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2006-07-27(Thu)

メディアについて思うこと 1

今日も連れ合いは京都の大学へ出勤中。WEB仕事を終えた後、夕方ソファで一人ごろごろしつつテレビを見ていると、ドアフォンが鳴る。「お中元のお届けです」というので開錠すると部屋に来たので判子を持って玄関を開けると、「ハンコは要りません、新聞屋です」という。何だ、ずいぶん詐欺的な勧誘だなと思ったら、洗剤を2つ差し出して「新聞取ってくださいとか、そういうんじゃないのでご安心ください、以前取っていただいてて、今そのお礼のご挨拶にあちこちまた廻ってるところなんで」という。で「最近はどちらをお取りですか?」というので「どこも。うち新聞一切取ってませんから」というと「あ、そうなんですか…じゃあまた機会があったら」と、携帯の番号を書いた契約のペラ一枚を手渡して帰って行った。
このところ、実はわが家では新聞を取らなくなっている。なぜかというと新聞は当り前だがどんどん溜まる。こまめに縛って回収に出せばいいだけの話だが、雑誌類もあり、けっこうな重さになる。本当に物凄い量になる。うちは言わば病人が二人、そういう力仕事はなるべく控えたい。主要なニュースはテレビやネットで得ることが出来、深く知りたいニュースは速報ではなく、きっちりとした取材に基づいた記事を週刊誌や月刊誌でじっくり読む。そういうスタイルである。

実は先日ある新聞社の記者の人と話したのだが(この件についてはいずれ告知します)、最近の若い人は本当に新聞を読まなくなった、という。それは本当にそうだと思う。専門学校で講義をしていた頃は、口を酸っぱくして生徒たちには毎年「新聞を読め」と言ってきた。矛盾してるじゃん、と思われるだろうが、ちょっと意味合いが違う。
毎年「メディアを送り出す側」の業界へ入りたいと希望した生徒が、数百人という単位で学校へ入学してくる。彼らのうち百人くらいが編集になりたいと希望して俺の講義を受けることになる。そこで彼らに必ず「この中で毎日欠かさず新聞を読んでいる人」と問うと、だいたい手を挙げるのは10%以下だ。30人のクラスなら1名から多くて3名程度。読む理由としては実家なので親が取っており、何となくというもので、特に目的意識を持って読んでいるわけではないという。読まない理由の方はいろいろあって、一番多いのが経済的理由だ。毎月4000円(約)の出費は痛い、考えられないという。あとは読んでいる時間がない、活字ばかりで読む気にならない、興味がない…などなど。
それはそれでよぉく理解できる理由だし、金のことを言われたらそれ以上何も言えない。それに携帯やネット接続などにはけっこうな出費はしており、新聞から得られる情報はそれらから得られるという子も多いので、自分のことを考えても、反論はできない。
それでも、新聞を読め、と話していた。
なぜかというと、彼らに漫画や雑誌類を除いた読書量や時間を問うと、これまた非常に寂しい回答しか得られない。パソコンでもけっこうな量の活字を読んでいるから、これ以上は別段読まなくても…とも言う、そりゃそうだ。でも敢えて新聞を読めというのは、これまでの「メディアの受け手」の側にいた「消費者」であれば、自分の好きな小説やコンテンツ類を金を払って選べばいい。だが「メディアの送り手」の側に来たら、単なる好き嫌いとか個人の感情でものごとを選んではいけないからだ。それに新聞はテレビや芸能情報以外に、政治、経済、社会、家庭その他の記事も載っている。毎日新聞だけでも意識的に読んでくれれば、少なくともふだん自分が偏った好みで取り入れているジャンル以外の情報が目に入る。それに伴って活字を読み込む力も自然に鍛えられるだろう。できれば同じ事件や事象でも、報道にもスタンスがいろいろあるから、複数の紙面に目を通してもらえれば一番いいが、経済的な負担がさらに増えるので、それは定期的に取る新聞を変えればいいと思う。
とにかく、毎日イヤでも届けられる新聞を、義務感でもいいから読み続けていけば、一年、二年…と経った後で必ず有益な何かをその人に残してくれるはずだ。好き・嫌いで行動しがちで、しかし本来一番知識欲が旺盛なはずの時期に、そういったことをイヤでも自分に課すことは大事だと思う。
でも、数ヶ月後に同じ質問をしても、手が上がる数は増えないことの方が圧倒的に多い。
そもそも、世間一般の「今どきの子」を見ていれば、毎日新聞の全紙面を熟読している子の方がむしろ同世代からは「おかしい」「変」、我々大人の世代からは「感心」「偉い」と言われるのが現実だ。だがメディアの送り手側の現場に関わりたいという明確な目的意識を持って学校へ来たはずの子らが、新聞さえ全く読まないことに何の危機感も疑問も感じていないことに、本来なら愕然とすべきところでは、ある。

そんなことを思い出しつつ、今日もいつものようにニュースサイトを一通り見て、各新聞社のサイトをはしごする(最近のオススメは朝鮮日報 Chosunilbo Japanese Editionで、韓国メディアの日本に対する報道スタンスが面白い)。
ヘッドラインだけで終わるものもあれば、クリックして内容を読むものもあり、その中からもっと深く知りたい記事に出会うと追跡を始める。検索エンジンなども駆使すると、ヘッドラインや報道だけでは判らない、細かいディテールが見えてきて、面白い。
面白いというと不謹慎なのが災害や事件・事故報道だが、今日はこの記事に目がいった。


Yahooニュース - 共同通信 - 時速78キロ暴走と言えぬ 猶予判決に両親無念

自転車の女子中学生をトラックではね死亡させたとして、業務上過失致死罪に問われた運転手に、地裁が禁固3年、執行猶予5年という「温情判決」を言い渡したというものだ。
それはそれは、愛娘を14歳という若さで失ったご両親の哀しみや怒りは察するに余りある。運転手に極刑を望んでも感情的には仕方のないところだろう。だが飲酒していたわけでもなく前科もない、逃走したわけでもなく、反省していないわけでもない。となるとある程度の軽い判決が出ることは想像できたと思う。
だけど問題は「制限速度50キロの現場でどれだけの速度が出ていたか」が争点となっていたという点だ。この地裁の裁判長は、
時速95キロ以上との検察側主張を「科学的根拠に欠ける」として退け、78・8キロ以上だったと判断。その上で「被告の過失は重いが、暴走とまでは言えない」と判決理由を述べたという。(共同通信;Yahoo!ニュース 7月27日20時3分更新記事より)
制限速度50kmのところを80km近い速度でトラックが走れば、それは暴走ではないのか? 暴走とまではいえないというのは個人の主観で、何キロオーバーからが暴走という定義はない。俺ら歩行者からすれば明らかな暴走であるが、例えば珍走団(旧称・暴走族)の阿呆どもにすればそんなのはヌルいということになるだろう。
この、下らぬ、本当に遺族感情からすればやりきれない「争点」と、裁判官の見識・人間性の薄っぺらさがどうしても許せないと思う。俺がおかしいのかね。
被害者、その遺族の支援を行っているサイト・・・柳原講演の記録へ 交通事故絶滅をめざし、交通犯罪を告発し、クルマ社会を問い直すでは、事件の経過だけではなく、裁判の経過報告も見ることが出来る。こうして一つの事件報道、いや裁判の結果報道から、その背景を探って行き、全体像を把握することが出来るのが、WEBのいいところではある。「ふうん」で終わるか、「待てよ」となるかの違いだ。
交通事故の死者数は90年代に入って以降、緩やかながら減少傾向にある。飲酒運転、無謀運転への罰則も強化された。でも、相手が酒を飲んでいようが珍走団まがいの暴走車だろうが、ほんとうに不幸な過失の結果だろうが、被害者にとっては同じことだ。不幸にして被害者が命を落とした場合、遺族にとっては相手が何であろうと死んだ家族は戻らない。
相手がけっこうな速度で動く金属の塊であり、それがぶつかってきたら生身の人間はたまったものではない。トレーラーと軽自動車がぶつかれば大概軽四がぐしゃぐしゃになる。だがその軽四だって、歩行者にとっては「走る金属の塊」である。運転者は凶器を扱っているのだという自覚をして欲しい。事故を起こせば、相手が人間だった場合、お互いが一瞬にして不幸のどん底に陥る可能性があるのだ。相手だけではなくその家族、友人、愛する人全てを不幸に叩き落すのだ。酒飲んでたからとか、無灯火だったとか、信号無視だったとか、そんなことは被害者にとっては「哀しみの上に怒りの上塗り」をすることに過ぎない。一番の訴えは「失った人を返して欲しい」、それだけだろう。それが叶わぬから、奪った相手を罰して欲しいと思うのだ。
人ひとりの命を奪ったこと、その人はもう二度と戻らないというのに、そのことに対する処罰が「執行猶予5年付きの禁固3年」だとしたら、これは無罪認定に近いと思う。増してやその理由が「制限速度を遥かにオーバー(約30km/h)した明らかな無謀運転=暴走」を暴走とまでは言えないから…であっては、遺族は泣いても泣ききれないだろう。信賞必罰でなければ、自由主義の世の中って成り立たないのではないだろうか。
光市の母子強姦殺人事件の遺族である本村さんは、事件の直後からマスコミに積極的に登場し、事件の詳細を敢えて公表し、その上で極刑を望むと強く訴えた。それは「人を殺したんだからお前も死ね」といったような単純な「目には目を」的なものではないことは、彼をずっと見続け、訴えに耳を傾けていれば判る。常々、連れ合いとも話しているのだけど、あれほど聡明で勇気のある若者を、他に知らない。
裁判官に限らず、医師、官僚にも言えるが、もっと血の通った一人の人格者として考え、行動して欲しいと思う。
超難関の国家試験に合格するためには超一流の大学に入る、そのために猛勉強する、塾や家庭教師はもちろん、小学生から高額な教育費をかけられた者しかその道へは進めない。貧乏でも頭が良ければ…という時代ではもう、ない。貧乏なら高額は教育費を払えないので、そこから上のさらに高額な費用がかかる世界へは進めない。エリートの子弟しかエリートの世界へは入れない、身分制度化がもう始まっている。その現実の是非がどうこうより、現実にそうなっている。だが、であっても、いやエリートであればエリートなりの自覚と責任が求められる。それが昔はノーブレス・オブリージェというものだったはずだ。もちろん、この言葉(高貴な者にはそれなりの責任が伴う、というような意味だ)には身分制度の肯定という側面があって嫌う人も多いが、今の政治家たちや官僚、金持ち層には無理を承知で敢えて、この言葉の意味を噛み締めてもらいたい。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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