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2009-04-28(Tue)

連れ合いが倒れた 9

4月28日(火)

それからは、そのままいつしかシマと一緒に寝ていて、目が覚めたら3時半になっていた。途中、どうしてもMが俺に助けを求めた、あの時間…午前2時あたりになると必ず目が覚めてしまう。それでも正味4時間ほどは寝られたことになる。寝られない、食べられない…という状況もちょっとづつ改善していかねば。Mは常々「あなたの体が心配なんだから」と言っていたんだから。

まだ暗い中階段を降りてリビングへ行くと、二階に一緒にいたはずのユキが、床暖房の板の間の上で寝ていた。寒かったのかな、それともママの帰りを待っていたのかな、と思うと少し憐れな気がした。

熱いほうじ茶を入れて、寝る前にテーブルの上に立ててお酒を置いておいたMの写真に、
「M、こんなに早く起きちゃったよ。お茶飲もう」と言ってお茶のコップを置く。そうして自分も飲む。

夜が明けて、ベランダを見たらいつもMが大事にしていた緑が目に入った。三日ほど水をあげていない。
すぐにベランダに出てバケツに水を組み、じょうろで順番に水をやる。彼女は豪華な花よりも、小さな苔や可憐な可愛い花を好んだ。それと、観葉植物のようないつも緑を保ってくれるものなど。もっとも好きだったのは桜だけど、こればっかりは大きな庭でもなければ無理だ。

東京に住んでいた時は、ベランダにそういった小さな緑や花を買ってきては、必ず枯らしていた。いや、枯らしたのではなく、どんなに世話をしても、必ず枯れてしまっていたのだ。
京都へ移ってきて、二人で「あれじゃ人間だって暮らしにくいよね」と話した。京都のこの部屋は南向きにベランダがあって、そこに緑を置いている。メゾネットの「二階」には北向きの広めのベランダもあるが、やっぱり植物には太陽が必要だろうと、プランタ類はリビングから続くベランダに置いている。

びっくりしたのは、Mの大好きな「苔玉」だ。苔を丸い形に貼り合わせ、文字通りボールのようにしたもので、シダのような葉っぱが数本伸びたりしているのを見たことがある人もいるだろう。東京ではそういうものはすぐに茶色くひからびてしまったが、今あるものは、去年の夏だったか秋だったか、どこかで買ったものは直径も15cmくらいと大きく、苔もしっかりして四方八方に葉が伸びた立派なものだ。それに紐がついており、ベランダの物干し竿に吊してある。
冬になって葉が無くなって、苔も緑を保つのが精一杯という風情になったので、部屋に入れておいた。今年の春になって暖かくなった頃、また外へ出したのだが、桜が始まる頃からまた葉が出始めて、今では去年よりもたくさんの葉がもさもさと四方八方に伸びている。「越冬したね」と二人で笑い合った。こんなの初めてだね、と。
いつもそうしていたように、バケツの水にその苔玉のひもを持って、ぶくぶくと気泡が出なくなるまで漬ける、そうしたらまた元の位置にぶら下げる。そこからしたたった水は、これも東京から持って来た枇杷の苗木に水をやる…という仕組になっている。
この枇杷の苗木は、東京に居た頃…2007年の正月に、近くのホームセンターにわざわざ注文して買ったものだ。(そのことは、何度かこの日の日記やここでも書いている
なぜ俺たちが枇杷を育てていたかというと、枇杷の葉には鎮痛効果があると聞いたからだ。それを教えてくれたのはMの親友の井坂さんで、Mが手術の後の激痛に苦しんでいる時に、教えてもらった。井坂さんは十数枚の葉を送ってくれたので、Mは藁にもすがる思いで、それを水に一度浸してから、痛い右脇腹の手術痕に貼り、腹帯で止めたりしていた。
それをすると精神的にも安定するのか、それに実際に効くのか(Mは効く、と断言していた)、それからわが家では痛いところがあると枇杷の葉を貼るのが日常となっている。実は井坂さんからいただいた葉が切れた後、どうしようかと話していたら、舟渡の住んでいたマンションの向かいにある工場の敷地に、枇杷の木があったのだった。
でもそれは工場とギリギリの金網フェンスの間の1mもないところに、窮屈そうに立っていた。3〜4mくらいある成木で、時々二人でこっそり夜中にハサミとビニール袋を持って行き、「枇杷ちゃん、ちょっといただきますね」と言いながら葉っぱを貰ってきていた。

その枇杷の木がある工場が、ある日突然移転のための解体工事をするということになった。たまたま工場に防音防塵の幕を張る作業をしていたところをMが通りかかり、移転工事だと知ったという。その時現場のおじさんに、「この木はどうするんですか」と聞いたら、「たぶん切っちゃうんじゃないかな」と言われたので、「じゃあ切る前にぜひ教えてください」と言って連絡先を渡してきたという。
でも、結局その枇杷の木はある日、無残に解体現場の手前に切り倒され、転がっていた。うち捨てられていた、という風情だった。
俺たちがそこを通りかかった時はもう遅かった。「教えてくれなかったな」と二人で怒りながら、それでもすぐに取って返し、出来るだけたくさんの葉をいただいた。もう、人目なんか関係なかった。二人で合掌して、「今までありがとう」と感謝した。

そんな中、たまたま出かけたホームセンターの中にあるグリーンショップで、枇杷の苗木が取り寄せられることを知った。東京のベランダではどうかと思ったが、やってみようよと話して注文したのだ。
程なく入荷の連絡があり、うちへそれが届いた時は、高さが30〜40cmくらいだったか、細い幹に若い葉が数枚ついているだけのものだった。頑張って水をやったり世話をしたが、元々枇杷はそれほど手のかからないもののはずで、強い木なのに、やはり葉が丸く力なく垂れ下がるようになってきた。
やっぱりここじゃ駄目なのか、と悲しい気持ちになった。
それも、もちろん京都への引っ越しで持って来たというわけなのだ。苔玉の越冬にも嬉しい喜びがあったが、この枇杷の苗木は、東京でしおれていた葉がシャキッとし、少しずつ幹も伸び始めたのにはびっくりした。さらに、ある日気付いたら、途中から枝分かれし、そこにも元々の部分と同様、葉が茂り始めたのだ。今では葉の上に実のようなぷっくりした球が数個出て来ている。
「こんなにも京都って植物に優しいところなんだね」と二人で感激した。だから「きっと人間にもいいところなんだよね」と話し合った。そういえば、わが家の周辺、疎水分流沿いは枇杷の木だらけなことに、引っ越してきてしばらくして気付いた。「これなら苗木買わなくても良かったね」と笑った。それに、京都はあちこちにちゃんと自然が保護されていて、緑や水の豊かな街だ。四季の移ろいが目と肌で感じられ、それぞれに、いや一年365日楽しませてくれる。人にも、都会よりもその方がいいに決まっている。

実はあまりに二人であちこち出歩いているので、とても一つ一つブログにもアップしきれないほどの思い出がある。夜、明青のおかあさんに教わった松ヶ崎の疎水に蛍も見に行ったし、大原へも行った。鈴虫寺も嵐山も二条城も苔寺も大徳寺も金閣銀閣も清水や高台寺や主立った観光スポットはだいたい訪ねたものだ。それから落ち着いて、今度は観光客の来ないひっそりとしたお寺や神社を訪ねたり、京都在住の利を活かして、口コミで住人しか知らないスポットで桜や梅や蛍や緑を楽しんだ。送り火なんてわが家から見られたんだ。本当に書ききれないほどの京都見物をしている。

こんないいところへ二人、来たというのに…。

二人でもっともっと京都生活を楽しみたかった。残念で悔しい、そして悲しいし寂しい。結局、何を見ても何を考えても、最後は「Mがいない」という現実が襲ってくる。
これから俺はもう東京へ戻る気はない。東京はもう自分にとって、いい思い出ももちろんあるのだけど、ここ十年ほどはとてもとても辛い思い出の多い、寒々しい街になっている。かといって、ふるさとの函館は病気には寒さの辛い場所だし、もう俺の居た頃の函館ではないだろう。実家は母と兄の二人暮らしで、俺の居場所はない。あったところで、帰りたいとは思えない。
俺の居場所は、Mと二人で、本当に楽しい思い出でいっぱいの、この京都だと思う。今まで一緒に暮らした猫たちの遺骨も、鴨川へ合流する?野川へ撒いた。だからここで俺も骨になりたい。
だけど、俺たちのいい思い出しかない、この素敵な街にこれから一人で住まなければならないということは、どういうことになるんだろう。そう考えると、少し不安になる。なぜかというと、どこへ行っても、Mと二人での思い出がそこかしこにあるからだ。それを一人で見たり通ったり、その場に居たりすることが、果たして俺に出来るのだろうか。

こういう記録をしている以外は、自分でもおかしいと思うが、ゆっくりとしか動けず、気がつくと「ふぅ〜〜〜…」と深い溜息が出る。こんなことは初めてだ。リビングへ移動して、ソファに転がっていると、テーブルの下にいたシマが上がってきて、俺がタオルケットをかけて横になっている脇に密着して丸くなった。そして、やがていつものように「ぷぅ、ぷぅう」といびきをかきはじめた。
この寄り添ってくれる小さな暖かさが無かったら、本当に俺は凍えてしまうだろう。Mのお母さんは昼間「猫たちはどっかへ預けたら」と言っていたが、絶対それは出来ない。
小一時間ほどそうして目を閉じたりしていたが、結局眠れずに8時半ころ起きてしまう。シマはそのまま丸くなっていた。

するとしばらくして、9時ころにドアフォンが鳴った。何だろう、と思ったら郵便局で、小包は井坂洋子さんからだった。開けてみると、俺の体を心配して、食べられないだろうけど食べて、もし口に合わなかったら捨ててもいい、紫さんはきっと白取さんのことを心配してるから…という内容の手紙があり、パンとクッキーが入っていた。
Mの写真に「ねえ、井坂さんパン送ってくれたよ。有り難いね。みんな心配してくれて。」とそれを見せた。せっかく送っていただいたんだから、食べよう。俺はまだすぐ後を追うわけにはいかない、まだやらなきゃならないことがたくさん残っている。
そう思って、「イチゴジュース作ろう」と声をかけ、二人の朝がいつもそうだったように、俺は冷蔵庫からイチゴを出して洗い、ミキサーのカップにヘタを取りながら入れていく。そうしてレモンを搾って蜂蜜を加えて、ミキサーにセットする。その時後ろを振り返り、Mが注射しているタイミングを確認して、ミキサーを回す…。
振り返ってもMはもちろん、いない。それでもミキサーを回して、小さなコップにMの分を少し分けて、写真の前に置いた。「はい、出来たよ。一緒に飲もう。」
俺は井坂さんが送ってくれたパンを少しちぎって、イチゴジュースで食べた。ほんのひとかけらのパンだが、何回も何回も咀嚼し、ジュースで流し込んだ。どちらも流動食のような状態だ。二人はいつもジュースを飲み干した後、「ああー体にいい!」とどちらかが言うのが日課だった。今日は俺が言った。

それから、仕事のメールアカウントを順番にチェックする。何せ毎日チェックするものだけで10以上あるので、大変だ。そのうちのいくつかは、あまりにSPAMがひどいので、gmailへ転送することにしてある。gmailのフィルタは強力なので、見事にSPAMだけを振り分けて、必要なメールのみ受信トレイへ入れてくれるから、助かる。

こうった作業をしたり、何をした何があったということを逐一記録していくことで、俺はきっと

Mを失う自分

というものを、無理やりに相対化しているんだと思う。そうしていないとおかしくなりそうだから。

人は弱い、耐えられない苦痛…それは肉体でも精神でも、そういうものに襲われた時に、何かにすがりついたり、何かに逃げたり、頼ったりしないと、すぐに壊れてしまう。そういうことを平気で嗤い飛ばせるズ太い精神を持った人種もいるのは知っているし、連日新聞やニュースを賑わせている凄惨な事件は、そのような無神経な人間が起こしている。
俺は、最愛の人間、自分と一心同体でずっと過ごしてきた連れ合いであるMを失うことは、それこそ半分殺されるような苦痛だ。
「しっかりしろ」と言われて、できるはずがない。
Mが倒れた日、その夜に来てくれた明青のおかあさんが
「泣いたらいいよ、思い切り。だってこんなに辛いこと、ないやないの!」と言って玄関先で一緒に泣いてくれた。それが当たり前の人間じゃないか。

Mは小さな体で、昔から病気ばかりで、それも繊細な神経がゆえに、溜めに溜めた挙げ句、さまざまな病気を得てしまったようなものだ。
前夫による、同居翌日から始まったすさまじい家庭内暴力。
目の前で仕事をすれば「あてつけか」と殴られ、蹴られたという。
我慢を続けたものの、あまりのひどさに相手の親へ訴えた時は、「あなたに原因があるんでしょう」と冷たく笑われたという。
Mのお母さんは、当時から近年まではMとの折り合いが悪かった。電話をすれば叱られると言っていつも落ち込んでいたのを傍らで見続けてきたから、俺も彼女が母親に助けを求められなかったこともよく解る。
前夫はシラフになると、あざや瘤を作ったMに土下座をして謝ったという。もうしない、と。
しかし夜になり酒を飲むと、それこそ団地にあった頑丈なタンスに亀裂が入るほど、頭を打ち付けられたという。
血が噴き出し、思わす外へ逃げた。団地の真ん前のロータリーには派出所がある、そこへ駆け込んで訴えると、警官は「ああ、旦那さんにやられたの。それじゃあこちらはどうにも出来ないなあ」とヘラヘラ笑われたという。
今でこそ、「DV」という言葉は定着し、家庭内であっても傷害は傷害、犯罪は犯罪として認識されるようになったが、30年以上前、官憲や役所は「民事不介入」を合言葉に何もしてくれなかったという。
最後の作品集、『愛のかたち』でも本人の手で記述されているが、そんな中、夫から逃れた後のため、必死で隠れて仕事をし、そうして無理矢理に夫を引きはがすことが出来たのは、5年以上経ってからだ。
彼女は、ずっと頑張ってきたのだ。
それ以降の絶え間なく襲ってきた病魔との戦い、頑張りも、俺はよく知っている。
だからもう、頑張らなくっていいんだよ、といつも話しかける。

そんな中での精華大への招聘は、本当に奇蹟のような有り難さだった。
俺は「ね、あなたが長年頑張ってきたことが、ちゃんと評価されて招かれたんだよ」と言うと、「そうかな」と少し照れたように、でも嬉しそうに笑っていた。
実際は、彼女は一度も正式に就職した経験がない。若い頃にデザイン事務所に勤めたことがほんの一時期あったそうだが、それとてアルバイトに近い感覚だったという。
大学の専任教授というのは、大学という法人の正社員になるということとほぼ同じことだ。当たり前だが月給が入る代わりに、基本的には行動は全て大学を中心に制約されることを承知せねばならない。講義だけではなく、会議や入試立ち会いや入学説明会への出張など、さまざまな仕事をこなさねばならない。
そうして2006年春から、彼女は2ヶ月前に吐血入院したばかりの病み上がりの体で、隔週で東京から京都へ新幹線で通勤することになった。イレギュラーな出勤もたびたびあった。
ホテルの予約は俺がパソコンでしたり、いろいろサポートはしたけれど、一緒についていくわけには行かなかったので、彼女は一人でそれをこなした。
ホテルからよく、電話やメールをくれたものだ。きっと寂しかったのだろう。「はやく帰りたい」といつも言っていた。
帰ってくると、大学生活を俺にいろいろと話してくれた。
学生さんたちとの触れ合いはとても楽しく、やりがいがある。学生からこんなことを言われた、こんなものを貰った。大学に猫がいて、本当はいけないんだけどこっそりご飯あげてるんだよ…。
それを聞くこちらも、楽しい話は心がなごんだものだ。

しかし残念ながら、「組織」の中で動くという経験は、ずっと一人で頑張ってきたMに、かなりの精神的な負担を与えたようでもあった。
その場その場で丁々発止のやりとりをするのではなく、一つ一つ反芻しじっくりと熟考して、そして自分で最善と思った答えを出す。口に出す、行動を起こす。
そういったペースはしばしば認められず、誤解を受けることも多かったと思う。
徐々に、彼女は大学勤務を終えると、その晩泊まらずに、まっすぐ東京の自宅まで帰ってくるようになった。東京につくと、マンションの最寄り駅まではちょうど大変なラッシュ時間と重なる。それでも、重い荷物を抱え、弱い体を支え、Mは頑張った。そうして、家に帰ってくると、「疲れた!」と言ってソファに倒れ込んだものだ。出てくる言葉にも、愚痴や弱音が増えるようになってきた。
一晩京都に泊まって、翌日ゆっくり帰ってくれば楽なのは解っていても、とにかくわが家に一刻も早く帰りたかったのだと言っていた。
翌年つまり2007年からは、その通勤が毎週になると決まった。嫌なら辞めるしかない。でもMは「頑張るよ!」と言ってくれた。
なぜか。
それは俺が白血病で、いずれ来るかも知れない過酷な治療に備えるためだったと思う。

でも毎週3日間の京都通勤は、あまりに過酷だった。そして、思い切って京都への転居を決断したのだった。
幸い俺の仕事も安定し、それはネット回線さえあれば東京でなくとも続けられるものだったし、引越作業は思い切って業者にほとんど任せることにして、次女のYちゃんが「凄いね!」と驚いたほどの手際で、俺たちは上洛した。
そうしておととしの夏から始まった京都での生活は、このブログでも何度も紹介しているように、本当に穏やかで、俺たちの人生のうちで最も幸福な時間だった。

もっともっと長く続けたいと思っていた。願っていたし、祈っていた。

神様か仏様かは知らないが、残酷なことをする。

いや、それとも「もう頑張らなくていい」ということか。
あるいは、俺が先に逝ったとしたら、その後のMの苦しみを考えて、先に連れて行くのか…。
Mが倒れて泣いてばかりいた俺だが、徐々に、この理不尽な事態に怒りを感じ始めている。
その怒りが自分の生きるモチベーションになることは、自分が一番よく解っている。
俺の役割が終われば、やがてMが俺を迎えに来てくれることも知っている。
だから、気を立て直そう。もうちょっと、今度は俺が頑張る番だ。
いちごジュース
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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