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2015-11-23(Mon)

これまでのあれこれ

三度目の手術からの事をあれこれ。
11月5日、この一ヶ月で3回目の顔面の手術。
とはいえ、1度目のメルケル細胞癌による腫瘍を、上眼瞼部もろとも切除する→その結果周囲への浸潤が無いか調べる…に比べれば、気持ちとしては「瞼再建手術」なのでいくぶんは楽である。
10月5日の腫瘍ごと瞼を切り取った後は、片目が閉じられない、塞がれてはいるが脳がそれを理解していない事による混乱で苦しんだ。手術部位は首から上、しかも瞼を切り取ったのと、センチネルリンパを調べるために目尻から耳のあたりの皮膚を切開してめくったくらいなのに、影響は全身に出た。
脳がいかに全身を支配、動きを差配しているか、そして脳への情報の大部分が「視覚」からによるものかを体感した。術後の「痛み」はほとんどなかった。
あってもロキソニンで収まる程度の弱いもので、それよりも脳の混乱と、その後の組織検査の結果待ちが辛かった。

9日、検査の結果腫瘍の周囲の細胞を精査し、癌は取り切れていたと結果が出た。術中の、切除されたあとの周辺組織八箇所からも出なかった。心底安心した。
もっとも、センチネルリンパを発見できなかったそうなので、リンパ節転移や、厳密に言えば血管を介しての転移などで、今後遠隔転移が無いとは言えない。
だがPET-CTで事前に大きなものは無いという事だったし、とりあえずは、一安心だった。
マイナスな見方をすれば、いびつな形をした腫瘍で、切り取った細胞の裁断と裁断の間にあったら、八箇所の間をすり抜けるような形だったら…という「嫌な疑い」も出来る。
PETの方も、「1cm以下の転移を見つけられなかった」という「嫌な言い方」も出来る。
しかしまあ、今の段階でそんな「嫌な見方」をわざわざせんでも良かろう。前向きに、命を救って頂いた、助けてもらった、有り難い、生かされた…そう取るべきだし、そう思った。

10月15日は、この生検の結果を受けての、左眼瞼再建のための手術へ移行。
執刀医はK先生からE先生にかわった。
瞼は内側粘膜(結膜)、外側が普通の皮膚という薄いながらも通常の皮膚とは違う構造になっている。そのため、失われた上の瞼を補うには下の瞼を使うのが最も適しているそうで、下の瞼を部分的に気って持ち上げ、上の瞼に橋渡し状態で縫合し、血流を上から通じるのを待つ。
この手術が15日に行われ、経過は順調。通常より血液、免疫の状態が悪い基礎疾患を持っているため、慎重に余裕を持って、3度目の手術…本格的な眼瞼再建術は11月の5日になった。

手術は時間が押し、14時半に部屋を出て、「軍曹」と明るく会話をしながら手術室へ向かう。
今回はコトッと麻酔に落ちたのは同じでも、醒めるのはかなり朦朧としていた時間が長かったと思う。醒めるのにそうとう時間がかかった様子がうかがえた。
その後例によって手術台からベッドへ移され、手術室からのカーブ曲がって廊下の凹凸がガタンゴトンそれ勘弁してや痛いわ的なアレ、看護婦さんたちの「ごめんなさいねー、痛いですねー」「もうちょっとでお部屋帰りますからねー」の声。
部屋でベッドを搬入する際の「頭から」「ギリギリやね」という声を聞きつつ、この日昼過ぎまで片目ながら普通に立ち歩いていた部屋に、汗びっしょりで術衣のまま戻った。
左顔面というか首から上がもう「ずーんずーん」と鈍痛がある状態で、首から上の手術なのに、身動き一つ出来なかった。
酸素マスクをつけられ、両足にはフットポンプが巻かれ、右手の指には酸素モニタ、同じ端末から心臓周りに心電図モニタが延びている。これらはwifiでデータを飛ばしている。
左手首は手術室で麻酔医に入れてもらったルートに点滴がつながっている。

かろうじて薄目を開け、「今…何時ですか」と聞くと、「帰室10時半…で今11時です」とKさんが教えてくれた。もうすっかり外は真っ暗、消灯時間も過ぎていたのか。途中麻酔を醒ます時間も入れたとして、それでも8時間か。
先生がたも大変だったでしょうに、有り難いと思った。

しかしそこからはまさに「生き地獄」。
何も出来ずただひたすら時間が過ぎるのを待った。時間が過ぎれば良くなると信じて。
左顔面は大きく切開されて皮膚を剝がして動かし、鼻の中の軟骨と粘膜を下眼瞼に移植したり、皮膚を動かし引っ張って下瞼の「皮膚」部分を作ったりしている。切開は左の小鼻部分と下瞼からほお骨へ斜めに、後は目尻からこめかみ、耳の内側頬骨側を通ってまっすぐ下がり、耳の下をV字型に裏まで。
そうして動かし、延ばしたり回転させたりで下瞼を作り、全てを縫合した…わけか。いやもう大変な手術をしていただいて。
こちらは感覚的には左の顔面がボールみたいに大きく腫れた感覚だが、実際はガーゼが貼られて包帯が巻かれており、その厚みが凄いのだった。
頬の縫合部分からは血抜きのドレーンが3本まだ差し込まれていて、そこから時々とろーりと、ガーゼの内側を血が伝っていく感覚がある。
最初は汗かと思ったのだが、アゴの方のガーゼが血受けになっていて、そこから血が漏れてきた事で「汗じゃない、血だ」と解った。
もっとも、この血が出て来ないと鬱血する事になってまずいので、血が抜けている事は良い事。
同じように、左の鼻腔内には血止めと吸収のためのタンポンが2本入れられていて、先端つまり鼻の穴から時々とろーっと血が出てくる。それをティッシュで拭くのだが、それも震える手でおそるおそる、という感じ。

「術前ハイ」は自分でも自覚していた。
それも怒濤のような自己記録と、夜は看護婦のTさんがとりとめの無い話に付き合ってくれたおかげで何とかやり過ごし、軍曹の明るい先導で手術に向かった。
しかし、正直今回の「術後鬱」は大変だった。
今回はずっとお世話になりっぱなしの、看護助手のTさんがしきりに心配してくれて、あれこれ世話をやいてくださり、もうほんまに助かった。家族がいない身にとって、本当に本当に有り難く、お礼の言いようもない。
世間話をするうちに、こちらの病気、連れ合いを亡くした事などをつらつらとお話していると、「お辛かったですねえ」と涙ぐんで聞いてくださった。心の温かい方。

それにしても、PCをまた配線し設置して使えるようにしたのは術後3日経った8日で、それも左側は分厚いガーゼをテープでべたべたに固定してあるため、メガネがかけられない。
俺は自慢じゃないが左右ともに近視で、しかも違うタイプの乱視である。さらにそのうえ近年は老眼が重なって、遠くは見えねえ手元も見えねえ、しょうがないので眼科で処方箋を貰い、身辺1m~1.5mくらいにピンが合うように作ってもらったのが今のメガネ。
それがかけられない、つまり裸眼の右目だけだと、目をしょぼくして棟方志功みたいな感じでへばりついて画面を見ながら打っているから、次第に脂汗が出てくる。十分が限界だった。この段階ではスマホとか見るのもアカンかった。

この11月8日、外は雨だった。しとしと…というそぼ降る感じ。
流動食から、この昼飯より五分がゆにソフトおかずに変えて貰った。柔らかい肉団子が2つついたうどん、はんぺんと大根の煮つけ、皮を剥いた茄子の煮付け。粥はごはんですよで食う。
流動明けのおかゆにごはんですよは鉄板。うまい。
常食はちょっとまだ顎を咀嚼のために動かさねばならずしんどいが、ソフトおかずや麺類はほぼ口蓋だけですりつぶせるものなので、ありがたい。
頑張って9割がた食べ終わるとドッと汗が出ていた。
何をするのも、重労働だった。

飯の前、PCセッティングで机周りを動いたとき、エアコンがついているのに気づいた。そういえばもう冬なんだもんな、空調はクリーン病棟の積貞と違って個別なので、設定25℃で暖房がついていた。術後に汗だくで帰ってきて、風邪なんかひいたら大変だもんな。そういう配慮であったかくしてくれていたのだろう。
俺にしては暑いわけだ、食った後は汗がだらだら出る。
まだ首下シャワーもアカンので、体拭きがしたい。ていうか暖房止めたいが、さすがに風邪ひくか。

でもしみじみ、またこうしてPCが使え、記録を打ち込んでいく事が出来て、良かった。
俺はこうして記録していくことで自我の崩壊をかろうじて食い止めていると、つくづく自覚している。

手術当日の夜は当然寝られず、痛いわ動けないわ、希望して手術室で抜管(尿道カテーテル)してから帰室したので、ガンガン入って来る栄養剤は尿として出さねばならず、それはまだ歩けないためベッド上で尿器(尿瓶)に出す。
これがまたその都度重労働だったし、何より面倒臭いし。いちいち看護師を呼んで換えて貰うのも気恥ずかしいやら申し訳ないやら。
いちいち尿の色がひどく赤いとか気にしたりもする。

術後鬱状態になったのは、その後痛みが縫合痕というよりは左の顔面全体の鈍痛、動かなければ何とか平気…という頃だった。
左顔面全体が「かなり腫れている」という事だったので、そのせいだろう、下顎が以前の位置つまり自分にとって普通の位置に噛み合わせると、小刻みに震えてガチガチ言う。歯の根が合わないというやつ。で楽なところへ持って行くと、それは左がわにずれた位置。要するに顎が左側にしゃくれてる感じ。
何だこれ、と思ったが、しばらくしてああ、左が腫れてるから、アゴも当然持ってかれてるからだな、と思った。
そういう一つ一つ、ほんまにしょーもない事がいちいち気になり、ダウナーになったり、何気ない看護師の一言で楽になったり、逆に落ち込んだり。
一喜一憂というやつ。
心が不安定になっているのが自分で解る。

そういうたくさんのあれこれの中で、一番しんどかったのは、手術の翌日だったか、まだ24時間も経たないあたり。
フットポンプが巻かれている足が暑くてしょうがない。だがまだ動けない。ということはポンプは外して貰えない。
心電図や酸素濃度を無線で飛ばすモニタもわずらわしい。もちろん点滴も。
これらも当然、歩けるようになり、自力で栄養が摂取できるようにならねば外れない。
点滴は一定間隔で容赦なく体に入れられる。そういう中、膀胱がいっぱいになると、腹が押し上がってくるのが解る。いっぽう動き出した腸はガスを移動させ、妙な音を時々出す。
とにかく立たないと、歩かないとポンプとモニタは外れない。点滴は抗生剤があるからしばらくはしょうがないとして、じゃあ…と思うが、頭を上げただけでくらっとするし、首から上に力がかかるとさすがに大きく切った顔面全体がひどく痛む。

ここまで、二度の手術を経て片目状態…右目だけの生活は一ヶ月過ごしてだいぶ慣れたが、それはメガネをしてでの話で、このとき左顔面は分厚くガーゼで覆われ、血抜きのドレーンが数本刺さったまま、ぽたぽたと頬を血が時々伝わるのがガーゼ内でも解るという状態。
とにかく体をなんとか起こそう、起きた、というところで動けなくなり、脂汗は出る、情けない、ベッドの柵に右手を掴んでじっと片方だけ立てた自分の右膝を見る。
このときはもう、びっしょり汗だくだった術衣から、男性看護師M君が術衣を脱がして体を拭いてくれ、パジャマに着替えていた。
だから、手術から戻って来て寝られぬまま夜が明けた、翌日6日の午前中か。
その、右膝上までまくりあげたパジャマの皺が、人の顔に見えた。
それも、目二つ、鼻、口とあり、その左顔面が外側に流れるように見える。
本当にそれは錯覚でも何でもなく、スマホで写真に取ったが洒落にならんかった。左の目にあたる部分から皺が外側に流れ、それが泣いているように見えたので、わざわざ皺の「口」に見えるところをいじって口角を上げ、笑顔に見えるように変えた。
「うわ、何やってんだ俺」と思って、あわてて皺を伸ばしてすぐに消した。

とにかく、何も出来ないし見えないので、時間が過ぎるのを一人でずーっと悶々と考えたり、落ち込もうというのをアカンと立て直したり、これがほんまにきつかった。
記録できればこうして逃げられるし時間も潰れるが、何しろこの術後すぐは全部手術前に片付けており、何にもない。逃げ場がないのだ。
あの時間はまさに「生き地獄」だった。
DSC_0040.jpg

8日にようやくPCが見られるようになって、だいぶ落ち着いた。
左顔面は腫れ、感覚は無く、血も出てるし、鈍痛がする。
そして顔面半分を覆うガーゼ数枚と汗で剝がれては張り付け、付け足しを重ねてバリケードみたいになった状態。鼻のあたりには血が染みている。ほんまにブログに書いたように、お化け屋敷にこのまま行けるスタイル。
まあそれら外科的な傷なり痛みは「日にち薬」で収まっていくとして、左の眼瞼は「再建」されたものだから、当然以前の、切り取る前と同じではなくなっている、それは頭で理解はしているし覚悟もしていた。
贅沢を言ってはいけない。今からショックを受けないように心構えをしておかねば、とこの時も思っていた。
いっときは最悪、手動での「まばたき」も覚悟した。
瞼が繊細な筋肉の動きで開閉し、形も左右整っていて…なんて再生が完全に出来るわけないと。
だから、癌を取り去った、命が救われた、まずそれを喜ばねば罰があたる。
ほんまに今度こそ謙虚に救われた命を大切に生きねば。前向きに気持ちを立て直す、それは意識的に、ぐいと力を入れなければ変わらない。それほど簡単な事ではないのだ。

その後順調に傷の方は回復していき、日々の「処置」のたびに少しずつ、例えば血抜きのドレーンが一本抜かれて2本になり、それが無くなり、ガーゼの厚みが少し薄くなり、12日には縫合した部分を全て抜糸された。
術後たった一週間でいいのかな、と思いつつも、経過はとても良いので…というE先生のご判断で、溶ける糸で縫っていただいた眼瞼内部…軟骨と粘膜を移植したところも、細かい作業でちくちくと抜糸していただいた。
この眼瞼部の一番繊細なところは執刀医のE先生、小鼻の開いた部分はY先生、目尻から頬~耳の裏の大きい部分はT先生と3人がかりの抜糸。なんだか申し訳ないです。
抜糸痕には保護のテープを貼っていただいて、こちらはその間ずっと動かぬよう硬直状態。上からは凄い光度のライトが当たっているので、背中は汗びっしょり。シャワーしたばかりだったのに。

最後に生食で洗ってもらい、「写真撮りましょうか」と言ってT先生がリングフラッシュ付きデジタル一眼レフを用意、台が下がって背の部分が上がり、起き上がった格好で写真を撮られた。
目を開けたところ、閉じたところ。斜めから、アップなど。
「まだちょっと浮腫があるなあ」「そうですね」という会話が聞こえていたので、「腫れてますか」と聞くと「まだちょっと…ですね。あと色がちょっと黄色くなってますが」というので思わず「ビリルビン…」と言うとE先生一瞬「はい?」と言って「あー、そうですそうです。確かに」と苦笑されていた。

昔、連れ合いが何度も入退院を繰り返していた頃、病院で医師にこう言って褒められたことがある。ビリルビンは血液中の黄色い色素だ。
途中、E先生が「お顔は見られますか」と聞かれたので正直「うーんまだ怖いですねえ」と言ったのだが、抜糸痕にテープを貼って貰いつつ、E先生は「あとは日中抗生剤入りの目薬をさしてもらって、あと寝る前はいつもの軟膏(タリビット)を入れてから寝て貰えれば…」と言われる。
「…と、いう事はもうその時顔見ちゃいますね」「ああ、まあそうですね」とお互い笑ってしまう。
眼瞼部に関しては、もうガーゼ保護も必要ないという事で、そのままメガネとマスクをし「本当にありがとうございました」と頭を下げて処置室を出た。

瞼が、ちょっとひきつるような感覚とこめかみに軽く痛みが走るものの、自力で開閉できるのが解る。まだ腫れもあるのか、完全に目を閉じるには力を入れて意識せねばならず、寝る時のように軽く目を閉じるだけだと、左は1mmくらい開いてしまう。
なので、保湿、感染予防のために軟膏を入れてから寝るわけだ。

部屋に戻って、鏡を見た。

瞼を癌ごと切り取られて失い、繋げられて、再建された、俺の顔面。

正直、ちょっとキモイ。
でも命と引き替えだったんだから、仕方ない。
まだ赤く腫れているし、ガチャピンみたいな感じになっている。大きさも右目より小さい。
ま、でも腫れが引いてきて、もうちょっと大きく開けられるようになると、目の下の伊東四朗みたいな傷といい、ちょっとかなり怖い系の人みたいに見えなくもないな。前向き前向き。

とはいえ落ち込んでいいやら悪いやら、中途半端な気分でベッドの上に上がり、とりあえずこうして記録を付け出す。記録は事実を淡々と記述するため、頭を冷静にしてくれ、事実を客観視出来るようになる。自己を相対化し「悲惨な現実の渦中にいる悲劇の人物」などには落ち込まないようにする。
一種の、いや、完全な自己防衛だ。

久々の「両目」にて、メガネをかけてのPC画面であるが、左目の方はメガネをかけても焦点が合わない。あれっと思い外して裸眼で見ても同じ。ありゃ、何じゃこれ…と思って少し動揺したが、よく考えたら左目はさっき抜糸の時点眼の麻酔をされていた。そのせいかなあ。ま、そのうち戻るだろう。何しろ一ヶ月も左目はほとんど使ってなかったんだから。
左目はもちろんほやっと見えるが、メガネをしてもそれはぼやけたまま。
だから今両目は空いているが、ほとんど右目だけの視力で打っている。
E先生は「後で眼科の方でも問題ないか見ていただくようにしましょう」と言ってくださったので、何かあってもなくても、今騒ぐ事じゃない。

それにしても、この顔に慣れるまでもうちょい、かかるな。
腫れが引いて、ガチャピン目がせめてもうちょっと大きく開ければ、右目と同じ大きさ…は無理でも近いくらいまで開くことが出来るようになれば…と思うが、でも、そんな事は術前は考えもしなかったはずだ。
日に日に大きくなる癌を残しておけるわけはないんだから、癌と周囲の眼瞼を失うのはもう確定していた。それを再建するにしても、元通りというわけにはいかないことも知っていたし、覚悟もしていた。
だから落ち込んだり動揺したりはしていないが、何と言うか、命が助かった喜びと、気持ち悪い顔になってしまったがっかり感がある。
とりあえず、ゆうちゃんが奥ってくれた、最初の手術後に活躍してくれたメガネONサングラスをしている。
とりあえずキモかったら隠せばいいし。
命にゃ換えられへんし、そう覚悟したし。
休み休み、そんな事を簡単にブログに報告した。

その後ちょっと疲れたので夕方5時過ぎまで本格的に寝てしまったら、助手のTさんがおしぼり持って来てくれ、
「あっガーゼ取れたんですね」とびっくり。
で左目見せると「ああ、良かった、綺麗に出来てますよ」と言ってくれる。
「まだね、ちょっと皮膚の色とか目も腫れてますけど」というと「でもね、本当にこんな綺麗だとは思いませんでした」とちょっと涙ぐんでおられるので、そうだよな、そう思わないとな、と。
「良かったです、本当に」と言われるので「ありがとうございました」と頭を下げる。そのお気持ちが、有り難いという心からの意味で。

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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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