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2009-04-30(Thu)

連れ合いが倒れた 15

ゆうべ10時ころ、「明青」のおかあさんから電話があった。
「今日夕飯何か食べられた?」と聞かれたので、「下痢がひどくて…」と答えると、
「ダメよお、ちゃんと食べないと、奥さん心配するし、ちょっと遅くなるけど今からおにぎり作って持っていくから」と言われる。
あまりに好意に甘え過ぎなので申し訳なく、「いえ、そんなにしてもらったら申し訳ないし、下痢で食べられないし…」と遠慮すると、
「遠慮だったらしなくていいし、ご迷惑やったら行かへんけど」と言われてしまい、またもや甘えることにした。

30分ほど経っておかあさんがおにぎりとおかずを持って来てくれた。
「どう? お腹の調子は」というので、「やっぱり水分しか摂れないので、下痢ばっかりするんでしょうかね」と話す。
「ダメよお、ちゃんとお米食べて、元気つけないと薬も効かへんし、免疫力も上がらへんよ!」と叱られた。
「奥さんいっつも涙ぐむほど白取さんの体調気遣ってたんやから、そんなんじゃ一番悲しむよ!ちゃんと食べてね!」と言われる。
お礼を言って有り難く受け取り、気を取り直して小川先生に届けていただいた、精華大のみんなが追ってくれた千羽鶴をおかあさんにも見せた。「わあ、凄いやん! 生徒さんに好かれてたんやねえ」と言ってくれた。

そういえば、この日、Mが大学で教えるようになった当初から割の仲の良かった留学生で、今は博士課程を卒業し助手のようなことをしているG君からメールが入っていた。
「数年間の間、お話も伺えて、本当にすばらしい方で、すばらしい出会いです。」
と言ってくれた。G君は大柄で一見怖そうな外見だが、Mは「G君G君」と呼び、彼も慕ってくれていた。だから俺も
「やまだ紫を知ってくれた人みんなが、あの人を素敵な人だ、いい人だって言うでしょう。
 それが、本当にあの人なんですよ。
 あの人のことを悪く言ったりする人がもしあったら、それは、その人が悪人なだけなんです。
 そのことは、25年近く連れ添った自分が長年たくさんの人を見てきたから、解ってるんです。
 やまだと関わりを持てたことを、大事に思ってくれてありがとう。」
と返信した。
自分の娘よりもさらに一周りも若い女子学生たちから、「やまだ先生かわいい」と言われて困るとか、ある時は、遠くからやまだを見つけると「大声で呼びながら走り寄ってきて、ハグする女子がいるのよ」と苦笑していたこともあったっけ…。

「明青」さんには以前Mが描いた猫の絵をレジ横に飾っていただているが、
「あの猫の絵、大事にして下さいね」と言うと少しこみ上げた。
おかあさんは「もちろんですよ、それに今日は水曜日やし、ああ、来られへんなあって話してたのよ」と言われる。お礼を言って、おかあさんに頭を下げる。大将にも本当に感謝の一言しかない。

いつか、俺が一人であの長いカウンタの「定位置」に座れる日は来るのだろうか。
いつもいつもいつも、俺の隣にはMがいた。
だからおいしい酒や料理を「おいしい」と感じることが出来たのだ。
今は何を食べても飲んでも、うまいと思うことはあっても、それに伴う幸福感、喜びが全くない。

それでも、こうしてご飯を届けていただいて、俺は本当にしょうがない人間だとつくづく情けない。
Mがいなくなったら、今度は周りの人みんなに甘えるのか。
そういう情けない生き方を、俺はするつもりなのか。
そう考えると、食欲がないだの、他人と会う気がしないだの、確かにMがいたら「しっかりしなさいよ!」と怒られそうなことばかり言っている。

せっかくのご厚意だ、おにぎりを食べよう。
ウーロン茶を飲むために台所にあったコーヒーカップを洗おうとスポンジを入れてこすると、スポンジが手前に滑り、自分の顔に激しくしぶきが下からかかった。こんなこと初めてだ、Mにハッパをかけられた思いがする。
写真に向かって「食べるよ」と言って、おにぎりを食べた。
「おいしいね。やっぱり明青さんだね」と話しながら、おかずも少し食べた。
俺たちがいつもオーダーしていた絶品の「手羽中の唐揚げ」もあった。
これは二人とも大好物で、お店ではいつも頃合いを見て揚げたてを出してくれた。それを、Mと二人でかぶりついて、「うまい!」「おいしいね!」と食べた。楽しかった。おいしかった。
その逸品を、パックの中に食べやすいように小さく切って入れてくれたのだ。Mが好きだった若竹煮も入れていただいたし、いつも突き出しに出る粋なおかずも入っている。

Mの写真に「俺は何なんだろうね、食欲がないとか言っておいて、目の前に出されりゃ食ってさあ」と言いつつ、おにぎり1つとおかずを少々、今日初めて固形物を食べられた。
少しだけ、元気が出た。


もう11時をまわった、猫たちと二階へ行こう。
ユキはMが教えた「おいで」の手話をいくらしても、なぜか下のフローリングからじっとこっちを見ているだけだった。二階の寝室へ向かう階段を上がり始めると、テーブルの下に居たシマが「とととと!」と走ってきて俺を追い越し、率先してベッドへ向かう。暗い中電気をつけると、もう俺の隣、Mのベッドの毛布の上に居てゴロゴロと喉を鳴らしている。
俺が横になると、シマがすぐ脇の下にズシリと体重をかけて丸くなる。それを撫でてやるが、いっこうに眠気が来ない。そのうちユキが下で、「うぉぉん、んにゃぁぁおん!」ともの凄い声で泣き出した。何度も何度も、うろうろと動きなら泣いているのが、声の移動で解る。

あれは母を呼ぶ仔猫の声だ。

ユキはMを捜している。姿がずっと見えないと言っているのだ。あまりにその声が大きく繰り返されるので、いったんは寝に入ったシマがすっ、と起き上がって静かにベッドから降りた。そしてトントントンと階段を降りていった。
「しょうがないな。おいらが行ってくるよ」
という風情だった。階下に耳をすますと、ユキはシマの姿を見た瞬間声のトーンが変わった。何か「ウニャ!」とか話してもしているように聞こえるのがおかしい。おいおい、まさか本当にユキに言い聞かせてるのか…? などとやってるうちに、そういえば自分も導眠剤を飲んでいないことに気付いて下に降りる。
シマはいつものようにトイレに入って内側の壁をガシガシガシ、とやってるところだった。
その後俺だけまた二階へ上がり、10分ほどしてシマが戻り、うとうとし始めると、暗い中で俺の脇にある段ボール箱の上にざさっ、とユキが飛び上がってうずくまったのが見えた。11時40分くらいだった。



4月30日(木)

朝は目が覚めたら6時過ぎだった。外は穏やかな薄曇りだ。
Mが倒れた時刻に目が覚めることは、なかった。ありがとう。
シマは脇の下ではなく、隣のMのベッドの上に畳んだ彼女の毛布の上で寝ていた。
7時前に起きて下へ行くと、ユキはやっぱりフローリングの定位置で寝ている。床暖房が暖かくていいのだろうか。それとも玄関からMが帰ってくるのをずっと待っているのだろうか。Mの写真に「おはよう」と声をかけ、開じ忘れていたノートPCの画面を見ると、お袋の携帯からメールが入っていた。

「『愛のかたち』 読み返して最後の章が暗示的に感じた あまりにナイーブでいいひとで これからもっと仲良く 仲良しになれると 逢えるの楽しみにしてたのに」

実は、お袋は還暦を過ぎてから油絵をたしなむようになっていて、函館のチャーチル会に所属している。チャーチル会は京都にも支部があって、実は6月に京都で写生会があり、参加する予定だったのだ。

『愛のかたち』の最終章とは、夫が「若い子には興味はないよ」と言いつつも、経営する会社かあるいは勤務先のアルバイトである若い娘に馴れ馴れしくされ、下の名を呼び捨てにされてまんざらでもない様子を「妻の視点」から淡々と見る…という話だ。

その最後は、これが「ガロ」に描かれたもう10年ほど前に目にした時から、胸にこたえた。
そして、今これを読むと、やはり苦しい。Mが側にいた時よりも何倍も、何十倍も、痛い。
直後に続くエッセイで「私は当分死ぬ予定はない」と明言しているのも、今読み返すと、溜まらないものがある。

この本は前にも書いたが、漫画作品は「やまだ紫」の美しい描線が極限まで研ぎ澄まされた高みにあるものだと思うが、描かれたのは2000年ころだ。その後Mは病気や入退院を繰り返し、鬱状態から地獄のような日々を送ることになる。
もちろん毎日が地獄だったわけではない。その合間合間には楽しい思い出もそれなりにたくさんあったし、Yちゃん一家が来てどこかへ散歩や買い物に出かけ、その後賑やかに夕飯を…という幸福な時間もあった。そういうことは、Mにいつも笑顔をもたらしてはいた。
俺も、彼女の状態を放置していたわけではもちろんない。他人には明かせない山坂を二人で歩いた。暗闇もあったし、満開の桜もあった。そのまっただ中で、この本に収録されているエッセイは、綴られたのだ。

当時「肩が痛い、お腹に力が入らない」と苦しみながら、彼女は時間をかけ、時には何度も挫折をしながら、本に収録するエッセイを全て一人で書き上げた。途中からは原稿用紙に手書きをするのが大変だからと、もちろん入力は俺が助けたけれど、文章部分は全て、Mが病気や気持ちの落ち込みなどの合間に自分で綴った、穏やかな「本心」だ。
その最後に収録された文章で、Mは「私は死なない」と言い切った。

『生きるということは、
 自分が愛し、自分を愛してくれる他者への
 大切な責任でもあるのだ。』
     (「愛のかたち」収録「かげろう」より)
この「ことば」の重さを、彼女は自分で体現しようとしてくれたのだ。

しかしこの素晴らしい作品集を発表した翌年に、Mは「夫の癌宣告」を受けたのだった。
精神も体もボロボロになっていく中を必死で立て直し、「作家・やまだ紫」の復活を示してからわずか半年だった。
Mの連れ合いである他ならぬこの俺が、健康診断から白血病を疑われたのは2005年7月、さまざまな検査を受け、リンパ性白血病と確定されたのは8月15日だった。
カラッと晴れていて、ジリジリと暑い真夏日だった。
ここに至るまで、すでに俺はリンパ節摘出による細胞検査、放射線その他さまざまな検査を受けていたし、そもそもが縦隔リンパ節の異常な肥大と、何より通常は拳大の脾臓のあまりの巨大化を画像で見ていた。だから、血液腫瘍はもう確定、あとはそのタイプが何かというより細密な判定を受けただけだったから、覚悟はしていた。
だからといってショックは小さかったわけではない。そして、俺の後ろではMが立って、目の前で夫が癌の確定診断をされるのを見ていたのだ。
いったいどんな思いであの小さい体を支えていたのだろうか。
ブログにアップしたテキストの元日記を読み返す、

(…前略)
病院の帰りにMが「ご飯食べる?そんな気分じゃないよね」と言うが、
俺は元気に二人でご飯を食べたり買い物をするのは今後貴重な時間になるから、
「とにかくお茶でも飲もうよ、坂上に行こう」と言って喫茶店へ向かったのだった。淡々とお互い簡単な食事をし、入院小物を買ったりして自宅へ戻るタクシーの中で、隣に座ったMは俺に隠れてちょっと泣いて、タオルで涙を拭いていた。
その後帰宅してすぐ入院荷物を整えると、Mはお姉さんに半泣きになりつつ報告をし、「ばあちゃんには言うの辛いから姉ちゃんから言っといて」と言って、その後Yちゃんに報告し「MにはYから言っといて」と電話していた。
(…)
Mはソファで少し落ち着いた後、「何であなたがこんな病気に」と言って「わあ!」と泣いた。
しかしすぐに「ごめんね、泣き喚きたいのはちかおの方だよね」と言って無理矢理な笑顔を作ってくれた。
確かに俺だってそうだけど、俺がそんな状態になってもMは何もできないのだから、もっと辛い思いをするに決まっている。俺は「治そう、治るよ。そうして京都で川床料理を食おう」と言う。来年の夏を元気に迎えてやろうじゃないか。死んでたまるか。
(…後略)

あれから1350日、頑張って頑張って頑張り続けて生きてきたMが、倒れた。

俺の方は奇跡的に、まだ生きている。
本当につい先日、「何で俺が死なないのか、不思議だよね」と言ったらMは
「だから、きっと奇跡なんだよ! ね、だから大丈夫なんだよ!」と言っていた。
本当に、ホンの一週間くらい前のことなのだ。

俺たちはいつもいつも、自然とごく普通にこういう生き死にの話をしていた。お互いの体が健康ではないことを熟知し合っていたし、だからこそ、まだ俺の死病を知る前でも、彼女は『愛のかたち』の中で

「残していく人たちへの申し訳なさだけが胸に痛かった。
 幼い子を持つ娘たちや、何かれとなく世話を焼いてくれる老いた母、姉、そして連れ合いを悲しませると思うことが一番辛い。
 苦労をかけっ放しの連れ合いをその果てに一人にしてしまうことを思うと泣けた。」

と綴り、その翌年、Mが帰った入院中のベッドで、それと全く同じ思いでひとり俺は泣いた。

また、同じ文中ですぐに

「逆の場合もある、連れが私を残してもし逝ってしまったら、私はヌケガラになるだろう。毎日見ないテレビをつけてソファに座り、いい加減な食事をし、やがて自分も弱って行くのだろう。そしてその悲しみと辛さは、結局娘たち残された人間に引き継がれていく。」

とも綴っている。
これが、まさに今この瞬間の俺の状態なのである。
俺は今ヌケガラとなり、毎日見ないテレビをつけるどころか、スイッチを入れることすら出来ずにいる。いい加減な食事をし、弱っていくだろうこの体は、すでに癌に冒されている。
違うところは今の俺の場合、M・やまだ紫のことをできるだけたくさんの人に知って欲しい、その思いで狂気じみたスピードでテキストを打ち続けていることか。

つまりは、俺がこうして普通ではいられないことで、もし後を追うスピードを速めてしまうようであれば、それは今「かげろう」となり俺の元へ戻ろうとしているMが、一番悲しむということになるのだ。
頭では理解している。だけど心がどうしても受け入れられない。

よく興味もなくただ眺めていたワイドショーや番宣で「見せられて」いた、外見だけ見た目のいいジャリタレが出るような安手のドラマや陳腐な映画で、やれすぐに白血病だの、「人の生き死に」や「愛」を簡単に商売にしてくれるなよ、と普段思っていた。
「心が痛い」とか「魂が引き裂かれる」とか、そういう言葉を簡単に使うな。そんなことそうそうあるかよ。そう思っていた。

今の自分は、ほんとうに心が痛い。
魂が、引き裂かれるように苦しい。

この思いをたった一人で抱えていたら、そのうちきっとMの後を追うに決まっている。だから、こうしてMを支えてくれた人や、応援してくださるファンの人に向けて、綴っている。そうせずにいられない。


9時過ぎ、Yちゃんから「いったん東京に帰る」とメールがあった。
「朝食の時にまたカーペンターズが流れたよ」
M、やはり君は。
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シラトリチカオ

Author:シラトリチカオ
白取千夏雄/編集者。1965年函館市宝来町生まれ。元青林堂「ガロ」副編集長、97年よりフリー編集者・ライター・Web構築・管理他なんでも屋と、専門学校・大学講師など。
2005年夏、白血病告知・余命宣告を受けるが「慢性リンパ性白血病」に近いタイプと判明、無治療・対処療法、2014年より抗癌剤治療、巨脾へ放射線など治療開始。2015年夏左上眼瞼にメルケル細胞癌発症、眼瞼切除、再建手術、16年にかけて放射線も耳下腺に転移、郭清術、放射線治療中に再発、左眼球ごと摘出・皮膚移植。転移再発治療中ながらまだ生涯一編集者として生息中。
二十余年の東京在住ののち、07年から京都在住。09年5月、愛妻=漫画家・やまだ紫を脳出血で失った。
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