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2008-05-19(Mon)

女性作家の系譜

5月19日(月)
ユキちゃん夜中は布団の上にユキがいたせいでほとんど寝られなかった。夜中に目が覚めたのは2時半。寝室の暑さとユキがいるのを無意識に避けるようにして寝返りをうったりするので寝苦しくなって目が覚めた。その後は全くといっていいほど寝られず、布団の上で悶々とするだけ。1時間ごとに軽くうとうと…としてすぐ朦朧。結局7時ころには起きてしまう。8時過ぎには連れも起きて来る。朝は食べず。
9時半過ぎには支度をし、10時10分前に出て精華大へ。教務にメールで送っておいた手塚治虫と「COM」の資料のファイル、コピーが出来ていたのでお礼を言って受け取る。チャイムが鳴ってからT棟へ行き、教室へ入る。今日はノートテイカーの子を除くとたった3人。途中から2名くらい来たが、相変わらず受講登録は13人なのに半分も来ない。まあそれでもこっちは手を抜かないけど。
びっちり手塚と「COM」について講義。

ついでに女性作家の系譜について、岡田史子、やまだ紫、つりたくにこという3人の「女性作家」がどれだけその後の漫画界の、とりわけ女性作家の表現拡大に寄与したか、あまりに評価やきちっとした論評が少ない、いやほとんどなされていないのではないか、という話をする。
80年代の3人娘・桜沢エリカ、岡崎京子、内田春菊の登場を少女漫画からの文脈で語る人が時々いるが、違うだろうと思う。やまだ紫(当たり前だけど尊敬する作家であり、自分の連れ合い=妻でもあります)も常々「それは全然見当違いだよ」と苦笑している。勉強不足だよねえ、ということだ。

ちなみに80年代の3人娘のうち、漫画誌でデビューしたのは岡崎だけ。しかも漫画誌といっても、あの「漫画ブリッコ」である。男性向け「ロリコン雑誌」(当時)だ。エリカちゃんは自販機本だし、内田さんにいたっては「小説現代」だ。3人とも、「美人」で「妙齢」の「女のコ」が、SEXについて臆面もなくギャグにしたりネタにしたり、最初は「若い可愛い女の子が下半身ギャグをやっている」と話題になったが、興味を持った大手が引っ張っていくと、ちゃんとシリアスなストーリー漫画も描けた、そのことにギョーカイまたビックリ…なんて時代だった。つまりそこには従来からの少女漫画の影響は、最初からほとんどなかったといっていいはずだ。
岡崎さんは「ガロ」で水木しげる特集をやった際にイラストを頼みに行ったら水木さんの「大ファン」だと言っていたし、エリカちゃん(トシウエですが失礼)も「ガロ」を読んでいたといっていた。内田さんはいしかわじゅんさんのファンだったことは有名で、実は「ガロ」にはこちらから単行本を出させてもらえないか、という話をもちかけたので、元々の漫画体験はよく知らない。
しかし、プラトニックな少女漫画を人並みに少女時代は触れていたことは当り前として、彼女たちの創作活動を、その原点を全て「女だから少女漫画が源流」という文脈で語るのはどうにも頓珍漢だろう、いや思考停止ですらあるという印象をずっと抱いてきた。

例えば岡田、やまだ、つりたという偉大な「少女漫画以外の文脈」から出た「女性作家」は、その後近藤ようこ、杉浦日向子などへ連なると思う。
(★ちなみに「ガロ三人娘」とよく無神経に使う人がいるが、やまだ以外のお二人はやまだのアシスタント経験者である。年齢もキャリアも違う。)
その文脈に岡崎さんが入る方が、リアルタイムで読んできた俺にはごくごく自然に思えるのだ。少女漫画の、例えばわたなべまさこや水野英子という流れに岡崎京子や桜沢エリカや内田春菊…ってどうにも違和感アリアリである。俺がおかしいんだろうか。
高野史子やさべあのまは。山田双葉は。作家の名をちょっと思いつく感じで挙げてみただけで、「少女漫画」というカテゴリがひどく小さな枠であるようで、大きな枠であるような、つかみ所のない分類であることが解る。
例えば「ガロ」におけるつりたくにこ(69年9月号入選)が「COM」では岡田史子(67年デビュー、68年新人賞)であり、それまでの「女といえば少女漫画」、という流れを変えた。また69年には「COM」でやまだ紫もデビューしているが、こちらは岡田史子のファンタジー・童話的な部分、少女漫画に近い画風とは違い、個人の内面をモノローグなどを交えて「日常」をドラマティックに描くことで、これもまた女=少女漫画ではない、紛れもない漫画界での「女性作家」の誕生を強く感じさせた。
やまだ自身、幼児期、少女期に少女漫画(あるいは少女向けの漫画)は人並みに読んだものの、表現者として作品を創る時期にあっては、少女漫画誌への投稿は早々に諦め、漫画では白土三平や手塚治虫に憧れ、岡田史子に強い衝撃を受け、「COM」に投稿するに至っている(やまだ紫、「COM」との出会い)。

いずれにせよ、「少女漫画」という大雑把な分類で、岡田、やまだ、つりたという作家を全て語ることはそもそもがおかしなこと。であるのに、ではちゃんと研究し評価されているかが疑問だと言っている。
死んでから改めて評価するなんて、誰にだって出来る。
性別上女である漫画描き、を女性作家であるという定義をすれば、そりゃあ長谷川町子先生から少女漫画の先生たちまで全部が入ってしまう。そんな中学生のようなことを言ってるのではもちろん、ない。少女漫画、という漫画の一ジャンルを指す分類「以外」の作家たち、そこの系譜が少女漫画ほどちゃんと整理・研究されていないと思う。
ただ女性がこんにちのようにおおっぴらに性や心の内面、深淵を描くことが少女漫画においても当然になったことを考えれば、現代の「女流漫画家」の源流はむしろプラトニックや空想もの、不幸もの、ホラーなどが主だった少女漫画ではなく、これら「ガロ」や「COM」の女性作家にあるのではないだろうか。
黄金期の少女漫画は、まだまだ「うぶ」だった当時の少女たちの心に、淡い恋心の切なさ、プラトニックな恋愛段階の甘酸っぱいドキドキ感、そして何より極端にデフォルメされ美化されたキャラクターたちの造形が、現実を忘れさせて「夢」を与えてくれた。そのことはもちろん批判されることではないし、表現として劣っているというバカなことを言っているのではない。
少女漫画においても、少年漫画同様に壮大なストーリーを描くもの、スポ根もの、ギャグ、時代もの、スペクタクル、同性愛というタブーを描くものなどが続々と現れたわけで、何もプラトニックな乙女チック漫画ばかりであったなどとは言っていない。
だがしかし、そこへ先の岡田、やまだ、つりたなどを分類することへの違和感は、やはり大手版元、編集などの介入がない、これまで誰も描いたことのない独自性、確固たる独自の作家性の有無など、そういう部分で少女漫画と一くくりに出来ない「何か」違うものがあるからなのだろう。

時代は移り、変わって、中高生が援助交際という名の「売春」をするというニュースがさほど珍しくなくなってしまった今、いや少なくとも80年代に入るころにはもう、先の3人娘、
桜沢エリカ(63年生まれ、82年自販機本「少女アリス」デビュー)が19歳でエロ本にデビュー、
同時期には岡崎京子(63年生まれ、83年「漫画ブリッコ」デビュー)、
内田春菊(59年生まれ、84年『小説推理』)もデビューしている。
他にも原律子なども加えられると思うが、彼女らは「平気で」セックス描写を赤裸々に描き、容姿端麗な若い女性であったことからも漫画ファン以外からの興味も引くこととなり、社会現象に近い騒がれ方をしたものだった。
こうした女性作家の系譜に現代の南Q太や安野モヨコらが連なるのは簡単に理解できるのだが、実は、それ以前に、しかも60年代から70年代という少女漫画の黄金期に、全く違う文脈で独自の作家性を確立し、女性作家として屹立していたのは、岡田史子、やまだ紫、つりたくにこではなかったか。ちなみに、この3人の中で、「ガロ」と「COM」両方に入選したのはやまだ紫だけ、そして出産育児の急筆はあったが、その後も現役であり続けたのもやまだだけである。もっと言えば、今生きて会えるのもやまだ先生だけなのである! つりたさんは残念なことに82年に難病を発症し、85年に亡くなっている。従って創作期間は少なく著作も少なかったし、岡田さんは72年にいったん漫画家を引退(やまだ紫曰く「好きな男が出来て北海道へ出奔してしまった」)、後に一度復活するも大きな話題にならず、2005年没、亡くなってから作品集復刊で再評価されている。筆を折ったら、つまり消えたら、あるいは死んだら評価してやる、ということか。
とにかく少女漫画をバカにしているのではない、そういう低能な上げ足取りは無視するとして。女性作家の系譜をキチンと考察する人ってホントに少ないと思う。なぜか男の漫画研究を名乗る人たちって、少女漫画に思い入れのある人が多い。なのでどうしても少女漫画が凄い、少女漫画家が偉い、という視点で最初から論なり系譜なりを構築しようとするきらいがある。別に否定はしないが、個人的な思い入れや好き嫌いで歴史を変えるな、と思う。
このあたり、岡田さんもつりたさんも、「知る人ぞ知る」と言われ、知る人からは絶大な支持と「天才」という評価を受けていた。しかし結局その独自の作家性からメジャーの編集では太刀打ちできず、また操られることも彼女らは嫌ったせいもあって、(やまだ紫はビッグコミック賞にも佳作入選したし、モーニングなどにも連載しているが稀有な例だ)メジャー畑で活躍の場を持たなかったという、そんな理由だけで一般的な認知度と評価が低いのは、全く日本というのはまだまだ漫画研究ではずいぶんと遅れているということだろう。古くは一ノ関圭や最近では(最近ではないが)斎藤なずななど、メジャー畑でも明らかに少女漫画の文脈ではなく、むしろ岡田、やまだ、つりたの系譜の作家もいるので、「メジャーかそうでないか」などの話ではないはずなのだが。
要するに遅れているというより、メジャー至上主義、であったのだと思う。

「売れたものが優れている」というのは、市場原理主義の立場で言うことだ。

漫画や小説や表現は、商品であっても文化だと普段大上段にふりかぶって言っているくせに、結局マスコミが取り上げない、メジャー雑誌に載らない、それだけで忘れ去られ、死んだことで思い出されて、改めて再評価する、そんな愚行をいつまで繰り返せばいいのだろうか?
近年、女性学の方面からやまだ紫「しんきらり」を紹介したり、大学での講義のテキストに使う試みなどを何度か聞いた。しかしやまだの代表作であり、「ガロ」の連載作品の中でも出色と評価されている「しんきらり」は今、「品切れ」であり「重版未定」である。俺の連れだから言うのではない。実際、俺は「ガロ」時代は一切やまだの連れ合いであることは公の場では言っていない。この作品や「性悪猫」(詩壇から高い評価を受けた作品、実際これが元で詩人の吉原幸子がやまだを詩画の創作へ誘った)といった名作を、全て生殺しにされている状態だが、出版人としての良心やいかに? 
『売れないから駄作』ですか、そうですか。
それが、あなたたちの、眼力であり評価ということか。

それでは出版は文化だとか、金輪際抜かすな。
商売のみでやってるんだったら、再販価格制度も必要ないだろう。
安売り競争の果てに、それこそ本当に文化を荒廃させるがいい。
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コメント

おひさしぶりです。

ちくま書房って。
結局見る目のない人たちの集まりなんでしょうかね。
「売れないから出さない」ってw、素人じゃないんですから。出版人として、「これは残したい」「後世に残す責任がある」というような議論って内部では全くないんでしょうか。
じゃあ出版なんてやめりゃいいのに、とさえ思います。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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