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2009-04-29(Wed)

やまだ紫と「M」。

俺の連れ合いであるMが、作家である「やまだ紫」としてデビューしたのは1969年の「COM」誌である。その直後から一気にその才能を作品として開花させ始め、注目の女性作家として期待されるようになった。ちなみにこの時期の初期作品集は、今はなきブロンズ社から『鳳仙花』というタイトルでまとめられている(もちろん絶版、しかもブロンズ社倒産のため「印税も受け取っていない」と聞いている)。
本当にこれらは20代前半の感性か…と思うほどの、素晴らしい作品ばかりだ。絵も、今の極限まで研ぎ澄まされたものとはかなりタッチも違えど、その作品の深奥にあるものの輝きは不変のものだ。彼女はこの時期の作品をとても恥ずかしがっていて、俺が「『性悪猫』でガーンとやられたけど、でも俺けっこう『鳳仙花』好きなんだよね」と言うと、照れたように「ええ〜? あれは恥ずかしいなあ」といつも言っていた。

それから2年後の1971年に、「COM」の休刊とほぼ同時期、発表の場を「ガロ」へと移す。やはり少女漫画やコマーシャルな作品ではない「女性作家」の異才を掲載する場所は限られていた。1972年、それでも彼女は誰もがその高みにあこがれた超がつくメジャー誌のタイトル、「ビッグコミック賞」に挑む。
当ブログの『やまだ紫、「COM」との出会い』でも述べているように、この賞は錚々たるメンバーが挑み、本賞受賞者はたった二人という超難関のタイトルだが、やまだ紫は見事に『風の吹く頃』で佳作入選を果たした。

余談ながら近年、「COM」「ガロ」「ビックコミック賞」全てに入選し現役を続けた漫画家はやまだ紫たった一人だと、機会があるたびに学生らに伝えてきた。名付けて「やまだは漫画界の三冠王」だと。本人は「佳作なんてあんまり大ぴらに言うことじゃない」と謙遜してそれをあまりアピールしていなかったので、俺が年譜に無理矢理掲載したり、学校の講義で伝えたりしたが、若い世代にはこれらの偉業がどれだけ大変なことかが、今一つピンと来ない様子ではあったが。

実はこの時期は、前にも述べた通り、Mは最初の結婚生活を送っていた時期でもある。71年10月、同居したとたんに夫の酒乱によるDVが始まり、輝かしい「ビッグコミック賞」佳作の受賞以後、彼女は作品をほとんど発表できなくなる。
漫画史的に言うと、1978年に「ガロ」で「復帰」するまでの約5年の間、
「やまだ紫はこの間『結婚・育児による休筆期間』に入った」
ということになっている。
だが彼女は自発的に「休筆」していたわけではない。この記録でも以前書いているように(連れ合いが倒れた 9)、作品を発表したくても、できない状況下にあったのだ。

結婚による同居のその日に、彼女はいきなり殴られたという。「いいか、これからは俺の言うことを黙って聞け!」と。そしてそれからというもの、酒を飲むたびに絶対的な暴力によって蹂躙され服従させられ、謝罪と裏切りを幾度となく繰り返され、挙げ句、その男は他の女のところへ通うようになったという。驚くべきことに、次女のYちゃんを出産するその時も、何ら夫の手助けはおろか一切協力はなく、浮気の相手を連れ込んでいた形跡さえあったという話を聞いた。聞くたびに頭に血が上った(『しんきらり』のその後…とも言える『BlueSky』における「前夫」像はキャラクタ造形ともに、ほぼ事実であるとMは話している。
(断っておけば、もちろん、こうした「事実」とは一方の側からの視点だという意見もおありだろう。けれども、Mがことさらに悲劇的な立場へ自分を置くために、作り話やお涙頂戴をする人間では断じてない)。

この最低な男は、俺の最愛のひとであるMに対して振るった暴力も許せないが、「作家・やまだ紫」を5年もの間封じ込めていた、という意味での怒りも強くある。あれほどの才能を持つ人だ、そしてその才能がまさに噴水のごとくわき上がっていた頃ではなかったか。

彼女は結婚当初、気分によって暴力を振るう夫の目に怯えながら、作品を描くようになっていた。聞いていた俺は、まるでナチの影に怯えるユダヤ人の心境のようだ、と思ったほどだ。
携帯やメールのない時代だから、編集からの連絡はこちらから公衆電話でかけた。打ち合わせや原稿の受け渡しは、スーパーへの買い物を装い、隠して持ち出して、喫茶店でそっと渡す。そんな信じられないような過酷な状況でも、彼女の創作意欲は溢れるようにあったという。

しかしそうした涙ぐましい頑張りも、73年と74年の出産からは、ほとんど不可能になった。
なぜなら、夫の目から逃れることは出来ても、母を呼んで泣く赤ん坊を放置するわけにはいかない。
ましてや、育児に相手の協力は皆無だったという。時折気分のいい時だけあやし、泣けば「オイ!」と言ってMに押しつけるという日々だったそうだ。実は俺たちが出逢い暮らすようになってしばらくしてから、Mがこうした話をポツリポツリとしてくれるようになったのだけど、それは俺が聞きたがって無理に引き出した話であって、決して彼女から率先して言い出したことではない。
全て泣きながらの告白であり、俺はそれを聞くことによって怒りを覚えながら彼女の心を解放し慰めようとしていた。泣かずに振り返られるようになったのは、本当にここ数年のことだ。

辛かっただろう、それでも、頑張って頑張って、頑張り続けてきたのだ。

このままでは殺される。それに子供たちをあんな父親と一緒には育てられない。だけど、「結婚」とは自分の「家」を捨て、相手の「家」に入ることだと時代遅れの考えを持っていた夫側の家族は、Mの訴えに耳を貸すことは一度も無かったらしい。それどころか、聞かされるのは常に高圧的で一方的な物言いと、イヤミだったと言う。
彼女はそんな苦痛の中、その「家」からの脱出を試みる。しかし、それには経済的な自立が必要だ。新進漫画家として将来を嘱望される存在ではあったが、元々わずかだった貯えは生活費に消えた。なぜかと問うと「だって生活費をほとんど入れて貰えなかったから」と言っていた。
こんな非道な話が、実際に存在すること、そしてそれが目の前にいる最愛の存在の身の上に起こったということが、にわかには受け入れられないほどの怒りを覚えた。

それからも夫の影に怯えながら、「やまだ紫」はレジスタンスのごとく、経済的自立への活動を始める。「広告イラストは名前が出ないけどお金が良かったのよ」と言っていた。また、業界では「捨てカット」と言われる、雑誌の空きスペースを埋めるイラストやカットをこなし、そのギャラを少しずつ、貯めていった。もちろん、育児と家事の一切をし、生活費も捻出しながら。
この苦労が並大抵のことではないということを、結婚や出産経験のない人は絶対に解らないだろう、と彼女は言っていた。それに、どこにも誰にも頼れなかった状況もあった。安易なお涙頂戴の作り話やドラマなどの薄っぺらい創作ではない、「現実」の凄みがここにある。

作家「やまだ紫」の復帰は、そういう中、1978年も終わろうとする頃だった。
発表場所はもちろん「ガロ」である。「COM」無き後、70年代後半のマンガ状況で、少女漫画でもなくコマーシャルな作風でもないこの異才が発表できる場がそれほど多くは無かったことは、俺でも一応知っている。
「マンガが産業化」し、60年代からマーケットが急速に拡大したとはいっても、それはあくまで「大手=マス」の世界での話だ。マンガが「産業」として確立されていく、ということは、要するに「資本の論理」で支配されるようになりつつあった、ということだ。
つまりは、「売れれば勝ち」「お金が欲しければ言う通りに描け」「俺が言うとおりにすれば育ててやる」という言説が、本当にまかり通る時代になっていたという。何度もそういうことを言われた経験があるし、セクハラまがいのことまで経験しているという。そんなことをされてまでお金のために尻尾を振るものか、と彼女は怒っていた。
実際、「ガロ」はすでに原稿料が出なくなっていたから、彼女の「ガロ」への「復帰」は生活=お金のためではない。
つまり、それまで歯を食いしばって「お金のため」に広告や捨てカットを描いていたやまだ紫の、抑圧されていた本来の創作意欲が、「ガロ」への発表という形で噴火したのだ。

ここに至る「COM」や「ガロ」との関わりは、いずれまとめようと録音しておいたものもあるし、俺が聞き書きをして記録してあるものも、もちろんある。しかしそれよりも、何より生き証人として彼女の口から直接聞いた話が、俺の心の中にたくさん、残っている。

この頃になると、暴力亭主はもう家にはあまり帰ってこなくなっていたそうだ。
お気楽に浮気や飲み歩きをしていたのか、それは知らないし知りたくもなかった、という。ただ、たまに上機嫌になって帰ってくると、せっかくしつけた子供たちを甘やかし「いいとこ取り」をして、母親であるMを傷つけ続けた。物理的な傷は時が経てば癒えるが、精神的な苦痛は一生消えることはない。
当時、子供たちはようやく幼稚園に通う年齢になっていたが、夫が家を空けることが増え、子供たちが日中幼稚園へ行くようになったことは、作家「やまだ紫」の復活には幸いとなった。もちろん、だからと言って、子供たちの送り迎えや家事、育児一切はMしかやる者はいない。だからわずかな時間だったとはいえ、彼女はここでも「頑張って」作品を描き出す−−−。

Mはずっと、自転車に乗るのが非常にヘタな人だった。少女時代は自転車など乗ったことがなく、大人になって、子供たちの幼稚園への送り迎えの必要があり、やむなく買ったのが、せめてもの安定をと思った「三輪自転車」だったそうだ。その三輪車でさえ、彼女は転倒したという。
本当に、文字通り歯を食いしばり血を流して、Mは頑張った。

そうした「頑張り」の中から生まれたのが、あの名作『性悪猫』なのだ(1979年「ガロ」2・3合併号〜80年2・3合併号)。

この作品に関しては、俺がいくら言葉を並べるよりも、マンガ評論家である中野晴行氏のコラム(まんがで描かれた詩やまだ紫『性悪猫』 -- 20080918 -- まんがのソムリエ -- 漫画大目録)を参照いただければ、その凄みがお解りだろう。
中野さんが文中で紹介している「ことば」は、当時の氏の境遇に染み入ったことだろう。そういう「ことば」の力を、やまだ紫作品は持っている。
その「ことば」が何になるは、読み手のその時の心境、境遇によって違う。しかし、必ず誰ものガンと心に響く一節が、作品の中にある。そしてそれが、そのひとの心にずっと残る。

まさに、「珠玉のことば」。

そのことが、「やまだ作品は詩的漫画なのではなく、詩と漫画の極めて高度な融合」と言われる所以ではないだろうか。それは、早くから吉原幸子という高名な詩人をはじめ、詩壇から高い評価を得ていたことでもわかる。

俺の場合の「ことば」は、今では『性悪猫』どころかやまだ作品全てと言っていい。それはもちろん自分が連れ合いであるからなのだけど、高校生の当時に自分が触れた時の「ことば」は、もちろんあの有名な一節だ。

「せけんなど どうでもいいのです
   お日さまいっこ あれば」
    (−−−『性悪猫』・「日向」より)
この、ひなたぼっこをしてのんびり寝ている猫のことを描いた、一見何ということもない一作は、実は深い意味をはらんでいるし、その意味は受け手によって変わりもしよう。
自分の場合は、退屈な故郷からいかにして脱出するかをもう考え始めており、マンガ家を目指すべく必死だった時代であり、とにかく時間を惜しんでありとあらゆるものを「吸収」すべくフル回転していた思春期まっただ中であった。

その時期に、「やまだ紫の作品」に触れられたのは幸福だったと思う。

あらためて『性悪猫』という一連の作品群全てを見渡すと、どこもかしこも心臓が痛いくらいに心に突き刺さるものがある。胸がじわっと熱くなり、涙が出そうになる。世間知らずのガキにはそれなりに、また人生経験を積み重ねた老人になっても、必ず心に響く読み方ができる、真の「名作」だ。

このこともまた、俺が言うよりも、解説で佐野洋子さんが書かれている一文を読まれるとお解りかと思う。
やまだも、佐野さんの解説を
「ほんとうにこの人はよくわかってくれる人ね」と言っていた。
そう、本人が言っていたのだから、佐野洋子さんの「やまだ紫観」は全くもって「正しい」のです。
この作品を、単純に「詩的」とか「哲学的」とか「ブンガク的」という受け止め方をしても、それは読み手の感受性の自由だと思う。だけど、佐野さんが書かれた解説の最後の一文が、漫画家としての「やまだ紫」だけではなく、その本質である「M」という人間を見据えて下さったことが、僭越ではあるが俺にとっては何より嬉しい。
佐野さんは解説の中で、やまだの私生活…つまり団地で猫と子供たちと暮らしていた頃の「作家訪問」という番組で、本人の生活ぶりや人となりを見て下さっている。『性悪猫』を最初に読んでいただいてからずいぶん後になってからのようだったけど、同じ「生活者」としての経験が、より深いやまだ作品への理解へと、共感へとつながっていくことを、説得力を持って綴られている。
やまだ紫の作品は、本人の人となりを知ることによって、実はより深い理解と共感が生まれることになっている。もちろん、それを知らずとも。
ここでMが倒れてから、これまであまり綴ってこなかった彼女の人生や生活者としての「姿」をなるべく詳細に伝えようとしているのは、そういう意味もあるので、あらためて作品を楽しんでもらえれば嬉しいのだが…。

しかし今、これほどの名作を「手にとって読める」かたちにしない、そうして後世に伝えようとしない日本の出版界に、俺は激しい怒りと絶望を感じている。

何度でも問うが、
 あなた方、
  この本を品切れにしておいて、
  こっちを出してるんですか?
 ああ、今度はそういうものを重版ですか?
 それがおたくの「出版人」としての判断なのですね。
 編集に携わる者としての、評価ですね。

俺は印税や著作権を欲しがって言っているのでは毛頭ない。そんなゲスな人間ではないつもりだ。俺にとってそういうものは、愛するMというひとが存在があってのこと。いなくなってしまったら個人的には必要はない。だが、彼女の作品が「必要のないもの」ということでは絶対に、ない。
この宝物のような作品たちを、ずっとずっと、後世に、伝えて欲しいと切実に願う。
なぜって、それだけの価値があるものだからだ。

自分の編集者としての思いはどうでもいいかも知れないが、「文庫サイズ」は漫画家に失礼だと思う。
元々の原稿サイズを考えたら、縮小率は「作品を読ませる」限界を超えていると思う。業界外の人はあまり知らないけれど、漫画の画稿というものは、大きいものだ。B4大の原稿用紙に、版面(はんづら)つまり漫画で言うワク線内だけでだいたいすでにA4大、つまり文庫版はその4分の1程度しかないのだ。

作家にも読者にも、失礼だと思う。

だから、たとえ絵本のような少部数でもいい、そのかわり出来れば最低でも四六判くらいの大きさで、ずっと絶やさずに後世に伝えていって欲しい。いやせめて文庫版でも、それを確約してくれるところがあれば、すぐにでも原稿をお任せしたいほどだ。

この名作『性悪猫』は「ガロ」連載終了直後、1980年に青林堂から刊行された。以降、作家・やまだ紫の評価は、「気鋭の新人マンガ家」から、凄みのある「実力派女性作家」へと変貌する。私生活では、81年にようやく夫との協議離婚が成立し、夫が家を出る格好で、完全に彼女は解放される。

そのことを後にMは、
「朝目が覚めるでしょ、で、『ああ、今日は殴られなくて済むんだ。良かったなあ』ってしみじみ、お日様に感謝したの」と述懐している。

何という、ささやかな、ちっぽけで悲しい感謝なのだろう。
幼い頃から「ちょっと変わっている」と周囲から言われるような子供だったM。「わたしは寂しい子供だった」とよく言われたものだ。
「寂しい」…詳しくは、聞いているが今は言いたくはない。
だけどその分、彼女はぢっと足元の苔を見つめながら、その感性を研ぎ澄ませていった。思春期は早くから詩作を行うようになり、漫画家としての評価も得始めた。恋もし、ようやく家庭を持ったと思ったら、地獄の日々が始まった。
何か言おうとも理不尽な暴力で封じられる日々。いつしか「ことば」での相互理解は不可能と悟った彼女は、その「ことば」を飲み込み、胸の奥に溜め込んでいくことになる。
そういうことを経たうえでの離婚なのだ。彼女はようやく子供たちとの3人に大好きな猫という、平和な暮らし…「何でもない普通の暮らし」を得たわけだ。
けれど、その「何でもない普通」が当たり前の人たちには、この彼女が言う「感謝」の意味は解らないと思う。
それは、後年俺たちがお互いに病気や不幸の連続と戦い続けた日常を経た、今の俺たち二人の心境にもつながる。

『性悪猫』がなければ、佐野さんの言うように、81年から「ガロ」に連載を始めた崩壊していく夫婦の関係を描いた、これも名作といわれる『しんきらり』は無かっただろう。(ちなみに『しんきらり』で描かれている母親はもちろんMのことだし、子供たちも実在の二人がモデルではあるが、夫婦に関しては、実際のものとはかなりかけ離れている。つまりここでも彼女は本作が「私小説マンガ」であると短絡的な誤解を受けている)
この二つの名作が連なっていく深奥にあるものは、単純に作品だけを追うだけでは理解できないのかも知れない。繰り返しになるが、『性悪猫』を単なる「猫マンガ」「漫画ではなく詩」と捉える向きもあるし、『しんきらり』を「私小説マンガ」としか読めない人たちもまた、存在している。

これも繰り返しになるけれど、やまだ紫ははっきり、これまでマンガで『私』を描いたことはなく、常に読み手のことを考えてきたつもりだ、と述べているし、このあたりは『愛のかたち』の前書きで「漫画家は作品に真実(つまり自分の生活や日常をそのまま描くこと)を描きません」と明言している。
短絡的な人間に『自分マンガ』だと評され、説明する言葉を見つけられなかった彼女は「苦水を呑む思いで」頷いてしまったこともある、と書いている。それは自分の作品はこうでああで、という話をするのが苦手だったからだ。
べらべらとしたり顔で簡単に人の作品を語りたがる連中もいる。それはそれでいい。単純にストーリーを追っていけばそのまま「ハイ読み終わった」というものだって全く構わない。
しかし、『性悪猫』をはじめ、やまだ作品には受け手によって感動・共感する部分が違ったり、同じ人でも年齢を経ていったらまた違う味わいや読み方が出来たりするものがたくさん、ある。「何を言いたいのか解らない」という人がいても、それはその人の読み方だし、感性だろう。
そうして作品を読み「この作品は何を描いたんですか」と平気で質問する馬鹿がいる。「やまださんの作品は『自分マンガ』ですよね」と頓珍漢な断定を行う。
無知無理解、それに何より失礼にも程があろう。

作家が作品を描く。その作品が、作家の答えだ。

そのことは、やはり同じように「私小説漫画家」とか「ジュンブンガク的」と評された経験を持つ、あのつげ義春氏と共通の認識でもある。(ちなみに、「ガロ」1993年2・3合併号のインタビューで、つげ氏はやまだ紫について「厳しさ、真剣さにおいては女性漫画家では一番ではないでしょうか」と評価されている)

やまだ紫は、真の意味で、鋭敏な感性を持った「プロフェッショナル」なのだ。

そうして84年の暮れに、俺たちは「『ガロ』のアルバイト」と「実力派女性作家」という立場で出逢ったのだった。事実、そこら辺の編集者や男性作家は、「やまだ紫」を「凄みのある怖い作家」だと思っている人が多かったことを俺も記憶している。
でも実際のMという女性は、小柄で少女のように可愛いひとだった。年齢差なんか全く感じなかったし、お互いにすぐに仲良くなって、惹かれ合った。
1985年内にはもう図々しくも団地へしょっちゅうお邪魔するようになり、翌年からは完全に同居を始めたから、来年(2010年)はそろそろ「25周年だね」と話していたものだった。

頑張って頑張って頑張り抜いてきたM、そしてやまだ紫。

今はいろいろなところを飛び回っているのだろう。でも、最後でいいから、俺のところへ帰って来て欲しい。

25年と言わず、これからもずっと一緒に居よう。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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