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2007-01-29(Mon)

朝青龍注射疑惑と最近の大相撲

朝青龍注射疑惑だが、いくら強すぎるからって今どき注射(八百長)はねえだろ、と。全盛期の千代の富士の頃なら「ひょっとして」という一番も、それっぽい力士もいたものだが。…ていうかそんなヨタより、かねがねこの若造に限らず相撲の世界での「決まりごと」が崩れ、所作が汚くなってきているのが見ていて不愉快だ。たとえば「チリを切る」というが、勝った力士が蹲踞して行事から懸賞金を受け取るが、その際に右手でサッサッ、と左右に字を描くようにチリを切って懸賞金を受け取り、立つ前にキチンと頭を下げ、それから立って土俵を降りる。こういう当り前の振る舞いが、外国人力士が増えたせいなのか師匠が阿呆なのか、いずれにしても守られずに乱雑な印象を受ける。
別段世間でも礼儀作法が崩れているので街に出りゃいくらでもそういう無作法者はいるのだが、相撲の場合は基本が「神事」である。全ては決まりごとで、決まりに則って動かねばならないことになっているのだ。ちなみにもっとも汚い懸賞金の受け取り方は、やはり外国人力士の琴欧州である。懸賞金を鷲掴みにすると同時に立ち上がり、その時もうすでに土俵の外に顔が向いている。そそくさと金を掴んで帰る、そんな所作だ。意地汚く見える。
相撲の所作にはそれぞれに意味がある。力士が土俵に一礼して上り、蹲踞して一度拍手を打ち、両手をパカッと開き、それから両腕を左右に開いてみせる。これはもちろん手には何も持っていない、ということを相手に知らしめるための所作だと言われているが、この両手の平を合わせて「パカッ」を、意味をおろそかにして一連の動作の中で流してやる力士が多い。朝青龍の土俵入りが見苦しいのは、とにかく一つ一つの動作の意味を理解せず、形をこなしているだけだからである。せり上りは足腰の強さをじゅうぶんにアピールするためのもので、全盛期の千代の富士の土俵入りは今でももっともこのせり上りが美しく、そしてスリリングでさえあった。相撲好きが見れば本当に惚れ惚れとするくらいで、土俵入りだけを見てもじゅうぶんに感動するほどの美しさであった。
今の相撲にはいろいろ言いたいことはある。これら力士の神事としての所作、振る舞いがおろそかに、乱雑になっているだけではなく、客側の無知・粗雑さも見苦しい場合がある。例えば三役力士の相撲などで取組後に座布団が舞うシーンがよくあるが、あれは格下の力士が大関いや横綱クラスの大物を倒した場合に許される客側の決まりごとだ。最近では横綱が平幕を投げ飛ばしただけで座布団を投げる野暮がいる。歌舞伎で大向こうから頓珍漢なときに掛け声をかけて顰蹙を買う行為にも似た恥ずかしい野暮なのだが、見ていると最近では「ブラボー」「ハラショー!」的な意味と誤解し、けっこうな数の客がぶん投げているようだ。昔は野暮はもっとも恥ずかしい行動の一つだったのだが、最近では厚顔無恥の輩の方が逆にデカいツラをしていることが多く、とかく物理的なだけでなく「声のデカい奴」が正しいと誤解するような風潮に嫌気がさす。
琴欧州は嫌いな力士ではないのだけど、花道を通る時にお客さんにピシャピシャと背中などを叩かれるのが「不愉快でたまらない、何で勝って帰ってきた力士が叩かれなきゃならないんだ」と怒っていたインタビュウを聞いて、何だコイツはと思った。と同時に、琴欧州だけの問題でもないな、とも感じた。これは周りがちゃんと教えてやらないとダメだよ、と。力士は天下無双の力持ち、異人なのである。包丁で刺されたってんならともかく、素人風情に体を平手で叩かれたくらいで痛いだの不愉快だのと言っていて、相撲取りが務まると思ってんのか、ということだ。こういうことの意味もちゃんと理解して相撲の世界に入れよ。と言っても故国を離れ異国に「出稼ぎ」に来る人間に、付け焼き刃で教習所なんかでチョロッと教えるのは限界があるだろう。周囲の、先輩なり親方なりが日々教え、理解させておけよ。
他のスポーツならいくらでも国際的なルールで統一するなり、理不尽は改めていい。だが大相撲は決まりごとの世界で、それを否定すると相撲そのものが成立しなくなるのだ。いくら近代の相撲が神事から離れ、単なる興行=つまり異形の大男たちの肉弾戦という「見せ物」であると開き直ったところで、それ以前の相撲が神事であったことからの形式の継承、暗黙の了解があって成立している「ショー」であることは当然だ。
柔道がかつて国際化という名目のもとに、変な民主主義とか国際ルールだのを受け入れ、醜い青い柔道着やカラー畳で見苦しい「スポーツ」となったが、相撲ではそんなことはあり得ない。相撲は「スポーツ」ではないのだ。古いとかいうバカがいるが、相撲は古いもの、なの。「神事」が「見せ物(興行)」になったとしても、断じて「スポーツ」などではない。
スポーツといえば、先日競技相撲のドキュメントをやっていたのを見た。国際相撲連盟には現在83の国と地域が加盟しており、定期的に国際大会も行っている。日本の伝統的な「大相撲」の精神的な部分=相撲道の「道」(つまり礼に始まり礼に終わる、敗者への敬意など)は受け継ぎつつも、スポーツとして国際化させるために、ルールの明確化階級制の導入など、大相撲とは一線を画しており、外人が気軽に始められるものになっている。宗教的な理由で尻を晒せない国の選手のためにまわしの下にスパッツを着用することも認められているが、見た目でもっとも違うところは、行事ではなく蝶ネクタイをした「審判」がいるところだろう。
もともと相撲的な、つまり「半裸(あるいは全裸)の男同士が組み合って技や力の優劣を決める競技」は世界のアチコチで行われていた。それが地域によってレスリングになったりモンゴル相撲や韓国相撲になったりしている。レスリングはオリンピック競技にもなっているスポーツ・格闘技だが、日本の大相撲はそういう部分とはかなり離れて神道的な形式を継承していたり、髷を結う、浴衣を着るなど文化的にもハードルが高い。何より「ニホンジンへの同化」が外観だけとはいえ、求められる。そういったものへ文化的にも入りにくい人たちは競技相撲へ参加することも多い。
面白かったのは、アメリカ人のアマチュア選手が日本の大相撲が大好きで力士になりたかったが諸事情から叶わず、競技相撲を続けているというところだった。大相撲に最近増えている外国人力士よりもよほど相撲「道」を学び、理解している風情なのが興味深かった。アメリカ人は勝負の前には相手を威嚇しアピールをし、アドレナリンを全開に出して勝負に臨み、勝てば派手なガッツポーズをし、負けた方は汚い言葉を叫んで悔しがる。しかし相撲の世界では勝負が終われば表情を変えずに一礼をし、勝っても負けても感情を表へ出さない。そういった一つ一つの所作にも意味があることも、アメリカ人のアマチュア選手の方がキチンと理解していた。
かつて外国人力士として大関まで務め、一時は横綱昇進手前まで行った小錦も出演していた。大相撲を「国際化するのではない、外国人が日本化することを求められるのだ」と言っていたが、それが競技相撲と大相撲の違いである。
それにしても今関取で最大勢力はモンゴル出身力士だ。かっては青森や北海道だったのが、モンゴル、旧ソ連諸国などに席巻されている。そのことは別に構わない、外国人ばかりであることが問題ではないからだ。問題なのは、外国人が増えたことによって相撲「道」が薄まっていることだろう。外国人でも先のアマチュア力士のように、ちゃんと理解している人もいる。ということは、いかに部屋の親方なり周囲の人間がキチンと教えていないか、ということになる。
ただでさえ日本的な、いや今では異質とも思えるほど極めて「前近代的日本」の世界に入ってくる外国人だ、教えてやらなければ絶対に解らない。ただ単に動きとして、動作を教えるだけでは体操と同じだ。一つ一つの振る舞い、所作の意味を理解しなければ、相撲そのものを理解したことにはならない。
困ったことに、こうした外国人力士たちが付け焼刃で形だけの振る舞いを覚えて上位へどんどん上がってくるので、それを見ている日本人力士たちの所作も荒れてきている。例えば立ち合いヒラリと変化して相手の肩を透かして地面に叩きつける。こういう取組は、相撲という階級のない「無差別」の取組ゆえに、小さい者が大きい者を倒すための技だ。または、歴然と力の差のある上位の力士に、若手や格下の力士が何とかして勝とうとするための秘策でもある(舞の海の八艘飛びが白眉であるように)。これを上位の者が平気で下位にやるのは感心しないし、ましてや役力士が平幕にやる行為ではないだろう。
特に記憶に新しいのは昨年九州場所での、あの朝青龍×稀勢の里戦だ。勢いのある若手(実はあまり年齢は変わらないのだが)の挑戦を受ける格好になった横綱朝青龍が、あろうことか立会い変化して稀勢の里に土をつけた一戦。さすがにこれは顰蹙を買い、初場所では真正面から受け止めて力の差を見せつけたものの、あの一番が相撲史から消えることにはならない。
横綱たる者は相手がどんな手を使おうが誰であろうが、どっからでもかかって来いと立会いガッチリ受け止め、その上でねじ伏せ、実力差を体で教えてやる存在だ。当然相手は曲者もいるだろうし、正攻法だけで来るとは限らない。
だが横綱という「地位」(本来は名誉ある呼称だった)はそういったリスクを負いながらも、最上位に君臨することで尊敬と畏怖の念を集める存在であったはずだ。そのために、横綱には陥落というペナルティがない。一度上り詰めれば、引退までその地位は揺るがない、言わば一勝一敗に一喜一憂する大関以下の力士たちが負う、地位という足場が常に揺らいでいる最大のリスクから解放されているという特権を持っている。ただし、それは横綱は負けないということが前提であり、つまり横綱が負けた場合は逆に進退に直結するというリスクを負っているのである。それほど重い地位(という設定)なのだ。しかし実際は多少の番狂わせは許されるし、負けが混みそうになったら休めばいいだけの話。朝青龍の勝率と皆勤ぶりは横綱という地位からすれば、賞賛に値することは事実なのだ、つまり八百長が疑われるほどに、現実に強い。それに対抗できる力士が見当たらないことが八百長疑惑を生むのだろうし、彼が外国人力士だからということ以外の最大の「相撲がつまらない」理由なのである。

ところで引き技そのものは別に悪いことではない。がっちりとぶつかり、当たり、その上で相手の腰が高いと見るやグイと引いてみる。相手がバタと手をつけば終わりだが、残した場合は逆に引きに乗じられて一気に押されるというリスクも伴う。とくに最近の、レスリング経験者の外人力士に、この引きが多い。露鵬やその弟の白露山なんかが典型だけど、まあこれは決まり手にもあるし、リスクもあるのでしょうがないところ。あ、押し相撲である千代大海の苦し紛れの引きは論外だが。
とにかく相撲のことになるとちょろっと考えただけでこれだけの分量になる。ああ、それにしても最近の大相撲は本当につまらない。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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