2010-07-31(Sat)

不調継続

7月31日(土) 入院48日目★手術26日目

ゆうべ11時前には眠れたが、夜中に下腹が張り目が覚めると12時半だった。トイレへ行くと普通に便通がある。これのせいで夕方に吐き気が? とも思ったが、それじゃメシ食う度にその都度前に食べた分を排出しておかねばならなくなるし、そんなわけはなかろう。

吐き気の原因は薬の副作用を除けば、体感で言うと空腹時・とりわけ朝の胃酸過多(薬で抑制中)、便通が滞っている場合の下腹部の閉塞感から来る「押し上げられるような感覚」での胃の不快感など。
とにかく脾臓が大きすぎて他の臓器が「ひー苦しい」と言うくらい押しやられている。特に右側へ縦にビヨーンとなるくらい押されているのが胃だ(前に画像で見た)。つまり日常的に脾臓で圧迫されているから、空っぽなら胃酸が上がってきやすいし、ものが入れば膨満感で苦しいという八方塞がりの状況。

その後3時過ぎにまた目が覚め、あとはほとんど寝られず。ただひたすらベッドの上で転がっていた。朝は夕べの薬が効いているのか、吐き気は弱い。6時には病棟の廊下に電気がつく。こちらは結局何も出来ずに7時までそのまま転がっていた。
昨日の日中まで、ゆっくりとだが順調に快方に向かってると思っていた。これは一時的なものだ、大丈夫と思いつつも、こういう状態は正直精神的にもきつい。

結局昨日の午後看護婦さんに「もう吐き気止めは要りませんね」と袋ごと返したあとで気持ちが悪くなり、さらに夕食後吐くという最悪の結果。朝は7時過ぎにプリンペランを貰って飲み、8時前の朝食は何とかほとんど残さずに食べられた。

その後9時半ころトイレに行ってから体重測定、60.60kg。また減っている。運動はしていないが太るようなものはほとんど食べてないし、適正カロリーの食事を出されて全てを完食しているわけでもないから簡単には増えないにしても。

7時からはベッドの背を立てて、とりあえずテレビでNHKニュースを見る。外は曇り、セミがじわじわ鳴いている。
週末になると検査も処置も減るせいか、看護婦さんたちの数も少ない感じで病棟は静かなもの。こちらもぼーっとテレビを見ていると、昼。
オニオンスライス、スパニッシュオムレツにシチュー。そしてなぜかご飯。シチューなどは全部食べて、ご飯は丸々残した。スパニッシュオムレツはトムとジェリーのチーズみたいな穴の開いた洋風卵焼きで味付けは微妙。これをトマトケチャップで食べるのだが、これなら普通のプレーンオムレツでいいのに…といつも思います。

人が少ないというのは実際そうで、看護婦さんによると土日は動ける人はけっこう外泊や外出をしているので、患者の入浴も少ないそうだ。それでもタイミングを逸したら嫌なので、風呂が男性用に切り替わる3時少し前にフライング気味で「入浴中」の札を貼っておき、ゆっくりシャワーをした。湯船に湯も張ってあるが手を入れるとぬるかったのでやめる。

そのあたりまではまだ調子がそこそこ良かったのだけど、4時前あたりからまた胃のあたりがムカムカしてきた。これはいかんと思い、ちょうど夜勤担当の看護士が来たのでプリンペラン(吐き気止め)を貰ってその場で飲む。今日は吐きたくない。
風呂上がりは体重60.65kg。

夕方はずっとテレビを眺めていた。NHKスペシャル「恐竜絶滅 ほ乳類の戦い」(前編)、隕石衝突による恐竜絶滅、氷河期到来、ほ乳類の進化…というあたり。モンゴルで「オビラプトル=卵泥棒」という不名誉な名前をつけられていた恐竜の化石には感動。ちょうど格好が卵を抱えて逃げる泥棒のようだったからそのような名がついたのだが、実は卵は同じ種つまり母子であることが解り、つまりは卵を守るように両手で包む母の姿であった、という。恐竜はほとんどの種が絶滅に瀕したが、一部はこうして抱卵することで生き延び、やがて鳥類へと変化していった…というのが最新の推論らしい。

テレビを見ている間は吐き気も逸らせるし、そのうちに吐き気止めも効いてきたようで、番組が終わるとちょうど夕飯が来る。
何とか食べられそうだ、と思ったらおかずがどれも激マズ…。中でもメインの「ヒラスの南蛮焼き」というのは名前はうまそうだが、何というか…微妙な…要するに余計な味付けがしてあって、しかもパッサパサ。むしろ塩焼きか普通に煮付けてくれた方がいいと思います。ってメシに文句ばっかり言ってるような気がする。

仕方なく、せめてご飯だけでもと思い、ふりかけで何とか8割がた食べた。大根とにんじんと細切り昆布の和え物は「松前漬け風」とあるが、味は形容しがたい「ぼやーっ」としたもので「〜風」の意味がよくわからない。見た目か。
もう一つの「茄子のナントカ煮」も「もやもやーっとした味付け」で、どれもご飯の友には到底なり得ず、結局おかずはほとんど残した。何ということでしょう。食べたいのに、まずくて食えないとは。

粛々と食後の薬を飲むが、吐き気が治まっているとはいえ薬で抑えてあるだけ。どうにも昨日から調子が悪いのは続いている。
この記録も6時半、ここまでで一杯一杯。こんな感じで今が正念場か…
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2010-07-30(Fri)

不調ぎみ

7月30日(金) 入院47日目★手術25日目

消灯後はベッドに転がって眠くなるのを待つ。このところ寝入りは割合スッと入っていけるのは有り難い。しかし寝るのが早すぎるせいか、明け方に目が覚めてしまうのは困る。若い頃は「泥のように」、それこそきっちり8時間、ほっとけば午前中一杯でも寝てられた。まあ、元気で労働している時だったけど。
4時5時と寝たり醒めたりで6時ころ朦朧と起床というパターン。寝癖がひどい。
このぼうぼうに伸びた髪をどうにかしたいのだが、中央棟の床屋へ行くといつも何人も待っているし、部屋に呼んでやってもらうと高いし、バスの時間を計算してあらかじめ予約を取って…となると気力が萎える。出てからでいいか…と結局後ろで結わえて終わり。

朝はいつも6時のニュースから8時の「ゲゲゲの女房」までずっとNHKを見ているが、このとっくに減価償却済みであろう小型ブラウン管アナログ地上波オンリーモノラル音質最低のテレビ(笑)でも、キッチリ有料。別な入院患者の方がネットで「ワンセグ端末使ってる」と聞いて、そりゃそうだよなあと思った。
ただ前もって50日入院です、と言われれば準備も出来たが、当初は肺に穴が開き、文字通り息も絶え絶えで家に戻ってとって返すのが精一杯。ほとんど何の準備も出来ずに病院に入った。
その時は気胸治療だけ、つまり一週間から十日という予定で、そのために余計な買い物は勿体ないと思ったし、検査や何だで長引いて、そのうち手術になって、傷が治ったら退院だと思ってたら肺炎だった。それも途中から通院でいいかもと思っていたら3週間きっちり病院で、と決まった。何かズルズルズルとその都度伸びてきたので、新たな買い物はせずにオンボロテレビを見ている。

テレビカードもよく考えればワンセグ端末を買っておつりが貰えるほど買っている。眼精疲労か視力低下か、とにかくミニノートの精細な画面を見続けていると頭が痛くなってくるようになり、PCは仕事の合間につぶやくのと、夜にこの記録をブログにアップする以外、あまり見ないようにした。
そうなるとあとは読書とテレビくらいしか娯楽、時間潰しがない。必然的に普段の生活よりもテレビ視聴時間は明らかに長くなる。次からは入院の時はワンセグ端末が必須だな…って出来ればもう入院したくないが。

ワンセグ端末はともかく、退院がズルズルと延びてはまた延びて「明青さんのご夫婦には申し訳ない限りなので、次にもし入院の必要が生じた時のため、動物病院かキャットシッターを探そう。近所にあるといいのだが。

その後また異様な眠気に襲われてうとうとするが、廊下の音もあって熟睡はできず。昼食が運ばれてきた後も20分くらい朦朧としたままだった。何だこれ? という感じ。PCの画面を見るとクラクラする気がして、パソコンは閉じたままだ。
まあこういう日もあるさ、眠いなら無理に我慢していなくても、きっと体が要求しているのだろう…と考える。

昼飯は頑張って何とか8分目くらいまで食べて、下膳に立ったついでにシャワーでもしようと思ったら「男性入浴中」の札。午前中は年配の人の利用率が高く、タイミングが合わないことが多いので、このところ午後のシャワーを狙っている。
眠怠さと闘いつつ30分後に見に行くと、今度は「介助入浴中」の札。以後何度か見に行くが、ずっと「介助入浴中」のまま。とうとう3時になって使用不可、最後まで札があるままだった。外し忘れですかそうですか。お陰で今日の入浴なし…。

ガックリ来て寝ようとベッドの背を元に戻していたら、研修医のKさんが来る。胸部造影CTを8月4日に撮るため説明と、同意書にサイン。5日に全体のカンファレンスがあるので、その前に画像を撮っておきたいとのこと。
学会報告レベルの希有な臨床例、通常の投薬治療でどうなっているだろうか。
レントゲンでは肺の中の様子が詳しくわからないため、次のCTはこちらもある意味「楽しみ」である。造影剤で金玉のあたりが熱くなるのにも慣れっこだし。

体感としては明らかに快方へと向かっているのだけど、その速度はゆっくりであるというのも感じている。血痰、咳などは減ってきた…と思ってたら多い日があり、血痰も古い血ばかりになってきた…と思ってたら赤が混じり出したり、吐き気が消えたと思ったら今日のように眠だるくクラクラする日があったりと、もどかしい。

夕方5時を過ぎたあたり、ようやく少し怠さが抜けたので、この記録を集中的につける。もう病状記録は意地である。辛い時ほど「記録すること」で乗り越えてきた。とにかく打ち込む。

その後談話室へ体重を測りにいくと61.35kg。50gという減り方が微妙。体重計から降りるときちょっとフラついた。身長からすれば今が適性体重だ、筋肉が衰えてるんだな、と考えつつゆっくり病室へ戻る。

6時夕飯は食欲が出ず、しかも「なまり節の煮付け」というあまり食指の動かないもの。キャベツサラダとゆで卵半分、なすの浅漬け(と書いてあるが明らかに古漬け状態)、ご飯はふりかけで半分ほど。これじゃ太れないな…納豆…以下略。

この記録もやっとこさという感じ。あとは今日のところはまた休んでいよう。
こんな日もあるさ。
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2010-07-29(Thu)

平穏、順調に回復?

7月29日(木) 入院46日目★手術24日目

早く寝すぎたせいか、夜中3時に目が覚めたのは参った。トイレへ立ち、戻ってしばらく寝付けずに悶々とする。起床は6時前、その間寝たり醒めたりで朦朧状態。
起き抜けの洗顔時に、血痰が多めに出た。回数こそ2、3回だったが古い茶色い血に混じって赤がある。鮮血というまでフレッシュではないものの、ここ数日減ってきたと思っていただけに少し驚いた。その後ベッドへ戻ったあとも何度も咳で痰を出すが、その後もちょくちょく赤が混じる。あまり気にし過ぎても仕方ない。

8時前に採血2本取られた後、朝食。
どんぶり飯はいいがおかずの小鉢は刻んだ煮物だけ。あとは味噌汁とオレンジと牛乳パック。とりあえず白飯を食うおかずとしては不十分なので「ごはんですよ」で食べ始める。しかしこのところこれかふりかけのヘビーローテなので、半分食べたところでさすがに飽きてきた。途中から納豆最後の1パックを開けて、結局どんぶり飯含めて完食。納豆最高。体力つけねば。

食休みにテレビを眺めていると9時半ころレントゲンに呼ばれ、1階に降りて撮影。売店で洗剤、マウスウォッシュボトル、文春などを買う。塩の小瓶も買おうとしたら、売り切れと言われたがまだ入っていないようす。そういやLOOKチョコもずっと切らしたままだし、納豆は元々置いていなかった…。

その後昼まで週刊誌を読んだり洗濯したりなど雑用中心。
携帯に着信があったようなのでネットで調べてみたら、場所は東京都千代田区。番号通知なので詐欺とかではあるまいとかけ直すと、小学館クリエイティブのやまだ紫復刊を担当して下さった、Kさんからだった。いつも自宅の方へかかってくるのと、携帯では携帯同士のやりとりだったので会社は登録していなかっただけであった。

用件は『性悪猫』がそろそろ増刷…というお話で、そのあたりの細かい話。
こちらは金儲けではなく、やまだ紫の作品が長く後に残ることを目的としてお願いしたのだから、たとえ少部数であっても切れ目なく出し続けて貰える方が有り難い。全てお任せします、とお伝えする。Kさんは「またそちらへ伺いますから、お元気になられたら一杯やりましょう」と言って下さった。快気祝いはもちろん「明青」さんで。

昼食もほぼ完食。ご飯だけ少量残すが「ここのご飯いつも多いなあ」と思いバイタルの際に聞いてみると、看護婦さん「225gってなってますね」とのこと。多いのか少ないのかよく解らんが、多いと思ってるのだから多いのか。納豆があれば…。

その後、教授回診があって、残ったI先生と少し話す。
今日のレントゲンで、右肺に少し水が溜まっているのがどうしてかちょっと解らない、とのこと。「ま、まさかまたアレ(ドレーン)で抜くとか…」と俺が怯えると笑いながら「いや、そんなに多い量じゃないので、まあしばらく様子を見ましょう」とのことでひとまず安心。

胸腔ドレーンを刺される痛みは正直、二度と経験したくない。
個人的には骨髄穿刺よりも嫌だ。胆石も帯状疱疹もやったし切ったり貼ったりいろいろしてるが、ドレーンを刺されるのが最悪。要するに体表部付近が麻酔されているだけで、太くて鋭利なものがグイグイ進入し、肺を覆う膜をズブリと突き破るわけだ。感覚としてはまさに刃物で刺し貫かれた、というイメージ。

「それと、研修医のK君がまた別の科へ移動になりますので」とのこと。最初についてくれたH君の時も思ったが、数ヶ月で移動しつつ全ての科を見なければいけないのは大変だろう。あの間隔を置いた「几帳面なノック」ももう聞けなくなるわけか…お世話になりました。

I先生が出て行った後しばらくぼうっとしていたら、急に貧血のように眠くなり、ベッドの背を倒して3時半ころまでウトウトしてしまった。採血の結果では貧血はあっても弱い程度、以前のような目眩でもないし、何だろう。
こういう時に自分に出来ることは少ない。熱を測るがきっちり平熱。色々考えると、術前術後で肺以外で変わったことは…。
汗をほとんどかかなくなったことか。その代わり夜中にトイレに立つようになったし頻尿と言うほどではないが排尿の回数は増えたわけで、異常というわけではない。まあ素人があれこれ想像しても仕方ない。

とにかく事実として汗をかかなくなったのは確か。前の自分は逆に「病的なほど」汗をかいていた。こうしてクーラーの効いた病室におり、運動もあまりしない(というより出来ない)ので汗が出ないだけならむしろ正常である。以前のように朝起きたらパジャマもシーツもぐっしょり、普段手汗足汗が常に出ている状態が異常。

とりあえずつけ放しだったクーラーを停め、換気でもしようと窓を開けた。入り口のスライドドアも全開にし、目隠しにカーテンを引く。朝からずっと雨の後だったから蒸し暑いだろうと思っていたら、外から入ってくる風は意外に心地よかった。おそらく気温も昨日までと比べればかなり下がったのだろう。

それから談話室にある体重計へ載ってみると、61.4kg。全然増えてない、むしろ400g減っている。誤差範囲内だろうがちょっと悔しい。納豆があれば…。

5時半ころ夜担当の看護婦さんが様子を見に来て「何でドア開けているんですか?」と聞くのでこれこれこう、と説明すると納得していた。クーラーはほぼベッドの足下の上にあるので、四六時中あたり続けていることになるから汗も出ないのが普通。もっとも術前はその状態でさえ寝汗ぐっしょりだったわけだが。

ただあまり発汗がないと汗腺の調子が狂わないか、やはりたまには汗をかかないといかんとは思う。自律神経もこういう「普通と違う環境」に長く居ると多少は狂ったりもするだろう。早く回復して外で「ひー暑い」といって汗をぬぐいたいものだ。

こういうことを言うとクソ暑い中外で汗水垂らして仕事をしている人に怒られそうだけど、ある意味羨ましいとさえ思う。それは、自分にとっては「もう一生出来ないこと」だから。
健康な体と鍛えた筋肉で、体を動かして仕事をし、暑ければ汗をかき、冷たいビールで「お疲れ様」の乾杯。神保町にあった当時の青林堂の業務は、返品整理、在庫や新刊の移動、注文品の品出しや積み込みその他、肉体労働がかなりのウエイトを占めていたものだ。かつての自分が「肉体労働」の充実感を知っているから、今はそれがまぶしく、羨ましい。しかし人使いの荒い会社だったな…。

窓からの風を浴びながらそんなことを思い出していると、うっすらとパジャマ下に汗をかいてきた。なんだかんだ言っても外の気温は室内よりも高く湿度も高い。風があるのでマシながら、ちゃんと汗が出てきて一安心。
あまり長いこと外気を入れていると病棟の廊下の温度管理にはいけないかも、と考えて小一時間ほどで閉めて、クーラーを再稼働。

6時前に夕飯、例によって大量のおひたしを半分くらい残した。
食後の薬(大4錠、中1錠、小1錠)を飲むためにコップに茶を満たして、フタを閉めてベッドに渡したテーブルへ置こう…としたらフタがパカッと外れた。押してはめるタイプだがどこかが開いてたらしく、俺はフタを持つかたちで置こうとしたわけで…。
当然コップはテーブルの上に一度当たってベッドに落ちた。
慌ててPCにかかった部分をティッシュで拭き取り、USBハブなどが濡れていないか確認。とりあえず機器は無事だった、ただしシーツは寝小便のような大きな染み。とても放置しておいて乾く量ではない。シーツ交換必須だが、この時間看護婦さんたちはミーティングなのを知っているし、その後は忙しい時間に入る。
とりあえずシーツを剥がして丸め、マットを拭いて隅っこに腰掛けてしばらくテレビを眺め、30分ほど時間を潰す。すぐナースコール押せばいい話なのは解っているが、自分の粗相で忙しい中呼びつけるってのもアレだし、と。

それから廊下を小走りで通りかかった看護士に声をかけて事情を言うと、「はい、解りました」と笑顔で去って行ったが、その後誰も来ないので詰め所へ。忙しそうだが仕方がない。何とか顔見知りの看護婦さんに気付いてもらい、「手の空いた時でいいので…」とお願いして戻った。
部屋で待っていると、夜担当の看護婦さんが来て「すみません、今処置が重なってまして、もうちょっと待っていただけますか」とのこと。はいこちらこそすみません。
その後シーツ交換は7時半近くになった。何かの処置をしていたらしい看護婦さんが合間に来てくれた風情で「すみませんね、遅くなって」と笑顔で交換してくれる。いえ、お忙しいところマヌケな事態で誠に申し訳なかったと思う次第です…。
「ふつう、ベッドの上でご飯食べたりしないですからねー」と言ってくれるが、もうずっとそうだし…。ほんますんません。

とりあえずベッドに戻れて一息。…もう消灯まで2時間ちょいという時間。
吐き気ゾーンを抜け、薬の副作用はその後発現していない様子。肺の水はちょっと心配だが、順調だと思おう。

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2010-07-28(Wed)

「元の生活」

7月28日(水) 入院45日目★手術23日目

夕べは10時消灯前に歯磨きなどを終えて電気を消し、ベッドの灯りを絞ってテレビを見つつ眠くなるのを待とう…とトイレに立った時、そういえばと思い出した。この病棟には大型の体重計がないと看護婦さんに言ったら「談話室にありますよ」と聞いた。
どれだけ減ったかと恐る恐る測りに行ってみると、61.8kg。
思ったより減っていなくてホッとする。というか一番のピークはたぶん、吐き気であまり食えなかったあたりだったろう、ここしばらくはまたもりもり食えるようになったので痩せ止まりはしているはず。
ベッドに戻ってくると割合すぐ眠くなったので、そのまま寝てしまった。

夜中は夜勤の看護婦さんがそ〜っと足を忍ばせて様子を見に廻るのだが、だいたいその気配で起きる。切れ切れに寝てるうちに深く寝てしまって朝、という感じで6時起床、今日はよく寝られた方か。

8時前に朝食が来て、いつものように食べながら「ゲゲゲの女房」を見ていると、研修医のKさん。ドラマでは「自由な雑誌があってもいい」「…それじゃ儲からないじゃない」みたいなところがほとんど見られず残念…。いや嘘です。
この日の味噌汁は小ぶりの汁椀の、半分より少ない量。せめて半分までは入れて欲しい。若干薄かったが、朝の味噌汁だけが楽しみなのに。よっぽど売店でインスタント味噌汁買おうかと思うがいちいちお湯を沸かすのも面倒。
例によって2人分はあろうかという量のおひたしを半分くらい残して、あとは食べた。

仕事&休憩を繰り返して昼食。
シーフードスパゲティとやらにどんぶり飯付き。スパをおかずにと…? スパは今一つ、二つ…だったが完食。ご飯は無理だった。
午後はシャワーして仕事&休憩。

夕方I先生が来られて、世間話と治療方針の確認などをしていただく。
自分の仕事について、出版社にいて「編集」とかいうアバウトな職業、さらに副次的な今やってる作業とか、的確に説明が出来ずしどろもどろ。昔は学校で教えていたのに、脳が萎縮したか…。

まず、昨日N先生が説明してくれたように、薬の影響で肝機能が下がったりすることもあるし、この3週間の投薬治療が終わるまできっちり入院で見て行った方がいい、という方針の確認。
それと先日採血で調べていただいた「CD4」の量が、やはり危険値を下回っていたということ。詳細は生半可な知識や検索情報程度しか知らないので説明していただく。要するにその数値に関しては健常な人より少ないどころか、HIV陽性患者が免疫不全に陥ってこの肺炎に罹患する状況と同じか、数的に言えばさらに少ないという状態らしい。

「だからと言ってあまり気になさらない方がいいですよ、幸いもとの病気に変化がないようですから、今まで通りに元の生活に戻れると思います」と励ましていただいた。

今の俺にとって「元の生活」という言葉がどれほど希望の光となることか。

「CD4が少ないと、気をつけないといけない感染症、『日和見感染』と言いますが、その中でも感染すると致命的になるものは予防して、あとはこれまで通り気をつけていけば、大丈夫ですよ」ということ。
あとやはり、抗がん剤治療中でもないCLL患者がニューモシスチス肺炎で肺に穴があくタイプというのは非常に珍しく、この治療過程などもいずれ報告することになるそうだ。「もちろんプライバシーはちゃんと配慮しますが」とのこと、こちらも「いえ、お役に立てるんなら喜んで」と話す。
もし別な患者でこうした症状が出た場合、症例として俺がこれこれこういう経過で治った、とあれば参考になるだろう。

しかし俺の免疫力ボロボロか…。解ってはいたし考えると憂鬱になりかけるが、先生の話でまた気持ちを立て直そう。「元の生活」に戻るために。
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2010-07-27(Tue)

肺炎完治まで入院で…

7月27日(火) 入院44日目★手術22日目

朝方4時前にトイレで起きてから、6時過ぎまで寝られずごろごろ。ウトウトしたと思ったら朝のバイタルで起こされたのが7時前。このところ睡眠時間は正味5〜6時間というところか。
部屋のエアコンはずっと26度設定。これだと朝方小寒くなったりすることもあるが、27度に1度上げただけで汗が出るほど弱くなる。その「1度の差」って何なのか不明。

昨日打たれたツベルクリン注射は盛り上がりも少なくなって、やや薄赤いだけ。かゆみすらない。BCGを打ったのはもう40年近く前の話。今回の入院でも確か結核菌はもうとっくに調べて貰い、陰性だった。これも退院するための色々な用意のためかも知らん、例えば予防的にいくつかの抗生物質を飲まねばならないと思うが、それらの選択とか。

8時前に朝食。
ご飯に変えてから毎朝味噌汁がつくのが嬉しい。全体に病院食は薄味だが、味噌汁は出汁がしっかりきいていてうまい。この病院の食事で一番うまいと言ってもいい。いや一番うまい。ただ量が少なく、大きめのおたまで軽く1杯ポチャッと入れた感じ。大ぶりの汁椀にたっぷり欲しいくらい。
8時から朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」を見ていたら、水木さんの奥さんがアシスタントに鍋で味噌汁を出すシーンがあり、こちらも味噌汁をすすっていたのでシンクロに笑う。おかずは練り物といんげんの煮物というご飯の友としては微妙な感じ。「ごはんですよ」にはお世話になりっぱなしです。

9時半過ぎ、「明青」のおかあさんが来てくれた。
「お財布忘れてきてタクシー待たせてるから」といって、フルーツゼリーを3つ冷蔵庫へ入れてくれ、俺がベッドから降りようとすると「ネコちゃんも変わりないし、気にせんと!」と言って手を振ってすぐ帰られてしまった。ああ、すんませんすんませんほんますんません。

何度も何度も繰り返し思うけれども、自分と連れ合いは京都に骨を埋める覚悟で東京を引き払って越してきた。じっくり時間をとってそれなりの手段をとれば、お金になるようなものも、夫婦揃って病人では引越自体が大仕事なので、たくさん捨てた。出来るだけ身軽にして、親戚も誰も知り合いのいない地に移り住んだ。
楽しい暮らしも連れ合いがアッという間に斃れ、自分の病気も進行こそ緩慢なものの、真綿で首を絞めるようにじわじわと帯状疱疹や肺炎が襲ってくる。
そんな中で、連れ合いと二人でお邪魔するようになったお店のご夫婦が、「他人」のためにしょっちゅう猫の世話、ポストの整理をして下さってもう44日になるのだ。
こんな非常識なこと、とても許されることではないと思う。早く終わらせたいと思う。でもそれにはこの肺炎を何とかしなければならない。もどかしい。

自分もどれだけ痩せたか不明で、実は体重を測るのを躊躇している。腕時計も廻るようになってしまったし、結婚指輪も捻らなくてもスポッと抜ける。こんな状態で肺炎抱えてふらふら社会に出られるわけがない。
体力がついたらお店へ伺ってお礼をしなきゃ。まずは治す、治る!


その後看護婦さんに「ケツナイ(血液内科)に呼ばれましたから、11時5分のバスで」と言われる。これは元々外来の診察日だった予定。8週間前、まさか次の診察日に入院中とは思わなかった。
バスは5分ほど遅れて来て、車椅子や患者を積んで出発。今日も日差しが強い。
外来棟正面玄関から入ってくると、何だか外来に普通に行くような気になって足が速くなる。しかし今の体で、しかもマスクなのですぐに息が切れた。2階へはエレベータで上がり、受付をして診察室前で待つ。
体から贅肉が落ちたのはいいが(たぷんたぷんしたところがほぼ無くなった)、筋力も衰えているので、単に弱い人(笑)。その上肺をやられているんだから、俺の弱さハンパねえ…と思いつつ、隣でイチャイチャする若いカップルをチラ見。
彼氏「ごほっごほっ」
彼女「ンだいじょぉぅぶぅぅ〜ン?」さすさすさす(背中)
彼氏「だいじょうぶだよ」にやにや
彼女「ほぉんとぉう〜?」上目遣い

前の人が出て行くとすぐI先生が顔を出して呼び入れてくれ、診察室へ。
I先生も俺も、とりあえずお互い「いやしかし、驚きましたねえ」。
ここで何度も既出の通り、リンパ性の腫瘤だと思ったものが胸腺腫だったこと、しかもステージ?bで全摘できたこと、肺の中の嚢胞がいわゆるブラではなくニューモシスチス肺炎の特異的な例だったこと。
「HIV陰性でニューモシスチスにかかってしかも穴開けタイプというのは珍しいそうです」と話すと「そうですね、まあ免疫がそこまで落ちているということですね」とのこと。
こちらの最大の懸念「それで、元の病気が動いているということはないでしょうか」と聞くと「それは今のところないようですね」と採血の細かいデータを表示させつつ、確認。こちらもホッとした。
今の自分に一番怖いのは日和見感染か。
1000代半ば前後をうろうろしてた白血球数がなぜかここしばらく2500前後と上がってきているが、とりあえず今のところそれ以上増え続けてはいない。血小板数も一時かなり落ち込んだのが、12万前後に落ち着いている。それらが正常かどうかの保証はないが。

「今現在の状態としてはいかがですか?」と言われるので「おかげさまで手術以降咳も減ったし、血痰も今では古い血の残りが出るだけになって回数も減りました。肺炎の薬、バクトラミンを飲み始めてからははっきり減ってきています」と話す。
先生は「ああ、バクトラミンですね」と言われるので「あれを1日12錠飲んでます」と言うと「大変ですね」と言われる。体重60kg以上の人は12錠を3回つまり1回4錠、あのデカい錠剤を飲み下さねばならない。しかもすりつぶしたり割ったりしてはいけない薬=胃でゆっくり溶かし吸収すべき薬なので、そのままで。最初4つ全部いっぺんについグワッと飲んだら、喉に詰まりそうになった。それからは最高2錠と他の小さい錠剤1つ程度に気をつけている。

とにかく、こんな肺炎を発症したのは免疫がそこまで低下しているから。
免疫が低下しているのは、白血病のせい。
その白血病は今のところ、それ以上のことはせず大人しくしている。
ハンパな血球をガンガン作り出すこともせず、ただ人の免疫を低下させた状態に保っているだけ。
なのでこちらとしてはとにかくあらゆる感染症に注意し、何かあればその都度対処療法で行くしかない。左肺に穴が開いたら、また手術だ。

次は「6週間後くらいにしておきましょう」というので9月7日に予約を入れてもらった。
帰りは地下のローソンへ。11時半を過ぎたあたりで昼飯を買う客でけっこう混んでいる。不織布マスクの鼻の部分をキュッとつまんで鼻に密着させ、顎下までキッチリ覆う。これでウィルスは防げないし衣服や髪にも付着する、けれど直接吸うよりはマシだしその他のいらんもん・特に悪臭も多少和らぐ。
とにかくこういう病気になると、そして特に入院し防疫に気をつけていると、臭いに敏感になっている。人様の臭いに文句を言う筋合いではなく、それら一つ一つの臭気にこちらが鋭敏になっている、ということ。なのでもちろん(他の人もそうであるように)「ウッ」と思っても平静にしているが、中には同じエレベータに乗っていると吐き気を催すほど地獄のような臭気の人も居るので、そういう意味でもマスクは必須。

結局買い物はチルドカップのコーヒーだけ…と思って棚を眺めていたら、納豆発見! 「超小粒・おかめ納豆」。しかし4連…。ミニカップ3つパックとかでいいんだけど…としばらく逡巡した挙げ句、結局買ってしまった。何しろご飯のおかずが薄味ばかりなので、のり佃煮やふりかけのヘビーローテーションもいい加減飽きる。白ネギは売ってないしあっても刻む手段もないが、納豆は嬉しい。匂いだけが問題だが…。

正面玄関にゆっくり歩いて行くと、ちょうどバスが着いたところ。運良くすぐに乗れた。しかしそこから南病棟へ廻るとどんどん患者が増え、結局超満員。
この乗り降り、待ち時間がけっこう長く、久々に歩いたこともあって少し疲れた。
病室に戻ると12時10分。
ご飯が置いてあったのでさっそく納豆パックを開けてかきまぜる。からしと醤油だけだが、久しぶりなのでもの凄くうまい。思わず納豆だけでご飯を三分の一以上食べてしまい、もう1パック開けた。4連パックで正解だったんすか…。
気がつくとおかずのサバの塩焼きなどに手をつけていなかった。しかしご飯はもう残り少なく、結局少し残してしまうというマヌケぶり。白飯に納豆で、どんぶり一杯完食。

午後は主に仕事。時々逃避&休憩。逃避といってもツイッターで知り合いとやりとりしたり、ぼーっと外を眺めたり、まあこの記録を詳細につけるのも、自己相対化デアル! と言いつつ逃避ではある。ぼーっとしてる方が多いかも。

夕飯はビーフシチュー、というより和風ハヤシライスのような味。おひたしとご飯を少し残した。ていうか今の自分にはご飯の量、多すぎると思う…。昨日納豆飯でどんぶり一杯完食したら他のものほとんど入らなくなったし。

食後しばらくテレビでニュースを見ていると服薬の確認。その時「もう吐き気止めは飲んでないですね」と言われたが、一応「お守りに」引き上げないようにして貰う。それから間を置かず、ちょっと腹が苦しくなったせいか、弱い吐き気が来たが我慢。食う前ならともかく食った後、薬も飲んだ後に吐きたくない。

その後夜も仕事→休憩を繰り返しつついると、N先生が来て、俺の肺炎について色々各方面とも話し合った結果、「やはり3週間、きっちり入院された方がいいということになったんですが」とのこと。

退院フラグ消えたか…。
今で10日ほどだから、あと10日…。
「明青」さん、すみません…。

文献によれば、同じ慢性血液腫瘍・CLL、かつ非HIV感染者でニューモシスチス(旧カリニ)肺炎になった例は非常に珍しいが、あったという。ただそれは治療中に骨髄抑制が出た状態での話で、俺のような無治療の状態で感染というのはそれこそ「報告レベル」(学会?)だそうだ。本当に珍しいづくしである。
血液の詳しい検査によって、この肺炎に対する免疫も落ちていることが判明したというし、とりあえず規定のバクトラミン服用期間=一日12錠を3週間、肺のレントゲンやCT、喀痰などで回復を見ながら入院で治療した方が安全でしょう、ということ。

もともと「はよ出せ」などと無理や我が儘を言うつもりはなかったし、怖いのはこの肺炎だけじゃない。結核、カビ類、世の中は普通の人なら何でもないが免疫の落ちた人には殺人的な、弱い者には徹底的に強い菌がうようよしている。
そこへ肺炎が完治していない状況で戻り、ただでさえ弱っている体にこれ以上余計なものが入ったらそれこそ命の危機に直結だ。なのでこの肺炎をきっちり治して、お墨付きを貰ってから出た方が自分も安心です、と話す。
免疫抑制中の人に、予防的にこの肺炎の薬や結核菌を殺す薬を飲ませることも多いそうなので、N先生は「そういうことも考えた方がいいかも知れませんね」とのこと。

しかし報告レベルとは俺もどこまで珍品なんだか。
N先生が「入院もここまで長くなると、ちょっとしんどいでしょうけど…」と言うので「でももし気胸にならなかったらカリニじゃないか調べる、なんてことにはならなかったですし」と話す。
通常の人よりも細かい、血液腫瘍の患者の検査項目にさえない、特定の1種類の病気の存在を名指しで「血中の成分を細かく調べてくれ」と言える人は超能力者だろう。
俺が当初咳が出たのを「喉風邪か」と思い、風邪薬を飲み、検温では微熱もなかったので「長いなあ」、痰が出始めたので「しつこいなあ」、血が混じりだしたので「咳をしているうちにどっか切れたか、血が止まりにくいしなあ」…で済ませていたら。
胸腺腫もステージ?bで全摘出来たのも、肺炎で肺に穴が開いてたことも知らず、手遅れになっていた可能性もある。N先生も「実際白取さんの場合はそういう場合(風邪を引きやすい、長引きやすい、血が止まりにくい)も考えられますからね」というし、要はこういう「流れ」なのでそれをねじ曲げて「家に帰せ」などとはとても言えない。言えるはずがない。

あと十日ほど、渡辺さんすみません。こちらも頑張って肺炎をやっつけてから、体力つけてお礼に伺いますので!
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2010-07-26(Mon)

ミステリーサークル

7月26日(月) 入院43日目★手術21日目

夜中の3時前に目が覚め、トイレに立つと下剤効果か、ようやく出た。すっきり、というよりホッとした。普通に便が出たぐらいでホッとしなきゃいけないのが情けない。でも「普通」が有り難い。
その後は寝たり醒めたりで6時前に起床。採血待ちの間、仕事のデータをDL。
洗顔の時あまり痰が出なかったと思っていたら、ベッドに戻り7時前のバイタルで看護士が来た時にごろごろして古い血の茶色い血痰が出た。しかしまあよくいつまでも出ること。ただ回数、量は確実に減ってきている。

朝食前採血。
8時朝食はほぼ完食。
睡眠が取れ便通があり吐き気がなく食事が普通に摂れる、これも「普通」の素晴らしさだ…としみぢみしていたらN先生が様子を見に来てくれる。

熱もないし発疹も出ていない、吐き気も止まったということを報告すると「咳が始まってから来院されて今まで、咳の感じってどうですか」と言われて「ええと5月の頭くらいから…」と説明しかけるとN先生はポケットから紙とボールペンを取り出し、線を2本クロスさせるように引いた。
「x軸を時間、y軸を症状の強弱とするとどんな感じですか」と聞きながら書こうという様子、こちらが書きましょうということで、グラフを咳、痰、血痰と順に書き込んでいく。

咳は5月あたまにはすでにあった。徐々に頻発するようになり、ピークは手術直前。まさしく手術室に入る直前は、歩きながらひっきりなしに咳が出て会話もままならなかった。
痰は5月中旬から出始めて、末には血痰になった。普通ならこの時点で病院へ行くだろうが、熱が無いので「喉風邪」が続いてどっか切れたのだろうぐらいに思っていた。

6月中旬、夜中に激しく咳き込んで肺が破れた。即入院。
胸腔ドレーンで気胸状態からは回復したものの、咳と同様血痰も手術直前まで続いた。

7月7日の手術後が当然血痰のピークで、なだらかに下がって来ている。
特に肺炎治療薬を飲み出して以降、今現在は回数も激減し、色も古い血が排出されている茶色いものがほとんど。咳の回数も同様に激減。3つのグラフはいずれも入院前よりも低いところに向かって下がるカーブが収束するかたち。

「薬にも体が慣れてきたようで、順調ですね」とのこと。
その説明のあと、投薬が始まってからしばらく続いた副作用の「吐き気」は収まり食事が摂れるようになったら、今度は動かないことで便通が悪くなった…と話す。
心配されていた副作用は発熱や発疹や肝機能障害なのだが、それらが出る兆候は今のところ全くない。「このまま行けそうですね」とのこと。週一でレントゲンと採血をし、その間薬を飲むだけなら家でも出来るので、帰り際に「退院も視野に入れてちょっと考えてみますわ」と言われた。実際は「退院」という言葉がよく聞き取れなかったのだが、そう聞こえた。

家に居れば今度は食事の支度やらネコの世話やら、家の中だけとはいえ立ち歩く回数は格段に増える。マスクをしてそろりそろりと買い物にも行かねばならないが、そのことが逆に腸の動きを正常化させるだろうから、便通にもいい。かえって治る近道になるかも知れない。
昨日夜勤の看護婦さんが「入院も40日超えると精神的にねえ」という愚痴を聞いてくれたが、その時に「自分は『とにかく帰りたい』『早く退院させろ』的なことは逆に言うつもりもないし、そんな我が儘を言える状態じゃないと思ってます」と話した。
ひょっとしたらそういうことも実は医師にちゃんと伝えられているのだろうか、それでN先生が今日のレントゲンと採血の結果を見て、もう少し様子を見て良ければ…と判断されたのかも知れない。

とにかく医師のお墨付きが出なければ退院できないし、それを我が儘言って早めるつもりはない。無理を言って退院させて貰い、結果すぐ舞い戻るのではいつもネコの世話をして下さっている「明青」の渡辺さんに申し訳がなさすぎる。
食って、出して、歩いて、治す。白血病はちょっと静かにしといてくれ。ていうかこの免疫力低下がおまえの仕業か。

その後胸部レントゲン。ついでに下の売店でメントスとお茶を買う。
ぜいぜい言いながら片肺潰れた状態で入院支度してドレーンぶすりとやられてから今日で43日目…。色々とイタい。イタすぎる。実際あちこち痛かったし…。
黙々と仕事をしていると目、肩、腰がシバシバビキバキになってきたので昼前に休憩。

昼食は12時きっかりに来た。
今日は土用の丑の日で、メニューの紙には「ひつまぶし」と書いてある。フタを開けると刻んだうなぎの身があるが、これを全体に「まぶす」とうなぎの味が絶対に無くなると思うので、混ぜずにうなぎ&ご飯で食べてあとは「ごはんですよ」の登場。
「揚げだし豆腐」のフタを開けたら揚げた豆腐が2片並んでいる。ダシ汁は…? まさかのかけ忘れ? 試しにかじってみると無味。よく見ると醤油の小袋がついている。そういうことか。でもこれじゃ揚げ醤油豆腐だな…と思いつつ醤油をかけたが今一つ。

にしても、嘔吐感も便秘による不快感もなく、普通にメシが食えるというのは有り難いことだと思い直して完食。厳密には「大根とにんじんの紅白なます」は連れ合いの好物だったので食事中は写真の前に供えたあと、一口だけ食べた。

その後は定期とは別件の仕事をしていると看護婦さんがバイタルに来る。
「お風呂入られました?」と言われて「忘れてた!」と時計を見たらあと15分で3時。3時からは掃除になってしまう。ベッドから降りて「今からで大丈夫ですかね」と聞くと「5分くらい伸びても…」と答えられたが、大丈夫かどうかは俺次第で、それを聞かれても困るだろうな、と思った。さらにその場でパジャマの結び目をほどこうとして「あっここで脱いでどうする」と自分で突っ込んで笑われる。いかん、アタフタしている。
替えのパジャマが無いと言うと「すぐ持って来ます、その間に支度しておいて下さいね」と言われて準備をし、風呂場へ。
何とか急いで洗髪、全身洗って部屋に戻ると3時ちょうどだった。
その後しばらく掃除が来る気配がなく、あんなにアタフタせんでも良かったようだ。


夕飯を挟んでずっと仕事。
ただでさえ全く出来ない日もあった上、定期でないものが重なって立て込んでいるが、これはやらねばならないこと。
夕飯は青梗菜のおひたしを半分とご飯を3割ほど残した。(ここはおひたしの量がいつも異常に多いと思う)
バイタルで担当のOさんが「先生来られました? 何か退院のこと言わはりましたか」と聞かれたので、はっきりとは言われなかったけど、考える…みたいなニュアンスだったと答える。
「じゃあ明日先生に会ったら何日くらいか、目安ぐらい聞いときましょか?」と言われたので、「いや急かすようなことを言うつもりはないので、世間話くらいで軽く聞いてください」とお願いすると笑われた。

この間別な看護婦さんにも「ほんまに気ぃ使わはる人ですね」と言われたが、前はそうでもなかったと話す。「怒らはるんですか、想像つきませんね」と言われて5月までの自分を思い出すと少し恥ずかしい。人生って恥を重ねて重ねて、後悔して後悔しての繰り返し。ただもう、これからは体と精神の安寧だけが願いだけど。

食休みの後もずっとPCに向かっていたら、8時過ぎになってN先生とKさんが入ってきた。研修医のK先生の手には注射針とアルコール綿。
「免疫の状態を調べるために、ツベルクリン反応を見ます」とのこと。
皮下注射といって、皮膚の下に少量の液を入れて48時間後にその反応を見るということだが、全部入ったら直径8mmくらいの「円墳」が出来上がった。N先生が「かゆくなるかも知れませんが、なるべく掻かないようにしてください」と言って油性マジックでその円墳の東西南北にチョンチョン、とマーキングをしていった。
ミステリーサークルみたい。

ひょっとしたら「退院させてもいい状態かどうか」の判断基準の一つかも知れない。だといいのだが。
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2010-07-25(Sun)

日にち薬

7月25日(日) 入院42日目★手術20日目

ゆうべはメンチカツの油で気持ち悪くなるという情けないことになったが、8時前になってようやく少し楽になったので、この記録を元にブログを更新(…といっても整形するだけで、気持ちが悪いのが少し治ってから追加)した。
実はその間にまた気持ち悪くなった。
入院中に使用しているのはUMPCで、A5サイズのもの。非力だけどネットとメールが出来て、エクセルやワードなどを入れて作業が出来れば最低限仕事に穴があかないようにしてあるもの。これの画面が細かい。気持ちの悪い時に見ると目眩に似た感覚に陥る。
更新したらさっさとスタンバイにして、またぐったり。

その後小一時間ほどでようやく落ち着いてきたが、まったく何もしなかった。ただじっと仰向けにベッド上に居るだけ。最近は10時半〜11時くらいに導眠剤を飲み、いざ消灯して寝ようとすると色々な考え、思いがぐるぐると頭の中を行き交ってしばらく悶々としてしまう。
寝られたのは12時前後だったか。

朝は4時ころクーラーが寒くて目が覚めた。リモコンを持って1℃設定温度を上げて、再び寝る。それから1時間ほどしてまた寒くて目が覚めた。よくよく見ると1℃下がっていたので、慌てて2℃上げる。この病室にもすっかり慣れているはずなのに、リモコンのボタン配置までは憶えていなかった。

その後少しだけ寝ようとしたがもう目が覚めてしまったので、起きて洗顔など済ませる。今朝も薬のおかげで胃酸過多はないようだ。したがって吐き気も小さい。げええと毎朝やらずに済む=食事が摂れるのは、今の自分にはとても有り難い。
ベッドに戻ってからしばらくすると血痰。少し赤も混じっていたがほとんどが茶色の古い血が出てきたもの。寝ている間に溜まったものが起きたら上がって来るのか、痰は朝の寝起きが一番多い。「体を動かすと出ますよ」と外科でも内科でもよく言われるけど、本当だ。もっと自由に動いたり歩ければいいんだけど。

外は綺麗な青空、そして朝から蝉時雨。
テレビをつけてごろりとして眺める。夕べ更新時にPCの画面を見ていて気持ち悪くなったことを思い出し、この朝のゾーンは念のため見ないでおこうと思った次第。
MBS「カラダのキモチ」は「膵臓」。

膵臓は連れ合いのさまざまな病気に苦しむことになったきっかけの臓器で、胃の裏側に細長くあり、炎症を起こすと体を折り曲げて激しく痛がる。連れ合いもそうだったように、胃痛や胃炎と誤診されることもある。この上膵炎なんかになったら地獄だなーと思いつつ見る。

番組ではごはん=炭水化物、牛肉=タンパク質、脂身=脂質で「消化液対決」。三大栄養素の消化酵素を含む膵液の圧倒的勝利であった。
膵液の自己消化は恐ろしく、番組でも紹介していたが膵炎になるとそれはそれはひどい激痛を伴うというが、連れも最後はモルヒネすら効かなかったのを思い出す。思えばあの誤診が全ての始まりだったな、と思い出した。

その後は「がっちりマンデー」「サンデーモーニング」をだらだらと眺める。
その間8時前の朝食はパックの牛乳以外ほぼ完食。牛乳は単に毎朝飲んでいると飽きてきただけで、代わりに(?)買ってあったグレープ100%のジュースを飲んだ。
昨日油モノで気持ちが悪くなったこともあり、ひょっとしたら来るかな…と思っていたが普通にご飯が食べられて、ホッとする。こんなことでホッとするとは。

その後シャワーを浴びる。風呂の鏡で改めて見ると、半年ほど前に比べるとかなり肉が落ちた。贅肉が落ちたことで引き締まったと前向きに考えよう…。ただ筋肉も衰えているのでリハビリが必要だが。

昼はチンジャオロースー。ちょっと味見をして醤油を少し足してしまいましたすんません! チンジャオは時々自分で作るほど好きだったので、完食。何しろご飯を食べないと点滴されてしまうので(そう言われている)、吐き気さえ無くなれば無問題。
食後は少し膨満感があり、テレビ画面をぼーっと眺める。せっかく食べたものも身になってくれないと…と思っているうちにウトウトしてしまい、ハッとしたところで「気胸の先輩」看護士が食後の薬チェックに来て、慌てて飲んだ。

その後は本当に寝てしまった。日曜は検査もないし人も少なく、定時のバイタルや薬チェックくらい。しかも昨日の一瞬の雷雨が無かったかのような青空に白い雲。テレビも消して眺めていると眠くなる。

今日はツイッターで急性骨髄性白血病で入院治療中の方に励まされた。絶対に家に戻る! という自転車好きの方で、非常にポジティブなポストが多い。なるほどなあ、マイナス思考は一番いけない。前向きに、前向きに。お互い頑張りましょう。

2時くらいまで寝たり醒めたりで、夜寝られなくなると思いPCで音楽を聴きながら目を閉じているとノックの音。コンッ、コンッ。という強めの「これぞノック」という几帳面な音。いつもメモ帳に患者の言ったことをメモしながら問診をする研修医Kさんの几帳面さが出ている。変わったことはないかということと、呼吸音、ドレーン痕のチェック。

朝もそうだが、ベッドに長く寝ていた後の寝起きには血痰が上がってくる。半身を起こしたらとたんに喉がごろごろ言い出したのには参った。1回ではたいてい治まらず7〜8回は咳き込み痰を切るので、その都度右肺がズキンと痛み、消耗。この「ワンクール」が今日は4時頃から長く続き、廊下を通った看護婦さんが「大丈夫ですか?」と入ってきたほど。
汚い表現だけど本当は「ガァー〜ッ、ペッ!!」と勢い良く出したいが、肺に穴が開きそうで怖い。何度も咳き込む要領でちょっとずつ出す感じ。何で肺に穴が開くことをこれほど恐れなけりゃならんかね。

夜担当の看護婦さんが様子を見に来た時にはほぼ治まっていた。40分くらいの間ずっとそんな感じだったので体力を消耗。それでもお茶がないのでエレベータで1階へ下りて自販機で何本かペットボトルを買って戻った。あまり立ち歩かないから足が萎えないか気になる。ベッドの上で縁を使って屈伸したり、痛くない範囲で気をつけよう。

昨日の昼から便通がないので、下腹が張って苦しい。夕飯は6割ほどでもう一杯。
その後薬チェックに来た看護婦さんと「吐き気が治まったら便秘で苦しいとか、なかなかうまく行きませんねえ」と話す。本当に調子がいいのは一瞬だった。このまま夜まで出ないようなら、腸の音を聞いた上で下剤を出して貰うことにした。
これも原因は脾臓が腫れて臓器を圧迫しているから…もあるが、やはり歩かないからということも大きいと思う。ベッドから降りて立ってあちこち歩き回ればいいのは解っているんだけど、病棟の短い廊下をうろうろするのも何だし、外は猛暑だ。そもそも立ち歩くと咳と痰が出るので難しい。結局寝てるしかないという状況に変わりなし。

実際投薬治療されているけど、日にち薬で薄皮を剥ぐように少〜しずつ快方へは向かっていると思う。いや向かっている。

8時過ぎ、若干楽になった感じがしたので日記を一気に更新。今日もこんな感じで申し訳ないです。「明青」さんはじめ皆さんに感謝。
普通に息が出来る、深呼吸もくしゃみも思い切り躊躇なく出来るとか、吐き気もなく食事が摂れるとか、食べたら普通に出るモノが出るとか、両手をいっぱいに広げて伸びをするとか、要するに「普通のこと」が出来なくなったり、重なると常にモヤモヤした感じ。
基礎疾患の白血病は気力で進行を抑えこんどいて、まずこの状態を何とかしたい。治りたい。治る。
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2010-07-24(Sat)

気胸の「先輩」

7月24日(土) 入院41日目 手術19日目

ゆうべは本を読んでいるうちに(何の本かはとてもつまらなかったので書かない)11時過ぎには眠くなり、灯りを落としてから目が冴えるという状況でしばらく寝られず。
考えると色々と悪い方向にしか向かわない。
健康な頃は色々と意欲もあったし、言いたいことを言って笑い合う連れ合いもいた。「もう、いいや…」という気持ちと「いや、駄目だ!」、「そろそろ面倒くさい」という気持ちと「絶対に生きる!」という気持ちとが交互に浮かぶ。と、言うより弱音をその都度否定して、何とか前向きにと立て直す。


12時過ぎには寝られたか、今朝は5時に目が覚め、6時過ぎまでとろとろ。
トイレから戻って朝の洗顔・歯磨き時、嘔吐感が来ない。夕べからパリエットが2錠つまり倍になったのが効いたのか。ちょっとムカムカ感はあるが、吐かずに済んだ。
その時にフと鏡を見ると、おでこにブツブツがあるような気がする。指の腹でなでてみても、細かい凹凸が感じられる。これは薬の副作用の発疹だろうか。

自分はリンパ系血液疾患も免疫力低下にしろ、今にして思えばなるべくしてなったというか、元々デキモノ体質で皮膚が非常に弱く、雑菌に感染しては嚢胞を作ったり、顔には十代からにきびが出来て二十代半ばまで悩まされてきた。
その嚢胞というのは体の中ではなく首の後ろ、多くは耳の後ろやぼんのくぼ周辺がほとんどで、ひどい時には直径3cmほどに膨らみ、ひどく激痛を伴った。たいてい痛みが薄れ、ぶよぶよしてくると「破れ時」で、あらかじめ多めのガーゼを充てておく。次の朝起きると破けており、大量の血膿が出ている…という状態で、そういう朝は出勤前に必ずシャワーで洗い、消毒してガーゼを充てるなどの手当をせねばならなかった。

そんな因果な体質は「ガロ」勤務時代・つまりやまだ紫と暮らし始めてからも続いた。
彼女は「にきびなら普通だけどこんなデキモノが頻繁に出来るなんて見たことない」と驚いており(当然)、一度病院で検査した方がいいと言ってくれた。
デキモノが痛い時に一緒に行った近くの比較的大きな病院で一通りの検査を受けたが、正体も原因もモヤモヤした感じだったと思う。雑菌に感染しやすく、こういうモノが出来やすい体質だとか、何とか。ついでにその時は採血結果その他で、何ら異常は見つからなかった。
今思えば大学病院などを紹介して貰い、例えば血膿の成分を調べて貰うとか、何かもっとアクションを起こしておくべきだったかとも思う。でも「異常なし」という結果は「体質なんだ」という納得を産み「じゃあしょうがない」という諦めに至った。
三十代に入るとさすがにこうしたものは減っていったが、にきび痕のあばた面は変わることもなく、母親は数年ぶりに会うたび俺の顔を見て「あんたはこんなにみっともない顔だったか」と不愉快なことを言ったものである。

さて来歴が長くなったが自分の場合、額つまりおでこは綺麗なものだった。にきびが出来ていたのは眉の線から下、顎の線から上、従って唯一綺麗だったのが額だったのに、この朝見ると細かいブツブツが出来ている気がする。うーん…気になるがいわゆる副作用と言って想像するはっきりとした赤い発疹ではない。単に劣化しただけかも知らん。

朝のNHKニュースを見ていたら、女性アナが「芝生の上が33.6℃の日、アスファルトの上は150cmの女性の顔の位置で38.6℃、ベビーカーの赤ちゃんの位置で41.2℃」だと実測値を説明していた。もう百葉箱の中が33.6℃って言われても無意味なのは知っているが、そろそろ本当に「路上気温は新宿で42℃、梅田で44℃…」とか言ってもいいような気がする。あと風の有無・強弱と併せて体感気温とか。大変か。

今日は朝の嘔吐もなく吐き気止めもよく効いているようで、午前中は平穏無事。洗濯もした。

その後また外のマーチングバンド&木魚がやかましく繰り返し出した。うるさいのでイヤホンで音楽聴きつつ仕事をしていたら、若い看護士君が来たので「あれ何ですかね」と聞いてみた。
「ああ、向かいの天理教で子どもさんが練習してますわ」とのこと…。看護士は立っているから普通に天理教教会の庭で練習しているのが見えるのだけど、俺はベッド上からだったので見えなかったわけだ。
昨日窓際へ寄った時にどこから聞こえるのかと見回した時は、教会の大屋根に隠れた方へ行進が進んでいたようで、死角に入ってたのだった。

バイタルのあと、ドレーン抜管・縫合痕を見てもらうと「もうカサブタになってるから何も貼らなくていいと思います」とのこと。ただ一応別な人にも確認して貰うというので一度出て行き、もう一人を待つ間しばらく世間話。
聞くとその看護士も実は気胸経験者で、さらに聞くと18から7年間で7度も再発したという。つまり気胸に関しては俺よりも大先輩であった。しかも両方の肺を手術したというから驚いた。

これまで調べたり先生に聞いたりしたところによれば、通常気胸は最初に発症した時(程度にもよるが)胸腔ドレーンを入れて漏れた空気を抜き、肺が自然に膨らんで穴が塞がれば様子見で退院ということも多い。いきなり手術したいと言う人はそう居ない。けれど実は最初に出たら思い切って胸腔鏡で手術をし、肺を癒着というかコーティングというか、再発防止の処置をした方がいいと言われているそうだ。

しかしそれでもこの看護士は再発したし、その上左右両方を手術したというから驚きだ。あの痛いドレーンを何度も挿したのかと想像すると、それだけでこちらの顔も曇る。
最後になったのは1年〜1年半ほど前というので、そんなに近いのかとさらに驚いた。驚いてばっかりだ。ちなみに手術をした後の再発率は20%程度とのことだが、それを防ぐために早めの手術を選択したのに、その後何度も再発するなんて、むごい…。

ただ、自分の場合は免疫力低下によって感染した「肺炎」が先、その原因菌であるニューモシスチスが作ったいくつもの嚢胞というか穴の一つが、肺の袋を一緒に破いたので起きたわけだ。HIV陰性でエイズ発症もしていない人のこのタイプの肺炎、しかも穴を作るタイプは非常に珍しい、と医師に言われた。T細胞性で慢性でリンパ性の白血病というのも日本人には少なく珍しいそうなので「珍しいつながり」か?

では気胸が起きる前に病院へ行っていたらどうなっていたかというと、肺の中のモノの組織検査まではおそらくお願いしなかったろうな、と思う。それに当然5年前の告知時点からずっとあった縦隔の腫瘍も「胸腺腫」だとは判らず、放置されていただろう。
つまり「肺に穴が開いたおかげ」で、「手術しなければいけない状況」へと流れていったということ。
この肺炎を治せば肺の中の穴がどうなるのかはよく解らないが、とりあえず気胸の再発リスクより優先して治さねばならないことだけは確かだなあ。ご迷惑をかけっぱなしの「明青」の渡辺さんご夫妻にも恩返しをしなければ。

心配事はたくさんあるが、まず治すことを最優先、生きることそのものが今の一番大きな望み。もう敵は作りたくないし、人を恨んだり憎んだり、喧嘩もしたくない。思い込みでも何でも、5月5日、連れ合いの一周忌から本当にガラッと気持ちが入れ替わった気がする。


その後来てくれた看護婦さんと一緒に抜管痕を確認、気になるようだったら絆創膏みたいなのを貼ってもいいけど、ちゃんとカサブタになって乾いているので、あとはかえって塞がない方がいい、とのこと。なのでそのままパジャマを閉じる。
このドレーンを抜いた後の傷は、もう傷そのものに痛みはほとんど無くなった。脇の下を縦に切開された縫合痕は盛り上がって、異常な感じ。皮膚を指でつまんで盛り上げたような形でくっついているので違和感ありありだが、これも痛みはほとんど無い。
痛いのは「肺の中」。
中にカメラとか色々突っ込んだり切ったり貼ったり取り出したりしたんだから、痛くてもしょうがない。まだ咳き込んだり痰を出す時に、右肺の上部に鈍痛が走る。くしゃみもそう。とにかく肺に負担がかかることは気胸の再発も怖いし、痛みもあってなるべく避けたい。深呼吸は以前のように思い切りガーッと限界まで吸える感じが失われた。徐々に治るのだといいが。

夕方5時過ぎ、病室の窓から見えている青空に白い雲…というのどかな風景に突然の雷鳴。外を見ていると、窓の右上・方角でいうと北西から灰色の雲がぐんぐんと押し寄せてきた。
雷鳴の間隔が狭まり、そのうち稲光もフラッシュする。外で子どもらがワーキャー言っているのが聞こえ、雷鳴が大きくなると看護婦さんたちの「おお!」という声も聞こえる。
一雨くれば少しは暑さも落ち着くのだろう…と思って見ていると、シャワーのような雨になった。外の子どもが「キャピー」とか言っている。閃光と雷鳴の間隔が狭まって、音も大きい。

そういえば連れ合いは雷が大好きで詩や漫画にも良く取り上げていた。
ゴロゴロッと来るとやおら立ち上がってワクワクして窓に張り付いていたな、と思い出す。立って窓際へ行き、しばらく外を眺めた。丸太町通りを京阪の駅の方へ傘も無しに走って行く人が遠くに見えたが、10秒持たずにずぶ濡れになるような降りだ。よほど急いでるのだろうか。
しばらくすると空がところどころ明るくなり、雨も弱まってきた。6時前に雨も止み、雷雨前ののどかな空に戻り、テレビに「兵庫県に雷雨注意報」の文字、そして夕飯。

夕飯前のプリンペランも飲まずに済んでいるが、この日のおかずはメンチカツの小さいのが2つ。こういう揚げ物系は大好きなのに、ちょっとしんどい感じ。何とかマカロニサラダ、茹でブロッコリなどとご飯を6分目まで食べたら、少し気持ち悪くなった。
ベッドを起こした背にもたれてぐったりしていると看護婦さんが来て、食後の薬をチェック。ついでに下膳もしてくれて、正直助かった。立ち歩くのがきつい。

その後もずっとベッドに寄りかかったまま何もできず、ただひたすらぐったり。寝てみようかと思いつつ目を閉じたり、結局7時過ぎになっても体調は変わらず。胸の中心、正中のあたりがズキンズキンとうずくように痛む。ここはデカい腫瘍があったところ。そういえば、あんなに大きな塊を摘出したあとはどうなってるのだろう。ゾッとするので想像するのをやめる。

8時前になってようやく少し楽になったので、このブログを早めに更新。正直しんどい。

・今日もいくつか励まし、お見舞いのメールや非公開希望のコメントをいただきました。ありがとうございます。
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2010-07-24(Sat)

村崎百郎さん自宅で刺され死亡

朝7時、まだまとまらない中で。

★5時過ぎに起きてネットでニュース探訪、村崎百郎刺殺事件著書で恨まれ?村崎百郎さん自宅で刺され死亡 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞))を知った。

もちろん驚いたが、記事を読む限りでは、村崎さんのあのスタイル・スタンスに対する「いわゆる言論テロ」的な犯行ではないような気がする。むしろ著書を読んだ「電波系」による事故的な事件だったと思うと、変な言い方だが、理解できそうな気がする。もちろん理解、というのは肯定ではない。

村崎さんのことは「ガロ」時代、特殊漫画家・根本敬さんの担当をしていた頃に「面白いヤツがいるんですよ」と紹介されたのが始まりだった。その後もだいたい根本さんがらみのお付き合いで、個人的な接点はあまり無かった。お二人が大好きだったのがまさしく「電波系」の人たちの奇行、言動であるのは言うまでもない。

ホンモノの狂気と薄皮一枚の境界線で、いや境界は互いに浸潤してボーダーレスになっているが世間で社会生活を営んでいる、おかしな人たち。
何度も書いているけれど、極限は時に滑稽さを産む。
「普通の人の極限」つまり「狂気の一歩手前」は、時としてとても見ている側には滑稽で、楽しい状況に映ることもある。これを面白がることは通常子どもくらいにしか許されず、普通はオトナに「しっ! 見てはいけません。笑っちゃダメ」と注意されることになるが。
まあ、こういうことを書くこと自体ヤボなのは承知しているが、「普通の感覚の人」はもやもやっとしつつこれ以上深入りしない方がいい。自分も今では足を洗った(つもり)。

村崎さんご本人は(変な言い方だが)普段、もっと豪快な方かと思っていたら意外と「ちゃんとした方」で(よく考えたら当然だ)、色んな意味で「ケンカの強そうな人だなー」という印象だったと記憶している。目が笑っていないというか。

その後「ガロ」は消滅し、村崎さんの名前はサブカル系の雑誌やネットで見かける程度で、直接のお付き合いは無くなった。順調に鬼畜なスタイルを貫いているなあ、とお見かけしていた。
唐沢俊一さんと組んだ「社会派くんがゆく!」が始まった時は少し驚いた。村崎さんに、ではなく村崎さんと唐沢さんが組んだことに、である。

ああいった「毒」を吐く論調、敢えて確信的に繰り出される反モラル的な言動は、おそらく世間一般の「普通の人」たちの反感をたいそう買ってるのだろうなあ、と思って見ていた。
先ほど書いたように、「電波系」の人たちが生み出す様々な「面白さ」(これも単に面白さと一言で説明するのは難しいが)を、根本さんたちは時に傍観者として、あるいは直接濃密な関わりをもって接し、絶妙な観察報告をする…というスタイルは長く、「幻の名盤解放同盟」の活動から本格化したと思う。
その発表の場の多くは当然ながらマイナーな媒体=エロ本やサブカル系マガジンでしかなく、あるいは「ガロ」であったりして、とにかく「世間の普通の人」の目には触れない世界のものであった。近年はそれがネットで「普通」に拡散していった。

つまり、以前、紙媒体でこういった人物たちの「監察報告」がなされていた時代は、それが「被観察者」の目に触れることはほぼ、あり得なかった。イイ顔のおっさんが「ガロ」を買い求めるということは100%あり得なかった、と言えば解りやすいか。
だが今ではネットがあり、「報告」の場も増え、当然「被観察者」の目に触れる機会も格段に増えた。確かにそれは観察者にとっては危険な状況と言えなくもない。

我々は当時よく自分たちが居る世界を「因果世界」とか「磁場」と呼んでいた。
「ガロ的因果世界」に足どころか全身をどっぷりと漬けてしまった自分は、「イイ顔」と言われればイケメンではなく即座に「幻の名盤解放同盟」の爆笑韓国ルポ「ディープ・コリア」の表紙のオヤジを思い浮かべ、大阪取材といったら普通の観光客が絶対に足を踏み入れないところばかりを巡ったり、まあそういうことになってしまった。
「ガロ者」だからしょうがない。

この「世界」を「普通」とは違うんだよヘヘンみたいに高みに立って「ちょっと違う視点の俺」みたいに斜に構えて露悪的なことを吐くのがたまに居たりするが、あんまり軽く考えないほうがいいと思う。俺なんかこんな因果な病気になっちまったほどだから(そりゃ関係ないよ、と思えば無関係。これこそ因果世界と思えばそう)。
根本さんがどこかで『「良い鬼畜」と「悪い鬼畜」がある』と語っていた気がするが、因果者の覚悟のない、あるいは自覚のない「悪い鬼畜」=単なる露悪趣味やイジメ、つまりオトナに「だめ!」と言われるとかえってツケ上がるガキのような「未熟な観察者」が増えたのも実情ではないか。ネットはそれを拡大、拡散してハードルを下げている。(だから昔の方が良かった、と言うのではない、もちろん読む側にとっては選択肢は多くても構わないが、こちらから選ぶという時にフィルタがかかるし、リテラシーがなければレベルも推し量れない。そういう部分を担っていたのが紙媒体なら編集だったりしたわけだという話)
先日の首都大東京の学生らが起こした「ドブスを守る会」事件なども、未熟な観察者=単なるガキの露悪趣味、悪ふざけの典型だろう。これは普通周りの「オトナ」が「しっ。ダメでしょ!」と止めてやるべきところだが、教員がアートだと称して煽っていたというのだから、ホトホト呆れる。


今回の事件の犯人は「著書を読んで恨みをもった」という供述をしたらしいが、「普通の人」はだからといって刺殺しに行こうとは思わない。たとえ考えても行動には移さない。
いわゆる言論テロ的なものと関連付けて報道されかかっているが、実際は彼や根本さんが大好きだった「電波系」人間にやられた、ということだろうか…。

とにかくいずれにしても一人の知り合いが亡くなった。ご冥福をお祈りする、合掌。



★追記(16時ころ)
『鬼畜な行為を奨励するような人間がいい人なわけない』というご意見もあるようだけど、俺はあくまで自分の印象を述べているわけで「ホ、ホントはいい人なんだからねっ!」などとかばい立てしているわけではない。
鬼畜な行為を奨励するような役柄を演じた俳優が実はいい人、あるいは善人役をやることもある…ということに似ているか。違うか。
ともかく因果世界に自ら進んで飛び込んだ以上、ケツは自分で拭く覚悟がいるし、リスクだって承知の上だろうし、そもそもご本人はそういうことも含めて全て「解っていた」はず。
また、『自ら進んで鬼畜系を演じていたんだから「いい人」などと追悼するな』というご意見もまっとうだと思う。読者やファン、面識の無い人なら。
実際に会った印象で「何だコイツ、鬼畜そのものだな」と思ったのならそう書くまでだし「あ、ちゃんとしたいい人なんだな」と思ったのでそう書いたまで。深読みや斜め上から見なくても、それ以上でも以下でもない。

他人をつかまえて「殺されて当然の人間」という判定が出来るような高い位置にいるわけでなし、面識のある人が刺されて殺されたら、まず哀悼の意を表するのが「普通」だと思う。

★追々記
根本敬さんが村崎を追悼するな、「頑張れ」だ、と語っていた。根本さんがそう言うのなら、そうだろう。そういえば自分は黒田さんと根本さんを通じてお会いしただけで、村崎さんのことは読者として見ていたのだから、黒田さんは「普通のいい人」、村崎さんは「鬼畜らしい最後」と言えば良いのか。
いずれにせよ自分は「ガロ」あるいはガロの因果世界から離れたから、記事を読んだ驚きだけで追悼などすべきではない、反省。
自分の背負った因果のツケを自分で払うことに精一杯だし。
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2010-07-23(Fri)

変わりなし

7月23日(金) 入院40日目★手術18日目

夕べは12時まで頑張って起きていて、予定通りバクトラミン4錠、朝の胃酸過多を抑えるパリエットという薬を飲んで寝た。
薄くて痛いマットから低反発のものに替えて貰うとやはり体が楽で、助かった。
しかし朝は3時に尿意で目が覚め、戻ってからはあまり寝られず。寝汗をかかなくなった分排尿が増えたのは確か。特に夜中に起きるなどは、ほとんどなかった。起きたらぐっしょりの寝汗の方が異常で、手術後に正常に戻った…ということなら問題ないのだが。

朝7時前、夕べ低反発マットを持って来て替えてくれたベテランの看護婦さんが「(マット)どうでした?」と来たので、「全然違いました、良かったです」と言うと納得していた。よく通販でやっているシートタイプのものを最近自宅に買ったそうで、それはすごくいいですよということ。あれってけっこう高いんじゃ…と思ったらヤフオクで安く買えたという。安眠は大事なので、ベッドやマットにはお金をかけた方が絶対にいい。特に病気になると、普通の人なら何でもないことが大変な苦痛になったりすることもある。
わが家の場合、当初夫婦の寝室に使っていた部屋が小さかったので、大きなベッドは入れられなかった。仕方なく簡易ベッドみたいなものを2つ並べたのだが、上にさらに厚さ20cmほどのマットを敷いている。

看護婦さんと話をしているうち、というより後半向こうの話を聞いてるうちにまた強い吐き気が襲ってきた。耐えきれずベッド脇のゴミ箱に吐いてしまう。看護婦さんの話を聞きながら吐くとは我ながら失礼だが、仕方がない。
今日はとうとう胃液が出た。
看護婦さんが出て行ってしまってから、ふらふらと洗面台へ行くとやはりまた嘔吐。胃液を吐くのは本当にしんどい。顔を上げると自分の顔は赤紫で目が血走り、顎が震えている。
家に居る時も朝たまに、空腹になりすぎて胃液を吐くことはあった。だがこのところ毎日毎朝こうなるというのは、やはり薬のせいだろうか。毎朝寝起きがコレじゃあ、いきなり一日のスタートから消耗し、萎える。

今日の京都はうすく霞のようにかかった雲の上に水色の空。ジジジジジと蝉が朝早くから鳴いている。今日もきっと、暑いんだろう。
それにしても、入院が長い、きつい。
最初は一週間程度、長くて十日から二週間…と思っていた入院も、今日でもう40日だ。はじめから「一ヶ月以上入院」と知っていればそれなりの準備を整え、それなりのことを終えてから入るし、他人さまへの迷惑も最小限にとどめることが出来ようが、何しろ今回はいきなり肺に穴が開いて即入院、その場で胸腔ドレーンをぶっ刺されたわけだからどうしようもない。

結局ドレーンを入れたまま検査検査で内科に3週間、外科で手術、内科に戻って肺炎の治療。もう入院は今回で最後にしたい、本当に。
最近弱音・愚痴が多くなっているのは知っているが、ここにでも書かなければ言う相手さえいない。

その後8時朝食、味噌汁と、ご飯は1割ほどしか食べられず。
昨日までの吐き気と違い、今朝は胃液を吐いたので食道が焼けるようで、どうにも入って行かない。とりあえずりんごをキープし、下膳してしまう。あまり食事が摂れないと点滴を入れられてしまうのでなるべく残したくないのだが、今朝はどうにも食べられなかった。
すると例のベテラン看護婦さんとすれ違い「食べられました?」と聞かれたのでほとんど食べられなかった、あとでチューッと吸えるタイプのゼリーでも買ってきます、と伝える。
「吸えるタイプのゼリー」は自分でとっさに思いついて名案だと思ったので、しばらくして下の売店へゼリーを買いに行った。ビタミンタイプのもの、カロリー補給のもの、あとはカップの白桃ゼリー、野菜ジュースなど。
さっそく部屋に戻ってビタミン補給のゼリーを吸う。グレープフルーツ味で、微妙。だが飲みやすい。
その後は少しうとうとするが、バイタルはともかく話声や靴音、サンダルのつっかけ音などで何だかんだで起こされる。この部屋は風呂場とトイレ+共同洗面所+洗濯機がある部屋のほぼ向かいにあるので、人がひっきりなしに通るし、立ち話なども多いのだ。
とりあえず病院の床って吸音材とかで作れないものかねえ、とボーッと天井を見上げる。

昼前の検温は36.5℃平熱。血圧正常。
昼食はカレーと軟飯。もう普通ご飯でもいいかな、と思ったがまだ吐き気が治まらないので粥よりマシと思って食べる。カレーは家庭で子供用に作るような和風味(?)の、まあまあの味。最初は順調に食べ始めたが、途中からとても苦痛になってきた。それでもご飯8割がた、カレールーは全部食べきった。
食後は新たに増えたバンコミン(右手の痺れを訴えたあとに頼んだ、神経再生に良いというメチコバールと同様の薬剤)1錠、マグミット1錠、そして肺炎用のバクトラミンのデカい錠剤4錠。薬の種類を数えたら7種類もあった。

朝食前…プリンペラン(吐き気止め)
朝食後…バクトラミン(肺炎)4、マグミット(整腸)、バンコミン(ビタミンB12製剤 末梢神経障害治療薬)、ザイロリック(尿酸値降下)

昼食前…プリンペラン(吐き気止め)
昼食後…マグミット(整腸)、バンコミン(ビタミンB12製剤)

夕飯前…プリンペラン(吐き気止め)
夕飯後…バクトラミン(肺炎)4、マグミット(整腸)、バンコミン(ビタミンB12製剤)

睡眠前…バクトラミン(肺炎)4、レンドルミン(導眠剤)2、パリエット(胃酸分泌を抑制)

と、まあざっとこれだけの薬を飲んでいる。書いててワケわかんなくなった、一瞬。
ニューモシスチス肺炎用のバクトラミンは服用してそろそろ一週間、副作用が最も現れやすい時期になってきた。発熱や発疹、肝機能障害などが主なものらしいが、今のところは大丈夫のようす。ただ吐き気だけは早くから出始めたので、往生している。

午後は特に何も無く、研修医や医師や看護婦が出入りし、シャワーを浴び、買って来た週刊誌を読み、仕事もする。
それにしても延々と窓の外から「ポクポクポク」と木魚みたいな音でずーっとリズムを刻み、マーチングバンドが練習している曲が聞こえて来るのには参った。そんな難しい曲ではないので、曲そのものの練習ではなく、何らかのパフォーマンスのためだろう。これが耳について困る。
ちなみに「ポクポク」音はおそらく指導者だと思われ、5時を過ぎた頃に音が消えた。バンドのマーチだけは5時半過ぎまで繰り返された。どんだけ熱心なんだ。

夕方は空腹になっても吐き気が来ず、ひょっとしたらプリンペランを飲まずとも行けるか…と考える。ただ朝の胃液嘔吐を思い出し、胃酸過多と空腹感による嘔吐を防ごうと、残してあったりんご二切れ(朝食についていた)を食べた。
巨大化した脾臓によって右へ胃が窮屈に押されてるせいか、一度に大量ドカ食いが出来なくなったようだ。少量ずつ食べるとすぐ腹が減る。そうすると胃酸で…ってどうすりゃいいんだか。
6時夕飯は小降りの鰯蒲焼き2枚、ひろうすとカボチャの炊き合わせ、キュウリともずくの酢の物。気のせいか酒の肴に合いそうなもののような…。
幸い吐き気止め無しで8割がた食べられた。良かった。

食後ベッドから降りて歩き、下膳して部屋まで戻る間、咳き込んだら痰が上がってきた。廊下で吐くわけにいかず、慌てて部屋に戻って出すと茶色い「古い血」混じり。こういうものは治療の過程で出るべくして出るし、出さなければならない。起床時などずっと寝ていた後に起きると痰が出やすいが、立ったり歩いたり体を動かす方がいいのだろう。肺の病気は体を起こしていた方がいいそうだし。

その後は仕事を片付けて10時過ぎには薬を飲み、本を読む。
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2010-07-22(Thu)

細かいストレス

7月22日(木) 入院39日目・手術17日目

夕べは11時半ころ、少し早いがレンドルミン(導眠剤)と一緒にバクトラミン(肺炎治療薬)を飲んで寝た。このところ割合導眠時はスッと入れる。それだけでも有り難い。
しかし夜中に目が覚めて、時計を見るとまだ2時半。次は4時。そこからは眠れずにベッド上をごろんごろんするだけ。試しに手術した肺の側、つまり右を下にして寝ようとしてみたが、やはり胸全体が痛くて駄目だった。もう半月以上経ってるのに。
左側は脾臓が腫れているので、右を向けないと必然的に仰向け姿勢かせいぜい左に傾くくらいしか変化がつけられず、薄いマットで尻というか仙骨、腸骨のあたりが痛くなる。そういえば外科病棟でもそうしたと思い立ち、全く使わず足下に畳んであった薄い掛け布団を3つ折にして敷いてみると、若干マシになった。前に入っていた時はいいマットだったのに、何で手術後の方が固いのか不満&疑問。

5時過ぎにトイレに立つと、見回りで廊下に居た夜勤の看護婦さんと鉢合わせした。「吐き気はどう?」と聞かれ「今のところ大丈夫です」と言うが、ベッドに戻ってしばらくすると突然の嘔吐感。気持ちが悪い。しかし吐くモノがない。洗面台に間に合わず傍らのゴミ袋にげええとやるが、唾液しか出ず。この唾液が口中で、だくだくと唾液腺から出るのが感覚でわかる。それが口中に溜まるのが気持ち悪い。飲み下すと吐いてしまうし、いちいち出さないとならないので不快極まりなし。
これは朝食まで持ちそうにないと思い、プリンペラン(吐き気止め)を5時過ぎに飲み、あとはベッドに仰向けで吐き気に耐えるのみ。吐き気が止まり8時の朝食が食べられればいいのだが。

窓の外を見ると、すでに東山から登った太陽が夕方のように建物の側面をオレンジ色に染めている。朝焼けというやつだが、角度が低い割に光りが強い感じが見てとれる。今日も猛暑になるぞ、と解る映像。

6時ころバイタル、平熱、血圧正常。
吐き気が止まったのはいいが、今度は痰が上がってきて、5回ほど出すが、後半3回は血痰だった。まだ肺の中に炎症が残っているということか。
7時ころからあまり寝られなかった分、うとうと。
採血のあと、8時前朝食。今朝からお粥ではなくパンでもなく「軟飯」に換えてもらったが、鮭と味噌汁がついていて、これは嬉しかった。幸いこの頃には吐き気止めも効いていたので、ご飯は8割がた食べられた。

N先生が食後に様子を見に来てくれるが、薬が多いので大変でしょうが頑張って治しましょう、とのこと。
しばらく食後も痰に苦しんだが、もう銀行へ行かないとお金もないので、調子の回復を見計らって外来棟へバスで行かねばならない。そう思いつつ研修医のKさんに診察を受けていたら、助手さんがレントゲンに呼ばれたと知らせに来た。用紙を持って1階で撮影が終わった時、バス待ちの患者が入り口に数人座っているのが見えた。張り紙でバスの時間を確認すると、9時5分。時計を見ると4分。
急いでエレベータで5階まで上がり、財布を持ちマスクをし、廊下ですれ違った看護婦さんに「バスで郵便局行ってきていいですか」と聞くと「外に出てもいいとなってます?」と聞かれたので「敷地内ならということになってるはずですが」と言うとOK。
すぐ病棟入り口へ降りる。

幸いバスはまだ到着しておらず、それから2分ほどしていつものKさんの運転するシャトルバスが到着。後ろに車椅子がそのまま2台収容出来て、脇に2人掛け、中央に2人がけ+補助椅子1人分、それから助手席は運転手入れて3人乗れる。
俺より前に座って待っていた患者達に「先にどうぞどうぞ」と勧めていたら後部が補助席含め全て埋まってしまった。俺の乗る場所が無くなったかと思ったが、運転席さんと同乗していく助手さんに挟まれるかたちで何とか乗れた。

南西病棟を発車したバスは、東山通りの信号にひっかからなければすぐに外来棟の中央玄関脇に着く。運転手兼リフト操作兼車椅子固定などで動き回るKさんは「もうすでに軽く30℃を超えてますなぁ」と言っていた。この人もいつぞやは玉の汗だったし、駐車場の係員も暑い中「ニンジン」を持って誘導している。
運転手の脇に座ることは滅多にないので、Kさんに「いつもありがとうございます。無事手術も済んで車椅子も要らなくなりました」と言うと、「いやあ」と照れ笑いをしていた。
思えば一ヶ月以上前、肺に穴が開いていると言われてヒイヒイ言いながら入院支度をして病院へ戻ったあと、車椅子に乗せられた俺を運んで貰ってから、いったい何度このバスに乗ったかなあ。

Kさんにお礼を言ってバスを降り、すぐに病院内のゆうちょ銀行ATMでお金をおろした。地下のローソンで久々に買い物していこうか…としばし逡巡したが、よく考えたら今の自分は吐き気止めで吐き気を抑えている状態。こんな状態で3度の飯以外に食いたいものもないし食えないし、と思ってそのまま南病棟の玄関へ向かった。

運の良いことにさっき自分を乗せてきてくれたバスが発車待ちをしていて、タイムロスなく南西病棟まで帰還。9時半には病室に戻れたから、かなり効率的であった。
ベッドに落ち着いて一息ついたところで、「明青」のおかあさんから電話がある。

お店に届くように頼んでおいた猫のエサが届いたので、昨日さっそくあげてきてくれたという。やはり「カリカリ」が食べたかったらしく、2匹とも鳴いてせがんだとのこと。それにしてもここ数日の猛暑、「水をあまり飲まないので心配」と言って下さるが、そんな中でエサやトイレの世話をしていただく方がこちらは申し訳ないことしきり。
でも猫たちは元気と聞いて安心した。何しろ室内でも熱中症で人が死ぬ暑さである。渡辺さんには退院したら恩返しをせねば。まずはこの肺炎を治さねば。

11時前、食事どきに効くようにとプリンペランを飲む。
これは俺にはよく効くようで、昼食が運ばれて来た時には吐き気がほぼ止まっていて助かった。チキンライスとオニオンスープ、ポテトサラダにぶどう2粒、オレンジ1片。ほぼ完食。ここ数日では一番食べられた。
午後はそのまま調子が持続したので、ツイッターで唐沢よしこさんが金玉の話をしてるのに乗っかったりしつつ笑っていると、I先生が「どうですか」と来られたので慌ててPCを閉じる。

吐き気止めが効いているということ、まだ茶色い血痰が出ることなどを報告。
「茶色い血痰は古い血でしょう、あれだけ肺の中に穴が開いていたら出ます」と言われる。手術後に寝汗をかかなくなったということは、ちょっと解らないとのこと。
その後初めて見る別の先生が研修医をぞろぞろ連れて来て、胸の音を聞かれた。

その後右手を伸ばすとちょっと痺れがあることに気付いた。そういえば先日動脈血の採血のとき、血がなかなか採れず2〜3度目に右ひじの内側深くにぶっすりと針が入って、血は採れず痺れが出たことがあった。
ああ、あれのせいだ。
真横に腕を伸ばすことがあまりなかったので、軽い違和感くらいに思い、右肺手術の後遺症かと思っていた。
試しに右手を前面に伸ばして、床と並行に横に90度伸ばすと、あるところから手首と手のひらの付け根までに痺れがビーンと走る。何かものを取ろうと伸ばすと伸ばす時も軽く痺れる。
おいおいこれって医療事故か? 神経って再生するんだっけ? と大袈裟なことを考える。

とりあえず今日は仕事を休んで手も休め、ずっと音楽を聴いてベッド上で曲げたり伸ばしたり。(ちなみにこの記録は夜9時すぎ)
その後その採血針を刺したN先生と研修医のKさんがドレーン抜管後の傷を見に来たので、そのことを話してみる。針を刺した時に右手がしびれた、というのはもちろん針を刺したご本人は憶えていて、ひょっとしたらその時に神経が傷ついた可能性はある、とのこと。
まあビーンと伸ばすとビリビリッと痛みが来る程度なので、今の俺ならこれくらい大したことではない、そのうち神経がつながるだろう。

とはいえ放置しておいても良いものかと考え、以前左腕の尺骨のところにある神経が(恐らくはリンパ節の腫脹で)圧迫され、左の小指に痺れが出た時に貰ったメチコバールを思い出した。すると「出しましょうか」と逆に聞かれ、改めてそう聞かれると、ただでさえけっこうな種類、量の薬を飲んでいるのでこれ以上飲みたくないし…と思う。とりあえず様子を見る、ということにした。
しかしそれからリハビリ? に手を伸ばして痺れを確認しているうち、これがずっと残ったら嫌だと思い、その後研修医のKさんが来た時にやはり処方を頼んだ。

6時夕食は5時に飲んだプリンペランのおかげかほぼ完食。どうも、朝が一番ひどい嘔吐感は胃酸過多というか、空腹時のあの不快感=腹が減って気持ちが悪い、に似ている気がする。吐き気を抑え食事が摂れると、腹部膨満感と引き替えに嘔吐感は無くなる。
これは胃が脾臓に押されてるせいか。それとも他の原因か。

それにしてもまあ本当に次から次へとこういう「細かいストレス」が襲ってくるものだ。ほとほと参ってしまう。ただでさえ白血病というデカい病気を抱えてるんだから、それで他のことは勘弁してくれよ…と正直思う。だがこうした細かいことが次々と襲ってくるのがこの病気で、治療を開始すればそれは命に関わることになり、恐らくそれに俺の体は耐えられないだろう、という確信に近い予感がある。自分の場合、こうした悪い予感はたいてい、当たるから困る。

ここ数年、振り返れば精神の弱い人ならとっくに崩壊しているだろうなー、とじゅうぶん客観的冷静に思える状況だ。
免疫力はあまりに弱いが、この精神力だけは我ながら褒めてやってもいい、と思う。
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2010-07-21(Wed)

酷暑日

7月21日(水) 入院38日目・手術16日目

夕べは消灯時にレンドルミン(導眠剤)を飲むが、どうにもムカムカして気持ちが悪いので、吐き気止めも飲んで寝た。

朝はいつものように5時ころ目が覚めて、ベッドの上でとろとろしていた。すると6時過ぎに地震。ベッドがわっしわっし揺れる。東京に四半世紀住んで地震には慣れているので、そのまま横になったまま。揺れの時間はけっこう長く「これなら震度3ってとこかな」と思いつつNHKをつけるとビンゴ、京都市内は3であった。

ついでに起きてトイレ洗顔などを済ませる。歯を磨いてうがいをした直後、猛烈な嘔吐感。何度も何度も吐くが唾液しか出ず、胃液すら出ない。ただ気持ちが悪いだけ。いやな副作用だ。
その後担当の看護婦Oさんがバイタルに来る。
平熱、血圧も正常。今日も喀痰検査があり、通常のと細胞を調べるのと2つ出してという。何とか頑張って1つ出すが透明の、あまり良くない献体。「一応出しておきます」と言ってくれたが、いつもの茶色い血? 混じりの痰が出ない。しばらくすると喉がイガイガして、慌ててもう1つの容器に出すと、いいのが出た。汚い話で申し訳ない。

体重測定の日なので測ると62kg。咳が出始めの頃は67〜8kgあり入院時64kgだったので、5kgくらい痩せているか。無理してでも食べないと、体力がどんどん落ちる。
自分の場合、傍目には腹が出ているようにみえるが、それは巨大化した脾臓=「巨脾」というもので、それ以外はむしろ痩せているから、実質は60kgを切っただろう。50kg台というと20代の頃以来か。

吐き気止めを昨日寝る前に頓服したと報告したら「量的にオーバーだから朝は飲んでは駄目」と言われる。しょうがないので何とか我慢しつつおかゆを7分ほど、卵焼きを2切れ食べた。吐き気止めを頓服出来ないって意味ないやん、と思う。吐き気は何時間おき、とか食事前、という具合にきっちり訪れるものではなく、波があって来るものだ。ちょっと来たな、と思った時に飲んでおける薬じゃないと意味ないだろう。

その後シャワーしようと部屋の前の風呂場を見に行くがずーっと「使用中」。11時になってようやく空いた、それと思ったら別な部屋ののおっさんが風呂道具を持って来たので、譲ってしまう。こういう時に「先にドアに手をかけたんだから俺が先な」となれる厚顔さがあれば、免疫もここまで落ち込む病気にならなかったのかも知れない、とフと思った。

その少し前、部屋にI先生が来て、少し病気の話をする。
採血から解る免疫力の低下ということだと、好中球数はまあこれまで通り雑菌に気をつけていれば大丈夫というレベル。だが、CD4という項目があり、これが減るとこういう肺炎や結核などにかかるリスクが高いそうで、それをちゃんと算定するための採血をしたいということ。
自分の場合白血球の中のリンパ球数が少なく、しかもそれが正常なものかという疑いもあるので、ヘタをするとHIV感染者でもないのにエイズ患者並の免疫力しかないかも、というので驚く。しかもT細胞性の白血病なので余計に免疫関連に影響している可能性がある。
うーん、弱い、弱すぎるぞ俺。

昼前にシャワーを済ませて部屋に戻る。気がついたら汗が出ていた。あれほど汗かきで、ちょっとうたた寝したくらいでも寝汗ぐっしょりという体質だったのに、今はほとんど汗をかかない。クーラーつけた部屋にいるから、というのなら手術前も同じ状況だったので、これは腫瘍を取ったことと関係あるのか、人体とは本当に不思議だ。

しばらくして研修医のKさんが来て試験管1本血を取られた。

こういう記録をつけ、公開しているのは昨日も書いたように、離れたところで俺の様子を心配してくれる人たちが居てくれるからである。
そういう人の中には、詳しくは明かされていないが現役の医療従事者の方も居るようで、「それはあまり心配しなくていいですよ」とか「次に先生にこういうことを聞いてみては」といったアドバイスをくれる人もある。もちろん押しつけではなく、こちらがこういうことを思っている、疑問だ、というものへの回答として、である。
顔も名前も知らないのに、人の命、健康を気遣ってくれるのは有り難いことだ。

こうして記録をつけていても、実はけっこう大変な部分はある。

一番は肺炎の治療薬の副作用で、吐き気が断続的に波のように来ること。
もちろん腫瘍摘出と右肺の手術をしたあとの、右胸脇の傷やドレーン後の傷に気を遣うこと。
手術の後遺症か、右胸の鎖骨あたりから肋骨数本あたり、皮膚の上から抑えると割合強い痛みがあること。
血痰はだいぶ減ったが、毎朝茶色い痰が必ず出ることと、細かい咳が若干残っていること。
「特急」(下痢)体質だった自分が入院環境におかれるとたちまち便秘にかわり、下腹部が常に不快であること。

…こういうことはもちろんまだ治療中である肺炎のせいもあるし、終わった手術の後遺症と言うべきこともある、だから「日にち薬」で治っていくものではあるが、その治りが自分の場合は緩慢なように思える。元々の病気のせいで、体の免疫だけでなく再生能力も落ちているのか、傷が出来たりしても治りがひどく遅い。

もちろんそれらはあくまでこの入院中のもので、最大のストレスは自分が白血病患者であり免疫力がひどく低下しており、その結果放置すれば確実に死ぬような肺炎にかかったり、今後も様々な日和見感染の懸念がある…ということではある。
しかしそれはもうなってしまった以上、どうしようもない。根本的な治療薬も方法もない(死んでもいいぐらいの気持ちで試すならいくらでも方法はあるが)ので、その都度対処療法しかない。

夕方トイレに行くので部屋を出たら、突然横から熱風がゴオオと吹き付けた。廊下を熱風の帯が横切るようにクロスしているのだ。何じゃこりゃ、乾燥機が壊れたのかと思ったら隣の個室が空いたので換気に窓を開け、廊下を挟んだ反対側のトイレや洗濯機のある部屋の窓との間に風が通り、外気=熱風のベルト地帯が発生していたわけ。つまり外はそれだけ高温ということだ。京都も連日「酷暑日」である。
病院の外来棟の前の警備員、駐車場の係員など外での立ち仕事の人は大変だろう。と思っていたらNHKのニュースで「熱中症で170人が病院行き、2人が死亡」と言っていた。明日の予想最高気温は37℃。

夕飯はグラタン…とおかゆ。吐き気止めが効いて、グラタン完食、おかゆはふりかけと「ごはんですよ」でほぼ完食。漬け物以外の煮物とおひたしは残した。
ここ2、3日ちょっとずつしか食べていないので、便通がない。それゆえか腹が張り、一度にたくさん食べられない…と夜担当の看護士君に話して下剤の錠剤を貰ったら、直後にお通じあり。
下腹部の膨満感と吐き気が治まっているだけで、これほど楽か、と。こういう「ちょっとした不快」でも無数に積み重なると、何もかも嫌になるほどしんどいものだ。少しずつ減るといいのだが。
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2010-07-20(Tue)

副作用との戦い

7月20日(火) 入院37日目・手術15日目

昨日調子が悪かったので、10時にバクトラミンとレンドルミンを飲んで消灯。日中けっこう小刻みに寝た割にすうっと寝られた。
朝は5時に目が覚める。
案の定、起き抜けは胸のあたりがムカムカ、トイレから戻って歯磨きの時に嘔吐。何も出ないがその行為そのものがしんどい。ふらふらになった。
喀痰検査用の容器を貰っていたが、何度か出そうとするが血痰が出ない。それでも容器に出してフタを閉め、ベッドに戻ってしばらくしたら喉がごろごろ。ティッシュに吐くと血痰が出た。いわゆる「フレッシュな」血痰を提出したいが容器はもう無し。これで検査になるか不安(案の定、後に再度出すように言われた)。

6時、バクトラミン4錠服用。看護士が来て確認するが、その際「吐き気と倦怠感がある」と訴えて吐き気止めを出して貰って飲んだ。

その後は8時の朝食までただゴロリとベッドに横たわり何も出来ないで居る。

昨日の朝からの、突然の吐き気と倦怠感。変わったところはバクトラミンを飲み始めたという一点のみ。副作用で間違いないだろう。怠いのは肝機能障害かも知れないが、採血してみないと解らない。いずれにせよこれはキツい。昨日から何も出来ないし、する気も起きない。食事だけは多少は食べておかないと体力が落ちるので、吐き気止めを飲んででも、少量であっても無理に食べるようにしている。

8時の朝食のお粥は何とか7割くらい食べられた。他のおかずはほぼ手をつけられず、キウイ2切れのみ。
その後研修医のKさんが来たので様子を話し、吐き気止めを定時で出して貰えるようお願いした。しばらくして再びKさんが来て、上のI先生に聞いてみたところ、それは恐らく副作用で間違いないとのこと。なのでいったん服用をやめて、その後吐き気が無くなり回復すれば他のことが原因ではないと確定できる。というわけで看護婦さんがバクトラミンを引き上げていった。
「バクトラミンが使えなくてもこの肺炎の治療は出来ますから」と言ってくれたが、この薬の連続投与が一番効くというのはネットで調べてあるので、がっくり。

10時前にレントゲンに呼ばれたので1階へ。レントゲン撮影の台にあごを乗せたら気持ち悪くなって少しオエっとなる。その後売店でお茶とティッシュを買って戻るが、立ち歩くと気持ちが悪い。そういえば売店で買い物したら合計金額が777円だった。どうでもいいけど。
その後は横になってじっとしていたら、看護婦のOさんが「やっぱり採血をすることになりました」と言って試験管4本。午前の検査に間に合うように急いで持ってって貰う。
11時に吐き気止めを飲んで、12時までぐったりしていると昼食を持って来てくれる。「食べられそうですか?」というので「吐き気止めを飲んだので、頑張ってみます」と答える。「今日はハンバーグですよ」というので「あ、いくら何でもそりゃ無理だわ」と思ったのに、いざ食べようとしてみるとドミグラスソースが意外とおいしく、ハンバーグと付け合わせのいんげん、じゃがいもを全部食べてしまった。吐き気止めのおかげか。あとはひじきなどでおかゆを8分くらい食べて、ちょっと元気が出た。

その後もベッドで転がっていると、12時半ころ「明青」の渡辺さんご夫妻が来てくださった。郵便物だけでなく「買い物も大変やろうから」と、家に買い置きしてあったペットボトルのコーヒー飲料や紅茶まで持って来ていただいた。入院前に頼んでおいた郵便物の不在通知があったりして、もう本当に助かります、ありがとうございます、としか言えない。

お二人はこちらの状況というか容態をご存知なので(このブログは容態を気にかけてくれている身内への報告の意味も兼ねている)、「一番辛いのは本人なんやからねえ」「もうしゃあないやん、じたばたするなよ〜♪や」と言って元気づけて下さる。立って見送りにと思ったらお二人とも「いやいや、そのまま寝といて! じゃあまた」と言って制してお帰りになるのを頭を下げて見送った。

午後はどうにも調子が悪く、吐き気はないもののもやーっとした不快感でただベッドに転がっていた。時折ネットを見たりするが長続きしない。半身起こしてるのも怠い。
4時過ぎに軽くうとうとしていると、N先生が研修医のKさんを伴って抜糸に来た。ドレーン挿管部を縫合してあるのは3針。この縫い目を引っ張り上げて、チョキンと切って糸を引き抜く。Kさんは初めてのようで、N先生が見本を示して残りを無事抜糸。念のため消毒してシートを貼って完了。
その後はベッドで大人しく寝ていた。

6時夕食時は吐き気もなく、吐き気止めを飲まずとも食欲が復活した。やはり吐き気はバクトラミンの副作用だということが解った。
おかゆとサバの味噌煮を食べていると、N先生が来て、検査の方と連絡を取ったところ、完全に確定はできないものの、ほぼ100%ニューモシスチスで間違いないという見解だったそうだ。と、いうことは…。
「副作用はちょっと大変ですが、やはりこれはちゃんと治療をした方がいいと思うんですよ。なので…」
「薬、復活ですか」
「そうですね…」
しかしもう敵ははっきりしたし多少の副作用は覚悟してやっつけるしかあるまい。今晩からまたバクトラミンの服用再開となった。ただし時間は食前だと吐き気で食事が摂れなくなる場合を考慮して、食後にずらし、厳密に8時間おきというのを遵守せずとも、1日に規定量を飲むという方を優先したいと。

正直副作用はしんどい。あのもやもやとした嘔吐感が常にある、何もやる気がおきない状態。明日からまた副作用で食べられるか解らないので、夕飯は頑張ってほぼ完食。
直後看護婦さんが一度引き上げたバクトラミンの袋を持って来たので、きっちり8時間おきでなくても、食事が摂れることを優先させるスパンを熟考。
結果朝8時朝食後、18時夕食後、24時就寝時という変則的なスパンに決めた。
朝、空っぽの胃にデカい錠剤4つ(とその他の常用薬)放り込めば、たいがい吐き気を催すだろうなということで食前に吐き気止め、食事、食後にバクトラミンという方法で副作用に対処しよう。
そんなわけで6時過ぎの夕食後だったのですぐに服用再開。もちろん吐き気止めも同時に飲む。たくさん夕飯を食べたあとだったのでどうかな、と思ったが幸い吐き気止めが効いてくれているようだ。

ところで今朝の採血の結果を午後にプリントして貰ったところによれば、肝機能は全く問題ないレベル。つまり薬による肝機能障害は出ていない。倦怠感は気のせいか、違う原因か。手術前には6.0まで上がっていたCRP(炎症反応)も術後は順調に0.9まで下がってきている。肺炎の薬が効いてきてるのか。
少し気になるのは、血小板数がここしばらく10万を常に超えるレベルに増えているのと、白血球がこれまでずっと1200〜1700くらいだったのに、このところ常時2000を超えているということ。
これが「正常値」を超えてどんどん増えていくようだと、いよいよ白血病の進行ということになる。癌に冒された造血幹細胞がハンパな血球を量産し出すのだ。ちゃんと働いてくれる血を作ってくれれば白血球数や血小板数が若干増えるのはむしろありがたいわけだが、この病気はそううまくはいかない。
まずは肺炎治療が最優先。
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2010-07-19(Mon)

吐き気と怠さと情けなさ

7月19日(月) 入院36日目・手術14日目

夕べは仕事がちょっと立て込んでおり、12時近くまでかかってしまった。
家の光回線と違ってモバイル通信環境は速度が脆弱で参る。

今朝は6時、薬の確認と検温で看護婦さんに起こされる。
体温はずっと平熱、あと不思議なのは寝汗をほとんどかかなくなったこと。看護婦さんは手術前に俺がここに居た時の様子をもちろん知っているので、「そういえばそうですね、背中びしょびしょでしたし、タオル持ってきたりしてましたし」と驚いていた。
その後「積貞棟(呼吸器外科のあった最新棟)はどうでしたか」というので、設備の話とか色々世間話的にしたりして、歯を磨きを終えたところで看護婦さんと一緒に部屋を出る。
こちらはトイレである。

戻ってきて顔を洗おうとして部屋の洗面台に向かったところで、突然嘔吐感に襲われた。
朝ゆえに胃は空っぽだから吐くモノは胃液しかないが、胃液すら出てこない。
何度か繰り返すが結局何も出ず、むかむかする感じだけでベッドへ戻りかけたところで、再び嘔吐感。洗面台に「げえ」とやるのだが、やはり何も吐かなかった。顔を上げると赤いというか赤紫というか、唇がガクガクと震えていた。それはすぐに戻ったものの、何だこれは、と恐怖。
薬を飲み始めて4日目くらいか、副作用が出るには早いが…。

ぐったりしてると8時に朝食が来る。多少むかつきは治まっていたし、食べないとどんどん痩せて体力が落ちる。頑張って小さいパンを2個と、パイナップル3切れを食べた。
その後もずっと横になっていた。

やっぱり全然俺汗かいてないな、と改めて考える。
元々北海道生まれのせいもあるのか暑がりで、さらに白血病の盗汗もあって、手術前にこの病棟に居た時も看護婦さんがびっくりするくらいの汗をかいていた。毎朝、パジャマの背中はぐっしょりで、シーツにも染みが出来るほどだった。
それがここ数日、正確にどれくらい前からかは不明だが全くなくなった。不思議である。昼までうとうとしたりを繰り返していたのに、前ならそれだけで汗だくになっていたはずが全く発汗なし。尿は出るし水分もそれなりに補給してるはずだが…。

昼も食欲がなく、それでも食べないとと思い、運ばれてきたのをしばらく放置していた。けれど食べないと…と思い切って体を起こし、ご飯にお湯でもかけてお粥みたいに流し込もうか…とフタを取ったら酢飯。
よりによっておこわ、錦糸卵の上に切り身の小さなウナギが2切れ載っている。無理。絶対食えない。しょうがなく春雨スープと、みかんと牛乳の寒天だけを食べた。

それからもずっとベッドでじっとしているしかない。
1時半ころ看護婦さんが来てバイタル。血圧は上が90と低いが、これはいつも通り。「心拍はどうですか」と聞いたら88だというので、常時100以上あった時より下がってる、と話す。

手術で腫瘍を取ったことで、色々と何かが変わったような気がする。
看護婦さんとも「胸の胸腺腫を取ったのがやっぱり良かったんでしょうねえ」という話から世間話になり、気がついたら2時のバクトラミン服用時間。
この病棟の看護婦さんは皆、患者が「余計な話」をし出しても時間が許せば付き合ってくれる。他愛のない会話から真剣な病気、治療の話まで、いずれにしても人と話すとこちらの沈みがちな気持ちも多少は楽になるものだ。

3時ころ看護婦さんが来て、手術後のドレーン縫合部分の確認をしてもらう。16日から透明の保護テープを貼りぱなしなので、念のため貼り替えましょうということになった。
しかしけっこうがっちりくっついていて、周囲から慎重に剥がしていき、いよいよ縫合部を、というところで糸がテープに数本びっちりくっついている。無理に剥がせば「抜糸」どころか肉ごと取れそうだし、結局すったもんだで研修医がピンセットの大きいのを持ってきてくれ、それで糸を慎重に一本一本テープから剥がしてくれた。消毒して、今度は真ん中がガーゼになってる透明テープに交換。

その後も調子が悪く、ずっとひたすらにベッド上でじっとしているか、寝ていた。半身起こして何かするのも怠く、立ち歩くとムカムカする。吐き気は強くはないものの、延々とそれが続いている状態というのは全くもって気分が悪い。

ずっと寝ていたので気がつかなかったが、携帯に「明青」の渡辺さんから着信があったので、かけ直す。渡辺さんにはたびたび書いているように、留守中の猫たちの世話や、郵便物を持ってきていただいたり、本当にすさまじくお世話になっているのだけど、今回は「猫ちゃんたちのごはんが無くなりそう」ということだった

うちの猫たちは尿結石や腎臓病にならないよう、療法食という特殊なエサを与えている。十年くらい前に市販のものを与えたことがあったがどうやら塩分などが濃いらしく、泣きながら血尿を少量ずつ出してははいずりまわるという可哀想なことがあり、それ以来獣医師の処方したものに換えたのだ。

先日カリカリ=乾燥エサが切れた時に、まだ同じ成分のパウチの生エサがあったので、退院までそれで足りると思う、とお話した。
ところが肺炎の投薬治療がこんなに時間のかかるものだと思わず、そのうちに生エサも切れかかってきたという。慌てて通販サイトで注文して「明青」さんに配達してもらうように手配。
要するに、俺が自分で「もう数日で退院だろう」と勝手な判断をしたのが間違いだったわけで、結果として入院は長引きエサは足りなくなり、また渡辺さんにご迷惑をおかけするわけだ。
渡辺さんは「もう病気なんやからしゃあないやん、早く出たいとか言わんとちゃんと寝とき!」と言って下さるが、もう本当に情けないというか、歯がゆいというか、俺が言うのも何だが「もうこんな生活、いい加減にして欲しい」という気持ち。
何でこんな目に、何でこんな病気に、何で…という気持ちに落ち込みがちになる。
しかし落ち込んだところで病気が治るわけもなく、むしろ回復には良くないわけで、そんな解りきったジレンマにさえイライラする。

直後、看護婦さんが吐き気止めの錠剤を持って来てくれた。夕飯の時に効くように「今飲んで」というので飲む。
この吐き気止めは幸いよく効いてくれた。
夕飯からはお粥に変えてもらったのだが、「ごはんですよ」で8割方食べることができた。おかずは豚肉のショウガ焼きだったが、これはさすがにほとんど食べられず。それでもちょっとでも食べておかないと体力も戻らない
もう、5kg近く痩せている。
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2010-07-18(Sun)

入院にうんざり…

7月18日(日) 入院35日目・手術13日目

朝は6時起床。すぐに肺炎の薬・バクトラミンを飲み、そのままトイレ、洗顔などを終える。
日曜なので今日は何の検査もないだろう。ついでに明日は祭日だ。退屈な日が続くと思われる。
朝のバイタルが終わり、8時朝食を食べたあと、手術前からずっと滞っていたブログを更新する作業。手術直後はともかく、日記は毎日つけており、それを掲載するにあたって実名を仮名にしたり色々と整形。少し作業をしていたらまた睡魔に襲われ、11時前からお昼が運ばれてくるまで寝てしまった。昼はぶっかけうどん。しかもなぜかご飯つき、うどんの上に飯は食えませんよ。

その後また作業再開、17日まで終えると4時近かった。どっと疲れた。
それからはベッドの上でぐったり。昨日からどうにも急激に眠気、怠さが襲ってきたりする。

6時夕飯、食欲もあまりないが、出されたものは無理にでもなるべく食べる。
今日は休日なので看護婦さんたちの出入りも少なく、医師もお休みの様子。6時の夕食のあとは8時の検温、そのあとは10時の服薬確認。
検温の時、担当の看護婦Oさんに「まだ長くかかりそうですかねえ」と聞くと、やはり副作用が現れるといわれる一週間から十日ほどは何が起こるか解らないので、病院で大人しくしているしかないようだ。I先生が先日説明してくれた通り。

入院も一ヶ月を超えると、本当にしんどい。それに猫の世話や郵便物を届けていただいたりで、「明青」の渡辺さんご夫妻のご厚意に甘え続けていることが何より心苦しい。だからといって病気がすぐに治るわけでもなく、もどかしい。
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2010-07-17(Sat)

病院で誕生日

7月17日(土) 入院34日目・手術12日目

夕べは消灯後も色々考えてしまい、無意識でスパイダソリティアをやっていたら12時になってしまった。
今朝は6時前からどっかのおっさんが廊下で大きな声で話していて起こされた。うとうとしていたら看護婦さんが来て「お薬の時間ですよ」と知らせてくれた。昨日から飲み始めたニューモシスチス肺炎の薬バクトラミンの、8時間おきの服用時間だった。
薬を飲むついでにトイレへ立ち、洗顔歯磨きなどを済ませる。

やれやれ今日は45歳の誕生日だ。病院で誕生日を迎えるとはねえ。
朝は朝日が入って明るい部屋で目覚めるのが好きなので、いつも個室の時はカーテンを閉めない。梅雨明けしたか、外は綺麗な青空に薄い雲を引いた、いい天気。昨日まで居た外科のある積貞棟は、南向きは個室だけで、そこには手術直後に入っていただけなので、夜景をチラと見たぐらいしか記憶にない。その後はずっと北側を向いた大部屋で、向かいの病棟が見えるだけだった。今の個室は南向きで、遠くの建物の影からチラッと京都タワーの頭が見えるまあまあの景色だ。

今朝からまた喉に痰がまた絡むようになった。血痰というより茶色いねばねばした感じのもの。
NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」では水木さんがいよいよ「テレビくん」で漫画賞を受賞し、水木プロを作って売れっ子作家へと駆け上がっていく突端にきた。戦争、復員、窮乏生活の果て、40代での「成功」。ご本人やそれらの逸話もよく知っている分、じーんと来る。
「泣かせ」「お涙ちょうだい」で涙が出ることを、若い頃はずっと恥じていた。そういうものを作る側にも、泣かされる側にも、正直バカじゃねえのと斜に構えていたところがあった、と言ってもいい。今でもあまりに露骨なそういう作りのものを見ると、同じように感じる部分はある、プロとしては。
ただ純粋に力を抜き単なる視聴者として感動シーンを眺め、ジーンとすることは何ら悪いことでも恥ずべきことでもない。むしろ人として、作る側が最大公約数がそう感じるであろうと提示したものに同じような感想を持つのは「正常な感覚」という気がする。
若い頃はほとんど泣いたことがなかった。「男は泣くものではない」と母子家庭だった母親に叩き込まれた。けれど人に裏切られ、病気になり、最愛の人を失い、自分の人生の終焉がすぐそこにはっきりと見え始めると、肩肘張ったり斜に構えて格好つけたり、無根拠に自らを高みに置いて偉そうな言説を垂れたり…ということが恥ずかしいことに見えて仕方が無くなる。
たくさんの人と出会い、別れ、支え、支えて貰い、そうして生かされている。そのことにちょっとだけでも気持ちを巡らせられるようになると、感情は無理に抑えこむ必要はないのだ、他人に迷惑をかける形でなければ、むしろ過度な自己抑制はストレスになり体に悪いと、これは体感で認識している。
そんな自分でも腹が立つことはある。お見舞いや励ましのコメントやツイート、メールを友人知人、またネットでのみお付き合いのある方から連日いただくのだけど、いまだにわざわざ連れ合いの命日の記事のコメント欄に嫌がらせのコメントを残していく奴がいる。俺だけならいいが、やまだ紫のことを貶める「明かな嘘」を業界内で流している奴がいることも、ある作家さんと編集者経由で知った。
こちらはもう残り少ない人生をなるべく穏やかに生きたい。いい加減にして欲しい。
頑張ってきた人が、生きているうちに、ちゃんと、正当に評価され正当な処遇を受ける世の中になって欲しい。

10時ころ音楽を聴いてると、N先生が来て「ちょっと検査に必要なので動脈血採らせて欲しいんですが」とのこと。「どこが一番痛くないんすかね」と聞きつつとりあえず腕をまくると、ジェスチャーで太ももの付け根、肘の内側、手首と示して「こういう順序ですね」だそうだ。
こちらは静脈血の採血なら数え切れないほど受けているので、何の気なしに右肘でいいやとお願いするが、血管を皮膚の上から抑えて注意深く確認したあと、通常の採血の針と同じ太さの注射器をブスリと、かなり深くまで射し込む。ところが血が出てこないし痛いし。何度か方向換えたり挿し直したりでもダメ。注射器を換えてもう一回、今度は手に痺れが来たので中止。
次は左腕にしたが、これまた満足な量が出ず。最後は右足の付け根。もちろん深いところへ針がぐぐっと入っていくのは痛いが、あっさり血が注射器に溜まって終了。「ごめんなさいね、なんども」と恐縮されるのでこちらも「最初から素直にここにしとけば良かったですね」と答える。
それからしばらくすると急激に眠くなり、看護婦さんがお昼を持って来てくれるまでうとうとしていた。この眠気はちょっと表現しづらいが、病的というか、おかしな眠気だった。
昼飯は何と酢飯とハモの吸い物におひたし、と紙に書いてある。酢飯はフタを開けると錦糸卵の上に小さな固いウナギが2切れ乗っかっていた。昨日Sさんの息子さんにいただいたウナギびっしりの弁当を食ったばかりだったので、思わず笑ってしまった。それでも7割ほど食べる。
仕事は明日の予定だし、午後もやることがない。何しろヒマなので売店へ降りてお茶など買ってきたあとはスパイダソリティアやったり音楽聴いてうとうとしたり。
14時、3回目のバクトラミン4錠を飲む。
そろそろ手持ちの現金が心配になってきたので、看護婦さんに「一応お聞きしますが、お金を下ろす場合は…」とダメだろうな、と思いつつ聞くと、看護婦さんも気の毒そうに「あっちの本館の方になるんですがバスは休みなんで…」とのこと。「じゃあそこら辺のコンビニとかへは無理ですよね…」「それは外出許可がないとね…」とお互い情けない笑顔を向け合いつつ、丁寧にお辞儀をして部屋に戻った。

本格的にすることが何もない状態。
そのせいかゲームを始めても面倒になり眠くなってきて、午後は夕飯までの間ひたすら寝たり醒めたり。なぜこんなに眠だるいのかと、いっときは熱でもあるのかも知らんと検温したほどだ。ひょっとして薬の副作用だろうか。体温は平熱だった。
6時夕飯はまたサバ(笑)。外科病棟の相部屋で隣だったN君と「この病院ってサバ多いね」「サバって安いよな」なんて会話をしたのを思い出した。
外科病棟に居た間はテレビの角度の問題で(90度首を傾けないと見られない)全く見ていなかったテレビを久々につけて見ながら完食。
その後は担当看護婦のOさん、女性研修医のKさんなどが交互に来てバイタルや呼吸音、様子を聞かれたり。

夜9時過ぎ、突然研修医のKさんが来て「昼間取った動脈血の検査結果と先日のHIV検査の結果が出ました」という。こんな時間に来るってことは、と一瞬ゴクリと息を呑んだら、動脈血の方は酸素量などを調べるもので正常だったということ、そしてHIV抗体は陰性であったという報告だった。
心底ホッとした。
ニューモシスチス肺炎、旧カリニ肺炎はエイズ患者の死因ナンバー1で、当然イメージ的にも「イコールエイズ」的な認識が世間では多いと思う。しかし「HIVウィルスに感染した結果としてのエイズ発症」は輸血や血液製剤での感染もあるのに、まだまだ差別的な目で見られることも多い。
エイズとはもちろん後天的に免疫不全に陥る病気であり、俺の白血病による免疫低下(抑制というほどのレベルではないにせよ)も、「弱い」という点では同じなのだ。別にHIV感染していなくても、免疫力が落ちている俺のような病気の患者や抗がん剤投与中の人などで、ニューモシスチス肺炎を発症するという例は少なくない。

はっきり言って人混みは極力避けてきたし、不特定多数の人が出入りする場所…最たるものは病院だが、スーパーなどへの買い物でも、マスクをし帰ったら手を消毒しうがいをしてきた。もうそれが習慣になっている。
「それなのに」という思いがある。ただ現段階ではニューモシスチスの可能性が最も高いという段階で、確定ではないらしいが。

前にも書いたと思うが、今回、最も危険だったのは縦隔にあった胸腺腫の放置だったろう。それは幸い浸潤もなく全摘できた。肺の中の嚢胞状の穴を作るものは、ニューモシスチスの可能性が濃厚で、その肺炎=炎症がPETの反応に出たのだろう、新たな悪性の腫瘍は、PETに加え脳MRI、胸部CT、腹部CTで異常がないことが解った。
あとはこの肺炎の治療だけということになる。

ここまで免疫力が弱まっているということはショックで、ではこの肺炎が治ったとしてその後の生活に不安がないかと言えば嘘になる。こんな状態ではとても何年もこの先生きられるとは思えない。
同じことは5年前の白血病=T−PLLと言われ入院した時も思った。
あの時の、過酷な抗がん剤治療寸前でT−PLLではないということが解った「流れ」。
今回の入院・手術の結果の「流れ」。

そういうものに抗わず、身を任せる。
今回は「もうちょっと生きてみようよ」と後押しされて、入院・手術となったんだ。
「もう、頑張らなくていいんじゃない?」という日が来たら、またきっと教えてくれるだろう。
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2010-07-16(Fri)

南西病棟へ「帰還」

7月16日(金) 入院33日目・手術11日目

夕べは同室の3人で消灯後もしばらくお互いベッドでなんだかんだ話をして、看護婦さんに「ここは賑やかやね、ドア閉めときますよ」などと嫌味を言われたほど。俺はSのおっちゃんが尿をこぼした臭いでなかなか寝付けず、お二人がいびきをかき始めた後も悶々として、寝られたのは12時過ぎだったか。
朝は5時ころから目が覚めるが、していたはずのマスクが外れていて、Sさんの尿の臭いがきっつい。マスクをし直して寝直すが、まあきついこと。そのうちおっちゃんが目を覚ました音と声がしたので、ボソッと「…Sさんがこぼしたションベンが臭いです」と言うと小さな声で「すんまへん」と答えたのがおかしかった。
看護婦さんが朝のバイタルでSさんのところへ来たのでこちらも起きて洗顔など済ます。
そういえば昨日、Sさんがこの病室に戻ってきて落ち着いた後、雷が轟きザアアアと大雨になった。Sのおっちゃん、Wのじいちゃんは二人で「ああ、こりゃ夏の雨やな」「梅雨明けや」「祇園祭そういやそろそろやな」という話。ああそうか、ここは祭と季節がはっきりと連動して人に染みついている場所でもある。そんな事を思い出していたら、看護婦さんがカーテンを開けると、果たせるかな今朝はカラーッと気持ち良く晴れていた。

朝の体温は36.4℃、もう手術前、直後までずーっと続いていた微熱もない。血痰は朝だけ相変わらず少量ながら膿みのようなものが少し出るが、これはニューモシスチスのデキモノのせいだろうか。当初自分も肺真菌症を疑ったが出ず、結核やら、北海道生まれだからと念のためにエキノコックスまで調べられた。結果それらは全く検出されず、取ったモノから出たのがニューモシスチスということで、内科も外科も俺もみんな予想外だった。

朝は完食。
その後またドレーンぶら下げてうろうろし出したSのおっちゃんが入り口の脇にWさんの出してくれた椅子に座って、つまりは俺とWさんの間に陣取り、ずーっと喋りっ放し。
途中看護婦さんが「今日2時半から呼吸器内科に移動ですから、支度よろしくお願いしますね」と伝えに来た。
さらに9時半ころ、S先生が来て手術痕を見てくれ、メスで切った縫合後の保護シールはその場で剥がし、もうお湯を充てても大丈夫だし、糸は自然に吸収されるので抜糸も必要ないとのこと。最後のドレーン抜管・縫合痕に関してはちょっと消毒をして保護シートを貼り替え、これは外来で見ることも出来ますし、ということ。
あとはニューモシスチス感染については内科で投薬の種類、スパンその他を決めて様子を見て、退院ということになるそうだ。
もう一度最後に「左肺もなったらよろしくお願いいたします」と頭を下げ、向こうは「いえいえ、ならないのが一番です」とお辞儀で返されて、お別れ。

その後も少し病室の3人で話すが、ほとんどがSさんのヤクザ話。山口組の成り立ちやら京都の昔の任侠勢力図、山科出のなんとか兄弟の話。70歳のWさんのおじいちゃんも世代的にはSのおっちゃん(66歳)とあまり変わらないので、ところどころ「ああ、あの…」なんて話していたが、正直俺にはほとんどチンプンカンプンで眠くなってきた。それでも相づちを打っていたら看護婦さんがバイタルに来て、それぞれベッドに戻る。
36.6℃のド平熱。酸素濃度も97%、血圧も正常。心拍は110だったがそれは俺にとっては正常値。
10時半にはシャワーを済ませ、ついでにパンツやらタオルやらを洗濯機に放り込み、部屋に戻ると移動用の荷物運搬カゴが来ていた。
その後はSさんの喋りに付き合ってる間に洗濯物の乾燥も無事終わり、昼飯を食い、入院荷物の荷造りも終えると12時半。それからはWのじいちゃんの奥さんに「朝、Wさん杖で歩くの辛そうやったんで、そういう時は車椅子にしたらどうですか」と提案する。「載ったことあります?」と聞くと無いというので、看護婦さんに持って来てもらった。
看護婦さんは車椅子を畳んでベッド脇に置くとそのまま行ってしまったので、俺が使い方を教えてあげた。タイヤのロックはこのレバー、畳んである状態でも腰を下ろせばちゃんと椅子の形になるから、足を乗せる板を出して乗せ、あとはタイヤの外側にあるリングを廻せば前後に進めます、左右別に動かせば回転も簡単ですよ、とやってみせる。
Wさんはやってみるというので、奥さんと介添えしつつ座らせてあげると、「ああ、こりゃ楽でええわ」と言ってさっそく気に入った様子。痛む左足をかばって杖に全体重をかけて辛そうにしているのを見ていたので、こちらも嬉しい。

そうこうしていたらSさんの息子さんが来て、「オヤジがお世話になってます、これ食べて下さい」と弁当を差し出し「うなぎです」と言ってニコッと笑われた。いや俺別に何もしてないんですけど…でも有り難くいただきます。
そうこうしているとシーツ交換で廊下に出されたので、息子さんと語り合っているSさんとは別に、廊下でWさんの車椅子の練習に付き合う。お年の割にすぐにコツを覚えて「ああ、こりゃ杖より楽やわ」と言ってすぐに乗りこなしていた。奥さんは「ほんまにありがとうございます」と喜んでいたけど、普通は看護婦さんが教えてくれるだろうし、別にこれまた感謝されるようなことはしていない。
それから少しWさんご夫婦と話をしていたら、1時過ぎに看護婦さんがお迎えに来た。
Sさん親子、Wさんご夫婦にそれぞれ「ごちそうさまでした」「お世話になりました」と頭を下げてお別れの挨拶。
Sのおっちゃんは「おう、行くんか。コレ(ドレーン)が外れたらそっち遊びに行くさかいな」とたばこを吸う動作でニヤリと笑っていた。懲りない人である。

看護婦さんがカルテを忘れたので取ってくるのを待って、この呼吸器外科病棟ともお別れ。荷物を積んだワゴンを引いて貰い、俺は軽い紙袋だけを持ち、手術室へ行った時の裏ルートのエレベータで下へ下りる。
バスで南西病棟へ向かうはずだが、南病棟の玄関へ向かうので「あれ、こっちからですか?」と言うと「こっちからしか知らないんやけど…」と言うので正面玄関にも着きますよ、と話すとびっくりしていた。まあ、こういうのは普通助手さんの仕事だもんなあ。
南病棟の玄関に着いて確認すると、バスの時間はちょうど谷間。引き返して正面玄関の方へ向かう。10分ほどあったので、「じゃあここで待ちましょうか」と入り口脇の椅子に座って世間話。
「看護婦さんはストレス溜まるでしょう」と言うと、でも服や靴を売ったりする接客業の方が大変だと思う、とのこと。看護婦の場合、場所は病院だしそもそも病人が相手なので、基本的に「言うこと聞かないと治りませんよ」と言える立場だが、全くの客商売だと「お客様が絶対」になるから、トンデモな客やクレーマーにも対処しなくてはならず、そっちの方が大変じゃないかという。なるほどねえ、そりゃそうだ。
そんなことを話しているとバスが到着、荷物をワゴンごと積んで貰い、看護婦さんと乗り込んで病気の話をしているうちに南病棟へ到着。そこで車椅子が2台載ることになってワゴンは下ろして俺の荷物は脇のスペースへ載せ直し。バスは満員になって、南西病棟へ到着は2時過ぎだった。
凄い暑さで、もう夏の日差しと積乱雲。

エレベータで5階まで上がって看護婦詰め所を覗く。知った顔の看護婦さんと目が合ったので手を振ると、すぐに3人くらいの看護婦さんがわらわらと出て来てくれ「お帰りなさーい」とか言われる。「恥ずかしながら戻って参りました」と挨拶するが、このセリフはこの年代には通用しないとすぐ気付いた。
別な場所からこれも知った顔の男性看護士が来てくれて、個室に案内してくれた。
512−2号室。前に居た部屋よりベッドが小さくなり、向きも変わっていて、がらんと無駄に広い印象。でも個室が空いてて良かった。最新の積貞棟から来るとやはり古くて汚いという印象はぬぐえないものの、やはり静かで落ち着く。
けれど「楽しもう!」と開き直ってからの、大部屋のワイワイ話をしながら過ごす時間も、それなりに楽しかったな、と思った。

荷物を開けてまたベッド周囲を整え、落ち着くと2時半過ぎ。

3時前に担当の看護婦Oさんが来て、検温と血圧。俺が外科へ移動してすぐ、内科から様子を見に来てくれたN先生に「内科の看護婦さんたちはみんな良くしてくれて、お礼言っといてください」と言ったことがあったが、N先生その後、その足で病棟に戻って詰め所に来るなり「白取さんがこれこれこうや言うたはったでー!」と大声で報告してくれたそうだ。さすがにその場に居た看護婦さんたちみんなが笑ってしまい、婦長さんまで笑っていたという。

さてニューモシスチス肺炎の話から投薬治療の話になり、ちょっと今後のことなども話す。エイズ患者や免疫抑制中の人などにとっては命取りになるニューモシスチス肺炎(旧名・カリニ肺炎)だが、通常イメージする肺炎というのはレントゲンで肺が真っ白にぼやけるような症状である。しかし今回の俺のように、肺の中にこういう穴というかデキモノ的なものを作るのはあまり聞いたことがないという。
とにかく薬はあるので、それを服用して治していくことになると思うが、俺の免疫力がこれほどまでに落ちていることは確かなので、感染には引き続きくれぐれもご注意を、と言われた。

3時半ころ、若い一年目の女性研修医と担当の看護婦Oさんが来て、喀痰検査をする容器を渡され、研修医には採血された。
この採血はニューモシスチス感染があった場合、一応HIVウィルスに感染していないかを調べる必要があるということで、HIV抗体の検査にまわすらしい。
俺は不特定多数の人との性交渉、体液交換、輸血、血液製剤投与、どれにも全くちっとも少しも全然身に覚えがありません。陰性であると断言できる。って何をそんなにムキになってるんだ自分。

ちょうど研修医による採血が終わった頃にN先生が入ってきて、今後経口の投薬治療で行けると思うけれども、投薬初期に状態が悪くなる場合もあるし、副作用もあるので、様子を見つつ慎重に行きましょうということ。退院まではまだかかりそうで、がっくり。

しばらくしてまたN先生が来て、「最初に咳の症状が出始めたのはいつ頃ですか」という質問から、痰、血痰、気胸…という流れの確認。肺炎に関しては調べたところ、HIV感染者の例が圧倒的に多い中で、こういう嚢胞を作る例が多くはないが、あるという。
これもまた「肺炎」つまり肺の炎症なわけで、PETで集積反応が出たのはこのせいだろうということ。MRIやCTを含め今回は他には何も無いという確認も出来たし、思いもしなかった胸腺腫は初期段階で全摘できたので、あとはこの感染症を投薬でやっつけるだけ、ということだ。
しばらくするとOさんが来て、今日からもうニューモシスチス肺炎の治療薬「バクトラミン」の投与を開始するということ。けっこう大きな錠剤を4錠、8時間おきに3週間、飲まねばならないそうだ。病院でのサイクルを考え、起床時の6時、日中は14時、あとは導眠剤を飲む消灯の22時というスパンに決めた。

その後女性研修医が来てN先生に話した容態を再び聞かれるが、その時に何か今気になる身体症状はないかと言われ、たまに出る咳、朝に出る血痰くらいだと話す。めまいや息切れもないし、この病棟でドレーンが刺さっていたときの濃い尿も、今は普通の薄い色に変わってるし、自分でも全く状態が(肺炎に感染している、ということを除けば)悪いとは思えず、従って今週末には退院だというくらいまでに思ってました、と話す。

6時、夕飯はSさんの息子さんにいただいた「うなぎ弁当」を個室のレンジでチンして食べた。折を開けると、つゆの染みたご飯の上に、斜めに切ったうなぎがびっしり。関東と違って蒸さないのでどうかなと思ったが、レンジで温めたせいもあるのか柔らかく、ムチャクチャうまかった。
テーブルの三津子の写真に思わず「思いがけず関西のうなぎこんなとこで食うなんてなあ。うまいわー」と声をかける。関西のうなぎは蒸さないから固いと聞いていたので、あのふわふわの東京風が好きな二人とも、京都へ来てから一度もうなぎを食べてなかった。いや関西のうなぎもいけますやん!!

その上で病院のご飯はさすがに食べられず、おかずの肉じゃがをちょっとだけ食べた。
満足&満腹して仕事をぼちぼちしていると、夜担当の看護婦さんが来て薬の確認。もちろん外科の前にここに居た時に何度か顔を合わせてる看護婦さんで「積貞棟はどうでしたか?」と聞かれたので、そりゃあもうぴっかぴかでした、セキュリティが凄いとか四人部屋の前に車椅子で入れるほどの大きなバリアフリーのトイレがあるとか、シャワー室も二手に分かれてていつでも入れるとか色々説明する。看護婦さんは「凄いですねー」と言いつつ、「こっちはこないだの大雨で雨漏りがしました」とか言ってたので笑う。
ここの呼吸器内科は12月に移転するらしいが、「そんなにちんたらしてないでとっとと引越すればいいのにねえ」と言うと「本当ですねえ」と言っていた。ただ今のここの病棟は糖尿病栄養内科、膠原病内科と合同なので、それぞれが今度は別れるそう。この看護婦さんは結核患者担当で、北病棟(俺が去年帯状疱疹で入ったところ)へ移る予定だそうだ。「しかも一階なんで見晴らしもねえ」と残念がっていた。

その後9時過ぎのバイタルのとき、外科病棟の名物オヤジ・Sさんが自転車漕がされた話とか、大雨で鴨川が増水した話とかでけっこう長話をしたあと、9時半過ぎになってI先生が来た。
今日は外勤だったそうで「こんな遅くになってすみません」ということだったが、日中にN先生から今後の投薬治療の説明を受けたかどうかの確認と、説明をしていただく。
まずニューモシスチスかどうかはまだ確定したわけではなく、最も可能性が高いという段階であること、だとすれば治療は先行して投薬をしておいた方がいいという意味で今日から始めるということ、それからHIV検査に関してはそういう「手順」だと思ってください、と言われる。
別にやましいことというか思い当たることもないが、免疫力が低下していればそのような「感染者との濃密な接触や体液交換」がなくとも感染する可能性があるわけだ。またどういう原因か不明ながら万が一HIV陽性だった場合は白血病の上に免疫不全と、今後大変なことになるので、むしろはっきり検査をして貰いたい。
で、ニューモシスチスに感染した場合の一般的な肺炎の様子とは違い、俺のようにああいう穴があくような形で嚢胞状のモノができるというのは文献では知っていたが、症例としてははっきり言って初めて見た、とのこと。
なのでちょっとニューモシスチス感染かどうかの確定も含め、そこまで抵抗力が落ちているということを前提に治療を考えて進めて行かないと、という説明を受ける。これに有効な薬品が例の「バクトラミン」で、副作用としては十日前後で発疹が出たり発熱したり、肝臓に負担がかかったりということがいくつか考えられるそうだが、そこら辺も採血の結果を見つつ慎重に対応していきます、とのこと。
体の調子は何ともないだろうが、免疫、抵抗力は恐ろしく低下しているということをもうちょっと真剣に考えて予防的な生活をして行かないと、これは本当に大変だという実感を改めて強くした。
I先生は「そういうことなので、じっくり治療して行きましょう」と言って去っていった。ということは退院はまだ先…です…か。

消灯の10時、さっそく最初の「バクトラミン」4錠を飲む。これを8時間おきに3週間服用。
考え出すと色々と、怖い。
旧・カリニ、ニューモシスチス肺炎を調べてみると、やはりエイズ感染者に最も多いということが解る。よくある例ではないが、確かに俺が見た自分のCT画像のように穴が開いたものも特異例として掲載されているページ(国立国際医療センター エイズ治療・研究開発センター)もあった。なるほど電子カルテで見せられた俺の肺と同じだ。
自分の場合は本当にHIV感染の憶えどころか機会さえ無かったはずなので、エイズ〜ニューモシスチス肺炎の可能性はないにせよ、普通の人なら何でもないこの菌に感染するということは日常でも十分考えられるという。

そして、どうやら俺が本当にこの世にいられる時間も、あまり長くないこともはっきりと提示されたように思う。エイズとはもちろんHIVウィルス感染によって後天的に免疫不全状態が症状として現れ、普通の人なら何でもない菌や病気で命を落とすリスクの高い病気だが、俺の場合は白血病によって免疫が著しく低下し、同様の状態にあると考えれば理解しやすい。
こんなに弱くなった体ではそう長くは持つまいが、今回の「流れ」ではまだ生きろと言われている。なので、生きる。
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2010-07-15(Thu)

おっちゃん復活

7月15日(木) 入院32日目・手術10日目

朝4時ころ目が覚めてから、断続的に寝たり醒めたりで起床6時。
トイレを終え歯を磨き終わったところで突然のくしゃみ。まずいと思ったが傷口を抑えるので精一杯、しかし思ったより痛まず、ホッとした。ホッとしてベッドに戻ったらもう一回くしゃみ。うん、抜管・縫合後の傷の治りも順調なようだ。手術後のくしゃみは地獄、というのを経験上知っているので今日まで極力出そうなのを潰してきたのだが、もう大丈夫のよう。
その後メールチェックしていると、懐かしい人からメールが届いていた。サンフランシスコで日本漫画を発行しているVizのIzumi Everzさんからで、Vizのスタッフの近況などを色々教えてくれた。ここ数年お互い連絡を取り合っていなかったので、向こうは向こうでこちらが病気になりやまだが亡くなり、ということを知って驚いたそうで、こちらもIzumiちゃんが結婚され一度退職したあと復帰したとか、当時社長だったサトルさんが隠居しちゃったとか、やはり月日が経つのは早いモノだと実感。

Izumiさんが企画を立て、こちらが一緒に作家を選定したりインタビューしたり原稿を集めたり解説を書いたりして作った、日本漫画のアンソロジー「Secret Comics Japan」略称「SCJ」は今や伝説の単行本化し、「早すぎた仕事」と一部カルト的な日本漫画ファンからは非常に高く評価されている(が全米規模では1万部だった)。
Izumiちゃん…もうIzumiちゃんと言ってはいけないのだろうが、彼女とは「ちょっとあの仕事は早すぎたね」という感情を今でも共有していると思う。彼女が来日した時は、「PULP」の取材でまんだらけやアキバを駆け回ったりもしたっけ。懐かしい。

その後7時に今日いったん退院する車椅子のN君と一緒にローソンへ行き、コーヒー牛乳などを買って戻る。朝食はほぼ完食。

うとうとしかかっていたら女性研修医が来て、胸腺腫の話とか、ニューモシスチスの話。ニューモシスチスは「疑いがある」レベルなのか、確定なのかははっきり見ていなかったので確認してみる、とのこと。また胸腺腫は?期で浸潤もなく全摘できたのでこれで終了かと聞くと、別の科になるが医師の判断によっては放射線治療、化学療法を追加する場合もあるということだった。これも上(つまり執刀医のS先生)に確認してみます、とのこと。
いずれにせよ本筋ではなかった胸腺腫が取れたことは非常に喜ばしい、という結論は変わらず。「こういうことってあるんですねえ」なんて患者と医師で感心し合うのも、考えてみればおかしな構図ではある。

妙に俺に懐いたN君と9時ころから他愛のない会話をしていると、途中からオトンが迎えに来たが退院後の投薬と退院会計待ちですぐどこかへ消えてしまい、N君は俺のベッド前へ車椅子で移動してきて、またずっと話していた。ほんまにどうでもええわい、ちゅうような内容の話。
10時過ぎになってようやく諸手続が終わったようで、N君はオトンと一緒に退院していった。21日にはまたすぐ抗がん剤投与でここへ入院だ。「頑張れよ」と言うと「ハイ」と言いつつ去っていった。

その後はしゃべくりのきっかけを作る子がいなくなってしまったので、向かいのWさんはシャワーへ行ったり、今日が手術のKさんは奥さんが来てひたすらに手術の時間待ち。午後1時半からという時間は何とも中途半端で、「蛇の生殺しみたいやなあ」と苦笑いしていた。
昼ころシャワーをして戻ってくると、ちょうどそのKさんに「お迎え」が来て、手術室へ向かうところと鉢合わせ。「頑張って下さいね」と声をかける。予定だと1時半からのはずだったと思ったが、何と1時間も早まったということだった。遅れることはあっても早くなることは聞いてなかったと、Kさんも苦笑していた。

すでに届いていた昼飯を、向かいのWさんとお見舞いに来ていた奥さんと雑談をしながら食べる。奥さんは「夕べはお話に付き合っていただいたそうで、すみませんねえ」と言っていたが、いやいやみんなで病気だの手術話だのに花を咲かせていたので、楽しかったですよ、と答える。
その後奥さんが帰り、Wさんはうとうとされているようで、病室はしばしの静寂。
しかし3時ころバタバタと、午前中までN君が居た俺の隣の場所にベッドが運び込まれてきた。誰か新しい患者さんかあ、と思い入り口に顔を上げると、何と戻ってきたのはSのおっちゃんだった。
肺がんのある左肺上半分の切除で、背中を25cm切ったという。甚兵衛の袖は手術をした左手の方が切ってあり、生々しい縫合痕がチラと見える。しかし当人はブロック麻酔が効いているので痛みはさほどない様子。
酸素チューブや点滴、ドレーンをぶら下げたスタンドを両手でガラガラと押しながら病室へ入ってきて、Wさんに黙礼だけすると俺を見て「おう、帰ってきたで!」と一声。あの胴間声はほんのちょっとだけ音量が弱くなっている気がしたが、さっそく「手術はこれがこうであれがああで」と名調子。手術は無事成功したようすで、何よりである。
看護婦さんが処置を終えて「また賑やかな部屋になりましたねえ」と笑いながら戻っていった。

Sさんは自分が居ない間に入ってきたWさんに、また「わしは元々は府立の…」話を始めたので、とりあえず俺はそっと自分のベッドに退散した。俺、その話は7、8回は聞いてますんで…。そこからはWさんと二人で病気談義をしているのを黙って聞いていた。
そのうちおっちゃんの下の方の息子さんが友人を伴って来て、パチンコで取ったといって菓子類を置いて行ったのをおすそわけされたり。
Sさんは手術から間もないのに、今日はなんと「リハビリに自転車漕がされたわ、もうムチャクチャさせるで!」と怒っていた。手術の翌日には立たされ、歩かされるのは解っていたし自分もやらされたが、バイク漕がすってちょっと聞いたことないな、と驚いた。
「ハイSさんリハビリ行きましょう、言われてな、そうですか言うて行ったらやで、自転車や。そこにおる兄ちゃんがやれ、言うからしゃあないから乗ったわ。ほしたら漕げ言うからさすがに痛いの我慢してな、それでも漕いだんや。せやけどすぐにもう息が切れてしゃあないねん。ゼイゼイ言いよるし頭ボーッとしてくるし、何や酸素の数値? あれがガーッと下がるわで偉い目に遭うたで。しまいに何や背中の麻酔んとこが剥がれて血がにじんできた言いよって貼り替えたわ。ほんまに無茶させよるで」
「もうこっちゃ息が苦しい言うてぜいぜいしとるのにやで、兄ちゃん『はい、あと1時間頑張りましょう』言いよったわ、わしもそれ聞いたらもう殺す気か思て『やっとれるかアホンダラ!』言うてやめたったわ」とのこと。
申し訳ないがSのおっちゃんが酸素チューブに点滴にドレーンに硬膜外麻酔までぶら下げた状態でリハビリ用バイクを漕がされている姿を想像して、笑ってしまった。
「なあ、聞いたことあるか? こんだけ色んなもんぶら下げとる人間をやで、手術から日も経ってない言うのに、自転車漕がすって」Sさんは目をむいてまくし立てるのだが、聞けば聞くほどおかしくて困った。
でもお元気そうで良かったです。

その後7時半過ぎ、呼吸器内科とのカンファレンスを終えたというS先生がベッドに来られた。
やはりニューモシスチスの感染という結果は内科の先生方もノーマークだったそうで、皆さん驚愕しておられたそうだ。けれど、調べてみるとどうやらT細胞系の血液疾患で免疫が低下した患者には起きやすいという報告例もあったそうだ。
これは当然今後もちろん内科的に治療が必要ということで、緊急で呼吸器内科の病棟へ移って、投薬の方法やら色々と検討して治療して行きましょう、ということになった。
おお、懐かしの南西病棟、呼吸器内科(笑)。まさか本当に戻ることになろうとは!
S先生には「それにしても胸腺腫、取っていただいてほんまにありがとうございました、命の恩人です」と頭を下げると、「1期のbという段階やったので、もう全部取りきってしまえば抗がん剤などの他の治療も必要ないという状態ですから、安心してください」とのこと。もう本当にありがとうございます。
「今度左肺に穴が開いた時もS先生でお願いしますね」と頭を下げながら言うと「いえいえ、左肺に穴が開かないように祈っております」と向こうも頭を下げるというコントみたいな場面だった。

それから夜は大部屋に復帰したSさんの独壇場。俺の隣でベッド上でもひっきりなしに喋り、挙げ句の果てに寝る前にベッドの背を電動で動かしたら、ベッド脇にかけてあったシビンがひっくり返ってしまった。フタをしてなかったようで尿が俺の方まで広がってきて、看護婦さんたちが拭いてくれたり大騒ぎになり、隣の俺のところは尿の臭いがくさいくさい。思わず別な病室の前に逃げて、マスクをはめる。しかし臭いはそんなもんではとても防ぎきれず、臭くてなかなか寝られない。音は耳栓で防止できるが、鼻をつまんで寝るわけには行かず、往生した。
おっちゃんはしばらくすると高いびき。…アンタなあ…と思いつつ首を尿がこぼれたのと反対側へ向けて、寝るように努めた。
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2010-07-14(Wed)

救われた命

7月14日(水) 入院31日目・手術9日目

起床6時前。洗顔・歯磨き時、いつもの血痰が出なかった。おかしいな。良いことなのだが逆に腑に落ちない…と思ってベッドに戻った途端に普通に出た。ねばっこく血の色が濃いが量は少量。その後は友人知人からメールが来ていたのに返事を書く。それにしても毎朝5時だの6時だのに目が覚めるので、一日が長いこと長いこと。
7時からはローソンが開くので、買い物に降りるのが日課。あちこちの病棟から患者たちが待ち構えていたように集まってきて、新聞やらお菓子やらお茶やらを買いに来るうえ、病院関係者も朝食を買っていたりして、けっこう混雑している。

病室に戻って週刊誌を読み、8時前の朝食はほぼ完食。
その後は仕事のデータが来ていたのでずっと仕事。10時ころには一段落したのでシャワーをして着替え、部屋に戻ってくる手前でふと渡り廊下の向かいにあるSさんの個室を見ると、奥さんが廊下に出て立っている。近づいていくと奥さんが「これから歩行訓練ですわ」というので覗いてみると、医師が一応チェックをして出て行くところで、それから男性の看護士が付き添って立たせると、おっちゃんゆっくり歩いて出て来た。
俺の顔を見るとニヤリと笑ったので「バッチリじゃないですか」というと「そうか」とまたニヤリ。ブロック麻酔のお陰で痛みもあまり強くないといい、「このあれやこれや出てる管がややこしな」と言って笑う余裕さえあった。
Sさんはほんの数メートルだけ歩いてすぐにベッドに戻され、腰掛けて測った酸素濃度は90台の前半。なので鼻の酸素チューブはつけられたまま。元々肺の機能が低かったうえに、左肺を半分切除したのでまだまだ大変だろう。少し休んだ方がいいと思い「じゃあ、また」と言うと「おう、もうすぐそっち(大部屋)戻ると思うで!」と言うので「待ってますよ」と言って手を挙げて出る。

その後シャワー室で体を拭いていると、同室のおじさん(咳)ことKさんが看護婦さんと一緒に入ってきて、脇毛剃り。「ああ、明日ですもんねえ」と世間話。俺はベッドの上でちゃっちゃっとやってもらったんだけど、まあ確かにここでやってもらい、その後すぐシャワーした方が合理的だしさっぱりもするだろう。
その後はまた仕事を先行して少し片付ける。外は朝から凄い豪雨。ネットで鴨川の写真を見たら、夏の名物「川床(ゆか)」に迫ろうかという濁流で、これまた名物のカップルが数メートルおきに腰をかけていた河原もすっかり見えなくなっている。ああ、見に行きたい…。
連れ合いは雷や豪雨、台風などが大好きだった。もちろん大きな被害が出るようなものではなく、日常にちょっとした「驚き」「軽いスペクタクル」が起きるのが好きだったようだ。大雨で荒川が氾濫したことがあり、その時は団地の前の道路が川になったんだよ、と小学生みたいに目を輝かせて話していたのを思い出す。
どこかに落雷したと聞くや飛び出して行ったり、大雨が続けば「川見て来ようかな」などとそわそわしたりしていたっけ。

午後、やることが無くなったのでウィンドウズ付属のスパイダソリティアの中級をぼーっとやっていると、S先生が来られる。
こちらのPCを覗き込んで「何ですかそれは」というので画面を見せて「ヒマだと言いつつこういうストレスになるものをやったりしてるんですよね」と言うと「いや自分もよく検査の結果待ちとかいうときにやるんですよ」なんて話をした後、本題。

先日の手術で取ったモノたちの検査結果が出たそうだ。

まずは、「取れるようなら取りましょう」という「ついで」扱いだった、縦隔の7cm大に肥大していた腫瘍。これが何と胸腺腫であったことが判明した。(胸腺腫:がん情報サービス

これはもちろん癌の一種であるが、悪性度としては悪性と良性の中間のようなタイプのもので、今回はっきり言って大きさの割にはステージは「?」。全摘して正解であった、ということだ。胸腺の周囲には心臓や肺や大動脈もあるので、進行しそれらに浸潤すればまず助かる確率はグンと下がる。もちろん転移もある。
胸腺は元々小さい頃に免疫を司る重要な役割を果たしていたものが、大人になると退化して不要になるというものだ。ここに癌が発生するということは多くはないが、特段に珍しいことでもないという。

今回術前の判断では、恐らく基礎疾患であるリンパ性白血病が作るリンパ節の腫瘤の大きなものではないか…ということで、あくまでも本筋は肺の中のモノを取って検査することであった。この縦隔腫瘍は「取れるようだったら取る、取れそうになかったら組織だけでも」ということだったはずだが、今回は全摘して貰って大正解、命を救って貰ったということになる。
気胸を起こして入院、胸腔ドレナージという治療へ移った段階で「もし手術になったら嫌だなあ」という思いはあった。だが反面、もし手術という結果になったら、きっとそういう「流れ」「導き」なのだから、抗わずに従おうと思っていた。
縦隔腫瘍は素人目に見ても大きいものの、血液内科の見解でも「触らなくても大丈夫」と判断されていたし、さして重要には考えていなかった。手術の結果、全摘したら、何とその「取れたら取る」なんて言っていた腫瘍が「胸腺腫」という癌であった。正直驚いた。
しかしこの「流れ」、もし今回気胸が起きず、縦隔の腫瘍も大きいけれど悪さもしてないし、と放置していたら。ステージは確実に進行し、周囲に浸潤し、悪性度も格段に上がっていた…かも知れない。
つまり「今取っておかないと、危ないよ」と俺の肺を破裂させてまで、病院へ、そして手術へと向かわせた予想もしなかった「導き」の結果、救われたわけだ。
この結果にはS先生も大変驚いており、すぐに明日内科とカンファレンスをすると言っていた。

次は本来主軸だったはずの、肺の中にいくつか出来ているデキモノの方。今回の気胸はそれの一つが破れたことで起きたことはもう判明している。
それらの穴…嚢胞のようなものは、どうやら従来「カリニ肺炎」と呼ばれていた「ニューモシスチス肺炎」の可能性が濃厚とのことだった。
よくHIV感染者でエイズを発症した人=免疫不全の人、抗がん剤治療中で免疫抑制中の人など、要するに免疫力が著しく低下中の人が感染して起こす肺炎の一種だ。
(ちなみに最近カリニは原虫ではなく菌類であることが解り、名称も変わった)

もちろん今後は投薬治療を受けねばならないらしい。「免疫が低下低下」と自分で認知していたはずだが、いわゆる「感染症」と一口に言ってもさまざまなものがあり、今回は色々な検査をして貰ったが、最後の最後に出たのがこの感染症による肺炎だったというわけだ。

今後の治療方針など詳しいことは、明日の呼吸器内科とのカンファレンスの後、またお知らせしますということだったが、S先生は「おそらく内科の方でも(この結果に)のけぞらはると思います」とのこと。先生がびっくりしてるんだからこっちもびっくりだ。

しかし驚いたが、良かった。

今回の気胸騒動は、結局前縦隔にずっとあったデキモノが「胸腺腫」であり、それが次のステージに進行する前に取れ、というサインであったのだ。
俺はしばらく乾いた咳が続いていたのに「風邪引きやすいから」で済ませていた。
そのうち痰が絡みだしたが、風邪の投薬と治療だけで済ませていた。
そうしたら血痰が出るようになった。
この段階でも病院へ行かない俺に、とうとう肺に穴をあけて「はやく病院へ行って!」と後押しした存在。

その後気胸の治療から、なぜか縦隔の腫瘍全摘へと導いてくれた存在。
その存在が何であるか俺は知っている。

ありがとう、三津子。
また君に助けてもらったね。

本当にいつまでも君には世話になりっぱなしだ…。ありがとう、本当にありがとう。
感謝しかない。ベッドの上に渡したテーブルの上で、写真の中の彼女が微笑んでいる。
君が救ってくれた命、もうちょっと頑張って生きてみようか。
今年の5月5日、彼女の一周忌以降、ほんとうに魂から一体化したと暖かいものを感じた。それからはメソメソすることもしなくなった。彼女の写真を見て感謝し、微笑み、語りかけこそすれ、泣いたことはない。けれど今は嬉しさと感謝の涙が静かに流れた。

今回のきっかけも知らせも行動も全ては自分の中から発生したもので、外からのサインや圧力は一切無かった。君は「別などこか」にいるのではなく、俺と共にあってくれる。俺の身体症状で俺を動かし、この結果への道筋をつけてくれたのだろう。
「もうちょっと一緒に生きようよ」…そう言ってくれているのだろうか。

その後、細胞の検査結果を待っていた母親、ゆうちゃん、「明青」のおかあさんに電話で結果を報告した。皆一様に驚き、そして結果的には不幸中の幸いではないが良かった、と言ってくれていた。

夕飯はほぼ完食。
その後、隣の子(N君)と咳のKさんが窓際で会話を始めた。Kさんが咳き込むのについついイライラして悪態をついたことを詫びているようだった。Kさんは温厚な人なので笑って気にするなと言っており、そこに俺も加わって、お互いの病気の話をする。
N君は坊主頭のせいか若く見えたがもう28だそうで、うまく動かせない足は18の時のバイク事故のせいだという。頭も打ち、事故の前3年もの記憶がないというのには驚いた。それと関係あるのか、俺が何か言うたびに「腹圧ってなに?」「本末転倒ってどういう意味?」とか質問責めにしてくる。まるで先生のように「それはね…」と簡単なことばに翻訳してかみ砕いて説明するので、話の本筋がなかなか進まず、Kさんも苦笑している。
N君は少し前に心臓のそばに腫瘍が見つかり、それは良性だったものの、予防的に抗がん剤投与を続けているという。今回は点滴で数回行ってすぐ退院し、21日からもう一度入院して投与…という予定だそうだ。
日中看護士から貰った紙を持って来て「これどういうことですか」と俺に見せるので読んでみると、抗がん剤投与による副作用で血球現象、免疫抑制への注意だった。「この薬入れて2週間ほど経つとな、体の免疫力が低下するから注意せえよ、ちゅうことやね」と言うと「それってどういうこと?」と言うので「あのな…」と説明する。
血は大きく分けると白血球と赤血球、血小板ちゅうのがある。血球減少というのはそういうものが足らなくなる、という意味で、白血球が足りなくなれば免疫力…菌や敵から身を守る力が低下して病気にかかりやすくなる。赤血球が足りなくなれば酸素を運べなくなって、目眩やら貧血やら息切れなんかを起こす。血小板が足りなくなれば、血を固めにくくなる…。
まあ普通の人ならこれくらい知ってるだろうというレベルの話だが、N君は「凄い! 先生みたいや」としきりに感心するので「常識やろ」と言うと「いやちゃう。賢い」、「いや賢こない」「いや賢い」なんてやりとりをしていたら、俺の向かいのベッドのおじいさん(Wさん)も加わってきた。
Wさんは70歳だが、半年前に一度肺がんの手術をしたが、どうにも腰と左足が痛いので調べたところ、何と骨転移していることが解ったという。痛みはひどいと歩けないほどで、普段は痛み止めを絶え間なく使って、右手で杖をついて何とか歩くという気の毒な状態だ。それでもN君のボケに「あっはっは」と笑い、我々とも普通に会話をしていて、何だかなごんでしまった。
結局、何と消灯の10時まで延々と病気のことやら何やら、ずーっと話していて、看護婦さんに呆れられてしまった。
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2010-07-13(Tue)

病室に新たな患者入る

7月13日(火) 入院30日目・手術7日目

夕べはなかなか寝付かれず、Sのおっちゃんのいびきを聞きながら1時間ほど過ごした。ようやく寝られたのは12時近くになってからで、朝は例によって6時前にSさんが起きてのガタンゴトンで目が覚める。
おっちゃんはいよいよ今日9時から手術だ。やはりしゃべくりまくっていたのは怖い気持ちからだったのだろう、夕べはとうとう本音が出て「心配で寝られへんかも」などと言っていたが、いえ、寝言をたびたび言ってたりはしたものの、よく寝てましたよ。
おっちゃんの始動でこちらも起きて洗顔など済ませる。朝の血痰は今日は少し多かったのでちょっと驚いた。日に日に少なく薄くなっていたのに。
順序として考えると

咳→咳+痰→咳+血痰→咳+血痰+胸痛→気胸(入院)→手術

となるわけで、気胸が肺の中にある穴の元、嚢胞のようなものが破けた「結果」だから、原因たる咳・血痰を発生させたものは依然、肺の中にあるわけだ。その正体はまだ不明。

まだ薄暗い病室でSさんと世間話をしていると、おじさん(咳)=Kさんも起きてきた。
今日の手術の話や術後の話を、一応先に手術を終えた先輩として色々聞かれたことに答えたり教えたりする。
Sのおっちゃんは硬膜外麻酔が使えるが、背中をざっくりと切る大きい手術。しかし術後の痛みはあまり感じずに済むはず、Kさんはワーファリンを点滴中なので俺と同様硬膜外麻酔は使えないが、その代わり胸腔鏡手術らしいので、術後の痛みは元々それほどひどいものではないはずでは、と話した。個人差もあるし一概には言えないが、そんな感じ、ということ。

7時過ぎに地下のローソンに買い物に出ると、エレベータの手前で体格のいい男性二人とすれ違った。二人とも表情は穏やかで作業服みたいなのを着ているが、明らかに道で因縁をつけられたくないタイプ。
買い物を済ませて病室に戻ると、先ほどの大柄な男性二人がSさんのベッドを囲んで、威勢の良い関西弁でワイワイ話してるところだった。俺が戻ってきたのに気付くとおっちゃんは「ああ、こいつらわしの息子や」と紹介してくれる。息子さんはトラック運転手をしているというご長男の方は簡単に会釈程度、運送業をしているという下の息子さんは丁寧に「おやじがお世話になってます」と挨拶をしてくれた。
俺が「何もしてませんし、こちらこそいっつも楽しい話聞かせて貰てますし。若い頃の話から、そらもうたくさん聞きました」と言うと、弟さんは「このオヤジはね、何やかんや言うても若い頃めちゃくちゃ色々しとったやないですか。せやからね、こちらがガキの頃、やんちゃしよってもね、その時に言う言葉がちゃいますのや。これこれこうやろ、そんなんあかん! 言うのんが全部自分の経験に基づいて言うてくれるから、説得力がちゃう言うかね。せやから先生や他の大人が理屈言うたとしても、このオヤジの方が筋通ってるちゅう場合もあって。言うてる例はムチャクチャですけどね、ええオヤジですわ」と言って笑う。
お兄さんの方は口が悪く、終始Sさんのことを「何やもう死ぬんちゃうんかいな」「遺産隠してへんのかい遺産」などとボロカスに言いながらも、父子3人でゲラゲラ笑って実に楽しそうだ。
そのうちお兄さんの方は仕事を抜けてきたとかで先に帰り、弟さんの方は午前中は居るということで、その後はSさんの奥さんが来るまでしばらくまた世間話。途中奥さんが来て、少し身の回りのことをやった後、買い物に行くと出て行き、病気談義をしているとアッという間に9時10分前になった。
おっちゃんに「そろそろですなあ」なんて話してたら看護婦と医師のお迎えが来て、手術室へ連行。俺は後ろからSさんの肩を叩いて「絶対、大丈夫ですからね」と言うと、振り返ってニヤッと頷いて、息子さんと一緒に廊下を歩いていった。

その間、おじさん(咳)=Kさんの方にも息子さんと奥さんが来られ、途中医師が来て手術の説明を受けに退室していった。隣のベッドは空のまま、賑やかだった病室がしばし俺一人となった。
その後PCで音楽聴いてぐったりしていると、俺の隣の空きベッドに新たに若い車椅子の男の子(といっても20代か?)が入ってきた。俺の向かい、さっきまでSのおっちゃんが居たベッドには70前後のおじいちゃんが入った。これで顔見知りは斜め向かいのKさんしかいなくなったが、Kさんたちはご家族で手術の説明を受けて戻った後、ずっと静かなのがちょっと気にかかる。とはいえ元々Kさんは咳と痰切り以外は喋りも物静かで声も小さい人なので、ご夫婦の会話も大人しいものではあったが。

隣に入ってきた車椅子の子は見た目20代半ばくらいに見えるが坊主頭で、ちょっと喋りが舌足らずな感じである。付き添いらしい白髪頭の60前後のオヤジさんはぞんざいな口調で接していて、ものの数分で「ほなわし行くでえ」と言って買い物に出ていっ。間もなくお茶を買って戻ってきて、それからしばらくすると何の挨拶もなく出て行ってしまった。
隣の子=N君は行動がちょっと粗野でこらえ性がないという印象を受ける。カーテンをシャアアッと乱暴に開け閉めをして出入りをし、それ以外は窓のロールカーテンさえも下げて、カーテンでびっちり囲って出てこない。カチッカチッと小さな音がするのは、携帯ゲーム機とみた。
彼のの向かいにいるKさんが時折激しく咳き込んでむせていると、俺の隣で「うるせえな!」と小さく怒鳴っている声が聞こえた。肺がんで咳き込んでる患者に言う台詞じゃねえだろと思うが、これまで周囲から注意されることは無かったのかも知れない。何かに捨て鉢になっているのだろうか。まだ、若いのに。

俺の向かいに入ってきたWさんは奥さんが付き添いで一緒に来ており、そちらはちゃんとこちらにも「よろしくお願いします」と頭を下げて挨拶をしてきた。それ以上の会話は無かったが、普通に常識をわきまえていそうな人で安心。

元々こちらの調子が悪く、話すにも息が苦しいので会話そのものが苦痛であった頃は、極力同室の人とのコミュニケーションも意識的に絶っていた。しかしSのおっちゃんのお陰(?)もありこちらも回復と共に同室のみんなでコミュニケーションを取れるようになったが、その状態が元に戻ったという感じ。まあSさんが居た頃の喧噪、3人でわっはっはと笑い消灯までバカ話をしていた方がむしろ「異常」だったわけだ。

12時ころ、「明青」の渡辺さん夫妻が病室に来てくれた。また郵便物を持って来てくれたのと、お見舞いにと、うちの近所の「キッチンとまと畑」の総菜を買って来てくれた。むちゃくちゃ有り難いです。
食堂へ移動して、こないだと同じテーブルに座って状況を説明させていただく。
術後の経過は良好で、まだ話こそ出ていないがこの分なら退院は早そうということ、取ったモノの細胞検査の結果はまだ出ていないが、悪いものではなさそう、ということなど。火曜日はふだん営業でお疲れのご夫婦にとっては本当に貴重な休日。ありたがくて申し訳なく、とにかく早く回復して退院するのがお礼。渡辺さんは「そんな無理したらあかんよ、ちゃんとゆっくり治して、猫ちゃんたちのことはええから」と言ってくださるが、今回右肺は心配無くなったとはいえ左肺は手つかず。次もしまた、となった時、このお二人にご負担をかけないように、ちゃんと考えておかねばならない。

お二人をエレベータで見送り、その後こちらは隣の子の「ひきこもり」のせいでベッドが暗くなってしまったので電気をつけ、渡辺さんに持って来ていただいた肉団子!とレバーの煮物!をおかずに昼飯を食った。うう、この味付けだよ欲しかったのは…と思いつつ白飯をがふがふ食べる。
食後は持って来ていただいた「週アス」をゆっくり読んで、音楽を聴きつつ郵便物を開き、仕事を済ませる。

その後この記録をつけていると、隣のN君のところに看護士が入ってきて「今いい? ちょっと抗がん剤を入れる準備をさせて貰いたいんやけど…」と中に入っていった。カーテン一枚なのでひそひそ話をしていても丸聞こえ。「嫌やなあ」とか「1時間半? 前は40分やったやん」とかいうのも聞こえてくるが、俺がバシバシキーボードを打っているとボソッと「…となりの人めっちゃパソコン打つの早い…」とつぶやくのが聞こえてきた。
俺も「ごめんな、うるさい?」と声をかけると「いえ、大丈夫です。もっとガンガンやってください」と言うので「仕事なんで申し訳ないねえ」と答える。まあこれは仕事じゃないんだけど。

夕方4時半頃、暇だったのでトイレのついでにぶらっと廊下に出てみると、Sさんの奥さんが向かいの個室側の廊下に立っているのが見えた。手術を終えた患者は皆、いったん大部屋と反対側にある個室の方へベッドごと移されて一晩過ごし、それから大部屋に戻ってくる。
ああ、廊下で待ってるということはおっちゃん、もう手術終わったのかな…と思って近づき「終わりましたか」と話しかけると「ええ、もうそろそろ戻ってくる言うてました」と手術室から通じる廊下のドアを指さしてニコニコ顔。見るとドアの向こうには撮影スタッフがすでに待ち構えている。どうやらベッドで戻ってくるSさんを撮影するらしい。
「じゃあ無事成功ですね、良かったですねえ」と話してると、廊下の反対側にディレクターらしいおっさんが居るのが目にった。俺にどうやらハケて欲しそうな風情らしいので(要するに撮影の邪魔)、「じゃあまた後で」と言って離れた。
病室に戻って30分くらい経つと反対側の廊下がざわざわしてるので、いよいよ戻ってきたのかと思っていると、奥さんがわざわざこちらの病室へ来てくれて「廊下の反対側(の個室)になりました」と教えてくれた。こちらも起きて後をついていくと、息子さんも居て「無事済んで良かったですね」と言うと「ありがとうございます、何か意識もあるみたいですよ」と言うので、「麻酔を覚ましてから戻りますからね、きっとブロック麻酔で痛みもほとんどないと思うので、会話も出来ると思いますよ」と言うと「へええ!」と驚いていた。しかし肝心のSさんを載せたベッドはまだ到着していない。
少しだけそこで立ち話をしたが、あまりくっついてると撮影の邪魔になると悪いと思って戻る。ていうかあれから30分経つのにまだベッドが来ていない、つまりはその間奥さんを廊下で立たせて待たせてるということか。撮影とはいえ考えてやれよ、と思った。

その後ベッド上で仕事をしていると、隣の子が「お隣さん、お仕事頑張りますねえ」と話しかけてきたので「そうやあ、ここの前に3週間も内科に居たしなあ、遅れ取り戻さなあかんねん」というと、何が気に入られたのか妙に懐かれてしまい、病気の話やらいろいろ30分ほどカーテンごしに雑談した。
寝たのは11時過ぎ。
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2010-07-12(Mon)

おっちゃん話地獄

7月12日(月) 入院29日目・手術6日目

6時前に起床。夕べは仕事が最後の転送でもたつき、1時頃寝たか。その頃にはもうとっくに周りのお三方は高いびきで、俺はいつものように栓を奥までねじ込み、テープでがっちり補強して寝た。
お陰で5時半ころまでよく寝られたが、その5時半に俺を起こしたのは目の前のおっちゃん、Sさんである。この人はだいたい寝るのはいつも10時前と早く、毎朝この時間に目を覚ますが、基本的に他人のことなどどうでもいいので、大声であくびをし、そこら辺のものをガタンドタンと動かし、パッタパッタとサンダルを高らかに鳴らしてお湯を汲みに行く。そうしてお茶を煎れ「ごくんごくんぷはああー」とやったあとコップをターン! と病院中に響き渡ろうかという音でテーブルにたたきつける。立ち飲み屋かよ(笑)。耳栓など何の意味もなさない。

俺は別にこの時間に目が覚めても何ら不都合はないので、ひとしきり騒音を立てた後Sさん曰く「談話室」本来は食堂へテレビを見に行った後、起きて洗顔などを済ませる。それから仕事再開。いったんSさんの騒音で起こされた俺の隣のアナゴ君(痩)やSさんの隣のおじさん(咳)らは再び高いびきで寝始めた。どうでもいいがアナゴ君(痩)のいびきは殺人的。
前の晩止まっていた転送を再開してFTPソフトのご機嫌を取りつつ仕事を進めていると、食堂からSさんが戻ってきた。まだ誰もいなかったのでつまらなくなって帰ってきたのだろう。俺たち以外の2人はまだ寝ているのだが、Sさんは電気シェーバーを取り出し「ビーン! ビーン!」という騒音を出しつつヒゲを剃り出した。合間に「あー」とか「うー」とか例の腹に響く銅鑼声が混じる。隣のアナゴ君のいびきが止まった。
Sさんに「まだ他に寝てる人がいるから」とか「他の人に迷惑やな」などという「配慮」など、微塵も、ない。えあ? 他の人? 関係あれへん! わしはわしや! わしは一人だけや! と一人ふんどし一丁で荒波押し寄せる岩場に腕組み仁王立ち。日本海の荒波が見えた。

Sさんの騒音と独り言に耐えきれず、おじさん(咳)=Kさんが起きた。まあこの騒音の中で寝てられる人はまずおるまい。俺はカーテンは引いてあるものの、起きているサインは出した。看護婦が採血に来てカーテンを開けたら、こっちを見ていたSさんと目が合ったので会釈をする。何か言いたげだったが、こっちは血を採られてるので自重してくれた。

8時朝食、ほぼ完食。
咳と若干の血痰がまだ出るが、咳の頻度と血痰の血の濃度は薄くなっている。穴を塞いでコーティングして貰った右肺も、最初は深呼吸しようとすると痛かったが、以前思い切り吸うのに比べれば7割くらいまではゆっくりなら吸えるようになった。昨日までのレントゲンによると順調に膨らんでいるようだし、個人的には外傷=手術痕のガーゼ交換なりが自分で出来れば抜糸は外来で出来るし、退院になるかも知れないと思った。

だが正直に言うと、こんなはずはない、とも思っていた。
何しろ経験から言うと、どうやら人生は「等価交換」のようだ。「人生山あり谷あり・苦あれば楽あり」という、それは要するに、ならせばプラマイゼロってことじゃないのか。
連れ合いを亡くしたあと、たどり着いたささやかな平穏の日々の「ツケ」は地獄のような帯状疱疹・入院だったし、その後の平穏な日々の「ツケ」は今回の気胸と腫瘍騒ぎだろう。
もしこのまま何もなく終われば、また平穏な日々が戻るはずだが、その日々をいったい「どういう不幸で購うのか」が今から真剣に心配である。
だいたい次は「死」ということだって普通にあり得る体だ。

「生きる」ということは、それ自体が「苦行」であることは、もう解った。もうじゅうぶん解ったから。他の人は知らない。だが自分の場合、ちょっといい事があれば必ず相殺する不幸がある。楽しい生活が続くと、地獄の痛みを伴う入院生活が待っている。ならせばプラマイゼロ。
人生ってドライだし、神や仏というものがあるとしたならば、それらは「残酷でもないし寛容でもない」。ましてや慈愛に満ちてなんか、いない。時に奇跡奇跡をもたらせてくれたりするが、時に極めて理不尽な残酷さを見せる、要するに「気まぐれな存在」だ。

9時半ころにバイタルの看護婦さんがカーテンを開けたのをきっかけに、向かいのSさんと話す。Sさんは「こんなもんいちいちペットボトル買うてたらもったいないさかいにな」と言っていつもお湯をポットに持って来て、急須でお茶淹れて飲んでいるのだが、俺にも「たまには熱いのどうですか」と言ってコップに淹れてくれた。
「あ、緑茶ですか」と言うと急須を開けて「これや」とつまみ出したのはティーバッグだった。
4人部屋のうち、左奥の窓際つまり俺の左隣にいたアナゴ君(痩)は今日が退院だそうで、奥さんが迎えに来て「お世話になりました」と型どおりの挨拶をしてあっさり去っていった。
右奥のおじさん(咳)は大人しくじっとしている様子で、時折激しく咳き込んでいる以外は声も発しないし、立ち歩くこともトイレくらいで少ない。

バイタルが終わってもカーテンを開けたままにしておくと、Sさんが嬉しそうに何かというと話しかけてくる。自分の場合聞き上手なのは自覚しているが、すっかり気に入られてしまったようだ。一方的に長い時間おっちゃんの「半生」を聞いてしまった。
このおっちゃん、Sさんは十代の頃は京都市内で友禅染の工場で小僧として働いていて、それなりに何年かでいろいろ技術を習得していた。たまたま東京へ行く機会があり、そのまま居着いたろ思て新小岩あたりの染工場を尋ねて働かせろ言うたら、「どこから来た」と言うので「京都や」と言ったら一同驚き、習得した技術を講釈したり披露したりしたところ、いきなり工場長になった…という話。
「そらそうや、京友禅言うたら全国から京都へわざわざ職人を引き抜きに行くか、習いに行くかちゅう時代や、逆に? まだ自動の機械もあれへん時代やさかい、ほんまもんの職人やちゅうて偉い大事にされたもんやで」
ずいぶんやんちゃもしたそうで、ケンカの挙げ句人を刺しててっきり事件になったと思って北海道まで逃亡しておそるおそる京都へ戻ったら何ともなかったとか、職人仲間と金沢や群馬やらあちこちを職人の腕一本で転々としたとか、若い頃はけっこう遊んだという。
その次は、最初は作り方も見よう見まねで、適当にスキー場でたこ焼き屋を始めたら当たってしまい、滋賀県に営業許可証ちゅうのんを貰いに行ったら第一号やった=つまり滋賀県のたこ焼き屋の発祥はわしや、という話。「ちょうどな、世の中レジャーブームちゅうのが来た頃や。みんなカップルでスキーや言うてな、集まってくるわけや、そこに勝手に店出してな、アツアツのたこ焼き焼いとるわけやからもう、飛ぶように売れたわ。一月働いて月給が3万4万ちゅう時代にやで、一日4万売り上げたんちゃうか? あれは良かったわー」
何と滋賀県最初のたこ焼き屋はSさんだったらしい。(真偽は不明)

しかしまあ貯えなどは出来ず、ヤクザまがいのこともしつつ、バブルの頃は石屋をやったという。中国からデカい石を買い付けてきて、トン2万で仕入れた石を金持ちの屋敷廻って5倍で売って大もうけしたとか、那智黒のいい石が入ったので、トラックに積んで那智黒に目がないという某大手製菓会社の社長の家の周りをうろうろしてたら案の定社長の車が通りかかって呼び止められ、即買で300万の小切手をくれた話。
その後やっぱり金を使い果たして、ミシンを買って縫製工場やったらそこそこ儲かったのはいいけど、途中から労働力が中国に流れ出して、結局一代40万で買った業務用のミシン50台を最後は5千円で泣く泣く引き取ってもらった話。
最近は琵琶湖へ船を出して、投網で魚を捕っては知り合いの業者に引き取って貰って、という感じだったらしい。
こいういう話をコテコテの滋賀弁と丸坊主の愛嬌ある顔(『千と千尋…』に出て来た湯婆婆の部屋にいる3つのオヤジ顔からヒゲを取ったらそっくり)で言われるので、聞いてても面白くて仕方がなかった。

そのうち昼になったのでそれぞれのベッドに別れて昼飯。俺の方はハヤシライスだった。完食。Sさんは鯖の塩焼きのようなもので、糖尿用の食事らしく明らかに不満そうだ。
その後は一人窓際に居たおじさん(咳)が15日手術だというので何やら点滴をつながれ、歩いてどこかへ行こうとしたら俺とSさんのちょうど間でアラームが鳴り出した。バッテリー切れのアラームで、看護士が来て「しばらく充電終わるまで動かれへんね、すいません」と言って出ていった。
それをきっかけに「気の毒やねえ」「そういうとこいい加減なんやな」とかいう話で、今度はこのおじさん(咳)=Kさんも交え、3人でしばらく話をする。それぞれ何でここの病院へ来て手術することになったか、という話などで盛り上がっていたら、Kさんのところに若い男性がお見舞いに来て、話は中断。
俺とSさんは廊下のテーブルと椅子に移動して、そこでまたしばらく手術の話など、雑談を続ける。30分ほどしてSさんは「わし明日手術やしな、今晩眠られへんかも」とペロッと舌を出して、昼寝にベッドへ戻っていった。
俺はしばらくそのまま廊下の椅子に座っていたが、ランニングと短パン姿だったSさんが上に甚平を一枚羽織ったので「どちらへおでかけですか?」と声をかけたら「パン買うてくる」と言ってニヤリ。ああ、タバコだろうな、と思いつつ「ほどほどに…」と声をかけた。何しろこの人明日手術なんだから。

その後、着替えやタオルや洗剤シャンプーなどを持ってシャワー室へ。うへー気持ちいいーと思いつつシャワーでガシガシ洗った。それから洗濯物を洗濯機に放り込み、ベッドに戻ってやれやれと冷たい水を飲んでいると、執刀医のS先生が来てくれた。
「どうですか、そろそろ退屈になってきたんじゃないですか」と言いつつベッド脇に座って聴診器を充ててもらう。「うん、音もいいですね」とのこと。「レントゲンの結果も、まだ多少は水が出たのが映ってましたけど、良好です。で、内科でも受けられたと思いますが、せっかくなので(笑)全身麻酔ですし、実はこちらも気管支鏡入れさして貰って、いろいろ見さして貰いました」とのこと。そうなんだ。少しびっくりしたが「いや、でも麻酔中で良かったです」というと「それでね、あちこち見ましたが、どうも最初に訴えられていた血痰、膿のようなものを出す病変が見つからないんですよ。なので、今回取ったデキモノ(穴の元)がいくつか他にも見られますので、それの背中に近い方のやつのどれかが破れたかしたんじゃないかと思うんです」という。
手術直後の血痰は、肺の中を切ったんだから気管を通って上がってきたり、喉の奥の挿管で傷ついた部分からもあるのは当然。肺の中の、今回大きく破れて気胸の元になったデキモノは摘出したし、その後は縫合してあるし、全てのデキモノを取り切れるわけではないので、2カ所ほど切り取ったそうだが、あとはもし残ったものが破けても気胸にならないような処置(コーティング)はしてある、と。
で、縦隔の大物(腫瘍)と併せて取ったそれらのものは検査に出しているが結果はもう少しかかります、というので「先生の所見としてはどうでしょうか」と聞いてみる。
S先生は「縦隔の方は、やはりリンパ系のものじゃないか(=白血病性のものではないか)と思いますね、あと今回新たに見つかったデキモノ=穴の元にしても、同じようなタイプのものやないかと思うんですが…こればかりは検査の結果見ないと何とも言えません」とのこと。いずれも悪性のものには見えない、というあくまで個人的な見解ではあった。

「2年前のCTには映っていなかったものが、急にこれだけたくさん出来たというのも考えにくいわけで、元々白血病が作ったリンパ系のできものが、少しずつ大きくなって今回映る大きさになったという考え方もありますし」という。
縦隔腫瘍が白血病原発のものらしいことはもうほぼ解っていたものの、肺の中に出来たデキモノもそうだと解れば、今回は脳や胸部腹部の断層写真を撮り、さらにPETで全身の腫瘍もスキャンしている。それらに全く異常が見つかっていないわけで、「逆に変な言い方ですけど、安心したというか、ほっとしたというか…」と俺が言うと「そうですね、そういう見方も出来ますが、白血病がこういうモノを作るとなったらなったで、そこから先はじゃあどうするか、治療をするのか、という話は非常にこれまた血液内科の専門的なお話になってしまうわけで、あちらにお任せするしかないんですが」とのこと。
とにかく今回の気胸〜縦隔腫瘍摘出&正体不明の腫瘍摘出に関しては、手術の結果、予後もきわめて良好ということでいいそうだ。
あとは細胞検査で白と出るか、黒と出るか。俺は白に命を張っている。白だ。

その後はこちらはベッド上に座って、またSさんの話をサシで聞く。同じ話の繰り返しが混ざったりするが、別に問題なし。染め物の職人として東京(新小岩)には二年居て、そこから群馬の桐生、金沢、四国と職人仲間三人と渡り歩いて京都へ戻ったそうだが、待遇も良くずいぶん遊んだ様子。「まあ大事にされましたわ。京都戻ったらとたんに何やお前ら言う扱いやったけどな」京友禅の職人なので京都ではただの若造。ゆえに京都では羽振り良く、というわけには行かなかったそうだ。

こちらは洗濯を終えて乾燥機を廻し、取り込んで畳んでからは少しベッド上でうとうとしてしまった。その間Sさんは奥さんがお見舞いに来られていた窓際のおじさん(咳)の方へ移動し、ずっと喋りっぱなし。何というか、最初から話好きだったSさんだが、ちょっと様子がおかしい。「躁状態」にあるような感じだ。
俺が寝ているとはいえ起きているかも知れないのに、ていうか実際聞いていたが「あこの人は血液の癌や。でも今回の手術は内視鏡やろ、あんなん簡単なもんやさかいすぐ元気になってん。あんたも肺の上ちょこっと取るだけやったらたぶん内視鏡や。ちょちょいのちょいやで、そんなんはな。わしの場合は右の肺のど真ん中に塊がポン、とあるわけやから、おっきい手術になるんや。まあ先生は80-20で大丈夫言うてはったけどな、わしは元々肺のアレが弱いさかい、回復も遅なるちゅうことや。せやから五分五分いうところやと思うわ。しばらくは動かれへんようなるわな」とか言っている。
前にも何度か繰り返した部分と、新たに仕入れた部分を入れ混ぜて、まあ結局言いたいことは「わしの手術は大変なんやで」ということ。
その後Sさんは明日の手術に備えて術前の点滴があると呼ばれて行き、その後何気なく起きた俺と、窓際の椅子に座っていたおじさん(咳)と目が合ったので、なんとなく世間話になる。
白髪で物静かなおじさん(咳)=咳は「あの人(Sのおっちゃん)、ほんまは不安で溜まらんのとちゃうかなあ」と言うので、俺も「そう思いますよ、きっと。僕は先週の月曜にこっちの病棟へ移ってきたんですが、Sさんが水曜の手術の日に来られてから、ずーっとあの調子で自分は癌だ、どこそこでは切られへん言われた、これこれこうで、ああでこうで…いう話をもう会う人会う人みんなに話してますしね」と言うと、おじさん(咳)のご夫婦ともに頷きながら「ずーっとああやからねえ。きっとご本人は怖いんやろうねえ。初めての手術やし、不安で不安でしゃあないのを隠そうとして、喋ったはんのやろなあ」としみじみ。横に座った奥さんも「怖いのは当たり前なんやから、癌なんやしねえ」と言うので俺も頷く。その不安でしょうがない気持ちを隠そうと、絶え間なく喋り続けてるのだろう…。そんな話を3人で少ししてから、こちらはベッドに戻る。

俺の方はまだ取ったモノの分析結果が出ていないとはいえ、もう良性である、新たに発生した悪性腫瘍ではない、という「賭け」に勝つと信じている。もう、決めている。
術後の経過も自分で言うのも何だが良好だ。点滴やドレーンも順調に外れたし、メシももりもり食って、一人で歩いて検査へ行き、買い物もし、シャワーもし、洗濯までして、体力も回復している。ずっと続いていた微熱も昨日あたりからおさまり、今日は何度測っても平熱だ。咳も血痰の頻度も量も明らかに減ってきている。癌なわけがない。きっとそうだ。
一周忌を過ぎ、もうずっと一緒に居るのだからと、今回の手術にあたっても、写真もあえてしまったままにし、検査のたびに外すのも面倒だからと、彼女の結婚指輪と遺骨を納めたクロスを通してあるネックレスも外したままにしてあった。それらを取り出して、俺もそろそろ「日常」に戻る準備。左手に自分の健康記念のために買った数珠と、彼女の供養のための数珠をし、ネックレスを元通り首につける。テーブルには彼女の写真を立てた。こうなっていることが俺にとっての「日常」で、あとは家に戻って猫たちと一緒にビールを飲めば元通り。
元の何てことはない「日常」まで、あと少し…だといいが。

6時前、廊下でSさんの銅鑼声が響きだした。ああ、戻ってきたなと思い、ベッドのカーテンを少し引くことにする。それにしてもこのおっちゃん、今日の「躁状態」はちょっと尋常ではない。こちらもずっと話に付き合っていて、さすがに疲れた。
そういえばここ数日、病棟には何か知らないが撮影クルーが入っており、その人たちと立ち話をしているらしい。
Sさんは「何や術前の麻酔準備とか言う手て何か入れられたわ」と戻ってきてすぐ、執刀医の先生が来られ、カメラを構えた撮影クルーも一緒に入ってきた。Sさんに「お変わりないですか」と聴診器をあてたり、「この麻酔を入れておくとね、手術後の痛みが和らぎますからね」「何や神経を…殺すんやな」「殺しはしませんけど、ブロックして痛くないようにするんですよ。じゃあ今日はゆっくり休んで下さいね」みたいな会話を撮影し、先生は去って行った。
撮影スタッフはその後ちょっとだけSさんにインタビューしている。
「いよいよ明日ですね」
「ああ、わしはそんなもん平気やで。ただな、残されたもんが可哀想やんか」的な男前な台詞を言っている。
その後で聞いてもいないのに話してくれたSさんによると、先ほど診察していったのがSさんの執刀医だが、Sさん曰く「あれがここの院長や」(※注:真偽不明、未確認情報)とのこと。で、NHKが何かの番組でその「院長先生の一ヶ月」を撮影取材しているのだという。
そうなれば院長の患者の一人としてキャラの立つSのおっちゃんをクルーが見逃すはずはなかろう。なるほど、と合点がいった。当のご本人は実に嬉しそうで、若い女性ディレクターにギャグを飛ばしたりしながら撮影に応じていた。
手術前の心境を聞かれたおっちゃん「まあわしがこれで死んだとしても? それは天命やと思うし?」「ただな、泣く人がおるさかいに、それだけは心残りやな、ワッハッハ」などと男前な発言をしているのを聞いてカーテンごしに笑いをこらえる。やっぱりこのおっちゃんオモロイ。
その後クルーが去った後「Sさん凄いやん。全国ネットでスターですやんか」とからかったら「何やあれやで、手術成功してな、回復したら、琵琶湖で投網放ってるとこ撮影するらしいで」とのこと。
俺がもしNHKのプロデューサーだったら、絶対に主役はこのおっちゃんで撮る。病院や先生の映像や話などはそのツマでいい。おっちゃんが最後に琵琶湖で投網放ってる映像。肺がんの手術後だというのに全くタバコをやめておらず、破れ目のある麦わら帽子の間から覗く日焼けしたしょっぱい顔のアップ。もちろん口にはチビた咥えタバコだ。
ナレーション「肺がんを宣告され、自分の破天荒な人生もそろそろ終着駅だと思った、Sさん。しかし現代医学はSさんに、この先にもまだ人生があることを教えてくれた。Sさんの終着駅はこれからも続く、長い旅路の果てになりそうである…」なんちて。
投網を打つSさんを俯瞰で撮るヘリからの映像、だんだんと引きで。夕焼けをバックに湖面、比叡山をフレームイン。エンドロール。うわーこれええで!…と一気に想像している俺はバカかも知らん。

6時過ぎから夕食、麻婆豆腐だった。完食。
飯を食べ終わって一息ついてると、Sさんがそそくさとランニングの上に甚平を羽織り出した。「どっかお出かけですか?」と聞いたら「パン、買うてくるんや」とニヤリと笑うんで「で一服?」と言うと「当たり前や」と言って出て行った。あの、手術前日なんすけど。それにたった今夕飯食ったばかりでパン、て…。
ちょっとすると姉御肌の看護婦さんがバイタルに来て「Sさ…あらいない」というので「お買い物に出はったみたいですよ」と言うと「あら。落ち着かへん人やねえ…まあ、動けるうちに動いといたらええんやけど。どうせ明日の今頃は動かれへんようなっとるから」と言ってフフッと笑い、出て行った。残されていた俺とおじさん(咳)=Kさんは顔を見合わせて吹き出しそうになった。「ああいう看護婦さんが一番、怖そうやねえ」

30分くらい経ってようやくおっちゃんが戻ってきた。見ると見覚えのあるスーパーの袋をぶら下げている。俺がまさかと思って「どこまで行かはったんですか?」と聞いたら「病院からちょっと下がってって左曲がるやろ、そこにスーパーあんねや。あこまで行ってきた」というのでビックリ。
そこは熊野神社前の交差点を東に入ったところにあり、俺も病院の帰りによく買い物に利用しているからよく知っている。「あんなとこまで?」と言うと「そうや。あんなんちょろちょろっと歩いたらすぐやで。病院のコンビニ? あんなん高いやん。ぼったくりや。スーパーまで行ったったらな、総菜から弁当から何でも安く売っとるさかいにな、わしは買い物言うたらあそこまでいっつも行ってんねやで」とのこと。俺とKさんは唖然。
Sさんは甘食が6〜7個入った袋を引っ張り出して、3つ出して俺に1つ「ほれ」とくれるのだが、ついさっきKさんと「しかし病院の食事三度三度食うてたら、全く間食せんようなりましたなあ」「けっこう量が多いし腹一杯になりますしねえ」なんて会話してたばかり。その上日中Kさんの奥さんが菜園で作ったというトマトもいただいて、夕飯時においしくいただいてたから、もう腹はぱんぱんである。
Sさんは牛乳の1リットルパックも買って来てて、それも俺のコップに注ごうとするので「お、お茶2杯飲んだばっかりやし、勘弁してください!」と言うと「そうけ」と言って諦めてくれた。Sのおっちゃんが牛乳を買ってくるのは、どうやら外に出た時に吸ったタバコの臭いを消すためと考えているらしい。
そうしてドカッとベッド脇の椅子に座ると、両手に持った甘食をむしゃむしゃと食べながら、また話が始まった。
「何や明日の手術の後で痛ないように言うて、背中に麻酔の針刺されましたんや。それがまた、若いねえちゃんの研修医? にやらせんねん。最初の一回でうまく刺せへんで、『アレ』とか『そこ違う』とか後ろでごちゃごちゃ言うとるわけや。結局刺したり抜いたり、4回もやられたんやで!?もうほんまにいい加減にせえよお前ら、いう話や」で爆笑。
その後は3人で少し北陸の名所の話やらをしただけで、あとはまたSさんの独壇場。少年時代のやんちゃな話=任侠系だった頃の武勇伝など。
Sさんは結局、その間甘食を4つ食べた。
直後、さっきフフッと笑って去って行った看護婦さんが血糖値を測りに来たが、160台とたいして上がらず、なぜかこちらがホッとした。

Sのおっちゃんは明日いよいよ手術なので、口では大きいことを言ってても不安で居ても立ってもいられないという心境なのだろう。「あー全然眠ないわ」と言いつつ廊下を徘徊し、「あっちの部屋も1つベッド空いてたわ。ここもやろ、こんなん珍しいわな」とか報告に来たり、食堂の方へ行って知った顔に話しかけたりして戻ってくると、10時前にはぐうぐういびきかいて寝てしまった。
それにしてもいやはや何というか退屈しない一日であった。
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2010-07-11(Sun)

ちゃくちゃくと回復

7月11日(日) 入院28日目・手術5日目

前の晩はあまり寝られず、6時前に洗顔などを済ませて、テレビをつける。しかし通販番組など以外はゴルフなど見るものがなく、すぐに消してそのまま転がっていた。休日のせいか看護婦の起床の部屋周りも遅く、7時を過ぎてようやく部屋の電気がつけられるまで、隣のアナゴ君(痩)の地鳴りのようないびきを聞いていた。それにしてもよく寝られる人で、うらやましい。ていうか何で病院に居るんだ?

8時朝食はパン1つを残して完食。いつも小ぶりのパンが4つ出るんだけど、多いと思う。それに何らかのサラダ、何らかのフルーツ、牛乳の小パックという組み合わせは不動。その後運動がてら歩いて中央棟地下のローソンへ買い物に行く。チルドカップのコーヒー、病棟では買えない大きめのお茶ボトル、Bluetoothヘッドフォンを買う。ヘッドフォンは今のがイヤホン式ではなく耳当て式なので、寝ながら聞いているとフィットしないばかりかズレるので。

リハビリも兼ねて歩くようにしているとはいえ、右の脇から右胸一帯が引きつるように痛い、なのでそれを庇うように歩く、ゆえに普通より疲れる…という感じでベッドに戻り一息ついていたら、女性の研修医が来て「白取さん、これからレントゲン行っていただいていいですか?」
もちろん研修医は何も知らないので「はい、解りました」と受け取って「今買い物行ってきたところなんですよ…」と恨み言を言うと「あら、すいませんすいません」と恐縮していたが、あなたのせいじゃありません。ひたすらこちらのタイミングが悪いだけです。
一休みもなく再びエレベータへ向かい、1階から中央診療棟のX線検査室の前まで行く。技師がすでに待っていたので、紙を渡してすぐに撮影終了。再びゆっくり歩いて病室へ戻る。
それからシャワーをして着替えてさっぱり、PCで音楽を聴きながら仕事を片付ける。そのうち昼になりご飯が来るが、食べ終わって時計を見ると12時20分。朝も5時とかから起きてると、感覚的にはもう夕方みたいな感じだ。とにかく一日が長い。

そういえばあのおっちゃん…Sさんは一時外泊で不在だが、あと数時間で戻ってくるわけか。そうなるとまた同じ話が相手を換えて延々と繰り返されるのだろうな。まあ今のところは静かで概ね平和な休日の病棟ではある。ただ、アナゴ君(痩)やおじさん(咳)は相部屋では携帯の通話はNG、というルールを平気で無視するのには閉口。こちらは電話があった時はドレーン中であっても一旦切り、廊下やエレベータホールで電話するようにしている。「そうしろ」と最初に病棟の決まりとして教えられたからだ。どうでもいいんなら言うべきではなかろう。ルールなら守らせようよ。
こちらも余計な波風を立てたくはないので注意はしないが、俺は、言われたルールは守る。他のオッサン達は守らない。それだけの話で、そのことで何かこちらに実害が出ればこちらはそれを訴えるし、その時に非があるのはルールを破った方なのは明かだ。実害が出なければ、特に熱くなることもない。

とか思っていたら、渡されていた薬をうっかり間違えて飲んでしまったことが判明。キツい方の看護婦さんが来て詰問口調で「白取さんはお薬を間違えて飲まれているようですね」というので「えっ」と思い渡されている袋(これが5袋もある)をがさごそやって確認すると、確かに錠剤を取り違えて飲んでいることに気づいたので、「はいすみません。では飛ばしてしまったのは次の夕食後に廻せばいいでしょうか」と言うと「そういうことではなくてですね、お薬を間違われるということは、病院では『事故』にあたるんですよ。そういうことは勝手にご自分で決められては困ります。先生に一度相談してきますからお待ちください!」と冷たく言われる。
しばらくしてまた来ると「どうして間違われたんですか、思い出して下さい」と詰問するので、袋の指示を確認したところ、間違えて飛ばしたのは抗生剤で、代わりに飲んだのは自己調節しているマグミット(便を柔らかくする薬)だ。この二つは併用すると効果が半減するので抗生剤を飲む時はマグミットを飛ばすという形で来ていたのなのだが、南西病棟・呼吸器内科での飛ばし方とちょうど真逆になっていたので、習慣的に間違えたのであった。その「習慣」は外科の病棟へ移った時に一度薬は手術になるため取り上げらて看護婦からその都度渡されるようになっていたのが再び自己管理に戻ったため、元の内科での「習慣」をまた思い出したのだと思われる。
まあ要するに「ついうっかり」というやつではある。

看護婦は黙って聞いていたが、自分から説明を求めておきながら途中で俺の説明を遮り「とにかく飲み方を間違われるとですね、今後もお薬の管理を白取さんご本人にお願いしていいかどうか、という問題になりますので」とのこと。
つまり「てめえで薬の飲み方も満足に調整できないようなこんにゃく頭なら、あたしら看護婦が毎回ホレよと飲む分をいちいち面倒くせえが渡しに来なきゃならねえんだよカス。できんのか? ちゃんと今後もてめえでで・き・ん・の・か?・コラ」ということらしい。
「いえ、自分で間違えずに飲みますから」と言うと「そうですか、では引き続いて自己管理で飲んでいただきます。以後気をつけて下さい。それから、今回飲み忘れたお薬は次回飛ばして、明日の朝から正しく飲むようにしてくださいとの指示です」と言って去って行った。

そりゃそうですよね、薬の取り違えは「事故」ですもんね。本当にすみませんでした。二度としないように気をつけますはい…と思いつつ後ろ姿に中指を突き立てた。
言われてることはもちろん正しいのだし、こちらが間違えたことが100%悪いとはいえ、何というか、その冷たい態度というか上から目線というか、ものには言い方があるでしょ的な気分の悪さが残る。
そういえばあとで他の患者さんと話してて気付いたのだが、内科からこちらの外科病棟に来て、看護婦さんから「何か不安なこととか心配なことがあったら、何でも言ってくださいね」と言われたことが一度もないことを思い出した。呼吸器内科の看護婦さんたちが優しかった印象があるのは、例えばバイタル測定の時でも最後に「ありがとうございました」と笑顔で言うところ。それから、その時の作業・仕事が済んでも、それ以外に何かないかと、必ず聞いてくれるところだ。それらはとても患者の心を安心させてくれるし、なごませてくれる。
たまにそういう優しい心配りの看護婦さんが居るが、その人は例外なく別の内科系の病棟から移ってきた人だった。(血液内科→呼吸器外科、呼吸器内科→呼吸器外科、糖尿病栄養内科→呼吸器外科)
外科も見習った方がいいと思う。

その後PCで音楽を聴いていると3時半ころ、向かいSのおっちゃんが突然戻ってきた。何しろヘッドフォンしてようが耳栓してようが、こういう胸腔に響く重低音の胴間声を防止する手段はないので、嫌でも聞こえる。
奥さん、というかおっちゃん曰く「内縁の妻」のおばちゃんと、息子さんらしいがっちりした男性が一緒に来て、何やらしばらくガタンゴトン荷物をいじったりと慌ただしく動いていた。その後Sさんは「ほな向こう行って話そか。ここな、談話室あんねやあっちに。広くてええで」と言って出て行ってしまったので、話が聞けず残念だった。
その後はずっとベッド上で音楽を聞く。Bluetoothイヤフォンはワイヤレスなので快適、トイレに立っても音楽が途切れないのもいいんだけど、安物なので音質が最悪。うまくいかないもんだ…。

そんなこんなでこちらは咳の頻度は若干減ってきたか。さらに起きている間は血痰の血もだんだんと薄くなってきている。これはいい傾向。外科病棟は基本的に手術が済んだ患者はとっとと出てけというスタンスなのはもうよく知っているので、この感じだと月曜か火曜には退院かな、と勝手に想像。まだ重いものは持てないし、何より普通に歩くのもままならないが、家でじっとしている分には問題あるまい。問題は入院荷物を部屋まで運ぶ段取りだが、タクシーで家の前につけてもらって、何回かに分ければいいだろう。

5時過ぎ、病室にSさんが一人で部屋に戻ってきた。
着替えるとすぐに一番奥のおじさん(咳)のところへスーッと近寄って行き「ついに明後日や」と話しかけたが、おじさん(咳)は今までずっとベッドで静かにしていたのに「あ、ああ、そうですなあ」とだけ言うとそそくさと洗面所へ逃げてしまった。ありゃりゃ、もっと話聞いてあげましょうよ…。せっかくおもろい話が聞けると思ったのに。

そう思った俺は行動に出た。
わざとコロリンと歯ブラシケースを落としたふりをして、カーテンから顔を出すかたちで拾いあげたところで顔を上げると、ばっちりSのおっちゃんと目が合った。よっしゃ、計算通りや!
「あっ、どうでしたか、手術の説明は?」と聞くと話す相手が見つかって露骨に嬉しそうな顔をして「終わったで」と言ったあと、表情をわざと曇らせて「この…デキモンのある方の肺半分切る、ちゅう話は聞いとった通りやったわ。けどな、何やら大きい血管が2本あってな、そのうちの1本を切ってしまうんやて、ほいで残ったのをつなぎ合わせるのがえらい面倒や、ちゅう話やったわ」と答えてくれた。
「先生はな、80-20です言うとったわ、成功率がな。ほんまは90言いたいところやけど、20死ぬ場合もある、ちゅうこっちゃな」
「ああー、医者はそう言うとかないけませんからねえ」
「そうや、せやないと後でな、あんなピンピンしとった人が何でやちゅう話になるしな、言うとかなあかん決まりやな」
俺がそれを聞いて「そうですよ、全然大丈夫ですよ」と、これはもちろん本心からの励ましのつもりで言うと自分のは「簡単な手術だ」と言われたと勘違いしたのか
「でもな、わしの場合元々の肺のアレ(機能?)が弱いちゅうんや。普通の人が10やとしたらな、半分くらいちゅうことや。せやから結局五分五分や言うわけやな、成功率もな。弱いから。それがあったから、府立は切るの嫌がったわけや」とのこと。いつの間にか9割がた成功する手術が、五分五分になっているのがおかしい。
「ああー、元々の肺機能がねえ、それやとリスクも高くなりますわねえ」
「そうなんや。せやけどここの先生は、80-20や、血管つなぐのも厄介やけども、腫瘍が6?や言うとったからな、もう抗がん剤やら放射線じゃあきません言うんや。それで肺半分スパッと切ってもらうちゅうことやな」
「大手術やないですかあ! でも医者が80言うたちゅうことは、90大丈夫ですよきっと。頑張ってくださいね」と俺が言うとSさん、ニヤッと笑って二三回頷き、お茶用のポットに水を汲みに出て行った。ご家族はもう帰られた様子である。ほんまに頑張ってや、おっちゃん。

今日は自分の方も、ずっと続いていた微熱が治まった。
朝の検温では36.5℃と平熱、昼も同様で、少し暑いかなと思って測った夕方5時半でも36.7℃。元の病気があるので血小板数が少ない=血が止まりにくいのは仕方ないにせよ、咳の回数が減り血痰の血が薄くなってきたことといい、これはいいことだろう。ただ穴を開けたデキモノ、嚢胞のようなものは全て取り切れてないし、そもそも気胸の前にそれらが原因で咳と血痰が出ていたわけだ。気胸はその末に起きたことで、今回手術で気胸の治療は終わったものの、「穴の元」になったデキモノの「炎症」は治まってきているのだろうか。
S先生によれば今回摘出した「穴の元」は気胸の原因になった=破れたものなので、炎症反応があって当然で、PETの反応もそれに対するものということもあるということだったから、悪性の腫瘍などではないことはもう判明している。
いずれにせよ摘出してもらった縦隔腫瘍と併せて検査中なので、あとは結果待ち。

鏡で自分の顔を改めてまじまじと見ると、やはりずいぶん痩せたと言われてもしょうがない顔。5年前に抗がん剤をブチ込むぞー! という段階で虫歯が山ほど発見され医師団が「orz」状態になった時、ゆっくり治療している時間はないと奥歯を全部抜かれた。あれ以来頬が痩けたような人相になってしまったのだが、それがまた痩せた印象を与える。さらに感染を恐れてあまり外出をしないので、肌の色が真っ白なのもそういう印象を補強している。
体重は一時期74kgあったのが今は66kgと、確かに痩せたといえばそうなのだが、むしろ適性体重である。食欲は普通以上にあるし退院したら一番にやりたいことはビールを飲むこと、である。
切り取ったモノは良性だともう決めつけている。

夕飯はアツアツのおでん。大根に厚揚げ、こんにゃく、卵。だし汁がうまいしからしもちゃんと付いているのもいい。でもご飯のおかずにはちょっと…。酒かビールだろこれ、と思いつつご飯は味付け海苔で食べた。デザートにはりんご薄切りのコンポートなんておしゃれなものがついていて、完食・満腹。
夜8時からは参院選の開票を見ようと、その前に仕事を片付けた。検温したら36.1℃、もう完全に「微熱ゾーン」は通過したようだ。咳は続いているが、大きな血痰はない。鼻血はいじると出そうなので放置。
仕事の転送作業をしつつテレビで各局の開票速報をチラチラ見る。予想通り、民主党の惨敗。
転送はどういうわけだか途中で止まったり、レジュームがきかず再接続しようとしたらサーバでハネられ、モバイル端末を切断&再接続しようとしたら端末が言うことを聞かない。結局OSから再起動。これを何度か繰り返すという気力が萎える作業で、疲労困憊。何度目かの転送をかけて寝てしまう。
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2010-07-10(Sat)

管から自由になる

7月10日(土) 入院27日目・手術4日目

朝は4時過ぎ尿意で起床。排尿もその後順調だがまだ色が濃いのと、相変わらず血痰が続いている。その後再び横になって寝ようとするが、とにかく咳が出てその都度血痰を出さねばならず、とても寝られなかった。夕べは導眠剤を飲んで11時前には寝られたはずで、そこからは比較的よく寝たと思うのだが、その分早く目が覚めたか。

朝食も済んだ8時半ころ、向かいのSのおっちゃんが静かだなと思ってたら、何と洋服に着替えて帽子を被り、病室から出て行く後ろ姿がカーテンの間からチラと見えた。
そういえば「どうせ土日は検査も何もあらへんさかいに、家に帰らしてもらうわ」とうそぶいていたのを聞いた気がするが、外泊許可ちゃんと取ったのか。
その後ナースステーションでのやりとりが丸聞こえで、いったん病室へ戻るように言われてすごすご戻ってきた。Sさんのことだからきっと、口頭で看護婦にその旨もう伝えてあるんだからいつ帰ってもOKだと思ったのだろう。当然主治医の許可と外泊許可証が必要なのだが。

しばらくして担当らしい若い研修医が2人病室へ来ると、すぐに「あのな、これから家へ帰らせて貰ってやね、明日の夕方までに戻ったらええちゅことでもう話ついてまんのや。せやからこのまんま行ったらよろしいんやろ?」とまくし立てる。
「ええと、そうなんですけどね、Sさんは先日からお伝えしてあるように糖尿の疑いがありまして、食前に血糖値を測っていただいて、必要ならインスリンの注射も打たなあかんのです」と研修医。
「せやからな、何ぺんも言うとるようにな、わしは糖尿はない、言うてんねん。昨日の夜ちょっと高かったのんは、夕飯のあとにパン食うてもうたさかいにな、その後で寝る前の測られたやんか、それでな。夕飯だけやと全然足りませんのや。わっはっは、なあ、解りますやろ? とにかくな、これからわしの家族に来て貰て、まずは手術を受けることになった、ちゅう説明をせなあきませんねや。明日の夕方4時に先生から説明がありまっしゃろ? せやけどここに一緒に来るかどうかは、まだ解らんちゅうことや。向こうにも都合があるわけやしな、まずは今日、家に来さしてわしから話をして、それからの話、ちゅうわけなんや。あのな、色々事情があるわけや、わしにも。いろいろ、な?」
「はあ…とにかく注射がありま」
「いや、どうもないんですよ? 私は。癌言われてもな、自覚症状も…何もない。肺気腫やいうことは言われてましたで。せやけどなーんとも、ないねや。ほんまでっせ? 糖尿やいうのもここ来て初めて言われましたんや。血糖値が何や、ちょっと高かったちゅうてやで、昨日パン食った後にまた高かった言うて、ほいで…」
とそこで黙って聞いていたもう一人の研修医が「解りました、ええと、Sさん、あのね、今手術前で大事な時なんですよ。だから、今まだ確定はしてませんが、万が一糖尿病であった場合、術後の経過にも色々と影響もしますし、生活スタイルも変えてもらわなあきませんしね、大事なことなんです。とりあえず、看護婦さんから薬の指示をしてもらいますから、それを聞いてもらってから外泊ということで、先生に許可取りますし、いいですね?」
「ああ、それでええよ。ほなら早くしてや」
研修医二人はそそくさと出て行き、Sさんは何かブツブツ一人で文句を言っている。しばらくすると看護婦さんが薬を持って来た。
「あのね、これが血糖値を測る機械。使い方はこれこれこうね、説明書はこれ。ちゃんと読んでね。血糖値は高くてもあかんし、低くても危険やから、ちゃんと食前=食べる前に測って、きちんとやって下さいね」と懇々と説明している。Sさんはもう一刻も早く出たいらしく、余計なことは喋らずにはいはいと生返事だけをしている。どうやらインスリン注射などどうでもいい様子なのが解る。

こちらはお茶が切れたので、買いがてらドレーンスタンドを押してカーテンをひょいと開けると、Sさんがちょうど出て行くところだったので「外出ですか」と言うと「外泊、や」とにやりと笑う。「血糖値の測定のやつ貰いました?」と聞くと「そんなん使わへんねん」とこれまたにやり。やはりそうですか。
「これからコレですな」とタバコを吸う動作をすると「当たり前や」とニヤリ。
「ほな明日の夕方戻りますわ」と言うので「気をつけて、行ってらっしゃい」と見送った。あのひっきりなしの銅鑼声も全く聞こえないと妙に静かで寂しいのが不思議。すっかり憎めないSのおっちゃんに慣れてしまった。

そういうわけでSさんも外泊に出て、その上今日は週末なので病院自体も静かだ。こちらもちょっと痛みも落ち着いたので、こうしてパソコンで手術当日〜ここ数日のことを思い出しながら記録し始めている。
するとすぐ助手さんが来て「レントゲンがありますけど一人で行けますか」と聞かれたので行けます、と答えて紙を貰い、ドレーン箱を押して出かける。だいたい車椅子持って来て「行きましょう」なら解るが手ぶらで来られて「一人で行けますか」ならハイと言うしかないやんか。

中央棟の1階にあるX線受付は受付係3人用の窓口があるが、2つには「不在」という札があり、一つだけ空いている。しかしそこに人の気配はなく、PCも起動していない。よく見るとここの廊下の電気もついていない。しばらくそこに佇み用紙を確認すると確かに「受付へこの紙をお持ちください」というようなことが書いてある。
そういえば南西病棟では受付も何もなく、勝手に検査室前へ行ってたな…と思い移動しかけたところで、向こうから同じ胸腔ドレナージ中の水槽を押したおっさんがやってくる。手にはおそらくレントゲンであろう用紙。よく見ると、最初に外科に来た時に相部屋になり、手術から戻ってきたらいなくなっていた「おっさん(騒)」ではないか。向こうもどっかで見た顔だな、くらいな表情でお互い「…受付、ないみたいですなあ」と言いつつ「じゃあ直接検査室の方行ってみましょか」ということになる
果たせるかな検査室の前には白衣を着た係が一人立っていて、そのまま中へ入れというので、おっさん(騒)が俺を先にという動作、もちろん順番的に先なので遠慮無く先に入る。撮影は一瞬で終わり、まっすぐそのまま病棟へ戻った。

しばらくパソコン作業をしていると、10時半ころ突然女性研修医が来て「S先生がそろそろドレーンも抜きましょうかということなんですが…」とのこと。え? もう? まだ胸水は血の色だしけっこうな量が出てるんですが…と言うと「ええと、聞いてきましょうか?」と言ってくれたが、恐らく「やる」ということなのだろうと観念して、処置室へ向かう。
S先生はチラとドレーンバッグを見て「ああこの量ならもう全然大丈夫ですよ、これはね、管が入ってる限り延々と出続けますから」と言ってすぐベッドに横になるよう指示。パジャマの片肌を脱いで右を上に横臥位で横になり、右手を顔の方へ垂らすかっこう。
「麻酔が痛いんですよね…」というと「これはね、薬のpHの関係でどうしても痛いんですわ、こればっかりはしょうがないんですよねえ」とのこと。ガーゼがはがされて消毒され、真ん中に穴の開いたシートを上半身に被せられて、女性研修医が「では麻酔の注射をさせていただきます…」とぶすり、またぶすり。
しかし思ったほど痛くない。この麻酔が痛くないとちゃんと効かないことを知っているので、効いてない部分をさわられた時に「あの、まだ痛いですが」と言うと、指導していたS先生が「貸して」と言って麻酔を受け取り「はい、じゃあこれどうですか」とぶすり。凄く痛いです。「これは」それも…すごく痛いです。「ここも」あ痛でででで!。
「こういうのはね、ゆっくり少量ずつやってると生殺しみたいになるから、ちゃっちゃと入れちゃった方が患者さんのためなんだよね」と言って容赦なく注射された。そう、麻酔の皮下注射はこの痛さ、じゃないと効かないのである。
今回手術の際に幸い、というか当然全身麻酔で入れられた胸腔ドレーンはこうしてあっさり抜管され、縫合された。縫合も研修医がさせられ、それをS先生が指導しながら、仕上げを手伝ったりしつつチクチクと。最後に消毒して保護シートを貼られて終わり。
「まだ血痰が出るんですが」というと「術後の血痰はね、しばらくはしょうがないですね」とのこと。そんな感じでこれで全ての管が体から抜けた。I'm free。フリーダム&リバティ。何かよく解らんが。
ただ前回、内科で3週間入れた後のドレーン抜管後の嫌な感じを覚えているので、何というか胸全体に詰まった感があるというか、これでいいのだろうかという感じがある。
今は麻酔が効いているが、このドレーン抜管・縫合痕はけっこう痛むことも知っているから、戦々恐々だ。
不思議なことにドレーン部分を縫合したあと、痰が絡むような咳が消え、その代わり手術前のような乾いた咳が少し出るようになった。とはいえ手術前のように頻繁に出てしんどいわけではなく、時折出る咳がそれ、という感じ。痰を切ってみるが、血痰はだいぶ薄くはなってきている感じ。あとは時々出る咳だが、軽い咳なので挿管時のように胸全体に響くような痛みはないものの、何となく釈然としない咳ではある。お前、何が原因の咳やねん? というか。
とりあえずシャワーするにも下着の替えが無くなったので先に洗濯室でコイン洗濯機を廻して戻ってくると、女性研修医が来て「どうです、あのあと」というので「痛みも特になくて大丈夫です」と話す。「でも左肺にも穴の元みたいなのがまだけっこうあるんですよね」と言うと「そうですね、画像拝見したところ、けっこうありましたね」というので「じゃあ左もまた、気胸を起こすという事もあり得ますねえ」と言うと「そうですねえ、でもこればっかりは…」というので「スキューバとかやらないように気をつければいいでしょうか」とジョークのつもりで言うと「ああ、スキューバは確かに…ダイビング中に穴が開いたら即死ですしね」と恐ろしいことを笑顔で言われる。
そのほかは日常せいぜい強い圧が肺にかからないように気をつけると言ってもつけようがないが、もしまた左肺で同じことが起きたら、今回と同じ処置がとられることになるのだろう。すなわち最大激痛を伴う胸腔ドレナージ、さらには左胸胸腔鏡手術による穴ふさぎとコーティングだろうか…。出来ればこれっきりにして欲しいが。

昼はほぼ完食。
どうも手術前ほどではないものの空咳が出て気になるが、しばらくは仕方がないのか。それからシャワー室へ行くと「入浴中」の札。すごすごと戻ってきてテレビでMLB中継(NYY-SEA)を見る。先発予定だったクリフ・リーが突然のトレードでテキサスへ、シアトルはもはや優勝を諦めたというわけか。

その後3時過ぎになって見に行くとまだ「入浴中」なのでタイミング悪いな、と思ったがそういえばシャワー室は大小と二つあったな、と思い看護婦さんに念のため付き合ってもらって開けてもらうと、どっかのおっさんがまさしくタオルで拭いてるところで、「今空きました」というところ。
迷わず大きい方でシャワー。右の手術部分はもちろんこすれないが、その他の部分は手術前以来。ゆっくり洗ってさっぱりした。その後は先ほどの抜管縫合部分だけ、看護婦さんに消毒・ガーゼ交換というかガーゼ面付きの防水シールを貼ってもらう。
その後はPCで音楽を聴いていた。

音楽を聴きながら、ベッドの上で両手を広げてかざして見る。手術を終えた日の夜、誰もいない個室で管だらけで身動きが取れない時に、自分の手をかざしてみて「ああ、これは生きてる人の手じゃないな」と思った。手のひらには指の関節それぞれに黒く静脈が浮かび、皮膚は薄く皺が寄っている。手の甲の側には張りがなく、全体的に覇気がないというか、生気が感じられない手。
5年前に白血病と言われた後、延べで百日を超える入院の中で、何度か同じことを思った。「もう長くねえなこりゃ」と思ったこともたくさんあった。というかそういうことがありすぎて、もうそれぞれが何の時か覚えてないくらいだ。けれどもまた今、こうして生きている。まだ生きろ、もう少し生きろと言われているのか。

夕飯は9割がた完食。
ツイッターを見るとまたお見舞い、応援ツイートがある。有り難いことだ。返事がてら元気で回復していることを書き込む。
しかし実際、咳と血痰が止まらないのには困った。あと、鼻血。左の鼻の穴からの出血がなかなか止まらない。やはり血小板数が一時的に上がったのは使い物にならん欠陥品だったようだ。この鼻血は飲み込むわけにいかないので鼻をかんで出すのだが、いつまで経っても止まらずに出続けている。
咳をするたび血痰が出て、鼻をかむたび鼻血を見る。毎朝毎晩歯を磨けばこれまた出血。もう正直うんざりなのだが、こういう病気なので仕方がない。輸血せずに手術を終えられただけでも感謝せねば。普通の体ではないんだから、感染に気をつけ、これからは呼吸にも気をつけて行かねばならない。もうこうなると、だんだん「生きることそのもの」に気をつけねばならなくなってきている。「生きる」ってどういうことか、正直良く解らなくなってきている。
こういうことを書くと「それはね」とご丁寧に説明をしてくれる人が出てきたりするが、理屈はどうでもいい。現実に自分が「これまでに体験してきたこと」の延長に「今体験していること」があり、その「実感」は俺にしか解らない。俺が、病気に苦しむ連れ合いと一緒に乗った救急車で感じたこと。見て来た彼女の苦しみ、病気。自分の病気。じっと我が手を見た日。涙雨の降る空を涙を流しながら見上げた日。「俺が生きること」に対してどう思うかは、俺にしか解説できないし総括もできない、俺の人生だから。

あとどうでもいいがアナゴ君(痩)と娘さんよ、仲がよいのは結構ですが面会時間は7時まで、大人なんだから集団社会の決まりは守れよ。

夜中2時半ころ、隣のアナゴ君(痩)、斜め前のおじさん(咳)のすさまじいいびき攻撃で目が覚める。いつの間にか右の耳栓&サージカルテープが外れていた。詰め所までふらふらと歩いて行き、看護婦に無言で耳を指さすとすぐ合点してくれ、テープを貰う。看護婦は「あまりひどいようでしたら体勢換えたりしますから」とついてきてくれたが、ちょうどいびきの最盛期が治まったところで意味なし。そのまま寝ようとするがタイミングを逸してしまった。こういう夜は長い。
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2010-07-09(Fri)

おっちゃんとお近付きに

7月9日(金) 入院26日目・手術3日目

朝、洗顔など済ませた後、少しリハビリに歩こうと思いたった。胸腔から伸びるチューブの先は胸水を溜める「水槽」があるが、今は壁から吸引チューブが伸びていて、接続されている。なので終始ぼこぼこと泡立つ水音がしているが、このままではベッドから移動できない。
なので壁から伸びるチューブをいったん外し、点滴スタンドにぶら下げてあるバッテリー式のポータブルの吸引器に接続し直してスイッチをオン。これでまた水槽がぼこぼこ。あとは点滴異常を知らせるアラーム機械のコンセントを外して、ようやく立ち歩ける状態。
ガラガラと点滴スタンドを押して、ゆっくり歩いてみる。病棟は患者もちらほら起きだして、朝のバイタルなどが始まろうかという時。とにかく外科は切ったら「立て」「動け」「歩け」である。体を動かさないとうまいこと肺が広がらないし、その分治りも遅くなるからと言われれば、やらいでか。
病室をそのまま出ると、廊下にある椅子に何とSのおっちゃんが座っていた。まずいと思ったが目が合ってしまったので黙礼する。Sさん誰かと話したくてウズウズしてたようで、さあ始まるかと思ったところに日勤の看護婦さんが通りかかり、「あ、今日担当する者です、どうかされました?」というので「歩けと言われてるので、ここをぐるっとして来ようと思って」と言うと納得していた。
そのやりとりを見ていたおっちゃんが横から「歩かなようならへんからな」と言うので、にっこり笑って頷くだけにして、よたよたとゆっくり歩く。本当はもう少し早く歩けるのだが、わざとゆっくり目に歩いて個室側の廊下〜渡り廊下から大部屋側に戻ってくると、病室前の椅子にはおっちゃんの姿がない。よし、待ちくたびれたな、いないよな、今のうちにベッドに戻ろう…と病室前の廊下へ出たところでヌッとSさん右手から出て来て、もう逃げられない状態。
おっちゃんは「大変やな。でもそんだけ歩けるんやったらもう大丈夫やで」から始まって、その場所で例の「わしはな、癌なんや。自覚症状も何もなくてな、ほいで…」という話「★(=手術当日の日記参照)」が始まった。その下りはもうこちらもとうに暗記させられているので「左肺ですね」「ああ、断られてこちらへ」とか何とか話を短くしようとするのだが、おっちゃんは俺が何か自分のことを話す間は鋭い目でじっとこちらを睨むように見ていて、切れ目を見つけるや、グイ! ともの凄い力で再び話を自分の話に強引に引き戻す。なるほどこれは難敵である。
敢えなく俺も抵抗を諦め、その場に立ったまま何度も何度も聞かされた話を(Sのおっちゃんにとっては初めて俺にする話と思っているのだが)聞かされてしまった。いやその話、全部知ってますって…。とほほと思ってたら看護婦さんが通りかかり「薬の件で、いいですか?」というので、おっちゃんに黙礼だけして、救いの神とばかりベッドに戻った。
看護婦さんは「御免なさいね、お話の邪魔しちゃって」というので「いーえ、助かりました」と小声で言うと「えっ?」と言ったあと、我が意を得たりといった顔で看護婦さんもにやっと笑っていた。おそらくSさんの噂は看護婦詰め所でもじゅうぶん伝わっているのだろう。
とにかく話がくどい、長い。人の話をよく聞かない。逸れる。逸らす。用件が進まない。じゅうぶん注意するように、と。ついでに臭い。これは何というか、長年体に染みついた、全身の毛穴から吹き出すたばこのヤニの臭いか、それと体臭の混じったような臭い。話を聞くに吝かではないが、一度本気でゲロが出そうになったのは参った。

その後、ほんのちょっととはいえやはり歩いた後は息が切れたので、ベッドに転がっていた。すると助手のおばちゃんたちが「シーツ交換でーす」とやってきて、強制的にベッドから剥がされる。仕方なく廊下へ出れば、当然のことながらおっちゃんも外に出ていて、待ち構えており、またしばらくつかまってしまった。
「あんたはどこ切ったんや」というので「右の肺に穴が開いたの塞ぐのと、何やデキモノがぎょうさん出来てるらしくて、それも、胸腔鏡で取ってもらいました。ついでに胸の真ん中にどでかい腫瘍があって、それも取ったんですわ」と言うと「ああ、内視鏡で? あれな。あれはやさしいわな、ざっくり切るのと違ごてな。もうんなもんすぐ治るわ」と言う。
「一応俺はこの前に開腹もやってますんで、確かにあの時よりは楽ですわ。で、Sさんはどこか手術されたことあるんですか?」と聞くと
「わしはいっぺんもあらへん!」とキッパリ言うので、唖然としてしまった。吉本ならここでコケるところである。
Sのおっちゃんはあちこちで「ワシは癌や(どうや参ったか)」「府立では切られへんいうて断られたんや(どうや凄いやろ)」「癌は確定してるけどな、怖いことなんか一個もあらへん(男前やろ)」というスタンスで押しているが、実は手術は未経験だった。
何しろ聞くとはなしに強引に聞かされ暗記させられたところによれば、「前の病院」での検査で肺気腫ぎみだと指摘され、普通の人よりも肺の機能が肺活量などかなり劣っており、今回肺に腫瘍が見つかったことでもし切っても、その後酸素吸入が必要かも知れないということ…などを聞かされた。3回目か4回目になるが。
俺が前屈みでちょっと傷を気にしていると、「まだ痛むんか」というので「ええ、そんなひどくはないんですけど、自分の場合持病があって血液の状態が悪いんですわ。せやから背中の麻酔(ブロック麻酔のこと)が使えへんかったんですよ。あれ使えたら痛くも何ともないんやけど」と話す。
すると予想通り「あんたの持病て何や」というので、「元々は白血病という病気です」と言うと、さすがにおっちゃん一瞬絶句して「そら…血液の癌ちゅうやつやな」というので「そうです、よう知ったはりますね。血を作る細胞が癌化して、まあハンパなものしか作れへんくなるんです。診断が確定した後は細胞切って検査もあったし、その後は胆嚢取ったり帯状疱疹は悪化したし、今回は肺が破けて内科でドレーン3週間入れてましたわ。もう肺切ったり、入院も手術も何回も何回もいい加減勘弁して欲しいですわ、痛いのだけは何回やっても慣れへんから」と話す。
おっちゃんは見た目若く元気に見えたであろう、俺がそんな状況なのは当然知らなかったわけで、珍しく俺が話をしている間、上目遣いにじっと黙って話を聞いていた。ていうか、どうやらちょっと(病気のランク的に)一目置いたらしい。こちらは別にビョーキ自慢してしているわけじゃないし、そんなん出来れば自慢話がない方がいいに決まってる。
「今回Sさんは肺以外には転移してへん言うたはったでしょ?」と聞き返すと「わしは脳にも骨にもなーんにも異常無かった」とキッパリ言うので「じゃあ、きっと肺片方取ってもうても平気ですよ。僕が勤めてた会社の社長なんかね、結核で片方の肺取った後も酒飲んでピンピンしてはりましたよ」と話す。もちろん故・長井勝一翁のことである。

肺がんはなかなか早期発見が難しく、かつ転移のリスクもあり怖い癌だ。けれど逆に早期のうちに見つけて貰って転移もないうちに取ってしまうことが出きれば、とりあえずは安心だ。あとは抗がん剤などで転移がないよう注意しながら様子を見ていけばいいだろう、タバコはやめて。癌の転移・再発は怖いが、俺のようにずーっと体が弱り生殺しのような癌患者も、けっこうしんどい。そんな話を廊下でする。

そのうちシーツ交換が終わったので、Sさんとは病室の前で別れた。おっちゃんその後食堂の方へ歩いて行ったが、いい加減自分の話もする相手がいなくなったはずなので、恐らく俺が今話したことを「わしの向かいの人な、白血病なんやて…」と、話のネタにしに行ったのかも知れない。いっときの暇潰しにでもしてくれれば、それでいいです別に。


この日は、手術をした前の日よりも右胸全体が腫れたように痛かった。
もちろんカメラを入れた穴やメスで切った傷、ドレーンが突っ込まれてる穴があるわけで、それらのある右胸部全体がズキズキと痛むのは仕方のないことだ。一番しんどいのは何といっても咳をするときで、胸全体に鋭い痛みが響いて、特に傷にズキーンと効く。くしゃみはすれば恐らく激痛で死ぬと思うので、極力我慢し、出ないように気をつけている。
あと相変わらずまだ血痰が続いていて、それをひっきりなしに出さねばならないのだけど、そのために咳き込み痰を切る作業が胸腔に響いて地獄のように辛い。かといって痰を出さねば気管がどんどん溜まって詰まってしまうので、出さないわけにはいかない。ベッド脇には痰を出したティッシュを丸めて放り込むビニール袋をぶら下げてあるが、ぱんぱんに膨らんできた。
朝は立ち上がって点滴アラームのコンセントを抜き、ドレーンをポータブルに付け替え、トイレと洗顔。立ったついでに、手術前にまとめておいた荷物を少しいじくった。大部屋の窓際に居た時に手術前にまとめたように、手術後の最低限必要なT字帯や吸い飲み、下着とタオルなどの袋以外は荷造りしたそのままになっている。
それらを点滴やドレーンのチューブに注意しながらゆっくりベッド脇へ引き寄せ、携帯電話や財布、パソコンなどを引き出していく。この作業がけっこうしんどくて玉の汗。丸めたコンビニの袋がぽろりとアッチ側へ転がり落ちただけで、サッと拾うことも出来ずガラガラと点滴台を移動させてゆっくり腰をかがめておそるおそるつまみ取る感じ。

何とかPCと仕事用のHDDを接続してテーブルへ設置、さっそくツィッターでお見舞い・応援コメントを@でくれた方々へ御礼のツイート。この間のたくさんのTLを遡って見ていくことはとても出来なかったが、@ツイートだけはまとめて読めるので、皆さんにはお礼の返事をしておいた。

手術だっていうのに知人でさえシカトする奴もいる(涙)ってのに、会ったこともない方や本名さえ知らない方に励まされるなど、本当に有り難いことだ。こちらが落ち目になったり弱り目になると離れていく人間を嫌というほど見て来たので、病気になっても変わらず応援してくれる人というのは心から有り難い存在で感謝しかない。たかがネット、たからツイッターと言うが、けっこう如実に人間性の浮かび上がるツールでもある。知人が病気になったり入院したということを知ったら、俺はお見舞いのツイートはする。
しないことで無言の応援をするという主義の人もいるだろうけど、自分の場合は同じ時間帯にTLに居ると無視しているように思われるのが嫌だ。実は「言葉にしないと伝わらないこと」の方が「言葉にしなくても伝わること」よりも、実際は多いものだ。敢えて言葉に出されることで嬉しさも倍増ということもある。受け手の問題で。
俺の場合は先方が軽く「ツイッターなど遊び感覚」と思っていたとしても、遊びだったら余計にシカトされるのはキツいと考えてしまう。裏もなくスルーというのは無視ということだから。気がついたら@(自分宛のツイート)には必ず返事をすることにしているし、時々見逃したりしなければ。まあ要するに「気にしい」なので、本来もっと気軽なものなのは解っているのだが、そもそもがブログを更新しなくなった自分が遠く離れて「心配してくれている人たち」へ「今日も生きている」ことを伝えるために始めたこと。元々が真剣なことだった。

昼はまた粥が出たが、たまねぎと油揚げの味噌汁がついており、これが尋常じゃないほどうまかった。薄味薄味というが関西の味噌汁はダシがしっかりしたいいお味。粥の方は荷物から出しておいた「ごはんですよ」で、4割ほど食べた。病院へ入ると「ごはんですよ」やふりかけ類にはとにかく助けられる。醤油や塩もあった方がいいけれど、何しろ白いご飯を味の薄いおかずでどうやって食べるかというのはけっこうな難題なのだ。

午後は1時半からレントゲン撮影があるというので待機していたが、助手さんが一向に迎えに来ない。通りすがりの看護婦にそう言うと「だったら一人で行って貰ったらいいですし」と冷たく言われる。外科病棟はサドの集まりか。
「あっ、そうすか…」と返し「じゃあ行ったるわ!」と一人で点滴とドレーンを押しながら中央棟まで行った。X線受付まで行くと息が切れた。2番から4番でお待ち下さいと言われて歩いて行くと、座る間もなく呼ばれて中に入り、撮影は胸部の前と横からの2枚、1分もかからず終了。
その後は地下へ降りて、ローソンへ。箱ティッシュは咳と血痰処理のたびに使うので思いの外消費が早く、追加で購入。髪留めのゴムとペットボトルのお茶などを買い物して戻る。
(ところで病院ではよく「水に流せるティッシュ」というのを売っているが、あれは非常に使いづらい。痰を切るために口や舌をぬぐうとティッシュが溶けて舌の上に残る。ちょっと汗をかいたと思って軽く髪の生え際をティッシュで抑えたりすると、そこに切れ端が残ったりもするので、使いづらいことこの上なし。普通のティッシュで十分というか、普通のじゃなきゃ駄目だ)

午後に執刀したS先生が来てくれ、レントゲン、採血などから見ても経過は非常に良好とのこと。手術前にひっきりなしに出ていた乾いた咳はどうですか、というので「痰が上がってくるのでそれを出すような咳はけっこう出るんですが、手術前のようなのは出なくなりました」というと、やはり縦隔の大きな腫瘍を取って良かったのではないか、とのこと。最大部で7cmという大きさで、ゆくゆくは心臓を圧迫していたかも知れないし、今回も肺の何とか神経というのにかなり近づいていて、そこは咳やくしゃみを誘発する神経で、そこへの影響も無かったとは言えないし、今後当然影響が出ていくことも考えられたでしょう、とのこと。
まあ確かに、正中・つまり胸の真ん中にここ数年時折ズキンとキリで突かれたような痛みを感じることがたびたびあった。縦隔の腫瘍は5年前の白血病告知時からもちろん知っていたし、少しずつではあるが大きくなっていることも知っている。なので仕方ないんだと思っていたが、あんなデカいものがそもそもあってはいけない場所なわけで。
S先生は「だから取っておいて良かったと思うんやけど…よく考えたら白取さんの場合はまだ脾臓があったんですよね、一番の大物が」と苦笑される。あ、そういえばそうだ。基礎疾患である白血病原発である身体症状で最も大きなものは、この巨大にふくれあがった脾臓だ。たっぷりと血を含んだスポンジのような臓器が下は骨盤、右は臍の右までふくれあがっているわけで、さすがにこれを取るとなると命がけの大手術だろうし、だいたいもうそんな手術は御免である。
「ご飯も食べられてますし、胸の方からも水がだいぶ減ってきてますしね、色も薄まってますから、明日あたりレントゲン見てこれ(胸腔ドレーン)も抜きましょか」ということになる。も、もうっすか? 内科じゃドレーン3週間も入れてたのに。まだ午後の紅茶がかなり赤くて濃い感じなんすけど大丈夫なんでしょうか…。

この日の夕飯からは普通のご飯に戻った。魚の煮付けみたいなものと溶き卵のスープなど。
食後に女性の研修医が来て、「抗生剤も、痛み止めも経口で調整できそうですね、じゃあ点滴取りましょう」ということになり、夕方に右腕から点滴が外れた。順番に色々と外れていき、いよいよ残ったのは胸腔ドレナージだけとなった。
消灯前には挿管部分のガーゼ交換をして貰い、夜はだいぶ痛みも薄れており、10時前に3方からいびきが轟音のように聞こえ出したので、耳栓をしてさらにサージカルテープでがっちり封印のように固定してこちらも寝に入る。
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2010-07-08(Thu)

大部屋を楽しむ

7月8日(木) 入院25日目・手術2日目

手術のあと、個室での夜中はほぼバイタルが1時間おきで眠れる状態にはなかった。しかし明け方に見回りが2時間おきくらいになった箇所があって、その間に少しだけうとうとした。
けれど睡眠に入る→浅い呼吸が深くなる→肺が広がってビクン! と痛み目が覚める
もしくは
睡眠に入る→ついつい無意識に寝返りをうつ→傷や挿管部分が痛んでズキン! と痛みで目が覚める。
という感じで、当然深く眠ることは出来ず。どっちで目が覚めてもしんどいが、どちらかと言うと呼吸が深くなった時に体がびっくりするように、飛び跳ねて目が覚める方が深く寝に入ろうとしていた分だけ辛い。

そんなこんなで翌日の朝も頻繁なバイタルチェックから始まり、相変わらずの微熱は38℃台が続く。女性の研修医が来て「お加減どうですか」というのでボトルのプッシュ式の痛み止めも、結局追加でプッシュすることもなく来てます、夜中のボルタレンもよく効きました、という話をした。
研修医は「ごめんなさいねー、ここはスパルタなもので、さっそく今日の午前中から歩行練習していただいて、大部屋に移動していただくんですよ」と気の毒そうに言う。その情報はすでに知っていたのでもう諦めていたが、いざとなると「もうちょっと勘弁してくれよ」というのが正直なところではあった。

落ち着いたところで術後のボタン式貼り合わせパジャマから普通の病室用パジャマに着替えさせられた。そのときチンコからの導尿管を取ってもらえないかというと、まず9時半から順次移動式のレントゲンが来るので撮影を済ませてから、一回試しに歩いてみて、レントゲンの結果異常がなく医師のOKが出て初めて大部屋に移動してもらい、そこで取ります…とのこと。道は遠い。
9時半からだという、その移動式のレントゲンとやらが来るというのをひたすら待っていたが、延々と来ない。看護婦さんや助手さんも時折のぞきに来ては「あら。まだ?」なんて言っている。
手術前にも一度来てくれた、血液内科に居た看護婦さんも来てくれて「無事終わって良かったですねー!」と言ってくれたあと、レントゲン待ちというと「遅いですねえ」と言って出ていった。その後廊下で「白取さんレントゲン待ちやねんて。まだ来てへんらしいし」と問い合わせてくれているのが聞こえた。その前に誰か問い合わせてくれといて欲しかったですが。
そうして1時間以上待ってようやく若い技師が移動式レントゲン撮影機をガラガラと連れて来た。ベッドの背を立てて体を起こした背中に板を挟み、撮影機から伸ばしたアームが前方からX線を充てて、撮影はわずか1秒足らず。
それからいよいよ、病室移動だ。
つまりこの新しい病棟の個室に居られたのは、術後の夕方から翌朝まで、なのであった。
容赦なく立たされ、点滴とドレーンバッグのスタンドを持ってゆっくり歩いて病室へ向かう。もちろんまだ痛い。はっきり言って痛え。看護婦さんが念のためすぐ後ろについてくれ、ゆっくりとした足取りで指定された部屋へ向かう。その先はまさかの、404号室への帰還であった。
ただ顔ぶれはガラッと変わっていて、俺のいた左奥には声質からおっさんらしい人、その向かいには常に咳き込んでいる白髪のおじさん、そして俺は入り口手前左にベッドが据えられるのを立って見ていた。
…と、いうことは、俺の向かいは、例によって、あの坊主頭で銅鑼声のおっちゃん…Sさんということか。うへえ術後の痛い時に、よりにもよって俺の向かいがSのおっちゃんかよ…。まあ、そういうオチになるんだわなあ。

ベッドに仰向けに落ち着くとカーテンが引かれ、すぐに看護婦さんが両側から二人がかりで体を拭いてくれた。T字帯は外され、露出されたチンコは生理食塩水をじゃぼじゃぼとかけて洗われた。チラと見ると、先端からチューブが伸びているのが解ったが、何度見ても気持ちのいいものではない。

昼飯はお粥が出た。食べられたらなるべく食べた方が回復が早いから、とのこと。呼吸器と消化器は別、手術の前日から何も食べてなかったので、空腹。鮭は一切れと、お粥を3分の1ほど何とか頑張って食べた。
しばらくして女性研修医が来て、レントゲンの結果は異常なかったし、歩行も出来たということで「尿の管は抜いてもいいでしょう」とのこと。
さっそく先ほど下半身を拭いてくれた看護婦さんに抜いて貰う。前回、胆嚢摘出術後は普通に大の字に寝たまま、気がつかない間にスゥッと抜かれて痛みも全く無かった。今回は両膝を立てるように言われ、ソレは上を向けたままで抜かれたので、ちょっと痛かった。
それにしてもあんな直径2〜3mmの管が尿道に入ってるなんて、考えただけでもゾッとするのに、実際入ってるというか「突き刺さっている」とでも言うべき状況を見るのは、我が事ながら痛々しい。
前回は腹筋が使えなかったので見たくても視界に入らなかったが、今回は丸見えだ。
「うげえ、こんな太いの突っ込んであるのかよ!」というのが正直な感想。アレ引っこ抜かれた後、しばらくあの穴そのままじゃないだろうな、とか要らんことを考える。いよいよ抜かれる時は前述のように上向きだったので、ファウンテンのように小便が膀胱から吹き上がるような感覚があったが、現実にはちゃんと看護婦さんの手にしたカテーテルの中に残尿が全て収まっていたのが不思議だった。

ちょっと不快な違和感は残っているが何とかまず、これで管が一つとれた。
手術から回復していくということは、こうして体から余計なものがちょっとずつ取れていく、ということである。
ところで鼻からに変更されたはずの酸素チューブは、先生が「まだ必要」と言っていたのに看護婦さんが忘れていった。俺も浅い呼吸ながら、これなら無くてもいけそうかな、と思って何も言わなかった。体につながってるのは少ない方がいい。これで二つ、外れたことになる。

その後はベッド上でひたすらじっとしていた。
「肺(の術後)は体を起こしていた方がいい」とよく言われるが、ベッドの背を30度くらいに立ててよりかかり、マウスのコードを延ばして手元で操作できるようにして、ネットを見たりしていた。
向かいの胴間声のおっちゃん・Sさんは部屋の顔ぶれが入れ替わったので、例の「★」話(昨日の日記参照)を新たにする獲物を探している風情。
窓際へペッタペッタ音を立てて歩いて行き、おそらく窓の外を眺める風情=演技だろう、そしてわざと天気のことやら何か独り言を言う。お愛想で相づちをうったのは新たに右窓際に入った、咳をよくするおじさんで、見事に釣られた。この白髪のおじさん(咳)はKさんといい、声はさほど大きくなく物静かな人だが、とにかく咳が出始めると大きく長く続き、最後は痰切りを何度もして、かなり辛そうである。
おじさん(咳)=Kさんも肺に腫瘍が出来ていて取ることになったそうで(おっちゃんSさんの「事情聴取」が聞こえて来るのによれば)、「今まで何も自覚症状もなくて」と言っていたが、その大変大きく頻繁な咳と痰切りで「どこかおかしい」とは思わなかったのだろうか。
まあでも俺も軽く風邪だろうとか、鼻の奥や喉やら切れても血が止まりにくいしな、などと軽く考えていたし、自分のことはあまり大袈裟に考えないものか。

Sのおっちゃんは例の「★」話(昨日の日記参照)をまた、振り出しからおじさん(咳)に繰り返したあと話が途切れると、「あんたどっかで見た顔やな、どこそこにおれへんかったか」と言いだした。おじさん(咳)が「わしは若狭におったんやけど、どこそこに」と言うとSのおっちゃんは「そうや、そこや! あこになんとかいうのあったやろ、そこへわしよく行ってたんや」「ああ、そうですか、そこなら私もよう顔出してましたわ」みたいな感じで何だか和気藹々。
こっちは聞き耳を立てずともかなりの音量で入ってくるのだが、話の内容や地名がローカル過ぎて意味不明。ただ、この二人が「本当に顔見知りであったかどうか」は、結局のところ確証がないままの様子ではあった。
しかしこの白髪のおじさん(咳)はこのことを境に、「これからこのおっちゃんにこの調子で話しかけられたらたまらんな」と警戒したようで、その後は開けていたカーテンを閉めるようになってしまったのがおかしい。

大部屋の前にはトイレがあるのでそこへ立って戻ってくると、4つのベッドスペースでカーテンを全開にしているのはSのおっちゃんだけで(笑)、Sさんはしょうがなく食堂か他の病室へ行って、胴間声を発しているらしい。
左手の奥、術前に俺が居た窓際には正体不明のおっさんがいるらしいが、ずっとカーテンを閉め、妻と娘らしい若い子が来ていて、ひっきりなしに「こそこそ」「ひそひそ」と話している。
そのうち奥さんが帰ったのかどこかへ出かけたらしいが娘さんはずっと残っていて、ひっきりなしに父親と話している。廊下ですれ違ったときに見たら二十歳をとうに過ぎているように見えたが、今どきずいぶん仲の良い父娘なんだな、と感心。
父親の方は声だけを聞いていると、看護婦さんにはタメ口で割合つっけんどんで横柄な態度を取る。なので「なんやコイツ」的に思っていたら、娘に対してはけっこう低いダンディな声を作って話しかけている。けっこうイケメンなオヤジなのかな、と思って勝手に想像していたが、洗面台でばったり会ったらアナゴ君を痩せさせてメガネをかけた顔だったのでコップを取り落としそうになった。
その時俺が「こんにちは」と挨拶をするとチラッとこちらを一瞥して「チョリース」と言って廊下へ出て行ったので、思わず「は?」と聞き返しそうになってしまった。おそらく50代だと思うが、大人の男が同室の大人にする挨拶かねえ…。
父娘は周囲に聞かれたくない話は露骨なひそひそ声になり、娘とクスクスと笑い合い、それ以外は割合に大きな声でコテコテの京都弁を話す。娘は母親が帰って父親と二人になった後は不自然なくらい妙に甘ったれた「女の声」で媚びたような口調になり、時折低いトーンになっては「ひそひそ・こそこそ」「クスクス」みたいになる。
Sのおっちゃんの胴間声は嫌でも聞こえて来るし耳障りな時も多いが、こうしたヒソヒソ話はそれはそれで肝心部分が聞こえず、気になって仕方がない。

もう大部屋の病室なんかこんな感じなので、積極的に話を聞いたり楽しんでいかないとやってられない。そう、この状況を楽しむのだ。

このアナゴ君(痩)はマイペースというか、Sのおっちゃんの胴間声喋くり攻撃も生返事でハイハイと適当にいなして、どこかへすぐ消えてしまう。基本的に娘以外には興味がないようだった。大丈夫かあんたたち…。
さあ、こうなると俺の向かいのSのおっちゃんがイライラし出した。独り言が増え、その内容に文句が多くなったことと声のトーンで解る。かといって向かいの俺からは特段話すことはないし、聞かされることも無くなった(つまり同じ話の繰り返しなのでもう憶えてしまった)ので、カーテンは閉めてある。
Sさんの隣のおじさん(咳)はすっかり警戒してカーテンを閉ざすようになった。Sのおっちゃん、とにかく黙って静かにしているということが苦手なお方のようで、ベッドで静かにしているのは寝ている時(ただしイビキと寝言あり)くらいで、あとは会話というより誰か彼かをつかまえては一方的に長々と話をする。
話し相手がいなければフラリと食堂やその辺の談話スペースをさまよい「わしはな…」と相手をつかまえては同じ話を繰り返しているのが、胴間声なので遠くからでもよく聞こえる。この時も結局、しばらく音楽を聴いているうち、静かになったと思って見たらベッドは空だった。

ところで俺は手術時に喉に挿管されていたせいか、どうもいつまでも喉にイガイガする感覚があり、このあたりの日は良く水や茶を飲んでいた。
そういえばアソコにぶっ挿されていた導尿管はもう外されている。そろそろ排尿しておかねばとトイレへ立つと、管が抜かれた最初の放尿は嫌〜な感覚だった。膀胱から尿が尿道を通って出てくるのがはっきりと意識される、解る。痛みこそ無いものの、普段とは違う嫌な感じ。
腹圧はかけても比較的痛みは少ないので勢いよく放尿していたら、最後の方、こちらはまだ尿意があるのに尿が途切れて、なぜか詰まった水道管のようにゴボッゴボッと空気混じりで吹き出したのには驚いた。「うわあ」と思わず声が出た。何だ、ぶっ壊れたのか俺の膀胱? と一瞬仰天してパジャマを濡らすところだった。
その後ベッドに帰りよく考えてみると、導尿管がささっている間、看護婦さんがよくチューブから伸びたベッド脇のバッグに溜まった尿量を測りに来て、ついでにその時チューブに停滞している尿をポンプのように途中を折り曲げてクイ、クイとバッグへ落としていたのを思い出した。あれで空気が膀胱へ逆流したということはないか。というかそういうことにしよう。じゃないと俺の膀胱が水のトラブル・クラシアンになってしまう。

その後、看護婦さんが向かいのベッドに「Sさーん!」とやってきて「明日胸腔鏡検査ありますけどね、最後にタバコ吸ったのいつですか?」と聞いている。カーテン越しにじっと聞いていると「…もう、ずっと吸ってへんけど?」「本当ですか、本当は、いつですか?」「だからな、わし肺気腫もある言われてんねん。せやからな、元々タバコ吸うたらあかん言われてまんねや。んなもんそら…」「あのね、Sさん。最後に、タバコを、吸ったの、いつですか?」「…一ヶ月前や」「本当ですね?」「ほんまやて! 前の病院でお前あれこれ何やかんや検査されてやで、肺気腫や癌もある言われてな、んなもん吸うてられるか?」「ふうん。じゃあ私Sさん、信じますよ?」「えあ、ああ…」みたいな、本当にドラマかコントみたいな会話が繰り広げられている。
本気で録音したかったがレコーダがないことがこれほど悔やまれるとは思わなかった。
看護婦さんは「あのね、タバコは本当にやめて貰わないと、命に関わりますからね、手術できなくなりますよ。合併症とかありますし、タバコ吸う人は手術しませんからね!」と、当然ながらきつい口調で言う。
「せやから吸うてへん言うてるやん。わしは肺気腫ある言われたらからな、肺気腫にはタバコは良くないさかいな、それでスパーッとやめたんや」
「タバコは肺気腫だけじゃなくて全てに良くないですが…」
「そないなこと言うてもやで、わしはな、元々15、中学の時から吸うとるわけや。そらもう若い頃はスパスパスパスパ、ところ構わず煙突みたいに吸うとったわいな。せやけどな、今でも毎日1時間かけてやで、自転車で川まで行ってからに、投網で魚ぎょうさん採って戻ってきてやで、それでもなーんもないねん。今でもやで? 息が切れるとか、ほれ、ゼイゼイ言うとか、そういうのんもないしな、ほいでもって…」
「…解りました。それとね、日曜日、手術の説明がありますので、その時どなたかご家族の方は来られますか」
「あのなぁ、…わしには家族というものがおれへんねん。子どもたちはおるで。けどな、まあはっきり言えば別れた女房との子や。もう皆独立してあっちゃこっちゃ行ってしもてるやん。そんなんな、急にわしが手術やから言うたかてな、向こうには向こうの都合というものがあるやんか、逆に? な。そやろ? せやから…」
「あ、では説明はお一人だけで受けられますか」
「いや、せやから言うてるやん。聞いてみいひんことには解らん、言うてんねや。来られるかも知れへんし、来られへんかも知れへんな。そら今わしに聞かれても? 解らんことやろ? 向こうが決めることやさかい。それやったらわしが一人で聞くしかないやんか」
「先日来られてた方は奥様では…」
「あれはなあ、実は正式な妻やないねん。さっきも言うたけどな、女房はおったで、子どももな。せやけどあなもんもうとっくに別れてな、子どもらも独立してまんねん。こないだ来とった奴はな、女房ちゃうんやけど、一緒に暮らしてもう30年になる。籍は入れてへんけどな、ずーっと一緒に暮らしとるわけや。事実上の妻、いうのにあたるわな。せやけどもし、万が一? わしが死んだりする場合もあるやろ? 手術かて100%成功するわけやないしな、万が一いうことがある。そうなった場合ややこしいやろ、色々複雑な事情があんねん(笑)。せやからわし一人でええ、ちゅうてんねん」

「では奥様は来られないということで」
「あんなん来たところで難しい話聞いてもしゃあないやんか。先生の説明や言うていろいろ見せられて話されてもな、一回前の病院でも聞かされた話やしな、今話したように、色々事情もある。ほいでな…」
「わ、わかりました。ええと、とりあえず。お一人で説明を受けますが、子どもさんが来られるかどうかは、聞いてみないと解らないということで良いですね」
「せやからな、相手にも都合ちゅうもんがある、言うてるやろ。そらあんた、親が癌や手術や言うたらな、真ん中の子はとりあえずいっぺん行くわ、みたいなことは言うてくれとったで。けどな、それかて都合が合うかどうかは解らへんやんか? そやろ? いくら親子や言うたかてもうお互いに別々に暮らしてそれぞれに生活いうものがある。向こうには向こうの都合、というものがあってやで…」
「はい、とにかく、ご都合だけ聞いておいてくださいねっ」
看護婦は半分怒ったのか呆れたのか、足早に立ち去ってしまった。コントかよ。

看護婦が去った後もSのおっちゃんは「何やねんほんまに。説明言うたかてそんなもん聞かされたって解るもんと解らんもんとあるわい…」とかブツブツ言っていたのがさらにおかしさを誘い、俺は笑いを堪えるのに必死であった。

夜はまた看護婦さんにサージカルテープを貰って耳栓をがっちり固定して寝る。何しろ皆さん、いびきの猛者揃いである。
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2010-07-07(Wed)

手術、無事成功

前の晩はさすがに手術前夜なのできっちり睡眠を取りたく、耳栓をねじ込み、看護婦さんに貰ったテープでがっちり補強して寝たお陰でおっさん達のイビキも回避、割合すんなり眠りに入れた。尿意で目が覚めたら2時半。それからまた寝るが、その後は結局寝たり醒めたりだった。
朝はバイタルが始まるざわつきで何となく目が覚め、6時半に看護婦が来るまで横になっている。
指先の酸素濃度を測られながら「…(ウンコ)出ました?」と聞かれたので「まだです…水とか飲んで頑張ってみます」と答える。便が出ないと浣腸である。後ろの穴は座薬さえ入れたことはないので、何としてもそれは避けたい。洗顔など済ませてからさっそく水をガブガブ。前の晩飲んだ下剤2錠は全く効いていない風情。あとは動くしかない。

この日は病院での参院選不在者投票の日だったので、9時過ぎに本館の方にある指定の場所まで歩いて行くと、若い職員がてきぱきと机やら箱やらの準備をしており「9時半からです」と言われてしまう。
まだ10分ほどあったので、そのまま歩いて渡り廊下にある図書スペースに座ってじっと待っていた。ドレーンが外れたのはいいが、その後ずっと絶え間なく乾いた細かい咳が出て、歩くと酸素が足りなくなるせいかしんどい。また咳をするたび縫合された傷に響くのも辛い。
9時半になったので投票所へ行くと、もうすでに1人2人投票を開始していた。病棟と名前を告げると投票用紙を2枚渡され、投票。
前は政党名と候補者名だったが今回は比例の方はどっちでもいいという風に変わったらしく、なぜもこう毎度毎度投票方法を変えるのか、意味が全く解らない。組織だって選挙にかり出される勢力には好都合だろうが、無効票も増えるだろうし、本当に不親切だと思う。

病室に戻って自分のベッドに腰掛けると、疲れてドッと汗が出た。
しばらくぼうっとしていると、病室の中に聞き慣れない重低音の関西弁が響き渡っていることに気づく。
いつの間にか銅鑼声のコッテコテ滋賀弁(あとで滋賀の人だと判明した)のおっちゃん、Sさんという人が、なぜか入り口手前右にいたオッサン(静)と入れ替わっていた。坊主頭で魚ギョロ目、パジャマではなくダランと伸びたランニングに甚平という見事なコーディネイトのSさん、とにかくコッテコテ&重低音&銅鑼声でひっきりなしに喋っている。
その相手はSさんの向かいのベッド、つまり俺の隣に居る例のお調子者のオッサン(騒)ときてるから、その騒々しさといったら溜まらんレベル。
正直こちとら手術前なので心穏やかに過ごしたいのに(笑)、何だこの喧噪は…と苦笑が漏れる。まあ溜まらないわけだが、Sさんの声はタバコ焼けした超重低音で、オッサン(騒)はどこが肺病なのかと思うほどの音量で、これはもう避けようがない。
このSさんというおっちゃん、コテコテの上方落語みたいな口調で、しかも話の内容はとにかく自分のことを話すのが好きという人で、人の話は基本的にあまり聞かないタイプ。そしてくどい。コテコテの上にくどい。背脂たっぷりの豚骨ラーメンにラードとバター200g追加、みたいな感じで、こうなると話は嫌でも聞こえてくるので、逆におもろいおっちゃんやな、と思えてきたから不思議。

内容は★「自分は15からタバコを吸っとる、今でも自転車で1時間かけて川まで行って投網で魚を捕っている、自覚症状も何もない、それが何とか病院でレントゲン取ったら影があるから大きい病院行けと言われた、府立病院行って色々調べたら癌やと言われた、しかしそこでは切ってくれないという、しょうがないのでこっちへきた…」「だからわしはもう癌なんや。癌は確定しとるんやけどな、いやいや何も怖いとかあらへん? 何しろわしの場合脳にもな、骨だの他の場所には転移も何もしてないんや。PETあるやろ? あの…骨のやつな(PETは骨の検査ではないんだけど)、あれでも骨に転移はないちゅうてな。ほいで今回こっちで左の肺ん中の塊を取るちゅうわけになったんや。あんた(おっさん騒)は? 右肺? そりゃええわ右は3つあるさかいな、わしの場合は左やから2つしか無いんや。しかも心臓の側やろ? ほいでな…以下延々と続く」という話★
を、とにかく病室内はもちろん廊下にも漏れ聞こえる銅鑼声で延々と話し続けるのである。
さすがのオッサン(騒)もひたすら相づちと聞き役しか出来ず、合間にちょいと何か言おうものなら256倍返しに会うという風情なのがおかしい。その話のとりとめの無さ、医学知識の適当さ、フィクションの絡め方、そして語り口調と日焼けした体に坊主頭というスタイル、全てがもうコントのような光景。
俺は「これは不快ではないな」と思って聞いていた。ただ俺が相手役にはなりたくないものだなー、と思いつつニヤニヤしながら聞く。(ちなみに、後にもちろん俺も「★」話のターゲットになるのだが、この時はまだ知らない)


そんなこんなで手術も近くなり、10時ころには無事便も出て何とか浣腸も回避した。
その後はひたすらSさん&おっさん(騒)の会話…というより銅鑼声Sさんの一方的な話をカーテンの内側で聞いていた。オッサン(騒)は絶え間ない話にさすがに辟易したか、ちょっとのスキを見つけて逃げだしてしまった。
話す相手に逃げられたおっちゃんは、何やら独り言をぶつぶつ言いながらゆっくり窓の方へ近づいてくる気配。思わず心の中で「JAWS」のテーマが流れる。と、俺のところはカーテンをきっちり閉めておいたのでさすがにめくるわけにもいかず、俺の向かいのジジイ(騒)のカーテンが開いてると見るや、窓を背にしてもたれかかり「あーしかしあれやな、こんなとこ居たら気ぃ滅入ってもうてしゃあないわ!」と「独り言」。
黙って寝ていたジジイ(騒)もよせばいいのに「ほんまやなあ〜」なんてお愛想を言ったもんだから、「なあ! ほんまやで!!」と見事におっちゃんの「釣り針」にひっかかってしまった。そしてその後はまた「★」部分がリピートされたのは言うまでもない。
このジジイ(騒)もほとんど相づちしか打てず撃沈され、最後はもう全く一言も返さなくなった。つまらなくなったのか、Sさんは次の獲物を物色し始めた様子だが、俺がカーテンの内側でシーンとしているのでこっちは諦めた模様。
ペッタペッタとサンダルの音を高らかに響かせて廊下へ出て行った。ホッと一息。

大部屋に面した広い廊下の片側には、テーブルと椅子の談話スペースがいくつかある。そこに「あよいしょっと!」と廊下じゅうに響く大声を出して座ったと思うと、運悪く(?)通りかかった人にうまいこと話しかけ、「あんたはいつ手術?」「わしは来週や。わしはな…」と、また「★」話を繰り返すのが全て聞こえて来る。
3度目ともなると、俺もこの銅鑼声Sさんの「★」話をほぼ暗記してしまった。

その後看護婦さんが「手術の前に下着も脱いでおいて下さいね、パジャマだけで行きますから」と言いにきた。その通りにして股間すーすー状態で粛々と時間を待つ。
暇だったので病室の前に歩いていくと、おとついパジャマの替えを頼んで持って来てもらった看護婦さんが通りかかった。そのときは一瞬誰だか思い出せなかったが、今回はすぐに思い出した。去年、血液内科に帯状疱疹を悪化させて一ヶ月入院した時にお世話になった看護婦さんだ。(ちなみにこの時の、激痛で本気で「死ぬ」と思った夜の担当さんだった=入院5日目 夜、激痛で死を感じる - 白取特急検車場【闘病バージョン】

なのでこちらがじっと顔を見ていると向こうも歩きながらこちらを見て「?」と困ったような顔をしつつ笑顔を向けてくれるが、明らかに「何なんこの人?」という風情。
こちらが「あの、血液内科にいらっしゃいませんでした?」と聞くとピタリと足を止めるとこちらの前に戻り「いましたいました、え? 何でそれを」と言うので「帯状疱疹で入院した…」と言うと「白取さん!」とすぐ思い出してくれた。
「うわー、どうしたんですか今回はー!」「肺に穴が開いて手術になったんで内科から移動してきたんです」と言うと「手術って確か…今日やんかー!」と笑われる。「予定表に白取さんて書いてあって、白取さん? てどっかで聞いたことあるな、と思ってたんですよ。いやー、もう傷んとこ綺麗にならはりました?」というので「もうすっかり」とグイとズボンを下げて背中から腰から鼠蹊部までのケロイドを見せる。
普通の人なら「ぎゃあ、何じゃこら」と驚くケロイドも、「あー、こんなに綺麗になって!」と喜んでくれた。コレを見て「綺麗」と言ってくれるのは、あの水ぶくれ数十個&血膿みデロデロ最悪の状態を見ている人たちだけだろう。
「もうね、あんなひどい状態の人、私初めて見ましたもん。今やから言うけど正直、治るんかしらて思て…いやーでも良かったわあ」と言って下さる。その襟にはサクラの形をした水色のバッヂがついていて「副師長」を書いてあった。
「血内からいつ移ったんですか」と聞くと4月に呼吸器外科に来たばかり、とのこと。「手術頑張って下さいね」と言われて立ち話終了。そういえばあの時お世話になった血液内科はこのすぐ下、3階に病棟がある。
あの激痛と血だらけの日々、こっちも死ぬほど辛かったが看護婦さんたちも毎日ガーゼにアズノールをたっぷり塗ってカバーしてくれたり、大変だったと思う。今度挨拶に行ってみようか…。俺のことなら、絶対に忘れられていない自信がある。何しろ看護婦さんたちが皆「うわー」と引いたほどの水ぶくれとただれ、血膿でデロデロの状態で来て、「帯状疱疹最悪の悪化例」としてデジカメで写真まで撮られたんだから。

そんなことがあったりして、1時10分ほど前になってトイレに立って手を洗っていると、パンツを脱ぐよう指示に来た看護婦さんと執刀するS先生が病室前に来て、ちょうどいいというので手を洗ったそのまま、そこから手術室へ徒歩で向かうことになった。
(確かこの時はひっきりなしに細かい咳が出ていて、手術室までの道もしんどかったのを憶えている。また何かS先生と一言二言世間話をしつつ中央棟の手術室まで歩いて行ったのだが、これを記録している金曜日の夜になるとさすがに細かいことまでは思い出せない)

ここの中央手術室は、入るとまず受付のようなところがあり、廊下にずらりとたくさんの「手術室」が並んでいるのが圧巻だ。青い服の助手さんたちがすでに待っていて、看護婦さんが持って来たカルテの確認と、俺が用意した術後に必要なタオルやT字帯などの物品受け渡しのあと、看護婦さんは戻っていった。
廊下を少し歩いて「ここです」と手術室の一部屋へ入る。
手術台の上に仰向けになると、てきぱきとバイタルのモニタリング用のいろいろなものが貼られたり巻かれたり、あとは麻酔の先生待ちという状況。5分〜10分ほどか、けっこう待たされてようやく麻酔の先生が来て、酸素マスクを軽く充てられて「はい、普通に呼吸してください、はい、いいですよ。これから注射(点滴ルートからの静脈注射、という意味)で麻酔が入りますからね、すぐ眠くなりますよー」と言われ、「はい、じゃあ入ります」と言われた直後、意識はそこで途切れた。

目が覚めると「白取さん、白取さーん」と呼ばれていて、「…はい」と返事をすると覗き込んでいた麻酔の先生が「もう手術終わりましたからね」と言って視界から消え、代わりに執刀してくれたS先生が覗き込んで「今ね、もう4時ですよ。手術は無事予定通り終わりましたからね」と言われて「ありがとうございました」と答えた。
3年前に胆嚢切除手術をした時は、術後に目が覚めるとすでにひどい激痛のただ中であったが、今回は右の胸から脇にかけての全体が鈍く痛む感じ。胸腔鏡なので切った部分も腹の時より大きくないせいもあるのだろう。
S先生は俺が手術台から個室へ据えるベッドに移されるあたりで、俺に見えるように「例の腫瘍も全部採れましたからね」と言って瓶詰めになったそれを見せてくれた。
アルコールだかホルマリンだか何だか解らない液体の中にある「それ」は、ピンク色の大きな塊だった。思ったより色は綺麗というか、「悪性腫瘍」というイメージ=赤黒くいかにも、という感じではない印象だった。
それより驚いたのはその大きさだ。想像していたよりもかなり大きく、俺が思わず「でかいですね」と言うと「本当に大ぶりのみかんくらいやね」と言いつつ、別の小瓶を手に「あと例の穴の方のと、上のできものと、これらもちゃんと取れましたから。これからみんな検査出しますからね」と言って見せてくれた。

それにしても縦隔にあった腫瘍、今回「取れるようなら取っちゃいましょう、もし無理そうなら組織サンプルだけでも」と言っていたソレは、最大部で7cmと成長していた。もちろん術前のCTやらの画像で大きさを聞いてはいたが、いざ実際目の当たりにすると、凄い大きさだ。そんなデカいものが胸のど真ん中にあったかと思うと、改めてぞっとする。心臓に最も近いし、いずれは圧迫していたかも知れない。取ってもらって良かった、と思った。

それから手術台からベッドに移されて、そのままガラガラと手術室からエレベータへ。建物には接続部分があるので「はいちょっと揺れまーす」が何度かあるが、前回3年前はこの時の移動の振動が本当にキツく、激痛の中「痛い痛い」と言いながら運ばれたことを鮮明に思い出した。今回も硬膜外麻酔が使えなかったので痛いことは痛いのだが、あの時と比較すると痛みは軽く、こうして思い出す余裕があった。
ただ、今回は3年前と違って病室で待っていてくれた人は、もういない。
前回は病室へ戻ると三津子が待っていてくれたけれど、痛みで余裕がない状態だった。
今回は余裕があるものの、病室に待つ人はもういない。

積貞棟の4階、出発した大部屋ではなく中央部分を挟んで向かい側に並ぶ個室へ入れられて、安置された。俺の場合もう大概の痛いことは経験してきたが、瞬間としては胸腔ドレーン挿管時、時間的な長さと強さで言うと帯状疱疹劇症化で神経が食い荒らされる中でも最も最高に痛かった時に比べれば、あれ以上のものはもうないと思う。
術前に一番心配だったのは、術後の痛みがどの程度かという点だった。しかしポンプ式で自動的に点滴ルートから注入されるようになっている痛み止めが効いているのか、前回とは比較にならないほど痛みは軽減されている。もっとも「楽」とはいえ恐らく普通の人にはかなり痛いレベルだとは思うが、自分としては「術後」としてイメージしていたよりかなり楽で、これは助かった。
個室に安置された時、口には酸素マスクがしてあったが、これがどうしても気持ち悪くて自分でずらして外した。「駄目ですよ、外しちゃ」と言われたので、「気持ちが悪くて」と言うと、ちょうどS先生が来たので鼻チューブから酸素を吸う方に換えて貰った。
右手首には痛み止めと抗生剤とブドウ糖輸液の点滴、右の胸からは胸腔ドレナージのチューブ、チンコの先端からは導尿管がそれぞれ伸びていて、両足には血栓防止のためのフットマッサージポンプが巻かれ、左右の足交互に足下から順番に膨れては萎んでいく。
じっとして動かなければそれほどに痛みはない。しかし寝られるはずもない。

夜中、40℃近い熱が出た。当直の看護婦さんはよく気がつく人で、「汗もだいぶかかれてますね。どうします、解熱と鎮痛のために座薬使った方がいいと思うんですが」と聞かれた。そうするとまた汗をかいて、それで熱が下がると思う、とのこと。そうしたら着替えましょうと言ってくれたので、もう観念してお願いした。
すぐに座薬を持って来てくれ、指示通り何とか体を少しだけ左へ傾けると「失礼しますね」と言って尻肉をむにりと分けられ、するりと入れられてしまった。
「アッー!」とか言ってる暇もなく、俺の後ろはあっさりとこの夜、奪われたのであった。

この薬はボルタレン座薬だったが、とても良く効いてくれた。その後1時間ほどで、鈍くじんじんと絶え間なくあった痛みが軽減され、かつ、やはり汗が大量に出た。
看護婦さんが「じゃあお着替えしましょう」と言われて術後のパジャマの替えを持ってきてくれるが、これは上・下・真ん中とセパレートになっている生地をボタンで留めていく構造になっており、患者が体を動かして腕や足を通さなくてもいいようになっている。患者は一瞬だけ尻や背、足といった一部分をほんの少し動かせれば、看護婦がサッとその下へ生地をすべりこませてくれ、あとは上から被せた生地とボタンで留めればいい。胸にあてていたタオルも汗びっしょりで、かなりの発汗量だったと知った。
その後検温すると38.4℃とやや下がっていて、とりあえず一安心。

それからは1時間おきに体温や血圧などの測定、様子見で、ほとんど寝ることはなかった。
痛みは鈍いが相変わらずずっとあり、動くと上半身に圧がかかってズキンと痛む。これは切った傷の方ではなく、現在挿管されているドレーン部分の痛みがなぜか一番大きかった。同様に咳をしても一番痛むのは挿管部分。そこを中心に右胸全体に痛みが広がるという感じ。
「痰はね、お辛いでしょうけどちゃんと出して下さいね、でないと窒息して死んでしまいますからね」と看護婦さんが優しい声で恐ろしいことを言う。理解はしているが、今自分が置かれている状況から「もっとも痛い状況」に変化させる行為が「咳をする」「痰を切る」という行為で、しかもそれはかなり頻繁にやらねばならず、かなり消耗した。
その後も微熱はずっと続くが、それは手術で切られたり管がぶち込まれたりしてるんだから当然で、想定内。

今回の手術で、右肺は今後似たような「穴の元」が万が一破裂したり破けたりしても、肺の外=胸腔内に空気が漏れないようにコーティングをしてくれた。しかし「ちゃんと肺を今のうちに膨らませておかないと意味がないので、痛くても深呼吸はなるべくするように」とS先生は指示して下さったが、この深呼吸がまだ痛くて出来ない。
思い切り息を吸えない、ということがこれほどもどかしく辛いとは思わなかった。すう、すう、す、すっ、と小さい息をちょっとずつ吸って肺を膨らまそうとはするのだが、あるところまで行くと痛みがあり、それ以上進まない。「術後からなるべく歩くようにして、肺を広げるように」とも言われるが、いやそれはまだ無理です、と思った。

こうして手術当日は夕方4時に予定通り終了、その後個室へ移動、それからはひたすら痛みに耐えて浅い呼吸を繰り返し、咳と痰切りを痛みを我慢しながら繰り返し、熱を出し汗をかき、上ばかり向いているといけないとたまに強制的に横を向かされたり、バイタルをほぼ1時間おきに測られたりして過ぎた。
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2010-07-06(Tue)

手術前夜

夕べは10時ころテレビを見ながらうとうとしてしまう。
夜中は抜管後の縫合傷が体を動かすと鈍く痛み、その都度目が覚めた。それに何といってもここのベッドはマットが固いので、体全体が痛い。他の人は平気なんだろうか、それとも俺の場合脾臓がバカでかいこともあって特殊なんだろうか。あまりに体が痛いのでかけ布団を2つ折にしたものをマットの上に敷いているが、それでも呼吸器内科に居た時とは比較にならぬほど環境は劣悪になった。建物がいかに小ぎれいに新しくなっても、患者のことを全く考えていない病棟というのが入ってみるとよく解る。(というか入らないと解らないだろうし、入っても大雑把な人は何も気にならぬだろうが)

そんなこんなで熟睡できぬまま、6時半くらいまでうとうと、薄く寝たり醒めたり。他のおっさん2人はまだ静かなので、起こさないよう気を遣ってトイレ、洗顔などを済ませる。と思ったら、もう一人の大人しい方のおっさんはすでに起きていたようで、俺が歯を磨こうとしたらトイレに入っていった。出て来たところで歯磨きが終わり、小声でお互いに「おはようございます」と挨拶。
その後となりのオッサン(騒)が起きるまで静かだったが、オッサン(騒)が起きると同時にガッタンドッタンパッタパッタと動くたびにいちいち騒音が発生。もう嫌だこんな生活(笑)。
ヘッドフォンをしてニュースサイトなどを見ていると、どうもまた体の調子がおかしい。熱を測ると37.7℃と、これまた微妙な数字。起きてしばらくして、すでに7時過ぎにロキソニンを飲んでいたから、この程度の熱は隠れてしまうだろう。

今日はこれからシャワーをして手術前に全身を綺麗にして、ヒゲも剃ったり剃毛もあったり大変だ(下はない)。髪も切りたいが、とりあえずシャワーが先決。支度だけ済ませておき、何時からか確認しに行ったら9時からと書いてあった。
ここのシャワーは患者による希望の予約制ではなく、空いてる時に早い者順で入るという無秩序(?)さ。俺なら、手術前日の患者は決まっているんだから、希望の入浴時間を聞いてまわって調整し、空き時間を他の患者に宛てるなりの管理をするけど。まあしかし色々と、変な病棟だなあという印象。
とりあえずテレビを見つつ、9時2分前にサッとシャワー室へ行くと、幸い誰もいなかったので「使用中」に札をひっくり返して戻り、風呂道具を持って向かう。
出来たばかりなので清潔で最新のシャワー設備だ。湯船はないが大と小1部屋ずつあったので、もちろん大きい方でシャワーする。

本当は熱い湯船に「ああ〜っ」とゆっくり浸かりたいところだけど、シャワーだけでも3週間ぶりだ。何しろ入院初日からずっとドレーンがぶっ刺さったままだったから、シャワーでも十分気持ちがいい。縫合の傷の痛みも何のその、全身をガシガシ洗う。ついでにどうせ剃れと言われるので、ひげもさっぱり剃ってしまった。
シャワーを終えてベッドに戻り、センスでパタパタ仰いでいたら日勤の看護婦さんが来てバイタル。検温したらやはり36.6℃の平熱に戻っていた。看護婦さんがこちらに聴診器をあてた後、ドレイン抜管・縫合痕を見て貰うと、ちょっとシールが浮いてお湯が入っているという。すぐ貼り替えましょうということになるが、俺が「ここら辺の剃毛はいつになるんでしょう」と聞くと、「じゃあ今やってしまいましょうか」ということになった。
縫合痕を消毒・シール貼り替えのあと、仰向けになり小型のバリカンで脇毛と乳毛を剃られた。別にツルツルに綺麗に剃る必要はなく、長い毛が手術の邪魔になったり不潔な状態にあることを避けるために剃るので、バリカンで十分とのこと。かえってカミソリなどで皮膚を傷つけたりする方が色々とよろしくない。

その間に「明青」のおかあさんからメールで「これから行くけど何階?」というので404とお伝えする。
毛を剃られて間もなくお二人が病室に来られ、持って来ていただいた郵便物などを受け取ったあと、食堂へ移動していただいた。火曜はお二人にとって貴重な休日なのに、本当に申し訳ない限り。テーブルに座って、ちょっとだけ手術のことなどをお話する。
昨日、お店に男女のお客さんが来られて、帰り際に俺のブログを見て来たとのことで、「これをお渡しするようにお預かりしました」と、紙袋を手渡された。
中には堀あきこさんという方の『欲望のコード』という本と、金平糖とお茶が入っていた。本には名刺が挟んであって、見ると京都の方らしかった。本はBLややおい、男性向けポルノコミックなどを通じて「欲望」の男女差などを読み解くという研究書。といっても図版などを用いて難解ではなくすいすい読みやすい本でした。ありがとうございます。(いただいた本については自分よりもこちら『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』堀あきこの方がはるかに感想としてまとまっております)

明青さんご夫妻はすぐに戻られ、エレベータを見送って病室へ戻ると、助手さんが「麻酔科に呼ばれてますので行きましょう」と呼びに来る。財布を持って、中央棟の手術室横にある麻酔の説明室へ。ここは確か3年前の胆嚢摘出手術前も来たところ。
若い麻酔医が俺の電子カルテを見ながら「肺の手術ですので、今回はブロック麻酔を…」というので「自分の血液の状態で大丈夫でしょうか」と言うと、「血小板が12万ありますから、行けると思いますが…」と言いつつ過去のデータを見始め「あれ、でも5万6万という数値が多いんですね、むしろ今回の12万がなぜ突然増えたのかという状況ですか…」と思案顔。
結局、硬膜外麻酔=ブロック麻酔は強力なので出来れば術後の痛みを考えると使いたいのだが、この血小板数を見ても全てが正常な血小板とは限らないし、やはり総合的に考えて今回も使えないという結論になった。
点滴でモルヒネを使い、強い痛みの時はボタンを押せばプラスアルファでモルヒネが追加されるというものにするという。あーあ、術後の痛みってハンパじゃないからなあ。ブロック麻酔は劇的に痛みが軽減されるのを知っているので、使えたら使って欲しかったのだが、リスクが大きいと言われれば無理に使ってとは到底、言えない。

部屋に戻ってしばらくすると、12時前に突然バカデカい声のじじいが点滴スタンドをガラガラ押して入ってきた。嫌な予感がしたが、案の定となりのオッサン(騒)と顔見知りの患者らしい。類は類を…。俺の向かいのベッドは空いていたのだが、おいおい…と思ったらやはりそこへ入るようで、助手さんらが荷物類を持っててきぱきと配置していく。どうやら術後で、個室が終わって大部屋に移動してきたらしい。
隣のオッサン(騒)はこれまで以上にトーンの高い声で「おお、無事に戻ってきたんか! 何時間かかったんや?」とか聞いている。ジジイ(騒)はオッサン(騒)に負けないくらいデカい声で「6時間や!」と返すが、ここは別にモンゴル高原じゃねえし、そんな大声出さんでも聞こえるし、それに他に患者もおるしな、解るな。解らんか…。

さらにしばらくすると、これでも暑いくらいだと思っているのにジジイ(騒)の嫁が「この部屋寒いわあ。私冷房弱いんよ〜」と言いだし、それを聞いたお調子者の俺の隣のオッサン(騒)が「ええよええよ、あそこに温度調節あるし、好きなだけ上げたらええし」とか言ってる。オバハンは一応「ええ〜、でも皆さんおられるしい」とか言いつつ俺と斜め向かいのオッサン(静)には一言も断らず、エアコンの温度を上げました。すごく…暑いです。
こういう季節なので、建物の冷房がきついことは予想がつくことですから(全然きつくないのだが)、寒がりの人は羽織るものを持ってきて下さい。またここは病院ですから、患者は基本パジャマ一枚で、温度を上げられた場合、暑くてもこれ以上脱ぎようがありません…。

そんな感じで手術前の今日は倍になった騒音に苦しめられるということになりそうだ。明日は手術で、終わったら別室だし、ブロック麻酔が使えない自分の場合は、しばらくは痛みで周囲のことなどどうでもいいだろう。その後はとっとと回復してこんな地獄のような病棟を早く逃げだそう。意地でも逃げ出してみせる。
そう強く誓ってヘッドフォンをしてテレビを見つつ、ひたすら仕事をする。今日のうちに終えておかねばおそらく俺は数日使い物にならないだろうから、まとめてやっておかないといけない。
向かいのジジイ(騒)はブロック麻酔が効いているらしく「全然痛ないで。筋肉痛だけや!」と軽口を叩いているほど。そうだよなあ、俺も使えたらいいのになあ、と正直羨ましい。それと、明日は手術だというのに静かに安寧な気分でいることさえ許されず、絶えず騒音とストレスに晒されているのは正直、辛い。

3時ころ音楽を聴きつつ、渡辺さんが持って来てくれた郵便物を整理して「週アス」を読んでいたら、呼吸器内科のN先生が「どうですか、明日ですねえ」と言って様子を見に来てくれた。(N先生は入院した時研修医のH君に胸腔ドレナージの指導をした医師)
思わず「あー、もう南西病棟が懐かしいですよー」と言ってしまう。「あちらでは看護婦さんも皆さん本当に良くしていただいて、もう帰りたいくらいですよ」と言うと、苦笑しながら「そうですか、でも言うときますし、みんな喜びますわ」と言われる。冗談抜きで本当なんですけど。
で、明日の手術の話。結局硬膜外麻酔は使えないことになったというと「何でです?」と驚かれたので、今回たまたま血小板数が良かった(12万)だけで、通常…というかここ数年はずっと5万〜6万くらいだったから、むしろ今回多いからといっても、それらの血小板全てが正常なものとは限らないとのこと。従ってリスクと比較したら避けた方がいいだろうと…。
N先生はウンウンと聞きながら、「そうですねえ、使えたら良かったんですけどねえ」と気の毒そうな顔。あとは明日の手術内容を少し話したあと「じゃあ明日、こちらも様子見に来ますし」と言って戻っていった。
ああ懐かしき呼吸器内科(笑)。手術が終わったらあっちへ戻してくれないかなあ、と真剣に願う。

4時前には執刀するS先生が様子を見に来て、「昨日抜管縫合したところは痛くないですか」というので大丈夫です、シャワーも浴びて綺麗にして、毛も剃りましたと話す。メスを入れる部分の皮膚はもちろん清潔に越したことはないので、という話。前にS先生が手術したサーファーは「手術したらしばらく海に行けなくなる」と言って、手術前に一日海へ行って戻ってきたそうだが、真っ黒に日焼けし、さらにそこの皮膚が手術後に剥けたり、傷がぱっくり開いたり、大変だったそうだ。そりゃ自業自得ですが。

その後やはり麻酔の話になると、「まあそんなに大きく切るわけではないし、骨は切らないので大丈夫ですよ」と変な慰め方をされる。まあ俺の場合はもう手術自体をとっとと終わらせて欲しいという気持ちで、痛いのも数日だということも解っている。帯状疱疹の時の「痛みで死ぬかも知れない」という恐怖もない。とにかくこの異常に居心地の悪い空間から、一刻も早く解放されたい。患者をそう思わせて回復を早く促すという意味で、わざと居心地を悪くしているのだろう、きっとそうだようん。

6時夕飯は手術前最後の食事が出た。厚揚げのきのこ餡かけ、じゃがいもの煮っ転がし、キュウリとハムの千切り酢の物。意外に味付けがちゃんとしていてうまかった。固形のものが食べられるのは、今夜0時まで。コーヒーなど色・味のついた飲み物も同様、あとは水や茶が飲めるのは明日の朝9時までだ。
食後は今日「明青」のご夫婦が持って来てくれた夕張メロンを食べた。これはうちの実家がお世話になっているお礼にと渡辺さんに送ったもの。それをわざわざカットして、使い捨ての容器に入れて持って来てくれたのだ。やはりうまい。同じく実家からお送りした五勝手屋羊羹も一本お裾分けしていただいたが、これは手術後に取っておこう。
悪いことは忘れて、いいこと、ありがたい感謝の気持ちを力に頑張ります。
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2010-07-05(Mon)

手術の説明

夕べは微熱でぐったりしつつも、今日の午前中にやる仕事があったので、ゆっくり片付けてしまう。月曜は呼吸器外科へ転科だが何時移動という連絡がなく、いずれにしても午前中は落ち着かないだろうという判断。しかしこういう時に限ってなぜかモバイル端末がぶつ切れになって、PC自体を再起動を繰り返したりFTPソフトを再起動させたりで「だましだまし」12時ころには何とか終えた。

夜は割合よく眠れ、朝型5時ころからチューブに溜まった胸水が気になって目が覚める。水を水槽に開けるが、しばらくして見ると同じくらいまた溜まっていて、それを4度ほど繰り返した。夕べ消灯前から120ccほど出たのか。気にしすぎだと自分でも思う。
5時半には起きて洗顔など済ませた後、簡単に荷物を片付けておく。何しろいつ移動だと言われるかわからないからだ。6時過ぎにバイタルの看護婦さんが来て、ついでに寝汗用だと身体拭きのタオルも持って来てくれた。そのとき初めて、詰め所に「10時に病棟移動」と書いてあったから、たぶん9時35分とかのバスになるんじゃないか、という予定を聞いた。

その後看護婦のNさんが来て、「凄いもう片付いてる!」とびっくり。助手のおばさんもカートや車椅子を持って来てくれたり、移動の準備。
9時半ころ車椅子をNさんに押してもらい、カートは助手さんが押してくれ、エレベータ前へ移動。詰め所にNさんが「白取さん行かれますー」と声をかけると、5、6人いた看護婦さんたちが全員出て来てくれて「手術頑張って下さいねー」とか「行ってらっしゃーい」とか色々言いつつ、見送ってくれた。皆さんお世話になりました。
Nさんもエレベータで下りながら「元気になったら顔出してくださいよー」と言ってくれる。たぶん俺って協力的・優等生的な患者だったせいなのか、あるいはこの病棟がこういう雰囲気なのだろうか、暖かい見送りで嬉しかった。

シャトルバスに車椅子ごと乗せてもらい、助手さんがカートの荷物を脇に積んでいくとNさんが肝心のカルテを忘れて取りに行った。その間にもう一人の車椅子が俺の後ろに搬入されて、別なおっさんの患者も一人乗り込み、Nさんが戻って助手席に座るとバスはもう満員。
外来棟の正面玄関に着いて、カートに荷物を移し替え、助手さんがそれを押して先に行き、こちらは「積貞棟」へ車椅子を押してもらって入る。

初めて入る積貞棟はまるで、別の病院かと思うほど新しく広く明るく、なぜかカートを押したままどこかへ行ってしまった助手さんをエレベータ前で待つ間、溜息しきり。Nさんに「早く病棟引越たいでしょう」と言うと「そうですねー、凄いですねー」とうらやましそう。とか言いつつも俺の荷物のカートを押してった助手さんがあまりに遅いのでどうしたんだろうとNさんが電話をかけようかという頃、ようやく合流。別な患者さんの案内をしていたそうで、息を切らしていた。本当に大変な仕事だ。

呼吸器外科の外来は4階、今日の担当だという若い看護婦さんに案内された部屋は、何と4人部屋。
個室を強く希望していたのに、全く通ってなかった模様でがっかり。俺って相部屋でいい人に当たった試しがないからなあ、きっとトンデモなオヤジとかDQNなガキがいたりするんだろうな、とブルーな気持ちになる。こういう悪い方の勘には自信がある。
看護婦さんが病棟や手術関連の説明をざっとベッド脇でしてくれるが、事務的というか、何だかあの南西病棟の呼吸器内科が懐かしくなった。
3週間も居たので、看護婦さんたちとも顔見知りになったし、概ねみんな明るくて優しい人たちだったなあ。こっちはこれから人間関係を作っていくわけだが、4人部屋だと南西棟の個室の時のようにあれこれ突っ込んだ話も出来ずに終わるかも知れない。

さて色々と環境が変わった。
ゴミはこれまで患者が意識せずとも回収する業者が分別してくれたのが、こちらは患者が分別しないといけないという。しかもそれは歩いて食堂にあるゴミ箱までわざわざ捨てに行かないといけないとか。手術の患者が多いからなるべく歩かせるようにしているのか? と勘ぐりたくなる。
俺のベッドは4人部屋の入り口から見て左の奥、窓側が俺のベッドだが、向かいのおっさんは挨拶をすると良さげな人だったものの、奥さんが来ていて、もう今日これから退院とのこと。俺の右隣、つまり入り口側の左手前のおっちゃんはこちらが入ってきた時は大人しかったのだが、看護婦が入ってきてやりとりの際、声がバカでかいことが判明。そしてコテコテで用件以外に会話終了までいくつか必ず蛇足的なことを付け加える属性も判明。
この手のタイプは誰かが来なければ基本静かにしててくれるから無害と思いがちだが、どっこい声のデカい人間は例外なく所作も乱雑で、日常立てる音も大きいと経験上知っている。もう一つは空いていたが、しばらくするとすぐに埋まったが、静かな人のようす。
やはり俺の勘は正しかった、俺の隣は最悪の「騒音・大声型」に加え「余計な話好き」タイプであった(笑)。もう笑うしかなかった。

まあ手術後はどうせ個室へ一日入れられて、翌日にはこの相部屋へ戻されるというから、荷ほどきもほどほどにしておく。何だかがっくりきて南西病棟に戻りたいなあ…と思った。

良い方に変わったのは病棟が広く明るく新しくなったことと、当然ながらベッド周りも綺麗で新しいことくらい。後はほぼ全部悪化。

騒音おじさんは仕方がないとして、病棟として不快に変わった点は、例えばベッド脇のテレビと小物入れ・簡易冷蔵庫の台。新しいが基本今朝までの南西病棟のものと同じなのに、足の回転部分が固定されていて全く動かないようになっている。つまり枕の真横にテレビがあり、テレビは90度画面をこちらに向け、患者も90度首を傾けないとテレビは見られない。首がつる。
もしくは横臥位になって画面を見上げるかたちだが、ここは外科で、手術後に唯一慰めになるであろうテレビをそんな状態で眺めることの出来る患者は多くはあるまい。ちなみに南西病棟のテレビ台はルーズに動かせるようになっていて、腹の横あたりへ移動させたりできた。

また、ベッドのマットレスがとても固い。これまでの南西病棟で使っていた低反発系のマットに比べ、厚みが半分近く薄くなった。そして明らかに固い。外科だったら体を切ったりしている人が多いわけで、圧がかかれば、固ければそれだけ痛みも強いはず。
これも好意的に考えると、寝ている状態をわざと不快にして「ベッド離れ」を促そうという作戦だろうか。
誰でもそりゃあ早く良くなって退院したい。そのために体を動かすのはいいことだ。ただそれとちょっとしたことに不便や苦痛を感じ続けるストレスはまた別なもので、ストレスが回復の役に立つとは思えないんだけど…。

4人部屋になったことでテレビはヘッドホン必須になり、隣のオッサンは大声でいちいち騒音を立てるという状況も、耳栓やヘッドフォンで我慢我慢。
エアコンも当然一人で自分に合った温度設定にすることも不可能になった。俺の場合は暑がりなのと微熱があったり盗汗があったりするので、個室だった時はその都度体温や具合に応じて細かく調整していたが、もうそれも出来なくなった。我が儘だったのかね、と反省。
しかし体拭きのタオルも持ってきてくれる気配もなしで、看護婦さんたちは事務的な印象。

今朝まで過ごした南西病棟の看護婦さんたちは一様に明るく献身的で「心のケア」も含めて本当によくしてくれていた。
バイタルの最後には必ず「今何か気になるところはありますか?」とか「痛いところはないですか?」、また折に触れて「何か心配なこととかないですか?」と言ってくれることで、小さな不安や愚痴、あるいは他愛のない世間話でも、患者のストレス解消になるし、そのことは絶対に精神と体にいいに違いない。
こちらの病棟でも、そういう看護婦さんたちであってくれるといいのだけど。

お昼はカレーが来て一応ヨーグルト以外は完食。その後いつものように微熱が出てうとうとしかかるが、周囲の雑音でとても寝られず。
腹を立てず、怒らず、ストレスを溜めず…で過ごせてきたものが、ここにきてあっさり踏みにじられている感じ。いっそ麻酔してくれ、などと考えてたら2時前、執刀するS先生が一人でやってきて、俺のドレーンバッグを見て「気胸そのものはもう止まってるようですね」とのこと。
S先生は一応様子を見に来たという感じで、手術の詳しい説明は改めて夕方行うと去って行った。
その後隣のおっさんの嫁はんが見舞いに来て騒音が倍になったので、ヘッドフォンで音楽を大音量で聴いていると4時前に回診があり、科長らしき先生が聴診器を宛てにきて、一緒に来たS先生が「もう空気漏れもしてへんようなので、管いっぺん抜きますわ。それで手術前に体洗って貰った方がいいと思うんですよ」とのこと。そりゃあ助かります。

しばらくして看護婦さんが呼びに来て、処置室へ。処置室、というより簡易手術室といった風情の新しく立派な部屋だ。ベッドに左を下に横臥位になって右手を顔の方へ出す感じで、ガーゼを剥がしてイソジンで2度ほど消毒のあと、「これだけちょっと我慢して下さいね」と麻酔注射。この局所麻酔はいつものようにかなり痛いのだが、これがないとこの先もっと痛いので我慢するしかない。
麻酔を数カ所に打ち「じゃあ抜きますね」と言ってグイグイと胸腔の中の管が軽く動いたと思ったら「はいもう抜けましたよ」とあっけなく。「入れる時に比べたら楽ですねえ」と言うと「若い人は特に突き抜ける時がね、ダイナミックに行きますから」と言われる。すぐに抜けた穴をてきぱきと縫合を終え、消毒をして、水を通さないテープでマスキングして終了。

「で、そろそろご家族にも手術の説明を…」と言われたので「いえ、自分一人なので、自分に言って貰えれば」と答える。
体からチューブが伸びて、先の水槽をいつもガラガラと転がして歩いていたのが急に身軽になり、何か変な感じ。すぐにシャワーを浴びようかどうしようか思いつつ、処置室を出る。シャワー室を覗いてみると「使用中」になっていたのでUターン。縫合の部分の麻酔が効いてるうちにガシガシシャワーしたかったのだが。

仕方なく部屋に戻ってPCを開いていたら、「じゃあ手術のご説明いいですか」とS先生が来たので、食堂の隅にある面談室に入る。家族も何もいないので、先生と俺だけ。院内LANに接続されているレッツノートで俺のCT画像を見つつ、手術の説明を受けた。

右の脇の下、今回ずっとドレーンが入っていた穴は傷口が膿んでいたので、そこを基点にはしつつも上へ5cmほど切開。その下と、背中側に2箇所カメラを入れるために穴を開ける。
手術自体は大きく3つ。

1つは今回の気胸の元になった破れた穴、これがけっこう大きく(だから塞がるのに時間がかかった)、これを取って縫合器で縫う。さらに取りやすいところにある似たような「穴の元」を取り、取った後は縫う。この「穴の元」以外にも細かい袋状のものがいくつかあり、それも検査用に取る。悪性にせよ良性にせよ、取れるものは取って正体を明らかにするということだ。

もう1つはまだたくさん残っている「穴の元」が今後破けても気胸状態にならないよう、肺と胸膜を癒着させる。これは薬を使うそうで、再発防止には有効とのこと。もっとも今回は右肺なので、左にも穴の元はあるから…まあ考えないようにしよう。

そして最後は、これまで基礎疾患=T-CLL(T細胞性慢性リンパ性白血病)が原発と思われ、経過を観察するにとどめてきた前縦隔の腫瘤が「何であるか」診断をつけるために摘出するか、あるいは組織サンプルを取ること。

以上の3つが同時に行われるそうで、手術予定時間は3時間。そのうち1時間は麻酔、30分ほどは麻酔を覚ます時間。イレギュラーがなければそういう予定らしい。
この、例えば「気胸で出来た穴を塞ぐ」とか「気胸再発防止のために癒着させる」とか、「デキモノを取る」ということは本当に恒常的に行っている手術なのだが、今回はそれらを一度にやるということで若干時間が長くなるけれども、各々の施術自体難易度・危険度の高いものではないのでご安心下さい、ということ。

一つ現段階で懸念されるのは、これまで白血病による腫瘤と判断されてきた縦隔腫瘍だが、これをもし摘出出来た場合、元の病気にどういう影響が出るか全く未知数である、ということ。つまり体は色々なバランスを取りながら絶妙に恒常性を保っているわけだが、俺の病気は過去5年間ほとんど進行しておらず、唯一若干ではあるが大きくなっていたのがこの縦隔腫瘍だ。これを取ってしまったら、元の病気が大きく動くようなことにならないか…という心配があることはある。

またS先生は「こうして手術手術と言ってますが、これ自体、実は体にとっては『大けが』ですからね」とのこと。そりゃそうだ。で、体に傷がつく、メスが入る、内部からこれまであったものが摘出される、そうすると体はホルモンを出したり、色々と何らかの「反応」を見せるのが普通。そのことが、元の病気とどう関連するかが全く見えないというわけだ。
しかし腫瘤が悪いものに変わっていないか、あるいは変わる可能性はないのか…、というかそもそもそれ一体何なのか、という診断をつける意味でも最低、組織だけは取りたい、というのが血液内科のI先生ともども共通の目標ではあるとのこと。
それと、この病気自体日本人では珍しいし、縦隔腫瘤の組織サンプルは今後の研究に使わせてもらいたいということで同意書もあった。それらと手術や輸血の同意書などを渡されて、15分ほどで説明は終わり。

最後に個室は空いてませんか、と聞いたら一杯だそうでガックリ。コネとかないとやっぱり駄目なんだろうなあと思いつつベッドに戻り、同意書にサインと捺印などを済ませていると、「明青」のおかあさんから「どうですか」とメールがあったので、病棟が移った旨ご連絡。
色々助けていただいている上に気を遣っていただき、本当に申し訳ないです。
環境は悪い方へ変わったけど、部屋の番号が404という不吉な数字を重ねた番号だけど、気にせず頑張りますよ!

※あ、良くなった点がもう一つあった。今度はちゃんとテレビは「地デジ」だった(笑)。



連れ合いであった、三津子・やまだ紫の誕生日は9月5日、命日は5月5日。
3年前、やはり入院していた俺の退院が彼女の誕生日だった。(入院10日目・退院
俺が誕生日なのに何も出来なかったねと言うと、彼女は俺の退院がプレゼントだよと言ってくれた。
今日5日の月命日、俺は病院にいて花を手向けることも線香を上げることも出来ずにいるが、彼女はもう俺と共にいる。彼女が愛し守りたいと思う人のところに遍在しているはず。病室に持って来た写真の微笑みに合掌。
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2010-07-04(Sun)

発熱騒動、微熱で朦朧

夕べはちょっとした騒動があった。
6時過ぎにテレビを見つつ夕飯をもりもり…と言いたいところが、食欲がなくて無理に押し込む。ご飯は半分ほど残した。
間もなく研修医のH先生がきて、挿管部分の消毒とガーゼ交換。やはりちょっと膿んでるという。縫合してあるところもピンセットでつまんで入念に消毒してもらうが、とにかくこれが痛いこと。何せ皮膚に穴が開いており、そこにチューブが入ってるんだから当然だ。

それにしても外科の先生がガーゼ交換を
「ああ、そんなに神経質にならなくても2日にいっぺんくらいの交換で大丈夫ですよ」なんて言っていたが、案の定2日交換しなかったら膿んだじゃないか、と少し恨めしい。俺は基礎疾患があって免疫が落ちてるので、と伝えてあったのに、結局言った通り膿んでしまったじゃないかと。
ガーゼ交換の後、ちょっと挿管部分が痛かったのでロキソニンを飲んでからトイレに立つと、ちょっとだけ、ほんの少しだけ目眩に似た感覚に襲われる。部屋に戻って検温してみたら38.2℃。38℃台はちょっとまずい。
しばらくベッド上でおとなしくしているとバイタルで看護婦さんが来たので、熱を報告。ロキソニンを飲んだのは何時何分かと聞かれたので、6時15分と答える。ちなみに検温したのは6時20分前後。ロキソニンは鎮痛、および解熱効果があるので、効き始めると熱を隠してしまう。万が一感染や炎症などがあって発熱している場合でも発見が遅れるので、念のため先生に聞いてみますと言って出ていった。

看護婦さんはすぐ尿検の容器を持って来たがさっきトイレへ行ったばかりと言うと「何とか出ませんか」と言うので、仕方なくお茶を飲む。しかし出したばかりなので尿意無し。
そのうちH研修医が来てくれ、「感染症だとまずいので、念のため採血をします」とのこと。もし白血球数が上昇していたり、感染が疑われるようなら抗生剤を点滴するとか、大がかりなことになってしまった。
採血の準備をするためH先生が出て行ったので、15分ほど経ったあたりでもう一回検温をしてみると38.4℃。やばい、上がっている。

7時過ぎにH先生が「両腕からそれぞれ採血をしますね」と言って消毒用のイソジンスティックやら針やらポンプやら瓶やら試験管を持って来た。いつもはアルコール消毒で軽く採血をするのだが、今回は感染症を疑うので入念に採血部分をイソジンで消毒して、まず右から針を挿入。ポンプをつなぎ、ゆっくりと25CCほど血を抜かれる。針を抜きアルコール綿で抑えるよう言われ、その間に抜いた血を2つの瓶と2本の試験管にポンプから分けていく。
続けて左腕、同じようにポンプで採血され、今度は別の2つの瓶にだけ分けて終了。
「こんな時間でも検査してくれるんですか」と聞いたら「これから僕が持って行きます」と言われて恐縮。「ひょっとして自転車…で?」と聞いたら「はい」とのこと。「いや本当に申し訳ないです」と思わず頭を下げる。
7時半過ぎに検温してみたが、37.9℃。ロキソニンを飲んで1時間以上経過してこの熱なので、どうも判断しかねるところ。とりあえず大人しくベッドに転がっている。

8時あたりから背中側に汗が出始め、8時半頃検温してみると36.5℃に下がっていた。これはロキソニン効果と発汗によるものかも知れない、と思っていたら看護婦さんが様子を見に来る。パジャマの背中がぐっしょりなのを見て、熱いタオルとパジャマの替えを持ってきてくれた。背中だけ拭いてもらって着替えていると、H研修医が採血結果の説明に来てくれる。
白血球は1900とまあ俺の低値標準というところで異常は無かったものの、CRP(炎症反応)が3台と高くなっていたそうだ。ちなみに通常は0.1とか0.2、まああっても1以下。ただし5台などであればすぐ点滴で抗生剤を入れるところだが、微妙な感じではあるということ。確か入院中に一度、血液内科の外来へ行った時もCRPが若干高いと言われたと思う。
あと昨日呼吸器外科の先生と面談した時、右肺の中の破れた穴が若干炎症を起こしていると言われていること、もう20日も胸腔ドレナージ状態にあることなどを考えると、感染症を疑うというほどの状況とも思えない…。

なので手術も近いことだし、念のために経口で抗生物質を飲んでいくことになった。元の病気があるので一筋縄でいかないというか、色々イレギュラーでやりづらそう。その後看護婦さんが抗生剤と腸を動かす薬(便秘ぎみなので)を持って来てくれ、何だかんだで落ち着いたらもう9時過ぎ。
やれやれ夕方からいろいろ大変だった。でもまあこちらは患者でここは病院なので、色々と動き回って対処してくれるのは医師や看護婦さんだが。



そんな感じで夕べは発熱騒ぎでバタバタしたが、消灯後もレンドルミンが効くまで大人しくテレビを見つつ、11時ころには寝てしまった。
夜中は前の日検尿のためにガバガバお茶だの水だのを飲んだせいか、ドレーンチューブに水が溜まる=咳が出る、で何度も目が覚めた。そのたびにジャーとチューブを持ち上げてドレーンバッグに水をあけて寝る、の繰り返し。
熟睡出来ず朝は7時半ころ朦朧とした感じで目が覚めた。昨日ほどではないが、眼球を動かすとくらっ、と軽く目眩に近い感覚が相変わらずある。検温すると37℃台。これくらいなら仕方ないか…。

朝は渡されていた検尿カップと消毒用紙ナプキンを持って、ナニの先を良く洗ってから、中間尿を採取。詰め所に持って行く。あんなもん朝イチで「これ…」と受け取らねばならないのも何ですよねえ。申し訳ない気持ち。

バイタルの前に下へ降りてコーヒーなどの水分を補給して戻る。バイタル時の検温はやはり37℃台前半で、少し様子を見ましょうということ。
8時朝食は食欲がなく、半分ほどでやめる。昨日から少し食欲が落ちてきたのはまずいが、手術の前後は絶食だし、あんまり気にせず行こう。

8時半ころ、研修医のH先生がもう一人の研修医を連れて挨拶に来る。今日いっぱいでH君は3階の糖尿内科へ移動するので、お別れだ。月曜からは新しいその研修医君が担当…といっても月曜はたぶん午前中に呼吸器外科へ転科でお引っ越しだ。ほんの一瞬しかおそらくお付き合いはなさそうだが、「よろしく」と挨拶。
H君には「お世話になりましたねえ、忙しいだろうけど体に気をつけて」と言うと「いえいえ、白取さんもサクッと手術してサクッと退院しちゃいましょう!」と笑顔で言われる。うん、そうだといいね。

その後もずっと調子が出ないというか、気怠い感じ。目を瞑ってじっとしていると、すぐに半分睡眠状態のようになる。
昼食は6割ほど無理に食べた。午後も同じような調子で、ベッド上でじっとしていることが多かった。身体拭きと着替えを終えた後も、ドレーンと逆側を下にしてまた寝てしまう。熱はないはずだし、何だろうか。

夕方もうとうとしていると、6時前に夕飯が来て起こされる。しかし食欲が全くない。しばらくするとまた寝てしまいそうになったので、まずいと思って体を起こし、とりあえず食べ始める。
味のない豆腐ハンバーグなど。醤油をちょっと垂らして食べたりするが、ご飯は4割、おかずは残りも半分ほどしか食べられず。
おかしいなあ…と思って検温すると37.6℃。微熱だが若干高め。きっとこれのせいだろうと納得、結局その後もずっと大人しくしている。

今日は日曜なので時折看護婦さんが様子を見に来る以外は静かで平穏、工事もない。しかし週が開けると、明日は外科に転科、水曜は手術と慌ただしくなる。このままぐったりしていよう。
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2010-07-03(Sat)

手術まであと4日

ゆうべは11時過ぎに寝に入ったが、眠りは浅く断続的。朝5時までそんな感じで熟睡は出来ず。洗顔など済ませてテレビをつける。

サッカーはウルグアイとガーナ、PK戦までもつれこんだ末、ウルグアイがベスト4進出。いっぽう優勝候補対決は、ブラジルがオランダに敗北。まあいろいろ感想はあれど、しょせんは素人なので置く。

さて起きていろいろ動くと、ドレーンの挿管部分が痛い。おまけに咳もけっこうひどく出るし、血痰も少し出た。ロキソニンを飲み、看護婦さんに咳止めを貰って、その後はおとなしくテレビを見ている。

見るといっても退屈しのぎにどうでもいい番組を眺めているだけなのだが、テレビカードの残量は当然ガンガン減っていく。1000円で1000度数、1度数=1分ではなく1分より少し多いらしいが何となく勿体ない感じがしたので、携帯のワンセグを久しぶりにつけてみた。
ところが電波状況が悪く、何とNHKしか入らない。後でKBS京都も入ることが解ったが、とにかくその他のチャンネルは全滅。…わざと?
部屋のテレビは横広液晶のくせに地上波アナログしか入らず、よって4:3の画面がビローンと横広に伸ばされたのをずーっと、見せられている。なのでワンセグで久しぶりにまっとうなアスペクト比で見ると、不思議な感じがした。そうだよ、iPadって正方形じゃないんだ。

8時の朝食をもりもり完食し、朝のバイタルが終わって眠気が来た頃、外でまさかの爆音工事開始。いや今日土曜だし、入院患者の安寧とか関係ないんすか。朝の8時半だよ、まだ。いくら何でもこれはひどい…。
と、思っていたら雨がざあざあ降ってきて工事は中止。嘘のように静かになったので、寝不足気味の分を取り返そうと寝に入る。昼近くまで寝たり醒めたり。
しかし昼食後に雨が小降りになり、再び工事の騒音が始まる。そういえば一体何の工事なんだろうと思い窓際へ行って下を見ると、駐輪場があり、向かいの棟との間の道を何やら掘り返し、ズドドドドドとやっている。小降りとはいえ雨の中、カッパとヘルメットで作業をしてる人らを見ていると、何だかご苦労様ですという気持ちになってきて、ヘッドフォンで音楽を聴くことにした。

少し仕事をしながら音楽を聴いていると、夕方になってどうにもまた咳が止まらなくなってきた。昼過ぎに2回目の咳止めを貰って飲んだのにおかしいな、と思いつつ我慢。看護婦さんが胸水の量を見に来て、「けっこう溜まってましたね」と言ってチューブ内の黄色い水をドレーンバッグにちゃーと流してくれる。前の喫水線に印がつけられていて、今回の水面でまたマジックの線を引き、量を記録している。
そこでハッと気づいて、「ひょっとしてチューブ内に水が溜まってる状態って、クランプと同じ状態じゃないですかね」と聞くと看護婦さんは一瞬きょとんとした顔をしたが「そ、そういえばそうかも知れませんね」とのこと。俺の場合外科の先生によれば(PET−CTの画像を見つつ)右肺下部の穴が完全に塞がりきってない=気胸が治りきっていない状況らしく、ということはクランプされると、穴から空気が漏れて肺を圧迫する状況にならないか。
で、チューブ内に水が溜まり逃げ場を塞ぐということはクランプと同じなんじゃ…と思った次第。そこら辺はよく解らないが、看護婦さんに胸水を流してもらうと、次第に咳は治まってきた。気のせい、なんだろうか。とりあえずこまめに水は溜まったら流しても構わないというので、チューブを注視するようにしよう。

その後休み休み仕事をしていると、夕方5時過ぎに「明青」のおかあさんから電話。手術が7日に決まったことを連絡しておいたのだけど、その日は行けないが大丈夫か、とのこと。
もちろん今現在、この現状でじゅうぶん良くしていただいている上、何もしていただくこともあるはずもなく、「大丈夫です」と答える。おかあさんは「お母さんはやっぱり来られないの?」と言うので「腰痛がひどいそうで…」と答えると「手術から戻ってきて一人やったら可哀想やし、行ければええんやけどちょっとその日は行かれへんし…」と気にかけて下さる。
でも手術室から戻ってきた時は、おそらく痛み止めで朦朧としているか、あるいは3年前のように激痛でうなされているか、いずれにしてもこちらも余裕がないので、気になさらないで下さいとお伝えする。
話をすると咳がげほげほ出てしまい、おかあさんも「辛そうやからこれで切るわ」と言ってくれ、お礼を言って電話を切る。

手術の不安はゼロかと言えば嘘にはなるけれども、それよりも早く終えて欲しいという気持ちの方が強い。
また術後に誰かが迎えて欲しいかと問われれば、それは家族なり友人知人が居てくれれば心強いのは確かだけど、もう一人なのに慣れているし、一人ではないと思っているから大丈夫です。
本当に渡辺さんご夫婦には色々ご心配とご迷惑ばかりおかけしていて、申し訳なく、ありがたく、言葉もない。
またネットでも励ましのメールやコメントを下さった方々、御礼申し上げます。

もう手術は成功するし、腫瘍は悪性ではない。もうそう決めてしまったので、回復して恩返しをすることも決めている。胆嚢摘出後、退院したその日に家から夫婦でお店に直行して、生ビールを飲んだ。またそれが出来たら、そんなにいい事はないのだが。
頑張ろう。
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2010-07-02(Fri)

来週水曜手術、決まる

夕べはブログをアップした後でふと携帯を見ると、なぜか充電器に接続しているのに電源が切れていた。電源を入れてみると母からメールが来ており、返事がないので心配だとか書いてあったので、電話して状況を説明。母親は腰痛がひどく立ち上がるのも大変で、その上実家の猫が糖尿病で水をがぶがぶ飲んでは下痢便をあちこちにたれるという最悪の状況だという。まあこっちのことは心配無用、と伝える。

消灯前、9時ころに夜勤の新人看護婦さんがバイタルに来て、触診でドレーン挿管部周辺の空気漏れがないか調べて貰うついでに、こちらの脾臓を確認して貰う。恐らく学習したであろう臓器の配置から著しく外れているので、驚いたご様子。向学のためにちょっとでもお役に立てれば。
夜9時半過ぎ、H研修医が先ほどの看護婦さんと来てくれ、胸水採取のためにクランプ再開。ちょっとチューブに溜まっていたので「これを採取するんじゃダメなんすかね」と言うと「ああ、新鮮なものじゃないとダメなんですよね」と言われる。明日の午前中までクランプして、溜まった水を検査に出すタイミングでバッグ交換ということ。
あと、外科の方から手術に関して説明があるのが、恐らく来週月曜でしょうということ。ただH君は研修医ゆえ、そろそろ別の科(糖尿内科)に移動するそうで、いずれにしろ来週にはお別れだ。短い付き合いでしたが、身体を大切にね。
夜中は断続的に目が覚めつつも、6時半まで寝た。クランプをしていると胸が苦しかったり咳が出たりしたのも、夜中はあまり感じず。ドレナージのチューブを見てみると、胸水はあまり出てなかった。何か残念。

朝のバイタルの前、テレビを見ていたら咳が断続的に続いてきて、けっこう大きな咳き込みが来た。血痰がまだ若干出る。バイタルの時看護婦さんに、頓服用に咳止めを貰っておくことにする。
8時朝食はワイドショーで元貴闘力・大嶽親方の涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔の大写しを見ながらパン、サラダ、牛乳、りんごを食べる。パンは食いきれず。
その後一度H研修医が来てチューブの胸水を見に来るが、量的に足りないな、という感じ。もう少し様子を見て、ガーゼ交換とドレーンバッグ交換のタイミングで胸水採取をしましょう、ということになる。

さて今回もブログやツィッターにはこうして包み隠さず経過を記述しているので、メールやコメントで励ましを多数いただきました。コメントは公開無用という方はそのようにさせていただきました。
皆さん、この場を借りて心から御礼申し上げます。
本当に励まされております。ありがとうございます。
(相変わらず粘着質の嫌がらせも続いておりますが、全く気にせずサクッと削除しています(笑)。世の中には本当に性根というか魂から腐った人間というのが存在するようで、同じステージに立ちたくありませんからスルーか削除)

10時過ぎ、予定通りH研修医がもう一人の男性研修医と看護婦さんを連れてきて、ドレーンバッグ交換と胸水採取。挿管部のガーゼ交換に関しては、呼吸器外科の担当医師がちょうど今日外来診療だそうなので、急遽診察を入れてもらったそうだ。そこで見ていただき、その際に交換して貰えばいいでしょう、ということ。

外科の医師が急遽外来で診て、手術の説明が月曜で、オペが水曜となると、これはかなり急いだ日程なのか。まあPETで反応が出てしまったので、仕方があるまい。肺の中にある「モノ」が悪いものであれば、ちんたらしている余裕は無い。
外科からいつお呼びがかかるか解らないので、待機状態でいるうちにうとうとして、寝てしまった。

夢を見た。
薄暗い自宅に刺身と缶ビールを持って帰宅。「シマー、ユキー!」と呼びながらリビングへ進み、刺身とビールはいったん冷蔵庫へ入れて、弱い灯りがつけてあるリビングを見ると、ソファやテレビなどを別の部屋に移動させてあるのか、ぽっかり広い空間になっていた。
「ああ、渡辺さんたち掃除までしてくれたんだ…」と申し訳ない気持ちで見回していたら、トントントンと階段を降りてくる音。
いつものように階段の中ごろで止まり、ひょいとユキが顔を出した。こいつは耳が聞こえないので、生前に連れ合いが教えた手話で「おいでおいで」=手のひらを下にしてくるくると廻すと、かけ寄ってきた。いつものように人差し指を出すと鼻を押しつけてきてクンクンしたりしている。
ユキはなぜか俺の枕カバーと同じ水色と白のストライプの帽子と外套のようなものを着ていた。「ごめんなー、寂しかったねえ」と言いながら撫でてやる。シマは降りて来ず、「今刺身やるからなー」と言ったところで「お食事ですー」という助手さんの声で起こされた。

どうにも朦朧としていて、食事もそのままにしばらくぼーっとしているとまた眠くなってきた。すると今度は日勤の看護婦さんが来て、「外科に呼ばれたので12時35分のバスで行きますよ」とのこと。「お食事済まれました?」と言うので慌てて「今から食べます」と起きる。もう12時20分だった。
起き抜けで食欲が出ず、おかずのクリームシチューの小皿と「スパニッシュオムレツ」とかいう三角形にカットされた味のない卵焼きにケチャップがかかったのだけを食べた。
食欲がないというのは気持ちが沈んでいるということではなく、どうも眠気というか頭がぼーっとして食事をするのが面倒という感覚。咳止めのせいだろうか。まあ腹が減ったら後でカステラの残りを食べよう、と思っていたら時間になり、看護婦さんに車椅子で下まで連れて行かれる。

付き添いはそこで助手さんに入れ替わりで、間もなく来たバスに乗せて貰って外来棟へ。呼吸器外科は4階、ここは初めて来るフロアだ。もっとも外来棟は1階から吹き抜けになっていて、それを囲む形で回廊があり、それぞれの診療科の受付が配置されているという構造は各階同じ。外科はやはり外来の患者は少ない様子で、静かだ。
受付を済ませて診察室前で車椅子を停めて、助手さんはいったん戻って行き、5分ほど待つとドアが開いて先生が呼んでくれたので、自分で車椅子を操作して診察室へ入る。

呼吸器外科の担当はS先生という人で、内科とのカンファレンスはすでに済んでおり、こちらの状況、容態は把握してくれている様子。

今回、肺の中にある穴、つまり袋状のものは、「スポンジケーキの中の空洞をイメージして貰えばいい」とのこと。当初は袋の中に何かが入っていてそれが抜けて穴状になったのか、とにかく右肺の下部に大きな「それ」があって、今回はそれが破けたのだという。入院当初は上部と聞いたような気がしたが、目の前でCTの断層写真をマウスホイールでグリグリやりながら見せられると、一目瞭然。
で、そのような「モノ」がいくつか見られるのと、今回破けたところは大きくてなかなか塞がりにくいので、まず今回の気胸の原因となったその穴を塞ぐ。それからいくつかある同じモノのうち、取れそうなものは取る。さらに肺全体をコーティングして破けにくくする。そういう処置をいっぺんにやってしまおうということだ。

それともう一つ、例の縦隔腫瘍。5年前から年1cm弱とはいえ、大きくはなっている。基礎疾患である白血病が原発で緊急性はないとはいえ、例えば今後さらに大きくなり心臓を圧迫して、取らなければいけなくなる可能性はある。また、悪いものへ変化しないという保証もない。
なので最低、一部分だけでも取って検査に出したい、取れそうなら取ってしまおうと思いますが、という話。
手術は開胸ではなく「胸腔鏡でじゅうぶん可能です」とのこと。
俺もそれで縦隔腫瘍まで取れるのなら、取ってもらうことに吝かではないものの、そこら辺は血液内科のI先生に伺ってみないと…と話すと、その場でI先生のPHSに電話してくれた。
それによると「I先生も、もし今回のオペに支障がなければ最低組織サンプルだけでも欲しいような感じでしたよ」ということだったので、であればもうこちらとしては何ら異論はない。S先生は「実際見て、うまいこと取れそうだったら取る、ちょっと癒着してて無理そうだったら1cm角くらいの組織を切り取って検査に出す、ということでいいですね」とのこと。いいです、いいです。
S先生はてきぱきと順序立てて説明を論理的かつ効率的にしてくれるタイプの先生で、とにかく詳しい手術内容の説明は月曜の夕方に、病棟も呼吸器外科へ移ってから行いますということ。そしてオペは水曜の午後になる、ということ。
その後俺が「PETの陽性反応が心配ですね」というと「確かにそうですが、炎症でも反応は出ますし、良性のものでも出ます。とにかく取って検査してみないと解りませんよ」と言われる。まあそりゃそうだ。

ではよろしくお願いします、と頭を下げて、10分少々で面談は終了。
診察室を出て、車椅子を転がして回廊まで行き、吹き抜けを見下ろす位置で停めた。大画面のテレビには藤子A先生が出ていた。音声はうまく聞き取れないのでぼーっと眺めていると、5分ほどして助手さんが来てくれる。
外来棟正面ではなく、南病棟の玄関に向かうとのことで、助手さん少し早足でエレベータに向かう。シャトルバスが来るタイミングに合わせて患者をあちこちの玄関へ移動させるので、大変だ。
この50代と思しき助手さんは一日じゅう走り回ってる印象で、何だかこちらは座ったままで心苦しいほど。5分ほどそこで待っているとバスが来て、リフトで搬入してもらう。助手さんが運転手のKさんに「西ルート?」と聞くと「そう」と答えており、何だろうと思ったらいつもと違う方向へ向かい、いったん北、西に折れて川端に出て、南へ下がる。
右手に鴨川を見ながら、緑が綺麗だなあ…などと思いつつ外を眺めているとバスはすぐに左折、初めて見る病棟の入り口へつける。そこでいったん俺は降ろされ、おばあさんが奥へ搬入され、俺は手前に再びリフトで搬入されて、再び川端を南下してから左折、南西病棟へ戻った。座ってただけとはいえ、何というか「やれやれ感」がある。
助手さんに「これだけ病棟がバラバラだと大変ですねえ」と言うと「ほんまに大変なのよ」と苦笑される。本当に、この人たちは一日中走り回ってる印象がある。

部屋に着くと1時半を過ぎていて、外科の先生と話をして戻ってくるだけでたっぷり1時間かかったわけだ。助手さんたちも大変だが、やっぱり患者たちも大変だと思う。
その後は仕事と休憩。休憩のたびにうとうと。
夕方5時前に看護婦さんが身体拭きの熱いタオルを持って来てくれたので、背中を拭いてもらった。「ガーゼ交換して貰いました?」と聞かれたので「そういえばして貰いませんでした」と言うと、じゃあH先生に伝えておいてくれるとのこと。
背中以外の部位を自分で拭きつつ下着とパジャマを取り替えていると、H研修医と男性看護士が来てガーゼ交換。今日はちょっと痛かった。
そういえば外科の先生は「毎日交換すると消毒でかぶれたりするし、そんなに神経質にならなくてもいいんですよ」と言っていたが、自分の場合普通の体じゃないし、挿管も2週間以上になるし、院内感染=MRSAだって怖い。綺麗にしてもらって悪いことはないだろう。

6時、夕飯をもりもり食う。ただし味的にちょっとアレなおかずがあり、完食はできず。7時過ぎに夜勤の若い男性看護士が来てバイタル、世間話で入院の時の話をする。
肺に穴が開いて入院と言われた後、一人で入院荷物を準備して戻ってきたらエスカレータ点検中とか、外来の事務の人が荷物も持ってくれなかったと恨み言を言うと「それはひどい」と驚いていた。俺も驚いたよあの時は。今だから笑い話ですけどねえ、と話す。

とにかく今現在の心境としては、肺の中にあるモノは何だか知らないが良性のものだろうと思うことにする。そう決めた。
手術で取ってもらい、また猫たちとの普通の生活に戻る。そうしてご迷惑ばかりおかけしている「明青」の渡辺さんご夫妻に恩返しをする。
心配して下さった皆さんにも、お礼を申し上げる。
迷いは一点も無し。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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