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2014-10-29(Wed)

退院とあれこれ

2014年10月29日(水)
先週の土曜日、25日の午後に京都大学医学部付属病院積貞棟3F、より退院しました。

これまで胆嚢摘出手術の時、連れ合いがまだ生きていてくれた時以降は、どんなにボロボロで瀕死の状態でも、たった一人で入院の準備をし、荷物を運び、それを抱えて退院してきた。
それらの入院や救急外来への駆け込みは、白血病による免疫低下による大小の感染症への対処のため。
これが「元の病気が治っての退院」ならどんなにいいだろうか、とその都度思った。

今回は、相部屋で仲良くさせて貰い、一緒にテレビを見たり冗談を言い合ったりして笑った闘病仲間、いわば戦友とも言えるKさんと一緒に玄関を出ました。
土曜だったので受け付けや手続きもなく、病棟で患者用のリストバンドを当直の看護婦さんに切って貰い、まだ残る「戦友」たちと別れを交わし、最後はタクシー乗り場でKさんとがっちり握手をして別れました。

Kさんは俺の亡くなった連れ合いとほぼ同い年。
お隣の亀岡市で、ある事業をされておられる「社長さん」で、俺と同じ慢性リンパ性白血病(ただしタイプは全く異なり、向こうは白血球が「無駄に増え」、俺は逆に「作れずに減る」タイプ)を患い、患者歴は13年。抗癌剤治療で一度寛解し、二度目の治療で入ったが、とりあえず通院での抗癌剤投与と、近い将来の骨髄移植を目指している。俺より先に過酷な領域に足を踏み入れる。

病棟に入ると、年齢も社会的地位も関係無くなる。
お互い、同じわけのわからん血液の癌とやらと戦う仲間みたいなものだ、だからそこの部分で共感し助け合い、入ってる間くらいは笑ってようや、という事で一致した「仲間」の一人。
俺の方は移植などまだまだ遙かに高い山の頂点で霞がかかっている。
まずは中腹の、強い抗癌剤を入れられる状態へ体を持って行くために、今は弱い薬でちょっとずつ大量の腫瘍細胞を切り崩している状態。いわば、登山道を自分で整備しつつ休み休み登っているような感じ。
こちらも、今後週一で抗癌剤投与のために通院する。

お互い外来=通院日が違うので、ひょっとするともう会わないかも知れない。
それに、病棟で会うとしたら、向こうは凄まじく苛烈な骨髄移植の際であり、こちらも今より遙かに強い、つまり副作用も大きい抗癌剤の治療のためだろう。もしくは感染症か何かで担ぎ込まれた時か。だからいすれにせよ「病棟では顔を合わせたくはないね」と笑い合う。
ほんまにこの度は色々と面白い話もたくさんあったが、それはまたの機会に。

Kさんはダンディな帽子を被っていて、荷物はご家族がある程度持ち帰った後なので、お洒落なキャスター付きカート一つ。亀岡に帰るという事は円町まで普通タクシーだろう。
こちらは病院のでかい空港にあるような荷物運びキャスターに、キャスター付きキャリーバッグ、ボストンバッグに大きな紙袋にそれぞれ荷物がパツンパツン、さらに小さな紙袋も一つ。とても一度に人力で全部持てる量ではない。

タクシー乗り場は土曜の午後で、一台も客待ちが居なかった。
とりあえず病院のカートからヒイコラ荷物を待ち位置に下ろして空車が来るのを待つ。
この日は快晴で25℃くらいに気温も上がり、立っているだけでじりじりと日差しが体力を奪う。
「来ませんねえ」と言っていたKさんが、「じゃあ私は帽子屋に寄っていくので、ここで」と言い、握手をし「お互い元気で」「お世話になりました」と言葉を交わして別れた。
「もし空車来たら向かうように言ってあげますよ」と言いつつカートを引きながら遠ざかっていく後ろ姿を見送り、東大路にその姿が消えても、タクシーはまだ来なかった。

やれやれ、困ったな、この荷物じゃ通りまで出られないし、いったんエントランスに戻って配車を頼むか、なら荷物をまたカートに積み直さないと…と思っていたら、スーッと一台空車が来た。
「白取さん?」と言うのでそうだと答えると、東大路で停められたので乗せようとした人に、「自分じゃなく、病院の玄関で困っている人が居るから拾ってあげて」と言われたそう。
Kさんか、有り難い。
ここでハッと気付いた。帽子屋なんかこの辺あったか。あの人、通りまで出て自分だけ帰るついでに、俺に一台まわしてくれたんだな。
なんだよ格好ええやんかおっさん(笑)。でもほんまに助かりました、ありがとう。

帰り道、個人タクシーの乗り心地は良く、運転手もいい人だった。
なぜか車内ではトシちゃんの若い頃のヒットパレードが流れていた。
このおっちゃんがなぜ、と思い信号待ちの時に聞くと、NHK-FMで、たまたまこの時間は歌謡曲の一人の歌手をずっと特集で流しているという。
ふうん、と思いつつ若いトシちゃんの、曲名も知らない不安定な歌声を聴かされる。
「もう二度と会えない、それが人生」みたいなサビの曲があって、何だよオイと思いつつ、ちょうど信号待ちで停まったところが、前に住んでいた古門前のマンションに近い、縄手に入る白川の橋だった。
ふうん、と思った。

賑やかな川端四条を抜け、自宅前に停めてもらい、階段を二往復して荷物を運んだ。
やはり息が切れ、きつい。しんどいが、入院前とはやはり違う。気力がまず違う。
もう、ちょっと、生きねえと、っと。
この退院日の前々日、ダスキンの見積もりで一時外出をして入った時と比べ、急遽入れてもらった前日の掃除で部屋はホコリも猫の毛が舞う事もなく、床もぴかぴかになり、毛だらけだったソファも綺麗になっていた。当たり前だが水回りもトイレ含め、きちんと掃除されていた。
素晴らしい。
とりあえず手洗いをし、うがいをし、マスクはそのまま着用で着替えをする。
掃除はして貰っているが、基本的に家具の配置、とっちらかした荷物は何となくまとめてくれているくらい。当たり前ながら入院前に中途半端に模様替えをしようとして挫折した、「玄関開けたらいきなりテーブル」という状態は変わっていない。
これ、動かすのはまだ無理だな…。

その後荷物をちょっと整理し、それなりに疲れたのでソファに横になる。
とりあえずは実家と、猫を預かってくれているにゃほやまさんことTさんに退院の連絡を入れた。
その後何気なくつけていたテレビでは、NHKでアーカイブスみたいな番組をやっていた。
オリンピックにちなんだのか、「1964年を振り返る」とかいう企画で、何とガロが取り上げられていた。
ガロはもちろん64年創刊だ。スタジオには創刊号や同時期のCOMも並べられており、ゲストに佐藤忠男さんと、若い宇野常寛という知らない(失礼)評論家。
そして流れたのは、長井さんが亡くなったあとに作られたガロのドキュメンタリ番組で、佐野史郎さんが案内人。
佐野さんと最後にお会いしたのはゴールデン街だったが、覚えておられないだろうなあ。
番組では、開始直後、冒頭に「長井さんを偲ぶ会」の映像が流れた。
映ってないけれど、この会場の受付には自分も居た。
画面には女流の代表として挨拶する、ちょっと化粧の濃いやまだ紫の元気な姿。
結局、最後まで見た。
ああ、こういう事かと思った。
いろいろ思う事はある、ちょっと今は整理できない。

それから、先日赤瀬川原平さんの訃報を聞いた。同じく、退院日に見たガロの番組にも出ておられた。
もちろん青林堂(白土三平のカムイ伝を連載させる月刊誌として、ガロを刊行するために長井勝一が作った版元・青林堂は、90年代後半のごたごたで経営者が変わる。もちろん、長井さんの青林堂とはもはや全くの別会社であり、時々「あの白取さんの居た青林堂ですか、ガロの…」と聞かれることがあるが、全く、全然別ものと言っていい。言いたいことはたくさんがあるがまたそれは別の機会で。とにかく俺の中では、俺が青春を捧げた出版社・青林堂は長井さんの作ったもので今はもう無いもの、である)の株主であり、自分も何度もお会いしている。カメラの話をけっこう長くさせていただいたりもした。いつも静かな物腰で、面白くて、優しかった。
ガロの重鎮と呼ばれる作家の方々は、皆さん偉ぶらず面白くて優しい方ばかりだった。
長井さんの、あのしゃがれ声も懐かしかった。
「編集者で作家に色々言う奴いるでしょ、でも俺いつも思うんだよね、だったらてめえが描いてみろよ!ってさ」
という、べらんめえ口調。
「師匠」であり、「親父」でもあった。

退院から今日までの間、とりあえずは「普通の生活」に戻るためのリハビリのように、ちょっとずつ部屋の中を片付けたり、家具を動かしたり、休み休みあれこれをした。
先日…というか退院の翌日には、「キッチュ」発行人、呉君が来てくれた。
このたびの入院によりおおかみ書房の千葉ちゃんと一緒に作るはずだった本の、俺が担当するオペレート部分を代行してくれている。
彼は奥さんと伏見に住んでいて、四条のギャラリーで来年奥さん…ムライさん…が個展をやるので、下見を兼ねて展示を見に来たという。そのついでに、ちゃんとマスクをして俺の顔を見に来てくれたのだ。
小一時間くらい話して彼は戻っていったのだが、その後しばらくして、部屋の前で何か変な物音がする。
段ボールの梱包をバツン、バツンと切るような音。
あれ、いま何も配達は頼んでないしなあ…とドアの除き窓から見ると、なぜか呉君がドアの前で段ボールにかかったヒモを切っている。最初はそれが梱包ではなく、段ボールの束かと思った。
帰る前の世間話え、俺が部屋の家具を動かす、それは手伝ってくれたら有り難い。でもその前に部屋の中を一回片付けないと…とか話していたので、てっきり整理用の段ボール整理箱でも買ってきてくれたのかと思ってドアを開けた。

何と開封していたのはダイキンの空気清浄機の箱だった。
「どしたのそれ!?」と言うと
「買ってきました」と言う。
いやこれ京都ヨドバシから提げてきたのか、凄い腕力だな。
いやいや感心するところ、そこじゃない。
実は一緒に本を作っていく中で、千葉ちゃんと「白取さんに退院祝いで空気清浄機をプレゼントしよう」と話してくれていたそうだ。だが、俺がもう清浄機はダスキンでレンタルしたと話したので、いったん中止とした。
でも先ほど部屋で見た空気清浄機は小さかったし、俺が「玄関に置く」と言っていた、で「これから冬なので加湿器も買わなきゃ」とも言ったので、相談の上、それなら加湿機能がある空気清浄機をもう一台買おう…ということになったという。

IMG_20141026_203910.jpg

せっかくのご厚意だし、何よりもう開梱してるし。
結局有り難くいただき、ダスキンのは玄関に置いて、メインはいただいた方にした。何かSFチックなデザインの、ダースベイダーが使うならこういう水冷式PCか、というような、あるいは何かの秘密兵器みたいな凄いやつ。
さっそく試運転し、動作確認すると梱包材や箱もちゃんと持って帰ってくれた。電器屋か。
奥さんは今軽く風邪ひいてるとかで、来るのを遠慮してくれたという。いろいろ有り難い。
千葉ちゃんも、ほんまにありがとうございます。

実は同じ退院翌日、ある漫画家の方とも電話で話をした。
その人はデビュー20年になり、もちろんガロ時代は担当だった。まあはっきり言えば古屋兎丸さんなのだが。
彼は退院祝いじゃないが、今後防疫体制も大変でエアコンも買い換えだとブログに書いたりしたので、「エアコンをお見舞いに送りたい」と言ってくれた。
いやもちろん、お気持ちだけでと丁重にお断りして、あれこれ久しぶりに話をした。

うちでは夫婦で「うさまる君」と呼んでいた。もちろん作家さんなので面と向かえば「古屋さん」だし、俺と年齢もいくつかしか違わない。
デビュー20周年となり、振り返ったときに、原点にガロがある。その時に居たのが俺で、たまたま担当をさせていただいた。最初の単行本も一緒に作った。
兎丸君は「声が元気そうなのでびっくりしました、安心しました」と言ってくれる。抗癌剤でヘロヘロになり、あえいでいる…という想像をしていたみたい。まあ仮に実際にそうだとしても、そうは言えないけど。
それにしても、電話でも伝えたように、俺なんか何もしてへんし。
ただ俺は「たまたまそのときそこにいた」だけだ。
俺じゃなくても彼の才能は誰にでも解ったし伝わったし本も出来ただろう。

彼の最初の単行本「Palepoli」は、俺にとっては青林堂で作った最後の単行本になった。
一緒に書店を周り、色んな装幀の本を見た。どんな本にしようかを話し合った。トレヴィルのお洒落な本を見て革張りは無理だから革張りの写真を分解でバックにしようとか、金の箔押しやりたいとか、アイディアを出し合ったのもいい思い出だ。
ガロの新人の初単行本なのに「こんなにいい本」という、ある意味驚きと共に彼の作品を送り出す手伝いが出来て、こちらも本造りの現場に一区切りつけられた。
いい仕事をしたと今では素直に言える。

そして、その区切りでもって、自分はデジタルや次に来るネットの世界での「出版」やマンガの表現に、今度はガロの編集者としてもっと積極的に関わっていこう、と思うことができた。ま、それはガロの突然の休刊「事件」でメチャクチャにされてしまったわけだが。
このあたりの出版史の闇、穴、抜け落ちた部分の真相は誰が書いてもウソになる。
でもいつか埋めねえとアカンやろな。

さていろいろ、まだちょっと時間がかかる。
まず猫のユキちゃんを預かっていただいているTさん、まずは俺の体調を戻すのが先だと。何より通院で抗癌剤を入れるという新たな環境に慣れるまでしばらくかかるだろうから、それからでいいと男前なことを色々言っていただいた。
いや女性ですがすいません。
もうちょっとお姫様をよろしくお願いいたします。

何しろまだ自分の世話で精一杯。
あちこちに不義理をしたまま。
でももう自分を犠牲にして義理を立てる余裕が無い。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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