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2012-10-29(Mon)

白血球800!!!

2012年10月29日(月)
今日は診察日である。

夕べは早め…11時前に薬を飲んで寝たせいか、8時半の目覚ましまでぐっすり寝た。
目覚ましがわりの携帯、一回消した後スヌーズで5分後にもう一回鳴り、それからおもむろに起きて、朝のもろもろをして、いつものようにシャワーをする。
それやこれやで支度を終えると9時半を過ぎていて、マンションを出たところにちょうど右折してきたタクシーで病院へ。採血受付を済ませると、9時50分くらいだった。あーあ、大幅に「遅刻」したなあ…と思いつつレントゲンを撮りに行く。
そうして10時過ぎに呼吸器内科の外待合に座ると、ほんの数分で呼び出し端末が「診察室へ」と鳴動。

呼吸器内科のI先生は「採血の結果はまだ出てないけど、レントゲンが出ましたからね」とのこと。
肺の方は異常なく、あとは血液の方は血液内科のK先生によく聞いて…ということで、呼吸音を聞いていただき、何か変わったことはないかと聞かれる。

一番変わったことといえば。

「ちょっと感染などは怖いですが、外に働きに出ることになりました」と報告。
I先生は「そうですか…、やむを得ませんね。でも感染にじゅうぶん気をつけたうえでしたら、仕事をされる分には構いませんよ」とのこと。
ただ、俺が「そのことで歯科・口腔外科に紹介された、外部の歯科に通うのがちょっと難しいと言いますか…」と告げると、
「あらら、本当は逆なんですけどね、しっかり歯を治して、それから…という方が感染リスクも少ないし」と言われる。
そんなことを言われても、働かねば、まず生きていけないのだ実際問題として。
俺と猫一匹の生活費以外にも、病院の検査代や薬代がかかる。
てういか、まず、今日病院へ来る、検査や吸入薬とかもろもろで、確実に7000円以上飛ぶ、そして生きるための薬で、確実にこれまた15000円以上飛ぶ。毎月、ええ毎月。

そして、それらには「おまえ難病じゃねえから!」(エイズじゃねえからカネは出ないよ、バーカ)というわけで、別にどこからしら何がしら補助が出るわけでもない。もちろん国民健康保険で負担は3割だから「補助」はしてもらってるのだが、そんなのドクターショッピングや暇潰しに来ている患者(?)たちと同じで、別に俺だけが特別扱いを受けているわけでもない。

先生は「まあ、こればかりはしょうがないですね…。とにかくじゅうぶん口腔衛生には気を付けて、これまで通り感染予防もしてください」と言われる。

それから、歯科・口腔外科で出して貰っていた薬を、改めて処方していただき、次回の診察と検査の予約、そして本日のニューモシスティス肺炎 (カリニ肺炎)予防のための「ペンタミジン(商品名ベナンバックス)」を30分吸入するための指示票を頂いて出る。
まっすぐ血液内科の受付に行き「前の診察終わりました」と報告してしばし椅子に座るが、あれ、血内(けつない)の予約時間までに吸入終わるんじゃないか…と思い立ち、処置室へ。

処置室は人が少なく、しばらく待ち、猫好きで顔見知りの看護婦さんに挨拶をして、すぐ準備をして貰う。
30分の吸入地獄の途中、「診察室前へ」の指示が来たので「今行けません」を選択。便利になったものだ…と思いつつ、涙目で吸入。
終わって看護婦さんを呼ぶインターフォンを押そうとしたところで、「診察室へ」と端末が鳴動。
すぐに吸入していた「電話ボックス」(もちろん通称)を出て、早足で血内の診察室へ向かう。


K先生に「すいません、遅くなりまして」と言いつつ診察室へ入ると、「いえいえ、大丈夫ですよ…」と言いつつも、採決結果をプリントしてくれ、「ただ白血球数が…」と深刻な表情。

800!

おおー、最低記録更新だ!
今まで最低に落ちた時でも900で、まあだいたい初期は1500とか1400あたりで一喜一憂、それらも意味がないと解ったあとのここ数年の1000~1200くらいをうろうろして来た「低値安定」の7年間。
低い数値に慣れてはいるが、これはひどい。大丈夫か俺の免疫。いや大丈夫なわけがないか。

K先生は「これは『(ここ7年の)大きな流れ』の中での微細な上下なのか、それとも前回(900)からさらに落ちてきているのか、ちょっとこれだけでは判断つきかねます。…熱が出たりとか、異常はないですか?」と聞かれるので、
「はい、熱は毎日測ってますし、異常もなく…」と報告。
先生は「ただ、血小板数は今回上昇してますし、赤血球も前回よりは改善されています。あと前回心配だった炎症反応(CRP)もほぼ平常値に下がってますしLDHも…、やはりこれだけでは評価しかねますね…」ということで、触診の後、とりあえず様子見は継続。

またK先生にも、外に働きに出るようになった事をお話すると、
「この数値ですとかなり免疫が落ちていますから、じゅうぶん感染には気を付けて下さい。…まあそのためにお薬を出してはいますが、これからの季節はいろいろ…」と言われる。
「普通の人でも体調崩しやすい時期ですもんね…」としみぢみ。

そう、免疫不全に近いのでたくさんの薬で補っているのだ。
「例えば、これ以下に下がるようだと今後白血球を増やす注射をするという事はあり得ますか」と聞くと
「そうですね、でもまずは骨髄を採取して、造血(細胞)の方がどうなっているか(つまりどれだけ癌が進行しているか)を検査してみないと、例えばこれだけ脾臓が大きくなられているわけですから、ある程度作られたものがそこへ溜まっている可能性もあるんです」とのこと。
やみくもに血球の増産命令を出したところで、造血幹細胞=血液製造工場が半端モノばかり製造しているから、まともに働くとは限らない。無理やり数を増やしても、これまた体のために働く血球ばかりとは限らないのだ。

「巨脾」は白血病や悪性リンパ腫でよく見られる症状だけれども、昔と違って今は検査が発達し、初期段階での発見が可能になった。つまり、これほど巨大に脾臓が腫れる前に、血液腫瘍の確定診断が出来るようになっている、という事。だから俺のように下は骨盤まで、右は臍の中心ラインを遥かに超えて膨らんでいるのは、近年では極めて珍しい実例だそうだ。
であるがゆえに、手術で取るとなると、当然大手術になる。これだけの巨大臓器を摘出するとなると、左の腹部も大きく切らねば取り出せない。細かく刻んで出せる臓器ではないからだ。こないださんまの腹を包丁で割いて内臓を取り出した映像を思わず脳内再生してしまった。
「脾臓」は傷つけたら二度と「縫合」の出来ない臓器だ。縫うために針を刺せば、その針を刺したところからまた血がにじみ出て来るという厄介な臓器。だからそこに向かう全血管を一度止めて、50cm×30cm以上の大きな脾臓を慎重に摘出することになる。
当然、自分の場合は血液の状態もあるので命がけでもある。
あとは放射線を照射してみるなどの方法もあるが、いずれにせよ骨髄を評価してからでないと、方針は決まらない。

俺の場合は健康診断で肺のレントゲンを撮った時に、肺の下部にすでに脾臓が張りだしてきており、それと縦隔の腫瘍、採血結果から大学病院で精密検査をするように言われ、いわゆる「癌宣告」と「余命告知」を受けた。その時にはもう「巨脾」は骨盤近くまで達していたのだ。
最近メタボってきたなあ、なんて思ってたらこの始末。やっぱり健康診断て大切だ。40になるまで何の病気も手術もなく、連れあいと違って全く病気と縁がなかった…なんて思ってたら、最悪の診断が待っていたわけである。
(皆さんも今は早期発見が出来て、それは必ず治療には良い方向につながる事が多いので、「なーに大丈夫」なんて思わない方がいいと思いますよ)


とにかく来月このまま白血球数が下がっていくようだと、何らかの「対策」が必要になる。
例えば脾臓全体に放射線をあてるとか色々あるが、いずれにせよ、あのMARK(骨髄穿刺)で、しかも生検のために特別辛いのを受けないとならない。
最近は採血の分析もかなり詳細になり、ある程度の進行具合は採血だけで解るようになった、なので京大病院に転院してからはMARKは受けていない。良かったなあ、と思っていたらこれだ。
胸膜をドレーンでブスリと貫かれたり、メスで腹だの胸だの切られた後の痛みとか、帯状疱疹が悪化・劇症化した時の煉獄のような痛み、はたまた胆石発作の冷や汗が出るような激痛…などなどを経験してきた俺ではあるが、MARKの「痛さ」というものはまた別ものだ。
何というか、体が内側から一本の針に吸い取られるような不快感と痛み、苦しみがある。たぶん経験しないと理解できないと思う。まあ普通の人は一生経験しない方が、いいと思う。

そういうわけで感染予防の薬も追加処方していただき、「くれぐれもお気をつけて」と言われてお礼を言って辞す。

ただ、あまり悲壮感はない。
こんな病人、半分、いや三分の二くらい死にかけてるような人間でも、編集者としてまた働くことが出来るようになった。きっとそれは免疫にもいいに違いない。
今日の結果はしばらく前の結果が血球に反映したものだ。たぶん次は上がってるよ、うん。あとは気をつけるだけ。
K先生も防疫の基本はとにかく「うがい、手洗い」これに尽きるとおっしゃっていた。
自分もここ7年の経験上、そう思う。それでも、感染するときはする。家で引きこもり最低限の外出にとどめたところで、ニューモシスチス肺炎にかかって肺が穴だらけになったわけだし。

気持ちは強く保つ。
それが「病は気から」という意味。

病院から処方箋をいつもの薬局にFAXして貰い、配達のお願いを電話で。ただし、けっこう冷や汗の出る金額になるので、とりあえず配達は「用事があるので、明後日にして貰えますか」と頼んだ。だって今日持って来られても払えないもん。
先方は「その間、お薬大丈夫ですか」と言われるので、「2日分残ってますので大丈夫です」と答える。本当は導眠剤だけ足りないのだがしょうがない。お金ないもん。

病気は、金がかかるのだ。
生きていくためには、金がかかるのだ。

そのあと、腹が減ったのでこりゃ食堂で醤油ラーメン食えるかも…と思い病院のレストランへ行ったら、ほぼ満員。真ん中の楕円になってる一人客用のテーブルも、皆一人おいて座っている。その空けてある席に割って座れるけれども、そこまでせんでも…と思い、萎えてしまった。
外に出るとけっこう日射しが強い。風も強いが生暖かい。病院内も、そして会社はもっと暑いので、スエードのジャケットの下は夏用の半袖ワイシャツ。で、ジャケット脱いでちょうどいいくらい。
でも老人はコート着て襟巻きまでしてるのもいる。体温調節大丈夫か、と心配になるくらい。俺はもともと暑がりとはいえ、襟巻きはやりすぎだろう。実際観光客の白人はTシャツ一枚だ。まああの人らは下手すると12月になってもそういう格好だったりするが。

どうしようか、一旦家帰ろうか、いや意味ねえし、と思いつつ病院を真南に出て、丸太町に抜ける路地の入口で、蕎麦屋で親子丼…うーん、天ぷら…うーん、と思いつつラーメンの看板を見てうーん、歩きつつ喫茶店、カツカレーに目が行ってしまった。
揚げたてのカツにカレー。まあ空腹時には最強である。もう想像したら駄目。もーう、駄目。なので久しぶりに、誰も客のいない店内に入る。
前にここに来たのいつだっけ。三津子と来たのは一回だけだと思う、3年半以上前なのは確実。俺一人でも何度か通院の帰りに一人で入ったか何かしたが、連れを失ってからはほとんど外食そのものをしていない。とにかく4年か5年ぶりだ。

店内はこんなに薄暗かったっけ、と思う感じ。水とおしぼり持って来てオーダーを聞き、カツカレーを持って来たおっさんは丁寧だったが、途中食後の珈琲を持って来たお運びの女性は乱雑だった。こういう仕事させてちゃあかんなあ。
あと、オーダーしてスポーツ新聞拡げて待ってる間、こういう時間て本当に久しぶりだな、懐かしいな…と思い、思わずスマホで写真を撮った。かつて東京での出版社時代、フリーの時代、東京都内から関東一円を飛び回っていた。ほとんどの駅のトイレの位置とクオリティ、駅の立ち食いのランクも頭に入っていたほどだったっけ。

そのうちどやどやと土方(差別用語ではない。土方は土方。俺もやったことがあるし彼らがいないと建物が建たないのだ)の3人組が入って来て、座るなり全員がタバコに火をつける。席は離れていたし店はけっこう広いのでいいんだが、というか喫茶なので「喫」は別にいい。こういう場面も懐かしい。
12時を廻ったせいか、その後も2人連れ、1人客、3人連れなどで店内はほぼ満席。そのうち9割が喫煙者だった。凄いな、喫煙者天国。まあ換気のいい店で良かった。

煙で飯が食えないということもなく、運ばれてきたカツカレーを食うが、揚げたてはいいが肉が固く、しかも味というか「旨み」がない。あの古川町の美人がいる肉屋で買った肉とは天と地ほども違う。あそこの肉を自分で揚げたやつの方が十倍うまい。いや二十倍くらいかな。あとカレールーもまずかった。自分で作ったやつの方が五倍うまい。いや七倍くらいかな。とにかく小鉢の野菜サラダはレタスのフチが赤くなりかけており、これはさすがに感染が怖いので食うのをやめた。
でホットコーヒーをすすっていると、もう下腹部に第一波が来たので、ゆっくりコーヒータイムというわけにもいかず、そそくさと会計をして、また病院へ戻る。

何しろ食ったらすぐ下痢だ。

京都に越して来たきろは、ここまでひどくは無かった、だって三津子とよく外食に出ていたんだから。
やっぱり確実に、ちょっとずつではあるが悪くなってはいるのだ。怖いな。
でもそれを見越しての病院付近での昼食だ。
すぐ病院へ戻り、エスカレータで普段行かない4階まで上がる。ここに来る外来の患者は多くないので、トイレも空いているし、男性用もなぜか2個室それぞれに子供のおしめ交換スペースがある広いものだ。
片方が空いていたので、そこで便座を綺麗に除菌ティッシュで拭いてから用を足す。
食ったらこの速度で下るというのは、もちろん食ったものが出るのではなく、食ったことで腸が動いて押し出されるということだ。つまりは、腸が正常に働いていないという事になるのか。水分も吸収しきれていないから、尿は濃くなり便は水分が多くなり下痢をするのか。
どうでもいいや、わかんねえし治せねえし。

ゆっくり用を足し、ゆっくりしっかり手を洗い、ゆっくり下まで降りて病院を出る。そうしてゆっくり丸太町の駅まで歩き、後からきたおばあちゃんと娘さん(といってもイイお歳)と一緒にエレベータで地下に降りる。
駅には特急が来たが、これに乗ると五条は止まらないので、次の普通を待つ。五条、通過駅なんだよなあ。駅名は「清水五条」に変えたのにけっこう通過される電車がある。
次に来た普通電車に乗り、五条に出て、まずダイコクドラッグで家での買い足しものが安かったので買い、それをぶら下げて出社。1時過ぎだったか。
社長はまだ出張から戻ってなかったので、まだ名刺交換して挨拶してなかった人たちに順番に名刺を持って挨拶に回る。まだコンプリートしてないと思うが、だいぶ挨拶は進んだ。

新しい職場に始めて来たのが15日。新しい仕事の場に入ってくれないかということで、辞めるHさんと始めて初めてお会いしたのが19日。それから二週間弱、Hさんの空いた時間をいただいて、引き継ぎを少しずつ進める感じで、全体像がまだ全く、ほとんど何も解らない。取材時のタイラーやカメラマンの名前も聞いていないし、印刷業者にも紹介を受けていない。

自分はもちろん月刊誌編集歴はあるし、その他書籍もムックもデジタルも、ほぼありとあらゆる媒体、現場を経験してきたが、それでもこういう新しい現場へ来るたびに思うのは
「自分はキャリアはあるが、ここではペーペー」
ということ。
みんな俺が入った時点では俺より先輩で、今、ここでは俺より仕事が出来る人たちばかりだ。
俺は人に聞かねばゴミの捨て場所やプリンタがLANでどう繋がっているかも解らず、そもそもトイレの位置すら知らなかった。まあトイレは一度も入っていないし、今後も入らない所存ではあるが。

その他の実際の業務や生臭いことは、今後も一切書かない。
守秘義務がどうこうもあるが、俺はよくても他の人が望まないことは書かない。
全員が承諾したワケじゃなければ、全員書くべきじゃない。今までも自分のことはフリチン仁王立ちで書いてきたが、仕事については公開して良いもの以外は全く触れていない。

…さて今日は8時過ぎに会社を出た。正直、病身には疲れた。
黙って座っているだけでも、腹がしんどい。時々横になりたかったりするが、そんな場所はない。
家だとそれが出来るので助かるのだ。

駅のホームでは電車が通過したところで、次の普通電車まで5分以上。五条はこれ(通過待ち)がある。座って弛緩して待つ。次の普通で三条駅、構内のコンビニでおにぎり2つと明日のサンドイッチ、マカロニサラダを買って、酒屋の自販機で発泡酒。
部屋に戻ると、ユキはソファの、入口がわの袖の上に香箱を作って目を瞑っていた。
寂しかっただろうな。
荷物をそっと置くと気配に気付いて「にゃあ!」と声を出して寄ってくるが、とりあえず着替え、まず手洗い、うがい。それから抱き上げて撫でてやる。抱き上げる前からもうゴロゴロ喉を鳴らしている。

「夕飯」のあとは一息ついて、十津川のおいしい和菓子だという「栗きんとん」を送ってくれたNさんに電話。
30分くらい話してしまった。ご主人は東京でフリーの編集者をやられているが、今日も午前様の様子らしく、大変ですね、お体気を付けるようにお伝えください…と言うしかない。編集者なんて東京でやってたら、ほとんど体力勝負ってところもある。
そしてそれを俺も何十年も経験してきた。もう、東京では出来ないと思う。

京都は狭い。そのコンパクトな中で、しかもテクノロジーの進歩で編集の仕事はずいぶん楽になった。
俺が業界に入った頃の、おそらく7割くらい…もっとかな、楽になっていると思う。
でも、そうなったらなったで新たに色々気苦労も増えるのだ。相手の顔が見えなければ、魂、血の通ったコミュニケイションを意識せずに、いわゆる立場が上の方が簡単に「ゴリ押し」や「無茶振り」が出来る。
昔は作家も編集もデザイナもイラストレーターもカメラマンもライターも製版屋も印刷屋も製本屋も、何なら取次含めた書店まで、みーんなある意味利害の対立や立場の違い、あれこれはあっても共通の「俺等は仲間」という意識があった。
今はそこが違う、ぜんっぜん違う、と思う。
昔から「いい編集者とは…(同じ本を作るために色々な人を束ね、結果的に発売日までにちゃんと本を作るために)…結局いい人、ということですね」と自信持って言えた。
今は、必ずしもそうとは言えなくなっていると思う。

間に関わる人らで一生顔を会わさない人も出て来るだろうし、そこに信頼関係や人間関係の成熟、熟成は期待できない。そうするとビジネスライクになるし、当然無理を通そうとしてもそこでのア・ウンのやりとりが出来ない。
昔は一回肩組んで飲みにいって、寄った勢いで「わかった!白取さんのためなら俺何とかしてやるよ!」と言ってもらえたらこっちのもんだったし、もちろんその逆もしかり。もうそういった事が通用しない世界。
でも、それならそれで逆にその時間を有効に使うしかない。

楽になったのは圧倒的に入稿(これは当然、編集部に原稿が入ることを言う)がデジタルデータが増えたことによるデザイン出しへの楽さ。ほぼ校正刷りに近いかたちで赤をいれられる。昔のように「想像」でいれなくて済むし、色校もフィルムを分版で見たり、場合によっては上がってきたばかりのポジの膜面を削って修正したりせんでもよくなった。何より、版ごとの「ゴミ・ヨゴレトル」が無くなっただけでも大きな時短である。
そういう便利なところはどんどん機械化すべき、IT化(死語)すべき。編集は編集たる企画や人選やスケジュールの把握やまとめ、全体の進行管理などにもっと時間を割ける。
とにかくそういった変化はあっても、「編集」は相変わらず、オモシロイ。

クライアント様がいて、無理を承知で(知らない場合も多い)トンデモな事を要求してくる、これまでの人生色々飲み込んでいきた言葉がたくさんあるけれども(今の職場の話ではない)、そういうことも含めての、
「でもやるんだよ!」
が編集者。そうして実際出来た本や雑誌を見て小さくガッツポーズを取るのが醍醐味だ。

手塚や石の森、ドラえもんやあしたのジョーの作者は知ってても編集者の名など誰も知らぬ、だが我が人生に一片の悔いなし、という生き様が名も無き編集者の死に様でもあります。
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コメント

つい読んでしまいました

友人の白血球で異常数値が出てしまい、調べていたところ、こちらにたどり着きました。
なんだかコラムを読んでるみたいだなあ、と感心しておりましたが、編集のお仕事をされてる方なんですね(納得)
文章がしっかりしていので、つい読んでしまいました。
病気は家族も大変です。
いつか治る病もあれば、生涯向き合っていかなければならない病もあります。
そして、結末がわからないからがんばれるというのもありますね。






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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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