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2007-12-11(Tue)

漫画家になりたい人へ ( 番外4)

勝又進さんの訃報を知って つづき

自分が何かを表現したいと思った、そしてその手段として漫画を選んだ。ならば漫画を描け。言われなくとも描きたくて描きたくてしょうがないはずだ。
俺も若い頃、漫画家を目指して上京した頃はそうだった。一つの作品にとりかかりながら、もう次の作品が描きたくてしょうがなかった。ネーム帖はどんどんどんどん「次の作品」候補で埋まっていった。でも一つの作品を仕上げて、さあとそのネーム帖を見返すと、それはそれは陳腐で稚拙なものばかりに思えたものだった。つまり、その感覚の分だけ自分が成長していたってことだ。
そして自分のバカさ加減に呆れ、恥じ、悶絶して、そうして狂ったように小説や漫画を読み、映画を見て、ようやくまた次の作品へ向かうささやかな自信を芽生えさせた。漫画だけではない優れた先人の作品にできるだけたくさん触れることで、なんとか自分もその末席に食い込めないかと思った。…ま、無理だったんだけどね。

ともかく、何かが流行ると「マンガ家志望」の子らの絵柄はそれ一色になる。好きな漫画だけ読み、好きな絵ばかり真似しているから、似たような絵しか描けないし似たようなお話しか創れない。そして漫画は何度も言うように「絵とストーリーの両輪」が織り成す表現」だ。好きな作家の絵ばかり真似をしていれば、似たような流行の絵は描けるようになるだろうが、お話はどうする? オリジナルの話が創れないから、勢い超能力だの霊だの御伽噺だの、最初からリアリティを排除しても突っ込まれない方向へ逃げる。すぐ、そっちへ行く。

言っておくが、ファンタジーやRPG的世界の漫画作品を批判しているのではない。素晴らしい作品もたくさんあるのだし、それらは「ファンタジー」であっても「リアリティ」を持って我々をその世界へと誘う力を持っている。
「指輪物語」「終わらない話」などには、洋の東西を問わずいつの時代の読者をもわくわくさせる、圧倒的な力がある。ギリシア・ローマ神話や日本の能・歌舞伎などを勉強しろとは言わない(本当は言いたい)が、シェークスピアや日本の近代文学も難しいというのなら、お話を創ることを諦めた方がいいのでは、と思うことさえある。

優れた名作を何も読まず、知らずに、とりあえず時代や国籍などを不明なところに設定すれば考証は不要になる。つまり「完全オリジナル」だと開き直れば当然、誰からも突っ込まれることはない
そうして主人公が意味なく旅に出て超能力で相手を倒したり死霊と戦ったりお姉ちゃんと恋愛をしたりピンチになったりするけど必ず最後は勝って笑ってお姉ちゃんもゲットして終わり…という作品、面白いか? いや面白いんなら、面白く描けるんならそれは一つの才能であると認めざるを得ないが…。ともかくこの「…それで?」と問いたくなるような余りに陳腐で稚拙な世界、実際にアマチュア漫画家志望の作品に物凄く多いパターンなのである。

例えば「江戸時代・末期、新撰組の時代、京都で」と言って物語を進めなければならないとすると、これはもうきっちりとした時代考証を必要とし、それなりの歴史の知識や画力が必要になる。テレビや映画でさえ、今は時代劇が作れなくなってきている=時代考証がデタラメになってきているのに、個人でそれを全て行ってしっかりした作品を創っていくのは相当難しいだろう。だからほんとうの時代劇を描ける人がどんどん少なくなってきている。(ちなみに近年、「パロディとしての時代劇」へ逃げているとしか思えぬ映画やドラマが多いが、そういう「いい加減な時代劇」を見た若者が、それをそのまま受け入れ、「よりいい加減な時代劇」を再生産する傾向が確かにある、と思う)

変なツッコミが来そうだから言うが別に「江戸時代・末期、新撰組の時代、京都で」を描きたくないのならそれはそれで別の時代なり現代なりでいい。また先のような「全部俺が設定した世界の話」と言えば考証の必要も苦労もないわけなのは言うまでもない。
だが、そこまで行かずとも、では「現代、東京、渋谷に集う十代」の世界を描きたいと思ったら? それでも考証が必要だということに気付けよ、と思う。
同様にファンタジーの世界でも、架空の世界でも、「それはいくら何でも…」と思わせないリアリティが必要であり、それが失われた瞬間に、読者はその物語の世界から醒めるのだ。こうしたオリジナル作品を構築する力がない人たちは、だいたいがパロディへと逃げる。(またまた阿呆の頓珍漢なツッコミが来るとアレなので言っておくが、パロディ批判をしているわけでもない、過去の本シリーズ=【漫画家になりたい人へ】の記事をちゃんと読んでいただきたい)

そういえば、昔は漫画同好会や大学の漫研といえば、オリジナル=創作系の同人誌・サークル誌がほとんどだった。今ではそのほとんどがパロディ系である。アマチュアならば、好きな作家の作品をなぞるのも勉強だろう。またプロになる気がなく、趣味でパロディで遊んでいたいのなら、何ら文句はない。
だが漫画家になりたい、つまり自分は作家になりたいと覚悟したのなら、
「自分という作家が
漫画で何を表現したいのか、
なぜ自分がそれを表現する必要があるのか、
自分でなければならないのか

自分に問え」

と言いたい。人が創った世界を真似る=他人のフンドシを締めて相撲を取るなよ、それって気持ち悪いだろうに。
ただし、作家として屹立したいと思うなら、その道は「茨の道」だ。その覚悟をして欲しい。漫画を商品としてとらえ、たくさん売れること=金儲けをしたいと思うんなら、作家だと名乗る必要はないだろう。それは「漫画家」という「作家」ではなく「漫画屋」だ。そして純粋な「漫画家」がそれであり続けることは難しく、「漫画屋」との間でゆれ動くものなのは、資本主義の世の中でメシを食っていく以上、当り前のことでもあるのだ。

勘違いして欲しくないのだが、漫画屋は漫画屋でいい、それならそれに誇りと覚悟を持ってやれ、と言っている。編集者の言う通りに、儲かるように、読者アンケートで上位に来るように、単行本が売れるように、アニメ化されるように、できるだけたくさん売れるような作品を描け。漫画屋は売れてナンボの、それはそれで過酷なショーバイである。ただし漫画屋は競争相手もたくさんいるし、資本主義いや市場原理主義の論理で全てが量られる。個性なんか二の次、作家性なんかどうでもいい、編集者=出版社が求めるものを忠実に描いてくれりゃあそれでいいんだから、代わりはいくらでもいる。ちょっと成功しても、もっと小器用にうまく立ち回れる若手が常に下から突き上げてくる。そいつらを蹴落としながら、編集者に気に入られるように媚びへつらいつつ、読者の顔色も伺い、描き続けなくてはならない。ほんとうに自分が描きたいものが描けるようになるには何十年かそれを続けられてからの話だ。
何十年か続けられなくても、何年かもしやれたら、とりあえず「びっくりするくらいの大金」と「作品が数十万部単位で売れた」という結果は残せるだろう。だがその作品は後世には残らないと覚悟しとけ。なぜならそれは商品=消費物だからだ。その時に必要とされた=その時代に売れたことは認めるが、必要が無くなれば捨てられるだけなのだ。後世に名なんか残したくねえ、今さえ良ければいい、金だよ世の中金金カネ! という人はそれはそれでご立派。

作家になりたいと思う人は、こうした媚びへつらう市場原理主義第一の世界からはちょっと離れて創作が出来る代わりに、生活の安定はなかなか得られないと覚悟されたい。
先の「漫画屋」とまでは行かずとも、原稿料という対価を貰って仕事をする以上は、ある程度は自らの作家性を犠牲にして資本家や市場の論理を受け入れることは必定だ。
「ガロ」でデビューした素晴らしい才能が、商業誌へ引っ張られたとたんに潰されたという話はたくさん見聞したものだけど、ちゃんとうまくその辺の折り合いをつけていった人もたくさん、いる。とにかく人を真似するのではなく、真似をされる側になれ。それは結局、自分を長生きさせることにつながる。

いつもいつも、個性ある素晴らしい作家さんの不遇を聞くたびに、痛切に思う。世間の一般人がその才能に気付かないのは仕方のないことだ。でも心ある版元=出版社、編集者はいねえのか。そんな誰でもいいような作品ばっかりを次から次へ自転車操業のように送り出し続けて、それが出版人としての誇りなのか。
「こんな素晴らしい才能があるぞ」と知らぬ一般人へ突きつける気概、それが出版人、編集者としての誇りなんじゃねえのか。「だって売れないんだもん」ではなくて、こんないい作品なんだから「俺が売ってやる」「うちが出し続ける」とは言えないのか。

赤い雪―勝又進作品集
勝又 進
青林工芸舎

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「ガロ」のかつての名作の数々は、部数から言えば多くて数万部。それも何年もかけてようやく…というパターンばかりだった。それはとりもなおさず、時代に関わらず一定の評価を受け続ける、優れた作品であるということの証明でもあった。勝又さんの作品ももちろん、そういう名作の一つであった。ちなみに近年復刻された勝又さんの「赤い雪」は2006年日本漫画家協会賞大賞を受賞しているが、その作品は70〜80年代に描かれたものである。
こうした名作をちゃんと今の読者に提供できる版元が他ならぬ「ガロ」をブッ潰してクーデターを起こして独立した青林工藝舎だけって…。日本の漫画出版界なんてこんなもんだ実際のところ。世界に漫画やアニメが評価されて…とか言ったって、売れてるものがまた売れるだけに過ぎない。漫画大国ニッポン、本家本元の版元は過去の後世に伝えていくべき名作を埋もれさせ、似たような代わりはいくらでも出てくるようなものばかりを消費させ続けて目先の利益ばかり追求している…と言ったら言い過ぎか。お前んとこはこの作家の作品を「品切れ」にしといて、コイツのを再版か、バカか? って思われる版元があることも事実だ。

何回でも言うが、いい作品・作家は同時代にキチっと評価して欲しい。後世の人に笑われないために。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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