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2008-02-21(Thu)

教職へ復帰します

実は契約の書類が整い、正式に決まるまではアナウンスしなかったのだけど、新年度つまり4月から教壇に復帰することになりました。連れ合いであるやまだ紫が教える京都精華大学のマンガ学部、プロデュース学科です。

以前から知ってくれている人たちはもちろんご存知だと思うが、俺は97年度から、東京・高田馬場にある日本ジャーナリスト専門学校というところで教えていた。誘ってくださったのは評論家の上野昂志さん。もちろん知る人ぞ知る映画評論家としても、漫画評論家としても大変な巨匠であり、俺が勤めていた「ガロ」の大先輩でもある。その上野さんから、「今度コミック編集科を設立するにあたって、ぜひ学生を指導して欲しい」と要請されて、お受けした。
自分なんか人様にモノを教えるなどというオコガマシイ立場にいていいのか、だいたい高校時代もどれだけサボるかに腐心し、年度の初めに必ず総授業日数を各教科一覧表にして、単位が取れなくなる3分の1の休みギリギリまできっちり、全教科を満遍なくサボったくらいの人間だ。大学の受験も家庭教師までつけられ規定路線だったのに、親を騙して漫画家になりたいから1年だけ専門学校へ行かせてくれといって上京し、そのまま「ガロ」の編集になってしまった。
そんな自分が人にモノを教えることなんか出来るのか、だいたいいいのか、と思った。でも大先輩で恩人の上野さんから言われたら、断れる理由がない。絶対に、ない。
まあすぐ学生から「あの先生怖い」とか「つまらん」とか苦情が出て辞めさせられるだろうと思っていたら、やってみると意外と楽しく、幸い学生たちからの評判も悪くなかったりもして、結局癌が発覚し入院する2005年の前期まで勤務することになった。
マンガ編集科が無くなり編集者専攻科に統合されたりしたが、編集実務、卒業制作、企画演習などなどいろいろな講座を受け持ち、担任を任されたり、流通現場論という講座を作らせてもらったり、思えばずいぶんと深〜く先生という職業に浸ることになったと思う。結局、向いてたんだとも思う。
実際、自分の一族には医者だの大学や高校などの先生が多い。白取で検索を叩くと、ルーツである青森を中心に、先生が思いのほかヒットする。もちろん親戚にも医者だの教職だのが多く、言ってみれば自分はそんな一族のオチコボレであったともいえる。(うちの母親はうちは代々松前藩に仕えた医者の家系だった、とよく自慢していた。その根拠になった家系図だかは、大火で焼けたというから信憑性は定かではないが。)
ともかく、そんなこんなで自分の中に教師への適性みたいなものが若干は流れているようなことも確認したりして、まあ残り少ないらしい人生、編集を目指す後輩たちに自分が知ってる限りのことを伝えていくのも役割だろうと自覚した。
しかし、「白血病」は予想外のことであった。
あの頃になると、ジャナ専で教えることはすっかり楽しくなっており、卒業生から何人も編集や出版業界に入った子が出たり、卒業してからも慕ってくれたりする関係も出来たりして、このまま要らんと言われるまでは続けるのだなあと思っていたのだが。
つまり有体に言えば「志半ば」で「病に倒れる」ってやつだろう。
実際癌宣告を受けてしばらくは、体力がガクッと落ちた。あの速度で病気が進行したら、とても何年も先まで生きられると思えなかった。
でも、あれから3年が経過して、幸い進行が予想していたカーヴよりはぐっと緩やかなかたちであることが判明した。でも去年京都へ転居してきて、これでジャナ専への復帰は消えたと思ったし、それは同時に教職への復帰が消えたことでもあった。
ジャナ専の同僚というか先輩であったSさんは、自分が戻るのを待っていると言って下さったし、先生方からは復帰を目指してと闘病のカンパもいただいたりして、実際まだ私物はジャナ専のロッカーに残っていると思う。そんな状態でいたのは「いつかは復帰したい」と思っていたからなのだが、正直なところ、京都まで来てはもうそれは無理だなあ、と思っていた。

2005年の秋に退院してから今に至るまで、いろいろな人からたくさんの励ましをいただいた。家族や身内はもちろん、新旧の友人、出版業界の知人や教え子たちのほか、かつての「ガロ」の読者の方や現在のブログの読者の方などからで、ほんとうに励まされて、心から感謝している。実際そういった方々からの励ましが無かったら、心が折れていたかも知れない瞬間が何度もあった。

そして、複数の方から「白取さんはまた教壇へ復帰するべきだ」ということも、たくさん聞かされた。
今回精華大で教えることになったのは、連れ合いを大学へ招聘して下さった、元小学館の編集長であった熊田正史教授のお誘いがあったからだ。「あなたは後進に教えるべきだ」「京都まで来たのもそういう流れでしょう」「病気にも絶対その方がいいと思う」…そう熱心に何度も誘っていただいた。
もちろん、自分はこんな病気にかかってしまったので、有難いと思いながらも丁重にお断りしてきたのだけど、最後は熊田先生の熱意に負けて「ではあとは熊田さんにお任せします」と言ってしまった。そうして、話は決まってしまった。
決まった以上は、やるべきことはやらねばならない。手を抜くわけにはいかないし、これまでジャナ専でもそうしてきたつもりだ(教え子の諸君、そうだったよね?)。自分は幸い、「ガロ」という稀有な場所でマンガだけではなく、編集から製版・印刷、営業からそれこそ断裁まで全ての工程に関わり学ぶことが出来た。この経験を、出会った素晴らしい作品や作家さんたちのことも含めて何とか伝えたい。それはやはりこうなった以上、大げさに言えば俺に課せられた義務なのだろうと思う。
慢性の白血病に関しては、進行が遅い状態で症状がひどく現れていない場合は、なるべく仕事や日常生活を普通に送ること、が推奨されている。ならば教職への復帰も、流れから言えば間違ってはいないだろう…。
やるからには、頑張ります。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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