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2006-07-25(Tue)

「他人を見下す若者たち」

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最近の…といってもここ一ヶ月くらい。全部新書、その上全然脈絡ないっすね(笑)。高血圧ウンヌンは連れ合いがちょっと高いと言われてその治療というか投薬も受けているため。「名字と日本人」は暇つぶしにと思ったら、けっこう面白かった。

他人を見下す若者たち

講談社

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普通本は買ったら一気に読んでしまうのだが、この本はちょっとずつ読んでいたもので、先日読了。
そうしたらタイミングよく、NHKで夜に著者の速水教授(名大大学院)が出演し、本書の内容で番組を放送していたので見た。ちなみに帯の漫画は石原まこちん作「THE3名様」からである。そういえばNHKの番組ではこの石原まこちんもVTR出演していた。
この『他人を見下す若者たち』は最近の若者の気質を解りやすく解説してくれており、実に面白かった。最近のこのような社会分析・教育心理学関連の本では出色だと思う。新書という手に取りやすい体裁もいいので、若い人こそ読むべきだと思った。
ニートと呼ばれる無気力な層の存在が問題視されるようになった現代だけど、こういった層は若年層だけではないと常々思っていた。それに本書の冒頭でも述べられているように、「何でこんなことで」と思うような些細な諍いが凄惨な事件へと発展してしまうことも多くなり、単に「すさんだ世の中」とか「人の心が荒れて」といったような表現では済まされない時代になってきたと感じていた。もう二十年くらい前になるか、地下鉄千代田線車内で大声で歌を歌ったり座席に寝そべったりしていた十代のバカガキ二人を注意した男性が逆ギレされ、ボコボコにされるという事件が話題になった。男性は確か60代だったと思う。その当時のクソガキはもう40になろうとしているだろう。
自分の記憶だと、このあたりから若者たちの「自分(とその交友範囲)以外は石コロと同じ」みたいな傍若無人な振る舞いが目立つようになったと思うし、それ以前と決定的に違うようになったのは、それを周囲が咎めなくなったということだ。つまり、ヘタに注意したら逆に何をされるかわからない、ということで見て見ぬフリをすることが多くなった。もちろんこれは東京都内の話で、地方へ行けば人間関係が狭く濃密だったりすれば、こうした荒んだ事態は無かったはずだが、日本全国に「都会」が波及していくことで、こうした事態も蔓延していったと理解している。
帯にもあるように、
「自分に厳しく他人に甘い」「努力せずに成果が欲しい」「すぐにいらつき、キレる」「無気力、欝になりやすい」「『悪い』と思っても謝らない」
これらが今どきの若者たちに蔓延する特徴だという。

自分は専門学校で恥ずかしながら教壇に立つようになったのが97年春からである。相手にするのは高校を出たばかりの18、19歳〜20歳の子らがほとんどで、その中に大学を出てから来たとか、他の専門学校を卒業してからとか、社会人経験があって…という年長の生徒が数名混ざっているという構成だった。
彼らと接してきてそろそろ十年ほどになるが、入ってきたばかりの時の印象はびっくりするくらい「子供」であった。ただ、それはこれまでの彼らの人生で、周囲の大人…それは親だったり教師だったりに「キチンと叱られた経験」がないからだと、複数の子に接してみて判った。例えば講師である俺に平気でタメ口を利いてきたりするので注意をしてやると、それからはちゃんと話すようになったし、他の講座について学ぶ意味がないとサボる子にはその意味を教えてやれば真面目に出るようになった。正面きって反発をされたり逆ギレされたことは、記憶にある限りは一度しかない。
数年前、教室で20名ほどの生徒たちに講義をしていた時のこと、教室の中ごろ・端にいた女の子が、講義中にも関わらず後ろを向き、ぺちゃくちゃと話している。当然こちらは「そこうるさいぞ、ちゃんと前向いて聞け〜」と再三注意するのだが、その都度前は向くものの、またしばらくすると後ろを向いて声を出す。なので何度目かに「おい、うるせえぞ! お前だけ聞かねえのはいいが、真面目に聞いてる他の生徒の迷惑になるから、くっちゃべってんなら出てけ!」と怒鳴ると、本当に出て行ってしまった。乱暴にノート類を音を立ててバッグに放り込み、椅子を倒さんばかりに飛ばして足音を立てて荒々しくドアを閉めて行った…のが余りにありがちな「ふて腐れた態度」の見本のようだったので、呆気にとられたのをはっきり記憶している。
俺の講義が彼女にとっては無意味でつまらなかった、ということは別にいい。他の99.9%の生徒たちは熱心に聴いてくれていたから、その子だけが特殊だと理解できるからだ。であれば、せめて大人しくしてその時間をやり過ごしてくれていれば、こちらとしては全く問題なかったのだ。けれど彼女は周囲の子がバツが悪そうに俺の顔をチラチラ見るほどの大声を平気で出し、従って彼女の席に近い子にすれば、俺の声は彼女のおしゃべりにかき消されたであろうと思われた。実際何とかしてください、と目で訴えてくる生徒も多かったので、叩き出したわけだ。
普通、我々も未熟だったころ、今にして思えばちゃんと聞いておけばよかったものの、授業が退屈でただただ時間の過ぎるのを待ったという経験があるはずだ。それは授業に拘束されているよりももっとやりたいことがたくさんあり、うずうずしていた若者にとっては仕方のないことだと思う。自分が教える側になっても、そのことはよぉぉく理解しているから、自分はなるべく退屈させない努力をしたつもりだったし、なぜ今こうした講義が生徒たちにとって大事なのか、ということを必ず解説して教えるようにしていた。そういった「理解させる努力」をこちらもせずに、頭ごなしにただ「いいから聞け!」では、彼らにとって授業はただの苦痛な拷問となってしまうからだ。
要するに、授業中に違うことをしたいという欲求は理解できるし、そのことを愚かだとは思うがそのこと自体をあまり責める気にはなれない。だが、そこでいかに自分がそういう状態にあることを周囲、特に教師に悟られないようにするかを何故考えないのか? そのことが一番不思議に思うのだ。あくびは噛み殺すだろうし、おしゃべりなら声をひそめ、携帯メールなら作動音は消して書く。それが知恵…と呼ぶのさえ憚られるくらい当り前の常識だろう。なのに、そういったことに全く気を配れずに、ただ退屈だからおしゃべりをしようと思う。その際も先生にバレないようにとか、他の子の邪魔をしないようにとかいった配慮が全くない、その余りの「他者への無関心・無配慮」「自分さえ良ければいい」という態度が理解できないのだ。
ただ俺が教えていた日本ジャーナリスト専門学校の名誉のために言うが、ほとんどの生徒たちはキチンとこちらの話を聞いてくれたし、ちゃんと話せば理解してくれた。別の講師の方が講師室で「苦手だ」とボヤいていた「問題行動」が多いとされていたクラスでも、少なくとも俺の時間は大人しく聞いていてくれたので、本当だろうかと首をかしげたこともある。なぜ今、このことが君らに必要であるか、それはこれこれこうで、将来こうなって…と、噛んで含めるようにしてやれば、どんな子でもちゃんと理解してくれると俺は思うし、現実にそうだったと今でも断言できる。
だが、本書を読んでいくにつけ、世の中・社会全体ではそういうことを言ってられないと暗澹たる気分にさせられる。
少なくとも自分が関わった生徒たち=若者たちは、明確に「このような仕事をしたい」とか「この業界に関わりたい」という目的意識を持って、自ら学びに学校へ来た…という側面がある。だが世の中にはむしろそういった目的が見つからないまま、社会に放り出されてしまった若者の方が遥かに多いと思う。
LIFEカードのCMでオダギリジョー演じる営業マン(?)に若い部下がつくが、これが非常識で…みたいなのがあるが、あそこで描かれる若者像=上下関係をわきまえない、礼儀を知らない、立場や場所に応じた対応が取れない=を見ると、笑ってばかりもいられないだろう。何故なら、ああいう若者が現実に増えているからなのだ。
昔から"Angry young man"(怒れる若者)という定型句があるほど、若者とは何かに対して怒っていたものだ。例えば一方的な価値観を押し付けてくる周囲の大人に、自分を理解してくれない教師に、腐った制度の中で太る官僚や政治家、そして社会に対して…、ただただ自己を現実より過剰に肥大化させて、青臭く一人よがりな怒りだったとしても、そのことが言ってみれば「若者の特権」のようなものだった。自分もそうだった。友達と酒を飲みながら、社会や政治の腐敗に腹を立て、一晩議論して明かしたり、ペコペコと公衆電話で頭を下げ汗をふいているサラリーマンを見ては自分は絶対ああはならないと不遜にもあざ笑っていたりした。今思えばまことに恥ずかしながら、である。
まあ普通はそんなことを考えながら社会へ出て、自分は特別だと思っていたことがいかに思いあがりであったかを思い知らされ、恥じ、そこから自己を高めようと積極的に努力を地道に始めるものだ。実際20代前半期は、砂に水が染み込んでいくように、いくらでも本が読めたし、自分の知識が深まって行くことが面白くて仕方がなく、自分が何も知らないことが許せず、強迫観念にも似た思いで連日書店や古書店を足が棒になるまで歩き回り、寝る間も惜しんで本を読んだ。職場が神保町だったのも幸いだったと思う。それらの本は今でも段ボール箱十数箱分部屋の隅に残っているが、自分でもよく出版社に勤めていた多忙な時期に…と感心するほどだ。もっとも、何の役にも立っておらず、こんな感じ(笑)の中年になってるのが残念だけど。

話が逸れたが、本書内でも指摘されているように、神仏や迷信といった非科学的なものの影響が薄れたことが、人を内側から戒めるもの…規範意識が希薄になったことと関連していると思う。悪いことをしたら報いがある、嘘をつけば舌を抜かれる、人が見ていなくてもお天道様が見ている…というようなことは最近口にすることも耳にすることもめっきり減ってしまっただろう。お天道様に恥ずかしいことはするな、というような「自己による内なる戒め」を持たぬ者は、ある意味無敵である。「誰も見てないからいいだろう」「法律で決まってんのか?」「お前に言われたくねえよ」「別に今が良けりゃそれでいいし」…こうした自己中心的で短絡・刹那的で、ありていに言えば「大雑把で愚鈍」な人種が蔓延する社会は、逆の人間にとっては本当に暮らしにくく、不快であると思う。
「自分以外はバカ」の時代を生きる「他人を見下す若者たち」の多くは、別段知能的に以前の若者と比べて劣っているわけではない。偏差値的に言うとむしろ高学歴化し教育程度も高いはずなのに、驚くほど幼児性が強いと感じる。自分が子供のころの「大人」といえば、30歳を過ぎた「おじさん」から上は皆そうだったように思うが、今では30歳は当時の20歳程度、今の40歳くらいからようやく「大人」であるように思う。自分が40を越えて、本当にそれは実感している。
現代では誰もが自己肯定感を求めて生きているのだという。そしてその中には、「他者への蔑視」を通じて生じる偽りのプライドがあり、速水教授はこれを『仮想的有能感』と定義した。簡単に言えば、他者の実績や現実を評価せず、他者の能力を自己より低く見積もって、結果自分を上だと思うという、極めて自分勝手な優越感のことだ。確かに、テレビの事件報道だけを見て犯人の行動を「バカだなあ」と思うことは多いし、それくらいなら別段問題にはならない。だが、それを自分と周囲の人間関係へと持ち込むと、周囲と軋轢を生じさせることが多くなり、問題が起きるだろう。
これは自分の感想だが、大切なのは豊かな想像力と感性ではないか。
ある事件があっても、その報道はごく表層的な事実を報じているに過ぎず、そこに至る過程にはさまざまなことが当事者にはあったはずだし、その当事者たちそれぞれには、その人生があり、時々にさまざまなことがあって、それを踏まえての「いま」がある。当たり前のことなのだが、自分の周辺、特段密接に関わる人じゃなくても、そういったそれぞれの背景を持って人生を生きている。皆がそういう思い…想像力を持ち、そこへ思いを馳せる感性があれば、簡単にキレたり、簡単に他者を軽蔑したり、無根拠に排除したりはできないのではないか。「心と心のふれあい」などと言えば笑われるほど軽視されるような現代だが、他者を思いやる心の回復がなければ、社会は荒廃していくだけだと思う。

ところで。
自分は癌という病を得たわけで、恐らく健康な人よりこの先長く生きられないと思う。そこで悲観して引篭もるのもいいのかも知れないが、ある人から「白取さんはこうなったからこそ、もっと考えていることや思いを、残すべきだ」と言われた。こうなった以上、別に格好をつけたりことさらに自分を現実以上に良く見せる必要もないわけで、であればそこから何かを伝えて行けるのかも知れない。一人に対してでも、励ましや生きる意欲につながることがあるのなら、ブログも続けて行こうと思う。
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コメント

今さら感

なるほど、教育現場にいる人間にとっては何年も前から体験していることだもんね…。
「体制VS反体制」という枠組でしかものを考えられない人種というのはいまだに組織の上層部にはびこっていたりするので、しばしば色々な業界からも「とっとと消えてくれ」の声が上がりますね。東西冷戦とかもっと前の帝国主義VS自由主義とか(笑)、単純なイデオロギー論議や二元論的なものの考え方って、もう時代に合わないということは若い世代の人の方が「理屈ではなく」知っていると思います。
失業が多いから公共事業を増やす(ニューディール)とか、東側に対抗するための西側の結束とか、悪に対する善とか(笑)、簡単でいいですよね、判りやすいし。でも今や対立軸や問題はそんなもんじゃなくて、そこへ人種や宗教であったり、大国間のパワーバランスであったり、エネルギー問題や対テロ問題であったり核拡散であったりもうさまざまな問題が複雑に絡み合う時代。さらに情報の一元的コントロールが(北朝鮮など一部の独裁国家を除き)不可能になってきた現代、ドメスティックな、いやミニマムで卑近な地域や家庭の問題に関してもコトは単純な問題ではなくなってきている。
つまり多角的のものごとを捕らえ、是々非々で冷静に一つ一つに対処していくことが求められていると、自分は思うのです。まあ組織の中である意味「是々非々」を貫くと、しばしば多数派にボロカスに叩かれ裏切られますが。

光文社新書「下流社会」、持ってます。あれよりも今回の「他人を見下す若者たち」の方が、若い人には解りやすいと思いましたが…。うーんどうなのかな。

自分も読んだが・・

職業上、今さら・・・、の感が強かったですわ。
昔から、子どもの関係は天秤ではなくシーソーなんですよ。
他人を見下す前は、自分を見下すが問題になっていたんですが、昔から、両方とも存在していて、前者に焦点をあてて書いていると、こういう本になるという感想です。

親についても、組合が「教え子を再び戦場に送るな」には成功したけど、何のまとまりもない人間たちを育成してしまったということです。
ちなみに、自分は組合、十年くらいでやめました。

「体制vs反体制」しか今も持っていない、昔は組合の闘士だった人々は、そろそろ退職なんですが、あまりにその世代の教師の比率が多い上に、そういう人たちに、ちゃんと仕事しない人が多いんで、一番比率の少ないうちらの世代は、その尻ぬぐい役ばっかですわ。
一気に辞めてくれるといいんですが、5年くらい残している人が多いので、しばらくは大規模校が掃きだめ(最終処分場)になります。

数字を論拠としていて固いですが、光文社新書221の「下流社会」~新たな階層集団出現~なんかを読むと、「見下し」に視点が揺れていく背景が見えますよ。

いつもどうも…

腰痛ですか、自分も脾臓の腫れのせいか、背中が時々痛みます。びりっ、とくる時があるので不気味です。養生してください。

2ちゃんの書き込み中心層が立派な「大人」たちであることが明らかになった時、やっぱりな、という気持ちと「あららら」というのが交錯したのを覚えてます。
発足当初、完全匿名で言いたいことを言うというスタイルに、アンチ2ちゃんねるというスタンスを取った記憶がありますが、最近ではあれもアリだなと理解するようになりました。
例えばテレビを中心としたマスメディアへの一つの対抗軸として…とかいうこともあるけれど、テレビのモラルよりも、2ちゃんねらーたちの方が正しい場合もあるわけで。

例えば和田アキ子やあびる優などがテレビで平気で「犯罪行為」を武勇伝が如く話す、本来テレビの側がそれを諌めるべきなのに、実際は2ちゃんねらーはじめネット社会がおかしいぞ、という声をあげたように。
匿名で言いたいことが言えるがゆえに、『仮想的有能感』という地盤の上に砂上の楼閣を築くことが誰でも可能。そしてそれを他者が破壊し、またそれを別な他者が踏みにじる、というような構図も見えます。しょせんネットも「ツール」なのであるという簡単なことを理解して冷静に距離を置き、自己も相対化できるようになる…つまり本当の大人になるには時間がかかるかも知れませんが。
あ、敢えていろいろ演じたり使い分けたりしている場合はいいけど、そういうことが可能な匿名掲示板であるわけで、つまりは信用性や確実性には疑問符がつくわけで、つまりは…ってさんざん言われてることなので割愛します。

おひさしぶりです。

このところ持病、といっても腰痛が悪化して往生しておりました。小生もつい先日、「他人を見下す若者たち」に不快な思いをさせられました。思い出すのも不愉快で、ここに記述することも憚れるような小汚いエピソードです。おそらく読んだ方も不快と存じますので、記述は控えます。
ところでそういった自己を律することの出来ない、無根拠に自分を他者より優越であると思う輩は、確かに若者だけではないと思いますね。小生白取さんとほぼ同年代ではありますが、自分より年長の人間にもこういった人種は確実におります。それなりに年齢を重ね、それなりに人にも認められているような人で、それなりの礼儀や他者への接し方を弁えてらっしゃるものと信じていたら、とんでもない非礼な振る舞いに接して仰天するという経験が何度もありますし。
たとえば無根拠な自己優越性を持つ、「自分以外はバカ」だと思っている人が増えた要因のひとつと思われる某巨大匿名掲示板では、連日そういった人種が他者をあざ笑い、上げ足を取り、些細なことで勝った負けたと狭い範囲の中で競い合っています。そして、そのユーザーのほとんどが、なんと30代以上の「大人」なんだそうです! 十代のコドモ達が偏頗な知識で背伸びをしているのではないのが現実です。
暗澹たる気分にさせられるではありませんか・・・・・
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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