その時、日常極力抑えていたものが一気にあふれ出す。

色々な方に励まされ心配され、気遣っていただいて本当に感謝しております。
相変わらず「嫌がらせ」もあります、それは俺に生きていられては困る筋からだと解っているし、コミュとやら、つまり影に隠れてコソコソやってたり話をしていても、必ず漏れ聞こえてくる。
「やまださん、ボクやまださんのためだったら何でもしますから、言ってください!」
などと、昔は満面の笑みでやまだに向かっていた人間が、手の平を返し冷笑を浮かべ、無視をする。
俺はそいつらを絶対に赦さないし、やまだも赦さないだろう。それに、もう、彼女に赦される機会は永遠に失われたのだ。

だがそのような連中はもう居ないものとして、俺は残された時間を有効に使う。励まし、応援してくれる人のために、死ぬまで生きる。

夕方からは思潮社さんの「現代詩手帖」3月号でのやまだ紫追悼特集のため、彼女の書肆データを入力する作業。全ての著作からタイトル・版元はもちろん定価にISBN、頁数や造本・内容まで。これは全ての本が手元にあり、調べながらの作業なので数時間がアッという間に経過。

陰膳
夜は明青さんのお料理を、ありがたく「夫婦で」ご馳走になります。

白身の刺身はうちで用意、右がふぐのとうとうみ、真ん中がポテトサラダ

カリッと香ばしくジューシーな手羽中の唐揚げ

近江牛の塩焼きはこの後焼きます
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2010-01-18(Mon)

「樹のうえで猫がみている」が新編にて刊行

クリックで拡大しますその卓越した言語センスが漫画界のみならず、詩壇からも高く評価されたやまだ紫。その唯一の詩画集「樹のうえで猫がみている」が、思潮社さんより大幅に増補・改訂のうえ復刊されます。
←サムネイルクリックで拡大表示します(思潮社さん提供)
2010年2月刊行・発売中

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2010-01-15(Fri)

忙しく、寒い。

1月15日(金)

このところぐっと冷える。朝7時ころ、ユキがベッドに上がってきて起こされた。何しろ耳が聞こえないので、ベッド上に来た気配で目を醒まし薄目をあけると「ニャーン!」と活字のような綺麗な「猫の鳴き声のお手本」みたいな大声を出すのではっきり目が醒める。
布団に入れろと言っているようなので、布団を上げてやると入って来てゴロゴロ言いながら丸くなった。こちらは眠りから醒めてしまったので、しばらく呆然としていたが、そうっと起こさないように体を横にスライドさせて、布団を抜け出す。何で猫に気を遣ってるのか自分。人に気を遣ってばかりいた、そうしてずっと生きて来たような気がする。職業病でもあるのか。持って生まれたもんか。いい加減、自分が病気になってもうやめたい。世の中で声高に「自分を見ろ」「もっと自分を評価しろ」と叫んでいる人達ほどとは言わないが、もうちょっと自己主張すべきか。
朝の些細なことをきっかけに、いつものルーティンの間自問自答をする。それほど大げさな問題じゃないのは解っているが、「そんな大層なことかよ(笑)」と突っ込んでくれた連れ合いがもういないので、堂々巡りになる。いつものことだ。

朝は食欲がなく、ヨーグルトだけ。仕事の続きにすぐにとりかかる。時々ネットで知り合った人がメールなどで「どういった仕事をされてるんですか」と聞いてくることがあるけど、「禁則事項です」(笑)。というかサイト構築から運営、つまり更新など、それに伴うデータベースや画像の更新その他もろもろ色々あるが、クライアントさんへの守秘義務があるので詳しく書けるはずもないのです。
このところ、とにかくそういったシノギ関連の仕事・作業が詰まっていてしんどい。連れ合いの復刊や特集に関するお手伝いならもちろんノーギャラでいくらでもやるし、そのことが生きるモチベーションでもあるのだけど、クライアント様には悪いが糊口を凌ぐための仕事は文字通りシノギでしかなく、しかもファイル変換や転送などの単純作業も多いので、精神的にはきつい、ここだけの話。

昼前にさすがに腹が減ったので、一昨日新型インフルワクチン接種の後に寄ったスーパーで買っておいたうどん玉を茹でて、レトルトのカレーうどんの元を暖めて食べる。カレーつゆそのものは悪くないが、入っている肉が缶詰に入ってるような食感で、これならいっそ無い方がいいと思う。
その後別件でどうしても簡易書留を出さねばならない用件が発生し、仕方なく郵便局へ出かける支度。着替えてゴミ袋を持ってエッチラと外へ出るが、天気はいいもののやはり寒い。もちろん手袋マフラー帽子マスクの完全防備。俺が警官なら間違いなく職質するであろうスタイルだ。

郵便局まで向かう道すがら、マスクから登る鼻息でメガネが曇る。信号が変わらないので無視して渡ろうとしたら自転車に衝突しそうになった。学生らしい若い子が急ブレーキをかけ、明らかに不機嫌そうな顔をして俺を見る、しかし俺は左右を確認して出たはず。なんとその子は対面からナナメ横断の上、車道を猛スピードで「逆走」してきたのであった。瞬時にそれが解ったので、「オマエなめとんのか」と目を向けると何も言わずに走り去った。
コンビニで「固定資産税」を払い込み、それから郵便局で何通かの郵便物と書留を出し、帰りはコンビニで週刊文春を買って戻る。
文春は…というかこのところ新聞も含めた活字メディアに元気がないな、という印象。速報性でネットにはもう全く太刀打ちできない旧来型の雑誌メディアは、じっくり腰を据えた取材ものやスクープに活路を見出すしかないだろうし、連載コラムや小説もその一つだろうが、今出ている週刊誌のコラムなど連載類の締め切りは12月だろう。ネットで毎日ニュースやそれこそ「実況」を見ている層にとっては、12月などもはや「昔」に過ぎない。話題も何となくとぼけた感じになっている。
その「感覚」はもう日刊の新聞にも感じるようになって久しい。紙面のほとんどの「ニュース」が、すでにネットで見たもので、ネタによってはさんざん意見も交わされたものである。さらに今この瞬間、最新の情報がもたらされる。ここらへん、「紙媒体」の存在意義というものを既存メディアはもっと真剣に考えて対処すべきだと思うが。
ネットのニュースにしても取材は既存メディアの新聞社や通信社が行って「配信」しているものがほとんどだ。カネや購読に結びつかないからといって、じゃあネットでの配信をやめるような偏狭な姿勢を取れば、それはメディアとしての存在価値を忘れられるだけの話で、長い目で見れば「自殺行為」となる。苦しいだろうと思うけれども、この流れは止まらないし、止まるわけもない。

誰かがもはやメディアは「マスメディア」からのトップダウンではなく、巷に溢れる個人も含めた「ボトムアップ」時代になったと言っていた。そんなん15年前に予測していた人はしていたし(俺もだ)、偉そうに高説を垂れたところで市井の一ブロガーに論破されることも当たり前になった。
マスメディアでの論説も、ネット上における一ユーザーの論説も、もはや「等価」であることに、他ならぬ「マスメディア」側にいるトップやその周辺のお歴々が、もし気付いていないのなら、そのマスメディアは死んで行くだろうし、死んでいい。
「週刊文春」で言うとホリケンさんの「ホリイのずんずん調査」や浅田次郎の荒唐無稽かも知れないが読まされてしまう小説「一刀斎夢録」など、ネットでは読めない独自のものがどれだけ多いか、で買われるのか拾い読みで済まされるのかが決まるのだろうな。
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2010-01-13(Wed)

やまだ紫の画稿発掘

1月13日(水)

夕べ寝たのは1時ころだったのに、今朝は薄暗いうちに目が醒めた。何だもう少し寝よう、と思って時計を見たら6時前。けっこう寝たのか…と思っていると明るくなってしまい、結局そのまま起きる。
今日も朝はやっぱり寒い。リビングへ降りると、猫たちはテーブルの下にいた。二匹はふだん仲が悪いのに、夜や俺がいなくて心細い時は至近距離にいたりする。床暖房の上に敷いたカーペットがほんのり暖かく、テーブルの下は落ち着くのだろう。

朝のことを済ませ、届いていた仕事のデータを加工。
今日は午前中に下のI内科で新型インフルエンザのワクチン摂取を受ける日。予約は11時半の予定だったので作業を急ぐが、終わりそうにない。
一夜干し!その間に宅配便が荷物を持って来たので受け取ると、何とげきがウるふ氏が送ってくれた、舞鶴漁港の一夜干しセット。年末の対談企画(「このマンガがひどい!2010」)の御礼とのことで、クール便の箱を開けて見ると、イカやかますやアジその他、ウニの瓶詰めまでどっさり、凄い! 新鮮な魚を漁港で一夜干ししたやつなので、見た目で鮮度がいいのが良く解る。魚の目が違う。イカも炙って食うともう止まらなくなるんだよなあ…と思いつつ、冷蔵庫へ。冷蔵庫を開けると缶ビールがごろんと顔を覗かせたが、ダメですまだ午前中だし!とヨダレを飲み込む。

時計を見るともう11時半を過ぎていたので、予約時間が…と慌てて下のIクリニックへ電話してみると、「患者さんが途切れた時にご連絡する予定でした」とのこと。そういえばそうでした。
ほっとして仕事を続けるが、回線が異常に遅い。ftpが一向に進まずイライラしていると、今度は別の宅配業者。ゆうちゃんが送ってくれた、やまだ紫の原画と原稿だった。

一昨日電話で聞いたところによると、その少し前にゆうちゃんが「バア」つまり祖母(=やまだの母=俺の義母)のところへ子どもたちと一緒に行った時に、それらが見つかったことを聞いたという。
やまだのお母さんは二人姉妹を送り出した後もずっと世田谷区内の団地に一人暮らしをしていたのだけど、去年の秋に建て替えで、近くのマンションへ一時引越をした。その時の荷物に「捨てるもの」「いるもの」という箱があって、何でも「捨てるもの」の方が気になって見直してみたら、何とやまだ紫の原稿が入っていたというのだ。
発見したお母さんは、手伝いに来ていた長女…つまりやまだの姉にそれを託し、ゆうちゃんが俺に送ってくれたということらしい。

「どじです」出て来たのは「COM」時代の「どじです」の原稿全24ページと、未発表の漫画作品一篇、未完成の漫画が一篇、イラストや詩などの画稿が少し(写真クリックでイラスト部分拡大)。
「どじです」は「COM」1970年3月号に掲載され、のちに彼女の初期作品集「鳳仙花」に収録された作品である。しかし『鳳仙花』刊行当時の1980年で、すでに「原稿紛失のため、それぞれ発表誌から転載しました」という三篇(「鳳仙花」「どじです」「はためく」)に入っていたはずだ。
この紛失三篇のうち、「はためく」は我が家に、そして「どじです」はお母さんのところ、つまり彼女にとっては「実家」にあったわけだ。「管理がいい加減」と後年彼女は怒っていたが、いやはや…。
手塚治虫先生の描いた「虫」の一文字が抜かれたロゴも神々しい、「虫プロ商事」(COMの発売元)の原稿用封筒。ところどころ破けて日に焼けているが、ちゃんと返却されていたんじゃないか…。
それとも、彼女は「あの頃の作品はどれも未熟で、漫画の描き方も知らない頃のだから恥ずかしい」と言っていたから、「わざと無いもの」にしているうちに、本当に忘却してしまったのだろうか…。

何度も何度も言ってきたが、この頃の「やまだ紫」は、「山田三津子」から孵化して間もない初々しさと、後の凛とした作風とを併せ持つ、とても魅力的な作家である。岡田史子に影響されて漫画を「作法」すら知らぬ状態で「青インクで」描きはじめてから数年。(岡田史子に影響されたというのは作風というより、漫画を描いて発表すること、その行為そのものである:「やまだ紫、「COM」との出会い」)
結婚や出産を経て戻ってきた『性悪猫』以降のやまだ紫もとても魅力的だが、「COM」時代の、何とも言えぬ哀切に満ちた「自己表現としての漫画」、作品群は今読んでも胸に迫るものばかりだし、彼女が後年詩壇から高く評価されることになる独自の「ことば」の輝きに満ちている。

19歳っておとな?この貴重な原稿のほかに、「COM」投稿前と思われる未発表の漫画も一本あった。
タイトルは「19歳っておとな?」、ペンネームは「山田実子」となっている。
内容は、残念ながらプロの作家のレベルではないが、一人の作家の成長過程を見るという意味においては非常に興味深い。
山田三津子は絵を描くのが幼い頃から好きな少女だった。高校の美術部に入るが、そこで教わったのは通り一遍のデッサンや基礎的な技法であり、「自己表現」「突出すること」は推奨されなかったという。大好きな絵を描くために入部したのに、残念ながらやりたくもない課題をいい加減にこなす鬱屈した日々を送ることとなった皮肉。
その時代のスケッチブックやレタリング帖、課題提出物なども残っている。以前これも書いたことがあるが(画稿の整理)、ひどい評価をつけられていて、彼女が楽しくなかった=課題もいい加減にこなす=低い評価=楽しくない、というループにあったであろうことがよく解る。
見つかった「山田実子」名義の作品は、そんな山田三津子という少女が、やがて傑出したやまだ紫という作家へと孵化する過程の幼生とでもいうべき形態なのであろう。これらを発表することは、彼女の本意ではないだろうし「やまだ紫」にとっては確かに「葬り去りたいもの」だったのかも知れない。

ただ、遺された者にとっては、愛しいひとの若い息吹の感じられる大切なもの。
ファンという立場から見ても、やまだ紫という「作家研究」にとってとても重要なもの、だ。


ワクチンの方は、その後すぐにI内科から「風邪の患者さんが来てしまったので、20分くらい後でもいいですか」と連絡があった。元より免疫力の落ちたこちらへのご配慮なので、もちろん了解。色々気を遣っていただいて申し訳ないです。
いったん着替えてPCの前に戻るが、一つ二つのファイル転送途中で止まってしまう。ホスティングサーバの会社にメールを入れて善処するよう頼み、時間になったので下へ降りる。

外に出ると日は射しているが、やはり今日の空気は冷たい。
クリニックに入り、問診票に記入。すぐに処置室へ通され、先生にご挨拶をしてから、ワクチン接種。季節性のワクチンを打ってもらった時と同じ看護婦さんに、右の上腕部に注射された。
「本当はちょっと休んでいただいたりするんですが、(白取さんは上なので)上で…(笑)」と言われたので、「安静にしてないといけないんですか」と聞く。看護婦さんは「そういうわけではないですよ」というので「買い物へ行っても…」と聞くと「買い物くらい大丈夫ですよ」と笑われた。「激しい運動」とかしなきゃいいんだよな、そりゃあそうです。
処置室を出て受付へ戻って、会計の時に「そういえば、もう一回あるんですよね、次は…」と聞くと、事務の女性二人は「いえ、もう成人男性は一回接種でいいことになったと思いますよ」とのこと。ワクチンのお願いをした時、電話でI先生に「白取さんの場合は二回接種した方がいいんじゃないか」と言われたというと、確認してえみます、と診察室へ行ってくれた。
すぐ先生ご本人が出て来て、ちょっと立ち話。
先生はやはり、俺の場合一度で抗体が正常に作られるかどうか疑問だし、年末の帯状疱疹=ヘルペスウィルスの件にしても、通常の人なら治るはずの方法で治らなかった、なので念のため二度やった方がいいかも知れないということ。
ただ副作用というか副効果の問題もあるので、一定期間、普通なら一週間以上あけて打つのだけど、俺の場合は二週間ほど明けて、それからにしましょうか…ということになる。
先生によると、今は季節性のインフルに関しては「患者さんどこ行かはったん?」というくらい激減しているそうだ。ただ新型に関してはじわじわきているそうだけど、世間一般では「感染力は弱い」とか「健康な成人には怖くない」というような、もう「終わったもの」的な気分が蔓延している。
俺も「一週間ほど前に京大病院行った時、暇だったんでマスク着用率数えたんですよ(笑)、そうしたら1割程度でした」と話す。先生は「そうなんですよねえ、だからマスクもそうですけどうがいや手洗いといった基本的な予防対策がおろそかになってきている感はありますね。だから(感染が今後)増えてくる可能性はあります」とのこと。
いずれにせよ、俺の場合は人混みにはなるべく出ないことと、外出したらマスクやうがい、手洗いを励行するという基本を守るということだ。
免疫力が落ちている癌患者とはいえ、他の患者さんがなるべくいないときに…というご配慮をいただいて、申し訳ない限り。御礼を言って出る。

そのまま、一乗寺方面へ歩いてスーパーで買い物。
買い物をぶら下げて戻ってくる時、何かを忘れた、何だっけ…とずっと考えていたが、三津子の花であることを思い出したのはマンションの手前だった。ああ、でも今来た道は戻りたくない。
そのまま部屋に戻って荷物を冷蔵庫へ収め、再び外へ。今度は逆方向にある大きいスーパーの花売り場へ向かう。こちらはお昼前後はけっこう客が多いので、わざわざ小さいスーパーまで行ったというのに、花を忘れて結局買いに来るとは情けない。三色の小菊、白いてっぽう百合を買い、コンビニでドリンクヨーグルトを買って戻ったら1時半近かった。

その後サーバは結局正常に動作しているという報告があり、こちらの回線バックボーンのせいだろうということ。結局データの転送完了までは接続と切断を繰り返して数時間かかった。昔、ダイヤルアップでネット接続していた時、夜11時になると「テレホタイム突入」で突然回線が重くなったのを思いだした。
外を見ると、青空なのにひらひらと雪が舞っていた。
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2010-01-12(Tue)

ルーティンワーク=シノギ

1月12日(火)

8時ころ目が醒めたが布団から出がたく、しかも足元にユキが丸くなっていて動くのも可哀想…と言い訳しつつ9時半ころ抜け出す。

今日は昨日に比べるとちょいと寒い。
朝のことを済ませて、サンドイッチと熱いコーヒーを淹れて朝食。コーヒーには少量の牛乳と、朝は多めの砂糖を入れる。脳を目覚めさせるには糖分が不可欠なのだ。食欲がなくてモノを食べられない人は、糖分だけでも摂取した方がいい。
昨日、夜に風呂に入り今日は新型インフルエンザのワクチン摂取だ…と思ったら明日だった。がっくり。

その後はひたすら仕事。午前中はどちらかというとクリエイティブな仕事だが、午後からはひたすらデータベースとファイルとの格闘で、同じ作業を延々と繰り返す。この同じ事を繰り返す、ということが昔から耐えられない。やっぱり公務員になろうとしてもなれなかっただろう。というかなろうとは微塵も思わなかったが。

5時過ぎ、耐えられなくなって自主的に仕事を終える。キッパリ終え、おでんに火を入れて二日目の大根の柔らかさを確認。
好きな編集の仕事に比較し、給料の足りない分を補う「アルバイト」のことを、俺たちはよく「シノギ」と言ってきた。いやそれはギャランティをいただけるので有り難く、失礼な言い方なのは重々承知しながら、それでも先方さんも「青林堂さんは貧乏だから大変でしょ」という「相互了解」があった。80年代後半くらいまでの話。
「ガロ」に描いてた人で、担当の根本敬さんなんかも、あんな作風なのにちょっと大人しい仕事をすると照れ隠しのように、俺に「あれはマア、シノギですから(笑)」と言っていたな、と懐かしく思い出す。
シノギはしんどい、でもやらなければメシが食えない。よく「好きな仕事でご飯が食べられて羨ましい」というようなことを言われるが、世の中それほど甘い世界ではない。
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2010-01-05(Tue)

月命日、「紫の石」・・・

1月5日(火)

夕べは12時過ぎに就寝、寝られそうだなと思ってテレビもつけずそのまま眠った。
次に目が醒めると朝7時過ぎ、ひさしぶりにぐっすり寝られた感じ。どうやら呼吸時の胸の痛みも弱い。ホンのかかりっぱなの風邪だっただろうか。それにしては痛かったが。
だいたい縦隔のリンパ節が腫れたって、そこが「痛む」ということはなかろう…と考えるが、どのみち今日は診察日で採血もあるので、起きて朝の支度。

疱疹部分には腹巻きをあて、ハイネックのセーターに襟巻きに革ジャケットを羽織り手袋マスクニット帽の完全防備で外に出る。
今年に入ってからマンションの敷地外に出るのは3日の夜にコンビニに行ったのと2回目。すぐにタクシーがつかまり、病院へもすいすい走って810円で到着。
病院の入口左手にあるドトールは若干混んでいたが、吹き抜けのある大きな受付フロアへ進むと、今日は少ないなという印象。

自動受付機から呼び出し端末をもらって、すぐ二階の採血へ行き、受付すると206番。上の掲示板の数字を見ると215になっていて、「すぐ採血室へお入り下さい」と言われた。やはり少ないのだな。
採血室へ入って椅子に座って2分くらいですぐ呼ばれ、いつものように右腕静脈から血を摂られる一部始終をガン見する。今日は試験管2本と少ない。
採血が終わったら、少なくとも分析結果の出る1時間ほどは絶対に呼ばれない。予約は10時半だったが時計を見ると9時半。じゃあ11時ころかな、と目算を立てて入口のドトールまで戻り、カフェラテとレタスドッグ。「ソーセージは新たに茹でるので7〜8分お待ちいただけますか」と言われた。急がないしその方がうまそうだしもちろん待つ。
ラテを飲んでぼーっとしていると5分ほどで出来上がって呼ばれたので、食べる。パンもサクッとしてて実にうまい。

それからまた2階へ上がり、いつもの吹き抜けを見下ろす椅子に腰掛けて、モバツイってみようと試みるが、なぜか俺のソフバン911Tからは投稿出来ず。しょうがなくモバツイ利用者だけの「ラウンジ」で「RTとQTの違いがわからない」という人の質問に答えただけで、眼下を行き交う人を眺める。

暇なのでマスク着用率をカウントしてみた。
最初の100人中、マスク着用者17人。
次の50人中、マスク8人。次の50人は13人で、合計200人中38人で19%という結果。しかしカウントをやめて眺めているとそんなに多くないという印象だ、おそらく10%くらいじゃなかろうか。
確かにインフルエンザは俺のような免疫力の低下した人には脅威だが、感染してもピンピンして歩き回っている人もいるだろう。その人は自覚がないんだから、マスクなどまず着用しない、そしてウィルスをまき散らす。
そういえば「新型インフルエンザのワクチンを接種した方がいいか」ということを今日は聞かねばと思い出す。前回、下のクリニックでI先生に「今度京大病院へ行ったら聞いておいて」と伺っていたのに、聞き忘れていた。
トイレへ行ったりウトウトしている間に携帯端末は順調に外待合→中待合へ、と指示を表示し、診察室の前に座ると中から前の患者が出て行き、その次が俺だった。

血液内科のI先生は開口一番「白取さん、どうされました?」と言うので、「あ、実は…」と、
ここ数日痰が出て、昨日の朝は呼吸時胸が痛かったこと、市販の感冒薬を飲んで安静にしていたらそれがピークだったようだということ、今痛みも熱も咳もないということ…を報告。
先生は「ああ…風邪ですか…でしょうね。CRPがハネあがってますから」とのこと。炎症反応だが、通常は1.0以下の数値が5台。念のため喉の奥を見ていただき、前後から呼吸音も聞いていただいた。
「それと肝臓の方の数値も少し上がってるのと、好中球数が増えていますが、それ以外は変わってないですね…」ということで、抗生物質をしばらく飲むようにと処方される。

新型インフルエンザワクチンの件を聞くときに「季節性のワクチンを接種したあと一週間後に帯状疱疹を発症したんですが因果関係はないんでしょうか」と言うと「それはありませんが」と一笑に付されて、
「インフルエンザもね、今ちょっとこう(流行のピークが下がって)きている様子とはいえ、白取さんの場合は免疫力が落ちていますから、暴露された場合(ウィルスのいる環境にさらされたら)確実に感染するでしょう。受けた方がいいですよ」とはっきり言われた。
やっぱりそうか、怖いな…と思いつつ、次回は3月でいいでしょうということで予約をもらい、採決結果と処方箋などを受け取り、御礼を言って辞す。

会計もスムースに運び、病院の正面玄関から出て、まっすぐ調剤薬局へ向かう。
今日は熊野神社へお参りをして、三津子の月命日なので花などの買い物をしてまっすぐ帰るつもり。ゆえにマンションの隣にある薬局ではなく、ここで貰ってしまうのだ。
薬局は混んでいた。とはいえ7〜8人くらいの待ち。処方箋を出して座るとすぐに局員の女性が近くに来て、「ザイロリックとビクロックスはジェネリック薬品がありまして、処方された先生からも許可が出ていますがどうされますか?」という。
そりゃあ効き目が同じなら安い方がいいので、ジェネリックでお願いした。
10分ほど待って受け取りに行くと、ザイロリック(尿酸値を下げる薬)はアイデイト、ビクロックス(帯状疱疹の抗ウィルス剤)はビルヘキサルにそれぞれ置き換わった。これで千円弱安くなるというから驚き。
さらに風邪に処方された抗生物質「クラビット」は「お使いになられたことありますか?」と言われたので「はい…」と答えて取り出された錠剤を見てびっくり。でかい! 見ると「500mg」と書いてある。「大きいですね」と言うと「凄く強いものになっていますので、必ず一日一回一錠だけ飲んで下さい。飲み忘れても二回分とか一遍に飲まないようにして下さいね」と言われた。

薬局を出て、丸太町に抜ける脇道を折れる。ここも近道に三津子と何度も通ったな…。喫茶レストラン「十両」にラーメン屋「第一旭」も入ったっけ…と思い出しつつ、熊野神社前に抜ける。
喪中の身なので、鳥居をくぐらずに脇の狭いところから境内に入る。もう新年も5日、参拝客は地元の人らしい一人だけだった。
賽銭を入れて鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼。それから社務所でお札を貰い、おみくじを引く。
おみくじは「吉」と微妙ながら、自分には色々良く取れることが書いてあった。木の枝に結んで、東大路に抜ける。
それからスーパーで今日・明日のものを買い、三津子には菊とブーケ、薄紫の花を買ってタクシーで帰宅。12時過ぎだったか。
着替えて買い物をしまい、花を活けてすぐにマンション下のIクリニックへ電話すると、先生ご本人が出られた。今日のことを報告すると、「白取さんの場合は一回の接種でちゃんとした抗体が作られるか疑問なので、二回受けはった方がいいと思うんですよね」とのこと。とりあえず、来週に一回目の予約を入れていただいた。


その後、夕方になってメールをチェックすると、昔やまだ紫の担当だった新聞社のMさんからメールが来ていた。
何と、一昨年の夏に乳がんと転移が見つかり、余命宣告を受け、一年間闘病していたという。幸い薬が効き癌は縮小、車椅子だったのが少し走ることができるまでに回復し、昨年11月に職場復帰したとのこと。凄い! 知るとこちらも勇気を貰えるような気がする。
Mさんは闘病中だったので、やまだが亡くなったことを知らず、年末の新聞で見て驚いたそうだ。それからネットで俺のブログなども読んでいただいたとのこと。
Mさんはかってやまだが差し上げた「翡翠」を大切にして下さっているという。
「渡してくださった時の優しいお顔は今でも忘れられません。」
「ここ数年、何か悲しいことがあったとき、この石をにぎりしめると、ひやっとした感触とともに、心がとても澄んで力が湧くのを感じておりました。」

その内容に自分もハッとした。

三津子は翡翠や水晶など、いわゆる「パワーストーン」と呼ばれるものが好きだった。二人で長瀞や山梨へ日帰りで行った時も、観光そっちのけで石屋を見たりもした。
ただ「超常現象」がどうとか「未来が見える」とかいうことではなく、ただ石を「ぎゅっ」と握りしめると、とても気持ちが落ち着くし、その石の力を貰えるような気がすると言っていた。僕もよく仕事や些細なことでイライラしていると「はいコレ握って」と言われて渡されたものだ。
いつしか俺も感化され、貰った石をパソコンの横に置いて握ったりするようになったが、京都に引っ越してきてからは触った記憶がない。
そういえば、前のマンションに置いていた置物や招き猫、石などをまだ荷ほどきしていないものがたくさんある。結局二人で愛でる機会もなくなったので、そのままだ。

Mさんからのメールで真っ先に思い浮かんだのは、三津子が大切にしていた紫の石のことだった。そうだ、彼女の好きだった石を出して、供えよう。
そう思って二階へ上がって、電気をつけて「ここら辺かな」という足元に小箱があった。
三津子の字で「石、水晶」と書かれていた。もちろん引越の時に彼女が大事に荷造りをしたままで、ガムテープも開けていない。
ベッドに腰掛けてその箱を開けて探すが、見つからない。そこで視線を正面の本棚、彼女の著作をおさめたガラス戸の中に移すと、そこに鎮座していた。

「それじゃなくて、こっち…」

そうだ、この石だけは彼女が自分で本棚に置いたのだった…。
手で握ると少し重く、手の平に吸い付くような紫の石。まるで彼女の手を握っているような、すべすべとした握り心地。
そうだ、夕べ寝る前に右手を君が寝ていた場所へ差し出した。君はぎゅぅっとそれをよく握ってくれた。性も何も超越した二人の交歓。でも今、この手は虚しく空をさまようだけで、そのうちに寝てしまったのだ。
紫の石
石を握って「…むらさきの、石…」と声に出すと同時に涙が出た。

Mさんはメールに
「これからも、先生にいただいた翡翠をずっと大切にさせていただきます。
私もこの先、病気がどうなるかわかりませんが(ステージ4なので、立派な末期がん患者です!)、何かあれば、またこの石を握りしめようと思います。」と書いてくださった。

月命日に、こうしたかたちでの「再会」があるのも、きっと三津子の計らいだろう。
俺も紫の石を握りしめて、頑張ろう。
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2010-01-04(Mon)

風邪っぽい?

1月4日(月)

この日未明から、どうも息を吸うと胸が痛んで目が醒める。時計を見ると4時前で、まだ朝までは遠い。寝相を変えたりするが、やはり胸の真ん中かやや右よりの奥に痛みがある。ここには縦隔のリンパ節という「大物」がいるので、うずいているのだろうか。ていうか呼吸を阻害するような痛みを伴うわけはないので、風邪かも知れない。痰も喉に絡んでいる感じ。
薄くうとうとしては1時間おきくらいに時計を見て、結局9時ころまでベッドに居た。本当にこういう「睡眠」は疲れる。本来疲労を取るための睡眠で疲弊するのは一日のスタートとしてはしんどい。

朝のもろもろ、シャワーは今日はしんどいので後にしよう。猫のご飯と水、花の水替えやお線香など。三が日も済んだので三津子とご先祖様にはまた熱い緑茶に戻した。昨日までは朝からお酒だった。
こちらも明日は病院なので、今日は酒を休むことにする。
外は穏やかな青空にうっすらと雲がかかった感じ。なかなか正月気分が抜けがたい空だが、今日から自主的に仕事始めとしている。
ところがクライアントさんが送ってくれているはずのデータは届いておらず、肩すかし。コーヒーを飲みながら昨日買っておいたサンドイッチで朝食。

テレビは食指が動くものがないので、ネットでニュースなどを割合にじっくり読むが、やはり目が痛くなってくる。11月に退院してからけっこうな量の本を活字も漫画も含めて読んでいたが、仕事でパソコン、リラックスに読書やネットでは結局目の酷使。休み休みじゃないと目が痛い。
それにしてもこの体、どうもあちこち真綿で首を絞められるようにヤバくなってきてるらしいなあ、と漠然と感じる。

朝方の正中あたりの痛みは、風邪かも知らんと思い念のため総合感冒薬を飲んだあと、起きて座っていると多少楽になってきた。だが依然強く呼吸をすると、肺が膨らんだ時に痛い。
どうせ明日は病院なので今日は動かないとはいえ、どうにも気になる。調べるとまあ悪い病気が出るわ出るわ。しかし自分の場合は普通の人なら「へっくしょい!」程度で終わる風邪も重症化するかも知れないし、とにかく免疫力が著しく低下している状態がずっと続いている。
もう白血病なのだし、これ以上悪いことは起こらないだろうと思っているので、例えば「肺がん」と言われても、もう治療も何もせずにこのまま家で死にたいな、と思う。
帯状疱疹後の神経痛で肋間神経痛の症状かな、とも思ったが、肋骨に沿った痛みではなく、胸の中に痛む「箇所」があるのが解る。胸膜に炎症が出来たとか気管支やら疑いだしたらキリがない。幸い咳は出ず熱も微熱。気にしないことにしよう。

午後手違いで送られなかったというデータが来たので仕事にかかるが、集中して終えたと思ったら追加と修正。結局2時半ころに弁当を食べた以外は5時過ぎまでびっちり仕事をしてしまった。それからようやく風呂に入る頃には外は真っ暗。
ユキは相変わらず俺が中扉を閉めて浴室へ行くと、姿が見えないので凄い声でひとしきり鳴いたあと、奥の部屋の台に上がって尻尾をくわえてくるくる廻っている。風呂上がりに洗濯機も廻したりして小一時間ほどして戻ってくると、オットマンの上につっぷして寝ていた。
ユキ
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2010-01-01(Fri)

2010年元日

1月1日(金)

2010年になった。

昨夜は「紅白」終了後、「二階」の寝室へ上がった。ベランダを開けて、ちょっとだけ除夜の鐘を聞いた。前年は夫婦二人でコートを着て、このベランダに出て耳を澄ませたのを思い出す。遠く、高い「カーン」「コーン」という鐘の音があちらこちらから聞こえる。三津子の「聞こえた! あっちからも」という笑顔がついこの間のように思い浮かぶ。大きな寺ではないのだろうが、澄んだ空気に似合う心地の良い音が今年も聞こえる。
いつの間にかユキが足元に来て鳴くのでちょっと抱いてやるが、やはり外の空気は冷たい。ベランダに出るのはやめて、そのままガラス戸を閉めた。
その間に、2010年になっていた。
2009年は自分の人生で最悪の年だった。
自分が癌宣告を受けた年も、あれこれ苦労が絶えなかった数年間も、人に裏切られ足蹴にされた時も、全て三津子が居てくれたから何とか乗り越えて来た。
だが2009年5月5日、その彼女が居なくなった。これほどまでに辛く哀しい出来事は、金輪際俺の人生では起こらない、あり得ない。
…ということは、この先これ以上悪い年は来ないということか。

陰膳の雑煮今朝は8時過ぎに起きて、朝は雑煮を作る。
毎年、年末になると三津子が鶏ガラなどで圧力鍋にたくさんスープをとり、正月はそれを元に雑煮を作ってくれた。餅は角餅をこんがり焼き、それを一度スープに入れて、とろりとしたあたりで食べるのがこの上なくうまかった。具は餅の他に鶏肉、白ネギ、ほうれん草、みつばとシンプルで、ゆずの皮は欠かさなかった。
今年は簡単に市販の鶏スープをそれっぽく味付けし、明青さんからいただいた丸餅で作った。具は二人で居た時と同じで、片手鍋に3〜4杯分。これで充分。小分けしたのを三津子にも添える。

その後はビールを飲み、録画していたお笑い番組をだらだらと見て、夕方は「おせち」ではないが彼女の好きだったものを並べる。
新年が明けても、めでたいとか祝う気持ちには到底なれない。おそらくこれからずっとそうなんだろうな、と思う。

ただ、白血病と宣告されてから、とうとう5回目の正月を迎えることができた。そのことは素直に喜びたいと思う。改めて、今自分が生かされていることの「奇跡」にただ、感謝。
「おせち」
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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