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2014-12-30(Tue)

元ガロ編集長、山中潤さんと20年ぶりに再会した

2014年12月30日(火)

夕べは1時過ぎに寝て8時まえにすきっ、と起床。
外は朝日がまだソファに座ってると頭よりちょい上くらいの高さにあり、まぶしい。

今日の夕方はおおかみ書房・掟さんのコラム集「出し逃げ」の校了祝いと兼ねての忘年会、代表の千葉ちゃん、俺が入院してしまったために本文オペレートとデザインをやってくれた「キッチュ」編集人の呉君とやる予定。
なので、先に別件の小さい更新仕事を片付けてしまう。
実は、これはギャランティの発生しない「お仕事」だ。もうおしまいなので、残務整理みたいなもの。何かこういう事、お人好しと言われるのだろう、でもやるんだよ。そういう人間だからしゃあない。


それにしても、もう2014年も晦日である。
去年の日記を見ると、風呂に入り、ユキに刺身をやり、新居の隙間ふさぎや穴埋めパテやらなんだかんだで15万円フッ飛んだと書いてある(笑)。もちろん、引っ越し代以外に、だ。
でも、この部屋も悪くないんじゃないか…とか書いてある。
穏やかに過ごせていたんだな、去年の今ごろ。

実は、今年の年末はけっこうここ数日、あれこれと忙しかった。
担当させて貰っている月刊誌の校了データ作成、次号の段取りと送り、ついでに突発的な念校修正が入ったり、WEB更新仕事は年末最後の一週間で2回もあった。
で、24日あたりからようやく掟さんのコラム本のデータ作成にかかれるようになり、カバーを先に書影データとして千葉ちゃんの年末イベント「このマンガがひどい!2015」で告知出来るように上げる。
ここら辺もデザイン的に曲折がありつつ作家の意見を活かしたのに変えたりとか、まあまあ大変だった。

このたびは元のイラストを、掟さんのファンであるという@M.O.T.E.さんという人が作成してくれ、今回俺がそれをどう料理するかという話。
デザイナが板前・料理人とすれば、これまでの2冊は新鮮さが際だつぴっちぴちのとびきりの素材を、あまり余計な「仕事」を加えずに客に出すのが良いと判断してデザインを進めた。
今回は、カバーは意見を伺い、なんとかそれをかたちにした。
後は、この「あらかじめ加工済み」の素材を、ではどう料理してお客さんにお出しするか。これはこれで、なかなかに面白い仕事である。

ただ先週金曜は、朝から病院の日。
採血結果は血小板は持ち直したものの、HGBが6を切っており、実はふっらふらのヘロヘロだった
で抗がん剤投与は血球減少が心配ながら、とりあえず「時間が空く方が嫌ですね」という事で一致、抗がん剤を入れてから輸血を受けて、自宅に帰ったらもう夕方だった。
でその夜から作業にかかり、土曜は朝から表紙、帯などのツキモノにかかって、土曜の午後はほぼFacebookのメッセージ機能を使って、千葉ちゃんと相談のうえ最後の詰めを夜まで行った。
(下の画像はアスペクト比が縦長におかしくなってるけど、5~6時間分のFacebookでのやりとりのスクショ)
okitefb.jpg

俺が表紙の版下をデザインする、奴に見せる、「おおおお!かっこいい!」とか聞いて「じゃあこの方向で」とか確認し合い、貰ったテキストを元に帯の版下を作る、その際も色味を見せるために複数枚の画像を作って見せる。向こうは赤系かな、とか言う。水玉にしたいというのでどの程度かと、こちらがいろいろパターンを作る。
そんなこんなのやりとりをしてツキモノを作っていく。
obi-honbanmihon.jpg

さらに本文、決めてなかったところのデザインとレイアウトを入れたのを、見せていく。それは任されているので、修正がないかどうかの確認。

今はこうしてネットでやりとりし、最終的には完全データ入稿が出来る。
もちろん俺は紙の版下を、青鉛筆とロットリング持ち出すところから始めた人なので、DTPソフトは本当に助かる。
最初からデジタルの人は、昔DTPソフトが出始めの頃、よく頓珍漢な行間指定、字詰めなんかでぐちゃぐちゃの誌面作ってたよなあ。写植の歯送りとか知らないからなんだよね。あと版面も意識しないから、本になると本文小口がガッタガタ、とか。
まあそういうのは先達が教えてやりゃいいんだよ、ちゃちゃっと。
出来るんならやってやればいい。

本造りって、楽しいんだよ。手作業でも、デジタルでも。
だから、やるんだよ。


こうした俺の「裏方作業」はたぶんこういう記事以外では全く知られないから、一応「知りたい」という人が居るから書いてるだけで、おそらく外から普通に見たら千葉ちゃんが「素人から一から一人で何もかもをやって本を作った凄い人」になっていると思う。ツイッターでもFBでも、これまで俺がまるで脇から適当に「ああしろこうしろ」的な事をアドバイスし、彼が必死で作業をしていると思われてるだろうな(笑)。
それでいいし、むしろ痛快である。
ギャラをちゃんと出してくれる、つまり「プロ」の仕事になったら矢面に立つのは、版元代表の彼である。
版元には営業も必要、というより凄く大事。


さて。
…そうしてからの、一昨日28日は午後から元青林堂社長でガロ編集長の山中潤さんと、何と18年ぶり=ほぼ二十年ぶりの京都での再会であった。3時頃から夜8時くらいまで、二人ともほぼ切れ目なく、ずっとお互いの近況や当時の話から、全然関係ない話まで話し続けていた。
最後には、二人とも「ガロの最後、あの顛末についてはちゃんと我々が後の世代に伝えないといかんですね」という事で一致した。

何しろ、長井さん体制に資本参加してガロを立て直し、90年代に部数を3倍に伸ばし、法人としての株式会社青林堂を黒字で数億円の売上高に回復させたのは、他でもない山中さんの手腕だ。
こうした、外部には解らない「法人経営のこと」つまり内部の経営の実際、どういう流れで青林堂、ガロは健全経営で全てうまく行っていたところから、崩壊前になり外部から「魔の手」によって浸食されていったのか。
結果崩壊したのはなぜか。引き金はクーデターにしても、その背後に蠢いていたものとは。
それを経営者として引き受けてからの流れを知るのは「現場から逃避する前まで」の山中さんしかいない。

逆に、山中さんは実際の「編集現場」にはほとんど来なかった。
なんで、と聞いたら「いや何か入りづらくて。だってあのガロ編集部ですよ」とよく笑っていた。
その編集の側で、崩壊寸前まで俯瞰して是々非々で冷静に現場を見ていたのは俺だろう。
この我々二人を揃えなければ、誰が「ガロ休刊」というマンガ史の空白を埋めようとしてもそれは「嘘」になる。
だからまだ誰も書けないし埋められないし、書いたとしてもそいつが俺らが知らない人間なら、それはその人の「嘘」か「想像」に過ぎない。
「長井さん死後の分裂と崩壊」的な簡単な総括をされちゃ、溜まらない。

山中さんは、長井さんの後を受けるにあたり、俺も再三何度かここでも書いているし事件直後から一貫して表明しているように、90年代はじめ、それはそれは綿密に、慎重かつ丁寧に事にあたってくれた。
箱根温泉で一泊旅行を兼ねて株主総会をやり、そこで山中さんのお披露目をし、その場できちんと、居並ぶ錚々たる当時の青林堂株主たち…長井さん夫妻以外そのほとんどが作家や関わった古参編集などの「大物」である…にも、
「自分は若いけれども長井さん=ガロであり=青林堂であると思っているから、外部にはしゃしゃり出るのは当面控え、あくまで長井さんのガロを継承しサポートしていきたい。そのためには今現場にいる社員と協力していく」
とはっきり述べた。
当然周囲の賛同と暖かい応援をいただいて、総会は夜「どんちゃん騒ぎの宴会」で丸く収まったものだ。
このときの様子を、俺は克明に日記に記してある。それこそロマンスカーの席順、宴会での席順まで。
いや凄い宴会だった…(笑)ってまあそれは別の話。

その当時、青林堂の社員は長井・香田夫妻を除けばたった4人だった。
Yさんという先輩編集者と、俺と、後輩男性編集者と女性編集者。それに1人、アルバイトが常時居るというスタイルだった。
山中さんは狭い神保町の二階に頻繁に来られても正直「邪魔になる」し、彼もそうだろうと判断して、こちらの業務が終わった後で、編集会議企画会議、そして今後のガロの「再建」について話し合うという事になった。

我々は神保町で朝から返品の整理だ取次への品出しだ改装だと本の粉と土埃にまみれ、注文が来れば黒電話で受けては自分らでそれを出し、取次のトラックが来ればそれらを積み込んで新たな注文を貰ってそれを出し、伝票をつけ、合間合間に新刊や返品が来ればそれらを狭い社内へ運んで詰んだり、これまた狭い二階への階段の隅にずらりと並べたりした。

編集はその合間に、やっていた。

月刊ガロ一本の編集をやりながら、たいてい単行本を一冊以上は抱えていたから、まあ、そりゃあ忙しかった。おまけに校了が終わるとスーツを着て一覧表を持って受け持ちの路線の書店を営業し、自分らで作った本を自分らで注文取って来たものだ。もちろんその品出しも自分らでやっていた。

この、日常業務の後に、我々は都営地下鉄新宿線で神保町から初台へ移動し、当時出来たばかりだったオペラシティの向かいのビル8階にあった山中さんのソフトウェア開発会社「ツァイト」の会議室へ向かったのだった。
そこから終電近くまで、よく「会議」をしたものだ。
レポートも一生懸命作った。
山中さんも覚えていたのがおかしかったが、俺が綿密な分析と読者欄担当だった事を活かして、特集制とその内容展開を提示、図表なども作ったレポートで会議報告をした後に、後輩の女性編集が数枚の紙に箇条書きで「マンガを良くする」と書いてだした話は、(彼女には申し訳ないが)今でも鉄板の笑い話である。
マンガを良くしたら、うん、売れるだろうね。その通り。

そんなこんなで大変な日々、それでもけっこう俺たちは頑張った。
新しいガロは巻頭特集を導入して、編集部分に力を入れている=強化したところを見せよう。これまではあまりに、ただ集まった原稿を載せているに過ぎなかったという反省だ。
そして次は山中さんの構想で、「ぴあ」みたいな大手のカルチャー情報専門誌が、サブカルチャーには無い。向こうへ持ってっても掲載をハナから門前払いくらうような、インディーズなどの情報をガロが積極的に載せよう。
基本、来たものは全部載せましょう、音楽、映画、演劇…アマチュアもプロも何でも、とにかく情報欄を充実させようという事になった。
結果から言うと、これは俺の担当が数十ページ増えて、さらに読者投稿連載「4コマガロ」も担当しており、当時はあのガロに投稿が毎月百数十枚来るという「盛況」だったため、かなり負担が増えた。
でも楽しかった。

そういえば先日、荷物を整理していたら未整理の箱の中から、当時のガロ情報欄に送られて来た、町田康さんのデモテープとライブのお知らせの封書が出て来た。当時はまだ町田さんが小説で賞を取られる前のこと。懐かしかった。
毎月ガロには全国から「そういう情報」がどかっと集まり、いちいち面白かった。たとえば「ゆらゆら帝国」が最初ライブ情報を送ってくれた時は、「いいセンスしてるなあ」とバンド名に感心した。まだ彼らもデビュー前の、本当にただのインディーズバンドだった。

とにかくできるだけたくさん載せるという事で、ページは増え、活字は小さくなり、俺はそれをテキスト入力し、近所の写植屋さんで印画紙のロール出力をして貰い、それを版下に切って貼ってを文字通り毎月やっていた。
正直校了前は気が狂いそうになってきた。
そこで、山中さんの提案もあって、親会社ツァイトの国産DTPソフト「JG」を使うことにした。
俺はPCに一番適性があると見なされたのと、担当だったという事で、EPSONのpc/at互換ノート(懐かしい)を貸与され、徹底的にソフトを覚えるという事になった。
MS-DOSと毎日格闘した。

JGは非常に優れたソフトで、今でも根強いファンがいる。特にVEJE曲線の扱いなどは、今のプロ用最新ソフトより、遙かに簡単で扱いやすい優秀なソフトだった。
それを使うという事は、要するに、写植屋さんの仕事まで俺が背負い込むという事だった。
テキストを打ち込むだけではなく、デザイナー・羽良多平吉さんが一番最初に大まかなデザインスタイルを提示してくれたあと、「そのテイスト」でデザインを毎号、紙面を作って行く。書体やウェイトなども全部、もちろん俺が指定せねばならなかった。編集者でありライターでありDTPオペレータであった。
ここら辺が一番肉体的にきつい頃だったか。

何せ日常的な、零細出版社としての「力仕事」は普通にある、さらに夜中まで写植屋さんのやる仕事までやっていた。合間に会議もあった。
まあ若いから出来たのだろう。

山中さんは会議を進める中で、出版社としての青林堂は財産もあるし、経営の再建をちゃんと考えた場合に、まず、最低限版元の両輪である編集と営業は切り離してそれぞれに100%の力を注ぐ体制を作りたい、と至極まともな事を話した。
先輩のYさんは山手線内側のお得意書店の営業をほぼ一手に担当していて、とにかく営業方面、宣伝も含めた部分を経営の一部に立ってやって欲しいという事で、専務取締役に抜擢された。
俺の方は、とりあえず編集者に専念して、しんどいだろうけど「特集導入」「情報誌化」そして最後の柱、「ガロ名作劇場」の準備をしてくれという事になった。
ガロ再生は今でいうとこれら「3本の矢」、三つの新しい路線による誌面の強化を柱とした。

余談だが、ここで山中社長に「ゆくゆくは自分が社長=発行人、専務Yさんで営業担当、編集長白取で編集専業で良いか」と言われた。
一度は腹をくくったが、家に帰ってやまだ紫先生…連れ合いの三津子さんにその事を伝えた。
彼女は
「あなたになら出来ると思うよ、でも○○さんの嫉妬が凄いだろうね~」
と達観した笑顔で言っていた。
結局、後で自分は編集長を名乗るのはおこがましいとお断りした。(この話を明かすのは俺からは初めてだと思う)

雑誌には、法定文字…雑誌の表4、裏表紙の背近くから細かい字で誌名や何年何月号、通巻号数から版元、発行人編集人などが表記されているところがある。
対外的には、そこへ「編集・発行人 長井勝一」と書かれてあるのが、「月刊漫画ガロ」である。
資本が変わったからと、そこに「山中潤」とするのは読者も気分的に良く無いでしょう、という配慮で当面そこはそのままにする事にしていた。
なのに、そこに発行人山中・編集人白取じゃあ、俺には荷が重すぎるし、何より、長井さんと俺が「編集長」として同じとは到底、本当に塵ほどにも思った事はいまだに一度もない。
「ガロ編集長」というのは、少なくとも俺にとっては名誉職みたいなものだと思っている。実質的な編集長は長井勝一だけだと思うし、名誉職としては南伸坊さんと渡辺和博さんが名乗った…というか、長井さんから黙認されていた。そういう認識だ。
そして俺にとってのガロは長井さんのガロだし、山中さんの体制になってからもそれは「長井ガロの継承」が大前提だった。長井イズムというか、そういうものが続いて行かなければ、それはガロではないと思っていた。
なので肩書きもどうでも良く、後に長井さんが健康上の理由からほぼ「引退」したいということになり、会長という立場になる頃、95年になって、正式に山中編集長のもと、「副編集長」の辞令を貰った。
(後にゲスの勘ぐりというやつで、ガロ廃刊後に「白取がデジタルガロを作ったのは編集長という肩書きが欲しかったから、と抜かしたクソ野郎がいた。実はあれに一番怒り狂ったのは、俺ではなくやまだ紫先生である。彼女は俺たちの頑張りを作家としても俺の連れ合いとしても毎日見て知っていたから、それを揶揄されて「そんな薄汚い中傷を言うような腐った人間だと思わなかった」と、最後まで「許せない」と言っていたよ)

ところで、「3本の矢」最後の「名作劇場」というのは、ガロはこの当時ですでに創刊から30年が経とうとしていたから、最初の読者はすでにほとんどが離れ、今の若者(といっても90年代当時)には創刊当時から70年代までのガロに断絶がある。そこを埋めましょう、つなげて「ガロ」がどれほど凄い雑誌だったかを再確認する意味で、名作を再録し、長井さんや作家のインタビューで構成しよう、というものだった。

正直、俺たちには最初すっかり80年代後半の、ガロ本誌に積極的企画、編集の冒険をする勇気を失い、単行本で何とか当たるものを…みたいなぬるい雰囲気が無かったわけじゃない。
しかしこの会議会議…の頃にはすっかり、「やったるぜ!」という気になっていた。もう一回、90年代にもガロ有りとぶちかましてやる。少なくとも俺はそう思っていた。
長井さんは、実は当時自分のマンガ編集者としての「感覚」と、俺たちのそれが乖離しているのを知っていた。
ある時、いつものように俺たちがある作家さんの作品を「単行本にしたい」と刷り出し(掲載誌から切り離して綴じたもの)を見せたとき、長井さんは一読したあと、
「俺にはどこが面白いか、正直わからない。これがもし売れたら、俺みんなに謝るよ」と言って突き返された。

当時は(表向きは)赤字赤字の赤貧堂、長井さんの口癖は「返品片付けろよ、床抜けたらどうすんだよ」という時代。
それと、「そんな本出して全然売れなかったら会社潰れっちまうじゃねえか、その責任誰が取るんだよ」もよく言われた。

ガロの連載作品だけでは取次に搬入する新刊の「玉」としては足りず、俺たちは常に大手が見落とす、出し渋った、あるいは出せなかった作家作品を探していた。
それを「輸入」と言っていた。
誰かがそうしたガロデビュー作家以外の人を「外様と呼んでいた」と後で言ってたらしいが、悪いけどそんな事一度も言ったこと、ねえからな。
ガロとはそんな懐の浅い、小さなもんじゃなかった。青林堂から単行本を出させて貰い、その後宣伝のために書き下ろしを一本描いてもらったりという事がよくあった。もうそうなればその人も「ガロの仲間」だと思っていた。ちんけな狭い囲いを作っていたのは、むしろ大手じゃなかったですか。

でも結局長井さんは、最終的には俺ら「若造」の「感性」を信じてくれて、刊行を許可してくれた。
その本はよく売れて、あっという間に再版になった。
本出しに忙しい中、長井さんが俺たちの手を止めさせた。
「みんなちょっといいか。俺、今から謝るからよ」と言って「ごめん」と頭を下げた。
いやいやいや、俺らにしてみれば信用して出させてくれて、売れたんだから万々歳じゃないすかやめて下さいよ、みたいな感じだった。でも長井さんはメンツがあるし、「売れたら謝るつったんだから」と言う筋があった。
長井さんは俺たちに、ちょっとずつ自由な裁量を与えてくれるようになった、それはあの頃からじゃなかったか。
(ちなみにその本、作家さんは明かさないでおく)
そんな時代だった。

さて会社の体制の刷新。
これまで通りの品出しや返本整理も、神保町の近くの蕎麦屋の二階へ編集部を移転させ、改装までやってくれる業者をゆくゆく契約してそこは切り離しましょう、そうしてはじめて「営業と編集」の両輪に専念できる、と山中さんは話した。
だんだん、本当にガロは再生するのではないかと思えてきた。

…まあそこから実際、いろいろ、ほんっっとにいろいろあったけども、90年代のガロはみごとに再生した。
小林よしのりさんが「SPA!」で断られたマンガ作品を「ガロ」は難なく掲載し、その号は完売した。特集導入策も成功し、つげ義春や水木しげる特集号など、完売して今では古書店で高値という号もたくさんある。基本、印刷部数は慎重に、あまり増やして行かなかったので、アレッというあっけない「完売」だった。
ちなみに取次各社への搬入部数の確認も当時自分がやっていたので、返本率の計算にいつも情けない思いをしていたのが嘘のようだった。面白いのでグラフを作ったりしたっけ。


そうして、
まあ、
じわじわと、
うまく行ってたはずのガロは、
97年の「崩壊」へと
進んで行くのだが、
これはまあまた、
別の機会に。



先日Facebookには書いたけど、このたびの山中さんとの「再会」が、
もし1997年の事件当時だったら、俺は山中さんを殴っていたかも知れない。
そして2007年でも、たぶん冷静に当時の話を述懐するという事にはならなかったかも知れない。
でも、2014年も暮れようとしている今は、お互い、「お久しぶりです」「ご無沙汰してました」も何も無かった。

普通に片手を挙げて高瀬川の脇で再会し、山中さんは昨日別れたばかりの友人のように「ここらへんええとこですねー、凄いなあ」と言いつつスマホで写真を撮り、俺は「あっちが鴨川ですよ」と榎橋を渡った。道々、「京都いいですねえ、一回やっぱり住みたいなあ」というので「夏あっついし冬底冷えなんでえぐいですよ」と笑った。
それから近所の店へ落ち着いてから、ようやく、「いやいや全然変わらないっすね」とお互いに話し出した。
山中さんは「これ、もう誰が貰って嬉しいんやという、しょうもないおみやげです(笑)」と言いながら紙袋をくれた。ほんまにしょうもないどこでも買える菓子をただご当地名物の名でくるんだだけのもので、笑ってしまった。

そこから切れ目なく、5時間ぶっ通しで話し続けた。
たぶん、時間が経って余計なもんが取り払われて、残った部分が二人ともあまり変わってなかったんだと思う。
だから、18年というとんでもない時間があいていたというのに、まるで昨日まで一緒に本を作ってた時のような空気だった。
つまり、「同じものが好き」で、「同じ目標のために」協力して頑張ってた当時の。

また「ガロ」については日と場所を改めて、ゆっくり話すことになるだろう。きっと。
それまで俺が文字通り、(生物学的な意味で)ちゃんと生きてないとアカンですな。
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コメント

No title

1989年から定期購読していた私には、
まさにリアルタイムのお話。

読んでいたら、
当時の紙面が目に浮かびます。
シラトリさんが描いていた、
編集部のみなさんの似顔絵も…。

当時のガロ、大切に保管してます。

No title

私も!ずっとずっと読んでいました。
今も大切に保管しています。
仲の良さそうな編集部を描いた編集後記を読むのも楽しみで。
だからこそ突然の破綻は青天の霹靂でした。
一体何が起ったのか?と白取さんのまとめたウェブのログも見ましたが、やはり真相はずっと気になっていました。
本になるなら絶対読みたいです。

No title

私も白取さんの編集後記が楽しみでした。

お体どうぞお大事になさってください。
「ガロ」についてお書きになったものを読ませていただくのを心待ちにしております。

No title

80年代前半にずっと「ガロ」を購読していました。
ツァイトのソフ「ねじ式」は、まだ残っています。
購読をやめてしまった者なので、僭越ではありますが、真相は知りたいです。
とはいえ、お体が心配です。どうかご自愛ください。

No title

半年遅れのコメント失礼いたします。

>誰かがそうしたガロデビュー作家以外の人を「外様と呼んでいた」と後で言ってたらしい

これはガロ 1992 年5月号 P70 とり・みき先生のコラムが誤解されたものと思います。
「呼んでいた」という話ではなく、作家が自分を「外様であろうと感じていた」という話です。以下、引用いたします。



> いつのまにか彼も私もメジャー誌側からみるとアウトサイダー的な漫画家になってしまっていた。
> といって、ガロ系(ガロに書いておられるような方は一人一派だからほんとうはこんな呼び方は失礼なのだが、しかし外部から見たとき、また作家の、あるいはガロの固定読者の思い入れというものを考えたとき、目には見えないがあきらかに強い境界線を我々は感じてしまう)の人にとっても、しょせん我々は「外様」であろう。
> いじけも半分あるが、半分は畏敬の念であり、そのことが我々がガロに描くときにちょっと肩に力を入れすぎてしまう要因になっている。



※ここでいう「我々」はとり・みき先生と唐沢なをき先生のことです。

桝田道也様

コメントありがとうございます。

えーともちろん、その時のガロ編集部には自分もおりましたのでよく覚えてますし。ていうか俺が知らないとでも?
一から十まで書くのはあんまり得意じゃないんですが、
とりさんらガロデビューではない作家さんに、外様的な意識がある方がおられた事も当然よく存じています。直接も、たくさんの人に何度も聞いてますしね。
それを作家さんが言う、我々は「そんな事はありませんよ」「むしろありがたいです」「外様なんて心の狭い事を言う奴は少なくとも内側にはいませんし」という事をよく返していたはずです。
ま、本当にその通りでしたし。

ただ、「外」から、関わったこともないし俺たちの知り合いでもないのに、知ったような事を体験した見聞したかのように書く、つまり想像で創造する連中もいるわけです。勝手に差別されたとかいじけたりね。そういう連中が浅薄な理解で「ガロは内部分裂」とか短絡的な結論で一連の事件を勝手に総括するわけですしね。

こういう事まで細かく書くのは野暮ってもんです。
でも書かないと伝わらないんなら、それは俺の文章力がないわけで、仕方ないですね。

ついでに言うと、とりさんとは当時仲良くさせていただきましたよ。
編集部で仲良く一緒によく遊んでいたY田部先輩…俺ら夫婦は「周ちゃん」と呼んでたんですが、彼と3人で、新宿かどっかの飲み屋の二階でげらげら笑いながらバカ話をしながら飲んだりしたのをよく覚えてます。
ちなみにその時、Y田部さんをネタにいじっていて、「リルケとか読んで女の気を惹いてそう」とか勝手に言って笑い転げ、それが後にとりさんがガロに読み切りで描いてくださった「リルケの王」という作品になりました。

まあそういう遊びも、外様とか差別的に接してたら、またとりさんご自身にもいつまでもそういう意識があったら出来ないですよね。
そういう事です。
あとはまあ、察して下さい(笑)。

No title

先走ってしまった私の書き込みに丁寧にご回答いただき、ありがとうございました。

私は 1990 年にガロを読み始めたので、山中・白取体制の時代こそが私にとってのガロでした。
4コマガロを毎月、楽しみにしていました。

記録的な猛暑になった今夏、お体に気をつけてお過ごしください。
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Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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