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2009-04-29(Wed)

連れ合いが倒れた 11

病院に到着したのは4時半ころ。ICUが面会可能になる5時までまだだいぶあるので、ペットボトルの小さいお茶を買って、ロビーの椅子に座って少し喉を潤した。唇がカラカラだったので、持って来たMのリップを「借りるね」と言って、少し塗った。
それから、5時15分前にICUのあるフロアに移動して廊下の椅子で待ち、5分前になったのでインターホンを押すと、5時まで自動ドアの奥にある待合で待ってから入ってきて下さい、と言われる。言われた通りフットスイッチのドアを開閉して中に入り、手を洗ってマスクをして座っていると、間もなくお姉さんたちも到着した。東京から駆けつけた、Mが小さい頃から今に至るまで「おんちゃん」と呼んでいたKさんに挨拶をして、5時にならないと入れないので、支度をしてあと数分待ちましょう、と説明する。
皆めいめい、手洗いやロッカーに荷物を入れたりして、いったん少し座って待つ。その間、俺もKさんと会うのは数年ぶりだったので、隣に座って少し今回の状況、経過などを話した。もうすでにじゅうぶんお姉さんやお母さんたちから詳しい話は聞いていたようだ。
「Mの父親と全く同じですよね…。あの時は確かお風呂…いやトイレかな。トイレから出て来たらもうアレッ、となっていて、それで倒れたらあっという間にロレツがおかしくなって、意識が飛んじゃって。それからはもう病院で心臓マッサージだのやったけど、無駄だったからねえ。」と話される。
俺はMのお父さんのそういった状況を聞くのは初めてだったので、「本当に同じですね。60年前の医療体制であれば、そこまでが…」と言い、「今回はホンの少しでも可能性があれば、と思って手術に踏み切ったんですが」と言い訳まがしい言葉がついつい出てしまう。
「いや、でもそうですよ、それもまたMの運命だったんじゃないかな。」
そんな話をしていたら5時になったので、お母さんらに「じゃあ、入りましょうか」と声をかけ、まず俺が受付で面会者全員の氏名と続柄を記入し、担当のナースが来るのを皆で待ち、程なく個室へ案内してもらう。
MはICUの中に設けられている個室にベッドが移動されていた。昨日とは逆の方向に首を向けられ、目を閉じて、深い呼吸をしていた。まるで眠っているように見えるのだけど、その呼吸が自力ではないことはもう十分解っている。
俺はすぐにバッグからMが使っていた歯ブラシとコップ、いつも持っていた桜の花に兎が跳ねているピンクの小さなタオル、それから頭を覆ってやる帽子、リップスティックを取り出した。そして、さっき車中で額装した、とびきりの笑顔の写真を、足元の台に立てた。それから頭をなでて帽子で覆ってやり、挿管されているために開けられている唇に、リップを塗ってあげた。
Mの顔は昨日より顔のむくみが引いていて、下になっている方のむくみはまだあるものの、顔の上半分はほとんどいつも寝ている時の顔に戻っていた。それを皆がまた取り囲み、顔や頭をさすって話しかけては鼻をぐずぐず言わせる。やっぱりどうしても、頭をなでて手を握ると暖かいから、涙が出てしまう。もう頑張るな、もういいよ…と。
すると、お母さんが「あれ、この子泣いてるわよ」と言う。「えっ」と皆で見てみると、確かに閉じられた両のまぶたから、涙がホンの少しだが流れていた。それを俺がピンクのタオルで優しくぬぐってあげたが、これは何らかの意識なり意志があって流れ出た「涙」ではなく、恐らくは輸液など、機械で循環させられている体液が染み出したものであろう…、それはそうだろう、そうかも知れないと解っていても、Mの目からうっすらとにじみ出た涙には、胸が締め付けられる思いがした。

それから少しして、担当のナースが「A先生は今カンファレンス中ですので、終わり次第こちらに来られます」と言われて、皆で立ったままベッドを取り囲む形で待つ。15分以上立ってたろうか、A先生はなかなか来られず、もう一人の若いF先生が来て「もうちょっとで来られます」と言ったがそれから5分ほど経っても来られないので、俺はお母さんに「先生来られたら呼びますから、どうぞ椅子で…」と促す。お母さんはお姉さんに手を引かれ、いったん個室を出た。
その後ようやく別のナースが丸椅子を3つ持ってきてくれたので、残った3人がそれに座った。この個室はICUだから、通常の「見舞い」は許されない。こうした悲しい状態に置かれた患者の家族のみが、見守ることを許されている。なので、ナースや医師たちも、緊急の患者さんに対応するためにおり、見舞いの人間が立ちぱなしでいることには、当然なかなか気付いてもらえないものなのだ。
それからさらに6、7分経った後だったろうか、ようやく執刀医であるA先生が到着し、お母さんとお姉さんを呼び入れて、今日の容態説明になった。

それによると、状況はあまり変わりがないということだ。
ただ排尿などのコントロールも脳が行っているので、今日になって突然大量の尿が出だしたという。普通は薬で止めたりコントロールをしたりするのだが、もう余り薬を入れないように、と麻酔医には伝えておいてくれたそうだ。そのため、顔のむくみというか腫れも引いてきたのだそうだ。
あとは血圧も少しずつ、少しずつ下がる傾向にあるが、それを無理に高圧剤などを使って上げたりはせずに、我々の希望通りに自然に任せるようにする、と。ただ、「心臓の鼓動が停まる時」が、あとどれくらいなのかは、今は判断がつきかねる…。
そういうことだった。

説明は数分で終わり、二人の医師は去って行った。程なく別のナースが気がついて丸椅子を2つ追加してくれたので、5人全員が座って落ち着いてから、まためいめいに全員でMに語りかけて、帰ることにした。俺も左手でネックレスにつけた結婚指輪にキスをしながら、右手でMの右手を握り、「じゃあね。もういいよ、あなたはずっと頑張ってきたんだから、もういいからね。」と言って、病室を後にすることにした。
こんな残酷な時間は、もうこれ以上長く続かなくていい。早くMの魂を肉体から完全に解放し、自由にしてやりたい…いや、もうひょっとしたらベッドの上あたりから、皆を眺めているかも知れない。

実は、Mは昔「幽体離脱」をしたことがあると話してくれたことがある。こういう話は、トンデモ話、オカルト、非現実的と思われるだろうが、それはそれでいい。
それは、彼女が最初の夫との地獄のような生活がようやく終わり、子供たちと3人の平和な生活を団地で送れるようになってからの話だった。
子供たちを寝かしつけてから、いつものように居間のちゃぶ台で仕事をしていたのが、一段落した時。気がつくと、ちゃぶ台に突っ伏して寝ている自分を、上から見下ろす視点に居たという。「これは何?」と思い体を動かしてみると、右、左、にすーっと動くことが出来たという。試しに頭を前に傾けると、壁や窓も通り抜けて、いっきに団地の外へ出たそうだ。
まるで、グライダーのような動きだったという。スピードも自由自在で、深夜の人気の無い高島平団地をぐんぐん飛べたという。高島通りの上空を、道に沿ってびゅんびゅん飛ぶ感覚は「面白かったなあ」と笑っていた。
「あなた、怖くなかったの?」と聞くと
「それが不思議と全然怖くなかった」という。
Mは昔から極度の高所恐怖症だ。ちょっとした台や椅子に上がって何かを取ったりするのでも足がすくんだというほどなのに、それが高層団地の13階に住んでいたから、時々そのことに気付くと背筋がゾッとしたとさえ言っていた。それが窓を超えて外へ、文字通り「飛び出した」というのは、痛快な話だった。
ぐんぐんスピードを上げたり、左右に方向転換したり、空中で静止したり、本当に自由自在だったという。けれどこのままこうしていたらどうなるのかと考えるとちょっと怖くなり、慌てて団地へ戻って、子供たちの様子を見て、そうして自分の体に戻ったという。
にわかには信じがたい話だ、そりゃあ「夢だよ」で済まそうと思えば済んでしまう、他愛のない話である。でもそのことを話すMは身振り手振りで、本当に実体験を語るそのままだったし、実に楽しそうだった。「気がついてから子供部屋を見に行ったら、飛んでた時と同じ寝相だったよ」とも言っていた。
だから、今もひょっとしたら…。ただ魂が戻る肉体はまだ、「生かされている」にせよ、そこにある。だから、あっちこっち、行くところがいっぱいあるのかな、出たり入ったりしているかも、なんて考えたりもした。
もう、そんなに頑張らなくていいのに。
あの人はずっとずっと、頑張り続けてきたんだから。
「幽体離脱」という荒唐無稽かも知れない話を聞かされたのは、高層団地の母子3人の暮らしに俺が加わって何年か経った頃だったか。でも、俺たちはそういう「人智を超えたもの」とか、魂や霊、あるいは神仏と特定せぬが「大いなる存在」があることなどの、価値観も全く同じだった。生まれ育った場所も年代も全然違うのに、出逢った直後から、同居してからも、本当に違和感なく普通に同じような思いをお互いに話し合うことが出来た。

病室を出たのは6時ころだったろうか。
俺は目眩止めが切れたのか、少しふらふらしてきた。もう一日3度のめまい止めでは効かなくなったのだろうか、それともまともな食事を採っていないので、効かないのかも知れない。Yちゃん一家も着いたと連絡も入ったので、お母さんが「じゃあこれからみんなで食事しましょう、あなたもちゃんと食べないとダメよ」と言われる。Mのお姉さんに「いや、でも僕はいいです、たぶん食べられませんし…」と言うと、「ダメよ、ちょっとでもいいから食べないと!」と言われて、結局タクシー2台で今日宿泊するホテルへ向かうことになった。

そのホテルとは、二条通りに面した鴨川沿いの、ホテルフジタだった。
この京都らしい上品なホテルは、Mと河原町近辺へ向かう時に、タクシーが割と使うルート沿いにあるので、いつも「いいホテルだね」「鴨川がわの部屋の眺めはいいだろうね」と話していたところだ。本当に、どこへ行っても何を見ても、やっぱり京都市内はMとの思い出で溢れている。
ロビーでは、Yちゃん一家4人が待っていた。一年ぶりに会うMの孫であるYちゃんの二人の娘、MTとSNに手を振って「覚えてる?」と聞くとMTは照れたように無言で笑い、SNは「ウン!」と頷いた。俺たち夫婦がいつもなぜか「マリオちゃん」とおかしな愛称で呼んでいたYちゃんの旦那の肩に手をかけて「すまんね、急なことで…」と声をかけた途端、グッとこみ上げてしまった。子供たちの前で涙は見せたくなかったので、後ろを向く格好でマリオに「ほんっとに突然で…」と言うのが精一杯でいると、彼も無言で頷いていた。

夕飯はホテルの地下にある高級中華料理店で食べることになった。俺とマリオはいつも、合うと競い合うようにビールの杯を重ねたものだった。俺たち夫婦は、比較的近くに住んでいたこともあり、このYちゃん一家と一番、密に接していたと思う。何度も旅行にも出かけたし、数え切れないくらいご飯も一緒に食べたし、あちこち出かけたものだ。俺たち夫婦二人と猫だけの生活に、Yちゃん一家はいつも賑やかな団欒を運んでくれた。
そして笑顔が絶えなかった。いつも、いつも。だが、もちろん、そこにはいつもMが一緒だった。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
やまだ紫クロニクル

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