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2008-08-03(Sun)

赤塚不二夫さんが亡くなった。

 「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区。葬儀・告別式などは未定。
【産経新聞】

赤塚不二夫さんが亡くなった。とうとう、といった感じだろうか。もう10年以上前だったと思うが、食道癌が判明して吐血入院した後も酒を欠かさず、その後も脳内出血などを経て手術などをされた経過は逐一報道などで知っていた。そしてその間も酒をやめなかった、ということも。近年はずっと寝たきりの状態が続いていて、赤塚さんを直接知らない若い世代なんかはおもしろがって、その状態のまんまいつまで生きるのか、その場合の生活費(というか入院治療費)は果たして印税や権利関係だけで持つのだろうか、なんて話題で盛り上がっていたそうだ。
俺の世代だと、赤塚さんというともう間違いなく気がついた時には「巨匠」であった。何せ「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」の爆発的ヒットは昭和37年で、俺の生まれる前の話。もの心ついた時は「天才バカボン」「もーれつア太郎」がリアルタイムで、そういえば従兄弟や友達の家でもむさぼるように読んで、そして笑ったものだ。あ、「ジャンプ」では赤塚さんの弟子にあたるとりいかずよしさんの「トイレット博士」がリアルタイムで、関係ないが池沢さとしはまだその後大ブームとなる「サーキットの狼」を描く前の「風!花!龍!」(だっけ?)というちょっとエッチな漫画を描いていたっけ。老舗の「冒険王」も健在だったし、少年漫画が全盛だった時代である。
というか昭和40年代なんて、漫画は一般には少年・少女向け、つまり子供向けのものしかなかった。もちろん貸本漫画はほぼ衰退していたし、エロ劇画や、非メジャーでは「ガロ」があったりはしていたものの、そんなものは広く一般に読まれるようなものではなく、ましてや子供らにとっての選択肢は広くはなかった時代だ。普通に書店に行っても「少年なになに」という雑誌を買う以外、ほぼ選択肢はなかったと思う。漫画といえば少年漫画を普通の子供が普通に読み、女の子は少女漫画を当たり前のように読む。そして男の子が少女漫画を読むこと、女の子が少年漫画を読むことは、ほぼ「あり得なかった」。余談ながら、今から十年くらい前かな、専門学校の教え子の女の子が普通に「ジャンプ」や「サンデー」を読んで少年漫画の流行のものを追っかけてるのを見て、「女の子でも少年漫画読むんだ?」と感心したら、「センセイ、そんなの今どき常識ですよ」と笑われたっけ。
少女漫画ってことで言うと、赤塚さんもそうだし手塚治虫さんや松本零士さんちばてつやさんなど、昔の漫画家さんはけっこう少女漫画も描いていた。だからといってその時代、男の子が女の子の漫画を読もうものなら、すかさず「変態」「ホモ」の烙印を押された、そんな時代だったなあ。小学生だった自分は女の子が読んでいた何やら華やかなその少女漫画誌を読みたくてしょうがなかったのだが、とてもとても級友の前でそんなことは言えなかったっけ。
俺が漫画家を目指そうと確信的に思うようになって、少女漫画や劇画まで読むようになったのは中学に入ってからで、時代で言うと70年代の半ば〜後半からである。そして青年向け漫画誌が続々と創刊ラッシュになり(少年なになに、の上にヤングなになに、を作っていった)、男性少女漫画家の弓月光がちょっとエッチなラブコメを描いたり、少年漫画誌の方には女性漫画家の高橋留美子が「うる星やつら」(少年サンデー)を連載開始したり、鳥山明が「少年ジャンプ」に衝撃的な「Dr.スランプ」を発表していく…という時代へ向かう頃だった。
正直、その頃にはもう赤塚さんの漫画はほとんど読んでいなかった。ただ、72年に出た「まんがNo.1」を読んだ記憶は鮮明に覚えている。おそらくリアルタイムではなかったと思う、なぜなら同誌は翌73年に6号で休刊しているから、俺は小学校2,3年といったところだ。なので、かなりマニアックな漫画をそろえていた年上の従兄弟がおり(この従兄弟は俺に「ガロ」や「COM」を教えてくれた、一回り以上年上の人だった)、その人の部屋に遊びに行った折なんかに、後追いで読んだのだろう。赤塚さんの魅力満載の小さなサイズの本で(じゃなかったかな?)、笑い転げた記憶がある。それと、「マガジン」連載の「天才バカボン」も、末期の実験満載の作品群も鮮烈に覚えている。(バカボンとパパの顔のアップだけ、とか)
自分が思春期から漫画家に挫折し「ガロ」の編集として歩み出す頃には、赤塚さんは申し訳ないが現役の漫画家というより、時折テレビなどで紹介されるように「大酒飲み」の人、という印象の方が強く、中でも、自宅に「チューハイのサーバーがある」ということがひどく衝撃的だったと記憶している。「チューハイのサーバー」っすよ。んでそれを赤塚さんはデカいジョッキにダバダバとついでは、ゴクゴクとうまそうに飲みながら、上機嫌で話していた映像だったように思う。酒が何より大好きで、病気になろうが癌だろうが酒を絶対にやめなかった。そりゃバカだな、と思う。でもそれも赤塚さんが望んだ生き方なのだから、他人がどうこう言えることではなかろう。

そんなことを、赤塚さんの訃報を聞いて、何も調べず何も見ず、記憶だけでこれだけダダダッと書いてしまえるほど、自分にとって大きな人だったな、と改めて思った。
赤塚さんと長くおつきあいをして来られた、長谷邦夫さんのブログ(長谷邦夫の日記)にはこう書いてあった。
★ついさきほど、友人からの電話で赤塚不二夫の死を知った。
TVのニュースでも流れていた。
ぼくは彼との「別れ」について、上記『漫画に愛を叫んだ男たち』
および『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(マガジンハウス)で
想いのたけを全て書いた。
今日の死によって、特別な想いは無いと言っていい。
ニュースの後、仏壇まえで家内と経を読んだ。
これが、ぼくに今出来る唯一のことであろう。
合掌。

本当に公私ともに深く関わった人の思いとは、このように短いことしか言えないのだろう。言い出したらとめどないし、まして著作で決着もつけておられたのであれば、ご冥福を祈る…それしかない。

赤塚さんのご冥福を、心からお祈りします。



漫画に愛を叫んだ男たち
長谷 邦夫
清流出版

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『漫画に愛を叫んだ男たち』を読むと、自分が触れてきた、漫画を含めたさまざまな表現…たとえば小説や映画や美術などが、クロスカルチャーして先端の人たちが集まり、自然と触れ合い、インスパイアし合っていたことが解る。長谷さんが筒井康隆の原作を漫画にするくだりとか、星新一のショートショート千編達成のこととか、とにかく自分が少年としてわくわくしながら触れてきた表現たちが、実は上の方で赤塚さんを含め、漫画も小説もねえ、面白い、優れた人たちはお互いにそれを察知し合って、自然に触れ合っていたこと、そのことの空気がよく伝わってくる。同時に自分の少年〜思春期という時代も甘酸っぱく思い出す。今の四十代より下の人には解らないだろうけど…。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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