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2006-12-17(Sun)

実家がなくなる

昼過ぎに函館の実家の母親からメールが来る。今住んでいる実家を潰して更地にするから、来年の春に明け渡してくれと所有者に言われたそうだ。この実家はもともとお袋が建てた持ち家だったが、十数年前に事業に失敗した際、知人に買い取ってもらい、以来家賃を払って兄と一緒に住み続けていた家だった。

今から三十年以上前、俺がまだ小学4年生だったころ、それまでの友達も呼べないような平屋の借家から、お袋が女手ひとつで借金もせずに建てた、ピカピカの一軒家に引っ越した。注文住宅というやつで、間取りから調度からあちこちにお袋の希望が取り入れられた7LDKの新築が「わが家」となった時は、ほんとうに夢のようだった。それまで古い2DKの平屋にひい婆ちゃん、お袋、俺たち兄弟の四人で住んでいた借家住まいだったのに、いきなり二階の3部屋が一つずつ俺たちに与えられた。一階はお袋の仕事部屋と寝室、応接間、そしてリビングとダイニングキッチンとなり、トイレは一階と二階の二つという快適さが自慢だった。北国なので二重サッシが普通だと思われるだろうが、うちの場合は普通の厚手のガラス戸が一枚だった。というのも強力なボイラーがあって、全部屋にセントラルヒーティングで暖房を供給していたので、真冬でも風呂上りに下着だけでウロウロしてもポカポカしていたものだった。屋根には電熱線が通っていて、積もった雪は端から溶かされて雨どいから下水道へ流れるから、雪下ろしの必要もなかった。ほんとうに、「夢」のようなわが家だった。それまで借家ゆえに、家に入れることが出来なかった猫も、堂々と誰に憚ることもなく飼えるようになったのも嬉しかった。

その実家には高校卒業までの八年間を過ごしたが、人生でもっとも濃密な十代、思春期のほとんどを過ごしたから、今思うともっともっと長かったような気がしている。最初の二年ほどは、ひい婆ちゃんが元気だったので、二階の和室が婆ちゃんの部屋で、残りの四畳半の洋室二つが俺たち兄弟の部屋だったが、兄貴の部屋にはテクニクスのバカでかいコンポとスピーカー、がっちりした金属製の勉強机が置かれていたので、二段ベッドが俺の部屋に置かれ、寝る時は兄貴が俺の部屋へ来て寝た。それはちょっと不満だったが、前の借家を思えば何てことはなかった。
俺が中学へ上がる直前、ひい婆ちゃんの容態が急に悪くなった。米寿のお祝いも無事にしたばかりだったが、足腰が悪くなり、寝たきりに近い状態になった。お袋は日中から夜中まで仕事でいないから、お手伝いさんを雇ったが、それでもつきっきりでの介護は出来ず、結局近くの親戚に引き取ってもらった。ひい婆ちゃんはそれから間もなく、楽しみにしていた俺の学生服姿を見ることが出来ずに、10月10日に亡くなった。
その後、和室が兄貴の寝室になり、俺の部屋には二段ベッドに代わって、専用の快適なベッドが入った。ベッドの下には引き出しの収納がついている立派なものだった。兄貴はそれから三年後、札幌の予備校へ通うために家を出た。二階の四畳半二つは間の壁に大工さんが穴を開けてくれ、まるまる俺の寝室と勉強部屋となった。高校に入ってバンドをやったりするようになると、学校帰りにはよく俺の部屋が溜まり場になった。みな、快適だと言って長居をするようないい部屋だったと思う。
実家が誇った最新設備のうち、一年か二年目の冬に、屋根の電熱線が断線して、融雪機能が壊れてしまった。函館はそれほど雪は積もらないとはいえ、放って置くと軽く1mくらいにはなる。適当なタイミングで雪おろしをしないと、屋根の上の氷状になった雪のうえにどんどん積もる重たい雪の塊が、轟音をたてて滑り落ちたりするから、人がその下にいたら間違いなく大怪我か即死という事態になる。なので、結局その年の冬からは雪下ろしが必須となった。
もう一つのボイラーも、大型ゆえに音ばかりデカく石油も食うくせに、数年でセントラルヒーティングの機能が衰えてきた。冬の北海道、道南の函館とはいえ暖房は死活問題である。結局小型石油ファンヒーターを各部屋に数台入れるという情けない事態になった。猫は家に3匹、野良も招いたりもしたので、家の中がちょっとずつ荒れてくるようになった。それでも、俺が実家を出る頃は、まだまだ素晴らしい自慢のわが家に違いはなかった。

上京して漫画家になるべく専門学校へ通いながら、その年の暮れには「ガロ」編集部・青林堂でのバイトが始まった。翌年には正社員になったので、すぐに多忙な生活に突入することになった。加えて安い給料だけでは食えず、アルバイトもしていたし、恥ずかしながら実家に無心もした。そんな状態で、高い交通費を出して実家に帰省することはなかなか出来ず、最初は正月、次は数年後に一回、その後もほとんど実家へ帰省することはなくなってしまった。
上京して十年ちょっと経ったころ、お袋のやっていた店が倒産した。店は一時はクラブ3件喫茶店1件を経営するほど繁盛していたのだが、時代の波に乗れなかったことが災いしたようだった。生ピアノの伴奏が流れ、上客ばかりが集う高級クラブで接待という時代が、急速にカラオケや安いチェーン店の居酒屋でというガチャガチャしたノリに転換していく…。そんな時代の波にあえて抗い、店内の改装などで設備投資のために商工ローンから高利の融資を受けたことも、事態を悪いほうへ導いたようだった。
結局お袋と兄貴は自己破産をし、保証人の印鑑をついた俺にも、あの悪名高いN栄という商工ローンの取立ての電話がかかるようになった。それこそ早朝から、慇懃ながら凄みの効いた取立ての電話が夜までかかるようになり、連れ合いが心配して相談してくれた、知り合いの弁護士さんに介入してもらい、何とか無事に乗り切ることができた。だがお袋は父が急逝した後、幼い子二人を抱えて必死で頑張って手に入れた、夢のわが家を手放すことになってしまった。店ももちろん、人手に渡った。
そういうことは狭い地方都市の「社交界」ではアッという間に広まり、あることないこと、ともかく噂が駆け巡ったそうだ。ただ辛かったのは身内の、いや身内だと思っていた人間の豹変だったという。主婦だった義理の妹が離婚し、生活のためと頼み込まれてホステスとして育てあげ、その頃には信頼して店を任せていたのだが、その妹はお袋が破産をすると、鬼のように自分が保証人になって立て替えた借金を返せと迫った。必ず返すから少しだけ待ってくれと言うと、店を一件剥ぎ取るように自分のものにすると、ひどい中傷を言いふらすようになった。法的な責任はもうなかったのだが、お袋は破産免責後も、妹には毎月頭を下げて借金を返済し続けた。そして数年後にようやくそれらが片付くと、ようやく小さなバーを一件、友人と二人で始めることが出来、古稀を越えた今も続けている。
実家はそんな生活の間にどんどん荒れ果てていった。元々自分が立てた夢の城、それも自分のものであればこそだった城が、人手に渡った後も住み続けられたことは幸いか、あるいは不幸だったかは知らない。だがやはり人のものになってしまったと思えば愛着も薄れ、手入れもなおざりになっていったのだと思う。去年の冬には、実家の屋根が積もった雪でいかれてしまったと聞いた。兄がお袋に頼まれていたにも関わらず、雪下ろしを面倒がって渋っていたらしい。気がつくともう築三十年を越えて、あちこちガタが来る頃ではあった。
そもそも家を買ってくれた人は古い付き合いの馴染みのお客さんだったそうで、お袋の心情も察してくれ、ずっと住んでいていいと言ってくれていたそうだ。家賃も相場よりずいぶん安くしてくれていたはずだ。だがその方もご高齢となり、ご子息は早くボロ家を壊して更地とし、「財産」として何らかの処分をしたかったらしい。主導権は完全にご子息の方へ移ったようで、非情な「立ち退き通告」が来た、というわけだ。

…この知らせをメールで受けて、俺はお袋にメールで返事を打った。直接電話で話そうと思ったが、途中でお袋はきっと泣くだろう。俺もそれを聞いて平静でいられる自信がなかった。だからメールで返信をすることにした。

「とうとうあの家が…、と思うと感慨深いです。そこはボロくはなったとはいえ、親子3人とひいばあちゃんと猫たちで、一時期は天国のように幸せな生活を送ったところでした。大人になって理解したことだけど、子ども二人を抱えて必死で働いてようやく手に入れた夢のマイホームだったんですね、貴女にとっては…。(略)
とにかく、その家に長い間ご苦労様でした、と言ってやってください。目と閉じると、まだ新築で輝いていて、家に友達を呼ぶのが誇らしかった頃の実家が浮かびます。あの木の香り、真っ白な壁紙、青々とした畳の匂い。トムがしっぽをピン!と立てて悠々と歩いてたり、思い出は尽きません。あの家に少しの間だったけど居られたことが、俺のその後の人生にはとても大きな財産でした。何年かおきに帰省するたびに荒れ果てていくのを見ると本当は凄く辛かったんだけど、そこに居続けなければならない母親のことを考えると…。
新しい棲みかへ移ることは一つ、心機一転と考えていい方へ転じましょう。 あなたが俺の健康を祈ってくれていることに感謝しながら、こちらも幸運を祈っています。 千夏雄」
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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