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2006-09-13(Wed)

漫画家になりたい人へ 2

前回の関連記事「漫画家になりたい人へ」への反響が意外に大きくて、たくさんの人からメールをいただいた。とても一つ一つにお返事を出すことが出来ず、お詫び申し上げます。

いろいろと整理していずれは何らかの形で公表したいとは思っていた断片的な「漫画への思い」を含め、このブログにはその都度感じたことや常々思っていることをほとんど衝動的に書いている。ブログとはまあそんなようなものだ。だからこれまで本家サイト(「白取特急」)の日記やコラムなどでも書いてきたようなことは、たびたび繰り返しになってしまっていることが多い。そういう「前にも言ったけど」的な部分って、避けたいとは思うものの、一冊の本を書いているわけではないからご容赦願いたいし、自分の考え方…大げさに言えば哲学というようなものはコロコロ変わるものではないから、核心部分は同じことになるわけだ。とまあそんなことも含めてブログってそんなものでしょう。

それではその「核心部分」とは何かというと、漫画や編集という部分に限ると概ねこういうことになる。
・漫画とは絵とストーリーの両輪からなる表現であり、その「作家」(この場合は漫画家)は全てをたった一人で産み出し完結させることができるものだということ
・ここで言う「作家」とはあくまでオリジナリティを持ち、他の誰でもないその作家自身の作品世界を持つ存在であること
・編集者とは、あくまで表現者たる作家が産み出した「作品」があって始めて仕事が出来る存在であること
・従って編集たる者、作家に対しては常に一定の尊敬の念を持ち接するべきであること

ごくごく簡単に思いついたままに記述すると、こんなようなことだ。
「ガロ」という稀有な漫画雑誌に関わっていた自分が、漫画家を目指していた時期から編集者になって今に至るまで、こういう思い=核心部分には何ら変化はないと言い切ることが出来る。

描く側=作家側を目指していたころは、「こんな漫画を描きたい」「こんな作家になりたい」という目標があった。それが「ガロ」を本格的に読むようになってからは、「他の誰でもない、自分という作家を世間に認知させたい」というものに変わった。なぜなら、「ガロ」はそんな作品に溢れていたからだ。
長井(勝一)さんに出会い「ガロ」編集の道に誘われて修行するうち、原稿の整理でさまざまな「ガロ」の漫画家さんたちの生原稿を拝見する機会に恵まれた。当時社内で単行本を作っていたり、終了して保管してあった原稿を整理させていただいたのは、丸尾末広、花輪和一、林静一…といった物凄い作家さんたちの「生原稿」だった。この顔ぶれの凄さを理解できる若者がどれくらいいるのか今、急に不安になってしまったが、ともかく、ほんとうに凄い作家さんたちの名作の数々、それも生原稿に触れることが出来たのだから、夢のような空間であった。
当時の神保町の材木屋二階にあった青林堂=「ガロ」編集部(兼営業所、兼梱包・配送所、兼倉庫)は、そのたった十坪あるかないかの狭い空間に、片袖事務机が6個向き合って並び、その両背後には原稿がびっしり入ったスチール製の棚とロッカーが壁面に並び、その中は言うまでもなく上にまで、天井ぎりぎりまで原稿を入れた大きな封筒を梱包した包みが積み上げられていた。さらに事務机の塊の手前には1mほどの空間、というか通路を置いて大きな木の机があり、そこが品出し(新刊を書店に出したり、返品を改装=ブックオフなどで機械でやってるアレを全て手作業、紙やすりなどでやっていた)などの作業台になっていた。作業台の両壁面はこれまた本の在庫が新刊や返品などが床から積み上げられていた。ちょうど書店の店頭にある平積(本が表紙を出して床と平行面で積み上げられてある状態)の本が、床から腰〜腹くらいの高さになり、その面がずらりと壁面から3〜4列手前まで並び、幅は2・5mくらいの帯になっていると想像してもらえればいい。
とはいえそんな「出版社」なんか今どきの人たちには全く実感ないだろうし想像も出来ないかも知れないが。まあそんなところで出版をやっていたところがあったということだ。ちなみに日本には4000を越える出版社があるものの、その半数以上は従業員が10名以下の「零細版元」である。中には静山社(あの「ハリ・ポタ」の日本版翻訳出版で巨利を得た版元、社長はスイスに移住も税金対策との疑惑)のように社員は少ないが利益が巨大という稀有な例もなくはないが、ほとんどは三ちゃん農業ならぬ「三ちゃん版元」だ。農業の場合は父親が出稼ぎで残ったジジババ&母ちゃんで農業をやった、というかつての農村の話だが、この場合は社長が父ちゃん、母ちゃんが経理。息子(兄ちゃん)が専務で編集者。というかこういう零細版元は社長も専務もヒラも名ばかりで、全員がやれることは何でも、それこそ編集から返品整理までやっている。
話が逸れた。ともかく版元四千数百社あれど、そのほとんどが中小・零細であり、利益は上位数十社の寡占状態にあるのがこの業界だ。このあたりの話は】:「出版不況」--細く長〜く…ではダメか? その2でも書いたのでヒマな方は別窓でどうぞ。

青林堂で編集のアルバイト(というより出版に関わる全業務)をするようになり、幸運にも直接手にして見ることが出来た素晴らしい作品の数々、これらの体験は、自分という未熟な者に漫画家への道を諦めさせるに充分であった。林静一さんや花輪さん丸尾さんなどの生原稿を見たら、「俺は絵がうまい」なんて金輪際言えねえ、って(笑)。それだけではない、どれもこれも、「ガロ」の作家さんたちの作品は個性という絶対的な煌きで輝いており、確固たる独自の作家世界を持っていた。眺めているだけでウットリさせられるような素晴らしい絵を描く作家がいる一方、絵や技法の巧拙なんかクソくらえと言わんばかりの作家もたくさんいた。俺は毎日毎日、長井さんに頼んで、手が空いたら原稿を見せてもらった。長井さんはアルバイト当時の俺を漫画家志望の青年と見てくれていたから、勉強しろという意味で快く見せてくれた。ただし、もちろん原稿は丁寧に扱うこと、ほどいた梱包は再び綺麗に梱包し直すことなどを厳命してのことなのは言うまでもない。
漫画を描いたことのない人はピンと来ないかも知れないが、漫画の生原稿というものは、それはそれは美麗なものである。
よく漫画雑誌で皆さんが見ている漫画の画面サイズはB5判が多いと思うが、あれでも通常83%前後に生原稿を縮小して印刷されたものだ。つまり生原稿というものはだいたいB4くらいの用紙に余白をたっぷり取り、版面(はんづら=つまり漫画の外枠までの画面部分)で1.2倍程度の「一枚絵」と思えばいい。この漫画の生原稿、よく書店などで「原画展示中!」なんてことがあるので見たことがある人も多いかと思うが、中には複製原画(生原稿を原稿用紙に一色分解て転写複製したもの)を展示している場合もあるので気をつけたい。あれは線が死んでしまっているが、本当の生原稿というのは、作家の筆致、息遣いが伝わってくるものだ。
世界にたった一枚しか存在せず、しかもそれは描いた本人でさえ100%同じものは二度と再現できないもの、それが漫画の生原稿だ。だから、そう思えばとてもとてもぞんざいには扱えない。たとえ投稿作品であっても、細心の注意をはらって拝見する。それが編集者のマナーだと思う。
こういった徹底的に叩き込まれた…というより学んだものが、今の自分を作っている核心部分だ。俺は「ガロ」に20代の全てを捧げてしまったので、これはもう今後も変わることはないと思う。


ここまでが前置きである(笑)。
さて、拙文「漫画家になりたい人へ」に対したくさんメールをいただいたりコメントをいただいたりした中で、多かった質問や疑問その他にできる範囲でお応えしたい。

「漫画作品の創り方を教えてほしい」つまり漫画は絵と話の両輪であることは判ったし、そう思う。でも絵はある程度学べるが、話作りはどうすればいいのか…。こういった内容の質問が最も多かった。
実はこういう「質問」は、連れ合いであるやまだ紫も、教鞭を執る京都精華大学の学生から質問されることがあるそうだ。
俺としては、漫画という表現を選んだ以上、誰かの真似をするとか、誰かの後塵を拝すような作家を最初から目指す人間はいないはずだと思っているし、そう思いたい。いや、漫画家を目指すなら誰もがまず「他の誰でもない自分という作家」を目指し、そのことを世間に知らしめたいという希望を持っていると、思っていた。違うのか?
漫画表現を学ぶ段階、つまりアマチュアで自分の技法を高めようと勉強している段階では、好きな漫画家や技法に優れた作家の絵なり技法なりを模写する、つまり真似をすることはよくある。それは有効であることも知っている。俺もかつて、そうやってたくさんの作家さんの絵を模写した経験があるから、必要性と同時に難しさも知っているし、個性ある作家さんたちは、その線一本にも個性があることを学んだ。
だが、模写して技法や筆致を学ぶことはあっても、絵柄をそっくりパクることは全く考えなかった。線をどうやって流麗に描くかとか、逆にワザとブラしたりたどたどしく見せたりとか、主線(おもせん=キャラクタなど主要人物を描く線)と背景などの線の描き分けとか、画面構成や白黒のバランスなどなど、とにかく学ぶべきはあくまでも「技法」であり、それを自分のオリジナルな絵の発見や作成に活かすことを目的としていた。
漫画の両輪の一つ、絵に関しては、一般の絵画におけるデッサンや構図、絵筆や絵の具の使い方などといった部分にあたる技法・技術を学ぶことは重要なことだということは認める。だがそれは漫画を描く上で「絶対条件」ではないのだ。
前回の記事でチラと言及したと思うが、例えば絵の巧拙だけで漫画のよしあしを判断されたら、デビュー当時の蛭子能収や川崎ゆきお、渡辺和博といった人たちはどうなっただろうか。事実、メジャー商業誌の世界では、蛭子さんや川崎さんは全く相手にされなかった・叩き落されてきた。あの鴨沢祐仁さんとて、初期の絵柄は上手いとは言えなかった。こんな例は枚挙に暇がない。
メジャーの世界でも失礼を承知で言うが、永井豪、石ノ森章太郎、松本零士各先生のレベルでも、一般的に言うデッサン力や写実的な意味での「絵のうまさ」を評価基準にされていたら…。「漫画絵」としてのうまさと個性、それは誰かに学べるものではない。学んでしまうと逆に似たような絵しか描けなくなってしまう落とし穴にはまる。このことは、巨匠と言われる作家の弟子になりその漫画絵を学んだ作家がその落とし穴にはまる例が多いことを見れば解るだろう。ちなみにその例は先の巨匠に加えて例を挙げるなら、ちばてつや、赤塚不二夫、本宮ひろ志など、挙げればもう本当にキリがない。あれ、この人●●さんにしちゃ絵が下手だな、それにしても似てるな、と思って表紙の名前を見たら別人だった。こんな経験はちょっと幅広く漫画を読んでる人なら誰でも経験があるだろう。
基本的なデッサンや絵画技法を学んだ人は、「一般的な絵の上手さ」を身につけたうえで、自分の絵という個性に加え「漫画絵の上手さ」も身につけないといけないと思う。
例えば最近芸能人が油絵を描いてナントカ展に入選、みたいなニュースをよく見る。そのほとんどが写真をトレスしたかのような写実画だ。つまりああいう絵はある程度「一般的な絵画技法」を学べば、よほど不器用な人間でない限りは誰でも描けるのだ。そう、誰にでも、だ。
写実的な絵を上手い、いや「いい絵だ」と言われてしまったら、絵画など必要ないだろう。
風景を写真を撮影してきて、それをキャンバス大に引き伸ばし、トレスし、油絵の具なり水彩絵の具なりでその上からそっくりになぞれば「作品」の出来上がりである。いや、高解像度で撮影した写真をパソコンに取り込み、油彩か水彩風フィルタをかけるとかして、それをプリントアウトして額装した方がより正確だろう。いやいっそのことその写真そのものを飾ればいい。
写実の礼賛も過ぎると、そういうことになる。芸能人が描く絵のほとんどはコレだ。だから作品としては取るに足らないものばかりと言っていい。
では漫画である。
漫画の場合は、写実というと背景も写真を本当にトレスして使う人がいるが、人間まではそうはいかない。そこで「デフォルメ」が入るわけで、その部分に作家の個性が現れるわけだから、むしろ一般の絵画よりも作家性を評価されるべきなのはそこだ。つまり写真や現実そっくりに描いたとしても、最悪それで作品となる(作品と呼べるかどうかは別として)一枚絵としてのイラストやカートゥーンではなく、ストーリー漫画であれば、さらに作家のオリジナルの「話=ストーリー」が加わって「作品」となるのだ。
漫画絵は一般的に言う絵の上手さ、つまり写実的な絵の上手さを評価されるものではない。ホンモノそっくり、見た目そのままに絵が描けても、「だから?」だ。その上でどんなお話を見せてくれるのか、を問われる。花くまゆうさくのような筆致で、背景などいい加減でほとんど描かれることがなくとも、それでも彼の漫画は面白い。何故面白いのかを考えれば、漫画というものが何であるかが少し解るような気がする。
もう一度言うが、漫画とは絵と話の両輪からなるひとつの表現手段だ。絵の方は基本を学ぶことはいくらでも可能だ。一般的な絵画技法なら、デッサンや構図などいくらでも教えてくれる場所はある。漫画としての絵画技法、つまり変な言い方だけど漫画絵技法は、それらを学ぶ必要はない。学んでもいいが絶対必要条件ではない。漫画絵を描くうえでの基本的な技法とは、漫画原稿作成上での作法、つまり原稿用紙がありそこへ枠線をどうやって引くかとか、ネームというものがあるとかペンの使い方とか線の引き方トーンの貼り方削り方、修正の仕方などなどである。
こういった漫画絵の技法いや「漫画原稿の作成方法」なら、前回述べたように、解説本もたくさん出ているし、ソフトウェアまである。これらをキッチリプロ並かそれ以上に習得したアマチュア=ハイ・アマの数が多いことも述べた。
ではそういった人たちが漫画家と呼べるかと言えば、もちろん否だろう。彼らが確実になれるとすれば、それは「漫画家」ではなく「漫画家のアシスタント」である。

<この項つづく>
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コメント

Unknown

ふむ納得>大筋
てか、フツーに読めばおかしなところはないし。よほどのハリポタ好き、いや静山社好きだったんでしょうなあ、名無しさんはw

なんか

本筋と違うところで盛り上がって(?)ますな。
「静山社」を中小・零細版元の「例外」としてあえて名前を挙げたということの意味は、それはもう一番今解りやすいから、に他なりません。そして()内の記述の意味も、深い意味はないですが、まあ「一読者」さんのご推測のような意味を含んでないとは言いませんよ。
ていうか、静山社さんがハリ・ポタを出すに至る経緯は有名だし何度もマスコミでも取り上げられてるしご自身でも宣伝されてるわけだから、充分承知してます。慈善活動をやられていることも知ってます。さらに言えば、そういうこと=慈善活動というのは巨利を得た者の「当然の義務」であることは、俺の個人的な意見であるのでどうでもいいですが。
で、脱税あるいは税金逃れのための海外への移住ウンヌンって、これまた各種報道でずいぶん公になっていること。で疑惑は疑惑として言ってるわけだし、「疑惑であること」は事実で、「疑惑の内容」が事実であるとは決め付けていません。そんなことはちゃんと文章読んでもらえればお判りでしょうけど。
というわけで、まあ大筋では「一読者」さんが書かれたことが俺の言い分に近いですし、他の読者さんの反応も、そちらが一番多いわけなので、そういうことでご理解いただければ…と思います、はい。

Unknown

> 揚げ足を取るつもりではないのですが

心の中で思っときゃよかったのでわ?論理破綻してまっセ

Unknown

うむ。一読者氏に一票w

二度書きすいません

それと、静山社についての記述はマスコミ各社の報道を元にしているわけだから、単なる「一風評」ではないですね、もちろん。報道されたことが疑惑であり確定はされていなくても、疑惑を疑惑と書いてるんだから、何も、本当に1mmも(w)落ち度なんかないと思いますが。

静山社の件は

あ、読んで書いてる間にダブり気味ですが一応。
名無しさんの言うこともまあ解らんではないですが、要約すると「一読者」さんの言われるようなことになってしまうかと。
白取さんが書かれていることは、むしろ未確定な部分

・社長の松岡さんが日本の税率より低いスイスへ、生活実態がないにも関わらず移住したかのように見せかけていること

を、疑惑は疑惑と断っているわけですから、むしろ静山社へ配慮していると思いますよ、僕が読んでの感想ですけど。
それに、「一読者」さんの書かれた通り、今、この瞬間に「静山社」と書く場合、()内のような注釈がつくのはむしろ普通でしょう。逆にニュースや各種報道であれだけ疑惑が報道された後だし、そういった報道の方がもっともっと「利用者が多い」し「影響力が大きい」んじゃないでしょうか?
そういった報道一つ一つに、「未確定なんだから報道するな」って言いますか?

揚げ足取りじゃないと断って書く場合って、大概揚げ足取りなんだよなあ。
「ハリ・ポタ」の素晴らしさと早いうちから熱意を持って交渉し、翻訳出版権を勝ち取った静山社の卓見について、何ら白取さんは否定もされてないでしょう。むしろあなたの方が
「慈善活動など必ずしも資本主義を優先している」
と全く今回の記述にも文脈にも、あなたご自身の「揚げ足取り」にさえ無関係な記述を書くことで、静山社に個人的な肩入れ、思いいれがあると思われても仕方がないのではないでしょうかねえ。

UNKNOWN殿

1 静山社がハリ・ポタで巨利を得た「零細企業」であることは事実。
2 社長がスイスに移住したのも事実。(実際は住民登録はしたが生活実態はないのでは、と国税庁に疑われているが、今回はそのこと事態はあくまで疑惑なので書かれていない。)
3 それが税金逃れではないかと指摘されているのも事実(つまり「疑惑」とちゃんと書いてあるから、その疑惑があることがすなわち「事実」。

1 はほとんどの中小・零細出版社が一握りの大手版元の寡占状況にあるという記述の例外として、今取り上げることはむしろタイムリーであり、問題がないどころか正しい選択だと思う。

さて2と3をそこへ付加することだけど、2は事実のみを書いたので問題なく、3も疑惑を疑惑と断っているので何ら責められることではない。
なぜ2と3を敢えて、つまり()内に白取さんがわざわざ記述したかという意味を読み取る必要がある。
白取さんは文脈とこれまでの記事から、こうした一部大手版元による寡占状況をある意味憂いておられることが汲み取れる。従って、庇うべき、あるいはもっと頑張れという意味で零細・中小版元の側に立っていると思う、これは白取さんご自身が零細版元にいてご苦労されたことから。
で、静山社は「企業規模」は零細であるけれども、莫大な利益をあげている「稀有な例外」の例として出したわけで、結局そういうところにはこうしたスキャンダルが付きまとうのだ、ということを述べているのではないかと読むべきだろう。

あなたの書いたコメントは、結局あなた自身が書かれているように、単なる「揚げ足取り」に過ぎませんね。
「ハリ・ポタ」ファンなんで、その版元の悪口・・・いや悪口ですらない客観的冷静な「報道記事」レベルの記述でも腹が立つ、そういうメンタリズムが伺えるよ。
あんまり生半可なこと書かない方がいいと思うよ、ここけっこうちゃんとした人が読んでるからね(w)
あとせめて匿名にしても名前かけ。あなたがまず最低限のマナーを守れなくて、どうする?

Unknown

揚げ足を取るつもりではないのですが
>(あの「ハリ・ポタ」の日本版翻訳出版で巨利を得た版元、社長はスイスに移住も税金対策との疑惑)
の「スイスに移住も税金対策との疑惑」で気になったことがあるので書かせていただきます。
このようなことは今回の件とは関係ないのにもかかわらず、わざわざ確証していないことを書く必要はあるのでしょうか。
静山社はもともと夫がなくなられた状態の松岡さんが厳しい経営状況の中、
イギリスでハリーポッターの人気・おもしろさを知り、
交渉を重ねた結果日本語訳の版権を許可されたという経緯があります。
他にも慈善活動など必ずしも資本主義を優先しているように頬も割れないというのは私の個人的な意見なので無視してくださっても構いませんが、
このように利用者の多い、しかも発言力の強い(漫画化志望の人にはとりわけ)ブログで、
一風評(私にもそれが事実であるかどうか判断しかねますが)をあげるのは若干哀しいものを感じました。
内容が素晴らしいだけになおのこと。
もちろん、静山社を「零細版元」の例に使ったり、その風評自体をテーマとして検証してみることは問題ないのですが。

おっさん

昔、文学作品を原作に、ある程度大人を相手に良質の漫画を提供する…みたいなコンセプトで某版元が新雑誌を創刊したことがあるんですよね。でも結局売れなくて、中綴じのフツーの青年誌にリニューアルされて、結局特色を失いその他大勢の競争に負けて、消えました。
「おっさん向け」というよりは、「ガチャガチャした少年漫画の延長作品を楽しむ大人」以外の、大人向けの落ち着いた漫画雑誌はないもんですかね。ビッグコミック系だと時代劇とか大御所に傾くんで、なんかこう違うな、という感じを持ってる人も多いと思いますねえ。

うらやましいです

>林静一さんや花輪さん丸尾さんなどの生原稿
す、凄すぎます・・・確かに、生半可な人なら漫画家への道を即、諦めることでしょうね。あ、いや、白取さんの漫画家志望の熱意が生半可だったという意味はじゃなくて。
しかしそれによって編集になられたということは、僕らにとっては幸いだったということにもなりますね。
僕もけっこう「漫画読み」だったですが、近頃はだんだん読める雑誌が少なくなってきてるような気がします。おっさんになってきたからかな。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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