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2012-10-01(Mon)

前のめりで死にたい。

2012年10月01日(月) 
昨日は全然関係ない話でかかってきた、次女・ゆうちゃんとの電話のあと、お袋と2時間くらい長電話。
毎月一回程度、病院での結果報告などを一応息子の義理として連絡しているのだが、今回は「まあこういう事になった、どうしようもないわ」という報告。
ただお袋は楽観的な性格の人なので、最初は「何とかしてやりたいけど…」と暗くなるのをこっちも「とにかく何とか頑張って生きてやるよ、絶対死んだりしない」と話し、だいたい「弱い奴なら絶対ここまでで死んでる、2~3回くらい」と笑う。話してるうちにこれまた全然関係ない、亡父とのおのろけ話なども聞かされた。
まあ、気持ちがちょっと楽になる。

起きたのは10時ころ。朦朧。
食欲がなく、パックのカフェオレ飲んで下痢。やっぱりな。
さて、東山区の福祉担当の部署へ電話をして、うちの地区担当の民生委員の方を紹介していただき、さっそく電話してみたのだが、結論から言うと全くお話にならなかった。

民生委員の方はこちらの事情を聞くと
「生活保護を受給された方が良い、保護を受けるための諸手続についてや、相談には乗る」
ということで、こちらが
「保護は最後の手段で、出来ればちゃんと働きたい。健康な人と同じにはいかないにしても、何とかそういうところを紹介していただくなり、斡旋するような機関はないか」
と尋ねたのだが
「そういう職業斡旋のような事はしていないし、自分も心当たりもない。保護を受けるのなら相談に乗る」ということ。
民生委員はボランティアだし、その方の「得意分野」というか得手不得手もあるだろう。
とりあえず、じゃあその段になったらよろしく、とお礼を言って切る。

ここに至るまでに、色んなお役所含め公的機関に聞いたもんだが、どうですかお客さん。
見事な役に立たなさぶりでしょう?
免疫力の落ちた病人が外へ働きに出ずに、自宅に居ながら働きたい。保護は仕事さえあれば働けるのだから、受けずに生きたい。働けなくなったら保護にすがるしかないが、俺はまだ働ける。
そういう人への、職業斡旋の場はないのか。
福祉事務所に聞いても知らんというし、民生委員は福祉事務所へ聞けという。

じゃあ自分で動くしかないな。

そういうわけで、ネットで京都のハローワークの仕事を見るが、どうやら一度行って登録しないと埒が明かない様子。しょうがないので着替えて、自転車で烏丸御池のハロワまで行くことにした。
今日は何も食ってない(というかカフェオレ飲んで下っただけ)なので、このまま何も食わなければとりあえず体調が急に崩れることもなかろう。
それより天気が崩れそうだ。スプレーのように雨がさーっと降っている。混雑する三条を避けて御池の橋を渡り、自転車を走らせていると、メガネが段々雨で濡れてくる。かといって今さらどうしようもなく、そのまま烏丸御池まで行くしかない。

…ハローワークへ来るのは久しぶりだ。

前回は1997年の夏、忘れもしない、あの「ガロ」クーデター事件の影響で会社が潰れ、俺は「失業者」となった。幸い雇用保険があったので失業保険を貰いに、池袋のハロワへ毎月出かけて「はいまだ失業者ですすんません」と認定してもらい、戻ってきたものだ。
池袋ハローワークの前には公園があって、そこにはくたびれた様子の中年、老年の男たちがぐったり座っていたり、首をうなだれてじっとしていたりした。そうかと思えばちょっと離れた場所に外車を停め、明かな不正受給と思われる893方面の女連れもいて、茶髪のケバいおねえちゃんが893屋さんがハロワへ入っている間、タバコをふかしていたりした。
何というか、こう、人生の縮図というしかない光景であった。

それにしても、あれから色々あったなあ。
フリーになってそれなりにちゃんと仕事がまわせていた時期があった。事務所を共同で借りたこともあったが、さすがにそれは時期尚早すぎてすぐに壊れた。
連れ合いが慢性膵炎になり、その後腎臓摘出手術を受けた。その後遺症の痛みで、約一年転げ回るほどの痛みと戦い、何度も何度も救急車に乗った。
連れ合いは抑鬱状態になり、本当に絶望的な状態と思われた時に、俺の白血病が宣告された。
連れは「わたしのせいだ」と自分を責め、それは鬱状態に良いわけもなく、本当に辛い時期だった。
そうじゃなく、「あなたが一緒にいてくれることが俺の生きるモチベーションなのだ」と伝え、ギリギリのところで支えた。
幸い進行の遅いタイプと判明して退院した直後、連れ合いに大学への招聘が決まる。
「頑張ってきた仕事がちゃんと認められたんだ、良かったね」と二人で笑顔を向け合った。
連れは俺のためにと、自身も病弱ながら一年と少し、京都へ隔週での通勤を続けた。
翌年それは毎週となる事が解り、相談した結果夫婦で京都へ電撃的に引越を敢行した。
二人の人生で最も平穏で、幸福な時間が京都暮らしだった。
それがたった一年半で、彼女の突然の死で終了した。
本当に後を追いたかった。生きるモチベーションが突然無くなったのだ。
泣き暮らし、一年間生花と線香、陰膳を欠かさなかった。
写真と向き合わないと飯も食えなかった。
俺の生きるモチベーションは、彼女…やまだ紫が遺した作品をちゃんと後世に伝えることになった。
原画原稿を全て、改めて整理をし、代表作の復活も色々な人に助けていただいて、一周忌前までに4冊復刊を果たすことが出来た。

あとは俺がどうやって死んでいくか、そういう話だろう。

一時は、いや何度か、もう死んだ方がましだと思った。
踏みとどまったのは連れ合いの存在だったり、逆に連れ合いの死だったりした。
耳の聞こえない白い猫は、連れ合いが遺してくれた家族だ。
こいつを遺して死ぬわけにはいかないし、お袋は喜寿を過ぎたというのに「こんなに面白い時代はない、出来るだけ長く見てやりたい」と言っている。
出来れば、逆縁は避けたい。俺も、「生」にしがみつく。

そのためには働かねばならない。
生活保護では猫と暮らせず、東京の不動産の処理が終わっていないので、受給は申請すら出来ない。
だいたい、不景気で収入が減って、連れ合いと過ごした思い出のマンションを出ざるを得ず、今の部屋に引越をしたばかりだ。
おかげですっからかんである。
生活保護を受けるためには家賃の上限があり、ということは、またここから引越をしなければならん。
冗談じゃねえ、病人一人で荷造りだの何だの、死ぬかと思ったんだぜ、引越で。それこそ「殺す気か」。
それに働く意志があって働ける職種もあるんだから、足りなくなった分を何とか補えればそれでいい。
何も分不相応な贅沢をしたいなどとは微塵も思っていない。

そういうわけでハロワへ行き、あれこれ書類を書き、窓口で係のおじさんにこれこれこうだと事情を説明し、施設内のPCで外部からは見られない求人も含めた情報を見ていく。
ここではいわゆるSOHOや「在宅ワーク」などというもの=内職扱いの斡旋は一切ない。
フルタイムにしろパートにしろ、正社員にしろ派遣にしろバイトにしろ、通勤しそこで働く、というものしか探せない。

明日からは登録したIDで自宅からWEBで同じ情報が見られるそうなので、とりあえず端末からいくつか情報を取り出し、いったん帰ることにした。
雨は上がっていた。
帰りがけに職員に「履歴書用の写真撮れる機械とかこの辺にありますか」と聞くと、無いという。で、取れる写真屋の地図をくれた。遠いっつーの。職業斡旋する場所で、履歴書に貼る写真ボックスくらいおいとけよ。
気付こうよ、そういうこと。
帰りがけ裏道通って市役所の裏手から、ひょいと入って同じ事を聞くと、やはりこの辺にはないという。
市役所も色々諸手続で訪れる人多いだろうに、置かないんすね。

とりあえず一度自宅へ戻り、ユキをなでてから、履歴書に貼るための写真を三条駅に撮りに行って戻ってきた。
このトシで履歴書書くことになるとはねえ。

免疫がどうこうとか、出血傾向がどうとか、脾臓が出血したら即死とか、あれこれもうどうでもいい。
だって、じゃなければ死ぬしかないじゃねえか。
病気が進行して結果的に死ぬのならしょうがないが、食うに困って野垂れ死にじゃあご先祖様にも顔向け出来ない。

働きに出て何かに感染したりとか、自転車に追突されて出血したりとか、そういう「リスク」を今まで怖れてきたが、仕方が無い。
働くために「前のめりに倒れる」死なら、三津子もきっと許してくれるだろう。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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