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2006-08-27(Sun)

日本人の「民度」

登山家の野口健さんがTV番組でエベレストでの清掃登山の模様を紹介して、「酸素ボンベや出したゴミを平気で捨てて行く登山隊がたくさんあり、その多くが日・中・韓のアジア隊のものだ」と話していた。余談だが「ガロ」クーデター事件(「ご心配は有難いけど。」参照)直後、ボランティアで事態収拾にあたっていた我々は、糊口を凌ぐためにツテでいただいた某大手会社のWEBマガジンを隔週で取材・編集・アップ管理をしていた。その際、野口さんは五大陸最高峰登頂最年少記録保持者で、一度インタビューのオファをしたことがあった、その時彼は外国へ行っていて、残念ながらそれは実現しなかったということがあった。(その後曲折があり「グレートジャーニー」で有名な関野吉晴さんにインタビュー取材ができた)

さてエベレストだが、遺棄されたゴミを見れば、それがどこの国から持ち込まれたものかはプリントされている言語などですぐに解る。だというのに、平気で置いていくということは、「自分だけ良ければそれでいい」という民度の低さが感じられるというものだ。つまりそのこと=ゴミを残していくことで自分の国の評価に関わるというところへ考えが及んでいないということだろう。
先のアジア諸国が目立ち、ヨーロッパなど欧米系の国のものは少ないという。もちろんこれは民度というか環境保護への意識の高さもあろうが、ではアフリカ諸国や中南米もそうかというと、エベレスト登頂という「大プロジェクト」には人的にも経済的にもかなりのコストがかかるので、それなりの「力」を持つレベルに至った国じゃないと、独立した一国としての登山隊を組めないという側面もある。
極寒の高山にあるゴミは、バクテリアが分解することもなく、腐敗することもなく、全くそのままの形でいつまでも放置されている。もちろんそれを平地に持ち帰れば、それらはたちまち強烈な腐敗臭を放つことになるのだが、驚いたのは、遭難者の「死体」まで、かなりの数が遺棄されたままだということだ。酸素ボンベは30年くらい前のもので1本30kg。最近のものだと3,4kgくらいに軽量化されたそうだが、それでも何十本と消費すれば、それを持ち帰ることの負担はかなり大きい。なのでポイポイ捨てて平気で下山するのだろうが、死んだ仲間の死体までとは…。死体は服や靴なども入れれば70〜90kgくらいになろう、確かにそれを運ぶためには大変な労力がいるのは解るが、埋葬さえせず、放置とは驚きだった。
野口隊の清掃登山ではもちろん、ゴミもボンベも回収するし、遺体は埋葬し手を合わせているわけなのだが、ともかく野口さんは、「旅の恥はかき捨て」ではないが大自然を汚すこうした恥知らずな行為を「自分たちが国を代表しているという意識が低いということ」であり、つまりは国を大切にしていない、卑近な自分(とせいぜいその周辺)さえ良ければいいという考えしか持っていないという意識の低さの表れであると嘆いている。
では自分たちの国はどうかというと、日本を代表する名山、富士山が不法投棄のゴミだらけで世界遺産登録を見送られたというのは有名な話だろう。もちろん、野口さんはエベレスト清掃登山にいったん区切りをつけ、富士山の清掃登山にも力をいれているから、本当に頭が下がる。

富士山だけではなく、日本国中、ちょっと田舎に足を伸ばして、観光地からちょっと外れた寂しい山間部などへ行けば、不法投棄のタイヤの野積や産業廃棄物の山、そこまで行かなくても家庭から出た粗大ゴミがわずかな処理料を惜しむのか、道路わきに投げ捨てられたりしている光景を簡単に目撃できるというものだ。
富士山の場合は、観光客というよりは樹海などへ確信犯的に廃棄物を不法に投棄しに来るものが多いという。逆に風光明媚な観光地では、その自然を愛でに来たはずの観光客による自然破壊が問題となっている。そういった観光地では、地元は観光客の落とすお金で経済が成り立っていることも多いので、客には来て欲しい、でも大元の自然は壊さないで欲しい、という板ばさみだろう。
だがあるニュース映像では釧路湿原や知床、摩周湖など国内有数の大自然を誇る北海道の東部で、「もういいから誰も来ないでくれ」と地元の住民が怒っていた。ゴミを捨てるなど日常茶飯事で、入るなというところへドカドカと踏み込み、貴重な植物を踏み散らかす。取るなという草花をむしり取る。野生動物の生息地で静かにしろというのにギャーギャーゲラゲラと大声を出す。そういう観光客に、それまではそのお金も地元振興と環境保護に使われると、じっと我慢してきた地元の人たちが、「こんなバカ共ばかりが大挙して来るんなら、もうお金なんか落としてくれなくても結構」と言っているのだ。

日本民族は礼儀正しく綺麗好きでつつましく勤勉…っていつの話だろう。それでもまだ、日本の街頭は綺麗な方だと思う。行ったことのあるいくつかの外国の町々は、厳格に規制されている一部の観光地を除いて、普通の街角は本当にゴミや吸殻、痰やツバで汚れているところが多かった。日本はそういう意味では、どこへ行っても概ね綺麗にされている。しかしそれはもちろん、「綺麗にしてくれている人」がいるからに他ならないことを忘れてはいけないのだ。
ともかく、こうしたことを見聞きして、「日本人は本当にモラルが低くなった」「日本人の民度は地に堕ちた」などと言うつもりはない。「日本人は」と一くくりにされては、「綺麗にしてくれている人」たちに申し訳ない。モラル意識のない、あるいは低い「困ったちゃん=バカ者」がおり、その数が年々増えていると思う。
だが、海外から見たら、それもこれも全部ひっくるめて「日本人」である。特にエベレストの山頂で日本語の書かれたインスタントラーメンのビニール袋だのカップ麺だの、少年漫画誌だのを見た人たちはそう思うしかないだろう。ああ恥ずかしい。富士山を世界遺産に…ってもう、本当に恥ずかしい。

昨日のたまこさんの拙記事「猫殺し鬼畜作家」坂東眞砂子へのコメントで思ったことなんだけど、日本人の「捨てる」ということへのモラル意識の低さはゴミだけではなく、生き物にも当然言えることだ。
心ない「飼い主」に捨てられ、保健所によって引き取られた結果処分される犬や猫の数は、年間80万頭にのぼるという統計がある。もうずいぶん前、『動物のお医者さん』がブームになった頃はシベリアン・ハスキーを飼う人が増え、ブームが去ると巷にあの一見ちょっと怒ったような哀愁を帯びた顔をした犬種の野良が増えたっけ。こういった例はまあ山ほどあって、名犬ラッシーやベンジーやらの映画の後はその犬種、ムツゴロウさんの監督映画『仔猫物語』の後は茶トラ猫。記憶に新しいのは『アイフル』のCMの影響で日本中に溢れたチワワだろう。
捨て犬や捨て猫の数は年々増えているのは日本が決して民度の高い国なんかじゃないということだし、むしろその時々のブームに犬種や猫の種類が大きく変化するということは、いかにメディアに簡単に動かされ、熱が覚めれば次のブームに向かう「バカ者」が多いかということの証明だ。

言うまでもないことだが、猫や犬はゴミではなく「生き物」である。
自分も小さい頃からたくさんの生き物と関わって生きてきた。犬や猫だけでなく、虫もあれば金魚やシーモンキーだって。
いつだったか、まだ小学生の低学年だった時の夏、トンボをつかまえてきた俺は「昆虫標本キット」みたいなものの説明に従い、トンボの両の羽を虫ピンで台座に止めようとした。トンボを楽に「殺してやる」薬はまだ打っていなかった。手順を間違えていた。トンボの左の羽をピンで固定し、右の羽を固定しようと暴れるトンボの胴体を押さえつつ羽をグイと引いた。途端に「ミリミリ」と嫌な音がして、トンボの胴体は左右に避けた。中からは緑色のどろりとした液体が出てきた。小さかった俺は「うわぁ」と大声を出して玄関の三和土に尻餅をついた。もう、触れなかった。
短い生を必死で生きようと空を飛んでいたトンボを捕まえ、その小さな命を奪ってしまった自分の罪の大きさに自分は泣いた。それも生きながら体を引き裂くという残酷なやり方でだ。トンボはしばらく断末魔にのたうっていたが、そのうち静かになった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と号泣しながら自分はトンボの骸を家の前の土を掘って埋めた。そうして、その後ただの一度も昆虫採集をすることはなかった。そうした「無意味な殺戮」を二度と出来なくなってしまったのだ。
今でも深刻な害がない場合に虫を殺すことは、何となく避けてしまう。増してや生きるためでもないのに面白がって動物を追い掛け回して殺す「狩り」や「釣り」はどうしても出来ないし、映像も気持ちよく見ることが出来ない。(そこを履き違えると、外来種を「キャッチ&リリース」して生態系を破壊した問題になる)

言い古されたことだけど、我々は「他者の生」の犠牲がないと生きていけない生き物だから、その犠牲に対して「いただきます」と礼を言って食べる。もちろんそんな深い意味などなく、形式的な食膳の挨拶・習慣として単純に発声していることの方が多いけど、忘れがちなのは自分のために「生」を「提供してくれた存在」への感謝だろう。菜食主義という人たちがいるのだが、植物も生き物である。しょせんは自分が生きるというご都合のために、他者の生を食らっているに過ぎない。動物を食わぬということでその罪というか、「業(ごう)」から免罪されるわけではないと思う。むしろ潔く人間や全ての生き物が持つ業を認めて、ならばせめて犠牲へ感謝して、必要以上の犠牲を欲さず、犠牲を残さないようにすべきだろう。そういう自分はどうかと問われれば、全くもって偉そうなことを言えた義理じゃないんですが。

今、スーパーの切り身で売られている魚と、水族館やテレビで見る生きた魚とが結びつかない子供たちが多いという。そこにはやはり、自分たちは他者の命をいただいているのだという、敬虔な気持ちは育たない。昔ある屠場を取材させていただいたことがある。普通なら、そういった社会の奇麗事の「裏側」を、「もっと見るべきだ」と勧めるのだけど、あれは勧められない。同様に、捨てられたペットたちが、迎えに来るはずもない「ご主人様」へのかすかな希望と、やがて来る「処分」という確実な絶望への予感とを湛えた目で必死に「助けてください」「死にたくない」と訴える保健所(の管理センター)も、勧めない。
以前、教え子たちに自由課題で取材をさせ記事にまとめるという課題を与えた際、捨てられたペットの最後を取材したいと申し出た子たちがいた。最初は生半可な気持ちでそういうところへ行くもんじゃないと諭したが、何度か話しているうちに本気であるということが理解できたので、許可することにした。まあ結果から言うと取材はNGに終わったのだけど、それでも良かったのだと思う。彼らは取材を申し込む段階で、どういう趣旨でこういう意図を持って紹介したいということを熱心に相手側へ伝え、相手側はこれこれこういう理由でそれは許可できないというやり取りがあった。その何度かのやり取りで、お互いに理解し合う部分があり、お互いが納得した中での「取材NG」だったからだ。
屠場にしろ保健所のセンターにせよ、そこにいる人たちは決して好き好んで生き物の命を奪っているわけではない。そのことを背景も含め、本当に心から理解して貰えない限り、安直にその現場だけを見せても、受け手の側の感受性に線は引けないから、一律にお断りするしかない。詳しくは書けないが、概ねそういったことだ。

そういった「現場」を見て何かを感じることの出来る者ならば、それはもう「そういうことがある」ということを知ってもらえるだけで充分なのだ。問題は、そのような存在を知ることもなく、知ったところでそれは別次元の話だ、自分だけは許されると思う傲慢不遜な人間だ。そういう連中は、ゴミを不法に投棄しても誰かが処分してくれると思うし、生き物を捨てても誰かが拾ってくれるだろうと軽く考える。誰も拾ってくれなければ行政によって捕獲され殺されることは知っている。だが「自分が捨てた、この生き物は別」と考えている。そいつらとて、家畜の屠殺現場や犬猫の処分現場を見れば、涙を流し「可哀想」と言うだろう。しかしそれを我が身の問題と考える知力を持っていない。だから、見せたところでそれは単なる「お涙頂戴」にしか受け取ってもらえないのだ。そんな馬鹿な、と思われるだろうか。

別なニュースでは、ある海岸で、浅利を密猟する人間が後を絶たないという映像を流していた。その浅利は漁協の漁師さんたちが稚貝をお金を出して買い、海辺に撒いたのが成長したものだ。いわば自然養殖の結果であって、当然それらは漁師さんたちの所有財産でもある。そもそも法的に漁業権を持たない者が一般人の禁猟区域で漁をすれば違法に決まっている。だがそういったことだけではなく漁師さんたちのものを盗んでいる、という側面もある。
彼らにマイクを向けると「ちょっとぐらいいいじゃん」とか開き直る者もいれば、すぐに「あ、じゃあ戻します」と海に投げ捨てる確信犯もいる。先のペットを捨てる「自分の場合は大丈夫」とか、不法投棄や密漁などの「バレなきゃ何してもいい」などに共通するのは、やはりモラル意識の低下すなわち民度の低さだろう。石原都知事が以前、中国での反日デモを評して「民度が低い」と言ったが、それでは日本が高いのかどうかは大いに疑問だ。比較の対象が間違っているかも知れないが、「民度」ってそういうことも全て含んでのことだろう。

それにつけても、以前「他人を見下す若者たち」でも書いたけど、自分の中に「内なる戒め」を持たぬ者が増えていると思う。昔と今とでは社会環境が違う、だからモラルも変わっていく…という論法があるが、違うと思うよ。例えば目上の人にタメ口をきくな、という「常識」がある。これはもちろん長幼の序という儒教的な礼節の教えではあるから、時代が変わって多少崩れてくることは(不愉快だが)仕方のないことかも知れない。(儒教でいえば、女は家にいろ的な女性蔑視はむしろ排斥されていいという乱暴な意見もあるが、儒教の教えってそんな単純なもんじゃなかったと思うが。例えば「長幼の序」にしても、単に「年長者を敬え」ではなくて、そこには「長じた者は幼い者を庇う」ということが付随していたはずだ)
だがいつの時代にも変わってはいけないこと、守るべきものがあるだろう。
法律やモラルウンヌンもあろうが、「お天道様に恥ずかしいこと」はしたくないと思う。
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コメント

追いつきたい背中

午後三時様、コメントありがとうございます。
年長者だから尊敬できるのではなく、尊敬すべき人間だから尊敬できる、ということその通りです。
自分も若い頃は、年長者にはそれなりの礼を尽くしましたよ。敬語で話すというのは当然でしょう。それは社会的常識というものですよね。でも、心の中では「何でこんなヤツに」ということはありました(笑)。だって全然尊敬できない年長者もたくさんいましたからね。
だから体育会系のノリって一番きらいでした。年長ってだけでそこまで偉そうにするか、という。お前に年長という以外に何が俺に対して誇れるのか?と問い詰めたかった(笑)。

でも、追いつきたい先輩というか先達はいましたよ。もちろん。
ガロという稀有な雑誌に関わることが出来て、自分が目指した漫画という素晴らしい表現の世界で、たくさんのそういう先達の背中に、いつか追いつきたいと思ってこのトシまで来ています。
自分は編集になっちまったので、残念ながら作家にはなれませんでした。だから作家さんには年少だろうと尊敬の念を持っていますよ。(このことは別な記事でもさんざん書いてますので)
とにかく、年長であるから偉いのではなく、尊敬に値するかどうかというのは別な問題だし、年長者を敬うこと=礼儀の問題もまた別ですよね。
まあそこら辺を混同する「バカな大人」も多いんですけど。

はじめまして

はじめまして、午後三時と申します
白取さんのおっしゃられることは確かにごもっともです
25の若造ですが、一つだけ言わせていただきたいことがあります
年長者だから、尊敬されるではなく、年を重ねて、積み上げたものが重く凄いから尊敬できるのではないでしょうか?
年長者であることにあぐらをかいている連中が多くて残念です。
自己保身から始まり、器の小ささを露呈し、自分だけが高い所からものをみている連中が多いような気がします。
そういう連中の背中を羽目になってしまっているから、ニートとかが増えているのではないかなと思います。
白取さんが若かった頃は、いかがでしょうか?
この人に追いつきたいと思うような背中とかありましたか?

恥ずかしい…

>Rainbow様
「恥を知らない人間」を見ていると、こちら側が恥ずかしくなりますね。本当に、反面教師とするぐらいしか存在価値はありません。まあ啓蒙とか注意を喚起させるとか、あるいはそれこそ反面教師的にそういった連中を紹介する番組や記事はあるんですが、恥知らずはだいたいそういう内容のものは見ませんから何の効果もないんですよね。

>M様
「環境アーカイブス」、うちでも見てましたよ。深夜までだったんですが、ゴールデンタイムに放送すればいいのに、と思いました。
アスベスト問題はこれから一体どれだけの人に被害が出るのか、想像もつきません。「潜伏期間」が数十年と長いだけに、これだけ長い間放置し飛散するに任せていたことがどういうツケとしてまわってくるか、恐ろしいですね。
俺も小中学生時代に石綿金網、使ったしなあ。
こういう官僚の無為無策、いや無策ならまだしも確信犯的に産業界と癒着した政治家の言いなりになるような施策を行った連中の罪を問えないことが疑問だし、腹立たしいことですね。
民間なら即刻免職になったり告訴されたりするようなことでも、公務員や官僚の罪が問われることの方が珍しい。国民が政治家を落選させられるが、官僚は更迭さえできない。
いやはや、戦後日本は旧ソ連も真っ青の官僚天国をガッチリと作り上げてしまったわけですねえ…。

同感です

日本人の民度は高くないと思います。
たった今、NHKの「環境アーカイブス」を見終わりました。これまで日本が産業優先でいかに公害を知りながら放置し企業寄りの施策をとってきたかが、水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの実態映像を通じてよく理解できました。
中でも当時の官僚が平気で「産業優先でやっていた、まあ確信犯といえばそうだ」と語っていたのを聞き、これは「昔の話」ではないと改めて慄然とした次第です。
最後に放送されたのはアスベスト(石綿)被害の模様でしたが、何とアメリカで健康被害への因果関係が疑われて撤去が始まったのは70年代初頭。当時の厚生省はこれを知りながら、何ら規制をせずに放置したわけですね。
今でも、産業界と政界が癒着し、その裏で官僚が辻褄合わせのために奔走している様子が目に浮かびます。犠牲になるのはいつも国民という訳ですか。
そういう政治家や企業を許しているのは国民、ですね。

本当に溜息が出ます

私は書店でアルバイトをしています。
が、恐らく近所の特定の人物が定期的に家庭ごみを捨てて行きます。
ウチに恨みがあるのか、はたまた単なる頭がおかしい人なのか判断がつきかねますが・・・
今日も生ゴミ・プラごみ・紙ごみが混ざったのが一つ。

すぐ其処に収集場があるのに。

ゴミの不法投棄にしろ、生き物を捨てる事にしろ。
全ては「自分以外の誰かの事を考え」れば出来ない筈ですよね。
野口さんを始めとして、立派な方々が居る事を誇りに思う一方で、大多数の恥知らずに溜息が出るばかりです。

せめて反面教師にする位しか救いがありませんよね。
こう言う恥知らず達は。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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