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2006-09-14(Thu)

漫画家になりたい人へ 3

…整理すると、
・一般的な絵画技法をいくら学んでも漫画は描けない。
・その上で漫画絵の絵画技法や漫画原稿の作成方法を学べば、アシスタントにはなれる。
・漫画家となるには、個性ある絵に加え、話を作り出す力がなければならない。

ということになるだろうか。

『ゴルゴ13』で有名な、と枕詞をつけるまでもなく有名な漫画家であるさいとう・たかをさんは、日本ではじめて漫画をプロダクション制作したことで有名な作家だ。さいとうさんにはインタビューさせていただいたことがあるし、色々なところでご本人が公言されているように、さいとうさんがデビューされた50年前は漫画とは一人で作るものであるという意識が業界でも支配的で常識であった。さいとうさんは漫画は一人でやる仕事ではないと最初から考え、分業制を当初から主張し実践した。さいとうさんご自身は、漫画、というより自分が作るのは劇画であるから、映画を原作・脚本・監督、美術や考証、役者たちが集団で作っていくのと同じだというお考えである。だから「ドラマ(ストーリー)作りのうまい人と絵のうまい人が合体すべき」(さいとう氏談)ということだ。俺がお話を伺ったのはもう十年前のことで、その際さいとうさんは俺が「ガロ」の編集をやっていたと知ると世間話で
「実はね、漫画の作り方という部分では長井さんとやりあったことがあるんですよ」
と話された。実際に「やりあった」というよりは、漫画というものへの考え方で食い違ったという意味だと思う。どういうことかといと、さいとうさんは前記の通り、漫画は分業の方がいいものが出来るという考え。長井さんは漫画とは絵と話の両輪であり、それを作家が一人で作り出すところに作家性があるのだという考え。この二つが対立するように見えた、ということだ。
だがさいとうさんは、「我々の世界は劇画。ガロは『純マンガ』ですからね」と語った。
プロダクション体制で、たくさんの人が専業的に一つの作品に関わり、作り上げていくのは商業的な漫画制作の場ではもはや常識中の常識だ。だからさいとうさんが正しくて、長井さんが間違っているということでは決してなく、もう一方で、一人の作家が頭の中でお話を作り、それを絵で描き、漫画という作品に結実させることが出来るのも、また漫画である。
商業的な漫画家として成功するということはどういうことかというと、もちろん「売れる」ことである。売れるということは物量的にたくさん作品を売ることに他ならない。今の漫画業界でそうするためには、まずそれなりの部数を誇る月刊誌なり週刊誌なりで連載をし、そこである程度の人気を得て、単行本化される際に一定の部数を刷ってもらい、版元の宣伝などのバックアップを得なければ「物量的に多く売る」ことは出来ない。もっと言えば、その先にゲームやアニメ化、映画化やキャラクタ商品展開などがあれば、大成功だろう。それにはさらにテレビや広告代理店などが介入してくる。
こうした「成功」をするための第一歩は、自分の作品をとにかくたくさん露出させることだ。それは週刊連載のようにたくさん、という意味と、複数の雑誌や媒体にたくさん、という二つの意味があるけれども、いずれにしても一人では不可能である。
漫画がいくら、たった一人の頭の中という無の世界から、作品という有を産み出し、たくさんの人を楽しませるものであると言っても、商業的な成功を収めることは一人では難しい。
もちろん、物量的にたくさん売った=商業的に成功した作品が必ずしも優れた作品であるかは別問題だ。何度も述べてきているが、これまで単行本が数十万、数百万部と売れた作品はけっこうな数あれど、その全てが漫画史に名を刻むべきものであるかというと疑問な作品も多い。逆に、「ガロ」系で言うと、楠勝平作品のようにわずか数千部しか出ていなかった作品でも、何十年経とうが読む者を感動させ、語り継がれる作品がたくさんある。
もちろん何をして名作と言うかという定義は難しい。
自分としては、やはり他の誰でもない、その人というオリジナリティある絵時代が変わろうとも、面白さの本質が変わらず評価される作品であり、もっと言えばそのジャンルを切り拓いたその人であること…名作ってこういうことじゃないかな、と。思いつきだけど。
昔から、「ガロ」からの自分には一つのイメージがある。
広い草原の真ん中に広場があって、その周囲360度には草が目よりも上の高さにぼうぼうと生えてる。
真正面には、割りと広く刈り込まれた道が続いている。そこは「王道」であり、最初は細い道だったが、何人かが同時に横並びで草をバッサバッサと切り進んで行き、その後を続いたたくさんに人たちによって踏み固められて整地され、今でもそこへ向かう人がゾロゾロとひっきりなしにたくさんの数がいる。
王道の脇には小道がいくつか出来ていて、そこは王道ほどではないがけっこう広いものもある。そこへもけっこうな数が三々五々、入っていく。
見渡すと、背後にはけもの道のような細い、道とも言えぬ筋のようなものがある。目を凝らすと何本かあり、ほとんど人が続いて入っていった形跡はない。だがそのけもの道はよく見ると数十〜数百はあるようにも見える。中には誰も後を続かなかったせいか、消えてしまったものもある。
…もうお気づきかも知れないが、王道とは「マス」のコミックの世界だ。つまり横一線で道を広くし後続へ繋げ今に至っている人たちは、トキワ荘世代だったりするわけだ。背後のけもの道は「ガロ」の作家が踏み入った道だ。例えば根本敬さんの場合はデビュー時から、いきなり一人でわっさわっさと草を刈り、どんどん道を勝手に突き進んで行った。刈り込んで行ったら川があったり落とし穴があったりするかも知れないし、獣が出るかも知れないのだが、お構いなしだ。自分は担当当時、そういう感じで根本さんを見ていた。ちなみにその道の後には数人が続いたが、みな途中で引き返して違う道へ入っていくか力尽き、今では付いていく人さえいない。
他の誰でもない自分という作家の表現。絵も話もそれが出来れば言うことはないが、両方は難しい。絵はそこそこだが、バツグンに話が面白いとか、話は面白いが絵が下手とか、そのレベルや落差の上下・組み合わせが無限にあると思う。絵は人の真似、並べられても名前さえ判別できない「あるある絵柄」でその上オリジナリティはなく三文芝居というパターンが最悪なのは言うまでもないが。

漫画表現の場を「漫画を描く」というように、みなやはり連想するのは「絵を描いている」という場面になるだろう。本来絵と話の融合のかたちが漫画であるはずなのに、どうも絵の方ばかりに目が行ってしまうのは仕方がないことかも知れないものの、物足りない気がする。話を戻すが、漫画において絵を学ぶことは、絶対必要条件ではないと言った。
ヘタうまという言葉があるように、一般的な絵の巧拙という評価は、漫画絵の巧拙と合致しない。いつだったか、「まんだらけ」の古川さんに原稿を取りに伺ったとき、「まんだらけ」店内である某大御所先生の大きなイラストボードに描かれたカラー絵を見たことがある。…一般的な絵画技法の評価で言うと、上手ではなかった。誤解や批判を恐れずに言う。ビミョーだった。先日ある媒体に、少女漫画の某大御所先生が猫のカラー一枚絵を掲載されていた。やはり…だった。
だが、どちらの先生も、漫画家としての「漫画絵」の上手さとオリジナリティは誰もが認めるところだろう。某先生のキャラクターはデッサンと遠近法が狂っていて、首から肩のラインは不自然で、走っているのを正面から見たところの絵柄ながら、もしその人物を横から見たら、不自然にお腹だけが後方に突き出され、顔と足先が「く」の字の逆に前方に突出しているという体制になるだろう。でも、漫画絵としては誰が見ても見事な、某大御所先生の作品であった。
少女漫画の大御所先生の猫の絵は、まず猫の体が全く猫に見えず(狸や兎にも見えないが)、背景に組み合わされた色と花の配置と色彩感覚はかなり下品なものに見えた。すいません。本当にすいません。でも、漫画絵としての巧拙は別であり、その先生の「漫画家としての」評価は何ら下がるものではない。
こういった感覚は絵なり漫画絵なりを描いたことのない人には解り辛いものかも知れない。だけど少なくともプロの編集者ならすぐに理解してもらえるものだと思う。

漫画家になるにはどうしたらいいか、絵はある程度学べるとして話はどうするのか、という質問の答え。
てめえで考えろ。
そういうことです。
あ、怒らないで下さい(笑)、真面目に答えているので。
例えば小説家になりたいという人が、日本語の文法や漢字、てにおはや基本的な作文の作法を教わる。ていうかそんなん義務教育で習ってきている。そして紙とエンピツあるいは万年筆を持つ。あとはどうしますか? 頭の中からひねり出すでしょう。
例えば漫画家になりたいという人が、基本的な絵画技法を学ぶ。その上で漫画絵の技法を学ぶ。これらは必須ではないので、別にいきなりでもいいです。あとはどうしますか?
まず頭の中でストーリーを作り、そして紙とエンピツで下書きをして(しなくてもいい)、ペン入れをしていくでしょう。「頭の中からひねりだす」部分を、誰かに教わるのでしょうか? そこまで仮に誰かに教わったとしたら、あなたはあなたである意味があるのでしょうか? 他の誰でもない自分という作家を外に出したいという、その作家性の発露であるところの「漫画作品」を、なぜ、自分で作りたいと、思わないのでしょうか?
…そうはいっても、言いたいことは解ります。じゃあどうすりゃいいのさこのわたし、と。
だがお話のひねり出し方なんて、ない。それは、前回述べたように
「いい小説いっぱい読んで、いい音楽いっぱい聞いて、いい映画いっぱい観な」(長井勝一談)
に尽きるからだ。自分も経験したから敢えて言うけれども、ジャンルを問わずいい作品=表現に触れた後は、自分も表現をしたくなる。必ず、そうしたくなる。その手段がたまたま漫画というものを自分が選択したのなら、それを作品という形に昇華させればいい。そうして、その発露のまま、どんどん作品を作っていくべきだ。四の五の言ってる時間があったらどんどん作品を作る。それを一年やってみて、一年前の作品を見てみる。たぶん恥ずかしくて発狂しそうになるはずだ、だがそれが成長している証だ。俺もそうだった。
もう一つ言えば、自分以外の他人の客観的な評価を恐れずに、むしろ積極的に聞くべきだろう。信頼できる「漫画読み」に評価してもらえればそれが一番いいが、その環境になくとも、アマチュアの漫画読みならたくさん、周囲にいるだろう。

こういうことを言うと、では京都精華大学のマンガ学部のような試みは無駄なのかと言われる。何をおっしゃいますやら。大学というアカデミズムの場で、よりにもよってマンガを学べるなんて、何という幸福なことだろうかと俺は思う。俺が18歳当時だったら迷わず受ける。誰がなんと言おうと受ける。そうして必ず受かる。受かって通う。一日も休まずに通う。講師陣に疎まれてもつきまとう。問い詰める、食い下がる。嫌がられても作品を見せる。見てもらい、感想を聞く。それを何度も何度も繰り返す。感想だけでなく色んな話をしてもらう。とにかく何かを吸収しようと傍に行く。俺ならそうする。もう遅いけど。
プラトンが開設した「アカデメイア」の時代から、優れた先達の元に集まった若者たちが、先達と討論しその哲学や思想に触れ、それを自分なりにどう熟成させ新たなものを産み出していくかというのが、大学という場じゃなかったのか。違うか。
大学でマンガを教えてくれるということは、一般的な絵画技法に加えて漫画を描く上での作法や技法を実技で、出版や漫画業界の歴史・知識などを座学で教えてくれるだけではない。優れた作家さんたちが講師として名を連ねているのだから、学べば誰でも身につく技法や知識だけではなく、業界で何十年も生活している、先達としての作家さんと生で接することによって得られるものは、何ものにも代えがたいものじゃないか。
例えばストーリーマンガ学科ではマスのコミックの世界では竹宮惠子、(さいとう・たかを先生の言う)純マンガという世界からはやまだ紫という作家と、教授と学生という関係を築けるのだ! こんな幸福な大学が他にあるのだろうか、そして老婆心ながら俺が一番心配なのは、その重要な意味を、学生がどれだけ理解しているのかということだ。
とかく世の中は情報化社会と言われるようになって久しく、情報だけはいくらでも、いつでも手に入る時代ではある。それらをいくら収集し蓄積しても、本人の教養にはならないから、そこからオリジナルな何かを生み出すのは難しい。では優れた表現に触れようにも、今度はそれらを紹介してくれる「情報」を求める。「いい作品にいっぱい触れろと言われても、何を読んだらいいのか」ってオイ。探せよ自分で。そうすれば必ず手に入るよ。むしろ、他人の価値基準に頼らず、自分の感性を磨く努力をしろ、ということだ。

他人の価値基準ということで言えば、政治家の中には漫画やアニメオタクにおもねる向きがまたぞろ、出てきている。別に人気取りでもいいが、とりあえず、漫画を、漫画という表現を愛している者しか、漫画には関わらないで欲しい。仕事だからとか、漫画をコンテンツだの商品だのと言ってはばからない連中はひっこんでろと言いたい。

<この項つづく>
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コメント

どうもどうも

「4」をアップしました。
メジャーとマイナー(?)というか純マンガという部分がピンと来ない人が多いようでしたので重点的に。
あとガロのマイナー・アングラ・ダウナーもっと言えば芸術気取りとかニヒリスティックとかまあ色々な「イメージ」が、実際にこうなんだと知れば自分で新たな認識を形成できるものの、今現在その手段がほとんどないというのは寂しいですね。
矢口高雄さんは純粋なガロデビュー作家さんで、マス&ドメジャーな世界でも大家という貴重なご存在ですね。
全然関係ありませんが、今年いただいた矢口先生直筆の残暑見舞いのハガキは宝物であります!

いわゆる「ガロ」

ガロと言うと、どちらかといえばダウナー系というかアングラ系なイメージがあったのですが、矢口高雄がガロ系と聞いて驚いたことがあります。

はじめまして。

某サイトで紹介されていたので、最初から読ませていただきました。
たしかに、技術的なことを説明する本やホームページは、たくさんあるんですが、精神的な部分を、こういう風に教えてくれるところは少ないので、勉強になりました。
とても面白かったのですが、メジャーな漫画の現場ではどうかっていうか、理想と現実のギャップみたいなものって、やっぱりあるんでしょうか。つづきに期待しています。

Unknown

>話の創り方も分からないような奴が、漫画描こうなんざちゃんちゃらおかしいってことですかな?

日本語読解力が足りねえのか、本当に話の作り方がわからなくて半ナキになってるオタかどっちかだろうね。
文章の読み方も分からないような奴が、コメント書こうなんざちゃんちゃらおかしいってことですな。

Unknown

違うだろ↑
ちゃんと読めよ。漏れはナルホドなあ、と思ったよ。
ま、こういうバカには何言っても無駄でしょうがね。

Unknown

話の創り方も分からないような奴が、漫画描こうなんざちゃんちゃらおかしいってことですかな?

興味深い記事をありがとうございます。

興味

大変興味もって読ませていただきました。これからもがんばってください。

皆さんどうも

メールなどでも、たくさんコメントや感想、ありがとうございます。ご質問などは今後の文章でお答えしていくとして、とりいそぎ御礼まで。

名作

いつもながら、検査御疲れ様でした。御変わりないと伺い安心致しております。

名作の定義についてですが、一人一人にとってかけがえのない名作があるのではないでしょうか。

私にとっての名作の中には、赤塚不二夫先生のような超「名人」の作品と並んで、プロでない方が描かれたものもあります。

こう言うとかえって失礼かもしれませんが、例えば、このブログにもコメントをされているローリングクレイドルさんが4コマガロに投稿されたまんが。「死ぬのが怖いよ」と泣いている”ようじょ”に”お兄ちゃん”が「おとなになると生きていることのほうが怖くなるんだよ」と語る件、あれを読んだときはわたくしの心の琴線どころか心のフェンダーのストラトキャスターをジミヘンにかき鳴らされたような気が致しました。

白取様が「日本人の民度」などで鋭くまた的確に論評されておられる状況下、日本人でいてうれしいことってあんまり無いんだけど、「こんなにたくさん漫画があるところに生まれて良かった」とはつくづく思うのでした。

名作の定義

厳しいですね。。。。
あたりまえの娯楽漫画みたいなものは消費物でしかないのかというか。。。でもまあ漫画ってそういう側面もあるしなあ。。。
いろいろ考えさせられました。

前回から拝読しております。

はじめまして、いつも面白く、拝見させていただいております。
いろいろと知らない分野の記述が多く、勉強になるところもあり、ブックマークさせていたいております。
ところで、
>優れた表現に触れようにも、今度はそれらを紹介してくれる「情報」を求める。
という部分ですが、自分のような田舎に住む人間で、交際範囲も限られているような場合、やはり情報誌やネットに頼る部分が多く、その場合にはどうしても自分の眼力だけで見つけるのは非常に困難な作業です。
やっぱり、どうしたらいいんでしょうか、、、と質問させていただくしかないように思えるのですが。
記事はつづくとのことですので、次回以降にでも、どこかでお教えいただけると幸甚です。
最後に、お体、くれぐれもお大事にお気をつけください。

麻生大臣

心から愛しはいつつも、政治的に利用=パフォーマンスに利用する場合はどうしましょうw
でも政府や役人や政治家には介入してほしくはないですなあ。

麻生大臣

漫画を心から愛してるんなら問題ないでしょう(笑)。

Unknown

麻生大臣は漫画好きだと聞いているが。

さっそくどうも!

>ももんがさん
読み手の側ってお金を払って読みたい作品を買うんですから、個人の趣味趣向で選べばいいんですよ。俺たち編集者とて、個人的な趣味で読むものは全くの「好き嫌い」で選ぶし。それを仕事に持ち込まないだけ、です。ただ作品を創る側、送り出すのを手助けする編集者が仕事になると話は別ですよね。
しかし実際には、これだけ大量に溢れる漫画を全方位でフォローするのはもう、誰にも不可能でしょう。

>ハロルドさん
竹宮恵子先生のお名前は正しくは「惠子」、惠の字にご注意を。
精華大の教諭陣の顔ぶれって実は凄いんですよね。竹宮、やまだ、さそうって…すげぇ!の一語につきますな。俺も20年若かったらなあ(笑)。いやマジで。

確かに

竹宮恵子&やまだ紫という教授陣はすごい!と思います。でも学生さんたち、そのすごさってホントにわかってるんですかね?白取さん同様、気になりマス・・・
精華大のHPみました。他の先生方もすごすぎます。さそうあきらさんなんか自分大ファンですし!あーあと十年、いやせめて5年若かったらなあ。

はじめまして。

前回の記事から読ませていただきました。
わたしとしては、これまでいかにマス、メジャーのコミックしか読んでこなかったか、、というのを思い知らされたかんじでした。でも読者ってそういうものかも。
わたしのともだちにはコミックをすきなだけでなく、じっさいに書いてる人も多いんですけど、みんなそういえば似たような絵ばかりのように見えますね。話のほうも、パロディが多くて、モトネタを知らないとそもそも読むことさえできないというか。そういう人とか見てると、やっぱり世界がせまいんだな、って思っちゃいますね。自分もそうなんですけど、興味の範囲がすごく狭いというか。
読むほうはそれでいいんですけど、書くがわってそんなんでいいんだろうか。。。って思います。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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