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2008-03-18(Tue)

術後の回復度合い

胆嚢摘出手術からの回復過程を表にしてみた。
これは痛み止めを点滴で、点滴が取れてからは錠剤で飲み、それが効いているというのが前提の表だから、もし痛み止めがなかったら、あるいは効かない体質だったらこの限りではないと思う。


●手術当日(3/14)
手術の日は手術室へ歩いて入った。頭にフードを被るように言われ、手術台へ仰向けに寝るように言われたあと、体中にいろいろなものがつながれていった。最後に酸素マスクをあてがわれ、しばらく深呼吸をするよう言われて、そのうち「はい、すぐ麻酔効いてきますよ〜」と数回言われたと思ったら、直後に「白取さん、終わりましたよ」と言って起こされた。起こされた瞬間からもう激痛の中にいた、という感じであった。後で聞いたが、一瞬と思ったのだが実際は手術室へ入ったのが12時半ころで、終わったのが4時ころだから、3時間半ほどかかっていたことになる。
激痛の中、執刀していただいたO先生に「ありがとうございました」とちゃんと挨拶もしたし、ヨイショでストレッチャーに移されるのも激痛、同じ階の病室へ戻る際の右へ右へとカーブが切られるたびに体が揺れる激痛に思わず「痛い痛い!」と声を出していたのも、はっきり記憶している。ただ病室へ戻ってからは、赤血球も少ないので酸素マスクをずっとされ、点滴が数本(ブドウ糖、抗生剤、痛み止めなど)と導尿管などがつながった中、絶え間ない痛みの中でひたすら耐えていた時間は、朦朧としていたと思う。断片的に覚えてはいるが、はっきりと何時にこう、という記述はもちろん出来ない。
記憶をたどって動作と痛みの関連を表にしてみると、当日はとにかく何も出来ない状態であったことが解る。痛み止めもほとんど効果がなく、深く息を吸っても激痛がするので、浅くハアハアとした呼吸しか出来ない。酸素マスクの中がヨダレか蒸気か不明だがダラダラで気持ち悪いが拭くことも出来なかった。かろうじてじっとしていたり、聞かれたことに答えたりする程度で、とても自発的に話す余裕もなく、そのうち朦朧として眠りかかると、呼吸が深くなるからその痛みで目が覚める。痛みに耐えているうち、また眠気が来ては、呼吸が深くなって痛みで起きる…これを延々とまる一日以上繰り返したあと、翌日の昼過ぎにはホンの少しだけ痛みが和らいだ。

●手術翌日(3/15)
この日は導尿管が外れた。ベッドの上で体を起こすのも一仕事、激痛が伴うのだが、前開きの病院で借りた寝巻きをはだけ、T字帯と腹帯を外してもらうと赤ちゃんのような体制。看護婦さんに導尿管を外してもらう時はかなり痛いと聞いていたのだが、傷の痛みに気をとられていたせいか、「はい取れましたよ」と言われて「え? もうですか?」と聞いたほどだった。導尿管がずっとアレの先から膀胱へ挿入されていた手術後から尿の出が悪く、導尿管の先のポケットにも濃い色の尿が溜まっているが、少ないということだった。あとはベッド脇に尿瓶を置かれ、尿はこれにしろと言われたが、あまり尿意を感じなかった。実は尿が出ないというのは問題で、点滴がかなりの量入っているから、当然行き先は全身ということになる。
実際、手術室から出てきた直後からこの日まで、両膝はぼっこりとふくれていた。前にも何度か記述している(最初の記述は2006年05月19日 2006年05月20日)と思うが、よく歩いた後、突然両膝の皿の両側に、袋のようなコブのようなものが出来るのだ。脚を伸ばすと見えなくなり、膝を曲げるとはっきりとコブが現れる。しゃがんだりすると痛いし、正座は絶対に出来ない。膝に水が溜まる、とよく聞くがこういうことを言うのだろうか。
そのような状態で歩行を促され、「いてててて」と言いつつ、看護婦さんに支えられて病室の外に出た。いったんもうダメ、と思って戻りかけたが、「体重計まで行けませんか」と言われて根性をふり絞り、ナースステーションの反対側にある体重計まで、それはそれはナマケモノの一歩のような速度で歩いていき、体重も測定して戻ってきた。確か体重は72kg台だったはず。入院した時は68.40kgと記録にあるから、やはり全身に体液が過剰な状態になっていたと思う。このまま尿が出ないと大変なことになる…と少し恐怖したのを覚えている。
…しかしこの日の夜中に突然尿意で目が覚め、慌ててベッド脇の尿瓶をあてがうと大量に、500mlほど出た。その後翌朝にも700mlほど出たので、看護婦さんも「これだけ出るようになったら大丈夫ですね」と言われてホッとした。
実はこの日、東京からジャナ専の教え子たち3人が来てくれている。とても無理かと思ったが、何とか安静にしてさえいれば、話すくらいは出来るだろうと判断して、病室へ来てもらったのだ。手術翌日に予定が重なってしまったので、3人もとても俺の顔が見られないと思っていたようだったが、夕方に病室で短い間だったがマスクごしに3人の元気な顔が見られて良かった。夕方6時半、連れが3人にご飯をご馳走するという約束になっていたので4人は病室を後にしたのだけど、俺はその後も実は痛みと戦い朦朧、寝ては醒めを繰り返していた。

●手術後2日目(3/16)
この日は昼から粥が出るようになった。表で見ても、体を動かすことがかなり可能になっていることがわかる。実際主治医のO先生からは「痛み止めを飲んででも、なるべく歩いてください」と言われていたので、痛み止めを点滴され、終わってから点滴スタンドを支えにそろりそろりとトイレまで行っては戻ってきたりしていた。

●手術後3日目(3/17)
この日になると両腕の点滴ルートのうち右手が外され、痛み止めが錠剤だけになった。痛みも、痛み止めが効いていれば普通にしていられるようになったので、当ブログの術後はじめての更新も可能だった次第。色々な部分で快方へ向かっているのがはっきりと感じられ、明るい気持ちになった。ただ歩くのだけは、どうにも状態が改善されず、痛み止めが効いていてもかなり苦痛を伴っている。

●手術後4日目(今日=3/18)
昨日とあまり状態は変わらないが、はじめてくしゃみが出た。余りの激痛でしばらく身動きが出来なかったほどだった。その後車椅子で連れ合いに外へ連れ出してもらったが、自分が花粉症でなかったことを心から感謝した。

…と、まあこれから開腹手術をする人は参考になれば…って全然なりませんな。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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