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2009-04-27(Mon)

連れ合いが倒れた 4

夜10時半すぎ、二階の布団へもう一度戻っていると家の電話が鳴った。
まさか!そんなに早く!と思い、転げ落ちるように電話に出ると、函館の実家のお袋からだった。
「何か出来ることはないか、そっち行った方がいいかと思って」というので、「もうないし、遠いし、ゴールデンウィークで京都行きはどこも混んでるだろうし、いいよ」と言って切る。
Mがいないことは悪い夢で、目が覚めたら隣で昨夜倒れる前のようにすやすや寝ていて欲しい。そう思って毛布を脇に置き、枕も元通りの位置にして寝たのだが、やはり彼女はいない。何とか眠らなければと努めてみる。

次に目が覚めたのは2時過ぎだった。
ちょうどMが頭痛を訴えて俺を起こした頃だ。あれからちょうど24時間…。
気がつくと、脇の毛布にはシマがいつものように丸くなり、驚いたことに暗い中、俺の顔のすぐ横に真っ白なユキの顔があった。シマはいつも俺たち夫婦の真ん中、肩のあたりに丸くなってくっついて寝ていたのだが、ユキは足の間やベッドの反対側が定位置だったはず。猫と暮らしている人は解ると思うのだけど、猫がいつもの定位置を変える、お気に入りの寝場所を変えるということはあまりない。
ユキは俺の顔からほんの数センチしか離れていないところに顔があり、寝ているのではなく、なぜか目を開けて一定方向を見つめていた。それは一階から通じる階段を上がりきった、二階寝室の入り口だった。寂しいので下の灯りはつけたままにしておいたが、どうやらユキはMがそのうち、いつものようにそこから入ってきて、寝るものだと思っているらしい。

「ユキ、ママはもう帰って来ないんだよ。」そう言い聞かせて撫でてやるが、なかなか寝付かない。そのうちシマは「ぷう、ぷう」といつものようにいびきをかいて寝てしまい、ユキも諦めたのか、丸くなった。俺と二匹の猫たちは、またぴったりとくっついて寝た。
いつも居てくれたあの人がいなくなっただけで、これほどにこの家は広くなるか、そうして寒くなるのか。俺たちは寄り添い、全員でその寂しさに震えている。

目を閉じるとまた、あの人の「何気ない日常」の姿がフラッシュバックのように思い浮かんでくる。

「しまー!ゆきー!ごはんだよー!」といって猫たちを呼んでいた声のトーン。
もう11歳になったオッサン猫のシマが、階段からギシギシドンドンドンと降りてくると、その音で「おっさん降りてきた!」と笑っていた顔。
そのシマをぎゅっと抱きしめて首に顔をうずめていた様子。
ユキを抱き上げてベランダに出て、赤ん坊をあやすように下を通る車や遠くの山並みを見せていた、後ろ姿。
思い出せばキリがない。
そしてまた、涙で目がうるむ。

この家でも、俺の体調が悪い時にMが傍らで看病しながら、「私はあなたが居なくなったらどうしたらいいの、この広い部屋で、誰も身内のいないところで一人なんか、耐えられない」そう言って号泣されたことも何度かあった。
俺自身も、余命宣告をされ入院した2005年の夏の日、一人あの人が寂しく帰宅する後ろ姿を見送ったあと、病室で泣いた。それは自分が死ぬという辛さではなく、あの人を一人残して逝かねばならない辛さからだった。

あれは夏の暑い日だった。
俺がまだ進行の具合の解らぬ、余命数ヶ月という状態での入院中。白血病治療に向かうための、さまざまな検査や準備の段階だった。病院での入院日記を確かめると、2005年の8月20日とあり、猛暑の日だったが、それでもMは毎日病室へ来てくれていた。
この日は昼からお見舞いラッシュの日だった。
日記から抜き出したものをここに記す。このブログの日記(2005/8/20の分)では、恥ずかしくて記録していなかったものだ。

(…前略)
二人が帰ったあとはさすがにちょっと疲れたので、横になってTVを見る。Mもソファとスツールをつなげて、足を乗せるようにした。
6時半近くなって夕飯が来て、ゴーヤチャンプルときゅうりの酢の物以外はほとんど完食。その後二人でちょっとTVを見て、7時前にMは帰った。
その後こうして日記をつけていて、Mが「外は涼しいよ」とメールしてきたのを見て、なぜか涙が出てくる。体が完全ではないのに、猛暑の中毎日病院へ来てくれるのは負担だろうに、その上伴侶を失うかも知れないという不安と恐怖、悲しみに必死に堪えているだろう。
俺があの人が癌かも知れないと言われた時に同じ思いをした以上に、Mは心身ともに辛い状態にあると思う。Mのためにも何としてもこのクソッタレ白血病を克服して、生き抜いてやる。死んでなるものか、絶対に生き延びる。そしてMと一緒に老いる。
自分が死ぬのも怖い、だがもっと辛いのはMを遺して行かねばならないことだ、俺が死んだあとにMがどんな思いを抱えて生きていくのか、それを考えただけで涙が止まらない。病気を知ってから初めて、ベッドの上で声を押し殺して泣いた。
何でこんな目に逢わなきゃならないんだ、俺が何をした、Mが何をした、さっきまでは絶対に生きると強く思ったはずなのに、Mが去った部屋で一人いる自分の寂しさにもう負けている。情けない、ベッドに腰掛けて、大の男がヒィヒィと涙を流している。
(後略)


俺を見舞ったあと、「じゃあね」と寂しそうに無理に笑顔を作ったMに手を振って、エレベータホールで別れたあと、俺は病室へ戻り、ベッドに腰掛けてノートPCを開いて溜息を一人ついたところでメールが鳴ったのだった。
それを見た瞬間、どうしようもなくなって、俺は一人病室で延々と号泣したのだった。あれは情動失禁だったと思う。
二人の時は強がってみせてはいたが、あの人が誰もいない部屋にとぼとぼ帰り、猫たちをかわるがわる抱いては、俺がいないことで泣く、そんな光景を想像しただけで、耐えられないほどの悲しさで平静でいられなかった。

今、俺はその逆の状態に置かれ、そしてそのことがやはり想像していた以上に辛いことなのだと、思い知らされている。いつも隣にいた人間の息づかいや体温、ぬくもりがないことで、季節が逆回転したかのように寒い。心が寒いと、体も凍えるのだろうか。もちろん、今夜の京都はぐっと冷え込んで現実に寒いことは解っている。しかし本当に、この寒さが寂しさをつのらせる。


結局あまりの寒さに一階へ降りて、Mがいつも少し小寒いときに来ていた、元は俺のだったカーディガンを羽織って、寝ることにした。昔スエットの上下とセットになっていたカーディガンというか室内着だが、俺は元々それほど寒いのには弱くないのでほとんど着なかった。逆に寒がりだったMがすっかり自分のものにして、長めの袖を折って着ていた。袖を通すとあの人の匂いがした。そうだ、一緒に寝よう。そうすれば暖かい。

そうしてようやく朝6時過ぎまでまた少し眠ることが出来た。
外は明るくなっており、今日もうっすらと曇り、雨は上がったようだ。ブログのコメント欄にちょっとだけコメントが寄せられていたので、公開する。
その後7時過ぎに何か食べないと、と思ってお茶を淹れる。Mと二人で寺町あたりをぶらぶら歩いた時に、いい匂いがするお茶のお店があり、そこで買ったちょっと高いほうじ茶を二人分。
写真に「一緒に食べよう」と言ってお茶をあげ、夕べ明青のおかあさんが持って来てくれた、おにぎりと卵焼きを一つずつ食べた。食べながらまたちょっと泣けた。

9時前には、今日診察していただくはずだった、マンション下のIクリニックのI先生に電話をした。
「連れ合いですが、日曜の深夜に大出血をしまして、もう間に合わない状態でした」と報告すると驚かれ、「え、これまでもあったところですか…?」と言われるので、「いいえ、これまでは胃か食道かで吐血だったんですが、今回は脳の動脈らしくて…運んだ時はもう手遅れでした」と話すと絶句される。
とにかく急なことで、また自分はそちらへお伺いしますので、改めて…と話してるうちに涙声になってしまった。

実はMは強い医師不信病院不信に陥っていた。
京都はそれを柔らかく取り去ってくれたばかりだった。

そもそも何度も書いている通り、あんな満身創痍になったのは、十年以上前、膵炎の激痛を訴えて近くのかかりつけ医に連れて行ったところ、「胃炎ですね」と言って鎮痛薬を出されて返された。膵炎の痛みは焼け火箸を押しつけられるような激痛で、体を「く」の字にして折り曲げて悶絶する。こんなのは胃じゃないだろうと思ったが、医師は「精神的なものもありますし」と言っていた。

それを繰り返し、最後はモルヒネまで投与されたが、大きな病院…板橋区医師会病院へ連れて行った時にはすでにインスリンがほとんど出ない状態に膵臓はいかれていた。そこから、1型の糖尿が始まったのだ。
当時の勝呂院長先生(現在は名誉院長、ほんとうにお世話になった良い先生でした)が、俺に「こんなになるまでどうしてほっといたの! 脱水症状おこしかけてましたよ」と言われたのだが、俺はあちこち連れて行った挙げ句、であった。おかしいと思い俺は彼女を連れて近隣の他のいくつかの病院を訪ねたが、診断はまちまちだった。

その後、2002年には右の腎臓に腫瘍があると言われ、別の大病院へ行くと「これは間違いなく癌だ」と診断された。組織検査をすれば癌が散ってしまう、では造影剤での検査はというとMはヨード系造影剤のアレルギーがあるから出来ない、結局確定診断のないままの緊急摘出手術になった。
10cmくらい切りますと言っていたのが、右の脇腹から背中近くまで、ざっくりと切られており、驚いた。あとでMは「癌が転移してないかひっかき廻して探したんでしょ」と言って怒っていた。
結局腎臓の中にあった塊は、豆腐のように真っ白な、脂肪の塊だった。だったらこれほど急いで取らなかったとは思うが、そのときは「いずれ取るようになりましたから」と言われて納得はした。

そうしてそれから、Mの、いや二人の生き地獄が始まった。

Mは大きく切られ神経や筋肉が寸断された右の腹は、くしゃみを不用意にすれば腸が飛び出す勢いで、しっかり腹巻きをし手をあてないと力が入れられない体になり、いつしか本人曰く「カエルのような醜いお腹にされた」というようにぽっこりと膨れてしまった。こんな手術ってあるんだろうか。
いま、いやここ数年、Mは近くにいい仕立屋さん(といっても個人でやられている奥さんだが)と知り合いになり、そのお腹を隠せるオーバーオールを特注で何着か作っていただき、常にそれらを着ていた。知らない人はそのスタイルを「可愛い!」とか、あるいは「まさか妊娠?」とまで言われたこともあるそうだ。あの人の「可愛い」オーバーオールスタイルは、こんなに悲しい意味があったのだとはほとんどの人が知らない。

そうして、切られた傷やその周辺の神経か、とにかく日常いきなりカミソリで切られるような激痛が走るようになり、精神的に鬱状態にまで落ち込んだ。俺もペインクリニックはじめあちこち飛び回ったものの、結局解決したのは二年という長い時間でしかなかった。

その間鬱状態で食事が摂れず、痛みの緩和と強引に寝るためにアルコールに頼ったこともあった。「なぜ自分がこんな体に」という、理不尽な状況へのやり場のない怒り。それが鬱へと気持ちを向かわせた。元々お酒が大好きではあったが、それは二人で一日の終わりに「お疲れ様」と飲む、ささやかなものだった。それがまるで水のように彼女の体に注ぎ込まれた。
俺はもちろん見つけるたびに取り上げたが、電話一本で配達してくれる業者から俺の留守中に配達してもらったり、ふらふらとコンビニへ出かけて買って隠したりして飲んでいたこともあった。
その間も糖尿の血糖コントロールとカロリー制限は行われねばならなかったのだが、痛みで寝られない日もあるという地獄の日常で、食事すら満足に取れたことは少なく、結局自己注射が必要なところまで進行してしまったのだ。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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