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2006-09-19(Tue)

漫画家になりたい人へ 4

直リンクで来られた方はお手数ですが下記記事をご覧になってから、お読みください。
漫画家になりたい人へ
漫画家になりたい人へ 2
漫画家になりたい人へ 3

<例によって長い前書き>
●この一連の記事…というか「考察」は、自分がかつては漫画家志望であった頃から編集者になって今に至る、その過程で熟成されたものである。なので、あくまでも個人的な思いであることは言うまでもない。正直なところ、世間的にはかなり深刻な病気を宣告されてしまった身なので、ある意味後に続く人たちへの「遺言」である…と思ってもらってもいい。まあそんなにサックリ死んでいく気はないが。
漫画というとマス、メジャーの王道的な部分だけにどうしてもスポットが当たって語られることが多い。実際物量的には圧倒的にそういった部分が占めているから仕方がないのかも知れない。けれど漫画というのはもっと幅広く奥が深い表現であると思うし、世間的にはほとんど認知されていないものにだって、それはそれは名作が数え切れぬくらい存在していることは言うまでもないこと。そういった部分も含めて「漫画」なのだという当り前のことを、もっと当たり前に知ってもらいたいだけだと思う。
さて反響もたくさんいただいて感謝しきりなのだけど、どうも俺がモノを言うことを快く思わない勢力があるようだ(笑)。あの手この手で嫌がらせをしてくるので閉口するが、俺は自分が好きで関わることになって、今も好きな漫画というものについて語っているだけだよ。それは、ある同業の人からのメールがきっかけだった。ちょこっと引用させてもらいます。
(@@前略@@)
久しぶりです。最近ちょっと元気が出てきたみたいで、安心しています。
(@@中略@@)白取さんが癌という病気になってから、BLOGで拝見するにつれ、どうにも僕が知っている白取さんとは違ってきたなと。非礼を承知で言うのだけれど、白取さんらしくないと思いました。
もちろん、大変な病気に侵され日々不安と戦いながら生きるだけで、これはじゅうぶん過酷なことと了解しています。でも、白取さんなら、きっと復活して、また、BLOGなりでさまざまな事象を独特の視点で斬ってくれるのだと思っていました。
でも、卑近な病気のことばかりになってませんでしたか。気持ちまでもが内側へ向いて、病気と闘う前に自分に負けそうになってませんでしたか。非礼を承知で言わせてもらいました。
白取さんのようなガロイズムをきっちりと継承し続けている編集者が、今の時代だからこそ、いや今後も、必要なんです。
口先だけでかっこいいことを言ったりやったりする奴らはたくさんいます。いつの時代でもお調子者なんかは出ては消えていきます。●(伏字・白取)さんたちとて、そのスタートで重大な思い違いと犯罪的行為を多々、犯してきて、無反省のままですよね? 彼らにガロの後継を名乗る資格はないはずですよね? それは、長井さんが何より人と人とのつながりを大切にした人だからだし、そのことは、白取さんが常に訴えてきたことでしょう。
できれば教壇に復帰して欲しいし、もっと言えば編集の現場にも戻って欲しい。でもそれが出来ないならBLOGという手段でもいい、あなたは発信し続けるべきです。
同じことでも、同じものでも、あなたの視点や意見をきっと求めている人がいるはずです。それも少なからず、いるのです。だから、一年経過した今からでも、区切りをつけませんか。外へまた、向かいましょうよ。
(@@後略@@)

…こういうメールをいただいたのは、昨年の癌宣告・入院からほぼ一年が経ち、41回目の誕生日を無事に自宅で迎えることが出来た前後のこと。カッコつける気はさらさらない。治る見込みも治す方法もない、病気がいつ暴れ出すのかも分からない、いやそもそも癌細胞のタイプから病名の特定さえ出来ていない。こういったことを「宣告」されて、不安にならない人間はいないと思う。自分はけっこう気持ちが強い人間だと自覚していたのに、それでも、やっぱり死ぬことは怖く、連れ合いを遺して逝くことが想像しただけでこれほど辛いことだとは思わなかった。
なので、この一年は正直言って世間のことへ目を向ける余裕があまりなかった。そりゃあ日常、テレビを見たりニュースを読むことはあったが、他人のことなどどうでも良かった。自分がまず、生きる、生きたいということが常に一番大きな問題だった。
一年の間にたくさんの人たちからメールやハガキやお手紙を、あるいは直接の励ましを多数いただいた。身内や友人、知り合いなら、病気のことを知れば励ましてくれるのはある意味、当り前なのかも知れない。だが、俺がかつて編集をしていた「ガロ」時代の読者や、ネットでのつながりの方々など、顔も知らないたくさんの人が情報をくれ、励まし、支えてくださったことには、あまりの有難さに感謝の言葉もないほどである。
なので、自分が関わった「ガロ」も含め、今度は俺が漫画という表現を愛する者の一人として、少しでも何かのお役にたって行けたら、という思いでこうした記事を続けているだけだ。

…さて、初回の記事からたくさんいただいているコメントやメールなどについて考えて行きます。
●さいとう・たかを氏が言う「劇画」と、「純マンガ」の違いがよく分かりません。
これは各々の定義づけと明確な分類が難しいので、どうしてもある程度感覚的なものにならざるを得ないというのが、正直なところです。
劇画というのはもちろん、さいとう・たかを、佐藤まさあき、桜井昌一らが結成した「漫画集団」が提唱していた「新漫画」という名称を、1959年に「漫画集団」メンバーであった辰巳ヨシヒロが「劇画」に統一し「劇画工房」が誕生したことによるもの…というのが漫画史的には定説となっている。さいとうさんによると劇画はそれまでの「王道」的漫画つまり子供向けの漫画に対し、大人が読むに耐え得るものを作ろうということで生まれたものだった。
50年代といえば、まだまだ漫画という表現の幅は狭く、また世間一般の漫画というものへの印象・認識も極めて狭いものであった。そんな状況の中で意識的に生まれた「劇画」は「大人向け」ゆえ、絵にもストーリーにも、当然ある程度のリアリティが求められた。その上ある程度の枚数をこなすには、当然一人で全ての工程を担当することは至難の業となる。繰り返すが、これは1950年代という時代を考慮して考えて欲しい。今なら大人向けだろうが子供向けだろうが、漫画は漫画。これだけ漫画という表現の幅も拡大し、さらに漫画というものへの固定概念も崩れた時代、「リアリティ」を絵…例えば背景の書き込みや人物の造形・描写だけへ求めることはナンセンスであることは言うまでもなかろう。だが、話は半世紀前に遡る。
そうして始まった、いやさいとうさんが始めた「プロダクション(分業)制」による漫画制作は、その後漫画制作の現場では常識となる。もちろん、だからといって全ての漫画家がプロダクション制を敷いたわけではないし、分業制が漫画表現にとって最良の方法であるということではない。「たくさん描く」ことによって「たくさん売る」ためには、どうしても人の手を借りぬことには物理的に不可能であり、たくさん描かねばプロダクション制は維持できない。つまり、当初のスタート時の事情はともかくとして、「劇画だから」ではなく、「マス(あるいはメジャー)の漫画」であるためには分業をとらねば物理的に無理だという側面が今、ある。
対して「純マンガ」だが、これは恐らくさいとうさんがこうしたマス・メジャーの漫画から見た「ガロ」などの非メジャーの漫画を指して「純文学」になぞらえて評した言葉だろう。恐らく、というかさいとうさんは実際そういうニュアンスで目の前で語られたから、まあ間違いのないことだと思う。
ここで言う「劇画」を、とりあえず商業漫画と置き換えると、純マンガとの違いがおぼろげにながら浮き上がって来るだろう。商業漫画とはすなわち作家が原稿料という対価を受け取って、その代わりに原稿料を払う側=出版社(版元)のある程度の注文なり意向を反映させて作品を作ることに他ならない。原稿料を払う、しかし作家の好きなように自由に何でも描いていい…という版元はまず、ない。(一部の大御所や、超売れっ子になるとそれに近い状態に祭り上げられることがたまにあるけど)
「純マンガ」とは、では非商業漫画であり、つまりは対価である原稿料を受け取らない代わりに自由な表現が許される…となると、それは同人誌に掲載される同人漫画ではないか、という誤解を受ける。まあある意味同人漫画は純マンガ(そこに売れたいとか儲けたいとかいう邪念(笑)が入らなければ?)だろうけれども、さいとうさんが言う「純マンガ」は「ガロ」という「商業誌」を指している。では「ガロ」、「ガロ系」と呼ばれる「純マンガ」って何だ? という話になる。
「ガロ」の詳しい話は拙文
やっぱり"GARO"から始めたい(米国「PULP」誌連載コラムより)とか
日本のサブカルチャーを考えるとか、あるいは
ガロ 雑誌 - Wikipediaなんかを読んでもらえればだいたいの、概略は解ろう。詳しい作家や作品を見るにはローリングクレイドルさんのYellowTearDrops内、左メニューから「Garo chronicle」を選んで見ていただければと思う。

…そんなわけで「ガロ」は原稿料が出ない(出せなくなった)商業漫画誌という極めて特殊な存在であったが、作家さんにとっては、自分が純粋に描きたい作品を発表できる場でもあった。もちろん、純粋な創作発表の場としてだけではなく、プロの編集者も数多くウォッチしていた雑誌だったから、プロモーション的にも使おうと思えば使えたわけで、その先に原稿料を貰う仕事=商業漫画を見据えて作品を作ることも出来たが。
普通一般の商業誌…それが大手でも中小であっても、「ガロ」であっても、漫画家さんには必ず「担当編集者」という存在がつく。この存在が一般の読者諸兄には解りにくいのかも知れないけれども、何をするかというと、一般商業誌の場合は簡単に言えば作家と連絡を取り合い原稿のやり取り全般をするということだ。だがこの原稿についてのやり取りは、何日までに何ページをあげてくれ、というだけではガキの使いでも出来る。ファクス一枚でも今ならメールでもいいだろう。プロの編集者というのは、原稿を取る仕事というより、作家から「完成原稿を貰うまで」の詰めが大きなウエイトを占める仕事だと言ってもいい。(もちろん、その他にも膨大な仕事があるが)
作家は作品を仕上げるまでに、頭の中で発想を得、それを話に構成して行く工程で、キャラクタをつくり、台詞や背景、設定を考え、ある程度固まった段階で「ネーム」というものを作る。その前段階に「プロット」というものを作る人もいる。プロットというのは構想〜脚色・筋立といった意味だが、漫画の場合は「ストーリーのあらまし」といった程度の意味だ。ネームは何かというと、このプロットからもう少し漫画という表現に近づけたもので、下書きぽい絵が入ったり、コマ割が大雑把にされて台詞がフキダシで入れられたりする場合も多い。
このプロットやネームという段階に、これといった決まりはない。なのでこの2つの段階…というか段階という序列にならない場合も多い…が入り混じる場合も多い。プロットは多くの場合、ノートなどにざーっと書かれた文章の場合が多く、そこの余白に思いついた単語や台詞、設定や簡単なイラストが添えられていたりする。だがいきなりネームから始めて、その余白などへプロットが書かれていることもある。もっと言えば、プロットやネームを作らない人もいる。
商業出版界の編集者は、ともかく、こうした「実際に漫画原稿制作にとりかかる前段階」に、かなり濃密に作家と作品に関わることになる。編集者は出版社を背負っている。出版社は読者のニーズや意見を背負っている。つまり編集者の背後にはたくさんの見えない読者がいると思うと、作家はやはりプレッシャーを感じるという。単に、原稿料とお仕事をくれる(版元から来ている)編集者だから緊張するのではなく、その背後に読者があるという意識が、作家を緊張させるのだ。
ここで編集者は、漫画を原稿用紙に描く=仕上げるという、修正が難しい工程に入る前に介入するのである。この介入という意味はもちろん、より良い作品にするためという意味だ。そしてややこしいがここでいう「より良い作品」とはすなわち「より読者のニーズに合う作品」であり、とりもなおさず「よりたくさん売れる作品」にするためということに他ならない。奇麗事ではなく、商業誌というのはそういう世界である。
「ガロ」などの(さいとうさん曰く)「純マンガ」の世界でも、編集者はプロットやネームを見る。もっと前に「こんな作品を描きたい」とか「こんな話を思いついたんだけど」というような段階からでも、意見を聞かれれば答える。商業誌と違うのは、読者のニーズを考えはするが、自分が優先したのは作家がこう描きたい、こういう作品を創りたい、という部分だというところだろう。
もちろん、自分のような「ガロ」の編集者とて、その作家さんに最終的には売れてもらいたい。いや、売れてもらいたいというよりは、その作家さんが世間に認めてもらえるようになって欲しいと思う。
作家さんが描きたいことが 世間に認められ=読者に支持され 結果的に作品が売れる
という道筋が、俺にとっては当り前の作家さんが売れるという道筋であった。これを
読者に支持されるように描かせ それを物量で世間に認めさせ 結果的に作品が売れる
と置き換えると、商業誌との違いが解りやすいかも知れない。
俺は、作家さんに原稿料を支払える媒体にいなかった。なので生活を支えることは出来なかったから、せめて好きなように作品を描いてもらいたかった。でも、それを突き進めていけばいくほど、その作家さんは漫画では生活が出来ないわけだから、結局は商業誌に認めてもらい、嫌な言い方かも知れないが、引き抜いてもらわなければならない。我々はホンットに少なかったとはいえ、給料を貰って仕事をしていたのだから、ボランティアではない。しかし作家さんは無償で作品を描いている。だからその作家さんが世間にキチンと評価される、作品が売れる、その作家さんの生活が楽になる…ということを望まないわけがなかった。いや、これは本当に正直な話、いつも願っていた。
心ある編集者なら誰でも、
作家が100%自分の創りたい作品を描くこと

より多くの読者に評価され作品が売れること
が同じであるように願う、そしてそれが多くの場合は一致しないことに悩むものだと思う。

自分の場合、いつもこのジレンマに苦しんでいたと思う。

例えば根本敬さんが「精子がそのまんま大きくなってこれこれこういう展開になる話を描きたい」と、そう、あの名作『タケオの世界』の構想を仕事場近くの喫茶店で、俺に話す。それはそれは生き生きと楽しそうに、オチまでを語ってくださる。根本さんの場合、作品の着想は極めてシンプルで、それをストーリー化していく際も、プロットなど数行で済んでしまうようなものだ。だが、それが実際に作品として作られて行く過程で、人物描写も話の展開にも細かなディテールが肉付けされ、場合によってはサイドストーリーが展開され付加され、やがて壮大な叙事詩のような重厚な作品が出来上がっていく。これが根本作品の真骨頂だ。
付き合いの浅い編集者なら、喫茶店で「粗筋」を聞いた段階で「へえ、面白そうですね、じゃそれ24ページくらいで」などとマヌケなことを言うかも知れない。いや、商業誌の場合はページ数は非常に重要なことなので、少なくとも描き下ろしじゃなく連載となると毎回の枚数と回数はある程度決めてから始めるだろう。それが普通だ。だが、根本さんの場合は根本作品の作られ方を知っていれば、毎回のページ数こそある程度の目安としてあれど、全体で何回=何ページになるかなど、「ご本人にもまだ解らぬということ」を解っていなければならない。
さらに連載が開始されても、商業誌であれば「この表現はまずい」「ここはもうちょっと穏やかな表現で」というような介入が、途中途中で、いや、毎回かなりの頻度で入るだろう。だが根本作品において、表現の妥協などあり得ない。というか、そもそも「あの絵柄」である。「こうすればもっと多くの人に認められるのに」などという言葉など、尻尾を股の間に挟んでててててとあさっての方角へ逃げてしまうだろう。根本作品において、全ての表現は絶対に必要な表現であり、妥協などあり得ない。こういう作家の場合、やはり商業誌が「原稿料を払うからこう描け」と言っても通用しないわけで、そもそも自分が「作家が100%自分の創りたい作品を描くこと」が「より多くの読者に評価され作品が売れること」の全面否定につながることを、ご自分が一番よく理解していたりする。
俺はいつも、根本作品が「ジャンプ」や「モーニング」に掲載され、それをたくさんの人が普通に受け入れる世の中を想像してみた。そしてその度に戦慄した。あり得ねえ、と思った。
しょせんは、売れるか売れないのか、それを選択するのは「作家自身」であることを思い知らされた。編集者ごときが「こうすれば売れる」などと抜かしたところで、「ふうん。だから?」と言われればおしまいだ。作家が切実に「売れたい」と望めば、編集者の介入=版元の意向=読者のニーズにキッチリと沿って、その通りに描けばいい。もちろんその結果売れなかったとしても、誰も責任は取ってはくれないけれども。
メジャー、マス・コミックの多くは、個人の場合でも作品製作の現場ではアシスタントが、プロダクションになればもっと多くのスタッフが関わる。もちろんそれが雑誌に掲載され単行本になっていく段階で編集者が濃密に介在する。そのことの是非を語るのは、あまり意味のあることではなかろう。なぜなら、「いい作品をつくる」ためにそうしているわけで、「いい作品」とは何かという定義が異なるからだ。商業誌ではいい作品とは売れる作品のことだし、ガロ系(純マンガ)の世界では独創性や先見性に優れていればいい作品になる。こう書くと、商業漫画を否定するのか、だからガロ系はダメだ、という論法を昔から本当によく聞いた。
多くの人に受け入れられるから(売れる作品)いい作品だ、という考えは否定できない。否定もしない。
一方で、いい作品なのに、万人には受け入れられない(売れない)作品、というのも存在するだろう。

このどちらか一方が正しくて、どちらが間違っている…という議論の方がナンセンスだと言っている。
繰り返しになるが、「多くの読者に認められ、売れている、いい作品」=マス・メジャー漫画の名作が多々あることは周知の通り。だが「いい作品なのに売れない、もっと多くの人に認められるべき」、純マンガの名作もまた、多々あることを知って欲しいと思う。

<この項つづく>
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コメント

どうも

>幸ちゃん
台風、北海道にも行くようになったねえ。
気力が萎えると体力も衰える…というのは実感してます。ご自愛ください!

>takaさん
理想と現実のギャップ、何の職業でも、生きていく以上必ずつきまとうはず…なんだと思います。こと表現に関わる現場の場合は、気をつけないと他人の人生を左右することもある、と。

>Unkown
どうも、体調は幸い最近はいいみたいです。気力が萎えないように(笑)頑張ります。

Unknown

毎回ご苦労さまです。楽しみにしていますが、お体にさわらない程度に・・・

なるほどです

前回書かせていただいた、「理想と現実のギャップ」みたいなものって、こういうことだったんですね。
>心ある編集者なら誰でも、
>作家が100%自分の創りたい作品を描くこと
>と
>より多くの読者に評価され作品が売れること
>が同じであるように願う、そしてそれが多くの場合は一致しな>いことに悩むものだと思う。
いろいろとまた、考えさせられました。

ちょっと一服

風が多少強くなってきた、台風、来るかなぁ。

商業路線優先で、アーティファクト無用となると、ロボットが授業をしたり、楽譜を書いたり、漫画を描いたりもできるようになるのだろうかなぁ。
昔、音楽のことでそんなこと話したっけ・・、兄貴の方とだったかな・・・。

自分の職においても、なんか若い人に、ハチャメチャ試して、まみれて苦労したり、恥をかいたりしてみるような元気が無いんです。
時代性もあって、失敗のツケが大きいので、許されないんですよね、そういうことが。
なので、○○技術とかのゲーム攻略本みたいのを読んで、誰でもできるような仕事をして、結局無難な線へ無難な線へと・・・。それは、ある意味メジャー志向とも言えてますが、そのままだと、けっこういいトシになっても、専門性は身に付かないんですよね。
漫画と違って、アレなんで、売れなくても、自己満足しなくても、消えていかないで済むあたり、ぬるいです。

季節がらか、連日、風邪で複数欠席出始めたので、体調にご注意ください。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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